忘れられた景色

 一

 月末で忙しさもあったが自分の仕事は大方片付いたので北澤芳彦は帰り支度を始めた。机の上を整理している芳彦を、石田葉子は悲しみの籠もった目で見ていた。出口に向かうとき一瞬目が合ったが葉子は直ぐ視線を外した。
 その日、芳彦は篠原早苗と待ち合わせをしていた。二人で会うのは今日で三度目だった。取り留めのない会話をしながら飲んでいたが、芳彦は早苗と過ごす時間に何時しか安らぎを覚えていた。早苗は一年前に離婚して現在は一人アパート住まいをしている。既に二十八歳になっていたが、年若く見え、一つ一つの仕草が小さな体躯に似合い愛らしさを持っていた。離婚する前、早苗の夫は芳彦の通う居酒屋、【六助】に度々来ていた。月のうち、早苗を一、二度見掛けることはあったが、一緒に飲んでいる様子は無く、帰らぬ夫を迎えに来ていたのか、しかし帰ろうとしない夫を残し先に帰っていた。そのうち夫の姿も見掛けなくなり、暫くして早苗一人で来ていることや、数人の仲間と来ていることもあった。しかしそれも二、三ヶ月続いたきりで、その後早苗を見掛けることはなかった。早苗は酒を飲みに来ていたと言うより時間を持て余し仕方なく来ていたようだった。芳彦は大抵一人だった。一人で飲むことが気楽だった。しかし長居する訳でもなく小一時間程で帰っていた。飲むと言うより、残業で遅くなった時など寄ることが多く、アパートに着いてから夕飯を作る煩わしさからだった。
 芳彦と早苗が知り合うようになったのは、偶々、芳彦が買い物に行ったデパートの店員を早苗がしていたことだった。早苗も芳彦のことを覚えていたらしく、『隅の方で、何時も一人で飲んでいたでしょ?』などと言い買い物の相談に乗ってくれた。そして今度【六助】で会ったら一緒に飲む約束をした。それも他愛のない約束で、時間や曜日を決めた訳ではなかった。
 そんなことがあった日から一週間程して、【六助】で飲んでいた芳彦の隣に早苗は静かに座った。芳彦は物思いに耽っていたのか気付かなかった。
「北澤さん、座っても良い?」
「どうぞ」
「やっと気付いてくれた。さっきから何を考えていたの?声を掛けていたのに返事もしてくれなかった」
 と、早苗は始めから心を許しているかのような喋り方をした。
「この間は有り難う。少し大きめの冷蔵庫にして良かった。それに安く買うことが出来て助かった」
「北澤さん、何時もそんな風に飲んでいるの?」
「そんな風って?」
「寂しそうに・・・」
二人とも多くを語ることはなかった。早苗は三年前この近くに越して来たが最近夫と別れたこと。芳彦はここから三キロ位先の郊外に住んでいて、金曜の夜は大抵【六助】で飲んでいることなど、日常の些細なことを語った。
「その先に大きな神社があるでしょ?初詣に行ったことがある」
 早苗は知っていることが嬉しそうだった。
「手前にあるアパートで一人暮らし、通り沿いの二階」
 と、芳彦が何気なく言った通り沿いの二階、と言う言葉が早苗の心に焼き付いていた。
 翌週も芳彦が一人で飲んでいると、いつの間にか早苗は隣に座っていた。
「北澤さん、また来ちゃった。一人で過ごしている時間なのに御免なさい」
「来るかも知れないと思って待っていた」
「嘘ばっかり言っている」
「本当さ!」
「北澤さんが居なければ帰る積もりでいた。でも居て良かった」
「今まで仕事?」
 芳彦は早苗の生活のことまで知らなかった。
「土日は八時、平日は七時に終わる。仕事が終わって、アパートに帰って、朝の残り物を食べて眠るだけ。だらしないのかな・・・」
「忙しい?」
「土日は忙しいけれど他の日は時間を持て余している。でも、拘束時間が長く草臥れてしまう。北澤さんは?」
「月末だけ忙しい」
「休みは何をしているの?」
 早苗は芳彦のことを知りたかった。それは、淡々と過ぎる思いを満たしたかった為ではなく、芳彦と居ることで安堵感が得られるように感じた。
「本を読んだり、散歩をしたり、偶には買い物に行く」
「遊びに出掛けないの?」
「相手がいない」
「また、嘘を言っている」
「面倒なのかも知れない」
「若いのに変なの・・・」
「時々旅行に行き、見知らない町をのんびりと歩いてくる。大抵季節外れに行くので、その町の本当の姿が見える」
「本当の姿って?」
「祭りが終われば静寂が戻る。海は海で静かに波を寄せ、町は町で何事も無かったかのように元の生活になる。そして、代わり映えのない日常が待っている。激しさも勢いもないけれど、そんな風情に救われるのかも知れない」
「ええ・・・」
 早苗はよく分からなかった。しかし言葉の端々に優しさがあるように感じた。
「都会で時間に追われる生活をしていると一日、一日を失っていることに気付かない。田舎が良いと言うことではないけれど、東京を離れ田舎で暮らしたいと思うときがある」
「北澤さん、寂しい人なんだ」
 その町に同化して、誰も居ない海辺をトボトボと歩いている姿が見えるようだった。
「そんな風に時間を送ることでホッとする。でも何時も一人だった」
「北澤さん、お馬鹿さんね」
「そうかな」
「一人で知らない町を歩いているなんて矢張りお馬鹿さんよ」
 と、既に心を許しているかのような口の聞き方だった。
芳彦は早苗の別れ話を聞くようになった。早苗の話は聞く度に微妙に違っていた。しかしそのことに気付いていないのか、一度その違いについて口を挟んだとき妙に悲しい顔をした。それ以来早苗の話すままにしていた。しかし話しながら溜め息を吐いたり、時々有らぬ方を見ていたり、過ぎた日々を追っているように思ったが、苦しんでいる様子は無く話すことで慰められているように感じた。また、早苗の結婚生活は、求め合い、寄り添うような生活と違って、心が閉じ込められるような日々だった。それまでの穏やかな表情が徐々に蝕まれ早苗を暗くしていた。しかし別れてから一年以上経っていたので、既に気持ちの中に夫は存在せず、その後の動向も一切知らなかった。何の為に結婚したのか、偶然出会った二人が、一緒に生活して、反りが合わなくなって別れたように思っていた。そう思えたのも、淡々とした意に介しない早苗の性格から来ていることだった。
 別れてから以前勤めていたデパートの電機器具店でパートとして働くようになった。早苗の性格からして、正社員として勤めるよりも気が楽だったのかも知れない。仕事が終わると真っ直ぐアパートに帰り、ベランダや部屋のあちこちに植木鉢を置き、手入れなどをしていた。また、日々の生活は苦しかったが浪費することなく少しずつ蓄えもしていた。
 芳彦と早苗は出会って月日も経っていなかったが、既に早苗の中には、芳彦に出会えたことで生きようとする微かな思いが生まれていた。ただ早苗らしくその事に気付いていなかった。

 二

 その日、【六助】は比較的空いていた。給料日前で長居する客もなく七時を過ぎても店主は手持無沙汰だった。
「こんなに早く切り上げて良かったの?」
 と、早苗は早めに来た芳彦に声を掛けた。
「工場は忙しかったけれど俺には関係がない。しかし社長は少し渋い顔をしていた」
 そう言って芳彦は一気にビールを飲み干した。その後取り留めのない話をしていたが、黙ってしまった芳彦に「芳彦さん、何考えているの?」と、早苗は聞いた。
 帰り支度を始めた芳彦を悲しげに見ていた葉子のことが思い出された。これから先、葉子との関係がどんな形になって行くのか芳彦の中に不安が拡がっていた。
「否、何でもない」
 と、葉子のことは忘れようとした。
「芳彦さん、私のこと好き?」
 と、早苗はあっさりと訊いた。【六助】には常連客も来ていたが、隅の小さなテーブルに座っていたので早苗の声は届かなかった。
「早苗と一緒だと側に居るのにいないような、いない時は居るような、そんな感じになる」
 と、芳彦は応えた。一緒の時を過ごす内に何時しか早苗と呼んでいた。
「私、芳彦さんのこと好きなのかも知れない」
 早苗は自分の思いを信じていた。芳彦を知って一ヶ月半しか経っていなかったが、側に居ると安堵感が得られ、その安堵感を愛情に置き換えていた。
「早苗、今度休みを取って旅行に行かないか」
「一緒に連れていってくれるの?」
 早苗は不安げな顔付きをして訊いた。
「二泊で海に行こうと思っている」
「私が一緒でも良いの?」
 芳彦の思いを確かめるかのように早苗は見つめていた。
「そう、一緒に行きたい」
「信じて良いのね」
「早苗のこと知りたいし、少し休みたい」
 そう言ったきり芳彦は遠く目を遣った。会社で毎日顔を合わせていながら話をすることもなく、二ヶ月近く葉子の所に行っていなかった。葉子の内面に踏み込むことを恐れていたのか、その後のことを躊躇っていたのか二人の関係は平行線のままだった。
「芳彦さん、また考え込んでいる。芳彦さんの好きな人のこと話してくれる?」
 早苗は芳彦のことを知りたかった。嫉妬心からではなく芳彦のことを知らない寂しさからだった。芳彦の内面に触れようとする勇気と感情が早苗の中に芽生えていた。少しだけ語っては何時も遠くを見ている芳彦の内面に入りたかった。
「好きなのか分からない。一年位前から付き合っているが、この所会っていない」
「そう」
 と、早苗の口調は何気なく寂しげだった。でも、芳彦を好きだと言う思いとはまた違うことのように受け止めていた。
「芳彦さんの好きになった人ですもの、素敵な人でしょ?」
「同じ会社で働いている。でも会社では一言も話しをしない。何故か互いの中に入り込めないでいる」
「会いたいな、その人に・・・」
「会っても仕方がないだろう」
「芳彦さんのこと知りたいから・・・」
 会いたく無いのなら分かるが、会いたいと言う早苗の思いが分からなかった。早苗と一緒にいる時の安らぎはそんなところから来ているのかも知れなかった。
「芳彦さんの旅行って、どんな風に過ごすの?」
 早苗は早苗で、芳彦と過ごす時間の中に一人で居ることの侘びしさを忘れていた。それに、芳彦は好きな人と一緒に行くのでは無く、何故誘ってくれたのか知りたかった。
「のんびりすることかな」
「年寄りみたいね」
「目的もなく窓辺に凭れ掛かり拡がる風景を見ている。山では鳥の鳴き声を聴き、海辺では波の音を聴き、都会では人の話し声や自動車の排気音を聴いている。何もしない時間が過ぎて行く。そんなときが好きなのかも知れない」
「厳しくて真面目過ぎると思う」
 と、早苗は言った。
「早苗は?」
「私には好きなものがない。でも花を育てることは好きだった。田舎の家は庭が広く、子供の頃は一面に四季の花を植えていた」
「ひとつだけ追い求めるものがあれば仕合わせなのかも知れない。でも、毎日毎日目先の生活に追われ必要なことを感じなくなっている。生活することが生きることになり、生きることが生活から抜け出せない。目的も明日なく一日を送っている。俺の日常は諦念に支配されている」
「私だって同じ、ちぐはぐなのに感じることがない。それに、感情的になっても仕方がないと思う。流れに身を任せて生活しているのに過ぎない」
「日常の感覚のずれを旅行で補っているのかも知れない。そんな風にしか生きられないことを悲しく思う」
「色んな所に行ったの?」
「海に居ると心休まる。打ち砕く波も、静かに寄せる波も優しい。描くか写真に閉じ込めたいと思う」
「証が欲しい?」
「証は無くても良い。唯、自分を忘れないようにしたい」
 芳彦と一緒に居るときの安堵感は、一人では生きられない人の寂しさを忘れさせてくれる。兄弟や家族がいても、生きているのは所詮一人でしかない。早苗は十八歳のとき失恋した。早苗にとって始めての恋だった。大学に行く予定で勉強していたが、そんなことがあってから勉強も手に付かず、中途半端な思いのまま夏を境に受験勉強を打ち切ってしまった。そして、卒業後は東京に出て中古車販売会社の事務員として働いた。しかし表裏のある販売業務に嫌気がさし、一年そこそこで辞め、その後半年ほどして駅前のデパートで働くようになった。田舎に帰りたい思いもあったが、今更帰る訳にもいかず店員になったような次第である。
「一人で居るって寂しいことかな?」
「先のことまで分からないし、分かったとしても仕方がない」
「そうかも知れない」
 早苗は二十四歳で結婚したが三年で別れた。結婚に対する夢も希望も始めから持っていなかった。男と女が自然に知り合い一緒に住むようになった。夫は十歳以上年上で再婚と言うこともあり内輪だけの式だった。真面目で働き者であったが、月々の生活費だけ入れ、後は遊行費に使ってしまうような人だった。ギャンブル好きの夫に徐々に愛想をつかし、一緒に居ても仕方がないと思うようになった。愛情が無かったと言えば嘘になるが、結婚してからのものであり、執着するほどのものではなかった。早苗の中で、既に生きることの諦めがあったのかも知れない。子供がいなかったので別れ話は簡単に付いた。家も借家で、夫がそのまま残り少しだけ荷物を持って早苗が出ることにした。残った荷物にも夫にも未練がなかった。
「帰ろう」
「また、会える?」
「金曜日に」
 と、言って二人は席を立った。二人とも酔う程に飲むことはなかった。

 その日、葉子は遅くまで残って仕事を片付けていた。駅への帰り道、丁度【六助】から出てくる二人を見掛けた。声を掛けようかと思ったがそのまま通り過ぎた。女性とは、何処かで会ったような気がしたが夜ベッドに入ってから思い出した。

 三

芳彦を知って半年が過ぎた頃葉子には見合い話が進んでいた。中途半端のまま芳彦の許に行くことも、木野村を待っていることも出来なかった。自分の内面を整理することで、見合い話を受け入れるより仕方がないと思っていた。
 葉子は消えてしまった恋人のことを考えていた。卒業間近に付き合い始め、初めて愛した人だった。しかし、木野村は神隠しにでも会ったかのように忽然と消えてしまった。
「暫く旅に出ようと思っている」
と、喫茶店の片隅で木野村は言った。
「何処に?」
「東南アジアからインドまで」
「一人で?」
「そう、後は卒業式を残すだけで大学に行く必要はない。結局、就職先も決まらなかったし、帰ってからゆっくり考えようと思う」
「一緒に行きたい」
「ヒッチハイクのような旅行で、考えたいこともあって、葉子を連れて行く訳にはいかない」
「その間、私、何をして待てば良いの?」
「もう、決めてしまった」
「でも・・・」
 暫くの間二人とも黙っていた。
「何故、東南アジアへ?」
 仕方がないと葉子は思った。就職先も決まらず一人で考える旅だと言っているのに、一緒に行く訳にもいかなかった。
「理由はない。唯、そう思った」
「答えになっていない」
「日本に居るのが嫌になった」
「何故なの?」
「このまま大学を卒業して就職することが良いのか分からない。流されるまま生きようとしていた。でも何かが違っている。自分だけの力で、それが何であるのか見つけたい」
「でも・・・」
「大学も後数ヶ月で卒業になる。意に反しながらも周りの連中は次々と就職先が決まった。でも俺は、自分がどんな職種に就きたかったのか分からなかった。取り残されている感覚は無かったが、いつの間にか友人と思っていた連中は遠ざかり、人間関係なんて、何を基準に成り立っているのかあやふやなものだと思った。それに、アルバイトと仕送りで学費も生活費も十分で、それを充実した日々を送っていたと錯覚していた。しかし肝心の俺が怠慢で浅はかだった。高校の頃から大学に行けば得られるものが多くあるだろうと思っていた。しかし大学に籍を置いていただけで、生きる上で核となるようなものを作ることも、過ぎて行く日々を捉えることも出来なかった。ふと気付いたとき、噛み合っていた歯車から外れ一人空回りをしていた。しかしそれは周囲にとって噛み合っていただけで、俺にとって、自分のことを考える良い機会だった。それまでの俺は曖昧で、この四年間が砂上の楼閣のように崩れ、就職先のランクを上げることに専念していた自分が虚しくなった。諦念がそうさせたのではなく、内部で燻っていたものがはっきりと見えるようになり、もう一度自分自身を問い直してみたい」
「そんなに苦しまなくても良いと思う・・・」
「葉子のことは大切に思っている。葉子の気持ちも分かっている。しかし、矢張り一人で行こうと思う。でも、単に自分を試したいだけなのかも知れない」
「貴方のこと信じている・・・」
 と、葉子は暫く考えていたがそう言った。
「有り難う、矢張り行かなければ後悔すると思う。見知らない国で俺を受け入れてくれるのか、余所者扱いされるのか分からない。しかし既に一歩を踏み出した。それに、これまでのことを振り返っていても仕方が無いように思う」
「必ず帰ってきて・・・」
「約束する」
 その日が木野村に会った最後になった。一週間後、木野村は東南アジアへ旅立った。一ヶ月後、一枚の絵葉書が届いた。それから二ヶ月が過ぎ、三ヶ月が過ぎた。木野村からの頼りはそれ以来なかった。一度アパートに行ったが、帰って来ている様子は無く、部屋の扉にメモを残してきた。暫くして木野村の母から電話が掛かってきた。部屋は綺麗に片付けられ、手帳や手紙類は何も無かったこと、部屋をそのままにして置くことも出来ず、先月アパートを引き払ったこと。それに、現地の大使館を通して探しているが、依然行方不明のままで、何の手懸かりも無く途方にくれていることなど話してくれた。
 何時しか半年が過ぎていた。葉子は忽然と消えた恋人を待っていたが、卒業前東南アジアの国々を回ってみた。大使館に行ったり、日本料理店を訊ねたりしたが、何も分からず帰国した。木野村は死を覚悟していたのだろう、そうでなければ、ずぼらな木野村が一切合切片付けをする筈がなかった。
 葉子はただ待っていることも出来なく、夏が過ぎ、父親の知人で社長でもある今の会社に就職した。それから一年が過ぎ、二年が過ぎたが依然行方は分からなかった。寂しく苦しい日々が続き三年目も終わろうとしていた。芳彦を知ったのは丁度その頃だった。芳彦と居ることで木野村のことを忘れようとした。しかし芳彦を知って行く毎に埋めることの出来ない透き間に苦しめられ、罪のようなものを感じていた。しかし芳彦を愛することで過去を清算出来るかも知れないと思っていた。
 葉子はベッドの中で早く帰ってしまった芳彦のことを考えていた。そして、芳彦と一緒にいた女性は、駅前のデパートに勤めていたことを思い出した。
・・・芳彦は始めから気付いていた。これまで一度だって含みのあることなど言った覚えは無いのに、私の内面に住む木野村のことを知っている。芳彦に何もかも話してしまいたい衝動に駆られる時が何度もあった。過去を披瀝しても、有りのままの私を確りと受け止めてくれるだろう。しかし、芳彦に甘え身を投げ出しても遣る瀬ない思いがある・・・芳彦の鋭敏さは芳彦を苦しめ私を苦しめる。そして、芳彦の内面に入り込めないことが何時しか芳彦を離れさせてしまう。でも、私には何も出来ない。芳彦を愛しても、芳彦から愛されても、二人の関係を縮めより深めていくことも出来ない。本当は、芳彦に甘えたい・・・でも、木野村はまだ私の中に生き続けている。愛していると言い、必ず帰って来ると言っていた木野村は、既に生きていないのかも知れない。生きているなら便りがある筈である・・・私は見合いをした相手とそのまま結婚するのだろう。過去との決別、執着との決別、青春との決別、そして自分自身との決別になる。でも私にとって結婚は社会に同化する為の手段としかならない。仕方がないと思う。誰だって生きていることは苦しい。でも、その苦しさに慣れ親しんでしまえば取り返しが付かなくなる・・・苦しかった四年の歳月を取り戻すことは出来ない。芳彦と過ごした一年もまた取り戻すことは出来ない。躊躇いながら『葉子』と呼び、優しく抱いてくれる芳彦、それは私の曖昧さがそうさせている。抱かれながら、ふと木野村のことを考えている時がある。東南アジアの熱帯雨林で土に融けてしまった木野村の顔が、眼鏡の奥の虚ろな眼差しが浮かんでくる。帰って来ることは無いだろう・・・今日出会ったあの人を芳彦は好きなのだろうか?暗くて良く分かったけれど可愛い人だった。声を掛けようと思ったのに出来なかった。芳彦が私の所に来なくなったのは、あの人の所為(せい)だろうか?それとも私のことを嫌いになったからだろうか・・・。
 幾つかの想念が浮かんでは消え、消えては浮かびながら葉子は眠りに落ちていった。
 木野村も、芳彦も、生きることに対して真面目過ぎたのだろう。執拗に自分を追い求めることで淡々と過ぎる日常から遊離する。それは、目先の現実から逃れるのではなく、現実が確たるものか確かめる為に行動せざるを得ない行為である。単に現実を否定するのでは無く、生きる根底に根差すことで、失うものを、得るものを考えても仕方がないことだった。淡々と生きることで良い。一生懸命生きることで良い。ただ木野村にとっても、芳彦にとっても、真摯に生きることが自分の生き方であると感じていたのだろう。

 四

何事もなく一週間が過ぎ、【六助】の片隅で早苗は言った。
「芳彦さん何歳なるの?」
「十二月の末で二十九歳になる」
「大学に行っていたのでしょ?工場で働かなくても、他の仕事は無かったの?」
 芳彦は応えなかった。
「御免なさい、余計なこと言って・・・」
 早苗は芳彦のコップにビールを注いだ。
「旅行に行くこと、信じても良いの?」
「何処に行こうか考えていた」
「一緒なら何処でも良い」
「遠いけれど、能登にしようか?」
「本当、まだ一度も行ったことがない」
「十八歳の時、輪島市から珠洲岬まで日本海沿いに歩いたことがあった。夜空を埋め尽くす満天の星々が水平線に零れ落ち、今まで見たこともない星の姿に体中が震えた。そして、足許には星の光で映し出された風紋が拡がり、幻想の世界を見ているようだった。しかし、十年も前のことになってしまった」
 大学に入って始めての夏休みだった。リュックサックと簡易テントを背負い一人で能登の海岸線を歩いた。一ヶ月以上掛け、金沢から輪島、珠洲岬と半島を一周した。そして、そのまま京都で二週間過ごした。友人のアパートに泊まり込み、神社仏閣を彷徨いていたことが思い出された。
「行きたい!」
「海辺に寝ころんで水平線に落ちて行く星の違いを見ていた。そのことを早苗に教えて上げたい」
「星が思いを伝えるの?」
 早苗の目は潤んでいた。芳彦の優しさが嬉しかった。
「そうかも知れない」
「素敵!」
「早苗、車で行く?列車で行く?」
「車だと、お酒を飲めないけれど良い?」
「朝から飲んでいる訳ではないし早苗ほど好きじゃない」
「それじゃ私が余程呑衛みたいじゃない。そんなこと言うのだったら一緒に行って上げない」
 早苗の拗ねた顔を可愛いと思った。
 知り合うようになって一度早苗のアパートに行ったことがあった。その日、芳彦は早苗の所で飲みたいと言った。そんな積もりはなかったがつい口を滑らした。しかし早苗は、『そうしよう』と言って直ぐに応じた。芳彦は言ったことを後悔したが早苗の後に付いて行った。小さな部屋に、生活に必要なものは揃えて有り、必要に応じて使った後が伺い知れた。それに、部屋は隅々まで綺麗に掃除してあった。本棚には著名な作家の代表作や新進作家の小説が何冊か並んでいた。それらは置いてあるのではなく読まれた形跡があった。
 早苗は直ぐ食事の支度をした。酒も旨かったし急拵えの料理も旨かった。離婚して一年以上経っていたが、他に誰か住んでいる様子や出入りの激しい様子はなかった。諦念の向こうにある早苗の本来の姿を見たように思った。しかしその後早苗の所に行くことはなかった。
「何故、私を誘ってくれたの?本当に私で良いの?」
 と、早苗は尚も訊いた。
「早苗のことを知りたい」
「芳彦さん、ハンサムで車は持っているし、会社には若い女の子が大勢いるでしょ?おかしいわ」
「早苗が好きだから一緒に行きたい。会社には俺と一緒に行ってくれるような女の子は一人もいない。これで良い?」
「芳彦さんて矢張りお馬鹿さんね」
 入社して九年経っていた。その間、好きになった女の子もいたが結婚する気にはならなかった。早苗を旅行に誘ったのは、無理矢理芳彦の内側に入ろうとせず、遠くから見ている早苗を感覚的に受け入れていたからだろう。
「芳彦さん、私と付き合っていて大丈夫?」
「何が?」
「芳彦さん案外意地悪なのね」
 早苗なりの心配があった。
「私、芳彦さんのこと前より好き」
 大きな声ではなかったが隣に人がいれば十分聞こえる声だった。
「旅行、いつ頃?」
 早苗は芳彦と一緒に行く日のことを考えていた。
「冬になる少し前、その頃なら休みが取れるだろう。会社も暇な時期で社長も何も言わないと思う」
「冬になる少し前?」
 早苗は感慨深げに呟いて残り少なくなったコップのビールを見つめた。これまで季節を感じることなく生活に追われ過ごしていた。一日も、一年も、誰にとっても同じ時間である。しかし、時間の流れを確実に捉えている芳彦に悲しみと辛さを感じた。
「芳彦さん、何故冬ではなく冬になる前なの?秋の終わりでもないってこと?」
「そう言うことだと思う。夏の日本海と冬の日本海では落差が激し過ぎる。でも、冬になる前の日本海はまだ秋の余韻が残っている。しかし秋ではない。その微妙な瞬間を見てみたい」
「嬉しい、芳彦さんの好きな季節に好きな所に行けるなんて!」
「珠洲岬の金剛崎まで行こうと思っている。あの時は海岸にテントを張り、砂浜に寝転がり、一週間星を見ていた。手の届きそうなところで宝石箱をひっくり返したように輝いていた。空で支え切れなくなった星は水平線に流れ、二日目の夜、三日目の夜、そして一週間後と、星の輝きは前の日から確かに違って見えた。十八歳の頃はその違いが分かった。一日で変わる自然の鋭さ、二十四時間と言う時間の怖さを知っていた。自然の微妙な変化が見えない限り、日常の変化など決して見ることが出来ない。一瞬一瞬が、自然の中では何時も終わっている。終わっているのに知らないまま見過ごしている。きっと諦念が支配しているのだろう。諦めることで生きようとしている人は、既に個として成立しなくなっている。そして、一生を、短い一生を終わっていくのだろう。俺も直ぐ二十九歳になり、青春の終わりを迎えようとしている。残っているのは焦燥感だけなのかも知れない」
「芳彦さん、矢張りそう言う人なんだ。変わっている、と思っていたけれど側に居たい感じになる人・・・」
「生きていることの意味は人それぞれ違うと思う。しかし、それは必要に迫られての意味であって、本来的な意味は別なところにあると思う。でもそれが何であるのか分からない。仕事をしなくては飯が食えない。腹が空くから飯を食う。子供の教育や老後の為に金を貯める。みんな必要に迫られて働いている。でもそれだけのことでしかない。結局、何も見えないし個にとって意味がない。必要が無くなれば意味を持たなくなる」
「生きる意味か・・・」
 と、早苗は小さな声で呟くと空になっていたコップにビールを注いだ。
「私が離婚した時もそんな風に思った。鍋も茶碗も箸も何の意味も無くなっていた。鍋には鍋の意味があったけれど、それは夫の為に料理を拵えていたから意味があった。でも、家を出て行く私にとって、その日から何の意味も価値もなくなった。そこに居た私の意味さえ無くなっていた」
芳彦は酔って行く自分を感じていた。普段から酔っても喋ることはなかったし面倒だと思っていた。しかし早苗と一緒だと癒される感じがしていた。
 十時近くなっていた。
「もう直ぐね、その日、何があっても休みを取っておきます。私、お酒を止めようかしら」
 早苗は幾つかの想念を飛ばして、そのように言った。これまでの生活が早苗のなかに蘇ってきた。一つのことを集中して考えることも、苦しい思いをしたこともなかった。成り行き任せに生きてきたように思った。
「仕方がないから飲んでいた」
と、言葉を続けた。
 暫くの間二人とも何も言わなかった。芳彦のなかにも早苗のなかにも空白が拡がっていた。過ぎた日々、そして、これから来るのだろう日々が霞んで見えていた。
「帰ろうか・・・」
 そう言った芳彦の目を暫くの間早苗は見つめていた。

 五

 その日芳彦は早めに出勤した。仕事があった訳ではないが葉子のことが気になっていた。前日の夕方のことだった。一日の報告を終え社長が退席した後芳彦の所に来た。しかし「芳彦」と、小声で言ったきり足早に去ってしまった。葉子のアパートに行かなくなって既に三ヶ月が経っていた。近くまで一、二度行ったが、明かりが点いていることだけ確認して帰っていた。
「元気にしていた?」
 と、芳彦は声を掛けた。
「芳彦さん、もう三ヶ月も来てくれない。私のこと嫌いになったの?」
「近くまで何度か行った。でも階段を上れなかった」
「馬鹿、芳彦の馬鹿・・・私、何時も待っていたのに・・・私のこと心配でなかったの?」
 葉子の目から涙が落ちていた。
「葉子!」
「私、芳彦さんのことが一番好き・・・それなのに芳彦さんって意地悪ばかりしている。何時も一緒に居たいと思っているのに少しも分かってくれない」
「葉子の所に行きたかった」
「芳彦の馬鹿・・・」
 葉子は涙を拭い、横を向いてしまった。何時も来て欲しいと思っていた。そして、誰にも渡さないように心も身体も奪い取って欲しかった。
 そろそろ社員が出勤してくる時間だった。芳彦は自分の席に戻って書類を拡げた。葉子を知ったのは一年前の社員旅行の時だった。その頃の葉子には恋人が居ると思っていたが、宴会のとき、いつの間にか芳彦の隣に座っていた。
「芳彦さん、恋人はいるの?」
 会社では仕事の話以外したことがなかった。そんな言葉が、葉子の口から出ることが信じられなかった。
「恋人か、いれば良いけれど、残念ながらいない」
「私、芳彦さんの恋人になれないかしら・・・でも、可愛くないから駄目かな?」
 涼しげな目許や、肩先まで髪を長く伸ばした葉子は可愛かった。会社には若い女性だけでも三十人位いたが葉子は際立っていた。
「石田さん、何時もそわそわして会社から帰っていたけれど!」
 葉子の顔色が少しだけ翳りを帯びたことを見逃さなかった。しかし直ぐ気を取り直したのか元の笑顔を作っていた。芳彦は余計なことを言ったと思った。
「そんな人、始めからいません。私、芳彦さんのことが気になっていた。でも、芳彦さん全然そんなこと考えたこともなかったでしょ?」
 隣から、工場の方で働いている同僚の光子が口を挟んできた。「北澤さんを独り占めしちゃ駄目じゃないの」などと言っていたが、構わず葉子は話し掛けた。
「芳彦さん、本当に好きな人はいないの?」
「いない」
「嘘でしょ?」
「石田さん、恋人になってくれるのかな?」
「私、芳彦さんのこと好きになりたい」
 翌日、バスの中や見学先でも葉子とは話しをしなかった。旅行が終わり、会社で顔を合わせても特別葉子に変わったところはなかった。唯、幾分暗い感じがしていた。
 旅行から二ヶ月近く経った頃だった。昼の休憩から戻ると、事務所には葉子一人しか居なかった。地図と、(土曜日の夕方待っています)と書かれた紙片を葉子は素早く手渡した。そして、そのまま自分の席に戻った。旅先の冗談として忘れていたが本気であったとは思いも寄らなかった。
 土曜日は半日だったので、事務所には社長と葉子しか残っていなかった。工場から戻ってきた芳彦にお茶を入れながら「今日待っています」と言って、葉子は自分の席に戻った。小声だったので社長に聞かれた心配はなかった。
 芳彦は迷っていた。紙片を渡された日以来、葉子の様子に変わったところは無く、可愛くて魅力的な葉子を好きだと思った。しかしそれ以上の何かを感じることはなかった。芳彦は、仕事が終わると真っ直ぐアパートに帰り夕方まで待つことにした。葉子の所まで一時間の距離である。でも、行くのか考えていた。葉子は自分のことを好きなのか、旅行の後実家を出て、アパートまで借りて自分のことを待とうとしたのか其処のところが分からなかった。
「来てくれないかも知れないと思っていた」
 ドアを開け、葉子は安堵したように言った。
「迷っていたけれど来てしまった」
「何故、迷ったりしたの?」
「一人暮らしのアパートに男が来たのでは何を言われるか心配だった」
「そうかな?・・・でも、兎に角上がって」
 葉子は心持ち不安な顔をして芳彦を部屋に入れドアをロックした。アパートは街の高台にあった。芳彦は車が置けるのか分からなかったので駅前の駐車場に入れ歩いてきた。部屋は綺麗に片付けられ、六畳の和室が二部屋に小さな台所が付いていた。既に夕飯の支度が出来ていた。
「こちらに来て」
「うん」
「芳彦さん、来ないかと思っていた」
「何故?」
 と、今度は芳彦がそう訊いた。
「だって、私のこと好きじゃないみたいだった」
「好きだから来た」
「食べて!下手だけれど、今日は芳彦さんの為に一生懸命拵えた」
乾杯と言って葉子はコップのビールを飲み干した。しかしそれからは全く飲まなかった。料理は出来合いの物が多かったが、それに手を加えてあり旨かった。芳彦はどの料理にも箸を付けた。始めビールだったが日本酒に変わってからもよく飲んだ。一人暮らしで料理など滅多に作らなかったし、外食が多かったので葉子の料理は久しぶりに食べる家庭の味がした。
「前から芳彦さんのこと好きだった。でも、ちっとも気付いてくれなかった。私が好きだったこと知らなかったの?」
 旅行の時は酔っていたようだったが今日は酔っていなかった。しかし思い詰めている様子はなかった。
「好きな人がいないなら、私の恋人になって欲しいな!」
 と、葉子は媚びるように言った。
「葉子さん」
 芳彦は、葉子さんと名字の代わりに名前を言った。甘えてくる葉子を可愛いと思った。
「私、寂しくて、どうして良いのか分からない。家を出て、一人で生活して、何処にも行かず、仕事が終われば帰ってきて眠るだけ。誰も私のこと分かってくれないし何の為に生きているのか分からない。何時も独りぼっち・・・」
芳彦は何と応えて良いのか迷っていた。芳彦も同じような生活を九年間続けている。ひとりで居ることの寂しさや、友達もいなかったし、好きな相手もいなかった。のんびり暮らしているようで、心の何処かに透き間があった。葉子と居ることで、好きになり、行き場のない寂しさが解け合い、吸収されるかも知れないと思った。芳彦はその日葉子の所に泊まった。葉子の肌は瑞々しく透明で匂やかな香りに包まれていた。しかし、葉子が自分のものになったと言う感覚はなかった。
 誰も彼も何かが足りなかった。少しずつ足りないものが重なり合い自分自身の不透明さを処理出来ない。そして、自分以外の対象に依拠することでしか現在は救われない。しかしその対象も、一定の時間を満たすのみで愛する対象になることはなく、生活の侘しさを満たすことが、愛することだと錯覚しているのに過ぎない。
葉子は、芳彦の何が必要なのか分からなかった。対象が芳彦でなくても良かったのかも知れない。現在、葉子の近くにいるのは芳彦であり、葉子を満たすことが出来る相手は芳彦しかいなかった。愛があるのではなく未来が見えてくる訳でもなかった。しかし毎日が寂し過ぎた。

 六

 週明け、芳彦は何時も通り出勤した。葉子は、「おはよう御座います」と言っただけで一日変わった様子はなかった。土曜日のことはすっかり忘れているのか、芳彦と目を合わせることもなかった。自分の気持ちを切り替えることが出来るのか、一夜のこととしたのか、芳彦には分からなかった。そのまま一週間が過ぎた。しかし土曜日のことだった。葉子は同じように、「今日待っています」と言って立ち去った。身のこなしが鮮やかだった。葉子との関係は、そんな風に始まり一年近く続いていた。
 芳彦は、自分のことを好きなのか、一緒に居ることで救われていたのか、しかし日々が過ぎるに従い、葉子は自分を避けているように感じていた。そして、曖昧な形で会っている自分に対し嫌悪を感じ始めていた。
 芳彦は何も言わず葉子のアパートに行った。
「一体どうしたの?」
 と、怪訝そうな顔をして葉子はドアを開けた。
「会いたかった。葉子が欲しかった」
 そう言うなり葉子を抱きしめた。
「先に風呂に入って、その間に食事の支度をするわ」
 葉子は新しい下着を用意した。
「芳彦さん、背中を流して上げる」
 何度も風呂に入っていたが始めて言った言葉だった。
「背中を見たの始めて。芳彦さん逞しいんだ」
 葉子は流し終えた背中に頬を寄せ、暫くの間そのままでいた。
「私のこと好き?」
 と、そう言って芳彦の下腹部を銜え愛撫を始めた。何度もベッドを共にしていたが積極的になることは無く、感じないように耐えていたよう思っていた。
「有り合わせで御免なさい」
「突然来て悪かったかな?」
「とっても嬉しい」
 芳彦は先ほどの愛撫を思い出していた。時々上目遣いで芳彦の方を見て、舌先を絡めてくる葉子は愛撫の仕方を知っていた。芳彦の中に嫉妬心が涌いていた。
「芳彦さんに会えて良かった。もう此処には来てくれないかと思っていた」
「どうしてかな?」
「だって、冷たいんだもの・・・」
 葉子は涙ぐんでいた。
「何か嫌なことでもあった?」 
「ううん、私、お見合いをしたの」
「そうか、その相手と結婚しようと思っていた」
「いいえ、そんなこと考えてもいない。義理でお見合いをしたのに過ぎない。だって私、芳彦さんのこと好きだもの」
 しかし、そう言った葉子の顔は曇っていた。
「葉子が仕合わせになるなら俺のことは考えなくて良い」
「何故、そんなこと言うの?芳彦さん、私のこと嫌いなんでしょ?意地悪な人、芳彦さんを好きだってこと知っているくせに。私が結婚しても良いの?一人になっても寂しくないの?」
 と、矢継ぎ早に言った。
「寂しいかも知れないし、寂しくないかも知れない」
「答になっていない」
「でも、本当に分からない」
 葉子にとって何と応えることが良いのか、寂しいと言えば見合いをした相手と別れ、寂しくないと言えば悲しむだろう。分からないと応えるのは理不尽だったがそう言うしかなかった。
「芳彦さん、私が結婚しても良いの?」
「分からない。でも、嫌だと思う」
「私が他の人に抱かれるのを許せる?」
「分からない。でも、許せないと思う、許せる筈がない」
「分からないばっかりのお馬鹿さん。意地悪言って御免なさい」
 葉子の中で欠けていたもの、それは、生きることへの執着心で、愛する人が突然消え先が見えなくなっていた。時々見せる無表情は、その先に自分の過去を投影していたのかも知れない。生きることが虚しいのでは無く、唯生きていることが虚しかった。
 芳彦と過ごした日々に安堵感があり、知らないうちに芳彦のことを愛し始めていたのかも知れない。しかし、微妙に変化している自分の心を捉え切れなかった。嘘と分かっていても、愛していると言って欲しかった。見合いの話しをする積もりはなかった。話して気持ちを確かめようと思っていなかった。しかし何かが違っていた。愛していても、生活を共にしても、二人の隙間を埋め、満たすことの出来ない関係だった。
「芳彦さん抱いて・・・」
 その日の葉子は乱れていった。何時もなら抱かれるのを恥ずかしがり、声を押し殺していたのに、自分のなかにある情念を燃やし尽すかのように何度も何度も芳彦の中で頂点に達した。愛することが出来れば良いのかも知れない。しかし愛しているだけでは救われないことがある。男と女の、越えることの出来ないものを越えなくては生きることが出来ない。
 二人の関係も微妙に変わっていた。日々の積み重ねの中で少しずつ変わっていったのか、芳彦が変わった訳でも葉子が変わった訳でも無く、始めから埋めることの出来ない距離があった。芳彦に身を任せ行き場のない寂しさを預けていながら、関係を深めて行くことも、埋没して行くことも出来なかった。一年近く二人の関係は続いていたが実体がなかった。一緒に居るときの安堵感や癒される思いはあっても、心震えるような情念が欠落していた。

 翌日、葉子は木野村の住んでいたアパートに行った。小さなベランダに男物の洗濯物が干してあった。一瞬、木野村が帰っているのではないかと思った。しかし、窓から覗かせた顔に見覚えは無かった。暫くの間その場に佇んでいたが立ち去った。帰り道、二人で行ったことのある喫茶店に寄った。
 窓辺を背にして木野村は座った。
『葉子は可愛いね』
 と、コーヒーを運んできた店員に聞こえたかも知れない声で言った。知り合って間もなくの頃で、葉子にとって木野村は初恋の人だった。
『馬鹿・・・』
『可愛いものは仕方がない』
『学部は?』
『経済』
『将来はサラリーマン?』
『さて、すんなりそうなるか分からない。一応経済学科だが、サラリーマンになる為に勉強しているのではない。コンピュータを睨み電卓を叩いているような仕事はしたくない。世界は広く、俺を受け入れてくれるところもあるだろう』
『木野村さん、建設的なんだ』
『そうありたいと思っている。自分の道を切り開いていきたいと思う。でも、何が出来るのか分からない。出来ないまま挫けてしまうかも知れない。しかし俺の中では既に一歩を踏み出している。死ぬときのことまで考えても仕方がないが、その時、苦しい道のりだったと思えるような生き方がしたい』
『良かったと思うのではなく?』
『苦しいとき、何時も自分が其処にある。妥協したとき、苦しみは消えていくのかも知れない』
 と、木野村は言った。葉子は、前向きに生きようとする木野村を羨ましいと思った。そんな木野村に付いて行きたいと思った。
 木野村が消息を絶って三年が過ぎようとしていた。喫茶店の片隅で葉子はもう一度東南アジアに行こうと思った。自分の気持ちにピリオドを打つ為には、木野村の痕跡を追い、忽然と消えてしまったところまで行きたかった。そうしなければ、曖昧な生活から抜け出すことが出来ないと思った。

 七

葉子は見合いの相手と結婚する決心をしていた。しかし、その前にもう一度東南アジアの国々を回る予定でいた。また、芳彦との関係を清算する為にも、【六助】から一緒に出てきた女性に会いたいと思った。あの日、【六助】から出てきた二人の姿は生きていることを既に共有し、解け合っているように見えた。それ程二人の仲は自然に映り、自分と二人の時には見せたことのない芳彦本来の姿を見たように思った。あの人なら自分の思いを理解して貰えるだろうし、芳彦に対するこれまでの思いを伝えたかった。しかし、決心したとしても実際行動して、始めて『そうだったんだ』と思うしかない場合がある。彼女に会うことを苦しいと思っていたが、芳彦への思いを断ち切る為には仕方がなかった。そして、芳彦との一年を支えてきた内面を整理して、これからの方向をしっかりと確認したかった。しかし芳彦のことを忘れることが出来るのか、別れることが出来るのか、葉子は未だ不安で不安定だった。
 芳彦の中に埋もれて生きられるのならそうしたかった。しかし、愛していると言えないことは分かっていた。そんな葉子が、芳彦と一緒に居ても苦しむに違いない。矢張り、芳彦への思いは別れることに依って断ち切るしかない。葉子は、苦しみながらも訪ねる決心した。
 日曜日、早めに家を出ると彼女の職場に向かった。階段を上って行くと、彼女の姿を直ぐ見つけることが出来た。でも、声を掛けることが出来なく暫くの間見つめていた。芳彦と一緒に居酒屋を出てきた女性に間違いないと思った。
「すみません」
 と、葉子は声を掛けた。
「いらっしゃいませ」
「買い物ではなく、お話があって、私、石田葉子と言います」
「私に」
「北澤さんのことで」
「芳彦さんのこと」
 芳彦さん、と言ったことで葉子は一瞬苦しくなった。
「お願いしたいことが・・・」
「仕事が終わらないと、でも、今日は八時迄仕事で、その後でも宜しいでしょうか・・・」
「ええ、その時に・・・」
 芳彦に対する若い女性二人の思いが交錯していた。しかし葉子は早苗を、早苗は葉子を感じの良い人だと思った。初めて会ったのに互いに理解し合えるように感じた。
「デパートの前の喫茶店で・・・八時半には必ず行きます」
「御免なさい、無理なことお願いして・・・」
 葉子は軽く会釈をして早苗の側を離れた。駅への帰り道、公衆電話の前で、ふと立ち止まり芳彦に電話を掛けようと思った。声が聞きたかった。しかし、「芳彦・・・」と呟いただけでその場を離れた。
 早苗もその日落ち着かなかった。『石田葉子』と、心の中で何度も呟いていた。芳彦さんの恋人だろう、可愛い人だと思った。二人の関係を知って話しに来たのか、でも、お願いがあると言っていたので違うことだろうと思った。
早苗は仕事が終わると急いで喫茶店に向かった。
「先ほどは失礼いたしました。篠原早苗です」
「お仕事中申し訳ありませんでした」
 二人とも何も言えないまま数分が過ぎた。しかし葉子は早苗の目を見つめ、ゆっくりと話し始めた。
「篠原さん・・・私、芳彦さんのこと好きでした。でも、来週の土曜日でお別れです。その日を最後に仕事を辞め実家に帰ろうと思っています。芳彦さんには何も話していません。話さないまま別れようと思っています・・・私には好きな人がいて、その人と結婚する積もりでいました。でも、東南アジアに行ったきり行方知れずになっています。そんなことがあって、丁度一年前に家を出てアパートで暮らすようになり、帰って来ない人を何時までも待っていました。でも、苦しくて寂しくて遣り切れない日々でした・・・偶々会社の旅行がきっかけで芳彦さんと付き合うようになり、これまで日々を重ねてきました。芳彦さんは優しい人です。何処か他の人とは違うところを持っていて、一緒に居ても安心出来る人です・・・でも、後一歩踏み込んで行くことが出来ず一年が過ぎてしまいました。私の中でその人が忘れられなかったのでしょう。芳彦さんはそのことに気付いていながら何も言わなかった。私の苦しみを、芳彦さんは芳彦さんで耐えていたのだと思います・・・寄り掛かり甘えることも出来たのでしょう。でも、芳彦さんの優しさが怖かった。こんな私を大切に見守ってくれることを済まないと思っていました・・・知らない内に愛し始めていたのかも知れません。でも、愛していることに気付くのが遅過ぎたのです」
 早苗は黙って聞いていた。自分より年若く素敵な葉子を羨ましいと思った。
「私が一緒に住みたいと言えば屹度そうしてくれたでしょう。でも、芳彦さんを苦しめることが分かっていた。分かっていながら言える筈がなかった・・・愛していると分かったとき、見合いの相手と結婚の日取りまで決まっていた・・・芳彦さんに対する思いもどうにもならなかった。失って始めて分かるのでしょう。出来るならこのまま芳彦さんの中に飛び込んでしまいたい」
 葉子の両頬を涙が伝わっていた。
「学生の頃から好きだった人を失い芳彦さんとも会えなくなる。始めからそんな風になる運命だったのかも知れません。仕方の無いことです。私の青春は終わりました。時の中に燃やし切れなかったのが青春だったのかも知れません」
「石田さん」
 早苗も目頭を押さえていた。
「気付いたときには取り返しが付かなくなっていた。互いに理解出来たとしても、何時かは気まずい思いに支配され、余計な詮索をするのかも知れません・・・生きている限り色んなことがあります。でも、出発点が、始めの一歩から違っていたのです。それを私が意識し過ぎていたのかも知れません。結局、取り除くことが出来ないまま無為な時間を過ごしていました・・・芳彦さんの優しさが今頃分かっても仕方がなかった」
 と、そう言ったきり葉子は俯いてしまった。
「石田さん」
「御免なさい、長々とお喋りして」
 別れて行く芳彦への思いを早苗に知って欲しかった。
「有り難う、お話して下さって・・・」
「篠原さん、私は貴女のことを何も知らない。でも、貴女なら芳彦さんを任せても大丈夫だと信じています。私は芳彦さんに何もして上げることが出来なかった。芳彦さんには、側に居て安心出来る人が必要だと思います。心の深い人だけれど寂し過ぎる。一人で生きられないこと知っているのに、これまで一人で生きようとしていた・・・これからは篠原さんが一緒だと安心していられる・・・二度と芳彦さんに会うことは無いと思います・・・私の、心の中に住んでいる芳彦さんは大切にしたいと思います」
 早苗は何も言えなかった。
「芳彦さんのこと愛して下さい」
 葉子は早苗の眼を見つめていた。その中にある芳彦への思いを確かめたのかも知れなかった。男と女の分かり合えないことも、女同士なら分かり合えることがある。早苗に、別れて行く人への思慕を、遣る瀬ない思いを受け止めて欲しかった。
 出会いがあり別れがある。日々は淡々と過ぎているようで、それぞれの思いを過去に残していく。葉子は一体何を得ようとしていたのだろう。しかし其処には何も無かった。そして、早苗は葉子の悲しみを知ることで芳彦のことを理解しようとしていた。

 八

数日が過ぎた。早苗は葉子のことを考える日が多く、あの日、何を言って良いのか分からなかったが、喫茶店を出て駅までの道を送っていった。一度会ったきりなのに、二度と会えない悲しみに襲われ、知らぬ間に葉子の肩を抱いていた。そして、葉子の悲しみが震える肩を伝わり早苗の思いも悲しくさせていた。
「篠原さん、前島店長が用事ですって・・・気を付けた方が良いわよ」
 と、同僚の川本が呼びに来た。四階フロアー全部を占める電機器具店は平日だったので閑散としていた。
「何故?」
 川本がそんな言い方をしたのが分からなかった。
「前に勤めていた人から聞いた話だと・・・癖が悪いって」
 と、含み笑いを浮かべた。
「有り難う、気を付けるわ」
 早苗は事務所に行った。
「遅くなって申し訳ありませんでした。お客様がいらしたものですから・・・」
「そこの席に座って」
 店長の前島は来客用のソファーを勧めた。
「実は今日社長のお供を仰せつかって、篠原君にも同行願いたいと思うが、他に適当な人もいないし無理は承知で頼みたい」
「そんなこと急に言われても困ります」
 早苗は断った。
「心配しなくても良い。事務所の女の子と店長代理も一緒に行くことになっている」
「パートですし、社長さんのお供などとても出来ません」
 早苗は何とか断ろうとした。
「篠原君には現場の売り上げ状況を話して貰えると有り難い。統計ではない現場の様子、どんな会話をするのか、大雑把で良いから頼む。一度帰って支度をしてきてくれないか」
 言うことを聞かなければ辞めて貰って良いと言う態度だった。
「分かりました。お役に立てないと思いますが、お供させていただきます」
 早苗にはよく分からなかった。分からないけれど、四人で行くなら心配しなくても良いだろうと思い承知した。七時に仕事が終わるので、その頃までに着くよう身支度を整えて家を出た。途中【六助】に寄ろうかと思ったが時間がなかった。芳彦に会わなければならないような気がした。しかし約束をしていなかった。

 接待は何事もなく済んだ。
「昨日はご苦労様、お陰で助かったよ」
 翌日、早苗が朝の挨拶をする前に前島から声を掛けてきた。
「至らなくて申し訳ありませんでした」
「君たちが帰った後、社長もパートだと聞いて吃驚していた。何故本採用にしないのか僕が叱られてしまったよ」
 理由は分からなかったが、その時、早苗は嬉しいというより嫌な気がした。本採用になればボーナスも定額出て、給料も上がると思ったが、何方でも良いと思った。その後二週間程して店長に声を掛けられた。店内を回っている時だった。
「篠原君、良い話しがあるが、今週の土曜日仕事が終わった後この店に来てくれないか」
 と、地図の書いてある店のマッチを手渡し直ぐ立ち去った。何の話しか見当が付いていた。仕事なら事務所で話しをすれば良いことであって、態々喫茶店に呼び出す必要はないと思った。
「店長、何か言っていたようね」
 様子を見ていたのか休憩時間になると川本が声を掛けてきた。
「何を話していたの?」
「良い話があるって誘われた」
「良い話ね、この間の続き?」
「多分そうだと思う」
「行くの?」
「行かなければ辞めなくてはならない」
「きっとそれが手よ。あの人、汚いって言っていたけれど正にそうね。餌で釣り上げる積もりよ」
「そうかも知れない」
「一緒に行って上げようか?」
「大丈夫、いざとなれば逃げ出すわ」
 同じパートで働いている同僚に本当のことは言えなかった。
「早苗さんって誘いやすいのよね。私は旦那がいて子供がいて女の魅力も半減している」
「そう言うことではないと思う」
「早苗さん、甘いわよ」
「行くの、止めようかな」
「お金が大切よ、お金が無いから働かなければならない。当然沢山貰える方が良いに決まっている」
「そうね」
 早苗は話を打ち切りたかった。女であることに対して違和感を持つことが嫌だった。芳彦に会いたいと思った。会うことが出来れば一つ一つが明確になってくるように感じた。
「早苗さん、恋人は?」
 と、尚も話し掛けてきた。
「ええ、いないわ」
「若いのに、でも、その方が都合良いわね」
「どう言うこと」
「何でもないわ」
 そう言い終え川本はそそくさと立ち去った。そんな風に見られていることが嫌だった。早苗は仕事が終わると帰りに【六助】に寄ってみた。しかし芳彦は来ていなかった。一人で飲むことは躊躇われたのでアパートに帰った。
 早苗は自分のなかに何かが足りないと思った。しかし、足りないのではなく満ち足りていたのかも知れなかった。ただ内在化している意識について確りと考えようとしなかった。葉子に会い、その思いを知ったが、葉子の苦しみは理解出来たとしても同じような行動が取れるのか、そして、愛し方が出来るのか分からなかった。
【六助】で別れて以来芳彦に会っていなかったが、何故会わずにいられるのか不思議な気がした。冬の始めに行くと行っていた町や海の様子は、何故私を誘ってくれたのか、その後葉子さんに会ったのか、幾つかの思いが早苗のなかで錯綜していた。早苗にとって仕合わせは奪い取るものでも掴み取るものでもなかった。人の仕合わせと自分の仕合わせを対比させても仕方がなく、あるがまま受け入れることで良かった。埒外のことに口を挟むことも躊躇われ、お喋りすることも好きではなく、変化のない日常に安堵感を持っていた。疎いのではなく、流れに身を任せ、時を待つことが早苗の性格に合っていた。しかし、芳彦への思いが微妙に変化していることに気付いていなかった。
 一人で生活していると心の支えが欲しいと思うときがある。早苗は高校を卒業すると東京に就職した。しかし、喧噪とした都会の生活が徐々に肌に合わなくなっていた。一人見知らない町で埋もれて生きることを考えたり、田舎に帰ろうと思うことが度々あった。しかし両親は既に亡くなり兄弟達は独立自活していた。そんなところに舞い戻っても仕方がなく、帰っても毎日が溜め息を吐く生活が待っていた。家を飛び出した訳では無かったが、帰ることが出来る家はなかった。芳彦のことを考えてみた。身近に居るような感じがした。しかし、その腕の中に飛び込んで行けるのか分からなかった。
 所有しないことで、相手からも拘束されないことを早苗は望んでいた。しかし早苗にとって、生きる為に明日という目的が必要だった。しかし、それらは偶然生まれるのであって、作りたくて作れるものではない。元々生きる力が欠けていたのかも知れないが、為体に自分を蝕んでいることとは違っていた。一つ一つのことに無頓着であり、興味を持ったとしても深入りすることは無く、為すが儘にしているような所があった。性格は性急に変えられる、変わるものではなく、早苗にとって、自分自身に対して興味のあることでもなかった。それが早苗の良さであり、芳彦が安堵して居られる早苗の場所でもあった。

 九

葉子は芳彦の腕の中で眠っていた。夜明けが近付いていた。「もう一度抱いて」と、言いながら芳彦の唇を求めた。頂点に達したとき葉子の頬を幾筋もの涙が流れた。別離を意識した、愛していることを知った悲しみの涙だった。この日の朝、全てが終わることで芳彦への愛の証としたのかも知れなかった。土曜日まで後何日か残っていた。しかし、それは二人の時を作る為のものでは無く、埋めることの出来ない空白だった。男と女がふとしたことから出会い、日々を重ね別れていく。分かれる理由も、分かれなければならない理由もなかった。
「私のこと好き?」
 と、葉子は芳彦の耳許で囁いた。
「今日の葉子、何か違う」
「好きか嫌いか訊いているの、答になっていない」
「好きに決まっている」
「好きなら捨てないで!」
「当たり前だ」
「でも、芳彦が離れていくような気がして悲しい」
「今日の葉子は焦燥感に駆られている」
「そんなことないわ、貴方のこと好きだもの。ねえ芳彦、来週もきっと来てね」
「分かった」
「貴方って優し過ぎるのかも知れない。許してはいけないことがあっても他人事のように構おうとしない。何があっても自分の中で堪えてしまい何も無かったかのように振る舞う。確かに芳彦の優しさだと思う」
「優しくなりたいと思う。でも、俺には似合わない」
「その優しさが辛くなる時がある。そんなに優しくしないで欲しい」
「葉子のことを理解したいと思っている」
「貴方のことが好き」
 と、言ったきり葉子は黙り込んでしまった。
 その日葉子は遅れて行くと言って先に芳彦を送り出した。芳彦は午前中工場にいたが、時間が経つに連れ葉子は休むのではないかと思った。しかし昼近く事務所に戻ると、葉子は何時ものように仕事机に向かっていた。芳彦とは一日口を利くことはなく、葉子の態度に何の変化も見られなかった。
 芳彦は今日も葉子のアパートに行く積もりでいた。行くことで、葉子の本当の姿が、そして、将来に対する二人の接点が見出せるのではないかと思った。しかし葉子は来て欲しいような素振りさえ見せなかった。
 葉子も一日同じことを考えていた。来てくれることが分かっていれば待つことが出来る。芳彦が来なければ悲しみのうちに一夜を過ごし、来れば取り返しが付かなくなる自分を知っていた。でも、それで良いと思った。全てを芳彦に預けることで何もかも忘れたかった。そんな風に生きたとしても自分を許して良いと思った。
 葉子は何時ものように事務所で昼食を摂っていた。外食した芳彦は早めに事務所に戻り葉子と二人きりになりたかった。しかし戻ってきた芳彦に(今日は来ないで)と、書いてあるメモを手渡し外に出て行った。芳彦は葉子の思いが分からなかった。数時間前まで蓐を一緒にしながら互いの思いを確かめあった筈なのに、つれない態度で出ていった葉子が分からなかった。結局、終業時間まで葉子の態度に変化はなく何事も無かったかのように過ぎた。しかし葉子は葉子で、ほんの短い時間でも一緒にいたかった。別れの決心は付いていても、未だ何日か事務所内で会うことが苦しく、芳彦と目を合わせるだけで堅い決意が崩れ去ることを知っていた。しかし間近にいる芳彦を心の中で呼び続けていた。
 長い一日が終わり芳彦は帰り支度を始めた。帰りに【六助】に寄ってみた。早苗が来るかも知れないと待っていたが会うことはなかった。アパートに帰り、風呂に入り、本を読んでいたが落ち着かず十二時近くなって葉子のアパートに行った。しかし部屋の明かりは既に消えていた。暫くの間車の外に出て眺めていたがそのまま帰ることにした。その様子を、葉子は暗い部屋の中から見ていた。仕事から帰り、部屋の明かりは点けず窓辺に座り込んだまま芳彦を待っていた。来て欲しいと思った。しかし部屋の明かりを点けることが出来なかった。芳彦の姿が月明かりの下確(しっか)りと見えていた。「芳彦来て、私の所に来て」と、心のなかで叫んでいた。しかし芳彦の許に届かない叫び声は虚しく木霊し、静寂の中に涙が流れていた。
 葉子は芳彦の所に行こうとした。身支度を整えると、もう一度カーテンを開け芳彦の立っていた所を見つめた。ひょっとしたら戻っているかも知れないと思った。しかし芳彦はいなかった。「何故・・・芳彦、何故・・・」と呟いた言葉は虚空に消え、芳彦の帰った通りを、そのまま明るくなるまで見つめていた。
 葉子の思いも芳彦の思いも同じだった。しかし二人の間に必要な時間は既に過ぎていた。取り戻すことの出来ない時間、行き過ぎてしまった時間、二人にとって確かなもので有り、失ってはならない時間だった。失ってはならない時間を失ったとき、最早戻るところはない。二人とも分かっていた。しかし、分かっていながら行動に移すことが出来なかった。その瞬間さえ越えることが出来れば、また先が見えてくる。強(したた)かに生きることも、ほんの少し曖昧な視点で出来ないことが青春だと言える。葉子も芳彦も人間として優し過ぎた。

 土曜日迄の間葉子の態度に変化はなかった。変化を見せないことで懸命に耐えていた。芳彦は芳彦で葉子の仕合わせを願っていた。唯、仕合わせが奈辺にあるのか分からなかった。
 帰り支度を始めた芳彦のところに葉子は来て、「お願い、今日来て」と言い乍ら唇を重ねてきた。葉子の頬を涙が落ち、既に全てが終わっていた。あの日の朝、芳彦の腕の中で涙を流していたとき、そして、数日前窓辺でまんじりともせず朝を迎えたとき、芳彦への思いを断ち切っていた。数分が過ぎた。葉子はまじまじと芳彦を見つめた。そして、踵を返すと部屋から出ていった。葉子に出来る最後の願いだった。止めて欲しかった。抱きしめて欲しかった。愛していると言って欲しかった。
 時を捉え切れなかった二人にとって全てのことは過去になる。捉えたいと思っても、するりと側を擦り抜け、気付いていながら見送るしかない。芳彦は葉子の悲しみを、葉子は芳彦の虚しさを感じていた。それを自分のこととして受け止め、辛さを越えることが出来た。しかし、例え出来たとしても仕方のないことだった。
 男と女の分かり合えない事柄も分かっていた。分かっていたからこそ突き進めないものを感じていた。しかし、愛することがそれで終わってしまうなら、始めから愛する必要などない。愛の形も、あるべき姿もある筈がない。得る物も、失う物もなく淡々と生活することで良い。しかし芳彦も葉子も互いに愛していながら求めていなかった。二人の間に入り込めるような透き間は無かった。そして結果的に分かれていくより仕方がなかった。

 葉子は少しずつ身の回りの片付けを始めた。東京を離れることに躊躇いはあったが仕方のないことだった。そうすることで、自分自身に決別する積もりでいた。僅かばかりの荷物の中に僅かばかりの思い出と歴史があった。そして、それが全てだった。二十数年の生活は平坦と言えばそれでこと足りた。
数日が過ぎた。すっかり片付いた荷物を見て溜め息を吐いた。何もなかった。何もないことで諦めることが出来た。しかし、葉子は纏めた荷物を見て、もう一度溜め息を吐いた。そして外に出ていった。当てなど無かったが、そんな自分の行動を許そうとした。

 十

葉子のアパートから帰ると芳彦は何をして良いのか分からず時間だけが過ぎていた。電気を消した暗い部屋で葉子は待っていたのかも知れない。そうであるなら帰ってきたことは間違いだった。しかし、もう一度のこのこと出掛けることは出来なかった。葉子の微妙な感情が交錯していると思っても自分では解決出来ないような気がした。
 ちぐはぐな時間を過ごすときはそんなものである。芳彦は早苗に電話を掛けた。帰宅している時間だと思っていたし必ず居ると思った。しかし呼び出し音が耳許で響いているだけで出る気配はなかった。受話器を置くと、何故早苗に電話を掛けたのか分からなくなっていた。芳彦は何をして良いのか混乱していた。早苗に会い、その優しさが欲しかったのかも知れない。しかし早苗を愛しているのか、葉子を愛しているのか、堂々巡りをしている自分に気付いていなかった。
時間が経つに連れもう一度葉子の所に行こうと思った。しかし、葉子を愛していると思いながらも曖昧で確信が持てなかった。「葉子、葉子・・・」と、ドアの前で叫び続けることが出来た筈である。そうすることで、自分の思いが明確になり次の行動が取れる筈であった。
 芳彦は入社した頃のことを考えた。その頃の芳彦には一年間付き合った恋人がいた。同期で入社して、仕事の帰りに食事をしたり日曜日毎に会っていた。芳彦は少しずつ好きになり始め、相手もそう感じていると思った。半年過ぎた頃には肉体関係もあったが、情欲に苦しめられるようなことはなく良い関係が続いていると思っていた。しかし突然相手は別れると言い出し芳彦は呆然とした。何故、急に別れると言ったのか理解出来なかった。それから直ぐ、彼女は職場を辞め、一ヶ月後結婚したと言う噂を聞いた。芳彦が疎いと言うことではなかったが、自分自身を信用出来なく、女性に対して嫌気がさしていたことも事実だった。その後、女性との付き合いもなく淡々と日々を送るような生活だった。
 芳彦は、早苗と葉子に対して真摯でありたいと思った。しかし、それは男の身勝手さである。芳彦はそのことに気付いていながら解決出来なかった。何が正しくて、何が間違いであるか問うことではない。芳彦も、葉子も、早苗も、それぞれが一日一日を一生懸命に生きていた。

 早苗の日常も淡々と過ぎていた。激しい情念に襲われることもなく生活に追われることもなかった。しかし昨夜、早苗は仕事の帰りに【六助】に寄ってみた。芳彦に会いたかった。待っていようかと思ったが混んでいたので仕方なく帰った。アパートに帰って来たものの不安で、もう一度【六助】に行った。しかし芳彦は来ていなかった。何か嫌な感じがした。何故そんな感覚になるのか分からなかったが、芳彦に会うことが出来れば解決出来るような気がしていた。

 その日、早苗は何時もよりおしゃれをして出勤した。忙しなく一日が過ぎ、後片付けをして九時近くなって約束の店に向かった。迷っていたけれど、明日も顔を会わせると思うと行くしかなかった。店は私鉄を二駅下った静かな場所にあった。
「遅くなって申し訳ありませんでした」
「いや、来てくれないかと思っていた」
 早苗が座るやいなや前島は席を立とうとした。早苗は此処で話しを終わらせたかった。
「食事をしようと思って、予約を取ってある」
 と、前島は用件を切り出さなかった。
「でも、困ります」
「兎に角行こう」
 躊躇っていたが前島店長の車に乗ってしまった。小さな座敷が幾部屋もある店だった。
「若いから肉の方が良かったかも知れないが、この店の魚が旨いので此処にした」
 早苗は何も言わなかった。
「この間社長と会ったとき、君のことを誉めていた」
 早苗は時間が経つに連れ帰りたかったが、何時しか前島のペースに填り込んでいた。
「飲めるのだろう?酒もなかなか旨い」
 料理が幾皿も運ばれてきた。
「と言う訳で、早苗さんも来月から正社員となる。これからも宜しく頼みたい」
 石田君ではなく早苗の名前を言った。しかし、名前を呼ばれる必要はなかった。
「ところで早苗さん、恋人は?」
「そんなこと言われても困ります」
「旦那と別れてから一年近く経っているのだろう?」
 何故、前島が知っているのか不思議だった。いろいろ調べられていたのかも知れない。
「一人暮らしで寂しくないか?」
 と、尚も早苗の個人的な生活に話を持っていこうとした。土足で踏み込んでくる前島に対して、避けようにも執拗に迫られ、小料理屋には一時間近くいた。早苗は運ばれてきた料理の殆どに箸を付けることはなく早くこの場を去りたかった。
「行こうか・・・来月から正社員として頑張って貰いたい」
「ご馳走さまでした。それに社員に昇格して下さったこと、有り難う御座います」
「いや大したことじゃない。前々から思っていたことを社長に話しただけのことだ」
「送って行こう」
 と、早苗を車に乗り込ませた。私鉄の駅まで遠かったので、前島の車で送って貰うより仕方がなかった。しかし、地理を知らない早苗は何処を走っているのか見当が付かなかった。
「早苗さんが働くようになってから気に掛かっていた。気付いていたと思うが前から早苗さんのことが好きだった」
 と、前島は走る車の中で言い寄ってきた。
「二人で話をする機会が欲しかった。しかし、なかなか話し掛けることが出来ず苦しかった」
「・・・・」
「早苗さんのことを欲しいときが何度もあった」
「・・・・」 
「君も子供じゃないのだから分かってくれるだろう?」
 そう言い乍ら早苗の手を掴んだ。
「離して下さい」
 早苗は抵抗した。
「旦那と別れてから一年も経つじゃないか、義理立てる筋合いでもないだろう」
 そのまま近くのモーテルに車を入れた。
早苗も油断していたが妻子のある前島が性急に言い寄ってくるとは思わなかった。前島は運転席から離れると直ぐ助手席に回って早苗を抱き寄せた。必死で抵抗しても早苗の力では敵わず、無理矢理部屋に連れ込まれた。前島はここまで来たことでやっと安心したのか、早苗を掴んでいた手を緩め、そして、「好きだったんだ」と言いながらベッドに押し倒した。酒臭く男の嫌な匂いがした。早苗は必死で抵抗した。しかし男の力は強く、押さえつけた早苗の衣服を剥ぎ取っていった。

十一

 何も言わないまま去ることを許して下さい。でも、貴方は全てを分かっている。そして、許してくれるでしょう。私には確かに好きな人がいました。でも、もう会うことはない。貴方は出会いの始めから気付いていた。そんな貴方の鋭さが苦しかった。いえ、日々を重ねるうちに苦しくなっていった。今更何を言っても仕方がないと分かっています。でも、貴方に強く抱いて欲しかった。そうすれば私は変わっていった。そのことだけを望んでいた。貴方に抱かれる度に私の過去が遠ざかって行くことを知っていた。出来るなら貴方の許に居たい。そして、過去の全てを捨ててしまいたい。そんな風になりたいと何時も考えていた。これで良いのか、間違っているのか、私には分からない。でも、こんな風に別れの手紙を書いて去るしかなかった。
 一ヶ月間ほど東南アジアの国々を旅行してきます。私の過去を清算する為にも行かなくてはなりません。貴方にお話しすることはなかったけれど、東南アジアに行ったまま行方不明になっている人です。大学を卒業する頃に出会い、ほんの短い日々を過ごしたのに過ぎなかった。でも、それが私の全てだった。それまで恋らしい恋とは無縁だったのに、その人との出会いは衝撃的だった。でも、出会いから別れまで半年もなかった。運命的な出会いなんてある筈がないと思っていたのに、彼は、私を待っていてくれたかのように現れた。二人で過ごした日々は短かったけれど充実した私自身を知る機会だった。でも、終わってしまった。恋なんて、そんなものかも知れません。行方不明になった後、あんなに辛い日々を送っていたのに、今では自分が苦しんでいたのかさえ分からない。東南アジアで、彼の痕跡を追って何が得られるのか分かりません。でも、そうすることで、自分自身に対して納得出来るような気がします。
 貴方のことが堪らなく好きだった。でも、結果的に突き進んでいけなかった。こんな私なのに、貴方は私のことを何も言わないで受け入れてくれた。しかしその優しさが何時の日か私の重荷となっていた。これ以上日々を重ねれば、二人は、毎日悲しみと虚しさを感じなくてはならない。愛している貴方の側に居ながら悲しいのでは・・・そんな風になりたくなかった。二人とも遣りきれない思いを抱いて生きているなんて出来ない。加齢が情念を和らげてくれるのでしょうか?・・・いいえ、依り深く傷付け合うようになる。超えることの出来ない思いとなるのでしょう。
 貴方の情愛に始めて触れたとき、私のことを分かってくれると信じていた。しかし、貴方の中に戸惑いが有ったこともまた事実でした。そんな心の躊躇いや戸惑いを貴方は隠そうとした。でもそれは貴方の優しさから来ていることだった。本当は、貴方から問い詰められたかった。そうすることで、貴方と私はもっともっと近付くことが出来たのでしょう。
 二人で過ごした日々は楽しいことばかりでした。社員旅行に行ったときのこと覚えていますか?・・・私は酔った振りをして貴方の隣に座った。だって、貴方は仕事をしているとき、何時も詰まらなそうな顔をして、私に対しても冷たい顔ばかりしていた。そんな貴方に何時しか興味を抱いていた。そして、私の悲しみを知って欲しかった。いけないことと知りながら貴方なら分かってくれることを信じていた。
『何故、何時も暗い顔をしているの?』
『普通だよ』
『それが貴方の普通?』って言うと、余計真面目な顔付きになり、『もてない訳だ』って言った。
『その顔、好きよ』
『上げようか?』って絡んできた。その時、優しいんだと思った。
『相手が何かを感じている時って自然と分かるけれど、北澤さんって少しも分からない』
『存在感が無い?』
『有り過ぎて分からない』
『そんな風に言われたの、初めてだな』
『素敵だと思うけど?』って言うと、貴方は暫く考えていた。そして、『石田さん素敵だね』って貴方は言った。何時も知らない振りばかりしていたのに、私のことを理解して受け入れてくれる人だと思った。でも本当は、私が貴方を理解しなければならなかった。そうすることが一番大切なことだった。
 三ヶ月位経ったときだったのでしょうか、ベッドの中で訊いた。
『何処に行くの?』
『山だよ』
『本当に連れていってくれるの?』
『ハイキングコースだから大丈夫だよ』
『だって、山登りなんて経験がない』
『二、三回日帰りで、その後テントを持って一泊で登りたい。その為には身体を鍛えておく必要がある』
『だめだめ、とっても敵わない。山があるから登るのではなく、遠回りしても避けて通ります』
『葉子って、案外臆病なんだ』
『いいえ、頭が少しだけ良いってこと』と言った瞬間、貴方は激しく私を抱いた。嬉しかった。抱かれることがこんなに嬉しいなんて知らなかった。
『ずっと好きでいてくれる?』と、私は訊いた。
 何故、貴方は優しいのですか?・・・でも、貴方が優しい分だけ苦しんでいることを知っていた。『生きていることに苦しんでいる分だけ優しくなれる』と、貴方は言った。私もそんな風になりたいと思った。そして、『葉子、何時悲しみを知るようになった?』って訊いた。
『知らない』と、私は応えた。
『葉子って、良い女だね』って、貴方は言った。
 貴方に出会えたことが私を支えてくれました。あの頃の私は本当に苦しかった。東南アジアで行方知れずになった彼は、どんな風になってしまったのか、不安や悲しみが入り混じり毎日毎日が耐えられなかった。でも、何時の日か必ず乗り越えられると思っていた。
 貴方と居るとき、私の側には何時も彼がいた。彼の残像を貴方に重ねようとしていた。いけないと思いながら、そんな風にしか接することが出来なかった。貴方は、そのことを感じていながら耐えていた。それなのに、私のことを、良い女って言ってくれた貴方の優しさが嬉しかった。
 入社してからの私を貴方は何時も庇ってくれた。何故だったのでしょう。そんな貴方と一緒に居ることで段々惹かれていった。旅行から帰ってきて、一度貴方のアパートに行ったことがありました。階段を上って行きながら貴方が居ないことを願っていた。震える指先でドアをノックした。でも貴方はいなかった。私は慌てて階段を下りた。駅への帰り道、自分の行動が信じられなかった。何故、行ったのでしょう。そう、好きだったから、貴方に会いたかったから行ったのです。その日、私は落ち着かなかった。誰かに見られていたのかも知れないと思ったり、貴方が窓から覗いていたのかも知れないと思った。翌日、会社に行っても貴方のことが気になって仕事にならなかった。
 二週間ほど前から貴方への手紙を書き始めていました。白い便箋に文字を埋める度に貴方への別れが近付いていきます。貴方の許に、この手紙が届く頃私は東京を去ることになります。貴方に出会えて、貴方の優しさ触れて仕合わせだった。これから先、貴方のような人が、私の近くで生きていてくれることで、私は心安らかになるのです。ですから、二度と会えなくても良いのです。一緒に居ることだけが仕合わせではないと思います。私は、そんな小さな仕合わせがあれば辛くても生きていられるのです。短い間でした。でも、貴方を一生懸命愛しました。
 ペンを置かなくては・・・そして、明後日には東京を離れることになります。二度と戻ることはないでしょう。寂しくても辛くてもこれで良いのです。
 さようなら・・・     葉子

 葉子は封印すると溜め息を吐いた。そして、小さな声で、さようならと言った。暫くして、自分自身に対して、寂しいのかなと問うた。しかし、答の無い問いだった。

十二

虚しい時間が過ぎていった。男の力に負けてしまったことも、油断していた自分にも悲しかった。抵抗しても敵わなかったことが、犯されたことが悔しかった。
 早苗は前島が風呂に入った隙に衣類を持ち逃げ出した。左右を見渡しても知らない場所だった。暗闇の中で衣類を身に着け素足のまま車道を歩いた。車のライトが見える度に藪の中に身を潜め、行く当ても帰り道も分からなかったが何も考えずひたすら歩いた。街路灯も無い真っ暗な道を歩いていても怖さは感じなかった。雨が降り出してきた。ぽつりぽつりと落ち始めた雨は何時しか激しさを増していた。
 二時間近く歩き続けていたのだろう、早苗は中空を見ていた。激しく降る雨に全身から滴が滴り落ちていた。暫く間、雨の中に立ち尽くしていたがまた歩き出した。家のある方角は分からなかったが早く帰りたかった。冬を間近にした冷たい雨は激しさを増し、早苗の悲しみを、生きることの悲しみを打ち砕き洗い流すかのように降り続いた。
 夜明けが近付いていた。何も考えられず疲れも感じなかった。身体は凍えそうに冷え、意識は少しずつ薄れていたが、自分のアパートに帰ろうとしていたのだろう、薄れて行く意識の中でひたすら歩き続けていた。朦朧とした意識と疲労困憊の中で幻影を見たと思った瞬間、早苗はその場に倒れた。

 芳彦は早苗を三日間看病した。氷のように冷たくなって、階段に倒れていた早苗を部屋の中に運び入れ、汚れた衣類を脱がしベッドに運んだ。部屋を暖かくして、自分も服を脱ぎ捨て早苗の冷えた身体を抱いていた。夜が明けてきた。一時間、二時間と過ぎて行く毎に、早苗の身体は少しずつ温もりを取り戻してきた。朦朧とした意識の中で時々芳彦の名前を呼んでいた。芳彦は早苗の掌を握り愛撫を繰り返した。
 早苗は、その日の夕方になってベッドに凭れ眠っていた芳彦の名前を呼んだ。「芳彦さん」と、一言呟くと又眠りに落ちていった。死んでいるのか、生きているのか、夢を見ているのか、現実なのか分からなかった。夢の中で芳彦に会っているような気がした。そして、次ぎ日の夜も明けようとした頃だった。
「芳彦さん」
 と、早苗ははっきりと芳彦の名前を呼んだ。
「早苗・・・」
「芳彦さん、有り難う」
芳彦は、その日も一日中早苗の側を離れなかった。その後も、早苗は目を覚ましたり眠ったりの状態を繰り返していた。夕方、芳彦は熱いタオルで早苗の身体を拭い髪を梳いた。
「有り難う」
「早苗は強かったね」
「一生懸命歩いた」
「食べられるかな?」
「うん」
 芳彦は粥を拵え始めた。

 早苗一人を残すことが心配だったが翌日は会社に行った。事務所内の様子が変わっていた。出勤している筈の葉子の姿は何処にも見あたらず机の上は綺麗に整理されていた。
「社長、おはよう御座います。勝手に休みを取り申し訳ありませんでした」
「具合は良くなったか?」
 芳彦は簡単に事情を話しておいたので社長はそのように言った。
「有り難う御座います。意識も戻り、もう大丈夫だと思います」
「石田君、土曜日で仕事を辞めたのだが、代わりが見つからなくて困っている。君も忙しいのは分かっているが、他の仕事も手伝ってやってくれ」
「分かりました。石田さん、急にですか」
「一ヶ月ぐらい前から分かっていた。しかし、誰にも言わないようにと口止めされていた。送別会をやりたかったが仕方がない」
 社長は自分の席に着き仕事を始めていた。芳彦はそれ以上訊くことが出来なかった。その日芳彦は一日中仕事が手に付かなかった。早苗のことが心配であったし、何も言わないまま消えたようにいなくなった葉子のことが気になった。集中出来ないまま仕事を終えると葉子のアパートに行った。
 芳彦は道路端に車を停め葉子の部屋を眺めていた。カーテンは既に取り外され誰も住んでいる様子は無く、他の部屋の間で取り残されたように葉子の部屋だけ暗かった。土曜日、この場所から暗い部屋を眺めていたことが思い出された。その日、芳彦は何をして良いのか分からず、迷いながら時間だけが過ぎていた。

・・・葉子は、俺との関係を何れ精算する積もりでいた。しかし俺は、俺自身に対して、葉子に対して曖昧だった。葉子のことを大切にしたいと思いながらそれが出来なかった。何時しか、曖昧さが葉子との別離を迎えていた。葉子は土曜日に待っていたのだろう、待っていることが分かっていて行くことが出来なかった。会うことが出来れば、葉子の中で、俺の中で、生きる方向が見いだせたのかも知れない・・・と、そう心の中で呟いた。
 芳彦にとって葉子を失い早苗を得たことではない。葉子の中で、芳彦の中で、早苗の中で一つのことが終わっていた。誰も彼も失いながら生きている。確実なものなど何もない。癒されることも慰められることもない。間近に在ることを淡々と対応し、日々を過去に押し遣ることで生きているのに過ぎない。虚しいと言えば虚しく、悲しいと言えば悲しいのかも知れない。激しく情念を燃やしていると思っていても、実際は淡々と日々を送っているのに過ぎず、過去は幻影のように消えていく。

 芳彦は急いでアパートへ帰った。部屋の明かりは点いていず、カーテンも引かれたままだった。早苗は眠っていた。芳彦はベッドに凭れ早苗を見ていた。蒼白だった早苗の頬に少しだけ生きる精気が戻っているように感じた。
「芳彦さん、お帰りなさい」
「元気になった?」
 と、心配そうに訊いた。
「芳彦さん、私・・・」
 芳彦は早苗の目を見つめ蒲団の端から伸ばした掌に掌を重ねた。
「早苗・・・」
 と、言いながら芳彦は小さく首を振った。早苗の目頭から涙が流れていた。季節は既に冬の始まりを迎え、静まり返った部屋に木々のざわめきが聞こえていた。
「元気になって良かった」
「芳彦さん、海に連れて行ってね」
「行こう、一緒に」
「芳彦さんと行く海辺の景色のことを一日考えていた」
 と、早苗は芳彦を見つめながら言った。芳彦は早苗の頬を撫でながら優しく唇を重ねた。

                                                                                      了

忘れられた景色

忘れられた景色

一日一日が淡々と過ぎていきます。生きることはそんな一日の中に有るのかもしれません。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-27

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