将来の夢、ナシ

本編

 本日最後の授業中、ふと外を仰ぎ見た。潔い水色の空に白く優しい雲が浮かび、そして緩やかに流れている。葉桜が五月の暖かい風に吹かれている。ああ、羨ましいことにそれらは生き生きとしていた。
 さて、一つ窓を隔てた僕はというとどうだろうか。チョークが黒板をかつかつと打つ音を聞かされ、およそ死んでいるのだった。
「ここ、テストに出るぞー。教科書に線引っ張っておくように」
 保健の大橋先生が機械的に言った。機械よりマシなところは音質だけだ。つまりあと何年かで彼もお役御免だろう、失礼ながらそう思う。
 黒板には、赤で「自己同一性(アイデンティティ)」と書かれていた。取り敢えず教科書の自己同一性という単語に黄色の蛍光ペンでマークする。強く、強く、マークする。懸命に塗りつぶそうとする。それでも蛍光ペンの下で自己同一性は主張をやめない。蛍光ペンを黄から青に替えて押さえつける。滅茶苦茶にしてやる。
 視線を感じた。隣の席の佐藤さんが異類なモノを見るような訝しげな顔をしていた。ああ残念、仕方なく自分のセカイから脱する。紙上の自己同一性は僕に牙を向いたまま。だけど一旦は良しとしよう。なぜなら……四、三、二、一。
 ーーチャイムの音。教科書を勢い任せに閉じた。目障りならば、視界外に追いやれば良いのだから、目を閉じてしまえば良いのだから。
「起立、気をつけ、礼」
 いつもの三拍子。大橋先生の勢いを失いつつある後髪、失敬、後姿にさようなら。入れ違いにして担任の小原先生が教室にやって来た。大橋先生よりは勢いのある前髪だった。
「よーし、帰りのホームルームを始めるぞ。日直、挨拶よろしく」
「起立、気をつけ、礼」
 各委員からのお知らせ、先生の話、プリント配布と定型に沿って進んでいくホームルームは退屈で、窮屈で、僕は終始外を眺めていた。
「じゃあ、今から進路希望調査を配るぞー。なるべく早く提出するように」
 小原先生の一言で、窓の外を眺めている場合ではなくなった。狂った大声をあげそうになり、すんでのところでそれを飲み込んだ。
 進路希望調査、それは高校生にとって辛辣な代物だ。進学か、就職か。進学するにしても国公立大学か、私立大学か。文系か、理系か、学部や学科はどうするか。考えたくない、書きたくない、書きたくない!
 下を向き不敵に嗤った。何を嗤ったかは判らない。けれどオカシイと感じて、嗤った。視線が気になる。しかし顔をあげてはならない。醜い顔をあげてはならない。
「これで帰りのホームルームを終わります。日直、挨拶」
 やっと終わる。早く終われ。
「起立、気をつけ、礼」
 いつもは嫌いな三拍子に救われた。僕は帰りの支度を早々と済ませ、教室を飛び出した。部活なんて属していない、自宅へと急ぐ。

 僕は自室の勉強机で進路希望調査と正対していた。さて、いかがしたものか。
 やりたいことがない訳ではない。かと言ってやりたいことがあり過ぎて決め兼ねているという訳でもない。どちらかというと後者に近いか。やりたいことはないが、進路希望調査なるものに自分の将来を書いてしまうことで、いずれ開花するかもしれない自分の可能性を絶ちたくないのだ。怖いのだ。
 取り敢えず適当な国立大学へ進学とでも書いておこうか。しかし志望理由なんてものを聞かれては面倒だ。それに前回の調査でなんと書いたか覚えていない。急に志望校が変わると教師どもは敏感になる。手にしたペンが動かなかった。
 ドアノブの回る音、続けてドアが軋みながら開いた。母が部屋にやってきた。
「啓介、勉強お疲れ様。コーヒー煎れてきたわよ」
「ああ、ありがとう。その辺に置いといて」
 カップが手元に置かれ、香ばしい香りが漂ってきた。湯気がゆったりと昇る様子に心が落ち着いた。
「なに? 進路希望調査?」
 僕と睨めっこしていた進路希望調査を見つけて、母が尋ねた。
「うん、でもなんて書こうか決まらなくて……。そうだ、お母さんおすすめとかない?」
「進路は自分で決めるものよ。啓介の好きなように書きなさい。啓介の行きたい道を、お父さんと一緒に応援するわ」
「そっか、ありがと……」
 僕の最後の一言は弱々しいものとなった。勉強頑張ってね、と一言付け加えて母は部屋を出ていった。
 ーー唐突な静寂。行きたい道、か。カップを手に取り、コーヒーを口に含んだ。口の中が熱くて痛い。それでもカップを持つ手を傾けていく。痛覚が僕に生を感じさせてくれるから。歪んだ生の確かめ方、それが僕を形づくってくれるから。
 空のカップを机に置き、代わりに進路希望調査を手に取った。破る、嗤う、そして破る。僕はなにを嗤っているか、考えているか、そんなの僕だって判らない。
 気づいたときには進路希望調査は大小様々な破片と化していた。少しして、自分の息が上がっているのを感じた。
 そういえば、と今日の保健で習った自己同一性について思い出した。自己同一性の確立とは、現在の自分が何者であるか、将来の自分が何者でありたいかを自覚することであると。また、言い換えれば可能性の切除であると。自分を知ることが苦になるのなら、自分の可能性を捨てるくらいなら、僕は自分なんて知らずに生きたい。死ぬまで手探りでいい。死ぬまで判らなくたっていい。それでも自分で自分を決めつけてやりたくはないんだ! 誰も僕の限界なんて判らないじゃないか!
 仮にも提出物だ。破片を集め、テープで修復していく。出来上がった進路希望調査は、それはそれは醜いモノだった。先ほどとは打って変わって親近感さえ湧いた。だから、そいつに自分の気持ちを、「清水啓介 将来の夢、ナシ」と大きく殴り書きした。記入欄なんて無視して。
 糸が切れたように眠気が襲ってきた。未だ九時ではあるがベットに身を預け、明日の学校を鬱に思いながら眠りについた。

「起立、気をつけ、礼」
 これまた三拍子で帰りのホームルームが終わった。汗ばんだ右手には進路希望調査を握っていた。視線を感じる? そんなことない。小原先生のところに駆けていった。
「ん? なんだ、そんな急いで」
「あの、これ、進路希望調査書いてきました」
 右手に隠していた進路希望調査を見せつけてやった。小原先生は訝しげな顔で僕の進路希望調査を睨んだ。
「なんでこんなに滅茶苦茶で汚いんだ? ふざけてるのか?」
「ふざけてなんかありませんよ」
なんてったってこいつは、この紙は……
「滅茶苦茶さも含めて、今の僕の気持ちであり、将来の形ですから」

将来の夢、ナシ

将来の夢、ナシ

ほんのり狂気なくらいがちょうどいい。 一高校生が自分を見つめる掌編。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-17

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