猪瀬笑子の誕生日

 病院の廊下。ベランダから落ちるなんて、自分から落ちたとしか思えない、と看護師が小さな声で話すのが聞こえてくる。きっと僕の妻の事を言っているのだろう。そう思うと、腹が立つと同時に何だかいたたまれなくなる。家庭内の問題だ、と噂話にでもなっているのだろう、と思えてくる。あなたたちの話の肴になるために妻は生きてる訳じゃない。
 病室に入る。四人部屋の窓側。カーテンを開けて部屋に入ろうとすると、ブラウン管のような機械が立ちはだかり邪魔をしている。画面には数字が表示されている。上から、128、112/64、97。それぞれ、脈拍、血圧、酸素濃度の値を示しているらしい。昨日の妻に聞いた。
 昨日と変わらず、ベッドに妻は横たわっている。どうやら眠っているようだ。すう、すうと寝息が聞こえる。僕は椅子に腰かけ、妻の寝顔を眺める。以前よりも少し痩せたようにも見えるが、元々が太り気味だったためか、ふっくらとした輪郭は残っている。かえって健康的にさえ見える気がする。そう言ったら怒るだろうな、と考えると、自然と自分の顔が綻んでくるのが分かる。両足首より先はまだ包帯でぐるぐる巻きで痛ましい。でも、この足から落ちてくれたおかげで彼女は助かったのだ。そう思うと、この腫れ上がった脚にも感謝の念が湧いてくる。良く生きていてくれた。僕を一人にしないでくれた。少し涙が出る。そっと彼女の右手を取る。少し冷たく感じる。いつだったか、看護婦が「点滴をしているから手足の末端は冷たく感じますが大丈夫です」と言っていたのを思い出した。
 ベッドサイドの柵に両手を横に組み、そこに自分の顎を乗せる。この体勢が、彼女の顔を見るのに一番良い姿勢だった。すやすやと眠る彼女の顔を眺めてながら、色々なこれまでの事に思いを馳せる。一緒にフィンランドに旅行したこと。ディズニーランドの絶叫マシンで、彼女が小さく「もうダメそう」と言ったこと。結婚式の当日に、彼女が忘れたコンタクトレンズを家に取りに帰ったこと。三月だが、窓からは日差しが暖かく降り注ぐ。こうしていると、一種の幸福感に包まれてくる。幸福感。彼女が回復してもいないのに、この思いは何だろうと思いながら、苦笑交じりの溜息をついた。
 「う、ん~ん・・・」
 彼女が目を覚ました。目を擦って、また眠ろうとするが、僕に気付いて手で何かを探している。眼鏡だろうか。ベッドサイドに置かれていた眼鏡を彼女に手渡す。何を話そうか。話題を探している僕に対して、彼女は少し訝しげな目をしている。何か気に障ることをしてしまっただろうか。そう気を揉む僕に、彼女はこういった。
 「・・・失礼ですが、僕に何か御用ですか?」
 何か御用か、と問われて、僕は考えてしまった。僕は妻の見舞いに来た。だが、実際は自分の事ばかり考えて悦に入っているだけの状態だ。僕がまごついていると、
 「もしかして、保険の方ですか?」
 そう妻が言った。
 保険の方。そうか。この妻にとっては、僕はそうなのかもしれない。保険の方、保険の方。良く見ると、妻とは違う人に見え始めた。
 「そうなんですよ、奥様。実はこの度の件、事故という事で書類が通りそうなもので、お見舞いがてら足をお運びしたんですよ。お休みのところ、大変失礼いたしました」
 そういうと、僕は前もって用意していたらしい書類と、お見舞いとして用意していたコージーコーナーのシュークリームをベッドの上に優しく置いた。しかし、この妻の視線は訝しげなままである。
 「そんな、この前は自分から落ちたから保険の適用外だってはっきり仰ったじゃないですか。あなたとは違う方でしたけど・・・そうだ、青木さん。名刺だってあります。」
 名刺を突き出す妻に、僕も負けじと名刺を渡す。青木さんのもの、として出された名刺とは少し違うデザインの名刺である。それにしても、見れば見るほどに見た目が妻とはずいぶん違うという事に気づかされた。
 「青木は私の同僚なんですよ・・・実はあれから社内で審議を重ねまして・・・事故、として適用することに決まりそうなので、その報告に来たんですよ。」
 名刺には僕の名前、猪瀬和也の名前が印刷されている。少し彼女の顔に喜びが浮かんだようだ。誰なんだこいつは。
 「竹田さん。検温の時間です。・・・あら、お客さんですか?」僕を見ながら言う。
 「ええ、保険会社の・・・ええと。」
 僕の渡した名刺に目を落とし、「猪瀬さんです」と答える。
 「では、竹田様、僕はこの辺で失礼いたします。後は青木に連絡ください。」
 すっかり姿の変わった『竹田様』に挨拶をして、病室を後にした。
 家に着き、仏壇を開ける。坊主には「未練が残るので置かない方が良い」と言われている写真の中の妻。僕は彼女に報告する。
 「今日もえみちゃんには会えなかったよ。どこに行けば会えるんだろうね。」
 妻、猪瀬笑子は一月一九日に他界した。そんなことは知っている。彼女の最期を看取ったのは、僕なのだから。いや、看取った、というよりも、僕は、僕が殺したと感じてさえいる。妻を辛うじて生きながらえさせていた、人工呼吸器を止める指示を医師に求められてしたのは、他ならぬ僕である。
 線香に火を灯す。線香の明かりに照らされる彼女の顔は、まるでバースデーケーキのろうそくの火に照らされているようだった。

猪瀬笑子の誕生日

猪瀬笑子の誕生日

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-25

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