田鶴の声聞く

伊那谷を放浪した俳人井上井月の謎に迫ろうとするリタイヤ中年男性の小説執筆の取材旅行の様子。

井月の謎

「田鶴の聲聞く」 
第1章 井月(せいげつ)の謎 <1/4> 1900字

陣馬 龍也 作
           
 50歳でリストラ退職した小松雅史は、明治維新の頃に伊那谷を放浪した俳人井月の小説を書こうと決めて、資料調査のために故郷に帰る。

 「何処やらに鶴(たづ)の聲聞く霞かな」
 この俳句は、放浪の俳人井月が、臨終の床で弟子の霞松に請われて書き記した句だと言われている。
雅史はその俳人のことを調べるために、春の彼岸に、久しぶりに伊那の実家に帰ることにして、埼玉の自宅を後にした。

右の車窓越しに氷の解けた諏訪湖の薄蒼い水面を一瞥してから、天竜川の流れに沿って中央高速道路を下ると、伊那谷の山並みが視界を覆う。右側の急勾配の山肌には、まさに芽吹こうとする雑木群の薄赤茶けた淡い色の帯があり、厳しい冬の寒さに耐え抜いた針葉樹の黒ずんだ濃い緑が、まだら模様のように散在している。山裾には、白い山桜の花々が和服の裾模様のように浮かびあがっている。車が辰野パーキングエリアを過ぎた頃から、左遠方に冠雪した赤石山脈の勇壮な山々が広がり、その下に淡い薄墨で描かれたように霞んで浮き上がる伊那山系の連なりが望まれる。手前の河岸段丘には、春耕を終えた水田や野菜畑などの黒褐色の耕作地の広がりがある。木曽山脈の山裾のカーブが続く道路を走っていくと、春風の流れに添って道路脇の樹木の枝先がゆっくりと揺れて、吹流しが僅かに傾いてポールに吊り下がっている。平地が広くなるにしたがって、右手に木曽山脈の白い山並みが迫ってくる。左手に民家の甍の連なりが増えてくると、車の走行音が穏やかになって、伊那・高遠の案内板に出会う。八王子ICから二時間弱。伊那ICで高速道路を降りて、一般道を左に折れて天竜川に向かって坂道を下ると、そこが伊那市の繁華街である。

雅史が中学・高校時代をすごした家は、今でも市の東郊外にあたる美篶地区にあった。そこは高遠城下に続く街道沿いに開けた土地で、昔は多くの旅人がこの道を往来した。戦国時代には、武田の軍勢などが行き来し、江戸時代は高遠藩の侍達や全国の行商人が天竜川岸の村と高遠や諏訪を結ぶために往来した。幕末から明治維新の頃には、水戸天狗党などの佐幕派の侍なども見かけられたという。
ちょうどその頃、この街道によく姿を現した人物の一人に、伊那谷を放浪した俳人井月がいた。美篶地区は、特に彼には縁の深い土地で、太田窪の塩原家には井月の墓があった。そして、部落の小さな丘の上に、塩原家の養子になったときに井月が詠んだとされる、
「落ち栗の座を定めるや窪溜り」
の句碑と、種田山頭火の句碑が並んで建てられていた。
井月の絶筆が刻まれた句碑は、高遠から流れ下った三峰川沿いの六道堤の上にあった。
「何処やらに鶴の聲聞く霞かな」
雅史は、この句に特別な思いを持っていた。全村移住で伊那市に引っ越してきたばかりの頃、学校で悪がきに「みつくち」と揶揄されていじめられた時、泣きながら一人でよくこの堤沿いをさまよった。今では手術によって普通の顔になっているが、不完全口唇裂で生まれたので中学校の頃にはよくからかわれた。そんな時何気なくこの句碑を見て、「鶴の声」が何を意味しているのだろうと疑問に思ったりした。家に帰って、句の意味や井月のことを父親に尋ねてみたが、句の解釈や井月の出自などについてはあいまいな点が多かった。彼にとって鶴といえば、幼い頃に祖母から聞いた『鶴女房』の民話の印象であった。高校生の頃、木下順二の戯曲の『夕鶴』を教科書で読んだ時、民話に対する作者の解釈のユニークさに驚いたが、「鶴の声」については疑問が深まるばかりで、歳月を経た今でも、井月が詠んだ「鶴の声」の意味が自分にとっての謎となって、胸の中に大きく膨らんでいた。  

雅史は伊那市の街に入ると、実家には寄らずに直接市の図書館に向かった。
「すみません、初めて来たのですが、せいげつの、資料はどの辺にありますか。」
「せいげつ…ですか? ああ、井上井月ですね。こちらになります。」
三十歳ぐらいの親切な女性職員の案内に従って、右奥の書架に向かうと、井月の資料は、郷土誌コーナーの一区画を占めていて、雅史の知らない著者の作品も数多く並べられていた。インターネットで下調べをしておいた著者の本を何冊か取り出して、閲覧場所に移動して資料を開いた。伊那市出身の郷土史家が井月について調べた詳しい資料や、郷土の俳句愛好者などが編集した井月の句集の数が多かった。特にM氏やK氏の著作には、井月の足跡を詳しく説明した資料や、俳句の分かりやすい解説が集められていた。
雅史が自分の小説の素材になりそうなところに付箋を付けながら資料を読み進めていると、後ろから高齢の男性のどこかで聞いた覚えのある低いおだやかな声がした。
「井月をお調べということですが、差し支えなければ、何かお手伝いいたしましょうか。」
驚いて振り返ると、そこに見覚えのある白髪の気品のある老人の姿があった。

田鶴の声聞く

井月の謎は4節構成。
この後井月の謎に迫る。

田鶴の声聞く

幕末から明治の初めに伊那谷を放浪した俳人井上井月は謎の多い人物であった。50歳の時にリストラで退職した中年男性が、井月の小説を書くために、謎を追って伊那谷に取材旅行に行く。 そして、恩師と出会い、井月の謎解きがはじまる。

  • 小説
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  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-15

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