公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(3)
三 午前十一時四十五分から午後0時まで 風船使いの女
「行ってきまあす」
三好春代はわざと明るい声を上げた。営業所には、開店を待ちわびていたのか、既に、四つの椅子にお客さんが座っている。その前には、同僚たちが、お客さんの要望を丁寧に聞いて、航空機やJRなどの鉄道、ホテルの予約などに対応している。三好も窓口当番があるが、今日は午後からである。午前中は、お得意さんの会社を回り、出張の予約を受けたり、予約された切符を持っていく仕事がある。
三好は、子どもに頃から、旅行が好きだった。大学生の頃は、毎日、バイトに明け暮れ、お金がたまると、春休みや夏休みに、日本各地だけでなく、世界中を旅行した。お金はないけれど、時間はある。大学生の特権だ。
この趣味を仕事に生かしたいと思って、旅行会社に就職したものの、現実は異なっていた。毎日がデスクワークで、たまに、今日のように、店を出て、お得意さん周りをするだけであった。お客さんが、どこそこへ行きたいと、と言えば、私も行ったことがあるんですよ、と、会話がはずみ、営業にはプラスになったものの、自分自身は、人が旅行に行けるのに、自分が行けないことから、欲求不満になる。
たまに、休みをもらって、旅行に出かけることもあるが、休みは、オフ・シーズンなので、観光客等は少ない。その分、ゆったりとした気分で旅行を楽しむことができるが、でも、何か物足りない。そう、ゴミじゃない。人ゴミがないからだ。
オン・シーズンでは、人が多くて、観光も満足にできないと不満たらたらのくせに、いざ、オフ・シーズンで、ひとっこ一人いない観光地では、何か、物足りなく、寂しいのである。観光する目的は、観光地を楽しむことよりも、観光地に人気があること、つまり、その場所を選んだ自分に間違いがなかったことを確認したいのかもしれない。
そう、人間とは、人と人との間なのであり、一人では人だが、人間ではないのである。うーん、我ながら、いい言葉だ。今度、旅行を迷っているお客さんに、話しかけてみよう。旅とは、人と人との間に行くこと、あなたが誰かに出会うこと。キャッチフレーズで使えそうかな。
三好は、ほくそ笑む。
そのくせ、一人の方が煩わしくなくていいと思うこともある。うーん、アンビバレンツ。この複雑な感情そのものが人を人足らしめているのだろう。あーあ。兎に角、旅行に行きたいなあ。
三好は、旅に行きたいという欲求を満たすために、ある行動をとっている。心理学を学んだわけではないけれど、他に目的をすり変えることで、精神的に平衡を保っているのである。
まず、お得意さん回りの際、同じ道を通らない。人間、得てして、自宅に帰る際など、めんどうくさいからか、安心できるからか、安全であるためか、同じ道を通りがちである。同じ道を歩けば、極端な話し、目をつぶっても歩けそうだ。
試しに、片眼で歩いたことがある。もちろん、無事に、家に戻ることができた。当り前か。次に、二秒から三秒の間、両眼をつぶる。もちろん、足は前に進ませる。これも、問題なく、家に着くことができた。さすがに、自宅まで、ずっと眼を瞑ることはできない。
三好の家は、住宅街だが、道路の片側には幅二メートルほどの水路はあるし、電信柱も点在している。反対側から、自動車や自転車がやってくる危険性もある。
何が言いたいかとういと、慣れた道でも、目が開いていても、本当に何かを見ているとはいいがたいということである。眼球の網膜に、通りすがりの家の庭に、花が咲いているのが映っても、脳は何の反応も示さない。ただ、反対側から、車がやってくれば、脳の命令により、身を守るため道路の端による。それ以外は、休眠状態である。
これは、脳が意図的に、慣れることで、余分の観察力を省くため、つまり、省エネをしているのである。それは、それでいいとして、やはり、それはいけない。一体、どっちだ。どっちでもいい。
とにかく、三好は、旅行したいという気持ちを爆発させることなく、満足させるために、日常の行動の中で、旅行もどき、疑似旅行をしている。例えば、営業周りでも、自宅に帰る時でも、あえて違う道やコースを選択し、脳に見知らぬ土地に来たのだと錯覚さえ、旅行気分を味合わせている。これは、やってみるとなかなか面白い。
自宅から駅までのわずか五分の距離でさえも、道を変えてみると、あった家がなくなって代わりに駐車場に変わっていたり、倒産した会社の空き地に、産婦人科医院が新設されていたり、お好み焼き屋が進学塾に変更していたり、などする。
身近な場所でさえこうした変化があるのだから、職場からお得意さんまでの行程では、もっと大きな変化がある。でも、不思議なことに、新たにラーメン屋がオープンしていたとしても、以前、どんな店が営業していたのか覚えていない。
店だけでない。ビルの建て替えがあった際も、新築のビルの前は、同じようなビルだったのか、木造の住居だったのか、空き地だったのかも、定かでない。今、目の前にある者が現在であり、過去も未来もない。全く今の自分の生活と同じだ。
仕事をしながら、自分の欲求を満たしている三好だが、いくら道を変え、街の新鮮な発見に驚いたりしても、それだけではもの足りない。やはり、頭の中では日本中、世界中を飛んでいる。だが、何かの物質的な支援、援助がないと、夢も膨らまない。
そこで三好が考えたのが、風船である。風船で何をするかって?まさか、風船を膨らまして、体中の至る所につけて、空を飛ぼうだなんて、夢想的なことを考えているんじゃないだろうかって?
そのまさかである。だが、風船をいくら膨らまして、体に結えても、自分の体が空中に浮かばないことくらい、いくら夢想家の三好だって知っている。ただ、夢の世界に入り込むためには、ちょっとした小物、小道具が必要なだけだ。
「ありがとうございました」
三好は訪問した事務所を出た。時計を見る。十時三十分を回っている。次のお得意さんとの予約は十一時だ。少し時間がある。ちょっと寄ってみよう。
三好が足を向けた先は、バスターミナルだった。三好は旅行好きなこともあって、飛行場や港、電車の駅、バスターミナルなど、乗り物の駅が大好きであった。何するわけでもないけれど、乗り物たちが、発着するのをただ眺めているだけで満足できた。その乗り降りする乗客に自分の姿を重ね合わせるのであった。
今、夜行バスが東京から着いた。タラップからサラリーマンが降りた。あのサラリーマンは、大事な商取引で東京へ出張したのだろうか、それとも、反対に、東京からこの街にやってきたのだろうか。あのおばさんは、お土産の袋を持っている。結婚式か何かで、東京か関東方面でも行っていたのか。紙袋は、浅草のせんべいの老舗の物だ。疲れた顔をしている。時計を再度見る。十時三十五分。到着の予定時間より大幅に遅れている。きっと、途中で、事故か何かあったのかもしれない。
乗客のことをあれこれと考えるだけでも楽しい、だが、それだけでは十分ではない。三好はターミナルの片隅にあるトイレへと向かった。
もう終わったかな。いつも朝一番、トイレは掃除中である。だけど、十時を過ぎれば使用できる。掃除中の看板がない。もう大丈夫かな。扉を開く。
「あのー。トイレ使えますか」
三好が中を覗く。そこには、掃除のおばさんが便器に座っていた。おばさんは、新聞紙を跳ね除け、立ち上がった。
「いえ。少し汚れているので、まだ清掃中です。お急ぎでしたら、駅のトイレをお使いください」
おばさんの声に、三好はがっかりした。三好は、トイレをしたいわけではない。このバスターミナルの近くで、自分が夢想できる空間が欲しいだけである。だから、他のトイレを使うわけにはいかない。少し早いけれど、他のお得意さんを回ろう。三好は決心して、トイレを立ち去った。
「ありがとうございました。また、お伺いします」
三好は、頭を下げ、営業所のドアを閉めた。時計を見る。十一時四十五分。これで午前中の仕事は全て片付けた。昼からは、事務所に戻って内勤だ。昼休みが終わる午後一時まではフリーだ。今さら事務所に帰っても中途半端だ。よし、行こう。
三好は意を決した。再び、バスターミナルに向かう。歩いて五分の距離だ。信号は青で、スムーズに横断歩道を渡れた。昼食の時間帯なので、バスターミナル付近で待つ人は少ない。それでも次から次へとバスがやってきては、停車しドアを開け、しばらく待ち、誰も乗らなくても、時間通りに、ターミナルを離れる。
三好はターミナルの風景を横目で見ながら、トイレの前に辿り着いた。ドアは空を表示している。それでも、ドアをノックする。返事はない。ドアを押す。ドアが開いた。中には誰もいない。さっきは、掃除のおばさんがいた。しかも、ドアのわずかの隙間からは、段ボールなどでちらかっているのが見えた。だが、今は、そんな乱れた様子は微塵もない。きれいだ。タイルの表面に水滴が残っている。
ちゃんと、水洗いをしてくれたんだ。便器もぴかぴかに光っている。いい気持ちだ。臭いもない。高い場所の網入りの擦りガラスが斜めに空いている。棒か何かでないと届かない高さだ。そのため、外から覗かれる心配はない。覗かれても、斜めのため、中は見えない。そこから、新鮮な空気が降りてきて、この個室を満たす。
多分、私が初めてのお客さんなんだ。お客さん?三好は思わず笑った。トイレを使うのもお客さんかな。でも、お客さんなのかもしれない。よく、トイレをきれいに使ってくれてありがとうございます、という壁紙が貼られていることがある。ありがとう、と言われるくらいだから、お客さんなのかも知れない。だからと言って、胸を張ることもない。トイレからすればあたしがお客さんなのかもしれないが、あたしから見れば、トイレはあたしにとってお客さんだ。何かあった時、あたしを助けてくれるお客さんだ。
三好は洋式トイレの蓋をしめる。三好は、便をしたいわけではない。ちょっとした空間、ひとりになれる空間、誰にも見られることもない空間、できれば無料で過ごせる空間が欲しかったのである。そこがこの公衆トイレであった。
三好は、事務カバンから風船を取り出した。赤色である。できるだけ新鮮な空気を吹き込みたいので、三好は立ち上がる。そして、窓の下に立つ。息を思いきり吸いこむ。窓からは、まだ穢されていない天使の空気がひんやりとした羽根を休めて降りてくる。三好は、その天使を吸いこむと、風船の中に注ぎこんだ。
ぶうううう。一回では膨らまない。ぶうううう。二回目を吹き込んだ、
なんだか、口じゃなく、下の穴から出ているよう思われる。三好は、思わずお尻に手を当てた。大丈夫。体の中から漏れているわけではない。今度は、できるだけ、息漏れがしないよう、唇でゴムをはさむ。ぶうううう。
やっと、おたまじゃくしができた。更に息を吹き込む。ぶうううう。今度は、かかしの頭に変わった。さあ、もう一息だ。ぶうううう。ようやく、風船になった。誰が見ても風船だ。
三好は、折角、成長した夢がしぼまないように、空気の入り口を輪ゴムで何度も、何度も結ぶ。赤い風船は、三好の等頭大だ。風船の真ん中を押すと、三好の顔が浮かび上がってくるように思える。
三好は風船を右手の掌の上に乗せた。軽くポンと突く。風船が浮いた。三好の胸から、肩、顔、頭上、へと上昇していく。風船を捕まえようと、三好の右手が伸び、肘がまっすぐになる。
このまま、風船を掴んでいれば、空高く舞い上がってしまいそうな気分になる。三好は、目をつぶった。今はどこ?バスターミナルの上空。風船のエレベーターが上昇する。電車の駅に併設のデパートが見える。デパートをエスカレーターで登っていくお客さんと眼が合う。相手は眼をまん丸にして、驚いている。そりゃ、そうだ。三好自身も、風船で空を飛んでいるなんて、不思議だ。
上昇気流は、温かい。だけど、体全身に風を受け、気分は壮快だ。三好が乗った見えないエレベーターは、デパートの屋上よりも高くなった。夏の間、開催されていたビアガーデンのテントの屋根が見える。誰も乗っていないゾウやキリンなどの動物姿のゴーカートが見送ってくれた。風船は、三好は、まだまだ上昇する。
風船は雲の上を通過する。いつも地面から見上げると、雲が空にポッコリと浮かんでいるので、いつかは乗ってみたいと思っていたが、いざ、雲の中に入ると周りは真っ白で、視界はきかない。
雲を通過すると、今度は、旅客機が飛んできた。三好がチケットを渡したお客さんも乗っているかもしれない。三好は手を振る。
旅客機の窓ガラスには幼稚園児くらいの子どもの顔が見えた。子どもがお返しに手を振ってくれた。子どもの顔が見えなくなった。隣に座っている親に話し掛けているのだろう。今度は、母親が顔を出し、三好を見た。見る見るうちに顔面がそう白になった。母親は、何も見なかったかのように、窓の内側の戸を閉めた。その後、わずかに空いた戸の隙間から、子どもの顔が見えた。小さな指で手を振っている、三好も手を振り返した。子どもは事実を事実として受け止めるが、大人は自分の常識以外は事実として認めない生き物なのだ。風船と三好は更に更に上昇する。
現実の三好は、立ち上がり、便器の上に立った。風船を持った右手は天井に届きそうだ。右足のかかとは浮いている。つま先立ちだ。頭の中だけでない。現実の三好の体も宙に浮こうとしているのだ。頭の中の夢を補完する体。この両者が一体となって、三好の旅は成立する。
三好はもう少しで大気圏を突破する。しまった。宇宙服と酸素ボンベを持ってくるのを忘れた。まあ、いいか。宇宙には、各国の人工衛星が何十機も、地球を周回しており、その中には、宇宙服や酸素ボンベを販売しているコンビニや百円ショップもあるんじゃないか。そんな馬鹿な、ありえないだって。いいじゃない。これは夢なんだから。でも、将来、遥か未来に、人が宇宙で住むようになれば、コンビニや百円ショップも営業するだろう。その夢を三好は先取りしているのだ。
パチン。その夢が破れた。いや、風船が破れたのだ。三好は、便座の上に立ち上がり、なおかつ背伸びをしていたため、風船が天井の照明器具に触れて、破裂してしまったのだ。
三好の瞑っていた両目が開いた。その時、トイレのドアが激しくノックされる。ドンドンドンドンドン。ノックじゃない。殴っている。ドアを叩き壊そうとしているように聞こえる。よっぽど慌てているのか。「入っています」と答えればいいのだけれど、なんだか声を出すのは恥ずかしい。急いで、便座から飛び降りると、ノック返しをする。コンコンコン。右手の指の第一関節四本で応える。
すぐさま、ゴンゴンゴンゴンゴンと返される。ドアの外の人間は、よっぽど待てないのだ。三好は、まだ夢の待合室で彷徨っていたが、外部からの強烈なアナウンスに、追い出されるようにして、退場口から出ていった。慌てていたので、足元には、旅の案内人の風船を残したままで。
公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(3)