キスのひ
窓から微かに吹いてくる風がノートのページを勝手にめくらせる。肘で抑えつけるが書きづらくなる一方だ。明日までの宿題であるのに終わる気配がない。腹の虫が奥で蠢き出してきたから、僕はシャープペンを放り投げ、椅子の背もたれに寄りかかった。ノートと教科書が閉じる。どうでもいい、自暴自棄に陥った僕を自分で嘲笑い、宿題を無慈悲に出してくる教師を恨んだ。休日くらい休ませてくれ、学生は部活に勉強に忙しくて休む暇などないのだから。
外は既に薄暗くなっているようだ。本日は乾燥した晴天のため夕焼け空が綺麗なはずだ。僕の部屋からは到底見えないが。日曜日も時機に終わってしまう。国民的アニメのエンディングテーマが頭に流れる。なにが愉快だ、こちとら寝不足で回らない頭を使って勉強机に向かってるというのに。
こうして憂鬱な気分になり、悲劇を演じているわけにもいかない。現実に思考を戻そう。両親は出掛けているため留守にしているから家の中は閑散としていて集中できる。夕飯の時間を遅らせることになっても文句を言う人はいないのだ。宿題なんて適当でいいじゃないか、と誘惑する酔っ払いもいない。絶好のチャンスだ。明日、教師に叱られ周りにくすくすと笑われたらたまったものじゃない。
夜がくる前に終わらせよう。床に落ちたシャープペンを拾い、教科書も広げた。やる気も湧いてきた。数式を解く頭に切り替える。
「ひろくん、ひろくん大変なの、あけて!」
舌足らずな幼い女の子の声が僕を呼ぶ。忘れていた、日曜日であるのは分かっていたのに。数式を解く頭から彼女に対応する思考に切り替える。
ドアを開けるといまにも泣き出しそうに顔をしかめた、小さな女の子が立っていた。腕には弱々しい猫を抱えている。
「はやく病院いかないと、この子、大変なの……!」
金色の長いウェーブのかかった髪が揺れる。彼女、ユイのこんなに慌てている様子を初めて見た。たしかに抱えられている子猫はか細い息を辛うじてしているだけで脱力している。
僕も焦った。ユイが突然来訪してきたからでも、鍵の閉まってる家に音一つ立てず入ってきたからでもない。子猫がいまにも消えてなくなりそうだったからだ。僕は深呼吸してユイの頭を撫でた。しかし冷静にならなくては、彼女をもっと悲しませてしまう。
「近くに病院があるから、行こう。大丈夫、その子は」
ユイは翡翠色の瞳に涙をためながら頷いた。誰もいないリビングで母のへそくりをちょっとだけ貰い、ティーシャツの上に上着を羽織り病院へ急いだ。
ただ僕はすこしだけ怖かった。ユイの正体が、分かってしまうような予感がしたからだ。僕の悪い考えが真実になってしまうような恐怖があった。彼女の小さく震える手を握り締めたら、そんな予感は冗談で済まされるような気もしたけど。
マンションや一軒家が立ち並ぶ、人気のない道をユイの歩調にあわせながら歩く。日はいまにも暮れそうで、あたりは段々と闇に染まっていく。
僕とユイはひたすら無言だった。はやく病院に連れていかなくてはという思いと先程抱いた恐怖がせめぎ合い、かける言葉を探し出す余裕がなくなっていたからだ。
住宅地の中にひっそりと動物病院は存在する。赤煉瓦屋根のこじんまりした病院だが、休日も診療しているからか近くに動物病院が少ないからか、けっこうな人やペット、野良がくる。今日も混んでいるかもしれないが、ここしかないのだから仕方が無い。
「ここの角を曲がってすぐだから」
声を掛けるが返事はない。十数分かからない距離でも外を歩くことにユイは慣れていないのだ。
マンションの角を曲がり数歩して、隠れている病院が現れた。古びたドアを開けて中にはいる。こんにちは、という看護師の声。僕はユイから子猫を受け取ると、すぐ受付に行き説明をした。看護師は子猫を受け取るとすこし待っていてくださいと言い残し、奥の診察室に消えて行った。
いつもは騒がしい病院内が静まり返っている。僕とユイの他に患者の姿はない。ユイは四人がけの長椅子に座っていたから僕も隣に腰をかける。真っ白いタイルの床に視線を落として、ユイは俯いていた。
ユイが僕の前に現れたのは、半年ほど前だったか。高校受験に嫌気がさし、今日みたいに自棄になっていたときだ。純白のレースのワンピース姿で僕をひろくんと呼び微笑みかけるユイは、僕がはじめて恋をした女の子にそっくりだった。どこか見知らぬ土地で会った日本人離れした容姿をした、あの子に。
ひろくん遊ぼう、という声で鼓膜は震えることがなく、伸びてくる手も掴むことはできない。ユイが存在しているのは僕の心の中だけだ。
そしていつも姿を現すわけではない。月に一度、日曜日に僕がなにかに嫌気がさして投げ出そうとしたときにユイは決まって現れる。遊ぼう、と屈託ない笑みを浮かべて。狭い僕の部屋で何をするわけでもなく、両親が帰ってくるまでの間、一緒に過ごす。
その時間が僕を元気づけてくれる。
「あの子、大丈夫だよね」
こんなに動揺している彼女を見るのははじめてだ。いつも笑顔でいるユイが泣きそうな顔をしているなんて。今日は僕がユイを元気にしてあげなくてはならない。ユイの小さな手に触れる。こうしてユイの手に触れられたのははじめてのことだ。ユイの冷たい手は小刻みに震えている。
「大丈夫。だってユイが連れてきてくれたんだ。あの子は必ず元気になるよ」
診察室の扉が開いて看護師が出てきた。先程見せた緊迫した表情はなく、僕の名前を呼ぶ声も柔らかいものだった。ユイを置いて診察室にはいる。
医師は僕の顔を見た途端、柔らかな表情を浮かべた。子猫は診察台の上に横になっていたが、毛布に優しく包まれて規則正しい息をしていた。
あと少し見つけるのが遅かったら、最悪の事態になっていたかもしれないと説明された。
「後日、また引き取りにきてください」
頷き待合室に戻り、受付で会計を済ませて病院を出た。
ユイは再び笑顔になり、足取りが軽くなった。
「あの子、元気になってよかったね!」
「ユイがはやく見つけてくれたからだよ」
照れ臭そうに微笑むユイ。すっかり夕日が暮れてしまったからあたりは真っ暗で弱々しい街灯しかなかったけれど、ユイの微笑みで景色が明るくなる。彼女はまるで童話に出てくる善良な魔法使いのように僕の世界を彩る。
何故だか、僕たちは家とは逆方向の道に進んでいた。見たことのない家々が立ち並び、人影はない。しかし焦りや違和感はなく、心は浮遊しているけれど落ち着いていた。矛盾が生じているのかもしれない。だけどそんなことはどうでもいいことだ。
「ひろくん、ありがと。あの子を助けてくれて」
「助けたのはユイだろう?」
「ちがうよ。ひろくんだよ。だから、ありがとう」
「うん……あ、あの子僕が飼うよ。またユイがきたとき、元気になってるから、さ」
「そうだね! あたしあの子のおなまえ、考えておく」
もうすぐ別れの時間がきてしまう。きっと僕はまたユイに会うまでユイを忘れてしまう。
急に愛しくなって、僕は歩みを止めた。はじめて触れたユイの感触を忘れたくなかった。腰を屈めてユイと視線をあわせる。
僕ら以外に誰もいない。
ユイの大きな瞳が僕を捉える。迷いが生まれる前に、僕はユイの額に軽くキスをした。優しいユイ、ひだまりみたいにあたたかいユイ、この瞬間にユイを本物にしたかったのに。
ユイは頬を赤らめ微笑み、闇に融けていった。
「また来るね、次はひろくんがびっくりするくらい、大きくなってるから」
カラスの間が抜けた鳴き声で目が覚めた。どうやら寝てしまったらしい。窓の外はもう暗いし、母はすでに帰宅してるようだ。
視界がぼやけている。眼鏡が床に落ちているせいだ。気怠い体に眼鏡をとれと命令する。
そういえば、明日、動物病院にいかなくちゃならないんだ。唐突に思い出した。子猫を引き取りにいかなくちゃならない。
他にもなにか重要なことがあったような記憶が微かにあるが、そこだけ靄がかかって思い出せない。
「ヒロ! 宿題終わったの?」
母がリビングで声を張り上げた。
終わっていない。僕の頭は真っ白になった。
もうすぐで憂鬱な月曜がやってくる。
でも僕はまた、来月の今頃が楽しみで仕方が無い。なぜだかは、わからないけど。
キスのひ