そっと秘密にしておいて
男と荷物
重い。僕が今持っているのは高々1週間かそこらの荷物だけじゃない。これから先の人生がこの鞄には詰まっている。片手で持って歩くには重過ぎる。
空いている方の左手を上げタクシーを拾いビジネスホテルの名を告げた所でけたたましく携帯のベルが鳴る。それだけで僕の心は鉛の様に重くなる。電話の相手は見なくても十中八九彼女だと解っていた。
「何処にいるの?」
前置きも何もなしに彼女は問い質した。
「タクシー」
決まり悪気に答えるも彼女はそんな答えじゃ納得してくれない。矢継ぎ早に質問を重ねてくる。それは、答える隙も与えない程の迫力で、益々僕は嫌気が差す。
「式まであと1週間しかないのよ!」
金切り声が耳をつんざく。
僕だって彼女を愛している。心から大切にしたいと思っている。だからプロポーズをした。けれど、式が近付くにつれこれでいいのか?と疑問が僕の脳みそを支配し始めた。
何に迷っているのかも、僕自身よく解らない。けれども、1人になって考えたくなったのだ。これが世に言うマリッジブルーというやつなのだろうか?そもそもそれは女がなるものじゃなかったのか?
「とにかく、少し1人にさせてくれ…悪い」
言って電話を一方的に切った。ついでに電源も切ってしまった。
ふぅ…
盛大な溜め息と共にシートに身を沈め、これまでの彼女との思い出を反芻する。
何度もふたりでデートをしたけれどなかなか告白できずにいたある日、今日しかない!とありったけの勇気を総動員して何の芸もない告白をしたら彼女は遅い…いつ言ってくれるのかと待ってたと言って笑ってくれた。
付き合って4年、プロポーズをした時も彼女は同じ反応をして今度はふたりで笑った。でもそれもあなたらしいわって小さく言って僕の薄い胸板に彼女が甘えてくれた。
思い出すだけでも幸せなひととき。ならば何故、今僕はこんなふうに独り逃げ出すようにタクシーに乗っているのだろう…自分でもよくわからない。冷え切った手で顔を覆う。
女と男と指輪
私は浮かれていた。
今年、私の誕生日が平日で本当によかった。日・祝日だったら当日に祝ってもらう事は叶わなかったから。でも、彼が祝ってくれるなら当日だろうがそうでなかろうがなんでもいい気もする。そして、そつのない彼は当日に祝えなかったとしても私が惨めな思いをしなくても済むような何かをしてくれただろうことが容易に想像できる。
と、せっかく当日祝ってもらえるというのに祝ってもらえなかったパターンを想像するなんて不毛というか、時間の無駄。今夜の楽しみにだけ想いを馳せればいい。
少し大人っぽいワンピース、華奢なデザインのアクセサリー、某有名ブランドの靴。それらを慎重に選び出した。最高の私を演出する為に。私達の関係は長続きしないものだと、私はちゃんと知っている。それでいて夢を見てしまう。
待ち合わせの時間に彼は胸を抉るような笑顔でやって来る。明るい紺色のスーツ、白い歯、長い脚、黒目がちな瞳、左手の薬指にはシンプルな指輪。
彼が予約してくれたレストランでの食事は舞い上がっていて正直あまり覚えていない。デザートプレートにはチョコレートソースで私の名前とメッセージが書いてあったことだけははっきり覚えてる。
シャンパンでほろ酔いなフリをして彼の腕に縋り付き指と指を絡めてタクシーを拾う。
私ではなく彼がタクシードライバーに私のマンションの住所を告げる。私はまだ酔ったフリで彼の腕に胸に甘える。酔ったフリなんてなくても甘えられたらいいのに。そう思って絡めた指の先に力を込める。
「ん?大丈夫?」
彼はそう言って私の髪をくしゃっとする。その、指先が少し平たく太い指で。触れられた所から甘く痺れる。
「はい、これ、プレゼント」
「え⁉いいの⁉嬉しい‼」
酔ったフリも忘れてはしゃぐと、彼の視線とぶつかった。その瞳は私に酔ったフリをすることを許していた。
「開けてみな」
「なんかもったいない」
「それじゃプレゼントした意味がないよ」
震える指先でリボンを解いて、ラッピングを開くとビロードの小箱が現れた。
「え?」
中身に予想がついて戸惑ってその小箱のふたを開けられずにいると彼が横から手を出してきた。
「ほら、手出して。ぴったりだ」
自慢気に彼が笑う。
私の左手の中指にオニキスを削り出して作られた指輪がはめられていた。そのデザインもサイズも本当に私の左手の中指にぴったりだった。一瞬でも期待してしまった自分が恥ずかしい。どうか彼がそんな私の期待と落胆に気付かなければいいのに。泣きたいような笑顔で見上げると彼も傷付いたような表情で口角だけ上げて笑っていた。あぁ、彼は私のそんな気持ちなど気付いてる。それを見越して左手の中指に指輪を贈ってくれたのだ。
きっとそれは、彼の精一杯の誠意。
「ありがとう、嬉しい」
彼の胸に飛び付いて、下唇に吸い付いた。
そんなに大事にしていたのに、タクシーの中に指輪を忘れてしまったことにマンションのエントランスで気付いてすぐにタクシーを追いかけた。タクシーは何の為にかは知らないが角に停まっていたので見失うこともなく追い付いた。何かバインダーをチェックしているらしいドライバーがビックリする程の勢いで運転席の窓ガラスを叩いた。
「どうしました⁉」
「あの、指輪…えっと、さっき乗ってた客ですけど、指輪を忘れてませんでしたか?」
走って来たので脇腹が痛くなって肩で息をした。
きっちりと制服を着こなしたドライバーはテキパキと後部座席を調べ始めた。体を車に飲み込まれた様な体勢でドライバーはどんな指輪ですか?と訊いてくる。
「黒いオニキスの指輪です」
食い気味で私は答える。もし、失くなっていたらどうしようと悪い考えばかりが頭を支配する。
「あった、ありましたよ、座席の下に転がってましたよ」
「これで間違いないですか?」
帽子をかぶり直しながら爽やかな笑顔を見せる。
感激と安堵となんだかよくわからない感情で何も言えずにいる私にその若いドライバーは、もう失くしちゃだめですよと屈託なく笑ったが、私は自分の元へ戻って来た指輪ばかり見ていた。
それに部屋で彼が待っている。
男と妻
「新郎が逃げたって聞いたからどうなるかと思ったけど、戻ってきて良かったじゃない」
外とは隔離されてたようなタクシーの車内、妻の少し低く甘い声が響いた。
「あぁ、あれじゃないか?マリッジブルーってやつだったんじゃないか?」
言いながら俺はシャンパンゴールドの光沢のあるネクタイを人差し指で緩めて続ける。
「その後の生活背負っていくこと考えたら逃げ出したくもなるだろ」
「貴方も逃げ出したくなった?」
ふん、鼻で笑ってシートに身を委ねる。
「そんな昔のこと忘れたよ」
「貴方ならそう答えると思ったわ」
そう言って妖艶に微笑んだ妻に少しどきりとした。そして次の瞬間には違う女の事に想いを馳せる。
あの時、あの時の彼女も妖艶に微笑んでいた。しかし、今とは違う意味でどきりとした。どきりなんて生易しいものじゃなかった。心臓を握り潰されたような衝撃だった。
先ほどの部下の結婚式。まさか俺の不倫相手である彼女が参列しているとは。新婦側の友人の席に座っているのを見つけた時は心臓がひとつ飛びくらいに鳴った。
目を合わせちゃいけないのに、何度もそちらに視線を向かわせてしまった。何度目かに視線を向かわせた時、彼女もこちらを見ていた。視線で人が殺せると錯覚してしまうほどの強い眼差しでこちらを見ていて、目があった瞬間、妖艶に微笑んだのだ。
俺と彼女は1年ほど付き合っているが俺は1度も結婚を仄めかしたことはなかった。それどころか、慎重にそのワードを避けてきた。彼女のことは愛してるが、妻とは別れる気はない。
遊んでいるつもりはないが、状況的に見てこれは遊んでいると言われても仕方ない。
それが、よりによって結婚式で遭遇してしまうとは…しかも俺の隣には妻がいた。
彼女が妻を見たのは初めての筈だ。
そんな状況で、泣くでもなく、逆上するでもなく、彼女は妖艶に微笑んだのだ。
泣かれた方がよっぽどマシだった。否、泣かれたらそれはそれで面倒だけど、あんな風に微笑まれちゃ言い訳も出来ない。そもそも、言い訳が必要な状況なのか?
「会場に貴方好みの綺麗なお嬢さんいましたね」
突然の妻の言葉に車内が凍りついた。
「ほら、貴方に熱視線を送っていたお嬢さん」
女とタクシードライバー
「すいません、取り敢えず出して下さい」
女はそう言ったきりシートに身を沈め泣き続けた。時々かろうじて聞き取れたのは誰かの名前と、おそらくその人を罵った言葉。
僕はそれらが気まずいものにならないように、引っ切り無しに話しかけ続けた。今夜も天気予報が外れた話と野球の話ばかりが車内の空気をやけに震わす。
「このまま…」
女はようやく聞き取れる声で話し始めた。涙で声が低く掠れている。
「このまま、眠ってしまったら、どこかに捨ててっていいよ」
冗談なのか自棄になっているのか自嘲するでもなく女は言う。
ルームミラー越しに様子を窺ったがその細い顎の辺りで切り揃えられた細い髪で隠されて表情は見えなかった。
「あの、えっと、そういうふうに言われましてもですね、現実的にそういう訳にも…」
しどろもどろに言う僕に、女は初めて笑顔を見せた。吐息を吐くように小さく笑って、酔っ払いの戯れ言よ、気にしないでと哀しく続ける。
いいの、と軽く挙げた華奢な手には見覚えのある指輪が光っている。
そして、気まずさを払拭しようと僕はまた天気予報が外れた話と野球の話ばかり何度も繰り返す。
フロントガラスの向こう雨粒に滲むネオンは今夜も哀しくなるほど美しい。
そっと秘密にしておいて
中島みゆきさんの「タクシードライバー」に感化されて膨らませたお話、オマージュオムニバスです。