和君の分

 「今日もあまり食べれてないか・・・しょうがないね。」
 「うん。でも体調は良いから。0ウボァーだよ。和君が帰ってくるの待ってるよ。」
 「そっか、0ウボァーなら良いな。帰り、無理なら寝ててええでな。」
 じゃあ、取りあえず仕事戻るわ、と言い、電話を切った。一月。新宿の京王プラザ前は雪が降っていた。冷たくなった手を急いでポケットに突っ込む。妻の体調は心配であるが、現状で自分にできることは何もない。何もないことを認めたくなくて電話しているのかも知れない、と思い直す。自分の会社のあるビルに入り、デスクに戻ると、そっと席に着いた。
 「いのー。メールの文字の大きさが変わらないんだけど、どうやるんだっけ?」
 先輩の岡村が私に声を掛ける。五か月前に入社した会社では、今売れっ子になりつつある岡村とペアで働いていた。ペア、と言っても、高額の教材を電話で売りつけるという、いわゆる電話営業の仕事であるので、特にペアらしい仕事は無かった。ただ、岡村は無理な押し売りをしがちであり、私は押しが弱いという事で、お互いに穴埋めをしながら仕事をすればよいんじゃないか、との意図があったようだ。岡村が高額の商品を売り付け、クレームになったときは私が処理する。そんな形で仕事は進んでいた。
 「いの。いのの今の状況とか無しで、もし「私が結婚してほしい」っていったらどう思うかな?」
 会社の人は私の状況を皆知っている。良くその中でそんな質問が出来るな、と思いながら、嬉しいと思う、と返事をした。彼女は所謂『婚活』中であるとのことだった。家に帰っても、何となく妻にその話はしなかった。
 妻は悪性の脳腫瘍なのである。最初、下垂体というところに出来ているから、恐らく良性と言われていたのが、摘出してみたところ悪性だった、と知らされた。レベル3ということである。医師は予後について語りたがらなかった。それで、インターネットで調べたところ、レベル4だと予後は半年、レベル3でも半年から5年、ということであった。まずいことに、妻もそのネットの情報を目にしてしまっていた。
 三ヵ月の入院後、在宅での薬物療法が始まった。四週間単位で、薬を飲む五日間と待機の二三日間の繰り返しである。妻は、平布団に普通に寝起きでき、自分でトイレや入浴もできた。ただ、月に五日間の「テモダール」を飲む期間は、激しい吐き気に苛まれる事となった。後で聞いた事によると、人によるらしいが、妻の場合は待期期間の半分くらいも吐き気に苛まれていた。私は、彼女が吐くことに「ウボァー」と名前を付けた。ファイナルファンタジーⅡの皇帝の最期の台詞。彼女も気に入っているようだった。二人しか分からない秘密があることは、二人にとって楽しいことであった。
 妻の様子が急変したのは、二月の中ごろの事であった。話をする内容がかみ合わないのである。こちらの質問に、全然違う回答を返してくる。布団から起き上がらず、両腕を中空でくるくるとさせている。そうかと思うと、枕元の目覚まし時計を分解したりしている。病院に電話をしたが、日曜日なので医師がおらず、また明日にしてくれ、明らかに体の様子がおかしくなるようであれば救急車で来てくれ、という事だった。私は、付き添いで来ている妻の母と相談し、取り敢えずは妻の母に任せて仕事に出た。
 仕事場で、あまりに仕事が手につかない私に対して、岡村が、大丈夫、いのの思いが通じるよ、とか、様々な声掛けをしてくれた。
 仕事から帰ると、やはり朝出ていった時の妻のままであった。正確にはその時のままではなかった。妻の母に聞くことには、厄介なことに、薬を飲むことを拒否するようになった、ということである。私は、薬を手に妻に近づいた。妻はやはり「飲まない」と言う。
 「一生懸命直そうとしとったやないか。それがどうして・・・」涙が出てきた。
 それを見た妻が、「和君、どうしたの」と心配そうに言う。涙でしゃくれた声で薬を飲むように頼むと、彼女は薬を飲んでくれた。
 寝室を出た。心配そうに見守る彼女の母に、取り敢えず大丈夫です、と、涙声に気付かれないようにと思い、素っ気なく伝えた。彼女の母がグレープフルーツの薄皮を剥いて、食べるように言えないか、と私に頼んだ。今日は一切食事を口にしていない、と聞かされ、妻の元へと戻った。一緒に食べよう、と言うと、彼女は素直に従った。最後の一個。彼女が手を付けない。どうしたの、と聞くと、「和君の分」と言った。
 翌日。彼女の様子は普段通りに戻っていた。昨日、「和君の分」っていって取っておいてくれたんやで、と言っても覚えてはいなかったが、
 「それだけ和君の事ばっか考えてる、ってことや。我ながらすごいな。」
 と気恥ずかしげに言った。まっすぐこちらを見る瞳に、どうしても向き合うことが出来なかった。

和君の分

和君の分

向き合っているようですれ違わざるを得ない人の心の動きを書こうと挑戦しました。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-22

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