パンデミック!
Calvin Kleinの『エタニティ』サマーバージョンの価値を貶める表現ではないと判断し、そのまま投稿いたします。登場する人物名は架空のものです。
「新たに二名の感染が確認され、感染者総数は三百六十一名となりました」と朝のニュースは伝えた。
横目でテレビを見ながら出勤の支度をしていた私は、吉岡丈太郎のことを思い出した。
二週間前のホテルで吉岡は言った。「世界が滅びる最期の瞬間、僕はおそらく君といる」
目を閉じて私は彼の胸で、その鼓動に耳を澄ませていた。
「三十九度五分の体温を二人で分け合いながら」と吉岡の鼓動は語った。「永遠の眠りにつくってのも悪くはない」
インフルエンザがまだそこまでは深刻に感じられないうちだからこその冗談なのであろうが、それもホントに悪くないかも、と私は不謹慎にもそんなことを思ってしまった。
吉岡丈太郎は会社の先輩だ。私は経理部で、吉岡は営業部。
吉岡のことを思うと切なくなるけど、でも元気にもなる。今日もまた会社に行けば、彼の姿を見ることができるかもしれないのだ。毎朝彼を思う。それは栄養ドリンクみたいなものだった。
テレビを消して、香水をつけた。鏡の前に立つ。髪もオーケー。眉もオーケー。リップも問題なし。彼からいつ誘われてもいいように、毎朝私は、私をベストに整える。一番いい笑顔でニッコリと笑った。最終点検を終えるとマスクを装着して、いつもと同じ時間に部屋を出た。
吉岡丈太郎は二十八歳で、営業一課のエースだ。外回りで焼けた肌との対比で、光るその歯は、痛いほどに白い。その白さに私の世界は焼かれた。焼かれ続けてきた。付き合って三年。吉岡は尋常でなく忙しい。なのにそんな仕事の合間を縫ってデートを重ねてくれた。ときには早朝のホテルで、ときには深夜の公園で、私は彼に抱かれた。
そんな彼が結婚したのはひと月前のこと。結婚相手は取引先の大手金融会社の、支店長の長女だという。彼は仕事に懸けているのだった。私は彼を責めなかった。
家庭内での性交渉はない、という彼の言葉を裏付けるかのように、私を抱く彼は常に乾いていてエネルギッシュだった。それだけで十分だった。結婚がゴールじゃない。と思った。私は彼の妻ではないが、私は彼の唯一の女なのだ。それが一番大事なことなのだと思った。
二週間前のホテルでシャワーのあと、私は私の全身にCalvin Kleinの『エタニティ』サマーバージョンを振りかけた。彼の奥さんが愛用している香水だった。彼が結婚してすぐに私は、奥さんの常用している香水を彼に尋ねていたのだった。あの夜それを裸に纏った。
「なぜ、そんなことをする?」と吉岡は驚いた。
「嘘のつけないお人好しだからよ、あなたが」と私は彼に告げた。「あなたの結婚を壊したくないのよ、あたしは」
「なんだって?」と吉岡は尋ねた。
「いつまでも抱かれ続けていたいの」と私は説明した。「奥さんに浮気がバレて、あたしたち会えなくなったら困るでしょう?」
彼は黙って私の顔を見た。言葉の意図をはかりかねている顔だ。男ってのはまったく、と思った。恋愛に関してはいつまでも、少年のようにイノセントだ。
「あたしを抱いたあと帰宅したあなたから、見知らぬ香水の匂いがしたらまずいでしょう?」と私は説明を加えた。
一瞬キョトンとした表情を浮かべたのち彼は、ああそうか、と納得した顔で頷いた。
「だからね」と私は続けた。「今日からエタニティに、香水を変えることにしたの」
私がそう言い終わるのも待たずに彼は、激しく私を抱きしめた。エタニティの匂いに包まれて私は、何度も彼を、私の奥へと導いた。
三度目のシャワーから出ると吉岡は、エタニティの小瓶をしげしげと見つめて呟いた。「エタニティ、永遠か」
「そう」と言って私はバスローブをはだけた。「永遠よ」
通勤電車に揺られながら、そんなやりとりを思い出していた。ふと顔を上げると車内には、マスクを装着した人の姿が目立った。パンデミック、と私は思った。私か彼かの、もしもどちらかが感染してしまったら、私たちはそのウィルスを分け合って、二人でひっそりと山の別荘にでも引きこもるのだ。と、そんな妄想が頭をよぎった。その身勝手な思い付きにこっそりと眉をひそめた。
そうこうするうちに電車はいつもの駅に到着した。ホームに降りるとき、入れ違いで電車に乗り込んだ若い女の子から『エタニティ』は香った。
私は私の『永遠』を確かめながらオフィスに向かって歩き出した。
経理課のデスクでPCを立ち上げていると、昨夜見た夢を、なぜだか突然に思い出した。夢の中でコンビニに入った。マスクは相変わらず売り切れていた。生活雑貨の棚に行き探してみたのだけれど、アレはなかった。そこでそのコンビニを出て別のコンビニに入った。が、そこでも売り切れていた。オカモトもなければ不二ラテックスもなかった。
「小沢さん、おはよう」とそのとき背後から声が掛かって、夢の追想から覚めた。宣伝部の同期が伝票をヒラヒラさせながらそこに立っていた。そして私は驚いた。
「ごめんね」と同期の彼女は眉を寄せた。「昨日で締まっちゃったんだけどこの伝票、なんとか通してくれないかな?」
私は眉をしかめて考えた。
「あ、ごめんね」と同期は勘違いをして謝った。「別にどうしても、ってわけじゃないから。ダメならダメでいいんだ」
「変えたの?」と私は尋ねた。「香水、変えたの?」
「あ、これ?」と同期は軽く頬を染めた。「彼から珍しくね、プレゼント」
私は黙って伝票を受けとった。
「サンキュー。今度またゴハンしようね」と言うと同期は香を残して去っていった。
手元の伝票からも『エタニティ』は香った。
この二週間。と私は振り返った。エレベーターの中に残された香、トイレの個室に残された香、そして各部署からの伝票に漂う微かな香。この会社に、突如として蔓延しはじめた『エタニティ』。
「やあやあ、小沢さん」とそのとき、経理課に吉岡丈太郎が現れた。
「これ、遅れちゃったんで持参しました」と言って吉岡は、クリップでとめた伝票を机に置いた。そして白い歯をカメラのフラッシュのように瞬かせると踵を返した。
上から二枚が伝票だった。最後の一枚はメモ用紙で、そこにはこう記されていた。
<今夜予定の接待が流れたんでカラダあいちゃいました。先日のホテルのロビーにて七時でいかがかな?>
男の背中を見ながら、永遠なんて、と私は思った。たやすく蔓延するものだ……
おしまい。
パンデミック!