青空は

曇り空は、哀しい空

彼が彼女に会ったその日は、空の天気は彼の気分と同じ曇りだった。
その日は、彼の妻が亡くなってすぐのことで、病院に駆けつけ、死を知らされ、あわただしいうちに通夜も葬儀も過ぎ、やることがなくなった彼は、ただ茫然と、公園で立っていた。
そんな時、彼はふと、足元に気配を感じて下を見た。
そこには、丸い目を並べて彼を見ている白い猫がいた。
その猫はとても聡明そうで、その二つの目は彼の心を読んでいるようだった。
彼はその場でしゃがみこみ、彼女の下あごを撫でた。
にゃあ、と首をかしげて鳴く彼女は、目を細めて気持ちよさそうにした後、彼の周りを、しっぽを立てて一回転した。
彼女はそうすると、満足したようにとことこと公園の出口に向かって歩いて行った。
それをぼうっと見ていた彼は、我に返ったように寒さに体を震わせた。
あたりを見ると、さっきまで公園で遊んでいた子供たちはどこにも居らず、枯れて散り散りになった葉っぱだけが、ただ哀しそうに流れていた。
そう思ったのは、彼の気持ちのせいかもしれない。
そそくさとそこを後にした彼は、途中、晩御飯のあてがないことに気付き、近所の弁当屋に入り込んだ。
店内は暖かいが、その暖かさは彼の空っぽの心に温もりは与えなかった。
彼はその店でから揚げ弁当を注文し、レジの近くにある椅子に座りながらから揚げ弁当ができるのを待った。
となりでは、まだ若い女性が赤ん坊を前に抱いてゆらゆらとあやしていた。その隣で、男性が赤ん坊の鼻をつまもうとしては、女性に邪魔されている。
「だーめだって。赤ちゃんは繊細なんだから」
「こんくらい、大丈夫だって。かわいいんだもの」
「どういう、理由よ」
いたたまれなくなった彼は、弁当が出来上がったと当時にすぐさま会計を済ませ、逃げるように店を後にした。
再び寒空にでた彼は、身を縮こませながら家に向かって歩いた。
ようやく家が見えてきて、彼はほっとした。
彼は玄関に入り、冷えている部屋を暖めるため少しの間だけストーブをつけた。
そして、まだ暖かいから揚げ弁当を食卓テーブルに置くと、から揚げ弁当の包みを開けて、付いてきた割り箸を割り、食べ始めた。
会話のない食事はものの数分で終了し、テレビをつけた彼はすることもなく夜を過ごした。
その日、彼は風呂に入ると、ここ数日の疲れが出たのか、死んだように眠った。

雨空は、涙の空

今日が平日なら、彼は会社の上司に大目玉をくらっていたかもしれない。それくらい、彼は眠り続けた。
部屋の中には雨音が響き、窓から見る外は雨粒で視界が悪くなっているほどだった。
目が覚めた彼が、時間を見て驚く。
休日だろうと、ここまで遅く寝たことは結婚生活を始めて以来なかったことだった。
慌てて夫婦の寝室から出た彼は、一階に向かいリビングを開けた。
そして、おのれの愚かさを呪った。
彼自身、どこかまだ妻が生きていると思い込みたい節があった。そんなことはありえないと解っているが、気持ちと論理は相いれないものらしい。
しかし、現実は無常だ。
慌てて開けたリビングの中にいるはずの妻は、仏壇の上で微笑むばかりで、彼の言葉に一つ一つ頷いたり、笑ったり、怒ったりしなくなってしまった。
長年連れ添った、ただ一人愛する妻を亡くした彼は、改めてその事実を突きつけられ、床に伏せて泣いた。
泣き続けた彼は、妻の遺影を伏せることで悲しみのもとを断とうとしたが、少し考えて元に戻した。
泣いていても、哀しみに苛まれていても、腹はすくらしい。
彼は冷蔵庫の中を覗き、卵とウインナーを数本取り出した後、電気ケトルに水を入れお湯を沸かした。
フライパンで目玉焼きとウインナーを焼いている間に沸騰したお湯をおわんに入れる。
おわんの中にはレトルトの味噌汁が入れてあるので、それを箸で溶きながらフライパンの様子を見る。
頃合いを見てフライパンを火から降ろし、皿にそれぞれ盛り付けた後、ご飯をよそい朝食を食べた。
起きたのが遅かったので、今のが朝食兼昼食ということにした彼は、しばらく居間でテレビを見て座っていたが、やがてそれにも飽き、着替えてどこかにでかける準備をし始めた。
彼自身、どこか行きたいとところがあるわけではなかったが、家に居ても息がつまる思いがしたのだろう。
彼は、玄関の扉を開けると、振り向かずにそのまま閉め、鍵をかけた。
黒い大きめの傘を片手に、ぶらぶらと歩く。
スーパー。
ゲームセンター。
服専門店。
家電量販店。
しかし、それらのどれにも彼は目もくれず、歩き続けた。
そして、ふと気づくと、彼は昨日来た公園にまた来ていたのだった。
昨日と同じように、公園で立ち尽くす彼の姿は、心なしか、昨日よりも死に近づいているように見えた。
「にゃあ」
彼が驚いて後ろに飛びのけ、今まで自分がいた場所を見る。
そこには、昨日出会った白い猫が、黒くなって座っていた。
「どろだらけじゃないか」
彼は驚いてそういった。
その彼に、彼女は「にゃあ」と一言だけ言い、じっと座って彼を見つめていた。
彼が彼女に手を伸ばすと、彼女は抵抗もせずに頭を触らせていた。
「うちに来るか?」
そう聞いた彼に彼女はまた一言、「にゃあ」とだけ答えた。
その後、家まで彼女を連れて行った彼は、彼女の泥を落としてやることにした。
シャワーの温度をひと肌程度にした彼は、身構えている彼女を見て「怖くないから、ほらほら」と言いながら近づいた。
「にゃああ」
さっと応戦体制になった彼女は、なおも近づいてくる彼を見ると後ろを確認し、あらんかぎりの力で逃げ出した。
「あ、ちょ、ドロ」
大慌てて追いかけて、何とか暴れる彼女を捕まえたのはそれから十分ほど後のことだった。
そのまま無理やりどろを落とした彼は、暴れる彼女の所為でずぶぬれになった体を拭きながら脱衣所から出た。
「やってくれたな」
彼の前にはどろの足跡や体を擦り付けたあとがいくつもあった。
それを付けた当の本人は、乾いた綺麗な体の毛を素知らぬ顔で舐めていた。
しかし、言葉とは裏腹に、彼の顔はすこし嬉しそうだった。

夕空は、別れの空

彼と彼女が一緒に過ごし始めて、もう十年とちょっとが過ぎ去った。
そして、彼は自分の命がもう少ないことが分かっていた。
彼の具合が悪くなってきたのは、一年ほど前のことだった。
そのころから、彼はあまり外に行くことがなくなり、彼のそんな生活が、彼の体を余計に蝕んだのかもしれない。
今の彼は、ほとんど布団に寝たきりで、起き上がるとすればトイレであったり、食事をするくらいであった。
それでも、彼は意地でも病院にはいかず、また、介護を頼むこともなかった。
無駄に命を長らえさせても、ベットにしばりつけられ、管で栄養を取るような生活に意味があるのか、彼にはそれが疑問だったからだ。
それでも、彼は毎週欠かさずしていることがあった。
彼は重い体にムチをうち、彼女を抱き寄せると風呂場に向かう。
「お互い、年をとったな」
しゃがれた声で彼は、もうシャワーに慣れきっている彼女にそういう。
「お前が来てくれてよかった。あのままじゃ、きっと俺はだめになっていた」
にゃあ。
「俺は、お前になにも恩返しをしてやれなかったかな。ごめんな」
にゃあ。
「俺も、もう長くないだろうってこと、お前も気づいてるんだろうな、賢いからな」
にゃあ。
「さ、終わった」
ととと、と彼女は綺麗なった体を歩かせて、しばらくすると座って体を舐めはじめる。
突然、彼女の後ろにあった気配が消えたのを察して、彼女は後ろを向く。
見ると、胸を押さえて無言で苦しむ彼の姿があった。
顔に近づく彼女は、何をするでもなく、じっと彼を見つめていた。
彼が、最期に彼女に向けた表情は、苦悶の表情ではなく、笑顔だった。
ありがとう。
そう、口が動き、彼は動かなくなった。
動かなくなった彼の顔を舐める彼女に、差し込んできた夕陽でできた影が長く伸びていた。

青空は、明日への空

にゃあ、と鳴く彼女は何を想っているのだろうか。
何も想っていないかもしれないし、今は亡き主人のことや、昔食べたおいしいご飯のことを想っているのかもしれない。
もう帰ることのない、一生の棲家から出た彼女は、とことこと歩く。
幾分、昔に比べると体も痩せ、体力もなくなった彼女だが、気持ちはいつまでも若いままだ。
きっと、何とかこれからも暮らしていくのだろう。
もう一度、にゃあ、と鳴く彼女は何を想っているのだろう。
何も想っていないかもしれないし、主人と出会った公園のことや、無理やり入れられたシャワーのことを想っているのかもしれない。
彼女の足元には、昨日の夕方から降り始めた雨でできた水たまりがあった。
それをひょいとジャンプして避けた彼女は、後ろを振り向いて水たまりを見る。
水たまりには、大きな青と、小さな白が映っていた。
それを見て彼女は上を向く。
彼女は毎日を生きてく。
ふわふわと、明日へと向かって進み続ける雲のように。
その雲のような白い体を、前へと進ませ続ける。

青空は

青空は

妻を亡くし、哀しみに暮れる彼がであった猫。彼と猫の出会いと別れの物語。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-26

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