天下を盗んだ大泥棒 第四部

第十二章
         
五右衛門の唐揚げ

ある企み
「どうじゃ淀、あの者達の騒ぎよう!まるで祭り気分じゃろう、うんばうんば~」
黒い漆塗りを基調にした重厚で気品の漂う輿(こし)や駕籠(かご)を連ね、太閤と淀の方は、早朝六時に刑場に到着していた。輿は二組作るよう命じられた。この輿も釜揚げの釜と同様、この日の為に特注された物で、輿作り職人は、注文を受けると直ちに製作に取り掛かった。彼は弟子達十人あまりと、何日も徹夜して作り上げた。この輿の装飾には螺鈿(らでん)細工(ざいく)を施し、金箔もふんだんに、今風に言えば、超豪華なリムジン仕立ての白物であった。
淀の方とその御付の者達が身に付ける衣装も、この日の為に、京の有名な呉服問屋に急ぎ仕立てさせた物だった。さらに太閤は淀の方の為に、風を送る大団扇(おおうちわ)まで用意させ、涼しげな風を絶えず送らせていた。
「どうじゃ、淀、涼しいじゃろう。これらの料理もここで、京の高級料亭選りすぐりの料理人達に、徹夜で調理させたのじゃ、うんばうんば~・・その雉(きじ)の若鳥の肉も美味かろう。何せ鳥は、女もそうじゃが、若鳥に限る、ひねた鳥は肉が硬くて食いちぎれん。それ、それ、それは日本海の鱈の煮付けと本鮪(ほんまぐろ)のトロの刺身、それにじゃ、内海の鯛の塩焼きと吸い物、具は上品な味のする湯葉じゃ。どれも、美味かろう!それにじゃ、お前を喜ばそうと、お前が大好物のさっと湯に通した鴨肉と、これも山桜の木片で燻した鴨肉を用意させたぞ」
太閤は、膝をぽんぽんと叩きながら、淀の方に冗談を交えながら、料理の説明をし、食事を促した。
「さすが、殿下は美食家、この鴨の燻製は仄かな桜の香りがして、とてもおいしゅうございます。淀は幸せ者でございます。ほっほっほっ~」
太閤と淀君は、他の招待客と、楽しげに談笑に耽っていた。
「あ~あ~、あんたもついに頭が変になってまったね。人間を油で揚げるなんて、狂気の沙汰だぎゃ!私は自分の部屋で、ひっそりと鳥の空揚げを食べさせてもらうでよ、今回は遠慮させてもらうわ・・・」
実は、この釜揚げ処刑に正室の北政所(きたのまんどころ)(寧)も招待したが、太閤に面と向かい出席を辞退した。言うまでも無く、太閤は何故、五右衛門を釜揚げにするのか、彼の陰湿な企みを古女房に話すはずもなかった。
「あんたの猜疑心も病的だね。そんなだいそれた真似を淀の前でしたら、きっと取り返しがつかん亀裂を生むよ。私はどうなっても知らんからね」
万が一にも無いと思うのだが、もしも彼女に胸の内にあるその企みを告白したなら、こんな辛辣な返答が返ってきたであろう。
「そうか、そうか部屋で空揚げか、他にも色々趣向を施した処刑があるのに、誠に残念じゃ・・でへねへうんばば~」
それ以来、太閤は処刑の話を一切彼女の前でしなかった。ただ、この四年後の醍醐の花見では、近江や山城、さらに河内と大和から桜の木を七百本も移植し、茶室なども新築し、立派な築地のある池までも造り、屋形船まで浮かべた。それに金に糸目も付けず、山海の珍味をそろえた料理を作り、北政所、淀の方は言うに及ばず、諸侯や家臣など千三百人あまりを招待し、大花見会を催した。
「桜の花がぱっと咲いて、花見はええねえ、辺りに漂うええ香り、何とも言えん癒しの香りだわ。さすがに、あんたは趣味がええ、やる事ができゃあ、私が惚れた男だわ」
この時ばかりは政所も褒め言葉を並べ立て太閤を持ち上げた。そう言われると太閤は目を細め、うん、うん、うん・・、と何度も頷き、喜色満面になった。
「とにかく、豪華で美味な品を手配せよ、うんばうんば~・・・金は惜しむな、でへねへうんばは~」
太閤は宴を催す時いつもこんな調子で御膳奉行に下知した。その豪遊ぶりは、自分の権勢を天下に示す目的でもあった。
この五右衛門の釜揚げ処刑も、招待客は、数百人あまり、何故、盗人処刑にここまでこんな大勢の客を招くのか、凡人には想像の範囲を超えた大掛かりな物で、皆その意図をあれこれ論じ、詮索し合ったが、誰一人として言いあてる者はいなかった。
太い丸太、角材で組まれた桟敷席には、幾つもの控えや休憩の間と厠までしつらえ、簡単であったが、葦簀(よしず)で日除け屋根まで作られた。
全体から言えば、桟敷席を含むこの処刑場は、例えれば、今で言うサッカー場ぐらいの大きさがあり、桟敷席前面以外は、竹矢来がぐるりと処刑の場(ば)と一般の観覧席を仕切るよう張り巡らされていた。その観覧席は近くの山から大八車や畚(もっこ)を使い多量の土を搬入し、斜めになだらかに積み上げ、踏み固められ造られた。処刑が終わると、その後直ぐに、この土は堤を補強する為流用された。
この処刑の全体の指揮、監督を任されたのが京都所司代前田玄以だった。これら桟敷席を含む処刑施設は、釜造りと並行し、まる二週間、数千人の人夫や大工などが建設にあたった。見方によれば、桟敷席から見る数々の処刑は、まるで何かの競技を観覧するかのようでもあった。前田が、部下の役人達を叱咤(しった)激励(げきれい)、鼓舞し、これが出来上がったのは、処刑の二日前だった。
なにしろ、太閤殿下直々に刑場施設を造るように命令を受けた以上、前田には失敗は許されなかった。
当日は太閤自身と淀の方、それに招待客数百名が観覧する為、そちらの手配も大変だった。
祐筆が招待状原案を書き、前田に検閲を受け、手分けして丁寧に招待状を書き上げ、さらにそれら一つ一つを下っ端役人達が招待客の各屋敷に手分けして配布した。
突然、舞い込んだ招待状に、招待された者は、皆一瞬戸惑ったが、何せ、太閤殿下直々の御招待であったので、万障繰合わせ、喜んで参列すると一人残らず返答した。
数日前から、巷では、前々から不正や汚職が取りざたされていた高官や役人、それに彼等と癒着した商人や豪商達が、奉行所に引っ立てられているという噂が流布し、身に覚えのある者は気が気ではなく戦々恐々としていた。しかし、こうして招待されれば、もう捕らえられる心配もなく皆一様に安堵したと聞く。

処刑は午前と午後の二部に分かれていたが、処刑前半で捕縛された者共が、処刑され始めたのが、現在の時間で午前七時より始まり、終わったのが十二時頃であったから、すでに五時間が経過していた。
太閤と淀君の眼前で、人が鞭打たれ、引き裂かれ、焚火の熾きの上で転げ回り、板で打ちのめされ、はたまた水攻めで失神し、氷漬けで凍死するなど、数々の筆舌に尽くし難い血なまぐさい処刑が繰り返された。
「まあ~・・・残酷~・・・きゃ~・・やめて~・・殿下すごい・・・・・・・」
淀の方は時には掌を叩き、拳を握り締め、興奮のあまり涙を流し、身を乗り出して叫んだ。
戦乱のこの時代、これくらいの処刑の惨劇など、考えてみればしごく普通の出来事であった。
太閤が戦った数々の戦場では、もっともっと残虐で惨い大量の殺戮と虐殺が、来る日も来る日も日常的に行われていた。
太閤が語った長篠の戦いでは、銃弾で身体を撃ち抜かれ、馬諸共ぬかるんだ湿地に倒れこみ、絶命した幾百幾千もの将兵がいた。その戦いだけで、実に一日で一万八千人以上の死傷者が大地を覆った。
比叡山焼き討ちでも、僧は言うに及ばず、老若男女、幼い子供までが、槍で突かれ、刀で斬り刻まれ、首を刎(は)ねられた。その数三千人とも言われている。
長島一向一揆の戦いは皆殺し作戦だった。飢えの為、まるで干からびた皮ばかりとかした信徒が、腕に鍬、鋤、竹槍や刀を握り、地獄から這い出してきた亡霊のような姿で、髪振り乱し、雄叫び、絶叫し敵陣に突入、無惨にも玉砕して果てた。その数二万数千人に及んだ。正に、血なまぐさい殺伐とした虚無の時代だった。
後半の火炙りの刑は午後一時から始まった。
刑場の西側付近には、竹矢来から二十メートルほど離し、磔柱が凡そ二十本あまり、垂直に立てられてあった。これは五右衛門一味の処刑の為だった。
太閤たちは、太陽を前面に見る桟敷席に陣取っていた。その背後には七五の桐の家紋入り大段幕が隙間なく張られ、警護の者が闖入者を防ぐ為、要所、要所に配置されていた。竹矢来には等間隔で竹竿が荒縄で縛り付けられ、その先に括りつけられた家紋と千成(せんなり)瓢箪(びょうたん)をデザインした旗や幟が、風ではたはたとはためいていた。
「いやはやさすが太閤殿下、この刑場といい、趣向を凝らした処刑の数々、中々見応えがありましたな・・それに五右衛門の釜揚げ、これも楽しみでおますな・・」
「そやそや、処刑とは言え、どれもこれも見応えがありましたな、五右衛門の釜揚げ、貴方の言う通りこれも楽しみでおますな・・・」
参列者は、もし自分が処刑されていたら一体どうなっていただろうと全身に冷汗をかきながらも、太閤への賛辞の言葉を惜しまなかった。
「敵前逃亡した輩(やから)、正にお家の恥、所で熾を踏んだ者達の足の皮はどないになったでしょか。転げ回った者達もさぞや熱うおましたでしょう」
「熱いどころではありませんぞ、渡り遅れた者達は皆斬首の刑でおましたで」
「そやそや、斬首と言うより、武士ならばせめて、切腹の名誉を与えればよろしゅおますのに・・・・」
「そや、そや・・しかしここだけの話し、先の役は無謀でおましたな・・・このまま行くとまた役が始まるという噂でもちきりでおます」
「逃亡した兵も見知らぬ地に追いやられ、武器、食糧の補給もままならず、おまけに疫病、何せあちらの冬はひとしお寒うおますし、逃亡を責めるのはかわいそうでおますな」
「しっ~殿下に聞こえますぞ、批判は御法度でおます。見ざる、聞かざる、言わざる・・これが一番、あっ!・・殿下がこちらを向かれましたで、くわばらくわばら・・」
ひそひそと、今中断している役を暗に批判する者もいた。
「そうそうあの氷漬け、あれは妙案でおましたな。やたらに巨大堰は治水どころか河川自体の荒廃を生みますよって、治水と言うより利権が絡んだ金儲けでおますな。ほんま、汚い金儲けでおますな」
「氷で無駄な事業凍結、なかなか機知にとんだ処罰でおましたな。一度計画したら、どんどん金をつぎ込み続ける、まあ、利権がらみの巨大な浪費でおますな」
「みなグルに成り、嘘八百並べ立て、その根底は金儲け、何時までもこんな事をやっておれば国は滅びますで・・」
「まあ、まあ・・そないなしみったれた話しはよろしいがな、どうですお酒でも・・・」
「飲みましょう、飲みましょう。こんな所で今さら愚痴ってもしょうがのうおます・・」 
むしゃむしゃ・・ぱくぱく・・ぐいぐい・・ごくごく・・処刑者が苦痛に喘ぎ、死んでいくのに、招待客は豪勢な仕出し弁当を食い酒を飲んだりしながら、互いに好き勝手な事を喋りあっていた。
午前の処刑前半の終盤、板叩きの刑が始まると、太閤の近くに座っていた、見るからに脂ぎり、てかてか顔の豪商・赤(あが)俵屋(たや)宗(そう)衛門(えもん)が、わざわざ太閤の席までやって来た。
「殿下、わざわざの御招待有り難うおます。中々趣向を凝らした処刑の数々と、何よりもこの処刑場の大きさ、流石、殿下は考える事がどでかい!この宗衛門心より感服いたしました。所で殿下、あの別嬪(べっぴん)(竜造寺の)、私が競り落としてもよろしいかな」
彼はある女を指差し太閤に伺いをたてた。
「おう!宗衛門か、ごくろうじゃ、ごくろうじゃ・・何々あの女、お前も眼が肥えておる、構わん構わん、どうぞご自由に、わしももう少し若ければあの女を競ったのにのう、うんばうんば~」
上機嫌で冗談まで言い、ちらりと淀の方に視線をやった。一瞬、淀君とその女を見比べ、太閤はどれもこれも悪しき事を企む悪女は良い女だ、菊子(淀の方)も大化けした物だ、悪女にちがいないが悪女故に可愛い、と密かに思った。それにしても特にあの妖艶な女、今夜でも夜伽(よとぎ)に欲しいものだ、わしの色欲はいつまで経っても枯れんな、とさらなる妄想に耽った。それから、ふと我に返り、宗衛門めが色気をだしておったあの女、奴なら必ず競りおとすだろう、ともう一度その女を凝視した。
赤俵屋宗衛門は常日頃から太閤に、珍しい品々を献上していた。彼が太閤の元にやって来て、伺いを立てたのは、太閤の心の内を見透かしての事だった。その点から言っても、彼は抜け目のない大阪商人だった。案の定、太閤は心の内で、内々に、と言えば奴め尻尾を振り、喜んであの女をわしに献上するだろう。女はわしに抱かれても減る物ではない。それにしても二十四組とは女は尻軽が多いと想像力をたくましくしていた。

処刑後半第一幕・人間の丸焼き
前半の処刑が十二時に終わると、一時間ほど休憩が入り、火炙りの刑が、釜揚げ前に行われる事になっていた。
三条河原の会場には、二、三日前に、罪人を縛り付け火炙りにする為、二十本あまりの杉柱が用意されていた。この柱を立てる為、これと同数の穴が竹矢来に沿い等間隔で掘られてあった。穴は深く掘られ、柱をそれに滑り込ませ、周りに杭を差し込めば、罪人がいくら足掻こうがびくともせず、なによりも、刑が終わった後、簡単に撤去出来る様考案されていた。
それとは別に、処刑数日前から、刑場内には、近くの山から切り出され束にされた柴や薪が、何台もの荷車で運ばれ、山積みにされていた。
一方、近くの村から狩り出された数百人の百姓女が、前夜から幾つもの大釜で米を炊き始めた。米は炊きあがると、直ぐに、大きな杓文字(しゃもじ)で掻きだされ、大桶(おおおけ)に移されると、流れ作業よろしく次々に握り飯にされた。また沢庵もまな板状の分厚い板に載せ、出刃包丁風の包丁で次々に切られた。この炊事場とも言える周辺には、米俵や沢庵桶がずらりと並べられ、まるで戦をしているような有様だった。
休憩中、この握り飯が沢庵を添え竹皮で包まれ配布され始めると、人が長蛇の列をなした。
席に戻り、握り飯をパクつきながら、観衆は、ああだこうだ、と前半の処刑の有様を喋りあっていた。観衆の多くは、弁当や酒なども持参し、中には酔っ払ってぐだを巻く者もあらわれた。
ど~んど~んど~ん~
腹の底に響くような太鼓の音が会場に鳴り響いた。
いよいよ処刑後半の第一幕、火炙りの刑が始まった。
うお~
何処からともなく観衆のざわめきが起こった。まだ前半の熱気が人々の体内に残っていた。それが、太鼓の合図で一斉に呼び起こされたのだった。
この五右衛門の釜揚げより先に行われる火炙りの刑は、柱を上部で十字架状に組み合わせ、罪人の手と足をその柱に縛り付け、身動き出来ないようにして焼き殺す残酷な刑だった。
その日、観衆の見守る竹矢来から二十メートルほど距離を置いて、凡そ、五メートル間隔で矢来に沿い半円形状に柱が立てられ、そこに、二十名ほどの五右衛門の手下の男女が縛り付けられていた。彼等が縛り付けられた柱の足元には、薪束が縦に立掛けられ、火炙りの準備は整っていた。
太鼓の音ピタリと鳴り止んだ。
場内は、一瞬、緊張感がはりつめ、奇妙な静寂が辺りを支配した。と、次にガラスが砕け散るように均衡が破れ、喧騒とした雰囲気がもどっってきた。
遂にその時がやって来た。
「丸焼きじゃ」
太閤が右手を上げ、おもむろに下ろし、金切り声で叫んだ。それを見た進行係の役人が、櫓下の上役に開始の合図を送った。
「薪に火を点けろ」
上役人は合図を見て、大声で命令を下した。
薪束に間髪容れず下役が手にする松明から火が放たれた。薪束は、白い幾筋もの煙の渦を巻き上げながら燃え始めた。
処刑前、朝とは少し違い、時折、雲塊が刑場上空を通り過ぎ、流れる雲の加減で処刑者の顔は見にくくなったりした。その時も、煙の白いベールがさらに追い打ちをかけるように、彼等の顔の表情を見えにくくしていた。
それが、薪束に火を点けてから、もくもく立ち登る煙が収まり始めるとともに、雲の間隔も拡がり、立ち並ぶ処刑柱に縛り付けられた処刑者の表情も良く見えるようになった。立掛けられ、積み重ねられた薪束は、火勢に煽られ、ぱちぱち大きく弾け、さらに火勢は加速していった。
すると、灼熱の火炎の舌が、柱に縛り付けられた処刑者の足元から胸元まで舐めるように一気に這いあがった。彼等の皮と肉が、見る見る内に赤く変色し、じゅじゅっ~と微かに音を立てながら溶け始め、辺りに異臭が立ち込めはじめた。処刑者の顔が見る見るうちに苦痛の為に激しく歪んだ。
きゃ~
そのとたん、観衆が響動めき、その波動で、処刑場全体を取り巻く空気の層が、山の地滑りが起きた時のように激しく揺れ動き、天と地が逆転したかのような不思議な感覚に皆が陥った。
処刑柱に縛り付けられた男も女も炎に炙られ、苦痛に歪む顔の表情が観衆にはっきりと見てとれた。観衆に紛れて観戦していた二人の男の眼が、同時に、その中の二人の女の顔に釘付けになった。
「あああああ~あれは親分の・・・その向こうは・・の~~わわわあああ~」
五右衛門の子分の一人、黒蜘蛛の源八が、弟分のどぶ板の佐吉に呻くように呟いた。彼等は捕縛の網をかいくぐり、身をやつし、観衆に紛れこんでいたのだった。
「あああ~あにき~ううううう・・・・」
柱から離れていて確かではなかったが、女達は五右衛門とその手下の女にちがいなかった。
あああつつっつつっ~~ううう~ぎゃ~ああ~ああ~助け~あああ~
火炙りに処せられた者達が発する断末魔の叫び声は、辺りの喧騒さに打ち消され、彼等の目からは処刑者が身をよじり、もがき苦しむようにしか見えなかった。そんな処刑者の中には、幼い子供たちも含まれていて、観衆は涙にむせた。なんという残忍な仕打ちなのだろう。
「あんな幼い子まで、かわいそうに・・・」
「何をわめいているのだ~あの悪党~ども、ええ加減に観念せんかい」
「あ~あ~いくら喚(わめ)こうが、叫ぼうが、悪足掻きや、無駄な抵抗や、丸焼きや」
「あれ見てみいや、あの女、あれ焼き殺すにはおしいで~太閤は~んわしにくれ・・」
「・・・・・・・それにしても太閤はん・・・・狂気の沙汰やで・・・完全に狂うとるで・・・」
「そやそや、これはもう生き地獄その物や・・・・」
無神経な野次馬達は勝手な事をほざき、処刑場全体の雰囲気は徐々に盛り上がって行った。
そんな中、手の縄が焼け焦げた者は、ゆるゆると腕を上げたが、力無くその腕はだらりと垂れ下がった。

火炙りの刑は凡そ一時間で終わった。処刑者の身体は形を失い、辺りには、焼け焦げた死体から何とも言えない悪臭が漂い、観衆の鼻をついた。
「殿下、これは残酷過ぎぎます・・ここまでしなくとも・・・・」
たまりかね淀の方が哀願するような口調で訴えた。
「淀よ、これもこの世の現実じゃ・・わしはこの何百倍もの惨い有様を目にしてきたのじゃ」
太閤は淀の方に応え、この光景を目の当たりにしても顔色一つ変える事なく、平然と言ってのけた。それより彼の頭の中は次の処刑で一杯だった。

あれは一体だれや?
いよいよ、太閤の大仕掛けで陰湿な企みが実行されようとしていた。刑場内では、そんな企みが仕掛けられているとは露知らず、役人、これら処刑に携わる者達の群れが、火炙りの後片付けや準備の為に慌ただしく駆けずり回っていた。その頃になると雲は去り、刑場の半ば桟敷席側にある、今日の主役を揚げる大釜は、太陽の光を浴びてきらきらと眩しく光り輝いていた。
北側を背にした桟敷席のちょうど真正面には、まだ燻り続ける処刑柱の残骸が、半円形状に大釜を囲むように立っていたが、釜揚げの準備が始まると、直ちに地中から引き抜かれ何処かに運び去られた。その周辺では、異臭を放ちながら燻り続けていた焼け焦げた死体の残骸処理と並行し、大釜の周りにも新たに薪束が積み加えられ始め、刑執行の準備は着々と進められていた。
その時、太閤は真っ赤な錦の着物の上に、金糸で虎の刺繍(ししゅう)を施した黒色の羽織をはおり、襟元(えりもと)からは真白い襦袢(じばん)の襟が僅かに覗いていた。黒、赤、白と色の対比が微妙に絡み合ったその豪華な装いは、観覧席の中央にどっかりと座っているこの日の主役太閤を一段と引き立たせていた。時折、太閤は自分の威厳を示すかのように、姿勢を正し、髭の先端をくるりくるりと捻じ曲げた。
その側には寄り添うように、小菊や牡丹模様をあしらった赤い衣装を身に纏った淀の方が、太閤の陰湿な企みが、今正に、実行されようなどとは露知らず、楽しげに談笑しながら座っていた。
観衆は、堆く積まれて行く薪束に何時火が点けられるか、今か今かと待ち焦れていた。
ど~んど~んど~ん~
火炙りの片づけが全て終わり、およそ午後二時半、釜揚げ開始を告げる大太鼓の音が、会場の騒然とする空気を引き裂いた。
ほんの一瞬、会場のざわめきが止まった。
「火じゃ」
右手を上げ、おもむろに下げ、金切り声で太閤が命令を下した。櫓上の役人が上役に手で合図を送る。
「火を点けろ」
上役が頬をぴくつかせながら怒鳴った。松明を持った下役達が駈けずりまわる。
あっ、あっっっっ・・、火が点けられたぞ!わあああああ~わあああああ~わあああああ~
すぐさま、会場のあちこちで、何とも言えぬ喚き声が沸きあがり、辺りは騒然とした空気に包まれた。
あああああ~うううう~わわわわわわ~
会場の何処からともなく、腹の底から押し出されるような呻き声が間断なく湧き起こり、刑場全体が揺らぎ、観衆は一人残らず異常な雰囲気に呑み込まれていった。
火炎は薪の細い先端部からより太い中心部へ燃え広がり始めていた。だが、火炎の勢いは観衆の期待とはかなりの隔たりがあった。薪は爆発的に燃焼するのではなく、初め燻りながら白煙を上げ始めた。
「おい、火の回りが悪いやないか、もっとぱ~っといけや、煙ばっかしじゃねえか?桟敷席の大きな団扇で扇いだらどうや~皆で風送ったろやないか」
それに合わせ、野次馬共が、口を尖らせ、釜に向かい一斉に強く息をふうふう吹き掛けた。そんな動作もこの雰囲気の中では空疎(うつろ)に見えた。その間にも、観衆は人が揚げられようとしているのに、皆勝手な行動に走り、野次を飛ばしていた。
そんな彼等の思惑を無視するかのように、薪は頑なに燃えるのを拒んでいるようにも見えた。それでも薪は少しずつ燃え上がり、それにつれ黄金色の粘っとりした菜種油が熱せられ、無数の細かい気泡の粒が、ぶつぶつ~ぷつぷつ~ぷくぷく~下から上に絶え間なく浮かび上がり始めていた。
汗や垢にまみれた観衆は、口を尖らせ、目をぎらつかせ、髪を逆立て、押し合い圧し合い、席から跳びあがり、釜の中で何が起こっているか必死に見ようとしていた。
「こら、座って見んかい。わしらの前で暴れくさって、何にも見えんぞ」
「そやそや座らんかい」
「ほんまやで・・ええかげんにせんかい、おまえら」
後方の席に座る男達が叫んだ。そんな騒ぎをよそに、薪はぱちぱち弾けるような音をたて、白い煙に混じりこぼれた油のためか黒煙さえ高く立ち登り、何とも言えない異臭が刑場の底から沸きあがるように、辺り一面に漂い始めた。
観衆はわめく。
「ほんまにこりゃ残酷やで・・・大泥棒ちゅうても生身の人間やないか・・五右衛門の唐揚げ、これは食えへんで・・それにしても朝処刑された奴等、悪い奴も多いな。わしらが知らん所で、こそこそこそこそ悪さしおって、あそこまでして私腹を肥やさないかんのやろか。人間としてどないなもんやろな。人の金を猫糞(ねこばば)して恥ずかしい事ないんやろか。こないな事ばっかしやってたら、まともな商売なんか出来へんで、ああ馬鹿らし、いやな世の中やで、ほんまに」
「こない世の中乱れ果てては、恥とかなんとか無いんとちゃうか。五右衛門も、なんや、ええ事やってきたみたいに思えてくるな」
「そらちゃうで、盗人は盗人やないか。義賊とかなんとか言われとるが、体のええ言い訳や、格好付けとるだけや。わしに一銭もくれへんやないか・・」
「一銭の金くれへん?あんたせこいな・・」
「まあそんな話どないでもよろし・・ここだけの話し、言うてみれば太閤はんも織田家から、なんやかや策略を巡らし、天下をのっとったんとちゃうんか。人のええ律儀(りちぎ)な明智はんも誰やらにたぶらかされたのとちゃうか。あれ見てみい、釜揚げに淀のお方はんまでひっぱりだして、これはなんか企みがあるのとちゃうのか?」
「しいっ~声が大きいで、役人に聞こえてみい、お前も釜揚げやで」
「ほんま、ほんま聞かれたら事やで、口は災いのもとちゅうやないか、命おしかったら黙っとりいや」
皆の話を聞いていた商人風の男が呟いた。
「そゃそゃその通りや・・・・・・・」
皆は一様に頷いた。
「それにしても熱いやろな!まるで天婦羅やで!このままいったら灼熱油地獄や!太閤はんはきょうび頭が狂うてるで・・・」
その男の隣にいた男が皆に聞こえよがしに独り言を言った。
「そうやろか、二日間も寝所に押し入られ、太閤はんもよっぽど腹にすえかねたとちがうんか!」
褌にぼろの着物をまとった男が汗を拭きながら小声で。
「やめろ、やめろ、煮えちゃう!」
誰かが叫んだ。
「大泥棒潔ようくたばれ、ざまーみろや!」
人足風の男は大声で叫ぶ。
「な~む~あ~み~だ~ぶ~ああ~もうこの世も終わりや。どないしょ、釜揚げなんて人間のする事やない。なむあみだぶつ~」
托鉢(たくはつ)姿の僧は念仏を唱え続ける。
「わあ~わあ~かむしゃま・・ほ~とけさ~ま・・べんてん~しゃま~ちゃあこうさま・・おゆるしを~」
何故か精神的に追い詰めらた、如何にも狂女風の女が、髪を振り乱し駆け回りながら叫ぶ。そんな哀れみの言葉や罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)、それに念仏や呻き声が観衆の中に充満し、辺りは汗と人いきれで湯気が立ち込め、観衆一人一人の内部でも、五右衛門の地獄の苦しみを共有しているかのようにもみえた。
そんな辺りの異様な熱気に煽られ、裸体で駆け回る者、半狂乱になり、泣き叫びながら地面にへたり込む者、血の出るほど拳で土を打ち付ける者、その中で気の弱い百姓女などは、口から白い泡を多量に吹き上げ卒倒した。
火勢が増すにつれ観衆の一部は、我を忘れ、顔面は狂気さへ帯び、髪を振り乱し、背中の毛を逆立て、辺り構わず飛び跳ね始めた。それは、内部に隠し持った太古(おおむかし)の狂気の血がそうさせるのかもしれない。そんな中、野次馬がいくら騒ごうが、厳重な警備網を突破し、矢来を乗り越え、大釜の側に立ち入る事は出来なかった。
それでも強引に、竹矢来を乗り越え乱入しようとした数人の暴漢は、竹矢来の内側で警備にあたっていた屈強な役人に、力ずくで引き摺り下ろされ、六尺棒でこっぴどく打ちすえられた。
「おまえら、なにさらすんや、痛いやないかううう~いいいてて~ぐしゃぐしゃ~」
殴られた男は、わけの分からない呻き声を上げ、膝をがくんと折って倒れこんだ。
「この野郎わしらをなめるなよ!手加減するな!肋骨へし折ったれ!」
警備役人頭が命令した。
「やったれ、やったれっ~いてこましたれ」
ぼきぼき~がきがき~
骨と棒が当たり、異様な音をたてたが、野次馬の雄叫びにかき消された。警備役人は、日頃のうっぷんを六尺棒の先端部に凝縮させ力任せに殴打し続けた。
ごっん~ごっん~・・・・
棒が骨に当たり鈍い音が響いた。
「わわわわっ~この下っ端野郎の屑野郎!」
「この屑野郎!おい皆こいつをぶち殺してやろやないか!お前も釜揚げや!」
警備役人が怒鳴った。着物の袖で血を拭い、再び役人に襲いかかろうとしたその男は、取り囲んだ四、五人の警備役人に足腰の立たないぐらい打ちのめされ、その場にへたり込んだ。
「いてててっ~なにさらすんや、わいを殺す気か!、おまえらどうかしとるで・・・・」
「やれやれ~もっとやったれ!、わしらには関係ない。酒や・・・ううう~いいい~」
「そやそや、もっとど突いたれや~」
そんな光景を目の当たりにして、ある者達は拍手喝采し、それを肴に酒を酌み交わすなど、狂乱の宴が処刑のいたる所で繰り広げられていた。
火が燃え盛るほどに、観衆は血が頭に昇り、興奮状態に拍車がかかり、熱気の高揚(たか)まりとともに身体から流れだす汗は、瞬く間に蒸発し、塩の白い結晶が腕や剥き出た肌を覆う凄まじさだった。この混乱の坩堝(るつぼ)に落ち込んだ者達は、皆叫び過ぎ、からからに喉を乾かし、ひいひい声をあげた。
「そら、水だ、水だ、頭を冷やせ~」
警備役人が、竹矢来に取り付き、猛烈な勢いで揺さぶりをかける者達の頭上に、肥(こえ)柄杓(びしゃく)で手桶から汲んだ水をザザッ~と浴びせかけた。
「冷たいやないか・・・馬鹿野郎!折角、ええ気分で騒いでいるのに!変な時に水差すんやないで」
「てめえ達の顔でもあらえよ!薄汚れた顔しやあがって、わしを誰だと思うてるのや!うういい~わしを誰やとっとっと・・思うとるんやっやっやっ、ういい・・・・むにゅむにゅ~」
水を浴びせ掛けられた酔っ払い達は、ずぶ濡れになりながらも尚勝手な事を喚き散らしていた。戦乱に明け暮れる民衆の置き場のないフラストレーションは、こんな残酷な釜揚げショーや祭りで昇華(しょうか)、解消されていたのかもしれない。それにしてもこれは、日本史上、一人の人間に対する前代未聞の残酷処刑の一つにちがいなかった。人間を空揚げにする、これは正に狂気の沙汰以外の何物でもなく、何かに憑りつかれた一人の人間、豊臣秀吉が仕組んだ気狂いめいた嗜虐行為そのものだった。
視点を上に向けると、空は何時しか青く澄み渡たり、地上に群れる蟻のような観衆の頭上で、太陽は燦々(さんさん)と輝いていた。観衆が発する歓声や怒号は、大きなうねりとなり、何時しか巨大な竜巻の渦のように変わり、処刑場全体の空気を巻き上げ、振動させ、近くの山々に木霊していた。
繰り返し起こる木霊の波動は、さらに観衆を刺激し興奮の度合いをたかめた。
桟敷席中央に座る淀の方を見ると、その時は休息の為か席は空いていた。隣席の太閤は、表面的には他の賓客達と飲んだり食ったりしながら、楽しげに談笑の花を咲かせていが、心の中では、彼の仕掛けた企みを淀の方が気付き、仰天し、両掌で顔を覆い、泣き叫ぶ有様を想像し、背筋がぞくぞくするほどの嗜虐的(しぎゃくてき)快感に浸っていた。
彼は心の中で何時しか、油よたぎれ・・じゃがゆっくりと・・油よたぎれ・・じゃがゆっくりと・・もがけ・・苦しめ・・泣き叫べ・・・・と繰り返し、繰り返し唱えていた。
さらに太閤は、額にじっとり脂汗を滲ませ、
奴は灼熱油地獄がふさわしい・・奴はわしの大事な宝物を奪ったのじゃ、と繰り返していた。
火は途中から火勢が急に強くなり、釜全体を包んでいた白い煙も次第に薄れていった。
太閤は初め、釜の中に浸けられた五右衛門の様子が分らないように、意図的に、柴に生木の葉を多く混ぜるように指示していた。これもまた彼の企みを完成させる為の巧みな演出でもあった。
その後直ぐ、控えの間で休息を取っていた淀の方も席に戻り、ちらり、ちらりと大釜に視線をやり、中の様子を窺っているようだった。
太閤の思惑とは別に、その時、淀の方の内部では、眼前で繰り広げられた火炙りの刑や今行われようとしている釜揚げの光景と幼い日、北之庄の城内が炎に包まれ、母・お市の方が勝家と自害して果てた過去の悲惨な光景とが重なり合い、言い知れぬ憤りを感じていた。
「殿下!五右衛門は釜揚げにするほどの大泥棒でございますの?」
突然、淀の方は、太閤に口調は柔らかいものの、まるで詰問でもするかのようにたずねた。
一瞬太閤の顔色が変わった。
「そうじゃ、あの五右衛門・・彼奴はわしの寝所まで不埒にも忍び込み、うんばうんば~・・・わしの大切な物を盗もうとしたのじゃ」
太閤は揚げられている男を指差し、あの五右衛門を強調した。この返事は、無論、詭弁にちがいなかった。
「五右衛門は何の為に殿下の寝所に?まさか千鳥の香炉?」
さらに、淀の方は一見無邪気な顔をして質ねた。
「あのちちちっちちちっ~と鳴いてわしに賊の侵入を告げた千鳥の香炉か・・・・はっはっは~じゃが、香炉ではない」
太閤はさも可笑しそうに笑った。
「では何の為に?余程大切な物を盗みに忍びこんだのでございますか?」
「そうじゃ、じゃがもうその話はよい。奴はああして今頃釜の中でおのれのしでかした大罪を後悔しておるじゃろう、うんばうんば~」
太閤は淀の方の言葉を遮るように言った。刑場を取り囲む竹矢来の外では、観衆に混じり二人の男が、煙と炎が立ち上る釜の中で、もがき苦しんでいる男の顔を見詰めていた。
「あ~あ~みんな焚(や)き殺されてしもうた。ちきしょう。今度は親分が油で揚げられ・・あ~あ、あないにもがき苦しんで・・・・」
黒蜘蛛の源八は、すぐ隣のどぶ板の佐吉に小声で言った。彼等の視線の向こうでは、今さっき、釜の中に入れられた五右衛門が苦しそうにもがき苦しんでいた。
「あああああ~あっあっあっつ~あぎゃああ~あっっ~なわわああ~~が~ぎゃ~ぐぐぐぎぎぎぐぐ~」
髪はばらばらに乱れ、顔は真っ赤に変色し、時間が経つにつれ、遠目からしてもその苦痛が増すのが、悲鳴の高まりからも明らかだった。
もしかして彼は何かを伝えたいのかもしれない。
「佐吉よ、親分は何を言おうとしとるのやろ。意味不明や。さっきから何か妙な感じだ。どうも様子が変やで?わしには煙と炎でよう見えんが、おまえは眼がええやろう・・瞳を凝らしてよう見てみい!」
源八は彼より十才も若い佐吉に言った。
「げげ~そんな?」
そう言われて、瞳を凝らした佐吉は思わず小声で叫んだ。
「どうしたのや?」
「そんな馬鹿な!」
「何がや?」
源八は佐吉の紅潮した顔を覗き込んだ。
「やっぱり何か変やで?」
「何が変なのや?」
源八は佐吉の言動から、ただならぬ事態が起こっているのを察知した。
「兄貴、さっきから変やと思っとったが、あれ俺たちの親分とちゃうで?」
彼は辺りを憚(はばか)るように見回し、源八の耳元で囁いた。
「何やて、そんな阿呆な事あるかいな?そやけど言われて見ると、わしもさっきから何やら変やと思っとったんや。そやけど、わしは瞳を凝らしても良う見えん。分らへん!」
源八の声には怒りが籠り、捨て鉢の口調になっていた。
「あれは間違いのうわしらの親分と顔形も違うし、それに若い・・あれ見てみい、口から赤い血を噴き出し苦しそうやで!」
畳かけるように佐吉が言った。
彼に言われて見ると、確かに釜の中の五右衛門の口の辺りは、噴き出た血で真っ赤に染まっているようにも見えた。大釜の中の五右衛門は、一段と大きな声で絶叫しながら何かを訴えていた。
「ああっっ~ごご~ああ~ええ~ぎゃ~ももんと~ちち~ああっあっっあ~が~うう~」
彼等の視線の先で、一段と油が煮えたぎってきた釜の中で五右衛門が、苦しみのあまり断末魔の叫び声をあげていた。
「兄貴、あれはもしかして、舌をちょん切られとるのかもしれんで?」
そんな五右衛門の姿を見て佐吉は、源八に問いかけた。 
「そんな阿呆な・・・・・?」
「兄貴、おのれの名を叫んでいるようにも聞こえるが、でも分らん、そら、そら・・・おお・・」
佐吉は源八の顔を見詰めた。源八は佐吉の言葉に、さらに瞳に神経を集中させた。凝視すると、確かに、唇から下顎にかけ血糊がべっとりこびり付いていた。しかし、彼等が覗いている竹矢来の位置からは、煙が漂っていて五右衛門の顔を正確に確認する事はほとんど不可能に近かった。
「分らん・・よう見えん、何を叫んでいるかも分らん・・あまりにも遠過ぎる、あれは一体誰なんや」
源八は呟くように言った。
「よう分らんが、親分でないのは確かやで・・どないなっとるのやこれは、兄貴?それにや、わしの計算では親分と鬼丸の兄貴は三日間も太閤を部屋に閉じ込めた事になるで!」
佐吉は日焼けした源八の丸い髭面の顔を見詰めた。その表情には戸惑いの色が漂っていた。炎天下である事と、観衆が放つ熱気もあったが、二人の肌からは何とも不快な玉のような脂汗が滲みでていた。
「それにや、け・・け・・今朝、裸馬に乗せられ市中を引き回され刑場に運ばれたのは、た・・た・・確かにわしらの親分と仲間やや・・やったな・・?」
佐吉に再確認した源八の声は、心の動揺をあらわすかのように小刻みに震えていた。
「そうや、間違いなく、わしらの親分と仲間やった。間違いあらへん・・それに親分達は二日の晩に忍び込んだはずなのに、噂では三~四日の二日間やて・・これは何か絡繰(からくり)があるで?」
佐吉は鋭く矛盾を指摘した。そんな二人の囁きも観衆のざわめきの渦にかき消された。
「うわ~煮えたぎり始めたで・・・・・~」
しばらくすると、熱狂した野次馬が竹矢来を固く握りしめ、揺さ振りをかけながら叫んだ。
その直後、熱風が小さな渦に変わり釜底辺りで渦まいた。渦は寄せ集まり忽ち大きな渦へと変わり始めた。と、同時に火勢が爆発的に強くなり、煽られた火炎が釜を巻き込むようにごおっ~と大きな唸(うな)りをあげぐるぐる~回転し始めた。
「わああ~なんや・・これはえらいこっちゃ・・爆発するで!・・・」
一瞬、その衝撃が観衆を襲い、動揺が刑場全体に走った。
さらに火勢が増すと、釜の上部を覆い隠すように漂っていた白煙が消え去り、五右衛門の顔が初めてほんの一瞬はっきりと浮かび上がった。
「あれは~?まさか?」
一様に皆がそう思った。その瞬間、貴賓席に陣取る幾人かの顔色がさっと変わった。
「あれは五右衛門ではない」
沿道で五右衛門が馬で引き回されて行く姿を垣間見た誰かが小声で囁いた。
「あれはもしかして?」
その囁きが、辺りに座る者たちの心の動揺を誘った。それらの者達はみな蒼ざめた顔になり、無言で互いに見詰め合った。皆が何かを察知し辺りは異様なまでの沈黙が支配した。
「もしや、あれは○○・・?」
そんな張りつめた雰囲気を突き破るように、又も誰かが太閤の企みを見抜いたのか思わず呟いた。
「ええ何やて?・・誰々・・・・?」
誰かが問い返した。
「もしかして、あれが噂の淀の方の・・?」
「しいっ~めったな事を口にだすんやない!」
そうは言うものの、釜で揚げられている男が本当は誰なのか、その場に座る誰にも分らなかった。それでも、太閤の陰湿な企みを察知した者は、背筋に冷たい氷の塊が貼りついているかのように感じ、ぞくぞくっと身を震わせた。
太閤が、五右衛門釜揚げの為、巨大な刑場を新設し、何百人もの大名や武将、さらに豪商達や著名人達を招待し、豪勢な食事を提供し、祭りだ祭りだと話を盛り上げていたのは、決して気紛れでなく、その裏にはこんな陰湿な企みが隠蔽(かく)されていたのだと、その時初めて一部の者は理解した。気まずい何かが皆に伝播し、急に場が白け、そこに座る皆は料理が喉を通らなくなり、互いの顔を見詰め合った。
「どうじゃ淀!」
その時、濁声が太閤の口から洩れ、その指が大釜の中の男を指差した。桟敷席のざわめきに、黙って聴き耳を立てていた太閤が、聞こえよがしに淀の方に声をかけたのだった。皆は淀の方を、固唾(かたず)を呑んで凝視した。
衆目の中、淀の方は首を横に曲げ太閤を見詰めた。その顔には微笑みさえうかんでいた。それからゆっくりと、太閤が指差した大釜に改めて視線を向けた。その先には、悶え苦しむ男の姿があった。
あああっ~・・・
その時、大釜辺りで何かが起こり、竹矢来の辺りからも、悲鳴とも叫び声ともつかないざわめき声が湧き上がり、津波のように貴賓席の辺りまで押し寄せて来た。と、そこに座る者達を金縛り状態にしていた心の呪縛が解け、辺りは騒然とした雰囲気に包まれた。
企みを知った者達は、その余りの陰湿さに、改めて太閤の恐ろしさを思い知らされた。そんな中、ただ太閤だけは異変が起き始めた大釜を見詰め、自分の仕掛けた企みの成果にほくそ笑んでいた。
「大盗人の末路はああなるのじゃ」
太閤は、さも何事もないような素振りで淀の方にもう一言声をかけた。
「殿下、大盗人の釜揚げなど良い趣向ですこと・・・・」
「あああっ~」
男は断末魔の叫び声を上げた。その声は辺りの騒音に打ち消され誰にも聞こえなかった。
「大盗人も殿下にかかれば油で空揚げ・・あの男も後々語り継がれ本望でしょう・・」
淀の方は、その男を凝視し、一瞬、動揺したかに見えたが平然と言い放った。
「ほっほっほっ~」
それから、小気味よさそうに小声で笑った。
その顔には微笑さえ浮かべていた。そんな彼女の対応を見た人々は、釜揚げの後しばらく、淀の方は初めから太閤の企みを見抜いていたとか、はたまた、その男とは何の関わりもなかったのだと、あれこれ陰で囁き合った。

しかし、次の瞬間、誰もが予想だにしなかった不測の事態が勃発した。突然、太閤と淀の方は無論、大勢の観衆が見守る中、煮え滾った油が、僅かに傾いた大釜からどどっ~と溢れ出し、火炎に煽られ、轟音とともに大爆発した。
瞬く間に、辺りはもうもうと立ち上る紅蓮の炎と黒煙に覆われ、釜を中心に熱気と熱風が津波のごとく桟敷席や竹矢来の辺りまで拡がった。
観衆は騒然とし、泣き叫び、逃げ惑い、折り重なるように倒れた。しばらくすると、火勢は収まり、飛び散った燃え残りの薪が、白い煙をもくもく上げながら燻り続けていた。そのあまりの衝撃の凄まじさに、しゃがみ込んでいた観衆は、茫然と立ち上がり、何事が起ったかと釜に視線を向けると、そこには無惨にも金箔が煤(すす)け、剥がれおち、黒焦げになった大釜が醜い巨体を大きく傾(かた)げていた。観衆はまだ白日夢の中にいた。
わわわっっ~・・・・・・・
その後、夢から覚めた観衆は、何事が起ったかと喚き散らし立ち騒いだ。そんな騒然とした中、ただ一人太閤は冷然と座り、焼け焦げ大きく傾いた大釜を満足げに眺めていた。彼は心の中で、見世物の終わりとしては上出来かなと呟いた。
全ては終わった。全てが終わると、そこにいた全員が何か虚しい虚脱感に捉われていた。

その後、刑場内や桟敷の辺りでは、慌ただしく後片付けが始まり、太閤と淀の方もその頃には輿に乗り込み、砂埃が微かに舞い上がる道を、沿道に群がる人混みをかき分けるようにそそくさ帰途についた。
釜揚げの後、人々は、一体、釜揚げになった男は本当に石川五右衛門だったのか、でなければ誰だったのだ、何故、太閤はあんな大仕掛けな刑場をこしらえ、数々の処刑や釜揚げをしたのだ、その裏にはどんな企みがあったのだとあれこれ陰で囁きあった。

太閤の妄想
太閤が五右衛門を釜揚げにしたのは、言うまでも無く、彼がお拾丸の出生を疑った事からきている。お拾丸(秀頼)誕生は、豊臣家にとっては至福の慶事であったが、他方、太閤の胸の内では、その誕生に関してある疑惑が芽生え始めていた。
それは先年亡くなった鶴松君の時もそうであったが、お拾丸誕生の直後から、太閤の耳にお拾丸は、淀の方と間男の間に出来た子供だと言う噂が聞こえて来たのだった。
太閤は、今まで過去何十年も子供に恵まれなかった事や、その当時、文禄の役の為、肥前名護屋城で指揮を執っていた。
そう考えると、太閤にとって、その噂もまるで根拠がないとは思われず、猜疑心は増していった。それに太閤はこんな矛盾にも陥っていた。
「殿下、殿下の後継ぎはこのお拾丸でございますよね。殿下のかわいいお子でございますもの」
淀の方は、お拾丸が跡取りになるように彼に迫った。
「淀よ、そうじゃ、そうじゃ何も心配する事はないぞ。待望の世継ぎじゃ」
太閤は淀の方にはこう答えていた。しかし、事態は容易に解消する物ではなかった。と言うのは、太閤はすでに姉の子・甥の英次を長男・鶴丸の死後養子として迎え、後継者に指名し豊臣姓を名のらせ関白の地位まで譲っていたからだった。
そこで、秀次の処遇をどうしようかと考え始めていた。早い話、お拾丸が誕生したその時点から秀次が邪魔者になって来たのだ。
太閤は、溺愛する淀の方の事になると、完全に盲目的になりその言葉に逆らえなかった。
彼は一度など、誰でもよく夫が経験する、あれを体験した。
「おう~おう~愛い奴じゃ。お拾丸は母親似じゃのう。わしに似たら猿じゃからのう!おおおお~これは・・・・・なん・・じゃ、はっはっは~お拾丸がわしの顔に噴水を上げおった。びしょ濡れじゃ、うんばうんば~」
太閤は、お拾丸に小便を顔にまともにかけられても上機嫌であった。よくある事だが、変人、奇人と言われている人物でも、わが子に対しては盲目になる、ただの凡人になりさがる、太閤とて例外ではなかった。
目出度いはずのお拾丸誕生ではあったが、英次にとっては悲劇の始まりであった。それに太閤自身にも変調が現れ始めた。お拾丸誕生の疑惑は、何時しか、太閤の心を蝕み、今で言う、ノイローゼ(神経衰弱)状態に陥っていった。
「殿下、お世継ぎご誕生おめでとうございます。お健やかにご成育なされているようでなによりでございます」
こう言われても、太閤にはとんでもない響きをもって聞こえ始めた。
「殿下、お世継ぎ誕生おめでとうございます。淀の方様が間男して生まれた赤児様が、健やかにご成育されているようでなによりでございます」
これが、五右衛門が太閤の寝所に侵入した前から顕著になっていた。

太閤ついに決断
そんな猜疑心に捉われていた太閤は、五右衛門釜揚げの一年後、文禄四年(1595)七月十五日、ついに自分の迷いを断ち切る意味でも、英次に切腹を申し渡した。
理由は何でも付けられた、彼が女狂いであるとか、行いが粗暴であるとか。英次はお拾丸が生まれた直後から、太閤が必ずや自分を疎(うと)ましく思い、今の地位から追放するだろうと予感していた。彼は精神的に追い詰められ、挙句の果て自暴自棄的になり、周りの者に些細な事で当たり散らし、言動が狂乱染みてきた。彼は、太閤に追放されるどころか、必ず殺されるだろうと言う恐怖心を抱き始め、毎日びくびくしながら暮らしていた。彼の立場は、もがき苦しみ、這い上がろうとすればするほど、さらに深く深く蟻地獄の底に落ち込んでいく蟻に似ていた。
予期した通り、英次は謀反を企んだ廉で、高野山に追放され、その後、青(せい)巌寺(がんじ)柳の間で切腹させられ、その首は三条河原に晒(さら)された。
白木の晒台の上に載せられた英次の首は、目を見開き、恨めしそうに虚空を見詰めていた。
彼の首が載せられた台近くの松の梢には、首番の役人が何度追い払っても、血の臭いを嗅ぎつけた無数の烏が群がり、かあかあぎゃあぎゃ~けたたましく鳴きたて、隙さえあればその肉を啄(つい)ばもうと狙っていた。
「英次様も可哀想に、太閤はんはもう完全に狂うとるで、正気やない!陰で可愛い顔して糸引いとるのは淀の方やで、空恐ろしい女や!これで豊臣家は終わりやな!」
「しっ~滅多な事言うもんやないで、何処で誰が聞いとるかわからへん、くわばらくわばら・・・」
巷ではこんな陰口がいたる所で交わされた。
その日の夕暮れ、血のような赤い夕焼けが、何かを暗示するかのように西の空を染めた。
数日すると、英次の顔面の肉は腐り始め、とろけた腐肉が台から地面に滴り落ち、白い頭蓋骨に変わっていった。それだけでは、太閤の狂気の沙汰は終らなかった。
その一週間後、京都三条河原において、秀次の子供はおろか、正室の最上(もがみ)義光(よしみつ)の娘・駒(こま)姫(ひめ)と側室、さらに侍女をも含め四十名近くが、約五時間かけ首を斬られ処刑された。いってみれば英次一族の根絶やしだった。
「おのれ憎くき皺(しわ)猿(ざる)の奴!わしの目に入れても痛くない大切な娘を手にかけおって、必ずや淀や秀頼を殺し復讐を遂げてやる!」
訃報を聞いた義光は、全身をわなわな震わせ、畳に頭を激しく打ちつけ、眼から血涙を流し絶叫した。
彼ばかりか秀次事件はその後、関ヶ原の合戦の折、秀次寄りの大名が東軍につくなど、多大な影響を与えた。
秀次が死に、太閤の亡き後、後継者問題で豊臣家が分裂する事はなくなったが、幼い秀頼を擁立し豊臣家を存続させるには、多くの難問が累積していた。秀次の死は、淀の方の企みを一歩前進させる事になった。
それらの日々、淀の方の顔からは、刑場で見せた、何処となくひ弱で愛くるしい微笑みは失われ、時には、能面の夜叉(やしゃ)にも似た表情をその顔に浮かべるのであった。側に使える腰元や太閤の側近たちですら、そんな淀の方の豹変に、空恐ろしい予兆を感じ、恐怖心さえ抱かされるのだった。
秀次が死に追いやられた一年後、文禄五年七月十三日、四年前に築城した伏見城が地震により倒壊した。自然現象とは言え、太閤の運勢が傾き始めた兆候でもあった。
「わわっっなんじゃ、うわああわ・・・・・この振動(ゆれ)は何じゃ、でへねへうんばば~・・・地がわれたか~」
地震が襲った時、太閤はそのあまりの振れの激しさに動転し叫んだ。
「殿下、地じじししんんでございます」
「地震~おうおう本丸の石垣にひびが入り、建造物も傾いてしまったぞ、なんたる事じゃ、うんばうんば~・・・この城はまだ建てたばかりではないか、倒壊するなどもってのほかじゃ、うんばへヘヘ!」
「殿下、地下で大鯰(おおなまず)が跳ねまわった、と皆が申しています!」
「地下で大鯰、馬鹿者め!鯰が地下で跳ねまわるか。迷信じゃ、迷信じゃ!この頃は不祥事ばかりではないか。天変地異までわしを悩ますとはなんたる事じゃ、でへねへうんばば~・・全くけしからん!聚(じゅ)楽第(らくだい)の一部を移築し、この城を築城したのが、そもそもけちの始まりじゃった、でへねへうんばば~・・古建材で造ったのが倒壊につながったのじゃ!けちったのが裏目に出おったわ、うんばからからうへん~・・わしとした事が、何たる失態じゃ、うんばうんば~」
「殿下、自然現象に人は逆らえません」
「大馬鹿者!そんな事は、わしも百も承知しておる、うんばうんば~」
太閤は鼻息荒く、額に青筋を浮かべ、真っ赤な顔をして辺り構わず怒鳴り散らした。
「伏見城が倒れたのは、英次様の住居であった聚楽第を取り壊した材木を城の一部に使った為だ。きっと秀次様の祟(たた)りだ。地の底で呪(のろ)っているにちがいない」
地震の後こんな噂が伏見城下に広がった。
「英次様を死に追いやったのは淀の方の陰謀だ」
「淀の方は豊臣家を滅ぼす魔性の女だ」
「釜揚げになった男こそ、秀頼様の本当の父親だ。太閤様はそれを知り、あんな惨い刑をされたのだ」
「釜揚げの時、男が自分の名前を叫んでいるのを聞いた」
「そうだわしも聞いたぞ・・その男は○○だ」
噂に便乗し、過去の釜揚げ直後、口封じの為、大粛清(だいしゅくせい)がなされたにも関わらず、間男疑惑が再び蒸し返され、あからさまに批判めいた事を陰でこそこそ言う者まであらわれた。

五右衛門処刑当時の状況
太閤はあらぬことばかり口走っているが、ここで文禄の役の休戦交渉に至る経緯と、その内容を概略してみよう。文禄二年になると、日本軍は碧(へき)蹄館(ていかん)の戦いでからくも勝利するが、戦線は膠着状態に陥った。碧蹄館の勝因は、明軍が騎馬隊の機動力を用いて、一気に日本軍を撃破しようとしたが、朝鮮の狭い地形に阻まれ日本軍の鉄砲隊の餌食(えじき)となった事による。その戦いの明軍の犠牲者は六千人以上と言われた。
勝ちに乗じ、平壌(へいじょう)を奪還しようとしたが、明軍に漢(かん)城(じょう)近郊の龍山(りゅうざん)兵糧倉を焼き払われ、兵糧不足に陥り反撃する事が出来ず、その年撤退を余儀なくされた。
この間、日本軍は三万~四万の将兵を敵や疫病(えきびょう)で失い、その為、厭戦(えんせい)気分(きぶん)が各戦線で充満し、敵前逃亡者や脱走兵も多数出始めた。
戦いが膠着する中、太閤の専横行為をあからさまに批判する諸将も現れ始め、これ以上戦いを継続するのは、物理的にも人為的にも不可能になって行った。
そこで石田光成と小西行長は講和交渉を始めざるを得ない状況に追いやられた。
文禄二年、五月十五日より講和交渉が始められ、石田三成と小西行長、さらに増田(ました)長盛(ながもり)が、明の休戦講和大使、謝(しゃ)用(よう)梓(し)と徐(じょ)一貫(いっかん)、それに沈(ちん)惟(い)敬(けい)が本営のある名護屋城を訪れた時、太閤の意向に沿い、次の七項目を提示した。
①明の皇女を后妃として迎える
②勘合貿易の復活
③日明両国大臣の誓詞の交換
④朝鮮南四道の割譲
⑤朝鮮の王子と大臣を人質として出す
⑥捕らえた朝鮮の二王子の返還
⑦朝鮮国王から誓詞提出

五右衛門釜揚げ(文禄三年八月二十四日)の後も文禄の役の交渉は長引いていた。
交渉が始まって凡そ三年後、太閤は明の交渉使節団の来日を要請した。
文禄の役の終結に向け、日明両交渉役は、早期の戦争終結を願う諸大名の要望を受け、やもう得ず、曖昧な妥協案を双方の都合の良いように作成し両君主に提示していた。
そんな裏取引がある事など全く知らない太閤は、戦いに勝ったと有頂天になっていたが、舞台裏ではとんでもない取引が行われていた。
太閤ただ一人が、取り巻き連中の虚偽の戦勝報告に酔いしれ、息巻いていた事になる。
明の大使も太閤が先に提案した七項目はとても受け入れ難いと本国に引き揚げた。
引き揚げる前、石田光成と小西行長、それに明の使者は、この戦いを納めようと秘密裏に協議を行った。
嘘も方便と言う事もある、この時期、強行案を互いに主張すれば無益な戦が続くのは明らかであった。そこで行長は腹心の部下、内藤如安を明の使者に同行させ、その首都北京に派遣した。
如安は北京宮廷に出向き、日本は勘合貿易のみを和議の条件とする、と太閤が示したその他六項目を隠し提案した。

一方、明の神宗皇帝は和議の条件として次の三項目を提示した。
①日本は再び朝鮮を侵略しない
②日本は明の冊封(さくほう)体制(たいせい)に入る事         
③勘合貿易は認めない

年号が変わった慶長元年(1596)九月一日、明の使節が、和平締結の国書を携え再来日した。明の使者が持参した国書を京都相国寺(しょうこくじ)長老僧、西笑承兌(さいしょうしょうたい)が読み上げると、そこには爾(なんじ)を日本国王となし冊封を許す、と記されてあった。
「何、明の皇帝が、このわしを日本国王に、馬鹿な!わしは神宗の手を借りずとも、すでにこの国の支配者じゃ、うんばうんば~・・わしは明の家臣ではない、うんばうんば~・・奴こそ、わしの家臣してやる!・・うううん~許さん!奴を跪かせ、どちらが真の支配者か思い知らせてやる。・・戦じゃ、戦じゃ、開戦の準備を即刻せよ。西国の諸侯に、直ちに、出陣命令を下せ、ごほごほ、ごほごほ、うんばうんば~」
この事が分ると、太閤は激怒し冊封使が提出した勅論を破り捨て、金印と冠服も足蹴にした。

慶長二年(1597)太閤は再度派兵を決意した。日本軍は、再び海峡を渡り、大陸侵攻を開始した。緒戦において、慶(けい)尚道(しょうどう)と全羅(ぜんら)道(どう)、さらに忠(ちゅう)清道(せいどう)の南部三道をほぼ制圧したが、朝鮮の厳しい冬の到来に備え半島南岸の倭(わ)城(じょう)へと撤退を余儀なくされた。倭城は、文禄の役の当時、朝鮮水軍と義兵に悩まされた教訓を踏まえ建設された日本式城郭(じょうかく)であった。その後、南原(なんばら)倭城の戦いや蔚山(うるさん)の攻防(こうぼう)、続けて泗(しん)川(せん)の戦いや順天(じゅんてん)倭城の戦い、さらに露(ろ)梁(りょう)海戦などがあったが、慶長三年(1598)八月十八日、豊臣秀吉の死により戦は終焉した。波乱万丈の生涯を送った彼は亨年六十二歳だった。
辞世の句
露と落ち露と消えにしわが身かな
浪速のことは夢のまた夢 
                           
       
第十三章

三人の五右衛門

豊臣家滅亡
天正十一年、石山本願寺跡に造られた優雅で壮麗な五層構造の城閣、大坂城は、夏の陣で、あれほど繁栄した大坂の街と共に灰燼(かいじん)に帰し、見渡す限り焦土とかした大地の上に、石垣のみが無残な姿を曝していた。
太閤の死からおよそ二十年の歳月が瞬く間に過ぎていた。関ヶ原の合戦の後、大坂冬の陣、夏の陣が起こり、豊臣家は太閤が生前様々な手をつくしたが滅亡した。
淀の方は豊臣家を滅ぼす悪女だ、あの巷の噂もまんざら嘘ではなかった。
夏の陣から間もない京都山科(やましな)の簡素な庵に、二人の人物が集い、何やら話をしていた。一人は七十歳を過ぎた老人で、身なりはいたって質素、この世を諦観(ていかん)しきった好々爺(こうこうや)であった。
もう一人の男は、年の頃五十半ば過ぎの男で、柔和な顔付きの中にも、この乱世を生き抜いてきたふてぶてしさが見て取れた。二人は、四畳半ほどの囲炉裏(いろり)がある部屋に向き合って座っていた。囲炉裏の自在(じざい)鉤(かぎ)に掛かった鉄瓶の蓋の隙間から、白い蒸気がかたかた~と小さな音を立てながら絶えず噴き出し、土壁で囲まれた部屋の煤(すす)けた天井に近い梁(はり)の辺りまでゆらりゆらり立ちのぼっていた。

「太閤殿下、お久ぶりでございます。殿下には日々御健勝の御事とお慶び申し上げます。」
男は畏(かしこ)まって言った。太閤殿下と呼ばれている男は、無論、本物の太閤秀吉ではない。太閤は二十数年前、六十二才で既に亡くなっていた。この老人は、この時、京都山科で常(じょう)庵(あん)と名乗っていたが、長らく太閤の影武者を務めた男であった。彼の素性を調べたが、太閤の影武者に成る前の素性は分らない。ただ一度、ふと漏らした言葉の端から、彼が太閤と同じ地方の出身ではないかとも思われる。
一方、ここに登場した石川五右衛門は、いわゆる、現在、石川五右衛門と呼ばれている者ではなく、その当時赤(あか)猿(ざる)信(のぶ)春(はる)と名乗っていた。彼とその兄・信秋は、観音寺城を居城としていた守護大名六角家が支配していた近江甲賀の出であった。信長の上洛のおり、その途上にあった六角氏は戦に敗れ敗走し、その地は信長の支配下に入った。その後信長より羽柴秀吉が近江三国を任され長浜に城を構えると兄弟はその臣下となった。そこで、兄・信秋はある秘密工作の部署に配属され、信春も素破のたぐいの任務に就き、仲間と共に秘密裏に公家や諸武将、その頃経済の中心地であった堺周辺の様々な動静を探っていた。本能寺の変の折、ちょうどその真近で活動していた彼は、眼前である奇っ怪な出来事を目撃した。しかし、それが何を意味するのか、その時の彼の立場からして分る筈も無かった。それから二十数年彼は兄の死にある疑念を抱き続けながら生きてきた。それが昔太閤の影武者だった、今は常庵と名乗る人物に偶然出会い、彼の話を聞けば本能寺の変の折、眼前で起こった奇っ怪な出来事に絡め、兄の死の謎を解き明かす鍵が見つかるのではないかと、庵を訪ねたのだった。
「はっはっはっはっ~そのような堅苦しい挨拶はなしじゃぞ、でへねうんば~」
挨拶が終わると、老人は気さくに声を掛けた。
「つい昔の癖が出てしまいました。しかしおかしな話、私が石川五右衛門に扮したのは、たった二日あまりの事でしたが、このように貴方にお会いすると、何かしら今の奈良(なら)柴(しば)秀(ひで)ではなく、あの時の五右衛門に戻ってしまうのでございす。・・言ってみれば、貴方から奈良柴秀と呼ばれるより、五右衛門、と呼ばれた方が会話がやり易いのでございます」
男は頭を掻きながら言った。
「そうじゃ、わしも同感じゃ。・・今は山科で常庵と名乗っておるが、わしもこうお前と面と向き合うと、昔を思い出し、あの時のように太閤でやらせてもらった方が話がし易いのじゃ、でへねうんば~・・それに先に言っておくが、わしは、わしの昔の名前や素性は今更名乗らんぞ、どこぞの馬の骨とでも思ってもらえばよい、でへねうんば~」
太閤殿下と呼ばれた男は過去の自分の素性を詮索するなとまず釘を刺した。
「勿論でございますとも、貴方は私にとって昔のままの太閤殿下であり、昔のように殿下とお呼びした方が、私にとっても会話がやり易いのでございます」
男は恭しく頭を垂れた。
「お前が良いのなら無論わしも構わぬ、何年かぶりに太閤になってみようかのう、でへねうんば~」
そう言ってから姿勢を正すと、そこには歳を取ってはいたが、昔ながらの太閤秀吉が座っていた。
「あ~あっ・・それにしても、豊臣家は矢張り滅びてしまったのう。淀の方の偏狭なご気性(きしょう)、行き着く所まで行ってしまった訳じゃ、でへねうんば~」
太閤はしんみりとした口調で言った。彼は、二十数年前に豊臣家から太閤の死と共に離れていたが、それ以来、豊臣家のその後の行く末をずっと見据え、気に留めていた。
「所で、清水(きよみず)近くの八坂の塔辺りでお前から声を掛けられた時、わしは一瞬戸惑ったぞ」
これは彼の本音だった。誰も気に留めなければ、あれから二十数年、彼の容貌も年齢と共に変わり、装いを整えなければ、誰も太閤に似ているとは思わなかっただろう。それは五右衛門に扮した奈良柴秀にも言える事だった。
「そんな事はございません。殿下は歳を召され、装いも整っていなければ、誰も自分が太閤殿下に似ているなどと思わないだろう、と申しておられますが、私には亡くなられた殿下が歳を召され、自分の目の前を通り過ぎたように見えたのでございます。・・それで私は、一体これはどうなっているのかと我が目を疑いました。・・二十年近く前亡くなられた太閤殿下が、歳を召されていたものの、突然私の目の前に忽然と現れたのですから」
「それには絡繰(からくり)があるのじゃ、わしは太閤殿下より大まかに言うと、十歳近く若く、あの頃は、色々と年を取ったように粉飾せねばならんかった、でへねうんば~・・今では粉飾をせずとも七十歳ぐらいの太閤殿下が、お前の前に座っている事になるのじゃ、ごほごほ~」
「成程、今私が見ている殿下は七十歳過ぎの太閤殿下ございますね。・・もしも太閤殿下が、御存命なら八十歳をとうに越している事になりますから。そんな殿下に道でお会いしても、おそらく私は、殿下である事に気付かず素通りしたでしょう。・・そんな事で、初め、私も一種の錯覚を起こしました。まさか、殿下が若返って生きている、そんな馬鹿な!そこで、私は塔よりかなり手前の五条坂の辺りで、お姿をお見かけした時、お声をお掛けしようかどうか随分迷ったのでございます。・・・何故なら、二十年も前に亡くなられたお方が、若変り、こんな所をてくてく歩いているはずはない、と思い直したのでございます。・・所が突然、この事こそ自分が、長年抱いていた疑念を解く鍵だと気が付いたのでございます」
「長年抱いていた疑念を解く鍵だと?」
「もしかして、殿下に影武者がいたのではないかと言う疑念でございます。もしも殿下より年齢が若い影武者でもいたなら、この事は、何の不思議でもないからです。そこで、跡を付け、失礼かと思いましたが、思い切って声をお掛けしたのでございます」
「そうか、そうか・・・」
太閤は五右衛門に茶を勧めながら頷いた。
「所で、その疑念はあの夜からずっとじゃったかな、うんばうんばば~」
「いや、あの夜ではございません」
「あの夜ではない、と言うと?」
「二日目の夜でございます。その時から、その疑念が、ずっと、私の心の片隅で眠り続けていたのでございます。声をお掛けした事で長年の謎がやっと解けました」
「わしも同様じゃ。先日声を掛けられ、初め、一体お前は何者だと思い、一瞬戸惑ったが、ずっと心の奥底に引っ掛かっていた長年の疑念が、一瞬にして解けたのじゃ」
「と言いますと?」
「つまり、第三の五右衛門は誰だったかじゃ」
「馬の背で揺られて行った五右衛門、釜揚げになった五右衛門、それから殿下の寝所に侵入した五右衛門・・・つまり貴方が殿下の寝所に寝ていた時侵入した五右衛門が誰だったかですね」
「そうじゃ、そうじゃ、あの晩わしが寝ていた寝所に侵入した五右衛門は誰じゃったかと言う謎がな、うんばうんばば~」
二人の会話から、お互い相手に対し疑念を抱き続けて来た事が分った。
「それはそうと、忘れぬうちに言っておくが、もし殿下が御存命の時であれば、誰から問われようが、口が裂(さ)けてもわしが殿下の影武者であった事は決して口外せんかったじゃろう。わしは在って無い者、太閤殿下の影武者じゃからな、否々、じゃったからな・・・それがわしを可愛がってくだされた太閤殿下への、わしなりのささやかな御恩返しじゃと、ずっと心の片隅で思い続けてきたからじゃ、でへねうんば~・・・しかし、太閤殿下も亡くなられて二十数年、今は豊臣家も滅び、わしも何時殿下の元に旅立つか分らん身の上じゃ、そんな歳になってしまったわ、うんばうんばば~」
彼は自分の太閤への忠誠心の深さを強調すると共に、少し寂しげに心情を吐露した。
「そうですとも、そうですとも、私も同じ気持ちでございます。私も自分が石川五右衛門を演じたなど、鬼丸以外、誰にも今まで話した事はございません」
「所で、わしは太閤殿下を演じ切っていたと思うが、お前が疑念を抱いたのは何故じゃったかな、でへねうんば~ごほごほ~」
太閤はひどく咳き込んだ。
「ひょっとして、殿下に影武者がいたのではないか、でございますね」
「何故そんな疑念を?」
太閤は怪訝な顔をした。
「それは・・・あの晩、殿下はほんの一瞬寝巻を捲(まく)られましたね」
五右衛門は遠慮がちに言った。
「そんな事があったかな?」
太閤は如何にも楽しげに笑った。
「わしが寝巻を捲った事が、何故わしへの疑惑に繋がったのじゃな?その疑惑の種を何処で仕入れたのじゃ」
太閤は五右衛門の顔をまじまじと見ながら、興味深げにその理由を訊ねた。
「それは、あの夜、もう明け方に近かったのですが、風呂に入れ、と言う事で湯殿に導かれ、身体を洗うのを手伝ってくれた腰元から殿下の褌(ふんどし)の話を聞いてからです」
彼は神妙な顔で答えた。
「何?褌じゃと!」
太閤はいかにも驚いた様子だった。
「下賤な話ですが、褌なのでございます」
「それで・・どんな?」
「殿下のそれは金ぴかとか・・」
「はっはっはっ~殿下のあれは金ぴか・・・、妙な所で化けの皮が剥がれそうになった訳じゃ、はっはっはっ~まるで下ねたじゃ、はっはっはっ~」
「下ねたその物でございます・・はっはっはっ~」
二人は腹をかかえて笑った。
それから太閤はおもむろに、下腹部に視線を落とし、組まれた股の辺りに視線を向けた。
「それに、これは私ではありませんが、鬼丸が・・・」
再び目線を太閤にやり、にやりと笑った。
「あの鬼丸が疑問を持った、でへねうんば~」
「そうでございます。その疑問の答は今ご自分で出されたではありませんか」
「わしが今?・・これは迂闊(うかつ)じゃった。わしは殿下の仕草や喋(しゃべ)り方は真似たが、微妙な所がのう、でへねへうんばば~・・」
「しかし、これらの疑惑は忍び込んだ時、何と無く抱きましたが、殿下と先日お会いするまでは全く解けなかったのでございます。二日目の夜など、酒を勧められ、酔っぱらった鬼丸などは、太閤殿下に向かい、どうもおかしい、おまはん太閤はんとちゃうのやないか、と言い出す始末、私は全身から冷汗が出ました」
五右衛門は鬼丸の声色まで真似て言った。
「わしにも、殿下はそんな事を言われ笑っておられた、わっはっはっはっはっ~・・」
太閤はさも愉快そうに笑った。
「裏を返せば如何にわしが太閤殿下になりきっていたかの証拠じゃな、はっはっはっ~」
「そうなのでございます。ほぼ完璧な演技でございました。しかし、そんな出来事が有った事など、殿下と八坂の塔の辺りでお会いするまで、すっかり忘れてしまっていたのでございます」
「それが、わしに出会った事で、急に思い出され、疑念解決の糸口を見つけたと言う訳じゃな・・」
「そうなのでございます。お会いした事で、太閤殿下には矢張り影武者がいた事が分り、すっかり疑念が解けたのでございます」
「これでお互いすっきりした訳じゃ、はっはっはっはっ~」
「はっはっはっはっ~」
二人は顔を見合わせ愉快そうに笑った。

何も知らなかった若太閤
「所で、今度はわしからの質問じゃが、あの夜、誰からわしの寝所に行けと言われたのじゃ」
「光成様でございます。あの時、私も鬼丸もこう言われたのでございます。市中を騒がせている石川五右衛門に成り済まし、殿下の寝所に忍びこめ、と・・私(赤猿信春)も鬼丸(滝田左門次)も噂では石川五右衛門の事を少しは聞いておりましたが、前夜、五右衛門達が殿下の寝所に忍び込んだとは全く知らず、何故自分達が五右衛門とその子分の鬼丸に成り済まし、太閤殿下の寝所に忍び込むのか、何が何だか分からぬまま、命ぜられるままに忍び込んだのでございます」
彼はその時、自分達が当惑していた様子を語った。実際その時、彼と滝田左門次は、急な呼び出しを受け、簡単な指示を受け太閤の部屋に行き、盗賊の石川五右衛門とその子分の鬼丸として振る舞え、と言う何とも不可解な命令を受けたのであった。
「何が何だか分からぬままに?五右衛門と鬼丸に成り済まし?・・お前達もさぞかし戸惑った事だろう」
「そうなのでございます。不可解な命令でしたが、それはそれ、命令である以上、寝所に忍び込んだ所、殿下にあれこれ言われ、挙句の果てに合戦の話になり、それこそ、何が何だか分らぬ内に朝になったのでございます」
「成程、そんな絡繰があったのか?」
「そうしますと、私達と同様、殿下も事前に何も知らされておらず、急に私達二人が押し入り、さぞびっくりされた、と言う訳でございますか?」
「びっくりどころではないぞ、でへねうんば~」
太閤は大袈裟な身振りでその時の様子を語り始めた。
「あの夜の事を今思い出してもぞっとするぞ。寝所はいつも屈強な護衛の者が控えておった。だがあの夜、お前達が急に押し入って来た時は、一体これは何だ、どうして盗賊がと肝を冷やしたぞ、うんばうんばば~・・実はあの時警護の者を呼ぼうと寝台横の呼(よび)紐(ひも)を思いっきり引っ張り、異変を知らせようとしたのじゃ・・じゃが、誰も来ん!・・わしは慌てて、お前達闖入者の事を、他の手段で知らせようとしたが部屋の外からは何の反応もなかったのじゃ。・・・そこで寝台下部へ脱出する装置の梃子(てこ)を思い切り引っ張ったのじゃが、これも寝台の床が開かず脱出出来なんだのじゃ。・・何たる事だ、一体これはどうなっているのだ、わしは動転し、内心恐怖心に取りつかれながらもここは焦ってはいかん、と考えたのじゃ、でへねうんば~」
そこで太閤は大きく溜息を吐いた。
「左門次(鬼丸)と私もてっきり話が付いているとばかり思い、光成さまに言われた通り、五右衛門と鬼丸に成り済まし、殿下の寝所に行ったのでございます。しかし今考えて見ますと、殿下の方が最初から身代金を持ち出し、私と鬼丸を脅したと言った方がいいですよね」
彼がそう言ったのは、その時の自分と鬼丸が果たして太閤を脅したかどうか、今考えて見ても疑問だった。いくら盗賊を演じたとしても、相手は畏れ多くも太閤殿下、下手な台詞(せりふ)を吐ける訳がなかった。言い換えれば彼等は太閤の一挙手一投足を注意深く見守りながら対応する受身の立場だったのだ。その後、二人はその二日間の任務から解き放たれた翌日から、疲労(ひろう)困憊(こんぱい)し三日三晩泥のように眠った。
「なるほどな、お前の言う通りじゃ・・・・後で思い返すと前の晩、奥で殿下が寝台から転がり落ちたとか何とかそんな事で、ちょっとした騒ぎがあった、と小耳に挟んでいたが、詳しい事をわしは知らんかった。わしは後で知ったのじゃが、その時、いわゆる、本物の石川五右衛門が殿下の寝所に忍び込みこんだと言う訳じゃ。・・じゃから、わしはお前達二人が本物の五右衛門だと信じきっておった。奥で騒ぎがあった次の晩、わしに殿下の寝所で寝ろと言われたのじゃ、うんばうんばば~・・何故だろう殿下が寝台から転げ落ち怪我でもされ、別室で休まれているのかと、訝(いぶか)ったが、殿下が何処かに出掛けられた時、ちょくちょくわしも、殿下の寝所で寝た事が有り、たいして気にも留めんかったのじゃ、迂闊じゃった。・・それでその後の例の釜揚げから何と無くその意味が理解出来たという訳じゃ」
太閤はその当時の状況を語った。
「それは面白いお話でございますね。しかし、殿下が動転していたなど、私達は全く気付きませんでしたし、ましてや、殿下が、まさか影武者とは思いもよらなかったのでございます。あの迫真の演技にすっかり騙されたのでございます」
五右衛門はありのまま感想を述べた。
「あの時は必死じゃった。警護の者は何処かに潜んでいただろうが、合図を送っても無しの礫じゃ、うんばうんばば~・・・なんたる事じゃ!わしはその場から一目散に逃げようかとも思った。・・だが待て!ここで尻に帆を掛け逃げ出してしまえば、御恩を受けている殿下の名を汚す事になる。不肖なわしでもそう思ったのじゃ、うんばうんばば~」
太閤はその時の切羽詰まった心境を語った。
「名を汚す?」
咄嗟に五右衛門は聞き返した。
「そうじゃ、こそ泥ごときが寝所に忍びこんだぐらいで、天下の太閤が、尻尾を巻いて逃げだして見ろ、それこそ後で知れた時、天下の物笑いの種じゃろう、うんばうんばば~・・・こんな時こそ、例え、命を亡くしても立派に太閤殿下を演じ切り、その御恩に報いねばならん、と自分にきつく言い聞かせながらじゃ、うんばうんばば~・・・つまりじゃ、しょせんわしは影、死んだ所で殿下は生きておられる訳じゃ、でへねうんば~・・それに、わしは太閤殿下の影武者、影武者太閤じゃ。わしにも誇りはあった。・・そこでじゃ、切羽詰まったわしに或る事が閃いたのじゃ、うんばうんばば~・・・窮鼠(きゅうそ)猫(ねこ)を噛(か)むの例え通りじゃな、つまり咄嗟に、殿下が日頃から皆の前で講じておられる一連の合戦話を、お前達に聴かせる事にしたのじゃ、でへねうんば~・・時間稼ぎにじゃな。・・まずは、桶狭間の戦いから始めたのじゃが、不思議な物で、いざ喋り出して見ると、これが次から次へと話が口を衝いて出て来たのじゃ、うんばうんばば~・・もうその時は、わしは本物の殿下になりきっていたのじゃ。全ての恐怖もなくなり、時間など気にせず喋りに喋りまくった訳じゃ、うんばうんばば~」
太閤の並々ならぬ決意のほどが、その口調から感じられた。
「そうしますと、殿下が・・・・?」
「そうじゃ、殿下が悪戯(いたずら)をされたのじゃ、うんばうんばば~・・警護の者を駆け付けさせず、わしがどんな反応をするか、何処かで見ておられたに違いない。全く殿下の悪戯好きには困ったものじゃ」
太閤は苦笑いしたが、何故かその様子は楽しげだった。
「私達も正直言ってあの場の雰囲気に、何か悪い事が起こるのではないかと、ずっと不安を感じていましたが、いつしかその流暢な弁舌に聴き惚れていたのでございます。所で、あれらの合戦の話は、何処でお習いになったのでございますか?」
これも五右衛門の長年の疑問であった。
「あれらか、あれらは殿下の受け売りじゃ。じゃがあの晩、わしもどうかしていたのか、わしなりにかなり粉飾し、お市様の事までべらべらぺらぺら喋り捲くり、後で殿下に討首にでもされるのではないかと思ったが、警護の者は誰も話を聞いておらんかったとみえ、事なきを得たのじゃ。もしも殿下が聴いておれば、ちょっとまずい事になっていたかもしれんな。じゃが反面、もしも殿下が聴いておられたならば、お前は流石わしの影武者、わしのお市様への想いをよく語ってくれた、わしの心の奥底に巣食う苦衷(くちゅう)をよく吐露(とろ)してくれた、と熱演賞をくれたかもしれんな・・これは冗談じゃが」
太閤はにやりと笑った。
「さっき受売りと言ったが、殿下は自分が退屈な時や気が向いた時など、諸侯や近習を集め、あの調子で捲くしたてたのじゃ、うんばうんばば~・・わしはそんな時いつも、襖の陰で殿下の名調子を耳に胼胝(たこ)ができるほど拝聴し、すかり丸暗記したと言う訳じゃ、でへねへうんば~~・・時にはわしは殿下の身代わりとして、その内の一部をみなの前で喋るよう命令を受けた事もあった、うんばうんばば~・・これも影武者としての務めじゃて。無論わしはそんな時、わし自身、物語に粉飾を施し喋りもしたがのう。まあ後で、お叱りを受けた事もたびたびあった。・・しかし殿下の事、中々度量が広く、本気で叱られた訳ではない。・・所で、殿下はお前たちにも悪戯を仕掛けた訳じゃな」
「そうなのでございます。てっきり殿下が本物の太閤殿下と思い、まさか泥棒が正座して拝聴するのも何かおかしく、野卑な泥棒ならどんな姿勢で話を聴くかなと思案しながら、それでも、私と鬼丸は無礼があってはならず、正に薄氷を踏む思いで拝聴していたのでございます」
「成程な、盗人に成り済ましていても、殿下に無礼があてはならない。さぞや、窮屈な思いで、じりじり畳の表に尻を擦りつけ、わしの話を聴いていた訳じゃな、うんばうんばば~・・夜が明け東の空が白んで来て、わしも喋り過ぎ、くたくたになり・・・」
「そうでございます。・・所が突然、寝台から一瞬の隙を突き逃亡されたのでございます」
「逃亡と勘違いしたと思うが、そうではない、洩れそうじゃったのじゃ・・」
「その話は、その後腰元から聞きました。それにしても驚きました」
「そうじゃろう、そうじゃろう・・はっはっはっはっ~」
「はっはっはっはっ~」
二人は腹を抱えて笑った。
「所で、わしは殿下から若太閤と呼ばれ、わしの身の回りの世話をする者も、そう呼んでおった」
「若太閤と、それで殿下からはその時も何の説明も無しに?ただ御苦労じゃったと?」
「そうじゃ、その後、御付の腰元が直ぐやって来て、殿下が御苦労じゃった、今夜は自分の部屋でゆっくり休め、と言っておられたと言うので、わしはわしの部屋に戻り、その後、緊張のあまり疲れ果て熟睡じゃ、でへねうんば~」
「私と鬼丸は、少し妙だと思いましたが、まさか、殿下が二人いるなど思いもよらず、二日目の晩も、お話を拝聴しておりました。・・食事の方も、日頃食べる事が出来ない豪華で珍味な物ばかりで、これもはたまた、一体どんな企みが隠されているのかと思いましたが、詮索してもどうしようもない事、下賤な話、後は成るように成れと思いその場に腰ならぬ尻を据え、延々と続く合戦物語等を聴いていた訳でございます。・・殿下、おかしな物ですよねえ、泥棒が太閤殿下を監禁し続けるのではなく、太閤殿下が泥棒を監禁し続ける」
「成程面白い見方じゃ、はっはっはっ~」
「はっはっはっ~」
二人はどちらからともなく楽しげに笑った。

「その後、市中の高札に大泥棒石川五右衛門とその配下の手下が殿下の寝所に押し入り、狼藉を働いたと書かれてありました。・・つまり、私達とは別に、本物の石川五右衛門がいた訳でございます。何故、こんな曲がりくどい事をするのか、その理由が全く分らず、一体、私と左門次が石川五右衛門と鬼丸と名乗り殿下の寝所に侵入した裏にはどんな企みが隠されていたのか、色々噂が飛び交っている中、私と鬼丸(左門次)はその意味を考えてみました」
「わしもそうじゃった。それがじゃ、あれから後、城内には厳しい箝口令(かんこうれい)が敷かれてあったとみえ、その時のわしには何が何だか分らなかったのじゃ、ごほごほ~・・わしは先程も言った通り太閤殿下の影武者じゃったが、何の力もなかったのじゃ、うんばうんばば~・・所が、殿下が処刑の朝、わしに沿道で五右衛門を見てこいと言われた。何故だろう?・・今更五右衛門を見てもしょうがないと思ったのじゃが、殿下の御命令故に出掛けたのじゃ、でへねうんば~・・所がじゃ、市中引き回しの五右衛門を沿道の人混みを掻き分け垣間見た時、目ん玉が飛び出て仕舞うほど驚いたのじゃ、うんばうんばば~・・それがなんじゃ、馬上の五右衛門は、わしの寝所に押し入った五右衛門と鬼丸に、似ても似つかぬ者達じゃった、うんばうんばば~・・・早い話、お前達の偽者の五右衛門じゃった。わしは頭の中で、あれは五右衛門ではない、あれは偽者と叫んでいたのじゃ。・・・わしはその時、自分の頭がどうかしてしまったのかと途方にくれたのじゃ、うんばうんばば~・・・そいつらがえらそうに虚勢を張り、馬上でふんぞり返り目の前を通り過ぎて行くではないか、うんばうんばば~」
太閤はくるくる眼球を回しながら、その時の驚きの様子を、身ぶり手ぶりを交えながら、身体全体で示した。
「しかしそれは、まだ序の口に過ぎなかったのじゃ・・・次に直面する出来ごとに比べれば大した事ではなかったのじゃ、うんばうんばば~」
太閤は更に驚きの表情を満面に湛(たた)え、声の調子を上げた。それほど強烈な衝撃が彼を襲ったのだった。
「私と鬼丸もそうなのでございます。許しを得て、一体自分達が演じた五右衛門とはどんな男だと興味津津、引き回されて行く五右衛門達を見ました。・・想像していたより奴は大柄でしたが、牢に長く繋がれていたせいか、痩せて、青白い顔をしていました。・・・これが、本物の石川五右衛門!実の所、私には五右衛門が盗賊とはかけ離れた顔付きで大泥棒には見えなかったのでございます・・」
「その件で殿下は何も話してくれなんだが、何かそこには口外出来んような絡繰があったようじゃ、うんばうんばば~・・どうも奴らはただの盗人ではなかったようじゃ・・」
「そうなのでございます。もしかして、殿下に何か恨みを抱いていたとか?」
「しかし真相は闇のなかじゃ」
「私も後に色々考えましたが、そこには何か殿下の言われた様に口外出来んような絡繰があったかもしれませんね。・・・それに奴の何か悟ったような虚勢ぶった態度にも、妙な所で対抗心が出て、鼻持ちならん奴だと思ったのでございます。所が、それは序の口でございました。私も観覧席の一隅で、次々と行われる処刑の有様を密かに見ておりました。私も鬼丸も仰天するようなとんでもない事が目前で起こったのでございます」

赤い衣装を着た金魚
なぜそんなとんでもない事が起こったのか、その謎を二十数年前、石川五右衛門が太閤の寝所に侵入した翌日(八月三日午後)、太閤と石田光成の密談から解き明かしてみよう。
その前に、ここで後の豊臣家の存亡にかかわった関ヶ原の戦いを仕組んだ秀吉が最も信頼した子飼いの忠臣、光成の経歴を概略しておこう。光成は、永禄三年近江石田村で石田正継の次男として生まれ、幼名は佐吉と言った。羽柴秀吉が信長に仕え近江長浜城主となった天正二年あたりから父・正継が秀吉に仕官すると、それに伴い彼も小姓として秀吉に仕えた。彼が主君・秀吉の中国攻めに従軍中にあの本能寺の変が起こったのだった。その時彼はまだ二十歳そこそこで、本能寺での秀吉の謀略など知る由もなかった。
その日、光成は、深夜、盗賊五右衛門が太閤の寝所に侵入したとの火急の呼び出しをうけ、寝所に駆け付けたが、盗賊二人は既に捕縛された後だった。彼は関係者達とも会い、事後の話し合いをした後、少し宿舎に帰り仮眠をし、太閤の命により、再び登城し伏見城の一角にある控えの間で待機していた。盗人五右衛門は、即座に捕り押えられたのであれば、後の処置は管轄の奉行所に、引き渡せば事は済む事ではないか、と光成は考えていた。
しかし、太閤はそれを許さなかった。そればかりか、彼は五右衛門が寝所に侵入した事を、決して外部に漏らさぬよう箝口令(かんこうれい)を敷かせた。そんな事から、光成は、太閤は盗人が自分の寝所に侵入した事に激怒し、侵入した事実さえも隠蔽(いんぺい)し、彼を密かに抹殺するだろうと考えていた。言うまでもなく、天下人である太閤の寝所に賊などが侵入し、脅迫する事など、万が一にもあってはならない不祥事であった。
当然、警備の者からその上役に至るまで、必ずやきつい処罰が下されるだろうと彼は覚悟していた。
重苦しい雰囲気の中、彼は太閤が目覚めるのを、今か今かと待っていた。部屋の中で緊張して正座していると、真夏を過ぎていたものの、その日は事の他暑く、全身に何とも言えないねっとりとした汗が滲み出た。この汗は、暑さのせいばかりでなく彼の内面の漠然とした不安の現われでもあった。
何故、自分はこんなにいいしれぬ焦燥感に捉われているのだろうと思い巡らしていると、ようやく太閤が不機嫌そうな顔をして彼の前に姿を現し、上段の間の椅子にどっかり腰を据えた。時刻も既に昼の一時をとうに過ぎていた。
「殿下、殿下におかれまして、何事もなく心より安堵いたしております。このたびは誠に申し訳ございません。警備の者達の不始末、きつく処罰いたさせます」
顔を合わせるなり光成は、太閤の前でひれ伏し、今回の警備の不始末を心より詫びた。
「あたり前じゃ、盗賊までわしの寝所に押し入りおって、まあ良い、まあその事は今のわしにとって蚊が刺したようなものじゃ、でへねへうんばば~」
寝台から脱出する直前、太閤は命まで奪われそうになっていたのに、彼の心の内で何が起こったのか、そんな危機的状況に陥っていた事などまるでなかったような素振りで、光成に意外な言葉を投げかけた。光成はその真意が分らず太閤の顔を凝視した。彼が、呼び出されたのは、警備の不始末を問われるのでなく、その理由は別の所にあったのだ。
「あんな小盗人(こそどろ)の事より、わしの頭痛の種は、明との事もあるが、お拾丸の件が今一番わしを悩ませておる、うんばうんば~・・・・・」
太閤は五右衛門の事ではなく、全く予想だにしなかったお拾丸誕生以来彼の心を蚕食(さんしょく)している悩みを打ち明けた。この頃、太閤が精彩を欠いているのを薄々感じてはいたが、やはりこの事が最大の原因だったのか、と光成は今更のように思った。
「巷に流れているお拾丸様を中傷する噂が、そこまでも殿下を悩ませているとは、不肖光成りめも斟酌(しんしゃく)出来ず、誠に申し訳ございません」
光成は五右衛門処罰に関しての相談とばかり思い込んでいたが、意外にも、話しは別の所にあった。如何にこれが太閤の心を痛めつけていたかの証拠であり、彼は太閤の苦衷を察し深ぶかと頭を垂れ心より詫びた。
「そうじゃ・・・」
太閤は力なく言った。その時の彼にとって五右衛門ごとき盗人が、自分の寝所に押しいった事など、ほんの蚊が刺したぐらいの小事であり、心底彼が悩んでいたのは、自分が命を賭(と)して勝ち取った支配体制その物に関わる重大な問題であった。その悩みが、昨夜五右衛門が示した南蛮渡りの手鏡により倍加されたのだった。
いくら彼でも淀の方に面と向かい、お前は間男したのか、とは言える筈も無く、ましてや、お拾丸は自分の子供ではなく間男して出来た子供ではないか、などと口が裂けても言えなかった。太閤は光成を待たせ寝所に下がったが、耐えがたい葛藤に嘖(さいな)まれ寝るどころではなくまんじりともせず朝を迎え、それから少し転た寝した。しばらくしてから目覚め、そのまま寝床に伏していたが、いつまでも光成を待たせる訳にも行かず、沢庵(たくわん)をおかずに湯漬(ゆづけ)を無理やり流し込んでやって来たのだった。
「わしは奴を捕えた時、何か、こう閃いたのじゃ・じゃが形にならん・どうも形にならんのじゃ・・どのようにしたらよかろうな、光成、うんばうんば~」
話題が本筋に向かい、太閤はこんがらがった糸の結び目をお前が解けとでも言うような口調で、彼に意見を求めた。無論、光成には例の南蛮渡りの手鏡については秘密にするつもりだったし、五右衛門達の正体もその時は話すつもりもなかった。
「昨夜捕えた五右衛門は義賊気取りの盗人、此奴を使い何かされるおつもりでは?」
疑問を抱きながらも光秀はそんな太閤の胸の内を推察し問うた。
「しかし、奴は噂ほどの盗人には見えん。風采もあがらんし、昨夜忍び込み、わしを脅迫したが、奴め、びくびくしおって、奴のけつ子分めもビビりおって、わしの大切な陶磁器の花活けまでも袖に引っ掛け割ったのじゃ、けしからん・・・」
五右衛門も鬼丸も決して臆病な様子は見せなかったのに、何故か言葉の端々に太閤は二人の人物像をわざとらしく矮小化して語った。
「花活けが割れた音に託(かこつ)けて千鳥の香炉がピピッピ~と鳴いたとか」
「そうじゃ、千鳥の香炉がぴぴっ~と鳴きわしに危険を知らせおったわ。それで、忽ちの内に御用じゃ、全く笑止千万じゃ、でへねへうんばば~・・・じゃが、木片でもちょいと加工すれば立派な楊枝(ようじ)になるじゃろう。どうじゃ」
ここで太閤は五右衛門を木片に例え謎を掛けた。
「では、その木片を箸にしてはいかがでしょうか・・」
太閤の言わんとする事を即座に察知し、これも謎掛けのような返答を返した。
「木片を箸にな、例えはよい、率直に言えば、巷の噂の件じゃ。それが妙な物で、嘘(うそ)でもなんでも、何遍(なんべん)も何遍くり返して聞くと、本当のように思えて来るのじゃ。これが人間心理というものかのう、うんばうんば~・・・それに弱り目に祟(たた)り目、昨夜の盗人騒動じゃ」
「殿下、それはそうですが、殿下は、弱り目に祟り目を、つまり逆境を数限りなく乗り超えておいでです。既に、私に相談するまでもなく、何か良い腹案をお持ちではございませんか」
「腹案!光成、お前は中々鋭いな、わしに木片、つまり五右衛門を楊枝、箸に変え、飯をたらふく食らえという訳じゃな、うんばうんば~・・・じゃがしかし・・・・」
「そうでございます、殿下の腹の中では、九分九厘、奴らの利用方法を決めておられます。しかし、後一厘の決断がお出来きにならず、お迷いでございますね」
「そうじゃそうじゃ光成、お前はわしの心の奥底の悩みをよう分っておる。その一厘が・・・・」
「その一厘こそ重要なのでございましょう・・」
光成は、咄嗟にひれ伏し小声で言った。
彼は太閤の顔を畏れ多くて直視出来なかったのだ、と言うよりこの事を下手に言いだせば太閤の逆鱗(げきりん)に触れる恐れがあった。
「畏れながら、そんな事は決っしてあるまじき事ですが、そう疑惑をお持ちなら、殿下・・」
光成りは、太閤の言葉を引用し、そう疑惑をお持ちならと話題の核心を暈し婉曲的(えんきょくてき)な表現で続けた。
「あ~あ~そうなのじゃ、わしにとってその一厘が九分九厘なのじゃ。わしにも良く分っておる。つまり、噂がそうなら、その男は言うまでも無く、淀にもきつく仕置きをしろと言うのじゃな、うんばうんば~」
その言葉を太閤は自分自身に言い聞かせているようだった。
「う・・・・・・」
しばらく言葉を濁していたが光成は黙って頷いた。
「しかし可愛い淀をな・・・・。淀はわしの高嶺の花、お市様の娘じゃからな。・・それにいくら木片を加工してもあの五右衛門では役者(たま)が小者(ちいさ)過ぎんか・・いや待て、光成お前もそう思っておるのじゃな・・・うんうん・・」
その顔は心なしか少し青ざめて見えたが、太閤の心はすでに決まっていた。ただ誰かに相槌を打ってほしかったのだ。
「そうでございます、殿下は、奴を楊枝や箸ばかりか、どんな器にでも変える事が出来るのでございます」
「うん、うん、光成、お前の言わんとする事は良く分った。つまりじゃ、五右衛門が小者なら、わしの寝所に押し入り、わしを脅し続けた大泥棒石川五右衛門を捏(でつ)ち上げればよいのじゃな、うんばうんば~」
「そうでございます」
「お前は流石にわしの子飼いの腹心、豊臣家を支える切れ者じゃ、わしの心がよう分っておる、でへねへうんばば~・・奴を利用しそれとなく淀を罰する・・・」
太閤は、光成が自分の企みを言い当てた事を喜び、大きく頷いた。
あの夜、太閤は五右衛門とその子分を捕縛し、この二人の闖入に激怒したが、それが収まると直ぐ、次のような事を思い付いた。
それはこの石川五右衛門に変え、大泥棒五右衛門を仕立てあげ、刑場では間男した男を石川五右衛門として処刑する。それを淀の方の面前ですれば、淀の方にも仕置きをする事が出来る。もし淀の方が何の反応を示さねばそれはそれでよし。しかも、つまらぬ噂をする者共はこの男のように、断固として罰を下すという訳だ。
ただ一つ、彼が逡巡(しゅんじゅん)していたのは、光成の指摘した一厘、淀の方にそんな仕置きをしてもよいのかどうか、決断出来かねていたからだった。それが、光成の助言で決意が固まった。
「殿下、御覧ください、この池にはこれこの通り四(よん)尾(び)の魚が泳いでおります」
そんな太閤の苦衷を他所に、さらに光成は上段の間の仕切り近くに進み出て、芝居がかった仕草で、両腕で大きな器のような形を作り、淀の方と三人の五右衛門を魚に例えて見せた。
「うんうん、一尾は赤い衣装(べべ)を着た金魚、つまり淀じゃな、残りは五右衛門という黒い金魚が三尾か、うんばうんば~」
太閤も光成の仕草を覗き込むように見て、これも自分で両手で器を作り、四尾の魚がその中をぐるぐる泳ぎ回っているかのように見詰めた。
「そうでございます。その内の二尾は即刻取り除かねばなりません」
光秀は畳みかけた。
「五右衛門と奴じゃな、うんばうんば~・・此奴等は取り除かねばならんな・・それで赤い衣装をきた金魚の処罰は?」
太閤が最も気に掛けていたのが、言うまでも無く、この赤い衣装を身に纏った金魚、淀君だった。
「この二尾の内、一尾は処刑場で密かに、もう一尾はお方様の目前で、これこそがお方様への最大の仕置きかと思われます。もしお方様がこの一尾を見て、何の変化もなければ、それはそれで祝着至極でございます。それに残りのもう一尾は殿下がその労を労ってやればよろしゅうございます」
とは言った物の、ここで光成りに難問が圧し掛かっていた。おかしな話、その時彼は、淀の方の間男の相手が、噂であれこれ聞いてはいたが、他の多くの者と同じように、その男が一体誰なのか皆目見当がつかなっかた。そんな彼の困惑を他所に、太閤は悦に入り話をどんどん進めて行った。
「目前でか・・・これこそ淀に対する最大の仕置きか!成程のう、上手いやり方だ。わしとしては祝着至極でありたいものじゃが・・」
太閤は全ての筋書きを自分で描いておきながら、最後の決断が出来ず悩んでいのだ。
「その通りでございます」
「それにじゃ、光成、まだまだ甘いぞ」
「まだまだ甘い?」
光成は首を傾(かし)げた。太閤の言わんとしている意味が伝わらなかったのだ。そんな光成を見て太閤は話を進めた。
「この器には他に仰山雑魚共が口をぱくつかせておるじゃろう、うんばうんば~」
太閤は又もや、自分の両腕で器の形を丸く作り、これ見よがしに覗き込んだ。これこそ太閤の第二の目的だった、と言うよりもこれこそ太閤の本当の目的だったのかもしれない。
「そうでございました、私とした事が、これら口をぱくつかせている雑魚共は、良からぬ泡を吹きあげながら泳ぎ回り器の水を汚しております・・・殿下、雑魚は一網打尽にし、佃(つくだ)煮(に)にいたしましょう」
謎かけ問答の様な会話が進む内、二人の意志の疎通も円滑になり話が進んだ。
「佃煮・・うん、うん、この際徹底的にこれら姦(かしま)しい不届千万な雑魚共を炙り出し、醤油、味醂それにぴりっとした山椒(さんしょう)(拷問)を加え佃煮(処罰)にしてやるのじゃ、うんばうんば~・・」
例え話とは言え、これが現実の世界で実行されれば、世間はその恐ろしさに震撼させられるであろう。
「妙案かと!」
少し面長で丸ぽっちゃい顔立ちの光成は、その時、まるで悪(わる)餓鬼(がき)のような顔付きをしていた。
「では後の準備は前田の親爺(おやじ)にやらせるか、最近奴も暇を持て余しておる。この後直ぐに、前田に会って概要を述べ準備に取り掛れ・・」
「仰せのままに!」
「それにな、わしはもう一つ悪さを考えたぞ」
「もう一つ悪さでございますか?」
光成はその言葉にいたく興味を示した。
「そうじゃ、余興としてな、今夜、わしの寝所に若太閤を寝かせ。偽五右衛門を侵入させた時、誰も行かぬようにするのじゃ。さぞかし若太閤め、仰天し、慌てふためく事じゃろうて、でへねうんばば~・・それで二日目の夜はわしの出番じゃ」
「それも一興でございます。若太閤もさぞかし肝を冷やす事でしょう」
光成は太閤の突然の提案に、内心悪ふざけが過ぎると思いつつも、顔に笑みまで湛(たた)え賛同した。二人は顔を見合わせ、これもまた悪餓鬼よろしくにやりと笑った。
「若太閤も、四国大返しや美濃大返しでは、わしに先立って先陣を果たしたが、近頃は奴も暇を持て余しておるからな、うんばうんば~・・所で光成、これら雑魚どもはどう処分したらよかろうな・・それに例の奴(間男)は、網の上に置き、塩焼きにしてもいいのじゃが」
「五右衛門だけは曳(ひ)き回した後、刑場で衆目に触れる事なく、抹殺された方がよろしいかと。所で殿下、秋刀魚の塩焼きはご飯のおかずになりますが、人間の塩焼きではご飯も食べられませんな」
人間の塩焼き、何と言う残酷で悪趣味な趣向だ。
「それもそうじゃが、酒の肴にはどうじゃ、でへねうんばば~・・さぞ、良い肴になるじゃろう、うんばうんば~・・まあ冗談はさておき、例の奴の処刑方法じゃが前田の親爺に案を出させる事にし、お前も何か良い案を出せ、でへねうんばば~」
暗に太閤は例の奴はお前に任すと言ったが、光成にはその意味が良く理解出来た。二人はその後話題を変え、突如、不測の事態に陥った若太閤がどんな行動を取るか冗談交じりに話し始めた。
「所で若太閤は窮地を脱する為どうするかのう?」
「殿下、私が推測するに、若太閤は切羽詰れば殿下がいつも話されている戦話を始めるでしょう」
光成は、窮地に陥った時の若太閤の行動を読み切っていた。
「そうかそうか、戦話か、さしあたり桶狭間じゃな。じゃが若太閤め、まさか尻尾を巻いて逃げぬわな、奴もそれなりに自分の役割を自覚しておるじゃろうからな。まあ逃げだせば、わしが尻を思いっきり蹴飛ばして寝所に追い返してやるがのう、はっはっはっはっ~・・・わしの場合は、わしが一番気に入っている長篠の合戦あたりはどうじゃ、なにせ夏の夜は長い。・・・そうじゃ、それにわしも夏バテ気味、あすの晩は牛の肉と沈菜でも食そうかな、うんばうんば~」
「では早速、例の奴とその筋から五右衛門とその子分を手配いたし、又、膳の支度もいたさせます」
そう言い終わると、光成は足速に太閤の面前を立ち去った。

明らかになった五右衛門の素性
太閤はこの時光成に五右衛門の素性を明らかにしなかったが、その後、前田玄以等を交え、この五右衛門釜揚げの打ち合わせをする席で、太閤はあの夜以来隠し続けていた意外な事実を打ち明けた。
太閤が寝台から忽然と消え失せる前、実はこんな会話があった。
「あっしらも元を正せば石川一門・・・あっしは最初あっしが盗人の石川五右衛門と名のりましたがね・・まあどう言い繕うと今は盗人に違いありませんがね。さっきも言った通り、あんたのその年老いた寝姿に一度は命を助けてやろうとしましたがね、あんたがあまり金で話しの筋を捩じ曲げ、この窮地を脱しようとしている様子を見て、いささか腹が立ってきましたぜ」
話している内に五右衛門の態度が徐々に変わって来た。
「親分、奴をばっさりやって、ここから早くずらかりましょう」
鬼丸もじれてきた。
「まま待て、早まるな!わしが悪かったお前の話をじっくり聞こう」
その様子に太閤は動揺し、許しを請うように右手を少し上げなだめるように言った。
「はきり言えばあっしとここにいる鬼丸は丹後の出でございますよ」
「何!丹後の国、丹後と言えば一色の・・・それとわしがどお関わりがあるのじゃ」
「おっと、あんたは狡猾だ、まさか伊久知城を知らないなどとおしゃいませんよね。あんたは細川藤孝に命じ、私の父・石川左衛門尉(さえもんのじょう)秀門(ひでかど)を謀略の果て闇討ちにしたじゃあありませんか」
五右衛門の口調が変わった。
「秀門!謀略の果てに闇討ちじゃと?・・なんじゃそれは?わしは細川藤孝にそのような命令は出しておらん。わしは知らん、うんばうんば~」
太閤は事の次第を理解し弁明に努めたが、その皺茶けた顔は青ざめ、わなわなと身体全体が波打つように痙攣していた。
「弁明はそれぐらいになさいませ・・早い話し、わたしがその秀門の息子・五良右衛門と言ったらどうします」
五右衛門の口調が微妙に変わった。
「何!お前は秀門の息子じゃと・・盗人ではなかったのか、うんばうんば~」
太閤は驚愕、狼狽し無意識に布団の中に潜り込もうとした。
「今は盗人に身をやつしていますが、わたしもここにいる鬼丸も元はと言えば武士、あれこれ御託を並べましたが、早い話し親の仇、一門の仇を討ちに来たのです」
「何じゃと・・・・・うんばうんば~」
太閤は動転し、寝台横の棒を思い切り引いた。
「まさかそんな・・五右衛門が・・・・・」
事の顛末を聞き終わると、そこに会していた一同は驚きの叫び声を同時に発した。
「そのまさかじゃ・・・じゃが奴らは盗人として処刑せねばならん。大泥棒に仕立て上げるのじゃ・・その為にも、五右衛門一味が如何に大泥棒かを大々的に演出するのじゃ、うんばうんば~」
五右衛門が今まで世間を騒がす盗賊とばかり思い込んでいた光成と前田、そこに同席していた二、三の側近の者達は太閤の突然の告白に驚愕、動転し言葉を失い、互いの顔を見詰め合った。
「そうなのじゃ・・わしがその事を今まで隠していたのは、あの夜冷静さを失い五右衛門がわしが嘗て滅ぼした一門の者だと喚いて見ろ。お前達は動転し何をしでかすかわからん。それにじゃ、こういう秘密は直ぐに外にもれる。もしも洩れて見ろ、それこそわしに恨みを抱く他の奴らも真似をして、太閤の寝室は隙だらけと思い込み、隙あらば忍び込みわしの寝首を掻くやもしれん。そんなことがあってみろ・・わしはおちおち枕を高くして眠れんじゃろう、うんばうんば~・・ふと目覚めたらそんな奴らに取り囲まれていた等と洒落にならん、でへねへうんばば~・・くわばらくわばらじゃな・・まあ確かに、あの夜は緊迫した状況じゃった。じゃがな、わしは戦場ではいつも生死の間を行き来しておた・・わしはぐっと我慢し、咄嗟に心の中に重く重くのしかかっていた病巣を取り除く為奴らを利用しようと思ったのじゃ。五右衛門は既にわしの掌中にある。わしの俎板の上から逃れれん鯉そのものじゃ、うんばうんば~」
太閤は少し時間が立ち余裕が出来たのか、冗談交じりに自分の心境を述べた。
「あくまでも奴を根からの盗賊とすれば事を荒立てずに済むわけでございますね」
「そうじゃ、奴は丹後の石川一門ではない、うんばうんば~・・奴は単に世間を騒がす盗賊じゃ・・それにしてもわしも迂闊じゃった。天下を握り何処かに隙ができていたのじゃな・・もしも奴らがもっと復讐心に燃えておったら、わしはあの時死んでおったじゃろう」
太閤は沈痛な面持ちで面々の顔を見た。光成は話を聞きながら、今さらながら病的なまでに太閤がお拾丸出生にこだわっていたのだと痛感した。この疑念の凝縮した塊りこそ、五右衛門釜揚げの本質だと、そこに同席した皆は感じた。

正にとんでもない事
二人の話は続く。
「所が釜揚げが始まり、そこで、正にとんでもない事が起こったのでございます・・・」
五右衛門がまず話の口火を切った。それは彼等の目の前で行われた釜揚げでのある出来事だった。
「そうじゃ、正にとんでもない事がおこったのじゃ、うんばうんばば~・・そのとんでもない事とは、こんな事ではないのか?」
太閤は五右衛門の言葉を受け、自らそのとんでもない事柄について、自分の口から話し始めた。
「その時わしは、観覧席近くの桟敷の垂幕の隙間から、五右衛門を見ようと必死で目を凝らしておった。・・・なにせわしは影武者、いつも不測の事態に備え、身代わりになれるよう、殿下の側に影のように控えていたのじゃ、でへねうんば~・・所が、釜の周りに薪が積み上げられ、野次馬達が立ち騒ぐ中、もうもうと白い煙が辺りに立ち込め始め、何とも言えん悪臭と異臭が鼻の粘膜を刺激し、そのうち火勢が激しくなり、釜の中で五右衛門がもがきながら何かを叫んでいるようじゃった。・・じゃが、その時は、奴の顔はよう見えんかった。・・所がじゃ、何の加減か、ほんの一瞬、五右衛門の顔がはっきりと見えたのじゃ、うんばうんばば~・・・思わずわしは、あっ、と叫びそうになっのじゃでへねうんば~・・・其奴の顔は、寝所に侵入した五右衛門でもなく、さらに驚く事に、朝市中を引き回されて行った五右衛門でもない、全く別の五右衛門じゃった、うんばうんばば~・・・一体、これは何なのだ、どう言う事が起こっているのじゃ???・・わしは、あまりの事に、混乱の極みに達し、頭の中が真っ白になったのじゃ、でへねうんば~・・一体全体、これはどう言う事だ、五右衛門が三人????」
太閤は我を忘れ一気に喋りまくり、ふと我に返り五右衛門を見た。
「殿下、そうなのでございます、そうなのでございます。殿下が言う通りなのでございます。釜の中で揚げられ、もがき苦しんでいる男は、その朝、沿道を馬に乗せられ引き回された五右衛門とは、全く別人でございました」
五右衛門も興奮気味に言った。
「さらに、わしが五右衛門を良く見ると、なんとなんと、奴は口から血を出しておった。その状態からわしは、奴は舌の一部をちょん切られているのではないか、と薄々感じたのじゃ、うんばうんばば~・・それでも、奴はもがき苦しみながらも、何か意味不明な事を叫んでおったのじゃが、あれは単に苦痛の為に発していた叫び声や、悲鳴ではない。・・空耳だったかもしれんが、奴が自分の名を叫んでいるようにも聞こえたのじゃ、うんばうんばば~・・」
太閤は、自分が抱いていた疑問を一気に吐き出した。
「それからあの煮え滾った油の大爆発よ、全てが粉々に消し飛んでしまったのよ。・・わしは黒焦げになり、大きく傾いだ大釜の姿を見て唖然としたが、見ている内に何か心の中に空洞が出来、虚しささえ感じたのじゃ、でへねうんば~」
太閤は一呼吸置き、その時、突然目の前で起こった惨劇を一気に捲し立てた。
「五右衛門は私を含めると三人!ただその時まで、何故、殿下は私を五右衛門に、滝田左門次を鬼丸に仕立ててまで、あんな大規模な釜揚げの刑をするのか、はっきりとした意図はわかりませんでした」
太閤の話が一段落すると、五右衛門も眼の前で起こった不可解な出来事に疑問を投げかけた。
「そうじゃ、わしもこんな不可解な事が起ころうとは、一体、殿下は何を考えておられるのじゃろうかと考えあぐねておったのじゃ、うんばうんばば~・・・その謎はお前と同様、その時まで解けなかったのじゃ。・・何故なら殿下は無論、光成様も他の側近たちも、口を頑なに閉ざし、わしには何も教えてくれなんだ。・・それが、奴の顔が見えた瞬間、桟敷席から響動めきが沸き起こったのじゃ。・・皆の顔色が一様に変わり、驚いたような表情で何かを囁き始めたのじゃ、うんばうんばば~・・迂闊じゃったが、わしはその時も釜揚げの企みがまだはっきり理解出来なかったのじゃ、でへねうんば~・・なにせわしは影武者、桟敷席の外で身を俏(やつ)し控えておったからのう、中でどんな囁きがなされたか分らんかったのじゃ」
太閤はその時の自分の有様を淡々と語った。

悪魔の囁き
「その後、処刑が終り、人が潮の流れが引くように、引き始めたが、わしは、何故か動くのが億劫(おっくう)になり物陰からそのまま放置された大釜を眺めておったのじゃ・・まあ一種の虚脱状態に陥ったのじゃな、でへねうんば~・・あ~あ~一体何なのだ、この馬鹿騒ぎ、この企みは、そう思いながら頭上を見ると、烏(からす)が群れをなして舞っているのじゃ、でへねうんば~・・死臭を嗅ぎつけ集まって来たのかもしれん。・・その姿を見ていると無性に腹が立ち、嫌気もさし、例えようもない寂しさに襲われ、いつの間にか心が酷(ひど)く打ちひしがれ、惨めな心持になり、しばらくそのままへたり込んでいたのじゃ、うんばうんばば~・・・・・」
それから彼は大きく息を吸い込み、又ゆっくり吐いてから、処刑直後の自分の心境を語った。
「所が、処刑が終りしばらくすると、あの釜揚げで処刑された男こそ、淀の方の間男に違いないと言うまことしやかな噂が何処からともなく聞こえてきたのじゃ、うんばうんばば~・・その噂を聞いた時、わしは初めて五右衛門が次々とすり替わった、この奇っ怪な釜揚げの真相が分ったのじゃ、うんばうんばば~・・つまりじゃ、これは殿下がその男と淀の方へ復讐をしたのではないかと思えたのじゃ。・・まあ、殿下が間男した男に断罪を下したと言えば分りやすいがな、うんばうんばば~・・ただ、殿下が釜揚げを淀のお方様の前でしたのは、その男のようにじかに直接処罰せず、お方様の反応を見たかったからじゃろう、でへねうんば~・・それは、殿下の淀のお方様への愛おしさの裏返しとも言えるのじゃ。・・つまり、お拾丸様が自分の実子でないとしたらどうなるのだ、とは言う物の愛しい淀のお方様が生んだ赤児、この子も捨てがたい。殿下はこの矛盾に直面し、お拾丸様誕生以来、ずっとずっと、誰にも言えず悩みに悩んでおられたにちがいのじゃ、でへねうんば~・・所が、五右衛門が、自分の寝所に忍び込んだ時、不意に自分を救ってくれる悪魔の囁きが何処からともなく聞こえて来たのじゃろう、うんばうんばば~・・もちろん、わしの想像じゃがな、でへねうんば~」
「悪魔の囁き、救いの????・・・自分を救う?」
五右衛門は太閤の意味する事が分らず首を傾げた。
「そうじゃ、この盗人を利用しろ、という悪魔の囁きじゃ。・・それで行き着いたのが、大仕掛けの処刑場を造り、先にも言ったように、その男を処刑し、尚かつ淀のお方様の反応を見ようと言う訳じゃ、でへねうんば~・・殿下にとってはこの悪魔の囁きこそ、自分の捩じ曲がった病める魂を救う、救いの声じゃったのかも知れんな、うんばうんばば~・・じゃがこの声は、その間男にとっては地獄からの迎えの声じゃった。なんとまあ惨い仕打ちじゃった事だろう、でへねうんば~・・人間を空揚げにするなどと!」
「ではあの大掛かりな釜揚げは、自分の魂を救う為の救済劇!」
「そうじゃ、多くの者を巻き込んだとんでもない救済劇じゃよ、うんばうんばば~・・自分の魂を救う為の・・敢えて言えは殿下は、自分の魂を悪魔に売ったのじゃ」
「殿下、それはそうと、おかしな事を言いますが、噂では釜揚げにされた男は誰それと言われていますが、未だにあの釜で揚げられた男が本当は誰だったのか分らないのでございましょう」
「そうなのじゃ、わしも男が自分の名前を叫んでいたようにも聞こえたが、後から考えて見ると空耳のような気がしてのう、それこそ不思議な事じゃが、噂に上がった男達は、釜揚げの後も皆生きておったのじゃ。・・一体釜揚げにされた男は誰じゃったのじゃろう?皆は殿下の罠(わな)に嵌(は)められたのかもしれん、うんばうんばば~」
・・・・とは言った物の、太閤は何故こんな事が起こったのか長年彼なりに考えて来た。彼の推測では太閤(本物の)は、最初噂されていた間男を淀の方の眼前で釜揚げにしようと勇んでいたのではなかったか、しかし、ふと冷静さを取り戻し、そんな大それた事をすれば重大な事態を引き起こすと気付き、全く別の男にすっり替えたのではないだろうか。
その理由は、淀の方の背後にはお市様がおり、淀の方を傷つける事は、とりもなおさず長年恋慕し続けて来たお市様を傷つける事にもなり、そんな真似は例え誰が言おうとも決して出来る筈もないと考えたに違いない。ただこれは影武者太閤の推測であって、その真意は別の所に有ったのかもしれない。
「釜揚げになった男が誰だか分らない。ううっっ~・・そんな馬鹿な!では一体あの釜揚げは何・・・・?」
そんな太閤の想いとは裏腹に、五右衛門は驚きのあまり思わず絶句した。
「その男が誰であれ、皆には釜揚げにされた男は、間男に見えたのじゃ、うんばうんばば~・・一体あの釜揚げは何?それはじゃ・・つまり・・」
太閤は言い淀んだ。そこで二人の会話が少し途絶えた。それから二人は釜揚げに隠されたもう一つの企みを話し始めた。
「じゃが今まで話していたのは、殿下の内面の事・・・わしが思うに、あの釜揚げには、殿下のもう一つの目的があったのじゃ、うんばうんばば~・・これこそが本当の目的じゃったと思えるのじゃ・・」
「本当の目的・・そう考えますと、私にも釜揚げ後の一連の事件が理解出来ます!」
五右衛門は釜揚げ後、巷を突如襲ったとてつもない粛清の嵐を言いたかったのだ。
「そうじゃ、とてつもない惨劇じゃった、うんばうんばば~・・釜揚げ後、観覧に招待された者達は、自分は殿下より不正の嫌疑を掛けられず、何のお咎めも受ける事はないと安心しきり、高枕で寝ておったのじゃろう・・所がじゃ、その安眠の儚(はかな)い夢は、何の前触れもなく突然打ち破られる事になったのじゃ。・・・お前ももう分ったと思うのじゃが、殿下の本当の目的は、お拾丸様出生に関わる風説を断固として封じ込める事じゃったのじゃ、うんばうんばば~・・それから間もなくじゃった。・・お拾丸様出生に関して、良からぬ陰口をたたいていた者達の屋敷や住居に、捕方が突如として土足で踏み込み、有無を言わさず縛り上げ捕縛し始めたのじゃ、うんばうんばば~・・さぞそれらの者達は慌てた事だろうよ・・その者達には正に寝耳に水の事態じゃったからな、うんばうんばば~・・釜揚げの後、何故、殿下取り巻きの者皆が、まるで牡蠣のごとく口を固く閉ざしていたが、その時はっきりと分ったのじゃ。・・釜揚げが終わり、招かれた者の中には、釜揚げされた男は誰それじゃ、矢張りお拾丸様は殿下の御子ではないなどと、人前で公然と言いふらす者達がおったのじゃ。その有様を、殿下はしかるべき者達に監視させていたのじゃろう。つまり、釜揚げ前にも陰でこそこそ囁き合っていた者もいたが、これらよからぬ噂をする者達を一網打尽にする為五右衛門釜揚げを演出し、大きな捕縛網を張ったという訳じゃ、うんばうんばば~・・釜揚げはその為の警告の前ぶれでもあった訳じゃ、うんばうんばば~・・わしは身近で見ておったが、上では、武将も難癖を付けられ切腹させられたり、下では、殿下の身の回り世話をする奥女中や茶坊主達までもが、秘密の拷問部屋に引っ立てられ厳しい詮議を受け、首を刎ねられ、晒し首にされたのじゃ、でへねうんば~その時の緊張した雰囲気が今でもびんびん伝わってくるようじゃ。・・言うまでも無く、巷でも次々噂をした者達は捕縛され、これも、厳しい詮議の上、打ち首、獄門じゃった、うんばうんばば~・・・」
言うまでも無く、彼によれば釜揚げの真の目的は、有らぬ噂を捲き散らす者達の厳しい取り締まりであったと言いたかったのだ。話し終わると太閤はぶるぶると全身を震わせ、五右衛門を凝視した。そんな太閤の様子を敏感に感じ取った五右衛門はここで話を一旦止め、しばらくしてから又話し始めた。
「それで淀の御方様も例の男の顔を見ても何の反応も示されなかった!」
五右衛門はあの時、淀の方の覚めた態度を思い起こし、一言呟くように言い、尚も話を続けた。
「成程、お話をお聞きし一つ謎が解けました。しかし、これらは殿下らしくない盲目的な暴挙でございましたよね」
「そうなのじゃ、盲目的な暴挙じゃった、うんばうんばば~・・お拾丸様が実子という確証があれば、殿下がこんな大芝居を打つ必要はなかったはずじゃ?この企みの真意が露呈すれば、殿下自らがお拾丸様は自分の実子では無いと疑っている事を、世間一般に晒した事になる・・確かに、淀の方様は男の顔を見ても何の反応を示さなんだが、殿下の胸の内を晒してしまったのじゃ、うんばうんばば~・・じゃが、わしには、この企みを殿下お一人が考え付いたとは、到底思えんのじゃ、うんばうんばば~・・何故なら、その先にあるのは、殿下亡き後、お拾丸様(秀頼)が殿下と何の血の繋がりがない事になり、豊臣家は太閤殿下の豊臣家ではなく、言ってみれば淀の方の出自、浅井家である事を意味するのじゃ、でへねうんば~・・さらに言えば、淀の方が、豊臣家を乗取った事になるのじゃぞ、うんばうんばば~・・もしこの処刑に、光成様のような側近が絡んでいるとすれば、その人物は、その時は、太閤殿下には忠臣じゃっただろうが、後々の豊臣家の事を考えれば、深慮を欠いた愚臣に、否、皆から憎しみをかい、諸侯も離反するきっかけを作った悪臣になりさがった訳じゃな、うんばうんばば~」
太閤は自分なりの大仕掛けな処刑に至るストーリーと、その後の豊臣家の行く末を五右衛門に解説した。
「これは重大な事柄を含んでいますね・・・・」
「そうじゃ、重大じゃ、重大な事柄を含んでおる。つまり、この事は、今も言ったが太閤殿下の子飼いの諸武将が、何も遠慮せずに豊臣家から離反する口実を与えた事にもなるのじゃ、うんばうんばば~・・事実そうなってしまったがのう、うんばうんばば~」
「そうでございます、豊臣家は最悪の道を辿りましたね。所で、それらの噂の出所は何処でしょう」
「今もわしには分らんのじゃ、うんばうんばば~・・」
太閤はその事については立ち入って言及しなかった。
その後彼は太閤の胸の内を代弁するかのように話し始めた。
「殿下の苦衷(くちゅう)の胸中は、今もって分らぬが、お拾丸様が自分の実子である事を願い、又、恋慕し続けたお市様の血筋を残したかったのではないかな?」
「それ故、妄想に捉われた?」
「太閤殿下は、天下太平、戦のない平和の時代を築くと言う大義名分で何万人もの人命を奪い天下人になられた。じゃが、それとは裏腹に、お市様を恋慕するお姿は、畏れ多い言方だが、愚かしいほどわれら下賤な者どもに似ていたように思えてならんのじゃ、でへねうんば~」
太閤はしんみりとした口調で言った。
「私も殿下亡き後、もう何もかもが厭に成り、豊臣家を鬼丸(滝田左門次次)とともに離れたのでございます」
五右衛門のそんな言葉に、太閤は急に現実に引き戻された。
「わしもそうじゃ、わしは殿下の影武者、殿下が死んでしまえば、わしはただの年老いた老いぼれじゃ・・まあその時は五十あまりじゃったがな、でへねうんば~・・それにじゃ、余談じゃが、殿下はあの時、突然盗賊が押し入り、びっくりしたじゃろう、と言われ褒美(ほうび)に黄金五枚をくれたがのう、じゃが何の喜びもわかんかった。何の喜びも・・・」
次の話題に移る前、太閤はぽつりとこんなエピソードを洩らした。影武者太閤も、偽五右衛門も、所詮影の者、その行く末は定められていた。その存在理由がなくなれば、自ら身を引かねばならなかった。次に太閤はしんみりとした口調で次のように語った。
「殿下が存命のおり、わしを密かに部屋にお呼びになり、こんな事を言われたのじゃ、うんばうんばば~・・わしは晩年に幾つかの過ちを犯した。一つ目は、唐入りを諌めた千利休を死に追いやった事・・二つ目は、五右衛門の釜揚げを仕立てた事・・三つ目は、関白の位まで譲った秀次を殺した事じゃ、とな。殿下は悔悟(かいご)の念を込めこう申しておられた。しかし太閤殿下が、どう弁明しようと、己の欲望と妄想により数限りない者達を死に追いやったのは許し難い暴挙であり、わしは絶対に許す事は出来んのじゃ、うんばうんばば~」
太閤は憤怒し、その目には涙さえ浮かべていた。
「関ヶ原と大坂冬、夏の陣で子飼いの武将たちが豊臣家を見限ったのは、釜揚げも多少影響したのかもしれんな。なにせ秀頼様が、殿下自らが疑ったように、殿下の嫡男でなければなんの為の戦じゃ、うんばうんばば~・・殿下亡き後、殿下と血の繋がりのない豊臣家が天下を治めるという名目だけでは、いくら巨万の富があろうとも天下は治められん。・・大坂冬、夏の陣を見れば分るじゃろう、いくら金で浪人をかき集めた所で、あのざまじゃった。金だけでは天下は買えんでのう、うんばうんばば~・・」
さらに太閤は話を続けた。
「徳川方になびいた武将達が、殿下亡き後、陰で光成が秀頼、淀の方を操っているとか、秀頼様の父親は実は○○とか、過去の有らぬ噂を蒸し返したのも、己可愛さ故の姑息な言い訳じゃて、でへねうんば~・・己らの不忠を隠す為にな、うんばうんばば~」
五右衛門は太閤の話の勢いに呑まれ、ある重大な事柄を言いそびれていた。そんな彼の胸中を無視するかのように太閤は話を続けた。
「奴等は力と金に靡(なび)いたのよ、所詮、忠義などと言う物は、絵に描いた餅、机上(きじょう)の空論に過ぎんのじゃ、奴等にとっては、己の身が可愛いかっただけじゃ・・言ってみれば、忠義を貫いたのはわしとお前ぐらいかな、皮肉なものじゃて、でへねうんば~」
太閤は強い口調で、豊臣家を裏切った者達を非難、罵倒し、その後五右衛門をじっと見詰めた。その表情には、隠しても隠しきれない無念さが滲み出ていた。
「とは言っても、わしのような山科の片田舎に住む生先(おいさき)短い老いぼれの戯言(たわごと)、聞き流してくれ」
そう言い終わった彼は太閤から常庵に戻っていた。
「所で聞きそびれていたが、漬物屋といってどんな漬物を売っているのじゃな?」
「京の柴漬けとか色々でございます・・・」
五右衛門もまた漬物屋の親爺、奈良柴秀の顔に戻っていた。
「京の柴漬けとか?・・・まさかあの唐辛子と大蒜の利いた漬物、沈菜を!」
突然、常庵の頭の中に、彼を悩ませた事のある真っ赤な漬物が浮かんだ。
「その沈菜でございます」
「なぬ・・・、沈菜・・、でへねうんば~」
思わず常庵は唸(うな)った。彼の脳裏をあの激辛な刺激が一瞬かすめた。
「二日目の夜、太閤殿下は、話が一段落しますと、何を思ったのか、肉など食そうとおしゃいまして、それと共に出て来たのがこの漬物でございました」
「そうかそうか、わしも牛の肉を賞味させてもらったが、それは大層旨(うま)かった。じゃが、沈菜はのう、一口食べると、口の中が火事になったかと思えるほど熱うなってのう、うんばうんばば~・・わしは跳びあがり、その後、七転八倒じゃ。殿下は意地悪く唐辛子の一番効いた沈菜を出されたのじゃ、でへねうんば~」
さも嬉しそうな表情で、両手を口の辺りで合わせ、出された沈菜が如何に激辛だったかを表現して見せた。
「そう言えば、あの釜揚げ処刑の折、殿下は又もや、悪戯をなされたな」
「そうでした、そうでした、招待客の仕出しの中に、その沈菜を入れられたとか」
「そうなのじゃ、何も知らぬ者達が、それを一口頬張り、ひぃ~ひぃ~唸っておった。意地の悪い者は、側に侍る女子にも食べさせ、その者達が余りの辛さに転げまわるのを見て喜んでおった、うんばうんばば~・・淀の方もそれを見て、涙を出しながら笑い転げられた」
「はっはっはっはっはっ~その者達は、まるで口の中から火炙りにされたような・・・」
「まあ、五右衛門一味の火炙りからすれば、大した事ではないがのう、それにしても悪戯がお好きじゃったな、殿下は!」
「所で、殿下も太閤殿下よりお聞きしてご存知かと思いますが、後で調べた所、あの漬け物は、文禄の役の折、加藤清正様方武将が、朝鮮(李朝)に持ち込んだ南蛮渡りの唐辛子と朝鮮の大蒜等を、塩漬けにした白菜に混ぜて漬けた漬物でございます。私も殿下が亡くなられた後、侍の堅苦しい生活が厭になりまして、密かに出奔(しゅっぽん)、それ以降しばらく田舎で暮らしていましたが、ふと京名産の柴漬けとこの漬物、沈菜で漬物屋をやってみようと思い立ち、鬼丸にも声を掛け、堺の街の外れで商売を始めました。・・所が、夏の陣が始まり大阪に出しておりました私共の出店が焼失してしまいました。幸い、私共が現在寝起きしております店は、焼失を免れ、皆無事で、何とか生活を続けております」
「その漬物の由来は、わしも殿下よりお聞きし少しは知っておる。所でその沈菜の評判はどうじゃ」
「お陰さまで、最初のころはその辛さの為なのか、皆さまのお口には合いませんでしたが、この漬物の名を太閤沈(たいこうき)菜(むち)と銘打(めいう)って売り出した所、太閤贔屓(びいき)の方々も多く見え、その方々がそれを食べ、夏は身体がしゃっきりし、冬は身体が温まり、何かしら勢力がもりもりつき、倦怠期(けんたいき)に入った夫婦でも、古女房がこれを食べるとほんのり赤く色気づき、何かむらむらその気になるなど効果抜群だと、徐々にその他の方々の間でも評判になりまして商売繁盛でございます」
「それはそれは喜ばしい事じゃ、うんばうんばば~・・所で、その美味さの秘訣は?」
太閤は太閤沈菜に興味を示した。
「これは門外不出の秘密ですが、殿下にはお教えします」
五右衛門はにこにこしながら応えた。
「はっはっはっ~それは有り難い、それでその秘訣は?」
畳かけるように太閤が問いかけた。
「良い漬物の秘訣はですね、私どもが地元の農家にたのみ、唐辛子、大蒜、白菜を自然の堆肥を十分施した畑で作らせるのでございます。
そこらへんからかき集めてきた唐辛子、大蒜、白菜では滋養の富んだ良い漬物は出来ません。
それに有能な人材は欠かせません。番頭は先ほど申したあの鬼丸ですが、今は文(ぶん)治郎(じろう)と名乗り仕事に励んでおります」
「文治郎とな、それで例の、ぶひ~と発しながらか」
「はい、まだそのぶひ~を発しております、はっはっはっ~・・それにあの体型と親しみ易い話術で客あしらいも上手く、お得意様の評判も良く、まめに商売に励んでおります」
「はっはっはっ~今頃くしゃみをしておるやもしれんな鬼丸は、いや文治郎は・・・はっはっはっは~」
「はっはっはっは~」
二人は顔を見合わせ大笑いした。
「考えてみますに、私が、漬物屋を営めるのも、慈悲深い太閤殿下のお陰かと思い、殿下縁(ゆかり)の豊国(とよくに)神社(じんじゃ)には、毎年欠かさず参拝いたしております」
話題を転じ、五右衛門は深々と頭をたれ、掌を合わせた。そこには最早、昔の武士の面影はなく漬物屋の親爺の顔があった。
「わしもそうじゃよ、豊国神社には、毎年欠かさず参拝じゃ・・それにじゃ、殿下も淀の方も朝鮮から連れてきた宮廷料理人、李西方が作ったその白菜漬、沈菜が好きじゃったな!・・お前と鬼丸も沈菜をその夜、殿下から出され、あまりの辛さに眼を白黒させ、ひい~ひい~喚(わめ)いていたと殿下が面白可笑しゅう話していたのを後で聞いたぞ」
太閤は見るからに嬉しそうだった。
「あの時はびっくりいたしました。私も鬼丸も口の中が火事になったようで!」
「わしも同じめにあったが、殿下は面白がって皆に食べさせ楽しんでおられた。殿下もあれで、中々、子供っぽい所があったでのう、でへねうんば~・・一度など女子と同衾(どうきん)された朝、ばったり廊下で鉢合わせした時など、わざわざわしを呼び止められてのう。・・若太閤、わしの座右の銘を知っておるか、と言われたのじゃ、うんばうんばば~・・わしがどぎまぎしておると、あれじゃよ、あれ、英雄色を好むじゃ、と言われ、わしのあそこをぽんと叩いて、さっさと行ってしまわれたわ。わしはあまりの事に口をあんぐり開け、殿下の後ろ姿を見送っておった。まったく、悪ふざけもいいとこじゃ」
いかにも楽しげに太閤は昔の逸話を語った。そんな昔太閤の影武者だった常庵が身ぶり手ぶりで話す様子を見て、五右衛門は今でも彼は心より太閤に心酔しきっているのだと感動さえ覚えた。今も彼は、隠居人、常庵ではなく、太閤に限りなく近い影武者として、無意識に生きているのではないか、とさえ思えてくるのであった。
「所で、太閤殿下が私に女を下賜(くだ)さった事はご存知ですか?」
五右衛門が突然話題を変えた。彼は彼の二、三の身内しか知らないある重大な秘密を、この老い先短い老人に話して置こうと思った。それは、今は亡き太閤への餞(はなむけ)けの言葉でもあったし、秀頼誕生に関わる重大な秘密でもあった。
「女を?それは初耳じゃ・・・ひょっとして、わしがお前達に女子を世話するとかなんとか喋っていたのを、殿下は何処ぞで聞き耳を立てられておられたかもしれんな・・そうであればわしが喋った色々な事も全て聞いておられた事になる?何たる事じゃ、うんばうんばば~」
「それはお考え過ぎではありませんか・・所で、話を元に戻しますと、私と鬼丸が殿下の寝所に忍び込み、その後、五右衛門処刑も終わり、およそ二カ月ほど経ったある日の事でございました。・・・私と鬼丸は、急に殿下から呼び出しを受けました。場所は伏見城ではなく、殿下指定の城近くの屋敷でございました。二人でなんだろう、と訝(いぶか)りながら出向くと、なんとそこに殿下がお忍びで来ておられたのでございます」
「殿下直々にか!」
太閤は一瞬驚いたのか語気が強くなった。
「そうなのでございます。そこで殿下は、はっはっは~五右衛門と鬼丸・・わしじゃよ、わしじゃ、太閤じゃよ、と言われ・・お前達に合うのはこれで二度目じゃな、あの夜の様子からお前達はどうも女に不自由にしておるようじゃな、あの晩は楽しかったぞ、その駄賃にじゃ、お前達に褒美(ほうび)を与える事にした、と言われ、おもむろに片目を閉じ、目配りされました。・・そこで私と鬼丸が、殿下の指示に従い待機していますと、二人の女が従者に連れられてやつて来たのでございます。・・それから、共に別嬪じゃ、大切にしてやれ、と言われ、私と鬼丸に一人づつ女を与え、すたすた歩き去られたのでございます。・・連れて来られた二人の女の内、私に与えられたのがなんと、後で知ったのでございますが、竜造寺家分家の女、円(まどか)でございました。殿下が、あの夜私達に言われた約束を本物の殿下が、こんな形で実行されようなどとは思いもよりませんでした」 
淡々と五右衛門は事のあらましを太閤に語った。
「初めの夜、わしはそんな事を話の勢いにまかせ話した様な気もするが、殿下がのう・・わしは狐につままれたような心境じゃ・・と、言う事は殿下がわしらの話を立ち聞きしていた・・そうは思えんが?」
太閤は素直に胸の内を語った。
所でこの円とは、板叩き刑の後競りに掛けられ、堺の豪商、赤俵屋宗衛門が高値で落札した女であった。
事の経緯を語れば、あの処刑が行われた翌日、太閤の元へ宗衛門から献上品として、若返りの妙薬が詰まった大きな葛篭(つづら)が届けられた。
その日太閤は、前日、長時間にわたり釜揚げなどの処刑を観覧した疲労から、昼近くまで寝ていた。
「殿下、堺の赤俵屋宗衛門殿から、若返りの妙薬(みょうやく)とやらの献上品が届いております」
「何いいっ・・・!若返りの妙薬じゃと????、うんうんうん~わしが一番欲しい物じゃ、うんばうんば~」
近習の知らせに太閤は、がばりと布団を撥(は)ね退けて起き上がり、寝巻を脱ぎ捨て、もどかしげに着物に着替え、葛篭の置かれてある部屋にドタバタ廊下の板を踏みならし、速足で向かった。
「ええい、はよう葛篭を開けぬか、うんばうんば~」
着くと早々、家来を急かし、その葛篭を開かせた。すると、その中から艶やかに着飾った女が現れたのだった。その葛篭の中の献上品の妙薬こそ、その円であった。
「おおこれは妙薬でのうて媚薬!わし好みの別嬪媚薬じゃ、でへねうんばば~・・赤俵屋め、わしの胸中を見透かし、中々おつな事をやるわい、うんばうんば~・・このような媚薬など送って寄越しおって、はっはっは~でれでれでれ~うんばうんば~」
年甲斐もなく太閤は、小躍りし、楽しげに笑った。この媚薬を贈った赤俵屋は言うまでも無く例の騒動に巻き込まれる事はなかった。
「この若返りの媚薬、早速服薬してみるか、でれでれでれ~」
さらに太閤は助平たらしい顔をして、上機嫌で呟いた。
「竜造寺家分家の・・・・それはわしも初耳じゃ、うんばうんばば~」
そんな話を五右衛門から聞いた太閤は、興味深げに言い、彼の次の言葉を待った。
「そうでございますか」
五右衛門は、密事を言いだすタイミングを見計らっていのだった。
「所でその妻女はお元気かな」
「お陰さまで元気に私ともども商売に励んでおります」
「名前はなんじゃったかな、でへねうんば~」
「円でございましたが、今は結(ゆい)でございます」
「その結殿は息災かな?」
「息災でございます・・・・・」
そこで五右衛門は一呼吸置いた。その間、太閤は火勢の衰えてきた囲炉裏に短く切った薪をくべた。しばらくすると薪は白い煙を上げながら燃え始めた。
「・・・・所で殿下、私が今から申し上げるのは、今回が初めての事なのですが、結に子が・・・」 
五右衛門は少し遠慮がちに話し始めた。
「それはめでたい」
「それはそうですが・・私が言わんとしているのは、実は・・」
「実は・・?なんじゃ」
「その・・結が、私の妻となる前、数回太閤殿下の御寵愛(ごちょうあい)を受けた、と包み隠さず申したのでございます」
会話は淡々と進んで行った。
「何と数回、御寵愛を・・・・それで?」
「決して驚かれてはなりませんよ!この事は、今まで誰にも口外した事はございませんし、殿下も、私が今から申す事は、決っして他言なされてはなりません。事は重大なのです。もしも太閤殿下が、お拾丸様誕生時にこの事を知っておれば、私の五右衛門としての存在も、ましてや釜揚げなどはきっと無かったでしょう」
「なぬ・・五右衛門も?釜揚げも???無かった?それは一体どう言う事じゃ、でへねうんば~」
太閤は驚き、膝を無意識の内に前にのりだした。
「殿下の今日のお話からすれば、大泥棒石川五右衛門など仕立てる必要もなく、釜揚げさえ無かったのです。寝所に押し入った石川五右衛門などは、人知れず三条ヶ原の片隅で、仲間と共に首を刎ねられ、草葉の露と化していたでしょう。全てが徒労でした」
「全てが徒労でした、一体それはどう言う意味じゃな、うんばうんばば~・・わしも長年太閤殿下の影武者を務めた男、決して他言はせん、でへねうんば~」
太閤は顔を強張らせ確約した。
「結が申すには、殿下のご寵愛を受ける前には、月の物がございまして、その子は前の男(間男した)の子ではない、と申したのでございます!それに私の元にやって来た時、すでに、腹に子供が宿っているのが分り、私の子供でもありません!」
五右衛門は、太閤が全く予期せぬ事を言い始めた。
「なんじゃと!前の男の子ではない?それにお前の・・ではその子は・・・でへねうんば~うんば~」
太閤は全てを悟り、驚きのあまり跳び上がった。
「そうなのでございます」
「では秀頼様も・・うんばうんばば~」
「この事からすれば紛れもなく、太閤殿下の実子でございます」
「ううううう・・・・・・・・・そうであれば、お前の言うようにあの釜揚げは何だったのだ!それに五右衛門としてのお前もここにいない事になるのじゃな・・・」
全く意外な五右衛門の告白に太閤はしばらく言葉を失った。

第十四章

句の意味するもの
  
百韻連歌
それでも心の整理が付くと再び話し始めた。
「あまりの事に動転し言葉を失ったが、実はわしは五右衛門釜揚げ以外にもう一つ、是非ともお前に話して置きたいことがあるのじゃ、うんばうんばば~・・これこそわしがお前に伝えたい核心部分なのじゃ。・・もしかして、この話しこそお前がわしの所にやって来た目的に重なるかもしれん・・・」
太閤は今まで以上に真顔になり、突然こう切り出した。彼は五右衛門の様子からして自分の庵にやって来たのは、秀頼出目に関する秘密だけを伝える為に来たのではないと薄々感じていた。
実は長年、太閤も心の内部に、ある重大な秘密を隠し持っていた。彼はあれこれ迷ったが、話しているうちに、この機会に全てを打ち明けようと思った。彼がその時まで逡巡していたのは、その話の内容が果たして真実かどうか判断しかねていたからであり、五右衛門からもそれとなく聞き質したいがあった。
「分りました。私が思うに殿下の話しの中に私が聞きたい事柄も出て来ると思われます」
五右衛門は確信有りげに答えた。
「わしはここで告白しておくが、下腹あたりに痼(しこり)がありひどく痛むので薬師(くすし)に診てもらった所、肝の臓に悪性の腫瘍があり、余命いくばくもないそうじゃ、でへねへうんば~」
これは太閤が今の自分の健康状態を告白し、五右衛門に長年胸に秘めてきたある事柄を、包み隠さず話そうという覚悟の表れでもあった。
そう言われ、改めて太閤の顔を見ると何と無く少し黒ずんで見えた。
「それは、それはいけませんねえ。かなり前から違和感があったのでございますか?・・・・お大事にしてください」
五右衛門は驚きを隠さず、慰めの言葉を掛けた。それから座り直し太閤の話に耳を傾けた。
「そう言ってもらって有難い。まあそれはそれとして、わしの健康状態を告白したのは、今からわしは、殿下の影武者として、わしが見聞きした事柄をお前に話すつもりじゃが、これらをわしの遺言と思い聞いてほしいのじゃ、でへねへうんば~・・これらの中にはわしの狂言とも言える個所もあろうが、全てわしが見聞きしてきたものじゃ・・その真偽の判断はお前に委ねる」
「殿下が遺言とまで言われる以上、これから話される事柄を、真摯に拝聴いたしたいと思います」
それから、五右衛門は居を正し、真剣な眼差しを太閤に向けた。太閤は彼のそんな言葉に、当時の様子を語り始めた。
「先ほどお前の話を聞き心底驚いたが、秀頼様が太閤殿下の御子にほぼ間違いない事は良く分った。それで、今迄わしの胸につかえていた秀頼様出生の疑惑も取れ、心が軽くなったようじゃ・・実の所、わしは釜揚げ以前から、秀頼様が殿下の御子ではないかもしれん、と心の片隅で疑っていたのじゃ・・・じゃが口には決して出さんかった・・出せんかったと言った方がいいじゃろう。長浜時代、側室・南殿との間に石松丸と言う御子がいた、と言われいるが、それはそれとして、長年に渡り殿下に御子が出来なかったのは確かじゃった。その経緯からすればわしがこう考えたとしても何の不思議ではない。・・・しかも殿下でさえ、お拾丸様は自分の嫡子ではないかもしれぬと疑心暗鬼に陥ちいられ、あの狂気に満ち満ちた釜揚げと、その後の忌まわしい口封じ騒ぎじゃった。あれで殿下は、逆に秀頼様が自分の嫡子で無いと内外に知らせたようなものじゃ・・人の妄想と執念は恐ろしいものじゃな、うんばうんばば~・・わしはあの日、早朝から一日中行われた残忍で残虐きわまりない処刑の数々を見て、殿下の底しれぬ業の深さに、これから後、自分も影武者としてどうなって行くのだろうかと、その行く末に不安を感じたのじゃ、うんばうんばば~・・まあそれらは過ぎし日々の事、しかし、わしはお前がわざわざ懐かしさだけで、わしの元を訪ねて来たとは到底思えんのじゃ、でへねへうんば~」
言われた通り、実は五右衛門には、どうしても太閤に聞きた質さねばならないある事があった。
午後の光の中、何気なく眼を床の間の土壁に向けると、その中央に竹筒の花活けがあり、紫色の花が一輪活けてあった。ふと、彼の視線が花活けのその花で止まった。
「ああっ・・その花は桔梗(ききょう)じゃ」
それを見て太閤はすかさず花の名を告げた。
「私のお聞きしたいのはこの花に関わる事でございます」
五右衛門は視線を再び太閤に移した。
「というと、三十年ばかり前のあの件か?」
太閤は敏感に反応した。
「そうでございます」
「桔梗の花と言えば明智様の紋所・・つまり、本能寺の変じゃな?」
太閤は念を押した。
「そうでございます、本能寺の変に関わる事でございます」
「矢張りな、本能寺の変か。わしもそう思った。・・あの時は大変じゃった。わしはあの当時まだ三十半ばで、殿下も四十半ばじゃった。殿下が本能寺の変を語る時、明智様の事を、主君を裏切った逆臣といつも糾弾されていたが、あの変を知れば、知るほど複雑怪奇で、今も分らぬ事ばかりじゃ、うんばうんばば~・・又、太閤殿下が文禄の役を語る時など、沈菜の話とか、明の宮殿で焼肉大会をやるのが役の本当の目的だなどと、人をはぐらかしたような話を良くされていたものじゃ。・・焼肉大会はさておき、皆は軽はずみにこの役に言及するのを意識的に避けていたのは確かじゃった、でへねへうんば~・・下手に交渉が行き詰まっていたこの話を持ち出し、殿下の機嫌をそこなえば、それこそ首さえ飛ぶ事もあったからのう。中々あれで、一筋縄では行かぬお方じゃった、でへねへうんば~・・お前も良く知っておるように、自分の意に沿わぬ者は、例え、長年の茶の師匠であり、良き話相手でもあり、尚且(なおか)つ良き相談相手でもあられた利休様までも処罰された冷酷な一面もおありじゃった、うんばうんばば~・・・その当時、秀次様に関白の位まで譲っておきながら、嫡子が出来ると、まるで塵箱に捨てるがごとく謀反の廉で切腹を申しつけ、さらに一族皆殺しじゃった。わしとお前の一番関わりのあった五右衛門釜揚げも、先程のお前の話からしても、殿下の妄想から出た所産としか言いようがない。・・文禄の役も、妄想を通り越した狂気の沙汰そのものじゃったが、誰も恐ろしくて殿下の暴走を止める事が出来なかったのじゃ。・・所で、何故今頃になって本能寺じゃな?」
「それはでございます。あの当時、私は二十歳もいかぬ若造でございました。私も変の頃は、上役の服部源之助様の下で情報を求めせわしく動いておりました」
「つまり、素破という役割じゃな、でへねへうんば~」
「そうでございます。変からおよそ十三年後、殿下の寝所に五右衛門として押し入るよう命令を受けた時も、私はあちらこちらで諜報活動をしておりました。・・例えば、利休様に関しても、光成様よりあのお方の言動や交友関係を詳しく探るように命令を受けておりました。その過程で、あのお方が天皇様や公家の方々、諸侯の方々との会合に何時出られたかも調べました。・・利休様は、その人柄、殿下を思うあまり歯に衣(きぬ)着(き)せぬ口のきき方が、いつのまにか、殿下への重大な批判と捻じ曲げられ、光成様など利休様を疎ましく思う者達により、生贄(いけにえ)同然にされたと思われるのでございます」
「成程、それは十分有り得るな」
「お聞きしにくいのですが、敢えてお訊ねいたします。私も多少知っているつもりですが、噂であれこれ言われていた通り、本能寺の変に太閤殿下は本当に関与していたのでしょうか、と言いますのはあの時、私の五歳年上の兄・信(のぶ)秋(あき)が、不可解な死に方をしたのございます。この件に関わりのある何かを、ひょっとして長年影武者であられた貴方が知っているのではないかと、ここにやって来たのでございます」
「成程な、お前に兄がいたのか。その兄の死の手掛かりをわしが知っている?詳しく聞こう」
太閤は少し間を置き、鉄瓶から柄杓(ひしゃく)で急須に湯を汲み、手元の湯呑み茶碗に注ぎ、その一つを五右衛門に手渡した。
「まあ酒でも飲みながらお前の話をじっくり聞こう。そう言えば殿下は酒も好きじゃったが饅頭が好きでのう、いつの間にかわしも両党使いじゃ」
「そうでございますか、確かあの時も鬼丸と三人で饅頭を食べた記憶がございます」
五右衛門は昔こんな場面があったような気がした。
「そうじゃったかな、わしは歳のせいか、すかり忘れてしまった。はっはっはっ~」
愉快そうに笑う太閤を見ながら、彼は勧められるまま茶碗に注がれた酒をごくりごくりと飲み話を続けた。
「はい、お話しいたします。あの時、私は兄と違い新入りで、本能寺の辺りに張り付いていました。信長公が安土城を出られ、太閤殿下(羽柴秀吉)の要請に応え、救援のため六月四日に備中高松城に出発する前、本能寺で公家や名家の者、それに茶人や博多商人達を招き、名器や茶器などを披露(ひろう)する内覧会を兼ねた茶会を催したことは先程聞きました。所で、私の知る所によれば、その十日前辺りから何やら不穏な動きが洛中に広がり始めました。後で聞く所によると、五月二十八日、光秀様が京都愛宕(あたご)権現(ごんげん)付近の西之坊(にしのぼう)威徳院(いとくいん)で百韻連歌を催された辺りから、その動きはさらに活発になり始めたようでございます。・・その会の参加者は多数、その中で歌を詠まれた方々は光秀様を首席に九人だったと聞いております。・・・変の後、その会で『ときは今 あめが下しる 五月哉』と光秀様が有名な句を詠まれ、暗に自分が天下をとる、と決意されとか。・・それを聞き、私も矢張り光秀様が謀反を企てたのだ、と思っておりました。・・所がしばらくして、私の兄が、本能寺の変は光秀様だけが起こしたのでない、あれは誰かの陰謀に嵌められたのだ、と私に密かに打ち明けたのでございます。そしてこれは、弟のお前にだけ言うが、決して他言してはならない、もし他言すればお前の命はなくなるかもしれない、ときつく口止めされました。そのころから兄の挙動がおかしくなり、妙にそわそわして、私から見ると何かに怯えているようでした。私がそんな兄の身を案じていますと、それから間もなく、化(あだし)野(の)(京嵯峨野)の辺りの人目に付かない竹林で、兄を含め五人の変死体が見つかりました。それは私の兄を良く知る同僚が密かに教えてくれたのです。私は秘密裏に駆け付け、それらの死体を良く見ますと、死後一週間ばかりが経ち、顔の損傷もひどく、一部は腐りかけていましたが、その中の一体に私だけが知るある特徴があり、その死体が兄である事が分りました。それは口では言い表せないほど惨い有様でございました」
そう話す五右衛門の目には薄っすら涙さえ光っていた。
「それは愁傷な事じゃ、心が痛むのう、うんばうんばば~・・南無阿弥陀仏~・・・」
そこで太閤は目を閉じ、合掌し念仏を唱えてから話を続けた。
「つまりお前は、兄を含め本能寺の変に関わり知り過ぎた者達が、口封じのため密かに摩(け)擦(され)れたと言いたいのじゃな、うんばうんばば~・・それらからも、殿下が本能寺の変に深く関わっていた証拠ではないか、とも言いたいのじゃな」
そこで太閤は大きく息を吸った。
「じゃが、事はお前が思っているほど単純ではないと初めに言っておこう。・・お前が五右衛門としてわしが寝ていた寝所に押し入った例の夜にも、本能寺の変については多少言及したと思うが、あの日以来、今日に至るまで、わしはわしなりに色々情報を集め検証してみたのじゃが、未だ謎だらけじゃ、うんばうんばば~・・わしが今から話す事柄は、いわば、変に関わる隠された裏の部分と考えてもよいじゃろう」
ここで太閤は、茶をごくりと飲み、一息いれてから話の続きを始めた。
「話はこうじゃ。変の前、信長公が入京されてから、洛中では、お前も言うように、さまざまな不穏な動きがあったようじゃ、うんばうんばば~・・わしが変の後、諸方から得た情報によれば、朝倉、浅井や京を追われた三好の残党、それに本願寺や比叡山、足利義昭様、さらに朝廷や公家たちもが密かに動いていたらしいのじゃ・・それがどうじゃ、百韻連歌の前後、これらの連中が表立って動き始めたらしいのじゃ、うんばうんばば~・・・詳しくは分らぬが、殿下と言えば、その直属の機密に関わる重要な部署があり、お前の兄の横死した状況からして、その一つに兄が属していたのかもしれんな。山神(やまがみ)磐(いわ)虎(とら)、その時は武田何某(なにがし)と名乗っていたそうじゃが、お前は知っているかな?」
「いいえ、私は情報を集める部署におり、その方のお名前は一度も聞いた事は御座いません。ただ殿下が今言われた洛中での不穏な動きがあった事は、私の部署でも情報を集め知っておりました」
「そうかそうか、所で、この山神磐虎と元幕臣(室町幕府の)、後に殿下の臣下となった仮に西園寺(さいおんじ)輝(てる)定(さだ)としておくが、変の後、殿下に陰謀を企てた廉(かど)で斬首の刑に処せられた、と聞いたが、どうもお前の兄はその隊の一部署に所属しておったと思われる。磐虎はその隊の長、西園寺輝定を補佐する位置にあったと思うが、その時、これらの連中にうまく取り入り軍資金も出し、裏で何やらだいぶ前から工作を始めていたらしいのじゃ」
「と、言いますと?」
「その隊が変で重要な役割を果たしたらしい。どうも今迄の話から、お前の兄と山神磐虎は何か関係があったようじゃな。例えばじゃ、お前の話からしても、殿下はそれらの者共を上手く使い、光秀様を巧みに変に巻き込んだとも考えられる、うんばうんばば~」
「殿下が光秀様に策謀を仕掛けた!」
「そうじゃ、あの時思い付いたのではなく、前々から、周到な準備をし、その機会を狙っていたのじゃろう」
「そうしますと、広義な意味で殿下は光秀様ばかりでなく、変に関わった者らをも謀(たばか)ったのですね」
「その通りじゃ。・・武将なら人の下にではなく、一度は天下を握りたいと願うのが本音じゃろう。光秀様ばかりか、太閤殿下も心の奥深い所で、この野心を常に持っておられたのではないか、うんばうんばば~・・いつかは信長公を超えたい、これは、突き詰めれば謀反を起こしてもじゃ。じゃが、主君を打てば光秀様と同じ様に謀反人じゃ。・・・そこで、殿下は西園寺輝定や山神磐虎を表に立て、その行動隊を統括し、いざと言う時に、現場で指揮を執る影の人物、すなわち殿下直属の重臣、例えばじゃ・・黒田官兵衛様か蜂須賀正勝様等を予め配置し、前々から策を練り信長公暗殺の機会を狙っていたかもしれんのじゃ、うんばうんばば~」
太閤は何かを五右衛門に伝えたかったのか、具体的に黒田、蜂須賀の二人の重鎮の名を上げた。
「太閤殿下がそのような?誰かを表に立て、陰で?殿下、私はこのようなお話を聞くのは初めてですし、ましてや、そんな部署があった事など知りませんでした。・・・無論、兄は自分がそんな部署に所属している事等、私に一度も話した事は御座いません。矢張りそれに連座して私の兄は横死を遂げたのでございましょうか?」
「それはじゃな、お前の話からして、あくまでもわしの推測じゃが、お前の兄はあの変で重要な密命を帯び、後に、それが露見した場合、殿下に不都合な事が起こる立場にあったのじゃろう、うんばうんばば~」
「密命とは、例えば信長公を殺害するとか?ひょっとして、私が言っては何ですが、私の兄は若いにも関わらず剣の腕は相当なもので、変の後、俺はとんでもない事をした、と一度だけ口走りました」
「そうであれば迂闊には言えぬが、例えば抜け穴から外に脱出しようとした信長公を襲ったとか、山崎の戦いで敗れた光秀様が、坂本に落ち延びる際、その途中の小栗栖で待ち伏せし、殺害したとか、そんな事も有り得るな・・・そんうであれば、穿ち過ぎかもしれんが、お前の兄は秘密を知り過ぎた為、残りの四人の者が刺客として派遣され、それらの者共と斬り合いを演じ、深手を負い死んだのかもしれんな、どうじゃ」
「そう言えば、私が駆け付けますと、その辺りは竹の葉などが散乱し、太い竹の幹には深く斬り込んだ痕跡(あと)が所ありました。それに刀の刃もボロボロに欠け、死体の或る者は、肩の辺りの損傷が激しく片腕もありませんでした」
「成程な、その状況からしていかに死闘が激しかったかを物語っているな・・・惨い話じゃ」
太閤はいかにも寂しそうな眼差を五右衛門に向けた。
「それに先ほど言いそびれましたが、変の後、兄は部署の仲間が、密命を帯び次々に何処かに派遣されて行ったが、その者達は実は密かに抹(け)殺(さ)れていると仲間から耳打ちされた、と洩らしておりました。それから兄は、ひょっとしてそれは密命ではなく粛清ではないか、と考えるようになったようでございます。それを確証付けるように、兄に耳打ちしたその男もその直後姿をくらまし何処かに消えた、と言っておりました」
「言うまでも無く、それは明らかに粛清じゃ。わしも何やら不穏な空気を感じていたが、変に関わったであろう者達は、皆、殿下(秀吉)に謀反を企てた廉で斬首の刑や密かに消されたのじゃろう、うんばうんばば~」
「山神磐虎様も西園寺輝定様等、全員が謀反の罪で・・かなりの人数でございますね・・・」
「そうじゃ、十人や二十人ではないぞ、雑魚は密かに消され、主だった者は陰謀を企てた廉で断罪、即ち粛清じゃ、うんばうんばば~・・お前の兄もその内の一人かもしれんな、でへねへうんば~・・・そんな処遇には色々思惑があり、この山神や西園寺を密かに処分すれば、何やら本能寺の変で信長公に陰謀を仕掛けたと疑われるが、自分(羽柴秀吉)に謀反を企てた事にすれば、その時は少し波風が立つが、直ぐに収まると言うわけじゃ・・上手いやり方じゃ、でへねへうんば~・・・幸いわしは先に話したように殿下の影武者としての役割を果たしておったが、それら裏の者達とは無関係じゃった。もしそれらの者達と何らかの関わりがあれば、影武者のわしでも彼等と同じ運命を辿ったかもしれんな・・・そうであれば、先日のお前との再会はなかった訳じゃな、でへねへうんば~・・・くわばらくわばら・・・」
「何故そんな部署の存在を知ったのですか?」
「何故?何処でもあるじゃろう、臭い物に幾ら蓋をしても臭うじゃろう。・・それと同じ様に、殿下が天下を取ればその蓋も緩もう。緩んだ蓋から臭い(情報)が漏れてきたのじゃ。これも推測じゃが、山神磐虎や西園寺輝定達のそんな処分を見た彼等に近い者達が、機密を漏らしたかもしれんな、でへねへうんば~・・・それが殿下の側におれば自と聞こえてくるのじゃ、うんばうんばば~・・それはさて置き、天下を取りたい!長年影武者をつとめて来たわしにも、そんな殿下のお気持ちは良く分かるのじゃ、うんばうんばば~・・・もしもじゃ、わしが本物の殿下であっても、連歌の会での、あの句の行間に信長公に反旗を翻(ひるがえ)す決意らしきものを読み取れば、その計画を実行したかもしれん、例えこじつけでもな。・・・何せ、明智様は慎重なお方、あの句が決起の意図を含んでいなかったかもしれんが、そうでなくても、付け入られ易い句にちがいなかったからな、うんばうんばば~・・・明らかに、謎に満ちた百韻連歌の一連の句には明智様の決意と迷いが混在していたとわしは解釈する。・・・聞いた所によれば、明智様は亀山城から老ノ坂峠を下り、沓掛に来ても東(洛中)に行くのか、西(中国)へ行くのか決断がつかなんだ御様子じゃったそうな、でへねへうんば~・・・軍を分け閲兵の為と称し一隊を洛中に向けたが、まだ迷っておられたとか・・・じゃがこれは、共謀して変を起こそうとする者達と時間を合わせる為にとった行動と考えられる・・・」
太閤はその辺りから、一歩、踏み込んで陰謀説を話し始めた。
「所で、表立って流布されている本能寺の変とはどんなじゃった?」
太閤は妙な事を五右衛門に問うた。
「それは光秀様が、徳川様饗宴の接待で不手際を起こし、信長公より叱責され、自領である近江、丹波を召し上げられ、急遽(きゅうきょ)、殿下支援の為、中国に派兵を仰せ付かったが、日頃の信長公の対応に身の行く末を憂慮し、連歌会で暗に謀反の決意を示し、本能寺で信長公を討った」
「その後は・・」
「殿下が山崎の戦いで謀反人の明智様を破った…」
「正にこれは、殿が御伽衆の一人、大村(おおむら)由(ゆう)己(こ)に書かせた『惟(これ)任(とう)退治記(たいじき)』の筋立て通りじゃ・・しかしここには重大な誤りがあるとわしは思う。早い話歴史の改竄(かいざん)じゃ、うんばうんばば~」
太閤は五右衛門に本能寺の経緯を話させ、それには重大な誤りがあると指摘した。彼は何かもっと突っ込んだ事件の真相を知っているようだった。
「重大な誤り?歴史の改竄!」
五右衛門はギュッと掌に力をいれ膝の辺りを握った。
「そうじゃ、この話の筋立ては表だっての物、その裏には仕組まれた巧妙な筋立てがあったようじゃ、うんばうんばば~」
「巧妙な筋立てがあった?」
「先ほどから、皆が共謀し本能寺の変を起こしたといったが、話を進めれば、例えば殿下が最初明智様に謀を巡らせ謀反人に仕立て上げ、その謀反人を討つという筋立てじゃ、でへねへうんば~・・・そうすれば、自分の掌を汚さずとも天下を横取り出来るからじゃ。じゃが、そんな謀を仕組んだとしても、鍵を握っているのは明智様じゃ。つまり何時立つかは明智様の決断次第じゃ、うんばうんばば~・・・恐くなり止めてしまうかもしれんからな」
太閤は、秀吉の企みの一部を示唆した。

謎の茶会
「そうしますと明智様は、自らが謀反を決意したのではなく、謀反を起こすように仕向けられた。あの句でも、殿下の言われたように、明智様には迷いも有り、決起するかしないか微妙な表現で自分の心境を詠んだ?」
五右衛門はそれを聞き、首を傾けながら疑問を投げかけた。
「明智様は、決起するかしないか迷っておられたのは確かじゃが、もし決起するとしても、はっきりと自分の意志を表明すれば、露見した時、逆に自分が信長公に討たれる事になる、そこが微妙な所じゃな、うんばうんばば~・・・じゃが最後の決断は明智様が握っておられたのは間違いない。じゃから殿下を初め、変を企てた者達は、明智様の動静を見ながら、何時立つか時期が来るのをじっと待っておったのじゃろう」
「しかしそんな機会が何時到来するか分りませんね」
「そうじゃ、そこなのじゃ、そんな機会が何時到来するか予見するのは不可能じゃ、うんばうんばば~」
「あっ!もしかして!それで殿下は信長公に備中高松まで支援に来ていただくよう要請をした・・・まさか?」
五右衛門は太閤の言わんとする核心部分が分り始めた。
「そのまさかじゃよ、殿下は、安土城で信長公が五月十五日より、武田討伐に功労があった徳川様を接待されると言う情報をその数日前より得て、その時点で自分への支援を要請したのじゃ。・・時を同じく、明智様は宴での饗応の不手際を責められ、即日解任され居城坂本城に一旦帰られた。実はその支援要請は十三日ごろじゃったのじゃ。・・・しかもその時、殿下は信長公に自分支援の先陣は明智様を、と密かに要請されたわけじゃ。十七日、突然、明智様は饗応の不手際を責められ任を解かれ、殿下(秀吉)の支援に行け、などという命令が下され仰天されたのじゃろう。気位の高い明智様の事、格下の支援などもっての他と、腹の中は煮えくりかえっていたにちがいなかろう、うんばうんばば~・・じゃが調べて見ると、突然支援命令が出たと言うのは確かじゃが、饗応の不手際を責められたというのは後の作り話じゃとわしは思う。話が上手過ぎんか・・・」
「まさか、明智様を先陣として支援要請、それも明智様に決起するよう仕掛けたる為の罠・・・私には到底考えられません」
五右衛門は驚きのあまり太閤を凝視した。
「そうじゃ、わしには到底考えられんが、殿下の側に仕える黒幕はそこまで先を見越し、色々と人間心理を揺さぶるよう策謀を巡らしていたのじゃろう、うんばうんばば~・・」
太閤は、秀吉の指示で謀反を仕掛けた黒幕の存在を再び示唆した。
「もしそれが事実とすれば、そのお方は、なんという恐ろしいお方だったのでしょう」
五右衛門にとって、聞けば聞くほど信じがたい事柄ばかりだった。彼の顔は心なしか青ざめ、吐く一言、一言の言葉に自ずと力が籠っていた。太閤は、そんな彼の胸中をものともせず、高揚しているせいか、顔は僅かに赤味さえ帯び始めていた。
「明智様は二十六日に丹波亀山城に帰られ、出陣準備を整えられ、二十八日に例の西之坊威徳院で、いわゆる、決起表明したと言う愛宕百韻と呼ばれる連歌会を催されたわけじゃ。後で述べるが西之坊近くの上之坊(かみのぼう)大善院(だいぜんいん)では連歌の会のおよそ日時は不明じゃが一、二ヶ月前に、表向きは懇親会を兼ねた茶会が催され、そこで殿下ばかりか、信長公打倒のための密談がなされたらしいのじゃ」
太閤は、五右衛門が考えもしなかった上之坊大善院で茶会が催された事を暴露した。
「ええっ・・まさか・・・連歌会以前に上之坊大善院で茶会を装った懇親会、言ってみれば謀議の会が秘密裏に催され、そこで信長公打倒の為の密談が?、と言いますと、そこから既に謀略が始まっていた・・・私は諜報活動をしていましたが、そんな会があった事など今の今までしりませんでした」
「それはじゃ、秘密が漏れぬよう、お前達がそれに関し動かぬよう指令が出されていたからじゃろう。敵を欺く前に、まずは味方を欺く、これは昔からの常道じゃて、でへねへうんば~・・」
「そこで、穏健派で親王派の明智様をに?」
五右衛門は一歩踏み込んで訊ねた。
「まあそんな所じゃろうが、その場で何時決行するなどと、日時を決めれるはずもない、機が熟したらという曖昧な表現で会を閉じたのであろうよ」
「まさかそんな・・・所で、連歌会の首席は明智さまでございましたよね」
「確かにそうじゃ、明智様を主賓に迎え、首席として連歌会を開催するよう持ち掛けた者がいたのじゃ、いってみればこれも連歌会と言っておるが、送別会、言い換えれば決起の会と言った方が正しいのじゃ」
「ええっ、世に言う連歌会が送別会ならん決起の会、明智様が主催されたのでなく招待された、これは大陰謀ございますよね」
「先に名目上は茶会であったが、信長公打倒の為の連合会を愛宕上之坊大善院で結成、次に明智様に中国支援の派兵をさせるよう信長公に要請、準備が整い連歌会を愛宕西之坊威徳院で開催し、明智様の送別会とした」
「そのお立場から明智様が主客となり最初の句を発句・・・?」
「これは後で言い直すが、ある者達がある企てを巡らせ、明智様を招き、送別連歌会を開催しようとしたのじゃ、うんばうんばば~・・・送別会だけとすれば、知に長けた明智様は、わしらのように、飲み食いだけでは誘いには乗らんだろうと考え、威徳院住職行(ぎょう)祐(ゆう)様が亭主(主催者)となり百韻連歌の会に趣向を変え、明智様を主賓、主客として迎え、連歌会を行ったわけじゃ、うんばうんばば~・・・その会には連歌を詠む方々の他、公家や著名人までもが招待されていたそうじゃ。・・・百韻連歌は巳(み)の刻(こく)(午前十時ごろ)から開始じゃった。席には光秀様の他、明智光慶(みつよし)や東行(あずまぎょう)澄(ちょう)、それに里村紹巴、里村昌叱(しょうしつ)、里村心前(しんぜん)、加えて猪苗代家(いなわしろけ)の兼如(けんにょ)、さらに行祐様と亭主の宥源(ゆうげん)様達が連座した。

句の意味するもの
そこで、まず首席の明智様が、かの有名な句『ときは今 あめが下しる 五月哉』を発句された。・・この句は後に捻(ね)じ曲げられ、謀反を決意した句と言われているが果たしてどうかじゃ、うんばうんばば~・・素直に読めば、明智様は単に、威徳院の雨がしとしと降りしきる苔むした庭の池や松を眺め、この庭の情景を、なんとのううら悲しい自分の心のありように重ね合わせ、今自分も心の中でこの五月雨(さみだれ)が降るように涙を流している、と自分が立たされている悲運な境遇を詠んだ、とも解釈できるのじゃ、でへねへうんば~」
「単に悲運な自分の境遇を五月雨降る庭の情景に重ね合わせて詠んだ・・・」
「そうじゃ、このように解釈すれば、わしが先に話したように連歌の会は明智様が謀反を起こすよう仕掛けられたものであり、この句は他の者達の句により謀反の決意の句とされたのじゃが・・」
「じゃが?つまり、明智様は陰謀に嵌められたかどうか分らない、というのですね?」
「その判断は、うんぬ・・・ちょっと待つのじゃ、その棚の上に綴本(とじぼん)があるじゃろう。それを取ってくれんか」
太閤は五右衛門の背後にある棚を指差した。そこには太閤が言うように四、五冊綴本があり、その一つに、手垢に汚れた愛宕百韻全句集と記されてあった。
「愛宕百韻全句集のこれでございますよね」
手渡されると太閤は最初のページを開き解説を始めた。そこにはずらりと句が書かれてあり、太閤は二句目を指差した。
「この句じゃ、もしも陰謀に嵌められたとすれば、次のこの句はこう解釈せねばならんな、でへねへうんば~・・明智様の次に行祐様は、『水上(みずかみ)まさる 庭のなつ山』と脇句(わきく)を詠んだ。この句は前の明智様の句を受けたものじゃが、明智様が庭の情景を詠んだとすれば、それを受けたこの句も、庭にある築山(つきやま)の上流から流れ来る水は五月のころは水勢が強い、と解釈出来、これも庭の情景をただ詠んだ句で、何の事でもないのじゃ。・・・所が、これを深読みするとじゃ、水上まさる、水上は川の上流、つまり、まさるとは、位の上位、天皇様を示唆し、しかも庭は古くから天皇様を表すのじゃ・・・その天皇様の治める世を待つ、ここはなつやまは何も意味は無く、なつと待つを掛けてあるのじゃ・・この句は、こう解釈すれば、信長公の専横を断ち、天皇様の勢いが増すのを待つ、早い話、謀反を早く決行せよ、と解釈出来るのじゃ、うんばうんばば~・・・この句が、単に庭の情景を詠んだ句だとしても、私(わたくし)ごとの不遇な境遇に陥った悲哀などは脇に置き、上之坊大善院の茶会での企てを実行せよ、と暗に決起を促しているように思えんか、うんばうんばば~・・・そうでなくても、この句を明智様の句に並べると、明智様の句が、あたかも、謀反を決意したかのように変わってしまうのじゃ、うんばうんばば~」
「なるほど、そう読み解けば確かに明智様は嵌められた事になりますね」
「さらに、里村紹巴の第三句『花落つる 流れの末を せきとめて』の解釈として、これも五月雨(さみだれ)が降る今、あんなに花が沢山散っているのに、水に乗りどんどん流れ去り、折角の風情も失われてしまう、花が早く流れ去らないように、下流で水を堰き止めてくれ、と言う訳じゃ。この句も何の事もなかろう」
「そうでございます。単に庭の情景を詠んだ句でございますね」
「所がじゃ、これも花落つるは信長を追討し、その流れの末、その時世を堰き止めて終わらせよ、と隠喩を使い謀反を煽っておると解釈できるのじゃ。これは庭のなつ山よりもさらに過激じゃな、でへねへうんば~・・・それに紹巴の陰に義昭様の影がちらつき、この句の花落つるの花は、将軍の地位を追われ、権勢を無くした明智様と昵懇の義昭様(元亀四年信長により室町幕府滅亡、将軍の座から追放された)で、その悪い流れをせき止めて、復権させてくれ、つまり信長を討ってくれ、とも解釈出来るのじゃ。これは天皇様にも言え、権勢が落ちた天皇様の権威を、流れの末をせきとめて、つまり信長を討ち、回復してくれ、ともとれるのじゃ、早い話、謀反を早く起こせ、と急かしておるのじゃ、うんばうんばば~・・・これは連歌の作法から、『花落つる 流れの末を せきとめて  水上(みずかみ)まさる 庭のなつ山』となるのじゃが、これも先程の解釈から、信長を討ち、権勢が落ちた天皇様の権威を取り戻し、天皇様の勢いが増すのを待つ、じゃ・・この句も庭の風情を詠んだと言うよりも、明智様に決起を促しているとも解釈出来るのじゃ」
「ではこの二人も怪しい?」
「そうじゃ、明智様の『ときは今 あめが下しる 五月哉』をこれらの観点より解釈すると、ときには、明智様の出身地、土岐(とき)が掛けてあり、あめは雨ではなく天(あめ)、即ち、天下を意味し、下しるは、領(し)るすなわち天下を領(おさ)める、と解釈できるのじゃ、つまり、この句は、土岐出身の自分が五月の今天下を治める、早い話、謀反を起こし天下を取る、と解釈出来るからじゃ。後で紹巴は殿下に変への関与を疑われ、日記まで改竄(かいざん)し、実は明智様の句は、ときは今 あめが下しるではなく、下なる 五月哉・・・であり・・あめが下なる、即ち雨が降るであったと言い逃れをしておるのじゃ」
「連座を恐れての言い逃れ?」
「そうじゃろうな・・それはさておき、次に宥源様は、平句で『風に霞(かすみ)を 吹きおくる暮』と詠んだ。・・この句はそんな庭の夕暮れ時に霞がかかり、庭の景色がよう見えんので、風よ霞を吹き払ってくれ、と言うわけじゃ。これもまた夕暮れ時の庭の情景を、作者が想いを込め詠んだもので、なんの事も無いのじゃが、解釈によっては、明智様に風になり、何かと圧力を掛け天皇様の視界を遮(さえぎ)っている霞、即ち信長を吹き払って暮(くれ)、追討してくれと解釈出来、その意味はがらりと変わってしまうのじゃ、うんばうんばば~・・これも『花落つる 流れの末を せきとめて 風に霞(かすみ)を 吹きおくる暮』となり、先の解釈から、権勢が落ちた天皇様の権威を取り戻す為、明智様に風になり信長を追討してくれと謀反をけしかけている事になるのじゃ・・・これら三人以外の者達も句会で同じような句を発句(ほっく)したので、明智様の『ときは今 あめが下しる 五月哉』の句は、先にも言ったが明智様が五月雨の降る時節と、内面の心象(しんしょう)を重ね合わせ、現在の自分のあり様(よう)(立場)を表したであろうものとはまるで意味の違う、謀反を起こすのはこの五月の今だ、と謀反を決意したかのような意味にされてしまったのじゃ、うんばうんばば~・・つまりじゃ、明智様がただお独(ひと)りでこの句を詠まれたら、この句は単に五月雨が降る時節を詠んだ句と読み解かれるじゃろう・・」
「連歌ゆえ明智様以外の幾つかの句を重ねると、明智様が謀反を決意したように解釈出来る訳でございますね?何故、彼等がそんな句を・・・」
「何故、彼等がそんな句を詠んだと言いたいのじゃろう。例の茶会は何処で催された?」
「先ほど東之坊大善院とおっしゃられましたね・・・」
「そうじゃ、何と連歌会前の茶会には、公家、武将、その寺の住職、宥源様は言うまでもなく威徳院の行(ぎょう)祐(ゆう)様まで列席しておったのじゃ」
「その方々が、この百韻連歌にもこぞって列席・・・これではまるで連歌の会を装った決起の会合そのものではありませんか・・・」
思はず五右衛門は跳び上がった。
「そうとも言えるな。わしは最初こう推理した。明智様は最初これはただの送別会とばかり思い、この百韻連歌への招待を受けられた。そして、威徳院の庭を見ながらこの句を詠まれたが、自分の後に詠まれた三句を見て、即座に自分が抜き差しならぬ立場に置かれていると気付かれたと思ったのじゃ。じゃが、そうであろうとも決起するかは別じゃ。その後の明智様の優柔不断(ゆうじゅうふだん)な行動から見ても、そう推察出来るのじゃ、でへねへうんば~・・」
太閤はここで少し脇道に逸れ句会の外での出来事に言及した。
「話は少しそれるが、わしが変の後得た情報によれば、明智様が発句され、他の八名の者達も発句し始め、しばらくすると、その動静を監視していた者は、直ちに京にいた者達を招集し、しかるべき準備を始めたらしいのじゃ、でへねへうんば~」
「その者達の中には、言うまでも無く殿下の配下の者もいたわけでございますよね」
「そうじゃ、句会の日取りが決まると共に、姫路の城と備中高松の陣中にしかるべき者が早馬を走らせたたのじゃ。そこで姫路では、予てから準備していた一団を何組にも分け、それを統括する、予め待機していた重臣と共に早馬で京に向け駆け付けたのじゃ。それで、時至るのをじっと待っておったのじゃろうな、でへねへうんば~」
じゃろうな、と推測的な言い方であったが、太閤は秀吉の積極的な変への関与を、真偽はともかく、一歩踏み込んで語り始めた。
「変が失敗し、何故、早馬の一隊を京まで差し向けたか、と後で信長公より糾弾(きゅうだん)されたら?」
五右衛門も何処かで聞いたような台詞で矢次速に質問する。
「それはそれ、信長公一行を出迎えるため予め各所に警備の為の兵を派遣した、と答えればよい」
「中々巧妙でございますね。所で、話を元に戻し光秀様が出陣前で多忙だと句会(送別会)など断り、心の隙(すき)を見せなかったら?」
さらに五右衛門は太閤に疑問を投げかけた。
「と、言うと?」
「彼等は決起したでしょうか?」
「彼等とて、無謀な事はやらんかったじゃろう。じゃがな、光秀様は義理堅いお方、送別会への出席を必ず承諾すると確信しておったであろうよ。わしじゃったら、連歌の会などせず、酒宴の席を設けてもらい、若き芸妓などを側に侍(はべ)らせ、酒など酌み交わし、これここにある饅頭などを食らうて談笑したじゃろう、はっはっは~・・・知に優れた明智様のこと故、送別会を連歌の会とすれば出席を拒めず、あの疑惑に満ちた句を発句されたのじゃ、うんばうんばば~・・・」
太閤はそう言い終わると、湯を鉄瓶から急須に汲み、湯呑みに注ぎ終えると、棚から饅頭の詰まった器を取り出し五右衛門に勧め、自分も茶をすすりながら美味そうにぱくついた。

この句こそ謀反の決意
「連歌の会が光秀様を送る送別会、これはありえますよね。殿下が今言われた、明智様は自分が発句した後、次々発句された句により、自分が嵌められたと直ぐに感づかれた?」
次第に五右衛門も、陰謀説に傾きかけていった。
「そうとも言えるな、でへねへうんば~・・・
その解釈からすれば明智様は、連歌の会で嵌められた事になるのじゃが、ここに一つ問題があるのじゃ、うんばうんばば~」
「一つ問題?」
太閤は綴本のページを捲り一句を指差した。 
「そうじゃ、この明智様の最後の句『縄手の行衛 ただちとはしれ』をどう解釈するかじゃ、でへねへうんば~・・これは前の『はるばると 里の前田を 植(う)ゑわたし』の宥源様の句を受けているのじゃが、この句はのんびりとした山里の前面に拡がる一面の田に苗を植え終えた、言ってみれば田植えが終わったのどかな田園風景を詠んだ句じゃ。・・所がこれも深読みすると、田植えが完了した、即ち謀反の準備ができた、さあ明智様どうなさる、と明智様の決意のほどを探っているようにも解釈出来るのじゃ。すかさず明智様は、『縄手(なわて)の行(ゆく)衛(え) ただちとはしれ』と詠んで返すのじゃが、縄手(なわて)=畦道(あぜみち)、行(ゆ)衛(くえ)=行方、ただちとはしれ=すぐわかる、と解釈すれば、田植えの終わった畦(あぜ)は何処までもよく見渡せる、となりこれも全く何でもない田植えの終わった長閑(のどか)な田園風景を詠んだ平凡極まりない句じゃ、うんばうんばば~・・じゃがこの句は、いかにも平凡その物じゃが、時は今・・・の最初の句より、重要な意味が隠されておるのじゃ」
「重要な意味が隠されている、この句が他のどの句よりも重要?」
「そうじゃ、縄手とか行衛、それにただちとはしれは、如何にも暗示に富んでおらんか。・・これらの漢字の字面(じづら)からしても、今まで以上に、明智様の強い決意が読み取れるのじゃ。・・この縄手じゃが、逆にすれば手縄、手に縄、縄を持つ者と解釈出来、何か捕り方のようにも解釈出来る、しかも、行方(ゆくえ)にわざわざ行衛などという当て字を当てているのは、何か作為的な意図の強さが感じられるのじゃ」
「作為的な意図の強さ?」
「そうじゃ、衛は考えて見れば守るとか防ぐという警護の意味があるじゃろう、例えば衛士(えいし)は宮廷の門を守る兵士じゃ。そこで行衛は、衛を行う者=警護人と解釈出来、縄手の行衛は、即ち罪人を縄で捕える警護人、つまり、この世の秩序を乱す者を捕える者、追討者になるわけじゃ」
「成程、言われて見ればそんな気もしますね。追討されるのは信長公ですね?」
「そうじゃ、それにただちとはしれは、わかるではなく、ただちと走れ、すなわち追討の準備にすぐさま取り掛かれ、と解釈できるのじゃ」
「つまり、信長公追討の準備にすぐにかかれ、と言う訳ですね」
「そうじゃ、天皇様を頂点とするこの世の秩序を乱し、専横を繰り返す織田信長の追討の準備にただちにかかれ、という訳じゃ、これは自分にも言い聞かせておるし、茶会で連合した者達にも呼び掛けているのじゃ。つまりじゃ、『ときは今 あめが下しる 五月哉 縄手の行衛
ただちとはしれ』と連ねて見ると、決起するのは五月の今だ、専横を繰り返す織田信長公追討の準備にただちにかかれ、となり陰謀に嵌められたのではなく、明智様自身がいつの間にか積極的に皆に決起を促す狼煙(のろし)を上げたのじゃ」
「なんと!これはまるで・・・」
五右衛門は動転した。
「そうじゃ、これではまるでなのじゃ、うんばうんばば~。しかも言いそびれておたが、このあめじゃが、実はこのあめは、天とも書け、即ち天皇を意味し、先にも言ったがしるは領めると解釈すれば、これら二つの句を連ねると、その意味は、五月の今こそ天皇の領(おさ)める世を、専横者、信長を討ち果たし取り戻すべく、追討者達よ直ちに準備せよ、と朝廷の変への深い関与をも暗示しておるのじゃ・・しかもじゃ、次に昌叱様は『いさむれば いさむるままの 馬の上 』と詠んだ。もしも『縄手の行衛 ただちとはしれ』が田植えの終わった長閑な田園風景を詠んだ句とすれば、いさむとか馬の上とか如何にも不自然ではないか。いさむは二つの意味が読み取れる、ひとつの解釈としては諌むであり、もう一つは勇むと取れる。諌むであれば、すでに貴方は信長公追討の馬上にあるのですから、そんなに勇んでは事は成就しませんよと諌めている。一方、その意味が勇むであれば、いさむを繰り返す事で、その意味を強調していると取れる」
「さあ勇んで、そのまま追討の馬を走らせましょう、と言う訳ですね。これらの句から見ても、正に、明智様の行動が、受身的ではなく、能動的にがらりと変わる。しかも、こう解釈すれば謀反は明智様一人の意向や野望ではなく、言ってみれば、朝廷の意向もあったのですね」
「そうじゃ、明智様一人の意向や野望ではないのじゃ。句会の冒頭で決意を表明、最後の句で、皆決起の準備をせよと狼煙を上げたわけじゃ。それに今の昌叱様の句からも察せられるが、皆グルになって謀反を企んでいたと、受け取れるのじゃ・・つまり明智様は、句会の最初から皆で信長公を追討する、謀反を起こすのは今だと決めており、その場に参列していた者達も同じ気持ちじゃったのじゃろう」
「何と!これは妙な事になりましたね」
「そうなのじゃ。連歌の会で明智様の詠まれた句に、他の者達が句を添た事で謀反に引き込もうとした、と初めわしは言ったが、明智様は句会に招待されたその時点で、連歌を詠む者達の顔ぶれから、この百韻連歌がどんな意味をもつ会か見抜いてしまわれていたのじゃ。そこで明智様は、句会の前から、『ときは今・・・』の句を既に考えられていて句会で発句されたと、考えられるのじゃ。案の定、行祐様は、『水上まさる 庭のなつ山』と脇句を詠んだ。その句を見た時、明智様は矢張りそうかと確信されわけじゃ。この句は何気なく庭の情景を詠んだように見せかけてあるものの、その文脈には例の茶会で盟約した事柄が、暗喩されていたのじゃ・・・確かに連歌会は仕組まれたものであったが、明智様はそれを逆に利用し、わしも茶会での盟約通り謀反を決意している、お前達も準備せよ、と『縄手の行衛 ただちとはしれ』と宣言されたのじゃ」
「なるほど・・・しかし何故こんなにもこれらの句は暗喩や隠喩で粉飾せねばならないのでしょう」
五右衛門は話を聞いているいる内に少し酔が回ってきた。太閤も酒が潤滑油になり連歌の句を立て板に水の勢いで解釈した。

謀反の確固とした証拠
「それは皆もそうじゃが、明智様の用心深い性格からじゃよ、露見しても言い逃れできるよう粉飾してあるのじゃ。句の解釈は人それぞれで、それをどう解くかでその意味がまるで違ってしまうのじゃ・・万が一、露見しても、どうとでも受け取れるよう明智様どころか皆の句も細心の注意がほどこされているわけじゃ、でへねへうんば~・・所で、そんな回りくどい句の解釈をしなくとも、明智様が謀反を決意していた確固とした証拠はこれではないか・・・」
「決意した確固とした証拠?」
「つまりじゃ、愛宕百韻連歌に先立つ前日、明智様は愛宕権現に戦勝祈願に参拝、太郎坊の神前で、御神籤(おみくじ)を三度引いたと言われているが、この愛宕権現に参拝し、御神籤を引いた行為こそ、謀反を決意した確固たる証拠とみた。愛宕権現は戦勝の神、御神籤を引いて、謀反を起こそうとする自分の運勢を占ったのじゃ」
「愛宕権現に参拝し御神籤を引いた行為こそが変の謎を解く鍵?つまり、明智様は百韻連歌に臨まれる前に既に決意・・しかし、御神籤を引いたのは高松での戦勝祈願では?」
「高松での戦勝祈願・・馬鹿な、言い逃れは出来るが論外じゃ、うんばうんばば~・・・その根拠は次の句じゃ」
太閤は確信的に断言した。
「・・・・・・」
五右衛門は固唾(かたず)を呑み、次の言葉を待った。
「戦勝祈願であれば、御神籤など引くはずがない、うんばうんばば~・・御神籤を引いたのは、謀反の決意はしていたものの、まだ心の片隅に迷いがあったからじゃ。その迷いは明智様のこの句、『旅なるを けふはあすはの 神もしれ』に出ておるじゃろう。その時の明智様の胸中は、突然、近江、丹波の領地を召し上げられ、殿下(秀吉)を支援に行く、今日や明日をもしれん自分の不遇な境遇を顧(かんが)み、まだそれでも謀反を決意したのが正しいかどうか迷っておられた、そんな心境が、・・・神もしれ、と詠ましたのであろうよ。この迷いが最後の最後まで心の中で糸を引き、沓掛で東(京)へ行くか西(中国)へ行くか、ほんの片時躊躇させ、出遅れたのかももしれん、うんばうんばば~・・」
「成程おっしゃる通りです。そうしますと、この句が詠まれていなけば、明智様は何の迷いも無く老ノ坂峠を下り沓掛から桂川を渡り、洛中に向かった?」
「そうじゃろう、この場合、茶会で同盟をなした者達はどう動いたじゃろうな、うんばうんばば~」
「・・・・・・・?」
明智光秀が本能寺の変にどう関与したかを、太閤が連歌の句から謎解きをしたが、それはまるで河が蛇行して流れるようだった。
「句会は仕組まれたものであっても、明智様は嵌められたのではなく、全部承知の上で句を詠んだ。早い話し、句会は決起の意志統合の場・・成程、筋立ては単純ではありませんね。」
「わしもそう思う。・・・話は変わるが、わしが不思議に思うのは、何故あんなにも信長公の警護の人数が少なかったか理解出来んのじゃ?」
昔から言われている様に、句会は決起の意志統合の場と認め、太閤はそれまでの話を打ち切り、五右衛門に酒を勧め自分もぐいと飲み干し話題を変えた。それから明智光秀が本能寺の変を起こす背景を語り始めた。
「言われているのが、警護の数はわずか百名程、これは不可解でございますよね」
「そうじゃ、わずか百名程じゃったと聞く、うんばうんばば~・・如何にも襲ってくれといわんばかりじゃ・・・未だにその謎は解けん!・・いくら各地に武将達を派遣していて、警護の兵が不足していても、これはどう考えても不可解なのじゃ。単純に考えれば、その原因は信長公の慢心だったに違いない、うんばうんばば~・・・ここで警護の兵が千でも二千でもおってみい、抗戦は長引き京に分散していた兵が駆け参じ、信長公も逃げおおせたじゃろうに、うんばうんばば~・・護衛の数が少なかった主因は、三方ヶ原、長篠の戦以来、織田、徳川両家の天敵とも言える東の武田家を天目山の裾野の集落近くで滅亡に追い込み、長年の胸の支えもとれ、心の片隅に大きな空白が生じたのかもしれんな、でへねへうんば~・・それにこれも長年自分の脅威となって来た西の毛利を討てば天下は自分の物になる、そんな気持ちであられたのかも・・・」
「そこに付け入られる隙が出来たのでございますね。何か武田勝頼様を思い起こさせ、因果めいたものを感じさせますね。それにしてもこの謎解きは、人間の思惑と偶然が複雑に絡み合い、読み解くのは不可能でございますよね」
「そうじゃ、じゃが、この変の根本には先にも句の解釈で示唆したが、朝廷の意向が大きく働いていたのは確かじゃな。その意向が無ければ変は起こらなかったじゃろう、うんばうんばば~」
ここで太閤は朝廷も関わる陰謀説を紐解いた。
「朝廷と言えば、まさか天皇様が?」
「そうじゃ、これは公然の秘密じゃが、わしは確信をもっておる」
「その確信とは?例えば、天皇様より信長公を追討せよと命令する宣旨(命令書)が出されたとか?」
「そうじゃ、丁度そのころ、信長公の三職推任なども絡んでおった」
「それはどんな事でしょうか」
「これが中々厄介(やっかい)な問題でな、朝廷が信長公に提案したのか、信長公が要求したのか、信長公亡き後不明じゃが」
「と言いますと」
「つまりじゃ、三職の内、既に太政大臣は近衛前久様が就いておられた。関白と言えば公家の最高権威であり、武士である信長公はその役職には就けない・・しかも京都から信長公に追放され、名ばかりとは言え征夷大将軍は義昭さまが就いておられた。まあ殿下は権力を嵩(かさ)に金を積んで関白になられたのじゃが、うんばうんばば~」
「なるほど、複雑ですね・・」
「それにじゃ、京都(きょうと)御馬(おうま)揃(ぞろ)えでも天皇様や公家方をあからさまに恫喝し、正親町天皇にも退位し誠(さね)仁(ひと)親王(しんのう)に位を譲るよう圧力をかけておった。そんな事もあり、宣旨が出され光秀様もきっとこの連合に加わったのじゃ、でへねへうんば~」
「それにじゃ、公家が関わっていたと思われるのは、聞いた話では、変の後、その誠仁親王様がじゃ、公家達を自分の館に招き大祝宴会を催したそうじゃ」
「なるほど、喪に服すはずが祝宴会。それでどんな方々と?」
「それはじゃ、勧(かん)修寺(じゅうじ)晴(はる)豊(とよ)様等じゃ」
「しかし、聞く所によれば晴豊様の父君・近衛前久様と信長公とはちょくちょく鷹狩(たかがり)などに出掛けられ、昵懇の間柄ではなかたのですか」
「それはそうじゃが、信長公は変の前、本能寺を訪れた晴豊様に前々から求めていた改暦(宣(せん)明(みょう)暦から三島暦へ)を再度強く求めたそうじゃ」
「改暦を!」
「それに年号までもじゃ。この二つは国の根幹にかかわる朝廷の神聖な権限じゃ、でへねへうんば~・・威信を保つ重要な権利じゃ、それを信長公は奪おうとしたのじゃ、うんばうんばば~」
「そうしますと、あの元(げん)亀(き)(義昭が朝廷に奏請し改元)から天(てん)正(しょう)への年号も信長公が強要?」
「そうらしいのじゃ、上洛直後は朝廷と信長公は、内裏の修復、二条御所造営などをして、金銭的にも膨大な援助をしておったが、時が経てば経つほど専横がまし、焼けてしまったが安土城内には自分を御神体(ごしんたい)とする神社まで造営し、自らの誕生日を聖(せい)日(じつ)と定め、参拝、礼拝するよう命じておられたそうじゃ。この行為は天皇の存在自体を否定するものであり、ゆくゆく自分が天皇様に成り替わり、この国を支配するつもりでおられたと考えられるのじゃ。しかも、城内には御所風の建物まで造営され、そこへ天皇様をお移しするつもりじゃったそうじゃ、うんばうんばば~」 
「城内に自らを御神体とする神社を建立、しかも、御所風の建物まで造営し天皇様をお移し・・・それでは天皇様はまるで籠の鳥、なんたる専横!なるほどそんな緊張関係に陥っていたならば、宣旨を出されても不思議ではございませんね」
「そうじゃ、それと共に他の者達もこの連合の盟主に、明智様を推したのは、信長公の様に、天皇様をないがしろにせず、旧支配体制を重んずるお方じゃったからじゃ。・・・それ故、信長公に変え明智様を立て、この国を治めさせれば、この国(天皇を頂点とした)は安泰、しかも、例えば足利義昭様もまた将軍の地位に復帰出来ると考えたのじゃろう、うんばうんばば~」
「そうかもしれませんね」
「さらにじゃ、例えば、本願寺派も長島(一向一揆)等の復讐を遂げれるし、皆それぞれ己の思惑の内で行動していたわけじゃな。言ってみれば、人間のどす黒い欲望がどろどろ溶け合い、渦巻いていたわけじゃ、うんばうんばば~」
「欲望がどろどろと、何と業の深い・・・」
「どろどろとじゃぞ、何とも悍(おぞま)しい!」
「しかし、ただ明智様を旧体制維持者と言うだけで、その計画に引き入れたのでございましょうか?」
「それはじゃ、そのころ、日頃から信長公といざこざがあった光秀様が自分達と手を組むと思っていたからじゃ。・・・しかも、ここが肝心じゃが、光秀様はこの計画を実行出来る軍勢を持っておったのじゃ!」
「軍勢を持っておられた、これこそ肝心(かんじん)要(かなめ)でございますね・・・所で、そのまとめ役をかって出たのはあのお方で!」
「そうじゃ、そうであれば、わしが推測するに、殿下が食えぬ男といわれた足利義昭様じゃ。じゃが、このお方は単なる使い走りじゃったろう。なにせ、弁は立つが金も無く、まとまった兵もおらん、名ばかりの元貧乏将軍じゃ、でへねへうんば~・・・変を仕掛けた黒幕は、かつて、信長公打倒の御内書を乱発した義昭様に働きかけ、もしも、明智様が土壇場で謀反を躊躇しても、自分達が集めた一団で明智様の部隊が否応なく参戦するように仕組み、明智様が駆け付けた直後から次第にいなくなり、明智様だけが変を起こしたように装わせたのじゃろう、うんばうんばば~」

秀吉皆を嵌める
「殿下の先の話ですと、明智様は自分一人が、表に立つのでは無く、これら謀議をした者達と信長公に反旗を翻し、共に最後まで戦うつもりでいたのでございますよね。それが、いつの間にか、自分お一人が変を仕掛けたようにされた。そう言われて見れば、私の目前から潮が引くように兵の一団が去って行くのを見ました」
「そうじゃろう、それこそが謀反をしかけた者達じゃ。ここが肝心じゃが、その中には殿下(羽柴)の軍勢も紛れこんでいたじゃろう。その者達が各所に別れ、明智様が躊躇しても参戦するように仕向け、明智様が参戦すると、直ぐに現場を去ったのじゃ、うんばうんばば~」
「これは明智様にとって大誤算でございますよね。茶会で陰謀を企んだ者達と変を仕掛けるつもりが、自分お一人になられてしまった。・・では、陰で糸を引いていた者達は、明智様に天下を取らせるのではなく、その当時の、殿下(羽柴)に天下を握らせたかったのでしょうか」
「論外じゃ、穏健派の明智様に天下を取らせたかったのじゃ、殿下には軍資金と兵の一部を期待したのじゃ」
「それなのに何故殿下が天下を?」
「そこが殿下の狡猾な所じゃて。陰で義昭様に或る公家を通じ働きかけ、茶会での盟約に反し、明智様があたかも変のただ一人の主人公のように装わせたのじゃ。・・・例えば義昭様じゃが策略には長けていたが、都での評判はよくない、下手な事をすれば天皇様の御名にも傷が付く、明智様以外の者達には黒子に徹するよう、茶会の後、密かに説得したのじゃろう。ここが肝心じゃが、その当時の情勢からすれば、殿下が変の後、明智様を討つなど、盟約に名を連ねた者達は、誰も想像さえしなかったじゃろう、でへねへうんば~・・何しろ殿下は、備中高松で城攻めの真最中じゃったからな。殿下はそれを見越し、明智様に一度天下を握らせ、その後、謀反人に仕立て上げ、山崎の戦いであたかも逆臣を誅(ちゅう)殺(さつ)するかのように装ったのじゃ。・・明智様を初め、朝廷や公家、義昭様など信長公追討で連帯した者達は殿下に嵌められたのよ」
太閤の顔に何ともいえない苦渋の表情が浮んでいた。
「私は句会で狭義な意味で明智様が嵌められたとか、嵌められなかったとか解釈していましたが、嵌められたと言うのは、広義(こうぎ)な意味で、明智様ばかりか謀反を企んだ者達皆が嵌められたのですね!殿下は、盟約を反古にし、逆臣の汚名を明智様になすりつけ、天下盗りに動いたのですね・・・」
五右衛門は太閤の胸の内を代弁した。
「そうじゃ、悪い言葉で言えば、掠(かす)め取ったのじゃ、でへねへうんば~」
そこで太閤は一旦話を止め、その当時流布した噂に話題を変えた。
「話の本筋はそんな所じゃが、そう言えば変の後、燃え盛る火の中、信長公は手傷を負って生きていたが、何処かに運び去られたとか。本能寺には、抜穴があったとか。噂はさまざまじゃったな、でへねへうんば~・・・・ひょっとすると、明智様が本能寺に駆け付けて来た時、信長公はすでに深手を負い、その抜け穴とやらからどこぞに運ばれ、殺されていたかもしれんな、うんばうんばば~」
「そうかも知れません、兄の信秋が失踪するまで、それは単なる何時も出回るただの噂なのだと、聞き流していました。しかし、兄が横死(おうし)にあってから考えがガラリと変わりました。殿下の寝所に行かされた時も、何か殿下の口からその時の真相の一端でも聞きだせるかと密かに期待していましたが無駄でした」
二人は歴史を揺るがすようなとんでもない事を話していた。
「そうじゃったそうじゃった、そんな噂が京の都を駆け巡ったな、しかも、本能寺の変の陰の首謀者は羽柴秀吉だとか。その根拠として、謀反を企み周到に準備していなければ、五日で備中高松から陣を引き払い姫路城に、残る五日で三万あまりもの軍勢が、姫路から摂津、山城の境の山崎までの総計五十里(約200キロ)の道程を、わずか十日で走破出来るはずがない、と言うのじゃったな・・・」
「これこそが、明智様や茶会で盟約を結んだ者達も全く予想していなかった出来事でございますよね」
「そうじゃ、まあこのいわゆる、殿下の中国大返しは、最初に明智様を変に引きこむ為、本能寺を襲った者達や明智様ご本人も全く予想外で、完全に計画が狂ったのじゃ。明智様は最初、高山(たかやま)右近(うこん)様や細川(ほそかわ)藤(ふじ)孝(たか)様(息子・忠興は光秀の娘婿)、それに筒井順慶様に援軍を頼んだが、あれこれ理由をつけられ体よく断られ、孤軍奮闘したが殿下に敗れたわけじゃ。・・・わしも最初は、明智様が変を起こした張本人じゃと信じていたが、いつの間にか逆賊にされ、殿下が主役に躍り出た、これには驚かされた。・・所で、わしが殿下に嫌疑を掛けたのは、信長公の酒宴や茶会の前から、殿下より、京で不測の事態が起こるかもしれん、準備をしておけという命令が下ったのじゃ・・わしはどんな不測の事態かと訝(いぶか)っておると、二日の本能寺の変じゃ、うんばうんばば~・・・・つまる所、殿下は本能寺の変が起こるだろう事を、六月四日、備中高松城主清水宗治に切腹させ、陣を畳み、大返しをする以前から知っていたわけじゃ、うんばうんばば~・・補足すればじゃ、四国大返しで秀吉軍が短期間で摂津の山崎まで帰り着いたといわれているが、それには仕掛けがあるのじゃ。つまり、わしが殿下に成り代わり、変の前先駆けしてきた軍勢と共に山崎近くに移動し布陣の用意をしておったのじゃ、でへねへうんば~・・・」
「四国大返しにはそんな仕掛けがあったのですね!これは驚きです」
「表向き、この軍勢は、信長公を沿道で警護する為に派遣されたのじゃ・・じゃが、信長公亡き後、直ぐに山崎辺りに布陣したが、考えて見れば、この軍勢は 警護が目的で無く、初めから明智軍を念頭に置き、配置されたものじゃったな、うんばうんばば~・・」
「つまり、変とその後の軍事行動は、前もって計画された行動だったのですね?」
「そうじゃ、わしは自分では重要な任務にあたっていると気負っていたが、単なる案山子(かかし)じゃったのじゃ、でへねへうんば~・・まんまと一杯食わされたのじゃ、うんばうんばば~・・それでもその時は、偶然、派遣されてきた軍勢が、明智軍を追討するために、再編されたと思っていたのじゃ、うんばうんばば~・・お目出度い事に、わしは殿下が本能寺の変を策したなど露とも知らずじゃ・・・ごほごほ~」
太閤は無意識に咳払いをした。
「所で殿下、殿下のお話から太閤殿下が、いかにして本能寺の変に関わったか、大方理解出来ました。初めにお話ししたように、変の時、私も本能寺の辺りにいました。しかし、今殿下とお話ししている内に、とんでもない事を思い出したのでございます」
「とんでもない事を?どんなじゃ?」
太閤の瞳がきらりと輝き、耳がぴくりと動いた。
「本能寺に通じる路地で見張っている時、大勢の不審な一隊を目撃いたしました。その指揮を執っていた人物は覆面姿でしたが、私の見間違いでなければ、殿下の昔からの重臣のお一人に姿形が似ていたのでございます。それを私の上役の服部源之助様に申し上げますと、ここだけの話にしろ、もしその事を他の者に洩らせば、お前もわしも命は無いと、堅く口止めされたのでござおます。所で、このお方も信長公を沿道で警護する為に派遣された部隊に紛れ込んでいたのでしょか?」
「そうじゃろう、その部隊も本能寺で事をなし、その後、密かに先発隊に合流したのじゃ・・しかも、わしが本陣におることで、秀吉軍が、備中高松より山崎まで、如何にも早く辿り着いたように見せたのじゃ、うんばうんばば~・・・そのことで、殿下の本隊は余裕を持って戦に備えることが出来たのじゃ・・・これが中国大返しの絡繰なのじゃ・・・」
何故か、太閤は五右衛門が言及した覆面姿の人物に関して何も話さなかった。                  


 終 章

     利休乱心・光成大芝居を打つ


利休大暴発
ここで太閤は、木箱から一つの曰(いわ)くありげな茶碗を取り出した。
「その茶碗は?」
五右衛門はそれを食い入るように見詰めた。
太閤がその茶碗を取り出したのは、何か意図があると直感したからであった。
「この茶碗は、わしの唯一の家宝、利休様よりいただいた志野(しの)楽(らく)茶碗(ぢゃわん)じゃよ、でへねへうんば~」
太閤はそろりそろりとそれを掌のなかで回しながら微笑みかけた。
「利休様より贈呈されたお茶碗・・」
心なしか五右衛門の声も弾んでいた。
茶碗を取り出したのは、太閤がそれを自慢するために取り出したのではないことは、次の言葉から明らかだった。
ここで彼は、思いもかけぬ、本能寺の変にかかわる利休成敗の真相を暴露し始めた。
「所で、わしはわしで何故利休様が殿下より、切腹を仰せつかったかの本当の理由らしきことを知っているのじゃ、うんばうんばば~・・」
「切腹の主な理由は、唐入りを批判されたことですよね」
「世間ではそう言われているが、わしが調べた所、もっともっと深い所にその根があるのじゃ」
「もっともっと深い所にその根がある?」
「そうじゃ、うんばうんばば~・・結論から先に言えば、本能寺の変こそ、利休様成敗に大きく関わっていたのじゃ。・・・」
「ええっ~まさかそんな事が・・・一体それは?」
「つまりじゃ、利休様は、唐入りを諌めようと、殿下が本能寺の変を企んだ一味であり、しかも明智様を逆臣に仕立て上げ、天下を乗っ取った証拠の品の存在を示唆されたのじゃ、うんばうんばば~・・ある種の恫喝にも等しいやり方でじゃ」
「ええっ~ある種の恫喝!そうであれば、利休様も本能寺の変に関わりが?」
「そうじゃ、あの上之坊大善院での茶会の名目上の亭主は利休様じゃった」
はたまた話がややこしくなり始めた。
「矢張り、懇親会(こんしんかい)が茶会であったならば、当然考えられますよね。それでどのようにして利休様は殿下を恫喝したのでございますか。まさか殿下に面と向かい、明智様は主家(しゅけ)殺(ごろ)しの逆臣ではない、殿下が天下を乗っ取った・・・殿下こそ逆臣であると直接糾弾(きゅうだん)したのでございますか・・・!」
五右衛門は驚きのあまり跳び上がった。
「的を射ておる」
「的を射ておる!まさかそんな・・・」
五右衛門は度肝を抜かれた。
「じゃがまあそう急くな、まずはこうじゃ。でへねへうんば~・・・利休様は、殿下のやり方に完全に怒頭(どたま)にきてこう言ったのじゃ・・」
太閤は事の重大さに比べ冷静に話し始めた。
「完全に怒頭にきて!一体どどううして?どどののよよううに・・に・・・・おっしゃったのでございますか?」
五右衛門はあまりのことに気が動転し吃(ども)った。太閤はこんなやり取りが、利休の二畳ほどの待庵の中で有ったかのように語り始めた。それは利休が太閤から切腹を命じられたほんの少し前の出来事だった。
太閤の話を聞こう。
「切腹を仰せつかる十日程前じゃったかな、殿下は利休様の元に明日待庵を訪れると使いの者をやったのじゃ。次の朝、殿下は庵を訪れ、茶を楽しんでおられた。・・しばらくの間、静謐な雰囲気が茶室内を支配していたが、利休様のこの一言からそれは一変、険悪なものに変わったのじゃ・・・」
「なあ殿下、私(わて)は一言殿下に言いたい事がおますのや」
利休は茶を立てていた手を止めた。
「なんじゃ利休、急に?」
じろりと太閤は利休を見た。
「私はな・・どないにも我慢出来んことがおますのや」
「なんじゃその我慢出来んこととは?」
「いつぞや私が朝顔の花が美しいので、どうか殿下、私の庵にお越しください、とお招きしたことがおましたな」
利休は感情を押し殺し、冷静さを装っていた。
「そんなことがあったかな?」
太閤は一瞬とまどい、とぼけたような返事を返した。
「そこで私は私の茶道の真髄を殿下にお見せしようと、庵に続く路地の朝顔を皆摘んで、室(むろ)床(どこ)の壁に掛けた竹花活に一輪だけ朝顔を活けて殿下をお待ちしました。所が、殿下はその場は分った振りをして、おおっ~、これが全ての無駄を省き、自然を模した侘と寂を体現したものか、とえろう感嘆されたご様子でおましたな・・・そこまではよろしい、私(わて)は許します。・・・その数週間後でおました・・殿下から明日の早朝に金色(こんじき)庵(あん)に来い、花も奇麗に咲いておる、と御招待を受けましたので、殿下の御招き、他の用事を全部断り、いそいそと茶室に向かいましたがな。・・・・その茶室は私が間取りなどを段取りした物、今の季節さぞ部屋全体が金色(こんじき)に輝き、美しいやろう、どないな花が活けてあるのやろう、と胸をときめかせながら足を速めました。所が、金色庵に続く路地には、私の真似をしたのか花一つ咲いておりませなんだ・・ああやっぱし私のまねや、とその時思いましたがな・・まあそれはよろしゅおます・・それにしても、どないな花が活けてあるのやろう、と心の片隅で期待しておりましたがな・・・朝日に金色に照り輝く庵に、心躍らせながら近付き、いそいそと金泊張りの躙口を開けてびっくり仰天しましたがな!期待した私が馬鹿やった・・・奇(き)を衒(てら)うちゅうどころではおまへん・・・・あ~なんたるこっちゃ、部屋の壁一面に、花が貼り付けたように活けてある。その有様は飾り立ててあるものの醜悪その物、おまけに、花の香がきつうてむせかえり、あまりのことに私は吐き気をもよおし、腰が抜けてしまいましたがな・・・それでも気を取り直し、部屋中ぐるりと見廻すと、一体これはなんや、金にまかせて花をぎょうさん掻き集め、これ見よがしに置いてあるだけやないか・・・・所が殿下は、どうじゃ利休、おまえの朝顔も清楚でよいが、わしの色取り取りの花もよかろう、としたり顔で言わはりました。・・あれは私へのあてつけでおますか。私はな、その時、もうこの悪趣味についていかれへん、と心底思いましたで!」
「利休、一体・・お前は・・何・・何を言いだすのじゃ」
太閤は明らかに動揺していた。利休はそんな事にお構いなく、感情が徐々に高ぶり、何かにとり憑かれたかのように、今度は太閤をあんたと呼び捨て、歯軋りまでし糾弾し始めた。
「まあそれはそれでよろしい。感性の違いや・・だが私が我慢出来へんのは、あんたが自慢げに所蔵する茶入れの三肩衝(楢柴、初芝、新田)や九十九髪茄子など数々の名茶器のことや・・うんぎぎっ~」
ここで利休の態度が急変した。
「それらはあんたの金満家趣味の犠牲や、いいっ~ぎっぎっ~・・あんたは掻き集めるだけで、その価値をちっともわかってえへん、いいっ~・・宝の持ち腐れちゅうのはこないなことや!・・おまけになんや、利休どうじゃ、室床の古鉄(こてつ)花入の花は、皇帝ダリアじゃ、背丈も凛(りん)として高く、あまり飾らず華麗じゃ、この薄紫色の花はわしのような大君(たいくん)にふさわしいのじゃ。まあ、花の香りで満ち溢れたこの席で、金の茶碗で金粉入り茶を一服立てて飲むとしようぞ、と私に茶を勧めましたな。・・・私はあまりのおぞましさに頭痛と吐き気で身体中の血がすう~っと引いて行き、その場に倒れそうになりましたで、ぎっぎっ~・・何たる悪趣味!何たる傲慢さ!今でもそうやが、私はな、その時の光景が瞼に焼き付き、時々夢にまで現れ、うなされますんや。悪夢や・・あんたは悪夢そのものや!、ぎっぎっ~。私の感覚はあれ以来ずたずたになってしもうたで・・・・うううっ~」
そこまで一気に言うと利休は太閤を大きく剥き出した両眼でぎょろっと睨みつけた。
「な・・ん・・・・じゃ、その敵意に満ちた眼差しは・・・・」
太閤は口籠り、反論しようとした。
「それは今となってはどうでもよろしい。私はな、もう一言あんたに言っておきたいことがおますのや、いいっ~ぎっぎっ~・・あんたはな、石川五右衛門を大泥棒に仕立てあげたが、あんたこそ策略を巡らし、信長様からこの国を盗んだ天下一の大泥棒やないか。今度は、土足で唐まで踏みにじり、何を盗もうとするのや。あんたその宮殿で焼肉大会や茶会を催すなんて、みんなに言いふらしとるそうやな!一体何考えとるのや、ぎぎっ~・・頭狂うとるのとちゃうか・・それに私に茶頭をさせるとかなんとか・・ここではっきり言うときますが、そんな茶会で私が茶頭をつとめるのは真っ平御免やで・・あかんべ~や・・私はもう愛想も何もかもつきはてたで、ええ加減にしときいや。ほんまにあほらしい。・・・あんたが、自分の趣味で金きらを好んで派手に振る舞うのは勝手や、私はな、何も言いしまへん。・・そやけど、何万、何十万の命を、その主殺しの汚い掌えで、弄ぶのはやめてもらえんか。みんなはあんたが恐ろしゅうて黙っとるんやけんど、私はもう我慢できへんのや、ぎっぎっ~・・私は・・私はこの掌の中に、あんたが本能寺の変を画策した確固たる証拠を握とるのやで!ええか、いいっ~ぎっぎっ~」
「本能寺の変を画策、何を言うのじゃ、わしはそんな事は知らんぞ、うんばうんばば~・・それに石川五右衛門とは何者じゃ?」
太閤はその剣幕に押されじりじりっ~と後退りした。そこで利休は太閤にさらに一膝詰め寄った。
「なんやて・・何とぼけとるのや、わしはそんな事は知らんなんて・・よう言うわ、ぎっぎっ~・・まあええ、あんたの舌先三寸でどれほどぎょうさんの人が騙されて来たか知らんけんど、言うだけ野暮や、死んだら地獄の閻魔(えんま)はんに舌抜いてもらいなはれ。・・そやけど私はあんたみたいに光秀様を謀反人に仕立て上げ、自分は忠臣面するのがもう我慢出来へんのや・・・光秀様は逆臣とちゃうやないか、そのことはあんたもよう知っとるやないか、・・まあええ、すとぼけて、その確固たる証拠を世間にさらしたる・・さらしたるで!それに石川五右衛門は何者?大泥棒やないか!あんたに比べれば、けちなこそ泥やけどな、いいっ~・・まあそないなことはどうでもよろしい、もうあんたの気違いめいたやり方にはついていかれへん。私はもう年齢(よわい)七十(しちじゅう)や、こないな命くれてやわ。わての皺首(しわくび)でも皺腹(しわばら)でも何処へなりとさっさと持って行きなはれ。斬り落とすなり、掻(か)っ捌(さば)くなり勝手にしなはれ。はよう首刎(は)ねや!はよう腹掻っ捌くなりして殺しいな、いいっ~・・ようせなんなら、私があんたを殺したる、ぎりぎりぎり~」
今にもつかみかからんばかりの勢いで、さらに利休は太閤にじり寄りよった。
「ここではっきり言うたろやないか。あんたこそ菜種油入れた大釜でぐつぐつ揚げられるべき大悪党や。わても馬鹿やった。楢柴を・・・・」
ここまで言って利休は言い淀んだ。
利休が思わず口走った楢柴に関わる事の真相はこうであった。
本能寺の変の前々から信長は、茶道具にえらく御執心で、特に天下の茶入れの名品と謳われた三肩衝の内、初花、新田を所蔵していたが、未だ楢柴は堺の商人の斡旋で博多の豪商、島(しま)井宗室(いそうしつ)の元にあった。
利休のもとに天皇家に関わる或公家から、本能寺の信長公の内覧会にその楢柴肩衝を、天皇と信長との関係がぎくしゃくしている今、関係修復のため出展したいとの要請があった。
元を正せば、利休という名も天皇より賜(たまわ)った利休居士(こじ)の号、彼はこの公家の背後に、天皇の御意志があると察し快く引き受けた。彼はもとを正せば堺の出、島井宗室に楢柴肩衝を斡旋したその商人とも昵懇の間柄、そこで彼に頼みこみ、博多の宗室宛てに手紙を書いてもらい、楢柴肩衝を持って来るように頼みこんだ。利休が引き受けたのは、あくなる上までも、天皇と信長との関係修復に自分が寄与出来る、と考えた上でのことだった。
所が、彼の思惑とは裏腹に全く別な目的で楢柴は利用された。
その公家を誰がどう操っていたかは定かでないが、彼等は、信長が茶会を兼ねた内覧会に楢柴が出展されると聞けば、会の何日も前から彼の頭の中は、この茶入れのことで一杯になり、警護のことなどに気が及ばないだろうと考えた。
彼等は茶器まで使い変を画していたのだった。その思惑通り、楢柴が内覧会に出展される、と聞くやいなや、信長は、長年恋慕う女に出会えるが如く跳び上がって喜び、舞い上がってしまった。その結果、その一派の思惑通り信長の頭の中から身辺警護のことは、完全に心の隅の方に追いやられ、結果として本能寺の警護は疎かになったと言う訳だ。言うまでもなく、彼等は名茶器まで使い信長の気を緩ませ、本能寺の変を画したのだった。
例の懇親茶会で表向き亭主をつとめたものの、自分がそんな形で、変に加担していたことに気付いた利休は忸怩(じくじ)たる思いにかられた。彼は茶人、茶器の楢柴肩衝が政争に利用された事にいたく腹立つと共に心に深い傷を負った。
その時まで利休にはそんな負い目があり、思はず口に出してしまったのであった。
「なんじゃと、利休・・・・一体お前、突然、何を言いだすのじゃ。楢柴肩衝、わしはそんな肩衝など見た事も聞いた事もないぞ・・お前・・・頭が狂ったのか?それにわしが本能寺の変に加担、・・・・なんじゃそれは、わしは身に覚えがないぞ、でへねへうんば~うんばうんばば~ひっくひっく~・・・・」
こう突然言われ、太閤は頭が混乱し頬をぴくつかせながら、しどろもどろで応えた。
「あああっっっ・・あんたな、どこまで厚顔(こうがん)無恥(むち)なお人や、どこまで白(しら)を切り通すつもりなんや・・・頭が狂うてたら私も嬉しゅうおまっせ、そやけどあんた、不幸なことに私は正常や、狂うてるのはあんたやないか。この大嘘つきの腹黒野郎のこんこんちきの猿(えて)公(こう)野郎!・・・それにやこれは私事やけど、私が暗に固辞したにも関わらず、私の大事な娘、お吟をまるで掻(か)っ攫(さら)うがごとく連れて行き、強引に妾にするとは何事や!あんたの臍下(へそした)は病気やで、ぎっぎっ~・・ちょん切っておしまい。それに私ての愛弟子、山上(やまのうえの)宗二(そうじ)、ようやってくれたな!耳と鼻を削(そ)ぎ落とし、首を斬り落すやなんてまともな人間のすることやない、犬畜生にも劣る外道のすることや、ううううっっ~。この下司野郎!あんたのやり方はねちねちして陰湿や、もう我慢の限界や、みんなもそう思っとるで、この人でなしのぺっぺっ野郎・・・」
額に青筋をうかべ、怒気を帯びた声で長々と、唾まで吐きかける仕草までして糾弾を繰り返した。
「ううう~うんっっっっ・・・・・・・」
太閤は利休のあまりの剣幕に、何も言えず、思わず畳に尻をすりつけじりじりッ~と後退した。
「あああ~いいい~ううう~えええ~おつっつっつっ~ぎぎぎっぎっぎぎぎぎっぎっぎ~・・・かかか~ききき~くくくけこ~」
突然、顔を真っ赤に染め、物凄い形相で利休は太閤の袖を鷲掴(わしづか)み、興奮きわまり、叫びとも呻きともとれる奇声を発し、歯軋りしながらずずっ~と太閤に躙り寄り、突然馬乗りになった。
「なんじゃ・・わわわっ~利休・・やややややや~やめんか・・・わわわわっ・・殺される・・誰か助けてくれ!」
その瞬間、太閤と五右衛門は夢から覚めたように互いの顔を見詰めた。
「しかし、急に利休様に馬乗りになられ殿下もさぞかし仰天(ぎょうてん)されたでしょう」
「それはびっくり仰天したにきまっておる・・・本能寺の変に加担・・・お吟さまを妾・・・わしの知らん所でそんな事まで、あまりのことにわしは逃げる事も出来ず絶叫じゃ、でへねへうんば~」
「わしは・・・絶叫!・・ええっっ・・・・そんな・・まさか・・その時の殿下はあなた様?」
五右衛門は仰天!・・あまりのことにあんぐり口を開き、その後すぐ太閤に聞き返した。
「そうじゃ、そうじゃ・・わし・・わしじゃった・・殿下は利休様の茶室を訪れると約束しておきながら、急に所用が出来た、お前が行け、と言われ姿を眩(くら)まされたのじゃ、でへねへうんば~・・その結果わしが利休様の元を訪れ、被害にあったわけじゃ・・・とんだ貧乏(びんぼう)籤(くじ)を引いたものじゃ、うんばうんばば~・・それにその時まで、わしは利休様が本能寺の変にそんなに深く関わっていたとはしらんかった。わしに関して言えば、前にも言ったが、影武者として変の折、最初は、京にほど近い所に遣わされてはいたが、そこで指揮を執っていたわけではなかったのじゃ。それに、その部隊は、信長様を出迎えるためと聞かされておった。わしは陣中の一隊が、まさか変に大きく関わっていたとは本当に知らなんだのじゃ。その関与を知ったのは山崎の戦いがあり、戦勝祝賀会などで大々的に中国大返し等があれやこれや取り沙汰され、わしは上手く利用されたと気付いた時からじゃ、でへねへうんば~・・それにじゃ、噂では聞いてはいたが、利休様が、そこまで深く本能寺の変に関わっていた等、わしの立場からして知る由も無かったのじゃ・・何と無くそれらしい事を知ったのは、利休様成敗の後からじゃった。利休様が、殿下の政(まつりごと)に不満らしいことを洩らしている、とちらほら聞いてはいたが、あそこまでやるとは誰も想像していなかったじゃろう。それにお吟様の件が本当なら、殿下の女好きはもう病気じゃ。じゃが、その件は殿下が利休様に体よく断られた為、腹いせにしたのじゃろう。じゃがやりたい放題じゃ、正に欲望まるだし、傲慢の極みじゃ、うんばうんばば~・・・そんなこともあったが、無論、庵での出来事は闇から闇へと葬りさられたのじゃ、うんばうんばば~・・話があらん方向に走ったが、その続きはこうじゃった。わしが身動きが出来ずどたばたしていると、その騒ぎを聞きつけ、聞耳を立てていた護衛役の近習、高坂(こうさか)蘭之(らんの)助(すけ)が、躪口から飛び込んできて、わしと利休様を分けたのじゃ、でへねへうんば~・・年を取っていたが利休様はわしとはおおよそ一尺も上背(うわぜい)が違い中々の剛(ごう)腕(わん)、あのままわし一人じゃったらどうなっていたかわからかった。・・絞殺されたかもしれん・・何たる災難、何たる醜態、こんな事はお前だけに言うが今まで人には言えんかった、うんばうんばば~」
「しかし殿下これはかなりの狂言?その時私はまだいませんでしたよ」
「五右衛門としてはな、はっはっは~・・これはいかん、興(きょう)に乗り過ぎ羽目を外した。明らかにわしの狂言じゃ、うんばうんばば~・・まあ、話を分り易くする為お前を登場させたが、話の本筋は、一部を除けば今わしが話した通りじゃて、うんばうんばば~・・それにしても利休様達の思惑は完全に殿下によって打ち砕かれたな・・・利休様が信長公追討に関わったのは、信長公が天皇様を蔑(ないがし)ろにし、その内天皇様まで廃位し、自分がそれにとって変わるだろうと言う懸念(けねん)があったからじゃ。そこで信長公を追討し、茶にも見識が深い文人肌で穏健派の明智様に天下を取ってもらいたかったからじゃ、とわしは思う・・じゃが世の中うまくいかんものじゃて、でへねへうんば~」
「それでその後太閤殿下は?」
「どう言われたかか?・・・・その後殿下は、高坂蘭之助から経緯を聞いたのじゃろうが、今更何じゃ、利休の奴も変に深く関わっておきながら、綺麗事を言うな、皆で共謀してやったくせに、それに利休の奴が、長年茶の道で大きな顔が出来たのは誰のおかげじゃ、わしの後ろ盾があったからこそじゃ、と憤慨しておられたそうな。それにじゃ、夫に先立たれ、後家になった年増女のお吟もわしが目を掛けてやり、金もぎょうさん与え、家まで建ててやったおかげで何不自由なく幸せに暮らしておるではないか、なんの不服があるのじゃ、と憮然としておられたそうじゃ、うんばうんばば~」
太閤が語り終わると、二人は茶釜の白い蒸気に何気なく目をやった。釜から噴き出した蒸気は二人の目の前でゆらゆら~と天井近くまで立ちのぼり、いつしか何処かへ吸い込まれるように消えた。二人はその時、何かしら虚しい気持ちになっていた。

封印された秘密
「しかし、その待庵でのお話は、なまじ作り話のようには思えませんね。その確固たる証拠は本当にあったのですか?」
「これも後で、わしが昵懇にしていた或御方から詳しく聞いたことじゃが、順に話せば、まずは前に述べた懇親会と銘打(めえう)った茶会じゃ」
「茶会と言えば先程言われた上之坊大善院の?」
「まあそんな所じゃ、その証拠の一品とは、名目上、利休様が亭主をつとめた茶会の巻物仕立ての御名書(おながき)のたぐいじゃった。茶会に列席した者は、普通、入口付近の受付で自分の名前を書くわけじゃが、うんばうんばば~・・その時は、入口では記名せず、一同が会した所で、順に記名したわけじゃ。・・・御名書は、先程話した殿下の家臣、西園寺輝定様の名も記名されており、殿下はその巻物の行方を長年探していたと思われる」
「その御名書に西園寺様の名前があるだけで、何故、殿下はそこまで神経質になられたのですか?」
「名代(みょうだい)として参加させたからじゃ」
「名代として・・」
「名代として殿下の署名入りの自筆書を携え参加じゃ」
「その書を携え参加すれば、殿下が参加したと同じことに、それが二品(ふたしな)めですね」
「そうじゃ。それは一見、御名書に似せてあるが、その本質は何を隠そう連判状の類(たぐい)で、幾ら西園寺様と言えど、殿下のその書がなければ、手を組む者共は信用せんかったじゃろう。書を携えた西園寺様であれば、足利義昭様とも旧知の間柄、他の者も信用するというわけじゃ、でへねへうんば~・・・・現にその場に義昭様も参列されていたのではないか。所が会の後、殿下はその自筆書を西園寺様に破棄するように命じ、自分の関与がないように装おうとしたのじゃ。ここが殿下の狡猾なやり方じゃ。前にも言った通り、西園寺様と山神の二人は自分(秀吉)に謀反を企てたとして、変の直後処刑されたのじゃ。口封じじゃな、うんばうんばば~・・それがじゃ、殿下は変の後、明智様と山崎の戦い、柴田様とは賤ヶ岳の戦いを戦い、共に勝利しその後天下を取るとそんな書のことなどすっかり忘れられてしまったのじゃ」
「ええっ・・すっかり忘れてしまった!その書と御名書の二つのことを、すっかり忘れた!」
「わしが思うに、西園寺様処分の後、どこそこ探したが発見出来ず、その内多忙に紛れ、忘れてしまったと言った方が良いじゃろう」
「では何処かに紛失?」
「そうじゃ・・所で御名書と言えば、利休様は、その重要性を一番ご存知で、殿下もそれを差し出すよう命じたが、利休様は明智様に託し手元にはない、と言い張り、密かに隠し持っていたわけじゃ、うんばうんばば~・・・自筆書は西園寺様が処刑され、表面的には御名書も明智様の死により、闇の中に葬られたのじゃ、うんばうんばば~・・・・とは言う物のその実、御名書は利休様の手の内にあり、何事も無ければ自分も加担した為、墓場に持って行くつもりが、殿下の余りのやり様に、遂に堪忍(かんにん)袋(ぶくろ)の緒(お)が切れ暴挙に出たと、言うわけじゃな、でへねへうんば~・・話を戻すと、殿下と言えば、蘭之助から茶室での出来事を聞くと、そんなものが昔あったことを思い出したのじゃ。それに該当する物は三品(みしな)あったらしいが、一品目(ひとしなめ)はさておき、自分に関わるのは名代証明の為の自筆書と皆が記名した御名書、この二つが合わさると自分が変に関与した明らかな証拠となるわけじゃ、じゃから殿下はこの二品だ、とピーンときたのじゃろう、うんばうんばば~・・動転した殿下は利休様を秘密が漏れぬよう即刻蟄居(ちっきょ)させたのじゃ。それとともに、光成様に命じ、その二品を捜させたのじゃ」
「再度伺いますが、本当に殿下の直筆書と御名書は有ったのですか」
太閤は五右衛門を制し、話を続けた。
「まあ聞け、殿下よりそれらの二品があったことを密かに告げられた光成様は、その重要性に仰天し、直ちに捜索を開始したのじゃ、でへねへうんば~・・・何しろ、光成様は変の当時、二十歳を少し出たばかりの若輩(じゃくはい)で、まあお前と同じ年頃じゃったので、こんな二品の存在など知ろうはずもなかったのじゃ、でへねへうんば~・・・それを殿下から告白さられた光秀様は、余りの事に仰天し、直ちに捜索を始めた訳じゃが、それはそれ、物が物じゃから無論捜索は極密にじゃった。光成様は血眼に成り、利休様の住居から、茶室に至る天井裏から縁の下まで隈なく捜索したが、二品は言うに及ばず鼠一匹見つからなかったのじゃ」
「矢張り見つからなかったのですね。・・・しかし、御名書も殿下の直筆書がなければ西園寺様が個人的に出席した単なる参加者名簿であって、何の価値もない?」
「そう言うことじゃな、じゃがまあ待て・・結論を急ぐな、その直筆書は会の後、破棄されたと言ったが、どのようなやり取りがあったかしらんが、西園寺様が、もしものことがあった場合、これを天下に公表(さら)してくれ、とある人物に託していたわけじゃ。処刑された西園寺様は、それで我が身を守れなかったが、利休様が隠し持っていた御名書と合わせると、その存在は俄然重要な意味合いを帯びるわけじゃ、でへねへうんば~」
「その人物と西園寺様との関係は?」
「あくまでもわしの推測じゃが、利休様の弟子だったのではないか」
「とすると、その人物とは例えば前田、古田、細川様?」
「そうかもしれんな、しかし、本当の所、わしにもわからんのじゃ、うんばうんばば~・・覚悟を決めれば人間は強い、死をも賭(か)した抗議じゃった、でへねへうんば~・・・・矢張り当代随一の茶人の気骨は並ではなかったのう。今わしは利休様とほぼ同じ歳、蛆虫(うじむし)がたかる腐った魚のように腐り果てて死んでゆく、情けない限りじゃ、うんばうんばば~・・・長(なご)う生き過ぎたな・・・・愚痴はここまでとして、それは何処にあったか、聞きたいじゃろう」
太閤は半ば自虐的な口調で言ってから話しの核心部に入った。
「是非とも!」
五右衛門は身を乗り出した。
「話の続きを言えばこうじゃ。命令を受け、いくら探しても二つの書は見つからず焦っていた光成様の元に、最近、利休様が寄進し、改築した茶に縁のある大徳寺三門金毛閣(きんもうかく)楼閣(ろうかく)上に、自分の雪駄履きの等身大の木彫を据えたとの有力な垂れ込みがあったのじゃ」
「不敬にも、増長(ぞうちょう)(付け上がり高慢(こうまん)になる)のあまり自分の雪駄履きの木彫を楼閣上に置き、殿下にその下を潜らせようとしたという、切腹の原因の一つになった有名な木彫でございますね」
「そうじゃ、じゃがこれは如何にもこじつけに思えんか」
太閤は意味有りげに言った。
「こじつけ?」
不審気に五右衛門が問うた。
「考えて見ろ、殿下があの楼閣下など潜るはずがなかろう。真相はこうじゃ、憶測として、長年利休様はその二品を密かに所蔵していたと思われるのじゃが、楼閣改築を機に或る隠し場所から取り出し、後の世の審判を仰ごうとその木彫の胴内にそれらの物を封印したと考えられる。その垂れ込みをした者は、その木彫を彫った仏師の弟子の一人じゃったらしいが、利休様から木彫胴内に何かを収める空洞を作るようにいわれ、その中に利休様が巻物を入れたのを訝(いぶか)り、報償目当てに垂れ込んだ、と言うわけじゃ。勘の鋭い光成様の事、その巻物こそ、探している品だと直感し、直ちに大徳寺に自ら駆け付けたわけじゃ。・・・光成様は、殿下から巻物の重要性を聞いてはいたが、まさかそんな巻物があるなど、その時まで半信半疑じゃったと思う。・・・・所が、木彫の隠し扉を鑿(のみ)で抉(こ)じ開け、取り出したその内容を見て光成り様は腰も抜けんほど驚(おど)愕(ろ)き、初めて利休様の強気な態度が理解出来たと言うわけじゃ。この存在は絶対に秘密にしなければならん。こんな巻物の存在が世に明らかになれば、殿下が皆を出し抜いて天下を横領(よこど)りした事が世間に露見することになる。豊臣家の一大事じゃ、でへねへうんば~・・所がここでまた大問題が発生したのじゃ、でへねへうんば~」
「またもや大問題が発生でございますか?その問題とは?」
五右衛門にとって驚きの連続だった。
「木彫の背中のその隠扉を抉じ開けさせた所、殿下の直筆書と御名書の二品はなかったのじゃ、でへねへうんば~」
「ええっ・・・二品は・・無かった!何も無かった!なんとまあ、利休様は殿下を謀(たばか)って恫喝したわけでございますか?」
五右衛門はまたまた目を白黒させた。
「そう急くな、何も無かったのではない。わしの推測では、その胴内には、そんな二品より、もっともっと重要な巻物が入っておったのじゃろう、うんばうんばば~・・・もしこれが、世に出れば殿下の名声は一夜にして瓦解してしまうような代物じゃ」
太閤は真顔になりじっと五右衛門の顔を見詰めた。
「一体その三品目とはどんな代物でございますか。その巻物に書かれていた内容はそんなにも重要で?その巻物が、太閤殿下にとってそんなにも重要な物なら、殿下、ひょっとしてその巻物とは・・・・・・」
「そのひょっとしてじゃ、実はそれこそ、お前の推測通り天皇様(正親町)が信長公を追討するよう出された宣旨、即ち命令書だったにちがいないのじゃ、うんばうんばば~・・その理由は、宣旨は上之坊大善院の茶会に公家の誰か、例えばじゃ・・近衛前久様の嫡男、勧修寺晴豊様辺りが、天皇様の命を受け持参したと思われる。それには信長公を追討するように記されており、亭主の利休様は言うに及ばず、そこに参列した者達は、直接又は間接的にその内容を確認したことじゃろう、でへねへうんば~・・そんなであれば、殿下の直筆書や御名書など物の数ではないのじゃ、うんばうんばば~・・・・言ってみれば、この茶会に参列した者達は、天皇様の宣旨、即ち信長公追討の命(めい)を受け、光秀様を立てて変を起そうと企んだのじゃ。・・・宣旨があれば本能寺の変を起した明智様は、主家殺しの逆臣、大罪人と言われているが、天皇様の命に従ったまで、逆臣、大罪人ではなく、殿下の言っておられた逆臣明智光秀の根拠は根底から覆され、太閤殿下こそ、自分の野心から明智様を蹴落とし、尚且つ、皆を誑(たぶら)かし、天下を強奪、横領した大罪人に他ならんわけじゃ、うんばうんばば~・・わしが先程言った大泥棒五右衛門の比ではなかろう」
「確かに殿下が最初言われた通り、事は単純ではないのは確かでございますね。太閤殿下が世間を誑かし、天下を横領したとすれば、その罪は五右衛門の釜揚げどころではございませんよね。わたしの演じた五右衛門ごときは殿下に比べれば雀の涙、否、蚊の涙ほどもないこそ泥・・・正に太閤殿下こそ天下を盗んだ大泥棒でございますね・・」
「そうじゃ、そうじゃ、その通りじゃ、でへねへうんば~・・・・所がじゃ、変の後、奇妙な事に、信長公追討を策した謀議の茶会が、上之坊大善院で催されたなどと口外する者は誰一人としていなかったのじゃ、うんばうんばば~・・・ましてや、宣旨の存在もじゃ。闇から闇に葬られたというわけじゃ、でへねへうんば~・・じゃが、わしの立場からして、それらの事は全くわからなかったのじゃ。・・・・・推測すれば何故、天皇様の宣旨の存在を皆が隠すと言えば、殿下が予想外に速く、中国大返しで山崎に辿りつき、その戦いで明智様を打ち破り、柴田様との賤ヶ岳の戦いを経て、その後、天下を掌握されたことによるのじゃ、うんばうんばば~・・・・・誰もが己は可愛い、力をもった羽柴秀吉には、もはや力では到底太刀打ち出来ん。そこで宣旨の存在も茶会に名を借り結成した信長公追討連合会とそこで交わされた御名書、即ち連判状の存在をも、皆、牡蠣のごとく口を固く閉ざし、保身に走ったと言うのが、話の本筋、真相ではないか。・・・・・・その禁断の果実を利休様は持ち出した。結果は言うまでも無く切腹を仰せつかった。そんな陰謀があったことなど何も知らない連中は、殿下の利休様への理不尽なやり方に憤りを感じたが、もしもその真相を知った者どもがいたとしても、皆だんまりを決め込んだわけじゃ、うんばうんばば~・・・・・・見方によっては、利休様は己の我を通し、自殺したようなものじゃ・・姑息(こそく)な生き方に腹が立ったにちがいないのじゃ、うんばうんばば~・・・じゃがそうであっても、わしは世間を誑かし、天下を盗んだ太閤秀吉の影武者じゃったわけじゃ。じゃからわしは、それが真実であっても、そんな事を決して認めたくはない、と言うのが偽りのないわしの本心なのじゃ、うんばうんばば~それにじゃ、それとは逆に、もしそれが真実なら、知らぬ事とは言え、本能寺の変に加担したわしはいくら悔いても悔いきれんのじゃ・・・」
太閤はここで痛恨の表情を見せ、ぽろりと後悔の言葉を述べた。
そして次に太閤の口から飛び出した言葉は、五右衛門をさらに驚愕させる石田光成による偽装工作だった。
「宣旨の存在は推測じゃ、と言ったが、わしは宣旨が茶会の折、変の首謀者にたてられた明智様に手渡され、そのまま明智様が所蔵しており、山崎の戦いのどさくさに紛れ何処かに紛失した、と考えたからじゃ。それがわしの予想に反し利休様の手元に、長年保存されていたとは、わし同様殿下も想像さえしていなかったに違いないのじゃ、うんばうんばば~・・・・じゃが、光成様が、あんな細工までして利休様の木彫にこだわったからには、矢張りそれが木彫胴内に入れらていたことは間違いないはずじゃ。まあわしは光成様の悪口を言いたくはないが、知に長けたあの方の悪知恵や権謀(けんぼう)術数(じゅっすう)を巡らす才能は天下一じゃったからな、でへねへうんば~」
「ではそこで光成様は宣旨に何か細工を、まさかそれを書き直し、爾(なんじ)(汝)、羽柴秀吉、朕(ちん)をないがしろにせし、上総(かずさの)介(すけ)織田信長を追討せよ、などと書き改めたのではないですよね」
五右衛門は話しの本筋にずばりと切り込んだ。
「そうではない。初め巻物を胴内から取り出した光成様は、まさかそんな物が存在するとは夢にも思わ無かったのじゃろう。付き添っていった者達は、光成様が巻物の紐を解き、そこに書かれてある文言に一瞥をくれた時、顔面が蒼白になり、巻物を持つ手がわなわな震えているのを目撃した、と言っておったそうじゃ、うんばうんばば~・・・じゃが、皆の視線を一身に感じ取った光成様は、これはまずいと思い、咄嗟に腹をかかえて笑い出し、その後、利休め!舐(な)めた事をする、とこれ見よがしに言い放たれ、続けて、利休め、自分の雪駄履きの木彫を楼閣上に置き、殿下にその下を潜らせようとは、不敬極わまる不埒千万な行い、この木彫を直ちに楼閣上から引き摺りおろし、これに縄を掛け、一条(いちじょう)戻(もど)り橋、橋本に晒せ、と役人に強い口調で命じたそうじゃ。大芝居を打ったのじゃな、でへねへうんば~」
「そう言えば、利休様の木彫が一条戻り橋、橋本に晒され、その後、三条河原で火炙りの刑にされると言うので、刑場辺りはひどい人だかりが出来た、と噂で聞きました。その裏には何かが有ると思っていましたが、まさか、そんなことが!それで肝心の巻物は?」
「巻物?光成様はもっと狡猾じゃった。そんな書き直すなどの小細工はせず、わしらが思いもかけぬ行動にでたられたのじゃ」
「その思いもかけぬ行動とは?」
無意識に五右衛門の膝がジリリと前にでた。
「つまりじゃ、殿下に内緒でそれを密かにある細工をした後、火にくべ燃やされてしまわれたそうじゃ」
「火に・・火にくべ燃やしてしまった・・ある細工をした後!何と大胆な!しかし、いくら秘密にしても憎まれ役を一身に引き受けていた光成様の事、すぐに、殿下に不利になる事柄が書かれてあった巻物を隠蔽(かく)した、と言われますよね」
「燃やしてしまい巻物がなくなれば、そんな噂もたとう。その事を一番知っておられたのが光成様、それで即座に奇策(きさく)を打たれたのじゃ。・・・・わし等にはとうてい思いもつかぬ奇策じゃ」
「どんな奇策か、わたしには全く分りません」
五右衛門は首を傾げ考え込んだ。
「それがじゃ、密かに焼却したが、その代わりに殿下と利休様が取り交わした例の『利休七則』が木彫の胴内に収められていた、と言いふらしたのじゃ」
「なるほど、なるほど・・・それは類まれなる奇策・・中々面白いですね」
「中々面白いじゃろう。じゃから、木彫を調べたのは、利休様が身分をわきまえず、増長のあまり楼閣上に雪駄履きの自分の木彫を、殿下にその下を潜らせるように置いた廉で調べるためじゃったと、この行為こそ、殿下を卑下した不埒な行為であり、利休様が切腹を仰せつけられても当然だ、とすり替えたわけじゃ、でへねへうんば~」
「宣旨の存在を抹殺するため、楼閣上に雪駄履きの木彫を置いた、その行為こそが、罪にあたる不埒な行為だ、と。・・・狡猾でございますね・・」
「そうじゃ、それにじゃ、もしも胴内から巻物を取り出し密かに燃やしても、胴内から取り出した巻物がなければ、光成は世に晒せぬ何か重要な巻物を隠蔽(いんぺい)したと言う噂が拡がる事もある、うんばうんばば~・・それを考慮し、咄嗟に木彫の前で大芝居をうったわけじゃ。・・しかも、胴内には宣旨ならぬ利休七則が収められていたとし、さらに芝居がかったやり方で、木彫にそれを括り付け橋の袂で晒したわけじゃ。ここで二つ目のすり替えを行ったのじゃ、でへねへうんば~・・・まあ、石橋を叩いて渡れではないが、そこまで慎重にせねばならんほど、宣旨の存在は大きいからのう、でへねへうんば~」
「しかし、そこまですれば返って疑われるのでは?」
「それもそうじゃが、何時の世でも田舎芝居は皆に馴染む。心憎いばかりの演出じゃて、うんばうんばば~」
そこで太閤は話しを中断し、茶を啜り、五右衛門の問いに答えず、自分に言い聞かせるように、自戒的な口調で静かに語り始めた。
「じゃが今まで話した事柄も、あの時寝所で話した数々の逸話のように、人伝に聞いた事、確証は無く・・・わしの作文と言えることも多いのじゃ、それはそれで良いのじゃ。・・・・あ~あ~、じゃがこれらも時が過ぎてしまえば、すべて暗い暗い闇のなかじゃ・・わしらがどうすることも出来ん時の流れに流れ去ってしまうのじゃ・・・」
太閤は憂鬱そうな、それでいて半ば諦観したような口調で、自分が話したこれらの話の真偽は、お前の判断に委ねるとも聞き取れる暗示めいた表現で話を止めた。
「殿下のお話をお聞きし、私もことの複雑さを痛感いたしました。しかし今に至っては、それらは過ぎ去った出来事、近々、兄の墓に行き花など手向(たむ)け、事の次第を報告いたしたいと思います」
太閤の話を聞き終わった五右衛門は、その時まだ、話の真偽をどう判断していいのか分らなかった。
ただ率直に言えば、その時の彼の心の内部は何も満たされておらず、何とも言えない寂寞(せきばく)とした心的風景が拡がっていた。
今自分の前に座る、昔太閤の影武者だった人物も、いずれは、時の流れの中でその死を迎え消えてゆくだろう。それは明日かもしれないし、明後日かもしれない・・・・・・
五右衛門から奈良柴秀にもどった彼は、その時点で、自分ではどうする事も出来ない移ろいゆく時の流れを感じていた。
一体、あくせくとした人の日々の営みはなんなのだ、彼は心の中で呟いた。この想いこそ今の彼の心境その物だった。
「ああ~もう夕暮れも近い、わしのような齢に成ると、この夕暮れの気配がたまらなく寂しく感じられるのじゃ。秋の日は釣瓶(つるべ)落(おと)しと言うが、もう西の空が暗うなりはじめた」
そんな柴秀の想いをよそに、常庵は夕焼けの残照が微かに残る、黒々とした衣装をまとい始めた山並の稜線近くを流れて行く茜雲に視線を向け、何気なく呟いた。
そんななか、辺りが急に暗くなり始めると、庵の小さな苔むした庭を取り囲むように生い茂る木々や草叢から、今迄気にも留めなかった虫達の奏でる姦しい鳴き声が辺りに響き始めた。
「本当に秋は暮れるのが早うございますね。今日は話が弾み長居いたしました。急いで帰らねばなりません・・・・・」
老人に相槌を打つかのように彼は言い、その後別れの挨拶を交わし帰り支度を始めた。

それからしばらくして常庵の元に奈良柴秀から樽包が一つ届けられた。常庵は早速蓋を開けると、そこには例の物が詰められてあった。彼はいそいそと米を研ぎ、釜に入れ、忙しげに火を入れ、炊きあがるとすぐ、その熱々の白飯を碗に盛り、真っ赤な例の物をその上に山盛り載せ、一口頬張った。
「うわ・・かっかりゃ~うううう・・このききむち・・あうんぐぐ~ひえっ~・・これや・・これや・・このからさや・・」
彼の舌は痙攣(けいれん)をおこしながら叫んだ。

あとがき
この小説はパロディー小説であり時代、歴史小説ではない。よく知られている歴史的話題は一部参考としたが、ほとんど著者が自分なりに粉飾し娯楽性を高めたものである。
                
参考資料
主な参考資料・インターネットのウキィペディア、『日本の合戦史』主婦と生活社・安田元久監修、『図解戦国史』成美堂出版、『歴史のミステリー』デアゴスティ―ニ・ジャパン等

天下を盗んだ大泥棒 第四部

天下を盗んだ大泥棒 第四部

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • コメディ
  • 成人向け
更新日
登録日
2013-05-26

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