通り過ぎた海辺

 一

俺が此処に来て既に一年が過ぎていた。毎日毎日何もせず、唯、突っ立っている。背中の向こう側に氷見の海が拡がり、今日もまた何時ものように快い小波を寄せていた。七月に入り、日中はぎらぎら輝く太陽が照り付け、夜は海からの潮風に晒され、腐り始めている俺の足下は少しだけ衝撃が加えられると壊れそうである。都会の大通りで何年もの間排気ガスを浴び、挙げ句の果て、引っ越し先が海辺であり、生きている間は予想もしないことの連続である。俺は製造されては人間たちに利用され、役目が終われば潰されてしまう用無しの自動販売機である。俺の意思も存在も関わり無く、所有者の意のままであり、何時、何時(なんどき)廃品にされるか分からない。
 今から丁度一年前のことだった。二人の若者が突然やって来て俺を此処に連れてきた。自動販売機の俺は、文句を言うことも抵抗することも出来なかった。しかし考えてみれば始めから手も足も無かったのである。況して口を利くことなど出来ない始末である。

これから用済みになるまでの一年間、俺の近くで交わされた人間模様について語りたいと思う。俺の周囲には誰も居ないので案外人間たちは本音を吐露する。人前では警戒心を持ちながら調子良く振る舞う人間も、誰も居ないことで安心するのだろう。
 連日雨が降り続いていたが、六月も終わりに近い蒸し暑い日の午後のことだった。
「こんなにポンコツだとは思わなかった」
 と、俺を叩きながら声がした。
「未だ一、二年は使えるかも知れないと言っていたが、処分すれば良いものを!!運び賃と修理代の方が掛かるだろう」
 三十歳位だろう年上の男が俺をジロジロ見回しながら言った。
「引っ越し先は氷見の海岸だって言っていたけれど、景観にそぐわないと思いますが?・・・」
 と、若そうな男が相槌を打った。俺は俺であり、余計なことを言われる筋合いは無いと思った。
「何故新しい販売機にしないのか理解に苦しむ。古い物に未練があるのか、古い物ほど価値があると思っている頑固爺だろう」
「これで商売しようって言うのだから弱りましたね」
と、言って若い男も俺を蹴った。
「客だって新しい販売機から買った方が良いだろう」
 確かに排気ガスで汚れていた。それに、野晒し状態だったので足下は錆び付いていたが、手入れが悪いのであって、モーターは正常に動いている。価値は、価値がある間は必要とされることが分からないのである。しかし、若い二人に古い物の良さなんか分かる筈もなく罵詈雑言を吐いていた。
「運び賃は前納されている。取り敢えず仕事だけは遣っておくとしよう」
 俺はトラックの荷台に載られロープで固定された。「さて、行くか」と、声が聞こえたかと思った瞬間トラックは動き出した。氷見と言っていたが、行き場所も方向も分からなかった。数時間走ると行く手に海が見え始めた。初めて見る海だった。要するに海までのドライブだと思えば良かったのである。しかし車の数や家々も少なくなってきた。右手に海、左手に野原や丘陵地帯が拡がり、排気ガスに悩まされることも無いだろうと思った。それから三時間ほど走った後、荷台から下ろされ海岸が見下ろせる高台に設置された。
「これで良いだろう」
「一応安定感もあります」
「今度は潮風に晒され完全に錆びるだろう。一年は持たないかも知れないな!」
 と、年上が言った。
 排気ガスから逃れ、のんびり出来るだろうと思っていたのに予期せぬことを聞いた。
「此奴の運命も後一年ですね」
「その時は面倒だから海の中にでも放り込むか・・・」
「そうしましょう」
「呆け販売機のお陰で一日潰れてしまった」
「捨てれば良いものを、後生大事に取っておく気持ちが知れない」
 何を言っている。俺のお陰で今日一日仕事があったことを忘れ、二人は捨て台詞を残して帰った。

 モーター音は快く響いていた。
 俺は二人の言ったことを考えていたが、最後は海の中に溶け、元の物質に戻るのも乙なものかも知れないと思った。生まれて来たからには何れ死んでいく。長いか短いかだけのことで、仕合わせ、不仕合わせなど取るに足りないことである。
 夕暮れが近付き、陽が山の方に沈んでいった。都会とは違い、静かな夜に生まれて初めて聞く波音がしていた。しかし、海は俺の背中側にあったので、その日から波音だけを聞きながら過ごしたことになる。波の音を二十四時間聞きながら、結局俺は最後まで海を見ることはなかった。
 六月も終わり七月中旬になっていた。業者は缶ジュースの入れ替えに時々来ては、「売れないな!」と呟き帰っていた。その頃を境に俺の体内に滲み入るような暑い日が何日も何日も続いた。一日中突っ立っているだけの生活にウンザリしながら、何故か、過ぎてしまった日々や俺を此処に運んできた連中のことを懐かしく思ったりした。
 能登半島は、この季節が一年で一番良いと言われている。そんな夏の朝から雲ひとつない日曜日であった。子供たちを乗せた軽自動車が俺の前に停まった。子供たちにとって楽しい夏休みが始まったようである。
「わっ、綺麗!!」
 と、小さな女の子が言った。未だ小学校一、二年生の、お下げが可愛い子だった。
「早く海の方に行こうよ!」
 と、男の子が言った。三、四年生位だった。
「ねえ貴方、素敵な所ね」
「ああ、そうだね」
 と、亭主が素っ気なく応えた。そして、腹の中でこれが最後の旅行になるだろうと思った。子供たちは海辺の方に走っていった。
「気を付けるのよ」
「海の中に入るな!直ぐ行くから」
 夫婦と言うものは、現在の関係に関わり無く瞬間的に子供たちに対して同じ様な思いを持つようである。
「ねえ、どうするの?」
「こうなったら別れるより仕方がないだろう」
「そんなこと言っても子供は小さいし、簡単に別れることなど出来ないわ」
「俺が出て行くから良い」
「子供のことは?」
「教育費は送る」
「生活費は?」
「送るから大丈夫だ」
「信用出来ないわ」
「離婚調停で条件を提示すれば良い。俺は全て受け入れる。それで良いだろう」
「何故そう思ったの?」
「理由を聞かれても良く分からない」
「嫌いになったの?」
「一緒に居る意味が無いからだろう。今の仕事は続けていく。そうしなくては教育費どころか生活費を出す訳にもいかない」
「貴方、何か遣りたいことがあるの?」
「何も無い」
「子供が二十歳になるまで働いて、その後は?」
「先のことまで考えるようなら別れる必要はない。俺にもどうして良いのか分からない」
「私と居ることに意味がないから別れるのね?」
「お前は一緒に居たいのか?」
「居たくないわ、男と女なんて一緒に暮らしても疲れるだけ。私も仕事を続けていく」
「仕方が無いだろう」
「生活することも生きることも易しいようで難しい」
「齟齬がある訳ではないが、こう言う結果になってしまった」
 子供たちは海岸で遊んでいた。両親の内面を知ることも無く、これから先、どの様に変わっていくのかも知らなかった。海からは心地良い潮風が吹いていた。
「貴方、別れた後直ぐ結婚するの?」
「否、一人で暮らそうと思っている」
「そうね、恋人がいる様子もないしね」
「結婚して今年で十年目か・・・」
「そうね、早かったのか遅かったのか十年経っていた」
「男と女が結婚して子供を儲け別れて行く。他人の話をしているように思っていたけれど、俺たちも、こんな風になるとは思ってもいなかった」
「私も歳を取って、これから先、何が待っているのか分からない」
「結婚すれば良い」
「二人の子があって、貰ってくれる人なんていないわ」
「呼んでいるから行こう・・・」
 二人は海岸に下りていった。
 二人の話を聞いていても皆目見当が付かなかった。別れても仕方が無いなら一緒に居れば良いし、嫌なら別れた方が良いと思ったりしたが、要するに結婚して生活することは難しいと言う以外にない。人間は目的が無ければ生きられないのか、目的が無いから生きることが出来るのか、未だ三十歳半ばの夫婦である。結婚したきっかけも、生き方も、生活していくことも、また偶然のような気がした。憎しみや、男女間の縺れも無いようである。別れて暮らすには丁度良いのかも知れない。しかし互いに目的がある訳でも無く、今までの生き方を変える訳でもない。同じ地域で別々に暮らすことでしかない。
 暫く海岸で過ごした四人が戻ってきた。
「ねえ、また来ようね」
 と、子供たちが飛び跳ねながら言った。
「暑くなり始めた!」
と、夫は関係のないことを言った。
「もう一度考え直すこと出来ないかしら?」
 と、女は独り言のように言った。
 家族は車に乗り込むと氷見市の方に帰って行った。旅行の始まりではなく終わりの情景だった。夫婦の関係や、男女の関係は当人たち以外には分からない。
 太陽が沈むまでに時間があった。俺は突っ立って居るだけの人生を何と感じているのだろう。無為な時間が過ぎていた。

 二

 八月に入り夏の暑さが続いていた。午前中は海から吹く北東の風により過ごし易かったが、午後は風も止み正面から灼かれた。しかし俺のモーターは快調に回り、快い響き音を保ち、この分では直ぐ壊れることも無いだろうと思った。
 昼時二、三台の車が停まっただけで、炎天下出歩く人の数は疎らである。そんな最中の午後のことだった。初老の夫婦らしき二人が車から下りてきた。
「爽やかなこと!」
 妻らしき女が言った。加齢が暑さを感じさせないのか、体質的にそうなのか分からなかったが、茹だるような暑さを爽やかだと表現した。
「良い天気だ。でも、車の外がこんなに暑いとは思わなかった」
 夫の方は幾分腰が曲がり猫背が目に付いた。顔にはそれなりの皺が刻み込まれ女より白髪が目立った。
「もう終わりね」
「もう終わった」
「何も遣ることが無くなってしまったわ」
「子供たちも結婚して、来春定年退職を迎えて、もう遣ることがない」
 妻は別のことを訊いた。
「長いこと一緒に居て、こうして旅行が出来たの何年振りかしら?」
「二十年位になる」
「子供の為、家の為に働いて、自分のことなど考えたこともなかったわ」
「仕方がないだろう」
「これから、どうなって行くのかしら?」
「老いて、どっちが早く死ぬかだろうな・・・」
 と、夫は素っ気なく応えた。
「たったそれだけ?」
「これから先、新しい仕事をする訳にもいかない」
「年金で細々と暮らして行くの?」
「退職金に手を付ける訳にもいかない。何時お金が必要になるか分からないし、残して置かなくてはならない」
「外国旅行も出来ないし、季節外れの公営宿舎に泊まるしかないのね」
 と、妻は皮肉っぽく言った。夫は日頃からそんな皮肉にも慣れていたのだろう顔を顰めることもなかった。
「八月だから季節外れはないだろう」
「そうね」
 と、今度は妻が素っ気なく応えた。
「四十年間働いて、家一軒建てることも出来たし、病気もせず働いてきたことに感謝しなくてはならない」
「歳を取るって早過ぎるわ、私、まだ遣り残してきたことがあるような気がする」
 女と言うものは自己中心的に考えるだけであって、何故、男の気持ちが分からないのか不思議な気がした。俺は喋る訳にもいかなかったが男の気持ちが哀れに思えてきた。
「四十年間よく働いてきた」
「でも、年金だけの生活って心細いわ」
 と、女は尚も同じことに拘っていた。
「お墓も買ってあるし何れ長男夫婦も家に戻って来るだろう」
「そうかしら、亜紀子さん強そうよ」
「帰って来ないなら来ないでも良いじゃないか、若い者は若い者同士上手くやっていけば良い」
「これから段々年老いて、動けなくなって、嫁は世話をしてくれるのかしら?」
「そんなこと考えても仕方が無いだろう」
「これからのことを心配しているのに分からないの?」
「そうなったら老人ホームに入れば良い」
「私は嫌だわ、死んだ方が増しよ」
 初老の女の意地汚さを見せていた。全く情けないと思う。この男は四十年間も我慢してきたのかと思うと哀れで嫌になってきた。張り倒してしまえば良いのだ。自分の都合の良いようにしか考えず、何時でも自分を中心にして物事が運んで行かなくては納得しない部類の人間である。
「明日も晴れるかしら?」
「悪くなると言っていた」
「折角の旅行なのに、天気が悪くなるなんて付いていないわ」
「それも仕方がない」
「貴方はそう言って、何時も自分の都合の良いように考える」
「仕事をしていてもどうにも成らないときがある。此処まで来られたことに感謝している」
「やっと生活出来る給料で家計も苦しかったわ、私がパートに出なければ破産していたかも知れない」
「中小企業じゃ仕方がない。お前には感謝している」
「そうよね」
 と、尚も皮肉って言った。
「海の方に行ってみようか?・・・」
「私は疲れているから一人でどうぞ」
「じゃ行って来る」
 そう言って男は海岸に下りて行った。女は俺の側で、歩いて行く夫の方を見ていた。そしてボソボソ言い始めた。
「四十年間も一緒に居て、始めての旅行が安宿なんて全く嫌になってしまう。何で早く別れなかったのかしら・・・。あんな男に付き合ってきて私も一緒に終わってしまった。貯金も無ければ退職金も大した額ではなく、先のことまで考えると嫌になってしまう。私がパートで働いていなければ家だって持てなかったかも知れないのに、あの男は何も分かっていない・・・。先に年老いて、既に背中も丸くなり始めている。寝たきりになって、私が下の世話までやるなんてまっぴらだわ、そうなる前に老人ホームに入れて置かなくては・・・。上手く入れる方法を研究しなくては・・・。それに、私が浮気をしていたことも全く気付いていない。本当に馬鹿な男の見本みたい。あの歩いている姿はもう老人のようで本当に嫌になる。あんな男と四十年間も一緒に居たことがおぞましくなる。ああ嫌だ、嫌だ、嫌だ・・・」
 男は海岸縁を歩いていたが妻が来ないので戻ってきた。
「下の方は風が気持ち良いよ」
「そう」
「そろそろ行こうか?・・・」
 そう言って男は車に乗り込んだ。女は愚図愚図していたが後に従った。暫くすると又、初老の夫婦らしき者が車を停めた。
「喉が渇いた」
「この夏は暑いわね」
「疲れないか?・・・。二時間近く走っている」
「ええ、少しだけ。この位で疲れてしまうのだから、私たちも随分歳を取ったわ」
 と、白髪の老婦人が言った。さっきの老婦人に比べて幾分穏やかなように感じた。
「旅館まで後一時間位で着くだろう」
「昨夜の食事は美味しくなかったわ、一体幾ら取られたの?」
「魚は旨かったと思ったが、今夜は値段が高いから大丈夫だろう」 と、男は呑気そうに応えた。
「そうね」
 と、女は生返事をした。生きている間には、美味しいものを食べる機会もあれば拙いものに当たることもある。食べられるだけでも恵まれていることが分からないのか・・・。
「旅行が終われば、これからのことを考えなくてはならない」
「稽古事でも始めようかしら?」
「俺はまだ会社に勤めていなくてはならない。でも、数年後には退職が待っている。退職後は社会の為に尽くしたい。歳を取ってから旅行していたのでは社会に申し訳ない」
「でも、何が出来るかしら?」
「掃除でも、お襁褓畳みでも良い。家から出て働くことを考えれば良い」
「そうね、このまま引き籠もって孫の世話をしていたのでは申し訳ないですね。お掃除でも、お襁褓畳みでも良いから、老人ホームのような所で奉仕をしようかしら」
「そうだな、惚けない為にも手を使っていた方が良いに決まっている。生きさせて貰った社会に恩返しする意味でも良いだろう」
「歳を取っても遣ることがない人は可哀相ね」
 と、女は幾分自慢げに含み笑いを浮かべた。
「そう言うことだ。生きている間は、自分の出来る限りのことをしなくてはならない」
「奉仕が生き甲斐になれば毎日が楽しく暮らせるわ。でも飽きないかしら、毎日毎日同じことの繰り返しでしょ?」
「遣ってみなくては分からない。でも、遣ろうと言う気持ちが大切ではないかな?」
 と、男は言い聞かせるように言った。子供のいなくなった家で、会社から帰ってきては、毎日毎日愚痴を聞かされては堪らないと思っていたのだろう。
「分かったわ、私は人様の役に立って生きることにする・・・。施設なんて、社会の隅に捨てられているのだから、何かして上げなくてはならないでしょ」
「さて、今夜の宿に向かうか」
 二人の乗った車は七尾市方面に走っていった。
 社会に貢献するのではなく、行き場が無いので自分の為の社会奉仕なのだろう。この手の輩が世の中には沢山いる。奉仕活動と称して知らない間に優越感に浸っている。自分の人生と、其処に置かれている人達との格差に笑みを浮かべている。良いことを行っていると思い込んで決して反省をしない。相手のことを考えるのでは無く自分のことを考えて行動する。自分の生活を守っていれば良いのに、不満ばかりが募り、捌け口としての奉仕活動である。当の本人はそう思っていなくても、勝手に始めて自分の都合によって勝手に終わる。
 今日は敬老の日でもないのに、立ち話をするのは老人たちだけであった。日中の暑さも和らいできたが、夜になってもモーターはフル活動だった。しかしガガ、ガガガァと時々妙な音がした。モーターが止まれば俺の役目は終わる。廃材置き場に積まれ、何れ圧縮機に掛けられ原形を留めない姿になるだろう。
 地平線に零れ落ちるように星が瞬き始めた。都会では見ることの出来ない感嘆の空である。求める物も失う物も無かった。煩わしい関係も虚言も無かった。誰と語ることがなくても、唾を掛けられても、俺は俺であることが身に染みる夜だった。

 三

 その日は朝からモーターの唸り音が高く振動も激しかった。俺はこのまま分解するのではないかと不安に思った。暑さに負けまいとしてフル回転である。昼近く、何時ものように業者がやってきてジュース類を詰め込んだ。「嫌にガタガタするな」と、言うなり足蹴にされた。その一撃で唸り音は前より静かになった。「お前には油より蹴りが良いか」と、男は捨て台詞を残して帰った。
 暫くすると氷見市の方角からリュックサックを背負った若者が三人やってきた。大学の同級生だろう、夏休みも終わりに近い時期のヒッチハイク旅行である。日焼けした顔に夏休みの思い出が浮き出ていた。
「一休みしようぜ!」
 と、リーダー格が言った。
「少しは涼しいと思っていたのに暑過ぎる」
「今日は能登島まで行く予定でいるが間に合うか分からないな」
「夜までに着けば何とかなるだろう」
「陸続きになったことだし、水の便も良くなっているから早めにテントを張り風呂に行こうぜ」
「三日振りになるな」
「風呂屋あるだろうな!?」
「無ければ水を浴びれば良い」
「天気も良いし、今夜は星降る夜になるだろう」
「日本の何処を歩いても能登が一番良い」
 と、一人が調子の良いことを言った。
「昭和五十七年に橋が出来たそうだ」
「葉煙草があるらしいから一度葉っぱを巻いて吸ってみたい」
「大学は詰まらないし、さりとて働くのは面倒になってしまった。これか先、何をして良いのかさっぱり分からない」
 と、一人がぼやいた。
「大学も私学じゃ仕方がない」
「それも三流大学じゃ何処でも同じだ」
 俺は大学生たちの投げ遣りな会話を聞いていた。聞きながら矢張り腐っているのだろうと思った。俺のように外見が腐りだしたのではなく内面から腐り始めている。
「時々大学を辞めようかと思う」
「サークルも女も詰まらない」
「専門的な勉強をしている訳ではない」
「さりとて能力は高くない」
「要するに日本の落ち零れになっている」
「毎日アルバイトばかりしていて勉強に身が入らない。まあ、一生懸命遣らなくても卒業だけは出来るだろう」
と、矢張りリーダー格が言った。
「後二年頑張って取り敢えず卒業を目指す。卒業さえ出来れば後は何とかなるだろう」
「柳本、卒業後は決まっているのか?」
「さあ、当てなど無い。飯田は?」
「分からない。佐野は?」
「家を継ぐ予定だ」
 三人それぞれ喋っていたが、声の違いで誰が喋っていたのか分かるようになった。
「家に帰れば副社長として迎えてくれる。それに引き替え、俺たちは平社員から始めて最終目標が課長止まりの人生、不公平と思わないか?・・・」
「その前に入社試験が待っている」
「不景気で新採用も少なくなっている」
「全く不公平だ」
「首になれば使ってやるから何時でも来い」
「その前に会社は大丈夫だろうな?」
「さあな、良く分からない」
「お前の代で倒産するだろう」
「そうなればそれで仕方がない」
「無責任な奴だな」
「俺は会社人間に向いていないような気がする」
「何れ働くことになるだろう。しかし将来のことまで考えても仕方がない。成るようにしかならない」
「そうだな」
「その時になれば何とかなるだろう」
「こんな所でモタモタしていたのでは間に合わない。難しいことは後回しにして、さあ出掛けようぜ」
 飲み干した缶は備え付けのゴミ箱に入れることなく放り出した。それに、素晴らしい氷見の海が拡がっていたが、心に留めることも無かったようだ。若者たちは脳天気に夏の日差しを受け、流行の歌を大声で歌いながら出掛けていった。その直ぐ後に一人の若者がやってきた。コーラを買ったとき、お釣りを取り出そうとして落としてしまった。十円玉は転がって丁度俺の真下に入った。若者は拾うこともなく、『ふん』と言い行ってしまった。こんなことはしょっちゅうあった。子供たちでさえ小銭など拾うことは滅多にない。日本という国は天下泰平の国である。
 午後になって暑さは増してきたが、矢張り空気は乾いていたのだろう爽やかだった。モーター音は順調だった。しかし、快音を吹き飛ばすかのように激しいマフラー音が響いた。バイクを連ねて七人の若者たちがやってきた。停まってからもアクセルを噴かし騒音を撒き散らす。この夏十回目の嫌な奴らが来たと思った。連中と来たら全く自分のことしか考えず、それを若者の特権だと勘違いしている。スピードを出して走りたいならサーキットにでも行けば良いのである。しかし、サーキットで走るほど腕前も度胸もないから所構わず公道を走ることになる。全く夏中は良からぬ連中が蛆虫のように湧いてくる。
「一休みしようぜ」
 と、リーダー格が言った。それぞれが車座になって俺の前に座り込んだ。
「喉が渇いた。矢野口、飲み物を配れ」
「はい」
「この販売機五月蠅いな」
「はい」
 お前たちの方が余程五月蠅い癖に何を言っている。自分の騒音はお構いなく俺のことにまで口を出すではない。
「全く面白くない。バイクに乗っているときだけが生き甲斐だ」
「ウンザリだ」
「良い女は何処を探してもいないぜ」
「腹が減った」
「世の中嫌なことばかりだ」
「刺激が欲しい!!」
「ゾクゾクするようなことはないか・・・」
「自分で作り出すか、刺激の前提を与えなくては返って来るものはないだろう」
 と、痩せた一人が言った。
「前田はそう言うが、俺は何をして良いのか分からない」
「闇雲に突っ走っても前方に何も見えて来ない」
 別の一人が加勢した。
「否、与えられるものを待っていたのでは進歩がない。主体的に関わって行くとき始めて真理が見えてくる」
「難しいことを言っても分からない」
「バイクで飛ばすとき、何故走っているのか考える」
「楽しいからだ」
「人間が行動するとき、その基となる基本的な思考がある」
「訊くが、楽しいから走るのは駄目と言うことか?・・・」
「否、それで良いだろう。楽しく無ければ止めれば良い」
「俺たちは一致団結して走っている」
 と、生真面目な一人が言った。
「リーダーの意見を聞きたいな!」
「好きなように考えれば良い。唯、一生このグループが解散せずに引っ付いている訳ではない。何れ、それぞれの進むべきところに行くだろう。俺たちのグループは、暴走族の部類でも徒党を組んでいる訳でもない。目的もなければ規約がある訳でもない。益して、暴力団の傘下に入っていることもない」
「成るほど、俺たちは寄せ集めに過ぎない」
「何時までも若いまま生きていられる訳がない」
「若い儘ではいられないか・・・」
 リーダーの人間性によって集団は様々な性格を持つ。仮性暴走族の集団だったのか疲れているような感じを受けた。
「ところで、加藤はこれから先のこと考えているのか?・・・」
 リーダー格が言った。
「遊び呆けて、後は家の商売を継ぐか日雇いをやる積もりだ」
「商売?」
「しかし弟の方が出来は良いから、家は弟に継ぐことになるかも知れない」
「そうか、弟に使われる訳にもいかないな」
「川端は?」
「外国に行きたい」
「山之内は?」
「漁師になる」
「木元は?」
「機械が好きだから工場で働くか、自動車関係の仕事だろう」
「リーダーは?」
「俺は・・・」
 と、言ったきり黙ってしまった。恐らく一生懸命生きようとしていたのだろう。生きることに価値を持たそうとして、意味を見出そうとして行動しているのである。でも、実際問題解決の糸口さえ見つからない。
「羽咋から輪島まで一気に行こうぜ」
 若者たちはアクセルを噴かし始めた。けたたましい爆音と共に一斉に国道に出ていった。現実と理念のジレンマに挟まれながらの自己主張であったのかも知れない。
 夜になっても昼の名残があり暑かった。今日は氷見で夏祭りが行われているのだろう、遠く打ち上げ花火の火が見え始めた。氷見に向かう車が賑やかに通り過ぎて行った。花火の音は此処まで聞こえることはなく、遠く侘びしくキラキラと輝いている。一瞬に終わる花火のように、先の見えない人生を若者たちは走り続けている。
 俺には、遣らなければならないことは何もない。人々に、冷たい飲み物と温かい飲み物を供給するだけのことである。唯、それだけの為に作られた機械でしかない。

 四

陽射しは短くなり、海の色は深い碧色に変わり能登にも秋が来ようとしていた。平日の為か交通量も少なく暇な日だった。そんな穏やかな日の午後、未だ若い二人連れが俺の直ぐ近くに流行の四輪駆動車を停めた。海辺に車ごと下りようとしていたが段差がある為に諦めたようである。
「糞野郎!」
と、車から飛び降りるなり男が言った。
「別なところ見つければ・・・」
 と、女が言った。
 四輪駆動車に乗ると海岸や山道を走りたくなるらしい。年若いことで無茶をしたくなるのも分かるが、少しは海辺に住む動植物のことも考える必要があるだろう。全く困った連中が増えてきた。
「ねえ、そんなことより結婚式は何時になるの?」
 と、女は蓮っ葉な声を出した。
「来春だろうな」
 と、煮え切らない声で男が応えた。
「ねえ、本当に結婚する気でしょ?」
「その積もりだ」
「今の仕事、まだ続けるの?」
「給料は安いし結婚する前に職替えを考えている」
「私も働くから大丈夫よ!」
「子供が出来ればそんな訳にはいかないだろう」
「そうね、子供なんて何時でも産むこと出来るから、それまでは楽しく暮らさなくちゃ損よね」
「お前、未だ十九歳だろう!?」
「そうよ」
「俺が二十一歳だ、上手くやっていけるかな?」
「なる様になるって言うから考えたって仕方がない。お金が無くなれば水商売だってやるわ」
「紐になって食わして貰うか」
「ええ、紐にして上げる」
「ああ、それにしても毎日毎日同じことの繰り返しで詰まらない」
「簡単にお金が入ってくることないかしら?」
「そうだな、仕事は面白くないし給料は安い。それに馬鹿野郎の言うことを聞かなくてはならない。彼奴の顔を見ているだけで吐き気がしてくる」
「友達と居ても楽しいことなんて何もない」
「金さえ有れば楽しくなるだろう。金が無くて遊んでいても楽しい訳がない」
「簡単で時間が無くてもお金が入ってくるもの、って?・・・泥棒かしら、でも、捕まれば何にもならない」
「そうだな、簡単に出来そうだ」
「一番良いかも知れない。幾ら働いたって安い給料では食べていくだけで、遊ぶお金まで残らないわ」
「今のままではどうにもならないな」
「ほら、此処にだってあるでしょ、自動販売機のお金」
「此奴か」
 と、言って俺を蹴った。
 冗談じゃないと思った。もう直ぐ寿命を全うして、この世とおさらばするような俺の端金を狙って、腹の中までこじ開けられたのでは堪らない。
「でも、自動販売機では大したことないわ、それに、人通りもあるし時間が掛かるでしょ?」
「一攫千金を狙わなければ・・・銀行から動く金でないと大金は入らない」
「現金輸送車ね」
「ニュースを見ていていとも簡単にやってのける。億単位の金を奪えば一生遊んで暮らせる」
 そう言いながらも思案下だった。現金輸送車を簡単に襲撃出来るようなら誰だって遣ってみたくなる。
「給料日はどうかしら?」
 と、女は思い付いたように言った。
「今は振り込みが多いから駄目だろう」
「事務所は?」
「金を置いていない。それに防犯装置を取り付けている」
「空き巣は?」
「空き巣か!それが良いかも知れないな!!」
「共働きで留守の家が多いから簡単に出来るわ」
「鍵をこじ開けるか、粘着テープを貼って窓を割れば家の中に入れる。現金だけを目当てにすれば足が付かない」
「取り敢えず必要なものを買いに行きましょう」
「分かった。考えていたって金は入ってこない」
「能登に行っても仕方がないから金沢方面に行こう」
 そう言って二人はにんまりと笑った。とんでもない奴らだと思ったが、それも生きる方法だったのかも知れない。一生懸命働いても金はなかなか入って来ないし、扱き使われ、ウンザリしながら働いてきたことを思うと哀れになった。
 二人は俺から買ったコーヒーを飲み干した。
「空き巣をしながら旅行をする」
 と、男は覚悟を決めたように言った。
「スリルがあって、毎日飽きないでいられるわ」
「仕事はどうしようか?・・・」
「辞めてしまえば、行きたくないと言っていたのだから」
「そうするか、三年働いたから退職金も入るだろう。取り敢えず会社に電話して給料と退職金を振り込んで貰う。社長に諂うこともなければ彼奴の顔を見ることもない」
「私、家を出て貴方のアパートに移っても良い?」
「一緒に住むか」
 急発進しながら二人は金沢方面に戻った。そんなことがあった日から一週間後、見たことのある車が俺の前に停まった。
「一週間で八件よ!」
「こんなに上手くいくとは思わなかった」
「でも、同じ地域ばかりではなく、日本中をターゲットにしなくては危なくて仕方がないわ」
「放浪の旅も良いだろう」
「それにしても案外簡単だったわね」
「戸締まりはしっかりしているようでしていない。カード時代だと言っても現金は置いてある」
「今日は能登のホテルに泊まろうね」
「そうしよう」
「これからも頑張ろう、能登発空き巣の旅に出発、出発!!」
 と言って、二人は機嫌良く出掛けていった。
 その日の夕方になると色違いの同じ車が急停車した。フッーと、一息付いて若い男女が飛び出してきた。
「上手くいったでしょ!!」
 と、女が言った。
「これでたっぷりと金も入ったことだし、暫くのんびり暮らすことが出来る」
「一週間分の売り上げと家の金、残らず持ち出したからには二度と帰る積もりはないわ!」
 どうにも話の内容から、家の金を残らず持って駆け落ちをして来たようだ。
「これからの予定を立ててよ!」
「そうだな、取り敢えず今日はホテルに泊まる。俺は家を出てアパートを借りる算段をする」
「マンションが良いな!」
「そうするか」
「仕事を探さなければと思うが、一年位金は保つとして、パチンコでもしながら暮らさないか?」
「そうね、汗水垂らして働いたって仕方がない」
「家は大丈夫か?」
「私ね、あの人嫌いなの、来たときから虫が好かなかった。私のことなんて何も心配していない。あの顔を二度と見ることもないしスッキリしたわ」
「そう言うものかな?」
 と、男は言った。
「だって、あの女のお陰で私のお母さんは追い出された」
「俺にはそんな風に見えなかったけれど・・・」
「男に対しては調子よく振る舞う術を知っているのね。全く嫌な女だった」
「親父さんは?」
「女の言いなり、私のことなんて心配していない」
「だけど、急にいなくなったのだから・・・」
「そう言うものよ」
 と女は言い、遠く海に目を遣った。
 二人は黙ったまま海岸に下りていった。辺りはすっかり暗くなっていた。一時間近く経ったのだろうか、二人は黙ったまま車に乗り込み去っていった。
 海岸で何が語られたのか知る由もない。家に戻ったのか、これからの生活設計でもしていたのか、何れにしても金は使えば無くなり増えることはない。泥棒家業にこれからの生活を託した二人、何処に行ったのか先ほどの二人、それぞれの人生を生きるのだろう。やり直しが利く、利かないなどどちらでも良いことである。
 仮令為体であっても一回だけの人生、平穏無事に過ごしても、波瀾万丈の人生を送ってもさして変わりがない。取り敢えず生きている限りは生きなくてはならないし、明日のことまで考えても仕方がない。人生に生みだすものが無くとも良いではないか、無意味だと思えば思うほど過去も未来も鮮明に見えてくる。二組の恋人たちも、現在はそれが最良の道だと思って行動している。誰が何を言っても自分たちだけは確かなことだと信じている。それに、他の人間に成り代わることなど所詮出来ないことである。
 俺は大阪で製造され富山に送られた。大阪の市街地で数年過ごしただけのことで、日本に付いても世界に付いても何も知らない。それに、現在は氷見の海で日々潮風に晒されているのに過ぎない。知識もなければ努力も勉強もしない単純な自動販売機でしかない。そして、暫くすれば販売機としての生命に終止符を打ち廃棄される。自由に行動出来ることは何と良いことだろう。俺は、世間様から非難されるであろう二組についても、『しっかりやれよ・・・自分の力で頑張れよ・・・』と、呟いていた。
 俺の周りでは秋も近付き蟋蟀が鳴き始めていた。都会で聞いていた鳴き声とは随分と違っているように感じた。

 五

 能登の夏は足早に通り過ぎ涼しい海風が吹き始め秋も深まってきた。その日も朝から晴れ渡り、過ぎた夏を惜しむかのような日和だった。俺は心地良い風と静かに回るモーター音に少しだけ仕合わせを感じていた。
 午後になると中型のマイクロバスが海を背に停まった。中から十人ほど中年の男女が降りてきた。中小企業の慰安旅行らしき人達である。それにしても溌剌とした若い人はいなかった。中年男女の集まりは何処となしか悲壮感を漂わせている。
「なかなか良い景色だ」
「良い天気で本当に良かったわ」
「今夜泊まる所まで未だ遠いの?」
「もう直ぐだよ、時間も早いし海岸を散歩しようか・・・」
 と、幹事らしき男が言い数人が海辺に下りていった。
「社長、今夜は羽目を外して飲みたいですな」
 下りて行く数人を横目で見遣りながら部下らしき男が言った。
「日頃の鬱憤を晴らして貰うか!」
 と、社長は軽く流した。
「そんな積もりで言った訳ではありません。会社に対し不平不満などあるわけ無いし、誤解しないで下さい」
「売り上げも最近は落ちる一方で今年一杯越せるか分からない。兎に角景気が悪過ぎる」
「そうですね」
「設備投資をする訳にもいかない。遣ろうとしても銀行は焦げ付きを怖れて貸し出しをしない。運転資金でさえやっと持ち堪えている状態で、このまま不景気が続くと会社の存続に関わってくる」
「冬のボーナスはどうなりますか?・・・」
「銀行の短期融資は得られるから大丈夫だ。唯、雪が降り始める頃になっても今の状態が続いているようなら困る」
「円高がこれ以上続くと利益幅が段々落ちてきます。七月から八月に掛けて十円違いますからね」
「倒産するかも知れないな」
 と、社長は他人事のように言った。
「政治政策が悪過ぎる。遣ること為すことが裏目に出る。円には円の相場と言うものがある。安い製品を輸入することは良いが、俺たち中小企業は軒並み潰れていく」
 と、部下は社長のようなことを言った。
「営業に歩いても余所から良い話は聞きません。何処の会社も四苦八苦しているようです」
 と、社員の一人が話に加わった。
「作れば作るだけ赤字幅が増える。しかし、機械を止める訳にもいかない。資産もないし一層手放してしまおうかと思ったりする」
「社長、そんなことをすれば俺たちは皆首になってしまいます」
「そうだな、そんなこと出来ないか・・・」
 世の中景気が悪いらしい。浮かれて遊び歩いている連中もいれば、会社が倒産するかしないかの瀬戸際の人達もいる。しかし俺は俺で、秋の日差しを浴びながら暇を持て余している。日々が過ぎ去っても俺には関わりがない。関わりのないところで人々が働き生活している。
 社長と部下はブツブツ言いながら海岸に下りて行ったが、少し離れた所では別の二人が話し込んでいた。
「ところで、家に帰っているのか?」
 同輩らしき男が小声で言った。
「否、帰っていない」
「奥さん、良く黙っているな」
「このまま別れようと思っている。子供も出来なかったし一緒に居る理由もない」
「所詮男と女のことだ。端から口を挟んでも仕方がないと分かっているが、この儘という訳にもいかないだろう」
「性格が違うと言えばそれまでだが、一緒に居てもしっくりといかない。それに、何故か分からないが十年も一緒に生活しているのに重みがない。子供が産まれなかった為か、生活する意味を知ろうとしなかったからか、いつの間にか別々の方向を向いていた」
「良く分からないな?」
「独身のお前には男と女の縺れた関係は分からないだろう」
「俺は結婚をしなかった。これから先も予定はない」
「それを進めるよ」
「面倒臭いと言えば面倒臭い。今更子供など欲しくない」
「旅行から帰って話し合おうと思っている。アパート暮らしで財産は無いし、互いに働いているからすんなり別れられるだろう」
「未練はないのか?」
「ない」
「あっさりしているな」
「今更色々言っても仕方がない」
「男と女、生きていることの虚しさを感じるよ」
 海から男や女たちが戻ってきた。中型バスは能登方面に走っていった。小さな会社の中で繰り広げられる人間模様を垣間見たように思った。会社も人間関係も色々あり、それぞれが表裏を使い分け生きている。
 それから一時間ばかりすると矢張り中型のマイクロバスが停まった。先ほどの連中かと思うほど似ている男女が降りてきた。
「良い旅行でした。社長、有り難うございました」
 と、提灯持ちらしき男が言った。何処の会社にも一人や二人いる連中である。
「そうかな?」
「旅館も食事も最高で、社員は満足していると思います」
提灯持ちは社員の代表のようなことを言った。
「景気も悪いままで大したことも出来なかった」
 と、社長は飽くまで謙虚に振る舞っていた。
「社長」と、別の社員が声を掛けた。「慰安旅行も今年で最後になるかも知れませんね」
「何を言うんだ君は」
 と、提灯持ちが言った。
「佐藤君の言う通りかも知れない。今年は何とか大丈夫だろう、しかし来年のことまで分からない。佐藤君は営業で歩いているから大変だろう」
「そうですね、なかなか上手くいかなくて弱ってしまいます」
「営業なのだから頑張って貰わなくては困る」
「田中君、そう攻めるな。佐藤君が頑張ってもどうにも成らない状況なんだ」
「社長、弱気では困ります」
「今後のことを考えると頭が痛いよ。組合の会合に出ても良い話は聞かない」
「上商さんも危ないって聞きましたが本当ですか?」
「組合ではそう言った噂話が立っている」
「上商さんが?」
 と、提灯持ちは不安な顔付きをした。
「ああ、銀行の貸し渋りに悩んでいた」
「社長、うちは大丈夫ですよね。家のローンも残っているし失業する訳にもいきません。そんなことになれば一家心中です」
「田中君に恨まれるようなことになるかも知れないな」
「そんな・・・」
 と、言った男の顔に悲壮感が滲み出ていた。また別の所では、中年と言ってもまだ若い部類に入る二人がコソコソと話をしていた。
「社員旅行と称して、のこのこ遊んでいて良いものか分からない。社長は呑気そうに構えているが帰ると会社は無いかも知れない」
 三十代後半の社員が小さな声で話し出した。
「俺も薄々感じていたが、矢張りそう思うか?最近社長の不在が多いし銀行から何度も電話が掛かってくる」
「会社を辞めるなら早い時期に越したことはない。潰れてからでは退職金も出ない」
「事務所に居ると何か殺気のようなものを感じる」
「今度の旅行にしても社員の半分は来なかった。連中、休みを利用して職探しをしているのだろう」
「そうかも知れないな」
「次の仕事を探すと言っても直ぐ見つかる筈もない。子供も産まれたばかりで失業する訳にもいかない」
「組合もない中小企業では打つ手がない」
「思いやられるな」
「会社の資産はどの位ある?」
「分からない」
「そうか、何れにしても他の会社を当たってみることにする」
「乗り遅れた日には首を吊らなければならない」
二人は小声で話しながら海岸に下りていった。会社が倒産するにはそれなりの条件があるだろう。放漫経営、事業拡張、共倒れ、資金の行き詰まり、また社員の働きに依っても変わってくる。小さな会社の年に一度の慰安旅行である。しかし不景気が海風に乗りやって来たようだ。社員にとって、倒産して始めて分かる会社の経営内容である。
 旅行者たちは帰り暫くすると首輪のない犬がやってきた。国道を渡るとき危うくダンプカーに轢かれそうになった。野良犬と言っても首輪がないだけで可愛い犬だった。何処から来たのだろうか、と俺は思った。誰に飼われることなく自由に行動出来ることが何とも羨ましかった。人間や社会に拘束されず、行く当てもなければ目的もないが、生きる為にのみ生きている。それに引き替え人間は、日常に拘束され、時間に拘束され、会社や家庭、地域に拘束されている。所詮、会社の為に働き自分の為に働くことは付随的である。そして、社内の噂話に惑わされ、日常生活を継続させていく為には途轍もない忍耐と努力を必要とする。金銭を得なければ生活は出来ない。分かり切ったことであるが、幾ら働いても、働いても預貯金はおろか生活苦が待っている。税金、税金、税金で吸い上げられ不必要なところに金が流れていく。公共工事と称して無駄な金が知らない間に消えていく。中小企業で一生懸命働いている労働者、経営者も何の為に働いているのか分からない現状である。野良犬になりたいとは思わないが、生きることの仕合わせはどちらにあるのか本当は分からない。しかし、一日何もせず突っ立っている俺にとって関係のないことだった。
 旅行客が居なくなった海岸は、一日何事も無かったかのように波を寄せ静かになった。夏から秋へと知らない間に季節が変わっていくように、人々の暮らしも知らない間に変化せざるを得ないのかも知れない。しかし自動販売機の俺にとって、矢張り関係のないことだった。

 六

 晩秋は海の色も群青に冴え、遠く西南には北アルプスの頂が雪を被った姿を見せ始める。日中の暖かさが嘘のように感じられ、寒暖の差が激しい季節になり、それに連れ観光客の数も少なくなったのか、俺の売上高も随分と落ちてきたようだ。一生懸命冷やさなくても良い季節の為か、モーター音も静かで後数年は生き延びられるように感じた。
 氷見港は漁獲高の一番上がる季節である。これから冬に掛けて鰤(ぶり)、タラバガニ、鮟鱇(あんこう)など値の張る魚が捕れ、漁港は賑やかになる。しかし俺の居る場所は街中から外れているので景気の良い声は聞こえて来ることはない。
 暇な午前中が過ぎ、俺の真ん前に泊まった、いささか高級車と思わせる外国産の車の中から声がしてきた。
「もう五年になるのね」
 と、若い女が言った。
「そんなに経つのか?」
「あの時あの場所で会うことがなければ、こんな風になることも無かった」
「仕方がないだろう、過去に戻ることは出来ない」
「ねえ、愛している?」
 と、女は甘えるように声を発した。
「愛しているよ」
「嘘・・・愛していない。何時別れようかと毎日考えている」
「・・・」
「泣くのは何時の世も女だけね」
「別れる積もりはない」
「でも、若い女の方が良いに決まっている」
「お前との関係は続けていく」
 と、男は言った。でも、内心余計なことを口走ったと思った。
「優しいのね、ねえ、何考えているの?」
 と、女は聞こえなかったような振りをした。捨てられたくないと思ったのか、女の矜持がそう言わせたのか分からなかった。
「これまでのこと、何だろうと考えていた」
「五年前から?」
「会った頃のこと」
「その時から一緒に暮らし、毎日楽しくて仕方がなかった。夕飯のこと考えたり、洋服のこと考えたり、旅行のこと考えたり・・・」
「そう、次々と過去になっていく」
「過去ではないわ、今でも続いている」
 女は日々のことを考えていた。そして言葉を続けた。「貴方が帰って来るのか来ないのか待っていることが辛かった。何時も静かな部屋で階段の靴音だけに集中していた」
「仕事で遅くなるだけだよ」
「でも!」
「俺だけ早く帰る訳にもいかないし、仕方がない」
「夕飯の支度をしていても、時々じっとしていられなくなる。窓から外を覗いてばかりいる自分に気付いていた」
「神経症になってしまうだろう」
「きちんと籍だけは入れて欲しかった」
「考えていた」
「この間来ていた手紙のこと教えて欲しい。あの手紙が来てから貴方の様子が変わってしまった。一体何が書いてあったの?」
 と、女は不安を隠さず言った。
「何でもない」
「嘘、あの日から落ち着きが無くなったように感じる。貴方は誤魔化せる人ではない」
「・・・」
「私、貴方と別れても良いと思っている」
「・・・」
 男は何も言わなかった。何も言わないことで逃げていた。
「あの日から優しくなったり、怒ったり、私には何も分からない。そして、帰りが段々遅くなってきた。私が話し掛けても何も応えてくれない。覚悟は出来ているから本当のことを言って・・・」
「・・・」
 覚悟など出来ていなかった。「馬鹿だな・・・」と、一言だけ言って欲しかった。
「私、泣くことなどない」
「手紙はもう破り捨てた。君に話すことは何もない」
 男はやっと声を出した。
「君だなんて、何故、瑤子って言ってくれないの?」
「悪かった」
 暫くの間、男も女も喋らなかった。話し出せば余計なことまで言ってしまいそうだった。男は車外に出て、女は車内で涙を流していた。男も女も優柔不断で自分勝手である。男は流れに逆らう振りをして流されたい欲求を持ち、女は悲しみを堪える振りをして繋ぎ止めようとする。男と女の痴話話にはウンザリである。
 二人が帰った後、同じ様な二人連れがやってきた。男と女は絡み合うより仕方がないのかも知れない。俺の前に停めた車の中から話し声が聞こえてきた。
「ねえ・・・」
 と、女は言ったまま暫く何も言わなかった。
「時間が経つのは早いものね」
「・・・」
「矢張り、別れなくてはならないのかしら?」
「・・・」
 何を言っても男は応えなかった。
「貴方と出会って五年が過ぎた。長いようで短い日々だった。結婚するのだったら貴方のような人だと思っていた。でも、何故こんな風になってしまったのか分からない」
「先が見えなくなっていたのかも知れない」
 男の逃げ口上がまた始まった。
「毎日が楽しくて、それに甘えて、考えなかった私が悪かった」
「・・・」
「貴方が悪い訳ではない。自由に暮らして行きたいと言った貴方だったのに、私が拘束していたように思う」
「否、俺が悪い」
「時間だけが知っている。五年の歳月が二人を変えていた」
 この二人も五年が過ぎていた。五年も経てば恋は冷め、終局を迎えるのだろうか・・・。男と女が偶然に出会い、日々を重ね、別れて行くことも自然なのだろう。
「先のことを考えても仕方がない。楽しいことも、悲しいことも長く続くものではない。時と共に忘れ去られ過去になっていく。生きることは過去を押入の片隅に積み重ねていくようなもの・・・。でも、私は悲しいとも苦しいとも思わない。一つの、私の歴史が終わったのに過ぎない。中途半端の儘では余計辛過ぎる。終止符を打つことで耐えていくことが出来る」
 と言って、女は小さく溜め息を吐いた。
「・・・」
「貴方を求め、貴方に出会えたことで、張りのある日常が持てるようになった。仕事をしていても、今までとは違った視点で物を見ることが出来た。恋をして、仕事に活かせるなんて素晴らしいことだと思った。事実だけしか見えなく、技術だけを追求していた私が、人々の生活の中に隠されている機微を知るようになった・・・」
 語る言葉によって感情を刺激されていたのだろう、女の声は段々小さくなり最後の方は聞き取りにくかった。暫くして男と女は車から降りてきた。山に陽が落ち始める時間だった。俺の側に立った女の陰は海辺に下りていく。そして、女の後ろ姿を鮮やかに映し出していた。
「貴方に会えて本当に良かった。これまでの私は生き方や仕事も中途半端のままだった。高校を卒業して、民間会社に勤め、何れ田舎に戻って結婚する。屹度、そんな風になっていたと思う。単純で考えることも行動することも知らなかった」
「大学に行ったことが君を変えたのかも知れない」
「ええ、一年間働き、違うと思った。勉強して大学に行ったことが今の私の支えになった。生活も勉強も苦しかったけれど、一生懸命頑張ることで方向が見えるようになった」
「君も俺も少しずつ変わっていった」
 と、男は安心したのかやっと口を開いた。
「私・・・」
 と、言ったきり言葉を繋げることが出来なかった。別れる理由など無かったが別れの時が来ていた。
「生き方が違ってきたのかも知れない」
「いいえ、貴方も私も変わらない」
「先のことまで分からない」
「貴方のこと忘れない」
「君のことも」
「海がキラキラ光っている」
 俺には良く分からなかったが決着が付いたのだろう。二人は暫くの間海を眺めていたが氷見市の方に帰っていった。
 海も山も真っ赤に燃え夕焼けの悲しい日だった。何故悲しいのか分からなかったが、気分の優れないときもあるのだろう。平常心を保つことが多くの人間にとって必要なように、俺もまた、最後の時を迎えても淡々と壊れていこうと思った。価値が有ったとか無かったとかは大した問題ではない。ゆっくりと沈む光の中に静寂を感じ、時はこのまま終わることを信じたいだけである。
 男と女の終末は色々ある。どれが良くて悪いか判断など出来る筈がない。別れて暮らすことが良いのか、耐えて一緒に居るのが良いのか、独り身の、俺の知ることではなかった。男と女が出会い、歳月を重ねる間に隙間風が吹き始めている。愛しているのか、愛していると錯覚しているのか、気付かないときは良いが、意識したときに別離が待っている。所詮、男と女しか居ない世の中である。産まれてから小学校の時代まで、そして、老後も男でも女でもない。恋愛感情は年齢と共に変容していく。何れにせよ、自動販売機である俺にとってウンザリする話である。
 冷え込んできたのか虫たちの鳴き声も聞こえなくなり、光りに誘われ蛾が飛んで来ることもなかった。夜中を過ぎる頃に雨が降り始めた。誰も知らない秋霖の始まりである。

 七

冬になる前の海は穏やかな姿を見せ冷たく厳しい冬を予感させていた。そして、波音さえ立てない海の静寂は、何処か人の心を放心させるような寂しさがある。そんな静かな風景とは関係なく、これまで静かだったモーター音が時々ガタガタいう音を聞いていると、来年の秋まで生き延びられるのか心配だった。
 観光客もめっきり少なくなった日の午後、地元の人間だろうか、薄汚れた車から中年の男が降りてきた。男はポケットの中から小銭を見つけると温かいコーヒーを買った。しかし直ぐ飲むことはなく、暫くの間手の中で弄んでいた。
「これで失う物は無くなった。一つずつ失い、残っているのは自分の命と誰も住まない家だけになった」
 と、独り言のように呟いた。
「仕事は辞め働く気力も無くなった。目的が無ければ何をして良いのか分からない。少ない退職金は一、二年で底を付くだろう。金が無くなれば飢え死するか食べる為に家を手放すしかない・・・。俺の人生に確かな目標など有りはしなかった。それに、子供と妻を相次いで亡くした。帰る家があっても其処には誰も居ない。何の為に生きてきたのか本当に分からない。関係性の中で生きたとしても、そんなものに何の価値も有りはしない。仕事は唯、飯を食う為だけであって、馬鹿馬鹿しい人間関係に縛られる必要はない。これまで自分自身を失い機械と会社に身売りしてきた。そして、挙げ句の果て全てを失った。これからは一人生きる為に拘束されない仕事をやれば良い。しかし、意味のない仕事をすることに価値など見出せる筈もない・・・。生きるとは何なのか考え続けてきたが、思念の領域も、行動の領域も、所詮意味など無かった。俺は子供の為に、妻の為に、そして自分自身の為に懸命に頑張ってきた。しかし、全ては過去の遺物になった。生きることも仕事をすることも詰まらないことだ」
 男は溜め息を吐いて冷えたコーヒーを一口飲んだ。俺は男の呟きを聞きながら人間の単純で複雑な思いを知った。
「しかし本当は、仕事の中にも家庭の中にも生きることはなかった。俺は感情に左右されながら生きて来たのではない。それでも一生懸命だったが、何処かで歯車が狂っていたのだろう。狂いは随分前から感じていた。妻と、たった一人の子に先立たれ、気付いたときには人生の半分以上を終わっていた・・・。人生など取るに足りない中空に漂う霧のようなもので、生きている間に残す物など何もない。何かの為に、目的があって生きている奴等は仕合わせである。しかしそんなことは虚言である。妄想そのものが人生を支え、虚像の上に虚像を作り信奉しているのに過ぎない」
 人間とは何と寂しいものだろう。しかし、この男の寂しさを理解出来ても同情することは出来なかった。十一月の、冷たい風が男の頬を擦り抜けていった。
「自動販売機さんよ。長く生きるのが良いのか、死んだ方が良いのか教えてくれ」
 と、俺に語り掛けてきた。氷見に来て始めて声を掛けられ、一瞬戸惑ってしまったが俺には応える術がない。
「しかし、どちらにしても結局自分で決めるしかない。生きていれば生きていたことになり、死んでしまえば死んだことになる。判断など出来る訳がない。自分の思いに忠実に、と言われても建設的な思いなど小指の先もない。人間は生きる為に生きているのではなく失う為に生きている。自分の人生を反省するとか回顧するなど下らない。現実は現実で、その現実を越えたとしても又同じような現実が待っている。何時まで経っても安堵感や充足感など得ることはない。一生懸命働き、目的だと思って進んできたが現実は蜃気楼でしかなかった。なあ自動販売機さんよ、お前は此処で色々な出来事を見てきただろう。俺のような人間は、どんな結論を出せば良いのか教えてくれ」
 俺には良く分からなかったが男の中に悲哀が感じられた。得ることも失うことも同じ様なものかも知れない。俺は突っ立っているだけで、人の手に委ねられ自分では何も出来ない。この男と同じような、でも男の方が増しな気がした。
 何も言い出せない俺を横目で見遣りながら男は又ブツブツと話し始めた。
「俺は生きることに価値を見出さなくても良い。しかしもう一度、もう一度、生きることの接点が何処にあるのか確かめたい。人間としての、個としての人生を閉ざした訳ではない。孤立無援で係累や社会との関係が無くても良い。誰の世話になる訳でもなく自分自身と闘い問い直してみたい」
 男は深く溜め息を吐いた。
 それが男の結論だった。何時までも迷路の中を歩き続けても仕方がない。それに、生きる先に光明を見出すことがなくても良い。理論や理屈が後から付いてくることもある。
「色々言って申し訳なかった。所詮、成るようにしか成らないだろう。さて行くよ!」
 と言って、男は去っていった。恐らく家に帰ったであろうが、来た方角とは反対の方に走っていった。
 その日は何事もなく過ぎ去ろうとしていた。しかし夕方一台の車が目の前に停まった。降りてきたのは大層草臥れた中年の男だった。目元に生気が無く、一瞬老人ではないかと思わせるほど惚けた顔付きをしていた。
「到頭仕事に失敗した。家族の為にと一踏ん張りしたが借金だけが残った。このまま死ぬしかない」
 男は先ほどの男のように溜め息を吐いた。そして、温かいミルクティーを買い穏やかな海を眺めた。
「此処まで来た途は一体何だったのだろう・・・。仕事、仕事に追われ、気付いたときには四十歳を過ぎ、もう直ぐ五十歳になろうとしている。親父から会社を引き継いで二十年、精一杯働いてきた。従業員の数も倍近く増やすことも出来た。中小企業の域を出ることは無かったが、他の事業者に比較しても頑張ってきた。仕事に失敗したのではなく親会社の連鎖倒産だから仕方がない。下請けの仕事をしているのは俺だけではない。偶々運が向いていなかった。唯、新しい事業を開拓したことで傷口を拡げてしまった・・・。それにしても最早一文無しだ。これまで苦しいときが何度も何度もあった。しかし今度だけはどうにもならない。今更悔やんでも、誰を恨んでも、自分をこれ以上責めても仕方がない。精一杯のことをしてきたのだ。しかし全てが終わった・・・。俺の人生は仕事だけで他に何もなかった。生きる意味など気付かないまま生きてきたのだ」
 男の心情が手に取るように分かった。これまで一生懸命働き、築いてきたものが砂上の楼閣のように崩れてしまった。最早、自分の力では再建出来ないことを知って人生の窮地に陥ったのだろう。
 男は独り言を続けた。
「工場も家も売却して借金の返済に充ててきた。しかし未だ未だ借金が残っている。妻も子供も既に家を出て行った。残ったのは、この襤褸車と自分に掛けてある生命保険だけだ・・・。何かと面倒を見てきた係累にも縁を切られ全くお手上げの状態だ。最後の手段は命と引き替えに借金を返済すれば葬式代位は残るだろう。嫌々、既に妻も子供もいないし葬式さえ出して貰えないかも知れない。死んだ後は大学の医学部に献体するのが賢明だろう・・・。家族の為、生活の為、係累の為に必死で頑張ってきた俺の人生は、一体何の意味があったのだろう。寝食を忘れ働いてきたのに、その結果が今の現実である」
 男はまた溜め息を吐いた。そして、意味もなく北風に向かって手を翳した。
「何故落ち着いているのだろう、悔いが少しも湧いてこない。あんなに苦労して、債権者の間を駆けずり回り、三重にも八重にも身体を折って謝り続けてきた。罵られ、唾を吐かれても、抵抗することなく謝り続けてきた。約束の金は屹度返済すると言ってきた」
 男は海を見ていた。意味の無い笑い、意味の無い仕草、放心した行動が全てを物語っていたのかも知れない。
「若い頃から働き詰めだった。働くことが生き甲斐だった。でも、何故働くのか考えることが怖かった。働くことで、自分を忘れ現実から逃れていた。人生の終末を迎え、自分の中に何が在るのか、在ったのか分かるようになった。これで良いのだろう。最早得るものも失うものもない。生きて来たことも生きることも意味がない。人間であることも人間であったことも意味がない。人生を諦めたことで死ぬことを苦しいと感じない・・・。何もかも呑み込む雄大な海に似ているのかも知れない。俺は、この海のような人間になりたかった」
 男は冷めたミルクティーを飲み干した。そして、暗くなり始めた海を見て矢張り溜め息を吐いた。溜め息の中に自分の人生を置き去りにしたのだろう。
「氷見まで逃れてきた。しかしこの先何処に行こうしているのだろう・・・。明け方には珠洲岬に着く。其処を人生の終着点としよう。東京を出奔して既に一週間が経った。でも、心の内ではもう一度と言う思いもある。しかし、家族に手紙が届く頃には全てが終わっているだろう」
 男は車に戻り手紙を書き始めた。そして、「さて行くか・・・」と言い残し俺の前を去った。
 人口六万人の氷見市の人々は、今夜男が一人死ぬことを誰も知らない。知っているのは、口も利けない自動販売機の俺だけである。生きる勇気を与えることも、相談相手になることも出来ない俺だけである。男は二度と俺の前に現れることは無いだろう。人生は一回きりである。
しかし一回しかない人生は、矢張り一回で良いのだろう。始めの男は生きようとした。二人目の男は死ぬことになる。俺の体内には、崇高ではないけれど孤高の血が流れている。しかし、モーターが壊れるのは誰も居ない深夜であることを願っている。
 星明かりさえない真っ暗な夜だった。静まり返った虚空に雷鳴が鳴り響いた。冬を迎える準備に取り掛かる季節である。厳しい冬を前に氷見の海は静まり返っていた。時間は過ぎ夜明けが近付いていた。俺は冷たい海に消えたであろう男のことを考えた。しかし、何も出来ない俺は、俺自身の虚しさを知るしかなかった。

 八

温かい飲み物と冷たい飲み物と半々だったが、今では温かい物に半分以上入れ替えられている。身体の中は寒暖同居だが、自動販売機の分際では何も言えない。
 十二月に入り林間を抜けてくる風は一日中唸っていた。風も凍ってしまいそうな日、車を駐車場の片隅に停めた男は風に逆らうように近付いてきた。
「寒いな・・・。俺の生きる感覚を奪ってしまいそうな寒さだ。結果的に、東京に戻ろうとしたが出来なかった。何故、氷見まで来たのだろう。冬の、日本海の波音を聞きたかったのかも知れない。東京を出てから一週間、しかし時間の観念は既に無くなっている。高速道路や駐車場に車を停め寒さを逃れてきた。誰とも会話することの無い一週間だった。なあ松さんよ、一週間一言も喋らない意味が分かるだろうか?・・・」
 と、男は俺の裏側にある松に語り掛けた。
「この歳まで結婚することもなく独り身を通してきた。類と交わることの煩わしさ、関係性の中でしか生きられない煩わしさ、それら全て拒んできた・・・。俺は、俺の中の生と死を何時も見ている。死んでいるようで生きていて、生きているようで死んでいる人間たちがどれ程多いか知るまい。また、関係を断った人間の元には誰も集うことはなく、日々生活の中に埋もれ日常が忘れられていく。求めるものは既に無く、生きる価値を見出すことはない。誰かに世話になることさえウンザリする。全てが余計なお節介だ。風に震えている松さんよ、そう思わないか?・・・」
 寒さの為か聞き取れないような声だった。北風に向かって男は震えていた。
「生きている人間はそれぞれ目的を持っている。それが幻想であったとしても関係がない。自分の存在を確立する為に、複雑で、単純で、縦横に絡み合うよう雁字搦めにする。そして、独りで無いことに安堵感を得、誰彼構わず自分の元に寄せ集め、それなしに日常は有り得ない証とする。しかし俺が生きている日常の関係性は、自分から断たなくても社会が、係累が断ってくれるだろう」
 既に五十歳は越していたのだろう、頭髪は白い部分が多くなっている。男はまたブツブツと話を続けた。
「とは言え、些細なことまで煩わしい社会関係から束縛される。しかし、関係性は狭隘な地域地縁関係だけのことで、年老いて、一切の関係を絶っている人間に対して、私利私欲に駆られるような関係は必要がない・・・。社会が狭くなればなるほど関係が明確に表現さる。山間の部落、療養病棟、老人ホーム、刑務所など閉鎖的な社会で暮らす人間たちにとって、社会はその中だけの出来事であり、一般的な社会など不必要なものとして存在している。そして、当人たちにとって人生の行く末に何も見出せないとき最早関係性などない。当たり前だ」
 丁度その時一台の車が入ってきた。
「寒くなりましたね」
 と、男が言った。地元の人間だと思ったのだろう、気安く声を掛けた。
「どうも」
「これからどちらへ」
「当てなど有りません・・・」
「それはどうも」
 と言うなり、男は不可思議なものを見るような目付きをしてそそくさと行ってしまった。
「所詮そう言うことだろう、関係は利害があってのみ成立する。胡散臭い人間に対して関係など持たないほうが賢明である。あの男は、俺に対して不信と不安を持ち恐怖を感じた。仲間の範疇に入らないことを直感的に感じ、触らぬ神に祟りなしとでも言うように逃げていった。受け容れてくれる仲間の所に帰り嫌な奴に出会ったと言うだろう」
 男は思案下に空を仰いだ。
「明後日には東京に戻り、一日が同じように始まり、同じように終わる生活が待っている。しかし仕事は仕事で個人的な関係の上にはない筈だ。働くことは、時間を切り売りして賃金を得ているのに過ぎない。金が無くなれば生活が成り立たたず住む場所を失う。最早求める物も捨てる物も無いが、俺はこれからも同じように生きて行くだろう・・・。
松さんよ、お前は其処で朽ち果てるまで生き続けることになる。この風にも負けないだけの根を張り太い幹を育んできた。自分の生命を見つめるお前のような生き方がしたかった。誰とも関係を持たず、相手にせず、静かに時を刻む生活が出来ればそれだけで良い。松さんよ、氷見の海を見たことがひとつの安堵だった。俺の目的は何も無いことでお前と同じである。これからも唯、生きているだけである」
 男は車に戻っていった。冷えきった身体をコーヒーで温め能登を目指して車を発進させた。しかしあの男は何の為に氷見まで来たのだろう。孤立無援であることは分かるが、それはその人間が決めたことである。誰も口出し出来ないような生活を築いてきた結果である。しかしそれも一つの生き方であることに違いない。
 強風のため俺の足下はガタガタ震えていた。後ろ足が二本とも折れてしまえば仰向けにひっくり返る。松が俺の風除けになっていることを知らなかった。一定の方角しか見ることが出来ない俺は、何時でも氷見の方しか見ていない。松の支えで助けられていたことも知らず自分だけの狭い視野で見ていた。
 男が去った後、今度は三十歳位だろうか若い男がやってきた。しかし、よれよれのコートをだらしなく着ている姿は端から見ると哀れに感じる。凛々しさはないけれど男は寒風に真正面から対峙した。
「肌を刺すような苦痛の始まりは、時間に耐え、日々を過去に押し遣ることを続ける。俺は、求める必要の無い生活を築いてきた。しかし寂寥感も侘びしさもない。人生と言う、ひとつの過程の中に価値は存在しない。また、価値自体相対的にも存在しない以上追求すること自体矛盾している。生活は日常が経過することであり、意識とは懸け離れている。依って、自己と日常との乖離は埋めることが出来ない。俺は群、集、類を避ける。同類群居するとき、表出してくるのは愚痴と倦怠以外にない・・・。日々平然と過ごしている人々は、視野の先に未来と死を見ているのだろう。地上に存在するものに永遠はない、そう思わないか自動販売機さんよ、お前も何時の日か壊れ海の藻屑となる」
 男は自分の思いを松にではなく俺に語りだした。聞くことしか出来ないがそれで良いのだろう。しかし、いきなり海の藻屑は寂しい感じがした。
「一歩外に出れば見知らない人間の群の中に置かれる。電車に乗っても、街を歩いても、俺の廻りは関係のない人々で埋め尽くされている。人間という範疇に属し、生活様式は似通っていても、それぞれ別の生き方をしている群である。俺もその混沌とした連中の中に置かれ、立ち止まることも、抗って反対方向に進むことも出来ず流されて行く。そして、偶然は俺を予期せぬ空間に投げだす。それを新鮮だって?・・・。ふん、ふざけるじゃない。俺は彷徨い矛盾を克服出来ず自家撞着している。そして、居たたまれず絞り出すような大声を張り上げる。しかし意識は、俺の中で眠りに就き永遠に目覚めることはない・・・。虚脱した肉体を支配するのは無意味な類的関係、俺の存在は、投獄された囚人と同じように社会と言う監視下にある。また、言語は不調和を埋める為にあるのではなく助長する為にある。日常は無為で、唯時間を浪費しているのに過ぎず、日々仕事が終わり独りだけの夜を迎える。この一瞬、俺は心静かに時間を稼ぐ。日常の無為を埋めなければ狂ってしまうだろう。孤独が俺を支え生きる気力を与えてくれる」
 世の中には色々な人間が生きていると思った。苦しんでいる人もいればのうのうと生きている人もいる。しかし、どのような生き方をしても確実に時だけは刻んでいる。
「俺のことを、前から愛していた、キスして欲しいと女は言った。しかし関係を持つことが出来なかった。でも、これで良かったのだろう。もしも愛しているなら人への思いが簡単に変容することはない。あの女は何を血迷ったのだろう、擦れ違う度に俺の方を見てはにっこりと笑う。しかし、何を考えているのか全く信用出来ない。可愛いことを武器にして為体な日常を送っている。早熟な女の欲望を満たす為に男が利用される。その女は、瞬間だけを生き持続的な意識を持たない。ふん、しかし女に騙されたいと言う思いは何処から来るのだ。寂しさだろうか、苦しさだろうか、それとも自分からの逃避かも知れない。女はこれから先も意味ありげな笑みを浮かべて、俺の側をするりと通り過ぎるだろう。早熟さは、人間の欲望だけを満たし、浅はかな知恵が人間を荒廃させる。あの女の早熟さは周囲を自分の方に引き寄せ雁字搦めにする。恐らく、組織も個人も瓦解させてしまう陰湿さと陽気さを兼ね備えている。しかし本人はその愛らしさ故に何も気付いていない。全てを許してしまいたい笑みを持っている。ふん、俺はあの可愛い笑みから逃れる為に欺瞞的な旅に出た。抱きたい・・・抱きたい・・・抱きたい・・・。ふん、否、俺の意識から消滅させなければならない」
 日は暮れ始めていた。風が海面すれすれに雷雲を運び厳しい寒さへと季節を変える。雪に慣れ親しむのではなく、克服していかなくてはならない。這うような黒雲は人々の思いを暗澹とさせる。
 ふん、ふんと、行き先が見えなくなった男の呟きは尚も続いていた。
「俺が求めるものは矢張り何もない。あの時こうしていれば良かった。何故?・・・と、ふん、問う必要がない。これから数十年生きていても関係がない。なあ、後ろにボッーと立っている松さんよ、お前は既に百年も生きている。風雪に耐え、黙して語らず生きている。俺はお前の生き方を真似したい。人間たちの間にあって、時間を共有することの苦痛は耐え難い。仕事上の関係はあっても人間的な関係は一切求める必要はない・・・。耐えることが生活に直結しなくなったとき俺は自らを精算する。しかし、しかし、しかし、ふん、あの女は毎日俺の前に現れ、あの笑みを見る度に抱き締めたくなる。ああ、二日後には旅行が終わりまた現実に戻らなくてはならない。そして、俺は日常に翻弄されながら生きて行くのだろう。ふん、ふん、ふん」
 男は車に戻っていった。好きなら好きで、良い女は手に入れた方が良い。一回きりの人生を生きているのだから色々考えても仕方がないと思う。翻弄されても、それが仕合わせだと思う。可愛い女は何時だって可愛いのである。騙され続けても、快楽だけの愛情でも良いではないか、しかし自分で変えることが出来なければ、それはそれで仕方のない。
 冬の季節を迎え、厳しい寒さは内なる自己を見出すには良い季節なのかも知れない。行く当てなどない旅は自分への内なる旅となるだろう。自動販売機の俺には理解出来ないことかも知れないが、二人の男が苦しみながらも生きてくれることを願った。

 九

 能登の海は西高東低の気圧配置が続き、本格的な雪が、前日の昼過ぎから降り始め時々晴れ間を見せながらも降り続いた。一旦降り始めた雪は数日止むことはなく、除雪車が朝夕に国道を除雪していたが後から後から直ぐ白く積もっていた。これから三月まで、雪は消えることなく生活環境を少なからず変えて行く。その雪も駐車場に三十センチ近く積もっていた。
 除雪車の運転手は俺の近くに車を停め朝夕温かいコーヒーを買っていた。序でに、駐車場も除雪すれば良いものを仕事以外だと思っていたのだろう、何時も通り過ぎて行くだけである。運転手は、その度に空を見上げながらブツブツと言っていた。何と言っていたのか聞き取れなかったが、仕事に対する恨みか、雪に対する恨みだったのだろう。
 除雪車が通り過ぎた後一台の乗用車が足を取られながら停まった。中年の男と、やや窶れた女が車から降りてきた。
「寒いわね」
「寒いから誰も出歩かなくて丁度良い」
「コーヒーが飲みたいわ」
 と、女は甘えた声を出した。窶れたように思ったのは間違いで色白の未だ若い女だった。
「来年は移動になるかも知れない」
「ええ、聞いている」
「でも県外に出ることはないしその方が気楽に会える」
「教育委員会に行くことは無いでしょうね」
「有り得ないだろう」
「でも、毎日会えないと寂しい」
 と、また甘えた声を出した。
「帰りに会える」
「ねえ、お願いがあるの。奥さんと別れること出来ない?」
「子供のこともあるし、暫く無理だろう」
「でも、私だって直ぐ三十歳になってしまう。ねえ、子供が欲しいと思うときがあるわ」
「少し待っていてくれないか?」
「だって、もう三年も待っている」
「時間の経つのは早いものだ」
 と、男は話を逸らそうとした。女は自分のことに集中していたのか男の言ったことが聞こえなかったようだ。
「貴方が奥さんに同じことをしていると思うと耐えられない」
「同じことはしない」
「嘘ばっかり、男なんてみんな嘘つき」
「愛しているのは君だけだよ」
「ねえ、今日別れるのは嫌、嫌!嫌!!」
「我が儘を言わない」
 と、軽く窘めた。男と言うものは自分勝手であり、女も又自分勝手である。
「だって、何時も帰ってしまう。私がどんなに寂しい思いをしているか少しも分かっていない」
「仕方がない」
「奥さんに分かってしまうのが怖い?」
「分かったら分かったで仕方がない。でも、今直ぐって訳にはいかないだろう」
「煮え切らないのね」
 女は必要に迫っているようで何処かちぐはぐだった。三十歳を前にして、矢張り先が見えなくなっていたのだろう。
「別れたあと結婚してくれる?」
「勿論だよ」
「じゃ早く別れて、何時までも待っているって辛い」
「公務員ってこともあるし教師ってこともある」
「仕事だと思えば良いでしょ?」
「それでも他人の目が五月蠅い」
「だって、そんなこと言っていると離婚だって出来ない」
「他の仕事は出来ないだろう、暫く待って貰うより仕方がない」
「しっかりしてよ」
 と言って、女は俺から買ったコーヒーを飲み干した。喉を通るときググッと鳴ったようだ。
「寒くなったな」
 男は話を続けたいのか続けたくないのかそんな様子だった。
「ねえ、今日は帰るの?」
「帰らなければならない」
「義務感?・・・。それとも私と一緒では嫌なの?」
「さっきから言っているだろう、今は一緒になれないけれど女房と別れたら一緒になるって」
「嘘ばっかり」
 男と女の問題は何時の世も複雑怪奇である。それぞれの職場にはそれぞれの人間模様があり隠された部分で構成される。しかし、見えないと思っているのは当人たちだけであって周囲は先刻承知である。
 男と女は来た道を戻っていった。二人が帰った後、また同じような男と女がやってきた。窓を開けた女のコートを細かい雪が白く染めていた。
「先生、本気にしても良いの?」
「当たり前だ」
「先生の手さばき見事だから騙されてしまいそう」
「魔法を使っている訳ではない」
「でも、麻酔を掛けられているみたい」
 冷たい風雪にも寒さを感じないように燃えていたのか、しかし、互いに見つめ合っているようには見えなかった。
「先生、コーヒー買って!」
 と、女は甘えた声を出した。
「寒くないか?」
「少しも!」
「明日は休み?」
「いいえ、準夜勤」
「そうか、今夜は金沢に泊って夕方までに戻れば良い」
「嬉しい!」
 と、また甘えた声を出した。
「勤めて何年になる?」
「五年目」
「好きな人はいなかったのか?」
「先生が来てくれるのを待っていた」
「俺は結婚しているし子供もいる」
「そんなこと構わない。私、先生の愛人で良い。結婚する気なら好きな人がいたけれど、その人強引で嫌になってしまった。検査技師の人」
「可愛いものな、何も無い筈がない」
 と、男は幾分不機嫌なようだった。
「私、先生の足手纏いにならないようにする」
「来年は東京に戻ることになる」
「嫌!」
「足手纏いにならないのだろう」
「嫌!嫌!嫌!!」
「一緒に連れて行くよ」
 と、男はそう言った。
「嘘つき」
「君一人ぐらい何とかなる」
「先生が帰っても後を追わないわ、安心して!」
「酷いな」
 男は安心したのか不満なのか自分でも分からなかった。女の裏面が見えてこなかった。しかし自分の人生が、この女によって、のっぴきならなくなるかも知れないと思った。そう思いながらも、自分が傲慢であることは感じていない。
「先生がうんと困るようにしたい」
 と、今度は可愛い声で言った。
「酷いな」
 男は益々分からなくなった。女を誘いながら、誘ったことを幾分後悔した。
「その後は関係が無いのか?」
「無いわ」
「何故、こんな良い女を見捨てたのだろう」
「私が捨てたのよ」
「それなら良いが・・・」
 街灯に灯が点り、雪は光の中でキラキラ舞っていた。しかし男の思いは不安定になっていた。医者として、立身出世の為、偶々東京を離れざるを得なかったのだろう。しかし、田舎暮らしの独り身では意志強健に生きることは難しい。
「東京には人情と言うものがない」
「そうかしら」
「それに比べ田舎は良い。開業して、こちらで暮らそうかと思ったこともある」
「先生の所で使ってね」
 男は話を逸らそうとしていたがなかなか上手くいかなかった。
「そろそろ行こうか」
「ええ」
 降りしきる雪から逃れるように行ってしまった。恋の行く末は誰にも分からない。当事者だけが関わっていることであり、仕事の中に持ち込まない限り周囲の人達に関係のないことである。恋には、多くの人に祝福され仕合わせだと感じる恋もあれば人目を忍ぶ恋もあるのだろう。祝福されることを愛し合っていると錯覚し、何れ関係の中に齟齬を来す恋もあれば、時代の流れに押し流されそうなところで、必死に生き残る恋もあるのだろう。恋をしようが、仕事をしようが、何れ全ての人間は年老いてしまう。老いる前に一生懸命恋をすることも又良いのかも知れない。
 雪は益々激しくなってきた。明日になれば除雪車の男が来て、またブツブツ言いながら働くことだろう。俺の、頭の上には五十センチも積もっていた。ガタガタと震えたが落ちなかった。その時、遠くぼんやりと船の明かりが見えたような気がした。でも、それは見える筈のないことで、俺は波の音しか聞こえないよう何時も海を背に突っ立っていた。

 十

 その日は珍しく朝から晴れ渡った日だった。そんな気持ちの良い朝とは関係が無く、前日の夜通り掛かった男は、車を降りるなりドライバーでガリガリと俺を刻み始めた。何をしているのか分からなかったが小銭泥棒ではなかった。人間は自分でも理解出来ないことを突如としてやることがある。そして、男は意味もなく「ワーッ」と叫ぶと行ってしまった。
 能登の海は蟹の最盛期になったのか、厳しい寒さにも関わらず観光バスや県外ナンバーを付けた乗用車が通り抜けていた。除雪されていない駐車場に停まる車も無かったが、流行遅れの古い型のワンボックスカーが入ってきた。子育てもある程度終わり、少しは自分たちの時間が持てるようになった中年夫婦が降りてきた。会社では中堅クラスの働き者と、良妻賢母の姿が目に浮かんでくるような夫婦だった。
「子供たちも成長したので少しはのんびり出来るようになった」
 と、男が口を開いた。
「こうして旅行に来たのも久しぶりね」
「旨い蟹が待っているだろう」
「早く食べたい!」
「寒いが、最後の休暇は天気も良いし言うことがない」
「本当ね」
「会社も順調で、このまま行けば来年は部長になるのは僕以外にないだろう。苦労した甲斐があった」
「そうなれば素敵ね、私も新しい服を設(しつら)えなければ、ねえ良いでしょ?」
「ああ良いよ、好きなものを作るが良い」
「嬉しいわ」
「幸彦の就職先も決まり、達彦も来年は大学三年生になる」
「早かったわね」
 と、妻は感慨深そうに言った。
「お前にも随分苦労を掛けた。その苦労も後数年で終わる」
「三、四年先には幸彦が結婚して、孫が生まれ、子守をしているのかしら?」
「爺さんと婆さんになる訳だ」
「幸彦のお嫁さん、気立ての良い人よね?」
「そんな先のことまで考えても仕方がないだろう」
「もう直ぐよ」
「人生、可も不可もなく無事過ぎることが一番仕合わせだ。それに、出世出来れば文句はない。子供たちにもそうなって欲しい」
「お嫁さんとも仲良くして好かれる姑になりたいわ」
「十年後には退職する。後のことも考えなくてはならない」
「貴方だって先のことまで考えている」
「孫の名前も考えなくてはならない」
「曾孫のこともあるわ」
 二人の話は行き着く先がないかのように先の先まで進んでいた。気持ちの上でも仕合わせ過ぎるように思った。
「幸彦が結婚する前に家のリフォームをする予定を立てなくては」
「未だ未だ金を使わなくてはならないな」
「しっかり貯めておかなくてはね」
「金が無くては仕合わせになれない」
「そうね、大切なものはお金ですから。今回の旅行だって慎んだ方が良かったのかも知れない」
「暮れの届け物も良い物を選ばなくてはならない。部長の席が目と鼻の先に待っているからな」
 女は考え込んでいた。そして、思わぬことを言いだした。
「旅行よりも部長夫人が先だわ。貴方、帰りましょう」
「そうだな、折角休みも取れたが、これからのこと考えると遊んでいる訳にもいかない」
「ほら、営業の柿澤課長だって狙っているのでしょ?」
「考えてみれば休暇を取ると言ったときニタニタしていた」
「心配だわ」
「予約金はどうする?」
「無駄になるけれど仕方がないわ」
休暇を取って能登までやって来たのに話は思わぬ方向に進んでいた。立身出世とはそんなものかも知れない。
「直ぐ帰って明日から仕事に行く」
「部長の席を逃せば課長のまま退職よ。幸彦の結婚にだって響くことになる。心配だわ」
「旅館と会社に連絡しなければ!」
「此処には公衆電話置いてないわ」
「自動販売機の替わりに電話を置いておけば良いのだ」
「まったくね、汚くて役に立たない物を置いて」
 と、俺に絡んできた。しかし手の無い俺は拳骨を見舞う訳にもいかなかった。
 男と女はそそくさと来た道を帰っていった。夫婦で働き、家を手に入れ、家族も息災で順調な人生を歩んできた。一生をきちんと計算して、急な出来事にも準備万端対処して、家庭円満で、日本家族の代表格のような生活を送ってきたのだろう。それなのに人間の欲とは恐ろしいものである。一つの欲が次から次へと別な欲へと駆り立てる。家も仕事も家族もあり、これ以上必要な物は無いように思うが、人間の欲望の恐ろしさを垣間見たように思った。久々の休暇を能登の自然で満喫しようとしていたのに、あの夫婦はこれから先、人生の何処に行き着くのだろう。
 仕合わせと欲望を取り違えた夫婦が去った後、矢張り中年夫婦がやってきた。先ほどの夫婦に比べ少々若いように思った。今日は中年夫婦の旅行日和であったのかも知れない。
「流石に寒いわ」
「なかなか良い雪景だ」
「能登の冬がこんなに素晴らしかったなんて!」
「来て良かったな」
「今日は温泉に浸かって、人の拵えた美味しいものを食べて、久しぶりの息抜きね」
 と、女が言った。
「ところでお母さん、何て言っていた?」
「旅行のこと?」
「仕事が順調ではないと承知で言ったのだろう?」
「そうかも知れない」
「それとも、お前と話したことあるのか?」
「話したことは無いけれど薄々感付いていると思う」
「商売を変えるか、違う商売に転換するか考えなくてはならない」
「でも、細々でも今の状態を続けるか、弁当屋さんのような仕事はどうかしら?」
「駅の近くとか、学校、工場が側になければ難しい。それに、設備投資をしなくてはならない。幸い親父の財産があるから大丈夫と思うが、景気も悪いし、上手くいかない時のことも考えなくてはならない」
「そうね、どの位あるの?」
「三千万」
「知らなかったわ」
 女は幾分不機嫌な顔をした。
「何れ子供たちに残す積もりでいた」
「成る程ね」
「子供たちは何しているのか気にならないか?」
「中学生と高校生よ、後はお母さんに任せてのんびりしなくては損するわ」
 財産を知らなかったことで除け者にされたような気になっていたのかも知れない。ひょんなことで理性が働かなくなり豹変することがある。
「皆で来れば良かったかも知れないな」
「私と二人だけでは詰まらないってこと?」
「そう言うことではない」
 と、男は慌てて打ち消した。
「どういうこと?」
「難しい年頃だし、これからのことも考えなくてはならない」
「自分のことは自分で決めるわよ」
「羽目を外してからでは遅過ぎる」
「大丈夫よ、貴方に似てしっかり者ですから」
「そう言う言い方はないだろう」
「私には関係ないことだわ」
「何を言っている」
 雲行きが怪しくなってきた。
「私だって家のことを随分心配している。それなのに肝心なことは何も知らされていない。結婚して十八年も騙されていた」
 女は早口で刺々しくなっていた。
「言っても仕方がないし騙す積もりなど毛頭ない」
「分かったわ、私帰らせて貰います」
 と、女は言い切ってしまった。
「帰るって?」
「駅まで送ってよ」
「旅行は止めるのか?」
「そうよ、一人で行って頂戴」
「勝手にしろ」
 二人は氷見の方に戻っていった。
 その後、二組の中年夫婦の行き先が、どの様に展開したのか知る由もない。『仕合わせか・・・』と、俺は思う。加齢は本来的に人間を穏やかにさせる筈である。辛いことも悲しいことも受け入れ、淡々と暮らすことが出来るようになる。しかし、何と難しいものだ。
 不必要な感情は持たないで生きていくのが良いのだろう。間もなく粗大ゴミになる俺にとって、仕合わせの意味は分からなかっが、手に入れる物の殆どは手に入れ、老後の安心感を得、精神的にも肉体的にも恵まれ、そして生活の細部に渡る全ての面に置いても仕合わせであった筈である。男と女は、その仕合わせが永遠に続いていくと考えている。しかし一寸した欲望や齟齬は、今までの安定した状態をすっかりと変える。人間の結び付きや夫婦の関係は、幾つかの基盤を持ち、その上にしっかりと載っている。しかし盤石と思えば思うほど崩壊し易いのかも知れない。仕合わせとは一体奈辺にあるのだろう。男と女の中も、益して夫婦のことなど自動販売機の俺に分かる筈がない。
 雪に埋もれた能登半島、全ての物がきらきらと輝いた良い天気も終わり、モーターの唸り音は雪の中に消え、俺は何となくフーっと溜め息を吐いた。

十一

 いつの間にか厳しい寒さも終わり桜の花の便りが聞こえてきた。出会いと別れの季節であり、始まりと終わりの季節でもある。人生の節目が、どの方向に向いたのか理解出来る顔付きを誰も彼もしている。しかし顔付きは一寸したことで変わり、人間には持続的な思念を持つことなどなかなか出来ないようである。
 一週間ほどして道の反対側にある桜の木が満開になった。しかし一本だけ咲き乱れても、誰も足を止め眺める様子はなかった。花びらが風に吹かれ俺の足下にまで飛んできた夕暮れだった。二台の乗用車が並列に並んだ。一台から一人の男が降り、もう一台は若い女の二人連れだった。
「何処から?」
 男はいきなり声を掛けた。
「東京」
「生まれは?」
「渋谷に新宿」
「そうかな?」
「そうよ」
「学生?」
「OLよ」
「可愛いね」
 男は短い言葉で的確に女たちの素性を知ろうとしていた。女も何の躊躇いや不安もなく淡々と応えていた。若者たちの会話は随分変わっていた。
「上手ね」
「否、本当だよ」
 と、女の気持ちを手に入れた。
「ところで、旅行?」
「そう、貴方は?」
「仕事」
「何処に行くの?」
「輪島」
「その後は?」
「戻る」
「忙しいの?」
「そう」
「何を?」
「海」
 と、応えてシャッターを押す手付きをした。
「カメラマン?」
「そう」
「所属は?」
「雑誌社」
「本当かな?」
「間違いなく」
 と言って、素早く名刺を渡した。女は相手の身元が分かったことで反応が一段と鋭くなった。そして、「大手よ」「素敵」などと勝手なことを言い、男は満更でもないと言う顔付きになった。
「専属なの?」
「そう」
「凄い!」
「食っているだけさ」
「嘘!」
「本当だよ」
「専門は?」
「自然」
「何年?」
「七年」
「恋人は?」
「いない」
「嘘、」
「居れば良いけれど・・・」
「なって上げようか」
「信じても良い?」
「勿論!」
「撮ろうか」
「本当?でもヌード?」
「どちらでも」
「プロなら良いか」
「認めてくれる?」
「ええ」
「予定は?」
「別に」
「行っても良い?ホテルは?」
「輪島のK」
「今夜」
 そう言って別れていった。言葉は大層簡単だった。しかし若者たちの間では意味が通じていた。その後も同じような子たちがやってきた。それも女の子三人である。俺はその会話を聞きながら頭が痛くなってきた。
「沙貴どうする」
「止める」
「行こう」
「でも」
「鈴は?」
「疲れてしまった」
「見ないってこと?」
「うん」
「紀美は?」
「だって」
 珠洲市に行くのか氷見に戻るかの会話だと思っていたが間違いだった。名前を呼び合っていたのを地名と勘違いしていた。古くなった俺は、既に小父さんになっていたようである。未だ学生だろう娘たちは時間と共に走っているようである。
 交通手段の発達は生活と移動を便利にした反面、人間の思考を頽廃へと導いた。日常に追われ、ゆっくり物事を考える時間が無くなっている。目の前で繰り広げられることを瞬間的に処理することは出来るが、落ち着いて自分自身を見つめることはない。
「コンパは?」
「勿論行く」
「あの教授エッチだと思わない?」
「目付きが嫌ね」
「授業中も」
「チラッと見る」
 別の女の子が後を受けた。
「後一年」
「我慢?」
「そう」
「耐えるのが若者」
「触れば告訴する」
「そうね」
「男は嫌」
「ゼミは?」
「変える」
「当然!」
「今夜は飲むよ」
「賛成!」
「明日は?」
「さぼり」
「明後日は?」
「又、さぼり」
「来週から」
「勉強」
「でもまたさぼる」
「嫌ね」
「だって」
「学生何だもの」
「でも」
「溜め息」
「鈴、紀美、理想は?」
「遊ぶこと」
「同じく」
「男?」
「無い」
「同じく」
「沙貴は?」
「金持ち」
「頑張るよ」
「当然」
「行こう」
「OK」
 何処に行くのか五月蠅い女たちは去っていった。日常をさらりと流すことが現在の流行と言うのだろう。しかし、この女の子たちでさえ数年後には時の中に消滅する筈である。
 忙しなく一日が過ぎたと、俺は思った。しかし予期せぬことは何時始まるか分からない。観光バスも通り過ぎてしまった夕暮れ、新しい自動販売機が運ばれてきた。それも新品が二台である。高さは同じ位だったが横幅は広く随分と安定感があった。電源を入れてもモーター音は殆ど無く、カラフルでありながら堂々としていた。隣に、存在感を示すように置かれたので俺は随分と貧相に映ったのだろう。
「此奴も新しいのに取り替えた方が良い。綺麗な海をバックに映えないだろう」
 と、一人が余計なことを言い始めた。
「新品の隣にがらくたですね」
「持ち主が違うのか?」
「同じだと言っていました」
「まあ関係がない。俺たちにとっては二度商売になる」
 男たちは帰っていった。
 ポツリポツリと星空が拡がっていた。新しい自動販売機の隣で俺のモーターはガタガタと動いていた。何時コンセントを抜かれるか分からないが、今夜はこうして一晩中星空を見ていられる。此処に来てから俺の側を通り抜けた人達のことが多少気になった。同じ場所、同じ道を通りながら、ほんの少しの時間の差異で生涯出会うことのない人たち、それは一時の夢だろう。

十二

 春が終わり、夏、秋と過ぎて行った。一週間ほど前からガリガリ、ガリガリとモーター音が酷くなっていた。そして、後ろ足は腐りひっくり返りそうだった。最早寿命を延ばす修理より廃棄処分が似合うことだろう。
 傾き掛けた後ろに松の姿が見えた。その度に、松は悲しそうに俺を見つめていた。今日で終わりなるかも知れないと思いながら、それでも三度目の冬を迎えようとしている。しかし、この寒さと湿気に耐えることなど到底出来ないと分かっていた。
「来週の始めにするか・・・」と、何度か見た男が俺の正面に立って言った。この男の所有物なのか、単に集金だけに来ていたのか分からなかったが、何れにしろ一週間後には俺の歴史にピリオドを打つことになる。
 時間は瞬く間に過ぎ、残された時間は一日になっていた。明日になれば電源を抜かれ全てが終わる。
『お別れだね』
 と、俺は松に話し掛けた。
『そうだね』
『予定された通り終わりを迎えることになってしまった。機械としての寿命は自然に勝つことなど出来ない』
『俺のように予測出来ない未来を待っているのが良いのか、気休めかも知れないが終わりは予定されていた方が楽だと思う』
と、松は言った。
『生きていることは、生きていることを意識しなくてはならない。でも、通り過ぎた人たちは目の前の現象面だけに捕らわれ先が見えなくなっていた』
『来ては去り、去っては違う人々が来る。目まぐるしく変わっていく日常が、人間たちにとって必要なのだろう』
『人間性という知性を持ち、感情や知識を複合させ、それぞれの生き様を表出させる。でも、色んな人々の呟きに接点を感じることは無かった。誰も彼もが傲慢なのかも知れない。自分との対話を内に秘めながら、何故、生きているのか問わない』
『昔から何も変わらない』
 と、百年以上生きている松が言った。
『少しだけ視点を変えると何もかも別なものに見える。でも、それが分からない。生活に追われ、ゆっくり物事を考えない。のんびりしていると社会に取り残されてしまう不安を覚えるのだろう』
『忙し過ぎ、泰然と身構えられない』
『きっかけはあるのに出来ない』
『そうだね』
『人間は自分の生き方を頽廃へと導いている』
『これから先、百年、二百年と俺はそれを見続けていく。何も変わらないまま・・・』
『静かな時間だ』
 午前中は風も無く穏やかな日和だった。松ちゃんと俺はうつらうつらしていたが、氷見の方から少年と少女が自転車に乗ってやってきた。地元の中学生か、二人とも初初らしさが滲み出ていた。それに引き替え、俺はすっかり潮風に晒され草臥れていた。子供たちは俺の側に腰掛けた。
「もう直ぐ冬休みね」
と、女の子が話し出した。
「来年は三年生だね。そして一年後は高校受験が待っている。勉強しなくてはならない」
「目標校を目指して頑張ろう!明彦は普通科に行くのでしょ?」
「その積もりだけど、啓ちゃんは商業って決めているの?」
「卒業後は家の手伝いをしなければならない。両親は、そうして欲しいと思っている」
「東京に出ることはない?」
「日本は狭いし、何処に行っても変わらない」
「狭いかな?」
「必要なものは手に入るし、ゴミゴミしている所より自然が沢山残っている方が似合っている」
「啓ちゃんは普通の中学生と違うのかな?」
「同じよ、性格的にのんびりしているだけ」
「高校に行っても大学目指して、大学に行っても上級職を目指して勉強する。そう言う人生なのかも知れない。親父は、仕事としてやるなら上級職を目指せと言っている」
「成る程ね」
「官僚ほど良いものはないと思っているのだろう」
「何故?」
「親父、公務員だけど、県の中でも結局国の連中が上の方を握っていると零している。それに、高校しか出ていないので大変らしい。のんびりしている親父でも色々苦しいのかと思う」
「それで明彦は勉強しようと思っている」
「未だ未だ知らないことが多過ぎる。高校に行けば色々な目的を持っている奴にも出会うだろう。見据えた未来や展望は無いけれど、自分の生き方と合致するものを見つけたい」
「明彦って大人だね」
「夜になると外に出て星を見ている。星々の煌めきは何千年、何万年前の彼方から来ている。掴み取ることの出来ない過去と言う未来から来ている。過去を見ているのに未来を見て、未来を見ているのに過去を見ている。永遠に理解出来ない時間の中にいる」
「人間なんてちっぽけな存在ね」
「空を眺めていると満たされ、そして虚しくなる。知らない間に涙が流れているときがある」
「中学生って中途半端で行き先が見えない」
「いつの間にか世間と言う大きな波に呑み込まれ、気付いたときは逃れることが出来ない状態になっているのかも知れない」
「将来のことを考えるようにと言われたって、矢張り自分では決められない」
「自立、自立と言っても親の臑を囓っていなければ学校にだって行けない」
「自分の一生を懸けて出来ることを見つけたいと思う。そうしなければ直ぐ歳を取ってしまう」
「これから飛び立って行こう」
「頑張ろう」
 二人の会話を聞きながら俺が腐るのも仕方がないと思った。時間は早くも遅くもなく確実に過ぎていく。時代と共に古い物は忘れられ捨てられていく。でも、それで良いのだろう。
「冬休み、何処かに行くの?」
 と、女の子が言った。
「行かない」
「みんなで集まって思い出作らない?」
「思い出?」
「心象かな?・・・。心の奥底に残って、その時のことを思い出すと辛いときでも頑張れるようなもの!」
「人間って弱いのかも知れないね」
「弱いから一生懸命何か見つけようとする」
「自分が納得出来れば一番良いと思う」
「私の未来は、何が待っているのだろう?」
「何も無く終わるか、波瀾万丈の人生が待ち受けているのか、青春が来て、又青春が来て、何時までも青春しか来ないような生き方がしたい」
「歳、取らないの?」
「失うことのない青春を生きる。そうなりたい」
「私の中にある青春を見つけることが出来るかな?」
「出来るさ」
 と、男の子は力強く言い切った。
「確かなことは、誰もが同じ時間を生きている。場所、関係、生活様式など全てが違っていても、過去でも未来でもない時間を共有している。それぞれ求めるものや行き着く先が違っていても、これだけは変わることがない」
「明彦も、私も、古い自動販売機さんも今は一緒だね。でも、これから十年後には皆変わってしまう」
 女の子の視野に映っていたことが不思議な気がした。でも、明日になれば俺はもう存在せず過去の遺物になっている。
「そう、この瞬間は二度とない」
「寂しいね」
「未来は分からないけれど、過去にお別れだ」
「私、もう一度考えてみる」
「何を?」
「今日のこと、そして高校のこと」
「生きるって、一日一日を積み重ねていくのか、一日一日を失っていくのか、啓はどう思う」
「分からない」
 と、暫く考えていたが小さな声で言った。実際、この問いは俺にも分からなかった。明日で終わる俺は、これまでの日々を積み重ねてきたのか、失ってきたのか分からなかった。
「又、冬を迎えるね」
「厳しい冬」
 と、女の子は応えた。二人は暫くの間海を眺めていたが日溜まりのなか帰って行った。一瞬、二人が振り返ったように思った。そして、『問うことは難しい』『答えのない問い』と、二人が呟いたように聞こえた。
 俺は自動販売機としてほんの一瞬を生きてきた。誰もが一つの形として存在するが永遠に続くものではない。唯、死ぬ瞬間、これで良かったと思えるような生き方が出来れば良い。夕方から深々と冷え込み今年初めての雪が降り出した。能登半島はすっぽりと冬景色に覆われることだろう。そして、俺の短い一生は終わる。
 明け方、小さな犬が来て俺の隣に座り込んだ。茶色に白の混ざった可愛い犬だった。その犬に俺は、『ポピー・ポッコ』と名前を付けた。

                                                          了

通り過ぎた海辺

通り過ぎた海辺

人々は交差することなく行き過ぎていく。本当のことを語るのか嘘しか語らないのか・・・自動販売機の俺は・・・

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-22

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