ブラックベビー

 定年を迎えて早三ヶ月、今までろくにかまってやることもなく過ごしてきた女房と日がな一日顔を合わせている毎日、一人娘はとっくに巣立っている我が家、これから二人で第二の青春を謳歌するのも悪くない。俺だけだぞ、肥え太ったばばあの尻を触ってやるのはよ。女房もきっと喜ぶに違いない。
 この俺はちょっと太り気味ではあるが元気溌剌、この元気な体でもって家族を守ってきた自負がある。俺の元気さに女房も感謝せなあかんな。今まで俺一人で頑張ってきたんだし、これからは楽をさせてもらおう。

 いつからだろうか? 夫の体臭に嫌悪感を抱くようになったのは。そこいらに脱ぎ散らかしたシャツ、靴下、パンツ……吐き気を催すような汚物にしか見えない。でもそんな事思っちゃだめよね。一家の大黒柱なんだし、我慢しないと。なにかにつけていちいち怒られてもきたけど、それであの人が満足するなら我慢しないとね。
 べたべた触ってくるのも鬱陶しくて嫌、更年期過ぎてから触られると吐き気がするのよね。でも我慢しないと夫婦円満にならないし。
 夫の健康維持のために私は健康管理の勉強だってしたんだからね。ずっと元気でいて欲しいと思って毎日の献立をいろいろ工夫してきたんだからね。それがいい妻ってもんだし。
 でもなんでだろう? 夫が定年になってから苦痛な日々ばかり続いているのは。

 今日の晩飯は俺の好きな鮭か、塩でカチカチになったのが旨いんだよな。期待しながら一口齧った俺はその味気なさに愕然とした。
「おい、なんだこれは! 味がないじゃないか!」
 まったく、何度言えば分かるんだ。こんな味気ないぱさぱさしたもん食わせやがって。鮭ってのは塩辛くてなんぼなんじゃい。それにサラダだかなんだか知らんが、葉っぱばっかり食わせおって。俺はウサギじゃないぞ。今まで我慢してきたが、このばばあは俺に感謝する気持ちがないのか? 未だに俺の好物がわかっとらんのか? 今までは仕事が忙しくていちいち言ってやるのも面倒だから我慢してきたが、もう我慢できん。
 噴き上がるような憤怒が全身に満ち、つい鮭の切り身を掴んで女房に投げつけてしまった。俺が悪いんじゃないぞ、お前が俺を怒らすのが悪いんだ。
「もう寝る」
 俺はベッドにごろんと横になった。一眠りして落ち着くと、ちょっと怒りすぎたかなとも思う。そうだ、ちょっと可愛がってやろう。近頃とんとご無沙汰ではあるが、あっちは今でも現役バリバリいつだって臨戦態勢だ。

 いきなり怒鳴られ、鮭を投げつけられた私は茫然とした。なんで? なんで怒られないといけないの? わからない。だってあなたの為を思って減塩メニュー考えているんだし、サラダ食べないと病気になっちゃうのよ。でも口に出して言う事はできない、だってこの人意見すると怒るんですもの。
 一人きりになった食卓を片づけて、入浴し、家事を済ませてベッドに行く。ベッドに向かう足が重い。一人で寝たい、でも一緒に寝ないとあの人怒るから。
 静かに布団に入ると、いきなりあの人が跳ね起きて私に抱き付いてきた。あの人の汚らわしい臭い口が目の前に迫ってきて汚物のような事を吐いた。
「可愛がってやる。どうだ、嬉しいだろう?」
 その刹那、体が引っ張り上げられるような感覚を覚えた。ふと見下ろす私の足元で、太った女性に覆いかぶさって興奮している獣のような背中が見えた。これって……私と夫? 突然の異常事態なのに、なぜか冷静な私。おもむろに様々な問いが浮かんできた。
――この人、私を愛しているのかしら? 私って、この人愛しているのかしら? 今まですっと我慢してきた私の人生っていったい? 
「愛してなんかいない。 そうさ、お互い愛してなんかいないんだよ。お前はいい女房を演じているだけだ。この男は自己満足と欺瞞の塊さ。お前の人生なんて惨めなものさ」
 心の中の問いに誰かが答えた。その声はおぼろげな私の体内から聞こえてくる。意識を向けた刹那、それは下腹部の穴から這い出してきた。肌浅黒く物憂げな眼で私を見る赤子、それは私になおも言い続ける。
「辛いんだろう? この男が憎いんだろう? 今までずっと虐げられ踏みにじられ蔑まれてきたもんな。だったら仕返しすればいいじゃないか。じわじわと苦しめてやるんだよ」
――仕返し、どうやって?
「簡単なことさ。こいつに好きなもの飲み食いさせればいいんだよ。たちどころにメタボになること請け合いさ。もういい加減、その良妻賢母の仮面を脱ぎ捨てろよ」
 私の中で何かが砕け散った。

 翌日の晩

 ほう、今夜は焼き魚か。いい焼け具合のようだ。箸で無造作に解して口に放り込み、遠慮なく咀嚼する。いい塩加減だ、焼き魚はこうでなきゃいかん。焦げの香ばしさも絶妙だ。女房の奴、俺に惚れ直したに違いない。白菜の漬物も塩辛くて旨いし、イカの塩辛も旨い。ついつい酒がすすんでしまう。
 ほろ酔い気分の俺に、女房も嬉しそうだ。珍しくお酌してくれるではないか、こいつめ、俺といういい亭主に巡り会えて果報者よのう。
 食後にソファに寝転ぶと、傍らにポテトチップが置いてあった。何の気なしに開封して食べ始める。テレビを観ながらいつの間にか大きい袋を空にしてしまった。塩辛い指を舐めながら大あくびをする、眠くなってきたな……。

 何も知らないでにやけているあなた、莫迦ね。魚の焦げは発がん性があるのよ。それだけじゃないわ。魚肉と白菜の亜硝酸が一緒になると、ニトロソアミンて強い発がん性物質ができるのよね。イカの塩辛って有機スズなどの海洋汚染物質が含まれているのよ。塩辛いのが好きなあなた、今日から思う存分食べなさい。高血圧になってしまえばいいわ。ナトリウムを排泄するカリウムを含む食べ物は食べさせないわ。
 さあ、あなたの好きなお酒を好きなだけ飲むがいいわ。脂肪肝になってしまいなさい。お酒と塩、上杉謙信だってこれで早死にしたんだからね。
 食後はそうやってごろごろしていればいいわ。そうそう、うまくポテトチップに食いついたわね。ジャガイモを油で揚げると発がん性物質のアクリルアミドができるのよ。過酸化脂質で動脈硬化だって引き起こすわ。
 あらあら高鼾をかき始めたわね、歯磨きもしないで。ポテトチップは歯に挟まりやすくて虫歯を誘発するのにね。

 翌朝

 やれやれ、この歳になって二日酔いとは我ながら情けない。痛みが治まるまで布団でゴロゴロしていたら、どうやら昼になってしまったようだ、点けっ放しのテレビに昼の顔が見える。リビングにふらふら歩いて行くと、女房は文句も言わずに朝飯を用意してくれた。大量のマーガリンが塗られている焦げた食パンがある。うむ、俺の好物だ。コーヒーを一口飲むと甘い、こいつも俺好みだ。俺は大の甘党、今までは女房に太るから我慢しろと言われていたのだが。
「おい、甘いの飲んじゃっていいのか?」
 その問いに女房は、ダイエット甘味料を使うようにしたから平気だと言う。なかなか気が利くではないか。焦げたベーコンをパンに載せて齧る、旨い。
 食後は表で一服、子供ができた時からの習慣とはいえ、室内で吸えないのはどうにも家長としての威厳を損なっているようで腹立たしいが、これだけは女房が頑として聞かないのだ。もうちょっと優しくなって欲しいものではある。
 さて今日は何をしようかな、とりあえずは今後何をするかとか考えてみるか。

 二日酔いのようね、猛毒アセトアルデヒドで脳細胞が損傷すればいいわ。
 甘党のあなた、当然砂糖は沢山あげるわよ。糖尿病になるために。でもそれだけじゃないの、今朝は人工甘味料アスパルテームを沢山召し上がれ。これって多様な毒性が指摘されているのよ。そしてあなたの飲み物だけ水道水直接使用よ、我が家は古いからきっと水道管は鉛に違いないわ。私の飲み物はちゃんとに浄水器使ってるけどね。
 そして実はその食パン、カビが生えていたのよ。カビは加熱すると死滅するけど、カビが産生した毒は消えないのよ。それよりもマーガリン、これって猛毒なのよね。トランス型脂肪酸が入っていて心臓病を起こすのよね。こんな危険なのよく平気で食べているわね。焦げた肉も発がん性があるし、ベーコンってハムソーセージもそうなんだけど亜硝酸ナトリウムとリン酸塩が入っていて発がん性があるのよね。
 そうそう、食後はそうやってぼんやりしていなさい、ごろ寝もいいわね。下肢の筋力と脳の機能を低下させてしまいなさいな。廃用症候群、今ではロコモティブシンドロームって言うのかしら、そうなってしまえばいいわ。
 タバコ吸っているわね。そうそう、私の居ない所で思う存分その毒を吸いなさい。ニコチン、タール、一酸化炭素、ダイオキシン、数えあげたらきりがないわ。五十種類の発がん性物質で全身の発がん率を上昇させ、活性酸素で循環器を損傷させて脳卒中でも虚血性心疾患でもなればいいわ。コーヒーと併用で毒の吸収率アップよ。
 そんなあなたにオヤツを買って来てあげましょう。ファーストフードのハンバーガーとポテトよ。知ってる? 海外で、この店の商品だけ食べて生活したらどうなるかってドキュメント映画を作りはじめたら、すぐに死にそうになったからドクターストップかかったんですって。私これ食べると肌荒れと口内炎できるのよね。そんな毒物をさあ召し上がれ。
 
 一年後

 近頃どうにも寝ざめが悪い。あそこも元気がないようだが歳のせいなのか? 胴回りも随分と太くなったような気がする。女房が買ってきた大きいジャージを穿いているからきつくて苦しい事はないのだが。
「どっこいしょ……ごほっごほっ」
 立ち上がるのもしんどいし、ちょっと歩くとすぐ息切れがするし脚が痛くなる。それよりも咳が止まらないのが辛い。なにかをやろうと思っていたのだが、何をやるのも億劫になってしまった。

 
 あなた知ってた? あなたのメニューには亜鉛とビタミンB1が欠落していたのを。分かるわけないわよね。亜鉛がないと精力なくなるのよ。私の体にべたべた触ってこなくなったところみるとうまくいったようね。炭水化物の代謝に必要なビタミンB1もないから体力ないでしょ。白米信仰が横行していた旧日本軍は沢山脚気で死んだっていうじゃない。あなたの膝小僧をハンマーで叩いてみたいわね。納豆嫌いなのが悪いんだからね、私は毎日食べてたけど。
 咳が止まらないあなた、COPDのようね。タバコを吸う愚者のなれの果て、いい気味。脚を引きずって歩くのはきっと下肢閉塞性動脈硬化症ね。
 でもそろそろこんな毎日にも飽きてきたのも事実よ。いずれこの人が倒れたって……冗談じゃない、介護なんてしたくないし。
 私はいつものように家事を済ませて布団に入り、そんな事に思い悩んでいた。
「だったらそろそろ終わりにしたら?」
 その声は一年前同様に下腹部から聞こえてきた。何かが這い降りていくのを感じる。それは私の下腹部の穴から這い出し、その虚ろな眼をむけてきた。浅黒い肌の赤子、いったい何者なんだろう?
「僕が何者かって? 決まってんじゃんかよ、抑圧してきたあんたの本心じゃんかよ。わかってたんだろ?」
――終わりって、終わりってなんの事? もしかして……さすがにそんな事はできない、でも。

 翌日の晩

 すっかり冷え込んできたこの季節は、熱い風呂にどぼんと浸かるにかぎる。以前は女房がぬるめにしておいたせいで物足りなかったんだがこの頃はちゃんとに熱くしてある。俺の好みに合わせるのは当然だよな。
 今日もビールを飲んでションベンしてから脱衣所に行き服を脱ぐ。うちの脱衣所は寒いから、いつも景気付けにビール飲んで温まっているわけだ。ぶるぶる震えて浴室に行き、熱い湯船にどぼん。
――極楽、極楽、天にも昇る気持ちじゃ。
 額に汗が吹き出し、熱さに我慢できなくなってから一気に立ち上が……。

 あなた自分が高血圧なの知らないでしょ。医者嫌いで病院行かないものね。あなたが寝てる時、私がこっそり測っていたのよ。着実に血圧上がっているのを見て私ほくそ笑んでいたのよ。
 入浴時って突然死のリスク高いのよね。脱衣所で服を脱ぐと寒くて血圧が急上昇するし、熱いお湯に入るとさらに上昇するのよ。発汗で水分が失われているし、ビールの利尿作用でさらに水分減って血液ドロドロ状態。そんな状態で風呂から立ち上がったら、まず起立性低血圧が起きて倒れるわよ。今までの食事と生活習慣で動脈硬化も進んでいるから血栓ができて脳梗塞や虚血性心疾患だって当然起こりうるしね。
 別に私がやったんじゃないですからね。あなたが自分で好きなようにやっているだけですからね。
 ばたん。 
 風呂場で何か倒れた音がした気がする、きっと気のせいだ。私は何も聞いていないし、何もしていない。

ブラックベビー

ブラックベビー

ホラーです。 自己評価☆☆☆

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-15

Copyrighted
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