公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(2)

二 午前九時十分から終わるまで トイレのお掃除おばさん

「ぴ・ぴ・ぴ・ぴ・ぴ」
 信号音が鳴っている。今は赤信号。人々は横断歩道で止まっている。通勤・通学の時間帯を過ぎたため、人影はまばらだ。いや、まばらどころか、たったの三人だ。始業時刻に遅れそうなのか、電車を降りた後ここまで走って来たため、汗を拭き出しながら待っている若いサラリーマンや、授業はとっくの昔に始まっているにも関わらず、そんなことは自分には関係ないかのように、だらだらと歩いている女子高校生たちだ。その集団の中に、清掃作業服姿のおばさんが、信号が変わるのを待つのがもどかしいように、歩道で足踏みしている。
 信号が変わった。赤から青だ。ダッシュ。フライイングはしていない。先頭に立つおばさん。続いて、後を追う、若サラリーマン。最初から出遅れ、前に進むことさえ忘れている女子高校生。わずか十メートルの距離の横断歩道だが、ここでの競争結果が、これからの人生を決定するのではないかと思えるくらいのスピードで、おばさんが早足で歩く。一旦は、遅刻は仕方がないとあきらめていたが、目の前を走るのかのように歩くおばさんに触発され、後塵を拝すまいと横並びになるサラリーマン。そんな二人の様子を眺めるでも無視するでもなく、存在自体が浮いているにも関わらず、歩幅をなくしたかのように足を引きずりながら歩く女子高校生。この三人の勝負はいかに。
 横断歩道を渡り、ターミナルに到着すると、おばさんは右に直角に曲がる。追い抜いたと思った若サラリーマンは、目の前の目標物が視界から消えたため、ええっ、どうなっているんだととまどいながらも、勢いのついた加速度は革靴の底の摩擦をものともせず、慣性の法則がバンザイと手を上げながら、そのまま、ターミナルを過ぎ、会社のある方向へ体ごと向かって行った。
 二人が必死の思いで挑戦した十メートル競走に、参加しているのか、参加していないのか、自分でも不明な女子高生は、まだ、横断歩道の真ん中辺りまでしか到達しておらず、信号が点滅しているにもかかわらず、長いつけまつげを上下させながら、風に煽られふらふらと歩いている。そうなんだ。女子高校生はもともと、この競争に参加する意思はなかったのだ。煽り立てた作者から、読者の皆さんに、お詫びを申しあげたい。
 さて、この章の主人公である、お掃除おばさんについて紹介しよう。名は松川絹子。六十五歳。一人暮らしで、家族はいない。婚姻歴もない。父や母は既に亡くなり、天涯孤独の身だ。年金は二か月に一回、約十二万円、月にして、約六万円が支給されている。亡き父や亡き母の家があるので、年金だけでもなんとかやり繰りすれば、生活できないことはないが、それだけでは、やはり苦しい。
それに年金だけでは、自分の楽しみ、そう、松川は旅行が好きであった、ができない。旅行といっても、ほとんどが日帰りで、旅行会社が企画している日帰りバスツアーに参加している。もう、十年来、同じバス会社を利用しているので、ツアーのコンダクターや、常連さんとも顔なじみである。いつも一人で参加しているが、寂しいと思ったことはない。
 以前、同じ清掃会社の同僚と行った時もあったが、道中、会社や他の同僚に対する悪口や不満ばかりをしゃべることになってしまい、折角、気分転換を図るために、生活費を削ってまで溜めたお金を払って、自分が住んでいる遥か遠くの場所に来てまで、会社にいるのと同じ事を繰り返すのは馬鹿らしいと思い、それ以来、同僚と旅行をするのはやめた。
 一人で参加しても、常連さんがいるので寂しくないし、知らない人と相席になって、お互いのちょっとした身の上話をするのも、それはそれで楽しいし、旅行先の名所旧跡への感想が素直に語り合える。それに、一番のいいのは、旅行だけの付き合いで、それ以上、関わりがなく、煩わしさがない。人間、なんでも話し合える関係が重要だと言うけれど、うだ話などをするのもいやだし、聞く方だって、疲れる。
 さて、読者の皆さん、この章の主人公、松川松川について少しは知ってもらえただろうか。それでは、メインのストーリーに戻る。
 松川は足を早めた。でも、それは、並走しようとする相手からの追撃を逃れるためでなく、当初から、仕事場であるトイレに到着するのが目的であったため、横断歩道を渡った後、直角に曲がったのだ。しかしながら、何かが、追いかけて来ているという自覚はあった。右耳に飛び込んでくる自分以外の荒い息使い。これを避けるためには、足取りを速くするか、方向を変えるしかなかった。運よく、横断歩道を渡りきるまでは、目には見えないけれど、音のみで認識できる謎の物体に追いつかれなかったので、当初の目的通り、トイレの方向に転じたのだ。
 ただ、直角に曲がったのは、やはり意図的だった。直角に曲がれば、相手は、そのまま真っすぐに通り過ぎるのではないか。それでも、相手が直角に曲がり、自分の後をついてくれば、これに対しては敢然と戦うしかない。あの公衆トイレまで行けば、倉庫にモップとバケツがある。普段、使い慣れている道具だ。床を拭くモップで、相手の顔を拭いてやる。相手が、突然の攻撃に、息ができずに、ぶわっと悲鳴を上げる。その次に、バケツに水を汲むと、「朝から何を考えてやがるんだ。このおばさんに痴漢しようだなんて」と相手の頭に水を掛けて、目を覚まさせてやるつもりだった。
 そこまでの戦闘イメージはできあがっていたので、いざ、つきまとっていた相手が、全く、自分には関心がなく、そのまま通り過ぎていってしまったので、拍子抜けしただけでなく、自分の妄想が恥ずかしくさえ思えた。松川は気を取り直すために、わざと、元気よく、「お掃除、お掃除。お仕事、お仕事」と、誰に聞かすわけでもないのに、大声を上げた。
 掃除の制服は縦じまだ。どこかの野球チームと似ている。松川は、この制服が気にいっていた。会社のオーナーが、
「私たちの仕事は、美を取り戻すことです。汚れを取り、物が本来持っている本質の美を輝かせることなのです。決して、手抜きはいけません。手を抜けば、必ず、物にくすみが出ます。ごまかせば、ごまかすほど、醜悪をさらすことになります。
 そのためには、まず、私たちの心を磨かなければなりません。掃除道という筋が一本通っていること、そして、その筋が一本だけでなく、何本も通っていること、だから、私は、この縦じまのユニフォームを作ったのです。決して、手抜きをして、楽をしようだなんて、よこしまな気持ちは持たないでください。
 もし、万が一、もちろん、私は、皆さんがよこしまな気持ちを持つとは思っていませんが、そんな気持ちが起きようものならば、自分を戒めるためにも、この筋が通った縦じまを見つめてください。きっと、あなたの心に、この仕事に初めて就いた時の、仕事を頑張ろうという新鮮で、みずみずしい気持ちが思い出されるでしょう。さあ、皆さん。この縦じまのユニフォームとともに、一緒に頑張りましょう!」
 松川は、社長から受けたあの時の訓示を忘れない。いつも、この公衆トイレのドアの前に立つたびに思い出すのだ。
「さあ、がんばろう」
 自分に向けて、トイレに向けて、社長に向けて、言葉を出した。
まずは、トイレの横にある倉庫の鍵を開ける。倉庫と言っても、幅五十センチ、高さ一メートル五十センチくらいの小さな荷物入れである。だが、その小さな空間に、松川の七つ道具が揃っているのだ。
 中を確かめる。ほうきがある。ちり取りもある。モップもある。バケツもある。ぞうきんもある。ゴム手袋もある。これで、六品。あとひとつは?そう、松川自身である。
 さあ、七つ道具は確認できた。早速、トイレ掃除だ。だが、これからが問題だ。いつも、掃除の前にドアを開ける瞬間は緊張する。ドアを押す。ドアがトイレの内側方向に動く。三十度。まだ、何も変わっていない。四十五度。何かが散らばっている。六十度。やはりそうだ。九十度。ドアが完全に開いた。
 そこはトイレじゃなかった。段ボールが敷き詰められ、新聞紙が飛び交い、トイレットペーパーが宙に舞う異空間だった。
「やはり、今日もか・・・」
 松川は段ボールに手を当てる。少し生温かい。敵は逃げ出してからそんなに時間は立っていない。後ろを振り返る。通行人やバスを待つ人はいるが、朝から酔っぱらった千鳥足の人間はいない。
逃げられたか。いや、逃げられた方がいいのだ。へたに見つけると、後の対応に困る。ここは駅の近くなので、近くに派出所がある。泥酔状態で、トイレに座り込んでいたら、警察官を呼べばいいが、へたに意識があって、こちらに文句を言ってきたり、顔を覚えられたら後が面倒だ。ひょっとして、バスツアーで一緒に乗り合わせたら、楽しい旅が最悪の展開になる。
トイレの中が汚されると掃除は大変だけど、人がいない方がほっとする。多分、犯人は、昨晩も飲み過ぎて、最終電車に乗り遅れ、金もないので、このトイレをカプセルホテル代わりにしたのだろう。洋式トイレなので、横たわることはできないが、座って壁にもたれることはできる。便座に段ボールを敷けば、底冷えを防げられる。新聞紙は、毛布代わりに使ったのだろう。
 本当に、新聞紙が毛布代わりになるのだろうか。また、こんな狭いトイレの中で眠れるのだろうか。
 松川は、ふと試してみたい気分になった。便座に置かれた段ボールの上に座る。段ボールはタンクの方まで覆われている。ソファーとまではいかないけれど、無料宿泊スペースとしては文句が言えない。
 問題は足が伸ばせないことだ。バス旅行に慣れている松川だが、バスの中ではぐっすりと眠れたことはない。うとうとはするものの、疲れはとれない。それこそ、バスに揺られ、夢心地のまま、意識だけは覚醒している状態だ。だから、夜行バスは苦手だ。
 ただし、最近は、隣に気兼ねがないよう一列に三席しかなく、席が独立している、しかも、リクライニングシートがほほ百八十度近くまでフラットになる夜行バスもあるそうだ。だが、夜行バスとトイレとを比較してはいけない。何しろ、トイレでの宿泊はただ、だ。無料だ。ロハだ。
 松川は座った。便座は狭い。寝ているうちにお尻がずれそうだ。足を壁に押し当てる。膝が少し曲がる。足の裏で壁を突張れば、便座から落ちる心配はない。
 後は寒さ対策だ。夏ならば、服のままでもいいけれど、今は秋だ。朝方は少し冷える。トイレの床はコンクリートなので、外の寒さが屋内にそのまま伝わってくる。だからこそ、便座の上に座るのだ。毛布代わりに、床に落ちている新聞紙を拾う。スポーツ新聞だ。駅前のコンビニで買ったのだろう。昨日の日付だ。酔っ払いは、寝る前に新聞を読む習慣があるのだろうか。いや、単なる暇つぶしだろう。
 胸から腹、膝に掛ける。全部で三枚だ。松川の全身が新聞で覆われた。意外にも温かい。もちろん、新聞紙が熱を出しているわけではない。自分の体温が新聞紙で反射されて内にこもるからであり、逆に、忍びよる寒い外気を遮断してくれるからでもある。心地いい温かさだ。
 問題は足である。松川は身長が百五十センチくらいなので、窮屈には感じないけれど、普通の男性の身長ならば、膝が三角定規のどこかの角度にならざるを得ない。足を伸ばして寝るのと、曲がったまま寝るのとは、足の疲れの回復度は違う。もちろん、何回も言うが、ここは公衆トイレだ。ビジネスホテルじゃない。ただで宿泊しているのだ。文句なんて言えるはずはない。
 松川は眼をつむったまま、うつらうつらしてきた。大丈夫。これなら眠れる。そこに、突然、ドアが開いた。
「あのー。トイレ使えますか?」
 女性が顔を覗かせた。いけない。掃除中の立て看板を出すのを忘れていた。松川は新聞紙を跳ね除け、立ち上がる。
「すいません。少し汚れているので、まだ清掃中です。お急ぎでしたら、駅のトイレをお使いください」
 慌てて、取り繕う松川。女性はトイレから立ち去った。それから、松川は、「本当にもう。こんなに散らかせて」と文句を言いながらも、頭の中では、夜行バスならぬ夜行トイレで一晩を明かす、自分を夢見ていたのであった。

公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(2)

公衆トイレよ。顔を真っ赤にして立ち尽くしている、あの娘の元へ飛んで行け!(2)

二 午前九時十分から終わるまで トイレのお掃除おばさん

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-30

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