デシル
四ツ谷駅。満員電車から押し出されるように下車すると、汗と脂に塗れたスーツを羽織り直し、会社のある御茶ノ水口に向かって足を向ける。電車の遅延で明らかに遅刻である。今日は水曜日。月曜日ほど怠くはないが、さりとて土曜日にはまだ遠い。自然、物憂い気持ちが頭を支配してくる。イヤホンから流れてくる、お気に入りでありながらもう聞き飽きている音楽をBGМに、あーあ、今日もどうせ終電なんだろうな、等と取り留めもなく考えていると、ようやく周囲の変化に気が付いた。
皆、頭に黒い穴が開いているのである。自分と同じサラリーマン風の男性。少し駆け足で改札へ向かうОL。きゃっきゃと嬌声を上げながら階段いっぱいに広がる女子高生たち。皆一様に頭に黒い穴を開けて、しかも平然と動き回っている。穴は、漫画やSF映画で見るブラックホールのように渦巻いていて、反対側は見えない。少し観察すると、皆一様に、というのは間違いであることに気が付いた。穴の位置や大きさには違いがあるのである。額に大きく穴を開けている者もいるし、後頭部に開いている者、中には、片目の代わりに穴が開いている者もいた。
自分の目か頭がおかしくなったのかと思い、何度も目をこすったりしばたたかせたりした。だが、周囲の人間に開いている黒い穴が消えることは無い。茫然とし、ベンチに座り込んだ。
「あの、大丈夫ですか?」
声を掛けてくる女がいる。女は左頬に黒い穴を開けている。
「あぁ・・・大丈夫です」
イヤホンを外す。大丈夫ではないのだ。どうしてよいか分からないのだ。
「救急車を呼びましょうか?」
そういう女の左頬の黒い穴から、じょぼじょぼと水の流れるような音に紛れて、何かが聞こえてくる。
『私も会社行きたくないのよね・・・遅刻の理由にしようっと』
えっ、と思い、思わず女性の左頬に手が伸びた。瞬間、ぱぁん、という音と、頬に鈍い痛みが走る。
「何するのよ!」
そういうと、女は走り去ってしまった。
よろよろとベンチから立ち上がると、会社に向かって歩き出した。
気付くと、周囲の人間の穴からは、さっきの女と同じ、じょぼじょぼという水の流れるような音や、ごうごうと嵐のような音、ぱちぱちと何かが燃えるような音とともに、何らか人間の言葉らしきものが聞こえてくる。音の大きさもそれぞれの人によって違うようだ。思わずイヤホンを再度セットし、最大音量にする。聞き飽きたいつもの音楽が流れてくる。涙が出るほど嬉しかった。
改札を出ると、駆け足で会社へと向かった。会社が無性に気になったのである。駅から五分。すれ違う人は皆頭に黒い穴を開けて平然としている。一部の者は、訝しげな表情でこちらを見つめていた。あからさまに指をさしてくるものもいた。ポケットの中で、IPОDの音量を上げる操作をし続けた。
少し路地に入った、古ぼけたビルの三階の扉の前。ごくん、と自分が唾を飲んでいるのが分かる。昨日と同じパスワードを入力すると、がちゃん、と解錠の音がした。少しほっとする。
しかし、扉の先は良く知る会社ではなかった。遅刻するなら連絡を頂戴、とぼやく総務の二村さん。おはようございます、とどこかイントネーションの違う日本語で話しかけてくれる柳さん。おはよう、と言った後に、お前、佐藤さんからのメールの返事急いでな、という上司の盛岡。全て、頭に黒い穴が開いている。
デスクに力なく座り込む姿に違和感を覚えたのか、盛岡が声を掛けてくる。
「お前・・・、デシルはどうした?」
何を言っているか分からない、という顔をしている私に、盛岡が説明してくれた。黒い穴は、デシルというらしかった。盛岡の黒い穴、デシルからは、車のエンジンのような駆動音とともに、『面倒くさいやつと思っていたが、ここまでとは・・・』と聞こえてきた。
そこから先はとんとん拍子に話が進んだ。盛岡に相談を受けた社長の竹下が、「取り敢えず病院に行って来い」という話になり、病院へと連れていかれた。病院では、やはり黒い穴の開いた医師より、あなたの歳で開いていないなんてことは考えられないんだが、たまにいるんだよね、と優しく言われた。そんな、昨日までみんなそんなの開いてなかった、と言ったら、開いてない人は皆そう言うんだよ、とまた優しく言われた。
その夜。手術が決まった。私は、右瞼の上に穴が開くこととなった。手術だというので田舎から両親と、都内に住んでいる兄夫婦、その子供の潤君が来てくれた。両親、兄夫婦には、黒い穴、デシルが開いている。穴が開いていない潤君を見ていると何かを思い出しそうになる。だが、潤君はこちらを見つめた後、こう言った。
「面白ーい、穴が開いてないなんて。」
「早く戻ってきてくれよー。いろいろ遅れてるんだからな。」
入院から二か月。見舞いに来てくれた盛岡がそう零す。盛岡が出ていった後、自分のデシルに手を突っ込んでみる。少し暖かい。そこから聞こえてくる鳥の囀りに耳を傾けながら、指先には、少し、しかし確かに違和感を覚えていた。
デシル