幸か不幸か
「私はね、不幸を呼ぶ女なのよ。それでもいいの?」
清水の舞台から飛び降りる覚悟での僕の告白に対して、いつも伏せ目がちなサチコは嬉しさと切なさを漂わせてそう答えた。彼女はいつも控えめで、長身なのを気に病んでかいつも猫背だった。初心貫徹が僕のモットー、それに僕はいつでも前向きなのが売りなんだ。それで損をする事が多いけど、そんな自分が好きなんだ。生まれて初めての告白を翻す事ができるはずもない。
「不幸? そんなの気にするなよ。僕はラッキーボーイだからちょうどいいさ」
「ありがとう、嬉しいな」
そう言ってはにかんで笑うサチコの笑顔に僕はすっかりのぼせあがった。なにしろ初めての彼女だ、誰にだってこんな時期があっていいはずさ。僕はちょっと遅かっただけ。
そして今日はついに初デートの日。期待でわくわくしすぎて寝不足の顔をばしばし叩いて気合いを入れつつ玄関で靴を履く。
ぷちっ
靴の紐が切れた。切れたのがデート中じゃないで助かった。今なら取り換えればいいだけだからね。勝って兜の緒を締めろというし、あれ、関係ないか。
愛車の新型マーチも心なしか嬉しそうに見える。乗り込んでエンジン始動。
ういういういういうい……
何故かエンジンがかかりにくい。「しっかりしろ!」発破をかけると辛うじてエンジンがかかった。僕に慢心するなと警告しているのかな。うむ、うい奴じゃ。
何故か今日はでくわす信号が悉く赤、八個まで数えてもううんざり。きっと信号も僕の慢心を戒めようとしているのだろう。待ち合わせ場所でサチコを拾って、漸くデート開始だ。
「海を見に行こう」
ややうわずった声。自分の声がどこか他人のように聞こえる。落ち着け、自分。
「嬉しいな。私、海見るの好きなんだ」
よかった、喜んでくれたみたいだ。じっくりとサチコを見たい誘惑にかられたけど事故を起こしてはいけないし、今はとにかく運転に集中することにした。
「あれ、前の車、なんて書いてあるんだろうね?」
サチコが前方のワンボックスカーを指さしていう。確かに、何か書いてあるようだ。アクセルを踏み込んで近寄る。見えた。
『放射性同位元素運搬中 近寄るな!』
近寄らないと読めないのに近寄るなとはこれいかに? 激しい狼狽を感じたけどあくまで平静を装って追い抜くことにした。運転手を睨みつけてやろうかと見ると、なんとスキンヘッド、その輝きに目を奪われるや運転手が僕を見てにやっと笑った。その歯茎の異様な赤さが僕の目に飛び込んできた。うわ、被爆しているんじゃ……。
落ち着け、自分。今は楽しいデートの最中だ。隣には愛しいサチコがいるじゃないか。
「あれ、あのアドバルーンにぶら下がった幕、なんて書いてあるんだろうね?」
どれどれ、ちょうど逆光で眩しくて見にくいな。僕は安全の為に停車してアドバルーンを凝視した。頑張る僕の眼球を、太陽光線が容赦なく焼き焦がす。なにくそ、僕のモットーは初心貫徹、行きつくとこまで行くのが僕のやり方なんだ。読めた。
『目の健康週間 紫外線対策は忘れずに』
徒労感がどっと押し寄せてきた。アドバルーンに悪態をつきたくなったけど、今は楽しいデートの最中だ。
「あははは、目の健康週間だってさ。これ読むために目が疲れちゃったよ」
僕は心で泣きながら笑った。
「テル君て明るくて楽しいよね。私、明るい人が好きなんだ」
雨降って地固まるってやつかな。多分違うか。視界の中央に太陽の残像が浮かんで見難いこと夥しい状況の中、僕は高いテンションを維持したまま海までの運転を安全に完遂した。よくやった、自分。
二人寄り添って砂浜を歩く。夢だった、こういうのが夢だったんだ。
「あれ、あのビン、何か入っているみたい」
サチコの指刺さす先には、赤茶けた汚いビンが落ちている。拾って見るとしっかりと封がされていて、中に手紙が入っているようだ。好奇心にかられて封を破って手紙を取り出した。
『航海日誌補足 最初はコックが倒れた。全身の皮膚が赤くただれて高熱を出していた。次にコックを介抱していた船員が倒れた。この時点でなんらかの感染症であると断定し、発病者を隔離することにした。しかし遅すぎたようだ。船の至る所から発病者が出始めた。文献を調べると同様の症状を起こす病気を発見した。この海域にいるサバにはインフルエンザが蔓延することがあり、ごく稀に人間にも感染するという。文献には、空気感染する恐れのあるサバインフルエンザが世界に広まったら人類滅亡の危機とすら書かれていた。既に最初に倒れたコックは昏睡状態である。そういえばサバ料理ばかり食卓に並んでいた。ついに私も発病した。全身が赤くただれて膿汁が出るとともに激しい高熱が続く。意識が混濁してきた。これを読む者に警告する。このビンを解放してはいけない。ウイルスが漏洩してしまう』
その手紙には黄色い染みがたくさんある。これってもしかして……うわああ! 僕は慌てて手紙を海に向かって投げて、海にダッシュして海水で手を洗った。大丈夫、皮膚は感染症から身を守るバリアーのはずだ。幸いにも近くに公衆便所があり、そこの便所用洗剤で思う存分手を洗った僕はやっと落ち着いた。
おかしい、さっきからずっとこんな事ばっかりだ。これがサチコの言う不幸なのだろうか?
「あのね、言っておかないといけない事があるんだ」
神妙な表情でサチコが切り出した。
「これを言ったら嫌われちゃうかも知れないけど」
思いつめたその表情の可憐さに僕は鼓動が高鳴った。
「どうしたんだい? 何か難病でもかかえているのかな、それとも家に借金があるとか。それくらいの事で僕は君を嫌いになんかならないよ」
「それもあるんだ。実は薬害でC型肝炎とエイズなんだ。それと、お父さんが連帯保証人になってて家取られちゃったんだ。でも、でもね、言いたいのはそれじゃないで」
そのいじらしく可憐な姿にぐっときた僕は、つい勢い余ってサチコを抱きしめてしまった。どんな困難があったって、この愛を成就させる。この思いに間違いはないはずだ。
『その女に触れてはならぬ! 我はキンゴ、汝の守護者なり』
唐突に脳内に甲高い叫び声が響いた。唖然とする僕に目の前、つまりサチコの後ろに青白い顔の武将がいた。その武将は半透明で向こう側が透けて見えて、周囲に闇が渦巻いている。恐怖に身がすくんで動けないでいるとサチコの声が聞こえた。
「私ね、守護霊が見えるんだ。それでね、私に触った人も見えるようになるらしいんだ。今まで私に近づいてきた男は皆私に触れたらいなくなっちゃったの。テル君がいなくなったら私嫌だ。私の守護霊のギョウブ様はいつも私に言うの、信用するに足りる相手か見極めるべく試練を与えてやるって」
言うの遅いよ、もう見えてます。僕の目の前にキンゴ様が、あ、これは僕の守護霊か。そのキンゴ様が突然恐怖の表情を浮かべた。
『我はギョウブ、サチコを守護する者なり。おのれキンゴ、ここで会ったが百年目。今こそ関ヶ原の恨み晴らさん。成敗してくれる』
激しい叫び声が脳内に響くとともに、血に塗れた鎧を纏い、薄汚れた覆面を被った武者が現われてキンゴ様に襲いかかった。裂帛の気合を込めたギョウブ様の振るう太刀によって憐れキンゴ様は逃げ惑うばかり。しかしいつまでも逃げきれないようだ。キンゴ様の悲鳴が脳内に響いてきた。
『ぎゃーーーお情けをー』
何が何やら皆目見当もつかない僕の耳にサチコの声が聞こえてきた。
「あのね、ギョウブ様がいうにはギョウブ様を殺した仇敵をついに見つけたから成敗したんだって。長年の恨みをやっと晴らせたんだって」
成敗したって? それって僕の守護霊じゃ……。なんとか事態の把握をしようと努める僕の脳内に雷鳴の如き声が響きわたる。
『其の方、サチコと添い遂げる覚悟あるやなしや? 無ければ即刻この場を立ち去れい! もしサチコを不幸にするようなことあらばこのギョウブが断固許さん、即座に斬って捨てると知れ!』
抱きしめたままのサチコの後ろに、漆黒の闇の渦を纏ったギョウブ様はいた。いつのまにか白刃を僕に突きつけている。怖い、逃げたい、もう嫌だ。そりゃ普通の男は逃げるわな。
だけど、僕は逃げない。逃げない僕を、僕は好きなんだ。
「ある! 僕がサチコを幸せにする! お前なんか怖くないぞ」
僕はサチコを強く抱きしめると、その唇を唇でふさいだ。決死の覚悟のファーストキスだ。
するとギョウブ様が輝きだした。闇は晴れ、鎧は綺麗になり覆面は消え去って端正な顔が見えてきた。
『汝を祝福せん! 我、汝を鍛えるべく七難八苦を与えん。見事乗り越え、万夫不当の勇者となりてサチコを幸せにせよ』
あの、そんな祝福いらないです。
幸か不幸か