ユーリ、明日も晴れるよ!

ユーリ、明日も晴れるよ!

ユーリという主人公の周囲のさまざまな出来事を通して、生命の始まりと終わりや、家族や恋人、人間同士の絆などの話を描きました。ちょっと長いですが、飽きさせないストーリーです。(のつもりです)いろんな事を考えながら、最終章まで読んでみてください。

1-1.Yuuri

「長いことお世話になりました。ありがとうございました。」
そう言って、臼田に頭を下げ、事務所を出た。自分でも、大人の挨拶が出来るようになったと、感心してしまった。
もちろん、臼田に感謝の気持ちなんか、これっぽっちも無い。よく4年間も我慢したと思う。昔なら3ヵ月で殴り倒しているだろう。
その間、臼田の役目は、会社からの指示を伝える伝言板でしかなかった。それも伝言ゲームのように、伝わるまでに、どこかが変わっていて、大変な目にあったことも、一度や二度では無かった。
しかも、毎回私を眺める視線は、セクハラそのものだったし、社内の飲み会の時なんかは、ことさらだった。それも、騒ぎになったりするのが怖くて、本当のセクハラは出来ない情けないエロ親父のようだった。
派遣切りというやつで、今月一杯で契約更新をしないと言われた時には、本当に殴り倒してやろうかとも、ちょっと考えた。
でも、もう二度と関係なくなる親父を殴り倒したところで、私の仕事がどうにかなるわけではないし、そのせいで、次の仕事が決まりにくくなるのも嫌だし、大体がこんな親父を殴っても、手が汚れるだけだと思って、殴るのはやめてやったのだ。そろそろこいつ自身もリストラされるんじゃないかな、と思うと、ちょっとは気持ちも治まった。

現場に戻って、ロッカーの中身をバッグに移していると、秋野さんが手伝ってくれた。
このおばさんは、現場の庶務係で親切な人だった。もっとも、親切な庶務係のおばさんというのは、昔からどこにでも居る人種で、それは悪く言えば、おせっかい焼きという一面も、たっぷりと持ち合わせている。私の出身や家族構成の話なんかを根掘り葉掘り訊きたがるし、結婚相手の世話までしたがる。
うちの母親もこんな人種だったが、こういう会社の中にも、似た人はいるんだなと、ちょっと驚いたものだった。

この工場は、従業員が千人近い、大手電機メーカーの工場のひとつで、私は、そこで働くOSだった。OSというのはアウトソーシングメンバーという言葉の略で、要するに派遣社員の事だ。人材派遣会社に登録して、適当な工場に派遣される、生産量の調節のための使い捨て労働力だ。この工場にも、何十人かが派遣されて来ている。
そして臼田は、その派遣会社の社員で、この工場の担当だったのだ。
今までは、この工場の事務所の一角にデスクをもらって、私たちの勤務管理や工場からの増員要求なんかに対応してきたのだが、この不況の波で状況がいきなり変わってしまった。工場は受注が半減したといって、即時契約解除を言い出したが、派遣会社としてもなんとか粘ったのだろう、契約が切れる順に更新をしないという形で、人員削減をすることになった。
私たちは、基本的に半年毎に派遣会社と工場とで派遣契約をしているし、それにあわせるように、派遣会社と各個人で労働契約をするという形になっている。つまり最長でも半年で、この工場に勤めているOSは、お払い箱になってしまうということだ。
臼田の仕事は、そのOSたちを、なんとかなだめすかして、首を斬ることになってしまった。
ここに来ているOSは、派遣会社が北海道から沖縄まで、全国から集めて来た人材だ。さあ仕事が無くなりました、あなたは明日から要りません、と言われて、はいそうですか、と言う者の方が少ない。こんなところまで、おいしい話に乗せられて来たのに、いきなり放り出されるのは、話が違うと、食って掛かる。住む所も、派遣会社の用意した寮だから、すぐに出て行けと言われても、行き先も決まらない。引越し費用でさえ、来たときの費用は、会社持ちだったのだから、帰る分も出せとごねる。帰っても仕事が無いのだから、次の仕事を世話しろ、そうでないと寮を出ない、とまで言い出す者も居た。

私は、最初は派遣会社の用意した寮に居たのだけど、半年で出てしまっていた。その頃一緒に入社したトワと、一緒にアパートを借りてルームシェアしている。特に無駄使いもしなかったし、欲しいものにお金をつぎ込んだりしてないから、それなりに蓄えも有る。
この先の身の振り方は心配ではあるけど、このまま故郷の鹿児島に帰ったところで、仕事は無いし、もう少しこの町に居ようと考えている。
それに、田舎に帰れば、それこそ近所のおせっかい焼きババア達がよってたかって、三十代独身農家の長男で役場勤務みたいなおっさんと、くっつけたがるに違いない。しかも、そのババア達の先陣はうちの母親だろうから、よほどのことが無ければ帰る気は起こらない。
最近では電話での話も
「私がお前の年には、もう兄ちゃんとお前が居て・・・」
と泣き落としなのか、脅しなのか判らない口調で話すから、出来れば電話もしたくないくらいだ。

秋野さんはいつもの如く、この先の私の身の振り方を、根掘り葉掘り訊いてくる。あまり曖昧に返事をしていると、それこそ結婚相手まで押し付けられそうだ。
工場のユニフォームを手にして、ちょっと迷う。このユニフォームは、購買で自分の金を出して買ったものだ。この工場では、基本的には服装は自由ということになっている。総務の若い女の子なんかは、結構派手な格好をしている。でも、ユニフォームという標準の服装が決まっていて、それを着ている人の方が多い。ひとつには、それを着ていると服装で悩まないこと。そして、工場に出勤するとき、いちいち従業員証を出さなくても、服だけで入門させてくれることが理由だ。本当ならOSに、そんな服装をさせるのはどうかと思うのだが、基本の服装が自由という建前だから、購買でお金を払えば誰にでも売ってくれる。私も自腹でユニフォームを買った。だから、この服は持って帰る権利があるのだが、この工場に二度と来ないのに、こんな服を持っていても、と、ちょっと悩んだ。
「秋野さん。いろいろとお世話になったお礼と言うほどにもならないんだけど、このユニフォーム、良かったらもらってくれませんか?」
背丈は同じくらいだから、秋野さんに譲っても大丈夫だろう。そんな話でもしないと、いつまでも私の今後の話を続けそうだった。
「そう。貰っちゃってもいいの?」
「ええ。もうこれを着る機会も無いでしょうから。」
「そうね。持っていても着ないし、見るたびに淋しくなるものね。」
淋しくはならないと思ったが、そんなことを言い出すと、また話が長くなる。
秋野さんと数人の同僚に挨拶をして、退勤のチャイムが鳴るのと同時に、もう必要ないだろうタイムカードをレコーダーに放り込む。 そのカードを、安藤悠里という私の名前の貼ってあるホルダーに戻し、私は現場を出て、自転車置き場に向かって歩き出した。

1-2.Tatsuya

チャリのかごに大きめのバッグを無理やり押し込んで、鍵を外していたら、後ろから声を掛けられた。
「ユーリ。もう手続きとか全部済んだの?」
振り向くと今まで居た課の同僚だったタツヤが立っている。私のことを追いかけて来たのだろう。ちょっと肩が上下している。
「うん。これでこの工場とも、きれいさっぱり縁が切れたよ。」
「そうか、ちょっと淋しくなるな。」
「そんなこと言ってくれるのはタッちゃんだけだよ。」
そう。あなたは私に気があったし、それを隠そうともしなかったものね。
でも、正社員のあなたと、OSの私とは所詮立場が違うのよ。ぼくちゃん。
「この先、どうするの?」
「さあね。まだ明日の予定も何にもないわ。」
「じゃあ、今晩も暇なの?飲みに行かない?」
「送別会してくれるの?」
「ああ。もちろん。奢るよ。」
あんただって、そんなに給料もらってるわけじゃないんだろうけど、少なくとも首になる心配はまだ無いよね。別にタツヤに特別の気持ちが有る訳じゃないけど、まあ、仕事中も良く気を使ってくれたし、ここは良い顔をしてご馳走してもらおうかな。
「で、どこに行くの?」
タツヤはちょっと考え込んでいる。こんなにあっさり私が乗るとは思っていなかったのかも知れない。でも、改めて二人っきりで、タツヤに口説かれるような雰囲気になっても、と、私もちょっと考える。
「やっぱりあそこかな。いつもの村さ来。」
「ええ、もうちょっと落ち着ける処に行こうよ。」
あんたと落ち着きたいとは思ってないのよ。
「いいじゃない。あなただって月末でそんなにお金持ってるわけじゃないでしょう。」
この工場からチャリで5分の村さ来が、何かあると飲みに行くいつもの店だった。私のアパートはそこからさらに5分。タツヤの住んでる寮は歩いて3分の処だ。
この工場の従業員にとっては、会社帰りに寄るには、場所も値段も手頃な店だ。もっとも従業員の大半は、車通勤で家庭持ちのおじさんだから、なかなかドラマのように帰りがけに一杯とはいかないようだ。こんな田舎町では、通勤は車が当たり前だし、居酒屋にも駐車場が有る。最近では、その駐車場で運転代行とおまわりさんが客待ちしているらしい。
通勤は自動車、原チャリ、自転車。公共交通機関はほとんど無い田舎町だ。秋野さんが前に言ってた。もしバスで通勤するなら、畑の中を20分歩いてバス停に行って、バスに10分乗って、バス停からまた15分歩いて会社にたどり着くそうだ。しかもバスは、一時間に一本だという。まあ私の故郷も同じようなものだけど。
「このまま、すぐに飲みに行く?」
「うん。帰っても別に何も無いし。」
「じゃ、先に行っててよ。原チャリ置いて、すぐに行くから。」
そう言って、タツヤはスクーターで私を追い越して行った。

「ユーリって、やっぱりどこか変わってるよな。」
「どこがよ?」
「だって、普通ならもっと、明日からの心配をしたりするだろう。」
「それじゃ、まるで私が何にも考えてない馬鹿みたいじゃない。」
「そういうわけじゃないけどさ。落ち着いてるというか、度胸が良いっていうか。」
「それが、変わってるってことになるの?」
「他の子は、もっとジタバタしてたみたいだったけどね。」
「まあね。私の場合は、住むところは追い出されないし、明日から路頭に迷うわけじゃ無いからね。相棒はきちんと仕事してるから、ちょっとは融通が利くし。」
「そうだよな。トワと一緒に居るんだものな。」
私の同居人の染井永遠は、この工場で一緒にOSとして仕事をしていた。私よりひとつ下の二十四歳。工場は、私と一緒に暮らし始めてから、一年ほどで辞めてしまったけど、社員にはうけが良かったから、いまだに覚えている人も多い。
「私、そんなに変わってるかな?トワほどじゃないと思うけど。」
「トワと比べるのかい。そりゃ、比較対象が違うんじゃない。」
「私が変わってるって自覚してるのは、誕生日くらいだよ。」
そう、私の誕生日は四年に一度しかない。二月二十九日生まれだ。
「いや、何ていうのか。どちらかと言えば、トワと正反対で、はっきりしてると言うか、男らしいと言うか。」
「タッちゃん。それ褒めてんの、貶してるの?」
「いや。俺にしてみれば、最大級の褒め言葉なんだけどな。」
「女に向かって、男らしいって言うのを、褒め言葉として使うの?」
「そんなに絡むなよ。テキパキはきはき仕事が速い、って言えばいいのかな。」
「うん。それなら許してあげる。今日はタッちゃんのおごりだし。」
「なんだ。スポンサーだからか。しっかり者なんだか、ちゃっかり者なんだか。」
「そうよ。無職の独身女性なんだから、しっかりもちゃっかりもしないとね。」
「仕事の速さは課長並みだったけど、そういうところは、しっかり女の武器も使うんだ。」
「そうそう。課長って言えば、どうしてあの人は、3倍速いとか言われてるの?」
「シャア課長の話?名前がシャアだからだろう。」
「西さんのことでしょう?名前がシャアって言うの?」
「ほら。中国語でトンナンシャアペイって言うじゃない。」
「ああ。そのシャアね。」
「そう、それでガンダムのシャアと一緒にされて、3倍速いとか、赤い流星とか呼ばれてるんだよ。」
なんだ、結局アニメオタクの話か。しかもガンダムだって。超古典的だね。それからしばらく、ガンダムの話が続く。
知識と知恵は、まるっきり別の事だって、誰かが言ってた。知識をどう使うかの分別が、知恵なんだって。自分の得意分野が有るのはいいけど、女の子相手に、アニメの話をしてもね。そんなだと、この先も彼女は出来ないわよ。
タツヤは私と同じ年、多分彼女居ない歴も年と同じだろう。どう考えても、女の子とお付き合いしたことが有るようには、見えない。小学校の頃に手をつないで帰ったくらいが良いところだろう。
「ところで、この先はどうするつもり?」
「そうね。結婚でもしちゃおうかな。」
そんな話になると、いきなり動揺してる。馬鹿だね、あんたとするとは、言ってないわよ。
「えっ。相手は居るの?」
「もちろん。いい男が居るわよ。」
この町に四年も居れば、私にだって、男の子と知り合う機会くらい出来る。ただ、年下の大学生じゃ、結婚なんてまだまだ現実的じゃないけどね。
「トワだって、一度はしてるんだから、私が結婚したっておかしくないでしょ。」
「えっ。トワってバツイチなの?」
そんなことも知らなかったんだ。けっこうリサーチ能力も低いのかな。私のプライベートは工場では喋らなかったけど、トワは身の上話をしたから知ってる人も多いはずだ。
「そうだよ。高校出てすぐに、同級生と結婚したんだって。二年で別れたけど。」
その辺りの話になると、タツヤには解らない世界らしい。大学出て、この会社に入って、仕事だけしてて、彼女も居ない男の子には、結婚だの離婚だのって、解んないよね。
タツヤ君、君と同じ二十五才の人間がみんな、君とおんなじ様な経験しか、してないわけじゃないんだよ。
そんな話をしてたら、毒気に当てられたらしい。私に気があるのは判るけど、いきなり結婚だの、離婚だのって言われたら、口説く気も無くなるよね。どうせ、高校生がバレンタインにチョコを渡すのと同じノリで、付き合ってとか、言うつもりだったんだろうけど。
当たり障りの無い話を、しばらく続けて、きりの良いところで店を出た。
「ごちそうさま。ありがとうね。もう、会う機会も無いと思うけど。」
「うん。くよくよしないで、頑張ってね。」
私は、くよくよなんかもしてないし、落ち込んでもいないってば。仕事が変わるぐらいで、じたばたするはずも無いでしょう。あなたとは違うのよ。なんだか、腹が立つんだか、あんな男の子と飲んだのが、悲しいんだか、良くわからない気分で、チャリをこいで、アパートに帰った。

1-3.Towa

「ただいま。あれ、トワ。帰ってたんだ。」
「お帰り。飲んできたの?」
「うん。タツヤに奢ってもらっちゃった。」
「どうしたのよ。タッちゃんと飲むなんて。」
「それより、トワはどうして帰ってるの?今日は遅番じゃなかったっけ。」
「今日はトワイライトのトワなの。」
これは二人だけに解る暗号のようなものだ。
以前、私が黄昏たような顔をしてるって、トワに言ったら、トワイライトのトワだからね、と語呂合わせのような返事が来て、この言葉を使うようになった。気分が乗らないとか、体調が悪いとか、バッドチューニングなイメージの時には、トワイライトなのだ。生理痛の時もかな。
「どうしたのよ。仕事のシフトまで変えちゃったの?」
「うん。今日はね、カズくんも遅番だったから、お昼からデートだったの。でも、つまんない事でけんかしちゃって。」
「それで、顔見てたくないから、シフト変えてもらって、帰ってきちゃったのね。」
トワは今、近くの大きなショッピングセンターの中に在る、アクセサリーショップで働いてる。カズくんという彼氏は、そのショップの向かい側の携帯屋の店員だ。
トワについて話すことは沢山あるけど、真っ先に出てくる一番の特徴は「恋多き女」だろう。私と一緒に住むようになってからも、三人位は彼氏が変わっている。特別浮気性とかでは無い。淋しがりで、人恋しくて、いつもその時その時は真剣なのだけど、長続きしないのだ。甘えん坊だから、彼氏がよっぽどしっかりした人で無いと、重たくなってしまうのかも知れない。
「お姉さん。今日で仕事終わって、明日から予定無いんでしょう。一緒に飲もうよ。」
あーあ、とうとう「お姉さん」まで、出てしまった。トワが私のことをこう呼ぶ時は、よっぽどダメージが大きい時だ。普段は普通にユーリって呼ぶ。仕方ない、愚痴に付き合ってやるか。

そもそも、トワと私が一緒に住んでるのも、この「お姉さん」がきっかけだった。
私よりちょっと後に、工場の同じ職場に入ってきたトワは、私の名札を見て興味を示した。安藤悠里という名前の、どこに興味あるんだろうと、説明されるまでは不思議だった。
「安藤さん。私も旧姓は安藤だったの。」
知り合ってまもなく、そんな話を聞かされた。

沖縄出身。母親はフランス文学をちょっとかじっていたの。父親が悪ふざけして、生まれた娘につけた名前が「安藤永遠」だった。名前の響きは良いんだけどね。日本語にしたら「いちにのさん」だよ。まあ奈津とかじゃなくて、まだ良かったよ。「あんどうなつ」じゃ、お菓子だものね。そんな名前だったからかもしれない、高校出てすぐに結婚したんだ。同級生でその時付き合ってた染井くんと。結婚すれば名前が変わるから。
新婚当時はとっても幸せだったよ。ぼろアパートの一室に住んでて、二人ともまじめに働いてて。でも、高校出てすぐの二人暮らしでしょう。毎日のご飯作るのにも、手間がかかったりするしね。彼だって、仕事帰りに遊びに誘われても、付き合えないでしょ。部屋で二人でご飯食べて、毎晩のようにセックスして。でも、二年でそんな生活もだめになっちゃった。二人とも、まだ子供だったんだよね。
だけど、別れても安藤に戻りたくないから、染井って名前なの。ユーリ。いい名前だよね。私より一つ年上なの。お姉さんって呼んでも良い。

そんな身の上話から始まって、親しくなった私とトワは、半年の契約更新を機会に、会社の寮を出て、アパートでの共同生活を始めたのだった。派遣の仕事は一年位で辞めたけど、共同生活は今まで続いてる。今になってみれば、同じ仕事してれば、一緒に放り出されただろうから、結果、正解だったかもしれない。
工場を辞めてすぐに、トワは今の仕事を探してきた。故郷に帰りたくないし、今の生活も気に入ってるし、この町でもう少し暮らしてみるって、言ってたけど、本当はその頃付き合ってた彼氏と、別れたく無かっただけのような気もする。新しい仕事は、トワの性格に合っていたんだろう、男は変わっても、仕事は続いてる。
私との共同生活も、けんかすることも無く、うまくやってる。お互いに彼氏は居るけど、そちらはそちら。ここは姉妹で住んでる部屋、という感じだ。私がしっかり者の姉で、トワが甘えん坊の妹のように、性格が違うのも、うまくやってる秘訣かも知れない。

「カズくんとは、なんでもめたの?」
「だって、いきなり将来の話とか始めるんだもの。」
「将来って?結婚したいとか?」
「うん。子供は二人くらい欲しいとか、共稼ぎで家事も一緒にやろうとか。」
「いいじゃない。彼もそういう気になったんでしょ。トワだって、いつかは結婚するつもりはあるんでしょう?」
「でも、あんまりにも絵に描いたような事ばっかり言うから。なんだかあきれちゃって。だって、一生今のままじゃ無いでしょう。カズくんったら、このまま携帯電話屋さんで一生やっていって、私の事も四十になっても五十になっても、アクセサリーショップの店員で居ると思ってるみたいだったもの。」
「そうね。今までの工場の正社員ででも居れば、そういうヴィジョンもあるかも知れないけど、ショップの店員さんじゃ、定年までお店があるかどうか、判んないよね。」
「せめて、店長になるとか、独立して店を持つとか言うんなら、野心とか向上心とか思うけど。僕の給料がいくらで、とか言われても、そのまま一生やってられるつもり、ってね。」
「それで、ついポロっと言っちゃったんだ。」
「そうなの。そんな生活じゃ、私はもう二十歳前に経験してたわ。」
「大変だね、カズくんも。結婚したいって言って、不機嫌になる彼女じゃね。」
トワの気持ちも解る。いつか言ってたけど、ネイルアートの勉強とかして、アクセサリーとネイルやエクステンションとのトータルコーディネートが出来るような、お店をやりたいって。自分が四十になっても、五十になっても、技術とセンスで勝負できるようになれば、ただのショップの従業員じゃなくて、食べていけるって。
「ねえ、お姉さん。なんで男って、こんなにも能天気なのかな。生活や資金も考えずに、冒険したがったり、今走ってる道が一生続いてるような、甘い考えをしたり。」
「さあね。男だからじゃないの。女は生きてることがギャンブルみたいなものだから、冒険なんて考えないのよ。男を選んだり、子供を産んで育てたり、結婚して赤の他人の親と一緒に暮らしたりね。道なんてのは、未知と紙一重だって、本能で解ってるのね。」
「そうだよね。あーあ、もうカズくんとも駄目かな。かなり怒ってたみたいだったし。」
「そういう事で、トワと喧嘩するなら、お互いの将来のヴィジョンが違うってことでしょう。仲直りしても、またいつか、もめるわよ。」
「そんなに冷静に言わないでよ。喧嘩したことにダメージが有るんだから。」
そんな延々と続く愚痴を聞きながら、トワの買ってきたバーボンを飲む。女同士の酒盛りは、二人で一本を空けるまで続いた。

1-4.Hiro

「あー。頭痛い。朝からトワイライトだわ。」
そう言いながら起き出して来たトワは、それでもかなりさっぱりした表情だった。昨夜、言いたいだけ愚痴を言ったから、心の中の整理もついたんだろう。
「馬鹿ね。そういうのはトワイライトって言うんじゃないのよ。はっきり『私は二日酔いです。』って言いなさい。」
「ユーリ。そんなに冷たく言わなくても。」
「一晩付き合ったんだから、感謝しなさい。」
「はい、ありがとうございました。だからユーリのお皿のトーストを一枚ください。」
「仕方ないわね。ミルクもあげるから、今日はきちんと仕事に行きなさいよ。」
「はいはい。きび団子をくれれば、何でも言うこと聞きます。」
「私は今日から無職なんだから、しっかり稼いでおいで。」
「はい、女王様。しっかり稼いで来て、いっぱい貢ぎますから、可愛がって下さいませ。」
だいぶ本調子に戻ってきた様子だ。男の事でごたごたする時以外は、働き者だし可愛いし、話の調子も合う、良い相棒なのだ。
シャワーを浴びて支度をしたトワを送り出すと、メールの着信音が鳴った。
ヒロからのメールだ。
今日は大学の講義が無く、企業訪問してる合間の様子だ。時間が有るなら会おうよと、返信すると、すぐにOKの返事が来る。
ヒロは大学四年生。自宅から地元の大学に通っている。いつもは原チャリだけど、今日は父親の車を借りて動き回ってるらしい。車で一緒に出かけて、どこかでご飯でも食べようって、ドライヴデートのような気でいるみたいだ。
何のために車で出かけてるんだか。

ヒロと知り合ったのは、「王様鼠」っていうライヴハウスだった。トワに誘われて、その頃のトワの彼氏と、友達がやってるバンドのライヴに行った晩に、店のカウンターで隣り合わせになったのが、始まりだった。ヒロもバンドを組んで、ドラムを叩いてたのだが、その晩出たバンドに知り合いがいたので、聴きに来たのだそうだ。
「こいつもミュージシャンなんだよ。」
って、店のマスターが紹介してくれたのが、きっかけだった。
トワは彼氏と良い感じだったし、三人で私だけが、浮いていたところだったので、ヒロと話が合って、すぐに仲良くなった。それから二度ほど、ヒロたちのバンドのライヴを聴きに行った。二度目の時には、ステージから降りて来ると、私のところに真っ先にやってきて、ハグしてくれた。その時から、彼氏と彼女という立場での付き合いが、始まった。もっとも、そのステージを最後に、ヒロたちのバンドは活動しなくなってしまった。メンバー全員大学生で、就職活動や卒論の時期に来ていたのが理由だった。
二つ年下の大学生。自宅で両親と弟と暮らしている彼は、なかなか忙しくて、私とのデートもそんなにしている暇が無い。家族には、年上の女と付き合ってるって、照れくさくて言い出せないらしいし、卒論の実験なんかで、時間がなかなか取れない。それでも、こうして時々は会いに来てくれたり、どこかで待ち合わせて、ご飯食べたり、飲みに行ったり、ごくたまにセックスもしたりする。私のアパートに来ることも有るけど、この部屋は基本的には、私とトワの共有スペースだから、ここではセックスはしないことにしている。だから、彼が私の体に触れられるのは、今日のように父親の車を借りてきて、二人でラヴホに行く時くらいだ。男の子にしてみれば、物足りないのかな、と思うこともある。でも、年上の女としては、そんなに彼を甘やかしてばかりではいけないとも、思っている。
二つ上でも、学生と社会人でも、対等の立場で付き合ってるつもりだ。ヒロも最初は、男だから奢るよ、って言ったけど、私だって学生に奢らせるわけにはいかない。だから、ご飯もお酒もホテルも、ずっと割り勘で付き合ってる。そんなバランスがうまくつりあってるから、ヒロとの付き合いは、とても居心地が良い。

私を迎えに来て、ご飯食べる所を探して、一緒に車を走らせてる間も、ヒロは割りと無口だった。怒っている時と、落ち込んでいる時は無口になるって解っているのだけど、ポーカーフェイスで、どっちなのか判らないことが多い。だからそういうときには、私のほうから、出来るだけ話しかけるようにしている。判らない事を、そのまま放って置くのが、性分に合わないのだ。こんなだから、男らしいとか言われるのかも知れない。
「どうしたの。黙り込んじゃって。」
「うん。仕事がなかなか見つからなくてね。」
そうか、就職活動で落ち込んでるんだな。それなら、お姉さんが優しく慰めてあげよう。
「大丈夫だよ。私だって今日から無職だしね。」
あ、まずい。ヒロの表情が怖くなった。
「だから、困ってるんだろう。二人揃って無職じゃ、この先が見えないから。」
「この先って?」
「うん。ほんとは俺、ユーリとこのまま付き合っていって、良いのかなって、考えてたんだ。親離れしてない大学生が、年上の社会人と釣り合わないんじゃ無いか、とか。」
「そんなこと、いまさら。大丈夫だよ。私は何にも不満に思ってないし、ヒロのこと、大好きだから。」
その話も、今まで何度もした事がある。
どちらが男で、どちらが女で、どちらが社会人で、どちらが学生で、どちらがお金があって、どちらがお金が無くて、そんな事は二人の間では、何にもこだわらない事なのに。好きだから一緒に居る。嫌いになったら別れる。お金が有る方が払う。二人とも無ければ我慢する。そんなシンプルな付き合い方だった。
「そうじゃなくてさ。内定が出たら、ユーリの事をうちの親にも紹介したい、なんて、ちょっと考えてたからさ。このままフリーターになるわけにはいかないだろう。」
「そうね。親としては心配だよね。息子の相手が年上の女で、職もあやふやじゃね。」
「就職先がどこになるか判らないけど、仕事が決まったら、家を出て、一人暮らしを始めて、何年かしたら、ユーリと一緒になって、なんて事まで考えてたんだけどね。」
あっ、なんだか今、ちょっと胸の中のどこかの響線が共鳴した。この年になって、結婚とか将来とかを、考えない女は居ない。でも、女だからって、それに甘えて、誰かに助けてもらうような立場になりたいって訳ではない。ここは、年上という立場で、しっかりしなければ。
「大丈夫よ。卒業までに、半年以上有るじゃない。それに、私だっていつまでも無職で居るつもりなんて無いわよ。今までよりもっと稼いで見せるからね。」
「そうかな。大丈夫?こんな時代だけど。」
「馬鹿ね。世間の大部分は、今日もきちんと仕事して、ご飯食べてるのよ。不況だの何だのってニュースが騒いでるだけじゃない。大企業が、派遣切りだの内定取り消しだのって言うから、そんな気になってるだけよ。そんな処に勤めてる人がどれだけ居るの。ファミレスのウエイトレスさんだって、ショップの店員さんだって、お弁当屋のおばさんだって、今までと同じように、仕事してるわよ。」
なんだか、ヒロを慰めてるんだか、自分に言い聞かせてるんだか、判らないようになってきた。
「そうだね。研究室にも、求人の話はいろいろ来てるよ。大企業が動かないから、今がチャンスだって、けっこう名前を聞いたことも無い中小は狙ってるみたい。」
「そうそう。大企業だって、いつか潰れるかもしれないし。あなたが入ったところが、何十年後には、業界で一番になってるかもしれないわよ。」
「よーし。もうちょっと範囲を広げて、頑張ってみよう。」
「大丈夫よ。私はあなたの勤務先や年収にひかれて、結婚するような女じゃないから。」
「それは、最初から解ってるって。そんなことには目もくれない良い女だってね。」
ヒロもだいぶ元気になったようだ。
ふたりでランチをした後、郊外の公園の駐車場に車を停めて、カーラジオを聞きながら車の中でのんびりした。ここに来る途中で、ラヴホの脇を通りかかって、ヒロは入りたそうに私の方を見たが、私は首を横に振った。
「就職が決まるまで、おあずけね。」
「ええっ。そんな先まで。厳しいな。」
「二人とも無職なのに、そんな事ばかりしてても、困るでしょう。」
「別に困らないよ。それはそれ、これはこれだもの。じゃあ、ユーリが次の仕事を見つけたらって事にしようよ。」
「そうね。それが公平ね。いままでと同じって事だし。ヒロの就職までじゃ、私のほうが我慢できなくなっちゃう。」
「良かった。次の誕生日までって言われたら、どうしようかと思った。」
この前の私の誕生日は、ヒロと二人で過ごした。次の誕生日は四年後だねって言って、そのときもお祝いしようって、約束したんだった。
「オリンピックじゃないんだからね。やり方を忘れちゃうよ。」
そんな馬鹿な話をしながら、車の中でキスをした。かわいいヒロ。だんだん、将来の事まで考えるしっかり者に育ってきたんだね。
夕方、私を部屋まで送ってくれて、ヒロはニコニコと手を振って、帰って行った。

1-5.Yuuri

次の朝。外は快晴。
とりあえず身辺整理からって考えて、部屋の掃除を始めた。トワは早番で仕事だから、送り出す時に
「今日はお掃除の日。あなたの部屋もしてあげるからね。お布団も干しておいてあげる。」
と宣言した。
二人分の布団を並べて干して、布団たたきでパンパンと叩く。今までの埃と一緒に、昨日まで私のどこかに染み付いていた、工場での習慣が抜けていく気がした。
大きな職場で、OSなんか使って、大量生産の製品を作る工場だから、いろんなマニュアルが有って、理由も解らずそれに従わされる事が多かった。帽子をかぶれだの、ハンカチは、必ずすぐ出せるポケットに入れて置けだの、携帯電話はバッグに入れてロッカーにしまえだの、ここは学校か、と思うくらいだった。どうしてなんですかと訊いても、これは以前事故があって、その対策としてルール化されたんだとか、明確な答えが出る時と、さあどうしてかね、なんていう返事が来るときと、半々くらいだった。
世間の常識やルール以外に、その工場のルールがあるという考え方に、だんだんと慣らされてしまっていたと思う。時には、世間一般と違うんじゃない、と思うような事でも、これがこの工場のルールだ、と言われると、そんなものかなと思うようになってしまう。
言葉もそうだ。最初にヒロと会った時、私はOSって言って、話が食い違った事があった。OSっていうのが、パソコンの基本プログラムのウインドウズとかそういうものの話だと、勘違いしたらしい。OSって言うのが一番肝心で、無ければ何も動かないんだよ、なんて言われて、不思議に思ったのを覚えてる。そんな工場だけの習慣も、きれいに掃除するんだ。
洗濯物も全部片付ける。ついでにタンスの中も整理した。キッチンの水周りやレンジ周りもピカピカに磨き、換気扇の汚れ落しまでしてしまった。
まるで、年末の大掃除のようだなと思ったが、やり始めると、綺麗になって行くのが気持ち良い。調子に乗って、古い服のボロでチャリまで磨いてしまった。この町に来て、最初の給料で買った愛車だ。まだまだ、私の唯一の足として頑張ってもらわなければ困る。明日からは、仕事探しにうろつきまわるのだから。
大掃除が一段落して、次は何をしようか、考える。冷蔵庫の中身も、チェックしたら淋しかったから、お買い物に出かけることにした。何を作ろうか、何を食べようか、と考えながらチャリを走らせる。時間をかけて、美味しいものを作って、トワと二人で食べよう。昨日までの自分を片付けて、ちょっと身軽になったから、また明日から生きてく為の栄養を補給するんだ。体にも、心にも、栄養と潤いを与えてやらなきゃ。そんなことを考えながら、チャリであても無く走る。
ふと近くの河原に行ってみたくなった。この町の外れには、太平洋まで続いている大きな河が流れている。子供たちが川沿いの道をサイクリングしていたり、どこかのおじさんが、太腿まで水に浸かって、何かの魚を釣っていたりする。私もそんな風景を眺めながら、土手に腰掛けてのんびりすることもある。
土手までの坂道を立ちこぎをして一気に上る。川幅が何百メートルもある大きな河の眺めが、いきなり目の前に広がる。思わず大きく息を吸い込んだ。土手の道路の車の流れを横切って、歩道にチャリを停めて、河に向かって傾斜する土手の草の上に座り込む。
こんなに大きな河なのに、水が流れているのは中央のごく一部分だけだ。他の所は、草が生えていたり、スポーツ用の広場になっていたり、工事用の大きな機械やダンプカーが砂を掘ってどこかに運んでいたりする。
まるで昨日までの、私がしていた仕事のようだ。景気が良いと言って騒ぐのも、悪いと言って嘆くのも、私とは関係のないどこかで流れている。こんな広いスペースの中で、風にそよいでいる草も、砂を掘る機械も、自分の役割を果たしながら混在している。
なんだか無性に母の声が聞きたい気がしてきて、私は携帯を取り出す。

私。うん、元気だよ。仕事はね、景気が悪いからって、派遣切りで昨日でやめさせられたの。まだだよ。次の仕事は今から探すの。うん、住む所はね、友達と二人でアパート借りてるし、友達は別の処に勤めてるから。そっちはどう。ゆうこちゃんが結婚したの。そう、出来婚で。いいじゃないの、お母さんいつも言ってるじゃない、子供がって。ちょっと順番が変わるだけだよ。
私、大丈夫、アパートは女二人だから。悪い虫がって、言い方が古いね。いやだよ。私一人が抜けたら、一緒に居る友達も困るだろうしね。帰らないよ、そっちには。こっちで次の仕事を探すよ。大丈夫。どうにかなるよ。貯金だって、有るしね。
それからね。お母さん。もしかしたら、次の誕生日の頃には、結婚するかもしれない。違うよ、出来婚じゃないよ。ほら、次の私の誕生日。三年先だってば。そんな先って。大丈夫。するかもしれないし、ダメになるかもしれないけど。そう言ってくれる人が、居るの。いまどきは、20代で結婚すれば良い方なの。早い遅いじゃないのよ。どんな相手を選ぶかだもの。そりゃあ、お母さんの時代は、お見合いで、そのまま相手の人柄も判らないで、結婚したんでしょうけどね。大丈夫だよ。そのうちにね、もちろん、そうなったら連れて行くよ。とってもいい男だから。うん。解ってるって。
お父さんは大丈夫?血圧高いとか、言ってたけど。頑固なんだから、無理させないようにね。うん。じゃあね。もう切るよ。お父さんにもよろしく言っておいて。血圧を上げないような言い方でね。それじゃね。

電話を切って、ポケットに戻す。立ち上がって、お尻をパンパンとはたく。大きく背伸びをして、おひさまに向かって、こぶしを突き上げる。
充電は完了。これからまた頑張れる。ヒロやトワと一緒に、この河のように、流れたり淀んだりしながら、海まで流れて行ける。
なんだかこんなイメージにぴったりの言葉が欲しくて、ちょっと考えて、自分自身に声を掛ける。
「ユーリ。明日も晴れるよ!」

2-1.looking for

「あーあ。やっぱりそう甘くないわ。」
「まあまあ、ユーリ、そんなのは解ってたことでしょう。」
「そりゃ、まあ。こんな時代だしね。簡単に次の仕事が見つかるとは思ってないけどね。」
仕事を無くして一週間。一日だけは気持ちの整理やら、身辺整理に使ったが、その後の六日間の私の努力は、すべて空回りだった。
新しい仕事を探すために、私は自分の中でルールを作ったのだ。
この町を離れたりせず、この生活を維持出来る仕事。
トワやヒロに後ろめたい気持ちを持たない仕事。
正社員とは言わないが、出来れば長く続けられる仕事。
この条件を頭の中に置いて、あちらこちら探し回ったのだが、いまだに仕事は決まらない。
最初の三日は街中で、求人のビラや情報誌を手にして、当たって回った。
土日だけのアルバイト、午後四時から八時までのアルバイト、三カ月の期間限定、なかなか良い給料はくれない。
せめて、トワと住んでいる家賃や光熱費の半分を負担して、食料とか生活に必要な諸々の分に必要な金額をもらえる仕事でないと、困るのだ。
夜の仕事も考えたが、水商売は躊躇した。それこそヒロが悩んでしまうだろうし、私自身、とても出来るとは思えなかった。お酒の相手に媚びを売るような事が、商売として出来るほど上手ではない。それこそお客を殴り倒したり、真剣に議論を始めるのが落ちだ。悩みや愚痴をこぼす相手には
「うじうじするな。」
と叱り付けてしまうタイプだと判っている。
それに、ああいうお店でも歩合制とかで、安定した収入は有りそうも無いし、後ろ暗いお店で、売春まがいのことでもやるようなら、ヒロに顔向けが出来ない。

ハローワークにも行ってみた。まず人の多さに驚いてしまった。確かに景気の悪い時代だから仕方がないけど、それよりは係員の対応の悪さにあきれてしまった。別に態度が悪いと言っているのではない。効率は悪いし、遅いし、やる気があるようには見えない。よっぽど、ここで働かせてもらおうかと、思ったくらいだ。データベースは紙だし、書類のファイルを取りにあちらこちらに動かなければならないし、動線は不便だし、民間企業のカイゼンというやつを、ちょっとは見習ってはどうかなと、今までの工場を思い出してしまった。
まあ、今まではこれで十分間に合っていたんだろうし、なまじテキパキと来訪者をこなせると、誰も来ていない時間が長すぎて、遊んでいるように思われるから、こんなシステムになってるのかなと、ちょっと余計な事まで想像してしまった。所詮は公務員のお役所仕事だからね。
二日間通ったが、まず学歴と資格で振り分けられると、本当に仕事は少ない。私なんか、持っている資格と言えば、運転免許くらいのものだ。普通高校を出て、就職する前に故郷で取った。別にその後にいろいろな事は、仕事をして行くうちに覚えたし、大抵の事なら今からでも十分身に付くと思っている。
どうして単なる事務仕事に短大卒以上の学歴が必要なのか、ちょっと不思議な気がする。今まで居た工場にも、大学卒業でフリーターになったような人も来ていたが、その人たちが特に優れているとも思えなかったし、はっきり言って、本当に大卒なの、どこの大学で何を勉強していたのと、訊ねたくなる様な人も沢山居た。
そんな状況だったから、ハローワークは二日であきらめた。一日書類とにらめっこして、一件か二件。しかも、その会社に行ってみれば、露骨に無理難題を吹っかけられる。求人票は義理で出したけど、本音は人なんぞ入れたくないんだよ、と言わんばかりだった。
そんな事をして、すでに一週間が過ぎてしまった。ヒロにもトワにも強気の顔を見せているけど、内心ではかなり参っている。でも、どこにも逃げ道は無いし、ここで弱音を吐くわけには行かない。

「ねえ、ユーリ。ちょっと飲みにでも行かない。給料日だし、おごるわよ。」
というトワの言葉に甘えて、二人で夕食がてら、外出した。行き先はもちろん、いつもの村さ来だ。
こういう店は、いつ来ても活気が有るし、気取っていなくて楽だ。時には、その活気がこちらまで伝わってくるような気がする。きっと私と同じような年頃の男の子が、「らっしゃい!」という大きな声で、元気を伝播させているのだろう。
別に私だって、数十万円の貯金は有るのだし、今日明日にも飢え死にするっていうわけではないけど、収入が途絶えているのは、気分的にダメージが大きい。部屋でご飯を作っていても、ついつい慎ましやかな内容になってしまう。時間だけはいっぱい有るから、手の込んだものを作るのだが、買い物に行くと特売品やら安い材料を選んで買っているのには、自分でもあきれてしまった。
だから、給料日にこじつけて、私を連れ出してくれたのだろう。トワの気遣いも判る。
トワはこの間の喧嘩の後、カズくんと仲直りしたらしい。このところ機嫌が良い。
「あの後、カズくんがね。真剣な顔して謝ってくれたんだ。ここでトワと別れたら一生後悔するって。」
「まったく。そういうのを、のろけって言うのよ。まあ、今日はあなたの奢りだから全部聞いてあげるけどね。」
「いいじゃない、ユーリだって、ヒロくんと上手くいってるんでしょう?」
「それはそうだけど。今は仕事探しのプレッシャーが大きくて、それどころじゃないのよ。」
「そういえば、ヒロくんも就職活動真っ最中だっけ。どうなの、彼の方は。」
「そう、二人とも職探し中だからね、のんびりエッチもしてられないの。」
「あらあら、ユーリも言うわね。」
「そりゃ、トワにばっかりのろけさせておいても、つまんないもの。逆襲しなきゃ。」
「まだまだ大丈夫ね。その様子だと。」
「そうでもないよ。職探しっていう言葉がこんなにプレッシャーになってるなんて、自分でも思ってみなかったもの。肩こりみたいに、重たいの。耳元で囁かれたら『ギャッ』って叫んで飛び上がりそうよ。」
「じゃあ。今晩、ユーリの部屋に忍び込んで、試して見ようかな。」
「夜這いにくるなら、もっと良い事してよ、待ってるから。」
相変わらず、トワと飲むと、こんなふざけた話が多い。その方が、深刻に話し込むよりも良い結果になるのを、二人とも肌で解っているようだ。

ほどほどに食べて、ほどほどに飲んで、いっぱいしゃべって気分良くなったところで、お店を出た。伝票はトワがさっと取り上げてレジに向かった。素直に
「ご馳走様でした。」
とトワに言って、二人で外に出ると、声をかけられた。
「お姉さんたち。代行は要らないか?」
「残念ね。私たち歩きなのよ。」
「なんだ、このご近所さんなのか。残念だな。この先で検問やってるから、ここで待っていれば必ずお客があると思ったのに。」
声をかけて来たのは、三十代から四十代くらいのネクタイに眼鏡のサラリーマン風のおじさんだった。助手席に、ちょっと若くていい男が、にこにこしながらこちらを見てる。
「ふうん。そうやって商売もするのね。代行って、電話で呼ばれて店に行くだけが、仕事かと思ってたけど。」
「まあね。こんなご時勢だから、いろんな事やってお客を捕まえなきゃね。」
「それなら、助手席のハンサム君に声をかけさせたら。女の客ならその方が良いんじゃない。」
「それも良いんだけどね。あいつは追いかける方だから、お客さんに、あっちのハンサムくんは運転してくれないの、って、後で文句言われるんだよ。」
「そんなの、その時だけ変われば良いのに。」
「いやあ、免許の都合で、そうも行かないしね。お客さんに変な気を起こさせても困るしね。」
「そうなんだ。分担が決まってるのね。」
「お姉さんみたいな人が、代行はいかがです、って、お店に行けば、お客はすぐに引っかかるだろうけどね。」
「いいわね。ここのところ、運転はしてないけど、免許は持ってるのよ。」
「うちの会社も、運転手募集してるよ。まあ、時給プラス歩合制だし、アルバイト程度だけどね。飲兵衛以外なら、使ってくれるよ。名刺渡しとこうか。」
こちらも良い気分だったし、向こうもお客待ちの暇つぶしでもあったのだろう。そんな話をしてもらった名刺には、ハッピー代行という会社の名前と電話番号、この町の外れの住所が書いてあった。その名刺をポケットに入れて、トワとアパートに帰った。

2-2.job

翌日、遅番のトワと遅い朝食をしていると、テーブルの上の名刺が目に留まった。昨夜のやり取りも思い出した。
「ここに行ってみようかな。」
「ユーリ、良いの?夜だけのアルバイトだよ。」
「うん。このまま、空回りしてるより、なんでも良いから始めちゃった方が、気も楽になると思うし、夜だけのバイトだったら、昼間はきちんとした仕事が探せるじゃない。とりあえずの小遣い稼ぎでも良いしね。」
「でも、大丈夫。酔っ払い相手の仕事だよ。」
「うん。ゆうべのおじさんも言ってたじゃない。後ろから追いかけて行って、運転手さんを回収してくるだけの役目もあるんでしょう。それなら出来そうだと思うんだ。」
「そうだね。酔っ払いが全部、ユーリ目指して襲ってくるわけじゃないね。」
「そんなにもてるなら、いっぱいお客も拾えるよ。まあやって見て、どんなものか解ると思うから。案ずるより生む方が良いよ。」
夕方の五時からが営業時間だと書いてある、その名刺を持って、自転車でその会社まで行ってみた。時間はちょうど五時。駐車場にはハッピー代行と名前が入った軽が三台。事務所はちいさなプレハブだった。事務所を訪ねて行くと、女の人が一人でパソコンに向かっていた。
「すみません。こちらで人を募集してるって聞いてきたのですが。」
「あら、珍しいわね。どこで聞いたのかしら。ちょっと待ってね。社長を呼んでくるから。」
駐車場の裏に有る家が社長の自宅なんだろう。ちょっと庭が有る普通の民家だ。庭先には物干しに洗濯物が下がり、子供の自転車が置いてある。出てきた社長は、昨夜のおじさんだった。
「おや、お姉さん。本当に来たんだね。」
「社長さんだったんですね。」
「まあね、うちは社長と影の社長と従業員が何人かの零細企業だからね。名前だけの社長だよ。こっちが影の社長。」
そう言ってさっきの人を紹介してくれた。どうやら社長の奥さんらしい。
「なにが影の社長だか。いつだって自分の好きなようにやるくせに。」
そう言いながらも、ニコニコとお茶を勧めてくれる。
「それで。お姉さん、免許は有るんだよね。」
「はい。ここのところ、運転はしていませんけど、以前は車で通勤してました。」
「まあ、大丈夫だろう。個人的には女の子の運転っていうのは、どうも苦手なんだが。」
「なに言ってるの。今時、男も女もないでしょ。私にだって運転させるくせに。」
奥さんから助け舟が出る。
「それもそうだな。若い分だけお前より良いかもしれないな。」
そんな事を言って笑ってみせる。奥さんも笑っている。
「社長権限で、新入社員にセクハラしちゃ駄目よ。」
「馬鹿言うなよ。影の社長に見つかったら、即座に首だろう。」
「この娘なら、あなたなんか蹴飛ばされておしまいよ。」
なんだかそんなふざけた話をしている間に、私を使ってくれる事が、決まったような雰囲気だった。名前と住所と電話番号を書類に書かされて、免許証のコピーを取られて、給料のシステムを説明された。基本は時給五百円だそうだ。これは待機している時間の分だけ貰える。その上に売り上げの20パーセントが取り分だ。四時間居て、売り上げが一万円なら、二千円プラス二千円の四千円が一晩の稼ぎになるそうだ。
「後はね、釣りはいらないとか、チップをくれたりするお客が居れば、運転手と追いかけで山分けだからね。けっこう良い副収入になるわよ。」
と奥さんが言う。
「女の子だから、顔を見せてニコニコしてれば、そういう儲けもあるかもしれないな。頑張りな。」
と社長も真顔で言う。
今は運転手が四人居て、ウイークデイは二台、週末は全員が待機してるそうだ。
「でも、ここには三台しか車が無いじゃないですか。」
「四人って言うのは、俺も含めてだよ。全部が出払ったら、俺は自分の車で出るんだ。」
「それでね。追いかけの方は、この間一人辞めちゃったから、私も含めて三人しか居ないの。あなたが入ってくれるんなら大助かりだわ。」
「いつも居るのは、昨日俺と一緒に居た若いのだよ。もう一人は週末しか来ない。」
営業時間は五時から深夜二時までだそうだけど、実際には八時頃から十一時くらいまでがピークだから、その後は、様子を見ながら一台だけ残して上がってもらう時もあるという話だった。
「入ってくれる時間も相談しながら決めるから、昼の仕事の都合で良いよ。」
と言われて、ちょっとびくっとする。
実は無職ですって、おどおどと切り出すと、それじゃ入れる時には六時に来てくれと言われた。早く入って長く待機してれば、安い時給でも出る事は出るからねって、奥さんも笑う。
「今までも、晩御飯の支度してる最中に、呼ばれてね。誰も居ないから、支度の途中だけど二人で仕事に出かけるなんて事も有ったのよ。帰って来るまでに、子供たちがお腹空かせてね。」
そんな話をしている間に、昨夜の男の子が事務所に現れた。
「あれ、社長。昨夜ナンパした子、本当に釣れちゃったの。」
「馬鹿野郎。そういう言い方をするなよ、母ちゃんが怖いだろう。有望な新人なんだからな、口説いたり襲ったりして、辞めさせるようなことがあったら、給料減らすぞ。」
「こいつはユウジだ。まだ大学生なんだけど、もう二年近くこの仕事してるベテランだから、なにか解らなかったらこいつに訊いてくれ。」
「安藤です。よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしくお願いします。お姉さん、僕よりちょっと年上でしょう。残念だな、こんな美人の新人でも、追いかけ同士じゃ一緒に組めないもんね。」
「まったく危なくてしょうがないな。新人は当分は俺と組むよ。」
こんなにぎやかでアットホームな雰囲気で、私の新しい仕事が始まったのだ。

その日、いきなり最初の電話から連れ出された。試しにちょっと乗ってみろという事らしい。軽の運転席に乗り、社長が助手席に乗り込む。車の運転はしばらくやってないが、そんなに不安は無い。故郷に居た頃は、母の車を借りて通勤していたのだ。車種もちょうど同じだったし、母の車はマニュアル車だったけど、これはオートマだから、これの方が楽だ。
呼ばれたお店の前に車を停め、社長がお客を呼びに中に入る。しばらくしてお客さんと一緒に出てきて、私に声をかける。
「行き先は隣町、あの橋を渡って幹線道路を進んで、三つ目の信号を曲がって、少し行った先だ。車種とナンバーをよく覚えておくように、信号なんかでは余裕を持って止まるから、しっかりついて来い。」
いよいよ新しい仕事の第一歩だ。
お客さんの自宅の車庫に車を入れている間に、記録を書く。時間、距離、店の名前、行き先、お客さんの車種とナンバー。降りて行って、社長にトリップメーターの走行距離を告げる。その距離によって、料金が決まっているのだそうだ。お客さんが珍しそうにこちらを見ているので、社長と一緒に
「ありがとうございました」
と頭をさげて、車に戻る。
社長がお客さんから料金をもらって戻ってきた。
「初仕事は完璧だな。お客さんも褒めてたぞ。きちんと車を降りて挨拶をする代行は初めてだって。」
そんなつもりではなく、たまたまの事なのだが、そう言われると嬉しい。戻る途中で、社長の携帯が鳴って、別の店に向かうことになった。ここでも同じように仕事をした後、事務所まで戻って待機になった。
「どう、こうやって街中を走り回る仕事は。」
奥さんが声をかけてくれる。
「こんな仕事でも適性があってね、やってみても馴染まないで二三日で辞めちゃう人も居るのよ。事故が怖いとか、お客とトラブルが有ったとか、待ち時間が嫌だとかね。」
お客さんの酔っ払いが、何か気に障ったんだろうけど、いきなり殴りかかってきて、トラブルになったことなんかも、昔、有ったらしい。私はどれも気にならなかったし、最初に褒められたこともあったので、その気になっていた。二人で一緒に行動する仕事だし、酔っ払いのお客さんでも、女に向かって殴りかかったりはしないだろう。まして追いかけの車の中なら、襲われたり触られたりっていう事も無いだろう。それよりも、いくらかでも収入が得られる事の方が嬉しい。
とりあえず今日は試験だから、明日からのローテーション表に出勤予定を適当に入れて、もう上がれと社長が言うので、奥さんに相談しながら今月分の予定を入れる。ユウジくんはほぼ毎日入っているらしいが、私も他にやることは無いので、とりあえず明日から一週間は連続で出ることにした。
「今日走った分も、きちんと給料に入れておいてやるからな。気をつけて帰れよ。それから、これは最初のお客が釣りの分をくれた金だ。しょっぱなだし、お前を褒めてたから、お前にやるよ。」
と社長に言われて、その場で五百円玉を渡される。
いきなりの現金収入に驚いたが、にこにこしながら皆に挨拶をして、自転車でアパートまで帰った。

2-3.accident

部屋に帰ってトワに今日の話をする。
「事故だけには気をつけてね。もらい事故っていうのもあるんだから。」
と心配してくれたが、私が本当に嬉しそうにしているので、トワも優しい顔になった。
「でも、ユーリがそんな仕事になったら、二人で飲む機会も減っちゃうね。」
なんて、変な心配までしている。
「大丈夫よ。真夜中頃には帰ってくるから、明け方まで付き合ってあげるわよ。」
「そんな。夜更かしと、深夜の飲食は、美容の大敵よ。」
と、笑いながらとんちんかんな答えが返ってくる。
ヒロにもメールを送った。トワが言ったのと、そっくり同じ返信が来る。まあ、事故に気をつけろって言うのは、誰もが真っ先に思い浮かべることなんだろう。

代行の仕事は面白かった。私に向いているのかもしれない。普段は事務所で待機していて、電話が有ればそのお店に向かう。一度事務所を出ると、事務所に戻らずに車を停められる場所で待機する事もあるが、大抵は、立て続けに連絡が入り、走り回っている方が多かった。私の個人的な携帯の番号が、社長や奥さんのに登録されたが、仕事中にそれに連絡が入ることは無い。今日はちょっと早く出てきてくれる、とか、奥さんから連絡が入るくらいだった。
それでも事務所にバッグを置き忘れて出ようとした時に、仕事中は携帯を離さないように言われた。
「もしもはぐれた時には、これが無けりゃ拾ってもらえないだろう。昔より便利になったんだから、利用しなけりゃな。」
社長がそんな事から、話を始めた。
 まだ学生の頃に今のユウジくんのような立場で、代行のバイトをやっていたそうだ。その頃はタクシーに付いているような無線機が車に付いていて、それでどこに行くようにと、事務所から連絡が入ったそうだ。今はほとんど携帯で連絡を取っているから、車を離れていても、連絡を取りやすいと言う。トイレに行ったり、コンビニで夜食を買ったり、気楽に出来ると笑う。
 今、ハッピー代行では、社長の家族名義で4台の携帯を使っている。奥さんは事務所に居て、固定電話に掛かってきた仕事を、出ている運転手に割り振る。家族間通話無料というヤツで、大分助かっているって言ってた。
 パソコンで地図検索も出来るし、ナビも有るし、確かに紙の地図と無線の時代よりは楽なのだろう。
 パソコンと言えば、会社の経理も奥さんがやっているのだが、ある日出勤すると、パソコン相手に悩んでいた。エクセルの計算式が解らなくなったらしい。走行距離の記録、ガソリン給油量、売り上げ、個人の勤務時間、必要経費などいろいろな記録が取って有るのだが、集計する為の式が、いちいち足し算をするような面倒な式になっていた。私もあまり詳しいわけではないのだけど、前の仕事でちょっと教わったことがあったので、奥さんに何箇所か教えてあげた。
「助かるわ。こんなに簡単に集計出来るものなのね。ユーリちゃん、これからも時々手伝ってくれない。」
私も、早く出た時には一時間以上待機の時間が有るし、その間も何もせずに時給の五百円を貰うのはちょっと気が引けるところも有ったので、喜んで引き受けた。前日の売り上げやガソリン代、経費なんかを入力して集計するだけのことなので、そんなに手間もかからないし、苦にならない。パソコンに入力しながら、奥さんといろいろおしゃべりをする時間も楽しい。収入は一日に数千円、一月で十万にも行かないかも知れない仕事だったが、こうして私は、この仕事に馴染んでいった。

その晩も仕事を十一時で上がって、アパートに帰った。トワは遅番で十時頃には帰って来ているはずだったが、まだ部屋は暗かった。もっとも、今日はカズくんも遅番なの、なんて、にやけた顔をしていたから、仕事帰りにデートかな、なんて思っていた処だった。

携帯が鳴った。トワからの着信だった。電話に出た私の耳には、聞いたことの無い男の声が飛び込んできた。警察の交通課の者という、その人の話声は、やけに冷静に、私にトワの事故の話を告げた。居眠り運転の大型トラックと正面衝突。運転席のカズくんはほぼ即死状態。トワの命は大丈夫だけれど、重体。入院先の病院名を告げて、ご家族に連絡が取れないので、一番親しいあなたにご足労願いたいと、断ることの出来ない口調でお願いされた。
電話を受けてから、座り込んだままの私は、通話が切れてからも立ち上がることも出来ないで居た。
 しばらくはぼんやりとしていたと思う。カズくんが死んだということが、トワが重体ということが、飲み込めない大きな塊のように喉に引っ掛かっていた。ぐずぐずと立ち上がり、病院に行かなければと思い、動き出したのだが、自転車で深夜の町を病院に向かうのが怖かった。謂れの無い恐怖に取り付かれていた。
誰かにこの重荷を、手伝ってもらおうと考え、携帯を手にして迷った。ヒロに電話するか、社長に電話するか、考えた挙句、社長に電話して事情を話した。そのまま待っているように言われて、アパートの階段に座り込んでいると、五分もしないで社長とユウジくんの乗った代行車が来てくれた。
「大丈夫か。こんな時は事故った本人より、周りの人間の方が危なくなっちまうんだよ。本人は病院のベッドで寝てるだけだからな。付いていってやるから乗れよ。」
ちょっと乱暴な口調で社長に言われ、気持ちがしゃきっと成った。軽の後ろの席に乗り込み病院に行くまでに、ヒロにもメールで事情を説明する。もう寝ているかなとも思ったが、すぐに返信が来た。ヒロも病院に向かってくれるそうだ。

 病院にはさっき電話をくれた警察の人が待っていて、詳しい状況を説明してくれた。ほぼ直線の道路で居眠り運転の長距離トラックが、センターラインを超えて来て、正面衝突。ぶつかる直前にハンドルを左に切ったので、運転席側がトラックの角にぶつかり、運転席のカズくんは即死。助手席のトワはあちらこちらの骨折やら内臓にダメージが有るやらで、救急治療室で緊急手術中。相手のトラックの運転手は軽症。カズくんの両親には連絡が付いて、もうすぐこちらに来るという事だった。
 過失割合で言えばほぼ全面的に相手が悪いから、保障はきちんとして貰えるでしょう、と言われたが、私にはそんなことが、何になるのか解らなかった。カズくんは死んでしまったのだ。トワが手術室から出てきた時に、なんて言えば良いのだろう。
 トワの両親に連絡を取った。初めて気づいたのだが、父親と母親とそれぞれ別の連絡先が、トワの携帯に登録されていた。お母さんに連絡を取った時に、それを向こうから切り出された。今は離婚して、別々に家庭を持っているので、直接連絡を取っては居ないそうだ。トワのメモリーに入っていた番号を教えてあげて、こういう非常事態だから連絡を取って話をしてくれるように、お願いした。お母さんは、出来るだけ早くそちらに向かいますけど、それまでよろしくお願いしますと、私に告げた。さっき私が電話を受けた時と同じような驚きと戸惑いが、電話の向こうから伝わってきた。
 電話での話が済んだ所に、カズくんのご両親がやってきた。そうとう取り乱して居る。カズくんに縋り付くようにして、何度も名前を呼んでいる。しばらくしてよろよろと立ち上がったお母さんは、軽く頭を下げた私を、にらみつけるように見た。
「あなたが、息子と一緒に居たの?あなたと一緒にこんな夜更けまで、遊び歩いているから。」
と、掴みかからんばかりの様子だった。私の事をトワと勘違いしているらしい。そう言われても、事故を起こしたのはトワの責任ではないし、車のハンドルを握っていたのはカズくんの方だ。こちらの方がトワの関係者として責めるならともかく、責められる立場ではないだろう。ふと、冷静にそんな事を思う。誰が誰を責めても、起こってしまった事故が無くなる訳じゃない。
トワは今、手術中だと話す。同居人で一番親しくしている事や、家族は沖縄に居て、ついさっき連絡が取れたことなどを説明して、解ってもらえた。お父さんは、この人や一緒に居た人が悪いわけじゃないだろう、と、しきりに私に気を使っている。
 事故の相手はここには居ない。お母さんの気持ちをぶつける先は、どこにも無かったのだろう。

 手術室の前で待っているあいだ、空気はいつもより重く、まるで水の中で息をしているようだった。社長とユウジくんも付き合ってくれたのだが、皆、黙り込んだままだった。社長は警察の係の人と、何か話している。保障とか保険とか入院費とかの話なんだろう。そんな単語がぼそぼそと聞こえた。ユウジくんは、タバコを吸ってくると言って、どこかに消えたり、また来たりを繰り返している。そんなところにヒロが来てくれた。
 意外だったのは、ユウジくんがヒロを見て、先輩と声をかけたことだ。
「どうしたんですか。こんな時間に。」
「お前こそ、どうしてこんな所に居るんだよ。」
「いや。バイト中だったんだけど、ユーリさんから緊急連絡が入ってね。社長がすっ飛んで来たから、連れて来られちゃったんですよ。」
「そうか。ユーリと同じバイト先だったのか。俺はユーリから連絡もらって、トワちゃんが事故って大変だって言うから、心配で来たんだよ。」
「じゃあ。ユーリさんの大学生の彼氏って、ヒロ先輩の事だったんですか。」
ちょっとだけそんな和やかな空気が流れた。社長が割って入る。ヒロにどうやって来たのかを訊ねて、お父さんの車で来ていると聞くと、ユウジくんの肩を叩いた。
「さて。じゃあ俺達は引き上げよう。こうしていてもどうにも出来ないし。ユーリの事なら、彼氏に任せれば大丈夫だろう。」
時間は午前二時を廻るところだった。
 そうして、ヒロと私を残して二人が帰って行った後は、また長椅子に腰掛けて、壁とヒロにもたれて、手術室の前での長い時間が続いた。私の目からは、涙がポタポタと落ちていたけど、それを拭うハンカチも、もうグシャグシャだったし、泣いている私も、いったい何のために涙が流れているのか、判らないままに居た。
 悲しいのだろうか、悔しいのだろうか、カズくんの死が、トワの重体が。
 嬉しいのだろうか、トワの命が助かる事が。いろいろな感情が渦を巻いたまま、手術室の前の廊下で淀んでいた。
 空が白み始めた頃、手術室のドアが開いた。顔に疲労の色をにじませて出てきた先生は、それでも私とヒロの姿を見ると、優しく頷いてくれた。手術は成功だそうだ。内臓のダメージも回復するだろうし、骨折も復元するように巧くつなげたそうだ。
一つだけ意外な事を聞かされた。トワのお腹には赤ちゃんが居たそうだ。でも事故のショックで、ダメになってしまったという事だった。
「それの処置もあって、結構オペが長引いてしまいましてね。残念でしたけど、お父さんが無いままで生まれて来るのも、かわいそうですし、これも運ですね。患者さんはまだ麻酔も効いてますし、丸一日くらいは、話も出来ないと思いますよ。」
そう説明してくれる先生の脇を、眠ったままのトワが運ばれて出てきた。顔は傷も無く、いつものトワと同じだったけど、その表情は一晩で様変わりしていたし、体にはさまざまな点滴やらホースや呼吸器が繋がれているのが見えた。
 病室に運ばれ、ベッドに移されたトワの隣で、ぼんやりとトワの顔を眺めていた。安堵なのか、不安なのか、とりあえず私の手の届くところに帰ってきてくれた。そんな事を思っていた。
 看護士さんに、家族の方ですか、と訊かれ、カズくんのお母さんにしたのと同じ説明を繰り返す。ここは完全看護ですし、いろいろと支度も有るでしょうから、一度家に帰って少し休んできてはどうです、と言われ、ヒロに送ってもらって部屋に帰ることにした。
 ヒロだって、一晩中眠っていないのに、私の事を送ってくれて、ずっと気を使って慰めてくれた。部屋の前に車を停めて、部屋の中まで肩を抱くようにして連れて来てくれた。
 このまま、トワの居ないこの部屋に、一人で居るのが怖い気がして、帰らないで、一緒に居て、と、すがりつきそうになったが、ヒロにだって自分の生活があるだろうし、家族と一緒に暮らしている事も考えると、そこまでは頼れない。頼るわけにはいかなかった。ヒロも、私の事が心配だったのだろう。私がベッドに入るまで見届けて、手を握ってくれた。とりあえず帰るけど、午後にはまた来るから、それまでこの部屋で休んでいるように、と告げると、やさしく頭を撫でてくれて、そっと帰って行った。

2-4.hospital

 一眠りしても、頭の中身の整理がついてはいなかった。でも、そんな気持ちにはお構いなく、現実は流れ続けていた。本人は悲劇のヒロインだろうけど、病院にしてみれば、ただの交通事故での入院患者だ。
 午後から病院に行った私とヒロに、入院にあたっての注意事項やら規則やらの説明を書いた紙が手渡され、いろいろな書類の記入をさせられた。家族ではないのだがと、ためらっている私にお構いなく、連絡先として私の携帯番号を記入させられる。入院時の保証人の欄も、私の名前を書いた。
 カズくんの遺体は、ご両親が引き取って行ったそうだ。葬儀の準備が進められているのだろう。
 トワはまだ眠ったままだ。看護士さんが教えてくれる。意識が戻ると、痛みも感じるようになるから、点滴の中にも麻酔薬のようなものが入っているらしい。当分、栄養は点滴だけで、ご飯を食べるわけにもいかないし、おしっこだって管をつないでバッグに流れるようにしてあるから、眠って回復するのが一番良いのだそうだ。私がトワの枕元に付いていたからといって、どうにかなるものでもないのだが、二時間ほどトワの顔を見ながら、手を握って過ごした。
 ただの同居人なんだ、この子がどうなっても、私には関係は無いんだ。わざと冷酷にそんな風に考えようとしたのだが、顔を眺めていると、いままでのトワとのたわいも無い会話やふざけあった事などが、どんどん思い出されてきて、知らずに涙が滲んでくる。
 ヒロに肩を叩かれ、ふと我に帰る。窓の外は夕暮れ、トワイライトのトワの時間だった。帰ろうよと促すヒロに頷いて、一緒に病室を出た。
 食欲は無かったのだけど、何か食べなきゃいけないと、ヒロに叱られるように言われ、二人でファミレスに入り、ご飯を食べた。食べている物の味も良く判らず、ただ栄養を体に詰め込むように、コーヒーで流し込んだ。
 部屋まで送ってくれると言うヒロに、ハッピー代行の事務所に寄ってくれるように、頼んだ。昨夜もあんな時間まで、仕事も放り出して付いていてくれたのだ。お礼と経過報告をしなければいけない。
 事務所に顔を出すと、奥さん一人だった。私の顔を見ると、心配そうに
「大丈夫?お友達の具合はどうなの?」
と訊いてくれた。
社長から話は聞いているのだろう。カズくんのことも知っているようだ。私は、今は眠っているだけのトワの様子やさまざまな病院でのことを、出来るだけ明るく話そうとした。
「社長が言ってたけど、こういう時は周りの人間の方が参っちゃうから、無理しちゃ駄目よ。こっちの仕事の方は何とでも成るし、ユーリちゃんに無理させて、仕事中に事故でも起こさせたら、それこそ連鎖反応になっちゃうからね。落ち着くまでゆっくり休んでね。」
どんなに明るく話そうと振舞っても、私の表情にある影や疲れや怯えは、隠せない様子だった。
 しばらくすると、社長とユウジくんが事務所に戻って来た。待機してる合間に、事務所に連絡を取ったら、私が居ると判ったので、帰ってきてくれたらしい。
 社長の顔を見て、ずっと心に引っ掛かっていた事を、相談しようと思い立った。ヒロとも話したのだが、私にもヒロにも、決断しがたい問題だった。
「実は、手術の後で先生に言われたんです。お腹の中に赤ちゃんが居たって。それで、その事をカズくんのご両親に話した方が良いのか、黙ったままの方が良いのか、迷っているんです。」
社長も奥さんも、もちろんユウジくんも、困った顔になって、ちょっとの間言葉が出てこなかった。
「その子は一緒に居た彼氏の子供なんだよな?」
「もちろんです。トワは惚れ込んだら一途ですから、違う人と二股はありません。」
「だったら、こういう話は全部はっきりさせた方が良いんだ。なまじ良かれと思って隠すと、後でふとした事からばれた時に、余計に傷口が広がるし、ややこしくなるものだからな。彼女が目を覚ましてなんて言うかは判らんが、お前の判断ではっきりさせても良いんじゃないか。」
社長の言葉には、大人の重みが感じられた。奥さんも肯いている。
「まあ、こういう話は当事者や関係者が言うよりも、良い方法があるんだ。ちょっと相談ついでで小細工してやるよ。」
「どうするんです。」
「こういう事は、医者に言わせるのさ。本人や家族が、お腹に赤ん坊がって言っても、聞かないだろうけども、医者が、私が診察したときにって言うと、素直に聞くものなんだよ。まして、もう父親もその子も天国だからな。認知しろとか、養育費を出せとかいう問題じゃ無いだろう。」
「なるほど。さすが年の功。」
すかさずユウジくんが茶化す。でもその場のみんなが納得して、ひとつ肩の荷が下りた気分になった。
 社長にも、奥さんと同じように、ゆっくり休めと言われた。ユウジくんは冗談半分で、泣きまねをしながら
「ユーリが居なくなると、この事務所が淋しくなっちゃうから、必ず戻ってきてね」
と言ってくれた。みんなにもう一度お礼を言って、ヒロに送ってもらってアパートに帰った。

 翌日、トワの枕元で手を握っていると、トワが目を開いた。まだ口にも呼吸器が付けられているし、話をする体力も無いだろう。目の焦点が合って、私が居ることが判ると、小さく頷いて、ただ涙をこぼした。
 きっとカズくんの事も、お腹の子供の事も分かっていたのだろう。ただ涙を流しているだけだった。
 その晩はカズくんの通夜だった。私も黒い服に着替えて、焼香をしてきた。葬儀会場のセレモニーホールまではヒロが送ってくれた。このところ、ずっとヒロの好意に甘えっぱなしだ、と、ちょっとすまなく思う。翌日の葬儀にも付き合ってくれるという。
そんなに私にばかり付き合っていて、大学の方は大丈夫なの、と訊くと、優秀だから大丈夫、とニコニコして言う。本当はこの時期は、就職活動で、学生が企業訪問ばかりしているから、教授もそのつもりで居るのだそうだ。
 葬儀の日には、いろいろと悩んだが、私の名前とトワの名前と二つの香典袋を用意した。どちらの袋にも、裏の住所欄まできちんと書いて、表を染井永遠、安藤悠里と書いて並べてみた。同じ字で書かれた二つの名前、住所は同じアパートの住所だ。知らない人が見たら、どう思うのだろう。
 この前の話は、社長が本当にお医者さんにお願いしてくれた様子だった。葬儀の会場で私の事を見たお父さんは私に近づいてきて、ささやくように話してくれた。
「私たちにとって、初めての孫が居たっていう話を、お医者さんから聞かされました。息子と一緒に逝ってしまいましたけど、そういう子供が居たっていう事だけでも嬉しくてね。あのお嬢さんにも、私たちは何もしてあげられませんけど、よくしてやって下さい。」
やっぱり本当のことを話したことは、良かったんだと安心した。

 事故の相手の運転手は、警察に一晩お世話になって、次の日に、運送会社の社長という人と一緒に、病院にお見舞いに来た。話はほとんど社長がして、運転手はただ小さくなって、頭を下げ続けていた。
やっぱり不況の影響で、運送業界も厳しいとか、ちいさな会社だから、どうしても運転手も無理をしてしまうとか、言い訳のような話を聞かされた。事故の補償は保険で出るから、安心して完治するまで治療してくださいと言って、私の手に、お見舞いと書かれた厚みのある熨斗袋を手渡して、そそくさと帰って行った。
気が付くと事故を起こした運転手の声は、最初に言った、すみませんでした、の一言しか聞かなかった。
 いまさら、謝ろうと泣こうと、トワやカズくんがどうにかなるものでも無いし、あの運転手さんも、居眠りするほど疲れるまで働いて、加害者という立場で、人の死を一生背負って行くのかと考えると、なんだか悲しくなって、不思議に憎んだり恨んだりする気持ちは、湧いてこなかった。

カズくんの葬儀から戻って、病院に行くと、トワが目を覚ましていた。
「トワ、判る、ユーリだよ。」
と声をかけると少しだけ頷く。呼吸器はもう外されていて、首から上はいつものトワだった。
良かった、回復に向かっているんだ、と思うと、また泣きそうになる。トワの手を握ると、擦れかけた声で、小さくユーリと呟く。
「お姉さん。ありがとう。」
それだけ言っただけで、苦しそうに表情が歪む。
私は
「何も言わなくて良いんだよ。何にも考えずに、ゆっくり休んで、早く良くなろう。」
と、呪文のように繰り返しながら、ずっとトワの髪を撫でていた。

2-5.family

 トワが目を覚ました翌日には、トワの両親がやって来た。私が想像していたイメージ通りの両親だった。この二人が昔愛し合って、トワという娘を授かり、そしていつかまた離れ離れの家族になってしまい、今はそれぞれにパートナーを持って、家庭を作っているのかと、そんな事を考えさせられた。
お父さんは優しそうなサラリーマン風だったが、二十歳を過ぎた娘の事故、それも男と一緒の事故に、どう対応して良いのか、戸惑っている様子がありありと見えた。お母さんは、ひたすら娘の事を心配し、今後の回復とか、傷物になって嫁に行けるかとか、とりとめも無い心配を、口にしていた。
 二人並んでいると、普通の夫婦にしか見えない。この二人の見えない心のどこかに、不思議な傷が有って、その傷はゆっくりと治りかけているのだろうかと、そんな風に思った。
 トワは、最初は両親が揃ってここに現れるのが不思議そうだったけれど、そこに居る理由に気づき、ちょっとだけ母親に甘えて、泣いた。私は親子三人の邪魔をしないように、病棟の廊下の長椅子に座り込んでいた。やがて、お父さんが一人で廊下に出てきた。私の事を見ると、深々と頭を下げて礼を言ってから、隣に座り込んだ。
 親とは言いながら、こんな時にずっと付いていてもやれない。二人ともそれぞれに家庭を持ってしまったから、いまさら引き取って、近くにおいて見てやることも出来ない。そして、トワもそんなことは望んでいないだろう。こんな事を、あなたにお願いするのは筋違いだし、申し訳ないのだが、こうしてトワの傍に居て、力になってやって欲しい。何か必要が有れば、出来るだけの事はする。そのときには連絡をくれれば、何度でもここまで来るし、必要なお金なんかは、出来るだけ出すから。そんな事をぽつりぽつりと話した。
 私も、今トワを見捨てたり、離れたりする気は無いし、部屋もいつまでもトワと共同で借りて、帰ってくるまで今のままにして置くつもりだと答えた。
 お父さんは、何度も申し訳ないと繰り返し、私の手に、当座の必要な事に使ってくださいと、何十枚かの一万円札の入った封筒を握らせた。私は、受け取るわけにはいかないと言い、この前、事故の相手からもお金を受け取った話をして、そのお金も家族で持っていてくれるように言ったが、お父さんは首を横に振った。
「トワからも聞きました、あなたのことをお姉さんと呼んでいるって。私たちは、半分ずつ、トワを置き去りにして、家族の絆から逃げ出してしまった卑怯者です。いまさら、家族ですと、大きな顔は出来ません。本当の姉になったつもりで、このお金と一緒に預かってください。もしも負担なら、トワの名義で銀行にでも入れて、あの娘が元気になったら渡してやってください。」
そこまで言われてしまったので、ただ頷くしか無かった。
 ご両親はこちらに一泊して、カズくんの両親のところにも訪ねて行き、翌日も病院でトワと長い時間を過ごした。前の日と同じように、廊下に居た私に、今度は二人揃って顔を見せ、くれぐれもよろしくと何度も何度も頼み込んで、沖縄に帰って行った。
 病室に戻ると、トワはもう眠っていた。起こさないようにそっと病室を出た。

 次の朝。アパートで一人で目覚めて考えた。このままトワの事にかまけて、自分の生活を崩してはいけないと思った。トワの入院は長いことかかるだろう。自分のことはきちんと片付けて、余力の部分で、出来るだけトワに付いていてやろう。トワが帰って来るまで、この部屋もいつもと同じようにしておくんだ。預かったお金も、そっくりそのままトワに渡してやるんだ。積み上げられた洗濯物を前に、差し込んでくる午前の日差しの中で、そんなふうに考えた。
 その日から、私の行動のパターンは病院と代行の事務所とアパートの三箇所をぐるぐると回ることになった。朝起きて、身の回りのことを片付けると、トワの顔を見に病院に向かう。トワと夕方まで過ごして面会時間が終わると、代行の事務所に出勤する。電話番や書類整理をして夜中まで過ごして、アパートに帰って寝る。これが日課になった。
 代行で運転に出ようとも思ったのだが、社長と奥さんに止められた。身近に事故なんか起こしたやつが居ると、運転にも影響が出るから、しばらくは乗るな、と言われた。たしかに、ここで運転をして、かえって迷惑をかけるようなことになっても困るし、皆が言ってくれるのは私の為だというのが良く判るので、素直に従う事にした。

 トワは日々回復に向かっている。足も腕もギブスで固められたままだし、内臓も弱っているから、きちんとした形の食事も出来ない。でも、今日は水を飲んだ、今日は重湯を一匙食べた、と日々変わって来ている。ぽつりぽつりと話も出来るようになった。

 あの日の少し前に、変だなって思ったの。生理来ないな、もしかしたら出来たのかなって。それで薬局で買った検査薬で試してみたら、妊娠反応が出たの。あの日ね、ホテルで仲良くした後、その話をしたら、カズくん最初はきょとんとしてたけど、すごく喜んでた。そうか、パパになるのか、がんばって稼がなきゃって。結婚式はどうしようとか、名前はなんて付けようとか、いろんな事言ってたんだ。まさか、そのすぐ後にこんな事になるなんてね。帰りの車の中でも、シートベルトはしなくても良いんじゃないかとか、言ってたし。
新しく俺の家族が出来るんだな、なんて、しみじみと嬉しそうに言ってたの。ぶつかった時にも、子供は大丈夫か、って、そう一言言ったきりだった。私の中に居る新しい命。自分で種を蒔いた自分の子供。自分の命よりも大切だったんだよね。結局は助からなかったけど。まだ生まれていなくても、あの時から子供を持った父親になっていたんだよね。何なんだろうね、命を捨ててでも守るものって。そういうのが家族なのかな。
私の両親も来たでしょう。私が高校の時に、別れちゃったの。淋しかったけど、私のために一緒に居ても、二人とも無理してるって判ったから。家族なのにね。
染井くんとの結婚は、おままごとみたいだった。命よりも大事な家族って、そんな感じじゃ無かったしね。大好きって言いながら、自分が一番だったような気がするよ。
このあいだね、ユーリが居ない時に、カズくんの両親が来てくれたの。それでね、お腹に孫が居たんだから、うちの嫁のようなものだって。いきなり、今まで顔も見た事の無い女に、そう言うの。なんだか解らなくなってきちゃった、家族とか、血のつながりとか。結婚しただけで、いきなり家族って呼ぶのも変だよね。
ユーリの事だって、こんなに甘えて、お姉さんとか呼んでるけど、血はつながってないんだもんね。本当のお姉さんみたいに思ってるけど、ごめんね。迷惑かけっぱなしだよね。
トワイライトじゃなくて、ミッドナイトみたいな気分だよ。今はね。でも、いつか夜は明けるんだよね。どんなことが有っても、きっと、いつかは。

 私は、そんなベッドの上のトワの話を聞きながら、ただ頷いているだけだった。本当に大切なものは何だろう。大事な人が居て、危険が迫っていたら、命を投げ出してでも、手を差し伸べる事が出来るのだろうか。トワの中には、カズくんと生まれなかった子供の命が同居している。そんな風に感じた。

生活のリズムが決まって、一定のパターンが出来てしまうと、気持ちは楽になってくる。毎日、学校に通う学生のように、なぜこんな事をするのか疑問を持たずに、それが当たり前になってゆく。トワは、気持ちも安定し、とにかく回復する事だけを目標に、日々を過すようになっていった。私は、それをサポートする家族だった。
代行でも、二週間ほど過ぎた頃に、社長から車に乗るように言われた。別に気にはして居なかったけれど、運転している方が、収入は倍以上ある。社長も奥さんも、私の生活パターンを知っているから、経済的な心配もしてくれたのかも知れない。
 もっとも、社長はもっと別の事まで、考えてくれていたらしい。それは、保険会社からの保障のことだった。数箇月後に、保険会社からの一時金の支払いという連絡が有った時に、私が付き添った分の費用として、数十万の金額が明細書に入っている事に気づいた。もちろんトワには、慰謝料やら休業補償やらの名目として、もっと多額の支払いがあった。そのお金は、以前トワのお父さんが言ったように、トワ名義で作った銀行の口座に振り込んでもらった。
社長にその話をすると、それは私の時間と手間に対する保障だから、堂々と受け取る権利があるんだと、言ってくれた。トワも、私が使う分はどんどん使うように言ってくれたのだが、なんだかそのお金に手をつけることに、ためらいが有って、自分の生活は、代行で稼いだ分に、自分の蓄えを切り崩して足して、賄っていた。

 お金の話では、意外な事も有った。事故から一月程経って、アパートの管理をしている不動産会社から、連絡が入った。このアパートの持ち主が、私に会いたがっているという事だった。不動産屋で手続きをして部屋を借りて以来、持ち主には一度も会った事が無かったし、いまさら何の用があるのだろうと、不思議に思ったが、指定された時間に、部屋で持ち主を待っていた。
その時間に現れたのは、カズくんのご両親だった。 最初に葬儀の時のお礼を言ってくれて、長い話を聞いた。
 もともとカズくんの両親はこの近所のお百姓で、土地の有効利用ということで、このアパートを建てたそうだ。ローンの支払いと家賃収入とのバランスで、そこそこの収入にしかならないけれど、赤字にならない程度にはなっているということ。カズくんの保険やら、事故の賠償金やらでそのローンも返済できるし、お金に困らなくなったこと。そして、私とトワがこのアパートに住んでいる事を香典の住所で初めて知ったことなどだった。
「今になって思い出せば、息子も、少し前から結婚の事を口に出していました。きっとトワさんの事を、結婚相手として真剣に考えてたんでしょう。お腹に子供が居たっていう話も聞きました。息子も亡くなってしまって、嫁になるはずのトワさんとも縁が切れてしまったのでしょうけれど、息子がハンドルを握っていてこんな事故になってしまって、まだ入院している事を考えると、何かしてあげたくてね。」
この部屋の家賃を、無料にしてくれると言ってくれた。でも、トワはともかく、私は単なる同居人だ。トワのおまけとして、その好意に甘えるのは、申し訳ない。どうか私の分だけでも、きちんと家賃を取ってくださいと、お願いした。お互いに譲り合っていたけれど、結局は今までの半分の家賃を受け取ってもらうことで、話が落ち着いた。
本当に事故さえなければ、息子に嫁が来て孫の顔も見ることが出来たのに、と、何度もくり返し話すお母さん。顔を見る事も無く、天国に行ってしまった孫の事を、こうやって思い出にして、大事にして行くんだなと思うと、そんな落ち着いた心で年を重ねていく事が、羨ましくもあった。

2-6.work

毎日病院に顔を出し、トワに付き添って過していると、看護士さんたちとも顔馴染みになる。私と同じ位の年の人から、かなりベテランまで、女性ばかりのスタッフだから、すっかりトワのお姉さんとして、受け入れられた。
入院している患者さんも、気心が知れてくる。そうやって親しくなると、スタッフは私にいろいろと、頼みごとを持ってきたりもする。こういう所での人手不足は、よく解っているから、私も出来る事は手伝うようにした。
最初に頼まれたのは、トワの体の清拭だった。寝たきりだから、時々体を拭いてきれいにしてあげるのだ。本当なら看護士さんがする仕事なのだが、
「お姉さんにお願いしても良い?」
って、頼まれた。
熱い蒸しタオルを何枚も使い、顔や髪からはじめて、体中を痛くない程度にごしごしと拭いてあげた。トワは、胸や太腿の内側なんかを拭くのは、恥ずかしいからってためらったけれど、体から垢が落ちて、さっぱりして気持ちが良くなったので、素直に身を任せるようになった。もっとも抵抗したくても、トワは寝たきりで、身動きもできなかったのだから、逆らう術は無かったのだけれど。
私も最初はためらったのだが、二度目からは遠慮なくお尻や股間まで拭いてあげた。
容態がすこし良くなって、ものが食べられるようになると、スプーンと箸で食べさせてあげるようになったし、おしっこの管を外した後は、尿瓶でさせてあげる事もした。
病室も個室から、六人部屋に移ると、周りの患者さんとも仲良くなり、花瓶の水を替えたり、ちょっとした買い物をしたりと、いろんなことも頼まれるようになった。
どの患者さんも、それぞれに家族が来たりするのだが、会社勤めで夜しか来られなかったり、日曜だけだったり、中には一度も人が尋ねて来るのを、見たことがないような患者さんも居た。
私はどうせ昼は暇だったし、部屋に一人で居ても、手持ち無沙汰なので、掃除や洗濯を済ませると、すぐに病院に来るようになっていた。トワも顔を見ると安心するし、周りの人たちやスタッフも、当然のように思ってくれているようだった。
少し容態が良くなり、トワのリハビリが始まると、私が介護してリハビリをさせる事が多くなった。きちんと専門家が居るのだが、何人もの患者さんを相手にしなければならない。トワに付っきりの私に、やり方を教えて、これを十分間やってください、などと言って、離れていってしまう。
ちょっと手が空いた時には、私の脇に付いて、この運動をやる理由とか、どこの筋がどういう風に繋がっているなんていう事を、解説してくれた。

時々、ヒロも病院に顔を出してくれる。私に会いに来るのか、トワの見舞いに来るのかは、よく判らないが、病室でも顔なじみになった。トワといろいろな話をしたり、退屈しのぎにお勧めの本を持って来て、トワに勧めたりしている。
トワも以前よりヒロと親しくなって、いろいろな相談をしたり、私の居ない所では、私の事を話したりしている様子だ。でもそれは、妹と姉の恋人という関係の親しさだった。喜んで、甘えん坊の義妹の相手をしている優しいヒロの事を、微笑ましく眺めていられた。もっとも年で言えば、ヒロは三人の中では一番下だったのだが。
周りの人たちにもにこやかに接するヒロのおかげで、病室全体が明るくなる気がした。
「ほら、お姉さん。彼氏と妹があんなに仲良くしてるよ。うっかりすると取られちゃうよ。」
などと、隣の奥さんに笑いながら言われ、病室に笑いが広がることもあった。

トワの洗濯物は、アパートに持って帰っていたのだが、病院の洗濯機を使っても良いと、言ってくれたので、病院でもするようになった。小さな物干しハンガーを買ってきて、屋上の隅に吊るし、そこに干すようにした。
動くことの出来ないトワという固定点の周りに、だんだんと人や物が集まってくるようで、変な感じでもあった。
このまま病院内の生活が何ヶ月か、何年か、続くのだろう。それから先は、どうなるのだろう。安定した生活のパターンは、いつかはやって来るその先を、思わせずに流れて行く。とりあえずは、明日のことだけを考えて、今日を過ごす。トワは曲がらなかった膝が、ちょっとだけ曲がるようになった。私は、代行で初めてのお店に顔を出して、次からも来てねと言われた。そんな日々の事柄を積み重ねて、数ヶ月が過ぎた。

ある日、いつものように病棟に顔を出すと、顔なじみの看護士さんから声を掛けられた。チーフからお話があるから、来てもらえないかという事だった。チーフというのは、昔で言えば婦長さんで、この病棟のフロアの責任者だ。
いったい何の話だろう、私があまりにも病室に入り浸っているので、お叱りかな、なんて思ってしまった。
チーフは事務所でニコニコとして、私の事を待っていた。
「今日はお姉さんにお願いがあるの。この病棟では看護士資格を持っている人以外にも、いろんな人が仕事をしてるでしょう。お姉さん、そういうスタッフになって、ここで働く気はない?」
話を聞けば、雑用をこなすスタッフの人手が足りなくて困っていて、増員することになったそうだ。
トワが私の事を話したのだろう。こうやって毎日顔を出して、病院にも馴染んでいるし、いろんなことにてきぱき動き回る姿は目に付いていたから、ちょうど良いと思ってくれたらしい。
普通の朝から夕方までの勤務をして、シーツの洗濯やら掃除やら配膳の手伝いやらと、雑用は山のようにあるそうだ。
「給料は申し訳ないくらい安いんだけどね。正式な従業員として入ってもらえるから、社会保険だとかはしっかり付くわよ。考えて見てくれる?」
もちろんすぐにでも飛びつくような話だったが、一日だけ待ってもらった。私に出来るのだろうかという、不安も有ったし、代行の仕事やら、トワの付き添いやらとの兼ね合いも心配だったのだ。
さらに、別の看護士さんがこんな事も言ってくれた。ここでいろんなことを覚えて、資格を取れれば、もっときちんとしたスタッフとしても使ってもらえるそうだ。看護士は学校に通わなければ無理だろうけど、介護とかリハビリとか栄養士や調理師なんていう資格を持った人までが、ここで働いているのだ。
そんなおいしい話をされると、舞い上がってしまいそうだった。
トワに話すと、一も二も無く賛成してくれたし、ヒロに送ったメールにも、すぐ「良かったね」と返信が来た。
夜、代行の事務所で、その話を切り出した時も、奥さんが真っ先に賛成してくれた。
「ユーリちゃんが居てくれて、いろいろと助かってるけど、こんな仕事じゃ、きちんと生活するだけのお金も出してあげられないし、将来もどうなるか判らないでしょう。正社員として使ってくれる所があるなら、そっちに行った方が良いわよ。」
「でも、私は欲張りだから、まだここに席は置いておいてください。土日とかが休みになると思うから、来られるときには、ここに来ます。とっても大事にしてもらったから、こことも完全に縁を切るような事はしたくないんです。」
「ああ。それなら、ローテーション表の隅っこに空きがあったら、呼び出すことにするか。」
社長は嬉しいような、淋しいような顔で、ぽつりとそう言った。

3.Epilogue

そして、私はこの病院で働いている。工場の流れ作業で電気部品を作っていた派遣社員だったことは、遥か昔の事のように思える。
まだ、あれから一年が過ぎただけなのだけど、いろいろなことが有り過ぎて、そんな昔を思い出している暇なんか無い。
トワはかなり回復してきている。もう数ヶ月で退院できるだろう。車椅子から松葉杖になり、自分で歩いてリハビリルームに行くようになった。
代行の事務所には、相変わらず顔を出している。運転と書類整理が半分ずつくらいだけど、奥さんとおしゃべりをしながら過ごす時間は、これで時給を貰っては申し訳ないと思うような、楽しい時間だ。
そういえばヒロは結局、就職先が決まらなかった。いきなり針路変更して、大学院に進むことになった。いまどきは院に進むやつも多いからね、まあ、二年間のモラトリアムだよと、飄々としている。
今までも単発や短期のバイトはした事があったのだが、親の脛も細くなったからとか言って、きちんとバイトをしながら大学に通っている。バイト先はハッピー代行だ。
ユウジくんも相変わらずだが、今度はヒロと入れ違いで、就職活動やら、卒論の研究やらに追われて、多忙そうだ。
町を歩いていると、昔の工場で知った顔に会うこともある。この間は、タツヤとばったり会った。今は病院勤務だと話すと、どうしてそんな仕事を見つけたんだって、不思議そうな顔をしていた。

故郷の母は、私が帰って結婚でもするという希望をあきらめたようだ。時々、早く孫の顔が見たいと、電話が来る。ヒロが就職してからね、と誤魔化しているが、ヒロとの事は納得してくれたらしい。逆に、出来婚でも良いから、なんて言い出す事もある。

日々の仕事は目が回るほど忙しい。トワの顔を見ていられるのも、お昼休みと帰宅前のちょっとの時間だけだ。でも、同じ病院内に居るのだからと、安心してリハビリをしているようだ。
リハビリ室の先生とも、すっかり仲良くなった。トワの体を実験材料のようにいじり回して、あれこれと教えてくれることもある。そんな時トワは、おもちゃにされたと、わざとふくれてみせる。将来は療法士の資格でも取れたらいいなと思ったりもする。まあ。簡単に取れる資格ではないそうだが。
 こんな雑用でも、いろんな事が日々起こってくる。楽しいことも多いが、嫌な事も有る。患者さんも優しい人も居れば、意地悪な人も居る。でも、どんな人のどんな言葉や行いも、それなりの理由があるんだと思うと、それを許せてしまう気がする。
 縁が有って代行のメンバーとも知り合い、縁が有ってこの仕事に就けた。トワには悪いが、とてもラッキーだったのかもしれない。
 トワに、塞おじさんの馬かなって言ったら、わらしべ長者じゃないのって、笑った。
洗濯物を干しに病院の屋上に上がって、頭の上に広がる空を見上げる。あの日、河原で眺めたのと同じ空が広がっている。
私も、あの時の気持ちを思い起こす。
そして、おまじないのように、自分自身に言い聞かせる
「ユーリ。明日も晴れるよ!」


            了

ユーリ、明日も晴れるよ!

とある文芸賞で、500程の応募作品の中から最終審査の10作にまで残った作品です。(残念ながらそこまででしたが・・・)
家族というもののあり方、恋人同士の距離感、女同意の友情、仕事とか生活とか、いろいろな事を詰め込んでみました。
いかがだったでしょうか?
感想でもお聞かせいただければ幸いです。

時代背景は2009年頃、景気が下り坂で、派遣切りが世間で騒がれていた頃の話です。
モデルとなったのは、私の会社に派遣で来ていて、このストーリーと同じように派遣切りで居なくなった「マーコ」です。
彼女が「派遣が主人公の話を書いて!」と言った事から、このストーリーが出来ました。
その後、元気にしているでしょうか? 今でもちょっとだけ気になっています。

ユーリ、明日も晴れるよ!

派遣社員のユーリは、「派遣切り」で職を失う。さまざまな人との関わりの中で、自分の居場所を探し成長して行く一人の娘。友人の妊娠、事故、死などを乗り越え、自分の世界を切り開いていく娘のストーリー。人と人の絆、夫婦や親子の絆、友情を描いた作品です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1-1.Yuuri
  2. 1-2.Tatsuya
  3. 1-3.Towa
  4. 1-4.Hiro
  5. 1-5.Yuuri
  6. 2-1.looking for
  7. 2-2.job
  8. 2-3.accident
  9. 2-4.hospital
  10. 2-5.family
  11. 2-6.work
  12. 3.Epilogue