そう言って彼女は宝石を捨てた
私の傍に居れば、貴方が傷つくのは分かっているのに。
私から離れれば、貴方は幸せになるって分かりきっているのに。
それでも、貴方を手放したくないだなんて。
自分の身勝手さに我ながら呆れた。
呆れても尚、手放せないだなんて。
1.
彼女を喜ばせることは義務だった。物心ついたときから、そう強く言い聞かされていた。
「焼き菓子を持って参りました」
「あら、手作り? 紅茶に合いそうね。すぐに淹れて頂戴」
そういって呼び鈴を鳴らしたお嬢様を、私は急いで制する。
「私が淹れます」
焦っていたとはいえ、咄嗟に手首を掴んでしまい、扉の前に立っていた執事の表情が途端に険しくなる。
出会った当初は、初老のメイドだけだった彼女の護衛は、私たちが歳を重ねるにつれて増え、男性ばかりになった。
慌てて手を離す。執事の顔が戻ったと同時に、今度は彼女の眉が顰められる。
「やめて頂戴、執事じゃないのよ、貴方は。 普通にして頂戴な」
「許可されていなくても、私や周囲は私を貴方の執事だと思っています」
「私の執事は私が決めるの、私の結婚相手と同じようにね」
その場に居た全員の執事の口から薄く溜息が零れた。
彼女は、隣国の王子に長い間求婚されている。月に三四度、訪問してくる彼を彼女は冷たくあしらってばかりだ。
「金だけしか取り柄がないくせに、なんであんな寒い台詞が吐けるのかしら」
彼女はいつも彼をそうやって蔑む。返事に詰まっている私を見て彼女は笑い、金しかないのは私も同じねと言ってはまた笑う。
私はますます返事に困って、彼女はそんな私を見てまた笑う。
「ねえ、正面じゃなくて、こっちに座ってよ」
そういって彼女は、自分の隣の席を指差した。振り返って、執事を見ると、彼らは不機嫌そうに頷いた。
私は彼女を守りたい。
それなのに、彼女は私を自分と対等に扱う。
「恩返しのつもりかもしれないけれど、私は貴方に敬語で話されるとさみしいの。こうして一緒にお茶を飲んでくれたほうがどれだけ有難いことか貴方に分かって?」
「お嬢様、ですが……私は城の中で貴方と共に守られるのではなく城の外で貴方を守りたいのです」
「そう言ってもらえただけで十分よ。私はその言葉があれば何度刺されたって死なないわ」
彼女は周りに聞こえないよう、耳元でそう囁く。すっかり気が滅入って、私は大人しく紅茶を啜った。
「貴方、上手ね、誰かに習ったの?」
私の作ったマドレーヌを頬張って、ごくりと飲み下してから彼女は尋ねる。この城の料理長に習ったと告げると、彼女は不満そうに溜息を零す。
「それは貴方自身の趣味のため? それとも何か他に理由があるの?」
私が口を開く前に、彼女が厳しい口調で言い放つ。
「正直に答えなさいね」
「お嬢様のためです。焼き菓子がお好きだと小さい頃から仰ってますので」
「……そんなに、私に仕えたいの?」
強く頷くと、彼女の瞳の色が変わった。
「席を外して」
鋭い声色で執事たちにそう言うと、渋々といった様子で彼らは退散した。私の腿にお嬢様が手を乗せる。
「私の執事になりたいって、貴方、それは私の気持ちに気づいた上での台詞なの?」
私達の間に少しだけ空いていた隙間を、彼女がぐっと詰める。甘い香りがした。
冷たくして白い指先が私の顎に伸ばされる。返事をしない私の顔を無理やり自分の方に向けて
「私は貴方を愛してる」
赤い唇に目が行く。大きく開かれた胸元にも。赤い唇が、自分のものと重なった。
貸すと言われ、半ば無理に押し付けられた馬で家に帰ると、家の中が荒らされていた。
「毎日飽きないな……」
しまいには火でもつけられそうだ、と千切られた両親の写真をポケットに入れる。
片づけもそこそこに済ませ、両親の墓へ行くと、やはり先日供えた花がぐしゃぐしゃに潰されていた。綺麗に片付けて、庭から摘んできた花を供える。
私は嫌われていた。理由は簡単である。私が、この国の姫を誑かす“小汚い貧乏の花屋”だからだ。
国としては、国民としては隣国の大富豪の王子と、お嬢様が早く結婚して、国を豊かにしていただきたいところなのに、私の所為で国は栄えないのだ。
いつからか、城や花の仕入れから戻る度に家が荒らされるようになった。両親は火事で死んでしまったが、果たして本当にそれは不慮の事故だったのかどうか怪しいものだ。
「お前たちの大事なお嬢様が作ってくださった家だというのに」
誰に言うでもなくそう一人で呟いて、部屋の片づけを再開した。
幼い頃、花屋を営んでいた私の両親の育てた花を彼女の両親が気に入ってから、彼女は私とよく遊んでくれた。
遊んでくれるばかりか、沢山の持て成しをしてくださった。両親が亡くなったときも、立派な葬儀をしてくださったし、屋敷に住めという彼女の好意を断る無礼者に、このような立派な家も建ててくださった。恩返しをしたいだけなのに、私が彼女と関わるせいで、いつか国の皆の不満の矛先が彼女に向いてしまうこともあるんだろうか。
「屋敷に住まれてはいかがでしょう」
彼女を喜ばせるよう、幼い頃から私に言い聞かせていた使用人が私が年を重ねるにつれて敬語を遣ったり、手土産を渡したり、と余所余所しくなった。
「お嬢様もお喜びになるでしょう」
「……しかし、隣国のあの方はどうなるのです?」
「貴方はお嬢様と結婚する方法以外では、ここに住めないと思っていらっしゃるのですか?」
眼鏡の奥の厳しい目つきに似合う、ずっと変わらない厳しい口調に安心する。
「いつかお嬢様に国民の不満が向く、ということは……」
「お嬢様の人望を侮らないでくださいね」
そういえば彼女はいくつだっただろうか。すっかり濃くなった口元の皺を見て、ふとそう思った。
彼女の部屋へたどり着く。ノックをして、私が部屋に入るなり、彼女は大きな声を部屋中に響かせた。
「貴方、国民に嫌われているんですって?家を出る度に家を荒らされてるって聞いたけれど、本当なの? 正直にお答えなさい!」
「どこで、それを」
「今までよくも隠してたわね! 答えなさい……答えなさい!!」
「……はい」
「荷物をまとめていらっしゃい。早く!」
掌に顔を埋めて彼女は私の背後の扉を指差した。私はそれを無視し、黙って直立していた。
「私の言うことが聞けないの? 荷物をまとめて此処に来なさいと言っているのよ」
「私は貴方の執事ではございません」
顔面でクッションを受け止めた後、そう告げると彼女はぼろぼろと涙を零した。
「都合が良いわね、私が認めて無くても貴方は自分のこと、執事だと思っているんでしょう。それなら私の言うことを聞いて頂戴よ。 早く!馬でもなんでも貸すわ。家に戻って荷物をまとめてきなさい!お墓も此処の近くに建て直すから。……手の届かない場所に建てるから」
狭い肩が震える。さっと執事が傍に寄り添い、彼女にソファに座るよう促した。
「出て行って」
その言葉に軽く頷いて、深く頭を下げ、お嬢様に背を向けると彼女は怒鳴った。
「なんでこの命令は聞くのよ!執事じゃないんでしょう? だったら出て行かなくていいじゃないの 貴方、ずるいわ。結局命令を聞く振りして自分のしたいように動いてるだけじゃない!」
彼女の言葉を無視して、もう一度頭を下げ、部屋から出た。荒い声が廊下まで響いていた。
2.
「ここに居ましたか。」
自分の家の温室で林檎酒を啜る、国一番の、花屋の嫌われ者はやはり花がよく似合う。
城の護衛から彼女の護衛へと昇進した際に彼とは初めて会ったが、そのときも今と同じように彼は酒でまどろんだ瞳で花を愛でていた。確か、あの日は彼女が彼に無理やり酒を薦めて酔った彼を、自分が送ったのではなかったか。
「すみません、勝手に入らせていただきました。」
不本意ながらお嬢様の命通り、彼にも敬語を遣う。すると嫌われ者は悲しそうに目を伏せて、
「不本意でしょう。構いませんよ、敬語でなくても」
と呟いた。
そして、何と返すべきか分からずに突っ立っている私に
「貴方がお嬢様を慕っているのは分かります。いつも、一番私を睨んでますものね」
仕事なのに、花屋に見透かされるほど私情を隠しきれていない自分を恥じた。どうやら余程酔っているのか、饒舌なようだ。
「立場が逆なら良いでしょうにね。 私は、貴方のように彼女を守りたい、お嬢様を守る仕事がしたい。……彼女に気に入ってもらえている理由が私には分からないんです、だから怖い、いつ用無しになるのか、それが怖い。護衛だったら、用無しになることなんてないでしょう?彼女の傍に居られるでしょう?」
馬鹿みたいに贅沢な悩みに、怒鳴りたくなるのをぐっと堪えた。
「お嬢様は幼い頃から、貴方をお慕いしていると聞きます、それを今更用無しになるだなんて。貴族の求婚を蹴ってまで、貴方を慕っているというのに……私から言わせてもらえばそれは贅沢です。第一、貴方がお嬢様を守りたいというのは、お嬢様の元気な姿を見ていたいからでしょう?それなら、今の貴方のほうが私共護衛なんかより余程彼女を喜ばせてあげられます」
「違うんです」
強い否定の言葉に驚いて、いつの間にか下にあった視線を彼に戻す。
「私は、確かに彼女を喜ばせたい、守りたい、でも、それが私の本心なのか分からない。だって小さい頃から私は周りに彼女を喜ばせるよう、彼女を守るよう言われていたんです、両親の最期の言葉だってそうだった、彼女を守ることは義務なんです……だから、私は本当に私自身が彼女を守りたがっていると思っているのか分からない。心の底から思っているはずなのに、義務しか知らないから、使命感しか分からないから。この気持ちが愛情なのかどうか分からないんです。もし彼女の気持ちに応えた後、これが愛情じゃないことに気づいたら……そのとき私はどうすればいいんです?」
ぞっとした。言葉に詰まり、私は此処にきた本来の理由をようやく告げた。
「……お嬢様にの元に連れてくるよう命じられています、行きましょう」
義務的に彼の腕を捕まえる。
「言ったでしょう!……私は彼女の傍に居てはいけない、彼女に好かれてはいけない」
あまりの気迫に、腕の力が緩みかけるがぐっと堪える。彼には何も返さずに、無理やり馬へと乗せる。
「貴方は彼女を慕っているんでしょう?だったら私を近づけてはいけない筈だ、お嬢様には見つからなかったとでもなんとでも言えば良い。離してくれ!」
「お嬢様のご命令に逆らうなんて、ありえないことですから」
きっぱりとそれだけ返すと、彼は力なく私に身を預けた。黙って屋敷まで導く。
扉を叩いてお嬢様に彼を客間に通したことを伝えると、この仕事に就いて一番の笑顔を向けていただいた。
「ありがとう……彼は酔ってる?」
「はい、家から荷物も運んできました」
「仕事が早いわね、ありがとう、下がっていいわ」
口早にそういって彼女は私の脇を通り抜け、客間へと早足で向かって行った。
本当にそうなのに、言い訳するような気持ちで、私は護衛なのだからと自分に言い聞かせ、後を追った。
「貴方の部屋を設けたわ」
彼女が項垂れている彼にそう伝える。彼は脅えるような表情で、静かに首を振った。
「貴方、私の執事じゃないって言ったわよね?」
厳しい声で彼女は彼の頭に声を浴びせる。弱弱しく彼は頷く。
「それじゃあ何のつもりなの?何のつもりで私と会っているの?」
「……花屋です」
「そう。 なら話は早いわ、貴方の花屋を買い取った。あの店は私の好きにするわ、場所もね」
彼女がちらりと私に目をやる。私は一礼して、扉を閉めた。少しでも中の会話が聞こえるよう、静かに息を潜めて。
「どうしてです」
花屋の鋭い声に、お嬢様が息を呑む音が聞こえた。
「どうして私なんですか、その理由が、分からないんです。 だから怖い。いつか、……いつか貴方に捨てられてしまうんじゃないかと怖くて仕方ないんです」
「そんな簡単に嫌うような男に何年も抱いてもらったりしないわよ!わざわざ権力を振りかざしてまで抱いてもらってる相手を、私が嫌いになるとでも思ってるの?」
「ずっと欲しがっていたあの宝石を、手に入れた途端興味をなくしたのは誰です、隣国のあの方だってそうだ。あの方があんなに執着的になったのは貴方のせいだ、最初は貴方だって悪い顔していなかった。それなのに彼が貴方に好意を寄せた途端、貴方は急に冷たくなった、私もそうならないという保証はどこにあるんです?」
「……つまり、あなたは私を信じてないのね」
お嬢様のその声で長い沈黙が生まれた。こうなったときこの男が何も喋らなくなるのはもうとっくに分かっている。それをお嬢様が待つことも。
私はいつの間にか止めていた息をようやく吐いて、腰を下ろした。煙草が吸いたい。
「今日はもう休んでいいんだろ?今日は東側が護衛なはずだ」
偶然ここを通りかかった同僚に、そう言われて返事に詰まる。すると彼は意地悪そうににやついて
「盗聴か?」
「護衛だ」
「あの花屋、相当のテクニシャンだぞ絶対」
そういって卑下た想像をしていたらしい彼は、にたついたまま扉に耳を押し当てるも、何も聞こえてこないのが分かると
「なんだ、喧嘩中か」
とつまらなそうに溢して、私の肩を叩いた。
「下心持ってっと、すぐ下ろされるからな、気ぃつけろよ」
「……分かってる」
「にしても、早いとこ結婚すりゃいいのになあ、こいつら」
乱暴すぎる同僚の物言いを窘めてから、
「とはいえ、隣国のあの方はどうなる。それに花屋の嫌われっぷりを考えるとお嬢様も危ないだろう」
「正直今もお嬢様に腹立ててる連中は多いぞ、自分のことばっかりで国民のことを考えてないって」
「……場所を変えよう」
あんなに吸いたかった煙草が、やけに不味く感じられた。先程花屋を迎えに行った時は気づかなかったけれど、今日は満月だ。肩の力が下りた。
「知らないのか?酒屋じゃお嬢様の悪口どころか、この王国一家の悪口は言われ放題だぞ」
「この国にこんなに貢献しているのにか?」
「俺に噛みつくな、 隣の国のあの坊ちゃんもそろそろお嬢様に愛想尽かしそうだしな、焦ってんだろ」
「あの花屋はいっそこの国から出ていけばいいのにな」
「お前やっぱ嫌いだな、あいつのこと」
「好きなやつなんか居ないだろう」
3.
「貴方、私のこと好きよね」
呼び出した執事に、そう声を掛けるとその人の顔は一気に赤くなった。面白くなって執事の手を握る。違う、全然違う。あの人より硬くて、荒れている。あの人は花屋なのにとても綺麗な手をしている。あのしっとりした手に自分の手を重ねる瞬間が、私は堪らなく好きだ。
「この城でお嬢様をお慕いしていない方など居ません」
上ずった声で執事はそう返して、表情を戻そうとした。
「じゃあ、この城に居る全員、私とあの人の会話を、業務を終えても盗み聞きするってこと?」
握った手のひらに爪を立てる。八つ当たりだと分かっていた。それでも、執事の手が微動だにしないことに悔しくなる。
「何のことでしょう」
「彼を見つけてくれるのはいつも貴方よね、他の皆はそんなに熱心じゃないわ、私分かってるわよ、彼と私がなるべく会わないようお父様たちに頼まれてることも全部、知ってる。でも貴方はいっつも私の元に彼を連れてきてくれるわ、怒られたことはないの? まあ、お父様たちは私の気持ちを優先してくれているから、命令自体、そんなに強く言われてはいないんでしょうけど」
執事の喉が鳴った。それでも一度戻した表情をもう崩すようなことはしなかった。なんだ、隠せる人なんじゃないの。あの人のことはあんなに睨むくせに。
「それとも、あの人に抱かれてる私の声が聞けるから、だったり?」
「とんでもございません!」
強く爪を立てても、彼の手の甲は硬くて血は出そうになかった。
「私が貴方に抱かれたら、貴方はもう彼を連れてきてくれないのかしら?」
「いえ、そのようなことは」
手首を引いた。驚く彼に挑発的な目線を投げる。
「座って頂戴」
そう言って隣を指差そうとした手を止めて、床を指差した。一瞬、執事の瞳に悔しさが滲むのが見える。それを隠すように彼は私に跪いた。
「脱がせてくれる? やだ、靴のことよ?」
精一杯馬鹿にした声色で笑う。彼は黙って私の靴を脱がせた。
「貴方と仲の良い……ごめんなさいね、名前は分からないのだけど、あの口の悪い執事いるでしょう?しょっちゅう飲み屋に行ってた」
彼が返事をする前に続ける。
「あの人、スパイだったって貴方知ってた?」
執事は黙って首を横に振った。驚いたように見開かれた瞳は、あの人と同じ色をしていた。その色を信じることにした。
「これはその執事に吐かせた話だけど。 私がね、なかなか隣の国の豚野郎と結婚しないから、国民の不満が溜まってるんですって。それで、あの人を殺す計画が立ってるみたい。花屋もろとも燃やしてやろうって。……私達の関係に、お父様は寛大だけれど、お母様は、最近は少しイラついてしまってるの」
靴を脱がせた後、どうしていいか困っている様子の執事の顔を足の甲で撫でた。そしてドレスの裾を一気に巻くしあげる。
彼は目をそらさなかった。
「この傷、びっくりしたでしょう?お母様からなの」
「そんな……」
「逃げようと、思ってるの。 この国を、捨てようと思ってるの、貴方と」
足を離して、彼に顔を寄せる。今度は手の甲で彼の頬を撫ぜて、唇を重ねた。そのまま強引に舌を入れると彼はすんなりとそれを受け入れた。
「連れ出して」
「……花屋のあの方は」
「勿論、彼もよ」
そう言って微笑むと、彼は悲しそうに目を伏せた。けれどもすぐに何か思いなおしたような顔をして、頷いた。
「かしこまりました」
瞳の色のせいか、その顔が一瞬だけ、あの人と重なって見えた。
「お父様からも、直々に命令されると思うわ、その時はよろしく」
4.
最近やたら客が多かった。その割には、花が一切売れなかった。
王家と契約した花屋、という肩書をつけたところで私の居場所はこの国にはないのだろう。じろじろと店内や店の周りをうろつく客に声を掛けてみるものの、誰一人答えてはくれなかった。
薔薇の棘を切り落としながら、深い溜息を落とす。そんな私に一人だけ近づいてきた客が居た。先日の執事だった。
今日は何故か普段着を着ており、前髪を下ろしていた。それだけで随分と印象が変わる。しかし、目つきが一般市民にしては随分と鋭い。
「花を買いに来ました」
「……どういった花をお求めで」
手を止めて彼と向き合うと、彼はぐっと顔の距離を詰めた。その分だけ離れる。すると彼は一瞬だけ苛立ったように身を乗り出して
「お話があります、今外せませんか?」
と小声で呟いた後、
「花束を作っていただきたい」
と少しだけ声のボリュームを上げて言った。
「どなたかに贈られるのですか。 ……今すぐというわけには」
買う気のない客に視線を向けると、彼は小さく舌打ちした。
「見張り、でしょうね」
すると彼は突然、近くに置いてあった花瓶を床に叩きつけた。その音に、店内に居た全員がこちらを向く。それを確かめてから、彼は息を吸い込み
「なんで誰に贈る花かをお前に詮索されなきゃいけねえんだ!」
そして私が何か返す前に、周りをジロリと睨み
「なんだ!見世物じゃねえぞ!俺は今からこいつと話がある。三分後に店終いだ、早く買え」
「花瓶はいくらですか、すみませんでした」
全くその気のない謝罪を受けながら、私は彼にソファへ座ることを促した。ついでに紅茶を注ぐ。店は一分で閉めることができた。
「……どうせ安物ですから。 それより今日はどうしたんです、この店の買い取りは来月では……」
「その必要はなくなりました」
彼にそう告げられた時、一瞬にして嬉しさと寂しさの混ざった感情を抱いた。とうとうお嬢様に捨てられた、ということだろうか。
「国民がとうとう貴方を暗殺する計画を立てているようです、お嬢様から私と共に逃げるよう命じられました」
「どういう、ことですか」
そう聞きながら、ここ数日訪れていた客たちの嫌な視線を思い出して、納得していた。成程、そういうことか。あれが殺気というものか。
「……お嬢様が結婚を渋る原因を貴方だと思う者たちが、しびれを切らしたようです。お嬢様の一存ではありません、王の命でもあります」
「逃げた後、私はどうしたらいいんです」
「名前を変えて他の者として暮らしていただくことになります。勿論住まいや仕事が決まるまでは、私がお供致しますので」
「貴方と、ですか」
「はい、何か?」
その声色で、不服なのは彼も同じだと気付いた。
「お嬢様は……」
「貴方と共に逃げます、先日隣国の王子から他の方との結婚式の案内が届きました」
逃げられない、と咄嗟に思った。私はもう彼女から逃れられない。彼女にはもう私しか居なくなったのだ。
「貴方の暗殺は一週間後に計画されています。明日の夜、私が車を出しますので北の方へ逃げましょう。明後日からこの国で貴方は姫さらいの犯人になります」
そして私にも、彼女しか居なくなったのだ。故郷に戻ることは許されず、知り合いの居ない国で名を変え、生きていかなければならないのだ。これからの人生。
「拒否権は……」
「ございません」
返事をする元気はなかった。けれども彼はそれを必要とはしていなかった。
「荷物をまとめておいてください、なるべく少なくお願い致します」
戸が叩かれて、慎重に開くとお嬢様が飛び込んできた。
「準備はできた? さあ、行きましょう」
藍色のワンピースに黒いマントを羽織った彼女の顔は爛々と輝いていた。
それと反して、隣に居る執事の顔は非常に険しく、殺気立っていた。
「声の大きさを少し落としていただけますか、ここに入る時何人かの見張りに見られました。 急ぎましょう」
自分のマントの下に、お嬢様を匿う。すんなりと執事の懐に潜り込んだ彼女の姿に違和感を覚えた。
荷物を握って、外に出る。もうここには戻れない。後ろ髪を引かれる思いで自分の家の中を見渡した。机の上に置いていた叔母への手紙がなくなっている。没収されてしまったようだ。
込み上げてくる色々な感情に慌てて蓋をして、私は家の扉を閉めた。
5.
車を走らせてすぐ、何人かの殺気だった目をした町人とすれ違ったが特に追いかけられたりすることもなく、隣の町まで行くことができた。
花屋をこの国から追い出せれば十分なのだろう。
しかし、明日の朝お嬢様も居ないことが知られれば彼の顔は指名手配にかけられるだろう。なるべく遠くへ逃げなければ。
王の命ではあるものの、お妃様は一切このことを知らない。婿入りした王の立場を考えれば、お嬢様の捜索に手を抜くような指示を通すことはなかなか難しいだろう。いっそ彼の顔を変形させるというのも手だ。
バックミラーでちらりと後部座席を盗み見ると、お嬢様と彼は二人でマントにくるまっていた。顔を隠すことが目的ではあるものの、時々漏れてくるお嬢様の嬉しそうな声を聞いていると、冷静ではいられなかった。時々聞こえるリップ音にも苛々した。
王は私を城に戻してくれるという約束はしてくれたが、お嬢様と同じ日に消えた私に戻る場所などあるのだろうか。
逃亡の資金用に渡された額は村くらいなら一つは買えそうな金額だ。多すぎる、ということはやはりそういうことなのだろうか。
互いに互いしか居なくなった男女二人を、私はやすやすと見送って、そのあと一人でどこへ行けというのか。
「もう顔を出しても大丈夫ですよ」
すっかり夜が更けた頃、森に入る直前で車を停めた。
「遅くなってしまいましたが、夕食にしましょう」
勢いよくマントから出てきた花屋は嬉しそうに車から降りた。深呼吸を何度も繰り返している。
「見て、星が綺麗」
当たり前のように花屋の腕に自分の腕を絡ませながらお嬢様が空を指差す。
食事の用意をする私なんて一切目に入っていないようなその仕草に、胸がざわつく。ここはもう城ではないのに。ここに居るのは三人なのに。
しかし、ここで三人で居られるのは私が執事だからだ。王の命だからだ。城を離れたからといって、突然仲良しになれるわけはない。場所が変わろうと私達の関係は一切変わることはないのだ。第一、変わってしまったら傍に居ることさえできなくなる。
城から持ちだした絨毯や毛布を敷いて、お嬢様の腰掛けるスペースを作る。クッションをいくつ置くか考えて、結局二つ置いた。
お嬢様用のものだけ置いたところで、どうせ彼女は彼と一緒に腰掛けようとするのだ。それなればせめてその距離を少しでも離したい。
沢山持たされた食料は、常温での保存ができるものばかりで、改めて唯一の城内の協力者である年長のメイドに心の中で御礼を述べた。
二人に食事を出した後、離れて食事を済ませようとする私にお嬢様が声を掛けた。
「貴方もここで食べるのよ」
その一言で、全て報われたような気持ちになって、私は急いで花屋の隣に腰掛ける。お嬢様からコーヒーを手渡される。この味を一生覚えておこうと心に決めた。
そう言って彼女は宝石を捨てた