公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(5)

五 午後0時三十分から午後0時四十五分まで ダンサーの女

「オーレ。チャチャチャ」
「オーレ。チャチャチャ」
 あかりは便器に座っている。今は、昼の休憩時間。事務所での食事が終わり、気分転換を兼ねて、散歩に出ている。その際に、いつも立寄るのがこのトイレだ。事務所からも近く、駅やバスターミナルがすぐ側にあるが、意外に、立寄る人も少なく、穴場だ。
急にトイレに行きたくなって、ドアを叩く人がいても、すぐ側に駅のトイレもあり、駅に併設しているとデパートのトイレもあるので、一つしかないトイレだが、長時間、ドアに使用中の表示があっても、関心を持つ人は少ない。
 あかりは、ほとんど空いていることと、トイレが一つしかないことから、この公衆トイレを愛用しているのだ。確かに、男女共有のトイレなので、自分の前に誰が使用していたとか、自分の後に誰が使用するかは、気になることもあるが、そんなことよりも、このトイレが一つしかないことの方が重要だった。
「オーレ。チャチャチャ」
「オーレ。チャチャチャ」
 あかりが、今、ダンスの練習をしている。仕事は、パソコンに伝票を入力したり、支払いをしたりなど、いわゆる事務だ。面白いことはない。ほとんど一日中、座っていることもある。唯一の気晴らしが、このトイレでダンスの練習をすること。
 今、習っているのは、フラメンコだ。週末の土曜日が練習日だ。週一回の練習だが、踊っていると踊ることだけに集中でき、他の事が忘れられる。そう、忘れたいのだ。
忘れたいのは、あの男のことだ。あの男との生活のことだ。離婚して、はや二年になる。月日の立つのは早いものだ。今となっては、あの頃、何故、お互いあんなにいがみ合っていたのか不思議な気持ちだ。離れ離れになると、あの男のやさしい所など、よい点も思い出される。一緒に旅行して楽しかったことも思い出される。
 離婚の原因は、男の浮気だった。夫とは呼びたくない。名前も口にするのがはばかれる。あえて言えば、男だ。男と呼ぶことで、相手が一般化され、普遍化され、自分の傷がやわらぐのだ。男は、浮気が本気となって、別の女性を選んだ。いや、私が男に別の女を選ばさせたのだ。そう思わないと、やっていけない。
 結婚して五年目。二人の間に、子どもはいなかった。男の帰りが遅くなった。これまでも、遅くなることはあったが、自分も仕事をしており、帰ることが遅くなることは度々あったので、お互い様だと思い、気になることはなかった。
 そのうちに、男が家に帰って来ない日があり、その回数が増えた。男に問い詰めると、仕事で遅くなったので、近くのホテルに泊まっただとか、飲み会で酔いつぶれたので、同僚の家に泊まらせてもらったのだと、いい訳をした。最初は信用していたあかりだが、そのうちに、休みの日でもぶらりといなくなることがあった。
 男は仕事の後片付けだとか、会社のつきあいでゴルフだとか理由をつけた。夫婦で生活していながら、一緒の時間を共有することが少なくなった。これは、家族じゃない。夫婦じゃない。
友人にも相談した。
「それじゃあ、調査を頼んでみたら。でも、結果がどうなっても、受け入れないといけないわよ」
それが、友人の忠告だった。あかりは迷わなかった。中途半端がいやな性格もあっただろう。母親にも相談した。母親も離婚を経験していた。女手一つであかりを育てた。
「あなたの好きなようにしたら。私も好きなようにして、あの人と別れたの」
 それが母の言葉だった。あかりが、前の夫のことを男と呼ぶように、母も私の父をあの人と呼ぶ。特定されているようで、不明瞭な表現。輪郭がぼんやりとしている。あかりも、父の姿が曖昧にしか思いだされない。
 あかりは全てをはっきりしたいために男の身辺調査をした。探偵事務所から一枚の写真を渡された。男と相手の女性が二人で写っている写真だった。その側に子どもが立っている。まさか男の子どもなのか。それとも、前の男との間に生まれた子どもなのか。男に似ているようで似ていない。いや、絶対に似ているものか。男が、あかりの次にどんな女を選ぼうと関係ない。いや、そういうことを考えることさえいやであった。
 別れてしまうと不思議なものだ。男と五年間生活したはずなのに、あかりの体にそんな形跡は全く見当たらない。まるで、二時間の映画を見たかのように、ぼんやりと記憶にはあるものの、経験が全く残っていない。
 離婚した夫婦は、みんな、そんなものだろうか。あかりにとっては、それはありがたかった。人間の体は六十兆個の細胞があり、一日三千億個の細胞が生まれ変わっているという。単純計算すれば、約二十日日で、全てが入れ替わっていることになる。つまり、二十日前のあかりと今のあかりは、全くの別人だということになる。だからなのか。男と別れて早二年。それ以来、あかりは三十六回も生まれ変わっていることになる。男と生活した際の細胞は、もはや一個も残っていないのだ。
 今のあかりには、ダンスがある。二十日に一度生まれ変わる体に、忘れないうちにダンスを覚えさせなければならない。だからこそ、あかりはダンスを上手く踊れないのかもしれない。ダンスを覚えた細胞が次々と死んでいっているのか。
 ダンスを全く知らない素人の細胞が新たに生まれ、その隣のようやくダンスを覚えた細胞が消えていく。これじゃあ、いくら練習してもダンスは上手くならないはずだ。
 それじゃあ、ダンスの先生はどうしてあんなに上手く踊れるのだろう。ダンスの細胞だけが生まれ変わらずにそのまま生き残っているのだろうか。
 ある日、先生に尋ねたことがある。
「先生は、ダンスを忘れることはないのですか?」
 先生は、にこっと笑って答えた。
「あるわ。毎日よ。だから、毎日練習しているの。朝起きて、顔を洗って、朝ご飯を食べて、練習して、夕方には皆さんにダンスを教えているの。生きることは、日々、練習じゃないだから、あなたも毎日練習して」
 あかりは黙って頷いた。生きることは、日々、練習なのだ。誰も経験したことのない、今日であり、明日なのだ。その日に向かって、練習しながら生きる。練習の結果が、自分の思いどおりの時もあれば、期待はずれの時もある。どちらにせよ、それは、結果であり、それも練習だ。よりよい方向に向かって行くしかない。
 それじゃあ、毎日が練習ならば、本番はいつ?多分、本番は来ないんじゃないかと思う。本番が来た途端、存在自体が終わっている気がする。そんなもんだろう。
「毎日、生きることが練習」
 あかりは、その言葉を、もう一度、繰り返した。自分だけじゃない。全ての人にとっても、生きることは練習なんだ。少しは、気が晴れた。気持ちが落ち着いた。失敗することは当り前だ。だって、これは練習なんだ。でも、できるだけ、失敗はしたくない。ダンスにおいても、結婚においても、人生においても。
 そのために、あかりは、今、先週のレッスンで教えてもらったダンスの振り付けを、再び練習している。今さらながら、人間は、というよりも、頭は、思い上がりもはなはだしい。目で見たことや、耳で聞いたことが、すぐに、自分にもできると勘違いしている。
 自分の体であって、自分の体じゃない。特に、ダンスを習い出してからは、特に、そう実感する。先生が指導してくれたように、また、ビデオで見たようには、自分の体が動かないのだ。
指先ひとつだってそうだ。伸ばさなければならないのに、伸びない。少し曲げた方が柔らかく見えるのに、妙に力が入ってしまい、ぎくしゃくした形になってしまう。
 手だけじゃない。足だってそうだ。耳だって、音楽が入って来ているはずなのに、リズムに体が動かない。どうしてもワンポイント遅れてしまう。遅れを取り戻そうとすると、逆に、早く動いてしまう。もう、やんなっちゃう。
 あかりは笑った。本当に、笑った。こんなにも笑うことはなかったくらい、笑った。何故だろう?あの男と別れてからは、笑うことがなかったように思える。それが、ダンスが上手く踊れないだけで、笑える。自嘲だけれど、自分を客観的に笑える。笑える自分がいることが、嬉しかった。
 時計を見た。午後0時四十五分だ。そろそろ、職場に戻らなければならない時間だ。
 あかりは、立ち上がった。その瞬間でも、ダンスの動きを意識した。そう、トイレだけでなく、全ての立ち振る舞いに、ダンスの動きを応用すればいいんだ。そう、毎日が練習なんだ。
 あかりは、ドアを開け、トイレに向かってお時儀をした。野球選手がグラウンドに向かってするように、陸上選手がトラック向かってするように、柔道や剣道の選手が武道場に向かってするように、ドッジボールをやっている妹の子どもが体育館に向かってするように、お時儀をした。なんだか、嬉しくなった。

公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(5)

公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(5)

五 午後0時三十分から午後0時四十五分まで ダンサーの女

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-09

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