ジーザス・クライストについて僕が知っていること

7章中3章まで公開しています。

 ジーザス・クライストのことならよく知っている。父なる神。その長兄としてすべての罪を引き受けたジーザス。あらゆる場所に偏在し、いつの日か裁きを下してくれる。僕たちはジーザスのもとでみんな兄弟姉妹となり新しい世界に行くのだ。敬虔なるオルガンの音色がやみ、花嫁は一番前で立ち止まった。咳一つで台無しになってしまう位に空気が張りつめている。腕を動かすのさえためらわれるのだ。そうして初めて、僕はこの場所が教会であることを知った。教会風の建物ではなくて、本当に教会なのだ。花嫁の傍にいるのはきっと本物の牧師だ。起立を命じられ、僕も周囲の人たちも立ち上がった。これから全員で讃美歌を斉唱するという。糞、歌詞カードは支給されているにしても、そんな歌を僕は知らないし歌詞の意味も全く分からない。厳かな伴奏に従ってたどたどしく声を発する子羊の群れは深刻な便秘に苦しめられる哀れな家畜のようで、こいつらと僕が等しく兄弟姉妹だとすると実にいたたまれない気持ちになってくる。さらに忌々しいことには、前方にいる純白の花嫁と僕を基軸に、実際問題としての兄弟が会場に何人かいるのだった。
 だが聴いたこともない歌を歌っているうち、僕は次第に神妙な心持ちになってきた。祈りを捧げているような、あるいはこの瞬間身近に聖なる存在が立ち現われているような不思議な感覚だ。僕は信仰など持ち合わせていないので、きっと讃美歌が持つリズムやビート、教会の雰囲気などが調和したために生まれた効果なのだろう。見上げると大きな十字架が見えた。天井へ続く壁の途中に、それが当たり前だと言わんばかりに自然に吊り下がっていた。ここが教会でさえなければ、こんなものは奇異で余計な物体でしかない。
 再び静寂が訪れ、着席したときには妙な連帯感があった。家を出てからこの固い木製の椅子に辿りつくまでずっと抱いていた違和感がすっぱり解消され、僕はやはり今ここにいるべき存在なのだと錯覚することができた。それからしばらくの間、牧師に言われるがまま花婿に寄り添ったり向かいあったり、誓いの言葉を述べたり、指輪を交換したりしている花嫁を、会場の至る所に置かれた白い花を眺めるのと同じようにぼんやりと眺めていた。
 そして誓いのくちづけのためにベールをあげて吉村沙希の横顔があらわになったとき、僕の時間はやっと動き出した。まるで止まっていたフィルムがようやく廻り出したみたいで、映像は俊敏で鮮やかだった。同時に、音もなく花婿が覆いかぶさるようにして吉村の横顔を隠した。
 僕はかつて見た、このような瞬間に全く似つかわしくない情景を思い出し、下腹に軽い疼きを感じた。それは馬小屋みたいな廃墟で薄闇の中、学生服姿の吉村沙希が複数の男に代わる代わる唇を奪われているというものだった。吉村は抵抗せず甘い吐息すら漏らしていた。肌が汗ばんでいるのも分かった。僕はその熱がかろうじて届かない位の距離からぼろぼろの板きれの陰に隠れうずくまり、埃とカビの匂いを嗅ぎながら確かにそれを見ていたのだ。吉村も僕がそばにいることは知っていた。吉村はそのとき、まだ処女だった。

 僕には中学の頃、特に仲の良い友達がいた。親友といっていいだろう。平凡極まりない僕に比べ、有馬は勉強やスポーツが飛び抜けてできた。かといってクラスの中で人気を集めるような存在ではなかった。あくまで、持ち合わせた才能に比べればということだが、有馬は十分な社交性を持っていなかった。
 僕は入学して最初の数ヶ月で、辛うじて底辺の弄られ役になることを免れたのだが、それでもクラスにおける序列の真ん中あたりを維持するのに努力を続けなければならなかった。勉強は苦手だし、小さい頃空手を習ったことがあったけどついていけなくて半年でやめてしまうくらい運動神経もなかった。周囲と話を合わせるために流行りのテレビ番組や漫画に目を通したり、授業中に間の抜けた発言や行動をしてしまわないよう気を配ったり、その時々の空気を読み特定の奴と距離を置いたり、そういったことを意識的にやっていた。あとになって考えると馬鹿馬鹿しいを通り越して可愛らしいとすら思える。だけど当時、十三歳の僕らにとっては切実な問題だったのだし、あれからたいして成長したわけでもないのだ。
 有馬は誰かといるときほとんど会話に参加しなかったし、話題を振られてもろくに受け答えをする気がなかった。極端に無口というわけでもないが、何を考えているのかよく分からない。目立つヘマはせず、顔はよく整っていて、何でもそつなくこなすので軽んじられはせず、クラス中の序列から一本脇道に逸れた特殊な立ち位置を確保しているような奴だった。序列が上の方の連中は付かず離れずといった感じで対等に接していたが、僕のような連中は有馬のことを一匹狼気取りのスカし屋と決めつけ一線を置いていた。
 吉村沙希は隣のクラスにいる地味で目立たない女の子だった。うつむき加減で廊下を歩いているのを何度か見かけたことがあった。友達はあまり多くなさそうで、顔立ちや髪型や制服の着方、すべてどこか垢抜けていない感じがした。ある日帰り道で、彼女が上級生の男子三人に付きまとわれている場面に出くわした。そのときまだ彼女の名前は知らず見覚えがあるという程度だったが、何故上級生の、それも不良を気取っているグループの中で三流の、腕っぷしも度胸もなく下卑た品性と貧乏人根性だけを持ち合わせた安っぽい連中に絡まれるのかは何となく分かった。吉村沙希は野暮ったい顔立ちとはアンバランスなほど、非常に発育が良かったのだ。
 僕は少しも逡巡することなく、見て見ぬ振りをして横を通り過ぎた。充分に距離をとってから、複数の上級生を一人で相手するのは無理だ、とか、彼女が困っていると感じたのは僕の主観的な問題であって助ける必要はなかったかもしれない、とか適当な言い訳を考えた。そうして少し軽くなった罪悪感を抱えながら歩き続けた。僕は弱く、卑怯で、そのくせ自分を正当化したがる最低の人種だった。
 突然、吉村沙希が僕の名前を呼んだ。聞き違いかと思ったが、彼女がこちらへ小走りで駆け寄ってくる気配がして、僕は逃げることも無視することもできなかった。上級生どもが苛立って、おい待て逃げんな、とかなんとか喚いているのが聞こえた。彼女は僕の横まで来ると、一度も話したことがないから分からないがおそらくは普段より数倍快活な口調で「今帰り? ねえ今日の宿題ってさあ」と適当な話を始めた。僕はやむを得ず、足が震えだすのを懸命にこらえながら相槌を打ち続けた。
 連中は僕らのすぐ後ろについて歩きながら、おい無視すんな馬鹿、てめえ何様だ調子乗んなよカスが、などと挑発を続けていた。やたら長く感じる数分間の後、連中は僕らに物理的にちょっかいを出すことなく諦めて去って行った。本当に根性無しのクソ野郎どもだ。このグループの中心人物は澤井という茶髪のチビで、教師と対立するわけでなくむしろゴマをすり、陰で弱い者いじめばかりしている小悪党だ。喧嘩したという話は聞いたことがないが、他の不良はもちろん普通の奴が相手でも負けてしまうだろう。
 安堵したのも束の間、明日から自分が付け狙われるかもしれないと考えて気分が落ち込んだ。あいつらのやり方は陰険だ。僕らはしばらく無言で歩き続け、やがて吉村沙希がぼそりと口を開いた。
 「ありがとう。じゃあ、行くね」
 そこに明るさや愛想は微塵もなく、感謝の気持ちすら掬い取ることが難しかった。この調子が彼女の普通だということが直感で理解できたが、僕の方にも愛想を振りまく義理はないし見返りに値するほど立派でもない。僕は一度見捨てたし、この場を切り抜けたのは彼女の機転によるところが大きい。角を曲がる吉村を無言で見送った。この機会に仲良くなるとかそんなことよりも、連中からの報復のことが頭の中を占めていた。何故吉村沙希は僕の名前を知っていたのか、という疑問は浮かばなかった。
 翌日の休み時間、有馬が初めて僕に話しかけてきた。昨日のことで礼を言われたが何のことか分からなかった。有馬は礼の言い方がとても下手だった。これまで他人に礼を言う機会が少なかったのだろう。きっと有馬は、自分でなく吉村沙希のことだから礼を言ったのだ。
 有馬に話しかけられたというのは、クラスの序列の中で僕と同じくらいの位置を常に浮き沈みしている冴えない連中にとって、かなり目立つことだったらしい。昼休みになると有馬と小学校が同じだった奴が寄ってきて、聞いてもいないのに色々教えてくれた。それによると有馬と吉村沙希は幼なじみで、今でも毎日二人で登下校しているのだった。その関係は小学校時代から二人を知っている者にとっては当たり前のことなので、特に噂にのぼることもない。学校の中では二人は言葉を交わさない。目を合わせようともしない。
 彼女の父親は厳格な高校教師だったが、職場を一歩出るとまるで人が変ったようになり、軽薄な女をしょっちゅう取り替えては家に住まわせ、酒を飲み堕落していた。母親は早くに去ってしまっていた。彼女が五年生のとき父親は風呂場で溺死した。当時同棲していた女が疑われたが、結局事故として処理された。それは狭い地域の中で大きな話題になった。彼女はその家で今も一人暮らしをしている。有馬の家はその隣だ。
元々引っ込み思案だった吉村沙希は、同情や哀れみ、あるいは単なる好奇心など、周囲の様々な視線に晒されることになった。有馬はそんな彼女と毎日一緒に登下校し、冷やかしや無責任なことを言う者がいれば容赦なく制裁を加えた。それは多少度が過ぎるものであったので、もう誰も軽口を叩かないばかりか距離を置いて接するようになった。
 嘘や極端な脚色は含まれていないみたいだったが、僕に話をしてくれた奴は二人のことを異物として処理するよう暗に促していた。悪いことは言わないからあいつらには関わるな、腫れものには触るなと。何の根拠もなく、有馬より勉強やスポーツができるわけでもなく、吉村沙希より不運な境遇にあるわけでもないのに、自分のことを二人よりまっとうな人間だと決めつけ見下しているのが分かった。底辺の連中はお互いに目立つ行動を許さない。出る杭だと判断された奴は例外なく打たれ、全体の均衡が保たれる。僕もその一員だから彼の気持ちがよく分かった。
 僕はそいつと、有馬に話しかけられた日から数日間、昼休み一緒に弁当を食べ、放課後の行動を共にした。向こうはどうやら僕と仲良くしたいらしかった。僕は上級生の報復を恐れていたので一人でいるより都合が良かったのだが、次第にそいつのことを不快に思うようになってきた。話題がなくなったとき、あるいはふと思いついたとき、そいつは二人の陰口をネタに笑いを引き出そうとした。有馬は吉村の家に遊びに行ったりするだろうか、すぐ隣だしきっとするだろうし親はいないから、いつもの何を考えてるか分からない顔でいやらしいことをしているに違いない。吉村は顔はいまいち冴えないが胸はでかいし、父親の血をひいてきっと淫乱だろうから二人でいやらしいことを楽しんでいるに違いない。貧困な想像力が生む貧困な猥談に僕も同意して、二人で下品な笑いを浮かべたりした。実際、想像の中で裸にした吉村沙希の肢体は非常に魅力的だった。
 しかし、あの日無言で見送った彼女の横顔が強く記憶に焼きついていて、それを意識する度に僕は恥ずかしくなった。不機嫌そうに眼を伏せ、誰にも借りをつくりたくないという強がりで全身を満たしていた。彼女は弱く、それでいて僕らの手が届かないくらい気高い存在だと思えた。彼女に比べれば僕らは便所の切れかけのトイレットペーパーみたいなものだった。
 僕は何の前触れもなくそいつを無視するようにした。間もなく、クラスメイトの一部が示し合わせたように態度を変えよそよそしくなった。僕はそれを甘んじて受け入れた。
 一人で下校しながら僕は報復を待った。順調にそれはやってきた。広い通りでふいに後ろから抱きつかれ首を絞められた。立ち止まろうとすると別の奴に背中から脇腹を殴られ、無理やり歩かされた。買い物帰りの主婦や親子連れとすれ違ったが誰も気に留めてくれない。遠目には仲良し同士がじゃれ合っているように見えるのだろう。耳元で色々と不愉快なことを言われた。黙ったままだと殴られ、返事しようとするとさらに強く締め上げられた。
 解放されたあと、明日の昼休みに一万円持ってトイレに来いと澤井に言われた。家に帰ると母親に顔を見られないようにして自分の部屋に入り、泣いた。小学校の頃にも同級生や上級生から一方的な暴力を受けたことはあったが、苦痛や悔しさはその頃の比ではなかった。しかし一通り感情を吐き出したあと、吉村沙希の横顔を思い出すと何故か少し落ち着くことができた。有馬と吉村のことを見下したり、二人が誰もいない家の中でいやらしいことをしているのを想像するより今の状況の方がはるかにマシだと思った。
 机の引き出しに入っている封筒から一万円を出し翌日学校に持っていった。指定されたトイレに行くと澤井たちが待っていた。不思議と怖くはなかった。僕は個室に連れ込まれ無言で金を渡した。便器のへりに少量の大便がこびりついて乾いており、上級生の一人がそれを踏んでしまっているのに気付いた。澤井たちが一万円をうっとり眺めているとき、僕は「それ、踏んじゃってますよ」と指をさして教えてやった。それがよほど気に入らなかったらしく、連中は僕を壁に押し付け、顎のあたりを鷲づかみにした。
 「もう僕に構わないでもらえますか」
 毅然とそう言い放つと、何故僕がそんなことを言うのか分からないという表情がゆっくりと連中の顔に浮かび、やがて怒りで醜く歪んだ。馬鹿は物事を理解できない不快感を怒りに変えて処理するしかない。サンドバッグみたいにたくさん殴られた。教師にばれるのを恐れてか、顔面には手を出してこなかった。代わりに腹ばかり殴られ、痛みが蓄積してけだものみたいな情けない呻き声が何度も漏れた。怖くて体が勝手に震えていたが、頭は相変わらず冷めたままだった。膝の力が抜けそうになるのを必死に押しとどめ、できるだけ相手の顔を正視するようにした。
 やがて、どんなに痛めつけても泣き出したり卑屈な目で許しを乞おうとしたりしない僕の態度に業を煮やしたのか、本当にイラついてしょうがないというような奇妙な叫び声を突然上げて、澤井が僕の頬を殴った。思っていたより痛みはなく、軽いパンチだと思った。顔を上げると、腕を振り切ったままの澤井と目が合った。苛立ちと疲れのせいで肩で息をしていた。
 僕はそこで澤井を殴ろうと思った。何故そんなことが自分にできるのか分からなかったが、やろうと思えば間違いなくできた。そして、そうすれば間違いなく勝てる気がした。だが僕はしなかった。殴りたければもう片方の頬も殴ればいい。このまま殴られ続けようと思った。
 昼休みが終わって連中が去ってしまった後も、痛みのため僕はそこを動くことができなかった。だが昨日自分の部屋に戻ったときに込み上げてきたような悔しさや惨めさは全くなかった。ふと足元に目をやると、便器にこびりついていた大便が連中の上履きによって綺麗に拭きとられているのが見えた。なんて哀れな奴らなんだ。僕は小さく呟き、個室を出て顔が腫れたり服が汚れていないか鏡で確かめてから教室に戻った。
 それから僕は有馬に話しかけるようになった。これまでとっつきにくい奴だと思っていたし、実際にそうだったのかもしれないが、僕とは不思議とウマが合うことが分かった。有馬はコミュニケーションを取る意識が希薄なのではなく、独特のペースを持っているだけなのだ。その呼吸をいったん飲み込んでしまえばあとは楽だった。僕たちはまたたく間に親密になり、お互いにクラスで心を許せるのは相手だけ、という感じになった。
 授業が終わると吉村沙希と三人で帰るようになった。吉村が僕に話しかけることは全くなかったし、僕から話しかけることもなかった。また、僕の前で二人が話をすることもほとんどなかった。初めは気を使っているのかと思ったが、二人きりのときも同じだということがそのうち分かった。有馬と彼女の間にも、また一種独特のペースがあるのだ。それは一朝一夕には踏み込めない厳粛な扉みたいに重い絆だった。
 放課後は僕が頻繁に有馬の家に遊びに行った。吉村は自分の家に入ったままで、こちらへ来ることはなかった。二階にある有馬の部屋の窓から、買い物に出かける姿をよく見かけた。有馬は一人っ子で、家庭は裕福そうだった。母親がお菓子とコップに入れたジュースをストロー付きで持ってきてくれたりして、ちょっと過保護なんじゃないかと思うくらいだった。実際有馬は少し鬱陶しそうにしていたが、仲が悪いわけではないようだった。有馬の部屋には新しいゲームや漫画がたくさんあり、会話が少なくても退屈することはなかった。暗くなるまでつい居座ってしまうこともしばしばだった。大体はそんなふうにして過ごしていたが、たまに三人で遊びに行くこともあった。有馬と吉村は明らかに友達以上の関係だったが、少なくとも恋人同士には見えなかった。もっともそれは、僕がまだ恋人という抽象的な概念について知らなすぎるせいだったのかもしれない。二人は機会さえあればもっと親密にしたいとひそかに思っていたようで、だから僕が間にいることは都合がよかった。仲良し三人組といった感じで色んな場所に行くことができたからだ。僕たちは普通の中学生がやっているように、連れだって街で買い物をしたり映画を観たり、有馬の家で誰かの誕生日パーティを開いたりした。三人の関係はクラス中にも親にも公認で、大きな喧嘩をすることもなく、楽しくやっていけていた。この頃が僕の人生の中で一番楽しい期間だった。
 吉村が洋服を選んだり、食べ物を口に運んだりしている様子なんかをふと見つめてしまうことがあった。はっとして横を向くと、有馬も同じように吉村を見ていた。僕のことに気付いているのか気付いていないのか、いつも分からなかったが、なんとなく彼と僕は同じ気持ちを共通して抱いているという気がした。僕が吉村を美しいと思うのには、順調に発育を続ける中学生離れした肢体、年相応の異性への興味、そんなことももちろん深く関係していたが、性欲や恋愛の対象として見ているのとは違っていた。吉村はほとんど笑顔を見せず、どちらかと言えばいつもむっつりしている。にも関わらず、まるで吉村の顔や体ぜんたいから目に映らない光が発せられていて、温かいようにすら感じるのだ。それは初めて会ったときに見た、厳しい横顔と矛盾しないものだった。彼女は偉大で、何者にも侵しがたい一面を秘めていて、表立って出てくることはないがそれこそが彼女の本質であるという気がしていた。
 有馬と僕は同じものを見ていたに違いない。だけど僕が尊敬に似た気持ちや、安らぎのようなものを抱いていたのに対し、有馬はまた違った気持ちでいたのかもしれない。今となってはもう分からない。あの頃みたいに「なあ有馬」なんて問いただしてみることもできない。有馬は物理的にも、そして精神的にも大分遠い所へ行ってしまった。
 月に一度か二度、用事があると言って有馬が学校から一人で帰るときがあった。吉村と二人になるとほとんど会話がなくて気まずいので、結局別々に帰った。一体有馬に何の用事があるのか最初は気になったが、次第に興味が薄れていた。
 僕たちの学校では、しばしば猫殺しのことが話題になった。通学路のそばにある川沿いで、惨殺された野良猫の死体が定期的に見つかるのだ。皆すっかり慣れていて大きな騒ぎになることはない。死体は刃物や鈍器によって様々な傷付けられ方をしており、何らかの意図をもって殺しているのは明らかだという。きっと近隣住民も知っていただろうが、警察沙汰になっていたかはよく分からない。年に数回、生徒がたまたま発見しては、またアレが出たらしいよ、という噂話が飛び交った。
 それは恒例行事のようなもので、一人ひとりの中では異質なものであったけれど、僕らの街では野良猫の生首や河原に流れた血、みなひっくるめて各自の生活が形づくられていた。服や食べ物も売っているし、映画もやっているし、誰かが交通事故に逢ったり火事が起きることもあれば、猫が殺されることもあるというわけだ。猫に同情したり犯人に憤りを感じりした奴ももちろんいただろうけど、それによって僕らの街が不穏な空気を孕むことはなかったし、どこかしらに歪みが生じることもなかった。忘れた頃に噂が流れてきても、忘れた何かを思い出すという以上の意味は持たなかった。
 僕が三年生のとき、五月のさわやかな午後、河原で子供が襲われた。ハンマーのようなもので突然殴りつけられ肩の骨を砕かれた。七歳の少年はそのまま草むらに引きずりこまれそうになったが、大声をあげ抵抗したところを通行人に目撃され犯人は逃走した。保たれていた均衡が破られ、街は騒がしくなった。猫殺しの犯人の関与が疑われ、街ぐるみでテレビのワイドショーに話題を提供した。
 一週間後に有馬は逮捕された。僕に何も言わず教室から姿を消し、ほどなくして家族も家を引き払っていった。有馬は幼い頃から儀式と称して河原で猫や子犬を殺していた。自分で独自の神様をつくりあげ、罪を清め魂のレベルを高めるために儀式を行っていた。自ら決めた規則にのっとり、休むことなく定期的に繰り返していた。そして次の段階へ行くべき時期がやってきたため、標的を人間の子供に移したのだ。
 僕が毎日のように通っていた部屋のどこかにあったはずのノートが、警察を通じ公開され、僕はテレビでそれを見た。有馬の神様はいびつな植物みたいな形をしており、真ん中に聖母マリア様みたいな女性の顔が付いていた。
 僕は警察や教師に何度も話を聞かれたが、何も知らないとしか言いようがなかった。そしてクラスの中で完全に孤立してしまった。嫌がらせをしてくる奴もたくさんいた。僕は黙って耐えていたが、胸の中の不快感は容易に消えはしなかった。僕にも責任の一端があるのではないか、罪があるのではないかという思いが日ごと強くなっていった。別のクラスにいる吉村のことは、有馬が逮捕されて以来姿を見てすらいなかった。どんな顔をして会えばいいか分からなかった。それに、吉村がいったいどんな気持ちでいるのか、考えただけで恐ろしかった。僕に罪があるのか確かめたくて、彼女に話しかけようと何度も考えた。だけどできないまま一ケ月が過ぎた。
 僕は下駄箱や通学路でも誰にも顔を合わせたくなかったので、机でしばらく宿題をして人の気配がなくなってから下校するようにしていた。梅雨がやってきて雨が毎日降り続いていた。校舎は教室以外どこも薄暗く、床という床が濡れていた。図書館へ続く階段の前を通り過ぎるとき、女の子が登っていく後ろ姿が見えた。シルエットだけで吉村沙希だと分かった。吉村はよく図書館で本を借りる。僕は足を止めたが、すぐに無視して歩き出そうとした。そのとき、あの横顔の記憶が再びよみがえってきた。苦しんでいるのは僕だけでなく、ひょっとして吉村も同じではないのか、と思った。
 「吉村」
 声をかけると、吉村らしい影は踊り場の手前で立ち止った。
 「なあ吉村、話がしたいんだ。一緒に帰らないか」
 沈黙が続き、雨が強くなったり弱くなったりする音だけが聞こえた。階段の明かりは付いていない。背中を向けたままの吉村の向こうに窓があり、灰色の空がのぞいていた。答える気配がないので、僕は何か言おうとした。何かもっと違うことを言おうとしていたのに、抑えていた感情が堰を切ったようにあふれ出した。
 「どうして有馬があんなことをしたのか、僕には分からない。僕と会う前からやっていたっていうけど、僕はそれに気付いてもよかったはずだ。いつも一緒にいたんだから、有馬にそういう一面があることを、少しくらい気付いたって全然おかしくない」
 漠然としていた想いが痛みを伴って、闇を切り裂いていくみたいに形を持ち始めた。
 「気付かなかった僕が悪いんだろうか。いや、僕は気付くべきだったんじゃないのか。僕は有馬や吉村に比べて、勉強もできないし、まだまだ子供で、何が善いことで悪いことか分からない。有馬が正しいのか間違っているのか、僕には何とも言いようがない。でも僕は、自分が間違っているって気がするんだよ。きっと僕は、有馬のことをもっと知るべきだったんだ。あの部屋でどうでもいい話をしたり、僕が持っていないゲームや漫画なんかを、ただ与えてもらったりするだけじゃなくて、何かもっとやるべきことがあったんじゃないのか。僕はきっと、罪を犯したんじゃないかって思うんだ。どんなものなのか、全然分からないけど多分そうなんだ。僕は罰せられるべきなんじゃないかって近頃いつも考えるんだ」
 後の方は半分泣きそうになりながら吐き出すように喋った。吉村は振り向き、階段を三つだけ降りた。雨音の中でこん、こん、こんという足音がはっきりと聞こえた。久しぶりに見る吉村はかなりやつれていた。僕の方をまっすぐ見つめ、そして小さな声で言った。
 「あなたは許されるわ」
 ちゃんと目を見ながら吉村と話したことはほとんどなかった。吉村は声こそ小さかったが、表情には一片の迷いもなく、体ぜんたいに力がみなぎっているようだった。あたりはじめじめしていて少し寒かったが、そうして見つめあっていると僕と吉村の間の空気が温かくなってくるような気がした。
 「いったい誰が、どうして、こんな僕を許してくれるっていうんだ。僕は弱いし卑怯な人間だ。有馬は裁かれて、きっと罰を受ける。だけど僕は裁いてもらうことすらできない」
 「有馬くんは許されるわ。そしてあなたも許される」
 声は階段じゅうに反響し、不思議な響きをもって僕の耳まで届いた。いつも控えめで、おどおどしていた吉村が歯切れよく喋っているのは驚きだった。やつれて肉が落ちたせいもあるだろうが、急に大人びた気もした。吉村の言うことはよく分からなかった。吉村も辛い思いをして少し気が変になっているのではないかと思った。僕は感情的になり乱暴に続けた。
 「だから、いったい誰がだよ。適当なことを言うな!」
 「神様よ」
 「神様? 有馬が信じていた神様か」
 「違うわ。有馬くんが神のことを知らないように、あたしは有馬くんの神様のことは知らない」
 「僕だって知るか! そんなものは知らない、知りたくもない」
 僕の持っていた鞄が床に落ち、その音が大きく響いた。重い沈黙がやってきた。雨はまた強くなっているようだった。
 吉村は階段を降りてきて、僕のすぐ目の前まで来た。そして、ゆっくり微笑みを浮かべながら言った。
 「じゃあ、あたしが許してあげるわ」
 吉村は僕より背が高い。僕の目を深く覗き込むようにして顔を近づけてきた。こんなに近くで吉村の顔を見たことはない。暗いせいで立体感がなくのっぺりとしていて、まるで絵か写真だった。ほんの数秒がとても長く感じられ、吉村はふいに屈みこんで僕のつま先に唇を付けた。
 何が起きたか分からなかった。僕は体を離し、怯えた目つきで吉村を見た。吉村もしゃがんだままで僕を見返した。目には強い力があった。包み込むような慈愛を奥に秘めた、今まで通りの顔のようにも見え、男を誘惑する大人の顔のようにも見えた。吉村がそんな風に見えたことはなかった。プールで水着姿を見たことがある。他の女子よりもスタイルは抜群に良かったが、野暮ったい髪形と少しふっくらした顔のせいでエロスというより健康的な印象しか受けなかった。だが下から僕を見上げているそのときの吉村は、僕にとって未知の世界、たとえば夜の歓楽街から抜け出してきたようだった。まったく知らない人間が目の前にいるみたいで怖くなった。
 僕は鞄を拾い早足で学校を出た。校門をくぐってから傘を忘れてきたのに気付いたが、取りに行く気にはならなかった。何かを振り切るように、途中からは走って家まで帰った。
 その日は一晩じゅう過去の自分や大切な友達のことを否定し続けた。有馬と仲良くしたのがそもそもの間違いだったんだ、とか、やはり自分には罪があって間違った人間なんだとか、すべて後ろ向きの考えだった。吉村にはいつかあのクソ野郎が言ったみたいに、淫蕩な血が流れているんだ、ということも考えた。世界がぐらぐら揺れてるみたいで気持ちが悪かった。神経は消耗しているのになかなか眠ることができなかった。眠りに落ちて目が覚めたとしても、もうこれまで通りの朝はやってこないんじゃないかという気がした。
 目が覚めてみると、寝不足で多少ふらつきはしたが、表面的には普段通りの朝が訪れていた。久しぶりの快晴で汗ばむほど暑い日だった。そして靴を履いたり、歩きながら汗を拭ってみたり、坂道を登りながら自分と同じ制服を着ている奴の後ろ姿を見つめたりする日常の中に、決定的な変化を少しずつ見出していった。有馬のことは、とんでもなく悪い奴だとは思っていないけれど尊敬もしていない、あいつと仲良くしていたのはあくまで過去のことだ、と思うようになった。吉村沙希のことは、よく分からないが、憎しみのような感情を抱いていた。だけど階段下の出来事も含めて、すでに過ぎ去った事だとドライに捉えていた。僕は吉村とはもう二度と話をしないしクラスの誰とも仲良くしないと決めた。
そうして人が変ったように勉強に打ち込んだ。夏休みの間もほとんど遊ばなかった。そうして中の下くらいだった成績が、上位十番以内に入るまでになった。また、急に身長が伸び始め、学生ズボンの裾を何度か調整してもらわなければならなかった。成績も、身長も、おそらくすでに吉村より上だった。過去の思い出には幾度となく苦しめられたけど、自分に罪があると思うことはもうなかった。
 受験が終わり、僕は地元で一、二を争う公立の進学校に見事合格した。親も教師も予想していなかったことで、大いに喜ばれた。僕はこれまでのクラスメイトともう会わなくて済むと思いほっとした。吉村は離れたところにあるミッション系の私立に通うらしい。あの家を引き払い、親戚の家にでも身を寄せるのかもしれない。いずれにせよ、もう関係のないことだ、と思っていた。

 僕の背はさらに伸び続け、それに従って筋肉もついてきた。高校に入学して間もなく運動部に入ろうと思うようになり、かつて挫折した空手を始めることにした。きつかったり性に合わなったりすればすぐに退部しようと思っていた。特にやることもないので春休みも勉強ばかりしていたし、あくまで気分転換程度の軽い気持ちだった。
はじめは身体の動かし方自体がよく分からず、何をやっても無様なダンスのようだった。関節も固く、練習の最初と最後にやる柔軟体操が痛くて仕方なかった。だが体力的に辛いということは全くなく自分でも意外なほどで、次第に運動して汗をかくことを気持ちいいと思うようになり、熱心に打ち込みだした。空手の練習とは要するに、効率的だと予め分かっている姿勢や動きがあって、自分の体にそれを繰り返し教え込んで当てはめていくということだった。僕はそれに気付き、とても気に入った。
 呑み込みが早いと褒められた。相手が高校以前からの経験者でもない限り、組手で負けることはほとんどなかった。自信のついた僕は誰とも対等に接することができるようになり、クラスでは男女問わずみんなが僕に話しかけるようになった。夏休み直前、女子から告白されたことがある。僕はそれを丁重に断った。あとで面倒がないように、部活と勉強の両立だけで手いっぱいなのでそんな余裕はない、君のことが嫌いなわけではないし気持ちはとても嬉しい、と弁解しておいた。それがどうやら真面目で素朴な人柄とでも捉えられたらしくかえって僕の株は上がった。
 僕はクラスでも部活でも、特別親しい友人をつくることはなかった。誰かの家まで遊びに行ったり休みの日に誘い合わせて街へ出たりも一切しなかった。僕と連中の間には透明な膜があった。きっとその中には有馬や吉村と過ごした時間が溶けて混ざっている。暇な時間はすべて勉強と筋力トレーニングに充てた。明確な目標や向上心があるわけではなく、単純に他にすることがないからしているだけだった。テレビなんか観たくないしこれまで大好きだったテレビゲームもすべて幼稚でつまらないものに思えた。時々、有馬だったらこんなときどうするだろうと考えた。有馬がもし高校生になっていたら、今の僕と似たような感じだったのではと思うこともあった。有馬のことを心配したりしなかったし、今頃どうしているか気にもかけることもなかった。僕はただ有馬という概念を知っているに過ぎなかった。
 秋になる頃には有馬のことはもう思い出さなくなった。代わりに有馬がつくりだした神様や、魂のレベルを高めるために行う儀式のことが頭に浮かぶようになった。それらは次第に頭から離れなくなり、やがて二次方程式を解いているときも腹筋をしているときも、マリア様の顔を備えた奇妙な植物みたいな下手くそなイラストが意識の片隅に常にあるようになった。マリア様のことをよく知っていたわけではない。どこかで似た顔を見た気がしてなんとなくそう思っただけだ。クラスの他の連中がカラオケに行ったりテレビゲームをしたり恋愛に興じたりしている間、黙々と勉強やトレーニングをしている僕でも、魂のレベルとやらは高まるのだろうか。壁にできた染みが広がっていくみたいに、そんなぼんやりとした疑問が日々じわじわと大きくなっていった。生活の中に物足りなさとか倦怠感を覚えているわけではなかった。染みはいつしか生活の一部と言っていいくらい身近で自然なものになっていた。
 ある日何気なく、魂のレベルを上げる方法をパソコンの検索で調べてみた。だいたいのことはそれで分かるはずだった。インターネットには世界中の脳味噌が連結されている。検索で上位に表示される情報は皆から支持されている真実だし、表示されないということはそもそも存在しないのだ。検索エンジンのことを神様と呼ぶ人がいるけど、あながち間違っていないと思う。僕は検索エンジンの数字以外、真実を知るすべを持たない。そういう仕組みがいつの間にか完成している。
まずは「儀式 魂」と打ち込んでみた。ゲームや冠婚葬祭、それに新興宗教のページが出てきたが僕の欲しい情報をうまく見つけることはできなかった。僕が知りたいのは、魂には段階があるのか、もしあるとすれば段階を上げていくにはどのようにすればいいのか、ということだった。一つだけそれらしいページがあって、人間の構成要素は肉体に縛られた三次元だけでなく、さらに四次元と五次元の世界があると書いてあった。しかし自力で段階を上げる方法は載っていなかったし、五次元世界がどういったものなのか全く想像もつかない。キーワードを変えて検索してみたが何度やってもいまいちだった。「儀式 修行」に加え「宗教」で検索してみると、ようやく近いものが出てきた。
 それはキリスト教のページだった。懺悔、ミサなどの説明が出てきたが、魂とどう関係があるのか分からない。次に「修行 キリスト教」で検索すると、ついに具体的な儀式、修行の説明が出てきた。しかしその内容は僕が想像していたのとかけ離れたものがほとんどだった。僕はゲームのレベル上げみたく修行を繰り返せばどんどん優れた人間になっていくイメージを持っていた。しかしキリスト教のページには、人間は取り返しのつかない罪を生まれながらに持っており、いくら修行しても完全に救われないと書いてあった。深い信仰を持ち、ジーザス・クライストに選ばれることによってのみ人は救われるという。修行は必ずしも必要ではないらしい。
 このことは僕にとって大きな驚きだった。まず、人がみな生まれながらに大きな罪を背負っているだなんて、いったい何の嫌がらせだろうか。僕たちはレベル1の状態から始まるのではなく、マイナスから始まるとでもいうのだろうか。それに、修行は必要ないなんて本当にそんなことがあるのだろうか。教師も親も、事あるごとに努力の大切さを僕らに教え続けた。努力しても報われないことがあるのは知っている。だけど基本的には、努力すれば高い確率で見返りを得ることができるのだし、ある時点で目的を達成できなかったとしても努力の功績によって別の道が開けてくると僕は信じていたし、僕だけではなく他の奴らも同じように信じているはずで、それは世界の法則、曲げようのない定理のようなものだった。信仰は努力より尊いということだろうか。
 他の宗教についても調べてみた。キリスト教に比べれば、仏教やヒンドゥー教における修行の方が僕のイメージには合致していた。すればするほどレベルが順調に上がっていく分かりやすい構造のように思えた。しかしそこでの修業とは、何かを得るためのものではなく、逆に欲望、執着などを一つ一つ失っていくためのものであり、それで人間は仏だとか解脱だとか、要するに究極の姿に近づくらしい。僕は修業とは技術や知識、今持っていない何かを手に入れるためにするのだと思っていた。だが究極の姿になるには今持っているものを失なう必要があるという。
 どうやら僕は、修行という言葉に対する認識を改めなければならないようだった。それが本当なら僕が毎日していることに一体何の意味があるのだろうか。また、救済や解脱など、人が行き着くべきゴールには様々なものがあるらしかった。それを分かりやすく表しているのが、それぞれの宗教における神だ。有馬の神様はどんなゴールを表していたのだろうか。マリア様みたいな顔は笑いもせず静かに目を閉じ、何かに耐えているような、あるいは、神聖な仕事を粛々とこなしているかのような表情を浮かべていた。
 それ以上検索しても有益な情報は見つけられなかった。だが重要な糸口を掴んだ気はしていた。家にある辞書や分厚い百科事典にも一通りあたってみたが、インターネットで得た範囲を超える情報はなかった。むしろそれらの情報は一つ一つが独自に完結していて発展性がなく、不親切だという気がした。どれも容赦なく完成されていて僕は一切口を挟むことができないのだ。それらは家の中でさも重要な地位を占めているかのように堂々と鎮座して、誰も手に取ることがなければ更新されず古くなるばかりで埃が積もり朽ち果てていくだけの存在のくせに、決定済みのものを押しつけるだけで僕の疑問には答えてくれない。僕はたとえば、異なる神々の矛盾している部分や共通している部分を有機的に結び付けるための情報や視点が欲しかった。そうして憂いに似たマリア様の表情の意味に近づきたかった。
 僕は仮病を使い部活を休み、図書室へ行った。十二月のことだった。入学したての頃に一度案内されただけで訪れるのはほとんど初めてだった。照明がついているのに薄暗く、天井や壁や机、すべて陰気な感じがした。貸出カウンターで当番の生徒がこそこそ喋っている声以外、何の物音もしない。窓の外、運動場の方から野球部がバットでボールを打つ音やサッカー部の掛け声なんかが時折聞こえてくる。机には数名の生徒が座っていて、勉強したり本を読んだりしていた。いかにも常連という感じで、もうずっと毎日同じようにしているみたいだった。僕に注意を払っている奴は誰もいなかった。どいつもこいつも友達が少なそうな青白い顔をして、まるで異世界からやってきた図書室の番人だという感じがした。人間というより妖精と言われた方が納得できた。ここは確かに学校の中だけれど、他のどこからも遮断された空間で、異なった時間が流れている。そう思った。
 長い間うろうろして、宗教関連の本棚をやっと探し当てた。照明がよく当らない隅の方、陰気な空間の中で最も陰気な場所にそれはあった。適当に五冊ほどピックアップして、妖精たちに交じり僕も机に座った。机に重ねられた本は、手で持っていたときより重いように感じた。僕はそれまで図書室や図書館へ行ったこともなければ、漫画以外の本をろくに読んだこともなかった。
 最初に開こうとしたのは聖書に関する本だった。いかめしいタイトルの下に聖母マリアの顔が大きく描かれており、口の端を持ち上げやさしそうに微笑んでいた。僕はそれを開かず、そっと脇によけた。あとで読もうと思っていたのかもしれない。とにかく微笑んでいる聖母マリアを脇に置いたまま別の本を読み始めた。どれも難しい漢字が多く文章も分かりにくくて、一ページ読むのに相当時間がかかった。全部読むのは諦め、パラパラめくりながら拾い読みしたり、目次を見てから参考になりそうな部分だけ読んだりした。苦痛ではなかったが楽しくもなかった。黙々と作業を続けるうち妖精たちがぽつぽつと帰り始め、外も暗くなってきた。やがて図書室に残っているのは僕だけになった。当番の生徒が帰り支度を始める気配を感じたので本を棚に戻し、空手部の連中と鉢合せないように注意しながら学校をあとにした。
 少なくない労力のわりに成果は全くなかった。検索で得られた情報とは異なる情報、深く突っ込んだ情報が書いてあるような気がしたが、結局同じことを違う表現を用いて書いているようにしか読めず筆者の意図を汲み取ることもできなかった。そして釈迦は釈迦であり、マホメットはマホメットでしかなかった。次の日も、また次の日も図書室に行って同じことを繰り返したがやはり進歩はなかった。
 部活をサボり続けるのもそろそろ限界だった。やり方が悪いのかもしれないとも考えたが、あと一日だけ続けることにした。しかし最終日も収穫は得られそうになかった。図書室に置いてある本に書かれている宗教はすべて過去のもので、僕が生まれるよりずっと昔に完成し、そこで完結しているのだ。
 微笑んでいるマリア様の本は、毎日本棚から席まで持って行ったが一度も開いていなかった。僕はマリア様が何者かなんて知らないし信仰心もないけれど、何かしら心惹かれるものがあった。マリア様の顔を見ると僕の懐に吉村の面影が突風みたいに入り込んでくる。すぐ頭から振り払っても懐かしい温もりが僕の中に残った。
 僕はとうとうマリア様の本を開いてみた。ヘロデやらサロメやら、聞きなれない固有名詞が出てきては、誰が誰を憎んだとか、殺したとか、国をつくったとか、短いエピソードがつづられていた。他の宗教の教典とは違い、聖書とはどうやら短編小説集に近いようだと感じた。それぞれの話には何かしら重要な示唆が含まれているのだろう。信仰を持つ人にとってはありがたい話かもしれないが、僕には全然理解することができなかった。号泣できるという触れ込みで流行っている映画を観て、いったいどこで泣けばいいのか見当がつかなかったときみたいに取り残された気分になった。しかしページをめくり続けるうち、ある単語が僕の視線を捉えた。それは「奇跡」という単語だった。
 ジーザス・クライストと呼ばれる人は、触れるだけで病人や盲人を癒したり、自在に食べ物やワインを出したりできたらしい。それは奇跡と呼ばれている。本当なら確かに奇跡としか言いようがない。だけど現実にそんなことはありえない。世界的に有名なジーザス・クライストが実は手品師だったということはないだろうし、きっと「奇跡」は何かを象徴しているのだろう。「奇跡」という単語は知っていたけど、それはテレビ番組や漫画の中で比喩として用いられる言葉であり、実際に身の回りで起こるものではないという気がした。もし奇跡が起こるとしたら。テレビの中や地球の裏側や過去や未来ではなく、現在の僕の周囲で起こるとしたら。それはにわかに信じがたい荒唐無稽の出来事ではなく、なんとかぎりぎり信じられる範囲の何かだろうと思った。「奇跡」は何らかの形で、僕と有馬の神様を結び付けてくれるに違いない。
 しかし僕の期待はすぐに裏切られた。ジーザス・クライストと呼ばれる人が、死者を蘇らせたという記述が目に入った。そんなことは現実からあまりにかけはなれている。ラザロの蘇生というエピソードとその解説を僕は丹念に読んだ。そうして僕はキリスト教における「奇跡」の意味を理解した。実際に起こるにせよ比喩的に起こるにせよ、それはジーザス・クライストを心から信じる人のもとにしか訪れない。「奇跡」は信仰とセットであり、切っても切れない関係だからだ。信仰を持っていれば遠い未来だけでなく現世でもこんなにいいことがありますよ、というわけだ。結局あれか、アメとムチのようなものか。僕は胸の中で吐き捨てるようにつぶやいた。信者が道半ばで挫けてしまわないように心をつなぎとめておくためのご褒美というわけだ。
僕は落胆し、眩暈を感じる一歩手前みたいな状態に陥った。ここらへんが潮時と思い、荷物をまとめて立ち上がった。この数日間は一体何の意味があったのだろう。明確な収穫は一つとして得られていない。「奇跡」を信じてみたいと思った。僕は今のところジーザス・クライストと呼ばれる人に興味は湧かないし信仰を持つ気もない。それでも「奇跡」を信じたい。僕は行き詰っていた。それしか手がかりがないのであれば、せめてもう少しだけすがりたいと思った。
 だからマリア様の本を借りていこうと思った。例によってもう妖精たちはいなくなっており、図書室には僕と当番の生徒の二人しかいなかった。すっかり日は暮れていて窓の外は真っ暗。蛍光灯の音が天井から聞こえてくるくらい静かだった。
 当番は初日からずっと同じ子だった。赤いセルフレームの眼鏡をかけた小柄な女の子。本の借り方はよく分からないので、カウンターの前でしばらく佇んでいた。本を抱えていれば向こうから声をかけてくれるのではないかと期待したが、彼女は熱心に分厚い本を読み続けていた。タイトルも長ったらしくて少なくとも小説ではない、今の僕が逆立ちしたって二ページも読めそうにない難しそうな本だ。きっと変わりものなんだろうと思った。図書館の住人は、妖精か変わり者のどちらかなのだ。
 ときどき人差し指で眼鏡を押し上げながら彼女はページをめくり続けた。小動物みたいに小さな手の爪には、透明のマニキュアが塗られていた。履いている上履きの色で僕と同じ一年生だということが分かった。僕は仕方なく彼女のことを頭のてっぺんからつま先まで観察した。髪型はショートカットで、張りのある綺麗な黒髪、肌の色素は薄く、瞳はどんぐりみたいに丸い。手足は華奢で高校の制服さえ着ていなければまだ中学生だとしても納得がいく。腰なんか僕がちょっと蹴りを入れたら簡単に折れてしまいそうだった。だが文字を追っている真剣な目つきは、身体のパーツの印象とはアンバランスなほどに大人びていた。
 一向に事態が進展しそうにないので、僕はさらに一歩前に出てカウンターの上に本を置いた。すると彼女はちらと表紙に視線を向け、一言も発しないまま横の木箱をまさぐり、慣れた手つきで一枚のカードを取り出した。
本を借りるには個人の図書カードが必要で、木箱にそれが入っている。彼女が取り出したカードを見て、僕は驚いて息が止まりそうになった。そこには僕の名前が書かれていた。彼女はやっと顔をあげ、僕の目を真っすぐ見ながら言った。

 「あなたは奇跡を信じますか?」
 
それが僕の聞いた、木村優子の最初の言葉だ。僕が知る限り最も偉大な女の子。おどけた口調でもなく、芝居がかってもいなかった。あくまで自然に彼女はそう口にした。浮かんだ言葉が何にも邪魔されず滑らかに口から出たようだった。警戒心よりも、見透かされたような気味の悪さが先に来た。しかし僕を見つめる瞳はあくまで誠実である気がした。
 「どうして?」
 僕はそんなふうに聞き返すのが精いっぱいだった。間抜けな僕を見て木村優子は笑った。はじめは我慢しようとしていたけれど、やがてお腹を抱えて図書館じゅうに響き渡るような大声で笑いだした。誰か他にいやしないかと思ってひやひやした。豪快で、不遜で、まるで私がこの図書館という王国の主だとでも言わんばかりの笑い方だった。そして実際にそうだった。彼女の声が響き渡る図書室は、もう薄暗く陰気なだけの場所ではなく、気高い静謐さのようなものが生まれていたのだ。僕には、なんだかこんなくだらないことが、まるで一種の儀式だという気がした。
 「ごっめんごめん、あんまりマジな顔してるからさあ。どしたの? 何か悩んでるのかなあ」
 彼女はまるで別人みたいに砕けた感じで言った。
 「きみきみ、ずっと来てたでしょ? ここ最近。まあまあ格好いいし、目をつけてたの。だってそうでしょ、毎日毎日図書館にくる奴なんてウジ虫だらけよ。男も女も白痴じみたニキビ面ぶらさげて、山羊に食わせたほうが幾らかマシなんじゃないかって位くだらない本読んでるのよ。自習なんか、さっさとお家に帰って堂々とやんなさいいってあたしいつも思うのよ。この気持ち分かる?」
 木村優子は、高くて舌足らずな、いわゆるアニメ声を用いて喋るのだった。意識してやっているのが分かるくらい露骨に。運動部に入っている子や学年で三本の指に入るくらいの美人は決してそんな喋り方をしない。慣れないうちはいささか鼻についたし、時には卑屈な印象を受けることもあった。だけど実際には、木村優子に卑屈な部分などなかった。彼女の精神は高潔そのものだった。加えて聡明だったが、不器用さを完全に払拭することはなかった。高潔で聡明な精神を抱えてゆくための処世術として木村優子は、まるで一枚の奇抜な柄をしたストールを羽織るみたいに愚かしさを一つ加えたのだ。
 「ああ、分かるよ」
 「嘘だにゃあ、全然分かってないにゃ」
 木村優子は語尾を伸ばし甘ったるい表情を浮かべながら、ちょっと身をすくめたようにしながら上半身を横に揺らした。上目遣いの瞳は潤んでいるように見えた。僕はからかわれているのだろうか。それともこいつは、何かを僕に伝えてくれるのだろうか。肩をすくめながら甘えたような顔をして、僕が口を開くまで体を揺らし続けていた。第一印象が持っている幼稚さをさらに強調し、自分のキャラクターを押しつけようとしていた。
 「なんで俺の名前、知ってるの」
 「あなた背高いし、一度顔を覚えたら結構目立つよ。……うん、改めて見てみると、まあまあじゃなくてかなりイケてるんじゃない? もてるでしょ? 彼女さんとかいるのかにゃあ」
 なんて遠慮のない奴なんだろうと思った。そういった類の話に巻き込まれたことがほとんどなかった僕は恥ずかしさで冷静さを失いそうだった。侮辱されたとすら感じ、さっさと立ち去りたい衝動に駆られたほどだった。
 「いないよ、そんなの。毎日忙しいし」
 「ふうん」
 彼女は意味ありげにそう言って、僕の顔をじろじろ見つめた。今度はまたちょっと真剣な顔で。木村優子はそんな風におどけた気分とそうでない気分をころころ切り替えるのが得意だった。
 「本、借りるならカードに書いてちょ」
 そう言われ木箱の横に置いてあるオレンジ色の鉛筆をつまみあげると、先端がほとんど潰れてしまっていた。彼女は僕の手から鉛筆を取りあげ、後ろの棚に置いてある削り機にかけてくれた。随分古い型でハンドルを手で回すタイプのものだ。
こりこりという小気味良い音がたちはじめた。音が空間に反響し、図書館の広さを改めて思い知らせてくれた。古い柱時計みたいにノスタルジーをかきたててくれる響きだった。彼女の後ろ姿は子供そのものだった。身長は百五十センチあるかないかというところで、腰にはくびれもなくお尻も小さい。背中や肩は薄くていかにも頼りなさそうだ。僕は鉛筆削り機なんて小学校以来使っていないし、家にあったのは電動だった。だからなのかもしれないが、削り終えるまでに結構長い時間がかかるものだと思った。
 出来上がった鉛筆を何も言わず僕に渡してくれた。こんなことで感謝されるなんて思ってもいないかのように事務的に。削りたての木は新鮮な色をしていて、鼻を近づければ青臭い匂いが立ちのぼってきた。芯の先端はちょっと触っただけでも折れてしまいそうなほどシャープになっていた。
 「ありがとう。すごく上手だね」
 「何が?」
 「鉛筆、削るの」
 「そう? 初めて言われたッス。誰だってできるっしょ、こんなの」
 僕は本の題名をカードに書いた。見る見るうちに鉛筆の先が丸くなっていく。シャープペンシルにはないその感覚を味わうようにゆっくり丁寧に手を動かした。
 「聖書に興味あるの?」
 「まあ、何も知らないけど」
 「かなり熱心に調べてみたいだけど、そういう宿題でも出たのかにゃ?」
 「いや、違う」
 「親か友達がキリスト教徒とか?」
 「別にそんなんじゃないよ」
 「じゃあ、あなた奇跡を信じる?」
 「どうだろう、さっきその部分を読んだけど、現実にはありえないんじゃないかな」
 「腕、すっごい太いんだね。触ってもいい?」
 言い終わらないうちに、木村優子はもう僕の二の腕に触れていた。筋肉にはまあまあ自信があった。トレーニングをすればするほど僕の体は膨れ上がっていった。とは言え体育館の隅っこでベンチプレスをしてる陸上部の根暗野郎みたいに見た目だけの無駄な筋肉が付いているわけではない。器具に頼ったトレーニングでは実戦で役に立つ筋肉は付かないのだ。興味を持つのは構わないけれど、こんなふうに女の子に触れられるとひどく照れた。
 「なにか部活してるの?」
 「空手部だよ」
 「殴りあったりするの? えいや、とか言って」
 「流派によってはね。学校でやってるのは寸止めっていって、実際には当てない。空手が普及して近代化していく過程で、一旦そういうことになったんだ。空手は一撃必殺だからいちいち当ててたら命がいくらあっても足りないってさ」
 「怖い。野蛮なのね」
 「でもそれは迷信のようなもので、一撃で致命傷なんてまずないよ。時代が進むにつれ、実際に当てるようになった流派もあるけど、あまり好きじゃないな。一度ビデオで見たことがあるけど、だらだら殴りあってばかりでスピード感がないんだ。ある意味そっちの方が野蛮な気がする」
 「あたしが知ってるのもそれ。外人もたくさんやってるよね。ねえ外人ってさ、あの柔道着みたいなのとか、黒帯とか、全然似合ってないよね。馬鹿みたい。やってる方もやらせてる方も」
 「そろそろ、やめてくれないかな」
 「え、何を?」
 「手を降ろしてくれると助かるんだけど」
 木村優子は僕の上腕三頭筋の盛り上がっている部分を執拗に撫で続けていた。ゆっくりしたストロークで何度も何度も。慣れてくると心地よさも感じられたが、こそばゆい感覚の方が大きかったし、何よりいい加減恥ずかしかった。
 「ねえ、あたし鉛筆削りだけじゃなくて、他のことも上手かもしれないよ」
 おどけた口調でそう言って、悪戯っぽく舌を出した。僕は彼女をもう一方の手でやさしく払いのけた。特に抵抗もしなかった。その間、僕の手と木村優子の手が触れ続けた。彼女の手の甲は温かくもなければ冷たくもなかった。
 「聖書とか、あたし結構詳しいんだよ。ねえ一緒に帰ろうよ、色々教えてあげる」
 僕はいささか奇妙なやり取りの中で、木村優子に対し親近感を抱いていた。きっと二人は、クラスや部活の仲間と話すよりももっと深くて広い事柄について、ざっくばらんに語り合える仲になる予感がしていた。だから彼女ともっと親しくしたいという思いはこの時点ですでにあった。しかし一緒に帰ろう、という響きは高校生の男子にとってあまりにも甘く、このときの僕も例外ではなかった。以前女の子に告白されたときと同じ浮足立つような感覚が体の中で湧きあがった。恋や、恋に似たようなものに自分が巻き込まれつつあるのではないか、という淡い実感。女の子とまだ手も繋いだことがなかった僕は、心を揺らさないわけにはいかなかった。しかしきわめて理性的に僕は答えた。
 「そうだね、君ともっと話がしたい。だけど今日は無理だよ。もう部活が終わる時間だろ。部活を休んだのに女の子と一緒に帰ってるのがばれたら面倒なことになる」
 木村優子は、周りに誰もいないにも関わらず内緒話をするみたいに声をひそめて言った。
 「別にいいじゃん。真っ暗だし誰にも分かんないよ」
 思わず僕も小さな声になった。二人の顔の距離が、自然と近くなる。
 「放課後は、いつもこの時間まで学校にいるの?」
 「当番じゃないときはさっさと帰っちゃう。でも部活が終わるまで、待っててあげてもいいよ」
 僕たちは次の日、部活が終わった後に落ち合って一緒に帰る約束をした。女の子とそのような約束をした事実は様々な想像を掻き立てた。そしてその想像を、僕は律義に一つ一つ打ち消していった。彼女だって僕のことを友達とみなしているはずだ、と。彼女は僕の疑問を解く手掛かりを与えてくれると言った。自分の部屋に戻ると、借りた本を机の上に出してみた。マリア様は相変わらず優しく微笑んでいた。僕は読まずにそれを本棚にしまった。
 僕は高校生になってから風邪一つひいたことがなかったし、休日家にいてもやることがないので学校へ行き一人で自主トレーニングをしていた。部活に久しぶりに出ると、自分が下手になり周りが上手くなったようで、変な気持ちがした。しかし鈍った勘を取り戻すのに時間はかからなかった。練習は半分以上が毎日毎日まったく同じメニューだ。立ったままで基本の突き、受け、蹴りを行い、次に一歩ずつ移動しながら同じ動作をする。最初の柔軟体操もみっちりやるので基本練習を終えるまでにゆうに一時間以上かかる。移動は前屈立ちで行い常に中腰をキープしなければならない。辛くなって腰が上がってくると注意される。筋肉が震え出そうが石みたいに固く冷たくなろうが歯を食いしばって耐えねばならない。それは足腰の鍛錬のためだし、足場を固めていないと実戦では転ばされて即負けを意味するからだし、正しい下半身の動きは上半身に伝わって突きの威力を倍増させるからだ。足の運びや腰の位置だけでなく、背筋が伸びているか、腕が真っすぐ前に出ているか、拳の捻りや握りは適切か、顎が突き出ていないか、など気を付けるポイントはあまりに多い。
 だから反復練習によって体に叩き込まねばならないし、一方では何故この部分はこのような動きをするべきなのか、考えて納得しながら取り組まねばならない。毎日繰り返しても飽きることはない。
はたから見れば一か月前と今日の僕の動きは同じかもしれないが、真面目に練習すれば自分で違いを感じることができる。これまでにない新しい動きをしているのに、まるで自分があるべき場所に帰ってきたような気分になる。過程は多少複雑でも、それは単純極まりない快楽だ。没頭するとどんなことでも忘れる。ずっと気がかりだった木村優子との約束も、練習中はまるきり頭から飛んでしまっていた。そうして図書館へ通っていた間のブランクをしっかり取り戻したという実感を得ることができた。何箇所もネジが緩んでしまい微妙に歪んだ全身が、練習しているうちに一本ずつきりきりとネジを締められ、元に戻っていくような気がした。そうして僕は、理想の自分という誰も会ったことがないはずなのに空手を学んだ者なら誰もが思い出すことのできる不思議な存在へまた一歩近付けたと思い、満足だった。
 部活を終えると、校内に人の気配がほぼ絶えるまで用心深く待ち、僕は彼女と落ち合った。夜の闇の中に自分を待ってくれている女の子がいるのというのは不思議な気分がするものだ。実際に会うまで本当に待ってくれているのか自信が持てなかった。そして会ってみると急に胸がドキドキしてきて、自分が緊張しているのが分かった。だが木村優子の方は緊張などまったくしていないようだった。聖書など全然関係ない話をしながら肩を並べて歩いた。
とりとめのない話をした。お互いを知るため、あるいは沈黙を避けるためのようなどうでもいい会話を。緊張はすぐにほぐれた。つい昨日会ったばかりという感じはしなくて、うんと昔からの知り合いだという気がした。
お互いの生い立ちとかは言わなかったし聞かなかった。きっと彼女も僕と同じように冴えない中学時代を送ってきたのだろうという想像はついた。木村優子の歩幅は狭いので僕は注意して歩かねばならなかった。また、間の抜けた相槌を打ってしまわないように気を遣った。木村優子とは、他の連中と違って透明の膜を通すことなく接することが出来た。ありのままの自分というより、何か新しい別の自分が現れたような気分だった。
 「ねえ、アダルトビデオって観たことある?」
 唐突に彼女はそう言った。そのような会話は男子の間では頻繁になされていたし、女子の中に躊躇なく参加してくる者がいることもよく分かっていた。あるよ、と僕はそっけなく答えた。無駄に大きなリアクションをしてしまうのは避けたかった。性的な経験やそれに対する免疫の多寡で木村優子に侮られたくはなかったし、話題を制限してしまうのは好ましくないと思ったからだった。
 「レイプものってあるでしょ。女の子を犯すやつ。犯すという言葉には、法を逸脱するとか罪をつくるという意味があって、女の子が犯されるということは同意なしに無理矢理やられてしまう、つまりレイプされるって意味なのね。だけど実際には台本があって、あらかじめ女の子は犯されることに同意している。報酬だって受け取る。これは真実のレイプではないわね」
 「実際にレイプしてしまえば、商品として流通するのは難しいだろうね」
 「だけど真実のレイプを収めたビデオは確かに流通している」
 あたりはしんとしていて、遠くのほうでときおり車のヘッドライトの灯りが浮かんでは消えた。空にはオリオン座があり、星の一つ一つは豊かにまたたいていた。空気は草の匂いをはらんでいた。枯れた草ではなく、青い草の匂いだ。
 「違法なものではなくそこらへんの店にも堂々と置いてあるわ。インターネットでも普通に見れるわよ。それがどんなものか分かる?」
 僕は答えなかった。代わりに鼻から大きく息を吸い込んで、冬の夜道の匂いを嗅いだ。
 「それはね、とても汚ならしい男が出てくるビデオなの。たとえお金のためだろうと、いくら自分の仕事にプライドを持っていようと、こんな男とは交わるどころか指一本触れたくないし、同じ空気も吸いたくないと思うような、不潔で醜くて知性のかけらもないような男が女の子の相手をするの。女の子はどんな男が相手なのか、あらかじめ知らされてはいないのね」
 「残酷だね」
 「残酷もへったくれもないにゃん。これぞ企業努力というやつなり。一体、何が起こると思う? 女の子はもう、わんわん泣きわめくわよ。できることなら視界に入るのもお断りってレベルの男に体じゅう触られて、服を脱がされてキスされ、いやらしいことをされて心から絶望する。事前に渡された台本の通りであるにも関わらずね」
 僕はそれを想像してみた。思いつく限りでは、中学校近くの川べりでたまに見かけたホームレスが適当であるように思えた。もちろんホームレスである必要はない。家を持ちスーパーに買い物に行くような奴の中にも、腐った魚のような眼と体臭を持つ男はいるはずだ。この場合要求されているのは、存在それ自体の不気味さも含めた容赦ないほどの不快感であるに違いなかった。
「それを鑑賞するとき、私たちは女の子を二重に犯すことができる。ディスプレイの中にもう一つ見えない枠があるかのように、同時に二つの方法で女の子を犯すことができる。一度目は、レイプされる物語という虚構によって。二度目は、絶対にやりたくないのにやられている、という現実によって」
 木村優子の展開する論理には一片の曇りもないように思えた。彼女はそれを、なんら奇異なことでもなく、とりわけ時間を割くことでもないというふうに淡々と話した。さっきまで交換していた他愛もない情報――教師の悪口、好きな食べ物――そんなものと同じか、ことによるとそれ以下であるかのように。図書室のときと同じく僕らは二人きりで話をしていた。木村優子が投げかけてくるのは、あまり第三者には聞かれたくない異様な会話ばかりだった。もし二人きりでないとしたらきっと僕はあんなに落ち着いていられなかった。彼女は気にしないだろう。僕は小心者の常識人だった。それは木村優子の存在があって初めて気づく事象だった。僕は彼女とこんなふうに、もっと話がしたいと思った。
 「こういう話、興味ある?」
 木村優子はおどけた調子で、子猫みたいに舌を出して言った。こんなはしたない話をしてごめんなさいね、というニュアンスが含まれているように僕には感じられた。
 「うん、すごく興味あるよ」
 それを許すという意味も込めて僕は笑顔で答えた。僕はあまりに無知で、無邪気すぎた。勉強が少しできるからって調子に乗っていたのかもしれない。学校の勉強が一ミリも役に立たないフィールドがあるということにもう少し早く気付いておくべきだった。あるいは女の子と二人で冬の星空の下を歩くというシチュエーションに酔っていたのかもしれない。とにかく僕はこの時点で、木村優子という存在が将来にわたって僕に与えうる影響の大きさについて自覚的であるべきだった。もっとも自覚できたとして、それで何かが変わったかと言えば甚だ疑問ではあるのだが。
 彼女はとても嬉しそうにこんな風に言った。
 「じゃあ、君、あたしの信者になってよ」
 こうして僕は、修行を開始したのだ。

 あたしは教祖になるのが夢だった、と木村優子は言った。僕は納得し、何も言わず歩き続けた。彼女から次の言葉は出て来なかった。どうやら木村優子は、今日のところはもう満足したようだった。重苦しい沈黙ではなかった。そのうちお互いの帰り道の分岐点に差し掛かかった。もうかなり暗いから家まで送ろう、と僕は言った。
 「ありがとう、やさしくしてくれて。だけどだめよ。あたしこれから一人で歩きながら、あなたに伝えなくちゃいけないことを頭の中でまとめるの」
 毅然と言い放った彼女の肌は星の光を蓄えているみたいに白く、薄い肩や胸はどこか儚げな印象だった。下心ではなく友情のしるしとして、僕は彼女を是非とも家まで送り届けてやりたくなった。
 「気持ちはすごくうれしいけど、この交差点を一緒に渡るのは、あなたに教えることが何もなくなったときだぴょん」
 今にして思えば、この日は木村優子にとっても大きな転機であったに違いない。それから僕は毎日彼女と一緒に下校し、彼女の教えを拝聴するようになった。彼女の頭の中にはすでに独自の教典があり、万物を司る法則があり、それらを具体的に伝えるための『説話』があった。はじめは冗談半分だと思っていたが、次第に彼女が真剣だということが分かってきた。もうずっと前から、木村優子は教祖になる準備をしていたのだ。
 第一に理解せねばならない重要な教えは、他でもない「二重に犯す」ということだった。まだうまく理解できないのであればいったん次の過程に進み、後でまた戻ってくればよいと木村優子は言った。彼女の『説話』とはたとえば次のようなものだった。
 「あなたは漫画をよく読むわよね。漫画って、まだ物事をよく知らない高校生であるあなたにとっては、人間関係といえば家族と学校の人が全てというあなたにとっては、見聞を与えてくれるというか、世界じゅうの様々なことを教えてくれる重要なツールじゃないかしら。あなたには大好きな漫画について、親しい誰かとざっくばらんに話し合った経験が豊富にあるかな。あるのなら、それは疑いなく幸福なことだわ。誰しも人生の早い段階で、そういう経験はしておくべきよ。そしてこう考えてほしいの。あなたが会ったこともないし意識すらしたこともないあるおばさんが、あなたと同じ漫画を読んで、あなたと同じように感動し、人生観における重要な指針として位置付けている、というのは普通にあり得ることだわ。だってその漫画は、本屋でもコンビニでも駅の売店でもインターネットでも、あらゆる人に対して平等に販売されているんだもの。髪をひっつめにして、お尻なんかパンパンに膨らんで、スーパーに入ったら籠を手にするや否や特売品の棚に殺到するようなおばさんにも、あなたと同じ漫画を手にとって感動する権利はあるんだわ」
 またあるときには、こんなふうに言った。
 「知らないとは言わせないけど『漢字ドリル』ってあるわよね。ほんの数年前までもちろんあたしだってやっていたわよ。今もあるでしょうし、きっと五年後、十年後も小学生はやらされていると思うわ。だけどその頃には『漢字ドリル』ってどんなものになっていることでしょうね。想像したことある? 断わっておくけどいくら時代が変わろうが子供にとって反復練習は必須に違いないわ。そして子供に漢字を教えないわけにはいかないでしょう? 政権が交代しようとどれだけ格差が広がろうと、国家が転覆でもしない限り小学生は『漢字ドリル』をやらざるを得ないわ。そして『漢字ドリル』ってはっきり言って完全に時代遅れだわ。隅から隅までどうやって眺めてみても、戦後だとか高度経済成長だとか大阪万博とかの匂いがするのよね。もしその子の住んでいる街がポストモダン的に洗練された歴史の浅い街で、同じ匂いがなくったって、学校に行けばそれをやらざるを得ないし、来る日も来る日も家に持ち帰るはめになるのよ。つまり、これからの小学生って、絶え間のない緊張感に晒されながら『漢字ドリル』と対峙していかなくちゃいけないんだわ」
 『説話』には、他にもたとえば「自分たちの親同士の関係を推理していく物語」や「最近の漫画はどうして主人公の存在感が相対的に薄いのか」や「人は誰でも三つの宇宙を知っている」というものがあった。聖書のことにはまったく触れなかった。僕がそのことを言うと、私の言うことを真面目に聞いていればそのうち話す、という答えが返ってきた。木村優子は一つの『説話』を終えると、もうこれ以上言うことはないというふうに黙りこくって僕の言葉を待った。別の話でごまかそうとしても許してくれなかった。仕方なく僕は考えてみるのだけれど、特にこれといった感想も、解釈も、気の利いた意見も出てはこなかった。そうして例の分岐点まで来ると彼女はヘッドフォンを耳につけて颯爽と自分の家に帰って行った。同じ『説話』が次の日に再度始まることもあったし、数日置いてからのときもあった。別の『説話』を始めることもあった。
 『説話』が始まるまでは、学校のことや彼女が最近読んだ小説のことなど、普通の世間話をした。僕たちはテレビをまったく観ないという点で共通していた。僕は高校生になるとあらゆる番組に興味が薄れてだんだん観なくなったし、木村優子の家には元々テレビがないらしかった。だから僕たちには共通の話題がほとんどなかったはずだが、二人でいると話題は豊富に出てきた。木村優子は一つの話題を掘り下げていくのが上手だった。どうでもいいようなことでも執拗に掘り下げたり、視点をずらしたり離したり、あるいは近づけたりしながら、例の悪戯っぽい口調になって果てしなく話を続けるのだった。それに付き合うのはとても楽しかった。たいした結論など導きようがないと分かっていればいるほど、一種の知的なゲームみたく旺盛な好奇心をむき出しにする彼女を無邪気なソクラテスのようだと思った。また、この年頃の女の子なら気に食わない先生や同級生なんかには、程度の低い陰口を叩いてはしょっちゅう安っぽい同意を求めたりするものだが、木村優子はそういう場面になるときわめて痛烈で短い軽蔑の念を表明し、すっぱり話題を変えてしまった。不平不満、愚痴といったものも一切なかった。彼女と話をしていると爽快さすら感じられた。それは木村優子が一貫して持っている厳密な姿勢から来ていた。彼女はシビアで、身の回りの物事すべてに対して妥協することはあっても無関心でいることはなかった。
 僕は少しずつ『説話』についてコメントできるようになった。それは積極的に『説話』を自分の内面における重要な事柄と捉え真剣に考えた結果というよりは、木村優子と同じ事柄を考えることによって本質的に彼女に近づきたいという欲求だったのではないだろうか。一方では着実に、僕は彼女の宗教にのめりこみ思索を深めていった。
 『説話』は学校で出される問題とは質的に大きく異なっていた。それについて考えるのは出口のない迷路に迷い込むようなものだった。僕はまさしく迷い込んでしまっていた。荒唐無稽な試みに思えた『説話』は僕の中で重要さを増していき、家に帰ってからも一人で考え続けたし、授業や部活の間にもふと気づけば『説話』のことを考えていた。
 僕のコメントはまったく断片的なもので、木村優子の教えにおける真理とは程遠いものばかりだった。僕がそれを口にするたび、彼女は険しい顔つきになった。そして次の段階へつながるような助言をくれた。助言を聞くたび僕は脳が揺れるくらいの衝撃を受け、目の前に新しい世界が広がった気がして感動した。僕は木村優子の教えに対しとても真摯に取り組んでいたのだ。
 「二重に犯す」というテーマについて何度も何度も考えているうち、俗悪な印象はもはや擦り切れ、なくなってしまった。このテーマは確かに他の『説話』より特別な、一段高い位置にあった。他の『説話』について部分的に理解したことが「二重に犯す」を理解するためのヒントになったし、「二重に犯す」について理解が進むと、他のすべての『説話』の意味が以前よりも明快になった。
 僕がまず気付いたのは、アダルトビデオは鏡のような役割を果たすのではないかということだった。つまり、一人でアダルトビデオを観賞している現代の若者が単純に生理的欲求を満たすのみならず、自らの趣味的な願望を積極的に実現しようとするとき、画面の中には少なからず自己が投影されているのではないか。こう考えると、アダルトビデオだけでなく、現代ではあらゆるものがナルシズムとまではいかないにしても、自己を確認するためのツールとして機能してしまっている気がした。それは僕が生まれるよりは前だがたいして昔のことではなく、せいぜい日本が戦争に敗けて少し経ってから始まっているのだ。そこまで理解すると、僕と同じ漫画を読んでいるおばさんや漢字ドリルをいまだにやらされている小学生のことを何故木村優子がわざわざ『説話』にするのかがなんとなく分かった。
 まったくもって奇妙なやり取りだった。もし僕たちが話しているのを誰かが聞いていたら頭がおかしいと思われただろう。僕だって思い出すだけで恥ずかしい。だけど当時は二人とも真剣だったのだ。『説話』のことを話しているときの二人の関係は、教祖と信者というよりはまるで謎かけの出題者と回答者みたいだったが、僕の方には無知から来る戸惑いがあり、そして彼女の方には積み上げてきた知識や価値観に基づく威厳が感じられた。
 いくら彼女の教えについて考えることに時間をつぎ込んだからといって、僕は学校の勉強や部活をおろそかにすることはなかった。木村優子には何も言われていないが、そうすることが正しい信者の態度だと自分で決めていた。僕の成績は学年でトップクラスだったし、筋力トレーニングをすればするほど体つきは着実にたくましさを増していった。
 また、図書館で読み齧った本から得た知識をもとに、自分なりの禁欲的な生活というものを実践していた。どんな宗教においても、熱心な人は肉を食べなかったり早起きして荒行をしたり、一定期間断食をしたり財産をなるべく持たないようにしたり、生活に何らかの制約を課していることが多いようだった。木村優子に勧められて音楽を聴くようになったけれど、偉大なビートルズのジョン・レノンも菜食主義者だったらしい。制約を設けること自体に意味があるのか、それともやはり個々の制約がもたらす結果に意味があるのか、いつか木村優子に聞いてみようと思っていた。とりあえず僕はジャンクフードを遠ざけたり、生活に用いる道具をなるべく少なくしたりといった身近で簡単に実践可能なところから始めてみた。
 大きな苦しみこそなかったが、着実に何かやっている実感があった。はたから見れば木村優子と出会う以前のたいして特別でもない高校生活をこれまで通り送っているようでも、僕の中で変化はあったし、かつてとは比べ物にならないほど充実していた。これがいわゆる修行なのか、となんとなく思っていた。『説話』で答えのない疑問に苦しむ時間もあったけど、それも楽しみのうちだったし、心理的にはどんな場面でも常に落ち着いていた。それらの変化はすべて僕の教祖、木村優子によってもたらされたものだった。
 だが、僕のささやかな好ましい変化は宗教の世界観、内包している規範などとはあまり関係がなかった。少なくとも自覚することはできなかった。木村優子は教祖たりえるにはまだ未熟だったと言えるかもしれない。なんだっていいから、早い時点で信者の生活と教えとを密接に結びつけておくべきだった。「甘いものを飲むとオナニーするとき感情的になりすぎるから、ジュースなどは飲んではいけません」とか「アダルトビデオは自我と直接リンクするから、再生する前に簡単な儀式を執り行うようにしなさい」とか、でっちあげでもいいからそういうのを提示しておかなければ、信仰は不安定なまま宙ぶらりんになる。あるいはそれが彼女の宗教の特徴かもしれなかった。すべて木村優子の計算の範疇だったのかもしれない。彼女と僕が性交することになったのは彼女の信念が揺らいだせいかもしれないし、そうなるよう運命に定められていたのかもしれない。
 寒さに耐えた土から植物が芽を出し、鳥や動物は発情し始め、ぱりっと糊のきいた制服をまとった新入生が僕たちの学校の門をくぐる頃、徐々に二人の関係にほころびが見えてきた。関係というよりも、木村優子の教祖としての自覚、というべきかもしれない。彼女は生まれながらに教祖だったわけではなく、当時は一介の女子高生に過ぎなかったのだ。
 熱心さが増していき、少しずつ『説話』の意味に近づいていくにつれて、僕は積極的に質問をしたり詳しい説明を求めたりするようになった。彼女は余裕たっぷりに教祖の役を演じていたが、何か考え直すところがあったのか、致命的な欠陥に気付きでもしたのか、次第に自信のなさが垣間見えるようになった。教義に対する彼女の情熱が失われてしまったとは考えていなかったし、今でもそう信じている。
二人の関係は、まるで同じ問題に協力して取り組む共同作業者みたいになっていった。僕は一度も彼女に反論だとか、追いつめるようなことを言ったりはしなかった。信者として木村優子を信頼し礼を尽くしていた。彼女を家庭教師のお姉さん程度に考えていたということは絶対にない。だから迷いながら小さな声で受け答えをしたり、会話をうやむやにしたまま途中で終わらせたり、教祖としての威厳が目減りしていく彼女を残念に思っていた。だけど僕は、あえてそれを無視した。そうなるように仕向けたわけではないが、異常事態に気付いていながら軌道修正しなかった。僕よりも優位に立っている木村優子を密かに支配したいという欲望がその根底にあった。
 「鏡、というのはかなりいいんじゃないかにゃ。目の付けどころとしては」
 ある日、一緒に帰りながら「二重にレイプする」について僕の考えを改めて話してみた。彼女は少し驚いたみたいだった。
 「近代という概念は確かに重要な要素だっちゃ。もう少しヒントをあげようと思っていたけど、わりかし勘がいいんだにゃあ」
 言葉の上では僕を褒めていたが、全体としてはどこか苛立っている様子だった。同じように彼女が苛立つのを僕はずっとそばで見ていた。彼女はおどけた口調になっていつも感情を隠そうとする。僕はそれを、子供が駄々をこねているみたいだと心中秘かに愛でることに優越感を見出していた。少しの想像力があれば幼児体型の彼女を子供だとみなすのは簡単だった。実際の僕は、常に彼女の立場を立ててやる従順な役割を演じていた。
 「要するに、きみのつくりだした宗教は現在進行形なんだろう。テクノロジーが発達し迷信や神秘的なものの価値が変わってしまった現在、教義だとか、宗教がもたらしてくれる救いだとかも大きく変容せざるを得ないというわけだ。だけどもう数ヶ月間考えてきて、僕はまだ何に祈ればいいのかすら分からない。僕はきみの期待する水準まで達していないのかもしれないけど、そろそろ手を差し伸べてくれてもいいんじゃないかな」
 信者として、あるいは大切な友人としての分をわきまえず、立ち入りすぎたことをあえて僕は言った。いい加減この微妙な状態にけりをつけたかった。そして、彼女もそれに気付いたようだった。
 「あなたは、何かに、祈りを捧げたいの」
 「昔も今も、あまりにたくさんの人が祈り続けている。祈り方は様々だけど、僕にはどれも大差ないように見える。祈ることで、ちっぽけな一人ひとりは大いなる存在と繋がっている。そして同じ神を通じて一人ひとりが連帯している。別に僕は今、寂しかったり心細くて死にそうだったりするわけじゃない。だけど何か、心から信じられるものがあればいいと思うよ。きみはジーザス・クライストのことを教えてくれると言った。信じる者は救われるって彼は説いたけど、その意に反して、信じることそれ自体で救われている人も少なくないだろう。僕はジーザス・クライストのことなんてろくに知らないけど、そんなふうに考えている時点ですでに聖書を軽く見ているんだ。きみは『漢字ドリル』の説話をしてくれたね。百年経っても無理だと思われていたことが十年そこらで実現してしまうような時代に、千年以上続いている習慣を同じようにやれと言われても安心するどころかかえって重圧なんだ」
 彼女は僕の独白を冷ややかな眼で見つめていた。口元には怒っているような気配さえ感じられた。だが僕の直感では、その表情の薄皮一枚剥いだところにまったく別の木村優子がいるのだった。僕は興奮してきて、また話を続けた。
 「そうだよ、僕は祈りたい。だけどそれは一般的な祈りとは違った、僕だけの独特のやり方で行われるだろう。僕は祈るべき神を持たないしね。他の人々にとって祈りにあたる何かを、僕は君に向けてしたいと思っている。僕は君の考えていることをもっと知りたい」
 「祈るのはあなたの勝手だわ。この私だってそう。自分のつくりだした神に、自分なりのやり方で祈りを捧げている。跪いたり両手を合わせたりなんかしないし、特別な場所や時間をつくりもしない。千年以上同じように祈り続けている人が見れば、祈ってるうちに入らないでしょうね。そんなの糞食らえよ。あなたが考えていることは間違ってないわ。間違っているのは、同じ神を通して連帯できると未だに思っているような人間よ。一神教なぞファック・オフだわ。人間の細胞なんて二ヶ月もあればすべて入れ替わるし、考えだって日々ころころ変わるでしょう。神様とやらが未来永劫同じ顔をして同じ考えを持っていると考えるのはちっぽけな人間の傲慢でしかない」
 木村優子はおどけた様子など微塵も見せず、戸惑うこともなく、まるで何もかもを知りつくした人のように語り始めた。僕は木村優子の心の扉をちょっぴり開けてしまったと思った。すでに僕たちはいつもの分岐点に差しかかっており、立ち止まって話していた。彼女は二の句が継げずにいる僕の手をふいに取って、僕の家の方向へ歩きはじめた。
 「今日は、たくさんあなたに教えたいことがある」
 そうして話してくれたことは、『説話』の元になっている教義の概要だった。それは二部構成、すなわち古い教えと新しい教えに分かれていた。
 短い言葉でまとめるなら、「世界は終る」というのが古い教えだった。ただしそれがどのような形で起こるのかは誰にも分からない。ジーザス・クライストの言う通り最後の審判が行われ、選ばれた者だけが行ける新しい世界があるのかもしれないし、単純に核戦争によって人類が絶滅するのかもしれない。ある時期まで木村優子は、あらゆる形の「世界の終り」を予想し、詳しくシミュレーションして通し番号を付けて記録していたという。世界の終り、という概念自体が彼女の神であり、祈る対象だった。
 可能性としての無数の「世界の終り」を記録する独自のフォーマットを彼女は編み出していた。パソコンの表計算ソフトを用いた、一部あたりA4用紙換算で十枚を超えるそれは「世界の終り」の予兆から具体的な始まり、途中経過から最終的な状態の描写までを仔細に記す必要がある。辻褄が合わなかったり、原因と結果の因果関係が不十分であったりすれば一目で分かるようになっている。思春期の空想じみた幼稚な発想が入り込む隙間はない。限りなくリアルに「世界の終り」を疑似体験し、記録して残さねばならない仕組みになっている。木村優子はそれを毎日毎日つくり続けた。もはや苦行と言っていいだろう。
 だが、あるきっかけにより、教えは一転して「世界は終らない」になった。第二のキューバ革命やパンデミックを引き金とした世界恐慌、未曾有の世界同時多発大地震や地底人存在説までありとあらゆる可能性を吟味した彼女は、その過程で世界経済や宗教、自然科学に心理学、果てはオカルトと呼ばれる分野に至るまで膨大な知識を吸収していた。それがある日突然すべての可能性を否定し、転向してしまったという。彼女の宗教の根本教義は以下の通りだった。
 「世界は終らない。なぜならすでに終っているし、始まった新しい世界も次の瞬間には終り、とめどなく循環していくからだ。このような変化は人間はもちろんのこと、地球上のどんな生命も感知することはできない。故に、破壊と創造のループがすでに開始してしまった以上、世界は終らないと言ってよい。ただしこれは、世界は終る、という考え方と、ある面では全く違っていてもまたある面では全く同じである」
 僕はその話を聞きながら、全身がぞくぞく震えるのを感じていた。恐怖によく似た感覚が全身を支配し、やがて身体のある部分の変化に気付いた。僕は勃起していた。木村優子の過去という秘密を共有することに興奮したのではない。今になって思い返してみても、彼女が語った根本教義はそれ自体が実にエロチックだ。どこがと言われてもよく分からない。とにかくその言葉というか文章は、木村優子の口から語られ、十六歳の僕の性器を固く大きくした。
 家の前に着いてしまうと、木村優子はまだ教えることがあるからあなたの部屋で話そうと言った。男友達を連れてきたことさえ数年ないのに、遅い時間に女の子を連れてきたら親に何と言われるか分からない。そこで僕は、あの川に向かった。
川べりに腰掛けて話すのが丁度いいととっさに判断したのだろう。有馬のことがあって以来、ずっと避けていたのに。だけど実際には、有馬が儀式を行っていた場所だから僕はそこへ向かったのだ。
 堤防が幅広の階段になっているところに二人は腰をおろした。河川敷には様々な種類の草が生い茂っているが、何も生えておらず土がむき出しになっている部分も不規則に点在している。端の方は水の中から草が生え湿地のようになっていてスポーツはおろか犬の散歩やジョギングにもあまり向いていない。小学生くらいの子供が探検と称して歩き回るには適しているが、あまり安全な場所とは言えない。明るいときに訪れてもどことなく殺伐としていて、横の草むらから突然何かが出てきそうな不穏さが付きまとっている。
暗くなってから落ち着いて眺めたのは初めてだったが、数々の要素が闇に交じって一体化し奇妙な安定感を生み出していた。緩やかに風が吹いている。水際で時折ちゃぷちゃぷという音がする。僕と同じくらいの背丈の草が揺れている。間隔を空けて立っている街灯の明かりが水面に薄く映っている。一種の静謐さがそこにはあった。対岸に河川敷はなくコンクリートで固められており、そちらの方が水の流れは速いようだ。川に沿って密着して住宅地が広がっているが、そこに住んでいる人達は川にまったく興味がないような気がした。
 木村優子が教えてくれた教義のことはよく分からなかった。「世界の終り」が来るなんて考えたことなどなかった。けれどそのとき、僕は少なくとも「世界の終り」という概念を身近に感じる人間の気持ちについてはなんとなく理解することができた。それは寂しいけれど独りでいるのが辛くない場所だ。黒く揺れる水面にあのイメージが見えた。イボイボの付いたグロテスクな植物が巻きついているきれいな女の顔だ。とても懐かしかった。僕はそれに近づきたいと常に願いながら、最近は思い出すこともほとんどなかったのだ。僕は近づくことができたのだろうか、それとも離れつつあるのだろうか。有馬の神様はただ風と一緒になって揺れているだけだった。
 木村優子は言葉を続けた。もうずっと一人で喋り続けていた。
 「もう概念としての神に祈ることはない。終らない世界を認識するのは自己の感覚ではなく、自己そのもの。そして自己も他のあらゆるものと同じように終わっては始まる循環の中にあり一定ではない」
 その切実さは教祖というより、追い詰められた信者という感じだった。僕の隣にいたのは、教えと自らの信仰の狭間で揺れているか弱い高校一年生の女の子だった。
 「世界は終らないのを覚えていることや、自分が自分だと覚えていることはすでに奇跡。その奇跡と循環の環のために、私は祈るの。あなたも祈りなさい。今日あなたに話したことを、勝手に解釈してはいけない。これまでの『説話』から一歩踏み込んだ領域の話をこれからしてあげる。それを通してあたしの考えている通りに解釈しなさい。あなたも祈りなさい。私は私に祈るし、あなたはあなたに祈りなさい」
 木村優子は涙を流しながら話していた。尊敬していた彼女が恥も外聞もなく泣きじゃくるのを見ていると、有馬の神様のイメージは薄ぼんやり霞んでいった。そうしてどちらからともなく抱き合った。彼女の首筋からは汗と石鹸の匂いがした。僕の耳の辺りに彼女の涙が落ちた。木村優子は僕のことが好きなのだと分かった。彼女は全身でそれを訴えていた。
 僕は彼女と同じようには彼女のことを好いていなかった。僕はただ宗教的な神秘感がもたらす高揚感とそれに付随する性的興奮のカクテルに酔いしれていただけだ。純粋な感情もそこにはあった。ただし無知ゆえの純粋であり、若さゆえの純粋であり、まっとうな向上心に裏打ちされた確固たる純粋さだ。当時はそれらの感情の塊が一体何なのかよく分からなかった。木村優子は唇を求めてきた。僕の首筋や頬、口唇の端に小鳥のようなキスを数回行った。動きが一瞬止まったとき、僕は自分から彼女に口づけした。それが舌を絡め合うような激しいものになるのにそう時間はかからなかった。
 川沿いには一軒の廃墟みたいな小屋があった。もうずっと昔からある、使われていない物置のような小さいもので、荒涼とした河川敷に一軒だけぽつんと建っている。農作業用の物置にも見えるが、かつて畑などが近くあったようには見えないので住居だったのかもしれない。猫殺しのこともあり、いくら勇敢な子供でもそこへ足を踏み入れる者はほとんどいない。二人はそこへ入って行った。
彼女はシャツの中に手を入れて僕の厚い胸板や割れた腹筋をいとおしそうに擦ってきた。鏡で見るよりも他人に触られる方が筋肉の隆起をより正確に感じ取れるのだと知った。彼女は至るところを愛撫し、僕にも同じことを要求した。僕はまさか最後まですることになるとは考えていなかった。アダルトビデオなどで何度も観た光景のはずだが同じものだと思えなかった。理性というか、次は何をしようとかこんなことがしたいとか、具体的な意思すらなく、体が勝手に動いて一種の儀式を行っているという気がした。性交をそんな風に感じたのはそのときだけだ。儀式。そうだとすれば、僕は本能みたいなもので行動したのではなく木村優子によって操られていたのだろうか。
 彼女はどうやらすでに経験があるようだった。あらゆる局面で僕を適切に導いてくれた。朽ちた木やカビの匂いがこもった薄暗い場所に衣服や皮膚がこすれあう音、短い溜息のような声が響く。俗悪な要素は一つもなく、神聖きわまりない空気で満たされていた。そうして僕は童貞を失った。
 果てた後、木村優子は跪いて僕のペニスをもう一度口に含んでくれた。傷やあざ一つない彼女の綺麗な膝が汚らしい床に押しあてられ、片手は僕の尻を、もう片方の手はペニスの根元を掴んでいる。音を立てて付着した愛液と精液を丁寧に舐めとり、時には喉の奥まで咥え込んで上下に動かしてくれた。咥えている間にも舌を使うのは忘れなかった。多少冷静さを取り戻した僕は、懸命に奉仕してくれている彼女の顔が幼く清らかであることを知った。適度な張りをもった髪は薄闇に映えるほど美しい濃い黒色をしている。尿道の奥まで抜かりなく吸ってくれたあと、音を立てていとおしそうに何度もキスをした。それで終りかと思えばまた最初に戻って根元から先端まで舐め始める。ペニスはまだ固くて大きかった。いったい、最後まで快感を与えてくれようとしているのか、献身的な気持ちで僕の体を清めようとしてくれているのか、それとも彼女自身が快楽を得ようとしているのか分からなかった。儀式を執り行っているという非現実的な空気はまだ消えていなかった。僕は第三者のような気持ちでその様子を眺めた。僕の上半身や太腿は中学生の頃と比べ見違えるようにたくましくなっており、毎日鏡で見てはいるものの、そのときは別人であるような気分がした。木村優子は小動物みたいなつぶらな瞳で上目遣いに僕を見つめている。その口から桜色の舌が出て、生き物のようにペニスに絡みついていた。大きくてグロテスクな僕のペニスも彼女の顔に絡みついているように見える。有馬、見ているか、俺はお前とは違った形で、神様を見つけたぞ。なあ有馬、誰だって他の者を虐げることはできないし、そうする権利もないんだよ。
 僕はこのとき有馬の気持ちを理解できたと思った。理解したという状態は、相手と対等でない。少年院だか刑務所だかで灰色の青春を送っているかつての優等生に比べ、僕は明らかに上の序列に位置していたから嘘にはならないだろう。有馬の望みは神様という概念と同一化することだった。手垢のついた概念ではなく、形而上学的な意味のきちんとした概念だ。そして自分ではそのことに気付いていなかった。どうしようもない糞野郎だ。木村優子は僕にこう教えてくれたのだ。神はどこにもいないが故に、どこにでも偏在する。すなわち、僕たち一人一人がすでに侵しがたい程神様なのだと。
 以後、僕と木村優子の関係性は大きく変わった。簡潔に言えば肉体を求めあうだけの関係になった。親がいないときは僕の部屋でやったし、週末はラブホテルでもやった。二人で折半すればホテル代を払うのはさほど苦ではなかった。僕は小遣いや貯金の使い道が特になかったし、木村優子の家は裕福らしかった。木村優子は一度も自分の家に上げてはくれなかった。
『説話』や教義の話は一応するけれどお互いにあまり重要視することはなかった。僕たちはひたすら堕落したと表現しても差し支えなかった。あの小屋に行くことはなかった。他にいくらだって場所はあるのだ。毎日毎日やりまくっていた。
 それでも僕は勉強や部活や筋力トレーニングを怠っていなかった。成績は学年で二十番以内に入るまで上がり、部の団体戦メンバーに抜擢され、体格ではラグビー部にもひけを取らないようになっていた。『説話』への興味は薄れていたが、その分本を読むようになった。小説や社会学、その他少しでも興味を持った分野の専門書に次々とあたっていった。クラスメイトや部活の連中とは相変らず最低限しか話をせず、あとは精いっぱい愛想良くしてやりすごしていた。自らつくりだした壁のせいで疎外感を感じていたがそれで卑屈になることはなかった。気に食わないやつも沢山いたが、いざとなれば簡単に血祭りにできるのだと考えれば興味は失せた。目立つようなヘマもしないし、もしかしたら周囲からは何を考えているか分からない奴と思われているかもしれなかった。別にそれでも良かった。宗教の本を読むことはなかった。学校の図書室で借りた本も一度も開くことなく借りっぱなしにしていた。
 木村優子は僕に対して、彼氏としてきちんと付き合ってほしいとかそういった類のことは要求してこなかった。むしろ最初のうち感じられた恋愛感情というやつは日を追うごとに失せていったようだった。毎日のように会ってはたいして中身のある話をするでもなく、快楽を求めあうだけの関係。彼女はそれにのめりこんでいった。会話をはじめとするスキンシップもおざなりになっていった。僕がムードをつくろうとしてもお構いなしにさっさと服を脱ぐ。休日に会うとき、彼女はたいてい黒猫がプリントされたTシャツを着ていた。下着も大体黒で、小柄な彼女が奉仕する姿は確かに猫みたいだった。彼女は自分でコンドームを買ってきて、いつも僕には何もさせず装着してくれた。僕のペニスは標準より大きいらしく作業はいつもスムーズにいかなかったが、面倒くさがらず丁寧にやってくれた。
木村優子が教祖らしさを取り戻すのは、もはやその瞬間くらいだった。迷える子羊に大いなる慈悲を与え、進むべき道を指し示す姿は母のようでもあり父のようでもあった。目を閉じると聖歌でも聞こえてきそうな気がした。それくらいしか、初めて交わったときの神聖さを追体験できる機会はなかった。
 木村優子が僕にとって特別な存在であることは確かだが、この時期、特別さゆえに会っていたのか、それとも性欲を満たすために会っていたのかよく分からない。ただ射精することだけを欲していた。木村優子も同じく射精されることを欲していたのだと思う。回数を重ねるうち様々なやり方を試すようになったのは単に好奇心によるものだった。行為と自意識との間に距離を置いたわけではなく本当にただ性欲を発散したいだけだったのだ。謎かけにはもう飽きてしまったというのだろうか。いや、木村優子は一つの回答を確かに提示したけれど、同時により大きな謎を提出した。少なくとも僕たちの性欲は、何かしら高尚な感覚と結びついていたと言える。だから性交を通じて僕たちは、たとえば祈りのような行為を果たしていたのかもしれない。
 僕はそんな関係性に慣れていった。彼女の声や自分の気持ちにだんだん鈍感になっていった。木村優子が教祖だという意識はあったが、実質的に彼女を支配したつもりになっていて、そのことに優越感を感じるでもなくいたずらに回数を重ねていった。
やがて彼女の側に変化が訪れる。木村優子は僕に対して卑俗な独占欲を発揮しはじめた。学校では接点などなかったし、ごく稀に廊下ですれ違う以外姿を見ることすらなかった。だが彼女の方ではどうやら、休み時間に僕の教室を覗いたり、人づてに僕の評判を聞いたりしているらしかった。そうして彼女の預かり知らぬ時間に何をしていたかとか、クラスメイトの誰誰のことをどう思っているかなど興味を持って聞いてくるようになった。『説話』以外にも彼女とはいろんな話をしてきたけれど、個人的な領域に踏み込むことは今までまったくなかったのに。
 僕は誰にも心を開いたりせず最低限のコミュニケーションをしているだけなので、質問に答えてやることはさして手間ではなかったが繰り返されると鬱陶しかった。聞いてどうするわけでもなく、単に彼女は聞きたがっているだけだった。
一通り僕の周囲についての質問が終わると、今度は家にいるときの僕の生活パターンに木村優子の興味は移った。朝は何時に起きるのか。目覚まし時計はどんなものを使っていてどんな風に止めるのか。家を出るまでどんな順序で食事や着替えやトイレを済ませ、登校中はどのようなことを考えているのか。僕のコピーロボットをつくろうとしているんじゃないかと疑いたくなるくらい詳細かつ執拗に質問は続いた。どうしてそんなことを聞くのか問い正したことがある。僕は携帯電話を持っていなかったが、木村優子はそれが不満らしかった。曰く、僕の生活パターンを体系的に理解しておけば、連絡を取らずとも今頃僕がどこで何をしているか分かって安心するのだと。僕は少しだけ、彼女を安心させてやれないことを申し訳なく感じた。心配される筋合いもなければ安心させてやる義理もないのだがとにかくそう感じた。
もはや『説話』や教義に関する話はほとんどしないようになり、僕のプライベートについての質問で二人の会話は占められるようになった。僕と木村優子の関係性がいささか誠意や一般常識に欠けたものだったとしても、週末も毎日のように会い肌を重ね続ける二人が今までそのような話をしなかったことは問題といえば問題だった。だから一連の試みは、抜け落ちた空白を埋めるためのものだったということもできるだろう。
 「じゃあ後ろにおいやる漫画と、前面に押し出す漫画はどうやって振り分けるの? 特にお気に入りのやつを前の方に並べるのかにゃあ」
 あるとき、彼女は僕が本棚を整理する際の法則について質問してきた。そんなもの誰に聞いても大きく変わりはしないだろうが、よくよく話を聞けば確かに細かい違いはあるかもしれない。木村優子はそういった細部をとても知りたがった。
 「確かに自分の中に、ランキングみたいなものはある。だけどそれを直接本棚の並びに反映させるわけじゃない。読み返すのに気力や、あるいはまとまった時間が必要なものもあるからね。だから僕は、ふと読みたくなりそうなやつを前面に置いている」
 僕は質問にとても丁寧に、誠実に答えた。木村優子の追及はなかなか止むことがなかった。
 「ふうん。それは漫画以外でも同じなのかにゃあ? それから、押入に保管しておく分と、手放してしまうものはどうやって分けるの?」
 「そうだな、僕の場合は漫画以外も大体同じかもしれないね」
そうして、飽きて売り払ってしまう漫画と一応押し入れの中に取っておく漫画の境界線について考えていると、かつてそんな『説話』があったことを思い出した。それはカードゲームについての『説話』で、商品としてのカードゲームを成立させているいくつかの観念が、今後大きく様変わりしていくかもしれない、というものだった。
 「ゲームという使用手段はますます希薄になるばかりでなく、ジャンルやメーカーの垣根も取り払われていく、って君は言ったね。今、なんとなく分かったんだけど、その『説話』はフィギュアやミニカーと同じようにカードに備わっている、所有欲を代理的に満足させる機能が拡大していく可能性を扱っているんだね」
 木村優子はそれには答えないで言った。
 「んうー、わざわざ古本屋まで持って行ってもたいした額にはならないっしょ? だったら全部押入に入れておけばいいのに」
 「うちはそんなに広くないし、漫画は続きものが多いからそれなりにまとまった額になるんだよ。だけどできるなら所有しておきたい。二度と読み返さないとしてもね。いや、読むという本来の目的が果たせなくてもいいんだ。この『説話』の意味はそういうことだろう? 消費の意味合いが変化したのと同じように、所有の意味合いも変わっていくかもしれないってことを示唆しているんじゃないかな。どう?」
 「何も差し挟むことはありません。百点満点だっちゃ」
 「まじめにやれよ、どっちが教祖か分かりゃしない。ねえ、この『説話』は未来そのものを示唆しているのかな、それとも教義を解釈するためのヒントが隠されているのかな」
 彼女はいっぺん不貞腐れてみて、にかっと笑って、答える代わり僕の敏感な部分に思いきり噛みついてきた。なんだか馬鹿馬鹿しくなって二人で笑い転げた。腹がよじれるまで笑ったのなんて、生きてる間に数えるくらいしかない。場所は隣町の古いラブホテルだった。僕たちは週末頻繁にこの場所を訪れ、昼間から部屋を貸し切っては修行に耽っていた。そうだ、よくよく考えてみれば、あの時期にしていたことは全部ひっくるめて修業だった。儀式は最初の一度きりだ。
 冬の寒さのせいですっかり忘れていた、うだるような暑さが目前まで迫った初夏に僕は破門された。湿度を孕んだ夏の早朝の風には懐かしさより新鮮さを感じることの方が多い。一枚また一枚と薄着になっていく予定調和の中には新しい生活への期待、解放感といったものが含まれている。肌が感じる変化とは裏腹に、僕と彼女の関係は変質し、取り返しがつかないほど歪んでしまっていたようだ。
 一個上の先輩と付き合うことになったからもう会うのはやめたい、と何の前触れもなく言われた。すでにその男とは肉体関係を結んでいるとのことだった。一体どこにそんな暇があったのだろうか。僕と木村優子は三日と空けず来る日も来る日もやりまくっていたのだ。相手は『説話』に興味を示すどころか、彼女の宗教のことは何も知らないそうだ。この期に及んで、彼女は平凡な恋愛がしたいというのだろうか。それは更なる堕落としか思えなかった。僕から離れようとすることよりも、教祖である彼女が教義に対する誠実さを欠いているようにしか思えないことの方が、僕の気分を滅入らせた。じゃあ僕は、これからどのようにして真理にたどりつけばいいのか。
 「あなたはもう、私がいちいち助言を与えなくたっていずれ真理へ到達するわ。何も心配いらない」
 そして木村優子はこれまでとまるで別人のように僕を褒めちぎった。場当たり的な思いつきで言っているわけではないようだった。彼女は僕の修行の過程をしっかり見てくれており、確たる根拠をもって僕を肯定してくれた。
木村優子が与えてくれるどんな言葉や快楽も、つまるところみんな彼女自身のためという印象を持っていた僕にとってそれは意外ですらあり、嬉しくもあった。なんだ、ちゃんと僕のことを見ていてくれたのか、と。だけどこんな状況になってそれが一体何になるだろう。納得できない僕に、木村優子は最後の『説話』を与えてくれた。
 「これ以上話し合いを続けてもきっと実りはないわ。私はあなたを導いてあげたかったし、それは今後も変わらないの。その証明に、特別な話をするわ。本当はもっと早く話してもよかった。だけど」
 これは是非とも信じてほしいのだけれど、と木村優子は念を押した。
 「あなたと少しでも長く一緒にいたかった。だから話さなかったの。でも今が話すべきタイミングだと思う」
 そうしていつになく真剣な表情になって話し始めた。狂気すらたたえた能面のような顔だった。その表情を見ると、別れ話は決して気まぐれなものではなく、切り出すまでに長い時間をかけ、様々なことを考えていたのだということが分かった。
 「この世界では誰かが幸福になったり、別の誰かが不幸になったり、そんなことが個別に繰り返されているって皆が信じているけど、本当はすべてつながっているの。だから自分が不幸だと感じたとき、自分が不幸だと考えるのは間違っている。私の片腕が百年後には虫や草木の一部となっているように、失った幸福はこの世界のどこかを巡っているだけ。一人ひとりに幸福や不幸が降りかかっているわけではなく、地球の重力に引き寄せられた有限のエネルギーがとめどなくたゆたって、その時々で偏りをつくっているに過ぎない。だけどエネルギーの総量が永遠に一定というわけでもない。エントロピー増大の法則からは何者も逃れることはできない。私たちが大切にしているものは、目減りしていく一方なんだよ。分かる? ねえ分かる? その法則から逃れるための営みと、甘んじて受け入れるための営みがこの世界では美しすぎるほどにバランス良く両立している。そうでないものはすべて醜い。私にはその醜さが分かる。あなたはジーザス・クライストのことが知りたいと言った。私もこれまで聖書だけでなく、あらゆる宗教のことを学んでみた。美しいものなどどこにもなかった。矛盾する営みの対立から逃れようとするだけの、反吐が出るほど醜いものばかりだった。あなたの腕や胸や背中はため息が出るくらいたくましくて美しい。それは強さ。私はあなたがこれからも美しくあることを願う」
 同じ表情を保ったまま、白磁のような彼女の頬が赤みを帯びてきて、話を終えようとする寸前一粒の涙が流れた。木村優子は涙をぬぐおうともせず僕の目を見据えていた。細い肩や胸が呼吸に合わせて揺れ、空気を伝わってその波が僕のところまで伝わってくる気がした。僕はその光景と言葉を受け止めるのが精いっぱいで動くこともできなかった。頭が痺れ、身体の周りには形あるものが何も存在しないようだった。服も肉もなく、魂が裸で木村優子の眼前に晒されている。波は心臓の鼓動と同じリズムでその表面を撫でた。痛くて、気持ちよかった。これがずっと続けばいいと思った。
 だけど沈黙はそう永く続かなかった。彼女はふいににっと笑い、僕の股間をぎゅっと握った。僕は自分が勃起していることに初めて気がついた。彼女は僕の耳元に口を寄せて言った。
 「来世でまた可愛がって頂戴」
 颯爽と彼女が去って行ったあと、僕の身体は熱を持て余していた。まるで組手を制限時間いっぱいまで戦った後みたいに至るところが熱くなっていた。しかし疲労しているわけではなかった。頭も相変わらず痺れたままで、錆びた鉄の冷蔵庫を倒したような不快な音が耳の奥で鳴っていた。
 どうやって家まで帰り着いたか覚えていない。それから数日間、僕は抜け殻みたいにして過ごし授業は出たけど部活は休んだ。筋力トレーニングをする気にもなれず、僕の肉体は久しぶりに長い休息を得ることになった。にもかかわらず内側の熱が消えることはなかった。
 授業が終わると家には帰らずひたすら歩き続けた。部活を休んでいると親に悟られたくなかったし、気分を紛らわす方法としてはそのくらいしか思いつかなかった。下校中の小中学生や買い物帰りの主婦が行き交う平日の雰囲気を味わうのは久しぶりで、なんだか自分が中学生に戻ったような気がした。背も低く、鳥ガラみたいな体をしていたあの頃。糞、大して何も変わっちゃあいないじゃないか。僕は一人ぼっちで、心を許せる友達なぞいないしクラスの中でも微妙なポジションだ。
 『説話』や教義が昔観た映画のワンシーンみたいに右から左へ流れていく。それらはすでに意味を超越して習慣みたいに僕に貼りついているのだった。大声をあげて走り出したかった。不法投棄された家具とか古い自動販売機とか、手頃なものがあれば手当たり次第壊してみたい衝動に駆られた。僕の突きはそれを砕くだろう。素手で物を殴り慣れていないから手はグズグズに破け血まみれになってしまうだろうが構わない。でもそんなものはどこにもなかった。かつて猫殺しでメディアを騒がせた僕の街は、ゴミ一つ落ちていない清潔で変哲もない住宅地だ。歩いている間ずっと熱に浮かされているようで、気がつくと数分前に通ったのとまったく同じ場所にいたりすることもしばしばだった。川沿いはもちろんのこと、木村優子と一緒に歩いたことのある道には絶対に足を向けなかった。
 一週間ほど続けていると、歩くことそれ自体を感じる余裕が次第に生まれていった。楽しむにはまだ遠かった。あくまで感じるというだけだ。交互に前に出る自分の両足を認め、すれ違う人の姿を認め、沿道の住宅や庭を認めた。僕はこれから、木村優子のいない世界を生きていかねばならないのだということが少しずつ分かってきた。ほんの数ヶ月前と同じ状態に戻るだけなのに、それは果てしない責め苦であるような気がした。まともにその現実に向き合ったときその欠乏感に耐えられるかどうか自信がなかった。それでも『説話』や教義は僕の中に残るのだ。僕は深く傷つく分だけ、彼女の宗教を長く強く信じ続けるのだろう。
 小さな古い公園で、子供たちが集まって何かしているのを見た。ガキがただ能天気に遊んでいるというのでない高揚感と緊張感の混ざった異様な雰囲気が伝わってきて、興味が湧いた。僕が歩みを止めて眼を凝らすと、茂みの奥に黒い野良猫が横たわっており、そこへ一人の男の子が石を投げつけていた。
距離が開きすぎているのと投げ方が稚拙なために命中はしていないようだ。猫は逃げずにじっとしているように見える。他の子どもたちは怪訝そうな顔で見守っていたが、止めるわけでもなく、どうやらその光景をずっと見ていたいという好奇心に打ち勝つことができないようだった。石を投げた子が横の者に何か言うと、そいつはあたりから手頃な石を数個拾ってきて渡した。
 僕はただ、何をしているのか気になっただけだ。関わるつもりなどなかった。深い考えもなしに公園に入っていくと子供たちは驚き、怯えの表情を浮かべた。僕は慌てて、邪魔するつもりはないと笑顔をつくりながら釈明せねばならなかった。僕に咎めるつもりがないのが分かると、安心した子供たちはお兄ちゃんも一緒にやろうよとでも言わんばかり楽しそうに状況を教えてくれた。
そこにいるのはこの辺りでよく見かける野良猫だが、石を投げた子の家の飼い猫が昨日ケンカして負け、片眼を失ったらしい。猫はだいぶ体が大きく、いかにも強そうな面構えをしていた。足のあたりの黒い毛が血でべったりと濡れており、耳の先端は痛々しく千切れ、他にも体じゅう傷があるみたいだった。子供たちの中には女の子も交じっていた。飼い猫を半殺しにされた男の子が石を持ちながらわめきちらしている。悪者め、成敗してやるぞ、痛みを思い知れとかなんとか、勧善懲悪の児童向けテレビ番組によく出てきそうな台詞を吐いている。それは石を投げつける勇気が足りないための躊躇だった。自らを鼓舞しながら、まだ声変わりしていない喉を虚栄心のためにさかんに鳴らしているのだった。他の子供たちは手負いの猫に石を投げつける行為を恐ろしいと感じながら、同時に期待の眼差しで傍観していた。超えてはいけない一線を越える特別な事件、自分の手を汚さずに参加できる残酷な行為を皆が待ち望んでいた。
誰かが投げたらその後自分も投げようと密かに石を持ち、にやにやしながら待ち構えているのも二、三人いた。僕はしゃがんで彼らの目線でそれを見ていた。やがて、わめきちらしている男の子が僕の方へやってきて、まるで宣言するように言った。
 「あいつはダメなやつだよね。バカだしクズだしいない方がいいよ。だって悪いことばっかりしてるもん。だからオレがこらしめるのがいいんだよ。そう思うでしょ? オレは正しいことしか認めないんだから絶対に許さないよ」
 微笑ましいほどに幼稚、という感想を持つと同時に、自分がこの場所にいることについて違和感を感じた。そしてまるで自分自身に問いかけるみたいに男の子に聞いた。
「きみは、正しいものの味方なの」
 そーだよー、と顔を真っ赤にして男の子は叫んだ。自分に正しさがあることを再確認して興奮しているようだった。そして彼は子供たち全員の代弁者のように振舞った。幼くて無邪気ではあるが、僕はそこに、暴力の匂いを感じた。私的で反社会的な暴力だ。
 空手の型は、攻撃ではなく必ず防御から始まる。先に相手を殴ることは原則的にありえないという信念が徹底している。空手の技術はなるべく使うべきでない最終手段であって、空手の主な目的は身体と精神を鍛錬することだ。そこで僕の内側に湧き上がったのは、小市民的なモラルや武道家の心得といった綺麗事ではなく、自分が備えている暴力装置にセイフティ・ロックがかけられていることへの鬱屈だった。石を拾って投げるという安易な方法で暴力を行使することへの羨望交じりの違和感が、いっとき僕を支配した。なんでこの洟垂れ小僧にそれができて僕にはできないのか? 糞、どうしてこの熱は簡単に身体から出て行ってくれないのか? 僕にきっと罪はない。あの黒猫に罪がないように僕もきっとそうだ。ガキどもよ、お前らに罪はないというのか? 猿以下な低能丸出しのアホ面下げて子宮から出てきたことは百歩譲って許してやるにしても、モンシロチョウの羽をむしってみたり、アリの行列に小便をかけてみたり、腹に卵を無数に抱えたダンゴムシを踏みつぶしてみたり、たわいもない盗みを働いてみたり、クラスの中で序列の末端にいるやつを無視したり悪辣な暴言を吐いてみたり、下級生を便所に呼び出して金を奪ってみたり、他人のおもちゃがうらやましくて壊してみたり、年下のガキがつくった砂の城を目の前で蹴り壊して爽快な気分になってみたり、父親や母親に死んでしまえと言ってみたりしたことが一度もないというのか。貴様らに石を投げる資格などない。
 僕は子供の手から石をひったくり、力いっぱい投げた。僕は体力測定のボール投げで野球部の連中と遜色ない結果を残していた。猫は反応して立ち上がったが動きが鈍く、背中のあたりに命中した。タイヤを殴ったような鈍い音とぎゃん、という鳴き声がほぼ同時に聞こえた。黒い塊は茂みの奥に隠れて見えなくなり、少しの間ごそごそと動いていたがやがて静かになった。潰れたプチトマトのような血痕が地面に数個残っていた。公園に蔓延していた高揚感が消え、やがて一人の子供が泣き始めると皆がそれに続いた。
 子供には到底真似できない、厳然たる暴力を僕は見せつけた。だがそれは私的で反社会的なものではなかった。そんな要素も少なからずあったかもしれないが、完全に許された行為だと僕は感じていた。
数日間消えなかった僕の内部の熱はすっかり冷めた。まるで射精したあとのような虚脱感に包まれていて深くリラックスすらできた。一方僕の周りはガキ共の泣き喚く声で蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。泣くことに対するガキの熱中度はすごい。まるで無関係の人間のような顔をして僕は家路についた。
 自分がしたことについて、本当に何も感じてはいなかった。ただ石を投げるべき場所にたまたま居合わせて、なんとなく投げただけという気がした。その日は普通に食事をして、久しぶりに筋力トレーニングをして、風呂に入り宿題を済ませるとこれまでになかったくらい穏やかな心境になった。
 ベッドにもぐり眠ろうとした時、あの猫がどうなったか、ようやく気になり始めた。あの一撃は致命傷だったかもしれない。猫はうまく逃げることができただろうか。
今頃猫は川へたどり着いているのかもしれない。苦しみながら血を吐いて死んでいるのかも。そういった連想をとめどなく繰り返しているうち、だんだん僕は恐ろしくなってきた。あの河川敷に黒猫の死体が転がっているのかもしれない。僕が猫に石を投げたのだ。僕が猫を殺したのだ。
 そう考えて、ふいに頬が引きつって、まるで教祖様がよくやっていたみたいに僕は笑い顔を浮かべた。僕は嬉しかったのだ。やっと魂のレベルが上がったような気がして。

ジーザス・クライストについて僕が知っていること

ジーザス・クライストについて僕が知っていること

平凡な街でひっそり続いていた猫殺しの犯人は、僕の親友で優等生の有馬。神様になりたかった彼を忘れようとしていた矢先、出逢ったのは世界を終らせようとしている「教祖」志望の女の子だった。ポストゼロ年代に捧ぐ、新しい成長物語。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-06-05

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