始まり

高校時代に見た何気ない景色を残しておきたい……

夕方。立ち尽くす女子高生。

 制汗スプレーでむせかえりそうな空気のロッカールームをなんとか抜け出して、私は思わず溜息をついた。やっと制服に戻ることができた。
 体は熱く未だ少し汗ばんでいたが、風が冷たくて妙に懐かしい気持ちになった。空は曇り。今日は一日中曇りだった。西の空の端がうっすらとオレンジに染まっている。しかし私たちの頭上は雲が厚く覆っていて薄暗かった。生徒たちのざわめきが疲労した体に響く。
 なんとか今日という日を乗り切った。無意識に頬がゆるむ。
 私はロッカーのある体育館を抜けて、一人で校庭に向かった。
 体育館の靴箱の前の段差では、たくさんの下級生たちが座りこんでいた。ロッカーがすくのを待っているのだ。三年の私たちの大半は閉会式の後ロッカーに直帰できるのだが、一、二年は割り当てられたテントやパイプ椅子の片付けを終えてからでないと着替えることができない。私も昨年、確かテントを畳んだ。分厚くて重かった。
 真ん中あたりで男子も交えて賑やかに盛り上げっている輪の中を通り抜けるのは気が引けたので、端っこに座る女の子たちの横を通らしてもらう。
 「ちょっとごめん、通して」
一声かけると、低い壁にもたれかかっていた髪を一つにまとめた女の子が、ばっ、と座り直し私を見上げた。小柄な子だった。肩が細い。あ、すみません、と彼女は柔らかく笑い、寄ってくれる。ごめん、ごめんな、と小声で言いながらすり抜ける。なにか幼くて甘いにおいがした。校庭に向かってそのまま歩き出すと、背後からさっきの子たちが、そろそろ先輩ら出るからよけよ、などと言って移動する気配がした。
 可愛い子やったな、と今の子を脳裏に思い起こした。顔だけ見たらそんなに可愛いわけではないかもしれないけど、あの小柄な感じとか髪を結ぶシュシュとか華奢な足とか、すごくいいと私は思った。私とは大違いだ。
 私は歩きながら自分の足をちょっと見下ろした。色白だと褒められることはあるけど、どう控えめに見ても細くはない。定期的に運動もしているし、もともとたくさん食べる方でもないのに、いつまでたっても私はいわゆるぽっちゃり体系なのだった。薄い夕方の光が私の影を地面にのばす。流線。すれ違う生徒たちからは汗と土と制汗スプレーのにおいがした。
 
 校庭の脇の砂まみれのコンクリートに出る。空が広い。どこまでも雲が広がっている。薄暗かった。辺りでは私のクラスメートを含む三年生がたむろしていた。卒業アルバム用の写真を撮るのを待っているのだ。私のように制服を来た生徒もいないことはなかったが、ほとんどは汚れた体操服のままだった。皆日に焼けて頬を赤くしていた。無意識に自分の顔を触ると、じんわりとほてっていた。髪はざらついていた。
 「あ、福ちゃんだ。お疲れ~」
と背後から急に声をかけられた。鈴木さんだった。相変わらずの華やかさだった。隣には別のクラスの人がいた。くっきりとした目鼻立ちをした、くるくるとパーマをかけた茶髪の女の子。
 「びっくりしたぁ……」
そう言おうとしたら、しばらく話してないせいか、声が掠れた。咳払いをして、声すら出ない……と言うと、あはは、と鈴木さんが明るく笑った。
 「福ちゃん、頑張ってたもんね、クラス対抗リレー」
ぐっ、と思わずつまる。
「はは……、見苦しかったでしょ……」
と自嘲するとすぐさまフォローされた。
 「ううん。良かった。なんか頑張ってる感じが」
鈴木さんの顔を見れず、なんて答えたらいいかもわからず、あー……、と意味のない声を出す。ありがとう、と無意識に口の中で言うと、こちらこそ、と爽やかに言い、鈴木さんは歩き去った。しばらくして、何があったのか楽しげな笑い声が聞こえる。やっと変なこわばりが溶けた私は自分の顔が下手な笑顔を作ったままなことに気づいて、瞬時に頬の筋肉を下ろした。さっきの数十秒間を消してしまいたい……、と目を閉じる。
 振り返って鈴木さんの行った方向を見つめる。さっきの彼女に、背の高い男子二人を交えて、何やら楽しそうに話していた。鈴木さんが片方の男子の髪をいじっている。四人ともみんな細く、しゅっとして、なんだかすごく絵になった。
 視線を戻す。校庭の中ほどでは七組が写真を撮っている。もう少しかかりそうだ。なんだかだんだん暗くなってきて雨でも降りそうだったけど、匂いがしなかった。
 オケのとこに行けば良かったかな、と思った。音楽室。数人の同級生と後輩たちが楽器を片付けているはずだ。
 
 私はざわめきの中、真っ直ぐ立って動かずにいる。
 手を握る。砂にまみれてまだざらついていた。
 
 その時、福山さん、と急に声を掛けられて思わずびくっとした。
 いつのまに近づいてきたのか、高木君が立っていた。さっき鈴木さんに髪をいじられていたのは彼だった。たしか一組か二組だったから、今帰るところなのだろう。
彼とは二年のときに一緒に文化委員をやった。文化祭がない学期の。仕事はあってないようなものだった。何をしていたのかすら覚えていない。二人で手持無沙汰で黒板の前に立っていた記憶だけがあった。
 「どうでしたかー、今日は」
と友達のように自然に話かけてくる。疲れた、と笑顔を作って返す。彼が何を考えているのかわからない。三年になって初めてしゃべったのじゃないか。
 「めっちゃ走ってたもんな、福山さん」
またその話か。そうやね、と我ながら気の抜けた声で返す。沈黙。
 「打ち上げ行くの?」
とりあえず、という感じで高木君がきく。いや……、と私は言葉をぼかした。また沈黙。
風が強まっている気がした。低い位置で黒っぽい雲が動いているのが見えた。一瞬、冬の気配を感じた気がした。私は冬が好き。
 「八組! 来てくださーい!」
というカメラマンの若い男の人の声が聞こえた。七組は終わったらしい。
 んじゃね、と高木君がこちらに一瞥もくれず歩き去る。
 私も校庭の中央に歩み出す。
 みんなしばらく騒いでいて、ちゃんと並ぶのには時間がかかった。私は騒ぐようなキャラじゃないから、最前列の端っこで、座ったままその様子を見上げていた。隣の美術部の呉さんと、なんなんやろね、と苦笑を交わす。
 普段は、うるさいな、と感じることもあるけど、今に関して言えば、嫌な感じがしなかった。画面のような何かの反対側から、青春映画やドラマを見ているようだった。それは遠い過去を思い出しているような感覚だった。
つん、と鼻に雨が当たった気がした。ふとある考えが脳裏をよぎる。

 でも、それでは。
 
 「撮るよー!」
とカメラマンの声が響き、私はくるりと前をむいた。お洒落なメガネをかけた人だった。制服の子、もう少しよって、とこっちを向かれて言われる。言われるまま呉さんの方に寄る。福ちゃん、いい匂いがする、と呉さんが笑った。
 「はい、行きまーす」
私はさっき思ったことをもう一度考えた。
 
 でも、それでは。

 
 私の今は何なのだろう。
 
 
 ぱしゃっ。
 大分暗くなって来ていたから、フラッシュが異常に眩しく感じた。真っ白な光。目ぇーつむったあああ、と声があがる。私も自分がどんな顔をしていたか不安になる。
 落ち着く間もなく、もう一枚いきまーす、と二枚目を撮られた。普段はせめて笑顔を作るのに、今回は何もできなかった。どんな顔をしていたんだ、と妙に嫌な後味が残る。ありがとうございましたー、と皆で御礼を言った後、解散になった。なんとなく呉さんと一緒に校舎へ向かう。ホームルームが教室であるのだ。
 「これで残るはほんとに受験だけやね」
と呉さんが言う。
 
 忘れていたわけでもないのに虚をつかれた。

 そうだ、体育祭が高校最後の行事だったのだ。行事ごとは嫌いだから、毎回毎回なにか終わるごとにほっとしていたものだけど、これでもうそれも終わりなのだった。本当に終わりなのだった。
 受験かあ……、と呟く。高校生じゃなくなるんだな、と校舎を見ながらぼんやり思った。次の春が来たら。
 思い出せない春というものを、思い出そうとする。
 
 雨が降り出した。
 一気に勢いを増す冷たい雨の中を、悲鳴や歓声を上げる生徒たちと一緒に無表情で駆け抜ける。その中に、私はちゃんと紛れていただろうか。あの写真に、私はちゃんと写っていただろうか。鼻筋に水滴が流れる。
 私は一人になる、と唐突に思った。今まで知らなかった感情が私を襲う。
 圧倒的なオレンジの光が私達の背後から射してきた。雨が細い線のようにまたたき、前をゆく生徒たちのそれぞれの背中をてらしだす。
 人生が。重い足を引きずりながら私は思った。人生が始まったんだ。
 
 屋根のあるところに駆け込むと私は急いで後ろを振り返った。雲の合間からいつもと変わらぬ夕日が射していた。辺りのざわめきが柔らかく響く、砂まみれのコンクリートの地面の上で、私は立ちつくしてそれを見つめていた。

始まり

初投稿です……。改行とかいろいろわからない………横書き……

始まり

青春の一場面を切り取るというか…

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-22

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