ガーベラ

※この作品は割と長いのでちょっと覚悟が必要です

1:
冷たい空気が肺の中に流れ込んで、僕は立ち竦んだまま遂に咳き込んだ。
ここには温かみを持つものは何ひとつ無かったが、寧ろその事が僕の心を少しだけ落ち着かせていた。
僕の部屋には大量の本の他には、生活に必要最低限のとても無機質な家具しか置かれていない。その上、この部屋の真ん中で、葉子の裸体は、既に生物としての温度を殆ど失くしていた。
咳き込んだ後の呼吸が整うと、僕はゆっくりとした動作で、小さな本棚の上から真新しいデジタルカメラを手に取った。
部屋の灯かりは消えたままだった。
アパートの二階にある僕の部屋には、外の街灯の明かりだけがカーテンの隙間から入り込んでいて、部屋の中を仄かに照らしていた。その為、電源を入れた直後のデジタルカメラの起動画面はとても眩しくて、暫く直視できない程だった。
撮影モードに切り替わると、カメラの撮影画面は真っ暗な闇だけを映していた。
僕はフラッシュ機能をオンにした。薄いカーペットの上で裸のまま、瞼越しにじっと天井を見つめ続ける葉子の足元に立つと、その顔にレンズを向けてみた。
これまでの僕の動作は予めの計画通り、どこまでも機械的で、不思議なくらい客観的に自らのこの動作を認識していた。
しかし、シャッターを押して、フラッシュが一瞬部屋の中を白々と照らし出すと、僕は目前に現実を突き付けられ、少なからず動揺した。胸郭がじりじり縮んでいくような苦しさに襲われた。
すると、急に空気の冷たさを、肌に痛く感じはじめた。
いま撮影した写真を画面で確認しようと、寒さか動揺かで、少し震える指先で再生ボタンを押した。
画面の中、首元から上が映った葉子の肌は、蒼ざめているというより、ベージュ色のカーペット上にあって、無機質ながらも透明感を湛えていた。
先ほどから震えていた指先が、画面を一度確認して、何か全く違う種の感情によって、先程とは違う種類の震えに変わったのを感じた。
僕は仰向けになった葉子の身体の周りを、蟲が這い回るようにぐるぐると動きながら、何度もシャッターを切り続けた。
彼女の身体の各パーツ。頭から爪先まで、まるで実験体のデータを採取する研究者の様に、綿密に撮影していった。
時間感覚が麻痺していたが、恐らく数十分はその撮影に集中していた。最後に、全体像を角度を変えて数枚撮影したところで、撮影枚数は100枚近くに及んでいた。
最後の撮影画像を確認すると、カメラの電源を落とした。カメラを元の棚に戻すと、ずっと緊張と興奮に強張っていた手をだらりとぶら下げたまま、ぼすんとベッドの上に腰掛けた。
本当に大変な作業はこれからだったが、既にそのまま全て投げ出して眠ってしまいたい程の疲労感があった。
この疲労感を持ったままでは次の作業に集中できないだろうと、少し言い訳めいた理由付けから、二時間の仮眠をとることにした。
枕元の目覚まし時計を7:15にセットした。そして、横たわる葉子の上一枚毛布をかけてから、僕はベッドの上に身を投げ出した。
やはり疲労は相当溜まっていたらしい。布団に包まると、この異常な状況にも拘らず、意外にも僕はあっさりと眠りに落ちた。

2:
場面こそ同じ僕の部屋の中だったが、そこが夢の中だということは夢の中の僕にも直ぐに理解できた。
白々と明るい部屋の中、もう表情を変える筈のない葉子が、ベッドに腰掛ける僕の隣で柔らかく微笑んでいたからだ。
眠りにつく前と同じく、顔を強張らせたままの僕に、優しい表情のまま葉子は言った。
「大丈夫、平野君のした通りで、何も間違っていないよ。」
「わかってる、僕は大丈夫だよ、ありがとう。」
「本当に大丈夫?」
「うん、心配かけてごめん。」
会話はそれだけだった。
会話が途切れた後も、ずっとそのまま二人は座っていた。
現実と違っているのは、葉子が隣でわらっていることと、部屋を満たす光が春の暖かい日差しだったということだけだった。それ以外は現実と変わらない、夢にしてはありきたりな風景だったのに、僕にとってそれらは悲しいくらい全く異なる風景だった。
夢の中の僕は、それが夢の中であることをどこかで自覚しながらも、目の前の幻想を受け容れていた。そしてその目の前の幻想がもうすぐ消えてしまうことを予期しつつ、何も出来ずに只ぼんやりと眺めるしかなかった。
その時になってはじめて僕は、これまでの二人の会話には「大丈夫」という単語が多く交わされていたことに気が付いた。
それは、僕の弱さと彼女の優しさが、自然にそこに存在していた事を僕に痛感させた。

3:
ずっと続くよう願った夢は、突然ぷつりと途絶えた。
やはり精神は緊張していたのだろう。7:03、目覚ましが鳴る少し手前で、自然と目が覚めた。
冷たい空気を遮る布団の温もりから、直ぐには抜け出せそうになく、布団に入ったまま、身体を横へ向けた。ベッドの下、隣の床の上で、静かに目を閉じている葉子を見た。
カーテンの隙間から零れる光は、街灯から朝陽に変わっていて、まっすぐに差し込んで葉子の顔を半分だけ照らしていた。
仮眠する前よりも時間が経ったのに、部屋に満ちる光が暖色に変わった所為か、葉子の顔に生気が蘇った様に見えて、なんだか嬉しく思った。
布団の中から、生前と殆ど変らない彼女の顔を眺めながら、この半年間の出来事を回想し始めた…。

4:
思い返してみれば、葉子と出会ったのがたった半年前であったということに驚かされた。
何故彼女がが僕を、その最後の『処置者』として選択したのか、未だに僕には完全には理解出来ていないままだ。
僕は生来、人間関係のあらゆることが苦手で、その上、特別な趣味や特技も無い、誰が見ても本当につまらないニンゲンだった。
その分、読書や勉強に時間を割くほか無かったから、特に苦労もなくある有名大学に合格した。
しかし、一人きりの読書や学問は僕の陰湿な性格を益々助長し、恋人は勿論、まともな友人の一人も出来ない有様だった。
恋愛だの友情だの、そういった所謂『青春』めいたものに全く憧れが無かったわけではないが、何の役にも立たない厄介な種類のプライドの高さと、持ち前の無気力さから来る行動力の無さで、十代のかなり早い段階からそれらを諦める体質が出来上がっていた。
そして放任主義の両親に代わって、純文学によって価値観を育まれた僕から見ると、現実における周囲の人間や、現代のあらゆる事象が、醜くつまらないものに映ってしまうのだった。すると、やがて文学やそこから生まれる空想にばかり耽溺して、更に現実逃避の体質が出来上がった。
大学に入るまでにはその傾向は確固たるものになり、現実に対する諦めが、苛立ちにまで発展していた。
また、そういったある意味で高慢な思想を持ちつつも、他を否定する権利など全く無い事は十分理解していた。何より、自らの容姿、その他様々な性質が他人より劣っている事を強く自覚しており、常に悲観的な心境であった。
それでもなお生きながらえていた理由は、自分の精神性が歪ながらも清廉を保ち、周囲のそれよりも潔癖なものであるという思い上がりがあったからだった。しかし、その事は前述の通りの、高いプライドや周囲への嫌悪感を拭えない最大の要因にもなっていた。
大学三年生になると、周囲の学生は大学卒業後の自分の身の振り方を考え始めるが、混迷する自意識の中でいじけてばかりいた僕は、いかに苦労せずに、つまりどうすれば働かずにのうのうと生きて行けるかをぼんやり考えるばかりだった。
そんな毎日だったから、自分の生きる意義だとかいう下らない種類の哲学について、しばしば考える暇があった。しかし、僕の無気力さは都合よくそれらの熟考を妨げ、只々また素敵な文学世界への逃避へとのみ僕を駆り立てた。
その自責と現実逃避の繰り返しの中で、葉子と出会った。
その日は教授が遅刻し、日本詩文学の授業開始が遅れていた。普段は必ず時間潰しの為に持ち歩いている文庫本を鞄に入れ忘れた為に、教室の後方、窓際の席に座り、ぼんやりと教室内を見渡していた。
その授業は昔気質の老教授による授業で、単位取得は容易ではないとの噂で、その上地味な授業内容だったので人気は低く、150人は収容できる広い教室内には十人にも満たない生徒しか居なかった。
そんな授業に敢えて出席する様な性質の生徒達だからか、他の授業にはよく見られる友達連れ集団はおらず、教室内に会話は無かった。また、五月の夕方にしては肌寒い日で、窓は締め切られていたので、隣の教室の講義内容が聞こえてくる程、教室内は静かだった。
そんな中でふと目に留まったのが、三列前の廊下側の席に座っている葉子だった。彼女は頬杖をつき、黒板の方向へふわふわとした視線を泳がせていた。
彼女は特別に容姿が優れている訳では無く、逆にブサイクでも無い、一見『フツウ』の女子大生だった。その時に僕の目が彼女に留まったのは、容貌の良し悪しとは別のところにあった。
背中に少しかかる程度の長さの後ろ髪が、頬杖を付いて首を傾けていたために左側へ流れていた。そうして襟のないカットソーと後れ毛の合間、首から背中にかけて、大きな蚯蚓腫れのようなものが、ちらりと覗き見えた。三メートル程度離れた自席から見ても、それが幾つか重ねられているのが見えた。
谷崎や乱歩等と言った、性的倒錯世界の文学も好んで読んでいた僕は、直ぐにそういった類の妄想を構築しかけた。しかしながら、やや地味ではあるものの、何処にでもいる現代風の女子大生に対して、そういった文学世界を重ねるのは違和感があった。その為、間もなくその妄想の構築は中断された。
15分遅れで到着した老教授が、ドアを開けゆっくり教室に入って来た時には、既に彼女に対する興味は殆ど無くなっていた。僕は教授が淡々と語る退屈な講義内容を、淡々とノートに書き留めていた。
講義終了を知らせるチャイムが鳴ると、話題の途中であったにも拘らず、教授は翌週の講義中止を知らせると、手元の資料を片付けさっさと教室から出て行ってしまった。
愛読していた幾人かの詩人についての講義を期待して出席していたが、第三回となる今回の講義までに、彼らの名前を一度も聞くことは無かった。この講義への出席は今回を最後にしようと決心して、ノートを鞄にしまい席を立とうとした。
席を立つ時、ふと講義開始前の事を思い出し、彼女が座っていた席の方に視線をやったが、彼女は僕がのんびりと片付けをしている間に教室から出てしまっていた。
何故だか少しだけ惜しい気持がしたが、それは特に後を引かず、帰り道には古本屋にでも寄ろうか等と考えながら、僕も教室を出て行った。

5:
帰りに立ち寄った古本屋では特に目ぼしい本は見つからず、一時間程懐かしい漫画を立ち読みしたが、結局何も買わなかった。
大学入学以来、顔馴染みとなっていた古本屋の主人に目で挨拶し、外に出るとすっかり空は暗くなっていた。
自宅のアパートがある路地の手前でコンビニに寄って、カップ麺とおにぎりを買った。
一人暮らしも三年目になると、めんどくさがり屋な僕は自炊を全くしなくなっていた。週の半分は、このカップ麺とおにぎりという夕食パターンが繰り返されているような有様だった。
コンビニから自宅までは急ぎ足でちょうど三分程度なので、コンビニ店内でカップ麺にお湯を注ぎ、急いでアパートへと戻った。
部屋の前で、左手でカップ麺とコンビニの袋を持ち、右手で薄い春用コートのポケットから鍵を取り出した拍子に、ポケットからくしゃくしゃになったレシートが落ちた。
いつ買い物した時のレシートかをその場では思い出せず、取り敢えず拾い上げてビニール袋に放り込んでおいた。
鍵をあけて、部屋に電気をつけた時には、既に三分経過していたので、小さな机の前に座ると、すぐにカップ麺の蓋を剥がし、コートを羽織ったままの格好で食べ始めた。
食事は空腹を解消する為だけの作業と割り切って捉えていた。さっさと食べ終わると、ゴミをビニール袋へ纏めて置いた。気分は少しも満たされなかったが、やはり空腹が満たされると穏やかな気分になるものだ。僕はベッドの上にどかっと寝転がった。
いつも通り、その日も特に何もすることが無かった。
部屋にはテレビもパソコンも無く、携帯電話すら持っていない大学生は自分位なものだろうと思ってはいたが、特に必要性を感じていなかった。何より、それらを揃える為の手続きが面倒だったのだ。
唯一の娯楽ダンボール箱に詰め込まれた、文庫本や漫画だけだった。アルバイトもせず、親からの決して多くはない仕送りで生活する中で、読書は最も楽しく時間を消費できる娯楽だった。
幾つかある本用のダンボール箱のうち、特に「お気に入りダンボール」にはベッドに寝転がっていても手が届くよう、ベッドのすぐ傍に配置されていた。ベッドに寝転がり、そこから取った本を読みながら、転寝する時間が僕の余暇の多くを占めていた。
その時も僕はベッドの上から、その「お気に入りダンボール」に入っている本を取ろうとした。
その時、食後の満腹感から来る眠気で、早くも朦朧としかけていた頭が、なぜかふと数時間前に教室で見かけた少女の記憶を引き出した。
その時はもう顔も思い出せなくなっていたが、首元にくっきりと浮かび上がっていた蚯蚓腫れの印象だけは、鮮明に思い出された。
その一瞬の回想が、連鎖的に一冊のある文庫本の記憶を呼び起こした。先月静岡に帰省した際に小さな古本屋で購入した本である。
その本というのは、作家名もタイトルも聞いたことが無い、厚さ一センチにも満たない文庫本で、1998年に発行された『黒鬼』という短編小説だった。
何やらおどろおどろしいタイトルに惹かれ、ふと手に取ってみると、何処と無く僕の愛読書のとある文庫本と装丁の雰囲気が似ていたことが、妙に僕の興味をそそった。
また、背表紙の解説から、何となく面白そうに感じ、何より値段も百円と安価だったので、大して考えもせずに他数冊の漫画との序に購入していたのだった。
その背表紙の解説には、「本作は生涯に渡って罪を重ね続けた主人公の懺悔の記録である。また本作は作者にとって処女作であると同時に遺作であり、作者の残した唯一の作品となった。編集部から作者への心からの哀悼の意を表する為にも、遺稿である本作を文庫として発刊する事とした。」とあった。
その解説からは小説の内容は殆ど分からなかったが、その発刊に至る奇妙な経緯が気にかかった。
彼女の首の蚯蚓腫れの印象が、何故かこの本の連想に繋がり、急に意識に上がったのだった。
その本は購入後、帰省から戻ってくる際に持っていた紙袋にしまったまま、忘れられていた。
僕は眠気で重くなった身体を起こし、クローゼットの中の紙袋からその本を取り出した。
そして、この時漸く、先ほどのくしゃくしゃのレシートが、この本を購入した際のものであることを思い出した。
僕は自分の頭の中で起こる記憶の連鎖を愉快に感じ、それは不思議とその本の好印象へと転化された。僕はまたベッドに寝転がると、その『黒鬼』を読み始めた。

6:
元々、読書が早い事もあり、三時間も経たないうちに物語本編を読了してしまった。
一言で言ってしまえば「思ったより面白かった」と言う程度の内容だった。
食後の眠気に勝ち得る展開の早さと、独特の生々しい表現がページを進める手を早めさせ、退屈を感じなかった。しかし、やはり処女作と言うこともあってか、その文章力の稚拙さが今一つ気にかかり、「お気に入りダンボール」への選出とまでは行かなかった。
とはいえ、百円で購入した事を考慮に入れると、かなり良い買い物だったと言える。また、全くの無名作家から中々の良作に出会え、気分が良くなった。そこで僕は、作者による後書きの章へ移る前に、湯を沸かし、コーヒーを淹れ、後書きをゆっくり味わおうと言う気になった。
湯を沸かし、インスタントコーヒーの入ったカップに注ぐと、やや寒々とした部屋の中にコーヒーの温かな香りが充満した。
三時間、ずっと集中して読書した所為で、疲れた目の中にまで、温かなコーヒーから出る湯気がとろりと染み渡る様に感じられた。
今度はベッドを背もたれにし、カーペットの上に座り込むと、コーヒーと読書を同時に味わうという、僕にとっては至福の瞬間を迎えようとした。
しかし、その後書きの内容は僕の想定とかけ離れており、コーヒーの味を苦くするものだった。ある意味では、この後書きは本編以上に興味深い内容だった。

7:
私がこの物語を執筆したのは1995年12月から1996年3月にかけてで、私にとって生涯で最も寒く感ぜられる季節の中であった。
これまで物書きになろうなどと、考えた事も無かった。
読書の趣味も無く、齢65歳になった今となっても、これまでまともに読了した本は、十冊にも及ばないであろう。
そんな私が本書を著そうと思い立ったのは、自分の興した事業が息子に安心して任せられるようになった事が第一である。またもう一つには、自らの老いが近付く寿命を予感させた事がある。死期が近いが故に、誰にも語ることのなかったこの罪を、何処かに吐き出してしまいたかったのだ。
本編中では私体験からの事実を第三者の視点で、出来るだけ客観的に描くよう心がけたが、言うまでも無く主人公は私自身の投影に他ならない。
但し先述の通り、こういった物語を執筆するのは初めてである。それに加え、自伝として執筆する事への聊かの照れを誤魔化すべく、意図的に事実を曲げている。例えば、物語中の主人公は文化部に所属しているが、実際の私は科学部に所属していた。
但し、物語の細部に人工的な歪曲を加え、また多少の記憶違いが介在しても、それらは物語の大筋や罪業の本質には何ら影響のない部分に限られているだろう。
さて、『黒鬼』という題は故郷である埼玉県入間郡の伝記から拝借している。幼少期に祖母から聞かされたこの話については、内容こそ語れるほど明確には記憶していないが、未だに強烈な罪悪の象徴として印象づいており、本作の題名として使用した。
物語中で直接表現してはないが、言うまでも無く題名の『黒鬼』とは主人公、つまり私自身の事を指している。
物語を読んで頂いた方には、私の作家力がいかに足らないとしても、主人公の『黒鬼』たる所以は、ご理解頂けた筈である。
物語にある通り、裕福な家庭の三男として生まれてから、私はずっと厳しい教育の中で育てられた。私が期待を少しでも裏切ると、父親の暴力が私を襲った。人目につかない範囲に限られながらも、小学校入学以前からそれは続けられていた。
その幼少期の鬱屈とした経験が、私のその後の歪んだ意志の礎となった事については、言わずもがなである。
私の歪んだ意志は、それ自体ひとつの罪から生まれているが、しかしながらそこに同情の余地を残せないまでに私は多くの罪を作り出した。
本編中に登場した順に並べれば、同級生の事故死誘発、侍女の冤罪工作、医院への放火、売女への暴行、二度の堕胎、同僚の不正事件捏造、など枚挙に暇はないが、それらをここにこうして無機質に並べられる精神性こそが、つまるところ私が今なお『黒鬼』たる最大の所以かもしれない。
そんな恥ずべき私の人生を『黒鬼』と自ら評して、こうして物語と言う形で記す気になったのは、冒頭で申し上げていた通り、生前に何処かに吐露する事で懺悔したかったという欲求からである。
では、なぜ今更に懺悔などする気になったのかと言えば、前述の理由の他に、もう一つ、大きなきっかけがあることを告白しなくてはなるまい。
本編は主人公が27歳にして興した事業が成功し、結局罪は裁かれる機会は無い。黒鬼はその後も裁きを得ずして悪行を貫き過ごしていく事を暗示し、物語は終わる。
しかし、この点は現実とやや異なる。
実際私は20代後半からは、成功した事業の継続のために、基本的には目前の事業に打ち込む、只の真面目な実業家に成り果てた。
また、あまりの多忙さで私の悪の部分は影を潜め、純粋な癒しを求めるようになった頃、当時もまだ頭が上がらなかった父親に言われるがまま、現在の妻と見合いの末、結婚することになった。
妻は結婚後直ぐに息子を出産した。出産後もただひたすらに従順であり、文句のつけようのない良妻であった。
私も気付けば仕事に忙殺されつつも、家庭を愛する平凡な一家の主となり、最早『黒鬼』とは程遠い生活を送るようになっていた。
その頃の私は、自分が『黒鬼』であった時代を改めて振り返る暇も殆ど無く、稀に回想する事があっても、まるで寝惚けた頭で朝刊で読んでいる位に、非現実的なものとして捉えていた。
非現実に隔離し、忘れ去ろうとしていた記憶が、私を急に責め立てたのは執筆を始めたつい五か月前のことである。
齢34歳になる私の一人息子には、9歳の息子と5歳の娘がおり、見たところ裕福で、幸せな家庭の主に見えた。
しかし、やはり一世代隔てても血は争えないのだろうか。孫達の目の奥を覘く度に、何かしら悲劇的な光が見えたような気がした。確証は無かったが、かつて私の父が用いたあの醜い暴力を、息子がその子供たちに与えているのではと疑う様になった。
私の場合は仕事に忙殺され、子供の教育については全て妻に任せていたために、また、恐らく妻の教育方針が余程しっかりしていたのであろう、そのような暴力を息子に与えよう等とは考えた事も無かった。
しかしながら、もし自分にも教育の機会・時間を与えられていたとしたら…。それを選択しなかったという自信は無い。
そんな負い目もあってか、私はその暴力を振るっているであろう息子を、確証の無い段階で問い質す事が出来ずにいた。
そんな私の躊躇いが、五か月前の事件を引き起こしたと言っても過言ではあるまい。
それまで私の父譲りの狡猾な暴力(つまり周囲に隠蔽される罪業)を行っていた息子が、遂に大失態を犯してしまった。
ささいな事から、激怒した私の息子が与えた殴打によって、孫が脳震盪を起こしてしまったのだ。
暴力を振るっていたとは言え、愛情が無いわけでは決してなかった。さすがに焦った息子は急いで知り合いが経営する医院へ息子を搬送した。
一命は取り留めたものの、孫は脳に障害を残し、言語障害と知能障害という大きな障害を負う事となった。
知り合いの医者には、長期の説得と、其れなりの裏金を受け取らせた為、虐待が世の明るみに出ることは無かった。しかしさすがにその時に私は息子を初めて激しく叱責した。そして、二度と過ちを繰り返さぬよう、障害を抱える息子との別居と、孫への潤沢な金銭的な援助を息子に誓わせた。
息子を責めながらも、先述のような私自身の躊躇いに対する自責の念も強く、私自身深く後悔をしない訳にはいかなかった。
この事件は、同時に過去の自分の罪悪を強烈な臭気を持って私の目の前につきつけたのだ。
それ以降、私は今更ながらの大きな後悔と、そしてそれを誰にも語れぬことに、窒息の苦しみを味あわされる事となった。
それを責めて少しでも和らげようと、記述し始めたのがこの稚拙な作文を始めた最大のきっかけである。
本作は飽くまでも自己満足の懺悔ではあったが、教会における贖罪同様、誰かに懺悔を聞いて欲しいという念はどうしても消せなかった。そこで、他の誰の目にも触れさせぬ事を注意した上で、出版社取締役である友人に一読してもらうこととした。
複雑な心境ではあるが、友人はこの駄文に見所があると気に入ってくれ、出版の話も持ちかけてくれた。
出版について、最初は当然断る気でいたが、私及びその関係者の素性が知られぬよう注意してくれる事、この解説については私が生きているうちは掲載しない事を条件に、出版を了承した。
死後、如何なる読者に、如何なる感想を持って、この私の懺悔物語が読まれるのであろうか。それを思うと、私は妙な興奮を覚えるのである。
この様な興奮を自覚した折に、再度気付かされる事があった。私は、やはり今なお『黒鬼』なのかもしれない、と。

8:
気が付けばコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。同時に、僕の気分も冷めきっていた。
物語として楽しめた罪悪譚が、この後書きによって醜い現実のひとつに変化し、僕の前に立ち現れた。
文学としての美しい悲劇が現実の悲劇に変わられた時、僕は人間の性善を諦めきれていない所為で、ひどく現実に失望し、落胆するのだった。
一転して暗い気分になってしまった僕は、飲み残しのコーヒーを無理やり咽喉に流し込んだ。苦味が体の中へじとじと染み込んでいくようだった。
暗い気分を少しでも払拭しようと、『お気に入り段ボール』から何度も読んだ漫画の短編集を取り出し、その中でも特に気に入っていた短編を読み始めた。すると次第に一度は消え去った眠気が戻ってきたので、やがて短編を一つ読み終えると部屋の電気を消した。
外光はカーテンでしっかりと遮断され、部屋の中はふやけた闇色で満たされていた。その闇をぼんやりと仕切る、壁と天井の境目に、僕は『黒鬼』の姿を想像し、投影していた。
僕が投影する『黒鬼』は、うとうとした脳内で短絡的な経緯によって、その日の詩文学の老教授に取って代わられた。『黒鬼』の投影は、歪んだ卑屈な笑みを浮かべたまま、じっと僕を見下ろしていた。

9:
その日の目覚めは、いつも以上に憂鬱だった。
「明日、目が覚めなければいいのに」と、毎夜繰り返される願いは今日まで届かないままだった。
その日は、16時から西洋芸術史の講義が一つあるだけだ。
時計を見ると、12時半だった。昨晩読んだまま、枕元に置かれていた短編集をパラパラとめくりながら、徐々に頭を目覚めさせた。
30分後に漸く布団から抜け出すと、食パン二枚と牛乳で差当たりの空腹を誤魔化した。
さりとて、16時まで特に用事があるわけでもない。
そういう時は、決まって大学の図書館で時間を潰すことにしていた。
図書館へ行く事を決めると、さっと五分程度でシャワーを浴び、伸び過ぎた髪をドライヤーで乾かした。服装に全くこだわりの無い僕は、昨日と同じ服を着て、いつもと同じ鞄を持って家を出た。
大学のキャンパスまでは歩いて十分程度だ。
春は徐々に空気を腐らせはじめ、晴れ空の下にぬるっとした風を吹かせていた。僕は背中に汗が少し滲むのを感じて、昨日と同じコートで出てきてしまったことを少し後悔していた。
僕は秋冬の張りつめた空気が好きで、この暖かな陽気や、ふわふわとした浮ついた匂いがどうしても好きになれなかった。何より、僕の卑屈な精神性は、幸福感をイメージさせるこの季節を受け付けられなかったのだろう。
そんな事を考えながら、大学に到着し、図書館のエントランスを通ると、目的の文学史の本棚を目指した。
これまで自分の思いつくまま・気になったままに読み漁ってきたが、ある程度様々な作家たちの作品を読んでくると、作家たちの素性や時代背景等に興味が湧いてきたのだった。
お目当ての本はすぐに発見出来た。
僕はその本を抱えて、閲覧室へと向かったのだが、平時は静かな閲覧室がその日はゼミの団体らしき幾つかの集団に占拠されており、少し騒がしかった。
試験期間前などで閲覧室が込み合っているときには、僕は大学院棟にある、自由研究室という『穴場』を利用することにしていた。
僕は本を抱え、図書館の目の前にある大学院棟の自由研究室へと向かった。
数年前に改装された綺麗な図書館とは相反して、大学院棟は時代を感じさせる古びた建物だったが、決して汚いわけではなく、却ってそのレトロな雰囲気が僕は気に入っていた。
三階の自由研究室まで階段を昇っている途中、ザワザワと話し声が目的地から聞こえてきた。嫌な予感がしたが、そのまま自由研究室まで行くと、悪い予感は的中し、自由研究室は経済学部特別講演会なるイベントで使用されていた。
そこで、僕は新たな『穴場』の開拓の必要に迫られた。
予想外の事ではあったが、新たな『穴場』開拓という、探検的な行為は嫌いではない。今まで三階までしか行ったことのなかった、この大学院棟の最上階である四階へ上がってみる事にした。
四階に上がると、先ず、僕はこれまでの自分の好奇心の乏しさを後悔せざるを得なかった。四階はその東側半分が大教室になっており、西側半分はベンチが幾つか設置されたフリースペースになっていた。大教室では授業が行われている様子は無い。ベンチにも人気は無く、窓の外から微かに聞こえる往来のざわめきが、却ってこの場所の静寂を際立たせていた。
これこそ、正に僕が求めていた『穴場』だった。僕は窓際のベンチに腰かけると、先ほど借りた本を開いた。窓から差し込む光は、この季節を厭う僕さえも温かく僕を包み込んで、僕は迂闊にもうっとりとしてしまった。
やがて睡眠薬のような日差しに侵食され、僕はいつしかウトウトと、静かに眠りに沈みそうになりながら本を読んでいた。
十分程、そうして意識の水面をぷかぷかと浮かんでいた。遂に僕はその本を手から滑らせ、足元に落としてしまった。
静寂に支配されていた場所に、ふいに固い表紙装丁の本と地面が衝突し、カツーーンと大きな音が響くと、僕は驚いて目を覚ました。しかし、その音以上に、いつの間にか斜め前のベンチに座っていた、葉子と目があった瞬間、僕はひどく動転してしまった。
前日に、覗き見るような感覚で彼女の首筋を眺めていた、その後ろめたさから、彼女と目があった一刹那に、まるで犯罪を見咎められた犯罪者のような感覚を覚えた。更にその上、女性とまともに関わった事が無い事もあって、目が合った時の過剰な焦り様は彼女の眼にも明らかだったと思う。
急いでその本を拾い上げようとした拍子に、僕の隣に座らせていた鞄が倒れ、中に入っていた文庫本、ペットボトル、財布などが足元に散らばった。
益々僕は焦りを募らせ、顔を赤くしながら急いでそれらを回収した。
その時、僕は彼女の顔を見る事も出来ず、ひたすらに下を向いて回収作業を終えると、そそくさとその場を離れ、階段を下りた。
急いで大学院棟を出たが、しかし授業までは一時間近く時間があった。僕は赤らんだ顔が引くまで、上を向くこともできず、取り敢えず中庭のほうへ足を運んだ。
何時もは鬱陶しく感じるこの中庭の騒がしさが、その時ばかりは先ほどの事柄から僕を隠してくれているようで、ありがたく感じられるのであった。
中庭の木陰のベンチに腰かけると、大きくため息をついた。数分前の出来事を思い返し、そして自分の情けなさに、またひとつ小さくため息をついた。
当然、あの詩文学の講義前に僕が彼女の首元を観察していた事等知る由もない訳で、そこまで焦る必要も無かったのだが、女性と目が合うだけでも怯えてしまう僕にとっては、これは非常な大失態だった。
気を落ち着けようと、図書館で借りた本を読もうとしたが、殆ど頭に入らなかった。結局、授業開始の時間までその場所で青臭い後悔を繰り返すばかりだった。

10:
新たに発見した『穴場』での事件の後、暫くはまた何も無い日常のリズムのままで日々が過ぎていった。
その後、大学院棟の四階には足を踏み入れなくなった。それどころか大学院棟にすら行かなくなった。
しかし、目があった瞬間、何らかの作用で強烈に僕の胸郭を狭めた葉子の顔も、既に思い出せない迄に薄れていた。
三週間後が経ったある日、僕はまた図書館での時間潰しを目論んでいたが、図書館の閲覧室が空調機の整備とやらで使用できなかった。
まだ躊躇いは拭いきれなかったが、あんな事があった位でいつまでも大学院棟を利用しないのも馬鹿らしいと自分に言い聞かせ、大学院棟へ足を向けた。
彼女と出会わない事を祈る気持ちで、出来るだけ下を向いて三階の研究室を目指した。
しかし、二階と三階の間、足元を見つめながら階段を昇る僕の背中をポンポンと柔らかく叩く者があった。僕に敢えて声をかけるような友人はいない。一瞬のうちに嫌な予感が僕の内側に大量の汗を流させた。
そして、彼女は小さな声で僕に話しかけた。
「あのー、以前四階で、本を落としませんでしたか?」
顔を直視できない僕は、その時葉子の着ていたカーディガンの、胡桃ボタンを見ていた。頭の中はミルク色に溶けきって、まともな思考を殆ど停止させていた。
何処からか差し込むオレンジ色の陽が、古い校舎の暗い階段を仄かに明るく染めていた。
「あ、いや、どうだったかな…本?えっと、何の本ですか、ねぇ?」
漸く、その言葉を発するまでに、やや不自然な間があったかも知れないが、その時の僕にはとにかく余裕が無かった。
彼女は背負っていた小さなリュックサックを下すと、その中から文庫本を取り出した。
「これ…。」
葉子はその文庫本を僕に差し出した。夢野久作の『ドグラ・マグラ』下巻。間違い無くあの『穴場』での事件の時に僕が落として、拾い忘れたものだった。
よりによってこの本を落とすとは…大失態だと思った。僕の愛読書の一つではあるが、日本三大奇書に数えられる、常識人から見ればかなり悪趣味な部類に入る本の一つだ。
「あ、あぁ、確かに僕のだ。ありがとう…。どうも、わざわざ…。」
慎重な手つきで本を受け取り、持っていた手提げかばんの中へしまうと、さっさとその場を退散しようとしていたところ、葉子が先程よりも少しだけ大きな声を発した。
「あのー、悪いと思ったんですけど、読んじゃいました、それ。ごめんなさい。でも、すごく面白かった。」
まさか感想を言われるとは思いもよらなかったが、それ以上にこの本にその様な好意的な感想を持った事に驚かされた。それまで混乱から殆ど働いていなかった頭が、漸く少しずつ落ち着いてきた。この一見平凡な女子大生が、もしや自分と近い趣味を持っているのではと言う期待を持つまでになった。
「あ、本当ですか?…いや、でもこれ下巻だけど…。」
「そうなんです、ちょっと面白そうだなと思って、下巻からパラパラってちょっと読んじゃって。それから、やっぱりすごく面白そうだったので、自分で上巻買って読んだんです。」
苦手とする会話で、しかも久しぶりのまともな会話だったが、自分の大好きな作家についての話だ。もしかしたら僕はニヤニヤと気持ちの悪い表情になっていたかも知れない。
「あ、こういうの、好きなんですか?」
「いえ、普段は。文学部のくせに、あまり活字読まなくて、漫画ばかりなんだけど。」
「あ、へぇ…。漫画はどんなものを?」
こんな風に初対面の相手と会話が続く事は、自分にとってはかなりの珍事であった。
僕は漫画の趣味も広く、彼女の挙げたサブカルチックな漫画家達の名前を殆ど全て知っていたので、少なからず彼女を驚かせた。
それと同時に、僕自身、一見普通の地味な女子大生に見える葉子の、少し変わった趣味・趣向に驚きを覚えた。
とは言え、生来培った人間嫌いやその苦手意識は、珍しい事象への驚き以上には、何か特別な感情に至ることを許さなかった。
階段の途中での会話は十分ほど続き、彼女はまだ何か話を続けようとしたが、ふと時計を見ると授業開始15分前になっていた。まだ時間には幾らか余裕があったが、ほんの十分間で、僕はすっかり話し疲れてしまっていた。
「あ、ごめん。次の授業あるから…。」
「そうですね、ごめんなさい。それじゃ…。」
彼女の言葉を最後まで聞き終わる前に、僕はその場をそそくさと立ち去ろうと、早足で階段を下って行った。
振り返らなかったが、彼女は暫くそこで僕が去っていくのを見送っていたらしかった。

11:
久々の会話の結果、妙に疲労感があったその日は、近所の蕎麦屋でさっさと夕食を済ませることにした。
暫く非常に印象的だった出来事に感じられたにも拘らず、数時間後のその時には、すっかりその衝撃も薄れてしまっていた。
学生ならでは安くて多い蕎麦を食べながら、葉子との出来事を思い返しかけはしたが、久しぶりの会話に焦燥し、挙動不審になる自分を想像するのが何より苦となると感じ、別の出来事を無理やり頭に浮かべてそれを脳内から追いやろうとした。
今日の講義の中で教授が余談として語ったある作家の人生についての、誰に披露するわけでもない評論を堆く構築することに、僕はいつしか熱中していた。
そういった自己防衛・現実逃避の手法が、僕の陰険な性質を確固たるものにしていた。
さっさと食べ終わると、無愛想な外国人の店員に金を払い、店を出た。
家に着いた時にはまだ19時前後であったが、蕎麦で満腹になっていたせいで、直ぐに睡魔が襲ってきた。
僕はベッドに身を投げ出し、そのままの格好で薄い毛布をかけ、電気を消した。
口の中にはまだ蕎麦つゆのダシの匂いが残っていた。
蕎麦の夢でも見そうだ等と考えながら、薄らかな意識は僕の奥底へとすぐさま沈殿していった。
消えかかる意識の中で、僕自身の人生を作家の破滅的な人生と重ね合わせ、何故だか解放された気分になっていた。


12:
夜中の二時に目が覚めてしまった。
ひどく渇いた喉を潤すために、水道水をガブ飲みすると、すっかり眠気は逃げていった。
読書以外に、数少ない僕の趣味の様なものとして、深夜のランニングがあった。
夜中の澄んだ空気を顔で受け止めながら、様々な空想をしていると、ランニングに酸素を奪われて弱った脳が、多少脆い空想も面白いものに感じさせてくれるのだった。
さっさとランニング用のジャージに着替えてポケットに小銭を入れると、うす汚れたスニーカーを履いて外へ出た。
寝ている間に少し雨が降っていたらしく地面が少し湿っていたが、外に出た時点では曇り空だったものの、雨は降っていなかった。
僕は軽く屈伸運動をすると、滑り出すように走り始めた。
駅前だけがささやかに栄えるこの街は、昼間こそ大学生で賑わうが、夜中は時間が止まったように静かで、明かりのついた家々も多くない。
ランニングコースは、決まって大学のキャンパスから徒歩十分ほどの我が家から、広大なキャンパス裏にある谷を抜けて、静かな裏通りのベンチで一休みしてから戻ってくる、往復40分ほどの道程だった。
24時間営業のコンビニだけが明るく構えている人気のない商店街を抜けて、夜中でも車の行き来が絶えない国道を渡りキャンパスに入っていく。
国道を渡って以降はいよいよ、人気も明かりも殆どなくなり、所々に数本だけ建っている街頭だけが足元の安全をかろうじて担保していた。
谷道を越え、静かな住宅街を抜けると、いつも休憩所として使っている小さな公園がある。
坂道で疲労しきった足に鞭打って、速度を落とさずに公園までたどり着くと、直前まで勢いを保ったまま木製のベンチにドスっと座り込んだ。
ベンチは雨でだいぶ湿っていたが、汗まみれの僕には関係あまり関係無かった。
暫くそのままで息をある程度整えてから、公園の入り口にある自販機へと向かった。
この休憩所で炭酸のジュースを買い、乾ききった喉を癒す事が、このランニングの大きな目的の一つだった。
小銭を入れてコーラを選ぶと、ガコンと音を立てて缶が出てきた。またベンチに戻って腰掛け、プルタブを開けるとプシュっと泡が少し零れた。
コーラの炭酸が僕の咽喉を刺す感触を味わいながら、いつも通り僕は空想にふけり始めようとしていた。
しかし、この時ばかりは、僕にとって直近の大事件である、その日の出来事を思い返さずにはいられなかった。
その時点では、葉子について、僕の偏った趣味を理解出来る変わった女性という印象が強まっていたが、最大の印象はやはり首元の傷であった。
すると、詩文学の講義の時点では中断された空想が、僕と似た異質な彼女の趣向を知った今では、以前より現実味を帯びて、僕を誘惑した。
真っ先に思い浮かんだ世界観は江戸川乱歩のある短編だった。この物語のレトロ風な世界観においても、今や無理なく葉子の像を重ね合わせられる様になっていた。
それは、恥じらうべくも、幾分か淫らな場面の空想にまで及んでいた。
その妄想は、夜中の公園でランニング後の休憩をしている学生がしているものとは、まさか誰にも予測出来ないものであった。
その不釣り合いと背徳を感じて、僕は十分楽しみを感じることが出来た。僕はその時に、本当にそれ以上の何か、現実における物語の展開を望んで等いなかったのだった。
そうして妄想を膨らませているいるうちに、やがて汗ばんだ体に当たる風が寒々しく感じられてきた。
僕はまだ少し残っていたコーラを飲み干すと、立ち上がり、自販機横のゴミ箱に缶を捨てるなり、また滑り出すように徐々に足の回転を速めた。
僕は先ほどの空想を頭の中で粘つかせたまま、帰り道の向かい風をぐいぐいと全身で切っていった。

13:
翌日は昼過ぎに目覚めた。
身体を起こして、カーテンを開けると、柔らかな光線が目に射して、妄想の罪人である僕を断罪するかの様だった。
水道水で軽く口をゆすいで、また今日も何もない一日をどう消化しようかと考えながら、冷凍食品の焼きおにぎりを冷凍庫から取り出し、そのうちの二個を皿に移し替えた。
昼食用の焼きおにぎりが電子レンジの中でうらうらとまわっている数分間、窓の外の春の色合いを惨めな気持ちで眺めていた。
大学での好成績を条件に、比較的裕福と言える両親から毎月やや多めの仕送りをもらっていた僕にとって、勉学は唯一の義務だった。しかしそれに関しても、両親も過剰な期待をかける訳では無く、具体的なノルマも課せられていなかった。元々大学での勉強は僕にとってそれ程厭なものでは無かったので、それなりに真面目に学んでいた。その甲斐あってか、それなりの好成績を伝える大学の成績表を見せると、両親はいつも手放しに喜んでくれていた。
そんな状況で、それなりに勉強する以外、遊ぶ予定もアルバイトもない僕には、時間があり余っていた。
この無駄な時間を持て余し、将来に怯えながらも何も行動を起こせない自分に対する苛立ちを感じる時間こそ、日々のなかで最も不快な時間だった。
今日の行動案が何も浮かばない内に、レンジの回転は止まっていた。中古で買ったこの電子レンジは故障していて、出来上がりを知らせる音が鳴らなくなっていた。
コップに水道水を注ぐと、湯気を立てる焼きおにぎりとともに机の上に運んだ。
しかし、味気ない昼食はあっという間に済んでしまった。
他に仕方なく、何か以前読んだ本をもう一度読み返そうかと、段ボールを漁りはじめた。
真っ先に目に留まったのは、先日読んだばかりの『黒鬼』だった。
先日後書きを読んだ時の嫌な感触もあり、直ぐに別の本を探そうとしたが、嫌な感触であったとは言え、あの印象的な後書きを読んでから本編を再読すれば、また別の味わいが得られるかもしれないと考え直した。
そうすれば、今日一日の時間潰しとしての、十分な言い訳がつけられる気がした。
僕はコップや皿を片づけると、文庫本を手に取り、ベッドの上でいつも通りの読書姿勢をとった。
暫くすると、先程僕を断罪した日差しが、今度は僕を赦すかのように、徐々に色を薄めていった。

14:
途中転寝もはさんだこともあり、後書きを含め、全て再読し切るころには外は暗くなっていた。
今回読むに当たり、やはり後書きの効果によって本編により生々しさが加わり、初回とはまた違った読後感を得ることができた。
しかし、それ以上に、今回の再読における最大の成果は、やはり後書きのほうにあった。
1995年七月に発生し、作者に筆を取らせるきっかけとなった忌まわしい事件の時点で、作者の孫は五歳、詰まりは2010年現在、当時虐待を受けていたその娘は20歳前後になっている筈である。
この事に気付いたとき、僕の昨夜の妄想が急激に再び膨れ上がった。
もしや、この解説に登場する孫娘こそが先日出会った女子大生で、首元の蚯蚓腫れは父親による虐待の名残なのではないか。虐待を受けた経験がある故に、ああいった書物を好むのではないか、という論法だった。
勿論、いかに妄想癖があるとは言え、それなりの常識も持ち合わせている。この論法があまりに突飛なものである事は重々理解している積もりだった。
しかし、その突飛な妄想を助長させる為には、十分具体的な情報だった。
普通に良心を持ち合わせていれば、この事実に少なからず同情を覚えるに違いないが、それが無い僕は歪んだ価値観でこれを歓迎していた。
他人との会話を極力避けて生きてきた僕であったが、この時には好奇心から、妙な積極性が芽生えていた。葉子に再度接触する事で、この妄想を更に助長させる材料が得られないかと考えたのだ。
当然、葉子との接触はこの妄想の根本をぶち壊してしまう可能性を多分に持っていた。しかし、何せこの退屈な日常の中で久しぶりに見つけた楽しみに、僕は珍しく興奮していた。
また例の『穴場』に行けば会えるかな…と、裏にある湿った期待を除けば、まるで中高生のような青臭い計画に自らぞっとしつつも、翌日の講義の前の空き時間にその場所へ向かう事を既に心に決めていた。
人との接触を避け続けた僕が、誰かに会うためにわざわざ足を向けることは、本当に珍しい事だった。以前そんなことがあったのはいつ、どんな時だったか…等と思い返そうとしている内に、結局その様な出来事を思い出せないまま、僕は眠りに落ちていた。

15:
とは言え、当然その場所で待ち合わせをしていた訳ではない。何度か例の『穴場』へ足を運んだものの、葉子と会うことはなかった。
数日間のうちに会話のシナリオは自分の中ですっかり出来上がっていたが、それは実行に移せないまま日々が過ぎていった。
四度目の試行が失敗に終わったとき、遂に僕はもう一つの案を思い付くに至った。こんなに何かに執着する自分自身が不思議で、非常に珍しく感じられた。
もう一つの案とは、僕が初めて葉子を見つけた、あの日本詩文学の授業に出席する事だった。
興味の無い授業に、彼女と会う為だけに出席しようと言うのだから、その行為のキモチワルサは十分自覚してはいたが、いつしか芽生えていた執念めいたものがそれを上回っていた。
たまたま、四度目の試行が失敗したその日の夕方に、その授業は予定されていた。
その授業の開始二十分前に教室へ向かうと、まだ前の授業が終わっていなかったので、教室の前でチャイムが鳴るのを待っていた。
すると、チャイムが鳴るほんの少し前に、葉子が廊下の向こうの方からこちらに歩いて来るのが見えた。
僕は思わず息を飲んだ。その時ふいにチャイムが鳴りだし、更に僕の胸郭を破らんばかりに鼓動が早まった。
チャイムが鳴り止む前に、恐らく、彼女も僕に気付いた。彼女は僕が佇んでいた教室の扉の前まで来ると、微笑みを浮かべた。
「あ、やぁ。どうも…。」
彼女が何か言うより先に、僕が声を発したが、僕の細い発声はまだ鳴り止まずに響いていたチャイムに掻き消された。
どうやら彼女に声が届かなかった事を察すると、僕はまた気が動転し、口が開かなくなった。
しかし、彼女はチャイムが鳴りやむのを数秒落ち着いて待ってから、口を開いた。
「お久しぶりです。この授業、取ってたんですね?」
既にシナリオは破綻していたが、葉子の当たり障りのない問いかけに安心しつつ、何とか会話を成立させる事が出来た。
「あ、うん。まぁ、たまにしか出ないんだけど…。毎回出てるの?」
「はい、とは言っても、授業は退屈だから、殆どは内職で次の授業の提出課題を書いてたりしてるんだけどね。ほら、この授業、静かだしさ。」
何気ない会話をしながら、自然と葉子は教室に入り席に着こうとしていた。そして僕は大きな緊張を何とか隠しながら、自然を装って彼女の隣の席に座った。
首元の傷を確認しようと、何度か盗み見ようとしたが、襟の高い洋服と髪型でうまく隠されていて、全く垣間見る事も出来なかった。
もしかしたら、先日見えたのは奇跡的な事だったのかも知れない。
数分間、大学での授業について等の他愛ない話が続いた。
このまま話を続ける事も出来たかも知れないが、その日の僕には自分の中での大きな目的があり、また、その目的は達成されなくてはならないという滑稽な使命感に追われていた。
早くも口の中が乾いていくのを感じながら、僕は少しの会話の間をついて、意を決して問いかけた。
「あ、そう言えば…実は以前、この授業で君を見かけた時に、首元に傷があるように見えたんだけど、どうかしたんですか?」
僕も馬鹿ではないので、この聞き方が、何処までも不躾で失礼極まりない事は百も承知の上だった。しかし、やはり僕は馬鹿なので、それでも聞いてしまわずには居れなかったのだった。
どうせ気を遣って気に入られようとしたところで、僕の様な人間すぐ嫌われるか忘れられるかしか無いだろう。それよりはいっそ、自分の妄想の為に賭けに出てみようという、半ば投げやりな心持の表れだった。
「小っちゃい頃に転んでス、トーブを倒しちゃったんです。その時についた火傷跡のことかな。恥ずかしいからいつも隠してるんだけど、よく見えたね。」
先ほどまでの柔らかい表情から、やや表情を固くしたものの、葉子は何でもない事の様に答えた。
しかし、明らかにその後、彼女の顔から親しみの色が抜けていったのが鈍感な僕にでもわかった。当然に思いながらも、やはり僕は焦った。
「いや、たまたま後ろの席にいたらちらっとね。あ、でも目立たない場所でよかったですね。」
必死で取り繕った言葉は届かずに、二人の間の空気中をすふすふと浮かんでいるようだった。
苦笑を作って見せた後に、葉子は徐に手提げから講義テキストを取り出すと、その方向に視線を落とし始めた。
横目で見ても、彼女の焦点はテキストを通り越して机上にあり、それが会話を途切れさせる為に敢えて取った行為である事は明らかだった。
全身に柔らかな針が刺された様な感覚に襲われ、妙な吐き気が喉に宿ったが、今更に席を立つ事も出来なかった。
やがて老教授が現れ、授業開始してから90分間、逃げ場のない苦痛の中で無心に努め、興味のない講義内容をただ機械の様にノートに書き留め続けていた。
僕の頭の中にはずっと黒いごわごわの毛糸が絡みついて、頭を叩き割って掃除してしまいたい程むず痒く感じた。
やがて長い苦痛の時間が終わると、チャイムの音が僕の苦痛の解放を報せた。そして葉子は目を合わせないまま苦笑と会釈を残し、逃げる様に教室を出て行った。
僕は暫く席を立つ事が出来なかった。

16:
以前、『穴場』において葉子と交わした会話で味わった疲労感と比べ、より重々しい疲労感が僕の肩にずしりと乗せられていた。
キャンパスからの帰路では、騒がしい商店街の雑踏が遠くで響いている様に感じ、いつも以上の孤独感が、目にかかる程に伸びていた僕の前髪を更に長くしていた。
彼女との間に、変な期待を持っていた訳では無い。嫌われる事についても、今さら恐れていた訳でも無かった。
醜い容姿に、暗い性格、何一つ魅力として誇れるものの無い僕が、誰かに好かれるなんて大それた事を望む筈ないのだ。
その上で、僕の視界を暗転させたのは、一つには自分の対人性の低さを改めて目の前に突き付けられた事。そして何より僕ががっかりしたのは、そんな僕が何とか切り出した質問に対して、大きく期待を裏切る回答しか得られなかった事だった。
まさか『はい、虐待で受けました。』等という素直過ぎる回答を望んでいた訳ではなかった。しかし責めて、彼女がその質問に対して慌てたり、数秒間黙り込んだりしてさえくれれば、僕の妄想を更に膨らませる材料としては上出来だったのだ。
しかし現実には、予想外にあっさりと在り来たりな負傷理由を答えられてしまった事で、僕の妄想は脆くも支柱を失ってしまったのだった。
久しぶりに見つけた娯楽の種を、易々と腐らせてしまった自分の軽率さに対しても、自責を禁じ得なかった。
そういった自責を積み上げているうちに、夕食の事について等考ないまま、自宅へと到着していた。
鍵を開け、部屋に入ると、夕方過ぎの部屋の中は薄暗く、僕の心情をそのまま表しているように思えた。
僕は電気を点けずに、鞄と上着を床の上に放って直ぐにベッドに横になった。
こういう気分からの唯一かつ最適な逃避方法が、睡眠である事だけは知っていた。
鬱々とした感情の螺旋は首まわりに纏わりついて、寝苦しい感触となっていた。それでも僕は徐々に角ばった意識を、とろとろと床下へと垂れ流していった。
混濁する意識の中で、天井から僕を見下ろしていたもう一人の僕は、息苦しさにあえぐ僕を見て、クスクスと嘲笑っていた。

17:
以前と同様の、空虚な日常が再び繰り返されていた。
例の一件に関しても長らく苦悩する事も無く、『諦めの才能』が僕を直ぐに元通りの空っぽな僕の状態へと修復した。
当然、あの講義を受けることも、『穴場』に行く事も無くなったが、それは僕の生活に然したる影響を与えなかった。
気付けばキャンパス内の街路樹が、青臭い夏の訪れを知らせ、夏季休暇が始まった。
暑さに弱い事もあり、特に目的のない儀礼的な実家への帰省の他は、何処へ出かける用事も無かった。
就職の事も考えず現実逃避ばかりしている僕に、流石に放任主義の両親も心配し始めていた。特に母親は顔を合わせる度に小言を言い始めたので、二日も実家に滞在すると、用事があると嘘をついて実家からアパートへ戻って来た。
母親の小言に無理やり促されて、自分の中で未来設計を思い浮かべた。それは、このまま何もせず流れていけるところまで流されていき、重い荷物を負わざるを得なくなった時点で、そのまま沈んで死んでしまおうというものだった。
いつしか僕は現実や責任を直視し、受け止めるだけの器を完全に喪失しており、それを取り戻す術も、それに必要な精神性も持っていなかった。
睡眠で時間を消費するか、本を読み耽るか、それ以外に何の出来事も起きないまま、夏季休暇も最後の一週間になっていた。
その日は、美術史の講義で夏季休暇中の課題となっていたレポートを一気に仕上げるために、キャンパスの図書館へ行くことにした。
この時期は同じ目的で図書館を利用する学生で混雑するため、僕は開館する九時には図書館へ着ける様に家を出た。
自宅前の舗装工事したてのアスファルトの道路から、真新しいコンクリートの匂いが鼻に刺さった。
朝とは言え、夏の日差しは容赦なく僕を溶かしにかかった。
図書館手前20メートルの小さな階段に差し掛かった時、ちょうど職員が図書館の扉を開こうとしているのが見えた。
何人かの熱心な学生らと供に、僕は冷房の効いた涼やかな図書館へ入っていった。
先ずは二階の閲覧室に向かい、お気に入りであった隅の席へ荷物を下ろした。
受付で貸し出されているノートパソコンを借り、レポート用の美術史の本を探し当てると、それらを抱えて席へと戻った。
予めレポートに書く内容は頭の中で筋立てしてあったので、該当箇所や年号等を本で確認しながら、黙々とレポートを書き上げていった。
徐々に周囲に学生が増えていったが、僕が好んで利用する閲覧室は暗黙の了解で、図書館内でも特に静かに集中する学生が集まる場所となっていた。
ぴんと張りつめた静寂が心地良く、作業は実に捗った。
大体三時間後には殆どざっと全体を書き上げ、後は推敲作業を残すのみとなった。
既に12時を回っていたので、僕は取敢えず食堂で昼食をとることにした。
普段は混雑して騒がしい食堂は滅多に利用しないが、夏季休暇中は学生が少なく、珍しく利用してみようという気になった。
夏季休暇中は縮小営業でメニューが少なくなっていたが、好物のカツカレーがあったのでそれを注文してみた。
広い食堂内に学生は少なく、がらんとしていた。
僕はカレーを乗せたトレーを持って、隅の席に着いた。
当初の予測よりも早くレポートが完成しそうで、余裕が生まれた所為か、いつもはあっという間に食事を済ませてしまう僕だったが、その時はゆっくりと食事していた。
学食のカツカレーが思いのほか美味しかった事も、僕の機嫌を少し上向かせていただろう。
普段は出来るだけ人と目を合わせないように、基本的に下向き加減の僕が、その日ばかりは咀嚼しながらぼんやり周囲を見渡していた。
そんな時、向こうから食事を済ませ、トレーを片付ける二人組の女子学生が歩いてきた。
その内の一人が葉子である事に気が付くのが、あまりに遅かった。
僕はその時はっきりと彼女と目を合わせてしまい、そして直後、明らかに漢書の方から目線を外した事を認めた。
程なく二人は何か話しながら僕の席の横を通り過ぎ、トレーを回収口に戻して去って行ったが、僕は先程までの心地良さを失ってしまった。
打って変わって、急いで残り半分残っていたカレーを平らげると、水を飲み干しトレーを持って席を立とうとした。
その時、聞き覚えのある響きで僕に話しかける声があった。
「あの、すいません。」
僕は急いで掻き込んだ食事が吐き出されない様に注意しながら、恐る恐る顔を上げた。
気不味そうな表情を浮かべながら、葉子がそこに立っていた。
焦る気持ちを抑えながら、僕は何とか最低限の声を絞り出した。
「あ、えっと…何か?」
前回会話した時の淡々としたテンポとは違い、長い間を取ってから、彼女は口を開いた。
「いま、時間ありますか?」
「あ、うん、まぁ…大丈夫ですけど…。」
「突然ですいません…少し、相談…みたいな、聞いてもらえませんか?」
汗が急激に吹き出し、シャツが背中に張り付くのを感じていた。
「あ、はぁ…。」
あまりに突然な申し出に、もはや動揺を隠す意識すら浮かばないほどで、咄嗟に出た返答は何とも情けない声だった。
しかし、気を動転させながらも、以前描いた妄想に、再び色が取り戻される予感に、僕は少し期待を持ったのも事実だった。
「それじゃあ…失礼します…。」
葉子は僕の細々しい反応に対して、より一層表情に不安の色を強めながらも、僕の正面の席へ腰を下ろした。
僕も一旦片づけかけたトレーをテーブルの上に置き、再び席に座った。
食堂は相変わらず数人しかおらずがらんとしていて、僕ら以外で一番近くに座っている学生でも五メートル以上離れていた。
そのため、そこまで声を潜める必要もなかったのだが、葉子の所作から感じられる慎重な態度につられ、僕の声もいつも以上に小さくなっていた。
「あ、えっと…なんですかね?」
向かい合って座したものの、僕は目線を合わせることができず、彼女はこちらの顔色を窺う様にしながら口を開いた。
「この間の、あの、ここの傷の事なんだけど…。」
そう言って彼女は、右手を自分のうなじ辺りに持って行った。自分の身体の中身が全て口から吐出されてしまうのではないかと思うくらい、急激な緊張が僕を襲った。
自分の妄想が、自分自身の気を狂わせてしまい、今自分が幻覚と話しているのではと疑いすらした。
自分を落ち着けるために、そして膨張する妄想を抑えるために、僕は平静を装って敢えて詰まらない事を言って間を取ろうとした。
「あ、いや、あの時はどうも、失礼なことを言ってしまって…。申しわけなかったです。」
しかし僕が言い終わると殆ど同時に、間をつかず葉子は焦った様子で口を挟んだ。
「いえ、謝って欲しい訳では、全然なくて…。」
一瞬何か話を続けようとしたが、やはり口を閉ざし、黙り込んでしまった。
その神妙な面持ちに、いよいよ僕の妄想は掻き立てられ、その好奇心は無口な僕を徐々に饒舌なインタビュアに変貌させていった。
「とにかく、失礼な事を訊いてしまった事については謝罪させて下さい。本当にすいませんでした。その、相談…に乗ることで、少しでもお詫びになれば…。」
「本当に大丈夫です。その時には、急にこの傷の話題に直接触れられたので、少し驚いたのですが、今となっては却ってその事も良かったかな、と…思っていますし。」
「えっと…却って良かった、というのはどういう事ですか?その、相談っていうのににも関わる事で…?」
「そうですね。本当に、その…突飛な話を急に相談させてもらう事になりますが…。」
不安そうな表情のまま、また黙り込んでしまった彼女にインタビュアは続きを促した。
「いやいや、どうせ他人なのですから、力になれるかどうかは別として、話だけでも聞かせてみてください。」
「そう言ってもらえると、話、しやすいです。ありがとう。先ず、最初に謝ることがあって。この傷の原因、前に話した…覚えてますか?」
「あ、確かストーブの事故での、火傷の跡だって…。」
「…それ、本当は嘘なんです。もし万が一聞かれたときに、予め用意していた作り話で…。ごめんなさい。本当の原因は、その…。」
そこまで話すとまた彼女は下を向いてしまった。
いよいよ僕の妄想が、目の前で実現しようとしている事に、僕は興奮を抑えるのに必死だった。しかし、興奮は好奇心とともに、冷静さを抑え込んでいた。
「大丈夫ですよ、どんな話でも驚きませんよ。」
インタビュアは、躊躇う彼女を尚も急かした。
「ぜひ、聞かせてみてください。」
「そうですね…。単刀直入に言うと、ある事情、で…ある人から暴力で受けた傷なんです。」
あまりに期待通りの発言に、僕は既に完全に興奮を隠せなくなていた。
葉子はそこまで話すと、また下を向いて、溜息をついたまま黙り込んでいたが、興奮したインタビュアにはそんな彼女の心情を鑑みる余裕は無かった。
「あ、えっと、それは…何て言えばいいか…あ、でも、それに関連して、相談と言うのはどんな…?」
話の続きを急ぐ僕に気圧されたのか、葉子も少しずつ口が滑らかになっていった。
「今から話す事は、本当にめちゃくちゃな相談なので、迷惑であれば断ってもらっても全然構わないです。…ただ、どっちにしても、先ずは絶対に他言しないと約束してくれますか?」
「勿論。と言うか、幸いそんな話が出来る様な人もいないので…。」
僕は卑屈な苦笑いを浮かべたが、彼女はその苦笑いの意味についてはあまり理解しなかったらしい。彼女は微かにぎこちない愛想笑いを浮かべた。
「…ありがとう。先ず、この傷を負った経緯について話さなきゃならないかな…。さっき、暴力で受けたって言いましたけど…これ、父から受けたものなんです。」
この時点で、僕は葉子を『黒鬼』の孫娘と直結させようとする自分の妄想を、押さえつけようとしていた。しかし、直ぐにその必要もなくなるのだった。
葉子は僕の葛藤を他所に、話を続けた。
「とは言っても、暴力自体は私が小学校に上がる前には収まった…と言うか、父とは別居する事になったので、実際には私自身がどんな事をされたかは正直覚えてなくて。この首の傷も、何かで叩かれたかしたんだろうけど、はっきりした事は分からないし、そんな事、母親に聞く事も出来なかった…。
「でも、不幸中の幸いって言うか…自分の虐待の事はあまり覚えていないお蔭で、割りとあまり引きずらずに、フツウに生活して来れたと思う。
 …私には兄がいて。おかしな話だけど、自分自身が受けた暴力よりも、兄が受けていた暴力の方が記憶に残ってるのね。男だし、年齢も上だから、暴力の勢いも私より激しかったというのもあるんだろうけど、自分の痛み以上に、隣室から聞こえる兄の泣き叫ぶ声や、実際に目にした暴力の幾つかは、今でもはっきり記憶に残ってる…。
 兄が小学校三年生位の頃だったかな。それが別居するきっかけになったんだけど、エスカレートした父の暴力が遂に病院沙汰になって。今でもその日の事は覚えているけど、いつもは暴力が終わっても暫く泣きじゃくっている兄の声が聞こえるのに、その時だけは泣き叫んでいる兄が急にピタッと泣き止んだの。もう夜九時過ぎで、私は子供部屋で眠っていたんだけど、隣室の父の部屋から聞こえた兄の泣き声で目が覚めていて、それで暫くしてから急に声が途絶えた時の静寂は本当に恐ろしくて、今でもその時の静けさは耳にこびり付いてるみたい。やがてドタバタと父が身支度をして一階に降りていく音が聞こえて。暫くすると玄関のドアが開く音がしたから、恐る恐る窓から外を見ると、直ぐに父の車が車庫から出ていくのだけ見えたの。
 結果的に、兄はそれから知能障害や言語障害も負ってしまって、24歳になった今も。」
ここまで一気に話すと、漸く葉子は一息ついて自分の手提げ鞄から350mlペットボトルの紅茶を取り出し、それで咽喉を潤した。
おざなりな相槌を打ちながらも、あまりの話の展開に興奮し、混乱していた僕は、話し続けていた彼女以上に咽喉がカラカラになっていた。汗は依然として止まないままだ。
ここまで話を聞くと、最早、彼女が『黒鬼』の孫娘である事は確定的だった。それは決して幸福な奇蹟と呼べるものではなかったが、あまりにも出来過ぎた奇蹟だった。。このことを彼女にどう伝えるべきか、伝えないべきか。また別の葛藤が僕の中に生まれていた。
それでも取敢えず、僕は話の続きを急がずにはいられなかった。
「本当に大変な経験をしたんですね…。僕にはどんな言葉をかければ良いかもわからないけれど…。しかも、それに関して、僕は何をすればいいのか…。」
「それが…。それは、多分、っていうか…本当に無茶なお願いになっちゃうと思うんだけど…。」
葉子は机上のペットボトルに視線を落としながら、これまでからまた一段と声を落として、しかしはっきりと言った。
「私を、殺して欲しいんです…。」
想定していたあらゆるケースをはるか凌駕する驚くべき相談内容に、僕は唖然として彼女の目を見た。
依然として葉子はペットボトルに視線を置きながらも、様子を窺う様にちらちらと僕の顔を見ていた。
彼女の方からは話を続ける様子が無かったので、真っ白になりつつある思考を何とか持ち堪えさせながら、僕は彼女に話を促した。
「あ、え、えっと…あんまり話が突飛だけど…。でも、取敢えず、その理由を教えてくれる?」
単純に、過去の経緯で心に傷を負い、絶望したというのなら自殺と言う選択肢があるし、この様な無茶な依頼を見ず知らずの男に依頼するという事は、余程の理由がある筈だ。
その時点では、依頼を受けるかどうか、という極めて重要な問題までは意識が及ばず、僕の思考は先ずこの疑問の解消を優先させていた。
「とんでもない事だと、思ってますよね…当然だと思います。でも、出来るだけあなたには迷惑のかからないような方法を考えます。絶対に犯罪者にはならない様に…。」
自ら持ちかけた話とは言え、彼女自身も動揺しているのだろう、その回答は僕の質問には一切答えられていなかった。
「あ、いえ、先ず理由を聞きたいのだけど…。」
葉子ははっとした様な表情を見せ、僕の質問の主旨を漸く理解した。
「そうですよね。さっきまでの話から急に話が飛び過ぎですよね。…でも、その話がすごく関連しているんです。」
それまでペットボトルに向きがちだった葉子の視線は、話が進むに連れ、徐々に僕に集まり始めた。
「さっきも話した通り、私と母と兄の三人は事件以降、父とは別居する事になって。父は祖父から継いだ会社の経営者で、財力的にはかなり余裕がある筈だから、別居する私達の生活を十分賄うだけの送金はずっと母に対してされていたみたい。
 障害を負った兄は、確かに生活の負担にはなったけど、兄の抱える障害は、例えるなら『大人しい変わり者の男の子』のまま成長が止まってしまった様なもので、母は勿論、私から見ても『世話の焼ける幼い息子か弟』の様に思えて、少なくとも兄を憎んだり疎ましく思ったりなんて事は一度もなかった。
 それより私にとって一番辛かったのは、兄や私に暴力を加えた張本人である父を恨んでいるのが自分一人で、それを誰にも話せなかった事だったの。兄はそういう状態だったし、母に至ってはあんな事件があった後でも、父を…愛していたみたいで、父を憎むどころか、送金に感謝して、また、別居せざるを得ない状況を悲しんでいる様にさえ見えて。そんな母に、もちろん父について愚痴を言う事は出来なかった。これは私の被害妄想だと信じたいけど、母が別居の責任を私と兄に転嫁して、心の何処かで密かに恨んでいるのじゃないか…なんて事さえ考えてた。
 そうやって私は父を憎む気持ちと、それを表に出せない苦しみを誤魔化す為に、日々、必死で『普通』であろうと心がける様にしていた。そして、『普通』であろうと言う意志は、結局私を『つまらない真面目な人間』に育てたと思う。それなりに友達と遊んだりしていても、心の闇は誰にも打ち明けられない事で、親友と呼べるような関係性を作ることを邪魔していた気がする。告白してきてくれる男の子もいたりしたけど。でも、その闇の部分が流出するのが怖くて、結局断っちゃって、人並みに恋も出来なかった。
 ただ、いずれは父からの援助に頼らずに生きていきたいという目標はあってね。母と兄を支えられるくらいの仕事につかなきゃと思って、頑張って勉強して一応なんとかこの大学に入学したのね。夢って言えるような素敵なものでは全然ないけど、そういう目標があったから、それなりに前向きに毎日を過ごせてたんだけど。だけど、去年、元々身体弱くて病気がちだった母が、急性の肺炎で死んじゃって。
 勿論、母がいなくなったって、兄がいたから、目標を達成する事は私にとって無意味ではないんだけど。でも、なんだか急にやる気が無くなっちゃったんだよね。だって、兄自身は別に誰のお金で暮らしていようが、何にも感じる事はないし。結局私は、母を父から取り戻したかっただけなのかもしれない。私が一生懸命頑張って、送金に頼らない様に出来れば、母も父を一緒に憎んでくれる、父に向けられていた分の愛情が私と兄に回ってくるとか、そんな事を無意識に考えていたのかも。」
葉子はここまで話すと、一旦またペットボトルの紅茶に口を付けて一息ついた。
ずっと自らが一人で抱えてきた経験を、誰かに話す機会が欲しかったのだろうと思った。
話の内容の割りには落ち着いた話し方で、傍から見ればフツウの恋愛相談にでも見えたかもしれない。
しかし、正面から彼女の目を見ると、その黒目は底無し井戸の暗闇の様で、自分の意識がそこへ落下していってしまいそうで、小さな恐怖を覚えた。その暗闇の奥から、目の前にいる葉子とはまた別の、救いを求めて手を伸ばす彼女の泣き顔が見えた様に錯覚した。
その様に平静さを繕った表面下に、確かに感じられた凄まじい悲壮感に怯えながらも、僕は動転した頭ながら、彼女の話を逃さず理解しようと努めながら相槌を打ち続けていた。
徐々に冷静さを取り戻し始めた僕は、自分を殺す様に頼んできた彼女の、その動機を先読みしようと試みた。しかし、不幸な生い立ちへの悲観という最もわかりやすい発想以外考え付かなかったし、それなら敢えて他人に依頼までして自殺を他殺にする必要が無いという矛盾にも気付いていた。
僕が黙って考え込んでいると、一息ついた葉子がまた口を開いた。
「話が長くなってすいません。結局、その、殺して欲しいって言う理由がわからない、ですよね。もちろん、母が亡くなった事で、単純に生きる目的をなくした、っていうのもあるんだけど、それよりもある意味で父を想い続ける母が障害となっていた『復讐』の気持ちが沸々と浮かんできたのね。
 さっきも話した通り、母は父を憎むどころか愛していたから、母の前で父を悪くいう事は絶対に出来なかったし、そんな母といると、父を憎もうとしている自分こそが悪い人間なんじゃないかって、考える事もあったくらいで。
 でも、母が死んでから、恐らく母は父に言いくるめられていたのだろうけど、父と母が数年前に正式に離婚してい事や、そうして結局母の葬式の責任さえも逃れていた事がわかった時に、父への怒りは一気に膨れ上がっちゃって。
 お葬式で色々とバタバタしている間中、私の頭の中はもう父への復讐でいっぱいだった。私達家族はあの事件以来、父方の親戚とは関わりは全くなくなったし、母方の親戚も、『臭いものに蓋』みたいな感じで疎遠になっていたから、お葬式はとても寂しいものだった。私はそんな中、ちょうど母が火葬されている最中にこの計画を考えてたの。
 さっき『殺して欲しい』って言ったのは、それは私の理想なんだけど…それはとても無茶な話だってわかってるから、妥協案もあるの。この復讐計画をうまくやり遂げるには『私の自殺を見届ける』というのでも、実は問題はないの。
 …また前置きばかり長くなっちゃって…ごめんね。私の悪い癖。肝心な、その計画について話していいですか?」
既に僕は彼女の話に圧倒されていて、黙って頷く以外の手段を見出せずにいた。その依頼を受け入れるかどうかというところまでは殆ど頭が回っていなかった。
彼女はそんな僕の様子を協力的な態度だと勘違いしたらしい。僕が頷いたのを見て少し安心した様で、それまで緊張していた表情を微かに和らげ、そしてまた話を続けた。
「まず、最大の目的は『父に自分の行いを最大限後悔させる事』、但し『父から兄への援助は今まで通り手厚くする事』、そして『私が苦しみから解放される事』。この三つが同時に達成されなきゃいけなくて。
 その為には、復讐だからと言って、父を殺しておしまい、って訳にはいかないのね、私的には。寧ろそんなに簡単に死なれちゃうなんて、苦しみ続けてきた私達と比べてよっぽどマシだと思うもの。
 それで、私が考えたのは、すごくざっくりと言うと『私の虐待跡をネタに誰かが父を脅し続ける』っていう計画なんです。当然その為には、兄への援助が続いているかどうか監視し続けるのはもちろん、定期的に誰かから父を脅して、恐怖させる事が必要になるんだけど…。」
彼女はそこまで話して口をつぐむと、伏し目がちにしつつも僕の顔色を伺っていた。最後まで言われずとも、僕はこれからどんな事を頼まれるのか、さすがに大方察知した。
僕はこの時点で、この計画の背景にある彼女の目的とその手段とを、完全に理解する事を放棄していた。なぜなら『復讐』と言う行為自体、本来無意味なものであり、その合理性を問うことが如何に無益であるかを認識していたからだ。つまり、その実現性や効果はともかく、彼女の思った通りにする事こそが、彼女にとっての『復讐』の唯一の成功なのだと直感した。
そして、勿論そんな義務は無い筈だが、僕は自分でも不思議な程に彼女の話を親身に聞いている事を自覚していた。この計画に協力するという事は、間違いなく犯罪に加担することになると理解していたが、おかしな事に、彼女の告白をここまで聞いてしまった時点で、既に自分が共犯者であるという錯覚に陥っていたのだった。
そもそも自らの空虚な生活や、希望のない将来に絶望していたところだったし、犯罪者になっても失うもの等無いだろうし、いざと言う時には自分でこの人生を終わらせてさえしまえばいいのだ。
それに、まだそれについては語られていないが、これだけの協力を乞うのだから何かしらの報酬や、僕にとってのメリットを用意している筈だ。それによっては悪い話ではないかも知れない。
僕は詳細を確認する前から、既に彼女の共犯者としての緊張感を持ち始めている自分の性急さに驚きつつも、ある種の決意を持って口を開いた。
「要するに、その監視役と脅迫役を、僕に頼みたいという事だよね?」
相槌を除けば、ずっと一人で話し続けていた葉子は驚いたように僕の目を覗き込んだ。一瞬の躊躇を見せたが、焦ったように答えた。
「…えっと、そう、その通りです。」
「色々と、聞きたいこともあるんですが、先ず、なんで僕が選ばれたのか聞いていい?」
「そうですよね、あまりに急ですもんね。他に良い言い訳も思いつかないから、正直に言うけど、他にいなかったんです、頼めそうな人。
 それなりに仲の良い友達はいるけど、もちろんこんな話は出来ないし、話したとしても信じてもらえないか、受け容れてもらえないかのどちらかだと思う。さっきも言ったように頼れる親類もいないし。でも、偶然会ったあなたが、その…うーん…説明しにくいんですが、本の趣味とか話を聞いていて、もしかしたらやってくれるんじゃないかなって、勝手にそう思ったんです。ごめんなさい、だから、別にちゃんとした理由はなくて、うまく説明出来ないんだけど…」
曖昧なその説明は、しかしながら僕をある程度納得させ得るものだった。なぜなら、僕自身も大した理由もなく引き受けようとしてしまっている事もあるし、それ以上に、彼女の言う僕の悪趣味が、この奇異な事態への興味を掻き立てていた事は否定出来なかった。
自分の中で妙な納得感が得られると、益々話の詳細が気になって来るのだった。
「そういう意味では、確かに僕は適任かもね。」
これから起きる事件への期待感と、とはいえ小さくはない緊張感が相まって、妙な含み笑いの表情で僕は遂に明確に彼女の計画に協力する姿勢を見せた。
葉子もまた、まだ信じがたいと言った表情を浮かべながらも、それでも奇跡的に自分の無謀な計画の協力者が現れたという喜びに、微笑みを浮かべて見せた。
彼女の無謀な依頼を受け入れた事で、自分が彼女より優位な立場にある様に感じていた。珍しく妙に強気になってきた僕は、何かを言いかけた葉子を遮って、話を続けた。
「あ、ただ、それでは、僕は犯罪者になるというデメリットしかないですよね?確かに、本の趣味から君が察する通り、僕は悪趣味かも知れないけど。でも、さすがにそんな、趣味だけでそんな危険な事に関わるのは…やっぱり難しいかな。」
もちろん、僕は断る気は無かった。当然葉子もそれなりの交換条件を用意しているであろうと踏んだ上での、僕なりの交渉の積もりだった。
急に僕が話を展開した事に彼女は見るからに焦ったが、僕の思惑通り、予め用意していたであろう交換条件について少し早口で話し始めた。
「あの、あなたにとってのメリット、っていうのも、うん、考えてます。
 この計画が滞りなくうまくいけば、想定上、父からは月に20万円の兄の養育費が支払われるはずです。今は、月に15万円の兄の為の養育費に加えて、私はその額までは知りませんが、母に生活費として十分な金額が幾らか支払われていたみたいで。
 それを考えれば、月20万円は無理のない額だと思って、この額を考えたんです。あんまり無理な額だと、却ってあの狡猾な父の事だから、何かしらの方法で私の計画をひっくり返そうとしてくるかも知れないし。月20万円程度なら、きっとあの人は危ない橋を渡ってまで、脅迫者を追求しようとはしないと思う。
 それで、今は私が面倒を見ている限り、実際に兄にかかる費用は実はそんなに多くはないんだけど、私が居なくなったら勿論施設に預けるって事を考えなきゃいけないと思ってて。それで、母がまだ生きていた時から、私たちがどうしても忙しくて兄の面倒を見ていられない時とかに、たまにお世話をお願いしていて、それ以外にも普段から色々と相談に乗ってもらっている介護施設の方に相談してみたの。そしたら、月10万円で兄を預かってもらえるって言う約束はしてもらっているの。
 だから、その20万円の内、10万円をしっかり兄の介護に充ててもらって、残りの10万円はあなたの監視役・計画の見届け役としての毎月の給料だと思って、取ってもらえればいいと思う。
 実際にやってもらうのは、最初だけ大変かもしれないけど、兄の介護の様子を見届けているだけで、月10万円になるんだから、そんなに悪い条件ではないと思うんだけど…。」
黙って聞きながら色々と検討していたが、僕は彼女の計画に不完全さを感じつつも、それを具体的に指摘できないまま、それを引き受けようとしていた。
僕がその20万円の内の10万円をきちんとその介護施設に納めなかったりした場合等、逆にどうやって僕を監視する気なのか疑問ではあったが、恐らく話に出てきた介護施設の懇意であるという人が、ある程度その役を担う事になるのではと推測された。
なるほど、確かに彼女の言うとおり、20万円と言う額は妥当な様に感じられた。恐らく従来20万円プラス母と彼女の生活費が支払われていたならば、その額はどんなに少なく見積もっても30万円以上だろう。それから比べれば、20万円と言う額は、寧ろ葉子の父にとっては割安に見えるかも知れない。それにその30万円以上の額を平気で支払える財力を持つ人物からしてみれば、月20万円の出費よりも一つのスキャンダルの種の方が恐ろしく、何としても避けたいものだろう。
そして月10万円と言う額は、大学卒業後もまともに働く気のなかった僕にとって、かなり魅力的な額でもあった。この10万円があれば、多少アルバイトでもすれば十分に生活していけるだろう。
そうやって延命させた生活自体に意味があるかどうかは別としても、不安定な将来に対するぼんやりとした不安感が拭えるという事だけでも魅力的に感じられた。
脅迫の仕方や金の受け渡し手段など、より綿密な計画については今後熟考する必要があるだろうが、少なくとも非現実的な計画ではないように思えた。
そして、ここで断るという結論を出してしまう事は、面白い話を聞けなくなってしまうという意味でも、何より勿体無い事の様に思った。
「わかりました。前向きに考えますよ。そんなに直ぐに実行しなきゃいけない訳でもないですよね?じっくり細かい部分、決めていきましょう。僕も、やるからにはちゃんとやりたいんで。」
僕の回答に対して、葉子ははじめて無防備な笑顔を見せた。
その表情を見た時に、僕は自分の決断の中に、計画達成やその報酬と言った目的とは別の、何かしら不純な期待が混じっている事にはじめて気付かされた。
僕が彼女の表情によって、また別の種の緊張感でいっぱいになっているとは知らず、彼女はその表情のまま話を続けた。
「あの…本当にありがとうございます。勿論、それなりに期待していたから話したのだけど、でも、やっぱり本当にやってもらえるとは思ってなくて。正直、気持ちの半分くらいは、誰かに話を聞いてもらえるだけでも、それだけでも十分って思おうって、構えていたんだけど…。
 言う通りで、期限がある訳ではないので、じっくり細かなところは話、しておきたいですね。とは言え、あんまり先延ばしし過ぎるのも…。」
「それもそうですね…。ある程度、目安として…半年位ってところかな?」
僕は何気ない感覚で妥当な目安を提示した積りだったが、言っている途中で、それが彼女の余命が残り半年であることを提示しているのと同義だという事に気が付いた。
気が付いた僕は慌てて、再度の熟考を試みようとしたが、その隙を与える前に、葉子は嬉しそうに頷きながら話を続けた。
「うん、そうですね、半年もあれば十分に計画の準備も出来るだろうし、私も生きている内にやり残した事、ある程度出来そうだな。」
あまりにあっけらかんと自分の死を直視している葉子に、僕は更に動揺してしまった。
この子は生に対して絶望しきってしまっているのか、単に馬鹿なのか、悲劇のヒロインぶっている自分がかわいいのか、実感が湧いていないだけなのか…そんな思案で頭がいっぱいになり、終いには僕自身の生について、自分にとって最も相応しいであろう死という手段から目を背け続けていた事を自責し始めた。
そんな僕の苦悩に気付く由もなく、葉子はまた話を続けた。
「そうだ、ところで今後、色々と計画を練っていくのに、連絡先を交換しておこう?」
「あ、それが…今時あり得ないと思うんだけど、僕、ケータイ持ってないんだよね…。」
「へぇー、それは確かに珍しいね、変わってる。でも、だからこそ声をかけようと思ったんだけど…あ、そういえば、本当にこれこそ今更だけど、名前も聞いてなかったですね。私は辻原葉子って言います。」
「あ、僕は平野和志です。ちなみに、パソコンも持ってないんだけど…あ、でも、一応大学から払い出されているメールアドレスアカウントは利用してるから、大学の端末から出来るだけこまめに確認するようにはするよ。家もここから近いから、結構よく大学には来るし…。」
そう言いながら、僕はカバンからペンとメモ用紙を取り出して、自分のメールアドレスと名前を書いた。
「私も。」
葉子は僕のペンとメモ用紙を取り、名前とケータイの番号とメールアドレスを書いて僕に渡した。
女の子と連絡先を交換するだなんて、普通の大学生みたいだな、等と考えると何だか自分が滑稽な気がして恥ずかしくなった。
「まだ、沢山伝えるべき事は沢山あるんだろうけど、私もずっと誰にも言えなかった秘密をばーって話したから、少し疲れちゃって。今はもうあまり頭が回らないから、一旦、また別の機会にゆっくり話させてもらえませんか?多分、和志君も、色々整理したり、そもそも本当にやるかとか、考えたいだろうし。」
「あ、そうだね、じゃあ、まぁそうしようか。僕は大体いつもヒマなので。メールくれれば大体は予定合わせられると思う。」
僕は、その時点で既に断る気などは毛頭なかったが、確かに僕自身、色々な話で頭がぐちゃぐちゃで、一旦頭の整理をしたいと思っていたところだった。
「わかった、ありがとう。メールするね。でも、また考えて、やっぱり無理だなって思ったら断ってもらっても大丈夫だから。すごく重い相談だから、断りにくいかも知れないけど、それは大丈夫。」
僕は何も言わずに頷いたが、多分僕の態度や表情から、既に断る積もりの無い事は伝わっていたのではないかと思う。
僕はペンやメモ用紙をカバンに仕舞い、肩に掛けると、食べ終わったカレー皿と、空になったコップの乗ったトレーを手に持ち、立ち上がった。
「じゃあ、また…メールします。」
葉子も立ち上がり、その場で軽く会釈をすると、トレーの返却口とは逆側の食堂の出口へと去って行った。僕はほんの暫くの間、トレーを持ったまま彼女の後姿を眺めていた。
僕に限って、これは恋なんてものではないし、相談を受けたくらいで感情移入するなんて事は無い筈だと、自分に言い聞かせている僕がいた。
しかし確かに僕はその時、素直に「死んで欲しくないなぁ。」と心の中で呟いていた。

18:
結局、葉子と別れた後、レポートの推敲作業をやり残したまま、僕は帰宅する事にした。とても引き続き文章を書ける様な状態ではなかった。
ただでさえ会話が苦手で、たまに他人と少し話しただけでも疲労感でいっぱいになる性質の僕だから、その時はまるでマラソンを走り終えた後の様に満身創痍だった。
ぐったりした身体を何とか持ち堪えさせながら、いつもの帰り道を少し早歩きで辿っていた。まだ日差しが強い夕方前の気候は、気付かない内に僕を汗ばませた。
駆け込む様な気持ちで自宅へ着くと、直ぐに窓を開け、むわっとした湿気の多い空気を部屋から逃がすと、そのままベッドの上に身体を投げた。
Tシャツの背中にジワリとしみ込んだ汗の不快な感覚に、着替えようかとも思ったが、身体を起こす気にもなれずそのまま天井をぼんやりと眺めていた。疲労感に反して、なかなか瞼が重くならなかった。
頭の中は空っぽだった。思考が煮詰まりすぎて全て蒸発してしまったかの様に、意識は静まりかえっていた。
そんな状態のまま、いつの間にか数時間が経ち、近所の商店街から17時を知らせる放送のメロディーが聞こえた頃に、漸くゆっくり瞼の帳が下がっていくと、僕は眠りの底へと沈んでいった。

19:
目覚めると、部屋は真っ暗で、時間は23時だった。
開け放した窓からは9月としては不気味な程に涼しい空気が流れ込んできていた。
外は霧雨が降っていて、月明かりは薄い雲に濾過されて、弱々しく街を照らしていた。
最近夜のランニングを欠かしていた事を思い出した僕は、久しぶりに走ってこようと思い立った。霧雨も、ちょうど走って火照った身体を冷ますのにはちょうど良さそうな具合だった。
僕はいつものようにさっさと着替えを済ませると、家の外へ出た。霧雨で視界はぼやかされ、更にやけに涼しい気候の所為か、昼間とは全く違う街にいる様な感覚を覚えた。
走り出すと、僕は今日の出来事について、考察し始めた。
先ず初めに、何故彼女は自殺ではなく何者かによる他殺を望んだのかと言う点に疑問が浮かんだ。共犯者に殺人という枷を与える事で、裏切る可能性を低くしたいというものだろうか。そのアイデアは自分でもあまり納得出来るものではなかったが、幾ら考えても他に回答案が見つからなかった。
また、そもそも虐待されていた事を脅迫のネタにするのであれば、彼女が死ぬ必要は無いのではないか、と考えた。例えば、首元から垣間見えたあの傷跡の様に、きっと彼女の身体には虐待の動かぬ証拠が他にも複数残っている筈である。しかし、やや空想が過ぎるかも知れないが、葉子の父がある一定以上の有力な権力者だった場合、その様な訴えはうまく捌かれてしまうのかも知れない。『死』という逃れようのない十字架を背負わせる事こそ、この計画には必要なのかも知れない。そして彼女は、この計画の成功によって自分の生を肯定したいのではなく、復讐によってそれにけじめをつけて、決別したいのではないかと推測した。
僕の動悸は、ランニングとは別の効果によって激しさを増していった。
僕は彼女の死への覚悟を理解しようとすると同時に、それとは反する考察が脳内を廻る事を否定しようとしたが、やはりそれは難しかった。その考えとは「彼女が死なない方法で、彼女の目的を果たす事は不可能だろうか?」というものだった。
何かしらの回答が見つかるまで走り続けようと思ったが、何一つ案さえ浮かばないまま体力が尽き果てて、途中から僕はじとじとした足取りで帰宅し、さっとシャワーを浴びると、直ぐに僕はまたベッドに横になった。
今度はあっという間に眠りに落ちた。

20:
翌日、僕は朝10時頃に目覚めると、早急に出支度をしてまた大学の図書館へと向かった。
暑さと湿気で汗が染みたシャツで図書館に入ると、冷房がやや寒さを感じる位に効いていた。
主目的は昨日やり残したレポートの推敲、と自分で言い聞かせてはいたが、真意は明らかだった。受付でノートPCを借り受け、既に混雑していた閲覧室で何とか空席を見つけ座ると、真っ先に電源を入れてメールボックスを確認している自分がひどく照れ臭かった。
受信ボックスには大学の事務局からのお知らせメールが二通と、葉子からのメールが一通届いていた。
僕は異性から初めて届いたメールに対して、つい鼓動が高まってしまう自分の惨めさに苦い嫌悪感を抱きつつ、そのメールを開封した。

=====19:27受信=====
和志君
こんばんは。
さっきおはなしさせてもらった葉子です。
突然のはなしで、たぶんすごく驚かせてしまったと思うけど、大丈夫でしたか?
わたしも最初からあそこまではなしてしまおうとは思っていなかったんだけど…もし、乗り気でなくなったら、正直に言ってくださいね。

もしよければ、また今度ご飯でも食べながらおはなししませんか?何か聞きたいこととかあれば、その時にぜひ言ってください。

では、お返事待っています。

辻原葉子
=====================

既に協力する事を決心していた僕にとって、前談はあまり重要ではなかった。何より異性と食事に行かなければならないというイベントに、情けない事に早くも緊張していた。
本来の葉子との関係性における自分が負っている大義について、改めて自分にその重要性を言い聞かさなければならなかった。おかしな熱が首回りに纏わりつき、汗ばみながらも無為に周囲の目に気を遣って、平静を装って返信を打った。

=====10:45送信=====
葉子さん

平野です。
大丈夫です。

基本的に平日夕方以降と土日は暇なので、葉子さんに合わせます。都合の良い時間を指定して下さい。
=====================

出来るだけ無難な、簡潔な文章にしようとしたが、送信後に見直して少し事務的過ぎた様にも思えてきた。かと言って人懐っこいメールを作成する能力など、元々僕には無かった。
送ってしまったものは仕方ないのだと割り切り、気を取り直すと、そのままレポートの推敲を再開した。
下地は昨日の段階で殆ど出来上がっていたので、一時間も経たずにレポートは仕上がった。
提出用の印刷を前に、もう一度全体を読み返そうかと言う時に、最小化したままになっていたメーラーに新着通知があることに気が付いた。
受信画面を確認すると、葉子からの返信だった。思った以上に早い返信に戸惑いつつも、気が上ずっている自分を自覚しながら本文を確認した。

=====11:56受信=====
おはようございます。

返信ありがとうございます。
そう言ってもらえるとうれしいです!

では、急だけど明日の夜とかどうですか?
わたしは5限まで授業があるので、18:15位に、図書館前待ち合わせという感じで…
わたしも基本的に暇なので明日以外でも大丈夫ですよ。
返事お待ちしてます(^^
=====================

少しメールの雰囲気がくだけた事に、また自分の気持ちが上ずり、軽薄さを自覚した。それを何とか律しようと思い直し、また無機質な作文を心掛けた。

=====12:02送信=====
葉子さん

平野です。
わかりました。
では、18:15に、図書館前ということで。
=====================

送信後、返信が少し早過ぎたか、文章が簡潔過ぎたか、等とまた細かなところが気になり始めたが、それ以上に、明日『女性と待ち合わせて食事に行く』と言う、一大イベントに関して僕は激しく緊張し始めていた。その緊張によって、まるでランニングを30分続けた後の様に肺が衰弱し、息苦しくなった。
僕は完成したレポートを印刷し終わると、何故か逃げる様に急いで図書館を飛び出していた。涼しい図書館を出ると、強い夏の日差しは、僕の脳みその外郭をあっという間に溶かしてしまった。生ぬるい風は僕を嘲笑している様だった。朦朧とした意識のまま、いつもよりはるか遠くに感じる家路を急いだ。

21:
翌日、約束の18:15より一時間以上前に待ち合わせ場所に着いてしまった為、僕は図書館に入って三度目となる『黒鬼』の再読をしていた。本編は流し読みし、解説については一つ一つの文字を追っていく様に丁寧に読み込んだ。
今現在、この物語の後日談の中に自分自身が居るのだという実感が湧き、とても不思議で空恐ろしい気分になった。
待ち合わせ時間が近づくにつれ、その奇妙な読後感と共にこれから始まるイベントへの不安が重なり、また息が苦しくなってきた。
食事と言っても何処へ行くべきか?服装はこれで良かったのか?等と悩んだ挙句、結局何も決められていないままだった。最終的には、「女性と食事をするからと言って、そもそもデートなんかではなく、もっと真面目な目的の下の打合せだから、そんなところで気を遣う必要は無いのだ」という尤もらしい逃げ道を見つけ、そこに落ち着いたのだった。それでも直前になると、また同じ不安が溢れ返ってきた。
いよいよ18:10になり、図書館前の待ち合わせ場所へと向かった。向かう途中、ふと鏡面状になった入口のドアに映った自分の顔を見た。伸びきった前髪の隙間から覗く卑屈な目つきと、その他に特徴のない、しかし何処となく陰気な雰囲気を充満させた顔つきの自分に対峙し、改めて『自分の中で抑え込んでいたある種の期待』への諦めの気持ちを強固に再構築した。お蔭で迷いは薄らぎ、緊張が幾分か軽くなるのを感じた。
図書館を出て辺りを見回すと、図書館前の段差に備え付けられた手すりに凭れ掛かりながら、携帯電話を操作している葉子の姿を発見した。
先程の『諦め』以降、気楽な気分になっていた僕は、自然に声をかけることが出来た。
「やぁ、待たせた?」
少し驚きつつも、嬉しそうにはにかんで彼女は携帯電話の画面から顔をあげた。
「全然!さっき来たところです。…ごめんなさい、ちょっとこのメールだけ打っちゃっていいかな?」
「あ、うん、構わないよ。気にせずどうぞ。」
葉子は少し申し訳なさそうに焦りながら、またメールを打ちはじめた。
「ごめんね、兄に、ちょっと連絡をね。」
画面に視線を落とし、メールを打ちながら、言い訳するように彼女は言った。僕は全く気にしないどころか、兄想いの彼女の行動を好意的な印象で眺めていた。恐らく夕食か何かについての連絡だろうか。
葉子の兄は知能障害を負っているとは言え、メールのやり取りが出来る事を考えると、今時携帯やパソコンも持っていない自分の方が『現代に生きる上での障害者』なのではないかとまた卑屈な考えが頭を廻り始めた。
その自嘲がエスカレートする前に、葉子はメールを打ち終わり、はにかみながら顔を上げた。
「ごめんね、今日は夕食を作り置いて来たんだけど、その事を家出る時に、兄に言い忘れてて…。」
「あ、いや、全然問題ないよ。」
「んーっと、何か食べたいものとかある?」
「あ、えーっと、特に…。」
「じゃあ、あの話をするのに、人が多いところだと話しにくいから、駅裏のパスタ屋さんでいい?そこ、いつも空いてるし、味もまあまあだよ。」
「あ、うん。じゃあそこにしよう。」
思いの外、すんなりと行く先が決まった事に安堵し、先程の『諦め』効果と相まって、想定した緊張は緩和されていた。
例の話の他に話題を見つけられず、店に向かうまでの間は殆ど会話は途切れがちだったが、大学周辺は学生街ならではの騒がしさがあり、沈黙もさほど気にならなかった。
それでも道すがら聞いた話によると、葉子は基本的に兄の世話の為に、外出する事も少なく、サークルにも属していない様だ。稀にゼミの友人と食事に行く機会には介護センタに依頼して面倒を見てもらう事もあるそうだが、聞いた限りでは彼女に大学生らしい自由な時間は殆ど無い様だった。
それでも僕から見ると、しっかりと前を向いて生きている様に見えるのは、単に僕自身の卑屈な意識からだけではなく、父への復讐という一種の希望が、彼女に生気を与えているに違いなかった。
僕は葉子に死んで欲しくないという、日に日に少しずつ強まる意志を抱きつつも、彼女の計画を妨げる事が彼女にとって如何に不都合な結果を招くかを改めて理解していた。僕はそれらのジレンマを消し去ろうと密かにもがいていた。その葛藤について、この時点ではまだ自覚も薄かったが、それに気付いていない程には鈍感では無かった。
そんな僕の苦悩を余所に、二人は真っ直ぐに店へと辿り着いた。その店はパスタ屋と言うよりは、喫茶店で幾つかパスタを出していると言う雰囲気だった。外観はこじんまりした店構えで、商店街の一つ路地を入ったこの静かな通りの雰囲気によく馴染んでいた。
葉子が店のドアを開けると、感じの良さそうなおばちゃんが挨拶し、僕らを店の奥側の席へ案内した。店内は四人掛けのテーブル席が三つ、後はカウンター席が六つあり、古いながらも清潔で好感のもてる雰囲気の店だった。
僕らの他には、コーヒーを飲んでいる老夫婦が一組と、カウンター席に座っている作業服を着た中年男性の計三人だけだった。店内に会話は少ないながらも、程よい音量のジャズピアノのBGMが、会話のしづらさを打ち消してくれていた。
「安い割に、けっこう量が多くてね。カルボナーラとかおいしいよ。」
そう言いながら、彼女はメニューを僕の方へ差し出した。
一応は一通りメニューを眺めたが、取敢えず葉子が薦める通り、カルボナーラの大盛りを注文した。
「じゃあ、私は…今日は違うのにしようかな…。」
と、彼女は僕が広げていたメニューを覗き込みながら、ボンゴレとミニサラダのセットを注文した。
先程のおばちゃんが注文を受け、それを奥の主人らしきおじさんに大きな声で伝え、カウンターから水と食器を運んできた。僕は水を一口飲んでから、葉子の顔を伺ったが、本題に入りにくかったのか気不味そうにに目を逸らした。
緊張感が解れていた事もあって、珍しく僕は自分から会話を切り出した。
「あ、例の話の事だけど。」
葉子は少し驚いた顔をして、逸らそうとしていた焦点を僕の顔に合わせた。
「先ず、言っておこうと思ったのは、僕はこの話にすごく乗り気だし、そこは信用してもらって問題ないと思う。葉子さんが僕を選んだのは、ある意味では凄く妥当だったかも知れないね。
 何となくわかってる知れないけど、僕はこれと言って趣味もなければ、守るべきものとか、明るい将来の展望だとか…そういったものは一切無いから。だから、君も偶然読んだ様な、ああいう本ばかり読んでは現実逃避ばかりしてた。
 そこで、葉子さんに会って、こういう話を聞いて、不謹慎だと思うけど、自分が現実逃避の先だと思っていた世界に、自分がいるという事に、すごく興奮しているんだ。最初に、君の首元の傷痕について失礼な事を敢えて訊いたのも、その衝動が原因だったんだと思う。
 とにかく、詳細はこれから色々話していくとして、そこについては、心配しなくていいよ。ただ、僕は何やらしても不器用だから、そこはちょっと心配かもしれないけど…。」
葉子は終始、少し驚いたような顔をしていたが、最後まで聞き終えると、にっこりと表情を和らげた。
僕はその表情を見ると、鼓動が早まるのを感じた。その笑顔には、僕に信頼を置いて安心してくれたのか、とてもやわらかな印象を受けた。
「ありがとう。じゃあ、もう本当に信頼して、色々頼んじゃおうと思います。」
頷きながら、僕はもう一度水を口に含んだ。今にして思えば自分としてはかなり恥ずかしい事を長々と話したが、その時点では全くそういう意識は無く、自然と口から出ていた言葉だった。
「うん、そして、やるからには、僕も失敗はしたくないから、ちゃんと整理してやっていきましょう。
 で、僕は協働するとは言え、やっぱりこの計画の主人公は葉子さんな訳だし、その前提はこの計画の目的の為にもぶらしてはいけないところだと思う。だから、僕が計画について意見する事や助言する事はあっても、基本的に計画を立案するのは葉子さんであるべきだと思ってるんだけど…。」
彼女は僕の話を聞いて、先程の笑顔の色を更に明るめた。
「なんか、本当に和志君に声をかけて良かったと思う。勿論、和志君に頼る部分は沢山あるんだけど、今言ってくれた通り、計画を立てるところに関しては出来るだけ自分自身でやりたいという想いは強かったの。」
「うん、そうだよね。だけど、葉子さんのその計画について、僕は出来る限り把握しておく必要があるとは思うんだよね。出来れば、文面でその計画を共有してもらえると分かり易いんだけど…。」
「そうですね、確かに。実は文にはしたことは無かったんですけど、その方がきっと、自分としてももっとちゃんとした計画が立てられそう。じゃあ、暫く時間もらって、計画をメールで書き上げてみようと思う。」
「そうだね、それじゃ、それを待って、またこういう感じで気になったところを話しますか。現時点では、正直、計画の概要しか掴めてなくて、あまり綿密な打合せは出来なそうだし…。」
「そうですね。多分メールなら…。」
葉子は何か言いかけたが、おばちゃんが先ずサラダを運んできたところで、話を止めた。いかに無関係の他人とて、出来るだけこの計画の漏洩には慎重にならなければならない。
同時にサービスのコンソメスープが二人分、運ばれてきた。
「あ、取敢えず食べなよ、サラダ。」
「そうだね、ありがとう。」
僕もスープを口に運んだ。少し濃いめのコンソメスープが僕の空腹に流れ込み、食欲を一層引き起こさせた。葉子は小さな器に盛られたシンプルなサラダを、小さな口でむしゃむしゃ食べていた。
僕は何となく手落ち無沙汰で、周囲を見渡すと、気付けば老夫婦は居なくなっていて、作業服の中年は食事を終え、新聞を広げていた。カウンターの奥からは、おばちゃんと店の主人らしき二人の会話がうっすら聞こえていた。静かで、冷房の効いた店内はとても心地よく、また少しずつくつろいだ気分になっていた。
サラダをあと少し残した状態で、葉子がまた口を開いた。
「さっきの途中だけど、メールね、今週末位に書いて送るのでいいかな。」
「あ、うん。まぁ焦る事ではないから、ゆっくりやるといいよ。」
彼女は頷きながら、サラダの最後の一口を口に入れた。ちょうどそのとき、パスタが二人分運ばれてきた。なるほど、確かに僕のカルボナーラ大盛りはかなりの量だし、普通盛りのボンゴレも普通の店の大盛りくらいある様に見えた。
「おぉ、本当に結構ボリュームあるねぇ。」
そう言いながら僕はパスタを食べ始めた。気取らない味で、なかなか美味しかった。
「うん、ボンゴレも美味しいよ。」
僕はもともと早食いなので、どんどん食べていたが、葉子も女性の割には早く食べ進んでいて、二人ともほぼ同時に食べ終わった。
「確かに、量もあるし、結構美味しかったよ。普通盛りでも結構量あったぽいけど、よく食べれたね。」
「うん、こう見えて結構大食いなんだよ、私。」
そう言って葉子は少し照れ臭そうに笑った。確かに華奢な見た目には似合わない食べっぷりだった。
僕はその笑顔を見て、先程店に向かうまでの葛藤が再燃しようとするのを何とか抑えようとしていた。こんなに明るい笑顔を持っている彼女に、あれ程の暗い過去と確固たる復讐への決意が隠されていようとは、計画を共にする僕でさえ未だに疑いたくなる事実だった。
そんな僕の葛藤を知る由も無く、彼女は僕と目が合うと、ににこっと微笑みかけた。僕は何だか堪らない気分になり、水を一飲みすると、いつの間にか机上に置かれていた伝票に目をやった。
「あ、じゃあ、その計画を文面、メールでもらってから、また話しましょう。」
「うん、そうですね、ありがとう。」
徐にたちがると、伝票を持ってレジへ向かった。デートなら男が奢るものなのかな、と思いつつ、自然に別々で会計を済ませた。
店を出ると、まだ空は少しだけ明るかったが、店に向かって歩いていた時間帯と比べると、だいぶ暑さは和らいでいた。
「僕はこの商店街抜けたところに住んでるんだけど、葉子さんは?」
「私は四つ隣の駅に。そっか、ここに住んでると大学行きやすくていいね。」
「うん、まあね。…じゃあ、また、メール、出来るだけこまめにチェックする様にしときます。じゃあ、ここで…。」
そう言って、僕は駅とは逆側へと歩き出そうとした。本当は途中まで同じ道で行く方が自宅までは近いのだが、早く一人になって色々考えたかった。
葉子は歩き出そうとする僕を、少し引き止める形で話を続けた。
「今日はありがとう。具体的な話はまだまだだけど、でも、本当に有意義だったし、やっぱり今まで話せなかった事を話せるのって、すごくすっきりするって言うか…。とにかく、ありがとう。またよろしくね。」
葉子はまた、少し照れ臭そうな笑顔のまま少し手を振ると、駅の方へと歩き出した。先に動き出そうとしたはずの僕だったが、何故かその場から少しの間動けなくなり、彼女の去っていく後ろを眺めていた。
人通りの少ないその道の細い通りに、大学生のカップルが自転車を二人乗りして、僕の脇を通りがかった。
僕は自宅へ向けて歩き始めたが、何だか僕の中身だけをそこへ置き去りにしてしまった様な、空虚な感覚のまま、ふらふら家へ帰った。

22:
数日間、例の葛藤を思い浮かべては沈めて、何も見出さないまま、悶々として過ごした。趣味も友達も何らの義務も、何もない僕にとって夏休みは只々、思い悩む為だけに与えられた時間の様に思えた。
特に用事もないのに、毎日一度は図書館へメールをチェックしに通っていたが、あの日から六日目の今日も、葉子からメールは来ていなかった。もしや先日の食事の中で彼女の信頼を失するような事でもしたかと不安になりもしたが、卑屈な僕とは言え、さすがに別れ際の葉子の素直な謝辞までを疑う事はしなかった。
今日の図書館からの帰り道には、これまで一度も持った事の無い、携帯電話の購入を検討し始めていた。
今までも別に拘りがあって持たなかった訳では無く、ただ単に必要性を感じなかったから持っていなかっただけの事で、必要性を感じる今ならば買うべきだろうと単純に考えたのだった。
アルバイトもしていない僕にとって、携帯電話の購入における唯一の課題は、如何に両親を説得して買ってもらうかだけだった。
しかし、それについては既に案があり、僕は早速それを実行に移すことにした。僕は近くのコンビニにある公衆電話から実家へ電話を掛けた。電話に出たのは父だった。
「もしもし、和志だけど。」
「あぁ、お前か。珍しいな。どうした?」
「ちょっと頼みがあるんだけどさ。流石に僕も、ちょっと就活を始めようと思ってね。その為に、携帯電話、必要かなーって。」
「お、うんうん。そうかそうか。それは良いことだな、うん。携帯電話か、まぁ今時持ってない大学生なんてお前くらいのもんだろう。」
父は就職活動について少しでも僕が考え始めた事に、あからさまに上機嫌になり、直ぐに携帯電話購入について快諾してくれた。
当然、就職活動の事等、僕の頭には無かったが、この計画がうまくいけば収入が得られるわけだし、あながち全く嘘でも無い筈だと、自分に言い訳を付けた。
父は今週末たまたま東京へ出張に来るらしく、その時に落ち合って買いに行く事になった。
「お前も少しは大人になってくれたって事だな。」
父は電話を切る間際にそんなことを言った。嬉しそうな父の話し振りに、僕にも罪悪感が湧いたが、計画遂行の大義の前では止むを得ない事だと、容易に割り切れた。
少なくとも今週末までは、今日と同じように図書館までの往来と、無為な苦悩が続くのだろうと思いながら、コンビニで安い弁当を買って帰ると、眠くなる迄の数時間を、また無為な苦悩で埋めるのだった。

23:
父に携帯電話購入についての電話をした翌日、ちょうど一週間目に葉子からメールが来ていた。

=====9:21受信=====
おはようございます!

連絡が遅くなってしまいすいません…
そして更にすいません、書き出してみると、思った以上に難しくて、わたしの考えも穴だらけだったし、もうちょっと時間がかかっちゃいそうです…(>_<)

今日明日は何も予定なくて、一日中家にいられるので、明後日くらいには送れると思います!もうすこしだけ待ってください(^^;

=====================

確かにそう易々とは書ける内容ではないだろうし、その位慎重にやってもらった方が僕としてもやり易いだろう。メールで了解の旨だけ返信すると、僕は図書館を出た。
葉子からのメールが無い要因が、自分が彼女の気を害するような事をしていたからではという憂慮が、このメールによって打ち消され、一先ず安堵しする僕がいた。
帰路で、久しぶりにいつもの古本屋に寄って、何か本でも買って帰ろうという気になった。その古本屋は小さいながらも、多くの珍しい書物や漫画まで、雑多に積み上げられていて、何度も通っているのに、度々新しい発見をすることが出来るお気に入りの店だった。
馴染みの店主は、いかにも古本屋の主人と言った雰囲気を持った人で、商売っ気の無さそうな顔で、レンズの濁った丸メガネを鼻先にかけて、いつも何かの文庫本を読んでいた。
その日も特に目星もつけず、店内を廻りながら、乱雑に置かれた本を取っては中身を飛ばし読みし、気に入りそうな本を探していた。
結局、ここ数日間の気晴らしの意味もあり、その日は『デイアフターデイ』という漫画を買ってみることにした。タイトルも作者名も聞いたことが無かったが、細い繊細なタッチで描かれた表紙の絵柄が割と好みだったので、敢えて内容は確認せずに買う事にした。
コンビニでおにぎりを買って帰り、それを頬張りながら漫画を読み始めた。
編集者の解説によると、この『デイアフターデイ』は1975年に発行された、作者にとって三作目にして最後の作品となった、読みきり中編の再発版であり、『知られざる名作復刻シリーズ』の一環として発刊されたものであると言う。
確かに名作と言うに恥じない内容で、ストーリーこそ平坦な日常を描いたラブストーリーで、ともすれば退屈と評されかねない内容ではあったが、繊細な感情表現や、一冊を通して漂う不思議な浮遊感は見事だった。
内容はは、『主人公とヒロインが、生活上の障害に隔てられて、妥協と諦めの末、別々の未来を選ぶ』と言う、文面だけで端的に言い表そうとすると何とも現実的な湿っぽい物語だった。しかし、その独特の絵柄の雰囲気や台詞の行間が、切ないながらも爽やかな読後感を与えるのだった。
久しぶりに『お気に入りダンボール』に選出される作品との出会いに、気をよくした僕はベッドの上に寝転がりながらパラパラと再読していた。カーテンを揺らす、窓から流れ込む風を心地よく思いながら作品の雰囲気を味わっていると、いつの間にか眠りに落ちていた。

24:
その日、父とは19時に品川駅近くの喫茶店で待ち合わせる事になっていた。打合せ次第では30分程度前後するかもしれないと言われていたのだが、実際には一時間半近く待たされて、ようやくスーツ姿の父が現れた。
「やあ、待たせたな。やっぱり、こういうときにも携帯か無いってのは不便だよな。待たせといて悪いが、俺もコーヒー一杯だけ飲ませてくれよ。」
そう言いながら、店員にアイスコーヒーを注文すると、ネクタイを解いて鞄に詰め込んだ。
父は僕とは正反対の性格で、明るく快活だった。それもあって、仕事の成績はすこぶるいいらしく、あまり詳しく聞かされた事は無いが、どうやら要職を務めているらしい。学生時代にはスポーツに熱心だったらしく、50歳になった今でも、寧ろ僕よりも締まった体をしていて、服装への気の遣い方もよっぽど僕より若々しかった。
父は僕の社交性の無さを心配してはいるが、一応は一流大学に入った事から、僕の「頭の良さ」を過信しており、あまり口煩い事は言ってこない。息子から見ても、誰からも好かれる文句の付けようのない人だった。
「どうだ、最近は。相変わらず、ふらふらしてんのか。」
「うん、まあね。でも一応勉強の方は…。」
「そうだな、春季の成績は見たよ。相変わらずお勉強については文句無いんだけどな…。で、そうだ、就活、始めるんだってな。」
「あ、まぁ、取敢えず手広く色んな会社見てみようとは思ってるよ。やっぱり携帯とか、連絡手段が無いと説明会にすら出られないからね。」
「あぁ、そうだな。どちらにせよ、携帯電話位は今時、持っていないと何かと不便だろう。女の子とも遊べないじゃないか?」
思わず僕は葉子の顔を浮かべたが、直ぐに打消して平静を装って応じた。
「それは、携帯電話云々の問題じゃなくて、無理だね、僕には。興味もないしさ。」
「ふーん、やっぱり今時の若者は冷めてるんだなぁ。お前だけか?俺なんかの若い頃はなぁ…。」
父が昔の武勇伝を語り始めると、アイスコーヒーが運ばれてきた。父はそれを飲み飲み、引き続き話し込んでいたが、何度も聞かされた母との馴れ初めエピソードを話し終えると、伝票を持って席を立った。
父が32歳の時に、同じ会社に勤める二つ年下の母を何とか口説いて付き合ったらしい。そして二か月後には反対する周囲を押し切って所謂「できちゃった結婚」をし、僕を産んだのだと言う。僕の性質には似つかわしくない誕生エピソードであるが、いつも父はこの話を楽しそうに語った。
駅の近くの携帯電話ショップで、当然機種に拘りは無かったので、最も安くてシンプルに扱えそうな古いモデルを選んだ。父は素早く諸手続きを済ませ、料金支払いは父の口座から引き落とされる様にしてくれた。
「まあさ、取敢えず、就活頑張れよ。別に無理しろとは言わないからさ。お前、頭は良いんだから。」
本当に優しい父だと思う。早速その場で父の携帯番号とアドレスを登録し、父と別れた。
帰宅した後、慣れない操作で「今日はありがとう」とだけ父にメールを打った。
直ぐに父から返信があった。葉子との計画について、もし失敗しても失うものなど無いし、いざとなったら自らこの無為な人生を終わらせてしまえばいいと思っていた。しかし、父のメールを見た時に、初めてこの計画にかかるリスクについて意識する事になった。

=====23:07受信=====
これまでお前は手のかからない息子だったからな。
多少金使わされるくらいどうってことないよ。俺もまだそこそこ稼げてるし。
まあ一人息子のお前だ。それなりのものを残してやろうとは思ってるけど多分一生賄うだけの遺産ってのはさすがに無理だから最低限自分の生活やってけるくらいは稼げるようになれよ。
俺と母さんの老後くらいは自分で何とかするから心配すんなそんなのお前に期待してないしな(笑)
他に何か必要なものあったら言いな。
あともし万が一彼女出来たら紹介しろよな(笑)

=====================

父への罪悪感から一瞬心が揺らぎはしたものの、今さらこの計画を降りることは出来ないという、強い思い込みがそれを既に凌駕していた。結果的にはこれを機に僕の意志はより強固になったように感じた。計画に含まれる金銭的なメリットや好奇心を遥かに上回り、『葉子の力になりたい』という気持ちが強くなっている事について、自分で否定出来なくなっていた。
僕は普段、殆どまともに向かう事の無い、洗面台の鏡の前に立ち、珍しく自分の顔をじっと見ていた。
相変わらず陰鬱な冴えない顔つきには変わりなかったが、自らの心情変化の影響からか、何処となく以前よりも引き締まった表情に見えた。
僕は高まった気分のまま、伸びきった前髪を鋏でザクザクと切っていた。それは自分の中での儀式の様なものだった。頭に残った毛を振り払ってから、洗面台に散らばった前髪の残骸を水で流した。顔を洗い、もう一度鏡を見ると、前髪は無様な形になったが、以前よりも我ながら表情が引き締まって見えた。
取敢えず満足した僕は、昂ぶった気持ちを抑えきれないまま床に就いた。これまで持った事の無かった強い決意の合間に、浮かび来る父への申し訳なさを息苦しく感じながらも、いつしか僕は眠りの中に居た。


25:
翌朝、図書館へ行くと、早速ノートパソコンから葉子へメールを打ち、自らの携帯電話の番号とメールアドレスを伝えた。
わざわざこの計画の為に携帯電話を買った事を彼女にどう思われようとも、そんな事は最早どうでも良かった。昨夜の葛藤や罪悪感を眠りの中で消化して以来、妙に開き直ったように気分は晴れやかだった。寧ろ葉子に僕の熱意が伝われば面白いとさえ思った。
それに応える訳では無かったろうが、葉子から直ぐに携帯電話の方へ返信が来た。

=====10:27受信=====
おはよう!

携帯電話買ったんだねー
連絡取りやすくなったね!≧∇≦)

電話:xxx-xxxx-xxxx
メール:xxxxxxxx@xxx.ne.jp
改めて、登録よろしくね★

それじゃ、例の計画についても
このアドレスに送れば良いかな?
今晩中には送れそうなので
確認よろしくです!

=====================

昨夜以降、ますます明確になる決意の中にあって、僕は一種の興奮状態にいたのかも知れない。直ぐに葉子に対して確認応答のメールを返した僕は、落ち着かない気分のまま、意味も無く急いでパソコンを返却し、図書館を出ると、小走りに近い早歩きで帰宅した。
十月に入り、夏も終わりつつある時季とは言え、急ぎ足で歩いた事で、額から汗が流れ落ちた。
自宅に着いてからは、葉子から計画についての連絡を待つばかりだった。本を読んで待とうにも気が落ち着かず、ベッドに仰向けになって天井に向けて焦燥で尖った溜息を吐きながら、何度も携帯電話の画面を確認していた。
昨晩あまり眠れなかった所為もあって、徐々に眠気が増してくると、そのまま僕は眠りに落ちていった。

26:
目を覚ますと部屋は真っ暗で、既に20:00を過ぎていた。八時間以上眠ってしまっていた自分の睡眠過多に呆れながら、真っ先に携帯電話を確認した。
まだ葉子からの連絡は来ておらず、落胆しながら部屋の電気をつけた。
開け放された窓からは、爽やかな風が流れ込んできていた。机上に置きっぱなしにしてあった温いミネラルウォーターで乾いた喉を潤した。
眠った事で気が落ち着いてきた為、寝起き後でぼんやりした頭のまま『デイアフターデイ』を再読し始めた。気に入った本は少し時間をあけて再読すると、何度目でも新たな発見があり、ささやかながら心地よい感動を与えてくれる。
今回の再読に当たっては、漫画のヒロインと葉子とが、同じ髪形をしている事に気が付いた。ほんのひと時、不思議と胸が高鳴った。
しかし、漫画のヒロインとはあまりにかけ離れた葉子の境遇を思うと、漫画の中の別れ話が茶番劇の様に感じられた。
敢えてゆっくり読み進めていて、物語の結末にさしかかった頃に、携帯電話が鳴動した。突然の待ちかねていた連絡の到着を知らせる着信音は、僕をとても驚かせた。慌てて僕は本を閉じ、直ぐさま携帯電話を手に取った。それは葉子からのメールだった。

=====21:08受信=====
こんばんは!
遅くなっちゃってごめんなさいm(_ _)m

今から計画メール送ります。
けっこう長文になっちゃいますけど、大事な内容なのでちゃんと目を通してもらえるとうれしいです。

和志君のアドバイスにも期待しているので、何かあれば遠慮なく言って下さい!

=====================

そして直後、葉子から二通目のメールが届いた。

=====21:11受信======
計画(案)

■目的達成の条件
・啓一郎(父)に精神的なプレッシャーを与えられる事
・葉子が解放される(命を絶つ)事
・光広(兄)の介護が滞りなく継続される事
・和志君が協力者としての利益を得る事

■目的達成までの流れ
達成条件を同時に満たすために以下の手順を踏む。

 1.和志君に全計画内容について納得・理解してもらう(前提)
 2.光広名義での銀行口座の作成
 3.葉子・和志君・松村さん(介護センタの責任者)による打合せ(調達金の受け渡し方法など)

 4.啓一郎への脅迫文作成(内容は別途相談)
 5.脅迫文内容について和志君に照会
 6.脅迫文確定後啓一郎へ送付

 7.一次振り込みを確認する
 8.以降、不定期的に送付する追加脅迫文(?)を作成

 9.葉子の身辺整理(大学籍除名・海外渡航したことにして知人に説明しておく・携帯電話解約・荷物整理・等々)
 10.葉子絶命(行方不明として死体が見つからないよう計らう・手段については和志君と協議の上)
 11.以降、計画通り和志君は受けた金額の管理・啓一郎の監視・光広の介護状況の確認を務める
 ※その受取額20万円の内、10万円を松村さん指定の口座に振り込み、残り10万円は和志君が受け取ることとする

=====================

直接話している際には、深刻な相談内容であってもなお、柔和な印象を僕に持たせた葉子ではあったが、やはりこの計画に対する意志は固く、文面で事務的に語られる事でその陰鬱な熱意が痛い位に伝わってきた。
計画内容については、思った以上にシンプルではあるものの、一読した限り、大きな抜け漏れは無い様に思えた。
但し、項目10に関しては、やはりまだ僕の中で消化しきれていない状態であり、『葉子絶命』の単語は直視出来なかった。そんな状態で、文中にある通り彼女の死ぬ手段を計画するなんて事が自分に出来るのか不安にもなった。
30分ほど、色々と思考を巡らせながら何度か読み返したが、この計画の肝要な部分になるであろう、脅迫文の内容と死ぬ手段については別途話し合う事になりそうなので、特にこの流れについては修正すべき点は見つけられなかった。
取敢えず了解したという旨を伝えようと、返信メールを作成しようとしていたところに葉子から突然電話がかかってきた。
不意の着信に動揺した僕は、慌てながらも呼び出し音が一つ鳴り終わるや否やの間合いで着信に応じた。
「あ…えっと、もしもし…」
「急に電話ごめんね。大丈夫だった?」
「あ、うん、大丈夫。うん。」
「あの、メール、もう読みました?」
「あ、うん、読んだ。今メール返そうとしてたところだったよ。」
「そっか、ごめん、待ちきれなくて電話しちゃった…内容、どうだった?」
「えっと、悪くないと思うよ。細かいところはもっと詰めていかなきゃだとは思うけど…。」
「そうだよね。私も、どこまで詳細に書こうかも迷ったんだけど、そういう細かい部分は和志君にも相談させてもらいながら決めていきたいと思って。特に…」
何かを言いかけて、急に葉子は黙り込んだ。奇妙な間が数秒の静寂を作ったが、悪い予感を覚えながら、僕から沈黙を破った。
「特に…って、言うと…?」
「特に…。特に、私が死ぬ方法については和志君に、きっと一番大きな負担をかける部分だと思うし、ね…。」
「あ…。」
葉子は躊躇いながらも決心した様にはっきりと話した。それに対し、僕は何も言えなくなり、二人はまた黙り込んでしまった。彼女も何も話さず、僕が何か言うのを待っている様だった。
先程よりも少し長い沈黙が続いたが、やがて僕からまた声を出した。
「あ、そうだね、うん。その辺はやっぱり、会ってちゃんと話さないとだね。」
「…うん、ありがとう。」
更にまた、少しだけ会話に間が空いたが、今度は彼女の方から切り出した。
「じゃあ、取敢えずこの流れを基にして、色々と細かい事をまた会って話しませんか?」
「そうだね、僕はいつでも。…あ、授業もう始まってるんだったよね。」
「うん、私も水曜から後期の授業始まる。四限だったかな。じゃあ、その日に和志君も都合よかったら…。」
「僕もその日、ちょうど四限まで授業あるよ。じゃあ、また場所とかは当日に連絡取りあおう。四限後に。」
「うん、それじゃ…。」
「また…。」
暗い雰囲気のまま電話を切った。短い通話だったが、沈黙が長かった所為で、やけに長い間話していた様な疲労感があった。
気付けば口の中が乾ききっていた。僕は机上の温いミネラルウォーターを一口で飲み乾した。
着実に具体的に象られていく葉子の死は、これまで僕自身がぼんやりと願っていた自身の消失等とは全く性質を異にした現実感を持って僕に迫っていた。僕は彼女の死を思い留まらせられる様な台詞を思案しようとしたが、やはりそれはあまりに無謀に思えた。
なぜなら葉子のこの計画に賭ける想いは、狂信と言っても過言ではない程に確固たるものであり、その目的達成のための手段についての助言は出来ても、その目的を変更する事は雑多意に不可能に思えた。
更にもうひとつ、説得する上での大きな課題は、その説得材料自体が何一つ無い事であった。敢えて挙げることが出来るのは、僕の『何となく死んで欲しくないなあ』という何の骨子も無い感想だけだった。それは自分としては、かなり強い願いではあったものの、到底理由を付けられるものではなかった。
もし僕が他の一般の大学生の様に、ささやかでもスポーツや音楽などの輝ける趣味や功績を持っていれば、それを例に生きる事の素晴らしさを語ることが出来たかも知れないが、勿論、過去を全て虱潰しに見ても、そんな材料を一つも持ち合わせていない事は自明だった。
この様な考察を巡らせているうちに、いつもの鬱々とした気分になったが、それでも計画を成功させるという目的が、少なからず僕を勇気づけていたのは事実であった。当然その目的達成が、僕を更に不幸な精神状態に追いやるであろう事は予想出来たが、それに向けて行動する以外の方法が、僕には思い当たらなかった。

27.
しとしと降る雨の中、図書館の前で葉子を待っていた。
肌寒い風が、するりと僕の脇を通り抜けていった。
自分の肩が強張っている事に気づき、息をゆっくり吐いて緊張を逃がそうとした。
やがて色々な傘が躍る学生の雑踏の中から水色の傘をさした葉子が現れ、十メートル程先で僕に気付くと、早足でこちらへ近付いてきた。僕もゆっくり彼女の方へ足を進めた。
「ごめん、前の授業がちょっと延びちゃって…。」
「いやいや、いいよ。えっと、まだ夕食には早いし、駅前のカフェでも入る?」
「うーん、駅前のあの店だよね?でも、あそこって、結構うちの大学の人多いから、ちょっとね…。」
「そっか、そしたら、また前の店にしようか?あの、こないだ連れて行ってもらった。」
「うん、そうだね。」
依然、控えめに降り続く秋雨の中、僕らは店へと向かって歩き出した。
「あれ?髪の毛切った?」
「あ、うん、自分で少し、前髪だけね。」
「なんかちょっと爽やかになったね。」
「あ、あぁ、ありがとう。」
そんな些細な世辞さえも、今までそういった言葉を受けたことが無かった僕の顔を紅潮させるには、十分な効力を持っていた。
僕はそれを彼女に悟られぬ様に、景色に視線を向ける素振りで、顔を直視されない様に努めながら歩いた。
期首の、この時間のキャンパスはいつもより多くの学生で溢れている。人ごみが苦手な僕はひどく苦々しい気持ちを覚えるのが常だったが、この時には雑踏から大学生カップルを見つける度に、『デイアフターデイ』の様な平凡な恋愛を享受している彼らを純粋に羨望の気持で眺めた。
無論、それすら僕と葉子の関係性から言えば、思い上がった考えではあったが、僕は協力者として一定の信頼を彼女から置かれている事を過剰に捉えて、卑しくも「その気」になっていたのかも知れない。
やがて店に着き、傘を畳みながら店内に入ると、その日は客は一人もいなかった。おばちゃんが笑顔で迎え入れてくれ、僕らは自然と前回と同じ席に腰を下ろした。
僕はアイスコーヒーを、葉子はアイスティーを注文した。
注文を終えると、僕の方から切り出した。
「じゃあ、先日送ってもらったメールを基に、確認したい部分を僕の方から聞いて行っていいかな?」
葉子は前向きに話を進めようとする僕の姿勢を喜んでいる様だった。微笑みながらはっきりと頷いた。
「先ず、気になったのはお兄さんの世話役になるという松村さんと言う人の事なんだけど。今回の計画において、葉子さんと僕を除いて、唯一の協力者となる訳だよね?失礼かもだけど、この人は信頼していい人になるのかな?」
「うん、そこもすごく大事なポイントだと思う。松村さんはかなり信頼がおける人だと思ってる。どんな人かって言うと、母がまだ生きていた時から、私たちに用事があって手が離せない時なんかに、兄の面倒を見てくれていて、個人経営の介護センターの所長をしている人なの。だから私が死んだ後は、兄はこの人の介護センターで面倒を見てもらう積もり。元々趣味で通っていた陶芸の教室で知り合ったとかで、友達としても母は松村さんをすごく信頼していて、母が少し話してたらしくて、ある程度は私たち家族の事情も知ってる。
 でも、かと言って、過度に信じ込んでいる訳ではないから、松村さんには計画については話さない積もり。メールに書いた打合せと言うのは、飽くまでも兄の今後についての事務的な役割の部分を摺合せして確認しておく為の打合せだと思ってる。和志君も、今後の為に同席してもらった方がいいと考えたの。
 松村さんへは、他の知人と同様、私は留学とその後の就職の関係で海外へ行った事にしちゃおうと思ってて、和志君は介護費用の支払い代行をしてくれる私の大学の親友として、松村さんに紹介しようと思ってる。」
「そっか…それはそれで安心なんだけど、僕としては、一つの不安材料として、君のお兄さん名義での口座を作った時に、そこに振り込まれたお金を葉子さんと全く無関係の筈の僕が引き落とす事が、いざ万が一の場合に第三者からすると大きな矛盾に見えないかな、と思っていて。
 それよりも、もし万が一君の父親が何らかの調査を行った場合を考えると、松村さん名義の口座に振り込ませるという形にしといた方が自然なんじゃないかなと考えたんだけど。ただ、松村さんにこの計画の事情を説明しない上では、お金の受け渡しについて説明出来ないし、もし松村さんが僕に送金している事が明るみになったら、余計に不自然になっちゃうけど…難しいとこだね。」
「うーん、確かに、少し危険かもしれないけど、でも、やっぱり私的には兄名義の口座を和志君に管理してもらう方がいいかな。
 ある程度、って言うのは本当に兄の介護と言う限られた範囲では松村さんは信頼出来るけど、お金を管理してもらうって言うのは何となく少し怖い気がする。兄は松村さんの経営するセンターで面倒を見てもらう事になって、実際に世話をするのはそこの職員になるから、松村さん自身にとって直接的に兄は殆ど負担にならない筈。だから敢えて兄の面倒を見なくなるって事は無い筈だけど、和志君への送金に関しては渋るかもしれないし、何より正義感の強い人だから、絶対にこの計画に勘付いちゃったら反対されると思う。それよりはしっかり和志君に管理してもらった方が。でも、そうすると、確かに和志君に迷惑がかかる可能性が少し高くなるのかな…。」
「うーん、じゃあ…そうだな、やっぱり僕が管理する形にしよう。最悪、誰かに問われた時には、『葉子さんの友人として、依頼された振り込みの仲介作業をやっていて、それで小遣い稼ぎをしていた。事情はよく知らないけど、金がもらえるからやっていた。』とか、適当に言って白を切れば良いか。実際同じ大学に通ってるから友人って事にしといても不自然ではないし、しかも逆に僕らの関係を知る人もいないから、誰も不自然さを否定も出来ないしね…。」
ここまで話していて、僕は以前から心のどこかで消化しきれていないある疑問が、もう一度はっきりと輪郭を明らかにしつつあることを感じていた。
肯定を表して頷きながら、何か話そうとした葉子を遮って、僕はその疑問について言及した。
「でも…松村さんに関する話はそれでいいと思うけど…やっぱり少し納得しきれないのが、少なくとも数年間の付き合いと、ある程度の信頼感がある松村さんに対しては懐疑的なのに、ほんの数か月前に知り合って、殆どお互いの事知らないような僕に、何でこんなに信頼置いちゃってるのかな?自分で言うのも変だけどさ…。以前、何となくやってくれそうだった、ってのは聞いたけど、なんかね…。あ、いや、決してやる気が無くなったとかそういう訳ではないんだけど。」
葉子はちょっと困った様な顔をした。そして、会話に集中したせいで気付かない間に運ばれて来ていたアイスティーに気付き、少し口をつけた。僕はアイスコーヒーには手を付けず、彼女の答えを不安な気持ちで待っていた。
「確かに…そう思うのも、無理ないよね。結局のところ…兄のことに配慮したり、和志君のメリットについても計画に盛り込んではみたけど…結局はこの計画って、私のわがままでしかないのね。これは…和志君も感じてる事だと思うけど、この計画が本当にいびつで、復讐っていう目的の為に変な手段を踏んでいるっていうのも、実は自覚はしてるの。そこまで深く考えなくても、もっと合理的に父が苦しんで、兄や私が楽になる方法はあるんじゃないかっていう風にもう。
 でも、今回この計画で私がやりたいのは、純粋な復讐だけじゃなくて、これまでの生涯でずっと押し殺してきた『自分』を解放する為の、最後の大きなワガママなの。だから、もちろん計画はきちんと進めたいけど、その目的やそれに付随する手段も、考え過ぎるより自分の直感を大事にしたくて。極論を言えば、『復讐』自体、『私が好き勝手やる』という目的を果たす為の手段なのかも知れない。
 …なんか益々めんどくさい事言っちゃったけど、和志君はあまり気にしないで。話を戻すけど、だから和志君を信頼して一番大きな役割をお願いしているのも、私の直感によるところが殆どで、あんまりしっかりとした理由もつけられないんだよね…。うーん…。」
僕は彼女の説明を聞いて、これまでこの計画に対して持っていた、ぼんやりとした不信感を全て取り除く事が出来た。この計画に残された矛盾感も、その『矛盾』を当事者によって肯定される事で無意味になった。
そして、今回の葉子の説明による最も大きな効果としては、自分でも不思議な程に、つい先程まで完全に後ろ向きに捉えていた彼女の死ですら、かろうじて肯定的に捉える事が出来る様になった。
それまで僕は彼女の死への願望を、只々悲観的なものとして捉えていた。淡々と死を語る葉子の表情は、極限の悲壮感の表現として僕に印象付けられていた。
しかし、たった今の話しぶりや、彼女のこの計画の背景にある本心を聞く事で、それが一種の自暴自棄であったとしても、悲観的どころか寧ろ楽観的な印象を感じられるようになった。
また、葉子が直感的に作ったこの計画を、死ぬ事も含めて、彼女の直感通りに進める事こそが、僕が彼女の為にしてあげられる最善策であるのだと確信した。
僕はそんな考えを数秒間の内に廻らせ、暫く黙っていたが、その間も葉子は先程の僕の問いに対する誠意ある言い訳を考えている様子だったので、僕はそれを遮った。
「いや、ありがとう。十分それで納得出来た。それに…正直に言って、この計画について僕が感じていたもやもやしたものがあったんだけど、今の説明ですっかり晴れたよ。僕はもう、余計な事は考えずに、君の計画遂行を手伝う事を約束するよ。」
葉子は僕の問いに対する回答を考えている間、少し不安そうな表情を浮かべていたが、僕のこの発言を聞いて、とても嬉しそうに微笑んだ。
彼女が嬉しそうに笑顔を浮かべたのを見て、思わず僕も微笑んでしまった。僕は何だか恥ずかしくなって、ずっと手を付けないまま、氷も融けかかったアイスコーヒーをブラックのままゴクゴクと飲み込んだ。
「ありがとう。直感ではあったけど…でも、本当に和志君に声をかけて良かったと思う。」
葉子の言葉に、また僕の顔は紅潮していたに違いない。アイスコーヒーの入ったグラスの露をなぞりながら、僕は小さく頷く事しか出来なかった。
また少し話ずらい雰囲気になりかけたが、慌てて僕は話を戻した。
「あ、じゃあ、話を大元に戻すけど…つまりは松村さんとの打ち合わせと言うのは、この計画について話すと言うよりは、僕と松村さんとのお金の受け渡しについての話が殆どっていう意識でいいのかな?」
「うん、そうだね。それに、基本的には私が話すから、和志君は飽くまで介護料金の振り込み役を頼まれた大学の親友として、自然にふるまってもらえればいいかな。後々になって不自然な事が起きない様に、顔合わせする位の感じで。」
「ん…うん、まぁそれは大丈夫なんだけど、敢えて僕が松村さんと会う必要はあるかな?葉子さんから、そういう人がいるっていう口頭での紹介だけしてもらった方が、却って危険は少ない気がするんだけど。」
「うーん、それもそうなんだけど、もし兄に何かあった場合に…これは今初めてお願いするんだけど、やっぱり何か介護センターだけでは負いきれない事があった時に、和志君にある程度対応してもらいたいと思っていて。例えば…兄が怪我をした時なんかに連絡を受けてもらえるだけでも。諸手続きはセンターでやってくれるだろうし、それにかかる治療費なんかも介護料金で保障として含まれているから、費用的な負担は無い筈だけど。」
「なるほどね。確かに、怪我や何かあった時に、連絡先が無いっていうのはセンターとしても扱いにくいだろうし、不自然に思うだろうね。それくらいなら大丈夫。まぁ、そういう事があれば軽くセンターに顔を出して様子を見て、君は海外で仕事してるとかなんとか適当に事情説明しておくよ。」
「ほんと?そこまでお願いしちゃうのは悪いかなと思っていたんだけど…でも、そう言ってくれると助かる。本当にありがとう。」
「そしたら…次に話さなきゃいけない大事な課題としては、脅迫文の内についてだけど…そっちに話を進めていい?」
「ごめん、じゃあその前に、松村さんと面会する日時だけ今決めちゃっていいかな?和志君の人物設定はその日に、行く前にまた軽く打合せよう。大まかには、私の方でも考えておくから。」
「あ、予定の事なら、ほんと僕の都合は全く気にしなくていいよ。余程の事が無い限り、この計画より優先させる様な用事は入らないだろうから。」
「わかった。じゃあ、松村さんの予定確認して、また連絡するね。多分来週の月曜位になるかな。」
僕は頷きながら、またアイスコーヒーに口を付けた。その苦味が僕のぐんにゃりと溶けかけた思考を何とか正常に戻そうとしている様に感じた。
葉子が先程話した、計画に関する『本心』の告白以来、僕の決意は遂に歯止めを失ない始めていた。カルト宗教信者の様に彼女の直感を信じ込み、その他の犠牲を厭おうとしない自らの姿勢に対する自嘲の気持ちもあったが、やがてコーヒーの苦みが口の中から消えていくと同時に、その様な客観も自然と無力化された。
「それで、話変わるけど、脅迫文の方なんだけどね、やっぱりそれも今回の計画の様に、一旦私が文を作ってからの方が話しやすいよね?」
「うん、そうだね。ここはかなり大事なとこだから、慎重にやろう。ところで、それに関連して気になったのが、計画の中に書いてあった『不定期的に送付する追加脅迫文』ってのはどういうイメージ?」
「それについては…正直まだ私も考えが纏まりきっていない部分なんだけど…たった一回きりの手紙でおしまいにしちゃうと、万が一父が振り込みを止めた場合に、もう一度脅迫する素材を用意しておくべきかなぁって思って…。
 ただ、その手段として、追加でただ手紙を送る事が果たしてベストな方法なのかは私もちょっと納得していなくて、何かいい方法が他にあればとも考えたんだけど…。」
「うーん、それは直ぐには思い浮かばないけど…。ちょっと僕も考えておくよ。…他に気になったのは…。」
僕は携帯電話を取り出して、葉子からの計画メールをもう一度眺めて、今ここで話すべき課題を探した。
ある重要な課題の他に、話題を挙げることが出来なかったが、その唯一の課題は最も触れにくいものだった。
先程の様にカルト宗教の例に沿って言えば、この狂信者には、その教祖を殉教の名目で、教祖の意向に出来る限り沿った形での葬り方を検討・実行するという非常に重い任務があったのだった。
この例のままに、僕はあまりに複雑な状況下にあった。それでも、既に理性の歯止めを失っていた僕には、その任務を全うする以外の選択肢は無かった。
平常を装って話を続けようとしたが、それでもその声は思わず少し上ずった。
「この、絶命…その、葉子さんの死ぬ方法とその隠し方ってのも、すごく難しい問題だね。」
基本的に平静を保っていた葉子もさすがに、視線を斜め下の床へ逃がしたまま、一瞬息を止めた。彼女が息を止めているその一瞬間が、店内の雰囲気が急に張りつめさせた様に感じたの。
僕らの他に客は無く、店員も奥に引っ込んでいた上に、相変わらず程好い音量のBGMが流れていた。その為、僕らの会話は他人に聞こえる由は無かったが、それでも何だか周囲が急に気になりだし、落ち着かなくなった。
それは葉子も同様らしく、何か話したそうにしていたが、戸惑っているようだった。僕も話を急に切り出した事を少し後悔して、何とか取り繕おうとした。
「あ、その話は、また別日にするかい?」
はっとした様に視線を僕に戻すと、葉子はゆっくり首を横に振りながら漸く口を開いた。
「ううん、出来ればその話もしたいんだけど…。さすがにこの話は、いくらこの店でも、しにくいかな…。」
僕も同感だった。だがそれと同時に、自分で思い浮かべた代案に僕は思わず赤面しかけた。
それなりに話のしやすいこの店でも話にくいとなれば、確実に第三者の介在をなくして、二人きりで話せる場所。カラオケボックス等の個室も案としてはあるが、話の内容からして不向きだし、この店から徒歩で程ない場所にある僕の家が、どう考えても最適な気がした。
ただ、女性を自宅に招くなど、僕にとってはとんでもない事だった。まして、現在の住まいには一度母親の訪問があった以外に、来客すら一度もなかった。
僕はこの最適解を頭に浮かべながらも、早まり続ける脈拍を抑えようとするのに必死で、とても口には出せず、ただ彼女には聞こえ無い程度の声量で唸り声だけが漏れ出た。
葉子はそんな僕の葛藤を余所に、しかし遠慮がちに口を開いた。
「和志君って、確か前に、この辺に住んでるって言ってたよね?一人暮らし?」
僕は心中の葛藤を読み取られたようで、汗が全身の毛穴から染み出るのを感じたが、彼女の様子を見ると、どうやら葉子も勇気を出しての発言だった様に見えた。それを見て、僕も見倣うべきだと思った。
「あ、うん。そう、歩いて十分くらいかな。あ、じゃあ…僕の家に来て話すかい?汚いし、本当に何もないけど…。」
空気に首を絞められているかの様に、息苦しく感じた。必死で隠そうとした焦燥は、赤面となって表れていただろうが、店内の照明があまり明るくなかったお蔭でどうやら誤魔化せていた様だった。
「いいの?じゃあ、お邪魔しようかな。迷惑じゃない?」
「あ、いやいや、全然。まぁでも、本当に何もない部屋だよ。」
「ううん、別に、それは。ゆっくり話が出来れば…。」
「あ、そうだね…。」
僕はまだ少し残っていたアイスコーヒーを飲みほした。コーヒーの苦みを感じられなかったのは、氷が解けて薄まったからと言う理由だけでは無さそうだった。
僕は葉子の頼んだアイスティーが殆ど空になっているのを確認した。
「じゃあ…行く?」
「うん。」

28.
店を出ると秋雨は止んでいて、雲間には茜から濃紺へ色を変えようとしている空が垣間見えた。
店の前の舗装されたての道路から、濡れたアスファルトの匂いがしていた。
店に来る前より更に数段緊張していた僕は、会話の糸口を見つけれらないまま、自宅へ向かって歩き始めた。
やがて葉子の方から一人暮らしはいつからだとか、自炊はしているか等の、当たり障りのない話題が振られたが、僕は上の空のままそれらに答え、会話は弾まなかった。
これから、初めて自宅へ女性が来る、その上そこで行われるのは、彼女の死についての検討である。僕の頭は混乱していた。葉子の質問にはうわの空でまともに答えられず、頭の中でもまともにものを考えることが出来ずにいた。
滑稽な事に、健全な男子なら当然想定するであろう類の青春の期待を、その時は仄かにも描いていなかった。それは僕の想像を遥かに上回るものだったからだ。
自宅が近付き、いつも利用しているコンビニが目に入ると、漸く自分から葉子に声をかけた。
「あ、さっきも言ったけど、本当に家には何もないから、コンビニで飲み物でも買っておく?もしお腹空いてるなら食べ物とかも…。」
「うん、そうだね。じゃあ、寄ろっか。」
コンビニにはいつもの太った中年がレジにいた。いつも顔を合わせるこの人物に、葉子といるところを見られるのは何だか照れ臭かった。
コンビニの中でそれぞれの買うものを選ぶべく一旦葉子と離れると、コンビニの中の少しの距離しかないとは言え、一人になれた事で少し落ち着きを取り戻すことが出来た。
僕は大きなコロッケパンと飲むヨーグルトを選び、先にレジで支払いを済ませた。
ビニール袋を受け取りながら振り返ると、葉子はサンドイッチを持って、飲み物をどれにするか悩んでいる様だった。
僕は更に落ち着きを取り戻すために、雑誌コーナーで雑誌を読みながら彼女を待つことにした。手に取る雑誌を選ぼうと、雑誌コーナーでうろうろしている内に葉子は買い物を済ませて僕のところまで来た。
「ごめん、お待たせ。それじゃあ、行こう。もうここから近いの?」
「うん。すぐそこだよ。あと三分位。」
煌々とした照明のコンビニを出ると、たった数分の間であったにも拘らず、空の濃紺が一気に増したように感じられた。
そして遂に自宅へ到着した。
部屋を見て、たまたま数日前に掃除をしていた事を思い出して少し安心した。相変わらず部屋の中は、ベッド、小中大の三つの本棚と、炬燵机、駱駝色の薄いカーペットと言った最低限の家具の中に、本だけが雑然と置かれた、殺風景な景色だった。服やその他の生活用品は全てクローゼットの中に押し込められていた。
「いや、本当に何もないな。」
自分でそう言って、自嘲気味に笑うと、葉子もつられて少しだけ笑った。
「でも、なんか和志君の部屋ーって感じだね。」
少しからかう様にそう言った彼女に、返す言葉を見つけられないまま、僕はコンビニの袋を机の上に置き、カーペットの上に腰を下ろした。それを見て、葉子も荷物を床の上に置き、斜め向かいに座った。
静かだった。この部屋にはテレビもオーディオもないので、この重い静寂を和らげる手段は無かった。
女性が自分の部屋にいると言う不思議な状況によって、静寂はより一層強調されてしまい、まるで落ち着く事が出来なかった。しかもこれから、この女性の死ぬ方法について本人と話し合わなければならないのだ。そう思うと、くるくると天井が回り出して、酔ってしまいそうだった。
その苦境を打破すべく、僕はわざと出来るだけ音を立てながら、コンビニのビニールから飲むヨーグルトを取り出しながら話を切り出した。
「じゃあ、取敢えず食べながら、さっきの話の続きをしようか。まず葉子さん的には…。」
「あっ…。」
出し抜けに彼女が発した声に、僕は凍りつき、冷たい汗が背中を伝うのを感じた。
「えっ…どうかした?」
「ううん、ごめん。ただ私も、ほら。」
そう言って、葉子が自分のコンビニ袋から出したのは、僕が買ったものと全く同じ飲むヨーグルトだった。
「偶然同じの買ったんだなぁって思って。ごめん、それだけ。」
そう言って葉子は笑った。僕は一瞬ぽかんとしてしまったが、やがて彼女の笑顔に何の曇りも無い事に気が付いて、僕もただ笑った。笑いながら、何故だか悲しい、寂しい気持ちになってきたが、それを隠す様に笑顔を作り続けた。葉子の死について話すことが、一層辛いものに感じられ、先程の話の続きを躊躇っていた。
「あのコンビニのこの飲むヨーグルト、すっごくおいしいよね。私、最近はまっちゃって、週に二回位買ってる気がするよ。」
「あ、それ言うなら、僕は週三だね。」
僕がそう言っうと、また二人は笑った。徐々に変な緊張は幾分かましになっていたが、話を進める事については逆に難しくなっていた。
「ごめんね、せっかく大事な話の初っ端を挫いちゃって。それで…ごめん、話を続けようか。」
まだ笑顔のまま、自分の死についての会話を続けようとする葉子に、何か矛盾の様なものを感じながら、僕自身も緩んだ表情のまま話をしだした。
「うん、その事だけど。葉子さん的にはどこまで想定しているのかってのを、やっぱり先ずは聞いておかないと。ここも、葉子さんにある程度、希望とかイメージがある筈だよね?」
「そう。そう、なんだけど…。最初に和志君に話しかけた時にも、少し話したんだけど、まぁ、無理だとは思うけど…。」
僕は、その時のことを思い返して、ハッとした。思わずそのまま声に出してしまった。
「"私を殺してほしい"、って…。確か、そう言ってたね。その事?」
「そう、それ…。無理を承知の上の、すごく不条理な話なんだけど…。」
「うん、まぁ…取敢えず話してみてよ。」
「本当に、これは私の度の過ぎたわがままだから、もし和志君が反対するなら無理には、と思ってるんだけど。この計画を思い立ってから、最初ずっと自殺の方法について考えていたけれど、あまりしっくり来る方法が無くて。変な話だけど、やっぱり私の最後の最後だから、ある意味その死に方については、自分の納得いく…馬鹿みたいな話だけどきれいに死にたいなって思っていて。
 かと言って、別に花に囲まれて死にたいとか、そんなロマンチックな何かを望んでいる訳ではなくって。なんだか自殺って、それ自体が私にはきれいじゃないもの、って感じがして。だから、変な話だけど…誰かに殺してもらえたら、って想像すると、方法にもよるんだろうけど、何だか自分の中でしっくり来るっていうか…少なくとも自殺へのイメージとは違って、あまりきたない印象がしなかったの。…ほんと、変な話だけど。」
ここまで話すと葉子は先程取り出した飲むヨーグルトに目をやり、手に取ってストローを指した。飲み始めるでもなく、話の続きを考えているように見えた。
葉子の話を聞いて、依然僕は不安定な感情のままではあったが、彼女の意志を理解する事が出来ていた。そういった類の文学に耽溺していただけあって、彼女の言う種のやや偏屈な美的こだわりにも賛同し得た。
そうとなれば、話し辛そうにする葉子に、心安く話をさせる一助となる言葉をかけることは容易い事だった。
「あ、知ってると思うけど、前に貸した本もそうだし、ここに並んでいる本も…雰囲気だけでわかるかもだけど偏った本ばっかりで…えーっと、何を言いたいかって言うと、僕は趣味が変わってるから、こういう話に僕は免疫あると思うよ。言いたい事は理解したから、安心して話してよ。寧ろ、そういう話は率直に言ってもらえた方が僕もやり易いよ。」
少し言い過ぎている感もあったが、本心だったし、葉子もそれを聞いてだいぶ安心した様だった。葉子は再び口を開いた。
「ありがとう。そうだね、確かに…和志君そういうの平気そう…って言うのは、ちょっと失礼かな。
 そしたらもっと率直に話すけど、希望としては、さっきも言った通り誰かに殺してもらいたい。そしてその方法については…その人に任せたいなって思う。もっと言えば、計画の準備が全て済んでしまったら、特に日にちも場所も決めないで、ある日突然手を下してもらえたら本当に理想かな。
 …っていうのは、やっぱり自分で自分の殺人を考えて、周到に準備しちゃったら、それって結局自殺なんじゃないかなって思っちゃうのね。勿論、今も自分で計画してる以上、考えてやってる様なものなんだけど、その具体的な手段やタイミングは誰かに考えてやって欲しいの。もう敢えてその理由は言わなくても多分和志君なら分かってくれてると思うけど、本当に私の感覚でしかないからこれ以上はうまく説明出来ないんだけど。」
僕には葉子の希望は理解できたし、最早それを拒むこともする筈が無かった。敢えて言われたりはしていなかったが、当然下手人は僕だろうと思った。僕は益々重くなる自らの責任を、おかしな事に、この時には重々しく感じるどころか誇らしくすら感じていた。
決まりきった事とは言え、葉子はまだはっきりと口に出してその役割を僕に任命していなかったので、少し話難いのではないかと思って、僕は遂に自分から名乗り出た。
「つまり、その役割は僕って事になるよね?」
葉子ははっとした様に僕の顔を見た。そして何も言えずに俯いて、何か言う事を考えている様子だったが、その態度からも先程の僕の考えに誤謬が無い事を確信したので、先に自分から進めた。
「当然、引き受ける積りだけど。本当に僕の考えだけで方法とかタイミングを決めていいものかなぁ…僕、けっこう空気読めないけど…。」
葉子は更に驚きの色を濃くさせたが、今度は不安の色が見えなかった。彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。
「本当に、もう、ありがとうっていうか…もう、でも、本当にありがとう。」
葉子は複雑な表情を浮かべながらも確かに喜んでいる様だった。それを見て僕も嬉しくなった。これによって、彼女の最大の懸念事項は取り除かれたらしかった。
「和志君なら、安心して任せられる。方法やタイミングも、きっと私の希望に適ったものにしてくれる気がする。良かった、本当に、良かったぁ。」
実際、そう言われると、不思議な自身が湧いてきたのは事実だった。僕は飲むヨーグルトを飲み、惣菜パンの袋を開け、敢えて余裕を見せながら話を続けた。
「あ、葉子さんも、遠慮せず食べなね。
 とは言え、予め決めておかなきゃいけないことは幾つかあるよ。例えば死んだ後、死体の扱いだけど…。」
「それは、計画上、私は海外渡航、状況によってそれが通らなくなれば失踪という扱いにしたいから、誰にも絶対に見つからない様にしてもらうことが大前提なんだけど…。出来ればその方法も…。」
「わかった。じゃあ、その前提だけは満たすように処理をしなければね。と、なるとやっぱり基本的には僕に任せるって事で良い?」
「うん。以前メールで送った計画の中で言う、項目9の私の身辺整理迄が済み次第、それは和志君に伝えるから、それ以降は完全にお任せ、って感じかな。決して考えるのをさぼっている訳では無くて…。」
「あ、うん、大丈夫、分かっているよ。うん、頑張るよ。」
「ありがとう…。一番気がかりだった部分だったから、すごく安心した。」
僕はパンを頬張りながら只頷いた。それを見て、葉子も袋からサンドイッチを取り出した。
「私も食べていい?」
「うん。」
彼女も僕も、大きな懸念が解決した事から、気が抜けてしまい、暫くは会話もなく黙々とパンを食べていた。葉子はふわりとした視線を泳がせながら、僕の部屋を見渡していた。僕はその彼女の視線を何となく追っていた。
僕が先に食べ終わり、やがて彼女も食べ終わると、数分間の沈黙を葉子が破った。
「でも、ほんと、面白そうな本がいっぱいあるね。漫画も私が好きそうなの沢山あるし…。ちょっと見てもいいかな?」
「あ、うん。どうぞ…。」
言ってしまってから、僕は恐ろしい事に気が付いた。
葉子はあの『黒鬼』という本の存在を知っているだろうか。もし知っていれば、僕の部屋にその本があるという偶然をどう説明すべきか…ともすれば、おかしな疑いを彼女からかけられるのではないか。また、知らないにしろ、もし万が一手に取って中身を開いてしまったら…。
どうにか隠さなければならないと考え、僕は件の本が置いてある小さな本棚を視認した。『黒鬼』は、三段ある内の中段に並べられていた。幸い葉子はベッドの枕側に設置されている小さな本棚とは逆側、ベッドの足元に置いてある中サイズの本棚を、床に膝を立てて眺めていた。
小さな本棚にも葉子が興味を示しそうな本が幾つか並んでいた。彼女の注意がこちらに向く前に、『黒鬼』を目の届かないところへ隠してしまわねばならなかった。
僕はそっと立ち上がると、徐に小さな本棚の前にしゃがんだ。ちらっと彼女がこちらに目を向けたが、その位置からは僕の背中しか見えない筈だったので、僕はそのまま『黒鬼』を本の列から抜き取り、葉子からはその動作が死角になる様に、また出来るだけ不自然にならない様に、下段に乱雑に積まれていた講義テキストの合間に差し込んだ。
無事に秘密の作業を終えて振り返ると、葉子は一冊の漫画を取り出して、パラパラと捲っていた。
「ねえ、なにかオススメとかあったら、貸してくれない?」
「あ、うん。どんなのがいい?漫画?」
「そうだね…サッと読める様なのがいいなぁ…。あと、あんまり暗くないやつ。」
そう言って彼女は微笑んだ。僕は頷き、お気に入り段ボールを覗くと、『デイアフターデイ』が真っ先に目に入った。それを手に取ると、彼女に手渡した。
「これなんかどう?割と有り勝ちな恋愛話だけど、絵の雰囲気とか結構いい感じだと思うよ。前に聞いた葉子さんの趣味の感じなら、嫌いではないと思うけど。」
葉子は手渡されたその本をペラっと捲り、頷いた。
「そうだね。ありがとう。じゃあちょっと借りるね。…もうちょっと本棚見ててもいいかな?」
「うん、いいよ。あ、じゃあ僕ちょっとトイレ…。」
僕はそう言って、トイレに入った。個室で一人になると彼女には聞こえない様に安堵の溜息をついた。女性が家に来るというイベントが思っていたよりも大した事でもないなと感じながら、用を足していた。
そうして徐々に落ち着き始めていた僕だったが、手を洗って部屋に戻ると、その安堵は一瞬にして崩れ去った。
葉子が小さな本棚の前で『黒鬼』を手にしていた。しかし、彼女の表情に特段大きな感情の変化は表れていなかった。そしてトイレから出てきた僕の方を向いて、意地悪そうに微笑んだ。
「あ、えっと、それは…。」
「うん、大丈夫、知ってる。でも、ほんと色々偶然だね。…偶然なのかな?和志君は、私と会った時には、この本を知ったの?」
「あ、もちろん偶然だよ。ただ、君に傷のことを訊いたのは、確かにこの本を読んでいたからだし、その事に関しては完全に偶然とは言えないけど…。」
「ううん、だからと言って別に変に和志君のことを疑ってるわけでは無いよ。本好きの和志君だし、持っていても不思議ではないもんね。この本、結構売れたらしいし。私も、偶然雑誌の書評コラムで見かけて、もしやと思って読んでみたんだけど、読んでいて自分の祖父の話だって気付いた時、ゾッとした事と言ったら…その時には凄かったけどね。」
僕がこの本を持っていた事については、葉子にとってそこまで大きな問題ではなかった様で安心しつつ、それにしても、僕は自分の完全犯罪をあっけなく破られたことに呆然としていた。未だ呆然とした表情で立ち尽くす僕に、葉子はまたからかうように微笑みながら言った。
「それにしても和志君、何か隠そうとしてるのバレバレだったよ?てっきりエッチな本でも隠そうとしているのかと思ったら、これだもんね。」
そう言って葉子はもう一度笑った。僕も赤面しながらも、笑うしかなかった。
先程と同じように、笑っている瞬間が何より悲哀めいた時間の様に感じられた。そして、『黒鬼』を隠そうとしていた行動を見透かされていた恥ずかしさと相まって、泣きたいような気分になってきた。
これまでの緊張が大幅に緩んで、やけくそな気分になった僕は、もういっそこの場で泣いてしまいたかったが、物心ついた時から泣いた事の無い僕の涙腺は、涙の流し方を忘れてしまったらしかった。
気が付けば、僕は彼女よりも大きな声で笑っていた。こんなに笑ったのは生まれて初めてかも知れなかったが、それは決して幸せな性質の「わらいかた」ではなかった。
その後、暫く本の話などをした後、20:00頃に葉子は帰って行った。滞在時間は二時間に満たない程度だったが僕の疲労感はその割ではなかった。
駅まで送ろうともしたが、葉子が遠慮し、また自分自身が疲れ切っていた事もあり、あまり強いる事はしなかった。
責めてアパートの下まで見送った。去り際に、葉子は今後大事な話し合いはこの家でしようと提言し、僕はつい深く考えない内に頷いてしまった。
しかし、もし葉子とここでまた笑いあうような思い出が増えてしまったら、彼女が死んだ後もここに住み続けられる程に自分は鈍感で無い事を思い出した。そんなことをぼんやり考えながら、僕は二階のある自分の部屋まで階段をゆっくり昇っていた。見送る前よりも、ほんの数分の間に夜風がやや肌寒くなっていた。
部屋に戻ると、葉子が居た時には却って気付かなかった、彼女の残り香が薄らとそこにあった。
その香りを感じながら、僕はベッドにうつ伏せになった。
窓を閉め切っていたこの部屋には、少しの残り香と無音だけが充満して、今にも膨張しそうだった。
もう今日は秩序だった思考は一切出来そうになかった。ただ、ぼんやりとした不安と葉子への絶望に似た憧れの様なものが、僕の脳髄をぐにゃぐにゃと掻き混ぜ、その渦の中心からは忘却の彼方にあった筈のまるで関係の無い記憶が次々に浮かんでは消えていった。
小学生の頃に読んだ怪談話の絵本。実家の花壇に埋めた宝物。幼稚園の送迎バスの運転手。中学の嫌いだった体育の先生。近所に住んでいた老人の通夜。母親の作る筍の煮物。父親のいびき。実家の部屋から眺める景色。遊園地で迷子になった時の寂しさ。青い空に並んで浮かぶ複数の凧。夕方の通り雨。曇った夜空。押入れの闇…。
赤ん坊の頃から僕の傍にあって、今でも実家で飾られている、あのオルゴールの音が聴こえてきた。
僕は夢と現実の境目にあって、もう一度葉子の残り香を感じた。
目の前の暗闇の一番深い場所で、黒に思えたその色は、仄かに青みがかっている様に見えた。

29:
僕は自分という人間について殆ど考えてみた事が無かった。
それは人間が持つ防衛本能の一端だと理解していた。つまり、自分の価値の無さについて真剣に考えを巡らせれば、忽ち最適解としての自死を僕自身に強いる事になっただろう。
勿論、それを全く考えないでも無かったが、人間本能の不思議な力がそれをずっと曖昧なものとして僕から遠ざけていた。
その様な、死ぬかどうか云々に直結する論理以外にも、僕は自分の性格・将来・希望・不安、あらゆる自分自身に纏わる現実から目を逸らしては、文学や漫画の世界に逃避するばかりだった。
その一つに、ぼんやりとさせたまま、無視していた観念が、自らの性癖だった。
僕にも性欲が無いわけではなかった。人並より少ないとは思うが、その『自己処理』も時たま行っていた。
しかし、自らも不思議なことには、『処理』する際に、対象として描いているものが自分でもかなり不確かだった。
何かで見かけた女優の姿を思い浮かべた気がする。ともすれば、小説に出てきた空想上の美人を思い浮かべた気もする。しかし、その『処理』は限りなく『作業』的で、その最中に自分が何を考えていたかを明確に思い出せないし、『処理』中にそんな事について考えだしてしまえば、集中が途切れて『作業』が中断されてしまうのだった。
恥ずかしげもなく言えば、僕は葉子と出会った頃から彼女が家に来る前まで、彼女をその対象としてしまおうと考えた事もあったが、実際にはそうしたかどうかは自分でもわからないが、恐らくしていなかった。葉子に対して少なからざる好意を持っている事は自覚していたので、この事は自分にとっても聊か不思議な事ではあった。
かつて、実は自分が同性愛者なのではないかとすら疑った事もあるが、それは直ぐに邪推であると結論付けられた。
そんな僕が遂に自分の異常な性癖に気が付いたのは、葉子が帰宅した後、眠りから目覚めた時だった。
その夜、僕は混沌とした頭の整理をつけれないまま眠りについたが、やはり何処かで自分が彼女を殺すという事を強く意識していたのだろう。
僕は夢の中で葉子の首を絞めた。そしてそれによってこれまでになく確かな性的興奮を覚えたのだった。

30:
場面は何故か実家の近くにかつてあった空き地だった。その空地には現在は新築の民家が建っているのだが、夢の中では僕が上京する以前のままの空き地だった。
夜明けとも夕方ともとれる、暗い蒼色の背景だった。僕は雑草が生い茂り、砂利の多く混じった土の上で、仰向けの葉子の上に馬乗りになって、全体重をかけて彼女の首を絞めていた。
詳細までは思い出せないが、彼女は確か僕の家に来たその日のままの服装だった。僕は何故か中学生の時の学ランを着ていた。
僕は額に汗を流しながら必死を込めて首を絞めているのに、葉子は抵抗しないばかりか薄らと笑みを浮かべて僕の必死そうな顔を眺めていた。何かを見透かしているような微笑みだった。
僕は夢の中で訳が分からなくなってしまった。
自分が好意を持っているはずの葉子を何故殺そうとしているのか、どんなに絞めても葉子は何故微笑んでいるのか、自分が何故ここにいるのか…
額から流れ出る汗は止まらず、次第に滝のように流れ出て葉子の首元と僕の手をびっしょりと濡らし始めた。すると僕の手はぬるりと滑るようになった。遂には彼女の首をつかむことすらままならず、僕は指を地面の土砂に打ち付けては、ボロボロになった爪の先から血を流した。
夢の中の僕は漸く手で首を絞めることを諦めて、都合よく学ランのポケットに入っていたビニールの紐に気が付き、それを葉子の首に巻きつけた。
そのビニールのテープは細かったが頑丈で、葉子の首に食い込み、キュウキュウと音が聴こえるのではないかと思う程に確実に首を締め上げた。
すると、今度は苦しそうな顔を浮かべて葉子が呻き始めた。僕はこれまで再考の熱を額に宿して興奮していた。僕は紐を引く手を緩めたり、強めたりしながら彼女の表情の変化を眺めていた。
僕は、首を強く締めて息苦しさが最高潮に達した後に、少し緩めた時の葉子の必死の息遣いを何度も繰り返し味わおうとした。
いつの間にか学ランを着ていた筈の僕は、今現在の服装に変わっていた。僕は葉子を見下ろして、笑っていた。
僕は生まれて初めての種類の悦びをはっきりと感じていた。
いつまでも絶えない葉子の息遣いがエコーの様に響く中で、僕の興奮を遮る様に、周囲の蒼が突然真っ白になった。

31:
窓からの朝陽に刺されて目覚めた時、僕は生まれて初めて感じた種類の性的興奮にひどく驚き、直ぐに寝起きのまどろみを抜け出した。
そして、夢によって初めて自分の性癖に気付かされて、救いようのない自分という存在に絶望した。
今まで気付かないでいたのは幸いだった。もしくはこれも、矛盾しているようではあるが、破滅の道へ進ませまいとする自己防衛をする本能がそうさせていたのだろうか。
元来の読書の趣味における怪奇・エログロ志向は少しは自覚していたが、それがここまで直接的に自分の本質に直結していようとは考えていなかったのだ。
平凡以下の大人しい生活を送ってきた中で、いつの間にか出来上がっていたこの性癖の由来について、僕には見当をつけられない。しかし、今となってはこの事実自体やその由来は僕にとってそれ程大きな問題ではなかった。
そもそも自分自身に何の期待もしていない僕にとって、今さら自分の醜さに気付かされようと、諦め以外の手段が無い事は理解しきっていたし、それは全く簡単な普段作業だった。但し、最大の問題は、この僕の性癖が葉子の計画を侮辱しはしないかと言う、ただ一点だった。
葉子の計画の中で、唯一の共犯者でありながら、僕は淡白な傍観者としてあるべきだと考えていた。
それこそが、葉子の計画を彼女の思うままに達成させる最善の手段だと意識し、これまでもある程度この計画の核心に距離を置く様に努めていたのだった。その中で、昨日の葉子からの依頼によって唯一主導権を握らされることになった彼女の殺害に当たって、この様な不純な動機を混入させることは、彼女の計画の最終幕を穢す事になりはしないかと不安に思った。
無論、葉子自身にそれを悟られない様に、僕自身の欲望を満たす方法は幾らでもあったろうが、この計画を彼女の思うままに達成するという事は、僕自身の願いでもあった。この大きなジレンマに太刀打ちする論法は、僕にはとても見つかりそうもなかった。
文字通り頭を抱えて、思い悩みながらベッドの上に座っていたが、視界の隅で携帯電話のランプが点滅している事に漸く気が付いた。焦って携帯電話を確認すると、それは葉子からのメールの受信を報せるものだった。
内容は介護センターの松村さんとの面会の日時が明日の夕方になった旨と、その時に葉子の兄も同行するとの事だった。付け加えて、兄には僕は大学の「オトモダチ」であるとだけ伝えてあり、それ以上の兄への説明は不要だとも書かれていた。
直ぐに了解の旨だけ返信すると、葉子からもありがとうと言った内容の返信が直ぐに届いた。
僕はもう部屋からは消えてしまった彼女の香りを思い出していた。そして先程の夢の中の葉子を思い出し、自分の悪しき性癖を思い出すと、またベッドに横になった。抜けきらない眠気を貪る病人かの様に、僕は直ぐに眠気に襲われた。
僕は卑しくも同じ夢の再演を願いながら、また浅い眠りに落ちた。

32:
浅い眠りを繰り返し、ぼんやりと苦悩を重ねている内に翌日の夕方になった。
僕は待ち合わせ場所になっていた駅の改札の前で、葉子とその兄光広の到着を待っていた。
後書きとは言え、『黒鬼』の登場人物でもある光広や、計画上の数少ない登場人物の一人でもある松村との対面に、何か対策を考えるでもなく、気ばかり重くなった。
やがて待ち合わせ時間ちょうどに、葉子が光広と手を繋いで改札から出てくるのが見えた。
光広は顔は葉子とあまり似ていなかった。葉子は客観的に見て、割と地味な、きれいでも不細工でもない容姿だと思うが、光広は誰から見ても美少年と呼んで差支えの無い容姿を持っていた。服装も葉子が見立てているらしく、今風の爽やかな白シャツとキャメル色のスラックスを履いていて、ともすれば、道行く女性の目を惹く程の魅力があった。
しかし、兄と言うからには少なくとも自分たちよりも幾つか年上の筈だが、身長も160センチ前半程度と低めで、顔だちも幼かったため、見た目では葉子の弟の様に見えなくもなかった。
その目には常に怯えの色を湛えていて、僕とは一切口を聞かず、葉子の後ろに隠れておどおどと僕の顔を伺っていた。
葉子はそんな光広の態度にも当然慣れた様子で、特に挨拶を強いる事もせず、苦笑いしいしい僕に詫びた。
「ごめんね、前も話したと思うけど、人見知りで大人しい子供だと思って接してもらえれば一番自然だと思うから…。」
「あ、うん。わかった。」
僕自身、どう接すればよいか分からなかったので、会話をしなくて良いのは却って都合が良かった。
駅からその松村のいる施設まではバスで十分程の場所にあったが、移動の間も僕らは会話をしないままだった。
葉子と光広は時折、バスの中で何かをボソボソと会話を交わしている様にも見えたが、二つ後ろの席に離れて座っていた僕には光広の声色すら聞き取れなかった。僕はと言えば、昨日からの倒錯的な夢に関する葉子への負い目もあり、いつも以上に会話のしづらさを感じていた。
バス停から施設への受付への僅かな途上で、葉子は僕の設定を伝えた。
僕は葉子の文学部ゼミの友人であり、一緒にゼミ旅行の委員になったことから意気投合し、仲良くなった。就職はせず、大学院に進む予定で勉強しているので、平日でもある程度融通を利かせられる事もあって、仲介役を手伝ってもらう事になった、という役柄設定だった。
「まぁ、とは言っても。基本的に事務的な話だし、私が殆ど喋るから、和志君は時折相槌を打つ程度で何事もなく終わると思うよ。」
葉子はそう最後に付け加えたが、果たしてその通り、松村のいる施設の応接室に通されると、挨拶を済ませた後は殆ど僕が口を挟む機会は無かった。光広も昔から顔なじみの松村に対しては幾分か心を開いているらしく、最初大人しく椅子に座っていたが、時折部屋の中をフラフラと歩きながら、あどけない笑顔を松村に向けた。葉子がお土産として持参した茶菓子をあっという間に食べてしまい、松村の分にも手を出そうとして葉子に注意される様はまさに子供そのものだった。
そんな様子で面談は30分ほどで何の問題もなく終わり、葉子からの配慮された紹介のお蔭で、僕への松村の印象も悪くない様に思われた。僕も松村に対して、介護について責任感がある、柔和な優しいおばさんという好印象をのみ残した。
最初に気負っていたのは過剰な憂慮だったようだ。あっという間の面会を済ませて、往路と同じ雰囲気のまま復路を辿り、駅で解散した。
別れ際、葉子から光広名義での口座を既に作ったことを伝えられた。更に、脅迫文の案が出来たので明日また会って相談できないかと聞かれ、僕はただ自然と首を縦に振った。
ただ、逆方向の電車に光広と供に乗り込んだ葉子を見送りながら、あまりにも淡々と進んでいく計画の順調さに、口の中に何か苦味が広がる様な印象を覚えた。

33:
翌朝は、厚い雲に空が覆われ、朝とは思えないほど暗かったが、雨は一粒も毀れてこない不気味な天気だった。
施設を訪れた日の夜に、葉子から感謝の言葉と、翌日の昼過ぎにまた訪問してよいかを尋ねるメールが届いていた。僕は寝る直前の23時頃にそのメールを確認したが、直ぐにメールを打つ気になれず、返信をしないまま寝てしまった。別れ際に感じた苦味が、徐々に増していたのだった。
とはいえ、僕がメールを返さないことで、この計画の進行を妨げる事は僕にとっても本意ではない。
時折窓の外の重い空へ視線を投げながら、僕は了解の旨を返信した。
換気の為に窓を半分開けかけたが、思いの外冷たい外気に触れ、思い直してまた窓を閉めた。その時、ふと空腹に気が付いた。
部屋着のシャツの上にパーカーを羽織り、携帯電話と財布を持って外へ出た。
アパートの階段を降りたところで今にも降り出しそうな空を見て、引き返して傘を取りに帰ろうかと考えたが、近くのコンビニまでなら大丈夫だろうと考え、そのままコンビニへと向かった。
いつもはもう少し人気もある11時過ぎのコンビニ店内には店員が二人いるだけで、妙に流行歌のBGMが煩く感じられた。
弁当コーナーの前に立ったところで、葉子からのメールを受信したので、確認すると「今大学にいるので、これからもう向かっていいか」との内容だった。
直ぐに問題無いとの旨の返信し、弁当の選別に入ろうというところで、今度は葉子から電話がかかってきた。ふいの着信に焦りながら、慌てて応答した。
「もしもし、ごめんね、今大丈夫だった?」
「あ、うん。全然。」
「えっと、もしまだお昼食べてないなら、一緒にどうかなと思って。」
「あ、あぁ、そうだね。じゃあ…。」
「じゃあ…取敢えず、大学から和志君の家に行く途中の、商店街の中央通りの入口辺りで、待ち合わせられる?」
「そしたら…15分後には行けると思う。」
「それじゃあ、11:30に…。」
電話を切ると、僕は何も買わずに直ぐにコンビニを出た。
部屋着のシャツにくしゃくしゃのパーカー、ジャージズボンにサンダル履きという、とても女性に会うべき恰好ではないと自覚しながら、わざわざ帰って着替えるのも、変に意識しているようで照れ臭かった。敢えて自然体で…と、自分に言い訳しながら、そのままの服装で行く事にしたが、歩きながらも帰って着替えるべきか…と優柔に判断を揺らしながら、気付けば待ち合わせの入口まで来ていた。
まだ時間より五分ほど早かったが、葉子は既にそこで待っていた。
彼女がいつも通り、地味ながら上品な服装でいるのを見て、自分の姿のみっともなさを激しく後悔する事になった。
しかし彼女は特にそれに気が付く様子もなく、笑顔でこちらに手を振りながら近づいて来た。
「ごめんね、突然。大丈夫だった?」
「あ、うん。ちょうど何か食べようかと思っていたところだったし。」
「何食べようかね…こないだは私が決めたから、今日は和志君に任せていい?」
勝手にまた葉子がリードしてくれるものと思い込んでいた僕は、急な振りに戸惑ってしまった。何一つ案は浮かばず、更にこんな身なりでオシャレな飲食店に入るのもとても不格好なように思えた。
「あ…うん。どうしよっかなぁ…取敢えず歩こうか。」
その場で立ち止まっている事が何となくぎこちなく感じたので、取敢えずそう言って、商店街の中を自宅へ向かって歩き出したが、依然として何の案もなかった。
商店街には幾つかの飲食店があったが、その殆どに僕は入った事が無かったので、迷う間に素通りしていくまま、商店街を通り過ぎ、いよいよ店も少なくなってきてしまった。
僕はとうとう行きつけの蕎麦屋の事を思い出した。そこは「安くて多い」がウリの、全く女性向ではない店だったが、今の自分の格好には合っているし、不味くは無いので大きなはずれは無いだろうと思った。
「近所にある蕎麦屋でいいかな?あんまり綺麗な店ではないけど、まあまあだと思う…。」
「うん、いいね、お蕎麦。食べるの久しぶりかも。」
葉子の快諾に少し心安くなった僕は、足取りが軽くなったのを感じた。
店に着いたとき、厚い曇り空からはまだ雨が漏れ出してはいなかった。しかし今にも降りそうな天気の所為か、いつもより店内は空いていて、僕らは四人掛けのテーブル席についた。
「なにかオススメある?」
葉子は店内の壁に貼られたメニューを眺めながら、楽しそうな声で僕に問いかけた。
「うーん、昼時だったら僕はいつもランチセットにするけど、女性には多過ぎるかも。蕎麦と丼もののセット。僕はそのカツ丼セット頼むよ。」
「ん、でも私、こう見えてけっこう大食いなんだよ…って、前も言った気がする。」
そう言って二人は笑った。笑いながら、『例の葛藤』がまた僕の胸にチクチク刺さった。
結局、葉子は親子丼のランチセットを注文した。こういった店だけあって、二人の会話が円滑になる前に、即座に注文の品が運ばれてきた。
「美味しいね…店のみかけによらず。」
囁く様な声でそう言うと、葉子はクスクスと笑った。僕も笑顔で頷いてみたものの、ますます胸の痛みは増すばかりだった。
暫くの後に、葉子の箸が進まなくなってきた。
「あ、やっぱりちょっと多かったでしょ?」
「うーん、私としたことが…。ちょっとお腹いっぱいかな…。」
彼女は悔しそうに苦笑いした。
「じゃあ、もらっていい?親子丼もうまいんだよね。」
僕は自らの分を既に食べ終わっており、十分満腹だったが、変に男らしいところを見せようと、少しだけ無理をして葉子の残した親子丼を平らげた。彼女はなんだか嬉しそうにそんな僕の食べ様を眺めていた。
いよいよ満腹となり、立ち上がるのも億劫だったが、気付けば徐々に店が混み出していた事もあって、僕らは店を出た。半開きになっていた引き戸を開け、暖簾をくぐると、遂に空からしとしとと雨が降り始めていた。
「あ、雨…。」
僕の家はこの店から小走りで行けば二分程度なので、この位の小雨は普段なら左程気にも留めないのだが、葉子に供に小走りさせるのには少し躊躇いを感じた。
「僕はご覧のとおり、手ぶらなんだけど、折りたたみ傘とか持ってる?」
「ううん、失敗したなぁ…朝は晴れ間も見えてたから大丈夫だと思ってたんだけど…。」
「すぐ近くだから、もっと強くなる前に、ちょっと小走りして行こうか。」
「うん。今日、歩きやすい靴でよかった。」
何故だかまた楽しそうに葉子が微笑み、頷いたのをチラリと横目で確認したが、照れくさくてさも聞こえなかったかのように返事もせず、蕎麦屋の前の道路に車の往来が無い事を確認した。
車通りの殆ど無い細い路地だったが、珍しく一台の車が通った後に、僕は足を踏み出した。
「よし、行こうか。」
葉子を気遣いながら、ゆっくりとした小走りで家へ向かった。
幸い雨は徐々に収まってきて、アパートに着いた時には最初よりもだいぶ落ち着いていたので、二人ともそんなに濡れずに済んだ。
「だいぶ小雨になったね。却って、もうちょっと雨宿りしてからにすればよかったかもね。」
葉子は息を軽く切らしながら言った。
僕は相槌を返しながら鍵を開け、部屋のドアを開けて葉子を招き入れた。
彼女が羽織っていた紺色のカーディガンは、肩のあたりが雨に濡れて、濃紺になって見えた。
「あ、そのカーディガン、濡れちゃったでしょ。かけておこうか。」
僕は自分の着ていた上着のパーカーをクローゼットに乱雑に押し込むと、そこからハンガーを一つ取り出しながら、何気なく彼女に声をかけた。
何故か葉子は少しはっとしたような顔で眉を寄せたが、すぐに元の表情を戻して言った。
「ううん、大丈夫。そこまで濡れてないし…。」
僕は直ぐには葉子が垣間見せた表情の変化に意味を見いだせなかったが、その後何気なく彼女の仕草を見ている内に、真意を推測できた。
珈琲でも淹れようと、僕が台所で湯を沸かしている間、葉子はカーペットの上に座って肩や髪の毛の濡れた個所を撫でて、濡れ具合を確かめている様だったが、頻りに襟足を気にしている事に気付いた。
そして漸く、彼女と初めて出会った日の記憶を呼び起こした。葉子はカーディガンを脱ぐことで自分の首元にある、あの忌まわしい傷痕が露出する危険性に配慮したのだろう。
僕はそれに気が付くと、自分の中の最も醜い好奇心と、最近初めて自覚した倒錯的な欲望とが、今まさに目の前で沸騰し始めた湯と同じ様に急激に湧き上がってくるのを感じた。
葉子の傷痕を見てみたい。この指でなぞってみたい。その上に爪を立ててみたい。
そんな事を妄想しながら、飽くまで平静を装って僕はコーヒーを淹れようとしていた。
彼女は先程の一瞬の表情の変化が嘘だったかの様に、平然とした顔で、時折こちらの様子を見たり、本棚の方へ視線を向けたりしていた。
たまたまインスタントコーヒーの入ったカップに湯を注いでいる時に葉子と目が合い、思わず熱湯をカップの縁で跳ねさせて、手にかかってしまった。
熱がる僕を見て彼女は笑ったが、妄想に憑かれた僕にはその笑顔に愛想よく応える余裕は無く、黙ってもう一つのカップにお湯を注いで、テーブルの上へと運んだ。
「ありがとう。手、大丈夫?」
「あ、うん。全然大丈夫。」
そう言うと葉子はカップを持ち、湯気の上がる珈琲を冷まそうと息を吹きかけた。
僕は先程の妄想を拭えないまま葉子に対峙しているのが、どうにも堪らなかったので、やや固い口調で、計画の話に持ち込もうとした。
「それで、計画の件、話そうか。今日は脅迫状、持ってきたんだよね?」
「う、うん。あ、今出すね。読んでみてくれる?」
急かされた葉子は息を吹きつけた珈琲に口を付けないまま、カップをテーブルの上に置いて、すぐ隣に置いていた手提げかばんの中から印刷された紙を取り出した。
正直、頭の中は混沌としていて、正しい判断をする自信は無かったが、とにかくその受け取った文章に集中するよう努力した。

35:
辻原啓一郎様

はじめてお手紙差し上げます。
『あの一件』以来、こうして直接関わるというのは初めてですが、まさか私たちのことを忘れてはいないはずです。
今でもあなたが私たちにしたあやまちについて、後悔することはありますか。
どちらにしても、私はあなたを一生許すことは出来ないと思います。
どんな風に謝られたとしても、私の気持ちは収まらないでしょう。
あなたを許す最初で最後の機会であった、母の葬儀にもあなたは顔を出しませんでしたね。
その時に、私はこの手紙を書くことを決めました。

母はあなたを愛したまま逝きました。
そしてあなたからの仕送りに母は心から感謝しつつ、パートで私と弟を養いながら、その送金の多くを私たち兄妹の為に残しておいてくれました。
お蔭で母亡き今も、私は大学を卒業するまでは難なく生活することが出来ますし、兄の介護費も暫くは賄えると思います。
しかし、母が亡くなり、その仕送りを当てに出来なくなったいま、私が就職して兄を介護する事は不可能ではないにしろ、非常に苦しい生活状況になると思います。
その苦しい状況が、自然の事情で致し方ないものであれば、私も何も言わずに努力しますが、この原因を作り出したあなたのことを思い出すと、とてもやりきれない思いになります。
母の生前、あなたがどの程度の額を母に仕送りしていたかまでは私は知りませんが、もし私に何かあっても、兄を十分に養っていくのに必要な費用は、月20万円だと試算しました。
この額はあなたにとってそこまで厳しいものではないはずです。
私は、これを脅しの材料として、あなたからお金を巻き上げる事自体が目的ではないからこそ、最も現実的に適っていると思われる額を提示しています。
この請求は脅迫ではなく、最低限の慰謝料のようなものだと思ってください。
ただ、私があなたに求めるのはその最低限の慰謝料だけではありません。
私たちにした自分の過ちについて深く後悔してほしいというのが、私の最大の願いです。
その為にも送金に際しては必ず、自らの手で振り込み作業をしてください。
もしも他人にそれを任せているような形跡があれば、『約束違反』と見做します。
前述の送金額についてもですが、もしなんらかの『約束違反』があれば、それなりの代償を払ってもらうことになると思います。
たとえば、あなたが私と兄の身体に付けた無数の傷は、もしその写真を公表すれば、あなたの虐待の動かぬ証拠となるだけでなく、大企業の重役であるあなたのこのスキャンダルは、さぞマスコミは面白く取り立てると思います。
その様な回りくどい方法を取らなくても、法的に訴えれば、それなりの慰謝料をもらえるであろうとは分かっています。
ですが、繰り返しになりますが、私は最低限の生活保証と、あなたにこの件について深く後悔してもらえればそれで満足なのです。
もし法的な訴えなど起こせば、あなたの『新しいご家族』や会社の従業員たちにも大きな迷惑がかかるでしょうし、それは私の望むところではありません。
なので、もしあなたが不慮の事故や病気で急死した場合等、それ以降の請求は『ご家族」』には行わないのでご心配なく。あなたは有名人ですから、もし何かあれば私の耳にもすぐに入るでしょうから。

私が言いたいことは理解できましたか?
もし理解できなくても、この『約束』は来月から始めさせてもらいます。
必ず毎月一日に、20万円、以下の口座に振り込みをして下さい。
xx銀行 口座番号xxx 名義D
過剰な額の送金も『約束違反』です。それによってあなたに贖罪の気分になってもらいたくないからです。

もう一つ、『約束』ですが、私は今はもうあなたの言い訳や謝罪を聞きたいとは思いません。
心から後悔してほしいと思っていますが、それを私に伝えてほしいとは思いません。それによって、あなたの罪悪感が薄れでもしたら、私の意に反することだからです。
あなたが私たち兄妹にできることは、ただ淡々と送金を続けることだけです。
送金以外に、私たちに接触しようとしたり、身辺調査をしようとした場合は、それも問答無用で『約束違反』と見做します。

これだけでは、あらぬ別人からの脅迫と見分けがつかず、不安でしょうから、今回の手紙にもあなたが私に付けた傷痕の写真を同封します。
覚えていないかもしれませんが、私がまだ幼稚園児のころに、あなたが私の肩に押し付けた煙草の跡の写真です。
その時の私は、まだ五歳そこらだというのに、必死に泣くのをこらえていたのを覚えています。あなたからの『追徴』を恐れて、幼くして泣き声を抑える様に育ったのです。
私は兄が同じように耐えている姿を見た記憶もあります。
あなたはそんな私たちの表情を覚えていますか?

言い忘れたことがあれば、また手紙を送るかもしれません。
あなたの中で過ちを風化させない為にも、また写真を送るかもしれません。
それでも、あなたからは絶対に返信しないでください。
後悔と送金。あなたに出来ることはこれだけです。
まずは来月の送金をお待ちします。

辻原葉子より

追伸、
この件には私と兄の他に何人かの協力者がいます。
もし何かしらおかしな行動をとれば、その協力者から『約束違反』の制裁を取ってもらうことになる可能性もあります。
おかしな気を起こしませんように。

36:
改めて葉子の意志の強さに驚かされてしまった。
これまで聞いた話よりも、ずっと具体的に葉子のこの計画における目的が伝わると同時に、当初の印象より危険性も小さい計画の様に思えてきた。
特に秀逸なのは、啓一郎からの返事を一切拒否している点である。こうしておけば、厄介な交渉を初めからシャットダウン出来る。もし交渉に持ち込まれたりすれば、葉子の「自分の思った通りやる」という計画の大原則が揺らぐばかりか、交渉の中で、こちらの弱みを握られる可能性も高い。
また、啓一郎にとっても余計なアクションを起こして件を荒立てる危険性を減らす事が出来る。
恐らく、啓一郎にとって最大の懸念となるであろう、家族や関係者への配慮もされているため、啓一郎に「何としてもこの計画をつぶしてやろう」という危ない橋を渡る気を起こさせる危険性もない。更に、協力者がいる事実をあらかじめ伝える事で予防線も張っている。
また、どこまで意識しているかは分からないが、実に効果的に罪悪感を引き起こさせる様な内容だった。
啓一郎が幾ら冷徹な人間であっても、この文章から何も感じないという事は無いだろうし、まして写真によって自らの罪の痕跡をありありと見せつけられては、平然ではいられないだろう。
僕は葉子のわがままを尊重するという理由ではなく、単純に文意に納得し、反論や訂正の余地も無く、頷きながら二度三度読み返した。
やがて、葉子が不安そうに僕の顔色を伺いながら声をかけた。
「どう?直した方がいいとことかあれば、正直に言って欲しいんだけど…。」
「いや、直すところないよ。もう何度か読み返してみたけど、多分問題はないし、細かいところを僕が手直ししても改悪にしかならない気がするよ。」
「ほんと?けっこう勢いで書いちゃったから、色々ダメな気がしてたんだけど…。」
葉子はほっとした顔を見せて、僕の手から文章を受け取った。
「うん、でもその勢いが却って良かったのかも。僕も改めて、この計画の主旨の理解を深められて良かった。」
葉子はにこりと笑って、何か言いかけたが、僕のちょうど後ろに位置していた窓を見て、すっくと立ち上がった。
「あ、雨。ザザ降りになってきた…。」
僕も座ったまま振り向くと、なるほど外はザザ降りで、意識していなかったが部屋の中はその雨音が響き渡っていた。
そういえば、手元の文章を読む為に無理のない程度の射光はあったが、昼過ぎとは思えない程に空は暗かった。雨は僕らが外にいた時とは比較にならない大雨で、景色はぼやけて、いつもはこの窓から見えるキャンパスの校舎が霞んで見えなくなる程だった。
葉子は少しの間ぼうっとした表情で窓の外の雨を眺めていた。しかしその実、その視線の先には何も無い様にも感じられて、思わずゾッとした。
彼女はその虚ろな視線を窓の外へ投げっぱなしのまま、小さく口を開いた。
「写真、まだ撮ってないの…。」
その一言で、そのものが口から吐き出されてしまうのではないかと思うほど、心臓が大きく膨れ上がった。
僕は葉子の顔を見たが、依然として彼女は窓の外をじっと眺めていて、雨粒を一つ一つ数えているかの様に、まばたきも忘れていた。
文章を読みながら、僕は『あなたが私の肩に押し付けた煙草の跡』について、恐ろしい好奇心と期待が入り混じった、愚劣な感情が表面に浮かび上がってくるのを、必死で抑え込んでいた。彼女が話題に挙げるまでは、葉子はその写真を自分で撮影して、僕にも見せないまま啓一郎に送りつけるものだと考えていた。しかし、まだ何も言われていないとは言え、この話題を挙げたという事は撮影を依頼されるか、もしくは写真を一目見ること位は出来るかも知れないと卑しい期待をしたのだった。
僕は自らの醜悪を棚上げして、その大きな期待感から葉子に話を続けさせようとした。
「…そうなんだ。でもこの写真っていう案も、相手にプレッシャーを与えるという目的の上で、すごく効果的だね。いつ撮るの?」
「うん…。」
そう言いながら漸く葉子は視線を僕に向け、また元の様に座った。
「これも、私の中で結構重要な話で。写真を送ることで、父にあの日のことを鮮明に思い出させて、しかもそれが今も私たちを苦しめているという事をはっきり伝えたいの。」
「うん、それ、効果すごくあると思うよ。」
「それで、その、写真なんだけど…。今日カメラ持ってきていて…出来れば…撮ってもらえるかな?」
今度こそ心臓が破裂してしまうのではないかと心配になった。とても声など出そうになかったが、絞り出すように、それでも、出来るだけ葉子にそれを悟られない様に、自然な返答を心掛けた。
「あ、うん。全然大丈夫だよ。」
「自分で撮ろうともしたんだけど、やっぱりあまりうまく撮れないし。撮り方によっては、本当に第三者が関わってるって事を自然に向こうに伝えられるかなとも、思って…。」
葉子は妙に言い訳がましくそう説明した。
恐らくそれも本音の一つではあったろうが、それ以上に、『他人によって撮影された写真』という素材そのものが葉子の目的であり、直感的による計画の遂行の為の一つの要素だったのだろう。
どちらにせよ、僕はここに、遂に自分の欲望を直接的に、そして正当な理由を持って介在させる機会を得た。
葉子は気恥ずかしそうにまた目線を逸らしながら、自分のカバンの中から買ったばかりと見れるデジタルカメラを取り出した。
「これ…。買ったばかりで、まだ私もあんまり使い方よくわかってないんだけど、普通に撮るだけならわかりそう?」
そう言って葉子は僕にデジタルカメラを手渡した。かつて実家の親戚の集まりで写真係をやらされた際に、たまたま同種のデジタルカメラを扱った為、操作方法は何となくわかった。
「うん、たまたま、同じタイプのやつ、使った事あるよ。」
僕はカメラの電源を入れ、操作を確認しつつ、試しに部屋の中を一度撮影した。
画面を確認すると、電気をつけておらず、僅かな外光で幽かに照らされただけの部屋の中は暗く、かろうじて本棚に本が並んでいるのが確認できる程度で、写っているものがよく見えなかった。
僕は普段から、だいぶ暗くなるまで部屋の明かりをつけないのだが、さすがに来客もいる事だし電気を付けるべきだと思った。
「あ、ごめん、暗いよね。電気付けるよ…。」
「ん、ちょっと…。」
僕が立ち上がり、電源の紐を引こうと手をかけたところで、それを制止するように葉子が声を上げた。
「暗いままの方が、いいかな…。フラッシュで撮れば…。」
「…あ、うん、そうだね。」
言いながら、その真意を直ぐには理解出来なかったというのが、つくづく僕が女性の扱いが不慣れであることを改めて実感させた。
恐らく、二人に撮影以上の目的意識は無かった筈だが、それでも女性が、それも自分の傷痕を必死で隠し続けてきた葉子が、その傷を見せる為に肩を露出しようというのだから、過剰な程の気遣いが求められる状況だった。
「…じゃあ、このまま撮ろうか。フラッシュで、ね。」
漸く数秒後に事情を察した僕は、取り繕う様に言い足した。
先程からずっと続いている、二人の間の微妙な空気の隙間は、いよいよ激しくなる雨音が辛うじて和らげてくれていた。
僕は立ち上がったまま手に取ったデジタルカメラのフラッシュ機能をオンにし、もう一度同じアングルで部屋の中を撮影してみた。フラッシュは外の豪雨と相まって、まるで雷光の様だった。
画面を確認すると、今度は部屋の中がはっきりと写されていて。拡大してみると並んでいる本のタイトルが読みとれる位鮮明だった。
「うん、こんな感じ。」
と、葉子に今撮った画面を確認させると、彼女は何も言わずに頷くだけだった。
妙な間が空いた。雨は依然として強く降り続いていた。
「撮ろうか。」
葉子は決心し、それでも雨音にかき消されそうなか細い声でそう言いながら立ち上がった。いつか暗い部屋の闇に溶けて行ってしまいそうな紺色のカーディガンを脱いだ。カーディガンの下には白のシャツを着ていた。カーディガンを着ていた時には当然わからなかったことだが、襟部分にあるレースの刺繍が袖部分にも入っていて、可愛らしかった。
「ちょっと、後ろ向いていてくれる?」
「あ、あぁ、ごめん。」
最早震えている葉子の声に半ばかぶせる様にして、何故か僕はつい謝ってしまった。
そして直ぐ僕は身体ごと振り返って、窓の外の景色へ視線を置いた。雨粒が大気中に飛散して、さっきよりも景色がぼやけてきているように感じた。
雨音にかき消されて、実際には葉子の衣擦れの音は聞こえなかったが、シャツの擦れる音の空耳が僕の耳に煩い程に響いた。
やけに時間がかかった気がしたが、彼女にも脱いでから少しの間躊躇いの時間が必要だったのだろう。僕は只々窓の外をぼんやり眺めるしかなかった。
暫くすると、葉子が声をかけた。
「いいよ。」
妙な期待と緊張の焦燥と自制が闘って、ただ振り返るだけで足が縺れそうになった。
葉子は白いシャツを脱ぎ、両肩を露わにしていた。その脱いだシャツで胸元を隠していた。それでも、胸元から上が晒け出されたその姿を見て、僕は眩暈の中で理性を保つのがやっとだった。
電気を付けない部屋の中でも、下着の肩の紐の周辺に、火傷の跡が幾つも散っているのがぼんやり視認できた。
とは言え、葉子の手前、あまりじろじろと凝視することも出来ず、本題に入る事にした。
「じゃあ…撮ろうか。どの位、身体が写ればいいかな?」
俯いて、葉子の膝にでも話しかける様に僕は問いかけた。
「そう、だね…顔は写っていた方がいいと思うから、胸元から上、って感じかな。」
「わかった…、ちょっと待ってね…。」
撮影画面で照準を調整しながらも、画面から目を外し僕は実際の葉子の表情を確認した。彼女は顔をこちらに向けつつも、目線は右下に落としていた。単に僕に照れているというのも少しはあったろうが、こういう状況に追い込んだ啓一郎に対する恨みの念が感じられる哀しい表情だった。
その葉子の顔は、今までで一番きれいだった。
「じゃあ、取敢えず一枚、撮るよ。」
僕がそう言うと、葉子は無理に僅か目線を上げようとしたが、それでもやはり目線は右下に向かって張り付いたままだった。
フラッシュの雷光が、一瞬部屋を明るく照らした。元々白い葉子の肌がより白く映し出された。肩を露出し、胸元を隠す葉子の姿は、似た種類のポーズの売春婦のそれには決してない種の深刻な悲哀の色を持っていて、淫らな印象は一切排除されていた。
画面を確認すると、はっきりと肩の火傷跡が見て取れた。葉子の表情も、啓一郎の反省を促すにあまりある切なさが籠っていて、なおかつやり過ぎている感も無いものだった。
「こんな感じだけど、どうかな。」
葉子は両手で胸元のシャツを押さえたまま、僕の手の中にあるカメラの画面を覗き込んだ。
「うん…うん、いいと思う。一発OKだね。」
そう言いながら葉子は力なく微笑んだ。僕は少しも笑える気分ではなかったが、必死に笑顔を取り繕う彼女の努力を無駄にしないよう、同じ様に無理に微笑んだ。
「じゃあ…いいかな。取敢えず、服着なよ。」
葉子がそっと頷いたのを確認して、僕は机の上にカメラを置くと、今度は自分からまた窓の方を向いた。
気のせいだろうが、外の雨は見る度に微妙に激しさを増し続けているように感じられた。
「ごめんね、もう大丈夫だよ。」
葉子の声で、彼女の方を向くと、既にシャツの上にカーディガンも着込んで立っていた。
「あー、恥ずかしかった。」
と言いながら葉子はぺしゃんと座り込んだ。
「電気付けるよ?」
彼女が頷いたので、ようやく電気をつけると、二三度の明滅の後、蛍光灯が明々と部屋の中を照らして、思わず二人は少し目を細めた。

それから暫く、どちらから始めたのか曖昧なまま、他愛のない話が続いた。読んでいる本の話や、実家の猫の話、最近見た映画の話等、つい先程までの異様な状態が、まるで今語っている映画の話の、物語の一部だったかの様にさえ思えた。
そうして、ふいに時計に目をやると、いつの間にか時計は17時半を過ぎていて、窓の外は殆ど真っ暗になっていた。
「お兄さん、家で一人だよね?そろそろ帰らなくて大丈夫?」
「あ、そうだね、そろそろ帰らなきゃ…。」
僕はふと立ち上がって、窓を開けて外を見ると、どうやら雨はだいぶ落ち着いた様子だった。
「小雨になってるよ。傘貸すから、今のうちに帰った方がいいかもね。」
「ありがとう、じゃあ…。」
そう言って、葉子は少しだけ残っていた冷めきったコーヒーを飲みほすと、立ち上がった。
「ごちそうさま。今日は本当にありがとうね。急に、変な事も頼んじゃって…。」
「あ、いやいや、別に…。」
玄関に向かいながら、僕は漸く今日起きた現実を回想し、確認しなければならない事を急に思い出した。
「そう言えば…これで計画上の、脅迫状作成、までが終わった事になるけど…。後は…。」
「実は今日、大学の除籍処理も済ませたし、携帯電話も再来週くらいには止まる予定になってるの。周りの知人には、もうすぐ海外へ留学して、そのまま就職するかも、っていう風に何となく伝えてある。」
僕はそれを聞いて、また自分の背筋がぴんと張ったように感じた。計画の進行、つまり葉子の死期が刻一刻と迫ってきている。
「明日にも、このカメラから画像をプリントアウトして、さっきの文章と一緒に郵送する積り。再来週位にちょうど振り込み期限が来るから、そこで振り込みが確認できたら…。」
それまですらすらと話していた葉子が一瞬言葉を止めた。その意味は僕にもわかったが、彼女がまた話し始めるのを待つ事しか僕には出来なかった。
「…振り込みが確認できたら、後は、ね、和志君にお任せってことになるね。」
葉子は苦笑いしたが、僕にはそれに付き合う事も出来ず、つい真顔で訊いてしまった。
「あの、前に見せてもらった計画にあった追加脅迫文、ってのはどうするの?」
「うん、それなんだけど、やっぱり書き溜めしても同じような文章の繰り返しにしかならないと思って。それよりは、さっきみたいな写真をもう何枚か用意しといて、万が一向こうが『約束違反』をした時用の交渉に使うとして、後は出来るだけコンタクトしない方が安全だと思ったの。その、万が一の場合は、状況を見ながら和志君に文章は書いてもらえれば…そこでは今回みたいな感情論とかは極力入れないで、事務的にしてもらえれば、第三者が代行で書いていることもばれにくくなると思う。」
「…うん、なるほどね。」
僕は葉子のこの考えケチを付けられる部分探している自分に気が付いた。そうすることで、この計画がどんどんと進んでいくことを、一旦留めようという意志が無意識に働いていたらしい。しかし、目立った咎める個所も無かった事と、その自分の意志に途中で気が付いた僕は、それ以上粗探しをすることを断念して閉口した。
玄関での立ち話を終え、そこへ立てかけてあったビニール傘を葉子に差し出した。
「ありがとう。直ぐに返すね。また連絡する。それじゃ…。」
さっきまで、僕は駅まで送って行こうと思っていたが、傘は一本しかないし、自分の部屋の前で見送った。
「気を付けて…。」
と、僕は探した挙句にかろうじて見つけた言葉を葉子にかけたが、小雨の小さな雨音にさえ危うくかき消されそうな小さな声になった。
既にアパートの廊下を歩きだしていた葉子は、また苦笑いともとれる微笑みを浮かべ、こちらを少し振り返りながら頷いた。

37:
翌日、手紙と写真を送付したという連絡があった以外に、暫くの間葉子との接触は無くなった。
僕はそれ以降、状況こそ様々ではあったが、あの日と同じ淫夢を何度も見ては、自分の許されざる欲情に嫌悪しつつも、それが現実化する事を少しずつ具体的に考え始めていた。
場所はやはり僕の家だろうか。どうやって死体を処理すべきだろうか。運搬を考えると、やはり山中の方が…?それに、方法はどうすれば。本能赴くまま絞殺するのか、本当にうまくやれるのか…。
しかし、何一つしっかりと決められないまま、妄想以上の具体的な計画立案にはならなかった。
その間も、葉子の事が気になって連絡を取ろうと何度も思ったものの、事務的な用事以外にこちらから連絡を取るきっかけが無かった。躊躇したままに二週間が経ち、遂に11月1日になった。
葉子もその日を心待ちにしていたに違いなく、朝9時半に電話がかかって来た。僕もその日がこの計画上で、非常に重要な日だと分かっていたため、8時ごろには目覚め、本を読みながらも携帯電話をずっと意識して待っていた。
三音目の呼び出し音を待たずに、僕は応答した。
「もしもし…。」
「もしもし、葉子だけど、ごめんね、大丈夫?起きてた?」
「あ、うん大丈夫。」
「例の振込だけど、大丈夫。きっちり振り込まれていたし、あの手紙に関して向こうから変な動きも無いみたいだし。」
「あ、それは良かった、ひとまず…。」
用件を伝え終わると、また気まずい空気が流れ、会話に間が出来た。恐らく彼女が言おうとしている事は分かっていた。いつも彼女の方から言わせてばかりだったので、この件ばかりはと思い、自ら口を開く勇気を振り絞った。
「じゃあ、後は僕が考えればいいんだね。後の事は…。」
ほんの少し間が空いて、微かに葉子の息を吐く音が聴こえた。
「うん、よろしくね。もちろん、和志君に変な疑いが掛からない様に、言ってくれれば、出来る協力は惜しまないよ。もし万が一ばれた時が怖ければ、遺書を書いておいてもいいし…。」
葉子はこの自らの最大のわがままである計画遂行においても、僕への気遣いは決して忘れていなかった。
「あぁ、そうだね…。まだ僕の中で、何かが決まってる訳では無いんだけど、色々考えてはいるよ。取敢えず、また今日か明日にでもちょっと会おうか。」
思いがけずに初めて自分から女性と会う約束を言いだしている事に気が付き、今更ながら少し照れていつ僕がいた。
「そうだね、細かい事務の話で、兄の介護費の振込の話もあるし…。今日はちょっとその施設の松村さんに会ってくる用事もあるから、明日の方がいいかな。時間は何時でも。」
「わかった。じゃあ…明日13時にまた、商店街の入り口のところでいいかな。」
「うん、了解。今度は私の番だね。食べるとこ、考えとくね。」
お互いささやかに笑いあって、ほぼ同時に、
「それじゃ…。」
と言って電話を切った。
いよいよ、その時は近付いている。期待と不安、そして葉子を失う恐怖と彼女を壊す事の出来る悦びが、頭の中でぐちゃぐちゃと音を立てて脳髄の中で混ざり合っていた。ふいに吐き気がして、横になった。
僕はそのまま眠りに落ちていた。夢の中で、以前葉子と会った事のある大学院棟の『穴場』に僕らはいた。不思議と昼とも夜ともわからなかったが、やけに明るく感じた。仰向けの葉子の腹部の上に立ち、僕はゆっくりと自分の体重をかけていた。夢の中の僕は石の様に重くなることも、風船の様に軽くなる事も出来た。葉子が苦しみ、徐々に呼吸を細くしていく様子を見ながら、背徳の中にある言い様の無い快感を味わった。彼女の表情は覚えていない。
「僕は、もう駄目だな。」
うたた寝から覚めて、一息吐くと、真っ先に僕は呟いた。

38:
11月に入りすっかり寒くなったが、その日は割と暖かい日差しが心地よく、散歩日和と言える気候だった。
商店街の入り口近くの花屋の前で、葉子はカーキ色の薄いコートのポケットに手を入れて、ぼんやりと空を眺めていた。
30メートルほど手前から、歩み寄りながらも葉子のその横顔を見ていて、僕は何とも言えない寂しさを感じた。
花屋の前まで歩いて来て、何となく葉子に声をかけるのを躊躇っていると、彼女の方が気付いて、僕に微笑みかけた。
「あ、和志君。今日はすっごく良い天気だねぇ。」
「そうだね、暖かいし。」
僕も葉子と同じように空を見上げてみた。薄い雲が点々と浮かぶ以外は、白みがかかった青空が清々しく広がっていた。僕の心情が影響してか、その空はとても低い一から僕を見下ろしている様に見えた。
「花村亭って知ってる?結構ここの大学生なら知られてるカレーやで、安くておいしいらしいよ。私は行くの初めてだけど。和志君カレー好きでしょ?」
「あ、いいね、花村亭、何度か行った事あるけど、うまいよ。」
葉子はにっこり頷いて、僕らは店に向かって歩き出した。
「あれ、ところで僕、カレー好きなんて話したっけ?」
「や、ほら、食堂で話した時、カレー食べてたでしょ?それでね。」
「あ、あぁ。よく覚えてたね。確かに、好きな食べ物何かって聞かれたら、カレーだなぁ。」
いつもは学生で混みあう花村亭だったが、その日はたまたま空いていて、並ばずに二人掛けのテーブル席に座ることが出来た。
「後で話すけど、ひとつちょっと失敗しちゃったかなぁって思ってる事があってね…。」
運ばれてきた野菜カレーを食べながら、葉子は急にトーンを落とした声で言った。
「…え、あぁ、うん。後で、また、家でね。」
それまでカツカレーの美味しさに上機嫌になっていた僕だったが、急に食欲が収まったの感じた。
それでも二人ともきれいにカレーを平らげると、話の内容が気になる僕は、食べ終わったばかりの葉子を急かす様に席を立った。会計を済ませ、店を出た。
「さっきの、そこまで心配する事ではないと思うんだけどね…。あ、そうそう、ついさっき送ったメールって見た?」
「ん?いつ?多分届いてなかったと思うけど…。」
「あれ?おかしいな?」
葉子は僕の家へ向かう足取りを一旦止めて、カバンから携帯電話を取り出し、確認し始めた。
「あ、ごめん。送信出来てなかったから、いま再送するね。内容はね、兄さん名義の口座番号と暗証番号、それと松村さんへ介護料を振り込む際の振込先ね。キャッシュカードも持ってきたから、後で渡すね。」
「わかった。後で見ておくよ。」
毎度ながら、計画の順調な進行は良い事のはずだが、矛盾した感情が僕の顔を暗くさせた。
「松村さんには父からの振り込みがあってから、毎月10日までに振り込んでね。私の携帯電話はもうすぐ使えなくなるし、松村さんには一応和志君の連絡先も教えてあるから、電話がかかってくる事もあると思うけど…。一応、和志君は無理にお願いして振込訳をお願いしているだけだから、出来るだけ電話しない様にとも言っておいたから、滅多にはかかってこないと思う。」
葉子は事務的な作業方法について、色々と教示してくれたが、僕は別の事を考えてしまっていた。それでも、今後の為にそれらの情報はしっかり頭に入れておかなければならず、必死で自分に言い聞かせて、覚えようとしていた。
葉子の携帯電話はもうすぐ契約が切れるらしい。つまり、それまでには事を成せ、という事を暗に伝えているのだろうか。
そんな事を考えている内に、アパートに到着した。
部屋に入り向かい合って座ると、一息つく間もなく、僕は葉子に問いかけた。
「それで、さっきの話っていうのは…?」
「うん、そう。父に送った写真のことなんだけど…。」
葉子は言いにくそうにし、カバンからペットボトルの紅茶を取り出し、一口飲んでからまた話し出した。
「あれ、この部屋で撮ったでしょ?もし万が一、本当に万が一だけど、この件が事件にでもなったら、部屋の壁とかから和志君のこと、ばれやしないかなって思って。」
僕は思っていた決定的な失敗、つまり葉子の望み通りの計画に支障をきたす類のものでは無い事が分かり、却ってほっとしてしまった。
「そんなことか。そんなの、大丈夫だよ。それを言ったら、その振込金を僕が引出しているのなんて、警察と銀行が防犯カメラの映像とか調べればすぐにわかるんじゃない?」
葉子ははっとしたような顔をした。
「いや、でもそんなの全然気にしていないよ。僕は別に犯罪者になったって構いはしないからね。いざとなったら、僕も葉子さんを追って、死のうかと思ってるよ。」
僕は冗談の積もりで卑屈な微笑をしながら言ったが、あながち全て冗談と言う訳では無かった。この先、何か面倒なことが起きた際には、自殺は僕にとって最も便利な解決策だった。元より、そういう考え方で生きていて、近いうちにそのタイミングが来る事もぼんやり意識していたのだ。
「…和志君は死んじゃ駄目だよ。」
思いがけず、彼女が愛想笑いもせず、真剣な顔で言うので、僕は焦って取り繕うとした。
「あ、いや、勿論、お兄さんには迷惑が掛からないように、手をまわしてからね…。」
「そういう事じゃなくて。」
葉子は僕が言い終わるより先に、少し大きな声で怒った様な声を出した。初めて彼女のそんな声や表情を前にして、僕はそれ以上、何も言えなくなってしまった。
重い空気が部屋に立ち込め始めた。葉子は少しの間、怒気を含んだ目をしていたが、やがて、ふとまた落ち着くと、仕切り直しとでも言いたげに苦笑いした。そしてカバンから財布を取り出し、その中からキャッシュカードを僕に差し出した。
「はい、これ。早速今月分の振込、忘れずにね。勿論、残ったお金は和志君の自由にして。」
「あ、うん。」
「そうそう、それと、漫画貸してくれてありがとう。すごく好きな感じだった。絵が雰囲気あるよね。」
気まずい空気を変えようと葉子は話を強引に転換しようとした。カバンから出された『デイアフターデイ』を受け取りながらも、僕の方もその強引な転換に乗った方が得策だと考えた。
「この漫画が好きなら…これもどうかな?」
僕は立ち上がり、本棚から適当な本をつまみ出して、葉子に手渡した。
「あ、もう表紙からして、好きそうな感じ。」
と言って、彼女はパラパラと本をめくっていた。
「コーヒー飲む?」
「あ、いいや、紅茶あるし。」
僕は自分のコーヒーを淹れるために、湯を沸かし始めた。コーヒーを入れている間、葉子はその漫画を読んでいた。
「面白い?」
コーヒーを持ってテーブルに戻ると、彼女は漫画を閉じて表紙をまた眺めながら頷いた。
「うん、すごく。この作者の書いた他の漫画昔読んだ事あるかも…。」
「そう?そんなに気に入ったなら、キリのいいところまで今読んでていいよ。僕も昨日買ったばかりで読んでない本があるから、それでも読んでる。」
「本当?うん、実はもうちょっと続き読みたいなぁって思ってたの。ありがとう。」
買ったばかりの本があるというのは嘘だった。僕はコーヒーをすすりながら、『お気に入り段ボール』から読み慣れた寺山修司の詩集を取り出して、読み始めた。
静かで、穏やかな時間の中で、先程の重い空気は徐々に中和されていった。
そのまま、11月の空はゆっくり夕焼けていった。

16:30を過ぎていた。
部屋の中はだいぶ暗くなっていたが、いつもの癖で電気をつけるのを忘れたままだった。
葉子はすっかり漫画に集中し、僕は彼女のその様子をたまに確認しながら、そのゆるやかな時間を楽しんでいた。
やがて葉子は本を閉じ、大きく息を吐いた。
「ごめんね、結局読み切っちゃった。私、こういうの、一回読みだすと止まらなくて…ごめんね。」
「ううん、いいよ全然。」
葉子は伸びをしながら窓の外を見た。
「もう暗くなってきたね。」
「そうだね…、あ、そろそろ帰る?お兄さん、また家で一人でしょ?」
「ううん。」
ペットボトルの紅茶を一口飲んでから、葉子は無表情で窓の外を見たまま続けた。
「兄はもう昨日から施設に入っているし、荷物もみんな整理して、部屋も出ちゃってるから。」
それは気が遠くなりそうな衝撃だった。
見たところ、葉子の荷物はカバン一つしか持っていない。それで、荷物を整理してしまったという事は、つまり着替えも何もかも、最低限しか持っていないという事だろう。それは葉子の最後の瞬間が、直ぐそこに迫っている事を意味していた。
僕は恐る恐る、と言うより殆ど無意識下で、自然と口を開いていた。
「それは、つまり準備が全部…整ったっていう事?」
葉子は悲しく笑って頷いた。
僕の動揺はいよいよ激しくなった。
自分の理性とは反対に、先程言いかけた話の続きが勝手に口からあふれ出した。
「僕はね。…僕は、元々、そろそろ死のうかなぁって思っていたんだよ。前にも少し話したけど、僕には本当に何も無いんだ。喜びはもちろん、誰かに相談するような大きな悲しみさえ無いんだよ。きっと誰かに言ったら笑われるんだろうなぁと思うけどね。一応一流大学に通って、家もそれなりに裕福で、五体満足でさ。でも、だめなんだ。結局僕はこの世界で生きていくのに向いていないんだよ。下らないって思っちゃうんだ。」
急に畳み掛ける様に話し続ける僕に、驚いたように目を丸くしたまま、葉子は黙って聞いていた。
「今回、君からこの話を持ちかけられた時に、僕は思ったよ。これはいい機会かも知れないって。これは…これだけは心から言えるけど、葉子さんの思うままに計画を遂行させたいって言うのは僕にとっても本当に、思ってる事だから。だから、君が僕に色々と気をかけてくれるのは分かってるけど、そんなのはどうでもいいんだ。僕にとっては。
 この計画を手伝っている、この数ヶ月間が、僕にとって今までで一番楽しい時間だった。もし今後生きながらえても、多分こういう感覚を味わう事は無いんだろうと思うよ。だから…僕は君を殺した後、君のお兄さんの介護費についてはなんとか処理を付けて、自分も死んでしまいたいって思う。それはきっとうまくやるから、それを許してもらえないかな…。」
何故か涙が出そうになるのを必死に堪えていた。こんなに自分の思っている事を、素直に人に打ち明けたのは初めてだったからかも知れない。
言い終わった後、僕はまっすぐ葉子を見つめていた。人の顔をこんなにはっきりと直視したのも、恐らく初めてだっただろう。
葉子は暫く驚いた顔をしていたが、やがて数度のまばたきとともに、表情をいつも通りに戻した。しかし、よく見ると少し険しい表情だった。
「それは…だめ。絶対に。」
葉子は僕の目を見て言った。
「私のワガママだから、別に何の正当性もないのは分かってる。でもね、和志君が言ってくれた様に、和志君が本当に私のやりたい様にさせたいと考えてくれているなら、もう一度、最後に、私のワガママを聞いて。
 私は父に復讐をして、兄の介護からも解放されて、物心ついてからずっと背負ってきたものを下ろして、やっと安らかになれたの。それでもやっぱり何処かで心はもう疲れ切っていて、やっとたどり着いたこの安らかな場所で、そのまま眠ってしまいたい…そういう気分なの。うまく言えないけど…和志君には分かって欲しい。
 もしね、和志君が言う様に、私の死後、兄の介護が全うされても、和志君が死んでしまったら…それはこの計画に和志君の死が組み込まれた事になっちゃうと思うの。それじゃあせっかく背負ってきた荷物を全部下ろして、安らかに眠ろうというのに、新しい別の重みを背負わされちゃう感じがするの。
 だから私にとって、計画が完璧に思った通りになると言えるのは、この計画によって、和志君も少しは金銭的に恵まれるはずだし、それで…それで、和志君には何事も無かったかの様に幸せに暮らしてもらうのが私の計画の目的の一つなの。」
葉子の語る内容に、今度は僕が逆に目を丸くさせられていた。暫く思考は混乱していたが、やがて僕は彼女の言った事を納得した…と言うよりは、彼女の為に、理解しなければならないと思った。
「わかったよ。」
諦めた様に言った僕は、もう動揺していなかった。
不気味な程、冷静な気分だった。
「後は、残りの写真、撮らなきゃだね。」
僕がそう言うと、葉子も幾らか冷静さを取り戻した様だった。
「そうだね。…今、撮ろうか?」
「あ、いやそれも任せてもらえる?…全部終わった後で、僕がやっておくよ。」
「うん、そうだね。その方がいいや。やっぱり、身体見られるのも、そこにある傷痕見られるのも、生きてたら恥ずかしいし。」
「じゃあ…。」
そう言いながら僕は立ち上がった、少し足が痺れていて、軽く立ち眩みがした。それでも動作は今までになくスムーズに流れた。まるで自分の身体じゃないかの様だった。
座っている葉子の隣に立つと、彼女は僕を見上げてやわらかく微笑んだ。この表情が彼女の言う、安らぎの境地の表情なのだろうか。確かに、今までの様な複雑な色合いはもう感じられなくなっていた。
「なんか…すごく僕は落ち着いてるよ。すごく変な感じだ。葉子さんの言った事はきっと守るよ。僕は初めて、真面目に生きて行こうって思えてる。
 …もう、大丈夫かい?」
自分でも驚くほど冷静な状態に却って戸惑いもせず、言葉は自然と流れ出た。
葉子は優しい表情のままだった。
「うん、ありがとう。大丈夫。頑張ってね。」
これから殺す相手に「頑張ってね」と言われるのは、何だか変な感じだなと、不謹慎にもおかしく感じて微笑そうになった。
部屋の中はすっかり暗くなり、窓の外では街灯がつき始めていた。
僕は膝をカーペットの上につき、立膝の状態になると、葉子の首に手をかけた。彼女はまだ表情を崩さない。一瞬、かつて見た夢を思い出した。
そのまま、ゆっくり彼女をカーペットの上に押し倒した。
仰向けの葉子の上で馬乗りになり、首に手をかけてはいたものの、まだ力は籠めていなかった。
少しだけ体重をかけると、あの時の夢とは違って、葉子の表情が少しだけ苦痛に歪んだ。僕はそれでも冷静だったが、性的な部分だけが既に興奮を膨れ上がらせていた。夢の中で何度か見た景色と重なり始めていた。
堪えきれず、葉子が小さな呻き声を上げた。僕は首を絞める力を少し弱めてから、彼女の顔に自分の顔を30センチ先まで近付けた。完全に夢の中に居る感覚だった。
彼女は苦痛に歪んでいた表情をもう一度だけ微笑みに戻し、軽く頷いた。最後の微笑みは、つくりものではないと思った。
僕は首に込める力を一層強めながら、軽く唇を合わせた。
唇を離して、顔を上げた。葉子は目を閉じていた。今度は肩を入れて、全体重をかけて締めにかかった。
彼女は苦痛に顔を歪め、呻きながら、両手はカーペットを掴んで握りしめていた。
僕は尚も冷静だった。しかし葉子の顔が苦痛に歪んでいく様を見ながら、気付けばボロボロと涙を流していた。その間中、欲情は常に絶頂状態にあった。
葉子も泣いていた様だった。それは単に肉体的な苦しみ故なのか、彼女の言う『安らぎ』故なのか、僕には分からなかった。
呻き声はその後ずっと漏れ続けたが、思ったよりも大きな声は出なかった。徐々にその呻き声が消え入るのにつれて、表情の強張りも消えていった。
葉子の身体から緊張感が無くなり、カーペットを握りしめていた手もいつの間にか開かれていた。
それでも僕はだらだらと流れ続ける涙を拭いもせずに、暫く彼女の首を絞め続けていた。
もう死んじゃったのか…こんなに、簡単に…。
壊れて動かなくなった玩具を、それでも諦めきれずに弄ぶ子供の様に、僕は首を絞め続けていた。

39:
やがて僕の握力が無くなった頃、僕は葉子の首から手を離して、両手をそれぞれ彼女の耳の横、床の上にぺったりと着いた。
そしてすぐ目の前で葉子の死に顔と向かい合った。
当然、呼吸はしていない。
彼女の顔色は紅潮していたが、見る見るうちに蒼褪めていくのが暗い部屋の中でもよくわかった。
恐らく僕自身もそういう顔色の変化をしていたように思う。徐々に興奮は冷めていきつつあった。それでも、先程の『興奮』よりも勢いこそ少ないものの、『別種の興奮』が僕の内に甘美な快感を生んでいた。その『別種の興奮』は葉子の蒼褪めた、きれいな死に顔が一つの原因である事は間違いなかった。
かなり長い間、葉子の『最期のかたち』を確かめていた様に思う。最初は彼女の上に跨ったまま、顔を眺めていただけだったが、次第に頬に触れ、髪に触れ、胸に触れ、全身の感触を確かめていった。『確かめる』と言うのはその言葉の通りで、愛撫と呼ぶにはあまりに無機質な感覚だった。やがて消えてしまう葉子の物理的な感覚を、出来る限り記憶に留めようとする僕のその作業は、性的な衝動を全否定は出来ないとは言え、少なくとも僕自身は純粋な行為であると信じていた。
やがて、首回りに垣間見える傷痕を確認すると、それをすべて見てみたくて堪らなくなった。
僕は葉子の衣服を脱がしていったが、やはりそれも単なる性的な興味では無く、『確かめる』という作業の内に含まれているように思えた。
だらりと、もう動かなくなった葉子の身体を持ち上げ、横にする等、苦戦しながらも、僕は精神的には躊躇なくその全てを剥ぎ取った。
葉子の肌の上に無数に残されていた無残な傷痕は、矛盾するようだが、その肌地の美しさを際立たせていた。
特に傷がひどかったのは肩から二の腕にかけての部分で、煙草を押し付けられたであろう跡が無数にあり、中にはその跡が重なっている部分さえあった。
また、臀部は恐らく何か棒か革の様なもので叩かれたであろう傷や痣が多く残っていた。その部分に関しては、本来の肌地をまともに保っている部分は殆ど無かったが、それでもその赤く腫れ上がった傷や、青黒く淀んだ痣の色でさえ、僕には一つの抽象絵画の様な言葉では表現出来ない類の感動を覚えた。
自分を分析出来るだけの余裕があれば、そういった感動の大部分が興奮と緊張が飽和した結果、陶酔している故であるという考えも浮かんだかも知れない。しかしあるいは、それに気付くだけの意識があったとしても、僕はそれを振り切ってこの瞬間を享受する事を選んだだろう。
この数時間が僕の人生の最初にして最後の絶頂期であった事だけは間違いなかった。
幾ら眺め、触れ、その傷痕を一つ一つなぞっても、その至上のひとときを十分味わいきれることは無い様に思えたが、ふと目に入った置時計が漸くかろうじて残っていた理性を呼び覚ました。
これらを写真に残すことは、葉子の計画を支える目的だけではない。今後長らく続くであろう僕の退屈な日常にあって、この至上の瞬間を思い出させてくれる、数少ない重要な材料になる事も、あざとくも僕は計算していた。
僕は葉子のカバンの中から、デジタルカメラを探り当てると、目の前の小さな棚の上に一旦それを置くと、窓の外を眺めた。
11月の夜明けは、空を寒々とした濃紺に染めて、街灯の明かりが頼りなくそれに抗っている様に見えた。
僕ははじめて部屋の中がとても寒い事に気が付いて、葉子の着ていたカーキ色の薄いコートを羽織った。そのまま僕はこの闇の中に溶けて、消えてしまいたいと思ったが、彼女の残した計画がそれを許さなかった。
「計画の続き、進めきゃ…。」
僕は自分に言い聞かせるように、小さく小さく呟いた。
その声は、何故だか自分の声の様には響かず、まるで葉子が僕の口を借りて、促す声の様だった。
真っ暗な部屋の中、僕は深呼吸をした。

40:
暖かな朝陽が葉子を照らしていた。
布団の中で彼女の穏やかな表情を見ながら、随分と長い間、回想してしまっていた。
しかし、写真を撮り終え、仮眠をとった僕の選択は間違いではなかった様だ。また、長い時間をかけた回想は僕の精神状態をだいぶ落ち着かせたようだった。
僕は漸く布団から這い上がり、葉子の足もとに立ち上がって、彼女の顔を見下ろした。
次にはこの葉子の死体を、片付け、誰にも見つからない様にしなければならない。
具体的なプランが固まる前に葉子を殺してしまった事は、大きな失態ではあったが、何故か僕にはうまくやれる自信があった。それは既に死んだ彼女が、今でも僕の背中を後押ししてくれているような感覚があったからかも知れない。
計画とまでは行かないまでも、何となく考えていた行動案を、僕はその後実にスムーズに実行に移した。
先ず、大学近くの24時間受付しているレンタカーショップに電話し、乗用車をレンタル予約した。車の運転は得意ではなかったが、去年両親の勧めで免許を取得して以来、実家にいる時には何度か運転していた。
ちょうど都合よく直ぐに用意できる車があったようで、早速レンタカーショップに向かい、手続きを終えると、九時過ぎには車に乗り込むことが出来た。
そのまま、僕は隣駅近くにある大型のホームセンタへ向かった。そこでは登山用の衣服や靴を買い込み、大きな手提げカバンとスコップも購入した。変に怪しまれない様に、適当に選んだ花の種も購入しておいた。
ホームセンタから自宅の部屋へ戻り、先ずは登山用の衣類を身を纏った。そして購入した大きなカバンに裸のまま葉子の身体を押し込もうとした。既に葉子の身体は硬直し始めていて、作業は難航したが、葉子の小さな身体はあまり窮屈にならずにカバンの中へすっぽりと納まった。これを何とか車まで運び、後部座席に載せると、冬にも拘らず汗が額から流れてきた。
最も幸いな事には、この運搬作業中に誰とも顔を合わせなかった。
もう一度部屋に戻り、葉子の持ち物を全てホームセンターで買い物をした際に衣類などが入っていた紙袋に入れると、自分の財布や携帯などの必要最低限のものを持って、車に再び乗り込んだ。
目的地を特に決めていた訳では無かったが、とにかく人気の無い山奥を求めて、北へと向かった。
何か落ち度はないかと思い返しながら北上していたが、特に失敗は無いと思われた。
途中、15:00頃に国道沿いのレストランで食事をとった。葉子を社内に残して食事をしている状況がとても奇妙に思えた。
やがて、東北の山道で、人気も車通りも殆ど無く、かつ車からさほど離れない位置から車道からの死角に入る事の出来る絶好の場所に辿り着いた。
ちょうど18:00頃と、辺りもすっかり暗くなっていた。僕はその山道の脇へ車を停め、下車すると、辺りを見渡してみた。
民家は一切なく、冷たいコンクリートとガードレール以外には殆ど文化的な物が見当らないほどの場所だった。
冷たい空気が容赦なく僕の顔に刺さったが、登山用の衣類は防寒性にも優れていて、これから行われる作業の強い味方になりそうだった。
万が一車が通りはしないかとびくびくしながら、意を決して僕は後部座席から葉子の入ったカバンを引き摺り下ろすと、時折地面を擦りながら、車道から離れた山の森の中へ入って行った。これも偶然都合よく、月明かりが程好く森の中に差し込み、ライトが無くても何とか目先数メートルが認識できる程度の視界があった。
50メートル程度奥に入っただろうか。息を切らしながらそこに葉子の入ったカバンを下ろすと、今度は大急ぎで車まで戻り、スコップと彼女の荷物が入った紙袋を持って来た。
その場所で、ふと思いとどまり、紙袋から葉子の財布だけは抜き取り、登山服のポケットに入れた。家の中でも隠しきれないものでもないし、身分証等があれば、何かの時に役立つかも知れないと考えた為だった。
そしてもう一度車に戻ると、一旦乗車し、200メートル程度停車位置を移動させた。もし車が通って、停車中のこの車を不審に思って周囲を調べられた際にすぐに見つからず、何らかの対処ができる様にとの計らいだった。
そしてまた葉子の入ったカバンがおいてある位置まで早足でやって来ると、いよいよ大変な肉体労働の始まりだった。
スコップでどんどんと穴を掘り進めていった。相当な重労働ではあったが、これも幸い、柔らかな土質だったために、あっという間に大きな穴を掘ることが出来た。
念を入れ、自分が入ってみると、僅かに外が確認出る位だから、160センチ程の深さまで掘り下げた。
幅は小さかったが、葉子が身体を畳んで入っているカバンには十分な幅だった。
僕はその穴の中へ慎重にカバンを下ろした。そして紙袋の中のものを一つ一つ確認しながら穴の中へ投げ入れていった。危うく携帯電話をそのまま投げ入れるところだったが、もし万が一見つかった時に備えて、スコップでバラバラに壊してから入れた。また、葉子の持っていたカバンの中に入れっぱなしてあった飲みかけのペットボトルの紅茶を見て、自分の喉の異常な渇きに漸く気付くと、それを全て飲み干した。ここに捨て置いて、土の中で腐食せず残ることを危惧して、これも自分のポケットに入れておいた。
最後に、紙袋の底に購入時のカモフラージュ用に買っておいた花の種が残っている事に気が付き、一応これもポケットに入れておいた。
空になった紙袋を穴に投げ入れ、スコップを使って上から土を被せていった。掘る時とは対称的に、あっという間に穴は埋まっていき、葉子の入ったカバンは見えなくなった。
不思議な事に、回想を終えてからここまで、僕はまるで予め入念に組まれたプログラムに従う機械の様に、殆ど感情も無く計画を遂行していた。
やがて穴が完全に埋まり、その上を足で馴らしてしまうと、もう僕自身でも、一旦この場を離れたら戻って来れないであろう程に自然な状態になった。
僕はふと、ポケットに入った花の種を蒔いてみようと思った。ここにだけ周囲と違う花が咲いたら、万が一それを発見した人の目を惹いてしまうかもしれないとも思ったが、これまで機械的に作業を遂行していた僕にとって、葉子への責めてもの餞となるこの種蒔きは、唯一の僕自身への慰めでもあった。
その花の種はガーベラだった。種の入っていた袋のパッケージに因れば花をつけるのは五月頃だと言う。
僕は春の暖かな日差しの中で、葉子の埋まっている土の上にガーベラが咲いているところを想像した。
その時、急に僕という機械が故障したかの様に、涙がボロボロと零れ落ちてきた。つい声を上げて泣きそうになるのを必死で堪えながら、僕はガーベラの種を葉子の上に蒔いた。
想像の中でガーベラの花と、葉子の微笑は重なって一緒になってそよそよと風に揺れていた。
僕は暫くしゃがみこんで、その想像を打ち消すことに努め、涙が止まるのを待つと、ようやく数分後に立ち上がり、スコップを持って車へと戻った。
どうやら何一つ落ち度は無く、後始末は全て完了した。

41:
それから、あっという間に12年の歳月が流れた。
僕は葉子の計画の中で今も生きていた。
彼女の願った通り、僕は何事も無かったかの様に幸せに生活する為に、葉子と出会う以前よりも少し努力を覚えた。
一年間の留年の後、所属していたゼミの担当教授の推薦もあり、それなりに名のある企業に就職し、それなりの収入を稼ぐようになった。
啓一郎からの振込と合せて、余りある財力で、両親にもそれなりに孝行している。最近の小言は専ら嫁さがしについてだが、それについては両親も諦めているようにも見える。
サラリーマン生活の中で、最低限の社会性を身に付けた僕は、たまに飲みに行く友人も出来たが、相変わらず趣味は読書だけだったので、自ずと貯金ばかりが貯まっていた。
一見、何不自由のない、平凡な生活に見えるが、それでも僕の生活の裏には常に葉子の面影があるように思えた。相変わらず振込の仲介は続いていたし、ごくまれにあの日の写真を眺める事もあった。
計画に沿い、完璧にやり遂げた気持ちではいたものの、どこかにやはり「これでよかったのだろうか」という後悔の念が無いでもなかった。もしかしたら他に方法があったのでは…と12年経った今でも自問自答を繰り返していた。
そんな折、啓一郎からの振り込みが3ヶ月滞ったのち、啓一郎の死去を報せるニュースを目にした。
その3ヶ月間、僕は自分の蓄えから送金していたが、この報せを受け、葉子の兄である光広の事が急に気になり始めた。
結局この12年間、一度も施設から連絡が入ることは無かった。そうなると、松村が本当に光広の介護を真摯に行っているかも怪しまれた。
僕は以前葉子と訪れた時の記憶を頼りに、光広が居る筈の介護施設を訪れた。
施設は少しも古びる事なく、何度か改装もされていた様で、非常にきれいに整備されていた。受付に入ると、多少の危険を覚悟で、親戚を装って光広への面会を求めた。すると受付をしていた若い女性が電話で誰かを呼び出すと、焦った様子で若い男性介護士が現れ、僕に声をかけた。
「あの、あなたが光広さんにいつも送金して下さっているお方でしょうか?」
「あ、え、えぇ、まぁ、そうですが。」
「実は亡くなった母から、光広さんの介護に関しては特別言い受けておりまして。余程のことが無い限り、何故だかこちらからは連絡はせず、頂いた送金で光広さんを手厚く介護するようにと。
 実は、頂いていたお金は、とっくに終身介護条件の上限金に達していたので、これ以上送金頂かなくても、通常の介護レベルならお受けできるんです。というのも、実は我々の方でも光広さんの介護認定の再申請を行っていて、それが認可されたことで、今は国からも幾らか補助金が出ている状態なんです。
 母からの厳命がありましたので、手厚い介護の分として、送金も少しばかり使わせて頂きましたが、それでも過剰な送金については手を付けず、とってあります。もう200万円近くになると思いますが…。今直ぐにはお渡しできませんが、お振込の形でお返ししましょうか?」
僕は光広に何不自由ない生活が保障されている事に安心し、それ以降自然と会話を続けることが出来た。
「そうでしたか…。いや、光広さんの姉に送金を頼まれていただけなので、私は詳しい状況は知らないのです。しかし、そのお金は恐らく彼女は受け取らないでしょう。どうかそのまま保管して頂いて、光広さんに何かあった時にお役立て頂くか、施設に寄付する事とします。」
「そ、そうですか…、なるほど。それはどうもありがとうございます。では、とにかく今後の送金については結構ですので。」
「これはどうも。光広さんの姉に伝えておきますよ。ところで彼のご様子はいかがですか?恐らく光広さんは僕の事は覚えていないだろうから、ちょっと遠くから様子だけでも拝見したいのですが。」
「えぇ、それはぜひとも。こちらです。非常にお元気で。正直な話、介護と言うよりは、手のかかる小さな弟が出来た気分で接しさせて頂いておりますよ。」
その介護士は笑いながらそう言った。僕はそれに笑顔で応じながら、施設の中で何人かの被介護者を見ていて、その介護施設が障碍者ではなく老人介護を本来業務として行っている施設であることに今更気が付いた。
ある部屋の前に着くと、光広の姿を見つけた。その老人たちの中にあって、もう36歳を迎えている筈の光広は、未だに少年の様な笑顔で、老人たちと戯れていた。
少年の様な笑顔と言うのは決して過剰な比喩ではなく、まるで彼だけ老化すべき人間の仕組みに欠陥があったのではないかと思われる程若々しく、20歳前後の青年の様に見えた。それは遠い日に、葉子と供に現れた当時の姿そのままであった。
僕は12年前に戻った様な錯覚に一瞬とらわれそうになったが、介護士の発言が僕を繋ぎとめた。
「とても若く見えるでしょう?実際の年齢はご存知ですか?僕らも、不思議に思ってるんですよ、光広さんには。」
僕は何も言えずに頷くばかりだった。しばらく光広の様子を眺めていると、一瞬彼と目が合ったが、光広はすぐにまた老人たちが持っている玩具に気を取られ、目を逸らした。
「やはり覚えていないみたいですね。いま、少し目が合いましたが。」
「そうですかね、いや、ここからでは、遠いからでしょう。別にあって困るものでもないですし、少し声をおかけになってみては?」
「いや、でも彼は人見知りでしょう?」
「そんなことありませんよ。確かにここに来た当初は、人見知りだったと母から聞いたような気もしますが…今ではご覧のとおり、おじいさんおばあさんにとても愛想よくふるまって、この施設の人気者ですよ。実際、本当に光広さんの明るさには我々職員も、助けられてますよ。」
「そうですか?では、ちょっと、挨拶だけ…。」
そう言って、僕は光広に近寄って行った。介護士はその場に留まって、部屋の入口で僕を待っていた。
周囲の老人たちがこちらを見たので、軽く会釈をしながら光広に声をかけた。
「やぁ、こんにちは。覚えていないでしょうが、お久しぶりです。」
老人らはその様子をニコニコしながら眺めていた。
光広はこちらを向いて、僕の目をまっすぐに見つめて小さく口を開いた。
「ありがとね。」
その声はまるで葉子の声と同じ響きに感じたが、あまりに短い一言だけだったので、単なる聞き間違えだと思った。
彼の発言の意味は分からなかったが、僕は軽く微笑み返してもうその場を立ち去ろうとして、ふと周囲の老人たちに会釈しようとすると、その表情が恐ろしく強張っている事に気が付いた。
何だか恐ろしくなり、焦って部屋の入口で見守っていた介護士の下へ早足に戻った。
「いや、本当に、近くで見てみても若いですね。僕も驚きました。しかし、もしかしたら僕のことを少しは覚えていたのかも知れないな。何故だか、ありがとう、って声をかけられましたよ。」
そう僕が言うと、その介護士は先程の老人たちの様に、表情を急に固まらせた。
「あれ?どうかしましたか?」
「ありがとう、と言ったんですか?光広さんが…。」
「えぇ、意味は分かりませんでしたが、確かに、ありがとね、と…。」
「ご存じなかったですか。光広さんは、聾唖なのですよ。聴力は微かにあるようですが、口は全く聞けない筈なのです。」
「あ、いや、まさか…。」
そういえば、確かに12年前にも僕は光広の声を聴いてはいない。
背中をすっと汗が流れた。
「そんな光広さんが一度だけ、話したのを、実は僕も聞いた事があるんです…。」
僕はもう彼の居る方を振り返る事が出来なかった。
「私の母が病気で亡くなる数日前、無理をして車椅子でこの施設を訪れた時のことでした。最後の挨拶とばかりに、施設の関係者や老人たちに声をかけて回っていた時のことです。
 僕は車椅子を押していましたが、そこへ、光広さんがツカツカとむかって来て、初めて口を開いたんです。まるで、女の人の様な声でした。ハッキリ、ありがとうございました、と。母はそれを聞いて、何故だかある女性の名前を口にして、涙を流しました。その名前は、忘れてしまいましたが…。」
僕は光広の、いや、葉子の言葉を漸く理解した。
その場で不思議そうな表情のままでいる介護士に礼を言い、光広の方を振り返る事なく、施設の建物を出た。
施設の外に出ると、5月の温かな風が僕の頬を撫でた。
敷地の入口にある花壇の辺りまで来ると、一度だけ施設の建物を振り返った。
「こちらこそ、ありがとう。」
花壇では、ガーベラが揺れていた。

ガーベラ

処女作です。
小説挑戦してみるからには、ある程度長いの書かないとなぁという変な拘りでぐだぐだと伸ばしたら結構長くなりました。
中身は説明臭い描写と、だらだらとした台詞、怠惰な大学生の生ぬるい無為な生活が続くだけです。
最後の最後で急にSF的になるところを、なんとかしたかった。

ガーベラ

処女作、唯一の長編、鬱々とした僕らの歪んだ恋愛

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-17

Copyrighted
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