桜
公立影山高校の校庭には今年も残酷なほど美しく桜が咲いた。
桜は日本人にとってもっともなじみの深い花であり、春本番の訪れを思わせる。また、艶やかに咲いて、潔くはらはらと散っていくさまは世の儚さを憂うたとえに用いられる。江戸時代以降には武士道のたとえにされた。武士道を美徳とする戦争時の旧日本軍も桜をシンボルとするなど、過去の歴史においても桜は多いに日本人が求める精神の投影として関わってきた。
ゆえに桜にはたくさんの曰くがあり、物語がある。
中には桜の妖しい美しさを不吉だと考える見方も存在する。
「例えば『檸檬』で知られる作家の梶井基次郎氏は、桜は根の下に埋められた死体からの養分を吸っているためにあんなにも美しいのだと書いた。その小説が起源で桜の下には死体が埋まっているという曰くができたという説もある。この曰くが語り継がれていくうちにどんどん膨らんで、中には死体の血を吸っているから花弁が艶やかなピンク色をしているのだという話や埋められた死体の怨念が桜を妖艶に咲かすなんて話もある。実際に桜の根元を掘ったら大昔の人間の骨が出てきたなんて話もあるらしいね。」
放課後、人けのない教室で明日の課題に取り組みながら、四人は桜にまつわる怪談話について暇つぶしの談義を繰り広げていた。
「ふーん、じゃあ東公園には何十本の桜が今満開だから、あそこには何十人の死体が埋まってるんだ。凄いねえ。」
しみじみと宮田春樹はシャープペンで消しゴムをつついた。その光景を想像でもしたのか、自分からうんちくを披露した佐野秀一は顔をしかめた。
「やめろよ、気色悪い。」
「桜ってのは元から気色悪いのよ。あんなに馬鹿みたいに咲いて、あっという間に散って、散り際が潔くて美しいなんて戦死や殉死のイメージを美化してんだから。いつみてもぞっとしかしないね。」
菊池香織は春トレンドの桜色のネイルを爪に施しながら、淡々と言った。彼女の課題は机の上に放り出されたまま、手を付けられていない。明日彼女に想いを寄せる哀れな男子の一人が代わりに提出することになるだろう。
「桜より梅の方が儚くて謙虚で好き。まるであたしみたいじゃない?」
「うん、確かに。なんか梅干しって感じ。」
うっかり口を滑らせた春樹は香織にきつく睨まれ、梅干しを食べたようなすっぱい顔をした。
秀一がまあまあと宥め、その背後の窓から春の少し冷たい風が進みの良くない課題のノートをパラパラとめくった。どこか甘い香りがするような春風に起こされて、今まで机につっぷしていた少女が起き上がった。
「怜ちゃん、起きた?」
「この子、結局授業の終わりから今までずっと寝てたよ。」
秀一が優しく声をかけ、香織は呆れてため息をついた。
「怜ちゃん起きたんだったら今日はもう帰ろうよ。風も冷たくなってきたしさ。」
そろそろ課題に飽きていた春樹が提案し、今日はお開きとなった。正門を出るとグラウンドにはまだ部活に励む運動部たちが汗を流していてそれを眩しそうに秀一は見た。彼は元々陸上部エースだったが、ある事件が原因で退部し、その後はずっと帰宅部である。後悔はないものの時折青春そのものの彼らが眩しくて見ていられなくなる時がある。
野球部が練習試合をしていて、バッターが打ったボールが大きくフライし、校門前の桜の木に当たった。
回収に来た部員は桜の木の前で帽子を脱ぎ、一礼したあとにボールを回収した。
「あれ、凄いね。なんであんなことすんの?」
その横を通り過ぎながら春樹は首をかしげる。
「知らないの?あの桜の木は特別なんだよ。」
あの桜の木だけ、校門前にあって邪魔でしょ。だから前の校長が専門の人を雇って切ろうとしたんだけど、なんども事故が相次いで、結局切ることができなかったんだって。
だからあの桜の木は神木化されて、ああやってボールが当たったり、傷つけてしまったら一礼して謝るのが運動部の暗黙の了解になってるらしいよ。
「素敵。」
頬に寝あともついたままの綾辻玲子はうっとりとつぶやいた。
母親がホラー漫画家である彼女はそういう不気味な話が何よりも大好きな変わり者である。
「お願いだからわざと傷つけにいったりしないでね、頼むから。」
彼女のことをよく知っている秀一は慌てて、念を押した。
綾辻玲子は皆と別れた後の帰宅途中、教室に忘れ物をしたことに気づいた。
明日提出する課題に必要なプリントでないと困る。面倒ながらも、今なら学校が閉まるまでに間に合うと来た道を引き返した。
学校に着くと、校門は閉まってはいないものの、もうすでに部活も終わっていて、グラウンドは閑散としていた。
門をくぐりながら、玲子はふと桜の根元で立ち止まる。
登校時見る桜は、今日も始まる学校生活を華やかに応援し、迎え入れてくれているようにみえるが、放課後の薄暗いなかぼんやりと花弁を散らす姿はどこか物悲しい。
玲子の脳裏に梶井基次郎の『桜の樹の下には』の一文が思い浮かぶ。
‘おまえ、この爛漫らんまんと咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。
馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛ふらんして蛆うじが湧き、堪たまらなく臭い。
それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪どんらんな蛸たこのように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚あつめて、その液体を吸っている’
「素敵。」
玲子は呟き、そしてその場を通り過ぎようとした。
その足が動かない。
彼女が足元を見下ろすと、肘から上の腐乱した冷たい手が地面を突き破るように生えて、己の足首を掴んでいた。
肉に食い込む爪の感触に、玲子は眉をひそめ、しゃがみ込む。
肌に跡が残るほど強くつかんだ指を一本一本丁寧に引きはがして、助けを求めるように彷徨う手首に玲子は優しく微笑んだ。
「これからもよろしくね。」
地中から桜の根が何本も伸びてきて手をからめ取り、あっという間に地の底へ引きずり込んでいった。
地面には跡形もなく、辺りは何事もなかったように静まり返っている。彼女はスカートの汚れを払って立ち上がった。
見上げた桜は相変わらず見事に咲き誇り、血のように赤い花弁を風に散らしていく。
その様は儚く、醜い。
桜