肉体の囁き
目蓋越しに眼球に達した光を網膜が感知して視神経に伝達、そして後頭葉を経て松果体に伝わり朝であると認識。優勢だった副交感神経を抑えて、代わりに交感神経を優位にしていく。それに伴って血圧、体温が上昇、覚醒レベルが上がっていく。鼓膜を激しく叩く空気の振動を感知した。それはツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨を経由して蝸牛を震わし聴覚神経を刺激する。その刺激は強い、どうやら、やっと起きたようだ。
じりじりじりじり!
健気に鳴り響く目覚まし時計の音が、私を夢の国から帰還させた。レースのカーテン越しの光の帯が、ささやかなスポットライトのように私を照らしている。寝起きの良さは私の得意なことの一つ。そそくさと布団から出て立ち上がる。壁にかかっている鏡には生真面目そうな三十男がいた。未だ未使用の股間の元気さが、私の若さを物語っている。なんの、この私の琴線に触れる女性が見つかっていないだけのことだ。この私をして惚れさせるような素晴らしい女性だ、そう簡単にいるわけないではないか。私のこの高貴な精神と心通わせるに値する女性なのだから。
男一人の暮らしも慣れたものだ。朝の支度をてきぱきと済ませて出勤する。私は地方公務員。同期が出世していくなか、私だけが取り残されている。公共事業を発注する部署に配属された時、付け届けをしてくる業者にばかり仕事を発注する上司に楯突いたのがいけなかったのか閑職に追いやられたままだ。郷に入りては郷に従え、魚心に水心と言う上司に対して、渇しても盗泉の水は飲まず、巧詐は拙誠にしかずと言って説教したのはさすがにまずかったとは思う。だがしかし、この私には不正義を許すことはできんのだ。
今年こそはいい女性を見つけてという両親からのプレッシャーも、とりあえず言っているだけの挨拶になってしまって久しい。女性と付き合ったことがないわけではない。一度同期の女性と付き合いかけたことはあるのだが、親しくするとつけあがるし放っておけばすぐ怒る、まさしく女と小人は養い難しでうんざりしたものだ。
「おい、たまには憂さ晴らしに呑みに行かんか? 真面目に仕事してるだけじゃつまらん人間になるぞ。キャバクラとか行ってはじけないとな」
唯一この私を誘ってくれる同僚の金子が声をかけてきた。こいつは呑み屋と女が好きな、まったくもって軽薄な男だ。キャバクラで女を物色して、熱を上げては玉砕を繰り返しているともっぱらの噂。己に如かざるものを友とするなかれというし、あんまり友達にはしたくないのだがな。友達か……、昔付き合っていた連中とも疎遠だな。まあ君子の交わりは淡きこと水の如しというからな。とはいえ、孤独すぎるのも寂しい。男やもめ一匹無聊をかこつ夜ばかりではな。
よし、しょうがないな、付き合ってやるか。承諾すると金子は相好を崩した。
「そうこなくちゃ、行きつけのキャバクラにセクシーな新人さんがいんだよ。ナイスバディーだぞ。お前きっと惚れるぞ。俺はここのみゆきちゃん一筋だけどね。とってもセクシーなんだよね」
「おいおい、君は女の事ばっかり考えているのかね。それも女体にばかり興味を持っているようだし。もっと高尚な趣味をもったほうがよいぞ」
つい諫言してしまうのは私の悪い癖かもしれないな。忠告してこれを善導し、不可なれば即ち止むというし、一言ぐらいは言ってもかまわんだろ。女性を見てくれだけで好きになるんじゃ本能むきだしで、獣のようではないか。
「まったくお前は、石部金吉朴念仁だな。それじゃ生きていたってつまらんだろ。まあいいさ、俺と一緒に遊べば朱に交わって赤くなるさ」
君子は和して同ぜず、なってたまるか。男一人で過ごす夜が寂しいだけだ。
さて仕事も終わって金子と二人で夜の街に赴く。道行く人もまばらな薄汚れたネオン街。これから出勤と思しきキャバ嬢が我々を足早に追い越して行く、そのヒールの足音が、どこかアスファルト上を歩く犬の足音を連想させた。見上げれば胡散臭い謳い文句が煌びやかに踊っている。金子はマルボロを燻らせながらにたにたとキャバ嬢を眺めながら歩いていた。彼との付き合いは長い、何故かあまり友人がいない私に彼だけは声をかけてくれるのだ。彼は慣れた足取りで狭い路地に入り、薄暗い店の扉を開けて私を振り返りもせずに入って行った。扉の脇の半ば曇った看板には「クラブ 留々家」と書かれている。胡散臭さを感じながら金子の後を追った。店内は深海を模したような、暗くて青い内装で統一されていた。
「あら、いらっしゃい、今日はお友達も一緒なのね」
ママと思しき虚ろな目をした女性が我々に話しかけてきた。必死の若造りも虚しく、顎のラインに沿って首の皮が弛んでいて、あたかも鰓があるみたいだ。半魚人? そんな印象を抱く。
「おおよ、俺はみゆきちゃん指名。こいつには新人のなゆちゃん付けてね」
金子はママに慣れた口調で話すと、慣れた足取りで奥のボックスシートに体を落とし込んだ。私も引きずられるようにして後に続く。程なくしてぬめっとした肌のママが、二人の女性を伴ってやってきて紹介した。
「はい、こちらなゆちゃんと、みゆきちゃんよ、よろしくね」
こいつが件のなゆちゃんか、私は軽く一瞥するだけのつもりで見てその美しさに目を奪われた。掃き溜めに鶴、可憐な乙女、なんと形容したらいいだろう、頑是ない手弱女が鹿爪らしく立ってこちらを見ていた。どきんと、強く鼓動するのを感じ、その身体を見ていたい誘惑を強く感じた。
視神経を経て後頭葉に入力された視覚情報を分析、女性であると認識した。視床下部の指令で注視すべきだと判断。その充分な胸の膨らみから成熟した女性であり、腰のくびれから妊娠していない女性であり、臀部の膨らみから妊娠することに適した女性であると認識した。
視床下部は精巣にテストステロンの分泌を開始するように指令を出た。それに伴って精液の産生も増加。カウパーの分泌も開始。より注視するべくドーパミン等の脳内神経伝達物質も分泌。至上命題である種の保存、その対象として最適であると判断。
理性的な私のはずが、つい、なゆちゃんの肢体を見てしまう。どうすることもできないような誘惑だ。股間がじわっと湿る気配を感じる。思えばこれほどの麗しい女性を目のあたりにするのは初めてだ。
――煩悩無数誓願断! 辛うじて肢体から目をそらして会話することにした。このままではただのスケベ親父ではないか。豊満な部分を強調する服を着ているのがまずいのだ。これほどの女性、きっと彼氏がいるのではないか?
「なゆちゃんは、彼氏とかいるのかい? きっといるんだろう」
我ながら不躾な問いではある。
「いないわ。いい人がいればいいんだけどね」
なゆちゃんは潤んだ瞳で私を見てそう言った。
「余暇はどんなことをしているんだい?」
「彼氏がいればデートしたいんだけどね、暇してるわよ」
――或いは、私を誘っているのか? そう思わせるのに充分なその態度、ならば或いはこれは運命の出会いではないのか? 誘ってみようか、しかし恥ずかしい、なんの、断じて敢行すれば鬼神もこれを避くだ。
「あのさ、今度の週末にでもさ、会ってお茶でも飲まないか」
震えるその自分の声が、あたかも他人の声であるかのように聞こえた。
「ごめんなさいね、今週末は用事があって」
――ふられた! 厭離穢土欣求浄土、やんぬるかな。いや、諦めるのは尚早に過ぎる。私のこの想いを知れば、必ずや分かりあえるはずだ。その心が千丈の堤の如く頑なであろうとも、我が螻蟻の一穴を以て風穴を開けてくれる。
「あの、お酒いただいてもいいかしら?」
「いいともさ、好きなお酒を好きなだけ飲みなさい」
請われるままにお酒を飲ませ、オードブルを注文し、フルーツを注文し、ボトルをいれて、いつしか光陰矢の如し、閉店時間となった。夥しく散々に散財をした我々は、容赦なく店に吐き出されて夜の街に彷徨することとなった。
「畜生、今日もふられたあ」金子が咆哮する。どうやらみゆきちゃんにあしらわれ続けているらしい。キャバ嬢にとってはいいお客様に過ぎないのに、なんとも間抜けな奴ではないか。一言苦言を呈してやろうと思った刹那、脳内になゆちゃんの肢体がなまめかしく浮かび上がった。同類あい憐れみ、同憂あい助く。今ならその想いが分かるぞ。友よ。
深酒でふらつく足の男二匹が、彷徨して咆哮するのだった。
血中アルコール濃度が上昇、肝臓では直ちにアルコール脱水素分解を開始、アルコールをアセトアルデヒドに分解する。さらにアセトアルデヒドを分解するわけだが、その量が多すぎて一晩ではとても分解しきれない。その毒性によって頭痛は免れない。
夜更かしによって自律神経が乱れ、皮膚粘膜の回復もままならない、消化器の活動も低下。
けたたましい目覚ましの音に叩き起こされた私は、凄まじいまでの頭痛に驚いた。なんでこんなに頭が痛いんだ? そうだ、昨日遅くまで飲んでいたんだ。どうやって帰ってきたか分からないほどに酔ってしまったようだな。鏡を見ると、かさかさの肌のにやけ面が見えた。思い出したぞ。昨夜、運命の女性を見つけたんだ。いつもならスムーズに行われる朝の排便が、まったく出てこないことにも意に介さず私は決心した。
「よし、今日も会いに行こう。私の心が通じるまで毎日だ」
独りで盛り場を歩くのは初めてだ。仕事が終わった私は同僚、特に金子の目を避けるようにして「クラブ 留々家」を目指した。
「あらいらっしゃい。金子君のお友達ね、来てくれてうれしいわ。指名にする?」
淀んだ深海の様な店内と、このぬめっとしたママのコンビネーションに面食らいながらも私は毅然と言う。
「はい、なゆちゃんお願いします」
どきどきしながらボックスシートで待っていると、なゆちゃんはとびっきりの笑顔でやってきた。
「嬉しい、また来てくれたのね」
やっぱりそう、私に気があるに違いない。この笑顔に嘘偽りなどあろうはずもないではないか。
「君に逢いたくてね。ところで君は随分と若く見えるけど、二十歳ぐらいかな?」
「実はまだ十八なんだ、でも内緒にしといてね。クビになっちゃうから」
「なんと未成年か。未成年がなんでこんな水商売をしているのかね?」
「両親が離婚して、それでお金を稼がないといけないのよ。いろいろ借金もあってね、まとまったお金が欲しいの」
「少しぐらいなら援助してあげたいな。君みたいな女性は幸せにならなきゃだめだ」
「え、いいの? じゃあ店が終わったらら外で会いましょ」
――やった! ついに私の思いは通じた。これからデートにデートを重ねて二人の歴史を紡いでいこうぞ。私がなゆちゃんを大事に思う気持ちに嘘偽りはないのだから。
店が終わって深夜二時、二人連れだって歩く。つい、なゆちゃんの豊満な場所を見てしまう私だ。いずれ直接見ることになりそうだと思うと、鼓動は早くなるばかりだ。
「私、酔っちゃったみたい」
不意になゆちゃんがしなだれかかってきた。咄嗟に抱きかかえると、その柔らかい肢体に心が蕩けそうになる。もしかしたら、これは、いわゆる、据え膳ではないのか?
最高の生殖相手を確認、テストステロン分泌、精子増産開始、視床下部が活発に活動して相対的に前頭葉による制御を控える。個体としての最優先事項は、目の前のメスと交尾することである。
「ちょっとそこで休んでいこうか」
煌びやかなネオンに縁取られたラブホテルの、薄暗い入口を目指して歩き出す。こんな卑猥な場所、来たこともなかった。正面からは見えにくい入口に立つと、おもむろに自動ドアが開いた。戸は開いた、後は脱兎の如く疾走あるのみ。ここまできたらもはや進むほかない。なゆちゃんの手を引いて踏み込む。
「ようこそ!」
薄っぺらい電子音声が聞こえた。どうやら自動的に音声が鳴るらしい。その声に驚いてふと素に戻る。私はいったい何をやっているんだ? 謹厳実直品行方正なこの私が、酔った未成年婦女子を連れ込もうとしている。この私を私たらしめている信念を捨ててもいいのか?
前頭葉が余計な事を考え始めているようだ。至上命題は二つ、恒常性の維持と種の保存。目の前のメスと交尾する好機を逃すことなど許されない。視床下部に命じてテストステロン追加増産。ノルアドレナリン、エンドルフィン増量、脳内を多幸感でみたし、理性には大人しくしてもらう。メスの肢体を見て、そして接触することで理性を麻痺させる。
だめだ! やっぱり出よう。私は意を決してなゆちゃんの腕を掴み、ラブホテルを出ようとする。しかし目測を誤り豊満な場所に触れてしまう。触れた瞬間、突き抜けるような喜びが脳髄を貫いた。
「あ、あん」
艶めかしくも蠱惑的な声で、なゆちゃんは喘ぎ声をあげた。その瞬間、私は為すべきことが何であるかを悟った。なゆちゃんの手を引いてラブホテル内に突入、部屋を選ぶ。蛍光パネルから任意の部屋を選ぶシステムのようだ。躊躇うことなく最高級の、何やら多彩なオプションのある部屋を選んでエレベーターに乗り込んだ。二人っきりの空間、それだけで何かがはじけ飛びそうになる。エレベーターを出ると、床も壁も綺麗でテーマパークに来たようだ。恥ずかしいほどファンシーに飾られた廊下を歩くと、先刻決めた部屋のランプが点滅して私達を待っていた。夢のようだ、全てが夢のようだ。為すべきことを為す時が来た。運命の出会いをしたこの女性を守って幸せにすることが私の使命なのである。絆を深くする、それは大事な大事なことなのだ。
二人揃ってベッドに倒れこむ時、視界の隅に避妊具が見えた。避妊はせねば……。
エンドルフィン、ノルアドレナリン、ドーパミン追加放出。多幸感によって理性を完全に麻痺させる。生殖へのステップとして、メスに覆いかぶさる動き発動。そして遂に目標を達成。メスの膣内へと精液を放出完了。目標達成に伴い、脳内神経伝達物質及びテストステロンの分泌を減少させる。もはやこのメスに用はない。
目の前に不細工な顔が見えた。誰だこいつは? 私は何をやっていたんだ? 視線をゆっくりと下方に向けた私は愕然とした。
――やってしまった。覆水盆に返らず。なんてこった。肉付きだけは立派だが、醜女としかいいようのない未成年女子とやってしまうとは。今まで顔をまともに見てすらいなかったのか私は。頭の中に冷たい嵐が吹き荒れはじめた気がする。気が滅入ってきた。こんな醜女と一生付き合っていくのか? それとも、やるだけやって逃げるのか? ばかな、そんな信義に反する鬼畜な行為が許されるはずがない。妊娠してしまったらどうする?
「ねえ、いくら援助してくれるの?」
耳障りな声が私を正気に戻した。そうだった。私は援助すると言っていたんだ。わなわなと震える手で財布を掴み、ありったけの万札を出して手渡す。
「ありがとう。またよろしくね」
なゆちゃんは慣れた手つきでお札の枚数を数えると、そそくさと財布にしまった。そして茫然としている私を尻目にシャワーを浴びて服を着た。
「あ、私ちゃんとピル飲んでるから生でも平気なんだ。じゃ、先に帰るね、ばいばい」
なゆちゃんは平然と言い放ち、さっさと部屋を出て行った。
――これって、もしかして援助交際ってやつですか? 私はただ単に女を買っただけなのか。そんな、初めてだったのに。心底愛し合った相手に捧げるはずだったのに。
エンドルフィン及びセロトニン分泌停止。
先刻から吹き荒れていた頭の中の冷たい嵐が、愈々勢いを増してきた。厭世感、虚無感が、ねっとりと纏わりついてくる。私は何を信じて生きてきたんだろうか? これからどうやって生きていこう? とにかく早くここを出よう。かろうじて服を着て部屋を出て一階ロビーに行く。さて、会計か。財布を開けると万札がすっかり消失しているのが見えた……しまった! さっきなゆちゃんにお金渡してしまったんだ。泣きっ面に蜂、傷口に塩、万事休す、一敗地に塗れる、もはや私は終わった。どうしよう、ここからどうやって出よう。場末の映画館の受付のような狭い受付の小窓を前にして、私はただ茫然と佇むしかないのだった。
「あ、お客さん、会計はお連れの方が先にすましていきましたよ」
受付のおばちゃんの声が聞こえた。どういう事だ? もしかしてなゆちゃんが払っていってくれたのか。
――助かった、地獄に仏、九死に一生。逃げるようにして私は外に出た。
このことは、私の胸にしまっておこう、早く忘れたい。
数日後、未だ失意から立ち直らぬ私に金子が声を掛けてきた。
「こないだのなゆちゃんはまずかった。ママに聞いたらなゆちゃんって援助交際やってんだってな。お前まさか買っちゃいないだろうな。まあいいか。それよりもさ、またかわいい子見つけたんだよ。ちょっと付き合えよ」
あまりの事に、まともな思考力も無いままに承諾する私。
そしてその夜、またもや肉感的で蠱惑的な女性を目の当たりにした。
目の前に生殖対象として相応しいメスを確認。テストステロン大量分泌、精液増産。ドーパミン、エンドルフィン、ノルアドレナリン放出。至上命題である種の保存を優先すべし。
肉体の囁き