季節の移ろい
日々の暮らしの中に、当然のように移り変わって行く四季。
それは、日本人にとって、当然の原風景だと思っている。
でも、それを当然と受け止めるには、その背後に隠れている
感覚や価値観を周囲と合わせることも必要なことなのだ。
通勤の車窓から、白いセーラー服の高校生を見かけた。
社員食堂のメニューに、冷やし中華が載った。
梅雨入りを前に、すでに街は夏の装いに変わりつつある。
日本に生まれて幸せを感じるのはこういう時だ。
全体主義とか流されやすい性格とか、日本人については
さまざまな評価がされるが、こうやって世間が変わり始めると
全体が同調する。
昔から「隣百姓」という言葉が有る。
隣が種を蒔けば真似をして種を蒔き。隣が刈り入れをすれば
それを真似る。周囲が何かを始めるとそれを真似する人を言うらしい。
主体性が無いといわれればそれまでなのだが、無理やりに
独自の主張をすることなく、周囲にあわせている事は
協調性と言われ美点でもある。
ことに食べ物や服装は、長い歴史の中で合理的な理由があって
風習となっているのだから、その伝統には敬意を払う価値がある。
夏は風鈴に簾。冬は炬燵に湯たんぽ。昔の人はそうやって
エアコンなど無くても季節を越えてきた。
この季節、スーパーの食品売り場ではさやえんどうや新たまねぎを
見かけるし、もう少しすれば、かき氷の屋台も出る。冬は焼き芋、
冬至にはかぼちゃ。新年にはおせち料理だ。
祭りなどもそうだ。桜の花見は誰しもその気になるのだろうが、
春の祭りは、これから皆で力を合わせて田植えをしよう、という
意味だし、秋の祭りは稲刈りが済んでご苦労様の意味のはずだ。
それが、今の時代になり、会社員が大部分になっても、地域の
お祭りの伝統は受け継がれている。
共通の価値観や感覚を持つことで、共同社会が住みやすくなる。
農耕民族の受け継いできた知恵なのだ。
(もちろんそれは排他的という側面も有るのだけれど…)
ところが、最近ではこういう当たり前と思われていた感覚が
少しずつ失われてきている。
トマトは一年中スーパーに並び、ソフトクリームを冬でも売る。
そして、実生活の変化に伴って、言葉も変化してきている。
花見と言えば春の桜、月見と言えばススキに団子、それが本来の
日本人が連想するものだろう。焚火に焼き芋、風鈴に蝉の声、
そういう原風景を持たない人が多くなってしまったのだ。
俳句には必ず季語が入るという決まりがある。ソフトクリームを
一年中食べられる環境で育った子供は、その言葉から夏を連想する
ことが出来ないのではないか。一年中エアコンの効いたフローリング
の部屋で過ごせば、炬燵という単語から何を思うのだろう。
生活の進歩と共に、季節感を失ってしまうのは、やはり淋しい気がする。
アメリカなどでは、個人の感覚が優先されるから、コートを着た人の
隣にTシャツ一枚の人が居ても当たり前だと聞く。
それはそれで個人を尊重するという素晴らしい事だと思う。
だが、言わずとも解る、という生活は、共有の感覚で人を包み込み、
共同社会の仲間と思わせてくれる。
同じ処に暮らす人が、皆同じ感覚を持って過ごす事も、やはり幸せなことなのだ。
季節の移ろい
幸せになる権利は 誰にもある。
だけど、そのためには、他人が幸せになるのを邪魔しない義務も伴う。
最近言われる「空気を読む」というのは、日本人の得意とする処だが、
自分の感情を、空気として気遣ってもらうなら、相手の感情の動きも読んで
それに気遣うことも必要だ。
良いことと嫌なことは、背中合わせなんだろう。
そこにある状況を、幸せとして受け止める心の有り方の方が
そこに現れる事象よりも、大切なのかもしれない。