一円に泣くものは
大学のサークルの冊子に掲載した作品です。
一円を笑う者は一円に泣く、ということわざがある。
ごく少量の金銭だったとしても、それを粗末にする人は、いつかその少量が手元になくて泣くような思いをする、という意味。どんなに小さくてもお金はお金、大切にしなさい、という教訓を含んでいるのだろう。
正木哲行は泣いていた。一円に泣かされていた。
何度もドアが叩かれる音で、正木哲行は目を覚ました。こうやって他人に起こされるのは、かなり不快だ。しかも日曜日の午前七時。アルバイトは休みだ。喧嘩を売っているとしか思えなかった。がしがしと頭を掻きむしりながら玄関へ向かう。
正木が鍵を外し、ドアを開けると、外にはコート姿の男がふたり立っていた。
ひとりは背が高く肩幅がやたらと広い。鍛えられた筋肉が、服の外からでもはっきり分かる。髪の毛を後ろに立てていて、見るからに勇ましい。中学校とかで常に威張ってそうな奴だ。というわけで、こいつはマッチョ。
もうひとりは、細々としていた。マッチョの隣にいるから、余計にそう見えるのかもしれない。彼は、襟足が肩の辺りまで伸びているが、なぜか髪の毛が重たそうに見えない。爽やかな男だった。四角い眼鏡をかけているので、こいつはメガネ。
貴重な休日の朝の七時に、ノックの音で無理矢理起こされ、何事かと出てみれば男がふたり立っている。
なんの冗談なの、と正木は溜め息をつく。
メガネが、「正木哲行さんですね」と尋ねてくる。
正木は反射的に「あ、はい」と答える。そりゃあまあ、ひとり暮らしの身ですし、泊まりにくるような親しい友人なんていないですし、残念ながら恋人もいないですし。そうですよ、俺が他ならぬ正木哲行ですよ。
正木は嫌悪感を最大に引き出しながら、「で、なんですか? 布教なんですか? 宗教なら興味ないですよ」と言い放ち、さっさとドアを閉めてしまおうとした。
するとマッチョが、ものすごい剣幕でドアの間に手を差し込んできた。
「あ、こら。待て!」マッチョの怒号が飛ぶ。いや、お前が待て。時間帯を考えろ。
「なんなんですか」
正木が訊くと、メガネが、ごそごそとスーツの内ポケットに手を入れた。
拳銃でも取り出されたら笑えない。頼むから自分の胸を揉んでいてくれ。正木がそう祈っているうちに、メガネは一冊の手帳を取り出した。
「僕ねえ、県警の梅田。警察ですよ」
なにこれ、刑事ドラマのワンシーンなんですか?
正木は手帳をまじまじと見る。警察手帳。へぇ、これ、本当にあるんだ。妙なことに感動していると、だんだん背中に嫌な汗をかき始めた。
もしこれがただの聞き込み調査だったなら、こいつらは俺の名前なんて知らないんじゃないかな? と。
「正木哲行さん」
名前を呼ばれ、どくんと心臓が跳ねた。正木は、おそるおそる彼らと目を合わす。睨むように、鋭い視線を向けられていた。
「ちょっとお話を聞きたいんですよ」
正木は、そっと息を呑む。まさか俺、逮捕されちゃうの?
「嘘だろ」
「それが、嘘じゃないんですよ」そう言って、メガネが苦笑いを浮かべる。
「でも、俺、何もしてないですよ」
必死で首を横に振る。善き行いをしているつもりはないが、警察のお世話になるような悪事を働いた記憶もない。まさか、スピード違反や違反駐車ごときで家まで訪ねてはこないだろうに。
「うわ、常套句だねえ。まあまあ、とりあえず来てよ」
呆然としたままの正木の腕を、メガネが優しく掴む。大丈夫大丈夫、と買ったばかりに飼い犬をあやしているような手つきだった。
「きみが犯人だって、決めつけてるわけじゃないんですよ」メガネが、穏やかな口調で言った。「正木哲行は、あくまで重要参考人。というか、超重要参考人」
腕を引かれる形のまま、正木はメガネに引きずれれていく。アパートの階段もそのまま降りると、すぐそばにパトカーが威風堂々と駐車してあった。
駐車違反だ。正木は衝撃を受けた。ここ、止めちゃダメな場所だから。まず、お前らが逮捕されればいいんだ。
パトカーの後部座席に半ば無理矢理押し込まれる。パトカーだからといって、座椅子がふかふかするとか、そんな優遇は皆無だった。ただ、ひたすら煙草臭かった。こんな臭い車に乗った警察に逮捕されたんじゃ、未成年喫煙者もたまったもんじゃないだろう。
マッチョとメガネも車内に乗り込み、ドアを閉めた。メガネが運転席、マッチョが助手席だった。
狭くて煙草臭い密室に、男三人。気分は最悪だった。
「お前、とりあえず容疑はかけられてんだよ」マッチョがそう切り出した。「何の罪だと思う?」と、楽しそうに尋ねてくる。
「さあ、わかりません」
「そりゃあねえ。やっぱ僕、哲行くんは犯人とは無関係だと思うんだよ」とメガネ。何気なく『哲行くん』なんて馴れ馴れしい呼び方をしやがったが、残念ながら正木には彼らと仲良くする気なんてなかった。
「どういうことです?」
正木が尋ねると、助手席のマッチョがこちらに勢いよく身を乗り出してきた。怖い、怖いって。
「お前、通貨偽装の罪に問われてんだぜ」
「はい?」声が裏返った。
通貨偽装の罪? 言葉だけは聞いたことがあった。しかし、テレビドラマや映画の中でだけだ。偽札を作った連中に、課せられる罪。
正木は混乱したまま首を傾げる。通貨偽装なんてした記憶なんてない。
小学校の頃、画用紙を切って『百万円』と書いて遊んだことがあるが、まさかそれではないだろう。あれはもう時効が過ぎているはずだ。
「聞くと、たぶん笑うぜ」
「何がですか?」
「お前の罪。通貨偽装ってさ、一万円札大量にコピーしてる場面が思い浮かぶでしょ?」
「はい」
正木が素直に答えると、マッチョがふっと鼻で笑った。
「お前さあ、実は今、偽一円玉作ったっていう疑惑を持たれてんだぜ」
「はあ?」つい、声が大きくなった。正木は、パトカーの中にいるなんてこと、すっかり忘れている。偽物の一円玉? 全く意味がわからない。
「あのさ哲行くん」と、メガネが割り込んだ。「僕ら警察なわけだし、一応きみについていろいろ調べたんだよ。すると哲行くん、きみ今フリーターらしいじゃない」
むきになって否定する必要もない。正木はおとなしく首肯した。
高校を卒業し、家から車で通える場所にある中小企業に就職したのは、もう五年も前の話だ。一年経ったところで、会社から近いアパートでひとり暮らしを始めた。しかしそれから二年で会社を辞め、今はフリーター歴二年目である。
「フリーターがさ、お金に困ってお金を偽装しちゃおっかなって思うのは、なんとなく納得できるんだよ。だから、通貨偽装ってだけなら、まだ分かる。でも、一円玉を偽装するメリットって、何もないよね。むしろ、デメリットしかないよ」
メガネのこの意見には、マッチョも同調しているらしい。しきりに首を縦に振っている。たしかに、と正木も心の中で頷いた。
一円玉の偽物を作ったところで、たいした利益は出ないだろう。むしろ損失が出る気さえする。貧しいフリーター生活でそんなことするのは、時間が無駄なだけだ。それに、偽物を造っていることがばれれば、今正木がなっているように、警察のお世話になってしまう。
「ねえ哲行くん」メガネが、正木の目を覗き込むような格好になった。「きみさ、犯人じゃないでしょ。確実に」
正木は黙って頷いた。簡単に拘束が外れるとは期待していないが、身に憶えのない罪を擦り付けれらるのは勘弁してほしかった。
「だよね。よし、じゃあお願いがあるんだけど、犯人捜すの手伝ってよ」
二日後、正木は、メガネとマッチョにあるビデオを見せられた。それは、近所にあるコンビニエンスストアの監視カメラの映像だった。メガネ曰く、正木はそこで偽一円玉を使用したらしい。
「それにしても、どうやって一円玉が偽物だって分かったんだろうな」
正木が、実物の偽一円玉の入ったビニール袋を眺めながら言った。メガネとマッチョが、警察署から持ち出してくれたものだ。普通の一円玉にしか見えない。
しかし、細かく見てみると、表の若木が、少しだけ曲がっている。ひとつ違和感が見つかればどんどん発見できるもので、『一円』の文字も歪になっているし、裏の『1』の数字も大きさが実際のものよりも微かに大きい。
「お前、コンビニでのバイト経験あるか?」マッチョが正木に尋ねた。
「ない」
今、正木はスーパーマーケットとガソリンスタンドでアルバイトをしている。飲食店や新聞配達、様々なアルバイトをしてきたが、コンビニエンスストアはなかった。時給が安くて、やる気が起きなかった。
「コンビニだけじゃないだろうけど、レジの中のお金と、レジが記録してるお金を参照して、点検するっていう作業があるだろ」
正木はそれを、飲食店でやったことがある。機械を使った。重さで値段を出してくれる機械で、一円玉、五円玉……と、通貨の種類ごと、順番にそれぞれの値段を計上していく。
「その日、一円玉が五枚しかなかったそうだ。五枚だから、もはや数えるってほどじゃなかったんだ。だけど、店員は律儀に一円玉五枚を機械に置いた」
「だけど」と、メガネが割り込む。「そこに表示された値段は、六円だった。明らかに五枚しかないのに、六円になった。で、不審がって一円玉を確かめたら、これだ」
メガネは偽一円玉を指差す。よく見てみると、次々に不審な箇所が現れる、出鱈目な硬貨。一円玉一枚は一グラムだ。五枚で六円分の重量になったということは、この偽硬貨は二グラムあるということになる。
監視カメラの映像に、正木の姿が映り出された。そしてすぐ、それを見ていた正木が「あ」と大きな声を上げた。
「思い出しました?」
「あ、ああ。まさか、このときか」
正木はおよそ一週間前の、この監視カメラの映像が撮影された日のことを思い出した。
それは、レジで会計をしているときたっだ。「八一五円になります」と店員に告げられ、正木は財布を開いた。小銭を出していき、そして、愕然とした。百円玉が三枚に五百円玉が一枚、そして十円玉が一枚。問題は一円玉だった。一、二、三、四……、いくら数え直しても、四枚しかなかったのだ。急いで札を確かめたが、いつもいてくれる野口英世は、その日は不在だった。
ちょうど一円だけ、足らなかった。
たかが一円だけ不足しているのが恥ずかしく、懸命に財布をあさるが、やはりどこにもない。こんなちっぽけな事件だが、焦って、背中に嫌な汗がつたう。
正木が「すみません」と言おうとしたところで、「あの」と女性の声で話しかけられた。店員が言ったのかと思い、顔を上げた。若い、男の店員だった。大学生くらいだろう。
あれ、と思った。店員の視線は正木を向いていなかった。正木のすぐ横を見ている。視線を追って横を向いたところで、再び「あの」と言われた。
正木の隣には、二十代前半くらいの女性が立っていた。彼女は、正木を真っ直ぐに見つめていた。目が合い、ドキリとする。何ににも喩えがたい、綺麗な瞳だった。すぐに、「あの」という声の正体が、彼女だと理解した。
「なんですか」
「足らないんでしたら、よろしければ、わたしが細かいお金、出しますよ」
女性は、左手で正木の右手首を握った。そのまま持ち上げ、今度は右手を拳にして差し出した。受け取れ、ということだろう。そう察した正木は、手首を掴まれている右手を開く。
「これ、使ってください」蕾が開くように、女性の拳が開かれ、中から一円玉が落ちてきた。
「ありがとうございます」
世の中、冷たい人ばかりではない。こんなに素敵な人もいる。正木はそんなことを思いながら、強く強く感謝した。
「あのときの一円が、この一円玉だって言うんですか」
メガネとマッチョが、ほぼ同時に頷いた。正木は項垂れる。どうしても信じられなかった。あの綺麗な心を持った女性が、偽物の一円玉を?
「でも、おかしいじゃないですか。どうして、そのときの一円玉だって分かるんですか。それに、もしそうだとしても、その女性が造ったとはかぎらない」
「これ」と、メガネが監視カメラの映像を指差す。正木は目を見開き、「あ」とこぼした。
女性からもらった一円玉を、正木がレジに置いている場面だった。他の硬貨たちは既にレジ機の上に置いてあった。袋に詰められた商品の横に一円玉を置くとき、突然綺麗な女性に話しかけられたことに動揺してしまっていた正木は、つい下手くそに、投げるようにレジに放ってしまった。
そして、レジに叩きつけられた一円玉は、その衝動で、レジの向こう側まで転がっていってしまったのだ。
「そうだ。あのとき、一円玉をレジの向こうに落として、店員さんが『後で探すから』って放っておいたんだ」
「そうだ」と、マッチョ。「で、シフトの時間が終わるときに、レジの点検をする。一の桁が五の倍数なのにも関わらず、一円玉は四枚しかない。そこでようやく思い出して、探したんだ」
そして、落ちていた一円玉を機械に載せてみると、四円という表示が、いっきに六円になった。これはおかしい、そうやって店員は訝しんだそうだ。
「ねえ哲行くん、この可愛い女の子、知り合い?」
「いえ」正木は首を振る。本当に知らない。
「もしこの女の子見たら、僕たちに教えてくれない?」
メガネのその言葉に、正木は違和感を感じた。
「ん、どうして、その女性を直接追わないんですか。こうやって監視カメラの映像も揃ってる。警察全体でこの子を調べれば、もっと早く解決するんじゃないのか」
「それは、きみをこうしてなるべく自由にしているのと同じ理由だよ」メガネがやんわりと言った。「この女の子については、まだ警察に報告してない。哲行くんはひとりで普通にレジでお金を支払った、って報告してある。それはね、僕たちは、この女の子がこんな地味な犯罪をして何になるのか、全く想像もつかないんだよ。僕は、この子も、犯人じゃないんじゃないか、って思ってる」
「優しそうな子だ」マッチョが毅然と頷いた。「それに、罪も微妙だ。偽物の一円玉を製造したのは、たしかに犯罪だ。でもな、やはり、たかが一円玉なんだよな」
正木は、コンビニエンスストアで、拳を向けてきた彼女を思った。綺麗な目をしていた。どんな不義も許さない、というような、清く力強い、そんな目だった。
「はい、そうですね」
「ですから、まあ本部には内緒での捜査なんですよ。哲行さん、この女の子を見つけたら、僕たちに知らせるか、それが嫌なら……」
「嫌なら?」
「彼女の話を聞いてください。この事件に、本当に関与しているのか。どうして、こういうことになったのか。哲行さんの耳で聞いてきてください」
正木が女性と再会したのは、それから一週間後、以前会った場所と同じ、コンビニエンスストアでのことだった。
メガネから言われた通り、女性を捜すことにした正木は、あの日から、一日二回の頻度で、このコンビニエンスストアに通いつめていた。
弁当を眺めていた女性に、「あの」と声をかける。反応がなかったので、もう一度「あの」と言うと、ようやくこちらを見た。
正木のことを憶えていなかったのだろう、女性は軽く首を傾げ、「すみません」と言う。「どちらさまですか」
正木は右手を差し出した。
「これ、ありがとうございます」
正木の右手には、一円玉が置かれていた。女性はそれを見て、はっと目を見開く。
「ああ、あのときの」
「思い出してくれましたか」
「はい」
「あのときはありがとう。すごく助かりました。これ、ちゃんと返しますよ」
女性はなぜか爛々と目を輝かせた。きらきらと光っている。そう見えるだけではなく、本当に光を放っていて、正木はそれは涙ぐんでいるからだと気付くのに、数秒かかった。
「いえ、こちらこそ、ありがとう」と、女性は掠れた声で囁いた。
何がそんなに悲しいのだろう、と正木は思う。それとも、嬉しくて涙ぐんでいるのだろうか。
「あのとき、嬉しかった」女性は感極まったような声で言った。
「え、どうして」
「だってね、助けることができた、って思ったんです。一円玉で、ひとを助ることができたんだ、って」
正木は首を傾げた。一円玉で人を助けて、ここまで喜べるものだろうか。
訝しんだ視線を受け取ったからか、女性は慌てた様子で首を横に振った。そして、問わず語りで口を開いた。
「一円玉って、すごく小さいと思いませんか」
「そりゃあ、見れば分かりますよ」
「そうじゃあなくて。存在が、です」
「存在……?」
正木が問うと、女性はにっと唇の両端を優しく持ち上げた。彼女の細くなった目の目尻に、うっすらと皺が作られた。笑顔。とても暖かい笑顔だった。
女性は、正木の渡した一円玉をじろじろと眺めた。何かを確かめるように、裏と表と入念に見ていた。優しい表情のまま。
しかしその笑顔は、次の正木の言葉で凍りついた。
「本物ですよ」
「……え」
「偽物じゃないですよ」
女性が正木を凝視し、何度も何度も高速で瞬きを繰り返す。口をぱくぱくと動かすが、何も言葉が発せられることはなかった。
沈黙を切り裂いたのは、苦笑いを含んだ正木の声だった。
「あなたが造ったんですか?」
正木も、女性と同じような優しい視線を送れないだろうかと意識していた。こころなしか、女性の肩から力が抜けたように見えた。
観念しました、とでも言うように、女性が溜め息をつく。
「あれがバレちゃうんですか、それはそれで感動です」
女性の提案により、正木たちは近くにあるファミリーレストランに移動することになった。ゆっくり話を聞かせてくれるようだった。
四人がけのテーブルに、ふたりは向かい合って座った。ドリンクバーを注文し、安っぽいコーヒーを少し飲んだところで、彼女はゆっくり口を開いた。
「あの一円玉、プラスチックらしいんですよ」
その言葉に、正木はいきなり引っかかりを覚える。
「らしい?」
「はい。造ってるグループと、配布するグループが……」
正木は慌てて彼女の言葉を止める。「グループ?」
「はい」女性は頷き、「あ」と短い声を出してから、「ていうか、バレてるってことは、もしかして警察にも?」と声をひそめた。
「はい」と、正木は正直に答えた。そして、家に警察が来たことについて、簡単に説明した。
「そっか」女性は声を落とした。
「とりあえず、話してくれない? いったい、どんな目的で偽物の硬貨を造ったのか。俺はきみたちのせいで、ありもしない罪を押し付けられたんだ。聞く権利はあると思うんだ」
「警察に言うなら、わたしを犯人だって言ってください」
女性は力強い視線を送ってくる。正木がどういうことかと尋ねると、皆が逮捕されるのが嫌だと主張した。自分のせいで警察に目を付けられてしまったので、みんなを巻き込みたくない、という。
「みんな、いいひとなんです」
「いいひとなのに、偽物のお金造ってるんですか」
「いいひとだから、です」
「一円玉の偽物を造って、何をしようとしてたんですか」
正木が尋ねると、女性はくすりと微笑んだ。どうやら、正木の顔が強ばっていたらしい。女性が両の頬を摘んで、それをそっと持ち上げ、教えてくれた。怖い顔しないでください、と。
「何をしようとしてたんですか、って訊きましたね。その質問は、少しずれてますよ」と、女性は朗らかに笑う。「何かをしようとしている、じゃなくて、もうしているんですよ」
「え……」
正木は息を呑む。それはもしかして、日本中の、レジで小銭が無いひとに一円玉を分け与える、というプロジェクトなのだろうか。
くすくすと、再び女性が息で笑った。
「募金してるんですよ」と、女性は言った。「コンビニのレジとかに、募金箱が置いてあるでしょ。それとか、駅前で募金活動してる中高生とかに、募金するんです」
「偽物の一円玉を? どうして一円玉を」
「百円で、百五十円分の一円玉が造れるらしいんです。細かい造り方は、造ってるグループしか知りませんけど、みんなの労働費とか、そういうの無しにすれば、百円で百五十円造れるんです」
正木は眉をしかめた。「どうして一円玉なんだよ。せっかくならもっと大きな額の通貨を造ればいいじゃないか。たかが一円玉を造って……」
正木の言葉を遮るように、女性が少し寂しげな声を出した。
「『たかが』一円玉だからですよ」
「え」
「路上に一円玉が落ちてたら、拾いますか?」
女性の質問に、正木は答えられなかった。拾わない。正木はきっと、一円玉なんて拾わない。
質問は続く。
「一円玉を注視することって、ありますか? もし財布から一円玉がなくなったら気付きますか? コンビニで買い物したあと、財布にしまうのが面倒だからっていう理由で募金箱に入れてませんか?」
「それは……」
「気付きませんよ、一円玉の偽物造ったって。みんな、一円玉なんてどうでもいいって思ってますよ」
女性たちは、一円玉の存在感の薄さ、価値の弱さ、それを利用したのだ。
「わたし、気に入らないんですよね。コンビニのレジの横にある募金箱って。面倒だからとか、邪魔だからとか、そんな理由で、放られた一円玉や五円玉。そのお金で、助かってるひとたちがいるなんて、皮肉すぎると思いませんか?」
正木は歯を噛みしめて、俯いた。ぎしぎしと嫌な音が鳴るほど、歯に力を入れた。悔しかった。
急いでいるとき、コンビニの店員さんに「お釣りは募金しといて」と言ったことがあった。そのお金で、助かってるひとがいる。
通勤中、道路に落ちていた一円玉を見て見ぬふりをしたことがあった。その一円玉で、助かったかもしれない人がいる。
貧困に困っているひとがたくさんいる。日本からでは見えないから、実感が湧かないけど、たしかにいる。彼らにとっては一円だって貴重な資金になりえる。
正木は今まで、だらしない怠惰によって何人のひとを見殺しにし、何人のひとを無責任に救ってきたのだろう。
考えると、悔しかった。
女性の言う通り、正木の中では一円玉は無価値と言ってても過言ではなかった。
「わたしたち、大学生のときに観光目的で海外を旅行したことがあるんです。いろいろな国に行きました。そこで、飢餓に苦しむひとたちに出会ったんです。だからきっと、余計に親近感のようなものを覚えてしまったんです」
「親近感?」
「だって、たったの一円を欲してるひとがこの世界にいるとしても、正直、そんなこと知るか、って思いませんか? わたしは思ってました。でも、旅行して、実際に現地のひとたちと触れ合うと、とても近い存在に感じちゃって」女性は苦笑いを浮かべながら少し照れくさそうに頭を掻いた。「助けたいと思ってしまったんです」
正木は、女性の言うことを理解できていた。親しい友人の悩みには真剣に向き合い、話を聞いてあげるが、どうでもいいクラスメイトなどの相談に付き合うのは嫌だった。同じ学年だったとしても、顔も名前もいまいち知らないようなひとの相談になら、全く興味など湧かないだろう。
「それで、偽物の一円玉を?」
「みんなで考えたんです。ボランティアとかにこまめに協力して、困っているひとたちを助けよう、って。でも、うまくいきませんでした。わたしたちの目標は、あくまで学生時代に行った国にあったんです。あの国のひとたちを笑顔にして、その笑顔を守れるようになりたいって、本気でそう思ってしまったんです」
女性は身振り手振りを駆使して、熱心に語った。その熱意が伝わってきたからだろうか、正木は彼女に対し、彼女のいう『親近感』を覚えつつあった。
正木はふと、自分はこのことを警察に伝えるのかどうかを考えた。しかし、すぐに頭が真っ白になり、どうしていいか分からなくなってしまう。
すると女性が、おもむろに携帯電話を取り出した。
「これ」と言って、画面を見せてくる。
正木は口を半開きにしたまま、目を見開いた。
画面に映し出されていたのは、全身から骨が浮き出た、小学校低学年くらいの少年たちだった。六人で、そのうちふたりが女の子だった。
全員、服というよりも、布といったほうが正しいような衣装を身につけている。そして何かを睨みつけるように、怒ったような戸惑ったような表情をしていた。六人が六人、みんな。『幸せ』なんて言葉を知らないような顔をしている。
「これが、あなたたちが行った国のひとたち?」
「はい」
正木は愕然とした。だって、あまり何も感じなかったから。骸骨と呼べる一歩手前のひとたちを見ても、深く同情することができなかった。だって、こういうひとたちがいることを、知っている。知っているけど、やはり実感がない。
女性が切なげな顔で、携帯電話を引っ込める。
「あのね」
「ん、なんですか?」
「これも、見てください」
再び携帯電話の画面を突きつけられた。
画面には、五人の子供が映っていた。ついさっき見せてくれた写真に写っていた六人のうちの五人だった。
「この写真は、先月、再び同じ国に行ったときに撮った写真です」
「先月?」
「はい。自分らで集めたお金――偽物のお金じゃなくて、給料とかです――で、もう一度同じ国の、同じ場所へ行ったんです。世界各国の募金などで購入した食料や薬剤を現地まで運ぶ団体がいるんですけど、彼らに許可をもらって、そういう食料とかを受け渡すところを見せてもらえることになったんです」
いろいろな野菜や、きっと食料が入っているであろう箱、それと水が入ったペットボトルを持った五人の子供たちは、さきほどの写真からは想像もできないほど嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「この笑顔を見て、わたしたち、良かったって思ったんです。一円玉を大量に造って良かった、ってことです」
正木は、目頭に熱いものが湧き上がってくるのを感じていた。どうしてだ、と不思議に思う。さきほどの、ありありと飢餓の様子を撮影した写真を見ても、たいして何も感じなかったのに、どうしてこちらの写真に対しては、こんなに情が爆発しそうになっているのだろう。
「一円を笑う者は一円に泣く」
突然発せられた女性の声に、正木は顔を上げる。
「……って、知っていますか?」と、女性が尋ねてきた。
正木は黙ったまま頷いた。
「一円を粗末にするひとは、いつか一円が足らなくて困るときが来る、っていう意味のことわざです」と、女性が説明してくれた。「でも、本当にそうでしょうか」
「え?」
「一円を粗末にするひとが、一円で困ることなんて、そうありませんよ」
じゃあなんでこのことわざを話題に出したんだ、と正木は不審がった。首を傾げようとすると、「だからね」と女性が言った。
「だから、わたしは違う捉え方をしているんです」
「違う、捉え方?」
女性は嬉々とした笑顔を浮かべて頷く。どこか自身に溢れた表情だった。
「『一円を笑う者は一円に泣く』じゃなくて、それは逆でね、『一円に泣く者は一円に笑う』って意味じゃないかなって思うんです」
ああ、と思う。笑うって、そうだよ。
馬鹿にして笑うんじゃない、笑うってそうじゃなくて、嬉しいときにするんだよ。
「一円がなくて、困って、泣いて、絶望してるひとたちがいた。そのひとたちはね、たかが一円が手に入っただけでも、こんなにも素敵な笑顔を浮かべることができるんだよ」
もう一度、正木は女性の携帯電話に映されている子供たちの顔を見た。無邪気、という言葉がこれほどまでに似合う笑顔は他にない、と思う。
正木は、いつの間にか泣いていた。たかが一円玉に、泣かされていた。
あの一円玉は、おもちゃだった。
女性がお金のおもちゃを間違えて持ち運んでしまい、それを、レジで困っていた正木に渡してしまった。
女性と、正木、そしてコンビニエンスストアに取り調べに入ったメガネとマッチョが、店長とアルバイトの少年に謝罪した。
最近のお金のおもちゃは、本物と間違えないようにと、大きさや重量を極端に変えて製造しているが、昔のものはそうでもなかった。本物と遜色ないようなおもちゃが、多く出回っていた。
店長は訝しりながらも、警察の言うことだからと言って信用してくれた。『本物』の一円玉を店長に返し、もう一度四人で深く頭を下げる。
……ということで、半ば強引に話はまとまった。
「みなさん、報告があります」女性の声に、およそ二十ほどの顔がこちらを向く。「新入りが、この団体に入ることになりました」
「こんにちは、正木哲行といいます」
何の目標もなく、だらだらと毎日を過ごすフリーターだった正木。典型的なダメな男。いてもいなくても、たいして変わらない、と自分で思ってしまっているほどだ。
正木哲行という、ちっぽけな存在。まるで、一円玉。でも、たかが一円玉だって、誰かを笑顔にできる。
「よろしくお願いします」
正木は深々と頭を下げると、途端に力強い拍手と暖かい歓声に包まれた。
一円に泣くものは