さよならの教室で

夕方のあの光を見ると、どうしようもなく切なくなる。そんな時に、いつかのあの教室をふと思い出す。忘れてしまう過去に残してきたたくさんの記憶が、そこに詰まっている。

少しだけ、背伸びをしてみたかった。
だって、私はあなたよりも遅れて生まれて、あなたが見て来た世界を知らなくて。同じ世界を見始めても、その視線は違うのだから、見ているものはきっと違うのだって私は知っている。だけども、それでも、背伸びをして、あなたと同じ視線を味わってみたかった。隣で、当たり前のように笑ってみたかった。届かないのは、年齢だろうか、この身長だろうか、それともこの気持ちだろうか。
あなたは、私がこの思いを伝えたら迷惑だと思うでしょうね。でも、このまま何も言わずに過ぎてしまえば、きっと私は後悔をすると思うから。
「だから、言ってもいいですか?」
結局あなたに伝えることはできない臆病な私は、誰もいない教室で静かに呟く。夕方の緩慢に照らし出す赤い光が鬱陶しいけれど、私の気持ちも照らし出して焚き付けてくれているようで、悪い気はしなかった。
「笑っちゃいますよね。結局、顔を見ていえない。」
なんて弱虫だろう。
ちょっとだけ、声をかけてくれば優しいあの人はちゃんと私の目を見て、どうかした?と側に寄って来てくれるのに。けれど、その瞳を私は受け止められる気がしなくて、私はその道を逃げた。でも、あきらめきれない気持ちがこの教室につなぎ止める。
「もう、この教室に入ることもないのに。」
明日の式を終えれば、もうこの席に身を置く事も許されない。
それなのに、まだ今は確実にこの椅子は、この机は、この席は私のもので。そして、その前にある職員用の机はあなたの席。
「ねえ、先生。」
溢れるのは、想いだけではなくて。静かに机に落ちて丸い水たまりをつくる私の涙は、一度落ちると止まらなくなって、次々に落ちていった。
「先生、すきです。好きですよ。」
こつんとおでこが机にぶつかる。濡れた感触がして、なんだか気持ち悪い感触がしたけれどそんなことはすぐに頭の片隅に消えていった。この何も見えない気持ちを、どこにもいけない衝動を、見失ってしまった日常を、どうしていいのかわからない。抱えていくのはみんな同じだけれど、それでもやりきれなさに襲われる。明日には、日常はなくなる。いつもは消える。新しい、毎日にその場所を奪われて、あの頃になってしまうことが悲しい。
「思い出って、嫌な言葉。」
過去の事だと、すべてを押しやってしまうようでいやだ。その頃の自分と今の自分は違うのだと認めてしまうようで嫌だ。
ありがとう、みんな大好き、と大きな字と様々な落書きが所狭しと並ぶその黒板を見つめる。明日から先はないのだと突きつけられたようで、私の視界はさらに滲んで歪んだ。
「なんで、こんな別れがあるの?」
別れる必要がどこにある?どうして、道をそれぞれに進まなければならない?学ぶことは同じであるなら、ずっとここで同じように勉強し続ければいい。そうすれば、明日のような日はこないのだから。

「次に、進むためだよ。」
どこか遠くで声が聞こえた気がした。
「次って、何?」
「たくさんの人と出会って、別れて、新しい関係をつくりながら、世界は広がってくるものだから。だから、今はその節目なんだよ。」
頭に何か優しい感触を覚えて、ぼんやり涙が散った顔を上げれば、私は言葉を失う。頭に触れているものがその人の手だと分かって、私はさっと身を引いた。驚いた瞳は、大きく見開かれて、きっと目の前の人を映していることだろうと思う。
「せ、せんせ?」
声が擦れているのが分かる。情けないほど、小さな声しか出ないことにも気がついた。でも、私はそれをどうすることもできない。ただ、目の前の人を呼んだ。
「明日から、変わるものもあれば、変わらないものもある。」
「え?」
「今の僕は、さっきの君の想いにこたえることはできない。」
さっき?
頭は、すでに限界を超えている。何も頭の中で考える事が出来ないで、すべての思考が仕事を放棄して放心状態だ。
「でも、それだって今だからだ。」
「へ?」
間抜けな声が漏れた。
「でも、少しくらいフライングしてもいいかもね。」
真っ黒い肩にかからないくらいに伸ばされた真っすぐな黒髪が揺れて、眼鏡が夕日を映して華やいでいる。そっとその顔はさらに近づいて、私の目尻に優しい口づけを落としていった。
私の頭はもう、ただの頭になった。働きもしない、ただのモノ。
考えることをやめた頭は何の機能もない。
「明日からその先は確かに今までとは違うけど、きっと同じようにいいことも、その他のことも起こると思うよ。」
涙ばかりがずっと流れ続けて、水たまりを広げていく。
「明後日の6時、あの場所に来れるかい?」
おそらく腫れてしまっているであろう重い瞼を、なんとか押し上げてそのレンズ越しの瞳を見つめる。優しくその瞳が笑った気がした。
私の視界は、ずっと歪んだままで、ただただ頷いてその返事をした。

さよならの教室で

お読みいただき、ありがとうございました。短いお話で、しかも私としてはあまり書かない恋のお話だったのでなんだか気恥ずかしさでいっぱいです。明日は、見えなくて恐い。でも明日には、変化の中には、嬉し事やいい事も起こるかもしれない。そういう気持ちで、一歩を踏み出していきたいと思ったりしています。

さよならの教室で

夕日が差し込む教室に残る私。明日で最後の学校生活の中で、育ててきた思いと向き合うお話です。伝えたい、思いがありました。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted