藪の中の天使

【天使の1】

「新年早々、とんだトラブルを抱えてしまった」
 部屋に差し込む冬の光を、陽除けが半ばカットしていた。
「時間がない」と初老の紳士は続けて言った。
「存じております」と長身の男が応えて眼鏡を光らせた。黒いスーツを影のように凍らせて、男はしばし黙考した。やがて何かを考えついて、スーツの内ポケットに手をやり紳士に告げた。「経費がかかります」
「いくらだ?」
「二億円ちょうど」
「わかった」と即答してから紳士は「だが」と続けた。「キャッシュでそろえるのに三日かかる。今日すぐには……」
「問題ありません」と男は言葉を被せた。「私が立て替えます」
 そう言って胸ポケットを叩く男を、紳士の瞳は訝しげに眺めた。
 男は肩をすくめて「年末」と呟くように言った。「都合よく、天使に微笑まれまして」
 沈黙が通り過ぎた。
 男は腕時計を見た。
「そうだ、時間がない」と紳士は言った。「では立て替えてくれ。万事解決したら報酬と合わせて三億渡す」
 スーツの男は深々と一礼して部屋を出た。

【天使の2】

 仕事始めの一月四日、オフィス街は賑わっていた。
 金融業者の店舗の前でちょっとした騒ぎがあった。
「頼むよう、息子が見えなくなっちゃうんだ、貸してくれよお!」
 汚らしいスラックスに鼠色のジャンパーを着た中年の男が、路面に膝をついていた。
「無理ですよ!」と、店舗の責任者とおぼしき男が、こちらも声を張り上げている。「職もなし、担保もなし、それじゃあ貸せませんよ!」
「好きでリストラされたんじゃねえよ! 顔がこんなだから、それで嫌われたんだよう!」
 中年男の顔は無残だった。ケロイド状に焼けただれていた。
「お客さん、すみません、往来の皆様のご迷惑になりますので」
「なんだ、あんた冷たいな! 息子は耳が駄目なんだよ、急いで手術しなきゃ、今度は眼も駄目になるんだよ!」
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった中年男の、赤くねじくれた顔の前に、仕立てのよいスーツが立った。
 中年男は顔を上げる。
 眼鏡をかけた男が、白いハンカチを差し出していた。

【天使の3】

「こんなすごい車で、どこに連れてこうってんだ?」
 黒塗りの高級車の後部座席にケロイドの男はいた。
「どこにも参りませんよ」と、ルームミラーの中で眼鏡の男が応えた。男は助手席に座っていた。運転席には体格のいい別の男がサングラスをかけて座っていた。どちらも黒いスーツを着用していた。
「取引のご相談を」と言いながら体をひねって、「させていただきたいのですよ」と、後部座席に向かって男は言った。「お困りのようですから」
「あんたたち、詐欺師か、それとも暴力団か?」とケロイドの男は警戒して、そして叫んだ。「金なんてないよ!」
「金銭を、受け取ろうとしてはおりません」と男は言った。「支払いたいと申し出ているのです」
「なんだって?」
「ご子息の手術にお金が必要なのでしょう?」
 ケロイドをひきつらせるようにして、中年男は前のめりになり、叫んだ。「そうだ!」
「二億円で」と男は静かに告げた。「売ってください」
 車内を天使が通り過ぎた。
 生唾を飲み込んで中年男が訊ねる。「何を?」
「あなたの人生を」

【天使の4】

 今から話すことは、すべてたとえ話だ。取引が成立したら、すぐに忘れてもらいたい。あなたに大切なご子息があるように、私にも守るべきものがある。想像してくれたまえ。私は例えば、ある大手出版社の社長秘書だ。
 つい先ほど、トラブルが発生した。ここから歩いて五分とかからない藪の中で。
 薬をやった漫画家が人を殺した。例えばの話だ。飛び抜けた才能を持つ彼を、我が社は失うわけにはいかない。社の存亡を賭けて彼を救いたい。
 現場は藪の中。目撃者はいない。藪まわりには今、若い連中を立たせている。人を近づけていない。しかし時間の問題だ。我々には時間がない。
 あなたはその醜い顔を嘲われた。誰だって、ひと目のあるところであなたを嘲ったりはしない。ひと目につかない藪の中で嘲う。あなたから見て見ず知らずの名無しであればこそ、あなたを嘲う。
 あなたは逆上する。当然だ。新年早々の寒空の中を、ご子息のために金を工面しようと出掛けたが、冷たく追いかえされた。その帰り道、小用を足そうと踏み込んだ藪の中で、身形もよくない若い男に嘲われた。あなたはついカッとなって相手を殺めてしまった。動転して逃げたが、落ち着いて自首をした。
 死刑はないだろう。無期懲役もおそらくはない。あなたにもあなたのご子息にも、裁判員の同情を誘う武器がある。

【天使の5】

「以上が取引の概略です」と眼鏡の男は話を終えた。
「そ、そんなうまい話、いくらなんだって」とケロイドの頬がひきつった。
 男は胸ポケットから何かを取り出し、後部座席に手渡した。
 一枚の宝くじだった。
「なんだ、宝くじじゃねえか」とケロイドの男は鼻を鳴らした。「こんなん駄目だ、俺は毎年買ってる、今回のやつも三枚買った、でも当たんねえ、当たらねえようにできてんのさ」
 それを聞いて眼鏡の男は振り返った。「その三枚は?」
「神棚にある、そうだ、まだ調べてなかったな、でも、どうせ、外れてんだ」
「それはまた」と、眼鏡の奥が薄く笑った。「好都合ですね」と言いながら男は、新聞の切り抜きを手渡した。「明日から換金できます」
 新聞を受け取った中年男は、「32組の138……」と番号を照らし合わせて絶句した。「あんた、これ……」
「受け取りの指紋だけ今、頂戴してよろしいでしょうか」
 眼鏡の男は、間髪入れずにそう言うと、運転席に向かって顎をしゃくった。
 運転席の男は車を降りて、後ろに周り、トランクから何かを取り出した。そして後部座席のドアを開けた。白手袋が差し出したものは、赤子の頭ほどの大きさの石だった。石の一部は赤黒く染まっていた。

【天使の6】

 運転しているのは眼鏡の男だった。中年男の家は目と鼻の先だった。
「俺は死んだっていいんだ、息子の目が助かるなら、こんな醜いオヤジなんて死んだって構わねえ」
「生命保険には、加入されていらっしゃいましたか?」
「そんな金はねえ!」
「そうですか」
 ほらね、と言わんばかりの余韻が残された。
「でもあんた、俺が捕まっちまったら金は……」
「ですから今、お宅に向かっているのですよ」とミラーの中で眼鏡が光った。「ご子息はお留守でしたよね、でしたら簡単です、神棚にあるうちの一枚と、さきほどの一枚を、こっそり差し替えてしまえばそれでいい」
 車内をまた天使が通った。
「殺されたやつには申し訳ねえけど」とケロイドの男は、自らに確かめるように、何度も小刻みに頷いた。「息子がかわいい、しかたねえ、嘘ひとつついて、臭い飯食えば、それで息子は救われる」
「そうですよ」と眼鏡の男は応えた。「あなたはあなたの人生を高く売り、息子さんは救われ、作家も我が社も救われる」
 ケロイドの男は頷き続ける。
「宝くじみたいなもんですよ、たまたま当たってしまったんです、とんでもない数の分母を相手に一をひいてしまったんです、あなたが勝者で死人は敗者です」
 ケロイドの男は手の中の当たりくじを固く握りしめた。

【天使の7】

 トタン屋根の平屋は、廃屋も同然に廃れていた。
「なかなか堅実な暮らしを」と、眼鏡の奥を細めて男は言った。「なさっておられる」
 車を降りて中年男は、足早に我が家の玄関に向かった。
 黴臭い室内は暗かった。二人はハズレをアタリに変えた。
 引き上げようとした男の眼鏡が、中年男の亡き妻のものであろう仏壇に止まった。
「息子さんですか?」
 遺影の横には溌剌とした青年の写真が寄り添っていた。
「母親似でしょう」とケロイドを歪ませて父親は照れた。「俺みたいな不細工とは似ても似つかねえでしょう」
 風が硝子を叩いた。
「神経の病気でね」と父親は語った。「もうずいぶん前から耳がまったく聞こえないんだ、目のほうもどんどん悪くなってて、最近じゃ一メートル先の顔さえよくわからんらしい、なのに眼鏡じゃ視力が出ないんだってさ、あんたとは違うんだよ」
 男は眼鏡のつるに手をやった。そして訊ねた。「今日は息子さん、学校でしたか?」
「いや、高校行けてなくて」と父親は下を向いた。「晩飯を仕入れに行ってる」
「買い出しですか」と男の声はいくらか強張った。「戻られないうちに、さあ急ぎましょう」
「いや、陽が落ちるまで帰ってこねえ」と父親は、なぜだか少し自慢気に応えた。「釣りってのは、あんた、耳も目も関係ないんだってな、あれは日暮れまで粘って、結構釣り上げてくるんだよ」
 言葉を失った男の胸で、携帯電話が震えた。
 男は電話を開いた。「私だ」と静かに応えた。「そうか、石の配置はうまくいったか、ご苦労、若い連中はもう散らしてくれ、かえってひと目につくから、こちらも済んだ、わかった、ご苦労」
 と、そう言って通話を終えた。
「さて、それでは現場の確認に参りましょうか?」と男は、中年男に呼び掛けた。
「俺、行きたくない」
「警察での証言に困るでしょう?」
「あんたらの言ってた藪っていったら、遊歩道に沿ったあの藪でしょう、ジャスコの裏の」
「ご存知でしたか」
「いつもの散歩道だよ、聞いたときすぐにわかった、実際にタチションしたことも何回もある」
「それはまた好都合な」と呟いてから、男は告げた。「かえっていいかもしれません。あなたは動転していて、殺害時のことをなにも覚えていない、相手の姿も覚えていない、嘲われてカッときて殺してしまってすぐに逃げた、それで押し通してください。余計な情報はないほうがいい、あとは物証がものを言うでしょう」
 鴉が鳴いた。
 中年男の歪んだ顔が、西日に照らされた仏壇を振り返った。「これであったかいものでも食べて」と、背中から声が掛かった。
 眼鏡の男が紙幣を一枚、差し出していた。
「それからぼちぼち、自首してください」
 中年男はくしゃくしゃの千円札を広げた。
「もっと高額を差し上げたいのだけど、使い損ねると足がつくので」と眼鏡の男は申し訳なさそうに言って、初めて微笑んだ。
 去り行くスーツ姿に向かって、ケロイドの男は深々と頭を下げた。「ありがとさん」
 鴉がまた鳴いた。

【天使の8】

「それで?」と少女が訊ねた。美しい少女だった。「それで私の罪は、どこに行ったの?」
 話している少女は、有名な二世タレントだった。
「すべてぬかりはございません」と長身の男が応えた。
「興味があるのよ」と少女は言った。「そいつはいくらで売ったの? 自分の人生を」
「二億円でございます」
「やっすぅ?!」
 少女は年間で五億を売り上げていた。
「お嬢様」と男は眼鏡を光らせて、言葉をいくらか尖らせた。「そのようなことをおっしゃってはいけません。醜いながらも、よき父親でございました」
「それにしてもねえ」と髪を掻きあげながら少女は言った。「罪だの罰だのって、売ったり買ったりしていいのかしら?」
「例えばの話をいたします」と男は真剣な声で語った。「金持ちは裏で大金を積んで、よい医者を選びます。しかし貧乏人は医者にかかることすらできません」
「命にも値札がついてるってことね」
「法的場面においても同様でございます。古くは免罪符の売り買いがなされておりました」
「免罪符?」
「これは失礼いたしました。現代風に申しますと、例えば保釈金」
「そうね」と少女は言葉を被せた。「悪いことをしても、それ相応のお金を払えば牢屋で寝ないですむのよね」
「地獄の沙汰も金次第、でございます」
「人間社会においては、でしょ?」
 天使が部屋を横切った。
「罪をお金でどうこうするだなんて」と言って少女は窓の外を見た。少女は、この世のものとは思えないほどに美しかった。「お許しにならないわ、神様はきっと」
「お嬢様、それは」
と、とりなす男を睨むように見つめて、少女は言い放った。「罰が当たるわ!」

【天使の9】

 少女は紅茶を啜っていた。
「落ち着かれましたところで」と執事長は眼鏡を光らせて言った。「伺ってもよろしいでしょうか」
「なに?」
「お嬢様は今回、その、どのような状況で、不幸な事件に巻き込まれたのでしょうか?」
 カップが乱暴に置かれた。
「言葉を飾るな!」と少女は声を荒げた。「どうやって殺したかって、そう聞いてんだろ?」
 男はうなだれるように頷いた。
「興味あるのか?」
「そうではなくて、大旦那様にも、ご説明をさせていただくことになっておりますし」
「それでいくらもらうんだ?」
 男は目を閉じた。
「まあいい」と少女は言った。「アタマかちわったんだよ、河原の石で、後ろから」
「いったいどうして?」
「動機を知りたいのか?」
「はい」と男は応える。「見られてはならないところを見られた、とだけ伺っておりましたが」
「吸ってたんだよ、煙草、岩に座って」
 天使がまた、横切った。
「あたし十六じゃん、まだ駄目じゃん、清純派アイドルのイメージ粉々じゃん」
 男は軽く首をひねった。そして訊ねた。「そのときお嬢様、グラスは?」
「してたよ」
「キャップは?」
「被ってたよ」
「でしたらおそらく、相手は気づいてないですよ、なにも殺さなくたって」
「と、思うだろ!」と少女は、感情を爆発させるように叫んだ。「ところがアイツは気づきやがったんだ!」
「なぜ気づいたとわかるのです?」
「じっと見てたんだよ、あたしの顔を」
 美しい顔が歪んだ。「目を合わせたまま三十秒も四十秒も、だからあたし、我慢できなくなって、グラス持ち上げてニッコリ微笑んだんだ、内緒にしてねって指立てて、ウィンクまでしたんだ、天使みたいに、なのにアイツったら」
「何かしたのですか?」
「何もしなかったのよ!」と少女は涙を浮かべて叫んだ。「ガン無視よ、ただひたすらガン垂れてやがんのよ、あたしを誰だと思ってんの!」
 男は絶句した。
「あたし、立ち上がって叫んだわよ、あたしを誰だと思ってんの、ってね、したらアイツ、どうしたと思う?」
「どうしたのですか?」と訊ねる男の声はかすれていた。
「はあっ? ってなポーズで耳に手を当ててから、お手上げポーズ作りやがったの、あたし、あったまきちゃって、でもなんだか変じゃない、もしや、って思ったの、コイツわかっててあたしをおちょくってて、結局スキャンダル雑誌かなんかにたれ込むつもりなんじゃないかって、だもんだからあたし、そのとおりに問い質してやったのよ、そしたら」
「そしたら?」
「へらへら笑って頷くじゃないの、おまけに手までふっちゃってさ、かんっぜんにあたしを舐めてたのよ! だからあたし、アイツがまた川に向かって竿振ったの見計らって、後ろからそっと近づいて」
「ちょっと待って」と被せて男は目を閉じた。「何を振ったって?」
「竿よ、知らなかったわあ、あんな汚い川で魚なんて釣れるのね」
 男は目を開けた。
 天使が笑っていた。

【天使の10】

拝啓 執事長殿

宝くじに当たる確率とどっちが、と嘆きたいその気持ちは作者にもわかります。天使の意図は推り知れません。

藪の中の天使

藪の中の天使

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-29

Public Domain
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Public Domain