勿忘草
千切れ雲は、ご機嫌な太陽の横を通り過ぎるかのように勿忘草色の空を流れ、
蝉達が大合唱をしている常盤の緑に囲まれた純和風の屋敷の縁側で、風鈴がそよ風に吹かれてチリリンと鳴った。
満開に咲いた向日葵の花を、1人の女性が虚ろな瞳で見つめていた。
一体何を思っていたのだろうか。
――――――――未舗装状態の人目につかない小道を少年が、一心不乱で走っていた。
帽子を深く被っていた為、はっきりとした表情は判らないが、その眼は何処か脅えているような気がした。
少年が背後から何かの気配に気付き、後ろを振り返った時、笑い声のようなものが聞こえた。
「ぁ………………………………」
膝と指先と唇は、例えるなら携帯のバイブのように小刻みに振動し、掌は脂汗でべっとりしていた。
心拍数はあり得ないほど上昇し、眼の前が歪み始めていた。
悲鳴を上げようとするにも喉がカラカラで声も出ず、少年は脇目も振らずにそのまま全力で疾走した。
――――――――少年が来た道をまっすぐ行くと、墓地があった。
真昼間だと言うのにそこだけ音がせず、まるで別世界のようだった。
墓場の向こう側の方の木の陰から、黒いワンピースに何とも形容しがたい形の羽を生やした少女がひょっこり出てきた。
その後ろに、茄子紺色のボロボロの和傘を持った少女が目を輝かせながら黒服の子の後を付いて行った。
四方を木々に囲まれているのと、季節は夏である事から蚊が多く、和傘の少女は裸足に下駄という出で立ちであった為、
両足の至るところを蚊に刺され、歩きながら足を掻き毟っていた所為か白く細い脚は真っ赤になり、血も滲み出ていた。
和傘の少女が脚を掻き毟るのに夢中になりながら歩いていたからか、黒服の少女が急に立ち止まった事に気付かず、
そのまま彼女にぶつかり、反動で尻餅を付いてしまった。
「ちょっと小傘………前見て歩いてよ……」
「う~…ぬえが急に止まるからいけないんじゃん……いたたたたた………」
ぬえと呼ばれた前を歩いていた少女は、小傘と呼ばれた尻餅を付いた少女と口論を始めたが、
このまま続けても埒が明かないと思い、ぬえは話題を変えた。
「あれ見てよ。」
「どこー? 」
「右の方に大きい墓石あるじゃん、あそこに人が倒れてるわ。」
「えっ?! 」
此処にある石碑は一般的な大きさであったが、ぬえが指差したモノは他の石とは違い、横幅の方が大きかった。
その下には、10歳前後と思われる少年が倒れていた。
「熱中症にでもかかったのかしら………今日は一段と暑いから………………
って小傘? 聞いてる? おーい! こーがーさー! 」
――――――――――あの日も丁度こんな季節だった。
私が妖怪になったばかりの頃だったから、もう何年も前の事だろうか………
偶々見つけた屋敷で、1人で暮らしている若い女性を驚かそうと、小傘は木の陰に隠れるも、
トレードマークの和傘を隠す事を忘れては、結局驚かす事に失敗する。そんな事の繰り返しだった。
「あら……? 今日も来てたの? から傘お化けさん。」
「うー……見つかっちゃったよー………」
ふくれっ面をしながらも、内心では嬉しかったのか、小傘は女性の隣に座ると、目を輝かせながら女性とおしゃべりをした。
女性も小傘の人懐っこさと明るさのお陰で退屈が紛れるからか、小傘が来るのを密かに楽しみにしていた。
「おまえ、お家はないの? 」
「うん。ないよ。」
「だったら………ウチで住まない? おまえはもう、私の家族よ。」
「…………? 」
幼い小傘にはこの言葉の意味がまだ理解出来なかった。
「だからね……おまえは私の家族。」
「かぞく………? 」
「そ、一緒に暮らして……喜びも、悲しみも分け合う存在よ。」
「一緒に…………暮らす…………」
「だから、もう寂しい思いをしなくていいのよ。」
こうして、私はこの女性(ひと)の家で暮らす事になった。彼女は体が弱いのか、1日の殆どを部屋で過ごしてる事が多くて、
いつも外でフラフラしてる私とは正反対の生活だったから、私にとって初めての経験(こと)だらけだった。
全く違う生活習慣に慣れる事は大変だったけど、彼女の笑顔を見ると、私の顔も自然と笑顔になっていた。
――――――こがさ! こがさ!
心配そうな表情で呼び続けるぬえの声で、現実へと引き戻された。
「どうしたのよ?! さっきからボーッとして……アンタらしくないわ。」
「あー………ちょっと昔を思い出しちゃってね………」
「ねぇ……この子……息してないわ。」
「ぬえ! 早く病院に連れていこうよ! 」
「は?! 連れて行こうって……どうせこの子死んじゃうんだよ………」
「まだ少し温かいから! もしかしたら助かるかもしれないよ?! 」
やる気のないぬえとは正反対に、小傘は必死だった。
倒れている目の前の少年を助けてやりたい。ただそれだけであった。
―――――――お願いだから神様…………! どうかこの子の命だけは奪わないで……………!
「ただいまぁ~ 」
いつものように私は遊びから帰ってきたが、彼女からの「おかえりなさい」という声がなかった。
もしかしたら体調が悪くなって寝てるのか。きっとそうだろうって私は思って彼女の寝室に行った。
チリリンと風鈴の音だけが聞こえた。
網戸にもたれかかるように座っていた彼女の姿があった。私が声をかけても返事をしない。
それどころか微動だにしなかった。手に持っていたと思われる団扇は地面に落ちていた。
「こんなとこで寝てたら風邪引いちゃうよ………だから起きてよ……」
私がどれだけ揺すっても彼女は動かなかった。
「ねぇ………起きてよ…………」
私が揺すり続けていたら、彼女の体は私の方へと倒れ込んだ。
それでも彼女が起きる事はなかった。ふと彼女の顔を覗くと、血の気が引いたような顔色をし、唇は紫色へと変色していた。
再びチリリンと風鈴が鳴った。
何で彼女は起きないの? 何で? どうして? 分からない………なんだか怖いよ…………
怖くなって私は走り出した。何処へ向かったのか分からない。彼女が何で起きなかったのかも分からないまま………
――――――――こがさ…………
ぬえの消え入りそうな声が聞こえた。
「小傘………この子………冷たくなってる………」
「―――?! 」
あと5メートル程で里の病院に着く前だった。少年は息絶えていた。
小傘に背負われていた少年の両手は力なくぶら下がり、顔は青白く、唇は紫色へと変色しつつあった。
あの時あの女性(ひと)が………私がどれだけ声をかけても、揺すっても起きなかった理由が…………
現在(いま)になって……………よく分かったよ…………
「小傘………? 」
「っ…………」
小傘は、この少年を助けられなかった事と、女性が目を覚まさなかった理由がようやく理解出来た事の
二つの意味の悲しみをせき止める事が出来ずに声を上げて泣いた。
「小傘は悪くないんだよ……? だから泣かないで………」
小傘を宥めようとするぬえもまた、震え声になっていた。
―――――――数日後、少年の葬儀が命蓮寺で行われた。
読経とすすり泣きが混じり合う不協和音をよそに、ぬえと小傘は参道の端にしゃがんで
○×ゲームをやっていた。
「また負けちゃったよ~! ぬえは強いなぁ~」
「いや、小傘が何も考えてないから負け続けるんでしょうが。」
「…………………あのさぁ………」
「どうしたの? しんみりしちゃってアンタらしくない。」
「あの子……天国で幸せになるといいね! 」
「いやー? もしかしたら地獄かもよ? なんか悪戯ばっかりしてそうな顔だったじゃん。」
「ぬえにだけは言われたくないよー! 」
「アンタも悪戯ばっかしてるじゃん! 」
今日も青空のもとで二人の少女は、元気よくじゃれ合っていた。
勿忘草