「何か」

僕が失ったものは「何か」だった。

「何か」


 今までの自分の人生で何かを成し遂げたり誰かの役に立ったことがあっただろうか、と考えてみる。どんなに頭をひねってみても何も見当たらない。寧ろ自分の存在は誰かの邪魔になっているとしか思えない。
 電車に乗ってる時、僕の目の前に座っている青年(多分同じくらいの年だと思う)が僕の横に立っているお年寄りに声をかけて席を譲った。僕はそれをただ見ているだけ。青年は僕の横ににこやかに立っていたけれど、そのお年寄りは僕をすごい目で睨みつけていた。
 学校で委員会の仕事をしている時、空き教室で明らかにイジメを受けている子を見つけた。僕は見て見ぬフリをしてその場から逃げ出そうとした。僕の後ろから青年(電車で出会った人とは違う)が助けに入っていた。青年は僕に気づいていなかったけれど、そのいじめられていた子は僕を蔑んだ目で見ていた。後から聞いた話だと、その件以降、二人は交際を始めたらしい。
 手を差し伸べるなんて、僕なんかが恐れ多い。本当は助けようと思っていたんだ。そんな言い訳を喉元にしまい、僕は今日も誰かに憎まれながら生きている。この時実際に思っていたことは、僕じゃなくても誰かがやってくれるさ。僕には関係のないことだ。そんな子どもじみた言い訳だった。
 それでも、もし僕の大切な「何か」が危ない目に遭っていたら、きっと僕は自分の身を投げ打ってでもその「何か」を助けるんだと思う。僕だって一応感情のある人間なんだ。


 一年前、僕の大切な「何か」が死んだ。それは僕にとって本当に大切なもので、なくてはならない存在だった。それが死んだ理由は、他の大切な「何か」を守ったせいだった。僕は大切なものを守るために、大切なものを失ったのだ。
 勿論、そのふたつのものは優劣をつけられないほど僕にとっては必要なもので、本当ならどちらも失いたくなかった。失ってはならないものだった。それでも僕は「何か」を守って、「何か」を失ったのだ。その事実は誰にも変えられない。


 目が覚めたとき、僕は真っ白な空間にいた。誰かの声がする。聞き覚えのある、温かい声。目は開かない、ただ音は聞こえた。体が動かない、でもぬくもりは感じた。その声も、その意味も、理解できた。だからもう、いいと思えた。最後に大切な「何か」を守れたと分かったから、もう十分だと思えた。鼻をすする音が、目を擦る音が、僕の手を握る「何か」のぬくもりが、今の僕には感じられた。電車で睨まれた僕はもういない。学校で蔑まれた僕はもういない。こんな僕にも守ることができた。失ったものは大きかったけれど、それでもとても爽やかな気分だった。


 ピーっという機械音と共に、その呼吸は奪われた。


 僕は死んだ。

「何か」

ありがとうございました。

「何か」

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-15

CC BY-NC-ND
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