蒼い空 深い海2
「時計は毎日同じ時間に巻くのよ。」
数を唱えながら、母の親指と人差し指とが小さなリューズを巻き上げた。
「いち、に、さん・・・。」
私は後を追うと、母は時計盤に微笑んでいた。
サファイアガラスにとても綺麗に映りこんでいて、私は、その時の彼女の涙に気づくことはなかった。
鈴ちゃんのスタジオのミニライブをするようになってから、ちょこちょこお呼びがかかるようになってきた。
「君、ボーカルエミちゃん?よね?」
年に一度の花火大会からも声がかかってきて、今日は打ち合わせにやってきたのだが、担当者の横にいる、イベント・ディレクターは驚いた顔で恵美の顔を人差し指で示した。小指半分立てながら。
「忘れたとは言わせないわよ。」
例のスチールを作成したときに立ち会っていた広告代理店の、おねえ担当者のことを、頭をめぐらせて、ようやく思い出した。
「あの後、君の都合で止めます、って事務所からも言われて、そのまんまになってしまったんだけど、無事だったんだ。」
ポロシャツとチノパンのクールビズの彼はどう見ても普通のサラリーマンではない。
「・・・お久しぶりです。」
「いやいや、驚いた。こんなところで会うなんて。」
「急に就職が決まったので、デビュー中止です。」
適当に話をつじつま合わせないと、困ったことになるし、迂闊に話すこともできない。
「その当時みんなをがっかりさせたくなくて事務所と相談して脱走しちゃいました。すみませんでした。」
ぺたぺた触ってきやがってと隼が嫌がっていたことまでよみがえってきた。
「・・・それなのに、ここで唄うの?」
「アマチュアで、楽しくやっています。」
チノパン男はふーんと一瞥した。ああどんなシチュエーションでも、一緒は苦手だ。
「お陰でたっぷり、煮え湯飲まされました。」
まるまる大損ということは無いだろうが、久保木隼の母親からは、あがない程度はいっただろうから、金額はトントンくらいであろう。大げさなのだ。
「で、どれだけ、あんたは貰ったの?」
淳が鼻歌混じりに冷静に返す。
「さあ。会社が貰ったからねえ。」
この件については、会社からも不問のままで、プロジェクトはそのまま立ち消えた。
それっきりだ。
恵美が帰りたい、と百合のバックを引っ張って訴えようとした矢先。
「なら、それで決着じゃないか。女々しいぜオ・ヤ・ジ。」
「・・・せっかく、儲かるかなあと思ったのに。」
「人の夢で食いつないで、つまらなくない?」
「それがわたしの仕事。」
「けぇ。そういうこと言うんだなあ。」
百合がびっくりした表情のままで、淳を見詰める。もともと、オタク系の突き詰めタイプだというのは、十分承知していたが、この件についても、じっくり調べていたようだ。
「変な話、聞かせてしまった。」
これが、恵美が、ここまで流れてきた理由。
淳は打ち合わせに入る前に今回の出演を断った。百合も涼平も同じ気持ちだった。
メンバーに嫌な気分にさせる担当者がいる場合は断るというルールが出来ていた。
帰り道途中のハンバーガー屋で席を陣取り、今後を話し合う。
「当分、ライブハウスだけにしようか。」
淳は涼平を見て告げる。
「俺も、今回この担当者が、まさか、コンストラクションズの件に関わっていたことを知らなくて、恵美、ごめんな。」
深々と頭を下げられて、恵美は百合に困った顔をする。
「・・・。」
こんなところを、本部施設の関係者に見られたりしたら、とんでもないとさすがの恵美も知っている。無駄に半年近くここで過ごしてはいない。
「淳、恵美が困っている。」
百合が助け舟をだした。
「私も気がつかなかったのは、かなり鈍感だ。」
淳の趣味には百合でもついていくことが難しいらしい。
「涼平は知っていたの?よねえ。」
「ああ。そうだなあ。」
「それだけ?」
「そんなのどうでもいいやと思っていたんだよ。興味ないし。」
「どうでも?」
「ここで俺たちと一緒に唄っている、それでいいじゃないのか。」
「知らないの、私だけ?」
百合は、二人を見比べる。
「黙っていた?」
淳がたしなめる。
恵美は、タイム、と言い残して席を立った。
「おい?どこへ行くんだよ。」
「トイレでーす。」
足がかっくんとこけたり、人にぶつかりそうになっているし。
「お前ら。泣かせちゃったじゃないか。」
百合と淳が言い合うのを一瞬止めて涼平を見つめる。
「どうしてくれるんだよ。」
こうなると出てくるのを待つしかない。
「今度、また話そう。俺は出てくるまで、ここで気長に待つとするよ。」
淳は、ああ、そうだねと、うなづいて、百合を促して席をさっさと立った。
涼平は幸いにも、ここのトイレが男女兼用だったので、やはり待てずに十分ぐらい待ってから、ドアの外で、ノックして、二人は帰ったからと、告げた。
「城嶋。帰るぞー。」
突然、ドアが外にあき、涼平の額にガン、とあたる。
「痛いよ。」
「あー、すみません。ぶつかりました?」
「勢い良すぎ。酷いなあ。はい。これ。」
横を向きながら、顔を見ないようにしてバックを渡す。
「席で待っているから、お化粧直してから出直して。」
そうでないと、俺が泣かしたと誤解されても困る。更に10分位かけて、何とか顔を作り直してきたようだが、目の真っ赤なのまでは化粧しきれない。鼻もなんか赤いし。
「ひでえー顔。」
追加で買ってきたコーラのストローをくわえながら、噴出してしまった。
「駄目です?」
まったく、と睨みながら買ってきたおいたジンジャーエールを前に置く。
「・・・二人は?」
「とりあえず、座って。百合が一人だけ仲間はずれにしてって。」
頭の上に指を立てると恵美はああ、とうなずいた。
「後で、私も謝っておきます。」
「そうだね。そうしてくれよ。ほれ、それ飲んで。」
ぱちぱちと炭酸が喉に伝わり染みる。
「美味しい。」
笑うと顔がぱりぱりして痛い。ぎこちない表情にこっちも痛くなりそうだ。
「そりゃあ、良かったな。」
炭酸は疲れたときにいいとか誰かがいっていた。
「二人は、君の事仲間だと思っている。俺は、そんな甘いことばかり言っていられないけど、君が怪我したり、傷ついたりするのは、護衛している以上俺も困るの。だから、抱えていていることで、言える事は言って。そうでないと、対処するのが大変。」
「・・・すみません。面倒かけています。」
さっきまで涙が流れて仕方なかったのは久しぶりに蘇ったからだ。
ウタウコトガ、オカネニナル。
ツクルコトモ、オカネニナル。こと。
彼は創る事が辛いから、唄っただけなのに。ベース鳴らしていただけなのに。
「ホント、その通りだよ。」
最寄駅からは、徒歩10分くらいで永田一佐の家にたどり着く。マックのあった駅から二つ乗って、改札をでた売店の前で、恵美は立ち止まった。
「初めて会った時、ここで助けてもらいました。」
「ああ。あったなあ。そんなこと。」
「戻るときに、私の目の上の傷のこと、聞きました。覚えています?」
「そんなことあった、なあ。」
「瀬島さんの言うとおり。」
涼平は息を吸い込む。
「正解?」
「そうです。」
少し間をおいた。
覗きこむと目の上にあった傷は、目立たなくなっている。
「彼のことから、逃げている、ってずっと後ろめたかったんです。でも、さっき、プロデューサーと会って、認めます。私も彼らと同じ。私は、唄いたかったんです。その為に彼と一緒にいたのだから、同じ。」
「・・・他のメンバーは気がつかなかったの?」
「絶対、知られないようにしていました。」
だから、全てを絶ってきてしまったというのもどうだろうかと思う。
「なんで?」
「そんなこと、ぺらぺら喋ることじゃあないでしょ。」
「そうだけど。」
最初にも同じように投げつけてきたのと全く同じ言葉になんとなく気分がよくない。
「相談くらい出来る人間くらいいたんじゃないのか?」
「いたかもしれないけど、怖くて。」
「怖い?あんな怪我していたのに。」
「私、すごーく恨まれている。解散した理由は他にもあるのだけど。あのオヤジはともかく、メンバーには本当に申し訳ない。」
コンストラクションズはコンペ参加仲間で飲み会で盛り上がって、結成したのだ。
「みんなのこと好きだったはずなのにね。」
行き先板がパタパタと動き、電車が行く音が遠ざかる。あの時と同じ。
「真実って、黒か白でしょ。オトモダチの感情に厳格な白黒って俺、どうでもいいと思う。」
「・・・。」
「その彼とオトモダチの延長で付き合っていた同士なら、なおさらそうだったんじゃあないの。」
これは推測なんだけど、と心でつぶやく。
「俺は君が、怪我のことちゃんと話すことが出来てよかったと思う。」
涼平は何自分で言っているんだろうと少し混乱していた。
「淳と百合は俺の大事な仲間なんだ。ただのオトモダチじゃないから、白黒つける。でも、それで好き嫌いになることはない。今までと同じ、お互いに頼るの。君はどうなの?一体、どうしたいの?」
自分でもいらついているのがわかった。
ぐちゃぐちゃ考えているだけで、何になる。過去は変えられない。目の前や先を見なければ進めない。いい加減に気がつけばいいのに。
「信じられるから仲間。俺らにはそういう関係が大事なの。」
ここへ来たのは、逃げてきたというのもある。それでも、別の目標を見つけて、目的に向かいなおすチャンスを掴んだ。ここで研究も続けられる目処がついたし、唄も続けられる。既に選んでいるはずなのに、過去にいつまで捕らわれ続けている。
「私、弱いって思われたくはない。」
「一人、だと弱いから、仲間が必要でしょ。」
すとんと、喉につかえていたものが、落ちたようだった。まじまじと遼平をみあげる。意外だ。弱いということを認めていること。
「弱いこと隠したら、ずっと強いを演じることになる、そんなの、辛すぎない?」
そういいながら、今はむやみやたらに喋ることの出来ない秘密をかき破りたくなる。
「・・・君の昔のこと興味ないなんて百合にはそう言ったけれど、嘘つき。俺。」
「・・・。」
「君が目の怪我の原因、ようやく白状して、ほっとしたもの。それって、どうでもいいや、じゃあないってことでしょ。あの二人もそうだよ。」
ふっと笑みを見せた涼平は時計を確認した。
「突然君が固まってしまったりするでしょ。そうすると、あいつらは何かあったんだろうと推察する。大人だから、突っ込まないよ。でもね、それでもね、嫌なことに合わないように、そうさせるものを排除しようと動こうとする。そういう奴らなの。そういうの、仲間って言わず、なんて呼ぶの?」
声にはならならなかったけれど、恵美は仲間と口で形作る。
「来週の途中から10日間、淳と俺は訓練なんだ。後ろの週末に百合と見においで。飛ぶかどうかは、解らないけど。」
恵美は思い出す。同じように誘われたのだ。あの時も。冗談だとずっと思っていたが。
「気分転換に。どう?」
迷っていると、涼平の携帯が鳴り出した。
「・・・誰だよ。話途中なのに。」
ぶるぶる震える端末の表示を見れば、淳からだ。
「もしもし。」
当然にぶっきらぼうで応じる。
「あっ、電話今まずい?」
引き気味で相手が応じる。
「なんだ、淳か。」
「明日の練習だけど。」
淳は離れた席の百合を眺めながら、ため息をついた。
このままだと、今週末の練習はなんだかしにくい。淳はめずらしく練習をパスして、百合と出かけると連絡してきた。
恵美も同じ気分だ。練習も休みたいと正直に言う。気分が乗らない。そんな時に唄っても意味が無い。
「実家の掃除しに行きます。」
加藤の実家と同じ最寄り駅にある恵美の実家には今は誰も住んでいない。
「運転手するから俺も一緒に行っていい?」
このまま一人で帰せないと思った。
「おばちゃん、うるさいんだよ。ちーっともこないって。年末行かなかっただろ。」
恵美も昔から知っている、加藤の姉は、ちゃきちゃき、の漁港にいるお姉さんそのもので、物言いがはっきりしている。
「あのう。」
「なんでしょ。」
「瀬島さん、私に振り回されていませんか。」
「振り回されている?」
「会わないとならない人とかは、大丈夫なんですか?」
護衛がうざったくなってきた年明け頃から、敷地に入ってから、資料室と図書館に寄ってから研究室に行くようにしていた。
実際に調べ物をしてから研究室に行くのだが、うっかり時間が経つのを忘れて、加藤教授から昼めしどうするのかと携帯宛に着信がくることもたびたびある。
図書館から借りた分厚い資料を十冊ほど両手で抱えて歩いていた時には。
「城嶋、平気かあ?」
「・・・」
ベンチで女の子と話していた時だったので、そんな時までわざわざ、大声で声掛けなくてもと思う。
大体隣の女の子に申し訳ない。
勿論、はっきりと解らないけれども、その女の子は気分を害した雰囲気で、こんな調子で居心地悪い。
ここぞとばかりに聞かれてしまうと、涼平は、余計なお世話だなあ、とばかりに、大丈夫と答える。この状況で、お互い彼氏も彼女も居たら、さぞ毎日憂鬱な日々なことだろう。
「いくら任務でも、もし、私の彼氏が女の子の護衛だったら、穏やかではないですよ。いい加減にしたらどうですか?」
「君も、嫉妬深いの?」
「女の子はみんな、そうでしょ。」
「おー、怖いなあ。気をつけよ。」
淳やオヤジはともかく、他の男の子と一緒だと、そりゃあいい気分はしない。加藤研究室は奥まっているので、恵美が永田研究室に寄って帰るのが最近は定番になっている。ついこの前、めずらしく遅いので、一念発起で涼平が出向くと、加藤は居らずだったが、カッターで怪我した後輩を手当てしているところに出くわし、怪我した奴には罪はないが、思わずむっとした雰囲気を出してしまい、恵美に冷たくかわされたのだ。
「ほーんと、任務に忠実ですね。瀬島三尉?」
その時のことを思い出す。
「なんかさあ、運転でもして、スカッとしたいし。ほら、俺、きついこと言ったよなあ。めげられて、このまま、君が戻ってこないのも困る。オヤジに怒られちゃう。けっきょく振り回されているっていうのはあたりかもね。」
既に、オヤジとは冷戦状態ですが。
「私、信用ないですね。」
「そりゃあ、その事務所と口裏合わせてとは言え、前例あるからねえ。首根っこ掴んでおくのも、護衛のうち。」
涼平はからかう口調で付け加える。
「君の取りこし苦労だよ。」
涼平の運転で、高速で湾を越えて対岸に渡る。帰りはフェリーを予約した。
車寄せで恵美を落とすと、帰る時に連絡するように言われる。
涼平はそのまま、加藤の実家へと向かう。
「恵美ちゃんは?」
「家の窓開けと掃除、で、俺はお邪魔なのでこちらに来ました。」
「あんた、1年振り?位?」
「そうかなあ。そんな経つ?」
「全然、ここによりつきやしないもんねえ。」
「中途半端な位置なんだよー。ここは。」
ここは、基地から飛び立つと足下に見えるところだ。そこからパラシュート降下でもすれば即到着だが。
「それなら、恵美ちゃん送りがてら、これからもくれば?」
「俺はあっしーか?」
「違うの?」
「仕事。」
「仕事って。あんた忙しいの?」
「・・・監視。」
「・・・。」
なんで一人で置いてくるのと思う。
「で、匠は元気?」
「相変わらず。」
しばらく会っていないが、何も連絡無いし、恵美も何も言わないからよろしくやっているのだと勝手に思っている。
「たまには、来る様に行っておいて。」
「はーい。」
「昼ごはんは?」
「まーだ。」
「それじゃあ、そこに素麺あるから、茹でて。」
「それは、誰がやるの?」
「あんたしか、居ないでしょ。暇な人。」
「俺、がやんの?」
「セルフでよろしく。」
相変わらず人使いが荒い。
「働かざるもの食うべからず。」
「わかったよ。何把?」
「30把。そうだ、めんつゆもつくって、みんなの分もよろしく。恵美ちゃん誘ったら?」
「止めとくよ。そんな時間ないでしょ。」
「そうねえ。じゃあ、夕飯は?」
「なーんも、考えてない。」
「それなら、早めに夕飯たべておいき。それは声かけたら?」
「そうするよ。早めって、何時くらい?」
「四時。彼女昼抜きでしょ。」
「菓子つまんでいるんじゃないの?」
「ごはんにならないでしょ。電話、すぐ掛けなさいよ。」
「わかったよ。」
電話を掛けると案の定1回では出ない。
3回程コールしてようやくかかる。
「もしもし。」
「掃除?忙しい?」
「忙しいですよー。なんでしょう。」
「おばちゃんが、夕飯食っていけって。だから3時半位に迎えにいくけど、大丈夫?」
「ありがとうございます。よろしく伝えてください。」
「じゃあな。」
とりあえず網戸を洗い、布団を干し終わり、あとは掃除機とトイレと風呂掃除だ。
すっかり汗だくだくで、着替えを持ってきて正解だと思う。
風が入るたびに熱風だ。それでも、都会より涼しく感じる。
百合に電話したら、その週末は空いているというから誘った。あんなことがあって、まだ少しめげているのも事実。ゆっくりここで、風にふかれてまどろみたいという気分だ。
その前に、掃除機と水周りの掃除だ!
最後にシャワーも浴びてしまおう。
紺の襟付きのクラシカルなワンピースにきっちりと着替えた恵美が現れた。
こちらは、チノパンにポロシャツだ。ホントはTシャツ半ズボンにしたいくらいだがそうは行かない。石鹸の香りにくんくん鼻を鳴らす。
「犬みたい。」
「暑くるしいよ。野郎は。」
加藤の実家の切り盛りをする希は、恵美の母親を知っている上に、恵美とも面識があるものだから、気楽だ。
「恵美ちゃん、いらっしゃい。」
「こんにちは。」
年末に顔を合わせた以来あっていない。 恵美も実家に来るときは車で、ここは通り過ぎてしまうことが多い。
「ちっともよっていかないのだもの。年末来た時の後も窓を開けにちょくちょく来ているんでしょ。」
「短い時間しかいられないので余裕無くて。」
「忙しいわね。」
「お恥ずかしい。」
「フェリー予約とってあるなら、間に合うように、さっさっと夕飯、ありあわせですが、どうぞ。」
「いただきます。」
ありあわせと言っても。刺身もあり、煮物もあり、嬉しい限り。涼平は黙々と、はしをつける。
「涼平、お味はどう?」
「丁度いいよ。」
ご飯をぱくっと口に放り込む。
「このあたりの味付け、ちょっとしょっぱいんだって。」
「そんなこと無いと思うけど。」
「醤油がちがうのかしら。」
「ふーん。私も、気をつけよう。」
希は目を丸くする。
「恵美ちゃん、一人暮らし?じゃあないわよね。」
「最近は良子おばさまのお手伝いくらいしかしていないです。」
「希おばちゃん、おかわり。」
涼平が茶碗を突き出す。
「・・・はいはい。」
料理するんだ、という表情をしていたら、不意打ちで言われ、希は慌てて茶碗を受け取る。
「再来週、百合と、良子おばさまが泊まりにくるんです。掃除出来て助かりました。」
「百合も来るの?」
「昨日の晩、来週車に乗っけてくれるって電話くれた時に誘ったの。そうだ。再来週、また寄ってもいいですか?」
「もちろんよ。」
加藤から恵美が涼平の上司の家に世話になっていることを聞いている。
「きっと、匠もお世話になっているだろうから、是非ご挨拶したいけれど、お店を空けるわけにわいなかないのでね。お立ち寄りくださいと。」
「はい。伝えますね。」
食事が済んで、片付けを手伝うと申し出たが、フェリーに間に合わないと困るからと、そのまま送り出されてしまった。
「それじゃあ、待っているわ。」
「はい。」
「涼平は?」
「俺は基地で訓練。空からご挨拶するよ。」
「気をつけてね。じゃあね。」
一本道はスムーズだった。
「休めました?」
「とんでもない。ここで、めんつゆ、まで作ったの。俺。」
「ごろごろしていよう、って言っていませんでした?」
「甘かった。素麺作らされ、店番にされ、働けってさ。」
先週も、加藤教授もガスコンロでお湯を沸かして、出汁とってめんつゆつくって、素麺ゆでていた。このときも研究室に居合わせた面々はご馳走になったのだが、いつも美味しいのだ。涼平も呼んでこようかと聞けば、むずりと、呼ばないでいいといわれたので、すごすご引き下がったばかりだ。
「ええ、いいなあ。私もご相伴に預かりたかったなあ。」
「そうなの?」
普通、反対でしょう。
「邪険にされ、まったく土産買って行ったのになあ。」
「いらっしゃいませ?」
「客なんかこないよ。」
まったく。来るお客さんはみんな、君宛、なんだよね。
「おばちゃんが、昨日、君が来るってしゃべくりまくったらしくてさ。」
「・・・田舎ねえ。」
同級生とかが、連絡寄こせと言っていた。希は伝えておくとメモをのこしていた。
恵美は腕と脚を軽く伸びして、窓の外を見る。海水浴へ行くときに通った道だ。
流れる風景に寄りかかるようにしながら、空を見上げながら、目を瞑る。
「早くつくかもしれないから、港でお茶しない?」
涼平は走り出してから、声をかけると返事が無い。
恵美がうとうとしているのに気がつく。
信号待ちで肩を揺らす。
「おーい。疲れたなら、あきらめて、背もたれ少し倒して寝てくれよ。もし、ふらふらされたら怖い。」
「はあーい。」
あくびをしながら素直に言うことを聞いて、シートを傾けた。結構な体力を使ったのだ。
「いいなあ。お気楽で。」
答えは返ってこない。
ふうっと、大きく息をついて、ガムを噛む。
ラジオの音を少し絞る。
夕焼けにすいこまれ。ゆっくりゆっくり進んでいる感覚。たそがれ時の胸を潰されるような空の色、なのだけれど、思わす斜め横を見て笑ってしまう。過去の事を話す機会があったせいだろうか。昨日、やはりどうしてもやっておきたくなった曲の修正の時も遠まわしな雰囲気が消え。このままだったらいいのに。
この道は、渋滞すると、1時間は足止めになるのに。
結局、一時間半くらいで、フェリーのターミナルに到着した。
起こすまでもなく、きっちり目覚めた恵美は、背もたれを戻して、腕を前に伸ばす。
「街の方が光っている。」
夕暮れも終わりかけのこの時間帯は混ざりあう光と影とが、せめぐように、黄色くなり、だんだんと白みを強め、はっきりとしてくる瞬間の手前。
「空からのほうが、もっと綺麗だよ。」
「ここからで十分。」
欲がないのねえ、と思うのだった。
「帰りはフェリーでよかったです。」
「そう?」
「瀬島さんの運転、きびきびしすぎているんです。私ついていけない。」
「追い越し車線を走れば、ああなるでしょ。」
「そうですか?」
恵美が運転するより1.5倍は速くに到着したのだから。
「君はとろとろ、走行車線、走るの?」
「安全、に走行車線走ります。道間違えるのが怖いんです。」
「そういうの、とろとろっていうの。却って危ないよ。」
「・・・う、る、さーい。」
運転が苦手だろうとは思ってはいたが。こういう反応されて余計に笑ってしまう。
「・・・そんなにおかしい?ですか。」
腹筋が痛い。
「そりゃ。意外。」
道順や車線変更するポイントが頭に入っていないと走るのが怖いのだ。特に高速道路は。
「研究室に居るときと違うんだなあ。」
研究室では忙しいのもあるが、マシン廻しながら他の作業をしたり、と合間合間でくるくる忙しく動き回っている。
「・・・。」
「でしょ?」
「・・・瀬島さんみたいに回転早くありません。けど、遅いなりに、どうにかしているんですから、ほうっておいて下さい!」
すっかりむくれて恵美はつんとしたまま、さっさと歩き出す。
「ねえ、どこ行くの。おちゃ、あっち。」
恵美は立ち止まる。
「このまま怒ってもいいけれど、あさっての方向いったら、目的につけないでしょ。今は君だけだからいいけど、集団で君先頭だったらどうするの?」
涼平はゆっくり反対方向に歩き出す。
恵美は振り返る。
離れて行く背中を、ぼんやりたちつくして見つめた。
「おーい。置いていくぞー。」
涼平は、ついてくる気配がないので、からかい過ぎたかと、立ち止まる。
「俺、喉、渇いたんだ。」
涼平は、ゆっくり戻る。
「今、何時?」
恵美は、バックから携帯電話を取り出す。まだ7時過ぎたばかりだ。
「運転手を労わってくださいよ。さっき、気持ちよさそうに寝ていたものなあ。」
腕時計、していないんだと思う。
バングルのような手首に巻きついたやつ。
例のスチール写真にも映っていた。
「すみません。少し考え事しちゃいました。」
加藤教授も決して話そうとしない。こちらからも、切り出す勇気もない。勿論涼平に聞くわけにもいかない。二人のけんかが自分のこととからんでいるらしいという噂を聞くだけだ。彼の背中に映る、自分の変化をまじまじ見せ付けられたようで、それは戻れないと薄々気がついていて、足がすくみそうになる。
頭を振ってみる。認識は変わらない。それが現実。
背後に消えていく風景画の続きが延々と続くような地平線に囲まれて、百合の運転は勢いよく目的地まで馳せている。トラブルに目論見が外れ、約束の時間まであと20分前。にも、関わらず、あと10キロは走らないとならない。
恵美はステアリングを握る手の持ち主である百合の腕時計をのぞいた。
先週から、涼平と淳は、飛行訓練に参加していて、時間の掛かるここまで百合は恵美を連れて車を走らせている。
「あせらなくても。つかまるほうがソンじゃない。」
「時間までに入らないと、門前払いになっちゃう。」
「ふーん。厳しいのねえ。」
「着いたら走るわよ。」
「ええ?私パンプスはいているのに?」
「・・・なんでこういうときに、そんなの履いてくるのよ。」
「スーツで、そう言ったのは百合でしょ?」
夏でも冬でもローヒールショートブーツの百合は、その辺り無頓着だ。
「じゃあ、スニーカーにする。」
恵美は後ろのバックの下からぺちゃんこになったスニーカーを引っ張り出し床に落とし
急いで靴紐を整えた。
「これでいい?」
「・・・なんか可笑しい。」
信号待ちで聞かれて、覗き見る。
「やっぱり、パンプスにしなさい。」
「ええ!また変えるの?」
「先にあんたを落す。すぐ追いかけるわ。」
「もう!」
いわれるまま、パンプスに履きなおすと、百合は車寄せにつけ、窓を下ろす。
「中に入って、受付に声かけておいてね。」
慌てて百合は車を走らせる。
「何て言えばいいのかなあ。聞いていなかった。」
ぽつんと人気が少ないここで落されて、ため息をついた。
「本日、こちらにお邪魔することになっています。城嶋と永田です。永田は車を停めに行っています。」
小さなガラス戸を右にすべらせて声をかけると、眼鏡を掛けたおじさんがむこうだよ、と後ろに続く廊下を指す。
「ありがとうございました。」
動きのわるいガラス戸をつよく引っ張り元にもどした。
「遅い。」
響き渡る声に、恵美はやばいと、ゆっくり振り向く。一番指摘されたくない声の持ち主が、口調のきつさのわりに、表情はこわもてではなかったが、腕を組んで立っていた。
悔しいもので、怒鳴られると、しゅんと謝ってしまうのだ。
「ここでは時間は厳守。五分前に行動は終了って言っているでしょ。」
「ごめんなさい。」
やはり時計を買ってこようと決意した。
さっときびすを返して、進もうとする。
「ちゃんとついてこないと、また迷子だぞ。」
「・・・百合は?」
「あいつは、ここのこと知っているから放っておけばいいさ。来ているってそこの親父に声かけした?」
「しました。」
涼平の後をついていくと、まずは中の案内をしようとしているらしく、ここは○○で、あそこは◇◇と、説明する。ふーんとうなずき、中を覗き見る。さすがに個人の部屋の前では牽制する。
「あまり、変なもの探さないでね。しまってあるとは思うけどね。」
「変なものって?」
「ここ、男の子ばっかりでしょ。」
「はいはい。」
「ここは俺と淳の部屋。」
言われた部屋の入り口で首だけそっと覗いてみる。
「淳?あらら、いない?」
「百合をつかまえて、そのまま散歩いったみたいだ。」
「部屋、きっちり整とんされているんですね。」
「そりゃあ。ビリは腕立て伏せなんだぜ。」
「まじですか。」
「今日、俺も淳も飛ばないことになってさ。だから機体乗ってみる?」
「いいんですか?」
「動かないけれど、乗ってみるのは大丈夫。」
「乗ってみたいです!」
「それじゃあ、先にランチでもする?」
「賛成。」
百合が飼っていた猫が吐いてしまい、病院で検査をすることになり遅くなったのだ。猫はご主人様が出かけることを察知した、赤ちゃん帰りのような症状で、大したことはないのではあるが。
食堂へ連れて行かれると、淳と落ち合えた百合が手を振っていた。
「何がいいの?」
「おそばにしようかなあ。」
「なら、注文はこの奥。俺は定食。」
恵美はもう一つ奥のカウンターで冷やし山菜おろしそばを頼む。
あっという間に流水で冷やされためんの上に具がのり、お稲荷さんを一緒にトレーの上にぼんと載せられる。
「おじょうさん、彼女?瀬島三尉の?」
突然、カウンターの向こうから声をかけられ、恵美は眼をぱちくりさせた。
「・・・かなり無理がある誤解です。」
「瀬島が女の子連れてきたの、初めてなんで、そうなのかなあなんてね。」
「はあ。」
「やはり。ふられっぱなしなんだなあ。あいつは。」
好奇心丸出しの視線に、恵美は耐えられそうになく、だれでもいいから助けてと心で叫んだ。
「変なこと一般のお客さんに吹き込まないでよ。オヤジの大事な教え子なんだからな。」
「匠クンの?うらやましい。いやあ。いいものを見せてもらったなあなんてね。」
「勝手に鑑賞するなよなあ。やらしい。」
「じゃあ、遠目でひそやかにしておきましょうかね。」
そこを、そっと離れかけていた恵美のほうをふりむく。
「淳と百合が席とってくれているから、そこに行っていて。」
「はーい。」
百合が腰を浮かして手招きしてくれたので、すぐに場所がわかった。
「涼平は?」
「食堂のおじさんと話している。」
「・・・ああ。相変わらず、目ざといなあ。」
淳はトレーの上のから揚げを一口ほおばり口の中を一杯にする。
「この手の話題は、妄想が楽しいのよねえ、狭い世界で、そう楽しみもないので、勘弁してやってね。今、涼平仕返ししているから。って、早いわねえ。涼平。ちゃんと仇を討ってきたの?」
「何の?」
さっと席についてトレイをつつこうとする涼平に百合は唖然とする。
「・・・あんたさあ。カツーんと、」
「いやあ。褒められたので、こんどお酒でも差し入れするよと言って来たよ。」
「あらあ。白旗?負けてきたの?妄想戦争に?」
「負けも勝つも。もう、食堂に来るまでに伝言ゲームが進んでいたらしい。優秀だなあ。一字一句、間違っていないもんなあ。そんなわけで粗品贈呈約束。俺完敗。」
「・・・ふーん。」
横に気配がして、百合は見上げる。
コトリとテーブルに湯のみを置く恵美は、そっけない感じだ。
「ああ、ありがとう。」
「どういたして。」
淳の分もまわしてと、百合にもう一つは手渡す。
「お茶いります?」
「いる。」
恵美はトレーの端にぎりぎり強引にねじりこむ。こぼれはしないが結構斜めになり、微妙なバランスで支えられ、恵美は席に座ってもくもくと山菜おろしをほぐす。
「先に機体のほうにいっているよ。」
「了解。」
百合は外に出て倉庫に向かう道で思い出してしまう。
「お茶いります?で、いる!だよ。淳。」
「俺もやって欲しいなあ。」
「駄目。似合わないもの。それに、私は恵美みたいな怒り方しないもの。」
「ええ?恵美やっぱり怒っていた?」
「そうでなければ、強引にトレーに押し込まないわよ。微妙に斜めって。」
「ははは。あれ、どうなったんだろう。」
どうせ、味噌汁を取ろうとするときにでもトレーの中でひっくり返って、恵美はすっとぼけて笑いながら、大丈夫ですかー?とでも言うのだろう。
「亭主関白は、存在をみとめません。って言っても、目の前であてられちゃあねえ。」
「そうだろう、ねえ、お遊びでやってみたい。あいつら、まだ、護衛と護衛されているだけでしょ。」
「本当にそうなの?」
百合は淳を覗き込む。
「俺、そう聞いているよ。」
「あんなに好き好きオーラ出しているのに?」
「見えるの?そんなの。」
「見えるわよ。涼平やらしい。」
「女って、こわー。俺、気をつけよ。」
百合はじろりとにらんでみせた。
「いい加減にすればいいのにねえ。そうだ。来週恵美の実家に遊びに行くの。」
「へえ。お出かけ?」
「だって、あなたは居ないでしょ。」
「恵美の実家って、俺たちが訓練で飛ぶエリアだったなあ。もしも見かけたら、メールでもくれよ。頑張ってハートマークとかさ。」
百合はまじまじと淳をのぞきこむ。
「どうしちゃったの。」
「なんだよ。」
「そういうの、嫌いなのかなあと思っていたけれど、意外。」
ちょっとうらやましいんなんて言えない。
「・・・俺は本当は、そういうの好きなの。」
百合は、いいわよ、と笑って答えた。
「ね、あとどれだけ持つかなあ。で、ああいうのは遊びでもいやよ。私。」
「ケチ。」
まだ、父親が健在だったとき。
母親はエンドウ豆の鞘むきをよくした。
その横で鞘の中の綿毛の上を豆でころころもてあそんだ。
鞘を半分外された豆は、布団のなかでお行儀よく眠っていたところを起こされてしまったように見え、恥ずかしそうに見えるのだ。
時々、それを指先で起こす。
転げて床に落しては、はいつくばって、慌てて拾い上げる。
駄目よ。食べ物であそんでは。と母にやさしくたしなめた。
そのころを思い出すのはなぜなのだろう。
手を握られるとふっと、眠りに入った。
その晩は一緒に飛んでいる夢を見た。
ジェットではない、古いプロペラ機。
青色のボディに赤色のライン。
雲の上は青色と、黄色い光がまばゆかった。
機体は空に溶け込んでいて、スカイダイビングするように雲のクッションの上を軽くジャンプする。
そのまま、背負ったパラシュートと一緒に、空の中に飛び込んだ。
眠りの中では、私も飛ぶことが出来る。一緒だ。
同じ空の色を焼き付けた。
悲しいとか、つらいとか、マイナスを溶かしてくれる。
その色はとても蒼い。
「おーい?」
機体のコックピットを覗かせてもらう。
思ったより地面まで高さがある。高いところはやはり嫌いだ。地面とここまでの空間を無意識に測ろうとする。
飛べないかもまだ私。お父さん。
「夢では飛べるのになあ。」
涙。そんなものまで落ちてくるし。
今は吹き飛ばすこともできやしない。
しゃがみこんだままで。
かさかさ音をたてるポケットに忍ばせていた箱のことが気になって仕方が無い。
「これ。」
永田一佐の家を出てしばらくしてから、恵美に手渡した。
「あけてみて。」
簡単な包装を解く。
「時計。」
パイロット向けメーカーの時計は恵美も知っている。時計と涼平の顔とを見比べる。
「最近、時計していないでしょ。なくしたのかなあと思って。」
「ああ。えっと。」
あの時計は、箱に入れて引き出しにしまった。
「さすがに新品は買えなくて。ベルトは新品に換えてもらったけど、時計は中古で勘弁して。」
さすがの恵美もこの相場は知っている。
「これ、けっこういいお値段のものなので、私、びっくりしています。」
“ただ”の時計ではない。
「時間厳守は大事って常々言っていたでしょ。この時計なら時間狂うことほとんどないし。」
「・・・。」
「これからずっと、時計は必要だよ。」
「・・・ありがたく使わせてください。それと、この前すみませんでした。」
「あのあと、大丈夫だった?」
「本当にすみませんでした。足元が見える高さ駄目なこと、忘れていました。」
本当に、動けなくなってしまったのだ。
教官に女の子を泣かせたと、少々のお説教を頂戴し、見学の申請も通っていたし、問題は無かったが、この事件は、ぱーっと広がり、百合は親衛隊からつるし上げられ、散々だったらしい。
「城嶋。」
「はい。」
「それ、貸して。」
時計を手わたすと、さっと左手をとられる。
恵美は腕に巻かれるバンドをぼんやりみつめた。穴を通すが、ゆるい。くるくると廻ってしまう。
「後で穴あけよう。」
研究室に道具があるはずだ、淳にきいてみるか。涼平はそっと引かれていく手をゆっくり離した。
「ありがとうございます。瀬島三尉。」
涼平はふっと、目をみはる。が、頬を真っ赤にした彼女がいて、目が緩みそうになる。
「いーえ。どういたしまして。」
「あのう。また、見にいってもいいですか?こんどは飛んでいるところ見たいです。」
「もちろん。誘うつもりだったし。百合も同じこと言っていたし。」
「じゃあ楽しみにしています。」
恵美を送り届けてから、研究室に入ると、既に淳がパソコンとにらめっこしている。
「あーあ。朝から君たち何しているの。」
「・・・見ていたの?」
「通りがかりでね。まったく。左手とって。朝からやらしいなあ。」
淳はめがねをずりあげ、わざとパソコンの画面に吸い込まれたふりをする。
「時計。」
「時計?」
「渡したの。」
「で、20万?」
「よく値段しっているな。」
「おまえこそ、そんなお金あったな。」
「淳みたいに、お金かける相手がいないからな。」
「失敗。今までお前に借金頼めばよかった。」
「これからでもいいぞ。ただし、金利はしっかりいただく。」
「しっかりしているなあ。で?」
「それだけ。だよ。」
「ええ?俺てっきり。お前、朝からやるなあ、なんて思ったけど。キスくらいしてもらったのか?」
残念だけど、あの歌姫様は一筋縄ではいかない。夢では飛べるのになあ。が空耳だったら良かったのに。でなければ、普通の女の子が好きそうな時計渡す。パイロットが使うメーカーの時計なんて渡さない。
「温かく慰めてくれる?淳くん。」
「・・・俺、面倒に付き合うの?」
「親友でしょ。」
「今更、友情ごっこはするつもりはないぞ。たっぷり、はまってやる。」
「さすがみこんだだけある友よ。なにせ、難攻不落の歌姫様ですから。」
「で、振り向いてもらえそうなの?」
「・・・この前から、いやなこと聞くなあ。あーそうだ。革に穴あける道具ないか?時計のバンドの穴を開けたいんだよ。」
「・・・そこの引き出しに入っているはず。」
「ああ、本当だ。後でかして。」
「俺以外の人間がいないときにしてくれよ。みんなかわいそうにいたたまれなくなるからな。」
まずは、なんどもあたって砕けろ。そして、ごもっともと、パソコンの電源をあげた。
涼平と淳は論文を纏めると、とんぼ帰りでまた訓練に戻っていった。
良子は、一緒に実家に泊まりに、というよりも湯治についてきた。最近疲れ気味というのも気になる。
「おばさま、いいなあ。ずっとここにいたんでしょ。私も今度たくさん泊まりにきていい?」
「じゃあ、ここで合宿する?」
「いいの?」
温泉が気に入った百合は満足そうだ。
「海が綺麗ねえ。」
「この前の飛行機、この沖を通ることがある。」
「ふーん。」
先週淳が、見かけたメールを欲しがっていたことを思い出した。
「それは、間違いなく、そういう飛行機たちね。」
「・・・あんな曲芸するんですか。」
「サーカスではないのよ。」
「どうちがうの?」
「ふるい言い方だけど、お国の為に飛んでいるか、そうでないかの違いかしら。」
午前から二時くらいまで研究室でデータ分析にいそしんで、二時くらいにお昼兼ねて永田研究室でお茶をし、1時間ほどしたらまた研究室に戻り17時くらいまで分析のルーチンな生活をしているなかで、淳はそれほど篤く語るタイプではないしどちらかというとオタクタイプに見える。と理解している。涼平とはことなる、知的な雰囲気なのだ。
「淳は飛ぶ、という雰囲気ないよね。」
「そうねえ。どちらかといえば、研究のほうがむいているかもね。ずっと、私はそっちのほうが向いているよ、っていっているのになあ。」
なんか疲れていた。
百合にも、淳が時々わからなくなる。昨日まで宿直だったせいなのだろうが。本人にその気がないなら詮無いことだと思っていたのに。興味半分、話の方向を変えがてら、つい聞いてしまう。
「ねえ。恵美はなんで涼平のこと、苗字で呼ぶの?おもしろいなあって。」
突然自分のことに矛先が向いて、どぎまぎする。
「そう?」
「淳と私だけ名前でさ。涼平って呼ばないの。」
「それは、ほとんど一緒に行動しているでしょ。事情知らない人や特に彼女に誤解されてしまったら困るもの。」
「へえ。そう思っていたの?」
「その位、私だって考えマース。」
そう、と百合は答えた。
「あら。恵美ちゃんの言っていた通り。」
おばさまが海の向こうに見える小さな粒を見て窓辺に向かって指ししめす。
その粒はみるみるうちに大きくなり、天井ぎりぎりを掠めて飛ぶ錯覚をもたせた。
百合はベランダにでてもういちど機影を追う。
恵美も追いかけて空を見上げる。
機体の番号を探す。
「恵美。早く。うわあー、早すぎて見えないよ!」
百合は通り過ぎるとき手を振った。あっという間に揃って遠ざかって、空から降るように下りていき、再び天へすいこまれていく。
恵美はアドレス帳を開き、選んだ。そして短い題名だけのメッセージを送信した。
見つけました。
「さっきの飛んでいたところ、百合たちみていたんだってなあ。」
「そう、らしいなあ。」
涼平はパタンと携帯画面を閉じる。
「お前の携帯にもメールランプちかちかしていただろ。恵美から?」
「ああ。そうだよ。」
「へえ。よかったなあ。涼平。」
「・・・そうだね。」
「なんだよ。他人事みたいな言いかた。嬉しくないの?」
軽くいつものようにこずいてみたが、ノリがイマイチ。
「涼平?」
涼平がまじまじと淳に向かいあう。
「お前、百合を置いて死んじゃうかも、とか考えたことある?」
「無いよ。」
目の前のこの男は余分なことを考えるのが苦手だ。
「空で死ぬことあっても、思い残すことないやって思っていたけど、違うよな。」
「はあ?」
まじまじと、涼平を見下ろす。
「・・・何言うかと思えば。当たり前じゃないか。そんなこと。」
面倒なことは出来るだけ排除していたし、その選択も上手い。そんな命の危険が迫っていること何てあっただろうかと、笑い飛ばすつもりが、握り締められた携帯に、淳は理由を悟る。
「お前、どうかしちゃった?」
「別に。どうもしていないよ。」
淳はそんなことを言い出す涼平を、初めて見たから戸惑う。信じている世界が揺らいだかと思うぐらいに。
「来週から、恵美は訓練?」
「ああ。来週ね。」
訓練期間は、学校に詰め込まれてしまうので、見かけることはあるかもしれないが、会うことはない。
「それじゃあ、護衛も卒業?」
「ようやく面倒から解放ですよ。」
涼平がロッカールームを出る際で、メールの着信のランプが主張していた。
機体番号を覚えていたことにも驚いた。
返信を選んで、空白を少しだけ埋めた。
恵美、見つけてくれて、ありがとう。
送信した瞬間、認めてしまったことに気がつく。
「いままで、ありがとう。って、恵美に言って貰ったの?」
「全然。」
「・・・お前からも、切り出せなかったんだ。」
「礼言えよ、って言うの?俺から?」
「でも、護衛お仕舞いだから、時計渡したんだ?」
「そうだよ。」
淳はあきれる。
「断られたらどうしたの。」
あんな高価なものを・・・。
「・・・俺、勝ち戦しかしないもの。」
もう、あの、時計していなかったし。
「お前、勝算わからない、なんていっていたくせして。」
ちゃんと計算しているんじゃないか。
「・・・親の心、子知らず。」
加藤教授が可愛そうになってくる。
「・・・なんだよ。それ。」
1ヶ月くらい前に、永田一佐と呑んだとき、加藤も一緒だったのが、涼平への愚痴も聞かされることになりお互いに頑固だなあとあきれたのだ。
「お前のことだよ。涼平、うだうだ言っていないで、シャワー浴びてこいよ!汗くさいんだよ。」
淳は即、百合に携帯を開きメールした。
部屋の隅に置かれたキュレーターには、色あせているが、民間の航空会社の制服を着て写っている若い二人が並んでいた。その横に、一人増えた写真も並んでいて、だんだん今の恵美に似てきているから、恵美とその両親の写真だろうと百合は思った。
棚の中には帽子と、揃いで2つの腕時計が飾られている。さっき、メールをする恵美がうれしそうに液晶を見詰めていた。だから、はっとする。さっきの飛行機騒ぎで、恵美の言いかけたことの続きを聞き忘れたこともあったが、そんなことはどうでも良いと思った。
「恵美?」
百合の声はすこしかすれていた。
「恵美は、涼平のこと好き?だよね。」
恵美はまじまじと百合を見詰める。
「多分、じゃなくて。」
「みんなのこと、好きだよ。」
今一度、百合は写真に向かいなおす。
「この、お写真、ご両親?だよね。」
「そう。」
写真から目が離れない。
「空のお仕事を、していたの?」
「小さい頃は、私も空港傍の保育園から父が乗る飛行機探して、ものすごく楽しかった。」
「今は?」
恵美は首を振る。
「・・・それなのに?」
恵美は、百合の視線をしっかり受け止める。
「・・・瀬島さんに聞くように頼まれたの?」
「あいつがそんなこと、頼むかしら。」
苦笑いしか出てこない。
「涼平はああ見えて、私と違って気が長いの。だから傍から見ているとまどろっこしくて。」
「まどろっこしい?」
うんていの上に上って歩く遊びをしていた時、校内放送がかかって自分の名前が呼ばれた。一緒に遊んでいた二人が、呼ばれているよと教えてくれたが、歩ききってからと思って、下りなかった。そこへ見つけた母が叫んだ。
「恵美!」
不意をつかれて、バランスを崩しそうになりながら地面に着地した。
「恵美!何しているの!」
「ママこそ、急に声掛けないでよ。」
恵美はそこから後のことはあまり覚えていない。何故ならすぐに学校も変わったし、生活の場所も変わった。
着地の為に降りるには勇気が居る。
「ぶっちゃけた話、恵美が涼平としたいと思うか、ということなんだけど。」
真っ赤になって恵美はあきれる。
「・・・色気ない。イヤだ。既婚者は。」
「そういうことでしょ。究極。もうそんなことわからないなんて言う、お子様じゃあないわよねえ。」
「・・・。」
「周り男ばっかりの中で、平然としていられるのは誰のお陰?」
ぐっと唇をかみ締めて、こんなに追いつめてくる百合は、意地悪っ子だ。
「キスとか手をつないだとかそんなことも無いのに、いきなりそんな話なんだもの。そもそもお付き合いなんてしていない。」
百合はあっけらかんと、告げるので驚く。
「えー?そうだったの?」
「そうよ。彼は命令、に忠実だもの。」
涼平に口説かれて、とりあえず位の感覚で付き合い始めていたのかと思っていたのだ。
「この前一緒にここへ来たんでしょ?」
「下まで連れてきてもらっただけ。その後、先生の実家で店番していたんだって。」
「ふーん。」
「・・・百合。でも。」
「なあに?」
「私、今日はね。一緒にいないのが、寂しいのは本当。不安でどうしようもない。飛んでいるのを見た時はなんとも思わなくても、行ってしまった後はやっぱり怖くなる。百合は?淳が飛んでいるところ見るのは怖くない?いなくなったらどうしようとか、思わない?それで平気なの?」
そんなこと思ったこともあるけれど、そんなこと、考えていたら、いくつ心があっても足りない。頭によぎる考えが表情に出たような気がして、振り払う。
「・・・そりゃあ。淳がいないのは、物足りないわよね。」
恵美は話しながら、眼をしばしばさせる。
「候補生になるのは、もう護衛されたくないからだもの。」
「えっ?・・・護衛されたくないの?」
「命令抜きで私のこと、見て欲しいの。」
「・・・あんた、かわいい。」
「・・・からかっている?よね。また。」
「そうよ。さっさか、好きだのこうの言えばいいじゃないの。」
涙をこらえる様子を見詰めながら、こういうところを、涼平が好んだところだろうが、心配するところでもあろうと思う。
「涼平に、そう言った事あるの?」
「ない。」
「どうして。」
「・・・自信ないんだもの。」
「・・・好きなんでしょ。」
視線が写真を捕らえる。
「飛んだまま帰ってこなかったらって。考えちゃう。」
恵美は百合をじっと見詰める。
「怖いよ。」
「恵美は、涼平のこと、好き?」
「好き。」
「じゃあ、それでいいの。」
昨日、淳から涼平のテンションが高くて付き合いが大変だとこぼすメールがあったばかりだ。
「・・・涼平も怖いと思っているんじゃないのかしら。それをちゃんと、確かめてみないでどうするの。」
「怖いなんていうわけ無いでしょ。」
「違うわ。飛ぶことじゃなくて。恵美にちゃんと信じてもらえないことが、涼平にとって怖いの。」
網戸のされた窓でカーテンがゆらゆらゆれている。
「涼平を信じなさい。それで好きだよって、ちゃんと伝えるの。」
「・・・それだけ?」
「恵美は、なんでも自分でどうにかしようとしすぎなのよ。」
すっきりした。百合は、もうこの話はお仕舞いだと、布団を抱えなおそうと腰をかがめかけた。
「・・・百合。私。」
「・・・?」
「前まで付き合っていた彼に、私暴力受けていたんだ。」
百合は息を呑んで、姿勢を戻した。
「・・・だから男の人とお付き合いするのも、怖い。どうしたら怖くなくなる?どうしたら、普通になれる?」
「・・・恵美。」
恵美はため息をついた。
「普通になりたいよ。私。」
時計をしてもらった時、離れがたかった手のひらの感触を思い出すだけでドキドキするのに。
「傍にいると、辛い。」
握りしめていた携帯電話が指から滑り落ちる。
「大好きなのに。傍にいないとこんなに寂しいのに。」
ストラップについている鈴がちりんと鳴った。
「どう見ても、普通の恋人同士じゃない。そうでなければ、あんたをここまで連れてくるなんてしないわよ。涼平は、前の彼氏のこと知っているの?よね。」
「・・・最初の日に、絡まれそうになったところを助けてもらった。」
「うわー。修羅場だわ。それはほんと。怖いわ。」
百合は冗談言いながらも震え上がってみせる。涼平の口の堅さにもあきれながら。
「あんたは、うちのバンドの大事なボーカルでもあるんだよ。ホントに無事で良かった。」
恵美は少し考えてから、うなずいてみせた。
「・・・百合、迷っているときは、これからも、力貸してくれる?」
「じゃあ、私にも。力貸して。」
「勿論。」
「お互い様よ。」
「ええ。約束。」
百合の携帯がメールの着信を知らせた。開いてみると淳からだ。心の中で、怪訝を吐露する。
「淳から。疲れちゃったから、あさって迎えに来てほしいんだって。それで、恵美も一緒に来て欲しいのだそうよ。」
「淳からなのに?」
「・・・涼平に今日メールした?」
「見つけたよってメールした。」
「返信は?」
「あった。」
なんて書いてあったの?とはさすがに聞きづらい。
「で、変な様子なかった?」
「・・・普通に思えたけれど。」
百合は迷う。涼平が不安定になっていることをそのまま伝えてもいいのだろうと。
「・・・彼からのメール見せて欲しいのだけど?」
恵美は、一瞬躊躇するが、フリップを開いて、涼平からのメールを見せた。
百合は、短いメールを見て、恵美を思わず睨みつける。どう見ても、これは彼からの告白じゃないの。
「子どもみたい。」
淳が涼平のことで、戸惑うことなど今までない。密かな淳のより所なのだ。時折そんな関係をうらやむ部分が、飛行気乗りに向いていない、と思うところに出てしまうのだ。涼平は生まれながらの飛ぶ人間で、あなたはそれに引っ張られているだけなのと。その涼平が、こうなる原因は、恵美がおかえり、と言ってあげられる存在になることを迷っていたからだ。
百合は恵美を抱きしめる。
「百合?」
暑苦しくはあるが、嫌ではなかった。
「涼平が調子崩しているの。だから、恵美から、あさって私と迎えに行くことをメールしてあげて。それだけでいいわ。」
まだまだ、十分時間はある。
特別展に入場するまで1時間位待った。中も混雑していた。
目的のものを見終わったときはもう夕方近くで、最上階まで吹き抜けになっているロビーも閑散としていた。
お茶をしていきたいが、そろそろ出発しないと帰りが遅くなってしまう。ペットボトルを二本買ってきて、ソファで脚を伸ばす恵美に手渡して横に並ぶ。
恵美はミネラルウォーターを受け取り、キャップを廻すが滑ってしまう。タオルでカバーして廻そうとしていたところを取り上げられる。
「どーぞ。」
「ありがとうございます。」
いとも簡単にぷちっと音を立て、廻ったキャップとボトルが戻ってくる。
「疲れた?大丈夫?」
うなずいてみせると、自分の分のキャップを、ぷちっと回して、一気に飲み干す。
「すっきりした。」
一口だけ口をつけてキャップをくるくる締めたばかりのボトルを要ります?と見せると要らないよと手を振られ、バックにしまった。
「夕飯、いっしょにどう?」
時計の針はあと十分で五時に向かっていた。
「もうこんな時間。」
ここについたのはお昼ちょっと前だったが、
いつの間にか5時間近く経っていた。
「今日、お迎えに来てくれたお礼したいんだ。」
恵美がどうもとうなずき、涼平は更に続けた。
「それと、あさってから訓練だから、君をもう護衛するのはお仕舞い。」
「そうでした。今まで、ありがとうございました。」
頭を下げると、涼平はにっこりしてみせた。それなのに。それだからなのかもしれない。
「どういたしまして。いよいよ君は、一般の人じゃあなくなるんだねえ。」
改めて言われると一瞬で不安で一杯になるがそんな素振り見せるわけにもいかない。
「ようやくお仕事に専念できますね。」
「その通りだよー。」
跳ぶ機影を見たとき、嬉しかった。だからメールを送った。でもその後、寂しかった。
どうしようもなく。
傍に居ても埋められない距離がうっとうしく感じる。
「さっきから、気になっているんだけれど。右手、どうかしたの。」
「・・・?」
自分の右手をくるくるひっくりかえしてまじまじとみる。
「べつになんともないですけれど。」
「ほれ。貸して。」
涼平は中指の先を持ち上げて。
「ささくれ、発見。」
クラフト作る時のナイフの痕や紙で切った痕が残る。夏なのに少し冷たい。そのまましっかり握りしめた。
「なあ。百合と一緒に遊びに来たとき、食堂でちょっかいだしてきたオヤジのこと覚えている?」
ああ、あのおじさん、と思い出す。
「昨日、ビールあるから後で来い、って言われたから、一緒に呑んだんだけど。」
ノンベーそうだよなあと更にうなずく。
「ウルサイの。君のこと根堀葉堀聞きたがって。」
「・・・?」
そんなに言葉も交わしたこと無い。あのときからかわれた位しか。
「・・・嫌われるよりはいいけれど。」
「好み、なんだってさ。あのオヤジの。」
好みねえ、と恵美は繰り返した。
「さらにうるさくて、俺にお見合い勧めるわけ。」
「お見合い。って、瀬島さん、歳いくつ?だった?」
「・・・君と2つしか違わない。」
そんな焦る年齢ではないのにといぶかる。
「・・・だよねえ。」
「みんな身を固めるのが早いから、出遅れているように見えるらしい。」
くすっと笑いが漏れてしまう。
「・・・おかしい?」
「その時は、みんなで野次馬しに行きまーす。」
「人ごとなんだから。」
口をとがらせる表情もおかしすぎて、笑い涙が目尻からこぼれる。
「私の手で遊んでいるでしょ。そろそろ返して下さいね。」
「返さないと駄目?」
「借りたら返すのがお約束なんでしょ?」
「思ったより柔らかいんだなあ。なんて。」
目を拭う為にハンドタオルを出そうとバックの蓋に手をかけた。
「やーめた。」
蓋のマグネットがパチンと音を立てた。
さらにしっかりと組まれた指の温もりがじんわりと伝わってきて、つながれた手と彼を見比べる。
「ずっとさあ。」
適うのならば、だったのだが。
「君と手を、こうやってつなぎたいって。そう思っていて、ようやく実現。駄目?」
ぼそりと告げられて思い出す。伝えなくてはいけないことがあったこと。その前に先を見越されたようで、ドキドキし始めた。
「恵美?君はどうなの?」
名前を呼ばれて、耳下がキンキンするのに居心地悪くなく。昔から当たり前のようだったようにも思えてくる。だから、うなずく代わりにそっと握り返した。
「ありがとう。」
涼平は握り返された手を軽く振る。
「それなら、そーんな、顔しないの。」
ぽそりとたしなめられる。
「まだ、困った顔している。」
恵美は軽くあごを引いて少し睨むような表情をしてみせると、涼平は力をふっと抜いた。
「ん。格好良い。」
それでも戸惑いでまだ一杯の瞳にそっと続ける。ようやく捕まえたと思う。
「これからも、君を守る。約束する。」
今度は命令でなく自分の意志で。
恵美は、涼平の手の甲をまじまじと視線を落とす。ごつごつとした手。指にやけどの痕に、鉛筆だこ。
「涼平?」
「ん?」
「涼平の手は大きいね。」
少し指先が弦とこすれて堅いけれど。ベースのネックが小さく見えた理由が改めてわかる。
「私の手は小さいからベース、届かないわけだわ。」
苦笑いし恵美は主を見上げる。
いつだったか、弦のものを引いてみたくなりギターを百合に借りてみたが、すぐにギブアップ。次にベースに挑戦してみたが、指が強くないと難しいし手も小さいと指の付け根が痛いのだ。
「私、こんな大きな手で、守られていたのね。」
涼平はああ、とうなずく。
「温かいし。大好き。この手もね。」
不意打ちにがっくりくる。
「私には出来ないことがたくさんあるけれど、それでも出来ることをしよう、になったのは、涼平が傍にいてくれたから。」
加藤研究室に最近顔を出さない。
「いつの間にか頼っていたのは悪いことじゃないって、認めることが出来たら涼平と話さなくては、って思った。それまで、本当に嫌だったの。弱くて頼っちゃう自分のこと。」
教授から探るように近況を聞かれる度に、ため息だ。
「貴方の、私のこと心もとないと思うきもちにこれからも甘えたいけれど。」
さらに大きく息をつく。
「私も涼平のこと、心配しているよ。それと、自分の積み重ねのことと、貴方にふさわしく、傍にいられる私になることも大事だと思っている。今までのように、ではいけないよね。」
残ることを選んだ理由を本人の口から聞かされれば、問い詰めた時の加藤の沈黙の理由が明かされたも同然だった。到底、恥ずかしくてこんなこと言えないだろう。あのオヤジには。
「訓練、頑張る。いろんなことも。だから、涼平には教授と、仲直りしてほしいです。」
「・・・恵美。」
うなずく彼女を前に、謝らなければいけないオヤジにも会いにいかなくてはいけない。
「わかった。」
重ねた手の指で手の甲を触れる。
本当にわかっているのかという表情のままだ。
「恵美はオヤジのこと大事に思ってくれているものなあ。」
「・・・。」
「俺もさ。」
大事な人が増えたこと、ちゃんと報告しよう。
「んー。帰ろう。」
涼平は時計を見る。建物の外はすっかり夕暮れだ。初夏のむしむしが残る。人気のすくない広い道を、繋がった影が、元来た並木道を先に進む。
その影を追いかけるように半歩先を涼平は行く。
夕焼けに向かって視界はオールクリアだ。
まっすぐ続くあけっぴろげな道にすいこまれていく。次の交差点までたどりつくまで。 寄り添う日々を積みかさねよう。そうしたら、もう迷わなくなるのかもしれない。
突然立ち止まる恵美が指し示す空。
「金星?」
そこへ視線をむける。ゆらめく光に、そんなことはないだろうな、と思えてくる。君と過ごすと、迷うことがもっと増えるだろう。面倒が億劫にならないことが増えるばかり。
そういうのを、何って言うんだったろうか。
蒼い空 深い海2