エンルム岬

 一

 雪江は目覚めたときから身体の不調を感じていた。しかし前日遅くまで仕事をしていたことや、以前からあった胸の間欠的な痛みだろうと思いそれほど心配しなかった。何時ものようにベランダに出て、何度か深呼吸を繰り返している内に、胸の圧迫感は治まり呼吸も楽になった。雪江の勤めている美容室サロンドモアは予約制で営業をしていた。また、雪江の腕前に惹かれてくる客もあったので、その日は仕事に行った。しかし仕事に就いて間もなく、胸の痛みに伴い、眩暈と発汗が生じ、午前中に早退して郊外のマンションに帰った。帰り際、同僚の神野美鈴が声を掛けてきた。
「雪江さん、顔色が良くないわ・・・無理しては駄目よ」
「ええ・・・有り難う。今朝も同じような状態だったけれど・・・直ぐ良くなると思う」
「御主人に連絡は・・・?」
「でも、一週間前から長野県に出張なの」
 雪江と美鈴は同期に美容師学校を卒業していた。慣れない東京での生活や、結婚するときの相談相手になっていたので夫の志田川のことは良く知っていた。
「そう、待っていて・・・タクシー呼ぶわ」
 美鈴はふらつきながら歩く雪江を不安な面持ちで送り出した。

 ドアを開けるなり雪江はその場に倒れた。暫くそのままでいたが、やっとの思いでベッドまで辿り着いた。眠っていたのだろう、既に陽は落ち辺りは薄暗くなっていた。昭生に連絡しなければと思いベッドから起き上がろうとしたが身体が動かなかった。
翌朝目覚めると幾分疲れは取れていたが、一日食事を摂っていなかったので足許が覚束無かった。時間は既に九時を廻り、仕事に就けるような状態ではなく、今日は休みを取り、それから昭生に連絡を入れた。昭生は未だ現場事務所にいた。
「志田川さんですね、お呼び致しますのでお待ち下さい」
 夫を呼ぶ声が受話器のなか遠く聞こえてきた。
「志田川ですが・・・」
「貴方・・・雪江です・・・」
 と、やっと声を発している状態だった。
「昨日から身体の調子が良くなくて・・・一人では何も出来ないの・・・貴方、まだ帰ること出来ないかしら・・・」
「もう一週間になるな、成る可く早く帰るようにする」
「お願い、早く帰ってきて・・・」
「しかし後二、三日掛かるかも知れない」
「貴方に会いたくて・・・」
「早く切り上げるようにする」
「待っています。早く帰ってきてね」
「下に車を待たせてある。今から現場に行かなくてはならない」
「それに・・・」
「それにって?」
「ううん、何でもない」
「分かった。それじゃ行くからね」
 電話の切れた後、雪江はその場に蹲み込み暫く動くことが出来なかった。血の気は引き、鼓動は激しく波打ち、全身発汗しているのが分かった。しかし、ふらつきながらもベッドまで戻り横になった。そのまま眠りに落ちたが息苦しくて何度も目覚めた。全身ぐっしょりと汗を掻き、着替えようと思い起き上がろうとしたが力が入らなかった。カーテンの隙間に陽の光はなく時間さえ定かでなかった。辺りを見回してみたが昭生の姿はなく、もう会えないのではないかと思った。それから数時間経ったが、締め付けられるような胸の痛みは治まることはなく呼吸するのも困難になっていた。電話が鳴っていた。昭生からだと思い手を伸ばそうとしたが、受話器は手の届く所にはなく、直後に激しい胸の痛みを伴った発作が襲い、呼吸することさえ困難になっていた。痛みと発作は何度も何度も繰り返し襲い、雪江の意識は次第に薄れていった。
 昭生・・・何処にいるの・・・側に来て・・・と、朦朧とした意識のなかで昭生を求めていた。直ぐ側に居るように感じ、手を伸ばしたが触れることは出来なかった。昭生と始めて出会ったときの情景が脳裡を過ぎり、空港のロビーで抱き締められているように感じた。そして、生まれ故郷の様似町に帰りたいと思った。海が、エンルム岬の先端に拡がる紺碧の海が、ヒダカソウが、アポイ岳に咲き乱れる白色のヒダカソウが、町並みが、隅々まで知り尽くしている様似の町並みが走馬燈のように浮かんでは消えていった。しかし、冬の遅い明け方には既にこと切れていた。二十三歳で昭生に出会い、結婚して四年目、雪江二十七歳になって一ヶ月後のことであった。

 志田川昭生は関東建設株式会社の設計部に所属していた。関東建設は業界の中でも中堅クラスに属し、近年土木工事の受注で業績を上げ、昭生は設計部第三課の主任として今年で十一年目を迎えていた。河川工事の設計が主で、設計するに当たり環境保全としての治山治水対策、森林保全、地域住民の生活と水源の確保、水質保全対策、自然との調和等常に考えていた。現場を見て、地域を歩き、事業が環境に及ぼす影響を調査、予測、評価する環境アセスメントに時間を費やし、その工事の必要性を認識して、イメージが出来上がるまで集中して考え一気に図面を仕上げていった。また、自分の手掛けた現場にも常に足を運び工事の進捗情況を見て歩いた。しかしどっぷりと仕事に浸かっている訳ではなく、対象としての仕事であると認識していた。
 水は海洋の表面、湖沼の水面、植物の葉面から蒸発散して水蒸気となり、大気中で凝結して、雨や雪となって地下水、地表水となって海洋に流出し再び蒸発して行く。雨や雪は空気中の塵を洗い流し、流下する間に自然を浄化する。淡水は地球全体の約三%弱と言われ、利用可能な河川や、湖沼の淡水は一%にも満たないとされている。水の循環過程の中に、僅かの水によって生きていることに、昭生は生命を支える水の力を感じていた。
 入社した頃は、志田川の仕事に対して不必要な時間や出張が多過ぎるのではないかと会社内の評価だったが、幾つか河川工事を手掛ける内に、多少の遅れはあっても受注先からは『良い仕事をしてくれた』と、会社全体の評価を上げていった。また人間的にも実直で、昭生の仕事に対する真摯さに、何人かの後輩は同調と親しさを持って接していた。矢崎伸吾もその一人で、志田川より六年後輩の同じ大学の出身だった。矢崎も志田川の仕事に対して、始めは違和感を持っていたが何時しか納得せざるを得ないようになっていた。今回の出張も矢崎が同伴して、松本インターから国道一五八号線を下り、梓湖を上高地方面と岐れ、乗鞍高原に向かう山間の地に来ていた。建設事務所に来て一週間が経っていた。
「行こうか・・・」
 と、昭生は言った。
「はい」
「女房からだった」
「どうかなされたんですか?」
「具合が悪そうだった。しかし、心配ないだろう」
「そうですか・・・」
「ただ、何か言い掛けていた」
「一度帰られたら如何ですか?」
「後少しで工事の見通しも付く。それからでも良いだろう」
 そうは言ったが、雪江が現場にまで電話を掛けて来ることは滅多になかった。それに、以前にも時々息苦しいときがあり、医者に行くように勧めても、北国育ちは強いからと言っていたことが思い出された。しかし現場に着いてからは測量に追われ雪江のことは忘れていた。
 夕食を済ませ、打ち合わせ後の九時過ぎに電話を掛けたが雪江は出なかった。眠っているのだろうと思い宿舎に戻った。途中食堂にいた矢崎に声を掛けられた。
「如何でした?」
「電話に出なかった」
「そうですか、何事もなければ良いのですが・・・」
「明日は早めに出掛ける必要がある。寝るとしようか」
 明日電話を掛ければ良いだろうと思い昭生は床に就いた。明け方嫌な夢を見た。転勤、転勤で最後は地球の裏側に配属され、雪江と離れ離れになる夢だった。『貴方・・・行かないで、行かないで』と、雪江が叫んでいるところで目が醒めた。暫くの間蒲団の中にいたが、雪江のことが段々心配になってきた。昭生は明るくなるのを待って電話を掛けた。一〇回、二〇回と、呼び出し音が耳元で響いているだけで雪江の出る気配はなかった。一瞬帰るのが遅過ぎたのではないかと思った。急いで部屋に戻ると身支度を調え矢崎の部屋をノックした。
「早く起こして申し訳ない」
「お早うございます」
「さっき電話を掛けたが出ないんだよ。申し訳ないがこれから帰ろうと思う」
「分かりました」
「後のことは頼む。今から行けば今夜中には戻れるだろう」
 東京まで三〇〇キロ近くあり、中央高速を飛ばしても五時間近く掛かる距離だった。途中サービスエリアで二度電話を掛けたが、雪江は電話口に出ることはなく昭生の不安は募っていた。首都高速の高井戸で下り、渋滞している環状八号線を南に向かった。車の中から見えた部屋のカーテンは、十一時だと言うのに閉じられたままだった。急いで地下の駐車場に車を入れると昭生はエレベーターに向かって走った。部屋の鍵は自動ロックされたままになっていて、チャイムを鳴らしても応答はなかった。昭生は一瞬躊躇っていたが鍵を開け中に入った。暗く静まり返ったベッドの中に雪江は静かに横たわっていた。

 二

 関東建設株式会社本社は東京にあったが、長野、札幌、仙台、松山に支所があった。昭生は世田谷の実家から新橋にある本社に通っていた。大学卒業後はアパート住まいをする予定でいたが、何より母親が寂しがるだろうし、兄の晴彦が結婚して家を継ぐまでは仕方がないと諦めていた。父親は既に公務員を退官して閑居の生活だった。昭生にも公務員になって欲しかったが、大学は国立でなかったこともあり諦めていた。晴彦は昭生より六歳年上で、国立大学を卒業後自治省に入局していた。また二歳年下の妹、有美は既に他家に嫁いでいた。
 昭生が雪江に出会ったのは、入社して四年目の冬のことで、札幌支所に一週間の予定で出掛ける日のことだった。午前中会社で打ち合わせを済ませ、羽田空港には二時過ぎに着き、搭乗手続きをしていたとき雪江がカウンターに駆け込んできた。千歳空港行きは前日からの吹雪で欠航が相次ぎ混み合っていた。
「十五時発の千歳行きに乗りたいのですが・・・」
「今のところ満席でございます」
「お願いします」
 と、雪江は哀願した。
「申し訳ありません。昨日からの吹雪で午後の便は何れも満席になっております」
「母が・・・」
 と、言うなり涙ぐんでしまった。動転していたのだろう、周囲のことも気に掛けることはなかった。
「少しお待ち下さい・・・最終便にキャンセルが入っておりますが如何致しましょう?」
「でも、それだと・・・」
 雪江はその場に蹲み込んでしまった。
「これをお使い下さい」
 と、昭生は搭乗券を雪江の前に差し出した。雪江は意味が分からず昭生の顔を呆然と見ていた。
「どうぞ、これをお使い下さい」
「それでは貴方が・・・」
 と、やっと意味が分かったように言った。
「仕事は明日からですので、今日は遅くなっても構いません」
 今夜は支笏湖畔のホテルに泊まる予定で、迎えの車も建設事務所を出ていない時間だった。
 雪江は暫く考え込んでいたが今日中に帰りたかった。
「有り難うございます。でも、本当に宜しいのですか・・・?」
「お母様のことを言い掛けていたようですけれど、お大事に」
「お名前を・・・」
「時間が有りませんので行った方が良いと思います」
「私、安達と言います」
 雪江は小さな名刺を渡して、お電話を、と言い掛けながら搭乗ロビーに走って行った。

 機は多少遅れて千歳空港に着陸した。
 久し振りに降り立った苫小牧駅のホームは吹雪いていたが、日高本線最終の様似行きに間に合った。直通の様似行きは一日五本しかなく、苫小牧から百五十キロ、三時間三十分掛かる予定だった。雪江は弁当とお茶を買い、座席に掛け、やっと落ち着いた。母親の容態が危ないと知らせてきたのは兄だった。雪江の母は続発性の肝臓癌で、半年ほど前から入退院を繰り返し、気付いたときには既に切除手術は困難な状況だった。
「お兄さん、雪江です」
「医者から親近者に連絡を取るように言われた。直ぐ帰れるか?」
「お母さんが・・・」
「昨夜から譫言のように雪江、雪江と呼んでいる」
「直ぐ帰ります。お兄さん、それまでお願いします」
 簡単に身支度を済ませると急いで羽田空港に向かった。

 曇った車窓の向こうに冬の太平洋が拡がっていた。汐の匂いを感じる頃になって、雪江は空港で出会った昭生のことを思った。
【・・・あの人に会うことがなければ私は未だ羽田空港にいたことになる。最終便は離陸せず、あの人はまだ空港に残されているのだろう。何処に行く予定だったのか、仕事だと言っていたが名前を訊くことも出来なかった。名刺を渡したので電話を掛けてくれるだろうか、否、屹度掛けては来ない。そんな人に感じた・・・】

 様似町は北海道にしては比較的温暖で、町域の約九十パーセントを森林が占め、降雪量は少なく風と海霧の多い地方である。太平洋から望むと、正面に様似漁港、その右手にアポイ岳、吉田岳、ピンネシリのアポイ山塊が聳え、日高山脈襟裳国定公園に指定されている。アポイ岳は学名オリビンと言うカンラン岩で構成され、氷河期時代から固有の動植物を育んでいる山として研究者の間で知られていたが、近年心許ない入山者や環境変化のため自然保護が必要となりつつあった。また、日高昆布の産地として有名であり、鮭、鱒漁港として水産業が盛んである。様似町から襟裳岬までは国道三三六号線で三十分程の距離である。国道三三六号線のうち庶野から広尾迄は黄金道路と呼ばれ、その建設に多額の費用が嵩み、まるで金を敷き詰めたような道路と言うのが名前の由来である。しかし、険しい海岸線は整備され現在は多くの観光客が行き来している情況である。
様似駅には兄の克哉が迎えに来ていた。
「お母さんは?」
「今夜が峠だと言っていた」
「心配ばかり掛けてしまって・・・」
「今年は例年になく寒い。東京も寒いだろう?」
「いいえ、東京では寒さを感じない」
 と、雪江は言った。芯から染み入るような寒さを感じなかったのだろう。
「雪江、様似に戻って来ないか・・・?」
「時々そうしようかなと思う。でも後二、三年頑張る。しっかりした腕がなければお客さん来ないもの」
「そうか、仕方がないな・・・」
「お兄さん、結婚しないの?」
「雪江も和江も戻ってくる気がなければそろそろ結婚するかな」
 と、諦め顔で言った。
「仕事は?」
「可も不可もない。毎日同じことの繰り返しだ」
 克哉は地元の高校を卒業すると、事故で亡くなった父親の後を継ぐことは無く漁業協同組合に就職していた。雪江が高校一年の冬のことで、船からの転落死だった。
 車は既に病院の玄関口に着いていた。

 雪江の母は兄弟の見守るなか翌日の明け方に亡くなり、通夜、告別式と慌ただしく過ぎていった。久し振りに妹の和江にも会うことが出来た。和江は短大の二年生で、この春札幌のデパートに就職先が決まっていた。
「就職が決まって良かったわ」
 と、雪江は安堵したように言った。
「東京に行きたかったけれど、お姉さん来るなって言うんだもの」
「そうよ、一人では辛過ぎる所・・・」
「様似に帰って来る気はないの?」
「お兄さんにも言われた。でも、勉強することが沢山あって、後何年掛かるか分からない」
「美容師って大変なんだ!」
「一人前になるにはね。でも、東京に行ったことは後悔していない」
「お兄さん、案外寂しいのかな」
 和江は和江なりに兄のことが気になっていた。
「何れこの町に帰って来たいと思う。東京の生活は何時も後ろから追われているようで疲れてしまう」
「ねえ、お姉さん・・・好きな人はいないの?」
「残念ながら・・・」
「美人なのに!!東京の人には分からないのかしら?私が男なら放っておかないわ」
「毎日、仕事、仕事で付き合ってくれる人なんていない」
「恋人に近い人は?」
「それもいない」
「勿体ないな!」
「兄弟三人きりね」
 と、雪江は虚空を見上げて言った。
「離れ離れにね・・・」
「和江、札幌には直ぐ帰るの?」
「ええ、明日中には・・・お姉さん暫く居てね」
「家の片付けもあるし友達にも会いたい。でも、週末には帰らなくてはならない」
 一週間の休みを取ってきたが長く休むことは出来なかった。
「お兄さん、ご飯の支度できるかな?」
「漁師の息子だもの、大丈夫よ」
「教えてやってね」
「次に会えるの、何時になるかしら?」
 兄弟三人、次に会う機会が有るのか無いのか分からなかった。
「お姉さん出歩かないでしょ?偶には東京に行って上げる」
「嬉しいわ、有り難う」
 雪江は久し振りに様似の町を歩いた。家々の様子も、人々の生活も変わっていなかった。自然の中に息付き調和している町だった。苦しくても悲しくても雪江を受け入れてくれる町だった。東京に帰る前日エンルム岬に行った。海も、沈む夕陽も五年前と同じだった。索漠とした東京の街から帰ってきたいと思った。
夜が更けて行った。雪江は何時までも眠りに就くことが出来ず、エンルム岬に吹き荒れる風の音を聞いていた。

 三

 轟音と共に滑走路を離陸した千歳空港行き最終便は水平飛行に移っていた。昭生は暗闇に包まれた窓外に目を遣りぼんやりと過ぎた日のことを考えていた。函館の夜景が眼下に見え始めた頃、胸ポケットにしまい込んでいた名刺を取り出した。サロンドモア美容師、安達雪江と記されていた。電話を、と言っていたが掛ける訳にはいかなかった。それでは自分の生き方に反するだろうし、如何にも物欲しげになると思った。雪江か、良い名前だと思いながら名刺を胸ポケットに戻した。
「遅くなって申し訳ない」
 空港には伊藤友矩が迎えに来ていた。伊藤は札幌の工業高校を卒業した現地採用の社員だった。入社して直ぐ志田川の世話になったことがきっかけで、朔北の地では何かと志田川の面倒をみていた。
「そろそろ出掛けようと思っていたところに突然の電話だったので心配しました」
「余り捗っていないと聞いているが・・・」
「申し訳ありません。今年は雪の量が多く二週間位遅れています。工期迄に間に合うか分かりません」
「明日現場を見れば大体分かるだろう、それから対応策を考えれば良い。急いでも良い仕事が出来る訳ではない」
「宜しくお願いします」
「変更する箇所が出てくるかも知れないが仕方ないだろう。多少予算を超過しても遣るべきことは遣っておいた方が良い」
「分かりました。ところで今回の予定はどのようになっていますか?」
「支笏湖に三日居て、後は札幌支所に行く」
「札幌では?」
「大体図面が仕上がったので、当局と一回目の打ち合わせをする。変更箇所もあるだろうし、二日間は掛かるかも知れないが一緒に行かないか?」
「行っても宜しいのですか?」
「構わないよ。これから勉強しなくてはならないし、交渉の進め方を見ているのも面白いだろう。所長には話しておく」
「有り難うございます」
「札幌も久し振りだし一杯奢るよ」
 湖畔のホテルには十一時前に着いた。風呂から出ると直ぐ食事が運ばれてきた。
「遅くなって申し訳ない」
「お待ちしておりました」
「宜しく頼みます」
「何時もご贔屓にして戴いて有り難うございます。今後とも宜しくお願い致します」
 と言って、仲居は部屋を出ていった。
 大学に入って始めて旅行したのが北海道だった。リュックサックを背負い千歳駅に降り立った日のことが思い出された。昭生は一人酒を飲みながらこれからのことを考えていた。
【・・・あの頃とは違い色んな面でこの辺りも開発が進んでいる。人が住み易く交通が便利になる為の仕事だろうが、結局人間の為であって何れ自然とのバランスが保てなくなる。数年先、数十年先には机上論では成り立たなくなるだろう。出来る限り生態系や自然を念頭に置いて仕事をする必要がある。未来を見据えながら現在必要なことは何か、そう考えて取り組みたい・・・しかし俺自身が常にバランスを保って生きることが出来るのか、何れ株式会社の人間として難題を抱えることになるだろう。入社して一年、二年と経つ毎に、俺の生き方も考え方も中途半端になっている。理想と現実の狭間を乗り切ることが出来なく、近視眼的にしか物事が見えなくなっている。人間がどのように関わりを持とうとも、自然は計り知れない連鎖反応によって息付き蠢いている。一度破壊することによって、元に戻すことの出来ない壊滅的な被害を齎す・・・恐らく、地球上に生きている全ての動植物は自然に適応してそれぞれの関連性を持っている。そのことを無視して仕事を進めるとき、俺にとっても未来は有り得ない。それに、俺自身与えられた生命のひとつの過程に過ぎない。俺の為に生きるのではなく自然に順応して生きる必要がある。その時、始めて朧気ながらも展望が見えてくるのかも知れない・・・未だ自然を残している支笏湖も、何れ水辺全体に開発の手が延び地形を変えるだろう。道路、自然林、水質、魚貝類、居住環境、動植物、それぞれが四季の自然に調和されなくては今度の仕事も好い加減な結果を残すことになる。三日間の間に何が出来るか分からないが、出来るだけ良い方向を見出したい・・・】
 止んでいた雪も北風と共に降り始めていた。昭生は窓辺に寄り、見上げた虚空に空港で出会った雪江のことを考えていた。そして、心の片隅に残った翳りを忘れられないなと思った。
 翌朝湖水まで下りていった。一面新雪に覆われ、吹き付ける西風に飛ばされた飛沫が湖岸を着氷で覆っていた。支笏湖は周囲四十キロ、最深部は三百六十メートルの国内第二の水深があり、冬季に結氷しない最北の不凍湖である。その東側からカルデラ壁を破って千歳川が流れ、北側はカルデラ壁が急角度で湖水に落ち、平地が少ない地形である。日本でも代表的な貧栄養湖で、水草も余り茂らず、魚類はアメマス、カジカ、エゾサンショウオなど在来種が生息した豊かな自然を残している。

 千歳市との工期延長交渉も札幌市との打ち合わせも順調に終わり、最後の日は伊藤友矩と酒を飲んだ。札幌と言えば薄野と言われているが、志田川の性格を知っている伊藤は、賑やかな場所を避け郊外の静かな居酒屋に案内した。
「志田川さん、色々勉強になり有り難うございました」
「今後のことを考え東京に出て来ないか?・・・東京に来れば力添えも出来るし、専門学校にも通えるだろう」
「出来ればそうしたいと思います」
「儲ければ良いと言う時代は終わった。これからの建設業界は、アセスメントをしっかり踏まえなければ生き残ることが出来ない。恐らく何万年、何十万年という周期で自然は動いている。しかし俺達は、現在と、ほんの二、三十年先しか見ていない。災害がある度に、決まり文句のように自然を甘く見ていましたなどと言い訳をしている」
「ええ、そう思います」
「会社の幹部も、確かな仕事をしなければ会社の存亡に関わることがやっと分かるようになってきた。早い、安い、好い加減と言う時代は終わった。しかし組織という逃れられない拘束がある」
「志田川さんには凄い情熱があります。僕なんかとても太刀打ち出来そうにありません」
「確りした足で踏みしめると少しずつ先が見えてくる。それに目を瞑らず敢然と立ち向かわなくてはならない」
「志田川さんが居れば僕たちも頑張れます」
「社内でも風当たりが厳しくなるだろうな・・・」
 と、昭生は独り言のように呟いた。その日、二人はこれからの人生や展望について語り合った。

 翌日、昭生は千歳空港十三時三十分発の羽田空港行きに搭乗する為、ロビーを十八番ゲートに向かって歩いていた。一方雪江は、一番奥の公衆電話からサロンドモアに、明日から出勤する旨の電話を掛け終わり振り向いたところだった。「あぁっ・・・」と、驚愕の声を上げた。確かにあの人だと思った。時々、左側の滑走路に目を遣りながら歩いてくる昭生を見つめていた。昭生はふと立ち止まった。先ほどから誰かに見られているような気がしていたが、公衆電話の前に立っている雪江に気付いた。暫くの間、二人はお互いを見つめ合っていた。偶然に出会い、その場限りのこととした二人にとって再会出来るとは思いも寄らなかった。思いも寄らなかったからこそ新鮮で鮮烈な出会いであった。

 東京に戻り一週間が過ぎていた。クリスマスを前に、街の飾り付けも終わり賑やかな夜を迎えていた。雪江も昭生も一週間の間、相手のことを考えていた。
「二度とお会い出来るとは思っていませんでした。それに、志田川さん、お電話下さらないと思っていました」
「何故、そのように・・・」
「そう言うことが出来る人ではないと思いました」
「掛けようと思っていたけれど、その前に会うことが出来た」
「嘘を付いている・・・」
 と、雪江は小声で言った。
「本当は会いたかったのかも知れません」
 湖畔のホテルで降り頻る雪を見上げていたとき、心の片隅を過ぎった雪江のことが思い出された。
「私の方に向かって歩いてきたとき夢ではないかと思いました。機内では座席が離れていたし、東京に戻ってからもお話が出来なかったので残念でした」
 志田川は帰京後現地報告をしなければならず、雪江とは羽田空港で別れていた。
「偶然が二度も重なって、またお会い出来るなんて信じられませんでした。一週間の間、夢を見ているのかも知れないと思っていました」
「三度目はこうして約束する事が出来ました」
「志田川さん、お仕事、間に合いました?」
「あの日は支笏湖のホテルに泊まり、翌日湖畔の工事現場を視察して、それから札幌に行きました」
 二人は知らず知らずの内に現在に至るまでのことを語り合っていた。長い人生の間には幾つかの出会いがある。しかし大切な人だと気付かないまま忘れ去られる。後になって、その時のことを思い出しても既に過去の遺物に過ぎない。そして、人との付き合い方は何時でも不可思議である。日常的な幾つかの事柄を過去に押しやり、互いに理解納得する場合、また、雪江と昭生のように二人だけの偶然が重なることもある。

 四

 志田川雪江の死亡診断名は心筋梗塞後の心破裂とされた。心室中隔穿孔で心タンポナーデを起こして急死したと思われる。しかし穿孔部を閉鎖する手術をしていれば助かっていたのかも知れなかった。心タンポナーデとは、心膜内に血液が溜まり、心臓の拍動が出来なくなった状態で、心拍出量の減少した状態を言った。要するに血液を心臓から送ることが出来なくなって呼吸停止になったと思われる。
『直ぐ手術をしていれば助かったかも知れない』と、医者は言った。そして、逡巡していたようだったが、『それに、お腹の中には幼い命が芽生えていた』と付け足した。最後に言った医者の言葉が昭生の心のなか深く残っていた。
 告別式が終わり、弔意客が引き上げ、知人が帰り、そして係累が帰っていった。静まり返った部屋に昭生一人が残された。為す統べなく簡単な身支度を済ませると深夜マンションを後にした。行き場など無かったが一人で居ることに耐えられなかった。雪江が死んだと言う事実は変えようがなく、死に追いやったのは自分が帰らなかった為であり、昭生に理解出来たことはそれだけだった。車の中で寝泊まりしながら西伊豆まで来ていた。海を眺めながら、内面に拡がる虚無感に支配されていた。数日間西伊豆で過ごし、そして海を離れた。

 山梨県の北麓に拡がる森林地帯、小海線の清里駅から西に五、六キロ離れた所に通年利用できる貸別荘がある。近くには幾つかのスキー場が有り時節柄若者達で混み合っていた。しかし鬱蒼とした唐松林に囲まれた別荘周辺は、八ヶ岳からの風花を運び、日中晴れていても朝夕冷え込み厳しい冬を感じさせた。此処に来てから二ヶ月が過ぎていた。西伊豆を離れたことは覚えていたが、茫然自失のままその間の記憶を失っていた。しかし幾つかの情景は影絵のように残っていた。唯、具体的な事柄になると確証は無かった。残されている何枚かの領収書や、伝票の日付を見て日々が過ぎたことを知った。
 会社には休職願いを出していた。仕事も遣りっ放しのままだったが、現在の昭生にとって論理的に処理出来る状態では無かった。葬儀後一度もマンションに帰ることは無く親しい人にも会っていなかった。新聞を読むことも、テレビを観ることも、ラジオを聴くこともなかった。周囲の情況を理解せず、社会から隔絶されたような厭世観の漂う生活を続けていた。
 昭生は暮れて行く林間を眺めていた。視野の向こうに何も映ることはなく悔恨だけが堂々巡りしていた。しかし外界から遮断され、冬の厳しさに耐えることで心の平常さを保とうとしていた。
【・・・何故、雪江の魂の叫びを聞くことが出来なかったのか、『帰ってきて、早く』と、そう叫んでいた。あの時、直ぐ帰っていれば死ぬことはなかった。仕事は中途で止めることが出来た。信頼出来る矢崎が一緒だった。彼奴に後のことを頼み現場を離れることが出来た。雪江に必要だったのは俺であり、他に頼る人は誰もいなかった。二日間暗いベッドの中で、痛みに耐え、苦しみながら俺の帰りを待っていた。これまでにも辛いことや苦しいことがあった筈である。しかし電話を掛けてくることなど滅多になかった。たった一度きり、望みを託して、助けを求めてきたのに、俺は仕事を優先させていた。俺は、俺自身の生きることへ優柔不断さ、感覚として捉えることの出来ない先見性のなさ、的確な行動を躊躇う人間性の欠如、そして、何よりも愛することの深遠さを失っていた。雪江、独り寂しく苦しかっただろう・・・】
(貴方・・・ただいま、遅くなってご免なさい)
(お帰り、こっちにおいで!)
(直ぐ近くで待っていたのに、先に行ってしまうんだもの、いけない人ね)
(雪江が何処に居たのか分からなかった。それに、仕事があって、今日中に仕上げたかった)
(終わったの?)
(少し残っている。でも、明日も頑張るよ)
(最近、身体の調子が良くないの・・・)
(無理が重なったのだろう、少し休むと良い)
(昨日もベッドで横になっていた。そして、貴方と過ごした日々のことを考えていた。楽しいことが沢山あって、とっても嬉しかった)
(もう会えないような言い方だよ)
(だって、私は死んでしまった。二度と貴方に会うことはない)
(死ぬ筈がない。そんな言い方は止めな!)
(いいえ、貴方はそのことを受け入れなくてはならない)
(大丈夫だよ、雪江の身体のことは一番良く知っている)
(そうね、貴方の雪江だもの。でも、出張から早く帰ってきて!貴方の居ない部屋で待っているは辛い)
(そう言えば、出張している間に雪江が亡くなったと誰かが言っていた。しかしそんなことが有る筈がない。早く帰るから待っているんだよ)
(いいえ、本当のことよ)
(雪江の言っていることが良く分からない)
(私のことを大切にしてくれた人は貴方しかいない。貴方の優しさに、力強さに、温かさに触れることが出来た。そう、貴方と過ごした日々は掛け替えのないときだった)
(雪江、待っているんだよ。もう直ぐ、もう直ぐ着く)
(貴方、夢を見ているの?ねえ、二人が空港で出会ったとき、私のこと慌て者だと思ったでしょ?)
(可愛い人だと思った)
(嘘付きは嫌い)
(ジェット機の小さな窓から暗闇を眺めていた。その時、雪江のような恋人が出来れば良いなと思った)
(本当?・・・嬉しい!・・・私も貴方のことを考えていた)
(でも、再会することはないと思っていた。東京の街を歩いても、地方を歩いても、同じ人に二度と巡り会うことはない)
(そうね、色んな人が通り過ぎ、そして過去になる。そのことを寂しいと感じることもある。でも、人間は後戻りすることのない時間と空間を生きている・・・ねえ貴方、あの時、その日の内に仕事があったとしても、屹度、搭乗券を譲ってくれたでしょ?)
(そんなに優しくないよ)
(羽田に居たの?)
(そうだよ)
(優しい貴方が好きだった)
 深夜になっていた。眠っていたのか醒めていたのか分からなかった。脈絡のない夢を見ていたのだろう、朦朧とした意識のなかから雪江は忽然と消えていた。

 二月の初旬、北風の吹き荒れる日の午後だった。ロッキングチェアーに掛け、昭生は窓外に目を向けていたが、呼び鈴の音に振り向き矢崎伸吾が訪ねてきたことを知った。
「先輩、心配していました」
「どうして此処を?」
「実家のお母様に聞きました」
「そうか、心配を懸けて申し訳なかった」
「梓湖の工事も順調に進んでいます」
「途中で放り出したままになっていた。これからは矢崎君が中心になって進めて貰いたい」
「何度電話を掛けてもマンションにいないし、会社には休職届が出ていることを知り驚きました。早くお会いしなければと思っていたのですが、済みませんでした」
「暫く休もうと思っている」
「先輩の指示がないと工事が心配です」
「何を言っている。矢崎君一人で十分出来るだろう、会社にもそう言ってある」
 と、言った声も力強くなかった。
「いつ頃から出社して戴けますか?」
「考えてはいるが体調も今のところ良くない。このままでは会社に迷惑を掛けるばかりで・・・いっそ辞めようかと考えていた」
「何を仰るのですか・・・」
「これ以上休む訳にもいかないだろう。然りとて現在の状態では先が見えてこない」
「河川設計は先輩以外出来ないと思います」
「有り難う、頑張ろうとはしているが・・・」
「奥さんのことが?」
「あの時、矢崎君の言うことを聞いて帰っていれば良かった」
「早く仕事に戻って元気を出して下さい」
「札幌の工事のことも気に懸かっていた。出来れば後のことは君に任せたい。札幌支所の伊藤友矩君に連絡を取ってくれないか、彼は仕事熱心で色々手伝ってくれるだろう、信頼できる相手だ」
「分かりました。今日此処に来たのは会社からの指示もありました。長野から戻って、社長室に呼ばれ、梓湖での志田川さんのことを訊かれました。社長も部長も心配をなされ、暫く待つから出て来るようにと言っておられます」
「申し訳ないと思っている。宜しく言っておいてくれ」
「分かりました。それでは失礼します」
 矢崎伸吾は夕暮れの高原を下りて行った。半日という時間のずれが人生の歯車を狂わせていた。しかし、その時間は取り戻せることの出来る時間ではなかった。
マンションに帰り着いたとき、雪江の頬はまだ微かな温もりを残していた。通夜が始まるまでの間、柩に寄り添い離れられなかった。死亡届も、死体火葬許可証も破り捨てていた。死後硬直した雪江の見開くことのない瞼と、頬の冷たさは、記憶からも掌からも消えることはなかった。
 窓を開けると凍て付くような冷たい風が流れ込み、林立した林の間から外灯に乱反射した雪が舞っていた。そして、静まり返った虚空に耐え切れなくなった枝の雪が落ち、カサカサと泣いていた。

 五

 家々の軒先には春まで融けない雪が残り朝から粉雪の舞う芯から冷え込む日だった。この時期、周辺の別荘は五、六軒に一軒の割合で灯が点っていたが余計寒々しさを与えていた。昭生は早い夕食を摂ろうと思いレストハウスに上っていった。前年の夏、雪江と向かい合っていた同じテーブルだった。一人で摂る夕食は侘びしく、暮れかかる高原の先に遠く町の明かりが滲んでいた。
(乾杯!)
 と、言って雪江はワイングラスを重ねてきた。
(素敵な所ね)
(気に入った?)
(とっても、私、様似と東京しか知らないんだもの)
(来年も来るとしよう!)
(いいえ、来年は北海道に行く。様似に帰ってアポイの火祭りを見るの、水中花火がとっても素敵よ)
(何方でも!)
(貴方って優しいのね)
(何も出ないよ)
(ワイン、もう少し如何?)
(でも、飲み過ぎたようだ)
(一緒だもの、大丈夫)
(雪江に出会うことがなければ一生独りで居たのかも知れない)
(嘘、付いている!)
(結婚することなど考えたこともなかった。毎日仕事に追われ、一日一日の大切なことを忘れていた)
(そう言うことにして置きましょう)
(必然と思う?)
(いいえ、偶然だった)
(そうだね)
(ねえ貴方、明日は富士五湖を廻って帰りたい)
(良いよ)
(私の言うこと、何でも聞いてくれるのね・・・)
「お客様、如何なされました。フォークを落とされています」
 と、ボーイに声を掛けられ我に返った。
「少し酔ってしまった」
「新しい物にお取り替え致します」
「もう帰るから・・・有り難う」
 昭生は支払いを済ませると、すっかり暗くなった道を別荘に戻って行った。

 大泉の別荘に来て既に三ヶ月が過ぎていた。朝夕の冷え込みは相変わらず厳しかったが、日中の温かさに木陰の雪も融け始め、夜になると唐松林に霧が立ち込める日もあった。寒さを感じることは無かったが、開け放した窓から霧が流れ込み、昭生の髪や身体に纏わり付いていた。深夜、静寂と反響のない暗闇に雪江の姿を求めていた。
(貴方、少し痩せたかしら?)
(そうかな?)
(しっかり食べないと駄目よ。そして、元気を出さないと!)
(ホテルで食べて、時々は町で買い物をしている)
(貴方のことが心配・・・)
(あの日、雪江を置き去りにして地球の果てに行く夢を見ていた。『行かないで』と叫んでいたのに、俺は機材と共に船に乗り込んでいた)
(いいえ、貴方は私の許に帰ってきた。貴方に抱かれ、その腕の中で仕合わせを感じていた)
(間違いに気付いたとき、船は桟橋を離れていた)
(もう良いの、貴方・・・言わないで!)
(雪江が居なければ・・・)
(貴方は、私にとって永遠の愛であり夢だった。でも、愛することは過去を越えなくてはならない)
(越える?・・・)
(そうしなければ生きることは出来ない)
(過去を越えることは出来ないだろう)
(いいえ、越えなくてはならない)
(此処で過ごした三ヶ月間は何の意味も持っていない。確かに今の仕事をやり遂げる大切さを知っている。一生懸命働くことで展望を切り開く必要がある。しかし、日常が意味をなさない)
(貴方の言う通りかも知れない。でも、私は貴方を失いたくない)
(暫くこのままで居たいと思う)
(貴方を信じています)
(一度、様似に行きたい・・・)
(本当?嬉しい!)
(一緒に行こう)
(様似は素敵な所よ。アポイ岳がまだ真っ白な雪に覆われている四月の終わり、大凧や連凧が大空に舞い上がる。五月の連休が終わる頃、アポイ岳の雪も消えかかり、ヒダカソウ、アポイアズマギク、サマニオトギリなど色とりどりの高山植物が春、夏、秋と咲き乱れる。八月はアポイ山麓で採火式が行われ、エンルム岬の火文字から夏の火祭りが始まる。そして、秋の終わりに冷たい雨が降り始め北風と雪の季節を迎える。私の命を育んだ様似の町は、自然の優しさと厳しさが四季折々に同居する。私は、来る日も来る日も自然と対話していた)
(雪江の自然に対する思いを知っていた)
(いいえ、貴方の優しさに触れたとき、その優しさに吸収されてしまうと思った。そして、何時しか貴方を様似の自然と置き換えていた。逞しく生きている貴方が好きだった。そして、貴方の、翳りのある眼差しの中に未来に対峙する姿を見ていた・・・そう、東京での生活は貴方に出会う為のプロローグに過ぎなかった。それまでの私は、曖昧模糊とした目的のない日常を送っていた。美容師の免許は取れたけれど、毎日毎日基本的なことの繰り返しに夢は消えかかり、腕を上げなければと思いながらも少しずつ心は蝕まれていた。そんなとき貴方に出会うことが出来た。私は弱虫で、何時も貴方に甘えたかった)
(一緒に海釣りに行きカレイを釣った。襟裳岬で海風に飛ばされそうになった。日高山脈から吹き下ろす風を日高しも風と教えてくれた。それが仕合わせだったのだろう)
(ねえ貴方、知っている?アポイ岳にはナキウサギや高山蝶のヒメチャマダラセセリもいるの。昭和四十八年に発見されたセセリ蝶の一種で、中国東北部やシベリアに分布する小さな蝶よ。カンラン岩と言う特殊な土壌条件に咲く、食草キンロウバイに産み付けられた卵が、幼虫となり、主食としながら成長する。セセリ蝶は日本にも四〇種類いるって聞いたけれど、この蝶はアポイ岳しかいない)
(見たことはあるの?)
(標本では見たけれど、幻の蝶を一度は見たかった)
(帰ったときアポイ岳に登ろう!)
(早く夏になれば嬉しい)
(もう直ぐやって来る)
(エンルム岬から沈む夕陽を眺めてみたい。岬に居ると、海の中に一人取り残されたような錯覚を覚える。拡がる海原が真っ赤に染まり、始め光の中に吸収され、やがて闇の中に拡散する。高校生の頃何時も眺めていた・・・夏の観光シーズンが終わる秋口から様似はまた蘇る。紅葉した様似山道を歩くと小鳥の囀りに誘われる。山道は現在から二百年も前に造られた様似への道で、冬島から幌満まで七キロの道程を言う。明治三十四年に海岸道路が出来て廃道になったけれど、それから八十年近く経って整備された・・・そう、太平洋は夏の軽やかな青から紺碧に色を変え、海辺から人影が消える。様似の海を見ることが出来れば、私は蘇ることが出来るのかも知れない。貴方と一緒に暮らせるようになりたい。連れて行って、様似に帰りたい)
 昭生は寒さに震え目を醒ました。そして、闇に目を凝らして暫くの間じっとしていた。夢を見ていたのだろうか、部屋はしっとりと濡れ雪江は霧に捲かれ消えていた。雪江の頬には涙が伝わり落ちていた。生きることを奪われた悲しみの涙なのだろう。雪江の生まれ育った様似に行くことで、生きる方向が見えてくるかも知れなかった。途中で投げ出した工事のことや、心配してくれる友人の為にも仕事をしなければと思った。しかし、行き着く先に雪江の姿は消えていた。
 矢崎伸吾に会ったが結局会社には退職届を送った。十一年間働いた会社だった。将来を嘱望され地道に積み上げてきた仕事だったが戻る気力は失われていた。生活が苦しくなることも、将来のことも、昭生にとって何方でも良いことだった。それは厭世観でも逃避でもなく、大切な人を失ったときに起こり得る神経耗弱のような状態だった。自分が何故居るのか、何をしてきたのか判断出来ず、周囲の情況や家族や係累も関係がなかった。
 意識的であれ無意識的であれ、人は自分の生きてきた環境、教育、思考過程、知識の集約として考え行動する。しかし現在の昭生にとって、それらは何の意味もなさず、飲食と、呼吸と、睡眠が生きていることの支えに過ぎなかった。昭生にとって、意識できる意識を取り戻すには、『直ぐ手術をしていれば助かったかも知れない。それに、お腹の中には幼い命が芽生えていた』と言った、医者の言葉を越えなくてはならなかった。
 昭生は帰り支度を済ませそのまま朝を迎えた。考えることがあるように思ったが分からなかった。未だ小鳥の囀りも聞こえない薄暗い朝靄の中、高原を下りて行った。

 六

 駐車場に車を停めエレベーターに向かった。暫くの間ドアの前で躊躇っていたが、昭生は薄暗い部屋の中に入っていった。マンションに帰って来たのは三ヶ月振りで、部屋の中は葬儀の後出奔したままになっていた。母親に台所の片付けは頼んでおいたが、他は手が付けられておらず、静まり返った部屋は冷気が支配して、これまで人の住んだ気配さえ感じさせなかった。雪江の寝ていたベッドには新しいベッドカバーが掛けられていた。遣る瀬無かった。昭生は一部屋、一部屋確かめていった。洗面所を覗いたり、ベランダに出たりした。しかし何処にも雪江の姿を探し出すことはなかった。居間に置かれた遺影が笑みを浮かべていた。
 昭生はベッドに凭れ掛かり目を閉じていた。
(お帰りなさい・・・)
(ただいま)
(朝帰りなんて、いけない人ね)
(これから羽田空港に行く。急いで支度をしなければならない)
(何処に行くの?)
(様似へ帰る)
(春先の様似は寒いわ。貴方、コートを忘れないでね)
(雪江も一緒に行くんだよ)
(私は・・・行けない・・・)
(今年の夏休みは様似で一緒に過ごす約束をした。アポイ岳でセセリ蝶を探し、色んな草花を見つけ、エンルム岬から海を眺めようって約束した・・・)
(まだ、花は咲いていない)
(今は夏だよ)
(いいえ、雪が降っている・・・)
(幾ら寒いと言っても夏に雪が降る筈がない)
(夏休みはもう終わっている・・・)
 疲れが出たのか短時間眠っていた。我に返った昭生の顔に、カーテンの隙間から朝陽が射し始めていた。窓を開けると冷気が流れ込み、家々の屋根は朝陽を受け一日の始まりを告げていた。しかし虚空に目を遣りながら、昭生は何も感じ取ることが出来なかった。戸締まりを済ませると直ぐ羽田空港に向かった。何処かで雪江が現れるかも知れないと思った。エレベーターから降りて来るのか、羽田空港で待っているのか、昭生の意識は混沌としていた。

 日高本線は大正二年に工事が始まり、昭和三十七年に様似まで開通した。単線だったが、海岸線と丘陵地帯の狭間を走る鉄道は難工事が続き、開通までに太平洋戦争を挟んで四十年の歳月を費やしていた。様似行き最終列車は十八時十二分丁度に苫小牧駅を離れ、様似には二十一時半過ぎに着く予定だった。暫く進むと右前方に苫小牧港が迫り、巨大な貨物船の船窓が暗闇の中に浮かび上がり幻想的な風景を見せていた。静内を過ぎると乗客は急に少なくなり、暮れてしまった海に雪江と始めて会った日のことが思い出された。
【・・・雪江は、最終のこの列車に乗ったのだろう。そして、一週間後千歳空港で再会した。あの日からまだ五年しか経っていない。機内で雪江の名刺を見ていた。支笏湖に居たとき、ふと雪江のことを考えていた。しかし意識することなく通りすがり人のように感じていた。況して、雪江に思いを寄せるなど考えもしなかった。必然と訊いたとき、偶然と答えた雪江だった・・・雪江に出会うまで俺は人並みの恋をしなかったのだろうか。否、人を好きになったことや別れもあった。しかし空港で再会したとき激しいショックを受け、胸裡を熱く切ないものが急激に走り抜け、体内から奮い立つような戦慄を覚えた。やっと愛する人に巡り会うことが出来たと思った・・・仕事に対しても同じように確かに自分の感性を信じていた。あれは何処の現場だったのか、始めて手掛けた仕事だったのだろう。木陰で休んでいた俺の遙か前方に子栗鼠がいた。じっと俺のことを伺っていたのだろう、しかし安心したのか徐々に近付いてきた。そして、小さな声で”好きだ・・・”と、言った。一瞬夢を見ていたのかと思ったとき、子栗鼠は振り返って林の中に消えていた。あの子栗鼠と出会うことがなければ、仕事に対して矜持を持つことはなかった。人間もひとつの生命でしかなく、子栗鼠との共存を視野に置かなくてはならないと、その時感じた。それからの俺は自分の感性を信じて仕事を進めてきた・・・】
(貴方に会うことがなければ、例え羽田空港を発ったとしても、この列車に間に合わなかった。泊まる所もなかったし、お母さんに最後のお別れを言えなかった)
(雪江、一緒に来ていたんだ・・・)
(様似に行くのね・・・二人で始めて様似に行ったときも、こうして向かい合っていた。貴方は様似に着くまで海を見つめていた。そして、私の内面で呼吸している海を綺麗だね、って言った。貴方に愛されていることがとってもとっても嬉しかった)
(雪江のことを少しずつ分かり掛けていたのだろう)
(夕陽が海に消え沖には漁り火が見え隠れしていた。貴方は始めて見る光景だと言った。様似の磯ではアブラコ、コマイ、ソイ、時にはマコガレイが釣れると言っても、貴方の知っていたのはマコガレイだけだった。ねえ貴方、これから帰る様似のこと知っている?・・・様似町は古くはシヤマニと言い、砂馬荷、沙馬荷、射摩尼と書かれていた。アイヌ語のエシャマニ、エシャマンペッ【カワウソのいるところの意】シヤンマニ【高山のあるところの意】シヤマニ【シヤマニというアイヌの女性がいた】サンマウニ【寄り木の多いところの意】などと言われているけれど、色々由来があるみたい。蝦夷地名考并里程記(えぞちめいこうへいりていき)には故事相分からずとなっていて、本当はどれが正しいのか分からない。そして、明治三十九年に様似村になり、昭和二十七年に様似町になった・・・)
(色々知っているね)
(だって、様似は私の故郷よ)
(アイヌの言葉を知っている?)
(エシャマンベツは様似川、エゾシモリは北海道、アポイヌプリはアポイ岳、私にも遠いアイヌの血が流れているのかも知れない)
 終点の車内放送で我に返った。昨夜からの疲れが襲ってきたのだろう、静内を過ぎた頃から寝入っていた。様似駅は霙混じりの西風が吹き付けていた。昭生は暫くの間駅前に立っていたが、思い直したように歩き始めた。
 翌朝は快晴だった。午前中アポイ岳に登り、午後から様似参道を歩いた。山道は所々残雪が覆い、未だ春の訪れを感じさせることはなかった。この季節、登山客は無く、頂上からは様似の町並みが太平洋に抱かれるように拡がっていた。二日目、様似高校に行った。瀟洒な白い三階建の校舎は住宅地の外れにあり、その奥に様似川の源流が流れていた。校庭に立ち、窓辺に佇む女生徒の姿に、帰らぬ雪江の面影を見ていた。小さな声で、「雪江・・・」と呼び掛けても、誰も振り返ることはなかった。その後、様似町のあらゆるところを記憶に留めて置くかのように歩いた。三日目、広大な太平洋に切り立ったエンルム岬から一日海を眺め、眼下に拡がる紺碧の海に雪江の姿を探していた。
(貴方が来てくれることを願っていた)
(生きるには意味が必要だろう。しかし俺には何も無い)
(貴方、悲しまないで欲しい。私は貴方のなかで語り、愛し、共に生きている。何故、死ぬことを考えているの・・・死んではいけない。貴方が自らの命を絶つことになれば私には悲しみしか残らない。生きる意味は日々のなかで作られ、貴方と私が出会った時のように気付かない一瞬のなかにある)
(雪江の歩いた道を、立ち寄った書店を、見ていた景色を、そう全てを感じていた。でも、既に失われていた)
(出会いがあって別れを迎える。貴方と私はその時間が少しだけ短かった。貴方に済まないと思っています。料理を拵えて帰りを待つことも、洗濯物を干すことやお掃除も出来なくなってしまった。貴方の為に何も出来ないことが辛い)
(俺には最早必要がない)
(貴方・・・そんな言い方はいや)
(海が悲しいね)
(貴方の側に帰りたい)
 海上から立ち上る霧に乱反射した光は上空高く舞い上がっていた。昭生はエンルム岬に沈む残光に雪江の姿を見ようとした。しかし、ゆっくりと踵を返すと旅館に戻って行った。そして翌朝、様似町を発った。雪江の生家に寄ろうかと思ったが、玄関先から眺め、そして直ぐに立ち去った。
 日高本線一四六キロが四十年の歳月を費やし、悪戦苦闘の末竣工したことを思い出していた。崖を切り開き、海岸すれすれに走る二両列車は間もなく苫小牧駅に到着する予定だった。様似町に着いたとき、雪江の思いに抱かれたまま逝くことを考えていた。しかし単に死にきれなかったのか、雪江が居なくとも生きようとしたのか、様似の海と町が一縷の望みを与えたのか分からなかった。しかし、生きることの意味を見出すことがどれ程困難なことか、失った悲しみを身に染みて感じていた。

 七

 昭生は東京に帰ろうかと思っていたが苫小牧から札幌行きの列車に乗った。春の気配を間近に感じても、未だ何度も雪に見舞われる札幌の街を当て所無く歩いていた。暫くしてホテルに戻り、降り出した雪を眺めながら義妹の安達和江に会いたいと思った。和江は短大卒業後、札幌市内のデパートで事務員として働いていた。夕方待ち合わせの場所にいると和江の歩いてくるのが遠くから分かった。オーバーコートに身を包んだ姿は、一瞬雪江が近付いて来たのではないかと錯覚した。
「和江ちゃん、元気そうだね」
 と、昭生は先に声を掛けた。そうすることで自分を取り戻そうとした。
「義兄さん・・・」
「久し振りだね、それにしてもよく似ている・・・」
「東京を発つ日の朝電話を掛けても繋がらないし、何処に行ってしまったのか・・・管理人さんに連絡して鍵を開けて戴いたけれど、心配させて駄目な義兄さん」
「山梨県の清里にいた」
「告別式の日から?」
「そう、夜明け前にマンションを出て、着いた所が清里だった。今後のことを考えようと思っていたが、無為な時間だけが過ぎていった」
「様似の帰りだと言っていたけれど・・・」
「旅館に泊まっていた。義兄さんの所に行くことが出来なかったので和江ちゃんの所に寄った」
「そう・・・」
 和江は昭生の目を見つめ暫く考え込んでいた。
「雪江の思い出が恐かったのかも知れない」
「義兄さん、優しいから・・・」
「様似の町を歩き、エンルム岬から海を見ていた」
「仕事は?」
「退職届を送った。暫くこのままで居ようと思っている」
「辞める積もりでいたんだ・・・姉さん仕合わせだったと思う」
「和江ちゃんにも済まないと思っている」
「待っていても二度と姉さんは戻って来ない・・・義兄さん、分かっていながら待とうとしている。その気持ちは痛いほど分かるけれど・・・でも・・・ご免なさい。生意気なことを言って」
「歩こうか・・・」
「ええ・・・」
 暮れてしまった街を二人で歩いた。通りすがりの人から見れば仲の良い恋人同士のように映っていただろう。
「こうしていると、雪江と一緒に居るように感じる」
「元気、出してね・・・」
 二人で場末のレストランに入った。軽い食事を摂り、それぞれの思いを噛み締めていた。
「未だ誰にも話していないことがある」
 と、昭生は言った。これまで誰にも話さないまま胸の内に仕舞っておいたが和江には知って欲しかった。しかし、昭生は躊躇っていた。窓ガラスに映る姿が幾分震えているのが分かった。
「姉さんのこと?」
「医者に言われた・・・雪江のお腹には子供がいた」
「え・・・ほんとに?・・・」
「医者は誰にも聞こえないように小声で言った。三ヶ月になっていたそうだ。雪江はそのことを内緒にしていた。雪江が亡くなった後も、お腹のなかで生きていたかと思うと、苦しくて、苦しくて仕方がない。俺は雪江と一緒に自分の子を殺してしまった・・・雪江は俺のことを驚かす積もりでいたのだろう、長野に出張するとき、俺の目をまじまじと見つめ、そして、帰ってきたとき『教えて上げる・・・』と、言った。俺は何のことか皆目見当が付かなかった。結婚して四年目に初めての子が出来た。今思えば、そわそわしていたり、にこにこしていたり、普段と違った様子をしていた。しかし雪江の思いにも容態にも気付かなかった・・・幾ら自分を責めても、仕事に追われていたと言い訳をしているのに過ぎない。俺は自分の仕事を勝手に自負していた。しかし一番大切なことを見落としていた」
 昭生の両頬に涙が伝わり落ちていた。
「義兄さん・・・」
「雪江は、暗い部屋で俺の帰りを待っていた。必ず帰ってくると信じていた・・・激しい胸痛と闘いながら・・・無念だったと思う・・・今頃になって自責の念に駆られても仕方がないと分かっている。しかし、暗いベッドで耐えていた雪江のことを思うと・・・雪江の骨を拾っていたとき、産まれてくることの無かった子の姿を胸裡に描いていた。融けてしまったのか、未だ骨にもなっていなかったのか、でも、雪江の骨と混ざり合っていたのだろう。俺は名も無い子に済まなかったと侘びていた。しかし幾ら侘びても最早取り返しはつかない。火葬台車を目の当たりにしたとき、赤子が悲しく微笑んで『お父さん、お父さん』と、言っているようだった。骨を拾う俺の指先はブルブルと震えていた。発狂したかのように大声を出したかった。唯、唯、誰にも気付かれないように耐えていた。しかし、何時自分を見失うか分からなかった。自分に対する怒りと、雪江の思いと、小さな子の悲しみが渾然と混ざり合っていた。俺は人間として許されないだろう・・・」
 昭生は虚空を見ていた。そして、また話し始めた。
「一日が終わり、眠りに就こうとすると、子供の声が『助けて父さん、助けて父さん』と、言っているように聞こえてくる。俺は手を伸ばして必死で助けようとしているのに、子供は徐々に遠ざかって行く。俺は闇雲に子供の後を追い掛ける。しかし、名も無かった子の姿は忽然と暗闇の中に消え、近くにいた筈の雪江も一緒に消えている。俺は自分の居る場所も分からず呆然としている。そして、時間が経つに連れ誰も居なくなった暗闇で一生懸命出口を探している。でも、出口など始めから何処にも無いことを知る・・・清里での三ヶ月間、これからのことを模索していた。しかし空白を埋めることは出来なかった。仕事も、友人も、家族も、お金も、何もかも必要が無いと思えば本当に要らなくなる。雪江を失ったことは、俺自身を失ったことなのかも知れない・・・」

 その日和江と別れると、翌日、札幌支所に戻っていた伊藤友矩と会った。
「先輩、心配していました」
「悪かった」
「本社に電話を入れると退職届が出ていると聞きました・・・直ぐ行きますので待っていて下さい」
 伊藤は待ち合わせの場所に十分ほどで来た。
「飲みに行こうか・・・」
「先輩には面倒を懸けて申し訳ないと思っています。それに、色々なことを教えて戴きました」
「札幌市の工事は後を矢崎君に頼んである。準備は進んでいると思うが協力してやってくれ」
「分かりました」
「落ち着いたらこれからのことを考えようと思っているが、今のところ自分でも何をして良いのか分からない」
「北海道に来ませんか?・・・」
「会社では一従業員でしかなかった。既に退職届を出してあるし、そう言う訳にもいかないだろう」
「先輩がこんな風に結論を出すとは思いも寄りませんでした」
「仕方がなかった。しかし終わったとは思っていない。まだ先があるような気がする」
「僕に出来ることがあったら何でも言って下さい」
 昭生は久し振りに会話をしながら飲んだ。酔うほどに会社での辛かったこと、楽しかったことが蘇ってきた。しかし、これからのことを考えると不安だった。義妹に会い、伊藤に会い、励まされ、勇気付けられた。生きることの大切さ、仕事に復帰することの必要なことを感じていた。
(貴方、酔っているの?)
(飲み過ぎたのかも知れない)
(気を付けてね)
(分かっているよ)
(北海道には何時まで居るの?)
(東京に帰って出直そうと思う。しかし意識が持続しない。頽廃から抜け出すことは出来ないが、自分に対峙することを恐れている訳ではない)
(そう言う貴方であって欲しい。貴方の生命を支える血は未だ燃え尽きていない。清里から帰る日の朝、貴方は子栗鼠の話をしてくれた。私の好きになった人は溜め息が洩れるほど素敵だった)
(様似に行ったことで安心したのかも知れない。直ぐ近くに雪江を感じていた)
(貴方のこと何時も見守っている・・・)
 冷たいベッドで横になっていた。間もなく夜が明けてくる時間だった。昭生は窓を開け、降り出した名残雪の冷たさを感じていた。そして、東京に帰ろうと思った。身の回りを整理して生きる基盤を作らなければと思った。
 搭乗手続きをとるまでの間、雪江が立っていた公衆電話を見ていた。その受話器で何人もの女性が電話を掛けていた。しかし、振り向いた人の誰ひとりとして雪江ではなかった。雪江が振り向いたのは五年も前の出来事だった。

 八

 人々は足早に通り過ぎていた。昭生は通りの向かいから八階建てのビルを眺めていたが、決断を下したかのように歩き出した。関東建設株式会社の玄関に入ったのは梓湖への出張の日以来だった。慰留されていたが正式に退職の手続きを取る積もりでいた。設計部の自分の机を淡々とした思いで片付けた。僅かばかりの私物を紙袋に仕舞いながら、これで終わりなんだと思った。しかし、感慨も未練もなく二度と潜ることのない玄関を出た。そして、振り返ることなく真っ直ぐ帰路に着いた。
 春の陽射しの先にマンションが見えてきた。暫くの間ベランダを見上げていたが手放そうと思った。雪江の思いが息付いている部屋で暮らすことは出来なかった。自分の行くべき場所も、有るべき姿も分からなかったが、東京を離れ、誰にも会わない所で生活しようと思った。
 その日、妹の有美と母親が訪ねて来ることになっていた。
「昭生さん」
「兄さん、久し振り」
 二人とも繁々と昭生を見た。痩せ衰え、四ヶ月前とは面変わりした姿を哀れに思った。
「いらっしゃい」
「昭生さん、お昼の支度をするわ」
 と言って、二人は台所に入り出来合いの惣菜食品を温め、家から持ってきた物を皿に並べた。
「母さんの作った料理、久し振りだな」
「兄さん、また清里に行くの?・・・」
「そうしようと思っている。でも、夏場は混み合ってくるからその前に帰って来ようと思う」
「会社は?」
 と、母親は言った。
「今日で正式に辞めました」
「そう・・・別荘暮らしは何かと不自由でしょ。家に戻ってくれば食事の心配をしなくて済むのに・・・」
「有り難う母さん、でも兄さんも結婚して、そう言う訳にはいかないだろう」
「そうよ、お母さん」
「でも、働かないことには・・・」
 母親はその後に続く言葉を言わなかった。今までのことを忘れ、新しい生活を築かなければならないと、言いたかった。
「仕事は必ず見つけるようにします」
「父さんや母さんに出来ることが有れば何でも言って下さいね」
 春の陽射しは穏やかで時間が止まっているかのようだった。一緒に昼食を摂り、駅まで送り、昭生は美容室サロンドモアに寄った。世話になった神野美鈴にお礼を言って清里に行こうと思っていた。
「志田川さん、随分気を落とされたことでしょう」
 と、美鈴は近くの公園まで来て始めて口を開いた。
「雪江がお世話になり、有り難うございました」
「美容室に残されていた雪江さんの品をお届けに伺いました。でも、志田川さん何時もいらっしゃいませんでした」
 美鈴の目から涙が落ち始めていた。
「マンションに居ても耐えられないだろうと思っていました。でも、何処に居ても同じことかも知れません」
「志田川さんのこと、雪江さんからお聞きしておりました」
「そうですか・・・」
「私も田舎から出て来て東京での生活を始めたばかりでした。毎日が辛くて、でも、雪江さんがいたから此処まで来られたのだと思います。雪江さんには感謝しています」
「雪江も初めての東京で不安だった頃、神野さんに会えて良かったと言っておりました」
「雪江さん、一番の友人で私の理解者でした」
 二人は暫く黙ったまま過ぎた日のことを考えていた。
「そろそろ帰ろうかと思います。神野さん、本当に有り難うございました。雪江の為にも、これからも頑張って下さい」
「ええ・・・」
 と、美鈴は口籠もった。
 いつの頃からか独りになった時など、ふと志田川のことを考えている自分に気付いていた。そんなとき、雪江に対して申し訳ないと思いながらも、自分の気持ちをどうして良いのか分からなかった。それに、葬儀の時の志田川の落胆振りに心が痛んだ。側によって抱き締めたかった。しかし出来ないことだった。屹度その時に、既に愛していることを知ったのだろう。美鈴は躊躇っていた。しかし、志田川に対する思いを伝えて置かなくては、二度とその機会を失うだろうと思った。
「志田川さん、雪江さんのこと今でも愛していらっしゃるのでしょうか・・・そうですよね・・・雪江さんのこと、何時も羨ましいと思っていました。何故か分からなかったけれど、雪江さんに嫉妬していたのかも知れません・・・マンションに何度かお伺いする内に、若しかして、もう戻っては来ないのではないか、二度と会えないのではないかと不安でした」
「神野さん・・・」
「四ヶ月間、部屋の明かりが消えていました」
 公園の中は静かだった。休憩時間を終えた人達は既に職場に戻り、誰も居なくなったベンチに掛けた。
「ご免なさい、こんなことを言って・・・でも、葬儀の後毎日毎日考えていました。そして、志田川さんのことを大切な人だと気付きました。随分以前から心の片隅に住み始めていたのでしょう、唯、そのことに気付かない振りをしていた・・・雪江さんには済まないと思っています。でも、志田川さん、私のこと考えて戴く訳にはいかないでしょうか・・・」
 昭生は暫くの間何を言って良いのか分からなかった。神野美鈴が自分に対して思慕の念を寄せていたなどと思いも寄らなかった。
「告別式の日から東京を離れ清里の別荘を借りて住んでいました。悔恨の日々で、自分が何処で何をしていたのかさえ分からない生活でした。それに、今日限りで会社を辞めてきました」
「志田川さんの苦しみを理解したいと思っていました・・・マンションの暗い部屋を見ていて、雪江さんが呼んでいるかのように思いました。雪江さんの替わりなど出来る筈はありません。でも、志田川さんの力になりたいと思いました・・・この間、雪江さんのお墓参りをさせて戴きました。そして、志田川さんに対する私の思いを話しました。雪江さんに納得して戴けるか分かりませんが、分かって欲しいと思いました」
「しかし・・・」
「焦っている訳ではありません。志田川さんのお気持ちが静まる迄待ちたいと思います」
 美鈴も自分の思いを伝えることが辛かった。志田川に受け容れられなかった場合、これを機に東京での生活に終止符を打ち田舎に帰ろうと思っていた。志田川に対する愛情の芽生えも原因だったが、東京での一人暮らしに困難さを覚えていた。
「これまで未来を先取りするような仕事をしていました。でも、仕事だけでは生きられないことを知りました」
「生きて行くことは、一体何だろうと考えることがあります。日々の辛いことを聞いてくれる友人もいない。毎日毎日疲れ切った身体に、自分の為に勉強していると言い聞かせ、後一年、後一年と耐えていた。でも、東京での生活は寂し過ぎました・・・雪江さんが亡くなられた日の前日のこと、志田川さんは長野に出張中だと言っておられました。そのことを知っていたのは私以外いなかった。雪江さんの乗ったタクシーを見送りながら何故か不安だった。翌日休んだとき、何故マンションに行かなかったのか悔やまれます。あの時行ってさえいれば、雪江さん助かっていたのかも知れない・・・日々の仕事に追われていると大切なことを見失います。人を思いやる必要があるのです」
「雪江にとって、神野さんは掛け替えのない人だったと思います」
「私がいけないのです」
 美鈴は深い溜め息を吐いた。虚ろな眼差しの向こうに帰らぬ雪江の姿を見ていた。そして、志田川の辛さを考えると、自分の思いを打ち明けたことを後悔していた。
「私には何もありません。それに、これから先何が見出せるか分かりません。でも、もう一度考えようと思います」
「志田川さん、お元気でいて下さい」
 昭生は美鈴の思いがけない告白に狼狽えていた。二、三度しか会ったことはなく、雪江の親しい友人だったこともあり、その内面まで考えていなかった。思えば雪江の葬儀のとき、てきぱきと働き、時々自分の方を振り返って見つめていた姿が思い出された。
 清里に着く頃は春先の深い夕靄に覆われていた。住んでいる家は疎らだったが、雪解けが進み、庭先には春の花が芽生え、別荘の周囲は少しずつ変わっていた。

 九

 六月も中旬になっていた。陽の光は穏やかで、牧草地には白詰草が群生して、唐松林は生きる力を与えられたかのように勢い付いていた。しかし昭生は為す術なく近くの遊歩道の散策や、雪解けの八ヶ岳を見て過ごしていた。
 ひとつの死が与える衝撃の深さは、それぞれ人によって違うだろうが、昭生にとって時が解決を齎すとは言い難かった。人には、その姿を見て為体と映っていたのだろう、通りすがりの人に奇異な目で見られることもあった。しかし無為に過ごす日々は、昭生の内面をより深く傷付けていた。母と有美が別荘を訪ねてきたのは、そんな日の午後のことだった。
「これからのこと相談に来ました」
 と、母親はテーブルに着くなり用件を切り出した。
「雪江さんが亡くなられて半年、昭生さんも落ち着きを取り戻したことと思います。何れにしてもこのままではいけないと思って、お父さんや晴彦と相談して来ました」
「東京で会ったとき、あんなに痩せたお兄さん見たのは初めてだった。何の力にもなれないことが悲しかった」
 と、有美は言った。
「昭生さん、仕事に就かない訳にもいかないし、これから先、まだまだ長い人生を生きなくてはなりません」
「お父さんも晴彦兄さんも心配していた。矢張りこのままではお兄さん駄目になるだろうって・・・」
「仕事のことはお父さんに任せても良いのではないかしら・・・知り合いの建設会社で是非来て欲しいと聞いております。兎に角働くことで、今の情況から抜け出さなくてはなりません。直ぐにとは言っておりません。でも、早めに気持ちだけは整理して下さい。それに、就職が決まりましたら紹介したいお嬢さんもいます」
「お兄さんの気持ちも確かめないでと言っていたのに、でも、分かって上げてね。余計なお節介かも知れないけれど、お兄さんのこと心配していることに変わりないし、何時までも独り身ではいられないと思う・・・」
 昭生は黙って聞いているより仕方がなかった。会社を辞め、誰にも会わず、唯一人山の中に閉じ籠もっていた。将来のことを建設的に考えることはなかった。その日その日が終わればそれで良かった。価値の見出せない生活が続いて、精神的にも肉体的にも衰弱していた。母親から何を言われても返す言葉はなく、家族に依拠することで救われるならそれでも良いと思った。自分の感情を捨て、日常の中に埋没することで現在の苦しみから逃避出来るだろう。そして、半年間の放心した生活から現実的な生活に戻ることで、自分を取り戻し社会的な生活が可能になるのだろう。
「昭生さん、よく考えて下さい。雪江さんの為にもしっかりしなければならないと思います」
「お兄さん・・・」
「半年が過ぎてしまった」
 と、昭生は言った。それは意識的に自分に言い聞かせた言葉ではなく、つい口から出たのに過ぎなかった。
「そうよ、半年もの間世を捨てた生活をしていた」
 と、母親が言った。
「雪江さんへの思いは変わらないかも知れない。でも、新しい人生に向かって欲しい」
 と、有美は言った。
「そうかな?」
「そうよ、兄さん。何時までもこのままではいられない。何処かで踏ん切りを付けなくてはと思う」
「ええ、新しく出直す積もりで頑張らなくてはなりません。愚図愚図しているなんて昭生さんらしくもない。以前の昭生さんは清楚で精悍でしっかりしていた」
「そう思う。自分の道を自分で切り開いて行く力を持っていた。お兄さんがしっかりしなくては雪江さんだって悲しむと思う」
「昭生さん、男は仕事をしているときこそ頼もしくなれるのよ。二度とこんな風にならない為にも、早く仕事に就いて身を固めることを考えて下さい」
 と、母親はやや強い口調で言った。
 母と有美は、その日の内に東京に帰った。二人の言うことも昭生に対する愛情から出ていた。しかし、言葉の上で理解出来たとしても昭生の内面には遠く届くことは無かった。

 月末になり清里も初夏を迎える準備に入っていた。休日ともなれば清里の町は若者達で溢れ、迎える七月、八月の夏休み中は、この村の人口は一挙に二、三千人近く増える。東京から移り住む人、遠く関西地区から来る人でひとつの町を形成する。雑多な人々の間で気が紛れるかも知れないが、昭生は清里を離れ東京に帰ろうと思っていた。
 昼の食事を済ませ別荘に戻ってきたが、玄関に見慣れない女性が立っていたので戸惑っていた。
 神野美鈴だった。
「神野さん」
「お車があったので待たせて戴きました」
「今お昼を済ませてきたところですが、神野さん、お昼は?」
「列車の中で戴きました」
「そうですか、天気も良いし、これから散歩に出掛けようと思っていました。近くを歩いてみませんか・・・」
「ええ、とっても空気が美味しい」
「清里は?」
「初めて来ました。良い所です。故郷は海辺の町ですけれど、工業地帯が近かったので臭気の混じる汐風だった。森林の中で爽やかな風に包まれて生活している人達が羨ましくなります」
「此処はもう直ぐ引き上げ東京に帰ろうかと思っています。清里も少しずつ混んできました」
 二人は黙ったまま遊歩道を歩いた。木の葉は風に揺れ、遠く鶯の囀りが聞こえていた。
「私の感情を披瀝して随分悩みました・・・でも、私の思いは変っておりません。志田川さんにとって、雪江さんがどんなに大切な人か分かっています・・・でも、そう思いながらも私のことを考えて戴けるようにと願っておりました」
「毎日自然と共に過ごしていると、雪江のことや、仕事をしていたことが、本当のことだったのか分からなくなる時があります。目覚めると急いで会社に行く支度をしていたり、帰ってきたとき家を間違えているのかなと思ったり、色んなことがちぐはぐになっているのでしょう。何れにしても昔のことになってしまいました」
「ご自分が納得出来るお仕事をなさっていたと、雪江さんから聞いておりました。これから先、またそのようなお仕事をなさる方だと信じています」
「有り難う。同じような仕事に就くのか、全く違う仕事に就くのか分かりませんが、何れにしても復帰したいと思っています」
「ええ、分かります。人は長い一生を生きなくてはなりません。一年や二年の時間の差異など取るに足りないことで、焦慮の念に駆られても耐えなければなりません。何時だったか、雪江さん、志田川さんのことをこう仰っておられました。『あの人の優しさは個としての自分を捨てるときに始まる。そうすることで仕事の本質が見えてくる。自然界において不必要なものは一切無く、それぞれが有機的な繋がりを持って存在している。それらは単に適応しているのではなく、模索し、進化しながら生き続けている。自然界に自分が関わる時間はほんの一瞬に過ぎないけれど、建設的に関わりたい』と、確か、そのように言っておられました。私も志田川さんから色々なことを教えて戴きたいと思いました。雪江さんにそう言うと、『駄目よ、美鈴さん。昭生さんは私の命と引き替えても生きて欲しい人。それに、あの人はそっと見守っていることで次々と自分の道を切り開いて行く。必要な所に必要な人が居なければ、水が澱むようになり何れ腐敗してしまう。あの人の仕事は一建設業界のことかも知れないけれど、何れ多くの人に衝撃を与えることになる・・・自然界の、全ての出来事は偶然から生まれた。でも、あの人は偶然を必然に変えることが出来る』とも言っておられました。雪江さんを通してしか志田川さんのことを知りません。でも、私なりに理解したいと思いました」
「雪江にとって神野さんは心許せる人だったのですね」
「でも、私は雪江さんの為に何もして上げられなかった」
 一時間近く付近を歩き別荘に戻って来た。
「志田川さんのお返事、何時まで待てば宜しいのでしょうか、でも、待っていて良いものなのでしょうか・・・」
「自分でも急激な出来事に対応出来ずにいました。これまでの生き方を考える上でも、時間が必要だったのかも知れません」
「分かりました。来春までサロンドモアにいます。志田川さん、お元気でいて下さい」
 昭生は美鈴を中央線の小淵沢駅まで送って行った。林立した林を抜けると、遠く富士山の雄大な姿が目の前に開けていた。駅に着くまでの三十分ばかりの間二人とも何も言わなかった。美鈴は余りに昭生の近くにいたのかも知れない。雪江のことを考えれば美鈴に変わり、美鈴のことを考えれば雪江の思い出に行き着いた。しかし、人を思う気持ちに区切りなどある筈がない。
 別荘への帰り道、昭生は人家のない所に車を止めた。そして、薄暗くなった遠景を見つめ続けていたが、何もない空間に向かって叫びたい衝動に駆られていた。

 十

 昭生は七月の初旬東京に戻っていた。精神的にも肉体的にも底辺を彷徨っていたが、清里での為体な生活から抜け出そうとしていた。しかし半年過ぎても意識は朦朧としていたのだろう、東京での生活も変わらなかった。食事に出掛けるか、買い物以外はマンションに閉じ籠もっていた。部屋には雪江の物がそのまま残され、死の認知と受容が出来なかった。しかし昭生は何日も掛けて雪江の持ち物を整理していた。片付けることで思いを断ち切ろうとしていたのだろう。洋服類を、食器類を、化粧品類を、仕事に関する様々な品を段ボール箱に詰め、ガムテープでしっかりと閉じていった。ひとつひとつの品物には、ひとつひとつの思い出があった。誰も知ることのない、そして、今では昭生の記憶にしか残らない過去の出来事だった。
 辺りを見回すとすっかり日も暮れ、今日も薄暗くなったマンションの一室に取り残されていた。
(もう清里には行かないの?)
(荷物を纏めて帰ってきた。暫くの間東京に居ようと思う)
(毎日片付けをしているのね)
(ひとつひとつ箱に仕舞いながら雪江のことを考えていた)
(ご免なさい・・・貴方・・・)
(思い出を失いたくなかった。しかし、虚脱した意識に何が必要なのか分からない)
(いいえ、もう直ぐ本来の貴方に戻ることが出来る)
 人は精神的なものが解決出来ない場合、物質的なものから解決を図ろうとする。立ち直る為に誰もが試みようとする行為である。しかし機械的に手足を動かしているだけであって何も変わることは無い。静まり返ったマンションの一室で日々が忘れ去られ、夏が過ぎ、秋も終わろうとしていた。昭生は、東京での生活に区切りを付け四国に向かった。岡山から瀬戸大橋を渡り、瀬戸内海沿いを走る列車に揺られていた。
(貴方、何処に行くの?)
(宇和島に行こうと思っている。これ以上東京に居ることが出来なかった。一人で居ると時間が止まっているように感じる。身体を動かしているか、動く物に身を任せていると気休めになる)
(貴方、そんな言い方はいや・・・)
(部屋の中には何も無い。何も無いように片付けたのに、何も無いことに耐えられなくなっていた。東京での日々は悲し過ぎたのかも知れない)
(でも、悲しみを乗り越えなくては・・・)
(愛することは悲しみしか残さない)
(いいえ、悲しみを越えるとき愛が見えてくる)
(越えることは出来ないだろう。それは雪江だけが知っている)
(私には分からない・・・分からない)
(雪江の持ち物は何もかも軽かった)
(貴方の頬に涙が流れていた。私はその涙を拭いて上げることが出来なった)
(雪江の荷物はそのままで良い?)
(もう二度と着ることのない洋服、使うことのない食器になってしまった。洋服は和江に上げてね・・・)
(そうする)
(ねえ貴方、あの時と同じ。海の色がスカイブルーでとっても明るい。日高本線から見る海と違って軽やかで優しい感じがする。そう、貴方に必要な自然の力を持っている)
(夏の間、仕事に行ったところを歩いていた。懐かしくて行ったのではないが、水の流れを見ていると心安らぐ)
(貴方は口癖のように言っていた。自然と、水を守る為に働いていると・・・そのことを忘れないで欲しい。自然を浄化し、歴史を変えることが出来るのは水しかない。水は生き物のように恐く、水の力が人間の生活や生き方さえ変える。治水には限界があり、何処まで仕事として関わりを持てるか分からないが自分の力を試してみたい。水を治め調和していると思うのは人間の奢りであり、水を守ることが建設の仕事だと言っていた・・・河川改修や護岸整備などに因って、水辺の生息、繁殖の場になっている瀬や淵などを壊している。一度破壊された環境は二度と元に戻すことは出来ない。今、貴方の前に瀬戸内の海が拡がっている。波は静かに寄せ、汀にも沢山の生物は生きている。気の遠くなるような時間が生物を進化させ、自然に適応してきたと言っていた)
(生きていた間に何を得たのだろう、ひとつの力は他を犠牲にする。人間はそんな生き方しか出来ない)
(貴方に必要なことは仕事だと思う。不確実な環境を自らの手で確実にするとき、明日が見えてくることを知っている)
(雪江・・・)
 特急列車は松山に着いていた。宇和海号に乗り換え、西の果て宇和島に向かった。海と蜜柑畑の傾斜地を右に左に揺られながら列車は走っていた。宇和島に着く頃は夕暮れを迎える時間だった。

 秋も過ぎ東京も北風の吹く季節に変わり空気は透明度を増していた。眼下に見える街路樹は既に葉を落とし始め、所々重なり合い風に運ばれていた。
 雪江が亡くなり一年が過ぎようとしていた。
(貴方、もう直ぐ一年になります。その間、私を何時も近くに感じ愛してくれた。これ以上苦しまないで下さい)
(一年か・・・でも、昨日のことのように思う)
(いいえ、大切な時間を失っていた)
(自分に対して、仕事に対して真摯であろうとした。そうすることで人間として許されるだろうと思っていた。しかし一人では何も出来なかった)
(いいえ、私は知っている。仕事のなかに、設計する図面のなかに貴方の理想を生かそうとした。建物は自らを誇示することなく数年の内に自然に同化しなくてはならない。それは、貴方自身の哲学であり優しさから来ていることだった。何が必要なのか、何故必要なのか、求められていることは何なのか考えていた)
(唯、生きていたのに過ぎない。人から見れば為体に映っていただろう)
(貴方は自らを肯定することはない。否定していくことで新しい道を探し続ける。これからも、そう言う生き方をして欲しい)
(雪江・・・)
(ねえ貴方、美鈴さんの話をしても良い?)
(良いよ)
(美鈴さんの気持ちは私が一番良く知っている。屹度、貴方を理解してくれるでしょう。美鈴さんに任せることが出来れば安心できる・・・美鈴さんを愛して下さい)
(神野さんに返事をしなくてはならない。しかし、自分の気持ちを確かめたとしても、その場の判断に委ねるより仕方がない。出来れば何もかも忘れて何処か田舎で暮らしたい)
(逃げては駄目・・・)
(済まないと思っている。電話の後、何故帰ることが出来なかったのか、早く帰ってさえいれば、あの子も雪江も助かっていた。俺は傲慢で自分のことしか考えていなかった)
(忘れなければ明日は来ない・・・)
(明日が来たとしても意味がない)
(ひとつだけお願いがあります。これが最後のお願いになるのでしょう。様似に来て下さい。そして、私の思いを貴方の心のなかに閉じ込めて下さい。私は永遠に貴方と居る。貴方に依って生きたことを忘れない)
(今は雪江の思い出が有り他に何も必要としない。仕合わせは何処にあるのだろう?・・・雪江と出会った頃を懐かしく思う)
(美鈴さんのことを考えて下さい・・・貴方にとって必要な人は美鈴さんしかいない。美鈴さん、このままでは東京を離れてしまう。貴方のことを愛している美鈴さんと別れるようなことになれば、美鈴さんも貴方も不仕合わせになる)
(様似には十二月に行こうと思う。神野さんのことは様似から帰ってきてから考えたい。清里の別荘に来てくれたとき、雪江のことを話した。良い人だと思う)
(そうして、貴方・・・)
 愛する思いは時が経つに連れ深くなっていた。しかし愛する人の死は、ひとりの人間を頽廃へと導いていく。時々蘇る、生きようとする思い。しかしそれを日常の感覚として捉え切れない状態が続いていた。雪江のこと、美鈴のこと、家族のこと、仕事のことなど心のなかを過ぎっていた。
 夏の間、幾つかの工事現場を歩き、忘れていた感覚を肌で感じようとした。しかし気が付くと酒に溺れていた。一人で飲む酒が侘びしく、侘びしさを紛らわす為にまた飲んでいた。酔っていたのか、酔うことも出来なくなっていたのか、静まり返った暗い部屋で昭生は耐えていた。

十一

 苫小牧駅を十二時丁度に発車した列車は、高原と海岸の僅かな隙間を様似に向かい走っていた。集落毎に小さな無人駅があり、駅と駅の間には牧草地が拡がり子馬達が草を食んでいた。家々の屋根には高い煙突が立ち並び、間近に迫る冬の準備のため軒下には堆く薪が積まれていた。静内を過ぎると雪も止み、遠く日高山脈の稜線は積雪で覆われ光り輝いていた。降雪量の少ない地方と言っても、平野部には雪が降り積もり、夏の間釣り人で賑わう海岸線も人影さえなく、打ち寄せる波間に海藻が浮き沈みしていた。
 昭生の内面は雪江の思いで満たされていた。しかし日高本線終着駅、様似への旅程を最後に生きる方向を模索しようとしていた。様似駅に到着した時は午後の陽も落ち始めていた。見慣れた町に降り立ち懐かしさを覚えていたが、昭生はエンルム岬に向かって歩き出した。岬の先端は北風が吹き抜け、芯から冷えてくる寒さに時間だけが過ぎていた。
 エンルム岬に陽が沈み、雪江が求めていた風景が眼前に拡がっていた。時間は止まり、誰も知ることのない永遠の空間があった。
(貴方と二人で夕陽に染まりたかった)
(もう来ることは無いかも知れない)
(人は、今日を、明日を失いながら生きている。しかし、それでも生きることが出来る。誰もが深い悲しみのなかにいる。愛があれば良いのではない。充足された日々があれば良いのではない。貴方が居て私が居た。それは永遠に消すことの出来ない刻印としてある。貴方と共に過ごした日々を、貴方の心のなかに持ち続けることが出来る。これ以上何が必要なのでしょう・・・)
 残光の中に雪江の面影を見たように思った。辺りはすっかり陽も暮れ寄せる波音に包まれていた。喪失感を頽廃と置き換えることが出来るのだろうか・・・しかし、昭生は生きる意味を見出したかった。

 雪江の生家はエンルム岬から数分の小高い丘の上にあり、様似漁港が国道を挟んで直ぐ目の前に拡がっていた。
「ご無沙汰しております」
「昭生君・・・」
 突然の来訪に安達克哉は驚いたように迎え入れた。
「一周忌には行くことが出来なくて申し訳なかった。兎に角上がってくれ」
「矢張り様似は寒いですね」
「和江から様似に来たと聞いたが、何故寄ってくれなかった?」
「玄関先から雪江が顔を出しそうだったのでそのまま帰りました」
「雪江のことを何時までも・・・しかし月日の経つのは早いと言うが、一年も前のことになってしまった」
「あの日、後半日早く帰っていれば死ぬことはなかった・・・そう思うと、悔いても、悔いても悔やみ切れません」
「雪江は昭生君に出会えて仕合わせだったと思う・・・一人暮らしで碌な物しかないが飲もうか・・・」
「有り難うございます」
「親父を亡くしてから雪江も苦労してきた。高校の夏休や冬休みはアルバイトをしていたし、東京に行ってからも芯が強かったのか、泣き言ひとつ言って寄越さなかった」
 と、克哉は酔いが回ったのか話し始めた
「よく様似の話をしてくれました」
「中学生の頃から早く帰ってきては、夕飯の支度を手伝い洗濯や掃除もしていた。それに、和江の宿題をみてやりながら自分も夜遅くまで勉強していた。様似には遊ぶような所もないが、大人しいと言うか、休みの日も自分の部屋から出ることもなく読書や編み物をしていた・・・あれが欲しい、これが欲しいと言う年頃だったのに、静内や札幌に遊びに行くこともなく、自分の物は何も買わず、アルバイトで稼いだお金は母に渡していた。それに、東京に行ってからも少ない給料から時々母に小遣いを送っていた・・・高校三年生になってから随分悩んでいた。東京に行って美容師の勉強をしたいと決めたのが夏休みに入る直前だった。母は北海道に居て欲しかったが、雪江も意志が堅かったのだろう、気持ちを翻すことはなかった・・・夏休みになると、東京に行くと言って就職先と美容師学校を見学して来た。自分の腕ひとつで生活出来るように手に職を付けたかったのだろう。しかし不安の方が強かったのか、時々一人で考えていたり溜め息を吐いていた。夏休みも終わり、二学期になってからは美容師学校を受ける為の勉強や、東京の地図を眺め、自分なりに一生懸命だった・・・東京での生活も、授業が終わると直接美容室に行き、毎晩遅くまで働いて二年間と言うもの休みもなかった。身体を壊さないかと母は何時も心配していた・・・その頃から少しずつ無理が重なっていたのかも知れない。それまで病気らしい病気もしたことはなく、健康だけが取り柄のような妹だった。小学生の頃から体調を悪くて学校を欠席したことも無かったように思う。それが突然こんなことになってしまうとは・・・でも、それが雪江の運命だったのかも知れない」
 思い出しては溜め息を吐き、茶碗に注がれた酒を飲み干し、また話しを続けた。
「様似に戻ってきたのが三年目の夏だった。美容師の免許も取れ、これから本当の修行が始まると言っていた。一人前になる為に東京まで行ったからには、例え五年、十年掛かろうとも頑張り通すと・・・辛いことや苦しいこともあっただろうに、家にいる間愚痴ひとつ零さなかった。次の日はエンルム岬に行くと言って一日海を眺めていた。そして、翌日は東京に帰ってしまった。西も東も分からない東京でよく頑張ってきたと思う・・・母が亡くなって半年ほど経ったとき結婚したいと知らせてきた。羽田空港で知り合い大会社に勤めている人だと言ってきた。何れ北海道に帰って来るものと思っていたし、それまで一度も恋人の話もしなかったのに、いきなり結婚したいと言ってきた時には驚いてしまった・・・田舎生まれの雪江で大丈夫かと心配していたが、和江とも手紙や電話で話をしていたようだった。しかし、親戚の誰もが簡単に結婚出来ないだろうと思っていた。生まれも育ちも違う二人が、偶然の経緯でトントン拍子に結婚できるなどと一体誰に信じられましょう・・・雪江にとって、昭生君は初恋の人だったのだろう。臆病と言うか、細心と言うか、慎重を期するような性格だったので青天の霹靂だった。何も分からない雪江を昭生君は大切にしてくれた。短い人生であったとしても雪江は仕合わせだったと思う」
 静かだった。目を閉じるとエンルム岬に砕ける波音が聞こえてくるようだった。
「雪江の物は殆ど残っていないが古い写真がある」
 と言って、克哉は押入から何冊かのアルバムを持ってきた。昭生は一冊ずつページを捲った。雪の中で真っ赤な顔をしている幼かった頃、面皰顔の中学生の頃、大人に成り切れない幼さの残る高校生の頃、校庭で撮った写真、アポイ岳で撮った写真、エンルム岬で微笑んでいる写真、其処には確かに雪江がいた。
「義兄さん戴いて良いですか・・・」
 そう言って、昭生は何枚かの写真を内ポケットに仕舞った。
「昭生君の気持ちは分からないでもないが、もう終わったことで、これから先のことを考えなくてはならない。雪江もそう望んでいるだろう・・・」
 昭生と克哉は、その日酔い潰れるまで飲んだ。
 様似も北風の吹き荒れる季節になっていた。風の多い地方で、冬の北風、夏の南風が交互に秋と春を境に吹いていた。
(パパ、お帰りなさい)
(ただいま・・・お母さんは?)
(お買い物に行ったよ)
(その・・・名前は?・・・)名前を呼ぼうとしたのに幾ら考えても思い出せなかった。
(お母さんのこと?)
(雪江だよ)
(私の名前?)
(そう)
(パパ忘れたの?)
(思い出せないんだ)
(パパ、名前を付けなかった。私には名前が無いから誰も呼び掛けてくれない。学校で何時も虐められる)
(名前がなかった?)
(そう、パパ悲しいよ・・・早く名前を付けて!)
 昭生は身震いして起き上がった。辺りを見回してみたが東京のマンションではなかった。吹き荒れる風の音を、子供の泣き声のように聞いていたのだろう、間もなく夜が明けようとする時間だった。

十二

 二週間前に活けた花は既に枯れ、多摩市の高台にある墓地は木枯らしが吹き荒れていた。墓前の前に立つ度に、『直ぐ手術をしていれば助かったかも知れない。それに、お腹の中には幼い命が芽生えていた』と、言った医者の言葉が蘇ってきた。その言葉を思い出す度に、生きることの空しさに支配され、明日のことを、今日のことを考えようと思いながら溜め息が洩れた。雪江は、昭生にとって掛け替えのない愛であり指標だった。そして、芽生えた幼い命は、何事にも代え難い昭生自身の愛だった。羽田空港で出会うことがなければ、昭生は淡々と仕事をして、何思うことなく家と会社の往復をしていたのに過ぎなかっただろう。雪江との出会いに依り、平坦な日常から生きることの確乎とした基盤を作っていた。
 死は誰にでも訪れる、逃れることの出来ない事実である。しかし雪江の死は予想外のことだった。歳月は人の思いを変え、環境は人の行動を規定する。確かにそうなのかも知れない。しかし昭生にとってそう言えたのだろうか。歳月が人の思いを変容させるなら、全ての出来事は忘れ去られ、雪江の死も昭生の悲しみも過去のことになる。武蔵野の街にも様似の町にも人々の出会いがあり別れがある。昭生にそのことが理解出来たとしても雪江は既に他界していた。
 出会って五年の歳月は愛を育むには短すぎたのだろうか。情念の限りを尽くした愛ではなかった。こつこつと日々を積み重ねる単調な愛ではなかった。嗜虐的で甚振るような愛ではなかった。雪江と昭生の愛は、恐らくそれぞれの思念を充足させて行くような愛であり、愛することの接点を求めながら、人間として生きることを求めていたのだろう。
 振り返ると武蔵野の街が遙か彼方に絵を描いたように拡がっていた。北風に吹き曝されている雪江の、在りし日の姿が悲しみを増幅させていた。清里にいるときも、マンションにいるときも、思い立っては墓前に来て、一時間、二時間と立ち尽くしていた。昭生に出来たことはそれだけだった。
(水仙、スイトピー、トルコ桔梗、リンドウ、アイリス、みんな私の好きな花・・・一年の間、私は貴方と共にいた)
(様似へ行って来た。エンルム岬は風が吹き荒れていた)
(もう冬ね)
(雪江・・・あれは何時のことだったのだろう・・・結婚して一年目の冬のことだったのかも知れない。二人で小さな旅行をした。東京に帰るとき、丁度夕陽が海に消えていった・・・雪江は夕陽を見ていた。そして俺は、雪江の瞳に映る夕陽を見ていた)
(貴方の優しさが好きだった)
(悲しみを越えることが出来るのだろうか・・・エンルム岬で、ひとつだけ考えていた。大学に戻って、もう一度勉強をやり直そうかと・・・俺に残された道は他にないような気がした)
(貴方を信じています)

 十二月も下旬に入り、街の至る所イルミネーションが輝きクリスマスの宵を演じていた。昭生の内面は未だ混沌としていたが、生きる方向を模索して一歩でも前に進もうとしていた。
 久し振りに矢崎伸吾に会った。
「先輩、これから先どうなされるのですか?・・・」
 ビールを注ぎながら伸吾が言った。
「職探しをして、来春から働くことになるだろう」
「もう一度会社に戻ることは出来ないでしょうか?・・・」
「無理だろう」
「矢崎君に何処か紹介して貰おうか、これからはひとりで食える仕事があれば良い」
「そんな風に言わないで下さい」
「悪かった・・・」
 昭生は注がれたビールを眺めていた。投げ遣り的になっている訳ではないが、心の中に埋めることの出来ない隙間が残っていた。
「何時か自分達の設計事務所を持ちたいですね」
 と、伸吾は感慨深そうに言った。
「そうなれば自分の思い通りの設計が出来る。でも、河川だけでは商売にはならないから建築の方も勉強しなくてはならないだろう。法律のことも勉強しなければならないな・・・」
「先輩、やってみませんか。今直ぐと言う訳にはいかないと思いますが、矢張り独立出来ればと思います」
「よし考えてみよう。一級建築士が二人もいるのだから仕事になるだろう」
「小さなことから始め、何れは大きな仕事をやりたいですね」
「札幌の伊藤君にも手伝って貰えるだろう」
「先輩は水が好きだと何時も言っていました。さらさら流れる水を見ていると人間の生き様を映しているようだと・・・」
「そうだった。生きることは水の様なものかも知れない。出来るなら執着しないで生きて行くのが良い。そんな生き方が出来れば、また先のことが見えてくるかも知れない。矢崎君、知っているかな」
 と言って、昭生は方丈記の一節を諳んじた。
≪行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中(よのなか)にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。たましきの都(みやこ)のうちに、棟(むね)を並べ、甍(いらか)を争える、高き卑しき人のすまひは、世々を経て尽きせぬ物なれど・・・朝(あした)に死に、夕(ゆうべ)に生(うま)るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける・・・≫
 矢崎と別れ昭生は居酒屋に入った。一人で飲みながら過ぎた一年のことを考えていた。清里の別荘に半年間居たことは事実だった。そして、東京に戻ってからの半年間は各地を転々と歩いていた。自分で設計した河川を一日、二日と眺め、遠い日の出来事が蘇ることもあれば、自分が何処にいたのかさえ分からない日もあった。あの部分を手直しする必要があるだろうと思ってみたり、角度を、もう少し変えて造れば良かったと思ったりした。関東建設に入社して十一年、理論と理屈だけでは決して出来ない仕事を手掛けてきた。自分の内面を支えていた仕事だった。
 ひとつのことに集中出来れば良いのかも知れない。けれども渾身の力を込めて集中するものが一体何処にあるのだろう。行き着く先に消え入りそうな灯であっても、点ってさえいれば、それに向かって進むことが出来る。昭生にとって、執着としての雪江ではなく、生きる為に、対象としての雪江が必要だった。しかし純粋に育まれた意識には何かが足りなかった。昭生がそのことに気付くには尚歳月を必要としたのだろう。
 雪江のことを思い出していた。二度目の逢瀬がクリスマスイブの宵で、高層ビルのレストランで食事をしたのは出会いから三週間後のことだった。
(素敵な景色、こう言うところで食事が出来るなんて夢みたい)
(喜んで貰えて良かった)
(私の恋人?)
(そうなりたい)
(でも、まだ志田川さん?)
(そうかな?)
(様似って、知っている?)
(一緒に行ったよ)
(クリスマスね、貴方へのプレゼント何に致しましょう?)
(今年で五年目だね、雪江がいれば何も要らない)
(貴方・・・始めてのクリスマスよ)
(子供と、二人のこと考えていた)
(欲しいもの、言って・・・未来は?)
(明日のこと?)
(もっと遠い未来よ)
(欲しいのかな?分からない。現在だけで良いような気がする)
(だって、明日は確実にある方が良いでしょ?)
(そうだね、でも)
(でも、何て言わないの。貴方への愛は私の夢だった)
(夢?)
(そう、私の夢は貴方のなかにある)
(二人の夢だよ)
(私、貴方に何もして上げられなかった)
(雪江、おかしいこと言うなよ)
(貴方に出会えたこと忘れない・・・)
(違うよ、雪江)
(少しだけ寂しい・・・)
(こっちにおいで)
(はい・・・)
 うつらうつらしていたのか、纏まりのない夢を見ていたのか、意識は混沌としていた。
 居酒屋を出る頃には酷く酔っていた。歩道を走ってきた自転車を避けようとしてフラフラと車道に出てしまった。激しいクラクションを鳴らしながら大型トラックは急ブレーキを掛けた。女性の悲鳴で近くにいた人達が集まってきた。「大丈夫か」「救急車を呼べ」「しっかりしろ」「意識はあるか」「救急車はまだか」「早くしろ」と、口々に叫んでいた。昭生の脳裡に何人かの声は届いていた。しかし、その声も徐々に間遠くなり雪江の声に変わっていた。
(貴方、しっかりして)
(雪江・・・)
(目を醒ますのよ)
(もう直ぐお前と名も無い子のところに行ける)
(いや、貴方、死んではいや)
(これで良かったのだろう)
(貴方、生きるのよ)
 痛みも苦しみもなかった。エンルム岬に陽が沈んでいった。アポイ岳に白い花が咲き乱れ暗色の蝶が飛んでいた。マンションのベランダに雪江が微笑み、何か呟いているような気がした。幾つかの情景が瞬時に過ぎり閃光と共に消えていった。雪江を意識の底に呼び戻すことが出来なくなったとき、昭生の生命は薄れていった。雪江が亡くなって一年一ヶ月後のことである。
東京の街には珍しく白いものが落ち始め、遠く救急車のサイレンが鳴り響いていた。

                                                                                     了

エンルム岬

エンルム岬

結婚して4年目、妻の急死、拭い切れない喪失感・・・朔北の地で・・・

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-19

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