天下を盗んだ大泥棒 第二部

第4章

二本手にいる今日の悦び

その頃の京都
この頃、都では畿内で勢力を握っていた三好三人衆(三好(みよし)長逸(ながやす)、正康(まさやす)、友(とも)道(みち))と松(まつ)永久(ながひさ)秀(ひで)は、室町幕府復活を画策し、予てから対立を深めていた足利(あしかが)義(よし)輝(てる)を暗殺、その弟の足利義(よし)栄(ひで)を擁立して傀儡(かいらい)政権(せいけん)を樹立した。さらに彼等は、足利義輝の弟・義(よし)秋(あき)の暗殺を企てた。義秋は、奈良興福寺の子院の一つ、一乗院の住職(門跡)として、法名を覚慶(かくけい)と名乗っていたが、兄・義輝の暗殺死にともない還俗し義秋(後に義昭と改名)と名乗った。
 義昭は幕臣、細川(ほそかわ)藤(ふじ)孝(たかし)や和田(わだ)惟(これ)政(まさ)等の助けを借り京から脱出、越前朝倉(あさくら)義景(よしかげ)の元に身を寄せた。
永禄十一年、義昭は三好追討の意志を見せない義景を見限り、当時、日の出の勢いの織田信長に御内書(ごないしょ)を発布し幕府再興を要請した。
前年には正親町(おおぎまち)天皇(てんのう)からも信長の元に綸旨(りんじ)が寄せられており、この二つの権威をもとに信長は入京を果たした。
上洛の途中、南近江の六角(ろっかく)義(よし)賢(かね)親子の抵抗があったが、撃退、彼らは伊賀に逃亡した。
京では、義昭の御所である六条(ろくじょう)本圀寺(ほんこくじ)が、信長の美濃帰還の空白を突き、三好三人衆、斉藤龍興らによって襲撃されたが撃退された。       堺でも会合衆が抵抗したが臣従させられた。
その頃の京の都は、室町幕府が栄えていた往時とは異なり、応仁の乱では、街の北半分が焼失し、その後も度々の争乱で荒れに荒れ果てていた。世は戦国時代に入り臣下が主君を倒しその国の実権を握る下剋上が激化した。
それに伴い、京都の都は治安が乱れ、御所を初め貴族の館や建ち並ぶ寺社、さらに商家や庶民の住居までもが草木が生い茂り、土塀は崩れ、荒れに荒れ果て、往時の面影は何処にも見当たらなかった。街中では盗賊や追剥が、白昼堂々、わがもの顔に闊歩し、殺人や盗み、さらに押し込みや人さらいなど様々な事件が、日常茶飯事化していた。
年によっては、疫病が蔓延し、又、飢饉により多くの者が餓死した。それらの屍(しかばね)のあるものは寺社の境内や鎮守の森の片隅に、又あるものは路傍脇の草叢に、衣服を剥ぎ取られ、朽木の様に投げ捨てられ、悪臭を放ちながら白骨化していた。
地獄絵さながら、化(けあだし)野(の)辺りは言うに及ばず、清水(きよみず)寺(でら)辺りでさえも、半ば傾きかけた舞台を支える骨組みの丸太柱の足元に、野晒(のざらし)の屍が累々と積み重ねら、死臭が辺りに漂っていた。かあかあと姦しい鳴き声を上げ、そこらに群がる烏(からす)や野犬が死肉を啄み、貪り食らっていたが、その脇を通り、屍を運び込み遺棄する者は、ぼろ布で頬被りし、さらに口を手拭で被い、事が済むとそそくさとその場を立ち去った。その辺りの雑木の林の空地では、死人を荼毘(だび)に付し、風向きにより悪臭を帯びた煙が、遠く街中にも漂って来たが、いつしか、街中の住人や行き交う人々は無感覚になって行った。それはさながら末法世界を具現していた。
そんな荒廃の極みに達していた京に、救世主の如く、一人の武将が、整然と隊列を整え、遥々尾張からやって来た。
この武将こそ織田信長であった。彼の一族は代々、尾張守護大名・斯波氏の守護代・岩倉織田(伊勢守家)、清洲織田氏(大和守家)の内、清州織田の三奉行の一つ古渡城主という家柄であった。信長の父・信秀の代になるとその優れた手腕により勢力を拡大し、今川、美濃とも競うようになって行った。信長は弟・信行と家督を争い、家督を継ぐと岩倉、清州織田を倒し、斯波氏をも追放し尾張を統一した。その後、駿河今川義元を桶狭間の戦いで破り、その七年後、父・斉藤道三を殺し美濃を治めていた義龍が若くして病死し、息子・龍興に変わると、居城稲葉城を永禄十年(1567)攻め落とし、尾張、美濃を掌中にした。

信長上洛
美濃攻略の一年後の秋、京都の町並みは、木々の葉も紅葉し、昨日来の雨でしっとりと濡れていた。 
その日、遂に北近江を制圧した信長の軍勢が、京の入口、山科(やましな)に姿を現した。織田家の馬印・金塗の唐傘が、人馬の進行と共にゆらゆら揺れ動いていた。

「次のお話は?」
「わしらが上洛した話じゃ」
寝所での太閤の話は続いていた。
「あれは初秋じゃつた。わしの人生で最も晴れがましい時じゃつた。考えてもみろ、清州からはるばる都入りじゃ。沿道に沿って人の群れが、期待と不安の入り混じつた眼差しで、われらが通り過ぎるのを見ておったのじゃ、デヘネヘウンバ~・・桶狭間から幾星霜、その道のりは遠く険しかったぞ!将兵の中には感激のあまり眼頭を抑える者も多かった。・・わしも馬上から、そんな群衆や古から続く京の町並み、寺社の甍(いらか)(屋根の棟瓦)の波を振り仰ぎ、感涙に浸っておったのじゃ、でへねへうんば~・・前を行く殿の顔は見えなんだが、さぞ誇らしげに姿勢を正し、入京の悦びを噛みしめておられたにちがいない!・・・・苦節十年この言葉がぴったりじゃ。幾多の合戦の光景が、走馬灯のようにわしの脳裏に飛来し、喜びの中、複雑な思いじゃった、でへねへうんば~・・京に上ると、殿はそこをすかさず制圧し、足利義昭を将軍に復帰させられた。抜け目のない商人、町方衆、僧侶や神官は皆こぞって殿の宿舎である東福寺にご機嫌伺いじゃ、うんばうんばば~・・松永め、勝ち目がないと見るや、すぐに恭順の印に、足利義満様秘蔵の唐物茶入れ、九十九(つく)髪(も)茄子(なす)を持参して来おった!一国の価値があるとぬかし、自慢たらたらじゃ。奴は何処かでそれをくすねたに違いない。ずるがしこい奴とは此奴のことじゃ!・・それに面白い男が、扇子二本を持って御機嫌うかがいじゃ、でへねへうんば~・・その男の名は里村(さとむら)紹(じょう)巴(は)という連歌師じゃったが、三方の上に扇子を二本恭しく載せ、殿にお目通りじゃ、うんばうんばば~・・・殿は一瞬、これは何の印かと戸惑ったが、早速こう詠まれた。・・『二本手に入る 今日の悦び』・・流石、殿じゃ、機転が素早い。二本すなわち日本、今日、すなわち京が手に入ったということじゃな、でへねへうんば~・・これが噂になり信長公は中々の教養人じゃと言うことになり、殿下は数段株を上げたわけじゃ、うんばうんばば~・・恥ずかしい話じゃが、わしなら何か仕掛けでもあろうかと、扇子を鷲掴(わしづか)み眺め回したじゃろう、とんだ恥さらしよ、ごほごほ~・・・紹巴は後の句でこう詠んで受けた。・・『舞いつづる 千代(ちよ)万代(よろずよ)の 扇子にて』上手い洒落じゃ!今日の良き日が長く続くようこの縁起の良い扇子で舞いましょう、流石に京の都の風流人は洗練されておる。・・その後、義昭は、朝倉義景に京に来て臣下の礼をとるよう命を下したが無視じゃ。義昭の背後にいる殿を毛嫌いし、無視したのじゃろう、うんばうんばば~・・けしからん奴じゃ・・・、うんばうんばば~・・この事が後に、朝倉、浅井両家に災いをもたらすのじゃが、その時は誰も予測出来なんだのじゃ」
太閤はそこまで話すと余裕(よゆう)綽綽(しゃくしゃく)の体で二人をゆっくり眺めた。

いよいよ始まる朝倉攻めと織田包囲網
永禄十一年(1568)信長は首尾よく上洛を果たし、足利義昭を第十五代将軍に就けた。信長は義昭の手をかり、浅井家と同盟関係にあった越前の朝倉義景に上洛し、臣下の礼を尽くすようにたびたび要請したにも拘わらず、頑なに拒んだため、ついに朝倉を攻めた。
このことが、織田家と浅井家の同盟関係に亀裂を生じさせる結果になった。
信長は、お市の方を浅井家に嫁がせた以上、朝倉との絆は固く、浅井家が自分に敵対することなど無いと頑なに信じていた。

「朝倉家が臣下の礼を拒否した以上、これはもう朝倉攻めは避けられませんでしたね」
「ほんまに避けられんやろうでございます、ぶひ~」
「当たり前じゃ、うんばうんばば~・・・経緯はこうじゃった。・・殿、朝倉攻めは危険でございます。浅井家は、長年朝倉家と同盟関係にあり、お市の方様との姻戚関係だけでは、どのような裏切りがあるかもしれません、と朝倉の離反を危惧していた家臣代表が、おそるおそるこう進言したのじゃ、でへねへうんば~・・殿の顔面がみるみる紅潮し、額に大きな青筋まで浮べ、次の瞬間、黙れ、お前たちの考えは下司な勘繰りだ!浅井が裏切るなど、二度と口に出すな、心にも思うでない、と大声で叱責じゃ、うんばうんばば~・・所がじゃ、浅井は長年の同盟関係により朝倉に味方じゃ、その結果、金ヶ崎(かねがさき)(城)でわが織田・徳川連合軍は挟み打ちとなり、殿下は命からがら京に逃げ帰ったのじゃ、うんばうんばば~・・・殿は九死に一生を得て京に辿り着いた時、馬を飛ばし全身から噴き出す汗とともに怒りが溢れだしておられた。・・それから、癇癪を起こし、甲高い金切り声を張りあげ、長政め、奴を切り刻んで烏(からす)に食わせてやるわ、と怒気を込めた口調で吐き捨てられた。・・その後、口から白い息を、はあ~はあ~吐きながら天を睨みつけられた。その顔は、正に阿修羅そのものだった。殿は、長政を信頼しすぎた自分の愚かしさに腹が立ったのじゃろう。・・長政に対する青白い復讐の炎が燃え立ち始めたのはその時からじゃ、うんばうんばば~・・・・殿はこう誓われたに違いない。自分に逆らうやつは誰一人生かしておかん、それがどんな奴でも!・・そう誓われたにもかかわらず、後に明智光秀の謀反にあい、本能寺で自らの命をあっけなく落とされるとは、なんとも皮肉な巡り合わせとしか言いようがないのう。殿は、切れ味鋭いカミソリのようなお方であったが、その半面、不測の衝撃が加わると、あっけなく折れてしまうお方でもあった。光秀の時もそうじゃった。言葉とは裏腹に殿は人を信用し過ぎる所があったのじゃ、でへねへうんば~・・その後、朝倉、浅井滅亡後の年賀の宴では、とんでもない事が起ったのじゃ、うんばうんばば~」
太閤は、苦渋の表情を顔面全体に浮かべながら語った。

上洛後しばらくして、名ばかりの将軍、足利義昭の身勝手な行動が目立つようになり、永禄十二年(1569)信長は、九か条の掟、殿中(でんちゅう)御掟(おんおきて)を発令し、その将軍権力を制限した。このことで義昭と信長に出来た亀裂は修復不能になった。
元亀(げんき)元年(1570)朝倉討伐失敗を契機に、義昭は打倒信長に向け御内書を発布し信長包囲網を結成しようと画策した。
「足利義昭が殿に対し包囲網を結成しようとした時、殿は、義昭め、わしが目をかけてやったのを忘れおって、恩知らずめ、必ず奴を叩きのめしてやる。許さん、あの乞食将軍め、と義昭との仲を取り持った明智光秀の面前でこう言い放たれた。もしも、その時の殿の形相を義昭が見たなら、その凄まじさに縮みあがり、その場で卒倒したことじゃろう、うんばうんばば~」
その後、陣容を立て直した信長は、姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍を打ち破り、天正元年(1573)には小谷(おだに)城(じょう)も陥落させ、長政は自害した。その時、浅井家の旧領を与えられた羽柴秀吉は、小谷城を廃城にして長浜城を築いた。
ここでその頃の情勢を太閤の口から語ってもらおう。

太閤の本音
今、太閤は二人を前にして少し涙声になっていた。
「わしはな、浅井長政が死んだ後、お市様をわしの側室にほしかった。何回も言うが前から憧れていたわけじゃ、でへねへうんば~・・良く分かっておる、でへねへうんば~・・わしのような成り上がり者で、何処の馬の骨とも分からぬ下賤な者にとって、お市さまはしょせん高嶺の花じゃ、でへねへうんば~」
太閤はここでしばし沈黙、眼を閉じ、自分の内部の暗闇を見詰めた。
「高嶺の花じゃ・・・・・・・」
しばらく沈黙が続き、独言のように寂しげに言った。
「悲しゅうおますなでございます、ぶひ~」鬼丸、貰い泣き。
「わしはな、殿をだれよりも慕っていた。浅井と朝倉の軍を食い止めるため、自ら名乗り出て殿(しんがり)を勤めたのもその証じゃ。功を得ようとしたのではない。自分の命を捨ててでも殿を逃がそうとしたのじゃ、うんばうんばば~」
これが太閤の本音かもしれない。五右衛門と鬼丸は太閤の話にこれはまずいことになったと片方で思いながら聴き入っていた。
年を取ると睡眠が短くなる。太閤は急に起こされ、最初はこの二人の闖入者に仰天したが、喋って居る内にこう考えた。まあ場所も伏見城内、賊もこちらの掌の内、奴らもじたばたしても逃げられん。いってみれば、わしの蜘蛛の巣にかかった獲物、存分に甚振(いたぶ)ってやろう。
今の自分の立場では、愚痴を思う存分いえない、それに自分の苦労話も取り巻き連中には、そうもそうも気楽に話せん。
おかしな話だが、太閤はこんな心境になっていた?それに何よりも、あれこれ喋っている内に気分がのってきたのだ。
もともと太閤は気さくな性格、しかもお喋りも遊びも大~好き、これが五右衛門と鬼丸にとってこの後、大変な事になるのだった。
二人が危惧したとおり、太閤の話に拍車がかかり、浅井長政と織田信長の関係を、長々と語り始めた。
それに耳を澄まし辺りの様子を窺うと、もはや寝室は完全に包囲されているようだった。夏の夜、時々、涼しげな風が吹き抜けていくが、部屋の中は生暖かかった。しかし、五右衛門と鬼丸は、あたかも氷が張り詰めたような緊張感にとらわれていた。今や二人は完全に太閤の術中にはまっていた。今更、逃走は絶対不可能、袋の鼠、そんな予感が二人に重苦しくのしかかっていた。
それにしても何故、太閤はこんなにも悠然と構え、話をしているのだろう。もしも、腕に覚えのある警護の者が、部屋に突入し斬り合いになれば危害が自分にも及ぶはずだが、そんな事は考えていないのだろうか、と五右衛門は疑問に思った。
そんな彼の疑問をよそに、この寝所の三人の様子からしておかしな話、外観的には寝台と言う壇上から、太閤が戦国の合戦話しや四方山話(よもやまばなし)を語る独演会にも見えるのだった。
「五右衛門、鬼丸お前達も知っていると思うが、茶々(淀君)と浅井長政との関係を少し話すぞ、ごほごほ~うんば~」
それから太閤は咳き込みながら、五右衛門と鬼丸が全く予想も出来ないぐらい長々と話し始めた。彼らの目の前の寝台に上半身を起こし喋っている人物は、太閤と言う地位を取り去れば、ただの話好きの好々爺(こうこうや)、その彼が、暇に任せ喋っていると考えればよかろう。
太閤は淀君に関係する織田家と浅井家の関係をまず話し始めた。
「浅井家は北近江(北滋賀)を支配していた大名であったが、元は近江を支配する京極家の家臣じゃった。・・京極家の御家騒動のごたごたに乗じ勢力を拡大したのじゃ、うんばうんばば~・・・・長政の父・久政のころ南近江の六角家の勢力が強くなった。・・そこで、その勢力拡大を食い止めるため、越前(福井)に勢力を持つ朝倉家と同盟を結び援助を仰いだのじゃ。・・しかしのう、長政の父・久政は、京極家と六角家との板挟みになり、遂に六角家の支配下に落ちたのじゃ。戦国の習いじゃが、長政は後の名前じゃ!最初は六角(ろっかく)義(よし)賢(かね)の名を一字貰い、賢(かね)政(まさ)と名乗っておった。妻もその家臣の娘じゃった。所うが、六角家の支配から離れようとしたら、六角家の二万の大軍が押し寄せてきたのじゃ、うんばうんばば~・・じゃがな、浅井は六角の半分、一万の軍勢で野良(のら)田(だ)の合戦でそれを打ち破ったのじゃ。・・その後、反六角家の勢力とも手を結び、戦国大名の地位を固めたのじゃ。・・・・なかなかやりおるわい、うんばうんばば~・・一方わが殿、信長様は美濃の斎藤家と戦をしておられた。その時わしも奮戦しておったがのう」
そこで太閤は少し視線を天井に向けた。
彼の脳裏にはその当時の有様が走馬灯のように駆け巡っていたのかもしれない。
「でへねへうんば~でへねへうんば~」
彼は話の途中、幾度となくとってつけたような咳をした。年のせいか、喉に痰が絡み付くのかもしれないが何か作為的でもあった。
「永禄十三年(1570)殿は朝倉に軍を指し向け戦が始まったが、ここで浅井は朝倉と織田の義理と恩義の板挟みにあったのじゃ。・・緒戦は快進撃じゃつた。支城の天(て)筒(づつ)山(やま)城(じょう)と金ヶ崎城を攻略し朝倉の主城、一乗(いちじょう)谷(だに)城(じょう)まで迫ったときじゃった。突如、浅井が我が軍の背後を突いたのじゃ、うんばうんばば~」
「矢張り、恩義でっかでございます、ぶひ~」
「そうじゃ、うんばうんばば~・・浅井は織田と同盟を結ぶ際、朝倉と戦をする場合、必ず相談すると言う約定を交わしていたのじゃ、じゃが、わが殿がそれを無視したわけじゃな。約定を軽視したわけじゃ、でへねへうんば~・・殿としては、お市の方も嫁がしてあることでもあるし、長政の手を汚したくなかったわけじゃ・・・じゃがのう、浅井家としても長年の六角との戦いで朝倉には恩義がある。長政も苦しんだであろうよ。その心情はわしにもようわかる、でへねへうんば~・・・殿としては意外な結果じゃが、浅井は朝倉に恩義を返した、つまり義理を貫いたわけじゃな!・・立派なものじゃ!お市様という色香にも負けずにじゃ!じゃが、でへねへうんば~・不意にじゃ、不意にじゃ、背後から、うんばうんばば~・背後から怒涛(どとう)の如く襲って来たのじゃ。我が方は総崩れになったのじゃ・・・、」
太閤はその時の緊迫した状況を思い浮かべ、一瞬、手で顔を覆った。顔が恐怖と怒りで引き攣っていた。
「蛇足じゃが、わしなら色香に負け、織田家に味方じゃ、言うまでもないことじゃ、でへねへうんば~」
冗談を交え話は続く。
「わいも色香に負けやででございます、ぶひ~」
「殿が命からがら京に逃げ帰った時は、従者は十数人じゃった・・・・う~ん、さっきも言ったじゃろう、殿には意外な弱点があて一方的に人を信じてしまうのじゃ、何故だかわからん、うんばうんばば~・・浅井には、妹のお市の方を輿入れさせ、関係を強化したと信じたが、それは殿からの一方的な見方、浅井からはのう・・・・、でへねへうんば~・・・それにじゃ、光秀の場合もじゃ、殿は殿なりの仕方で光秀を信任し、かわいがられ、目を掛けておられたと思うぞ!」
「殿下はそれ以上に!」
「わしが、わしじゃって、殿には散々言われたわ!猿じゃとか!禿(はげ)鼠(ねずみ)じゃとか!散々じゃった、うんばうんばば~・・・ここだけの話、鞘で頭を小突かれ、尻を蹴とばされたこともあったぞ、うんばうんばば~・・今思い出しても頭が痛いわ、わっはっはっはっ~」
そこで太閤は頭をぼりぼり掻き高笑いした。
「しかし、わしは言われるたびに、歯を食いしばり、これは試練じゃ、殿に命を預けた以上、その命令に従う他ない、と耐えに耐えたのじゃ。うん、うん、まあ臥薪嘗胆(がしんしょうたん)という所かな・・・・お陰でわしに天下が転がり込んできたのじゃ、有難や、有難や・・・・・、でへねへうんば~・・本音を言えば、何年も経つのに、わしは今も夢の中にいるようじゃ」
太閤は両手を合わせ、何度も何度も有難や、有難やを繰り返した。
「明智は私欲に眼がくらみ!わしは耐えに、耐え、天下を得た?皮肉な話じゃ!そう思わんか?五右衛門よ!鬼丸よ」
太閤は自戒をこめて言った。それから、おもむろに髭に指をやりくるりと捻じ曲げた。
五右衛門と鬼丸は、耐えに耐え、太閤の話を聞くばかりであった、もう何かしら身動きの出来ない金縛りの状態で。
「なにやら話がむつかしゅう、おますなでございます、ぶひ~」
「おうおう~、かたい話ばかりで、すまん、すまん、話題を変えよう、でへねへうんば~・・わしの自戒と自慢話ばかりではつまらんからのう・・・話題を変え、ここでな、朝倉攻めの時、有名な二つの逸話を話そうか・・・」
太閤は薄暗がりの中、何と無くその場の堅苦しい雰囲気を察知し話題を変えた。

陣中に豆入りの袋
「その逸話とは?」
「朝倉を攻めている時、殿には実にいや~な予感があったそうじゃ、うんばうんばば~・・いや~な予感じゃ。その予感が的中したのか、思いもかけず、お市の方様から陣中見舞(じんちゅうみま)いの小豆(まめ)が入った袋が届いた。・・殿から後で聞いた話じゃつたがな、でへねへうんば~・・・・・・・殿の言葉を借りてわしが話すとこうじゃ。お市様から陣中見舞いの小豆が入った袋が届いた時、殿はこう思ったそうじゃ。これは小豆でも食べて、元気(まめ)に戦への激励の印かな、と最初は思ったそうじゃ?だが待てよ、待て、待て・・・お市はこんな時、何故、わざわざ小豆などを送って来たのだ?待て、待て・・・なんだこれは?そこで殿はもう一度その袋をよく見られた。そこは勘の鋭い殿の事、その時じゃ、そこに隠されたある暗示が一瞬閃いたそうじゃ、うんばうんばば~」
「その暗示とは?」
五右衛門は膝を乗り出したずねた。
「どないな暗示でございます、ぶひ~」
「それはじゃ、袋の両端が紐で硬く結ばれている、うんにゅにゅ???これは一体?」
「これは一体?」
さらに五右衛門。
「そうか、解けた!両端の紐は朝倉と浅井??そうか、俺は小豆だ!袋の鼠、浅井の寝返り、くそ~う、ただちに陣を畳み退却だ。・・この迅速な判断が、負け戦にかかわらず、殿が無事に京に辿り着けた理由じゃ」
さらに太閤は続けて言った。
「なるほど、わてにはとてもその暗示は解けまへんでございます、ぶひ~」
太閤はそんな鬼丸の発言を無視、我が事のように自慢気に話を進める。
「流石、殿じゃ!流石、お市様じゃ、でへねへうんば~・・わが愛しの女じゃ、機転がきく、やり方もスマートじゃ、うん、うん、うん、うん~・・・その時のわしなら、小豆を取り出しぼりぼり食ろうたであろうがのう、なにせお市様からの差し入れじゃ。浅井が背後から攻めてきた時、鳩が豆鉄砲でも食ろうたような顔をして、討ち死にじゃったろう、うんばうんばば~・・やっておれんわ」
太閤は一呼吸置き話を続けた。
「こんな事を言っては何だが、金ヶ崎の折には、殿は命からがら京に逃げ帰ったわさ。わしはその時、わし自身、わしの運に掛けてみようと殿(しんがり)(退却時、追って来る敵を防ぐ)をかってでたのじゃ、うんばうんばば~・・・」
「金ヶ崎(かねがさき)の退(の)き口(ぐち)でございますね」
「そうじゃ、わしはこの功により後に近江の長浜城(小谷城の資材を活用、長浜の長は信長の長を拝領)の城主に大出世じゃ。余談じゃが、これで一歩、お市様に近付けたわけじゃ、うんばうんばば~・・自慢ではないが、わし一人(実は明智光秀も活躍)の獅子奮迅(ししふんじん)の働きの結果、殿は命からがら退却出来たわけじゃ!・・じゃが、戦は完全な負け戦じゃった、うんばうんばば~・・完敗じゃつた」
そこから太閤は意外なことを口走った。
「しかし、深読みかもしれんが、長政と言う男、単に義理人情で殿に刃を向けたとは思えん。殿にも、何処かで筋を通していた、と思えるのじゃ」
「と、言いますと」
「考えて見ろ、あの場合、お市様の使いの者が小豆の入った袋を持ってきたと言ったが、あの状況では不可能じゃ、でへねへうんば~」
「では長政様が?」
「そうじゃ、長政がお市様に小豆袋を託し、殿に危険を予め知らせ、早く逃げろと促したのじゃろう。不意打ちは本意ではない、なぜ、約定を破り自分をこんな苦境に立たせたのか、と言いたかったのじゃろう、おしい男を死なせてしもうたわ、うんばうんばば~」
太閤は口惜しげに呟いた。成程、太閤の言うとおりだ。長政の後ろ盾がなければ、お市様にいくら才覚があろうが、そんな使いを敵陣に送り込めるはずがないと五右衛門も鬼丸も思った。
「それに蛇足じゃが、その時の褒美に黄金五十枚を殿から頂戴したのじゃ、うんばうんばば~」
さも嬉しそうに太閤は一言付け加えた。

魔の千草峠・信長狙撃される
さらに、この後直ぐに起こったもう一つの事件を語り始めた。
「それに、殿に起こったもう一つの事件は忘れられん。浅井の裏切りで、朝倉との挟撃に合い、命からがら京に逃げ帰った殿は、一旦、岐阜に帰ることにしたのじゃ。・・そこで主要街道は、朝倉、浅井の監視が厳しいため、間道の千草(ちぐさ)峠(とうげ)を通ることにされたのじゃ、でへねへうんば~・・そこに待ち伏せしておったのが、鉄砲の名手・杉谷善住坊じゃった。・・・天をも引き裂く轟音が二回、銃弾が殿目掛けて発射されたのじゃ。静寂(しじま)が破られ河原から続く谷に銃声が木霊(こだま)した。幸いにも弾は逸れ、殿の小袖を貫通しただけじゃった。もしも、銃弾が殿に当たり、落命されていたら、わしの今もなかったじゃろう、でへねへうんば~」
太閤はぽっりと呟いた。
「あぶのうおましたなでございます、ぶひ~」
「それで殿下はその時???」
「わしか?わしはその時、軍を立て直し、再度、朝倉と浅井を討つ為、殿より命を受け武器や兵糧の手配をしておった。刀や槍は言うに及ばず、堺で主に鉄砲、火薬の補給をしておったのじゃ、うんばうんばば~・・素早いご判断だ。一敗地に塗(まみ)れたが、二敗地に塗れんがためじゃ、そこで負け犬になればおしまいじゃからな、うんばうんばば~・・・わし個人からすれば、不謹慎ではあるがのう、お市様を横取りした長政めを、こんどこそ、こてんぱんに叩きのめしてやろう、と思っていたのじゃ。言ってみれば、お市様奪還じゃ、うんばうんばば~・・わしの活動の原動力じゃよ、うんばうんばば~」
「横恋慕やなでございますね、ぶひ~」
鬼丸はつい口を滑らした。
「そうじゃ、鬼丸の言う通りじゃ。じゃが、天下一の美女を娶っておきながら絶対に許さん、うんばうんばば~・・・なんの不足があるのじゃ、義理人情、糞食らえじゃ。長政は若い割には頭がかたい、石頭じゃな、うんばうんばば~・・わしなら犬のごとく尻(しっ)尾(ぽ)を振ってでも殿に尽くしたものを、奴は空(うつ)け者じゃ、でへねへうんば~・・・おっと、つい脇道に逸れたが、狙撃した不埒者に殿はいたくご立腹で、奴の首に賞金まで掛け捜索じゃった。・・その結果、狙撃犯は武田の残党、自称、甲賀忍者で鉄砲の名手・杉谷善住坊とかぬかす糞坊主とほどなくわかった、うんばうんばば~・・・甲賀忍者などと眉唾とは思うが。・・犯人は割れた、奴を捕縛するため追手が放たれた!・・やつもさるもの、巧みに追及の網の目をかいくぐり遁走じゃ、うんばうんばば~うんばうんばば~・・・・しかし、数カ月後、たれ込みがあったのじゃ!奴は高島郡堀川村の阿弥陀(あみだ)寺(じ)に隠れている所を、近江高島郡の領主・磯野員(いそのかず)昌(まさ)に捕まり、織田家へ引き渡されたのじゃ、でへねへうんば~・・・殿はよほど腹に据えかねたのか、わざわざ牢に出向き、奴の頭を五、六発、樫の棍棒で叩いたと聞くわ!・・そこで奉行所の者どもに、どのような処刑方法がよいか、公募じゃ、でへねへうんば~・・或る者は、針千本を身体に刺せとか、生け花の剣山(けんざん)の上に何日か座らせろ、とか、喧々諤々じゃった!・・・ふざけた奴は、彼奴の側に色気漂う女を二、三人置き、その色香で狂い死にさせろとか、彼奴を、蝮を放った小屋に入れ毒牙にかけろとか、まあ役人の考えそうな刑ばかりじゃった」
「色気漂う女!わてならこの刑がよろしゅうおますでございます・・四、五人なら、なおのこと、ぶひ~」
「望み通りにしてやろうかのう」
「ぶひ~・・・・若い女子でお願い・・厚かましいやろか、ぶひ~」
「お前は女に飢えておるな・・・まあそれはそれとしてじゃ、・・その中に竹細工を趣味にする者がおり、立ったまま首から下を土中に埋め、竹製の鋸で時間をかけ、じんわりと首の薄皮を挽く、いわゆる、鋸(のこぎり)挽(び)きの刑が良いと言いだしたのじゃ、うんばうんばば~・・如何にも、陰湿なお宅男の考え付きそうなやり方じゃ、うんばうんばば~・・・殿もそれがいたく気に入り、よしそれだ、直ちにやれ、とご命令された。・・・奴を安土の街道沿いの道端に大きな穴を掘り、首(くび)枷(かせ)を嵌(は)め、首だけ出るように土をかけ、立ったまま生き埋めにした後、ぎいこっ~ぎいこっ~と野次馬や通りすがりの者にその首を竹製の鋸で挽かせたのじゃ。・・一週間あまりで失血死じゃ、でへねへうんば~・・・血が失せて青白くこちこちになって死んだそうじゃ、うんばうんばば~・・残酷で残忍な提案をする奴もおるものじゃて・・・・」   
言い終わると太閤はじろりと鬼丸を見た。
「わわわわわわ~わっっわいはいややで・・、わいはその色香の・・・ぶひ~」
五右衛門と鬼丸は、自分達が竹鋸で首を挽かれるような陰鬱(いんうつ)な気分に陥っていった。その時、太閤は意地悪気に再び鬼丸の顔を見詰めニヤリと笑った。
「ぶひ~」
それから、おもむろに髭に指をやり、いかにも意味ありげにほくそ笑み、先端をくるりくるりくるりと捻じ曲げた。
まさか、自分達を鋸引の刑にするため、この話を持ち出したのではあるまいな、鬼丸は、自分の金玉がギュッと縮みあがっていくのを感じた。そして思わず、ききゃ~やめてくれや、ぶひ~、と心の中で恐怖の叫び声を上げ、手で首の辺りをそっと撫でた。ぞくぞくっ~と全身に悪寒が走り、ふと顔を上げると、まるで蛇の赤い目そのもの、太閤の目がじっと彼を睨むように見詰めていた。もう・・・あかん・・かんにんやで!彼は全身からす~っと血が抜け出て行くような気色悪い感覚にとらわれていた。

姉川の戦い
「元亀元年(1570)六月二十八日ついにその時がやってきたのじゃ、うんばうんばば~」
「その時???」
「その時じゃ、姉川の戦いじゃ、うんばうんばば~・・・・ここから朝倉、浅井の滅亡の序曲が始まったのじゃ、うんばうんばば~」
太閤は、浅井の裏切りによる金ヶ崎(かねがさき)崩(くず)れの後、反撃の狼煙を上げた日のことを語る時は語調が少し高くなった。
「殿は長政を高く買っておられたが、可愛さあまりて憎さが勝る、正に諺通りじゃった。殿には約定を破ったという、非があるのじゃが、うんばうんばば~・・・それに金ヶ埼崩れの後、殿と義昭との関係も次第に亀裂が入り始めたのじゃ」
疲れを知らないかのように太閤は語り続ける。
「その時、殿は三十七歳、わしは三十四歳、家康二十九歳、それに長政は二十五歳じゃつた。意外じゃろう、殿とわしとはたった三つしか齢が違わんかったのじゃ、でへねへうんば~」
「意外でございます。懐で殿下が信長様の草履を温めたお話など聞きますと、十歳以上は殿下が若い様に聞こえます」
「そやそやでございます、ぶひ~」
「若き日のわしの草履の話か、ばつが悪いぞ、その話は作り話じゃ、はっはっはっはっは~」
五右衛門は思いつくまま、太閤の出世物語を引き出した。
「あの頃が懐かしいのう、でへねへうんば~・・・姉川の戦いでは朝倉・浅井の連合軍は強かったぞ・・その時、わが織田軍は三万、徳川五千、合計三万五千の大軍勢じゃつた、でへねへうんば~・・・一方、朝倉一万八千、浅井三千、合計二万一千の両連合軍が激突じゃ。・・・織田は一番手が坂井(さかい)政(まさ)尚(なお)じゃつた。二番手は池田恒興、三番手はわし(羽柴秀吉)、四番手は柴田勝家じゃ・・わしらの陣は、十三段の縦並びの陣立てじゃった。それがじゃ、十一段まで撃破された時には、さすがのわしもこれはまずいと思ったわ。じゃが、戦は最後までわからんて、うんばうんばば~・・美濃三人衆と徳川軍が敵方を横から攻撃し、なんとか持ち直しよ。所で、浅井の先鋒は、誰じゃと思う、驚くべきことにじゃ、あの杉谷善住坊をひっ捕らえた磯野員昌じゃった、うんばうんばば~・・此奴は姉川での働きで員昌の姉川十一段崩しと言われるほど勇猛果敢でであった。・・今日の味方は、明日の敵、世の中一寸先は真暗闇よ、はっはっはっはっはっはっはっ~・・・まるでくるくる回る風車じゃな、でへねへうんば~」
太閤は愉快そうに高らかに笑い、髭に指をり、先端を二回くるりくるりと捻じ曲げた。
「ほんま風車や、くるくるぐるぐる回る、が回りそうやなでございます、ぶひ~」
「数で勝る我が連合軍は、敵にかなりの損害を与え、浅井は小谷城で敗退、朝倉は一乗谷城に退却じゃ!・・・情勢は厳しさを増したが、正親町天皇の勅命により、織田・徳川は朝倉・浅井と和睦し、共に兵を引いたのじゃ、でへねへうんば~」
「所でその後、磯野様はどないになりやしたでございます、ぶひ~まさか討ち死にされやしたので?」
「奴か、その後殿下がその勇猛果敢さを買い、召抱えたが、彼の性格故、しばらくして殿の勘気に触れ追放されたが、変の後、領地に帰り百姓になったと言うことじゃ」
「武将が百姓に、なんちゅうこっちゃ、正に風車そのものでおますなでございます、ぶひ~」
鬼丸も、又側にいる五右衛門も、何とも虚し気持ちであった。この戦いで織田・徳川は八百人、朝倉・浅井は千八百人が戦死したと言われている。今もその辺りに血原、血川の地名があることから、いかに戦いが凄まじかったかが想像できる。

天魔の変化・比叡山焼き討ち
ついに後世にも悪評高い、織田信長の比叡山焼き討ちが開始された。
本願寺をはじめとする寺社勢力は、強大な僧兵軍団や多数の信徒、農民、それに加え有力大名とも手を組み、武器や軍事指導者までも派遣し、一揆を先導するなど自衛力を超えた一大軍事集団と化していた。
天下布武を掲げ、天下統一を果たそうとしていた信長にとって、彼らは眼の前に立ちはだかる大きな障害となった。この観点からしても、両者はいつか激突する必然性を帯びていたのだった。
織田信長は姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍を打ち破り、金ヶ崎敗退の雪辱を遂げたが、両家を滅ぼす事は出来なかった。この頃から、信長と敵対する勢力が包囲網を形成し始めた。この包囲網は、第一次~三次に及んだ。
初め、この包囲網に朝倉、浅井は言うに及ばず、信長により京から追われた三好三人衆や六角等と手を組んだ石山本願寺門主・顕如(けんにょ)までもが加わり、それに連動する形で長島一向一揆なども起った。
石山本願寺は当初、山科(やましな)本願寺が拠点であったが、天文元年焼き討ちに合い廃寺になった。
本願寺は加賀に大きな勢力をもっていたが、都からの交通の便の良い大坂(おおさか)御坊(ごぼう)周辺を一大城塞化し、そこを本拠地に石山本願寺を構えた。
石山合戦と言われるのは、顕如が石山本願寺に立て籠もって戦ったのでこう呼ばれる。
石山合戦は、元亀元年より天正八年までの十年の長きに渡り戦われた。事の起こりは、本願寺の立地地点が、三好三人衆や毛利氏が勢力をはる阿波、淡路、それに山陽道や四国に通じる戦略地点であり、各地の一向一揆を先導し、天下統一を果たそうとしていた信長の進路を阻んでいたことによる。信長はその年の九月、突如、顕如に本願寺を破却すると通告、両者の対立は決定的となった。
また都の戦略的一大拠点であった比叡山延暦寺にも信長の魔の手が及んだ。その理由は、朝倉・浅井両軍は姉川の戦い以降、野田城と福島城の戦いでは、織田軍の背後を突くなど、その存在を脅かし、戦況が不利になると比叡山に逃げ込み抵抗(志賀の陣)した為、予てから目障りな存在であったこの戦略的拠点を信長は叩き潰そうと軍を結集させたのだった。  
しかし、戦いは両陣営に人的、物的両面において多大な消耗を強い、泥沼の様相を帯び始めていた。そこで信長は、この窮地を脱する為、正親町天皇に仲介を頼み停戦にこぎつけた。

明けて元亀二年、ついに火薬庫の導火線に火が点けられた。
伊勢長島の一向一揆に苦戦したが、近江北部の一向一揆と朝倉・浅井連合軍を羽柴秀吉が敗走させると、情勢は織田に有利に傾いた。
数ヶ月後、信長軍は突如、比叡山の全ての出入口を封鎖し、三万の軍勢で東山麓を包囲し外部への退路を断った。
比叡山一門はもとより世間一般でさえ、長年この地は神聖不可侵の領域だとされて来たが、疾風怒濤(しっぷうどとう)の勢いで天下布武を掲げ、自らを六欲天の魔王と称していた織田信長にとって、この地は、単なる一障害物でしかなかった。

「元亀二年の比叡山焼き討ちは?」
「比叡山焼き討ち?わしとしては最も話したくない話題の一つじゃな!・・前にも言ったように、朝倉・浅井と姉川で戦ったじゃろう、うんばうんばば~・・ その後、朝倉・浅井と野田と福島城で戦ったのじゃが、ここでも背後を突かれ苦戦したのじゃ、うんばうんばば~」
「それから?」
「まあ急くな!戦いで敗色が濃くなると、朝倉・浅井は、あろうことか比叡山に逃げ込み攻防戦となった。・・・この戦いを志賀(しが)の陣というのじゃ、うんばうんばば~・・・このころ、朝倉、浅井に加え、三好三人衆、六角、さらに石山本願寺、比叡山等仏教集団が加わり包囲網を作ったのよ。・・・それで伊勢長島などの一向一揆も激化し、苦境におちいった殿は、正親町天皇の仲介で和睦にこぎつけたのじゃ、でへねへうんば~・・・翌年わしは近江横山城を守っていたが、佐和(さわ)山城(やまじょう)の丹羽長秀とともに岐阜から琵琶湖湖岸への道を確保するよう殿から命を受けた。・・その後、伊勢長島の一向一揆と近江の一向一揆等にてこずったが、箕浦(みのうら)の合戦でわしが勝利し、比叡山じゃ!」
「何故、比叡山やでございます、ぶひ~?」
「何故?比叡山?鬼丸よく考えてみよ、織田家は岐阜と京に拠点をもっておった。近江の安定、街道確保こそが織田家が存続するための最重要課題じゃつたのじゃ。・・その為、目障りな比叡山を占拠し、監視の眼を行きとどかせることが必要だったわけじゃ、でへねへうんば~・・どうじゃ、鬼丸」
「成程、しかし殿下、比叡山は昔から神聖不可侵の聖地とちがうやろかでございませんか、ぶひ~?」
「そうじゃ、比叡山は昔から神聖不可侵の聖地として崇められてきたがのう、過去にはな、あくまでも過去にじゃぞ、でへねへうんば~・・・それがどうじゃ、それをいいことに、いつのまにか僧兵三千人を擁する一大城塞に変貌し、ことあるごとに政治に口をはさみ、門徒を先導し利権を盾に、私利私欲に満ち満ちた主張を繰り返してきたのじゃ。・・・宗教とは武装することか?それに、糞坊主どもが修行もせず腐敗し堕落の限りじゃ、うんばうんばば~・・奴らは肉を食らい、姦淫し、まるで俗世以上の生活をし、神聖不可侵じゃ、とぬかし特権を振りかざす、そんなものが宗教か、ごほごほ~・・・僧侶にあるまじき下賤で不埒な諸行を行いながら何が特権じゃ、うんばうんばば~」
太閤はここで大きく咳き込んだ。
「しかしその当時、わしもまやかしの神仏の教えに騙され、比叡山焼き討ちなどとんでもない神も仏も恐れぬ悪魔の所業じゃ、と畏怖さえ感じていたのじゃ、うんばうんばば~・・こんな事をすれば、必ずや恐ろしい天罰が下る、とな・・・信玄公も殿下のこの諸行に信長こそ天魔(てんま)の変化(へんげ)と罵られたとか・・南無阿弥陀仏・・・・・」
その時、太閤は目を閉じ低い声で念仏を唱えた。
「じゃが、良く考えて見れば、どれもこれも広義の意味で神仏を語る権力の奪いあい、狭義の意味で私欲どうしのせめぎ合いじゃ・・一番被害を受けたのは百姓や門徒衆じゃ、でへねへうんば~」
太閤は熱弁を振るい少し疲れたのか、そこで寝台脇の水差しから冷やした茶を湯呑みに注ぎ、ごくごくと美味そうに飲んだ。それから、話を加速させた。
「その日が遂に来たのじゃ、うんばうんばば~・・その数日前から、人馬が行き交い、戦が始まるというただならぬ不穏な動きに、山裾辺りの住民も山が焼き討ちに合うなど露とも思わず、比叡山は安全じゃと避難をし始めたのよ。この盲信こそ悲劇を生んだ元凶(げんきょう)じゃった、でへねへうんば~・・坊主どもは山裾の異変を察知したが、まさかそこまで殿がやるとは思わず、安心しきり無防備に近い状態じゃった。・・所が、裾野の各所で松明(たいまつ)により放たれた火が、山頂に向かい激しく燃え上がり始めると、ことの重大性に気付き、血相を変え走り回り大混乱におちいったのじゃ、うんばうんばば~・・ 一度放たれると、火は得体の知れぬ魔物と化し、根本(こんぽん)中堂(ちゅうどう)、大講堂(だいこうどう)辺りでは、燃え盛る杉や檜の高木がパチパチ音を立て、真っ赤な無数の火の粉が、逃げ惑う僧兵、僧侶、修行僧、門徒、難を逃れて来た老若男女の頭上に雨、霰と容赦なく降り注いだのよ!その光景は地獄絵巻そのものじゃったと聞く、うんばうんばば~」
そう語る太閤の皺立ち眼孔がおちこんだ顔は、鬼気迫る形相で薄闇の中で二人を睨みつけているようにも見えた。
その時、太閤は比叡山一角の香(か)芳谷(ぼうたに)と湖上で部隊を展開、山上の悲惨な状況は目撃していなかった。この話の大半は、後から弟、秀長や他の者達から聞いた話の内容に、太閤があれこれ粉飾し語っているものだった。その意味からすると、太閤はその時代を語る語部でもあった。
「悲劇はそれだけではなかったのじゃ。・・
血に狂った我等の武者どもが、木間や宿坊に立籠る者達を、老弱男女かまわず引きずり出し、その首を一人一人斬り落としていったのじゃ、うんばうんばば~」
二人は、太閤の残酷な話に、徐々に自分達の置かれている状況に不安を感じ始めていた。
そこで、鬼丸が密かに五右衛門の袖を引いた。
彼らは完全に太閤が発する何か得体のしれない悪魔的な力に呪縛(じゅばく)されてしまっていた。
たまらず、鬼丸がごそつくと、その気配を敏感に感じた太閤の口から甲高い声が部屋中に響いた!
「そこの下郎!不安げにごそついているな、まあ待て、わしがお前等を捕まえると危惧しておるのか、でへねへうんば~・・・わしは太閤じゃ、天下人だぞ!ごそついても無駄じゃ、お前達の命はこの寝所に侵入した時からわしの掌中にある虫けらも同然、肝にめいじて忘れるでない、うんばうんばば~・・わしの安眠を妨げた狼藉者らが、じたばた今更するでない、うんばうんばば~・・わしを見くびるな、お前達の思っとるほどわしは、料簡は狭くないぞ。表門から堂々と放してやる!今夜は話に興がのってきた、ええ気分じゃ、ううういいい~でへねへうんば~」
太閤は酒に酔ったようにも見えた。

第五章

年賀の酒宴・頭骸骨の杯

信玄死す
元亀三年(1572)十二月二十二日、三方ヶ原で徳川家康は、一万一千の軍勢で、上洛途中の武田信玄率いる二万五千の軍勢に立ち向かい惨敗を帰し岡崎城に逃げ帰った。
武田軍は、刑部(おさかべ)で越年、翌四年一月、三河に侵攻、二月十日には野田城を落城させた。
武田信玄の上洛のきっかけは、第二次信長包囲網を策した足利義昭の呼び掛けによったとも言われている。
「はっはっはっ、家康め、信玄の毒気にあてられおって、馬上で糞を垂れおったか!」
岡崎城に逃げ帰る途中、馬上で家康が糞をちびった話を後で聞いた信長は愉快そうに笑ったと聞く。
三方ヶ原に先立つ二俣(ふたまた)城(じょう)攻防戦では、城内の水の手を抑えられ、善戦空しく落城させられた。    
三方ヶ原は雑木や草原が広がる台地で、武田軍とまともに正面から激突すれば、徳川方の敗北は眼に見えていた。家康は浜松城に籠り反攻の機会を狙っていた。
そんな徳川方の動きを見て、武田は、徳川軍をこの台地に誘(おび)き出そうと一計を策した。そこで永禄三年、織田信長がかの桶狭間で僅か二千あまりの小勢で、二万五千の今川義元を打ち破った合戦を意図的に再現させようと、わざと三方ヶ原から狭い祝(ほうだ)田(だ)の坂を下り、徳川軍が背後から襲うように仕向けた。
桶狭間では今川勢は不意打ちをくらったが、武田軍は坂を下ると見せ、中央部分を突出させる魚(ぎょ)鱗(りん)陣(三角形)で待ち伏せた。対する徳川軍は両翼を前に出す鶴羽(かくよく)陣(v字形)を構えたが、僅か二時間あまりの戦闘で、武田方の二百名の死傷者に比べ徳川方はその十倍の二千名もの死傷者を出す大惨敗を喫した。
そのまま武田軍が進撃すれば、徳川家自体の存亡さえ危ぶまれる重大な危機に家康は直面した。だが、武田軍は三河の徳川方の諸城を攻撃中に、突如ピタリと攻撃を中止し、甲斐に引き返し始めた。
この異常事態に、その直後から信玄は病に倒れ亡くなったという噂が流布し始めた。
信玄の死因は、色々推測されているが、長年患っていた労咳(ろうがい)(結核)が主因であったと言われている。
信玄亡き後、彼の遺言によりその死は三年の間秘匿(ひとく)され、遺骸は諏訪湖に沈めたとも言われている。
信玄が亡くなった事により、歴史は大きなうねりを伴い蛇行し始めた。
「天もわしに味方をしておる。これでわしの天下布武の道も開けたも同じ、目出度い、祝宴だ」
その後、信玄の死が明らかになった時、信長は大いに喜び祝宴を催し武将達の労をねぎらった。

浅井、朝倉の滅亡
三方ヶ原の合戦で、武田軍により徳川・織田連合軍は完膚無き迄も打ち砕かれた。これは、一つには織田包囲網により、信長が徳川に十分な援軍を差し向けることが出来なかったことに起因する。
しかし、この戦いで示されたように、武田が誇る戦国最強の騎馬軍団は強力であり、もしこのまま武田が西上していたなら、信長でさえ、到底太刀打ち出来なかったかもしれない。
天もわしに味方しておる、これは信長にとって天啓だったに違いない。その後、戦乱の激動の渦はあらゆる物を巻き込みその勢いをましていった。
その三年後、織田・徳川連合軍は、武田の誇る騎馬軍団と長篠(ながしの)・設楽ヶ原(しだらがはら)で激突、死闘を繰り広げることになる。

愛しのお市様を奪還
「天正元年(1573)朝倉とは一乗寺城で、浅井とは小谷城の合戦じゃ、浅井を滅ぼし、わが愛しのお市様を奪還じゃ、うんばうんばば~」
ここで太閤は上ずった口調になった。
かなり興奮しているのか、御簾(みす)を通して吹き込んで来る涼しげな風にもかかわらず、額がかなり汗ばんでいるようにも見えた。
今まで気付かなかったが、この部屋は襖が取り払われた個所に御簾が所掛けて有るが、或る所は外部から筒抜けに見えるのだ。
何故今まで、こんな事に気付かなかったのだろう、その時初めて五右衛門は、緊張状態から解放され辺りを見回した。
一方太閤は肝が据わっているのか、微塵も五右衛門達の脅迫に動じる素振りさえみせなかった。天下人としての自信なのか、百戦錬磨の猛者なのか、彼ら二人の目の前に半身で座る年老いた小男からは想像できない威厳が、寝台の辺りから漂って来るのだった。
突然、太閤の嗄(しゃが)れ声が、辺りの空気を振動させた。
「殿は朝倉と浅井、それに比叡山等の陰に足利義昭がからんでいると察知し、 永禄十一年義昭を奉じて入京したが、度重なる裏切りに、ついに堪忍袋の緒が切れ、奴を京から追放したのじゃ、うんばうんばば~・・殿が二条城まで築城してやったのに、力も無いくせにたびたび御内書を発布し、てこずらせおって、奴は誇大妄想狂じゃ、うんばうんばば~・・さて、三方ヶ原の合戦の後、天は我が殿に味方され、永年の目の上のたん瘤(こぶ)、信玄公も病死よ。信玄公は影武者などたて、己の死を隠すよう命じていたようじゃがのう。この後、長篠の戦いで勝頼と決戦じゃ!影武者などな・・・・」
ここで太閤は何か意味ありげに言った。
「所で小谷城の合戦で長政様はどないなことにならはったのでございますか、ぶひ~?」
めずらしく鬼丸が言った。
黙っていると不安が募るばかりなのか、彼としては大胆な行動に出た。
「長政は自刃したと聞く」
そっけなく太閤。
「お市の方様はどうなりましたか?」
すかさず五右衛門がたずねた。
太閤が本当に話したかったのは、お市の方様のことだと直感した。
「お市の方様には、知ってのとおり三人姉妹の娘・茶々、初と江様達がおったが、皆無事に城外に逃れたのじゃ。二人の男子のお子様の内、嫡男・万福(まんぷく)丸(まる)様はわしの手の者が殿の命令で手に掛けることになり、後々までもお市様には恨まれることになった、でへねうんば~・・・・わしが悪いのではない。殿のご命令じゃ、でへねうんば~・・・次男の万(まん)寿(じゅ)丸(まる)様は殿が出家させた。じゃが、万福丸様は如何に殿のご命令であったとは言え、わしの手の者が手に掛けた、それがわしの一番胸の痛い所じゃ、でへねうんば~・・・・五右衛門よ!わしは泣きたいわ・・・づづっ~、でへねうんば~」
ここで太閤は鼻水を啜り涙声になった。
「ここだけの話、わしは前にも言ったが、御市様を恋慕っておった。わしもその時、羽柴筑前と名乗り多少は出世しておったので、出来るならお市様を側室に欲しかったのじゃ、うんばうんばば~」
遂に太閤の本音が出た。
「じゃが、わしのような下賤な足軽上がりの成り上がり者には、お市様は高嶺の花じゃ!口が裂けても側室にくれ、とは言えん!その上、殿の命令だったとは言え、お子を手にかけた敵(かたき)よ。わしは、わしはどうしたらよかったのじゃ、でへねうんば~・・・うえ~えん~」
ここで一段と涙声になった。
感情が昂ぶって抑えきれないのだ。
「何日も人知れず泣き明かしたぞ。足軽上りの成り上がり者には分不相応(ぶんふそうおう)な事は分かっておる。じゃが、かなしいのう、でへねうんば~」
前と同じ様な後悔じみた言葉を吐き、悔しさを顔面ばかりか身体全体で表わし、今にも泣き崩れんばかりであった。
五右衛門にもそんな悲しい思い出があったのか、感情の琴線が微妙に振動し、ほろりと涙が頬を伝わった。今夜の俺はどうかしている、彼は袖で涙を密かに拭いた。本当の所、辺りを憚らず号泣したいぐらいだ。もしも彼が泣き出せば、太閤も鬼丸も同じ様に泣きだしたにちがいない。その場の雰囲気はいつの間に、なにかしら湿っぽくなり、涙を誘うものになっていた。
だが驚く事に、太閤はよほどお市様に未練が残っていたのか、本当にわんわんと泣き出したのだ。これ以上、感情の昂りを抑えることが出来なかったにちがいない。もしも、これが芝居であれば相当の役者と言えよう。
二人も何が何だか分からないのだが、これも、いい年をして貰い泣きしていた。
そんな事もあり五右衛門と鬼丸は、太閤の独演会場の部屋から逃げ出す事など完全に忘れていた。

お市様を筋肉マンに横取りされる
「わしのお市様を横取りした柴田の奴は絶対に許せん。お市様が事もあろうに、あの脳足りんの柴田勝家の嫁になるとは・・・・許せん!
柴田め、必ずや息の根を止め、お市様を略奪してやる。わしはかたく、かたく心に誓ったのじゃ、でへねうんば~・・・身分の壁はむごいのう。もしわしが由緒ある家の出なら!もしかして、殿はわしにお市様を側室にくだされたかもしれん。きっとくだされたに違いない。・・わしは金ヶ崎の敗走の時には殿(しんがり)まで勤め、命がけで殿をお守りした功労者じゃぞ、うんばうんばば~・・・どこでもじゃ、わしは命をかけ殿につくした。殿はわしが命を捧げてもお守りする絶対的価値があったのじゃ!絶対的価値じゃ、うんばうんばば~・・・姉川、小谷城の戦いでも人一倍成果をあげたと自負しておる。所が殿は、わしをいくら重用していても、所詮、お前は身分が低いと心の片隅でわしを卑下しておられたに違いない。・・儚(はかな)い夢じゃった、でへねうんば~・・まあ過ぎたことはええ・・・・」
とは言ったものの、心の片隅には、主君信長へのある種の不信感が芽生え始めていたにちがいない。太閤は寂しげな顔をして涙を寝巻の袖で拭った。
この後、太閤の果てしないお市様への執着心は、その身代わりともいうべき茶々に向けられた。その時茶々は五才、太閤三十六才、なんと三十才も年齢に開きがあった。言ってみれば、孫(まご)とお爺(じい)ちゃん、彼は茶々の内に何を見たのだろうか。

怨嗟の塊・頭蓋骨の杯
天正二年正月、年賀の宴。
「わしが仰天し、思わず小便を漏らした出来事はこれじゃ、でへねうんば~・・朝倉、浅井が打たれた天正二年、年賀の折に、わしら居並ぶ近しい家臣や馬廻(うままわり)衆(しゅ)の前に立派な黒塗りの箱が三つ並べられた。・・・今日は正月、目出度い!お前たちによい酒の肴を見せてやる、殿は高く響く声で言われた。・・その箱に何が入っていたと思う、五右衛門、鬼丸よ!」
「その肴、さぞ珍味の品やったのではないかでございましょう、ぶひ~?」
「珍味の品が?そうじゃ、わしもさぞ珍味の品がその箱の中にぎっしり詰まっていると思った。・・わしだけでなくその席にいた一同の者皆がそう思ったに違いない。皆は身を乗り出し、その箱を、固唾を呑み凝視したのじゃ、はっはっはっはっはっはっはっはっ・・・・・でへねうんば~」
その笑い声とは裏腹に、太閤の顔は引き攣り、両眼だけが薄闇の中、異様なまでに光彩を放っていた。
「無論、正月ですから、その珍味の品はさぞや豪勢な肴でございましょう」
「そうじゃ、豪勢な肴じゃった、でへねうんば~」
「どないな肴でございました、ぶひ~?」
鬼丸は思わず舌舐(したな)めずりした。
「ところうが、その肴たるやびっくり仰天じゃ!驚くなかれ、出てきたものは浅井久政、長政親子と朝倉義景の頭蓋骨(しゃれこうべ)に黒漆を塗り、それに金泥(きんでい)を塗った薄濃(はくだみ)の杯じゃった、うんばうんばば~」
「ひえ~頭・・蓋・・頭の酒杯・・・何たる残忍さ」
思わず五右衛門が叫んだ。
「な・・ん・・や・・て、頭・蓋・・骨の酒杯、そりゃ残酷やでございます、ぶひ~」
鬼丸は全身をわなわな震わせた。
「わしも戦場では幾千、幾万の死(し)屍(かばね)を見てきたが、その三つの頭蓋骨の酒杯の異様さは、名状しがたいものじゃった。良く見るとそのどの杯も悲しげな面をしておった、でへねうんば~・・・・・見た瞬間、あまりのことに居合わせた者共のどの顔も引き攣り、身体が青く縮みあがり、じりっと一歩後ずさりじゃ、うんばうんばば~・・・はっはっはっ~な・・な・・なんという・・・」
「あ~あっ~・・・残忍過ぎます!」
「ほんまにこれは狂気の沙汰や、残忍やで、でございます、ぶひ~」
「そうだ、その場におらんと分らんが、殿の
怨嗟(えんさ)が薄濃の杯に凝縮し、それを見たとたんわしは身体が縮みあがり、視界の中のあらゆる物がねじ曲がって見えたのじゃ、そこにおった皆も同じ心地じゃったんじゃろう、うんばうんばば~・・殿は露骨に、俺に逆らう奴の末路はこうだと、言葉ではなく、彼らの頭蓋骨の酒杯で示されたのじゃ、うんばうんばば~」
「それから・・・・」
「仰天するのは、その次じゃった・・・・さあさあ、この杯で年賀の酒を酌み交そうぞ、目出度い、殿は満面に笑みをたたえ、こうおおせられたわ。・・・所が次に、猿!近くに来い!一献つかわす、とまずわしを御指名じゃ。・・」
「先ず殿下に御指名やなんて、なんでやねんでございます、ぶひ~」
「そうじゃ、わしの青ざめた顔を見られ、名指しで御指名じゃ、でへねうんば~・・・殿自らなみなみと長政の杯に酒を注ぎわしに差し出されたのじゃ、とほほほ~、でへねうんば~・・ありがたき幸せでございます。・・わしはそう言った後酒杯になみなみとつがれた酒を、目をつぶり、ぐいぐい飲みほしたのじゃ、でへねうんば~・・自棄糞(やけくそ)じゃつた。わしは何とも言えん心境になり、緊張のあまり思わず小便をチビリそうになったのじゃ、ちびったかもしれん。褌が少し濡れておった・・次に殿は、羽柴どうだ、この味は格別であろう、と言われたので、わしも格別でございます、と応えたが胸の内は複雑じゃった。その酒は長政の無念さが滲み出ていて苦い味じゃった、でへねうんば~・・それにわしはその酒杯に自分の頭蓋骨を重ねて見ていたのじゃ。その恐怖はどれほどじゃったか・・・。居並ぶ者共もわしと同じことを思っていたに違いない。・・・わしの人生で、あんな苦い酒を飲んだのは、あの時が最初で最後じゃった、でへねうんば~・・・・他の者共もきっとそうじゃったろう。・・わしが見廻すと、みなの顔も蒼白(あおざ)め、ぴくぴく痙攣しておったわ。殿は嗜虐的(しぎゃくてき)な傾向があったからな、うんばうんばば~・・・わしはな、その時、殿の、背後に、悪、魔、の、化、身を見たのじゃ、うんばうんばば~・・」
自分の内面の恐怖を強調するためか、わざと言葉を区切って言った。
「殿下、その杯はその後、どないになったのやでございます、ぶひ~」
聞かなくてもいいのに鬼丸がふと漏らした。その言葉を聞くと太閤の額の辺りがぴくりと動いた。
「なぬっっ・・・・長政の杯は殿から拝領し、大切にわしが持っておる。それそこの棚の桐箱の中じゃ。」
しばらく沈黙が続いた後、太閤は不機嫌そうな顔をして、ぶっきらぼうに応えた。
えええっ~長政の杯を太閤が、なんでやねん、ぶひ~、それを聞いた鬼丸は震え上がった。
この事を裏返すと、太閤のお市様への執着がいかに激しく、また病的だったかが露呈した瞬間だった。彼にとってお市様を奪った長政は生涯の敵、何と言う横恋慕。それから部屋の中は少しばかり気まずい雰囲気が漂った。
「鬼丸よ、その杯で一献とらす、うんばうんばば~」
何を思ったのか太閤は急に鬼丸に声を掛けた。
「ぶひ~そんな滅相なことやでございます、ぶひ~」
危うく鬼丸はその場に卒倒しそうになった。
「はっはっはっ~冗談じゃよ」
「そんな・・・・ぶひ~」
鬼丸と五右衛門は暗い気持ちになり互いの顔を見詰め合った。二人の全身の皮膚から冷や汗が滲み出ていた。
もういいや・・どうにでもなれ、どの道豚死や、ぶひ~
鬼丸は自虐的になり覚悟を決めた。

一呼吸置き、太閤はそんな二人の心中を全く無視するかのように話を進めた。
「天正元年(1573)朝倉、浅井両家は滅亡し、名ばかりの将軍、足利義昭も、殿が都から追放し室町幕府は事実上終焉(しゅうえん)したのじゃ。・・・力がなければ幕府もへったくれもなかろうよ、でへねうんば~・・わしが天下を取った後、義昭め!観念したのか隠れ先の備後から出て来て、己の愚かさを悟ったのか、将軍職を辞退しおったのでのう、わしは不憫に思い、京の南、山城槙島(まきしま)に一万石の領地をあたえてやった、うんばうんばば~・・その時、奴め、貧相な身形(みなり)をして、わしの所に泣きついて来よった。やつの粘りと執念には頭が下がるぞ、うんばうんばば~・・ああいう男をしぶとい奴と言うのじゃ・・・まあしかし、面白い男じゃ、はっはっはっ~」
こう話した後、太閤は楽しげに笑った。

長島一向一揆
元亀元年(1570)、信長は比叡山で朝倉、浅井と対峙し身動きが出来ない時、長島を牽制する為、小木江(こぎえ)城(じょう)を守っていた信長の弟・織田(おだ)信(のぶ)興(おき)は一揆勢に攻め立てられ自害し、伊勢桑名の滝川(たきがわ)一益(かずます)も敗走した。
元亀二年、佐久間信盛や柴田勝家が率いる五万の軍勢は長島を攻撃したが、一揆勢は信徒、雑賀衆、それに本願寺傭兵など十万の兵を動員しこれに対抗した。又、一揆側の食糧、武器の補給路である伊勢湾でも、織田方は制海権を取れず撤退を余儀なくされた。
天正元年、朝倉、浅井を滅亡させ、同二年、信長は本願寺や越前、さらに長島の一向衆を殲滅(せんめつ)するため、美濃より津島に本陣を移し、織田全軍を総動員、陸と海から長島に八万の軍勢を結集させ、本格的な軍事加入を断行した。一方、一揆勢は十万の人数を集め輪(わ)中内(じゅうない)の砦で激しく抵抗した。
天正二年、長島総攻撃が敢行された。三度目の侵攻で信長は、不退転の決意をもって一揆勢壊滅作戦を断行した。一揆勢も主な五つの城(砦)、長島(ながしま)、屋(や)長島(ながしま)や中江(なかえ)、篠(しの)橋(はし)、さらに大鳥居(おおとりい)に立て籠もり激しく抵抗をするが、兵糧攻めに合い、まず八月には篠橋と大鳥居が陥落、九月末には織田方は和睦(わぼく)に応ずるものの、長島城から退出しようとした一揆勢に襲いかかった。
一揆勢はこれに反発、捨て身の攻撃を敢行したため、織田勢は大混乱に落ちいった。
ここで信長は残る二つの城(砦)、屋長島と中江を二重の柵で取り囲み、二万の一揆勢の大虐殺を行った。この戦いでも一向信徒の抵抗は激しく、信長は兄・信広、弟・秀成など身内までも失う甚大な損害を被った。

「五右衛門よ!鬼丸よ!」
太閤はしんみりとした口調で二人に語りかけた。
ここから長々と、太閤は一向一揆とその当時の世相と宗教観を語り始めた。
「わしが戦ってきた日々、この国ではあちらこちらで合戦があり、戦場や野山には累々と屍が曝されていたのじゃ、うんばうんばば~・・戦いの都度、その煽りで農家にも火が放たれ、罪もない百姓までが路頭に迷い、多くの者が殺され、傷つき、略奪され、或る者は売られ、生きることへの虚しさが、人の心の奥深くまで沁み渡っていたのじゃ、でへねうんば~・・そんな世では、人はこれから日々の生活がどうなっていくか不安にとらわれるでのう。まして食物も、住む家も戦火で消えてしまえばなおさらじゃ、うんばうんばば~・・・・人は心が乱れ、知らず知らずの内に、この生きている世、現世を否定し、何の悩みも苦痛もない来世を希求し、宗教にその活路を求めようとしたわけじゃ、でへねうんば~」
「それで農民は救済されますか?」
「それで農民が宗教によって救済されれば問題はないがのう。所がじゃ、現実は、農民が助けを求めていた宗教の媒体者である僧たちは、甲冑を身に付け、その上に墨衣をまとい、腰には太刀を帯び、巷を闊歩するありさまじゃつた。そればかりか修業を怠り、日々堕落した生活を送り、中には酒肉を貪り、世俗の者より穢れた生活を送っていたのが現実じゃつた、うんばうんばば~」
「これは長島一向一揆を回想して語られておられるのですか」
「否々、回想ではない。わしの心の整理じや、でへねうんば~・・・一揆を扇動する多くの者は、己の欲望を達成しようとした武士や僧侶などだったが、それに巻き込まれた農民を中心とした信徒は、この戦乱の世では争いの歯車の一部でしかなかったのじゃ、うんばうんばば~・・・信徒の多くは、戦乱に翻弄され、心身ともに疲労し、会者定離(えしゃじょうり)、つまりじゃ、この世は無常で会うものは必ず別離する運命にある、と言う想念に捉われていたのじゃな・・・空しい事じゃ、でへねうんば~・・天正二年の戦いではな、殿は伊勢長島に八万の大軍を水陸両方から送り、信徒が立て籠る長島、屋長島と中江、篠橋を、さらに大鳥居城を完全に包囲、封鎖し、兵糧攻めの態勢を取ったのじゃ、うんばうんばば~・・・しかし、地の利を背景に抵抗する一揆勢は、巧みな陽動作戦を展開し、織田軍をさんざ苦しめおった。・・・それで、戦いの初めは後手、後手にまわった織田軍は、戦いの途中、殿の兄・信広様が戦死し、他の多くの織田一族の武将もその地の露と消え果てた。・・しかし、元亀元年から四年に及ぶ包囲網の効果が徐々に現われ始め、籠城軍は兵糧不足に陥り始めたのじゃ。・・・・わしはその場で戦っておった弟の秀長より詳しくきいておった、でへねうんば~」
「と、言いますと殿下は何処に?」
「何処におらはったでございます、ぶひ~?」
「第二回長島攻撃には、わしも参戦しておたが、その時は越前じゃ、うんばうんばば~・・
後で秀長にその時の様子をくわしゅう聞いたが、立て籠る者は骨と皮になるほど痩せ衰え、飢餓状態じゃった、と。無論、戦意も低下じゃ・・・八月になると篠橋と大鳥居城が陥落し、千人ほどの一揆勢が討ち死にしたと聞く。・・・
城内に乱入した織田軍はそこに目を覆うばかりの惨状を目の当たりにしたそうじゃ、この世の地獄、生き地獄をそこに見たのじゃ、うんばうんばば~うんばうんばば~・・・・一揆勢は、飢餓の為動くこともできず、無抵抗のまま死んで行った者も多かったのじゃ。城の中には、あちこちにまるで丸太のように餓死した躯(むくろ)が、無造作に積み重ねられ、あるいは放置され、異臭と悪臭を放ちながら転がっていたそうじゃ。その光景はまるで阿鼻(あび)地獄(じごく)じゃつたそうじゃ。極楽浄土を求めたはずが、現実はこのありさまじゃ。何が間違っていたのじゃろう、うんばうんばば~・・・その後、包囲する織田軍に戦況は有利に展開したのじゃ、うんばうんばば~・・・・九月末には長島城の信徒も、兵糧攻めで戦意を喪失し降伏、船で大坂方面に退去する、と織田方に申し出て戦いは終わるはずじゃった。・・・所が殿は、兄・信興と信広様や弟・秀成様達兄弟や、他の親族を殺されていたため、船で退去する信徒に襲い掛かったのじゃ、うんばうんばば~・・前に籠城勢の約定違反により、味方に損害がでたことにもよったがのう。じゃが、それは何より兄弟や親族の者を殺されたことへの怒りによったのも確かじゃったろう、でへねうんば~・・・そこで、安全に退去させるという約定を反故にした織田方に対して、激怒した信徒の一部の者が、決死の捨て身攻撃に出たと聞く、でへねうんば~・・・殿は怒り心頭、中江城と屋長島城に立て籠もった信徒に対しても二重の柵などで取り囲み、一揆勢を二万人も焼き殺したのじゃ、うんばうんばば~・・・・二万人もじゃぞ、これは狂気の沙汰以外の何物でもないな、うんばうんばば~・・この世はこの世ではない、この世は無かったのじゃ、地獄こそこの世そのものじゃったのじゃ・・・・・・・さしも荒れ狂った一揆勢も、織田方の強硬な攻撃と兵糧攻めに合い、火が消えるように攻撃も消え入り、壊滅的打撃を受け抵抗は遂に終焉の時を迎えたわけじゃ、でへねうんば~・・・・運よく脱出に成功し、生き延びた者はほんの一握りじゃった、と秀長から聞いた」
「何故そこまで抵抗を・・・・?」
「一揆勢が抵抗か?奴らはこの世を仮の住家(住処)と考えているからじゃ。信徒は念仏を唱え、仏に帰依すればどんな苦労も苦しみもない極楽浄土に行けると信じきっておったのじゃ」
「私にはよく分かりませんが、その仮の住家など?」
「どないな住家か、わてにも想像出来しませんがなでございます、ぶひ~」
「仮の住家とはこの現世よ、永遠の住家とは極楽浄土じゃよ、でへねうんば~・・・天にある国じゃよ!そこまで割り切れば、死など恐れず、勇敢に戦える訳じゃな?わしは死ぬのが怖いがのう、うんばうんばば~」
「私もです殿下!」
五右衛門は思わず叫んだ。
「わてもや、ぶひ~この世が仮の住家で、その永遠の住家は、天のどの辺りにありますのやろう・・わてもさっぱり分りませんがな、ぶひ~・・・それは想像の産物と違いますやろか、人はあれこれ考え出しますよってでございます、ぶひ~」
鬼丸があれこれ疑問を投げかけた。
だが太閤は無視。
「わしが戦った一向衆との戦いはいつも凄まじかったぞ。やつらはわれら武士よりも精神力で遥かに上をいっておった、なにしろ、この世は仮の住家じゃからの!死んで極楽浄土に行ける。浄土に行けばこの世の苦しみから解き放たれ、魂も安らかになる。飢えも、戦も何もない、そんな素晴らしい所じゃよ!・・所が、わしら武士は生身の人間じゃ、命がおしい。わしも戦場では幾度となく死の恐怖を抱いたがな、うんばうんばば~・・・一番恐怖を抱いていたのは殿かもしれん。・・・長島では痩せ細った亡霊のような者共が闇の中から斬りかかって来る、そんな毎日じゃったからな、うんばうんばば~・・・・兵の中には恐怖に耐えかね狂う者もいたわ、悲惨なものじゃつた、でへねうんば~」
そこまで語ると太閤は目を閉じた。阿鼻地獄(あびじごく)、人はどんなに足掻いてもこの世という地獄から這いだせないのか。
それにしても、極楽浄土とはどないな世界なんやろう、ぶひ~・・女子がぎょうさんおればわしも行きたい、不謹慎やろか?鬼丸は妄想に捉われていた。ぶひ~・・・・・

太閤の術中に嵌(はま)る
気が付くともう現代の時間で言う真夜中の午前零はとうに過ぎていた。何が何だかわからぬ内に講談師太閤の話術に翻弄され、時の立つのも忘れていた。もういいや、なんとでもなれ、それにしても腹が空いた、五右衛門は空腹を覚えた。太閤の寝台の横にある台の上にはまだ美味(うま)そうな酒饅頭が十個ほど積まれてあった。なぜもっと早く気付かなかったのだ。しかも太閤がチビチビ飲んでいた水差しには、その舌の回り具合から考え、水ではなく矢張り酒が入っいるにちがいないと、五右衛門はその時確信した。
それはさて置き、彼の全意識は饅頭に集中した。太閤は流石、人の胸中を読み取る天才、すぐに彼の挙動から空腹を察した。
「お前、少しそわ付いているな?腹が減ったのじゃろう。悪い、悪い、わしも迂闊じゃった。つい話に夢中に成り、腹の減ったのを忘れておった、さあこの饅頭を食え。餡子(あんこ)もぎょうさん詰まっとる。わしも食うぞ、でへねうんば~
それに寝酒もある。わしの寝酒は灘の生一本じゃ」
完全に五右衛門達は餌付けされた犬に成り果てていた。
それから太閤は、水差しではなく、五右衛門を呼び、棚に収納されていた大徳利と金杯を出すように命じた。命じられるままに彼は大徳利と金杯を取りだした。
太閤は上機嫌で大徳利を受け取ると、金杯になみなみと酒を満たし五右衛門と鬼丸に勧め、自分も美味そうに飲みほした。ごくごく~ぱくぱく~・・三人は酒を飲み饅頭を食べた。この際、甘党も辛党もなかった。とにかく、腹が減った。
過酷な苦役
そんな折、またもやポロリと太閤の本音がでた。
「ほらもっと食えもっと飲め。わしが若い時にはこんな饅頭を五(いつ)つも、六(むっ)つも、いや十(とお)は食(く)ろうたわ、でへねうんば~・・女もぎょうさん食ろうた(抱いた)わ、はっはっはっはっは~」
太閤がいつも気にしている点は、実はここにあるのだった。
「皆は昔からわしを女好きの助平~と言うがそれは誤解じゃ、わしの胸中を全く理解しておらん。わしの長年の悩みは、何人女を抱こうが子供が出来んかった事じゃ、でへねうんば~・・子供が出来んことには、わしがいくら頑張ってみても、わし直系の豊臣家を引き継ぐ嫡子がいないことじゃ、でへねうんば~・・・そこが長年、わしの頭痛の種じゃつた。幸い去年、跡継ぎのお拾丸が誕生し豊臣家も万々歳じゃ、うんばうんばば~・・・・それがじゃのう、亡くなってしまったが鶴松誕生以前には流石のわしも困り果てて・・・う、うううっ・・でへねうんば~・・・・色々試したのじゃ。・・・例えばじゃ、乳のどでかい(巨乳(きょにゅう)の)女は子どもが出来易い、と聞き、試してみたが駄目じゃ。・・尻のどでかいのが良い、と言われ試してみたがこれまた駄目じゃ。痩せたの、肥えたの、色白の、浅黒いの・・・短足の、手足の長いの、目の大きいの、瓜実顔(うりざねがお)の、弾力のあるの、子供を五人も生んだ犬のように多産の後家も、これはわしも大いに期待したが駄目じゃった、うんばうんばば~・・・それにお前達からみたら滑稽じゃろうが、女を五人縦に並べて試したが、これは不可能。・・・横にずらりと並べ試したが、最初の熟女の手練(しゅれん)手管(てくだ)にはめられ全てのエキスを吸い取られ、搾り滓のごとくなりダウン!その時わしは痛感した、これほど過酷な苦役はないとな!うんばうんばば~」
「全てのエキスを吸い取られ・・ダウン?搾り滓でございますか・・」
その質問に太閤は渋い顔をした。それから、彼は女達と関わって起こった、あまり話したくない、恥部とも言うべき逸話を語り始めた。
「恥ずかしい話しじゃが、それだけではないのじゃ、でへねへうんば~・・実はな、その女には黄金百枚ほどをせびり取られ、他の女達にも、やれ黄金、やれ金剛石(ダイヤモンド)の指輪、やれ家、やれ着物とかなんとか、ぎょうさんせびられた。・・なにせわしは女子には弱い、そのつどかなりの出費じゃつた、でへねへうんば~・・それにじゃ、わしは太閤、わしがケチじゃと噂をばら撒かれてみい・・それはそれ、わしの名誉が損なわれる、そんなわしの足元を見てあれこれせびる女子も多い、そこでじゃ、わしは女子たちの言うまま、黄金も品物もくれてやった、タダで女を物にしようなどと浅ましい料簡をおこしてみい、それこそ尻の羽まで残らず抜かれた鶏のような姿にされるのがおちじゃ、その仕返したるものものすごいぞ、うんばうんばば~・・あ~あっ~・・疲れるだけじゃ、でへねうんば~あ~あっ~・・」
「殿下、それではまるで・・・」
「まあ待て、そこまではまだ序の口じゃ、うんばうんばば~」
「ええっ・・まだ序の口・・それでそのお話とは?」
「わしも若かったからのう。つい、光秀の三女・玉に言いよってしまった」
「まさか、細川忠興様の奥方伽羅奢(がらしゃ)様に!」
「そうじゃ、その伽羅奢にじゃ」
「そりゃもう・・ほとんど病気でおますなでございます、ぶひ~」
鬼丸は少し酔ったのか、そんなことまで平気で口にした。
それから杯に酒を注ぎ一気にぐいと飲み干した。
「わしも太閤、玉を呼び出し、無理やり布団に押し倒し我が女にしたのではないぞ。まず、忠興を呼び出し、玉をわしの側に仕えさせよと持ち出したのじゃ・・忠興は嫉妬深い男、奴がどんな顔をするか、わしは楽しみじゃった、うんばうんばば~・・」
太閤はそこでごくりと生唾を飲んだ。
「それは見ものじゃった。忠興の奴、真っ青な顔に成り、身体が小刻みに震えておった。・・・じゃが、手に持っていた扇子を畳み、そっと前にさしだしたのじゃ、奴としては賢明な判断じゃ・・何せわしは太閤、奴とてわしの申し出は断れんと言うわけじゃ、でへねへうんば~・・まあそれにじゃ、玉が中々の才媛と聞き及んでいたし、それに何よりも別嬪、そこでじゃ・・」
太閤はいやらしいい眼差しを二人に向け、少し言い淀んだ。
「忠興様を呼び出し、玉様をわしの側に仕えさせよと持ち出した・・つまり殿下の女になれと・・ううんんっ・・それで忠興様も暗に承認・・何故そこまで?」
「ぶひ~ひっひっ~」
「何故そこまで・・玉にとって、わしは親の敵(かたき)と言いいたいのじゃろう・・じゃが玉の理知的な何とも言えん魅力についな・・そこで次に玉を呼び出し、わしには淀と言う良い女が右におる、どうじゃ玉、お前もわしの左に来んか、と言うと、玉はよろしゅうございます、ただ条件がございます、と言ったのじゃ」
「中々スマートな口説き方で・・それで玉様は承知なされたのですか」
興味津津に。
「よろしゅうございます、承知と言うことやな、意外やでございます、ぶひ~」
鬼丸は遠慮なく口走った。
「まあそう急くな、玉が言うには、わしにもキリシタンに成り、日本の津々浦々にまで教会を建てよ、そうすればわしの女になってもよいというのじゃ・・それから空かさず、一枚の半紙を取りだし、わしにそれらを名記した念書を書けと迫ったのじゃ・・」
「念書を?つまり難題を吹きかけ、やんわり断ったわけですね」
「そこでわしは承知した、念書に書いた事は実行しようと言い、祐筆に念書を書かせ、わしの署名と華押(かおう)を書き入れて手渡した」
「ということは、玉様は殿下の左に座る事を承知されたのですね」
「ええっ・・・玉様は殿下の女になったのやなでございますか?・・なんちゅうこっちゃ、ぶひ~」
鬼丸は露骨に言った。
「わしの女に、はははっ~・・それを見た玉は、さすが殿下、感謝申し上げます、と言い、城を出て行った。それから、四季折々便りをくれるようになったのじゃ・・可愛い奴じゃのう」
太閤は眼を細めうん、うんと頷いた。所で、玉が太閤の元に伺候した折、彼は彼女の理知的な面立とその際立った美貌に魅了され、思わず舌舐めずりをし、生唾をごくりと呑み込み、身を乗り出して見惚れていた。その為、玉が彼の女になる条件として、提案した二件も、上の空で聞いていた。
「殿下、かような物を落しご無礼いたしました」
玉が懐中から半紙取り出す際、ぽとりと懐剣を畳の上に落し、何事も無いように丁寧に詫びた。その見事な脅しの立舞いに、またしても感心させられたが、その時二重写しに淀の顔が浮かんだ。すると忽ち冷水を浴びせられたごとく我に返った太閤は、この女中々したたかな奴、淀に加えこの女を側に置けば、何事にかけても頭痛の種が増すと、色気も何も一瞬に吹き飛んだ。
「世間ではわしのことを女(おんな)漁(あさ)りの助平~、ほとんど病気・・・などと、とやかく言うが、わしはただ、ただ跡取りが欲しかっただけじゃ、うんばうんばば~・・・それに、玉のような理知的な才女もな・・徳川は後家ごろしとかなんとか言われているが、奴こそ本当の助平~爺じゃ。じゃが、何と言おうと跡継ぎがぎょうさんおる、わしはうらやましいぞ。所でお前達、女は何人おるのじゃ?」
「・・・・・・」
五右衛門は返答に困り俯いた。
「鬼丸お前は?」
「・・・・ぶひ~」
ここで火の粉が二人に及んだ。
「ほほう、黙っておる所を見ると一人もか?それは寂しいのう。女はわしの所にぎょうさんおるでの、一人や二人は分けてやってもよいぞ、うんばうんばば~・・・・もしおらねば、わしが極上の女を世話しよう、でへねうんば~」
太閤は元来世話好きなのか、嫁の節介までした。
「うんぶ・・女・・そりゃあっ有難いことでおますでございます、ぶひ~・・しかし、殿下のお話をお聞ききし、なんとのう女という生き物の本性がわかったような気がしますでおますでございます、ぶひ~・・わいなど皮を剥がれ豚革の革(ポー)袋(チ)にされるかもしれませんでございます。・・ああいややでございます、ぶひ~」
鬼丸の眼の色が七変化、ついつい本音とも弱音ともとれる返答になった。
「さしあたりわしなどは猿革の革袋じゃな、わっはっはっ~」
「とんでもございません。しかし殿下、待望の跡継ぎが昨年誕生されて、長年の胸のつかえもおり、頭痛もお直りではございませんか?」
五右衛門は話題を逸らした。

太閤逃亡
「それがのう・・・・」
太閤は一瞬口籠った。何故太閤は口籠ったのだろう。その理由は、五右衛門達が、太閤の寝所に忍び込んだ前年(文禄二年八月三日)、待望の嫡子・お拾丸が誕生したが、太閤は誕生の悦びの後しばらくして、お拾丸の父親は本当に自分なのかと言う疑念に捉われ、その後ずっとその疑念と格闘し続けて来たのだった。何故なら、ちょっと考えればその答えは明白であろう。
「それそのことよ、出来たは出来たで、またもこんどは、日々偏頭痛に悩まされておるのじゃ、でへねうんば~」
はたまたややこしいことになって来た。
五右衛門は黙って太閤の話を聞いていた。
「出来はしたものの・・お拾丸はわしの子ではない等と城中でも巷でもおかしな噂が飛び交う始末じゃ。全く許し難きことじゃ、でへねうんば~・・今迄もそんな中傷は度々じゃ、うんばうんばば~みなは天守閣を眺め、わしがキンキラの衣装を身につけ、金の布団で安眠しておる。猿顔の小男が、下賤の出の者が成り上がりおって、などと妬かみ、卑下するなど散々じゃ、うんばうんばば~」
太閤は何処から噂を聞いたのか、自虐的な口調で喋り続けた。この様子からしても、彼の階級的劣等感は相当なものだった。
太閤が自ら盗人を名乗る二人の男を寝室に引き留め、長々と喋っているのは、日ごろこんな愚痴を誰にも話せないからか、そんなはずはないと思うのだが。太閤ほどの者でも色々悩みがある、逆に太閤だからこそ色々悩みがあるのかもしれない。
こんな事は有りえない話であるが、五右衛門と鬼丸は、夏の夜が白々と明け、朝になってもまだ太閤の寝室にいた。
「まあええがな、もう夜明けも近い、お前らここに泊まっていけや。そないむさ苦しい恰好では外には出られやろう、部屋も用意してあるさかいな、でへねうんば~・・・五右衛門、鬼丸どや!」
太閤が鬼丸の口調をまねし、おかしな事を言い始めた。
「なんやて?泊まっていけやて・・どないなっとるんやでございます、ぶひ~」
二人は仰天し、床から身を起こそうとした。
所が、太閤は、二人の動揺する心の間隙を突き、突然寝台から飛び降り、寝巻きの裾を捲しあげ、褌をひらっ~と靡かせ、あっと言う間に何処かに駆け出して行った。
あああっ・・・ぶひ~・・・
二人は咄嗟の出来事に、一瞬何が起こったのか理解できなかった。
「やられた!」
「あちゃ、ぶひ~」
二人は同時に叫んだ。
太閤逃亡!
太閤はこの瞬間を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていたにちがいない。二人は大ピンチに陥った。
「わいらどないなるんやろう、こりゃまずいで、ぶひ~」
鬼丸は大きく鼻を鳴らした。所が、次に彼等が全く予期せぬ事が眼前で起こった。彼等の元に忽然と矢絣(やがすり)模様(もよう)の腰元風の奥女中六人が現れ、静々と近付いて来た。
「なんやこれは一体全体!」
鬼丸は眼を白黒させ、思わず叫んだ。
「殿下が御二人を御案内せよ、との事でございます。どうぞ私共に従ってください」
その中の年配の女が太閤の意を伝えた。
「御案内せよとはなんや!まさか牢屋へか!もう観念せえと言うことかいな、ぶひ~」
「所で殿下は?」
あまりの事に二人は茫然と佇み、女に言葉を投げた。
「殿下でございますか。殿下は厠(かわや)に走られたのでございますよ。もう我慢出来ん、ちびりそうじゃ、と顔が引きつっておられました」
「厠へ・・もう我慢できん、と・・」
「なんちゅう人騒がせな・・あ~あっ・・やっとれんで、ぶひ~」
思わず二人はでんぐり返りそうになった。
もう止めてほしいわ、ぶひ~・・むちゃくちや・・・
そんな事もあったが二人がまず案内されたのが広い湯殿(浴室)だった。これは無論、太閤用ではなく、何故そこに湯殿があるのか皆目見当もつかなかった。さらに二人が驚いたのは、その湯殿には湯女をつとめる腰元が二人控えていた。彼女等が羽織った白い襦袢の下には、湯気の湿りのためか、桃色(ピンク)がかった肌が透けて見えた。二人の目は自然にそこに釘付けになったが、すぐばつが悪そうに互いの顔を見詰め合った。これはある意味で、太閤得意の色欲(しきよく)地獄(じごく)か?浴槽は檜造りで良い香りが湯にもしみ込んでいた。
今までこんな湯殿に入ったことがない二人は、腰元が見ている手前恥ずかしくて、もじもじしていたが、促されるまま着物を脱ぎ、褌を解く段になり、年甲斐もなく羞恥心にかられた。
それでも裸になると、五右衛門も鬼丸も全身傷だらけで、特に五右衛門の毛むくじゃらの胸のあたりには深い傷跡があった。
「まあ、毛むくじゃらで野性的ね、ステキ~」
二人の腰元は無邪気そうに言い、五右衛門の裸体を、檻の中の熊でも見るような好奇な眼差しで見詰めた。
「まあ、この人ふくよかね・・・豚(ぶう)ちゃんみたい」
一方鬼丸に対して、その出(でっ)腹(ぱら)でまるこい体型を見て、指で腹をつっつきながら、その内の一人が思わず本音を漏らした。
「豚ちゃん?ぶひ~わては豚か・・・・」
鬼丸は思わず叫んだ。
「搗(つ)き立ての御餅みたい。触ると気持ちいいわよ」
これも遠慮無く別の腰元。
「私にも触らせて、ほんといいわね・・この感触羽二重(はぶたえ)餅(もち)みたいよ」
「止めてくれへんか、ぶひ~・・なんてことするのや、わいは羽二重餅か、気色(きしょく)悪(わる)いやないか、ええ加減にしてほしいわ、ぶひ~」
鬼丸は思はず叫んだ。
「キャー、ぶひ~なんて怒ったとこなんか可愛いい、ステキ!」
若い腰元が屈託(くったく)のないようすで、笑顔を湛(たた)えながら言った。
「なんやねん、茶化(ちゃか)さんときいや、気持ち悪いやないか、ぶひ~」
鬼丸は困惑した。
「やめんか、わしの身体を見て見ろ。この傷は敵と渡り合った時の手傷だ。なあ、鬼丸!」
そんな鬼丸の様子を見て、助け舟を出すように、腰元の注意を自分に向けさせた。
「そうや、ぶひ~」
「殿下はもっと傷だらけでございますよ」
腰元が口を挟んだ。
「もっと?身体の前の方もか?」
「そう、ここだけの話、満身(まんしん)創痍(そうい)でございます。戦では常に身体を張って戦って来た、とおっしゃっておられました。それにいつも金色の褌をお締めでございますよ・・」
「満身創痍??それに何時も金色の褌を?寝る時も金色?????」
「何やて、ぶひ~」
「寝る時も金色でございますよ・・・・」
二人は、内心或る疑念を抱きながら、あれこれ喋りながら湯船に浸かると、その心地よさは抜群で、これは正しく夢の世界に迷い込んだに違いないと確信した。
「所でこの檜風呂は誰の為の風呂や、ぶひ~?」
鬼丸がたずねた。
「くすくす~くすくす~」
女達は意味ありげに笑った。
「もちろん、殿下用ではありませんことよ。殿下の湯船は純金製のそれはそれはきら、きら輝く美しい物でございますよ」
その中の年長の女が、鬼丸の質問には答えず、太閤の湯船に言及し、この檜風呂についてはそれ以上何も答えなかった。
一体何なんや、これは・・・・?
湯殿に白く立ち込める湯気はそんな鬼丸の妄想をさらに掻き立てた。ざざざざっ~と流れ出るお湯は一体本物なのか~?
彼らが忍びこんだのは太閤の寝所なのか、それとも、不魔殿なのか、一度踏み込んだら二度と抜け出せない迷宮なのか?
そんな思惑を胸に、湯殿から出て身体の火照りを、吹いてくる風で冷やしながら、女達に導かれるまま、曲がりくねった廊下を歩いて行くと、六畳ほどの部屋があり、その前まで来ると、するする障子が自動的に開き、中にはすでに朝食が用意されてあった。
「朝食をお召し上がりください」
丁寧に腰元頭がお辞儀をし、朝食を勧めた。
「殿下が、話の続きは、また今夜と言っておられました。朝食の後はごゆるりとお寝みください」
彼等の全く予期せぬ言葉がその女の口から発せられた。
話の続きを今夜も?一体????二人は驚きのあまりその女の顔を、まじ、まじと見詰めた。
そんな二人の当惑をよそに、障子が静かに閉じられ、その女は着物の裾を静々引き摺りながら去っていった。それでも、部屋の中には、腰元が二人残っており、二人の御膳の世話を甲斐甲斐しくした。
「親分、何が何だかわかれへんな、わてらはどないなるのやろう、ぶひ~?」
「俺にも分らん、この際、飯でも何でも鱈腹食べよう!・・これでこの世ともお別れかもしれん。・・これ見て見ろ茶碗に飯が山盛りだ。この魚はなんだろう、鯵の干物か。それに大徳寺(だいとくじ)納豆(なっとう)、高野豆腐、沢庵漬け。味噌汁も花(はな)麩(ふ)やねぎが入っていて、なかなかのものだ」
「親分、これは鶏の丸焼きやで、なんちゅう豪華さや、ぶひ~」
二人はいたく感激した。彼らは飯を五杯も食らい込み、味噌汁も二杯胃袋に流しこんだ。それに出された酒は特に旨い、酒好きの二人は一杯、二杯と飲み進む内に、へべれけになってしまった。
「うんにゅにゅにゅ~」
「ぶひ~ぶひ~うんにゅにゅにゅ~」
完全に二人は呂律が回らなくなって来た。
酒を勧める腰元が勧め上手の上、この上なく美人でおまけに妖艶ときている。それにこれら二人のサービスも抜群、飲まない方がおかしい。二人は忽ち緊張の糸がほぐれ泥酔(でいすい)し、情けないことに、腹が膨れると、身体が泥のようになり、前後不覚に陥り高鼾(たかいびき)をかいて眠りこけた。

先に覚めたのが五右衛門だった。驚いたことに辺りの様子からすると、もう昼はとっくに過ぎているにちがいなかった。自分は今何処にいるのだろうか、彼はきょろきょろ辺りを見回した。深酒で頭がずきずき痛んだ。隣を見ると、酒のため緊張の糸がぷつりと切れたのか、鬼丸は胸のあたりを大きく開け、鼾をかきながら正体なく寝むりこけていた。昨夜の反動がいかに大きかったか、彼の姿が如実に物語っていた。
「ごほごほごほっ~」
五右衛門は辺りに響くよう、思い切り大きな咳払いをしてみたが、人の気配は全く感じられなかった。彼は再び目を閉じ眠り込んだ。

不思議にも伏見城はその日、何時ものように家臣たちの登城があり、何事も無かったかのように何時も通り政務が執(と)り行われていた。またそうあるべくしてそうあったのか、五右衛門達が太閤の寝所に侵入したことは、決して外部に洩れることはなかった・・・・。

最後に、念書には何と書かれてあったと言えば、・・・・・○○の地(五百石)を細川伽羅奢に与えると記されてあった。
太閤は体よく振られたが、この可愛い女に贈り物を与えた。
その後、彼女には過酷な運命が待ち受けていた。
そんなこともあったが太閤は九州征伐の折、キリシタン禁止令を発布し、キリスト教を禁止した。さらに、関ヶ原の戦いの前に、夫・忠興が東軍についたため、光成りが大坂玉造の細川屋敷に軍勢を差し向け、彼女を人質に取ろうとした。彼女はキリシタンの為自害出来ず、家臣に胸を突かせ静かに息を引きとった。

辞世の句
散りぬべき時知りてこそ世の中の
 花も花なれ人も人なれ 
  
第六章

勝頼・信長の罠に嵌る    

喋りだしたらもう止まらない
いよいよ歴史に残る長篠・設楽ヶ原の合戦の火蓋が切られた。
その夕方近く、うつらうつらした状態から二人が眼を覚ますと、隣接する部屋にはすでに膳が用意されてあり、大根やカボチャの煮物(にもの)二品(にしな)と鮎の塩焼、鯉の甘露煮の魚に加え、さらにお吸物、麦入り御飯に酒等がずらりと並べられてあった。
「親分、これは一体どないなっとるのやろう、ぶひ~」
鬼丸は又もや不安気に五右衛門に顔を向けた。
「おれも昨夜から狐につままれたようで、何にが、何だかよくわからん。もうじたばた出来んぞ、この世の見納めになるかもしれん、食べるだけ食べよう。酒も飲もう・・俺達はもう俎板(まないた)の上の鯉・・」
「そや、どないな意図があるか知らんけんど、わいらは俎板の上の鯉や、ぶひ~・・・なあ親分、わいら何の為にここに来たのやろ、ぶひ~」
鬼丸は頭が混乱しているのか、おかしな事を口走った。
「心配するな、打ち合わせ通り事は運んでいる!」
何故か五右衛門は暗示的な返答をした。
鬼丸が疑問を示したように、おかしな話、一体彼等二人はどんな意図があって太閤の寝所に侵入したのか、今迄の所その動機は彼等の口から一言も語られていない。
そんな彼等の入り混じった思惑や葛藤をよそに、御殿の外は、夕焼け空に赤く染まった細長い雲がゆったりと流れ去り、遠くの山並みは黒々とした陰影を帯び始め、刻一刻と夕闇が迫っていた。
食事を終えた頃には、辺りは宵の帳がおり、部屋の中も薄暗くなり、彼等は再び太閤の寝室に通された。
部屋の中は、昨夜と同じように燭台の蝋燭(ろうそく)に灯が点されてあり、蚊を追うための蚊(か)遣(や)りも部屋の四隅で焚かれてあった。
この夜の太閤は、絹の寝巻きの上に金色の羽織を纏い、何処となく風采もあがり、声にも張りがあった。見方によっては、昨夜の太閤と今夜の太閤は全く別人のようでもあったが、蝋燭の炎の揺らめく中、瞳を凝らして良く見ると、矢張り太閤その人であった。
「昨夜はすまんかったのう、我慢しておったが、何せ齢、小便をちびりそうになって、部屋から駆けだしたのじゃ、わっはっはっはっ~・・鬼丸!その顔から察すると、わしが寝台から駆け出したので、お前は、わしが不意を突いてこの場から逃亡したと思ったじゃろう・・わっはっはっはっ~・・じゃがそうはいかんのじゃ、わしにはまだ語り残したことがぎょうさん有るでのう、うんばうんば~それにしても齢を取ると厠が近くなり面倒くさい・・・むにゅむにゅ・・」
太閤は屈託なく、昨夜自分が部屋から駆け出した理由を述べ詫びた。
「昨夜は何処まで話したかのう、齢を取ると忘れっぽくなっていかんのう、うんばうんば~・・・昨夜のように楽にしろ、そこに座布団があるじゃろう、ゆるりと座れ・・」
柔軟な口調ではあったが、太閤は有無を言わせず、座るように命じた。
二人が座り、腰元が用意した茶を啜り終えると、太閤は待っていましたと言わんばかりに話し始めた。
「ええとじゃ・・・?」
「朝倉、浅井の滅亡と長島の一向一揆は語り終えられました」
「では今夜は長篠・設楽ヶ原の戦いからじゃ、でへねうんばば~・・・のう、五右衛門と鬼丸よ、わしはこの合戦を語るのが何よりも好きでのう、うんばうんば~」
太閤の声は活気を帯びてきた。
太閤が長篠の合戦に一武将として指揮を執ったのが、彼が三十三才の時であり、心身ともに充実していた。
この夜、太閤の話は長篠の合戦の話になるが、この合戦を解りやすくする為、概略して見る事にする。
天正三年(1575)五月八日、信玄の跡を継いだ武田(たけだ)勝頼(かつより)は、遺言に従い三年間の間、喪(も)に服した後、遂に一万五千の軍勢を率い三河徳川領にあふれ出る水の如く侵攻を開始した。
前年、勝頼は、信玄さえ落せなかった遠江(とおとうみ)の高天神(たかてんじん)城(じょう)を落し、自信に満ちあふれていた。
 武田軍は途中、徳川方の城や砦を攻略しながら進撃し、長篠城、吉田城を攻撃したが、徳川家康はその挑発に乗らず、吉田城に籠りその後岡崎城に戻った。
決戦は五月十一日長篠城攻防から始まった。長篠城はかつて武田方の城であったが、天正一年、徳川方が奪い取り、大改修を施し強固な城塞に変えていた。
この城は、寒挟(かんさ)川(がわ)と大野川のY字形合流点の切り立った標高六十メートル程の崖の上の平坦部にあり、北側を守れば比較的容易に防備が出来た。
家康はこの城を三河防衛の橋頭堡と位置付け、武田の侵攻に備えていた。
長篠の戦いの前、長篠城にはかつて武田から寝返った奥平(おくだいら)貞(さだ)昌(まさ)(後に信昌)が兵五百で守備についていた。
城は武田軍の猛攻にさらされ、援軍を呼ぶ為鳥居強(とりいすね)右(え)衛門(もん)は城を夜陰に紛れ抜け出し、梅雨の雨で増水し、網や鳴子が張り巡らされた寒挟川を一キロあまり泳ぎ渡り、岡崎城の家康の元に救援を求めた。
伝言を得た強右衛門は、そのまま長篠城にとって返すが、城近い篠場(しのば)野(の)で武田方に捕えられ、城の対岸から助命と引き換えに、援軍は来ない、降伏しろ、と叫ぶように強要されたが、敵の意に反し、信長公は援軍を引き連れ二、三日内に来る、懸命に城を守れ、今生の別れだ、と叫び、その後城の面々が見守るなか有(ある)海原(みはら)で磔にされた。
長篠城攻略の為勝頼は、鳶ヶ(とびが)巣山(すやま)数ヶ所に砦を築き、兵、千を配置し、いよいよ戦いの火蓋が切って落とされた。
五月二十一日早朝、長篠近く設楽ヶ原は昨夜から降りしきっていた雨も止み、朝靄が立ち込めていた。
織田・徳川連合軍は、織田三万、徳川八千、総勢三万八千であった。
設楽ヶ原ではその中央を流れる連(れん)吾川(ごがわ)を挟み東側に武田、西側に織田・徳川連合軍が布陣、対峙した。
決戦に備え、信長は茶(ちゃ)臼山(うすやま)に、家康は弾(だん)正山(じょうざん)にそれぞれ本陣を構えた。
それに先立ち、前夜から武田の鳶ヶ巣山砦とその周辺には織田の金森(かなもり)長近(ながちか)と徳川の酒井(さかい)忠次(ただつぐ)など三千の別動隊が配置され、緊迫した状況の中、総攻撃開始を待っていた。
一方、武田は設楽ヶ原の清(きよ)井田(いだ)付近に陣を構えていたが、その日、武田勝頼の本陣は、医(い)王寺(おうじ)から清井田原の才(さい)ノ(の)神(かみ)に移された。武田軍は右翼隊、左翼隊と中央隊の攻撃隊に加え、本陣とその予備隊からなっていた。武田勢は一万五千の内、長篠城攻略に二千、鳶ヶ巣山には一千、残る一万二千で、予備隊を含めさらに各隊を細分化し十三段構えの鶴翼陣を敷いた。
武田は鳶ヶ巣山とその周辺に五つの砦を構え、連日、長篠城へ攻撃を仕掛けていが、もしも前夜から配置された織田、徳川の別働隊の攻撃でこの一連の砦が落されるようなことがあれば、武田軍は前後を織田・徳川連合軍によって挟まれることになった。
決戦当日、設楽ヶ原では連吾川を挟んで武田軍の前面に、織田・徳川連合軍は、三重の馬防柵を長さ二キロに渡り張り巡らし、この柵内に三万五千の兵員を配置した。その兵員の内、約三千はこの戦いの主力となる五隊編成、総数約三千挺あまりの鉄砲を装備した鉄砲隊だった。
対する武田軍は、武士や足軽雑兵以外に、武田が誇る戦国最強と言われた兵員約二千四百余りの騎馬隊と兵員約三百の鉄砲隊からなる総勢一万二千あまりだった。
織田・徳川連合軍は、戦場に着くと早々馬防柵の他に、空堀や土塁、逆杭で野戦築城し、そこに兵を潜ませ、鉄砲隊を組織的に配備するなど万全の態勢で武田の攻撃に備えた。
諸説によれば、この戦いが連合軍の大量の鉄砲の運用で、短期間に決着がついたと言われているが、両軍の死傷者数と九時間あまりの戦闘時間の長さからいって、不自然と言わざるをえない。
緒戦では鉄砲の威力が十分に発揮されたものの、個々の戦闘では壮絶な肉弾戦が、長時間に渡りこの狭間にも似た窪地で繰返されたと考えられる。
戦いに臨み、長年信玄に仕えた馬場や内藤、さらに山県(やまがた)等の老将は、敵方の陣容を見て、騎馬隊の無謀な突撃だけでは、強固な敵陣を突破することは出来ないとこの戦いの不利を予見し、主戦を回避するように勝頼に進言したが、弱腰であると一蹴された。
その朝、老将たちが危惧したことが現実になろうとしていた。設楽ヶ原主戦場の連吾川辺りは、昨夜来の雨で地面は泥濘(ぬかる)み、見るからに騎馬隊には不利な状況が展開していた。

長篠の戦いは、おおよそ次のような時間経過で展開したと言われている。
午前六過ぎより戦闘開始
午前八時頃より激戦が続く
午後二時頃信長総攻撃を命令
午後三時頃勝頼敗走
戦いは約九時間にも及び、織田・徳川連合軍は、死傷者六千人、武田軍は全軍一万五千の内、実に八割にあたる一万二千人以上もの死傷者を出した。武田の戦死者の中には、混乱に陥り雪崩もようで敗走する途上、多くが討ち取られ、逃げ急ぐあまり川にはまり溺死する者や手傷を帯び野山に迷い込んで行き倒れ、死屍を晒す者も多数いた。それらの死傷者の数は、全体の二割~三割以上にあたると推計されている。
長篠の戦いの死傷者は、織田・徳川連合軍は主に足軽雑兵であったが、武田方は山県昌景(やまがたまさかげ)、内藤(ないとう)昌(まさ)豊(とよ)、馬場(ばば)信(のぶ)春(はる)、原(はら)昌(まさ)胤(たね)、原(はら)盛(もり)胤(たね)や真田(さなだ)信綱(のぶつな)、真田(さなだ)昌(まさ)輝(てる)、土屋(つちや)昌(まさ)次(つぐ)、土屋(つちや)直(なお)規(のり)に加え、さらに
安中景(あんなかかげ)繁(しげ)、望月(もちづき)信(のぶ)永(なが)、米倉(よねくら)重(しげ)継(つぐ)等、長年武田家を支えて来た錚々(そうそう)たる中核武将が命を失う事となった。

今夜の太閤はまるで別人
一度話し出したらもう止まらない。
太閤が特に気に入っていたのは、大量の火器・火縄銃を用い、戦に革新をもたらした長篠・設楽ヶ原の戦いであった。
太閤もこの合戦に一武将、羽柴秀吉として参戦していた。長篠の合戦の話になると、太閤の話は細部に及び、話し始めればいつも延々と続いた。
よほどこの合戦の印象が強烈で、脳裏にこびり付いていたのかもしれない。
しかも、この戦いの経過を詳しく調べ、記録専門の祐筆(ゆうひつ)方(書記)まで任命し、書き上がったその記録を太閤自ら納得の行くまで加筆、訂正し、さらに物語風に書き直させ、その後暗記までする入れ込みようであった。
しかも語る時は、聞き手をいつも四、五人、多い時には十~二十人を前に置き語ったので、何回も聴いている常連者の中には、いつしか大筋を自然に暗記してしまう者までも現れた。
太閤の講談の主な被害者は、前田玄以を含む五奉行、浅野長政、石田光成、増田(ました)長盛(ながもり)、長束(ながつか)正家(まさいえ)と十人衆の面々で、事あるごとに引っ張りだされた。しかも、太閤は出席者名簿まで作らせ、何時、どの話を、出席者は誰々等と書き取らせていた。
それに側近の者は言うに及ばず、妻の寧、側室の淀の方まで狩り出される始末だった。
「殿下のお誘いですが、今日は頭痛が激しく床に伏しております」
度重なると、淀の方の使いが、彼女の伝言を携え太閤の元にそそくさとやって来た。
「そうか、そうか、また頭痛か、それはいかんのう、わしの名調子が聴けず、淀もさぞ残念に思っていることじゃろう、うんばうんば~・・今度体調が良くなったら聴かせよう、淀には、早う体調がもどるよう願っておると伝えよ」
「殿下のお誘いですが、今日は腹痛が激しく床に伏しております」
「そうか、そうか、今度は腹痛か、それはいかんのう、わしの名調子が聴けず、淀もさぞ残念に思っていることじゃろう。今度体調が良くなったら聴かせよう、淀には、早う体調がもどるよう願っておると伝えよ」
太閤は、そんな淀の方の思惑を知ってか知らずか、いつもそのような返事を返した。
「殿下のお話はもう十分聴きました。もう聴きたくありません!もううんざりよ!・・」
こうも言えず、淀の方の頭痛の種は絶えることがなかった。
太閤がこの合戦を語り始めると熱弁は延々と続いた。聴衆はこの牢獄の中にいるにも等しい時間を、ジッと耐え忍ぶ他なかった。

遂に、五右衛門と鬼丸はこの犠牲者となる。
太閤の舌の歯車がカラカラカラッ~と軽快な音を立てながら滑らかに回り始めた。
「殿は我々凡人とはちがい鬼才じゃった。戦の天才じゃ。わしもあの戦に参戦しておったが、今までにない戦じゃつた、うんばうんば~・・わしも殿のように戦況予測の堅実さ、緻密さを学びたいぞ、でへねうんばば~」
彼は主君・信長を偲(しの)び、いつも家臣に教訓めいた口調で言った。
しかしその後、まるで講談師のごとく語り始めた。
「合戦にいたる経緯を少し話し、次に合戦について話そうかのう。・・元亀三年(1572)十二月二十二日の三方ヶ原の合戦では、家康の援軍要請に、殿は全面的に応えることが出来なんだのじゃ、うんばうんば~」
「なんでやねんでございますか、ぶひ~」
鬼丸は何故か極度の緊張感に襲われ、今夜もおかしな話し口調になった。
「それはじゃ、殿は本願寺、近江での戦で手がいっぱいじゃつたからじゃ。・・天正二年五月の高天神城でも各地の一向衆との戦いで、これも支援は無理じゃった。・・・長島一向一揆、朝倉、浅井が一段落し、家康から長篠城攻防で援軍をよこせ、と言う要請があり、殿は今度こそ本腰を入れ、武田を完膚なきまで叩きつぶそうと腹を決めたのじゃ、うんばうんば~・・・これ以上勝頼の好き勝手、やりたい放題を許せなかったのじゃろう。まずは、設楽ヶ原決戦の前哨戦として、武田が長篠城攻略のため築いた鳶ヶ巣山諸砦を潰し、長篠城包囲の鎖を断ち切らねばならんかったのじゃ。・・・そこで、前夜から密かに派遣された織田、徳川の酒井、金森軍が、長篠城を取り囲むよう配置されていた武田のそれら諸砦を、裏山の尾根伝いに三千の大部隊で取り囲んだのじゃ、うんばうんば~」
「長篠城の囲みを解けば、初期の援軍目標は達成出来たのでは?」
「そこじゃ、そこじゃ、並みの武将なら長篠城攻撃を阻止出来れば、それで事足りたと思うじゃろう。じゃが殿は、先の先まで考えて、御自ら出陣されたのじゃ、うんばうんば~」
「武田を完膚無きまでに叩き潰すため、まず砦攻撃を?」
「そうじゃ、そうじゃ、この砦を攻略すれば、設楽ヶ原の武田軍は前と後を連合軍に挟まれることになるのじゃ。・・ここが、殿の狙いじゃった、でへねうんばば~・・・・設楽ヶ原で川を挟んでいくら丸太で柵(さく)を組んでも、武田が挑んでこなければこの作戦は失敗じゃ、うんばうんば~・・だから、武田が柵の前面に来るように仕向けねばならん。それには、武田の背後の砦を落とし、長篠城を攻撃から守り、しかも、この軍勢で武田の背後を突けば、武田は必然的に挟み討ちになる、とお考えじゃった、でへねうんばば~・・そこで初めて、正面に馬(ば)防柵(ぼうさく)を備えた野戦築城が威力を発揮できる態勢になるわけじゃ!おかしなものじゃ、川中島の戦いでは武田が上杉の背後を突く作戦をしたはずじゃ」
「確か武田軍は兵を二手に分け、一方は妻女山(さいじょざん)の後方から攻め、もう一方は川中島に待機して、山を下ってくる上杉軍を迎え撃つ挟み討ち作戦でございましたよね・・」
「ほほう、お前も盗人にしては中々物知りじゃな。言ってみれば啄木鳥(きつつき)の戦法じゃ、うんばうんば~」
「啄木鳥の戦法とは、啄木鳥が木を突っついて、虫を突っ突き出すあれでございますね!」
「そうじゃ。この場合の虫は上杉軍じゃった。妻女山の背後から襲って上杉軍を突っ突き出し、挟みうちにする計画じゃった。・・・所がのう、流石、謙信公、上杉軍は夜陰にまぎれ妻女山を下り、善光寺平を目指し千曲川を渡ってしまったのじゃ、でへねうんばば~・・」
「武田の目論見は完全に狂った?」
「そうじゃ、兵を二手に分けた武田本陣は八幡原(はちまんばら)では大苦戦よ、上杉にまんまと裏をかかれたことになるのじゃ!謙信公の方が一枚も二枚も上手じゃったわけじゃ、でへねうんばば~・・それで川中島で戦が始まったのじゃ。その教訓が生きておらんのう。勝頼も若い、鳶ヶ巣山の砦が奇襲されることは、十分予想出来たのにのう。・・・信玄公なら二度と同じ轍(てつ)を踏まんかったじゃろうに、うんばうんば~~ごほごほ~」
太閤は息巻きながら流暢に喋り続けたが、時々おかしげな咳をした。

信長・勝頼の心の奥を読み取る
「勝頼はわしら連合軍を甘く見ていたふしがあったのう。・・三方ヶ原では武田が誇る騎馬隊で、徳川・織田連合軍を完膚無きまでも打ち破ったことにより、その時も、騎馬隊で柵など一気に押し破り、敵を壊滅出来ると安易に考えておったのじゃろう、うんばうんば~」
「勝頼はまんまと信長様の罠に嵌(はま)ったわけでございますね」
「そうじゃ、奴は罠に嵌ったのじゃ。所で、何故、人間は罠に嵌るか分るか!」
「さて、何故でございましょう?」
「罠に?なんでやろうでございます?ぶひ~」
「理由は様々じゃが、勝頼の場合その主因は自信過剰じゃな、でへねうんばば~」
「自信過剰?」
「そうじゃ、自信過剰じゃ。そもそも、高天神城攻略からこの自信過剰は来ておるのじゃ。偉大なる父・信玄が攻略出来なかったこの城を、自分が陥落せたことで、やつめ舞い上がったのじゃ、偉大な父を超えたと!この自信過剰が第一!」
「第一でございますか?」
「そうじゃ、第一じゃ」
「では?」
「第二はこれに先立つ三方ヶ原の決戦じゃ、これは妄想を呼び起こしたのじゃ」
「妄想????」
「妄想じゃ、あの時家康は武田の騎馬軍団に蹴散らされ、完敗じゃった、うんばうんば~
おまけに、糞までちびって、この敗戦を教訓に自分を諌める為、絵まで描かせたと言われておるではないか。・・・自分を戒めるという点では賢明な心掛けかもしれんが、悪趣味じゃ、でへねうんばば~・・・勝頼は三方ヶ原のことが頭にこびりついて離れんかったのじゃろう、うんばうんば~・・父・信玄が攻略出来なかった高天神城を自分が攻略出来たと言う自信と、三方ヶ原で徳川・織田連合軍を打ち破ったという過去の幻影(げんえい)を何時までも引き摺り、連合軍は騎馬攻撃に弱いと言う心理的な優越感を、言ってみれば幻想を抱いておった。殿はこの二つを囮(おとり)に罠を仕掛けたのじゃ、でへねうんばば~・・いってみれば、勝頼の心の奥に眠る自信過剰と、相手を見下したその表層部にある優越感を逆手にとり、それらを囮に罠をしかけたのじゃ?」
「自信過剰と優越感の二つを囮に罠を?」
「心の奥深くへ、決して逃れられん罠をな!大きな罠じゃ。・・・時は一刻一刻流れ去る・・三年も経てば今の世の中、状況が激変しているのが分らんかのう、うんばうんば~・・武田はしょせん田舎者、百姓軍団じゃ・・我が殿が堺等を掌中に収め財力を蓄え、兵農分離した最新軍団とはその質に大きな隔たりがあったのじゃ、でへねうんばば~・・つまりじゃ、やれ田植だ、やれ草取りだ、やれ稲刈入じゃなどと、将兵が農事に煩わされることもなく、何時でも自由に出撃出来る機動的な軍団を組織されたのじゃ、うんばうんば~・・・それに諜報じゃ・・・」
「諜報???」
「そうじゃ、わしもようやったが諜報戦とでも言おうかな。・・これも罠の餌の一つじゃ、うんばうんば~・・・・武田内部に織田・徳川連合軍は取るに足らん、丸太などで柵など作って、子供騙しもいいとこだ、ここが肝心じゃ、織田・徳川は取るに足らん、たいした事はない!三方ヶ原みて見ろ、武田の戦国最強の騎馬軍団は徳川・織田連合軍を、いとも簡単に撃破できたではないか・・こんども織田・徳川連合軍を簡単に撃破出来ると、意図的に噂をばら撒いたのじゃ、でへねうんばば~・・・この宣伝に踊らされ、勝頼は、連合軍はとるに足らずと侮ったにちがいない。優越感が増幅したわけじゃな、ボリュウム アップじゃ!言ってみれば、人間自分勝手なもので、自分に都合のよい所を誇張し、悪いものは脇に置いてしまうのじゃ、うんばうんば~」
「では罠の餌は、三方ヶ原、高天神城、諜報活動による織田・徳川連合軍への過小評価の三つでございますね?」
「そうじゃ、これら餌により飼いならされた鯉(勝頼)は、馬防柵というまな板の上に載せられ、火縄銃と言う出刃包丁でちょんじゃ、わっはっはっはっは~」
太閤は豪快に腹を揺すりながら大声で笑った。それから髭に指をやり、先端をしゅっしゅっとしごいた。
「正に、俎板の上の鯉そのものでおますなでございます、ぶひ~・・それで出刃包丁ならぬ、人切り包丁で、ちょんでおますなでございますな、ぶひ~」
「人切り包丁でな・・おますなでございます、そのとおりじゃ、鬼丸、お前は中々面白い男じゃな・・お前は盗人よりも商売人に向いておるようじゃな、わっはっはっはっは~」
太閤は鬼丸の事までとやかく言い、またもや愉快そうに笑った。
「戦いの前日、殿はわし等武将を引き連れ馬防柵を一巡されたのじゃ、でへねうんばば~」
「閲兵やなでございますね、ぶひ~」
「殿は、自ら手で柵を強く揺すって見て、これはぐらついておる、もっと深く埋めろ、とか、これはよく出来ている、このやり方を徹底させろ等、この戦いに賭ける意気込みが全身に漲(みなぎ)っておられたのじゃ、でへねうんばば~・・・それにじゃ、火縄銃の弱点は雨に弱い、梅雨も近ければなおさらじゃ。・・・そこで、柵後ろの土塁全体に万一に備え藁(わら)で屋根掛けをして、雨が降っても良いように工夫をほどこしたのじゃ」
「しかし、火縄銃は連射が不可能だったのでは?」
「それは鋭い指摘じゃ、でへねうんばば~
・・火縄銃はお前達も知っての通り、銃口から火薬と鉛弾を押し込め、銃身後方の火門孔にさらに点火薬を置き、予め点けておいた火縄で点火し発射するのじゃ・・・こう説明するだけでも時間がかかる、面倒くさい、じゃが、戦の修羅場、戦場ではこんな事は言っておれん、うんばうんば~・・殿は桶狭間の戦いの前年、永禄二年(1559)すでに火縄の威力に注目し、佐々(ささ)成(なり)政(まさ)に命じ鉄砲隊を編成し始めていったのじゃ。・・・この難点を解消すべき考え出した方法こそ、大量の火縄銃で二段射ち、三段射ちをすれば、途切れることなく連射も可能になるというわけじゃ、金ヶ崎や姉川でもその成果は実証済みじゃった、うんばうんば~」
「成程、斬新な発想でございましたね。それで、いよ、いよでございますね、それでその続きは・・」
「そうじゃった、つい横道に逸れたが・・鳶ヶ巣山の砦攻撃はまだじゃぞ。この攻撃で武田を挟み討ちにするには、設楽ヶ原の戦いと連動させねばならん。早過ぎれば武田は、移動する恐れもあるのじゃ、でへねうんばば~・・・ただやたらに攻め立てればよいわけではない。・・・武田の陣形は馬坊柵の前に鶴が翼を拡げたような鶴翼陣じゃった。この陣形の意図は両翼軍が柵の両端に攻め込み、中央隊で敵陣中央を突破する戦法じゃったのじゃろう。・・・敵はじゃから中央隊の後方に、指令の中核・本陣と補助隊を置き、攻撃隊は右翼、中央、左翼と全軍を五つに分け、さらに本陣を除き、右翼、中央、左翼を四小分隊に分けておった、うんばうんば~」
「丸太で組んだ馬坊柵は一重でおましたかでございます、ぶひ~」
「馬鹿な、三重じゃ。丸太を荷駄隊が荷車で運び、わし等も清洲から担いでいったのじゃ!・・・無論現地で調達したのが大半じゃったがな、なにせ設楽ヶ原は山の中、木はぎょうさんあるでな、うんばうんば~」
「三重の柵が有るにもかかわらず武田は無謀にも突撃してきましたね」
「そや、そや、わてもそこが不思議やねんでございます、ぶひ~」
「それはじゃ、こちらの足軽が柵の外に出て挑発し、誘い込んだのじゃ。まあ良くあるじゃろう、兄さん良い女がいるよ、中に入って楽しんでいきなはれなどとな、色香で誘うのじゃ。この色香は男にとって一番掛りやすい罠じゃて、わしも先にも言ったが女ではよう失敗した、でへねうんばば~・・じゃが、無論この場合、色気は無しじゃ、うんばうんば~・・・武田はこの誘いにぐら~っときたわけじゃ、でへねうんばば~・・・これは怪しいぞと思ってもついついじゃ、そこが人間心理の面白い所じゃ」
「そのぐら~っと誘い込まれる心理、わてにはわかる気がしますがな!わては、もっぱら色香に弱いさかえでございます、ぶひ~」
鬼丸は妙な所で本性をだした。これも太閤の心理作戦により誘い出されたのかもしれない、ぐら~っと?
「それは正しい、お前は正直じゃ、そこが人間心理の綾(あや)じゃ、みすみす罠にはまる、うんばうんば~・・・じゃが、冗談はさて置き、連合軍は馬防柵ばかりでなく、空堀を堀り、土塁を築き、逆杭を打ち野戦築城をしたのよ。情報によれば、武田にも鉄砲は二~三百丁以上有り、しかも竹を束ねて玉よけまで作っておったそうじゃ、でへねうんばば~・・・死傷者の数を見て見い、こちらも六千人余りじゃ。武田が騎馬でわが陣地まで一気に駆けて来るだけではこうはいかんじゃろう。騎馬隊というのは、騎馬一騎に四~五名の足軽雑兵が主に槍を構え突き進んでくるのじゃ、でへねうんばば~」
「長槍の方が突き刺すのが有利でございますね」
「槍は突き刺すのが本来じゃが、戦の場合は、振って相手の槍を叩き落とすのじゃ、ねじ伏せるのじゃ、うんばうんば~
「つまり、敵の進撃を阻む・・?」
「そうじゃ、しかし、平地の少ないあの戦いは複雑じゃった。騎馬を中心に足軽雑兵が駆けて来て一斉射撃で瞬く間に撃たれたのは最初の一時だけじゃった!その時は凄まじい轟音に武田の馬が肝を潰し、棒立ちじゃった、うんばうんば~・・・まるで数百の雷が一度に落ちたようじゃった。その反動で、もんどりうって多くの騎馬武者が落馬したぞ!そこをすかさずまた狙い撃ちよ!それに相手は、わが方が三万五千もおるとは思ってもみなかったのじゃろう。・・土塁の中にモグラのように上手く潜んでいたからな!同等に戦おうとすれば向こう一人が、こちらの三人を倒さねばならん、うんばうんば~・・それはそれとして、敵もそれほど無謀ではない、戦いの時間が長いのはその為じゃ。・・じゃが、時が経つうち周到な準備で数に勝るこちらが、じょじょに優位な大勢になっていったのじゃ、でへねうんばば~・・・柵に向い突進してくる者には、集中射撃よ。五人の鉄砲奉行の元、三千の鉄砲隊を細分し五、六百丁で一団を作りな!・・それに銃を持つ鉄砲足軽もそんなに訓練はされておらん者もおった、指揮官もじゃ、そんなであれば、どう立ち向うかを考えねばならんわけじゃからな、うんばうんば~ごほ~・・それが三段射ちじゃ!」
「相手も火縄で応戦し、お味方の兵も相当やられましたな・・」
「そうじゃ・・やられた。しかし考えてみよ。相手は火薬と玉の装填を一人でこなすのじゃぞ。こちらは、柵や土塁、堀で守られ、しかも三人で一組じゃ、ここで三段射ちが威力を発揮し始めたのじゃ。・・それにじゃ、鉄砲足軽の中でも熟練した射手が、次々玉込めした銃を受け取り撃てば、相手より早く正確に敵を倒せるじゃろう、この作戦も取った。しかも、地面は泥濘んでおる。もしも、この戦いが平坦な戦場で、馬防柵に守られた三段射ちがなければ、最初の一斉射撃の後は、玉込め中に相手の騎馬隊の餌食になったことじゃろう、うんばうんば~」
「作戦勝ちでございますね」
「そうじゃ!武田も良く考えていて、先にも言ったが十三段の鶴羽陣を構え、次々に出撃じゃ、うんばうんば~」
「次々に・・・それでどう攻撃を?」
「例えば四小分隊から成る右翼隊は、一小分隊ずつが、代わる代わる波状攻撃を仕掛けてくると言うわけじゃ」
「成程・・・」
「それを撃ち破る作戦こそ、殿下が採用した馬防柵での防御と、この火縄銃の三段射ち作戦じゃ、うんばうんば~」
「防御と攻撃の連動作戦やねでございますね、ぶひ~」
「そうじゃ」
太閤の鼻息が次第に荒くなっていった。

戦い前夜・太閤の記憶から
五月二十日の夕刻から、梅雨中旬の小雨混じりの雨が、この一帯に降り注いでいた。
決戦を控えこの夜、辺りの空気は異様に張りつめていた。それでも時折静寂(しじま)をついて、人の掛け声、ぱちぱちと篝火の薪が燃える音や馬の嘶(いなな)きが、漆黒の闇が覆う谷間の窪地に響いていた。
両軍合わせると五万人近くの将兵が、この谷間の窪地で明朝の決戦に備え、過敏がちな神経をなだめ、まんじりともせず息を潜めていた。
「戦いの前夜はどんな・・・眠れるはずもございませんよね」
「眠れるはずがなかろう、多くの者が死を覚悟し、震えながら闇を見詰めておったのじゃ」
太閤はぽつりと呟き眼を閉じた。すると、太閤の脳裏に決戦前の設楽ヶ原の映像がリアルに再現し始めた。
連吾川を挟んだ対岸の武田の陣営辺りが急に騒がしくなった。夜半に小雨交じりの雨が時折降っていたが、明け方近くなるとすっかり止み、辺りは霧に包まれていた。太陽が昇り始めると設楽ヶ原を覆っていた霧は何処かに吸い込まれるように消え始め、織田・徳川連合軍の眼前に、鶴が羽を広げたような武田の陣様が次第に明らかになっていった。それにつれ、敵陣の色取り取りの幟(のぼり)、旗(はた)指物(さしもの)を付け馬に跨がる騎馬武者や足軽雑兵の慌ただしく動き回る姿が見え始めた。
辺りに張り詰めた緊張の糸が、武田の赤(あか)備(ぞな)えの一団がざわざわっと動き始めると、弾かれたように、ぷっつりと切れ、織田・徳川陣内から響動きの声が沸き起こった。太閤は眠りから目覚めたように眼を開けた。

午前六時ごろ
「さあ、いよいよじゃ!」
その一声とともに、太閤の銃口(口)から、言葉の銃弾が、次々五右衛門と鬼丸に向かい発射され始めた。
ついに、決戦の火蓋がきられた。
「左翼隊先手・山県昌景隊!物見の声が響く。
・・遂に武田が攻撃開始じゃ。一番手は左翼隊、その先陣は山形昌景隊じゃ!馬印、旗指物でどの隊じゃかわかるのじゃ、うんばうんば~・・・左翼は山形昌景と小幡(おばた)信(のぶ)貞(さだ)、それに加え小山田(おやまだ)信(のぶ)茂(しげ)と武田(たけだ)信(のぶ)豊(とよ)の四小分隊に分れておった。山県の率いる隊は、騎馬から足軽雑兵にいたるまで、濃い朱色の鎧(よろい)兜(かぶと)を身に付けた赤備えじやった。・・朝靄の中、赤い軍団がひしめきながら動き始めたのじゃ。馬が勇み立ち、嘶(いなな)き、辺りの山々に木霊(こだま)し静寂が破られる。・・・敵との距離は、せいぜい二~三町(約二百~三百メートル)程じゃ、出撃前の、隊列を整え合う掛け声、槍や鎧の擦れ合いぶつかり合う音が激しくなり、こちらの耳元まで伝わって来るのじゃ、でへねうんばば~・・・敵の出撃準備を促す陣(じん)鉦(がね)と陣太鼓がちんちん~どんどん~、とけたたましく鳴り始め山々に木霊する、うんばうんば~・・出撃前の騎馬武者や雑兵の張りつめた緊迫感がわしらにも伝播し、今にも張り裂けそうな雰囲気がわしらを押し包むのじゃ。・・・ざざっ~ざざっ~ざざっ~整然と馬と人の動く音・・・間もなく全部隊の出撃態勢が整う。馬も緊張のあまり白い息を何度も何度も吐きながら嘶くのが、すぐ耳元で聞こえるようじゃつた。一瞬、緊張の糸の結び目がぷっとはじけ飛ぶ。・・次の瞬間、・・・騎馬と足軽雑兵の一隊がざざっと移動!出撃開始じゃ、うんばうんば~・・堰が切れたごとく、朱色の軍団が大きな津波となり、旗指物を背でゆらしながら、怒涛の如く迫り来る。大地が激しく地響き、地鳴りが起こる。・・迎え撃つは我が鉄砲隊じゃ。・・鉄砲総数三千丁五部隊編成、一部隊銃六百丁、それをさらに、一隊銃三百丁の二小隊に分け、全部で十小隊じゃ、うんばうんば~・・」
「一小隊三百丁なら三段構えでおますから、百丁の銃口が敵に向けられるのでおますなでございますね、ぶひ~」
「そうじゃ、早い話し、鉄砲隊全軍が一斉に撃てば千丁の銃口から敵に向かって玉が放たれるわけじゃ、でへねうんばば~・・」
「千丁の銃口、ものすごうおますな・・銃火に身をさらせば跡形も無く砕けちりますなでございますぶひ~・・・」
「そうじゃ、跡形も無く砕け散り、肉片じゃ・・」
太閤は躊躇(ためら)いもなく言い放った。
「そんな緊迫した中、われらの誰もが身を強張らせ、身構えておったのじゃ!鉄砲足軽も緊張のあまり顔を紅潮させ、銃を固く握りしめ、待機しているのじゃ、うんばうんば~、傍目にも身体中の筋肉が硬直しているのが分かるのじゃ。・・敵の騎馬武者や足軽雑兵が槍や甲冑を擦り合い、大地を踏み揺るがし、一団塊となり柵に向かい突き進んで来る。・・・火縄はまだ、だ!火縄はまだ、だ!もっと近づいてからだ!まず馬を狙え!鉄砲奉行は必死に連呼する。・・馬防柵の前で挑発していた徳川の大久保(おおくぼ)忠(ただ)世(よ)や大久保(おおくぼ)忠(ただ)佐(すけ)隊が柵内に引く。・・柵前面の空堀(からぼり)目前に百騎の騎馬隊に導かれた五百の足軽雑兵がせまる。放って、鉄砲奉行が命令!・・どど~ん~ぱぱぱぱ~ぱ~ん~・・一斉に火縄が放たれる。・・遂に両軍が激突、その一瞬が生と死の分かれ目じゃ、無我夢中じゃ、でへねうんばば~・・まるで雷(いかずち)が落ちたような凄まじい轟音が耳をつんざく!馬が棒立ちになり騎馬武者がもんどりうって馬から転げ落ちる。ばたばたと足軽雑兵が倒れる。敵は一瞬ひるむが突撃は続く。放て!・・どど~ん~ぱぱぱぱ~ぱ~ん~・・火縄の連射じゃ。肉片が飛び散り、真っ赤な血に染まった屍が、泥に塗れ地上に横たわる。呻く者、苦しみもがく者、そこは生と死が混在する世界じゃつた。放て!・・どど~ん~ぱぱぱぱ~ぱ~ん~・・火縄の連射じゃ。そんな一人一人の呻き声をかき消すように、火縄の轟音と雄叫び混ざり合う・・・・敵の狙いは側面じゃ、鉄砲奉行が叫ぶ、うんばうんば~・・・敵は柵前面より方向を変え、右翼、徳川勢の後方へ迂回、鬨(とき)の声を上げ押し寄せ始める。・・敵接近、放て!・・どど~ん~ぱぱぱぱ~ぱ~ん~・・再び火縄が一斉に轟音を発する。瞬く間に折り重なるように、敵の騎馬や足軽雑兵が前のめりに倒れこむ。火縄が炸裂するごとに鮮血が大地を覆う。・・迎え撃つは、挑発をしかけた大久保隊じゃつた、でへねうんばば~・・・敵が接近・・放て!・・どど~ん~ぱぱぱぱ~ぱ~ん~・・轟音が幾度となく響く!騎馬がもんどりうって前のめりに倒れ込む。真っ赤な血しぶきをあげ、つんのめるように長槍隊の一団倒れる。・・またもや、辺りは一瞬にして肉片と、屍の山じゃ。・・・火縄の連射の後、きな臭い硝煙の臭いが辺りに立ち込める。白い煙が辺りに漂い、上空で風に流され消えて行く。地上では戦いが続く。放て!・・どど~ん~ぱぱぱぱ~ぱ~ん~・・散発的に敵の火縄銃が放たれる。柵に銃弾がめり込む。鉄砲足軽が、頭や胴を撃ち抜かればたばた前のめりに倒れ込む。・・・頭を下げろ、身を屈めろ。鉄砲奉行の命令の声が飛び交うが銃声に打ち消され途切れる。敵の馬は火縄の轟音で後ろ立ちになり、制御出来ず暴れまくる。騎馬武者は銃弾を受け、馬ごと横転、泥田に顔を埋め絶命!・・・放て!・・どど~ん~ぱぱぱぱ~ぱ~ん~ぱぱぱぱ~ぱ~ん~・・火縄の連射音。突撃隊が屍の数を増やす。この世の地獄じゃ!・・・それでも敵は柵を目指し馬を駆りたて、槍、刀を構え、執拗に波状攻撃を仕掛けてくる。・・横だ!敵の側面だ!火縄を放て!馬だ!馬を撃て!わしも絶叫したぞ。馬を撃て!馬を撃て!・・・引け~、引け~敵が押し寄せれば柵の内に引き、退けば前じゃ。しかも、敵は泥濘んだ泥に阻まれ思うように動けん!それでも八度か九度攻撃を仕掛けて来た・・・まるで自殺行為じゃ。その内、敵は多くの屍と傷ついた兵を残し転戦じゃ。・・敵はどれほど死傷したじゃろうな、うんばうんば~・・半時は経過したかな。この戦いは押しては引く、引いては押す波のような戦じゃった。敵はその後、竹(たけ)広(ひろ)から迂回し、徳川の陣に向かおうとしたのじゃ、うんばうんば~」

午前七時ごろ
「中央隊先手・武田(たけだ)信(のぶ)廉(かど)隊!物見の声が響いた!・・中央隊の先手は武田信廉じゃ!奴は信玄の弟じゃ・・逍(しょう)遙(よう)軒(けん)などとも名乗っておった。こ奴は、戦いの終盤、負け戦と分るとさっさと尻尾を巻いて逃げおった。・・・中央隊は、他に原昌胤と内藤昌豊等じゃ。中央先手・武田信廉が指揮する騎馬は八十、総勢四百、喚声をあげ、何重もの層になって、地響きを立てながら突撃開始じゃ!・・・前と同じ、地べたは雨上がりで、思うように足が運べん、さらにこねくりまわされた泥に足を取られ、前のめりに倒れる者も大勢いた、でへねうんばば~・・敵が接近。放て!・・どどど~ん~ぱぱぱぱ~ぱ~ん~・・火縄の連射音。・・一気に長槍で柵を突破するつもりじゃつたろうが、これも徳川の三百丁の火縄の餌食よ。轟音とともにばたばた倒れこんだわ。・・ぱ~ん~ぱ~ん~・・単発的に銃声が響く。柵内の鉄砲足軽が頭を撃ち抜かれ、前にどどっと倒れ込む。投げつけられた長槍で串刺しにされ、のたうちまわる者も多数。・・・その辺りが血で真っ赤に染まり、まるで血の池じゃ!血の池がどんどん増えて行く、うんばうんば~・・呻く者!もがき苦しむ者!よろよろ立ち上がり後退しようとする者!横転し溝から這い上がり、前に進もうとする者!怯(ひる)むな!突撃だ!狂気にかられ敵が叫ぶ!そこへ容赦なく鉛玉を打ち込む、でへねうんばば~・・食うか食われるかじゃ!・・次じゃ、次じゃ!・・左翼隊二番手・小幡(おばた)信(のぶ)貞(さだ)隊!物見の声。・・・来るぞ!小幡信貞隊が来るぞ。赤い軍団がざざざっと対岸の緩やかな丘から前進し始める。小幡信貞が指揮するのは山形昌景と同じ赤備えじゃつた。具足から槍、旗指物にいたるもの全て朱色で統一じゃ。それは見事なものじゃぞ、六百もそろうとな。騎馬は百五十騎ほどかな、山県より多めじゃつた。・・・かんきん~かんきん~どんどん~どんどん~押し出しの陣鉦と陣太鼓の音が辺りに響く。敵は槍を水平に構える。陣鉦の金属音が空気を引き裂き、陣太鼓の音は空気を揺さぶる!敵の緊張した顔がすぐそこに見えるようじゃつた。・・ざざっ、ざざっ、ざざっ~・・出撃態勢が整う・・・馬上の指揮官の軍配が振り下ろされる。突撃開始じゃ!。どどどどっ~・・敵接近!放て!・・どどん~ぱぱぱぱ~ぱ~ん~・・火縄の連射音。・・馬は棒立ち、敵は馬から転げ落ち・・雑兵は空堀に頭から突っ込む、呻く者、絶叫する者、這って前に進もうとする者、立ち上がり喚く者・・・どど~ん・・それらを無視するかの如く、火縄の轟音・・辺りは、瞬く間に血の海じゃった、うんばうんば~・・・敵がひるむと徳川は弾(だん)正山(じょうざん)東、右翼に布陣していた石川(いしかわ)数(かず)正(まさ)と本田(ほんだ)忠(ただ)勝(かつ)、さらに榊原(さかきばら)康(やす)政(まさ)や内藤家長(いえなが)など二千の兵を柵の外に出して反撃じゃ!錐揉(きりも)み状になり白兵戦が続く。敵の死(し)屍(かばね)の山!味方の死屍の山!混戦状態でさらに敵は肉薄突撃を敢行・・しばらく戦いは続くが、敵はかなりの死体を残し柳田(やなぎだ)から竹(たけ)広(ひろ)の方に転戦じゃった」
「殿下、相手の武将の名や旗指物は誰が見極めるのですか?」
震える声で五右衛門。
「おう、おうよう聞いてくれた。残念ながらわしの配下にはおらんかったが、徳川に元、武田家に仕えていた成瀬(なるせ)正一(まさかず)がおって情報がはいるのじゃ、ようしたものじゃ!・・戦況は目まぐるしく展開。・・次は左翼隊三番手・小山田(おやまだ)信(のぶ)茂(しげ)隊!物見の声が飛ぶ。小山田は三方ヶ原の戦いでは、投石部隊を率いて徳川軍に石を投げつけたと言う。これも一種の心理作戦じゃったな!」
「心理作戦でございますか?」
「あたりまえじゃ、徳川軍が構えている時に、矢や鉄砲でなく、石ころを投げられれば、馬鹿にされたとむきになって前に出るじゃろう、まんまと徳川方の大久保隊は挑発にのりおった。
いらついて、さらにそこに石を投げられ、前に出て、騎馬隊に押しつぶされる、これでは家康も糞もちびるぞ、わっはっはっ~・・・いよいよ、武田は次々出撃じゃ!小山田信茂隊は騎馬隊二百騎、総勢一千が地響きを立て、怒涛のごとく攻めて来たのじゃ、でへねうんばば~」

午前八時ごろ
「挟撃作戦開始じゃ!長篠城包囲網の鳶ヶ巣山砦辺りで鬨の声が上がる。砦を守っていた武田信実の軍勢に、徳川方の酒井(さかい)忠次(ただつぐ)の三千が攻撃を仕掛けていたが、ついに敵を敗走させたのじゃ。武田は前後を挟まれ守勢に立つ。これこそわれわれが仕掛けて置いた罠なのじゃ、うんばうんば~・・・もう武田は逃がれられんぞ、前か横へ動くより外はないのじゃ。・・・・・
左翼隊四番手・武田(たけだ)信(のぶ)豊(とよ)隊、こう伝令の声が殺気立った戦場に響く!武田信豊は黒備えじゃ!これも具足から槍、旗指物にいたる全ての物が黒色で統一じゃ。これは異様じゃぞ、何かどでかい黒い甲虫(こうちゅう)が地を這いずるように迫ってくるのじゃ、うんばうんば~・・・敵接近!・・どどん~ぱぱぱぱ~ぱ~ん~・・火縄の連射音。・・・真っ黒な団塊がぱっと弾けるように分れ柵におしよせてくる。・・・・近くまで押し寄せて来たが銃の一斉射撃で後退!この間、各戦線で銃撃戦や、激しい白兵戦が繰り広げられていたのじゃ、うんばうんば~・・信豊は戦況が不利になると早々に穴山(あなやま)梅(ばい)雪(せつ)同様、戦線を離脱したが、そのことで後に高坂(こうさか)昌(まさ)信(のぶ)が勝頼に此奴(こやつ)らを切腹させよと迫ったが、お構いなしになったと聞く、うんばうんば~」

午前九時半ごろ
「右翼隊先手・馬場信春隊!物見の合図。・・ここはわしが守備していた大宮前じゃつた!右翼隊は馬場信春と真田信綱、それにじゃ、真田昌輝に加え土屋昌次等じゃ・・右翼隊も先陣から四分隊に分れておるのじゃ、でへねうんばば~・・右翼先手として出撃した馬場信春は、佐久間(さくま)信(のぶ)盛(もり)六千が守る丸山砦攻撃じゃ。六~七百の軍勢でそこを占拠。混戦が続き味方にも多くの死傷者が出始めていたのじゃ、うんばうんば~・・そこで馬場は、戦況を分析し、今のような無謀な突撃攻撃を繰り返せば味方の損害は甚大、数の上でも敵は味方をはるかに凌駕している、このような無意味な消耗戦を続ければ敗北は間違いない、今こそ勇気ある撤退をすべき、と伝令を急派して進言したが、強気に押す勝頼は完全に無視したのじゃ、うんばうんば~・・勝頼め!頭の血が沸騰、興奮状態で、状況判断が出来んかったのじゃろう。それに取巻き連中もじゃ、何たる無謀な突撃作戦じゃ、うんばうんば~」

午前十時ごろ~正午すぎ
「遂に、これも右翼隊・真田信綱、真田昌輝、それに土屋昌次が交互に出撃、波状攻撃じゃ。真田信綱は弟の昌輝と参陣じゃ、でへねうんばば~・・真田信綱は、数々の戦で先陣をきり、三尺三寸の陣刀・備中(びっちゅう)青江(あおえ)貞(さだ)次(つぐ)を頭上高く振り回し、勇猛果敢、数々の戦いで戦功を上げて来た猛者(もさ)じゃつた。奴が抜き放った陣刀が、一瞬煌(きら)めくと味方の雑兵の首が血煙をあげ宙に舞いドサッと鈍い音を立て泥田に転げたのじゃ・・驚くのはまだ早い、次に奴が刀を頭上から真下に振り下ろすと、雑兵の身体が真っ二つに斬り裂かれたのじゃ・うんばうんば~さらにじゃ、さらに奴は馬を駆って縦横無人に斬りまくり、身体を斜めに、胴から身体が真っ二つに、頑丈な鎧も粉々じゃ、奴の駆け抜ける所、死屍が横たわり、わしらは真っ青になり、馬防柵の内側に撤退じゃ、うんばうんば~」」
「げげっ~・・・人間が縦に真っ二つ、鎧も粉々、身体が胴から二つに・・まるで死神や・・・・」
「この突撃で、わしの守備する馬防柵近くまで攻めて来おった。・・殿は、すかさずわしと丹羽(にわ)長秀(ながひで)や柴田勝家に此奴(こやつ)らの側面攻撃を指令された。・・・・鉄砲、弓矢と槍隊で応戦じゃ。それと同時に敵は土屋昌次の隊も合流し突撃開始じゃ!・・滝川(たきがわ)一(かず)益(ます)隊が応戦!敵は一の柵!二の柵を突破!三の柵によじ登り突破しようとした土屋らに佐々成政、前田利家らの鉄砲隊が銃を猛烈に撃ち掛ける。・・・・土屋は柵を突破出来ず壮烈な戦死よ!わしは奴が柵からもんどりうって転げ落ちる様をちらっと見たぞ、うんばうんば~・・続けて予備隊の穴山(あなやま)信(のぶ)君(きみ)や一条(いちじょう)信(のぶ)龍(たつ)と順繰りにわしの守備陣地を攻撃じゃ、うんばうんば~・・さらに、中央隊の内藤昌豊もわしの守る右翼方面を攻撃じゃ。滝川一益、続けて佐久間信盛が受けて立ち鉄砲隊で迎え撃った。・・放て!・・どどん~ぱぱぱぱ~ぱ~ん~・・火縄銃の連射音!・・・・寄せ手は馬上から転げ落ち、足軽雑兵は身体を打ち抜かれ即死。血しぶきをあげ退散じゃ。・・・柵前面の泥田や空堀辺りは死骸が重なり血の海じゃ、でへねうんばば~・・真田信綱と昌輝が再びわしと柴田勝家、丹羽長秀に向かい二手に分かれ猛烈に突進じゃ!騎馬の一団が真っ直ぐに鋭い刃物を突き付けるように柵まで激進!・・側面じゃ、側面から鉄砲を撃ち掛けろ!わしは必死で絶叫しておったぞ。無我夢中じゃ、死に物狂いじゃつた、うんばうんば~・・槍と槍、槍と刀、刀と刀ががちがち触れ合い、鎧が銃弾で打ち抜かれ、真っ赤な鮮血がパッと飛び散り、矢が柵に食い込む、傷を負い、のたうち回わり死んだ武者や足軽雑兵が累々と重なり、死屍の山じゃ。・・人は言う!戦は残酷だ。人は何故戦うのでしょう!・・馬鹿な!・・・何と言う愚かな問いじゃ!愚問じゃ!戦いがそこにあるから戦うのじゃ。そんな問いは無意味じゃ、でへねうんばば~・・わしは此奴等、能天気(のうてんき)な馬鹿どもに言ってやりたい、わしは生まれた時から戦いの真っただ中に投げ出されていたのじゃ、わし自身、戦その物を具現していたのじゃ!昔から今に至るまで殺し合いは人間の宿命じゃ、未来もそうじゃろう、この真実から目を逸らそうとする者は必ずや痛いしっぺ返しを受けるじゃろう、うんばうんば~」
そう語る太閤の顔は真っ赤で身体中から玉のような汗が噴き出ていた。腹の底から煮えくり返った怒りが噴出し、興奮の渦が頭のてっぺんから爪先にいたるまで逆巻いて、絶叫するが如く言葉を吐きだした。
「じゃが、暴れまくった真田信綱も、側面からの集中砲火で柵の手前で蜂の巣のごとく撃ち抜かれ、壮絶な最期をとげたのじゃ。さらに、弟、昌輝も銃弾を受け退却じゃ、うんばうんば~」
五右衛門と鬼丸はそんな太閤に完全に圧倒され半ば恐怖に捉われ、青ざめてへたり込んでいた。話しの間、二人は、あたかも、騎馬が嘶き、足軽雑兵が荒い息を上げながら彼等の身体の側を触れんばかりに走り去り、ヒュ~と空気を引き裂きながら銃弾が耳元をかすめ、次の瞬間、鉛の熱い塊が、彼等の身体の肉を引きちぎり、グシャリと鈍い音をたて、骨に食い込む、そんな戦の真っただ中、設楽ヶ原にいた。
熱気の嵐が去ると、太閤は少し冷静になり話を続けた。
「それにじゃ、五右衛門、鬼丸よ!武田の中央隊は左翼、右翼の揺さぶりを見て内藤昌豊や原昌胤、さらに安中景繁らが続々参戦し柳田前で敵味方入り乱れての混乱戦じゃ、でへねうんばば~・・それに内藤昌豊隊などは家康の本陣近くまで進撃し、八(や)剣表(つるぎおもて)で激戦となったのじゃ!六度も突撃を敢行し、一、二、三の柵まで次々突破じゃ、うんばうんば~・・二十名近くが家康陣内に雪崩込み斬り合いじゃった。家康はその気迫に押され縮みあがり震えておったそうな。・・迎え撃つたのは、わしの隊と前田利家、それに佐々成政、福原(ふくはら)秀(ひで)勝(かつ)、さらに加えて野々村(ののむら)正成(まさなり)、塙(ばん)直(なお)政(まさ)隊など数千じゃった。わしは戦いの指揮を執りながら見ていたが敵ながらあっぱれな戦いぶりじゃつた、うんばうんば~・・三重の柵まで突破したのは、わしの見る限り、あやつらだけじゃったな、でへねうんばば~」

午後一時過ぎ
「中央隊の内藤隊に加わり、左翼隊の小山田信茂、甘利信康がわしと柴田勝家、丹羽長秀を側面から攻撃してきおった。敵はもう烏合の衆じゃった。じゃが、その勢いにわし等は少し後退じゃ。・・期せずしてさらに左翼隊の小幡信貞、跡部(あとべ)勝資(かつすけ)が次々加わり混戦模様じゃ!・・そこにわしの隊や丹羽の隊、徳川の本田忠勝の鉄砲隊が進み出て、火縄の一斉射撃と長槍で追撃じゃ。・・・前田利家の柵の前では、勇猛果敢に攻め立てていた山県昌景が、我が足軽鉄砲隊の銃弾で撃ち抜かれ、采配を口にくわえたまま転倒、そのまま身動きせず即死、非業の最期を遂げたのじゃ、でへねうんばば~・・・しばらくすると勢い込んだ敵の奴らも討ち崩され、波が引くように総退却が始まったのじゃ。・・・いよいよ、最期の時が刻一刻と近づいていたのじゃ、うんばうんば~・・気力だけでは倍以上の敵と鉄砲の前には無力じゃ。戦には勝てん!ゴリ押しは破滅の道じゃ。・・・・・・これを機に戦いの流れは劇的に変わり始め、見る見る内に逆流が始まったのじゃ、うんばうんば~潮目(しおめ)が変わったのじゃ。攻守が逆転し、わしらが反撃じゃ、でへねうんばば~」

午後二時ごろ
「殿の総攻撃の命が下った。・・怒涛の如く、今まで柵内に留まって抗戦していた味方の軍勢が、一気に柵や土塁を越え、川を渡り反撃開始じゃ。・・・これが合戦の論理じゃ!わしの中でも、均衡の糸がぷっつりと切れ、反撃の閃光がびびびっ~と全身を貫いたのじゃ、うんばうんば~・・わしは絶叫しておった。前にじゃ!前にじゃ!後れをとるな!前にじゃ!進むのじゃ!後れをとるな!敵の首級をあげろ!・・・わしも馬に跨り軍旗を靡かせ疾走じゃ、風のごとくな、うんばうんば~・・ここで敵味方入り混じっての白兵戦が始まったのじゃ。・・・しばらくすると、武田信廉や穴山梅雪の旗指物を背負った騎馬の一隊が退き始めるのが遠目に見えたわ。後に梅雪など、勝頼をおっぽりだし逃げ出したと聞く、何と言う不忠者じゃ、うんばうんば~・・奴め!後に家康に秋波をおくり生き延びたが、本能寺の変の折、家康と別れ落ちのびる途中、山城の宇治田原で落ち武者狩りにあい殺されてしまったと聞く、奴にふさわしい死に様じゃ、うんばうんば~」

午後三時ごろ
「いよいよ、勝頼も年貢の納め時よ。・・才ノ神の勝頼の陣地に立てられた軍旗が大きく揺れ始めたのじゃ。いよいよじゃ、でへねうんばば~・・ぶお~ぶお~・・けたたましく退却の法螺貝が鳴る。法螺貝の低い腹にしみわたる音が谷間全体に木霊する。勝頼が才の神の観戦陣地から移動じゃ!宮脇に出て大海方面に退却じゃ、でへねうんばば~・・敵退却開始!全軍討って出よ!・・味方の騎馬の伝令が大声で各陣地に駆け巡る。・・・武田は総崩れじゃつた。敗走の中で敵は我先にと逃げまどい、逃げ急ぎ、甚大な被害を出したのじゃ、うんばうんば~・・敵にはもはや武田が誇った自尊心も威厳もなかったのじゃ・・ただ、ただ兵たちは自分だけが生き延びればよかったのじゃ、うんばうんば~・・そんな中、勝頼一行が掲げる軍旗がゆらゆら揺れながら退却し始めたのじゃ。左翼隊の甘利信康は中央隊の原昌胤等と合流し、最後の力を振り絞り善戦するも天王山の裾野辺りで力尽き自決を遂げたのじゃ、でへねうんばば~・・原昌胤も勝頼を逃がす為、殿をつとめ、我が方の銃弾に身を晒し、頭から胸、腹、さらに両腕や両足の数十箇所を射ち抜かれ、壮絶極まる討ち死にじゃつた。・・同じく中央隊の内藤昌豊は、残った騎馬隊を指揮し、我等の行く手を遮り、これも弁慶のように全身に矢と銃弾を受け、馬から転がり落ち、これも原昌胤と同じ様に壮絶な死をとげたと聞く、でへねうんばば~・・この頃になるとじゃ、武田の名だたる武将は首をかっ切られ、踏み荒らされた泥田や野原(のっぱら)は、首の無い敵の死体や馬の死骸で埋め尽くされていたのじゃ。・・辺りの真っ赤な血溜まりの水が、細く長く帯状の流れとなって、連吾川から豊川に流れ込んで行く、でへねうんばば~・・惨いことじゃ!」
「それで丸山砦を占拠した・・・武将はどないになりましたでございますか、ぶひ~?」
唐突に鬼丸が訊ねた。
「そうじゃ、そうじゃ、肝心の馬場信春を忘れておった、わしも年じゃのう、うんばうんば~・・信春は勝頼を出沢橋で出迎え、その姿が見えんようになってから橋の袂(たもと)近くで、これも見事な討ち死にじゃ・・何と言っても主君思いじゃった、でへねうんばば~・・しかし、武田は強かったぞ。じゃが、最大の誤算は、勝頼が戦況を見誤ったことじゃな・・・勝つために退却し明日に備える、これも優れた武将のなすべき状況判断と、何よりも決断力じゃ、うんばうんば~・・徐々に数に勝る織田・徳川連合軍が陽動作戦で相手を消耗させ、相手が消耗の限界に来た時、一気に反撃じゃ。これで相手は水晶の玉が、粉々に砕け散るように、砕け散ったわけじゃ、うんばうんば~・・後で調べて見ると、激戦の最中より、敗走途中で命を亡くした兵の方が多かったと言えるのじゃ!川にはまり溺死したり、傷つきながら山に逃げ込み死んだ敵兵も多かったぞ、わし等の連合軍もこの混戦の中、死んだり傷付いたのが大半じゃった・・・」
「殿下、そうしますと武田は完敗でしたが、激しく抗戦したわけですね」
「そうじゃ、わしが初めに言ったじゃろう、でへねうんばば~」

古参武将の集団自殺
「所で何故武田は負ける戦を戦ったのでしょう、わたしはずっと疑問に思っていました」
太閤はしばらく目を閉じ感慨深げにまた喋り始めた。
「そこじゃ前にも少し言うたが、わしが言いたいのは!・・・・勝頼は自国の騎馬隊は戦国最強じゃと自負しておった。が、その過剰な自信こそ命とりよ。柵ごときを張り巡らしても騎馬隊で突撃すれば突破可能と思うたんじゃろう。・・もしも武田の騎馬隊が最強でなかったら、さっさと引いたじゃろうに!穴(けつ)を捲ってな!負けるが勝ちじゃ・・捲土重来(けんどじゅうらい)こそ賢い武将のやることよ、うんばうんば~・・そこが人間の心の奥深く測り知れん暗い所じゃ。・・人間の愚かな所じゃ、うんばうんば~・・凡人は柵が二キロも三重に張り巡らされていたから織田・徳川連合軍は武田の騎馬隊を完膚なきまでに打ちのめしたというじゃろう。・・それは浅はかな結論じゃ。武田が、状況判断を正しくすれば、戦う前から苦戦は予想出来たはずじゃ。殿は相手の心理を読むのがうまい、天才じゃ、でへねうんばば~・相手の最強点を最大の弱点と見る、うんばうんば~・・敵は眼の前に罠が仕掛けられているのに、その罠にみすみすひっかかる、しかも、延々と張り巡らされた巨大な罠にな・・そうなるよう殿は仕掛けたのよ、うんばうんば~・・勝頼めは、己を過信したのよ、殿は勝頼の心の奥深い所まで分析し、戦いに臨んだのよ」
「成程、所で殿下、武田の武将も柵に取りつき、大声で叫んで火縄で撃ち抜かれたと先ほどお聞きしましたが?」
「さっきもいったじゃろう、土屋昌次じゃよ。物凄い形相で柵に取りつき撃たれたのじゃ、でへねうんばば~・・人間の執念の凄まじさ、その半面、人間の愚かさはこう言う極限状態で露見するのじゃ・・・・!」
「恐ろしゅうおますな、殿下・・・、ぶひ~」
「うん、うん・・・・・・それにしてもいくら叫ぼうが、生身の人間が火縄銃の前に立ちはだかって、柵を突破しようとしても、それは無理じゃて、まるで、自殺行為じゃ!ごり押しは敢えて言えば、馬鹿のすることじゃ・・土屋昌次は武田を具現しておったわ、うんばうんば~・・それに武田のこうむった最大の痛手はなんじゃ」
「・・・・・・?・・ぶひ~」
「それはじゃ、武田は馬場や山県、それにじゃ、内藤など名だたる武将がことごとく討ち死にじゃ。連合軍の被害も甚大じゃったが、足軽雑兵が大半じゃつた、うんばうんば~・・これ、これを見てみい、わしみたいな、優秀な武将が生きているではないか、はっはっはっ~・・死んでは元も子もないのじゃ、うんばうんば~」
ここで太閤は自慢げに身体をいからせ胸を叩いて見せた。
「武田敗戦の主因は信玄公以来の古参武将と勝頼寄りの若手武将との団結がばらばらで、しかも自信過剰な勝頼が大将だったのが悲劇じゃったな!・・わしが思うに、信玄公につき従って来た武将達は、言ってみれば、勝頼に愛想をつかし、皆自殺したのじゃ・・集団自殺じゃよ!武田が滅亡するのを自分の目で見たくなかたのじゃろう!それにじゃ、味方と頼む身内までもが奴に愛想をつかし、さっさと見捨てて戦場から逃げた奴もおったが、これも問題じゃな、うんばうんば~・・・・」
「名だたる武将が集団自殺やなんて、なんちゅうこっちゃ・・・わては、頭がこんがらがり何がなんだかよう分らんようになってしもうたがな、どないしたら、ええんやろうでございます、ぶひ~ぶひ~」
「これも大きな時の流れかもしれん・・」
五右衛門は一言呟いた。
二人は太閤の合戦話に圧倒され半ば放心状態だった。
その時喋り疲れ瞼を閉じていた太閤が眼を開けた。
「わしは眠っておったのか?長い、長い夢を見ているようじゃった」
「いいえ殿下!雨垂れがぽた、ぽた・・数滴落ちるほどでございました」
「何と・・それは不思議なことじゃ・・わしはまだ設楽ヶ原で戦っている様な心境じゃ・・」
その返答に太閤は驚き、考え深げに自分の心境を述べた。

武田家滅亡
天正十年、長篠の合戦より七年後、織田信長は徳川家康や北条(ほうじょう)氏(うじ)政(まさ)と共に、武田領へ信濃の木曾(きそ)義(よし)昌(まさ)の内応により侵攻を開始した。
武田勝頼は甲斐新府城で籠城し戦うつもりであったが離反者が続出した。
岩(いわ)殿山(どのやま)城主、かつて長篠の戦いでは左翼隊として戦った小山田信茂をたより後退したが、彼の裏切りにより天目山方面に逃れた。
武田軍はもはや組織的に戦う戦力もなく、今の山梨県天目山の笹子(ささご)峠(とうげ)近く、西の集落、田の里でわずかに抵抗したが、戦いに破れ勝頼とその長男・信勝は自刃(じじん)して果てた。
栄枯盛衰、その祖先が八幡(はちまん)太郎(たろう)義家(よしいえ)の弟・新羅(しんら)三郎(さぶろう)義光(よしみつ)の末裔(まつえい)、甲斐(かい)源氏(げんじ)一族(いちぞく)武田家は五百年の歴史の幕を閉じた。

「その後、武田家はどないな有様で滅亡したのでおますでございます、ぶひ~」
それからしばらく間を置き、これも放心状態から覚めた鬼丸が問うた。
「その顛末はこうじゃった、うんばうんば~」
太閤は鬼丸の問いに答え、武田家のその後の行く末を語り始めた。
「勝頼め!父・信玄公も悲しんでおられるであろう。国を支えた大勢の忠臣を、設楽ヶ原でむざむざ犬死させおって・・奴の思い上がりがこうさせたのじゃ、うんばうんば~・・・信玄公が言っておられた、人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり、と・・城になる忠臣どもを犬死させては、滅亡は当然だと、かつて殿は感慨深げに言っておられた。・・しごくもっともなお言葉じゃ、でへねうんばば~」
「主君を裏切った小山田信茂様の顛末はどないになりやしたでございますか、ぶひ~」
「小山田か・・その後奴は、主君を裏切った罪により、織田(おだ)信(のぶ)忠(ただ)様により、主君を裏切るとは不埒(ふらち)千万(せんばん)、小山田こそは古今(ここん)未曾有(みぞう)の不忠者、と糾弾され処刑されたのじゃ。・・
これもしごくもっともな処罰じゃ。主君を裏切るとは言語道断じゃ、うんばうんば~」
太閤は半ば怒りに満ちた表現で言い切った。
「それにじゃ、武田は新しい時代の流れに乗れんかったのじゃ。時代は殿が取り入れた大量の鉄砲を用いた新戦術に変わり、戦国最強と言われた騎馬軍団で戦いを挑んだ武田ではあったが、脆くも打ち砕かれたのじゃ・・・勝頼は、笹子峠はおろか、ましてや父・信玄公が目指した天下平定の峠も越えられなかった・・時代の流れの藻屑と化したのじゃ・・」
太閤は考え深げに心境を述べた。
「殿下、その後、勝頼様一行は・・・・」
「その後か・・・勝頼と嫡男・信勝、それに正室の北条夫人はじめ二十数名の者は、天目山近くの笹子峠辺りの名もない集落で皆自害して果てたと聞く、でへねうんばば~その後勝頼親子の首は京に運ばれ、一条大路の辻で梟首にされたのじゃ」
「ああ~・・悲しいこっちゃでございます・・儚(はかな)いこっちゃなでございまな、ぶひ~」
鬼丸が悲哀の満ちた表情で嘆息がちに言った。
「誰がそんな、武田の哀れな姿を想像しただろうかのう。悲しいことじゃ、さみしいことじゃ・・・・・」
太閤はそれ以上多くを語らず、哀悼の言葉を述べ武田一族の冥福を祈った。
                             
第七章

本能寺の変・誰が首謀者

天正十年(1582)六月二日、大激震が京を襲う。
誰も想像さえしなかった信長の突然の死、本能寺の変が勃発した。
その前日信長は、公家、各界の著名人や博多の商人を本能寺に招き、長年収集した名茶器を一堂に集め、内覧会を兼ねた茶会を催した。展示されたどの茶器も、招かれた者達の垂涎の的になるほどの名品、逸品で、人々は一つ一つ食い入る様に見詰め、展示所のあちこちで、それらのあまりの素晴らしさにため息が漏れた。
「これは、これは・・・・うううん~」
茶器に見識がある者達は、名茶器一つ一つを手に取り、その姿形や色合いを舐めるように見詰め、その出来栄えに感嘆し二の句さえ継げぬ有様だった。特に茶入れの九十九(くつ)髪(も)茄子(なす)は言うに及ばず、初芝(はつしば)や新田(にった)、それに楢(なら)柴(しば)の三(さん)肩衝(かたつき)の前には、人だかりが出来るほどで、言ってみればどの茶器もこれら肩衝に劣らず、国一国と引き換えても良い程の名品で、どの招待客もその素晴らしい出来栄えに賛辞を送り、主管の信長は大いに溜飲をさげた。この九十九髪茄子は、最初足利義満の唐物茶入であったが、様々な経緯を経て松永久秀の手に渡り、その時は信長の元にあった。
「太閤殿下、殿下秘蔵のあそこに展示されている九十九髪茄子の名茶器と我が秘蔵の別嬪十人と交換してくれんかのう」
主管が太閤の場合、誰かが冗談めいて、こう持ち掛けたとする。
「別嬪十人!それはありがたいのう・・じゃが、わしには女はぎょうさんおる、陳(ひ)ねた女をお前に下げ渡したいくらいじゃ・・年を取ると女も恥じらいがのうなり、それによう食う、頭痛の種じゃ・・それにじゃ、何せわしも齢じゃ・・それに近頃淀がうるさくてのう、わっはっはっはっ~」
太閤は笑いながらこう応えたであろう。
こんな冗談は決して信長には通用しないのは言うまでも無い。
明けて次の日、天下布武を目指していた信長は、家臣・明智光秀の謀反に合い、その野望は打ち砕かれ四十九歳でその人生の幕を閉じた。

本能寺の変のおよそ二十日ばかり前、備中高松に布陣していた羽柴秀吉から信長に援軍要請が来た。
天正十年と言えば、天正三年の長篠の合戦からもう七年の歳月が流れていた。
この年、織田・徳川連合軍は武田領内に攻め入り天目山の戦いで勝頼を死に追いやり武田家は滅んだ。
そんな中で本能寺の変は起こったのである。
この変を起こした明智光秀の経歴と動機を簡単に書いてみると次のようになる。
信長に仕える前、光秀は美濃の斎藤道三に仕えていたがその息子・義龍に道三は殺された為、その後越前の朝倉義景に仕えた。そこで光秀は朝倉に身を寄せていた足利義昭と出合った。
野心家の義昭は朝倉義景に上洛を勧めていたが応ぜず、次に彼は信長に眼を付け、上洛し、自分を征夷大将軍につけるように、光秀を通じ要請した。後に信長と義昭の関係が悪化した為、光秀はその後信長に仕官した。

元亀二年、光秀は比叡山焼き討ちの後、その武功により近江を与えられ坂本城を築いた。天正三年、従(じゅう)五位(ごい)下(げ)日向(ひゅうがの)守(かみ)の官職を与えられ、惟(これ)任(とう)日向(ひゅうがの)守(かみ)と名乗る。その後、石山本願寺の戦い、有岡城の荒木村重や信貴山城の松永久秀等との戦いでこの地を平定、その功により近江に加え丹波一国を与えられ、亀山城と横山城、それに周山城を築城する。
近江は東海道と山陰道の接点でもあり、戦略上重要な拠点であったことからも、いかに光秀が信長の信任が厚く、重要な地位にあったかがうかがい知れる。しかもそれに平行し、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶ら近畿地方の織田配下の大名の監視役も任され、変の前年、天正九年、京都で行われた御馬(おうま)揃(ぞろ)えの総指揮さえも任された。御馬揃えとは、織田の各軍団を公家や親町天皇の御前で繰り出す観兵式であった。現代的に言えば、信長が朝廷と公家、それに諸大名を牽制する為、自分の軍事力を誇示する一種の示威行動だった。
光秀は連歌や和歌、さらに茶の湯にも良く通じ、朝廷と公家等にも顔が広く、学識にも富み行政手腕もすぐれた有能な人材であった。
そんな光秀が何故本能寺の変を起こしたのか、彼のそれまでに至る苦悩と懊悩の胸の内を、今となっては知る術もないが、一般に言われている動機やその他の陰謀説を次に挙げてみよう。

野望説
◎信長の配下に有るのではなく一度は天下を握って見たかった。
怨恨説(えんこんせつ)
◎天正七年、八神城主・波多野兄弟の命を光秀が保証をしたにもかかわらず、信長が勝手に処刑し、その為人質の彼の母親が殺害された恨み。
◎稲葉一鉄から有能な家臣・斉藤(さいとう)利(とし)三(みつ)を引き抜き、一鉄の要請により信長が帰参させるよう命じたが拒み、叱責された。
◎武田勝頼討伐の後、戦祝会でしゃしゃり出た発言をし、家臣の面々の目前で、信長より激しく叱責され、しかも打擲(ちょうちゃく)までされる屈辱をあじわった。
◎安土城を訪れた信長の同盟者・徳川家康の労をねぎらう総責任者であったが、饗応料理の不備を指摘され、その挙句、備中高松城攻略中の羽柴秀吉の支援に急遽回されることになり、非情にも旧領近江坂本と丹波を召し上げられ、それらに変わり中国二国の出雲、石見は攻め取った分だけ領地にせよと言われた。
焦慮説(しょうりょせつ)
◎天正八年、長年、織田家に仕えて来た佐久間(さくま)信(のぶ)盛(もり)、林(はやし)秀(ひで)貞(さだ)や安藤(あんどう)守就(もりなり)、丹羽(にわ)氏(うじ)勝(かつ)といった旧臣が、信長の何十年まえの家督相続にあたり、それに反対したことで突如追放された。
そんな信長の冷酷、非情の性格に怯え、自分も二の舞になるのではないかという恐怖心と猜疑心に捉われ謀反に及んだ。
陰謀説
◎朝廷や公家、寺社、かつて信長包囲網を策した義昭が背後に絡む陰謀説が有る。正親町天皇や公家達は、信長が天皇家を廃し、自分が独裁者としてこの国を支配するのではないかと、その専横振りに疑念を持ち続けていた。そこで親皇派の光秀を首班にしたて皆で謀反を企てた。

本能寺の変前後
そんな諸説はさておき、その当時、世間を驚愕、震撼させた本能寺の変前後の出来事はこうであった。
天正十年(1582)五月十五日、信長は武田を滅亡させた戦勝会を催した。
五月二十八日、光秀は京都愛宕山(あたごやま)権現(ごんげん)参拝の翌日、その近くの西之坊(にしのぼう)威徳院(いとくいん)で百(ひゃく)韻(いん)連歌(れんが)の会を開く。所謂、愛宕百(あたごひゃく)韻(いん)である。
五月二十九日、信長京都に入る。
六月一日、信長は公家、名家、著名人、博多商人等を招き茶器内覧を兼ねた茶会を催す。光秀、亀山城出発。
六月二日、本能寺の変起こる。
六月四日、秀吉は毛利と和睦し中国大返しを行う。
六月十三日、山崎の合戦。
この合戦は、中国大返し(備中、高松城で毛利方の清水宗治と戦っていたが、信長横死を知り、直ちに和睦して京まで僅か十日あまりで引き返してきた)をした羽柴秀吉軍と明智光秀軍が、山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町辺り)で激突した。
戦いは緒戦から終戦まで各方面で戦われたが、羽柴軍が山崎の天王山の戦いを制し、勝利を物にした。
その深夜、光秀は坂本城へ落ち延びる途中、小栗栖(おぐるす)(京都市伏見区)で、落ち武者狩りに合い百姓に竹槍で刺し殺されたと言われている。
ここで根強い秀吉陰謀説が囁かれたのは、中国大返しをして、彼が京に駆け付けるのが早すぎる、準備を整えておいて、光秀に謀反をそそのかし討ったに違いないと言う説である。
徳川家康の伊賀越へも疑われている。堺で豪商、茶屋四郎五郎に偶然出会い、本能寺の変を知り、本田(ほんだ)忠(ただ)勝(かつ)や酒井(さかい)忠次(ただつぐ)ら数人の家臣とともに伊賀を越え岡崎に脱出した。
用心深い家康が、数人で堺見物などするのは話が上手すぎる、裏で光秀と陰謀を企んでいたという説である。

奇怪な出来事
本能寺の変の数日前から、秀吉の諜報員(素破・乱波とも言う)の一団が信長の宿舎本能寺辺りに張り付いていた。
「明智の軍勢が信長様を襲う前、別の集団が本能寺を襲撃し始めました。・・・・・・」
変が勃発すると直ぐ、部下の一人が、眼前で起こった不可解な出来事を頭の服部源之助に報告した。
「別の集団が?だがその後、明智が本能寺を襲ったとすれば、それはきっと先発隊だったに違いない。彼らは明智家の家紋、桔梗(ききょう)の幟を翻していたと言ったな、それが何よりの証拠だ。明智様は丹波亀山を出発する前に、例えば斉藤利三や伊勢(いせ)貞(さだ)興(おき)などに指図して、本隊より先に本能寺を襲わせたのだろう」
それに応え、服部は自分の見解を述べた。
「最初に攻撃を仕掛けた人数は分らんが、信長公の警護の手勢は百人ぐらいだと聞いている。・・先発隊であればその数は二~三千ほどだろう。明智様の部隊は一万三千名ほどと聞いている。その部隊が、丹波亀山から本能寺まで、幾ら夜とは言え大挙して移動するのは人目につきやすい。もたもたして夜が明けきれば謀反も失敗だ。それだけの軍勢でまず襲えば十分だ」
「しかし服部様、事態はそう単純ではありません」
「事態はそう単純ではない」
「はい、明智様は誰かに嵌められたのかもしれません」
「それはどういうことだ?」
「われわれが本能寺裏側の路上で、監視していますと、その手勢は明智様の手勢ではなく他の手の者だったのかもしれません」
「何だと?」
服部の顔が一瞬引き攣った。
「その手勢は明智様の家紋、桔梗の旗や幟(のぼり)を翻して本能寺を襲い初めましたが、その中に見覚えのある顔を見たのでございます。そのお方は頭巾で顔を被っておられましたが、中国で戦っておられるわれらの武将のお姿に似ていました」
その男は不信げに言った。
「今お前何といった。われらの武将、そんな馬鹿な・・・・他人の空似だ!われらの武将など・・そんな事は絶対に有り得ない。万が一それが事実なら、われらの殿も謀反に加担している事になるぞ。われらの殿は、今、備中高松城攻めで苦労されている。その為に信長様に直々の援軍を要請したのではないか。下手なことを言ってわれらに嫌疑をかけられたら大変だぞ」
さらに服部の表情が強張った。こんな事が外部に漏れれば後々大変なことになると危惧したのだった。
「今後、一切この事を他言してはならん。味方の誰にもだ、もし、他言すればお前もわしも命の保証はないぞ!よいか!」
もしも、これが事実なら尚の事、ここでもみ消さなければならない、服部は咄嗟に判断し、きつく叱るような口調で念を押した。
「分りました。この事を今後一切他言はいたしません」
彼は即座に答えた。服部は部下の言葉の内に、自分達が知らない所で何かが起こっていると直感し、身震いした。彼が属していた部署は情報を集める部署、今で言う諜報機関にあたり、諸侯の動静や京、近隣の出来事を隈なく探り統括部門に報告を逐次いれていた。しかし、彼は彼等とは全く役割の異なる秀吉直属の秘密の部署があると、噂には聞いていた。もしも、その部署が今回本能寺辺りでの不審な動きに関与しているとすれば、これは間違いなく、天下を揺るがす大事件に発展するにちがいないと予感した。
考えて見れば、信長公が宿舎とした本能寺で、内覧会を兼ねた茶会や明智光秀が参列した愛宕百韻連歌の会辺りから、何やらおかしな動きが彼の身辺にも伝わって来ていた。
一方、六月一日の夜半、本能寺周辺でそんな騒ぎが勃発するなどとは露知らず、明智軍は軍列を整え秀吉の援軍として、備中高松に向かおうとしているように見えた。その夜、光秀は表面的には、腹心の斉藤利三に本能寺の信長公に、中国遠征前の閲兵を受けるように、老ノ坂峠のかなり手前で一万三千の内、二千を率い洛中に向かうように命じた。そんな行動を見て家臣の中には、何故今更、信長公に閲兵を受けるのか不思議に思う者もいた。どんな談合が、利光や他の重臣との間で取り行われていたか知らないが、彼の率いる別動隊は、何事も無く洛中への進路を辿っていた。
明智本隊はゆるゆると老ノ坂峠を下り、東西の分岐点である沓掛(くつかけ)に至らんとしていた。
このまま、全軍が坂を下り東に頭を向け、別働隊と同じ進路を辿れば、桂川を渡り洛中に向かうのだが、光秀は馬上にあり、ただ黙々と駒を進めていた。
昨日得た情報からすれば、本能寺を守備する兵は百名足らず、これを逃しては、もう自分が天下を取る事は出来ない。このまま、信長の足下にあれば、今回のように領地まで取り上げられ、秀吉の援軍に回されるようなことが、今後も主君・信長の気紛れで起こりうる。しかも、六年前(天正四年)長年仕えた佐久間信盛や林秀貞、さらに安藤守就、丹羽氏勝など織田家に長く仕えた者達が塵屑(ごみくず)のごとく捨てられたではないか、いくら尽くしても、自分も彼等と同じ運命を辿るかもしれない、正に不条理そのものだ、そんな心境に陥った彼は精神的にもぎりぎりの淵にまで追い詰められていた。
ほんの一部の腹心に、こんな不平らしき事を光秀はもらした。早馬で別働隊の斉藤に一声、敵は本能寺に有り、と命ずれば天下取りの道は開けるのに、彼はこうも思った。
その夜光秀軍が辿った経路、亀山から老ノ坂峠を経て沓掛に至る沿道は、人家もまばらで薄原(すすきはら)や雑木の林が闇の中、昼間とは違い黒々としたシルエットを浮き上がらせていた。兵と軍馬の行列は、草深い道をぽつぽつ照らす松明の灯りに先導されながら、まるで長い河の流れのように進んでいた。夜露に濡れた地面を踏みしめて進む兵の足音、軍馬の蹄の音、具足や武具の擦れ合うざわついた音が辺りに響き渡り、闇の中、異様な光景が展開されていた。そんな辺りのただならぬ気配を感じ取り、板戸の節目から不安げに外部を覗き見た百姓達は、何か恐ろしい事が起こるのではないかと肝を冷やし、布団の中に潜り込み息を潜めた。
真夜中をかなり過ぎ、本隊の先頭部が沓掛に到着したが、何故か到着した後も、その場所を動こうとしなかった。光秀は馬から降り、沿道から少し離れた場所で、床几(しょうぎ)に腰掛け、明智(あけち)次(じ)左(ざ)衛門(えもん)、明智(あけち)英(ひで)満(みつ)や藤田(ふじた)行政(ゆきまさ)、溝尾(みぞお)勝(かつ)兵衛(べい)等と何やら密談らしき事をしていた。それらの者達も信長の冷酷な仕打ちに憤りを感じ、不満を光秀にぶつけていたにちがいない。
兵たちも路傍に座り込み、近江、丹波の領地を召し上げられ、備中高松へ急な支援に行かされることに憤り、互いに不満を述べ合っていた。この休息は、先発した斉藤利三から、信長公よりの新たな指示を仰ぐ為、留まっているようにも見えた。明智軍が急に出陣したのは昨日、午後四時過ぎであり、その表向きの理由は、信長公より、備中高松に出発する前、軍備や兵員を見たいとの火急の知らせが入った、と言うことであった。
行軍途中、まずは先発し、信長公の命令に従い閲兵を受けるよう光秀より指図を受けた斉藤利三率いる別働隊は、次の命令を待つかのように、ゆるりゆるりと桂川河岸近くまでやって来ていた。
ちょうどその時だった、山奥で降った雨により水嵩が増し始めた桂川を、先に渡河していた偵察隊の伝令が、水飛沫(みずしぶき)を捲き上げ、慌てふためきながら、馬を疾駆させ利三の元に駆け付けて来きた。
「殿(斉藤)、大変でございます。謀反の兆候がございます。確証はございませんが、四条西洞院と油小路の辺りに兵が集結、もしかして信長公が襲われるのではないでしょうか?」
下馬するとすぐ息もつかず男は捲し立てた。
「四条西洞院と油小路の辺りに兵が集結、信長公が襲われる・・・・・そこは本能寺に近い・・ううんっ~これは一大事だ・・」
それを聞いた利三は胸中に何か秘めていたのか仰天した。
「それにその者たちは、手に幟を引っ提げ、桔梗の紋所の旗差し物を背にしているのでございます・・・・・」
「なにいい~桔梗の紋所の旗差し物を背にだと!明智の軍勢だな!いや待て、待て・・わしらが明智ではないか・・・」
それを聞くとあまりの事に利三は動転し、一瞬錯覚に陥り、あらぬ事を口走った。
彼は全身から血が失せ倒れそうになったが、気を取り直し、無我夢中で馬を疾駆させ、光秀の元に息を切らし駆け付けた。
「なな・・何だと!桔梗の紋所の旗差し物を背に本能寺を襲おうとしている・・・・」
それを聞くと光秀も顔色を失い、危うく卒倒しそうになった。
「そうなのでございます」
「そんな馬鹿な、わし・・ら・ら・らはここにいるではないか。その一隊は何者なのだ・・?」
光秀は舌が絡んだ。
「殿、われらは嵌められたのかもしれません」
側に控えていた利三が、顔を強張らせ早口で言った。
「間違いなく嵌められたのだ!しかし、信長公を、わが軍を騙り、わしを差し置いて襲おうとしているのは何処のどいつだ?茶会での・・」
当惑した光秀は有らぬ事を口走り、全身から汗が噴き出し、息を弾ませている利三の顔を見詰めた。茶会での・・こう光秀が言った背景には、信長に閲兵を受けさせる為、利三を洛中に向かわせたのではなく、彼が主導して或る者たちと謀反を画していたとも受け取れる。所が、利三の先発隊は桂川さえ渡河してもおらず、ましてや光秀本隊も沓掛辺りに留まっているにもかかわらず、既にある一団が本能寺を襲おうとしていたのだ。
これが事実なら、光秀が何者かに嵌められたと言っても何ら過言ではない。一体これはどうなっているのだ?
「まるで分りません、しかし、今我軍勢が駆け付ければ、その一団と我軍とは混戦に成り、あたかも我軍だけが信長公を襲ったことになります」
利三はこの事態を深刻に受け止めていた。
「成程それも道理、では、知らぬふりをしておれば」
光秀はとっさに事態を理解したが、彼らしくなく理性を失い口走った。
「矢張り明智の軍勢として、その一団は本能寺を襲うでしょう」
利三は畳みかけるように続けた。
「明智の軍勢としてな!わしはどうすればよいのだ」
「ここに二つ問題がございます」
「二つ問題?早く言え!」
彼は焦っていた。自ずと語調が強くなった。
「もしも、今襲おうとしている一団の攻撃の難を逃れ信長様がご存命とします。あの方の御気性、どんな言い訳も一切通じず殿を逆賊として追討するでしょう。・・次にもしその一団が畏れ多くも信長様を討ち取ったとします。それでも殿は主君を討った逆臣となられます」
「わしが逆臣だと!わ・し・・一人が謀反人か!わしが天皇様から宣旨(命令書)を受け、信長公を討ったと世間に弁明してもか!」
「その通りでございます。このまま事が進めば、殿お一人が謀反人となり、たとえ天皇様が宣旨を出されていても、おおっぴらにその存在を認められず、ましてや謀反の片棒担ぎなど、御自分に火の粉が降り懸かりそうになれば、決していたされるはずもございません」
「何たることだ、わしはどちらに転んでも謀反人になるのだな・・・」
「どちらに転んでも、このまま事が進めば殿はもはや謀反人なのでございます。殿お一人が謀反人にされたのでございます。」
利三は今自分達の置かれている状況を率直に述べた。彼には光秀の心の動揺が手に取るように分ったし、彼自身も光秀に劣らず動揺していた。
「わし一人が謀反人か・・うう~ん、一体、わしはどうすればよいのだ」
光秀は事の成り行きを全て理解し、彼自身次に取るべき事も分っていたが、言葉は尚も空転した。
「殿、われらはもう逃れられません。事がどうであれ信長公の日頃からの仕打ちに、天が殿に命じられたのでございます。敵は本能寺にあるのでございます。殿、お覚悟をなされ、皆の者に命令されるのです」
利三は、事を起こすのは天命であり、敵は本能寺にある、とを強調した。
「うううんん・・・敵は本能寺にありとか?わしはもう逃れられんのじゃな!」
改めて光秀は、自分が抜き差しならぬ立場に置かれている事を思い知った。決断すべき時が迫っていが、まだためらっていた。
「その通りでございます」
「わし一人が謀反人・・・うううん・・・」
光秀は口を真一文字に結び、拳をぎゅっと握り締めた。
わしらが謀反人・・そんな馬鹿な・・・・二人のただならぬやり取りに、周りに陣取り聞き耳を立てていた者達も事の重大さ、深刻さが伝わり、皆動揺し一斉に床几から立ち上り、口ぐちに驚きの声を発した。
それと共に、皆息を凝らし光秀の顔を覗き込むように凝視し、その口元に視点を集中し、次に発せられる言葉を待った。一瞬、時間は止まり、氷のように張りつめた緊張感がその場を支配した。
光秀はきつく唇を噛みしめ、天空を仰ぎ、次に彼らの顔を見詰め、腹の底から絞り出すような大声で命令を発した。
「わしは皆の者に命ずる。敵は本能寺にあり、直ちに桂川を渡り洛中に向かへ!・・」
光秀の声は緊張のあまり震えていた。
ついに謀反の矢が本能寺にある信長目がけ放たれた。
敵は本能寺に有りだとよ。信長様を討てと言うことか?これはどえらい事になったぞ・・・・
たちまち、この命令が伝わると、長蛇の列に響動めきが沸き上がった。
決断を下した後、辺りの喧騒をよそに光秀は少し白んで来た夜空を見上げた。天空一面に無数の星々が瞬き、頭上近く垂れ下がるようにキラキラ輝いていた。
何と言う無限の広さだ、何と言う人間の小ささだ、大事を前に何故か彼は言い知れぬ虚無感に捉われ、押し潰されそうになりながらも己の運命を悟った。それは自分がこれから天下を取るという心境とはかなりかけ離れたものだった。
何処からそれらの情報が、変の後、秀吉の元にもたらされた。
「皆で共謀とな!わしが光秀と共謀、わしが皆を誑(たぶら)かし天下をくすねた。光秀め、百韻連歌で、自分の決意まで表明しておきながら、謀反を他人のせいにする気か、うんばうんば~・・・沓掛で馬を止めていたのは、わしらと共に謀反をしかける時刻には早い為じゃったと・・・何たる戯言(ざれごと)、何たる虚言(たわごと)、わしにも謀反の片棒を担がせるなど言語道断!その時わしが何処におったと思うのじゃ・・・はるか五十~六十里あまりも離れた備中高松じゃぞ、うんばうんば~」
秀吉はかんかんになり怒り、光秀を激しく非難した。後世、連歌会の光秀の句が、謀反の証として上げられるが、もしも光秀がこのような陰謀の犠牲者であったなら、かなり脇が甘いと言える。

はたまた変の直後、とんでもない噂が実しやかに洛中に流れ始めた。
それは、羽柴秀吉は備中高松のはずだが、既に京都か大阪辺りの何処かに帰って来ている、と言うものだった。
さらに手傷を負った信長公は、秘密の抜け穴から何者かに運び出された痕跡があった等、確証めいた怪情報が一部の者の間で繁く取りざたされた。
そんなこともあり、光秀は京都と大阪周辺に人を放ち、秀吉の動向を探るとともに、本能寺焼け跡を再度入念に調べさせ、焼け焦げた遺骸の中から信長の遺体を発見しようとした。

秀吉も又、山崎の合戦に勝利した後、主君信長の消息を捜索したが、その努力は報われることはなかった。
一方、落ち延びた光秀は何処かで生きている、小来栖村の百姓が持参した首は、光秀に似ているが光秀の首ではない、竹やぶに首が転がっていたなど不自然だ、とこれも実しやかな噂が巷を駆け巡った。
そう言われてみれば光秀の首だと持ち込まれたどの首も、腐敗の為か顔の表面の皮を剥ぎ取られたかのように損傷が激しく、彼の首だとは断定出来なかった。ひょっとして何処かに織田の殿も光秀も生きているのではないか、と言う妄想めいた何かに捉われ、秀吉は疑心暗鬼に陥った。

太閤はその時
本能寺の変のちょうどその時、太閤は備中高松城(岡山西部)で毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めにしていた。
本能寺の変を語り始めると、太閤の形相は一変し、険悪な表情に変わった。
「本能寺の変の折、わしは四月より毛利を攻めておった。今も昨日のように憶えておるわ。ちょうどその時、備中高松城を水攻めにしておったのじゃ、でへねへうんばば~・・つまりじゃ、高松城付近を流れる足(あし)守川(もりがわ)に土嚢を積み上げ、水を引き込み、城を孤立させる作戦じゃった。わしが高松城を攻めあぐんでおると、参謀の黒田官兵衛が来てのう、三木の干殺し(天正八年、兵糧が届かぬよう道を遮断)、鳥取の飢え殺し(天正九年、鳥取辺りの兵糧を買い占めた)これらは兵糧攻めじゃったが、こんどは水殺し(水攻め)にしようと提案したのじゃ、うんばうんば~・・・それに殿下を援軍に呼ぶこともな。・・この作戦は気長じゃが、人的損害は少ない、それにのんびり釣りも出来るという作戦じゃ、でへねへうんばば~・・それで昼夜(ちゅうや)兼行(けんこう)で堰堤を築いたのよ。長さは三十町(約3・3キロ)あまりじゃった。高さは二丈(約6メートル)ほどじゃ。突貫工事で、十二、十三日程で完成じゃ。まあ百姓達にやる人夫代はかかったがのう、うんばうんば~・・もともと、あの城は沼と川で囲まれた低い湿地の中じゃ。水が貯まりだすと、城が水の上にぽっかり浮いたようになり、後は食糧がなくなるのを待てばよい、わしは何事も力ずくはきらいじゃて!」
太閤は冗談を交えながら面白可笑しく喋り、興に乗って来ると髭に指をやり、先端を軽くクルリと捻じ曲げた。
時間は刻一刻と過ぎて行く。
「しかし殿下、その時の兵力でしたら、もっと早く決着がついていたのではありませんか?」
「五右衛門、お前は痛い所をつくな!なんのためにわしがぽちや、ぽちや~釣りや水遊びなどしておったと思う。毛利の動静をうかがっておったのじゃ」
「光秀の謀反の兆しは察知されておられましたか」
「知る訳がなかろう」
こう返答したが、太閤は日頃から密かに金品を各方面におしげなくばら撒き、毛利の動静ばかりか、光秀の謀反の可能性をも察知していた。
例えば、その人物の一人は、太閤とその当時親交があった本能寺の変の前日に、信長の上洛を祝うため正親町天皇と誠仁親王の勅使として甘(かん)露寺(ろじ)経(つね)元(もと)と共に本能寺を訪れ会見した大納言・勧(か)修寺(じゅうじ)晴(はれ)豊(とよ)(太政大臣・近衛前久の嫡男)、西之坊威徳院の住職・行祐や連歌師、その他大勢の者達があげられる。彼等は、信長の専横に腹を立て、密かに情報を交換していたに違いない。
所で、明智光秀が愛宕山権現参拝の翌日、西之坊威徳院の百韻連歌で詠んだ問題の句はこうである。
『ときは今 あめが下しる 五月(さつき)哉(かな)』この句が謀反を決意した句であると言われるのは、ときは光秀出身地の土岐に、しるは治めると掛けてあり、土岐出身の自分が、五月の今、天下を取る(治める)と解釈出来、光秀のなみなみならん決意が読み取れるからである。
「それはさておきじゃ・・連歌の会の前日、光秀め、愛宕権現太郎坊の社殿で三度もお御籤を引いたと聞く、でへねへうんばば~・・わしの推測では、最初、凶と出て大慌て、しかも次も凶でビビリ、最後に大吉、これで安心したかもしれんな。ただ大吉はのう、運はそこまでじゃ・・せめて中吉ならそこから運が開けたかもしれん。・・わしなら御神籤は引かん、大金を寄進じゃ・・奴は家康同様ケチじゃ、神も仏も金次第というではないか、うんばうんば~」
ここでも太閤は光秀がらみで家康に悪態をついた。

少し間を置き、太閤は長々と陰謀の背景を語り始めた。
「所でじゃ、わしなりに推理してみるに、わしはあの陰謀には朝廷や公家、寺社や義昭も一枚かんでおると今でも睨んでおる。あの頃、殿の背後には毛利ばかりか、上杉、長宗(ちょうそ)我部(かべ)、北条らもおり、殿を蹴落そうと企んでいたのじゃ!・・朝廷では皇位承継問題や、殿の三職推認(さんしょくすいにん)(信長が関白、太政大臣、征夷大将軍の内、どの地位を望むか注目されていたが本能寺の変でその真意は不明になった)問題があった。皇位承継問題では、殿は正親町天皇に皇太子の誠仁親王に位を譲位されるよう迫っておったのじゃ、でへねへうんばば~・・つまりは誠仁親王が即位されたら、後ろから操るつもりじゃった。早い話し、傀儡(かいらい)政権(せいけん)樹立を画策しておったのじゃな、うんばうんば~・・・殿も京都御馬揃えなどして、朝廷の承継問題に圧力をかけ、見方によったら恫喝しておったからのう!・・・この馬揃えの監督を任されたのが光秀よ、皮肉なものじゃ。それにじゃ、光秀は義昭や天皇、朝廷、さらに加えて公家共とも関係が深かった。その為、殿は光秀を重視し、旧臣をさしおいて重要な地位に抜擢した。所うがじゃ、天皇の譲位問題では、恫喝しても交渉は難航じゃ、これでは光秀の交渉人としての存在意義が問われるわけじゃ、うんばうんば~・・・天皇の譲位問題はさておいたにしても、朝廷側では、このままでは、自分たちの権威も威光も殿の為に無に帰せられ、殿が自分達を脇に置き、日本の絶対者として君臨するのではないかと言う危機感があったのじゃ。光秀も殿が旧体制を崩壊させるような専横は、その経歴からして道義的に、許せなかつたのじやろう。・・・彼はこの世の秩序を維持するのは天皇を中心に朝廷と公家があり、そこに臣下としての諸侯、それに寺社勢力がある、これこそ太平の世と考えていたのじゃ。・・一方殿にとって光秀は、朝廷や公家との仲立ち、つまり交渉人じゃ。・・・殿は光秀の交渉人としての資質をかっておったが、その役割が果たせなければ彼は無用の長物じゃ、うんばうんば~・・・光秀は殿に疎まれ己の未来はない、と精神的に窮地に陥った。・・・どこぞの合戦に負け、叱責、罵倒されたなら、変は起こさなかつたじやろうに。わしもちょくちょく合戦に負けたからの、うんばうんば~・・じゃが、天下一と秘かに自負する文人としての誇りを、ずたずたに切り裂かれては、彼の命脈は尽きたも同じじゃ。それに彼自身、歳も歳、五十四歳じゃった、今を逃しては天下を取れんと野心を抱いたのじゃろよ、うんばうんば~・・わしは今でも光秀一人が謀反を企てたと確信しておるが、もしかして、朝廷、さらに公家等の暗黙の企図が働いたのかもしれん、むんにゅ・・・無論義昭もその片棒を担いだのじゃろうて・・・でへねへうんばば~・・・義昭め、あの義昭と言う男食えぬ奴じゃ!」
太閤は口籠った後、急に足利義昭の名を持ち出した。これだけ義昭を腐しておきながら、後に彼に山城(やましろ)槇(まき)島(しま)に一万石の所領を与え、晩年はお伽衆にまで加えた、正に世の中不可解な事が多い、どんな関わりが彼との間に有ったのであろうか。
太閤がふと漏らした朝廷や公家の暗黙の企みとは、換言すれば、朝廷や公家が変に深く関与している事を示唆しており、その当時この事は公然の秘密だったと言えよう。
その関与の一端として、変の後、誠仁親王が光秀に京の治安を保つよう指示し、さらに、彼を征夷大将軍に任じたとか様々な噂が飛び交った。又、この使者に立ったのが『兼(かね)見(み)郷記(きょうき)』の著者、光秀とも親交があった神主の吉田兼(よしだかね)見(み)で、彼は細川藤孝の娘を息子の嫁に、藤孝は彼の嫡男・忠興に光秀の三女・玉(迦羅奢(がらしゃ))をもらい受けたと言うように深い親類関係にあった。
これらの事を順次手繰り寄せ合わせて行くと、本能寺の変に朝廷や公家も深く関わっていたのが明らかになる。換言すれば、光秀は公に信長を追討した事になり、秀吉にとって都合の悪いことになる。そこで秀吉は『惟(これ)任(とう)退治記(たいじき)』なるものを大村(おおむら)由(ゆう)己(こ)に書かせたりし、光秀一人を逆臣に仕立て上げようと躍起になった。さらに彼が狡猾なのは朝廷や公家の関与を逆手に取り、その弱みに付け入り半ば恫喝するがごとく、武家でありながら金をばら撒き関白の地位にまで就いた。
「話が飛びますが、殿下、世間では徳川様も絡んでいたとか?」
五右衛門はおずおずと切り出した。薄暗い部屋の中、蝋燭も燃えていたが、太閤の居る寝台の辺りは、昨夜に比べ行燈が気のせいかいくぶん暗く感じられた。太閤の顔は、その加減か、ぼんやりとした陰影に包まれていた。
「そうじゃ、わしも徳川は臭いと睨んでおるのじゃ!殿の命令で正室・築山(つきやま)殿(どの)と嫡男・信(のぶ)康(やす)を殺さねばならんかったからな。・・・戦国の世、よくある事じゃが、でへねへうんばば~・・じゃが、無防備で堺で物見遊山とは、あの警戒心が強い男にしてはわざとらしい。何か臭わんか、うんばうんば~」
「あやしゅうおますなでございます、ぶひ~」
鬼丸がすかさず相槌を打った。
「如何にも不自然な行動でございますよね」五右衛門も続いた。
「殿がおれば何処まで行っても天下は取れん。光秀と共謀したのかも知れんな!・・・
あの狸、伊賀越えなどして岡崎の城にほうほうの体で帰りついたとほざいていたが、体の良い偽装かもしれんぞ、うんばうんば~・・・陰険な奴ほど尻尾はださん、奴が狸親父と言われる由縁じゃ!・・・はっはっはっ・・・・今となってはどうでもいいことじゃが、でへねへうんばば~・・・わしに関しては、あの変との関わりは真っ白、潔白じゃ、真っ白な猿じゃ、はっはっはっ~」
「しかし殿下、変の直後、殿下が京や大坂周辺にすでに帰っておられたとか、おかしな噂が流布しましたが?」
五右衛門が恐る恐る突っ込んだ。
「はっはっは~妄想じゃよ・・わしが二人おれば可能じゃがな、光秀を嵌めたのは秀吉とかなんとか、人は勝手なことをぬかすものだ、うんばうんば~・・わしが疾風怒濤(しっぷうどとう)のごとく、中国大返しで高松から山崎まで引き返し、光秀を討ち破った為、そんな根も葉もない噂を立て、わしを悪者に仕立て上げようとしたのじゃ、うんばうんば~全くけしからん、ちちんぷいぷいじゃ・・・」
太閤は、自分が変との関わりは無い、と強く否定したが、驚く事に、言い終わると二人に向かい曰く有りげにウインクし、髭に指をやりシュシュとしごいた。
「殿下がお二人・・・・一体それは?」
五右衛門はこの部分が引っ掛かった。
「まあよい、二人でも三人でもな・・・むにゃむにゃ・・・」
太閤はその話を曖昧な口調で打ち切り、話を続けた。
「あの時、そろそろ毛利と決着をつけようと、殿に援軍をたのんだのじゃ。・・・それに援軍を頼んだのは、わしだけが手柄を立てると、やっかむ者もおるからのう。墨俣の時と同じ様にな、うんばうんば~・・殿の援軍により勝利しました、と言えば殿も機嫌がよかろうし、他の奴等も何も文句は言えん、気ばかり遣い気苦労が多かったわ、でへねへうんばば~・・これ見てみい頭の毛が大分薄くなったわ。これでは淀に持てんて、はっはっはっはっはっはっ~」
「はっはっはっはっはっはっ~」
「はっはっはっはっはっはっ~ぶひ~ぶひゃはっ~」
皆腹を抱え笑った。太閤は冗談を交え信長への援軍要請を語ったが、彼が一番恐れていたのが何を隠そう主君信長であった。
このような援軍要請をしたのは、その時の情勢からすれば、彼一人の軍勢だけでも、高松城に援軍に来る毛利勢を迎え撃つ事は十分に出来たはずであった。
その時秀吉はこう考えた。
もしも、自分が単独で毛利軍を撃破した時、信長は逆に自分(秀吉)の力がこれ以上増大すれば、必ずや自分に刃向かう日が来るであろう。そうなれば、いくら戦功をあげようが、信長のこと、何時の日か、いちゃもんをつけられ追放されるに決まっている・・・・。そこで支援を要請した訳だった。・・・
「じゃが、その気配りこそがわしが明智と違い殿に可愛がられた由縁じゃ、うんばうんば~・・・それにいつでも陣を畳んで戻る準備をしておく、わしのような優秀な武将の心得じゃて!」
ここで太閤は二人に向かいまたもやウインクし、髭に指をやり、先端をくるりくるりと捻じ曲げた。
「直ぐに殿自らが、嫡男・信忠さまを引き連れ支援に駆けつける、という嬉しい知らせが届いたのじゃ、うんばうんば~・・・信孝(のぶたか)様などにも出陣命令を下されたが、あの変よ。憎っくきは明智光秀!殿を討ち、天下を取ったなどとぬかしおって・・・」
「世に言う三日天下でございますね」
「そうじゃ、そうじゃ。だが何が三日天下じゃ」
太閤はぶつきら棒に言った。
「その時、ここにいる私と鬼丸もその辺にいましてね。本能寺の変を知りました」
五右衛門が急に妙な事を言い始めた。
「そや、そや、わてもおりましたでございます、ぶひ~」
鬼丸も小太り気味の身体を震わせ同調した。
「本能寺の辺りでどこかの軍が移動していまして、これは何だ、どうしたことだ、何かいざこざがあったのかといぶかっていますと、桔梗の紋所の幟や旗差し物が見えました。何故こんな所に明智様の軍勢が?怪しいなと思っていた所、急に斬り合いが始まったのでございます。それで明智様が謀反を起こしたのだと、その時初めて分りました。小半時(こはんとき)(一時間)ぐらい経ったでしょうか、いつの間にか、初め戦っていた者達が、皆散らばっていなくなっていたのでございます。それと時を同じくし、何倍もの軍勢が、槍や刀を振りかざし、鬨(とき)の声を張りあげながら、本能寺になだれ込んだのでございます。辺りに火縄の銃声が響き渡り、それは壮絶な戦いでございました」
「初め戦っていた軍勢は一体何でしたのやろう。ほんまに、けったいなことでおますでございます、ぶひ~」
鬼丸が疑問を投げかけた。五右衛門と鬼丸はそこで太閤の顔を見詰め、一呼吸置いた。
「成程な!それは不可解じゃな、でへねへうんばば~」
太閤はその疑問には応えず、わざとらしく相槌を打った。
「本能寺の変はまたたくまに京都中に知れ渡り、それは、それは大変な騒ぎでございました。私もびくりしまして、一体何事だと走り回っていますと、明智様が謀反を起こし、信長様が本能寺で殺されたと、上や下への大騒ぎでございました。それに妙(みょう)覚寺(かくじ)におられた信忠様も、二条御所に移られ、そこで籠城され自刃されたと聞き及び、びっくり仰天でございました」
五右衛門も話しながら気色張っていた。
「そやそや、わてもびっくり仰天したで、でございます、ぶひ~」
しかし、盗賊の五右衛門や鬼丸が何故その時、本能寺辺りにいたのか、ここにこそ本能寺の変の経緯を解く鍵が隠されていた。
ここで何故、嫡男・信忠が難を逃れ、京を脱出しなかったかと言う疑問の声がある。補足的に書けば、朝廷や公家がこの変に関与したと思われるのは、秀忠がその宿所であった妙覚寺から二条御所に移り、立て籠もった時、近衛前久は、反乱軍に加勢、隣接したその館から弓、鉄砲を射かける事を許していたことからも窺われる。
「話は良く分った、わしはと言えばじゃ、陣中で明智が謀反を起こし、殿が亡くなられたかもしれん、と言う知らせを聞き、何がなんだか分からなくなったのじゃ!天と地がでんぐり返り、しばらく放心状態じゃった、うんばうんば~・・・それに加え、あの時わしは、毛利(もうり)輝元(てるもと)と吉川(きっかわ)元春(もとはる)、それにじゃ、小早川隆景(たかかげ)など総勢五~六万が攻めて来ると言うので慌てていたのじゃ、でへねへうんばば~・・・泣き面に蜂とはあのことじゃな、うんばうんば~・・所がじゃ、豪雨がわしに味方し、水責めの堤の効果もあり、そこら周辺は水浸しじゃった、これでは奴等すぐに攻撃は出来ん、それで奴等が右往左往している間に素早く和睦し撤退じゃ、天がわしに味方したのじゃ、うんばうんば~・・それに後で聞いた話では、敵方は二、三万がやっとじゃったみたいじゃがのう!・・・それならわしが叩き潰したものを!それでも殿の死のショックは大きくわしは落胆し放心状態じゃった。・・・が、その時じゃ・・殿、何をしておいでです、直ぐに、この事態に備えなければ、敵の中、四面楚歌(しめんそか)になりますぞ、と黒田官兵衛に尻を叩かれ正気に返ったのじゃ、うんばうんば~・・・それで予てから調略しておいた毛利方の僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)なる者を使者に立て、城兵およそ五千と籠城しておった城主・清水宗治とその兄・月清らを船上で切腹させ、京にとって返したわけじゃ、うんばうんば~・・・持つべきは良き軍師よ!・・三月には武田(勝頼)を滅ぼし喜んでおられたのに。・・・明智は妙な所で誇りが高い。殿はそんな明智と馬が合わなかったのじゃろう。わしなんか、殿から猿、猿、禿鼠などとも言われ味噌糞じゃったのに、でへねへうんばば~・・じゃがわしはその都度、殿の期待に応えようと反省し、さらに努力し仕えたぞ、うんばうんば~・・何度、陰で涙を流したかわからん。じゃがわしは、いつも殿がわしに期待しておられるのだと思い、発奮したものじゃ、でへねへうんばば~・・明智は逆にいびられていると思い逆恨みじゃ」
太閤は急に弁明を始めた。その真意はまたしても不明であった。
「馬が合わなかったのでは?」
「そや、そや、それもあるでございます、ぶひ~」
「そうじゃ、知に走る点は殿と似ておったが、それゆえ反動も大きかったわけじゃ、うんばうんば~・・似た者同士・・・それ故逆に裏目に出たのかもしれんのじゃ、でへねへうんばば~・・・人間相性も肝心じゃからな!そんな心の隙間を誰かに付け入れられ、いつしか明智も野心をいだいたにちがいない、武将たるもの誰しも天下は狙いたい!・・変がなければ、殿と信忠様も中国に出陣し、毛利と戦う手はずじゃった」
人間相性も肝心だが、天下国家を論じる場合、それはほんの一部であり、むしろ信長と光秀の決定的違いは、その未来に対する世界観の違いではなかったのか。
話し終わると太閤の顔面は苦渋に満ちていた。
「わしが殿を殺したのじゃ、わしが殿に支援をたのまなければ・・・・・」
所が突然、太閤は気がふれたように喚き散らした。

中国大返し
果たして太閤は潔白か?本能寺の変辺りの太閤の動きを検証してみよう。
六月三日夜半、太閤は信長の訃報(ふほう)を知る
六月四日、毛利と和睦
六月五日夜半、中国の陣を引き払う
六月六日、岡山城東方、沼(ぬま)に到着
六月八日朝、姫路城に到着
六月九日朝、出陣
六月十一日午後、摂津(せっつ)尼崎(あまがさき)に到着
六月十二日、摂津富田に到着
六月十三日、山崎で決戦
これが中国大返しである。
この間、備中高松より約五十~六十里、兵員約三万の大軍をたった十日あまりで移動、決戦に臨むのは不可能と言うのが太閤陰謀説の根拠である。しかも、信長訃報を知らせる敵方の密書を奪って情報を得たと言われ、この点もその疑惑をさらに加速させた。

少し落ち着くと太閤は握りしめていた扇子をぎりぎりとひねった。目には大粒の涙さえ浮かべ、顔は少し上気し、昨夜とは別人に思えた。暗がりのなか五右衛門には太閤の顔がはっきりと見えた。
「六月四日に先に話したように清水宗治に腹を切らせた後、敵と和睦し、大急ぎで五、六日に撤兵じゃ。内心わしは不測の事態にあせっておったぞ。・・・六日に沼、八日朝には強風や豪雨に晒され姫路城、ここで戦の準備じゃ。十一日に尼崎と、いわゆる中国大返しじゃ、でへねへうんばば~・・姫路城に着くとまずは風呂じゃ。これは疲れを取る意味もあるが、身体を清める意味もある。垢だらけでは弔い合戦にならんからのう。それに弔い合戦に備え剃髪じゃ、墨衣を纏いその下に甲冑を付けたのじゃ」
「それから?」
五右衛門が急かせた。
「決まっておる、すぐに腹ごしらえじゃ!
それも粥(かゆ)じゃ。固いものは消化が悪い。粥が一番じゃ。・・それに、いつもそうじゃが、わしは戦いの前には金をばら撒くのじゃ。景気を付けんと兵は働かん!そこで金(かね)奉行(ぶぎょう)(金庫番)に金蔵を検めさせた所黄金千枚、銀七百五十貫が蓄えられておった。これを各部署の長に分配、各々が部下に細かく配布せよと命じたのじゃ、うんばうんば~・・言葉だけでは戦には勝てんからの!・・それに米蔵の米も日ごろの五倍配布じゃ!働け、働け、勝利の暁にはもっとふんだんに振る舞うぞ!金や米を貰うと現金なもんじゃな、武将もその配下の足軽雑兵までもが、たちまち元気になりおった!尻に超太い大蒜注射をぶすっ~と、かましたようなものじゃ、うんばうんば~・・はっはっはっはっはっはっはっ~」
「尻に超太い大蒜注射をぶすっ~と?それでも粥と大蒜注射だけでは身体がもちませんのでは?」
五右衛門は大蒜注射がどんなものか分らなかったが口裏を合わせた。
「そやそや、それに痛いでおますやろでございますなその超太いなんとやら、ぶひ~」
「あたりまえじゃ、粥と大蒜注射、それに殿を弔う精進料理だけでは戦は出来んからのう。そこでわしだけでなく、出来うる限り皆に鶏と魚料理じゃ、これで精がつく、食って飲んでさあ戦じゃ、でへねへうんばば~」
太閤は興が乗って来たのか次第に饒舌になっていった。
「戦いが終わり、後で聞いた噂では、光秀の奴、精進料理を食していたと聞くぞ、自分で殿を殺しておいて精進料理とは、一体、いかなる料簡じゃ、奴の心境がわからん、うんばうんば~・・・それで力がでなんだのじゃ。それにじゃ、これは有名な話じゃが、奴が京に凱旋した時じゃ、奴と親しくしていた知り合いが粽(ちまき)を持参したそうじゃ」
「あの竹の葉と餅米で出来た粽でっかでございますか、わても大好物やでございます、ぶひ~」
鬼丸が鼻をひくひくさせた。
「そうじゃ、粽じゃ、所うが光秀め、粽の皮も剥かずに食べおった。パンダでもあるまいに?」
「パンダとは唐産(からもの)でっかでございます、ぶひ~」
妙な所で再度鬼丸が口をはさんだ。
太閤も五右衛門も無視。
「その話は聞きました、みな口々に落ち着きがない、これこそ滅亡の証と!」
「そうじゃ、そうじゃ、戦は博打、尻を据えてかからんと負けじゃ、でへねへうんばば~・・それで奴は負けたのじゃ!見かけによらず奴は小心者じゃな」
「それで山崎の合戦は?」
五右衛門は彼の熱の籠った独演に、つい自分の立場を忘れ夢中で急かせた。
「まあ待て・・・・はっはっはっはっはっはっ~」
太閤は五右衛門の声を掌で静止し、磊落に笑った。
それからおもむろに髭の先端を二回ほど捻じ曲げた。
それから太閤は話を中断し、杯に満たした酒を飲み、五右衛門達にも勧めた。飲み終わると今度は酒饅頭を取り出し、むしゃむしゃ美味そうに三個も平らげた。勧められるまま五右衛門達も饅頭を食べたが、餡(あん)は程よい甘さだった。太閤は饅頭が大好物なのかもしれない。それにこれまた、同じ台の上の入れ物から、大きな醤油(しょうゆ)煎餅(せんべい)を取り出し、五右衛門達にも勧め、ぱりぱり音を立てながら食べ始めた。
「酒もよいが、わしは饅頭が大好物じゃ。年を取れば女より饅頭じゃ。女(この場合暗に淀の方)はわしを食らうかもしれんが、饅頭はわしを食らわん・・・・・ははははっ~。それにこの醤油煎餅の噛みごたえは何とも言えんな、ふんが、ふんが~ぱり、ぱり、ぱり~ぼり、ぼり、ぼり、ぼり~」
酒と饅頭、それに醤油煎餅?
「はっはっはっ~」
「はっはっはっ~ぶひ~」
つられて五右衛門も鬼丸も腹をかかえて笑った。
日頃、殿下、殿下と言われ、肩が凝っているのかもしれないが、話が進むうちその凝りも次第にもみほぐれ、心も爽快になり、口も滑らかになって来たのかもしれない。
「山崎の合戦!あれはわしのそれからの運命を左右した重要な合戦じゃった!」
「あれから殿下は天下取りの道へ」
「成り行きとしてはな!しかし、棚から牡丹餅(ぼたもち)が落ちてくれば、五右衛門よ!お前ならどうする?」
「口を大きく開いて急いで食らいます」
「そうじゃ、急いで食らう、うんばうんば~
それまでわしは一度も天下取りの夢など見たことがないわ!殿の後に付いて行くのが至福の喜びじゃった!つまり、殿の後をついて行く犬で言えばポチじゃな。それもそうじゃが、面白い男がおってのう」
「何方(どなた)でございますか」
「筒井じゃ」
「筒井順慶(つついじゅんけい)様で?」
「そうだ筒井順慶じゃ。あやつ六月九日に光秀めが援軍を要請したが現れず、その翌日、十日も断ったそうじゃ。洞ヶ峠(ほらがとうげ)で昼寝でもして、どちらに付こうか迷っていたのじゃろう、でへねへうんばば~・・・言ってみれば模様眺めじゃな!・・わしはあいつの日和見で少し助かったが。しかし、真実はを明かすと、密かにわしに内応しおって、郡(こおり)山城(やまじょう)で籠城を極め込んでおったのよ。
洞ヶ峠を極め込むの例えは、郡山城で狸寝入りを極め込むが正しいのじゃ、こう諺の1ページを書き直すべきじゃな、うんばうんば~」
太閤は冗談まで言い陽気だった。
「わしは後で 順慶を京都の醍醐(だいご)で曲事(くせもの)である、と叱ってやったがの。・・彼奴は殿にも恩があったし、明智にもな、板挟みじゃよ。まあ、彼奴の態度はふにゃふにゃした蒟蒻(こんにゃく)のようじゃったが、身の処し方を誤らず賢明じゃった!・・戦乱の世にはよくあることじゃ。長政も殿と朝倉の板挟みじゃ。わしは筒井の気持ちがよくわかる。だから許してやったのよ。しかし、明智は許さなかった。当然じゃ」

天下分け目の天王山
「明智様と接触されたのは十二日でございましたね」
「そうじゃ十二日じゃ。その日の内に中川(なかがわ)清(きよ)秀(ひで)と高山(たかやま)重友(しげとも)がそれぞれ天王山(てんのうざん)と山崎付近を占拠じゃ。天王山は山城と摂津の境にあるのじゃ、うんばうんば~・・天王山からは摂津の山崎が一望でき、そこを占拠すれば戦いには有利じゃった。その天王山をわしらが占拠じゃ。まあそう考えれば、戦の勝敗は九分九厘わしらの勝ちじゃったがな・・・開けて十三日、その麓の山崎で決戦じゃった。右翼は池田恒興、わしの弟・秀長と軍師の黒田官兵衛、それにじゃ、神子(みこ)田(だ)政治(まさはる)は天王山裾の西国街道沿に布陣じゃ。わしは前線から少し離れた宝積寺(ほうしゃくじ)に本陣を構えた。光秀は勝(しょう)龍(りゅう)城(じ)から御坊(ごぼう)塚(づか)に本陣を移し、淀(よど)城(じょう)から円(えん)明寺(めいじ)に部隊を展開しおった、うんばうんば~・・斉藤利三は本陣近くに陣取り、右翼には並河(なみかわ)易家(やすいえ)と松田(まつだ)左近(さこん)が展開しておった。そして、この二隊は、黒田と神子田隊を襲ったのじゃが、この襲撃は光秀にとって大誤算じゃった。並河と松田隊は反撃をくらい敗れ去り、おまけに主力の斉藤隊までが池田隊に撃破され総崩れになったのじゃ、でへねへうんばば~・・戦いは午後四時から始まり、三時間ほどで決着じゃ、うんばうんば~・・光秀め、慌てふためき勝龍城に逃げ込み、夜陰にまぎれ近江の坂本城に落ち延びようとしたのじゃ。奴め逃げる途中、小栗栖で百姓に竹槍で刺され深手を負い、その後良く調べると溝尾(みぞお)勝(かつ)兵衛(べい)の介錯で自害して果てたと聞く。百姓に竹槍で刺された等と、曰(いわ)く有りげじゃが、でへねへうんばば~・・わずか十三日の天下であったな、うんばうんば~・・あまりの早さに光秀の三日天下と言われたのじゃ」

忽然と消えた男
「殿下、恐れ多いのですが、わたしが聞いた噂では山崎で破れた後、光秀様は坂本に落ち延びる為、深夜、騎馬と徒歩の一団と、息せき切って間道の山道を駆けて来たそうでございます。その数十数騎ばかりとのことでした。一団は逃げるのに必死で、おまけに、道中休むことなく駆けて来たので、疲労困憊し注意散漫になっておったようでございます。そんな一団を見て、暗闇の中、竹(たけ)藪(やぶ)に潜み機を窺っていた者共が、騎馬の大将らしき落武者の腹部を竹槍でブスッと突き刺したのでございます。竹槍を腹部に受けたその者はもんどりうって、馬から転がり落ちたものの、襲ったそ奴に反撃し、手傷を負わせたそうでございます。落ち武者の一団は、襲った者共と乱闘になり、小半時あまり切り合いが続きましたが、落武者達の気迫に圧倒され、その者共はその場を退散したと言う事でございます」
「成程、お前が言いたいのは、襲った一団は百姓で無く、予め光秀がここを通るだろうと予測した者共の仕業といいたいのじゃな」
「その通りでございます。これも後で聞いたのですが、翌朝その辺りの百姓が竹藪に出かけて見ると、首の無い死体が地面に横たわっており、その辺りの地面が掘り返され跡があったそうでございます。そこで地面を掘り返すと、首が出て来たそうでございます。その百姓はその首を差し出そうか差し出すまいか躊躇していまして・・・・二日あまりが経過したそうでございます」
五右衛門は自分が、何処からか聞いたのか光秀最後の様子を語った。
「わしもその話を聞いたが、どうも信憑性にかけておる・・・・」
太閤もそんな噂を後で耳にしたが、噂は錯綜しており、どれが真実か判断しえない状況だった。
その当時、落ち武者狩りを生業(なりわい)とする者も大勢おり、堺から伊賀を越え岡崎に逃げ延びる途中家康もその餌食になりそうになった。
一旦戦いに敗れると、光秀のように一国一城の主であっても、悲惨な運命が待ち受けていた。日頃従順さを装っている百姓達のなかには、この時ばかりは落ち武者狩りに豹変し、逃亡する落ち武者達を襲い、殺害してから甲冑、刀は言うに及ばず、全ての物を剥ぎ取り奪い去った。又、名の有る武将の首を持参すれば褒美までもらえ、それを生業にする者も現れた。
「それで顔の損傷が激しかったのか?わしとしてはそ奴に褒美でもとらせたかったがのう。所で、首を持ってきたのは百姓の作(さく)右(ざ)衛門(えもん)とかなんとかじゃったが、奴めが言うのには、落武者狩りの噂を聞きつけ、翌朝薄暗いうちに竹藪に行くと、首の無い死体が地面に横たわっていた。そこから少し離れた所に土が掘り返された痕跡(あと)が有り、掘り返すと首が出て来た。じゃが恐ろしくなって一旦埋め、その事を一、二日たって仲間に言うと、ひょっとしてお前が埋めた首は光秀様の首ではないか、と言われ掘り返しておどおどしながら持って来たそうじゃ。これはお前の今言ったことと合致しておる。他にも首は小栗栖辺りからも続々届けられていたが、これとおぼしき首は五つ程あり、わしも立ち会い首(くび)検分(けんぶん)にかけたのじゃが、うんばうんば~・・・どの首も腐敗し顔の損傷が激しく明智に似ているようでもあり、似ていないよでもあったが、この場合、明智が死んだことにすれば事態が早く収まる為、その内の一つを光秀の首にしたのじゃ、うんばうんば~・・・まあその後、光秀は生きているという噂もあったが、ここ十数年、未だ現れん所を見ると、その首は光秀の首だったのじゃな。軍勢を持たぬ光秀は、羽を毟(むし)られた雀(すずめ)のようで羽ばたくことも出来んじゃろ、うんばうんば~・・・もしもわしの前に現れたら焼鳥にしてやるのじゃが、でへねへうんばば~」
その言葉とは裏腹に太閤は、その当時血眼になり光秀の行方を探索させた。首を持って来たのは百姓の作右衛門で、光秀を竹槍で刺したのは、噂では百姓の中(なか)村長(むらちょう)兵衛(べえい)と言われたが、不思議な事に、彼の身元を調べると、その界隈にはそんな人物は実在しない事が判明した。光秀に槍で一撃を加えた人物が忽然と消えてしまったのである。それはそれとして、今となっては過去の事、全ては曖昧模糊とした闇の中である。
しかし話は尽きない、五右衛門も鬼丸も疲れきってはいたが、今夜の太閤は元気がいい。一体全体太閤の活力源は何なのだ。
「所で巷では、わしが本能寺の変を画策したとか何とか、面白可笑しく噂をしていたようじゃが、全くの濡れ衣であることが、今までのわしの話からわかるじゃろ。変を画策しておれば、汗水たらし中国大返しなどするはずがなかろう。・・・じゃが、そんな噂もあったが、光秀と結託し謀反を画策した者がおらんかと、連歌に参列した里村紹巴や変の後、光秀から銀五百枚ほどをを受けっとた吉田兼見等を呼び出し、あれこれ詰問したが、皆関わりを頑なに否定しおった。」
「句を詠まれた方々以外で、参列されていたその他の方も関わりを否定されたのでございますね」
「それでその五百枚の銀はどないされたのでございます、ぶひ~」
「兼見を呼び出し詮議した後、鵜飼の鵜のごとく鮎ならんその銀を吐き出させてやったわ、うんばうんば~早い話し安土城からくすねた殿の金、即ち忠臣たるわしの金じゃからな・・・・」
「銀は他の手に渡っていなかたのでおますやろかでございます」
何故か鬼丸は銀にこだわた。
「お前が言いたいのは、その金が天皇様や公家に手渡されたといいたいのじゃろう。そんな噂もあったが、天皇様は以ての外、それにそれはそれ公家たちの詮索も無理じゃ、でへねへうんばば~・・・それで詮索は止めたのじゃ。そんなにこだわる所を見ると銀が欲しいのじゃな、うんばうんば~・・それにじゃ、ここで白状するが、わしは捲き上げた銀は全て女に貢いで、ぱーじゃ」
「女に貢いで、ぱー・・なんちゅうこちゃでございます、ぶひ~」
「遊びはこれぐらいにしてじゃ、話を本筋に戻すとじゃ・・何と言っても句会のこの句が何時までも心に引っ掛かるのじゃ」
太閤はそこで一息つき、次に光秀の例の句を取り上げた。
「『ときは今 天が下しる 五月哉』明智様が謀反を決意したと言う有名なこの句でございますね」
すかさず、五右衛門が暗誦した。
「そうじゃ、この天が下しるじゃが、天を雨の掛け言葉とし、雨が降るなどと解釈する者もおるが・・わしの解釈では天が下しると言うのは、自分が殿下を倒し、天下を取ると言う決意のあらわれじゃと確信しておる。・・それにじゃ、『水上まさる 庭の夏山』(行祐)『花落つる 池の流れを せきとめて』(紹巴)『風に霞を 吹き送るくれ』(宥源)、・・いずれもまさる、せきとめて、吹き送るくれなどと、解釈しだいではどれも光秀を煽っているようじゃ、うんばうんば~、」
「難し過ぎてわてには解りませんでございます、ぶひ~」
「じゃがどの句もどうでも解釈できるように上手く尻尾を隠しているのじゃ、うんばうんば~」
太閤はそれ以上句の解釈には立ち入らなかった。
「それで里村紹巴様などを問い詰めても、知らぬ、存ぜずで、殿下の叱責を逃れたと言う訳でございますか」
「その通りじゃ、殿下(信長)に二本の扇子を捧げ機転も利くが、その半面中々の策師、陰謀家じゃ、でへねへうんばば~」
そこで、太閤はその話題を打ち切り、本能寺の変を起こした明智光秀のその夜の行動を分析しながら語り始めた。
「まあそれはさて置き、明智め、閲兵のため斉藤利三をまず洛中に向かわせたそうじゃ。何のための閲兵じゃ、巧みに言い繕っておるが、これこそ謀反の証(あかし)じゃ・・さっさとわしの応援に駆け付ければ良いのに、うんばうんば~」
そこで太閤は少し話を中断し茶を美味そうに飲んだ。
それから酒饅頭をさらに二人に勧め、自らも頬張った。喋り過ぎて喉が渇いたのだ。
「所でじゃ、さっき、わしが棚から牡丹餅が落ちてくればお前ならどうすると聞いたな?・・・それでお前は、口を大きく開いて待っております、落ちてくれば急いで食らいます、と言ったはずじゃ!・・・わしなら口を大きく開いて待っより、牡丹餅を自ら落し食べるがのう、わっはっはっはっ~」
太閤は何か暗示めいた言葉を今回も吐いた。
それから、髭に指をやり、先端を二回くるりくるりと捻じ曲げた。
誰しも心の内の密事を他人に自慢したいものなのだ。
「これは殿下恐れ入りました!」
五右衛門はこの言葉の奥底に、太閤の秘密めいた何かを臭ぎとりながらも、それ以上言及せず平伏(へいふく)し、その後顔をあげ太閤を見上げた。
太閤は平然と饅頭をパクついていた。

話を少し前に戻すと、何故、真っ先に羽柴秀吉が他の武将に先駆け、明智討伐に行けたかと言う疑問に突き当たらないだろうか?
その時の織田家の他の武将達の動向を見てみると、柴田勝家は上杉勢と対戦中、滝川一益は北条勢と対峙中 、織田信孝、丹羽長秀は 大坂堺で四国遠征の準備中であったが、信長の訃報を聞き、多くの将兵が逃亡したため討伐を断念、その後富田で秀吉に合流した。徳川家康は 堺遊覧中に訃報を聞き、急遽、岡崎に命からがら落ち延び光秀討伐どころではなかった。
六月十二日、光秀討伐の為、秀吉をはじめ織田信孝や丹羽長秀等が富田で軍議を開き、信孝が総大将になったが、事実上の大将は秀吉であった。この事がその後、秀吉が、天下を握る重要なキーポイントになったのである。早い話、他の名だたる武将は弔い合戦に出遅れたのだった。

天下を盗んだ大泥棒 第二部

天下を盗んだ大泥棒 第二部

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • コメディ
  • 成人向け
更新日
登録日
2013-05-26

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