公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(4)

四 午後0時から午後0時三十分まで 座薬使いの男

「ふう」
 順之助は安心した。だが勝負はこれからだ。今朝は悲惨だった。明け方に、尿道結石で痛みだし、救急車で病院に運ばれた。MRIで検査した結果、もう少しで石が出そうだ、ということで、痛み止めの座薬を渡された。その薬は自社製品だった。
 この薬は効くのか、効かないのか、自社製品でよかったのか、他社製品の方がよかったのか、悩ましい問題だった。そう、順之助は製薬会社のプロパーだった。体調不全なので、会社を休んでもいいのだが、今月は、思ったほど売り上げが伸びていない。こういう時は、なじみの病院に行って、医師や看護師を持ち上げ、少しでも薬品の購入を頼むしかなかった。そのために、これまでも、医師にはゴルフの接待を、看護師には誕生祝いをプレゼントするなど、様々な営業努力をしてきたのだ。
 だが、あまりにも恩つけがましくすると、逆効果になる。相手がその気にならないと、こればかりはどうしようもない。相手の情をほだしつつ、なおかつ、合理的な説明も必要なのである。そのため、製薬会社は、プロパーを雇っているのである。
 政治家が選挙の際、どぶ板を踏み、支持者の家を訪問して握手を求めるように、プロパーだって、新しい診療所から古い診療所まで、担当地区をすみずみまで周る。
 表道だけでない。裏道も通る。表玄関だけでない。勝手口からもお伺いを立てる。これを一日、一か月、一年、十年、十五年とやってきた。当初に比べれば、やり方も勝手も変えてきた。ゆるぎもたるぎも出来るようになった。勝負どころで力を入れるところも、片ひじをはらずに力を抜くところもわかってきた。だが、体の方は、酷使されていた。仕事の経験を積めば積むほど、順之助の体の疲労も、名前通りに順々に積み重なって来た。これは、洒落にならない。
 最近、膝が痛い。だが、膝は骨である。本来、骨が痛いなんてありえない。膝の周囲の筋肉が痛いのである。マッサージを兼ねて押すと痛みがある。指を離すと気持ちがいい。
膝だけでない。ふとももも、ふとももの裏も、すねも、ふくらはぎも痛い。アキレス腱も痛みが突如としておこる。営業は、足で稼いでなんぼ、の世界である。その足が、この有様だ。そろそろ内勤も考えないといけない。会社の上司や同僚にも相談した。
 上司は、人事当局に話をしておくと言ってくれた。ありがたいことだ。だが、実際に内勤になれるかどうかはわからない。それに、プロパーが内勤になれば、給料などの待遇も変わってくる。結婚して、十年。子どもは、まだ小学生。これから、教育費もかかってくる。もうひと踏ん張りだ。ここは、痛みをこらえてでも、歩き続けなければならない。そんな矢先に、足の痛みが膀胱に移ったのだ。まさに、暴行ものだ。それこそ、洒落にならない。
 今朝の痛みが思い出された。切り傷や擦り傷などの外傷は、血が出て、その傷口の大きさ等から、ある程度痛みが予想されるので、痛みを我慢しやすいけれど、腹痛など、体の中の痛みは、目に見えないだけに、また、外傷のように治癒の状況がわからないだけに、不安が募り、痛みが我慢しづらいのだ。
 尿道結石も然りだ。ガマの油売り(最近、ガマの油なんて売っている奴なんか見たことがない)に呼んできて、採取させたいぐらいに、額から脂汗が噴き出てきた。体中から汗までが、体の痛みを訴えていたのだ。なんとか、病院に運ばれて、痛みは収まった。
 そのまま職場に行き、営業周りで外に出た。最初の診療所から、何だかおかしいぞ、と感じられた。地震の時に動物や鳥が事前に逃げ出すように、体が不調の時、なんらかのお知らせが出ている。それに早く気付き、病院に行ったり、薬を飲んだり、大人しくベッドに横たわっていれば、嵐が過ぎ去ってくれるのだが、それに気づかないと、後から、七転八倒の苦しみを味わうことになる。
 だが、今は、仕事中。今月の締めまでに、営業結果がでていない。午前中に一診療所、午後からは二診療所回らなければならない。この三つの診療所の医師とは、彼らが総合病院や大学病院から独立する前からつきあいがあり、独立する際は、不動産会社を紹介したり、税理士を紹介したり、はてまた、あのお医者さんは病気を治すのが上手だ、とか、やさしいだとか、風評を流し、患者さんを紹介するなど、こちらとしては、何かと便宜を図って来たつもりだ。
 その結果、開所してからは、毎日、一時間から二時間待ちで、患者さんが行列をなしている。困っている時は、お互い様だ。何とか、頼み込めば、営業に協力してもらえるだろう。
順之助は確信していた。だが、それも、実際に出向いて話をしないと結果はではない。電話だけで手軽にお願いすると、誠意がないと思われ、協力してもらえないのだ。兎に角、膝を突き合わして、顔を見合わせて、頭を下げて、お願いするだけだ。そのためにも、何とか、医者の元に、診療所に辿りつかないといけない。
 午前中の部が終わった。営業の方は、上手くいった。これも日頃からの努力の積み重ねの結果だ。だが、徐々に、痛みが体に蔓延している。これも、日頃の不節制の知らない間の堆積の結果だ。痛みと言うダムが、もうすぐ決壊しそうだ。
 昼飯は、うどんをすする。あまり、体に負担をかけないよう、噛まずに飲み込めるものにした。だからと言って、スポーツドリンクやサプリメントでは、食べた気がしない。そこで、選んだのが、うどんなのだ。なんとかうどんを喉越しに すすりこませた。下腹部の痛みは急激ではない。なんとか、持つか。昼から、あと二診療所。なんとか持ってくれ。
 店を出た。営業車は、地下駐車場にある。横断歩道を渡り、あのバスターミナルから地下に通じるエレベーターがある。それに乗れば近道だ。信号が変わった。痛みが再発しないようにゆっくりと、かつ、急いで渡る。エレベーターのボタンを押す。B1だ。
 その時だ。こらえきれない痛みが出た。早朝の痛みと同じだ。座薬の効き目がきれたのだ。座薬を入れないと、座薬を入れないと。
 順之助はうわ言のように繰り返す。この公衆の面前で、ズボンを下ろし、下着を脱ぎ、お尻をさらして、座薬を入れるわけにはいかない。それこそ、変な風評が出て、会社をやめるだけでなく、自分の人生自体が、座薬を入れる時のズボという音とともに、崩れていく。
 積み木でも、砂場の城でも、積み上げたり、築き上げたりするのには、長い時間がかかるが、壊してしまうのは一瞬でできる。日中なら、おてんとさまが、夜なら、お月さまが、自分を見ている。恥ずかしい行為はできない。とにかく、便所を探さないと。便所を探さないと。
 順之助のうわ言の種類が変わった。一旦、駅の構内やデパートに戻らないといけないのか。いや、それには間に合わない。そうなると、やはり、白日の下、他人に悪夢を見せる行為に走らないといけないのか。いや、それはできない。やはり、トイレを。やはり、トイレを。順之助は、三種類目のうわ言を吐き出しながら、お腹を押さえ、辺りを見回した。
 あった。ターミナルの隅っこにトイレが。トイレの看板が。今の今まで、こんなところにトイレがあるなんて気付かなかった。眼からうろこだ。眼薬を入れろ。足元に青い鳥だ。パン屑を撒け。いやいや、冗談を言っている場合じゃない。ありがたい話だ。順之助は、はあはあ、いや、ひいひい、いや、ふうふう、いや、へえへえ、いや、ほうほうの体でトイレに駆け込んだ。(ハ行は人が困っている時の表現として、適切に使えるいい言葉だ、と、国語の教師が作文の授業で教えてくれたのを、作者は思い出した。何でも、勉強しているものだ)
 だが、運悪く、ひとつしかないトイレには先客がいた。しかし、順之助の必死のノックが天に通じたのか(本人はそう思っているが、実際には、暴力的なノックが中にいる人間に恐怖心を与えたのだ)ドアが開き、中から、女性が俯いて出てきた。順之助も顔を伏せ、腹を押さえながら痛みを我慢していたので、互いに顔を見合わせることはなかった。
 順之助は、トイレに入るなり、ズボンとパンツを同時に下ろし、座薬を肛門に入れようとする。しかし、痛みがあるので、上手く入らない。入っても、半分ぐらいだと、座薬の軟膏のせいで滑り、すぐに肛門から出てくる。その間にも、軽い痛みは激痛となる。大便はでないものの、くそっ、くそっ、と叫びながら、なんとか、座薬全体を肛門に入れることが出来た。油汗がやっと収まった。ふーん。落ちつた。(ハ行は、気持ちが落ち着いたときにも表現できる適切な言語だ。これは作者が作った格言だ)
 これで、世界がいつ終わっても、パンツを脱いだまま状態のみじめな姿をさらさないでも済むぞ。順之助は、腰をくねくねと二回振り、パンツとズボンを同時に上げ、トイレの外に出た。
 ドアの外には女が立っていた。なんだか、変な目つきで、かつ、次にトイレに入るのがいやそうに、こちらを見ている。順之助はピンときた。女は誤解している。順之助が、座薬を入れる際、悪戦苦闘し、息が荒かったため、変な誤解をしているのだ。自分は正当な行為を行っただけであり、決してみだらな行為に及んだわけではない。それにも関わらず、女は顔をそむけた。このままでは、一生誤解されてしまう。
 たった一度、会った女だ。二度と会うことはないだろう。自分のことをどう思われようがかまやしないという気持ちと、いやいや、何事も小さなことからが肝心だ。堅牢なるダムも針の穴から崩壊することがある、と言う思いが交錯する。重要な契約の場面で、女と出会うかもしれない。誤解は早めに解く必要がある。順之助は意を決した。
「尿道結石は痛いなあ。痛み止めの座薬を入れるのは、本当に大変だ」と、わざと女に聞えるように、ただし、他の通行人には聞えないように、声を出す。女は、男の声を聞いたのか、聞かなかったのか、男の正当な理由を認めたのか、それでもまだ疑っているのか、いずれも外観的にはわからない素振りで、男の入っていたトイレの中に滑り込んだ。
 トイレの前で佇む順之助。再度、トイレの中の女に聞えるように、「尿道結石は痛い。座薬を入れないと痛みが抑えられないよ」と悲痛な声を出すのであった。その悲痛さは、トイレの中の女には伝わらず、代わりに、ターミナルでバスを待っている人たち全員が順之助の方に振り向いた。順之助は顔を赤くして俯いて、その場をそそくさと立ち去ろうとした。
 そこで、再び、痛みが発症。いかに座薬といえども、すぐには効果が表れない。先ほどは、座薬を押しこんだ安心から、一時的に、痛みを忘れていただけであったのだ。よよよよよと、泣き崩れるかのように、その場にうずくまる順之助。人生とは、いかに、皮肉なものか、内実とはいかに異なるものなのか、思い知った順之助であった。

公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(4)

公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(4)

四 午後0時から午後0時三十分まで 座薬使いの男

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted