カサブランカ
スーツの上着のポケットがさっきからずっと震えている。
朝から入れっぱなしの携帯電話が鳴っているんだろう。
陽子さんはキッチンでキャベツと格闘しているせいで僕に目もくれない。そっと席を立って電話に出た。
「もしもし」
「やっと出た。途中で帰るってどういうつもり?」
「きちんと挨拶したし、いいだろう。親戚同士で飲んでるだけなんだし」
「だからって」
案の定、電話は妹からで、想定通りかなりご立腹の様子だったが僕には関係ないことだ。そっと耳から携帯電話を離し、電話を切った。
食卓に戻ると陽子さんは山盛りのキャベツの千切りをテーブルに置いた所だった。
「電話、誰から?」
「妹から、です」
「妹、いたんだ」
「知りませんでした?」
「知らなかった。6年も経つのに」
「6年、経ったんですね」
「とりあえず、食べましょうか」
テーブルには所狭しと料理が並べられていた。
目の前にごはんとみそ汁。そしてハンバーグ、唐揚げ、チキンのトマト煮込み、青椒肉絲、きんぴらごぼう、鰹のたたき、山盛りのキャベツの千切り、中央には何故かチョコレートケーキ。
「陽子さん。二、三聞いてもいいでしょうか」
「なんだい省吾くん」
「この取り合わせは?」
「好物を並べた結果ね」
「キャベツは?」
「野菜も採らなきゃ体に悪いわ」
「じゃあ、このケーキは」
「手作りよ」
「なんでホール」
「12センチだから小さめで可愛いじゃない。ホールケーキをそのままつつくのってやってみたかったのよ」
取り皿にてきぱきとそれぞれの料理を盛り合わせて行く陽子さんを目で追うだけで満腹になりそうだ。
「さ、食べるわよ。今年は二人だけなんだから」
「…はい」
「毎年やってんだから慣れてよ」
「去年はキャベツもケーキも無かった」
「サラダあったし、ケーキは小野くんが買ってきてくれてたわ」
「小野さん、今年は来ないんですか」
「仕事だって。ちなみに中村くんは今年からシンガポール勤務だって」
「いろいろ変わっちゃうんですね」
「仕方が無いわ」
諦めに満ちた陽子さんの言葉に返す言葉がわからなかった。そのまま会話は途切れ、無言のまま食事は続く。
これだけの量を食べきれる訳も無く、残ったものを片付け、テーブルにはケーキだけが残る。
「省吾くんコーヒーでいいかしら」
「あ、はい」
テーブルの上のケーキは小さいくせに妙に存在感が合った。ちゃんとしたケーキを食べるのはいつぶりだったっけ、等と考えていると陽子さんが両手にマグカップを持って向い側に座った。
「どうぞ。砂糖とミルクは?」
「入れた方がいいですか?」
「いや、ここは譲ろう」
ブラックのままのコーヒーを一口。美味い。やはりコーヒーはブラックに限る。見れば陽子さんもブラックのままコーヒを飲み、楽しそうにホールケーキにフォークを刺している。いきなり真ん中に刺すあたりが彼女らしい。
「DVD借りてきたの。食べながら観ましょ」
フォークをくわえたまま彼女はテレビの脇に置かれたレンタルショップのバックからDVDを取り出し、デッキにセットした。
それを横目で見ながらケーキを食べてみる。
「甘い」
僕の言葉に陽子さんはクスクス笑っていた。
「あたりまえじゃない。チョコレートケーキだもの」
DVDが再生される。
ホラー映画らしい。人がバッサバッサと切られて行く。スプラッタ色の強い映画だ。
血飛沫があがる度にヒッと息をのむ声がする。
陽子さんの様子を伺うと完全にフォークを置いて、手で顔を覆っていた。
「陽子さん」
「なに」
顔を覆ったまま彼女は答える。
「怖いなら観なきゃいいじゃないですか」
「だって」
「去年までは平気だったのに」
「それは、人がいっぱいいたから。小野くんの後ろとかにうまーく隠れられたの!」
かわいらしくいい訳しているがそもそも観なきゃいい話ではないか。
「無理して観るもんでもないでしょうが」
「毎年やってるからはずしちゃダメかなーと思って」
「そこは、譲りましょうよ」
「うぅ…」
このままだと映画が終わるまでこの状態が続くことが容易に想像できたのでテレビの電源を切る事にした。
「消しちゃうの?」
まだ言うかこの人は。
「いい加減にしなさい」
「…へい」
ふざけた返事をして陽子さんはぬるくなったコーヒーを飲み干した。
「ちょっと早いけど、行こうか」
「はい」
陽子さんの家から10分くらいのところに花屋がある。
0時まで営業しているその店に来るのは今日で6回目。
「じゃあちょっと待ってて」
花屋にすいこまれるように陽子さんだけが店に入る。
僕は店の脇の自販機にもたれかかり彼女を待つ。それも、今日で6回目。
ほどなくしてごてごてしたてんこ盛りな花束がこちらに歩いてきた。否、花束を抱えた陽子さんがこちらに歩いてきた。花束が大きすぎて上半身が隠れてしまっているので花束に足が生えたようだった。
「でかいっすね」
「奮発してみた」
誇らしげに言い放つ陽子さんが抱える花束は確かに、奮発というにふさわしいデカさと様々な種類の花で彩られている。
「高そう。バラにガーベラ、これカサブランカですか?」
「省吾くん花詳しいのね」
「花屋でバイトしてたんで」
「あぁ、そうだったわね」
嘘だ。
花の名前なんてほとんど覚えていない。それでも、これは、忘れられない。だって、この花束は、まるでー
陽子さんと初めて会ったとき、彼女は純白のウエディングドレスを着ていた。傍らには白いタキシードを着た兄が立ち、二人とも幸せそうに微笑んでいた。
花屋でバイトをしていた僕のその日の仕事は花束の配達だった。
そして、妙に豪勢な花束の配達先は、兄と陽子さんの結婚パーティー会場だった。
僕が配達した妙に豪勢なカサブランカとバラとガーベラのウエディングブーケは陽子さんの手にぴったりおさまっていて、彼女の笑顔をより輝かせていた。
その一週間後、兄は、死んだ。
通夜はあっけなく過ぎていった。夜伽だと言って、親戚は深夜まで飲んで食べての大騒ぎだった。
朝方、僕は一人、兄の棺にもたれてうつらうつら船を漕いでいた。意識を手放しかけたとき、背後から声がした。
「優吾くん」
兄を呼ぶ、女性の声。
そっと後ろを向くと黒いワンピースを着た女性が僕のスーツの裾を掴みながら静かに涙を流し兄の名前を呼び続けている。
「優吾くん、なんで置いて行ったの」
その姿があの日の彼女と違い過ぎて、すぐには誰かわからなかったくらい、陽子さんは悲しみに暮れていた。
後から聞いた話だが、どうやら兄と陽子さんの結婚には一悶着あったらしく、母は早死にした兄への悲しみを陽子さんへぶつけることでしか処理できなかった。彼女の存在は、両親や妹には兄を連れ去った悪い嫁としか映っていないのだ。自分の夫の葬儀なのに、誰にも気づかれないようにそっと別れを告げる事しか許されなかったのだ。
「なんで、一人で行ったの」
彼女の言葉が背中に刺さった。
「もしかして今日、七回忌だった?」
目的地までの道すがら、陽子さんは僕に尋ねた。
「こっち来るのに抜けてきた?」
「いいんです、もとからそうしようと思ってましたから」
毎年、兄の命日は陽子さんの家に兄の友人を呼んでともに過ごす。兄の好きなものを食べて、好きなものを観て、思い出を話す。
法事の度に集まる親戚達は毎回、互いの近況報告やら、仕事の話をしていて兄の話題がのぼる事はあまりない。だからか、いつも居心地が悪かった。
僕にとっては陽子さんたちと居る方が兄の事を思い出せるのだ。
「せっかく来てくれたのに、今年は二人だけだったね」
もう6年も同じ事をくり返して、だんだん集まる人数は減って行った。
夜の空気は少し冷たくて心地よいはずなのに、この瞬間は心地が悪かった。何を返しても不正解のような気がして足下に視線を落とした。
「あの日さ、写真を観てたの」
突然、陽子さんは話しだした。
「結婚パーティーの写真を小野君が持ってきてくれて、優吾くんと二人で見てたんだけどさ、省吾くんが配達してくれたブーケの写真をずーっと見てるの。でね、1本足りないって言い出したの」
まったく話が読めなかった。陽子さんは独り言のように話し続ける。
「ブーケのバラの数が足りないって。バラって本数で花言葉が変わるらしいの。写真見ながら一生懸命バラの本数数えて、10本しか無い、1本足りないからやり直そうって。花屋に走ってった。そしてそのまま、帰ってこなかった」
いつの間にかT字路まで来ていた。見通しが悪く、でもトラックがよく往来している。歩道と車道の境のガードレールは排気ガスでくすんでグレーに変色している。変色したガードレールの下に、燃え尽きた線香と開いてないカフェオレ缶が置いてあった。
「小野くん、来てくれたのかな」
陽子さんがつぶやいた。
「バラ一本買いに行ってトラックに轢かれるって、何のギャグかと思った。ホント優吾くんはバカだよ。親の反対押し切って結婚しちゃうとか、ほんとバカ。でもそんなバカが好きな私はもっとバカだ」
6年前のこの日、時刻はちょうど今くらい。兄は見通しの悪いT字路でトラックに轢かれて即死。手にはバラが一本握られていた。
陽子さんは持っていた花束からバラを一本抜いて、燃え尽きた線香の横に置いた。そして花束を持ったまま、大きくふりかぶって、投げた。ちょうど目の前を横切って行くトラックめがけて、投げた。
花束はトラックに当たり、ところどころ花を散らしながら道路の真ん中に落ちた。
「陽子さん、何を」
「あーすっきりした」
「拾います?」
「ほっとけ」
妙にすっきりした顔で陽子さんは来た道を歩き出した。
朝になったら陽子さんを連れて兄の墓へ行こう。トラックに向かって花束を投げつけたと報告したら、兄は笑ってくれるだろうか。
カサブランカ