水槽の教室

 病院坂と名付けたその坂を、私は毎朝上った―。



 『下校時刻です、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。繰り返します、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。繰り返します、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。繰り返します、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。繰り返します、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。繰り返します、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。繰り返します、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。繰り返します、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。繰り返します、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。繰り返します、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。繰り返します、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。繰り返します、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。繰り返します、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。繰り返します、用の無い生徒は速やかに下校して下さい。』

 手のひら、金魚。
 死んでしまったほうが、魚っぽい。
 ビニール袋に入れた。かさかさ情けない音が、行き場無く教室を漂った。 私みたい。なんだか私みたい。
 オレンジの廊下を抜けて裏庭。栽培委員がしつらえたパンジーの花壇、四散するじょうろと虫の死骸、ちょうど見える、図書室のいちばん大きな窓、円形の。
 鞄から、スコップ。
 裏庭の真ん中、かたい土を私は掘る、掘る、掘る。工業機械みたいに繰り返される同じ動きが、かろうじて私に癒しを与えるが、当然私は微笑んだり息を吐いたりなんかしなかった。よく人にバカにされる、丈の長いスカートが土で汚れる。親に「おばけみたい」と揶揄される長い黒髪が揺れて、視界に。それだけが少しだけ愛おしい。
 金魚の入ったビニール袋を逆さまにして、上下に振る。死んで尚、粘膜室はビニールに張り付いてなかなか落ちてこない。でも、知ってる、何回もやった、そろそろ、ほら。
 ト、と音をたてて、裏庭の真ん中に穿たれた穴、金魚は、落ちた。
 埋めるだけ、あとは埋めるだけ。
 『ねえ、なんか、思ったほうがいい?』
 シャザシャザとスコップで金魚を埋め、私は土一つついていない自分の手を見て、埋葬人としての熟練を思った。
 死んだ金魚を埋めるくらいで私の手は汚れなくなった。

 イヤホン、ニルヴァーナ、永遠を孕んでしまった予感的な音楽。
 耳がちぎれてしまいそうな音量はバリア。バスの中、賑やかな孤独。私の非常識を咎める目線。見える舌打ち。
 長すぎる丈のスカートをひらひら揺らして、病院坂を上る。山に囲まれて出口に海を持つ豊かでなにもない町を見下ろすと、私の感情はいつも、ちょうど、0になる。だから私はいつもこの坂から町を見下ろす。たった数秒でからっぽになれるオレンジの景色。豆電球に照らされた箱庭。どんな季節でもどんな時間でもどんな感情でも例えばそれが0でも1でもマイナス一億でも吹く風は吹く、吹いて吹いて土で汚れたスカートの裾を揺らして、そう、揺らすだけ、何もおきやしないしおきたところでなにもかもが私には関係が無い。無関係という関係のしかたが今の私をつくっている。バカみたい。
 
 「スグ、晩御飯ヨ」
 母は私に夕食を告げる機械。
 二階に上がりドアを開け、「可愛い物というゴミ」に埋め尽くされた部屋の中に潜り込む。
 制服を脱ぐ。
 大嫌いな制服を脱ぐ。
 ベッドに横になる。
 中学生の頃に出来た傷が、今もヒザの真ん中で笑ってる。だから、私はこのヒザを外で出すことは絶対にない。いつかこのヒザの存在を知る人間が私の前に現れるんだろうかと、そういう意味の無い事をいつもいつも私は思う。
 12歳の時に買ってもらったベッドは、もう小さい、小さい。だって、こんなに大きくなると思わなかった。クラスの男子達のほとんどが私よりは大きくならなかった。かわいそうだ。だって、たぶん、大きくなりたいものでしょう?
 私は大きくはなりたくなかった。 それは、変だから。
 電話の子機が鳴る。
 2回だけ鳴らすのは、ご飯の合図。
 インド雑貨屋で70円だったワンピースに身体をほおりこんで、階段を降りた。食卓には、魚が並んでいて、私は、なにより先に、箸でその目玉をとりのぞいた。手術のように慎重に、とてもとても、暴力的な気持ちで。
 
 ―朝。
 美しく盛り付けられたサラダ。
 白い白い無言のテーブル。
 TVが告げるありふれた絶望。
 部屋中にぽっかりと黒い穴が開いている。母の顔にも身体にもぽっかりと黒い穴。
 淡々と言葉を並べ続けるニュースキャスターの顔にも、黒い穴。ぽっかりと。
 今日未明、今日未明、今日未明、今日未明、今日未明、東京駅のトイレで成人男性の物と思われる絶望の種が発見されました。警察は極めてありふれた種であるという事から、事件を無かったものとして処理した模様です。尚、第一発見者である少年は赤い靴を探していたところ、偶然発見したピンク色のウサギを追いかけて東京駅のトイレに入り、そこで発見したそうです。ピンク色のウサギはそのままトイレの排水溝へと潜り込み、どこかへ姿を消してしまったそうです。わたくしと言えばその頃、妻の後頭部めがけてシャボン玉を吹きかけてゲラゲラとゲラゲラとゲラゲラゲラゲラゲラとゲラゲラゲラゲラゲラ泣いておりました。悲しかったのです。悲しかったのです。とてもとても悲しかったのです。こんなに楽しいのに。こんなに楽しい事だらけなのに。天気予報なのです、続いては天気予報なのです。妻が眠る為の薬を他人の結婚式の引き出物の下らないイニシャル入りのグラスに溶かして飲むのです、毎日。続いては天気予報です。爪を赤く塗っては鏡の中の自分の美を確認するのです。とっくに無くしてしまったそういうものを探し当てるのです。続いては天気予報です。ルネマグリットの描いた城の建った石を転がしているのが未来のわたくしであるとお天気キャスターのリック・ベイ・スコット・サササササラル・トーマス氏は語るのです。このニュースが終わった瞬間、そうですよこのニュースが終わった瞬間、どうかわたくしの手を持ち帰って、そのステロイド剤の軟膏をにぎらせて下さい。そして子供にもどって一緒にバイバイと言って笑いましょう。約束です。約束です。守られたことしかない約束です。

 教室、いつも通りの喧騒。
 なんだか、みんな、この世の全てを知ってるみたいな顔してる。
 「シーナ、見て、これ」
 違うクラスの友人、Mが机の上にDVDを一枚置いた。蛍光オレンジに塗った爪が、とても彼女らしいと私は思って、たぶん少し微笑んだ。
 「古本屋で見つけたんだ、シーナが好きだって言ってた映画」
 街の灯。チャップリン。
 いつ私、Mにそんなこと教えたんだろう。
 「500円だったから買っちゃった、これシーナにあげる」そう言って、彼女は私の鼻先にDVDを差し出す。目の前に、小さな花を持ったチャーリーの顔。あんたは、見たの?言うと、Mは笑顔でうなづいた。
 「見た見た!すごく優しいんだね、チャップリンさん」
 私は、笑った。
 「そうだよ、チャップリンさんは優しいんだよ。強いんだよ。純粋なんだよ。可愛くて一生懸命なんだよ」
 チャイムが鳴り、教師が現れて、私は「本当にいいの?」と言って、街の灯を鞄に机の中に滑り込ませた。Mは蛍光オレンジの爪をひらひらさせて
 「それはシーナのものだよ」
 小躍りしながら、自分のクラスへと向かった。なんだか、胸が暖かくて、つらかった。

 昼休み、教室の隅に置かれた水槽に餌を入れる。
 金魚達が大きな口を開けて我先にと水面へ。私はすぐに彼らに背を向けて、学食へと向かう、移入された感情が、さして時を待たずに悲しみに変わることを学習したからだ。何度も、何度も。
 チクワの揚げたやつとポテトを買って、校庭へ。連なる花壇の先で、いつも通りMが私に手を振った。少しだけ茶色い髪の毛が、陽の光に透けてきらきら揺れてる。私はMのそういう軽やかさが好きで、でも自分の真っ黒い重たい髪の毛だって好きだった。私はその人に似合ったぜんぶに愛着を持つんだろう。彼女の蛍光オレンジの爪も、とても気に入った。
 「シーナ、またチクワの揚げたの買ってる」
 そう言うMもまた、いつもと同じに、ウーロン茶と、だらしないレタスのはさまったサンドイッチ。
 「ねえ、あのチャップリンのDVD、どこの古本屋さんで買ったの?」
 「図書館の前の前の前の店だよ」
 「ねえ、私その説明、わかんないわさ」
 言うと彼女は、今日連れて行ってあげる、と笑った。
 他愛の無い会話で過ぎていく昼休み。午後の授業が終わり、Mが教室まで迎えに来る。私は水槽に餌を入れ、鞄を抱えて教室を出た。
 バスに揺られて図書館前で降りると、もう町にはオレンジが降り、彼女の爪は空気に溶けた。「ここだよ」と、案内された古本屋は確かに図書館の前の前の前だった。両隣の家に支えられて、かろうじて建っている様なボロボロの古本屋。私だったら、まず入らない。店の前には古い映画のDVDが山のようにワゴンセールされていて、そのほとんどが雨にさらされたであろう、クチャクチャ。
 「この中からね、一番きれいなのさがしたんだよ」
 彼女はワゴンを指差して笑う。
 よく笑う。
 とてもよく笑う。
 面白いことがなくたって楽しいことがなくたって、彼女はよく笑う。
 どうしてなのか、私にはよくわかんない。出会ったときからそうだったから。よくわかんない。
 「シーナ、おすすめさがして!」
 言われるままに、私はワゴンの中をかき回す。
 いくつかのヒッチコック映画と、チャップリンを探し当てて並べると、Mはひとつづつタイトルを読み上げて、一枚を選び取り、胸元に抱いた。
 「コレがいい!」
 彼女が選んだのは、ヒッチコックの白い恐怖という作品だった。
 「どうしてそれがいいの?」
 「白い恐怖ってなんだろーと思って。気になるからコレ!コレ買う」
 そうして、彼女は白い恐怖を、私はレベッカを買って、二人で図書館の前の前の横にあるファミレスへ。あつかましくもタダ券でドリンクバーのみを注文し、六人がけの広いテーブル席を陣取る。
 「どうしてシーナは古い映画をたくさん知ってるの?不思議、すごい」
 彼女はカルピスとメロンソーダと野菜ジュースを混ぜた名前の無いジュースを啜っている。
 「別に知らないよ。ホラー映画はなんでもかんでも見るからだよ。それにチャップリンは特別好きなだけ」
 「チャップリンさんのことなんて、いつ好きになったの?」
 真っ直ぐに私を見る目。
 好奇心が、こぼれそうになってる。
 「中学生の頃にね、真夜中のテレビでやってるの見て、キッドって映画。それで好きになったんだよ」
 すごくよく覚えてる。
 その夜って、なんにもなんにもなんにもない夜だったけど、よく覚えてる。なんにもなんにもなんにもない夜に、急にチャーリーは現れて、キレイな夢とそうじゃない現実と「胸は痛くなる事がある」という事実を私につきつけた。私は泣きも笑いもしないでテレビを見続けた。泣きも笑いもしないでテレビを見ることなんてたくさんあったけど、それらとは明らかに違う感覚が、まだ知らなかった色で胸を一刷け色づけた。
 「私もそのキッドっていうのいつか見よぉ!」
 Mは小さなノートを出して、チャップリンさん、映画、キッド、シーナおすすめ、必見、と書いた。接続詞を欠いたアナグラムみたいな文章は、なんとなく彼女に似合っている様な気がした。

 Mと別れて、バスに揺られ、病院坂を上り、家へ。
 制服を脱いで、DVDプレイヤーに街の灯を入れる。
 言葉の無いモノクロの世界が、ゆったりと進んでいく。似た速度で、窓の向こうのオレンジもゆっくりと黒へと色を変えていく。
 チャーリーが、盲目の花売りに恋をする。
 電話の子機が、二度鳴る。
 遠く、踏み切りの音。
 「ねえ、チャーリー」
 私はなんとなく、つぶやいた。 ヒザの傷を撫でながら。
 「ねえ、チャーリー。 ねえ、チャーリー。」
 
                 
 
 
 
 
 
 



 
 
 

水槽の教室

水槽の教室

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-15

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