地獄のがれ

クリスチャンは○○でなければ天国に行けない。信じるだけでは救われない。収入の10パーセント以上を献金する義務がある。
「信じるだけでは救われない。信仰には行いがともわないければならない」
クリスチャンは永遠の刑罰を最も恐れている。無限の苦痛が永遠に続く地獄に落ちないために、必死になって、あらゆる誘惑と戦い続ける。
その戦いに疲れると、たいていのクリスチャンはキリストを否定する。キリストとの関係を断ち切る。それは決して赦されない罪になるだろう。離れた人は礼拝に出るように。
最も重い罪は殺人でも姦淫でもなく「聖霊に逆らう」罪。

結構、かなり重い内容を小説の形で書くので、自分のような若輩者がそんなことを言う権利があるだろうか?と自問します。でも自分に言い聞かせるために書きます。反省の意味と、今後も続けて日曜日に礼拝に行けるように、願いを込めて。 

旧約聖書のイスラエルの民のように荒野で苦渋をなめる前に、辛酸な思いをする前に、教会の礼拝にちゃんとでるように。
最低でも月に最低でも1回か2回、日曜日の礼拝に出て、世の人の快楽や不道徳な誘惑に溺れないように願います。礼拝がつまらなければ、礼拝堂の片隅で居眠りしてもいいじゃないかと思う。

キリスト教、いろんな宗派(教派)がある。
クリスチャンだからアニメを見てはいけないと、ある伝道者から白眼視されたみたいなので、(犯罪者を見るような目で見られたので)それを元に小説とエッセイを書きます。
(FaceBookの友達リンクがいつのまにか切られたので)

クリスチャンは・・・でなければならない思考。戒律だらけ

キリスト教にも戒律がたくさんあります。
だから、決して「信じるだけで救われない」のです。

初詣に行ってはいけないとか、お通夜でお焼香を触ってはいけない。そして、最も厳しい戒律が、給料の10%を教会に献金する義務。そして、強い自制心をともなう女性を欲情の目で見ないこと。
キリスト教の教義に対して疑問をもつこと。一つでも疑問を持てば、地獄に落ちる。一つでも戒律を守れなければ、地獄に落ちる。そう考えると誰もキリスト教なんて続かないと思う。

はじめは、「信じれば無条件で救われる」と思うが、奉仕活動に、さまざまな決まりごとを守ることで、疲れてしまう。
特に人間関係なんかで、疲れを感じる。


ネットの発達で、ほとんどの若者はキリスト教会に行くことを強く拒絶するようになった。キリスト教会から多くの若者が去った。

「日曜礼拝は、金曜日の夜からはじまっている」
 これは自分の考えである。
「聖書を読まないといけない」
 クリスチャンになると、○○をしなければ思考に陥る。たいていの場合、疲れて教会に通う意思を失う。
「会社の仕事が仕事が忙しいから」
 でも、本当のことを言うと、教会の宣教師のお話がつまらないから。
 その時、自分にたいして、問い直す。
「本当に自分は神様を求めているのだろうか?」

 日曜礼拝に出る。前日、用事があり帰りが遅くなった。早めに寝ても疲れがなかなかとれない。
「気合をいれないと」
 日曜礼拝に出て、宣教師の話を一生懸命聴くが頭に入らない。メモをとるが、書いていても頭に入らない。
 それを、もう一度、読み返しても、何を言ったのか細かいことは、どうにでも良くなる。要点だけを絞る。


 ときどき、日曜礼拝をお休みしたくなる。礼拝に出たいという気持ちがなくなる。正直、おもしろくも楽しくもない。
 途中で賛美歌のひとつでも歌えば、気が落ち着くし気分転換できると考える。

 「信じるだけで救われる」は大嘘。
 聖書では、そう書いている。信じれば誰でも無条件で救われる。その人の努力で救いを勝ち取るものではない。
 自分の考えが、まとまらない。なんのためにキリスト教会に毎週、日曜日、教会に行くのだろうか。


 神様の存在を確信したのは、不思議な体験から。それ以来、神様、イエス様が、どんな状態でも否定できなくなった。熱心に祈った結果。でも、クリスチャンになったのは、それから十数年後のことである。確かに純粋培養されたクリスチャンからみれば、堕落していると思われてもしかたない。20年近く迷い続けた結果、この世の悪を知ったからである。

 気が乗らない時ほど、自分は極力、早めに教会に行き、教会学校に出る。教会学校は、たいへんありがたい。礼拝前に心を清めてくれる。
 疲れて行きたくない。また、自分がふさわしくないと思うとき教会の礼拝に行きたくなくなる。でも、その時こそ、なるべく早く教会に行く。


 「行い」については、インターネットではカルトとみなされる。最も憎まれるのが中途半端な主義主張である。だから、福音派的なクリスチャンが最もネットで憎まれる。
 適当に、信じたから何をしても天国に行けるという甘言を述べ伝える牧師は、正常な人とみなされる。だから「正しい生活をしなくても天国に行ける」と、聖書のいろんな箇所を使って、一生懸命になって説得させる。説得すれば教会に通うのがバカらしくなる。今後、二カ国語での礼拝が普通になるだろう。英語と日本語を入り交えての礼拝が。徐々に外国人のクリスチャンの比率が上がると予測される。神様を信じても教会に通わないクリスチャンが徐々に増え続ける。「良い行いができるように」と祈るだけで、カルトとみなされる。


 確かに「文字は人を殺す」のは間違えない。文字でいくらでも人を傷つけられる。行いがなければ、信仰とはいえない。信仰を失ったとき、辛酸な思いをする。そうならないためには、神様に祈り悔い改め、教会の礼拝にでる必要があると思う。そう言うと偉そうで反発を感じる。自分のような若輩者が、そんなことを言える義理がないかもしれない。


 「甘言にだまされなように」それを言えば、同じクリスチャンから反感を買う。カルト思考を持っていると思われてもしかたない。

 その意味で、キリスト教でも聖書を文字通りに信じる人たちを狂信者あつかいする人たちも多くいる。
 それについては、別の機会でのべる。

事実と空想の区別を フィクションとノンフィクションの違いを

 事実と空想の違いを表示するのは、一人称が異なります。
 
 「私」という言葉を使う場合、これは悲観的な物語、悲観論による未来小説に使います。
 「僕」という言葉を使う場合、これは楽観的な物語、楽観的な近未来小説に使う一人称です。
 どちらもフィクションに使います。

 「自分」という一人称を使う場合は、事実に基づいた文章です。
 自分の視点から見た、ノンフィクション作品に使う一人称です。

 たとえば、自分が通った高校が、東京都武蔵野市あった私立高校に通い、その高校を卒業したことが事実なのに、見栄を張って都内の偏差値が高い都立高校を卒業して、国立大学を卒業したと言えば、嘘になります。

 空想力を働かせて、国立大学を舞台にした物語の場合、一人称は「私」か「僕」を使います。
 現実を扱う場合、「自分」という一人称を使います。だから「自分は、埼玉県の私立高校を卒業した」という事実があるわけです。

 いろいろと、複雑な事情もあり、また、自分に対して誤解や不利な状況に置かれないために、沈黙するべきことも多々あります。また、話がこじれないように注意するべきだと思います。

 ここから、はじまるのはフィクションではなくノンフィクションです。
 空想話に走らず、自分の見栄、自分の武勇伝ではなく、自分の経験にもとづいた話をしたいと思います。


自論ですので、いろいろと批判や反論があると思います。
 自分が、クリスチャンになったのが1998年9月です。

 はじめてキリスト教会に訪問したのが、1997年12月20日です。クリスマス礼拝です。
 日曜日のクリスマス礼拝が終わったあと、ある年配の人から声をかけられました。
「きみ、午後の愛さん会にでないか」
「都合があるのででられません」
 その初老の人が言う。強引な態度で。
「お昼を食べるだろう。クリスマス愛さん会に出ろ」
 強い口調、命令口調で言われて、このキリスト教会は大丈夫なのか心配になった。クリスマス愛さん会にでて、多くの食事があるけど、あまり、話をしてくれる人がいないので寂しかった。


 それから、次のとし、2月から求道者としてキリスト教会に通う。夏、英会話教師があり、愛さん会のとき宣教師の前で、強制的に英会話教室に出るように言われた。
「なぜ、この人は何の権限で、自分に英会話にでろと命令するのか。ちょっとおかしいじゃないか」
 自分は、疑いの気持ちを強く感じた。
「もしかしたらキリスト教の看板を借りたカルトではないか」
 自分は、そのような危機感を感じたが、いろいろとあり、だれに強いられたわけでなく洗礼(バプテスマ)を受ける決心をした。


 「いろいろとある」ということで、詳しい事情はカットさせて、ここでは「空想と事実の違い」だけを述べます。

 匿名Oさんという初老の人がいました。その人は、自分がキリスト教会から一時期、離れたとき、いつのまにか教会に来なくなった人です。で、かなりインパクトある人です。
 空想と現実がごちゃになった人です。だから「私は神学校を出た」とか「博士号を持っている」など、ちょっと変わった人なんです。なお、正直なはなし、そのような人が教会に来なくなってよかったかもしれません。どこのキリスト教会でも個性が強い人がいて、求道者をつまづかせ信仰の道へいたらせないからです。自分もつまづきを感じました。


 最も驚いたのが、日曜礼拝のとき、下手な英語でお祈りをしたことです。別に誰も外国人がいるわけではなく、中学校の英語の授業で、たどたどしい発音で英文を読むような感じでした。
 これは、おかしいと思って、さらに、2001年の横浜の某教団の牧師の話「自殺問題」を聞いて、ちょっとどころではなく、かなりやばいとおもって徐々に、自分が洗礼を受けたキリスト教会から離れてしまいました。これは「カルト」だと思いました。まともではない。だから、もう教会に行かないことにしました。

 インターネットの発達で、現在は教会に全く行かない自称クリスチャンらしき人々による、魔女狩りでなく、カルト刈りが現在でも熱心に行われています。
 その攻撃の目標が、福音派です。「聖書は神の言葉である」が受け入れられない。信じられない人たちで、たぶん、行いそのものを全否定しているから、全然、神様に祈らない。全然、聖書を読まないから、キリスト教の教義の一部だけ、表面上のことしかしらない。だから、言い訳をして教会に行かない理由を述べて日曜日に礼拝にでないのです。

 そんな言い方は、とても厳しいですね。
 自分も、いつかは教会に通わなくなる日がくるかもしれません。

 事実を正直に書きました。

 とにかく、嘘をつかないこと。見栄を張って、学歴を偽ること。また違えた過去について述べることはやめるべきです。

「いつかは教会に通わなくなる日がくるかもしれません。」について。日曜礼拝にでるのは、気合を入れないと

 キリスト教信仰生活には、熱心になればなるほど、躓きがあります。
 キリスト教信者として教会に通うことは、不愉快なこともたくさんあります。「たのしいことしかない」「辛いことなんてない」というクリスチャンは大嘘つきです。商業的なキリスト教会、利権・営利目的のキリスト教会もあります。そのようなキリスト教会は、昔も今も多くの人たちが通っています。当然、お金が必要なので、マラキ書の最後を引用して、十分の一献金を義務付けます。
 
 十分の一件金なしで、キリスト教信仰とは言えない。自分が働いた給料の10%以上を、教会の牧師のために支払う義務です。それをやらないのはクリスチャンではないから、死んだら地獄に落ちるといって過言ではありません。
 イスラム教のムスリマ、女性信者の義務として、髪の毛を完全にスカーフで隠すのと同じです。それをしないムスリマは存在しません。髪の毛を隠さないムスリマが、この世に存在しないように、十分の一献金を収められないクリスチャンも存在しないです。十分の一件金を収めないと、自動的に洗礼を受けたことが取り消しになり、死んだら魂は自動的に地獄に落ちるのです。

 これは極端な言い方ですが、献金にこだわる牧師もいるのも事実で、逆に献金を収めると経済的に祝福されると証(信仰体験談・神様がいることを証明する話)をするクリスチャンが、日曜礼拝でお話します。

 キリスト教の十分の一件金は、イスラム教の女性信者の髪を隠すのと同じことなのです。どんなに正しい生活しても、キリスト教では十分の一献金を収められない。収めない人は自動的に地獄に落ちると脅す牧師もいるので、献金のことについて、牧師とよく相談するべきです。

 商業的なキリスト教会の場合、楽しいイベントが盛りたくさんだから、自然と人が増えます。

 でも、ここから本題に入りますが、自分が通っているキリスト教会は、商業的な教会ではありません。だから、働き盛りの若い人も少ないし、いろいろと、ここでは言ってはいけない話もあるので、教会の事情は述べません。


 現在、熱心に教会に通っても、いずれは、教会から離れてしまう日が来るかもしれません。
 仕事が忙しいとか、疲れがとれない。または、親の介護の問題もあり、さらに歳をとれば健康上の理由で、行きたくても行けないということもあります。

 それに、信仰生活を支えてくれた宣教師がいなくなったとか、牧師、伝道者と相性が悪いとか、人間関係で気まずくなったなど、いろいろと理由があります。逆に奉仕する機会を失うのも大きな打撃です。お客さん扱いされる。または、愛さん会(昼食会)のとき、自分だけが孤立するとか、精神的に病んでしまって、みんなと一緒だと不安を感じる場合もあります。

 みんなと一緒が嫌だという人もいるかもしれません。

 あとは日曜日に仕事しなければならなくなったとか、極端に仕事の量が増えたとか、経済的な理由で日曜日に働かないとならない場合もあります。
 牧師をすれば給料がもらえる立場以外の人は、皆、いつかは教会に通わなくなる日が来るのです。

 大事なのは、献金よりも自分を捧げる行為。すなわち奉仕を喜んですること。誰かに褒められたり、みんなの賞賛を受けるために、自分の誉れや栄光のために奉仕するのではなく、神様の栄光のために、奉仕すること献金をすることが大事なんです。


  教会に行かなくなる日、それは、いつになるのかわかりません。でも、少なくとも自分の未来は、ある程度、自分でコントロールできます。そのような未来が来ないために、神様に祈ることが大事です。



 他にも、言いたいことがたくさんありますが、それは、次回、書き込みます。

地獄のがれ

信仰が強いクリスチャンが最も恐れているのが、永遠の刑罰。すなわちサタンと永遠に地獄で暮らすこと。

クリスチャンの本音。それは生き方とか神様との関わりよりも、神様の機嫌をとるためにキリスト教の戒律を守る。
天国に行ければ、そのあとは何をしてもいいのだろうか?

誤った熱狂的キリスト教信仰にたいして強い口調で批判します。

純粋培養されたクリスチャンとは?いろんな悪い遊びをしてからクリスチャンになった人との文化的ギャップ。

つねに緊張がしいられるキリスト教信仰。求道者から過剰な期待をされる。
熱心なクリスチャンでも、同じ人間である。
漫画も読むし、テレビドラマも見る。映画を見に行く。娯楽も必要である、同じ人間である。
だが、「行いがともわない信仰は虚しい」「情欲を抱いて女性を見ることは姦淫を犯している」などは、重い罪悪なので悔い改めたいと思います。
決して信じるだけでは救われない!でも、救いのためのみなら、これも、ちょっと違うのではないか?勉強不足なので、間違えた意見も多々ありますが、よろしくお願いします。

疲れても這いつくばってでも、日曜日は教会に行くべきだと思うが、「心が熱くても肉体が弱い」ので、疲れたら教会をお休みしても仕方ない。でも、キリストだけは否定しないようにお願いします。

地獄のがれ

キリスト教も、もし無差別自爆テロをしたら、マザーテレサの影響を失う。良い印象をなくす。 逆にキリスト教徒に対して過剰な期待をすれば、人に躓く。 自分から見たキリスト教の信仰について批判的な論調を小説風に書きます。 疲れても這いつくばってでも、日曜日は教会に行くべきだと思うが、「心が熱くても肉体が弱い」ので、疲れたら教会をお休みしても仕方ない。でも、立ち直ったら来てください。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-25

Copyrighted
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  1. クリスチャンは・・・でなければならない思考。戒律だらけ
  2. 事実と空想の区別を フィクションとノンフィクションの違いを
  3. 「いつかは教会に通わなくなる日がくるかもしれません。」について。日曜礼拝にでるのは、気合を入れないと