愛される

 私は、すべての人に愛されたかった。ただ、それだけだったのだ。

       0
「…別れましょう。」
 彼女の声が、部屋に響いた。冷たい声だった。透き通り、直接頭に響くような、私の大好きな声が発した言葉だった。
「…な、なんで…」
「あなたのことが、もう好きではないからよ。」
 咽喉が押しつぶされる感覚の中、必死に漏らした私の言葉は、何ともあっさりと返されてしまった。私の大好きな声で…。
 彼女は、私が何も言えなくなっている姿を、少し悲しそうな目で見つめる。そして、手元にあったバッグに手をかけた。私は、はっとして彼女が立ち上がる姿を目で追う。何か言わなくては…。彼女を引き留めなくては…。しかし、私の頭には何の言葉も浮かんでは来なかった。私は、口をパクパクと不恰好に動かすだけで、言葉を発することはなかった。
「あ、…」
『キー…パタン』
甲高く、耳障りな音が鳴り、その直後にすべての終わりを思わせる決まりのいい音を残して、彼女の姿は私の目の前から消えてしまった。
「愛してる。」
 私一人が取り残された部屋に、震える声がむなしく響き渡った。

       1
目がちかちかするくらいの電飾や、車のヘッドライトに照らされながら、私は夜の街をとぼとぼと歩く。体がだるい。久しぶりに働いたせいだろうか。今日は、彼女に振られてから四日目。この三日間は、ショックのあまり寝込んでいた。情けなくて、自分を吹っ飛ばしたい思いに駆られた。本当に吹っ飛ばさなくてはならないのは、いまだに引きずっている彼女への思いの方だというのに…。
「はぁ~。」
 ため息が漏れる。部屋で一人寝込んでいた時も、確かため息ばかりついていたっけ…。きっと、部屋の中はため息で埋め尽くされているのだろう。そう思うと、アパートへ帰る足取りが、一層重くなる。
 一瞬、視界の端に奇妙なものが映った。気になった私は足を止め、後ろを振り返る。
『神』
 ビル間の暗がりに、占い屋のようなものがあった。小さな机に真っ黒な布が被さり、歩道から見える部分に『神』と白い文字で書かれている。何かの宗教かもしれない。
 机の向こうには、フードを被った人が腰を掛けている。フードのせいで、男なのか、女なのか、年寄りなのか、若者なのかもわからない。
 あまり見ているものだから、向こうも私に気付いたのだろう。私に向かって手招きをし始めた。すると、さっきまで重くて仕方なかった足が、スッと、まるで吸い寄せられるかのように、フードの人のいる方へ動き出していた。
「へっへっへ、こんばんは。あんた、何か悩みでもあるのかい。聞いてやるから言ってみな。」
 私が近づくと、フードの人は変な笑い声をあげた後、私に尋ねてきた。声からして、どうやら男のようだ。
「悩みなんて、そんなものありませんよ。」
 苦笑いを浮かべながら答える。
「嘘をつけ。そんな顔して、悩みがないわけないだろ。」
「そんな顔って…。ただ、仕事で疲れてるだけですよ。」
 彼の追い討ちに、作り笑いで答える。
「けっ、何が仕事だ。あんたは今、仕事も手につかないくらいに悩んでいるくせに。悪いようにはしないって。素直に言っちゃいなよ。」
 不思議な声だ。太く張りがあり、しかし、どことなく粘り気がある。気が付けば、私はその声に捕まっていた。まるで、蜘蛛の巣に絡まってしまった蝶のように。
「実は、先日…。」
 気づけば、私は悩みを打ち明けていた。こんな見ず知らずの男に。不思議な声の持ち主に。
 よくもまあ、恥ずかしいことをべらべらとしゃべったものだ。私はいつしか声に熱が入り、彼女との思い出話や、彼女のいいところなどを熱弁し、今でも胸につっかえている彼女への思いまでも、目の前の男に話していた。まるで、裾から覗く彼の骨ばった手が、私の咽喉から言葉を引っ張り出しているように、私の言葉は止まらなかった。
「そうか。そりゃあ大変だったな。」
一通り私が話し終えると、彼は全然大変になど思っていない口調で、そう言った。
「で、あんたは、これからどうしたいんだい。どうなりたいんだい。」
 私は、どうしたいのだろう。どうなりたいのだろう。彼女を失い、悲しみにくれ、仕事まで手につかなくなってしまった。いったいこれからどうすればいいのだろうか。
「…私は…」
擦れるような声が漏れる。
「私は、すべての人から愛されたい。もう、誰からも嫌われたくないし、誰も失いたくないです。」
 男の口元が吊り上るのがフードの下から覗いた。
「へっへっへ。その願い、叶えてやろうか。」
「えっ…。」
「だから、あんたの願いを叶えてやろうかって言ってんだよ。」
 そう言い、男は初めて顔を上げた。四十後半くらいだろうか。痩せた頬、肌には苔が生えており、顎には無精ひげが生えていた。そして、だらしなくゆるんだ口元と闇夜の中だというのに、ぎらぎらと輝きを放つ目が、私の目を奪った。
「俺の知り合いに、なんて言ったかな…。ほら、あの相談に乗ったりする。か、か~、カーリング?」
「カウンセリングのことですか。」
「そう、それだ。カウンセリング。そんな感じのをやっている知り合いがいるんだ。そこに行けば、あんたの願いはきっと叶えてもらえるだろうよ。騙されたと思って、いっぺん行ってみるといい。」
 彼は、どこから出したのか、そのカウンセリングをやっているというところの場所が書かれた地図を私に寄越した。気乗りはしなかった。どう考えても怪しすぎた。けれど、気づけば、私はそれを受け取っていた。私は、少し気味が悪くなり、「気が向いたら」、とだけ言ってその場を立ち去った。
 少し離れてから、後ろを振り返る。依然として、暗がりには男が腰かけていた。男の周りは闇に包まれていて、そのうえ私との距離は少しあった。しかし、彼の口元が不敵に吊り上っているのが、私の目にははっきりと見えた。

       2
 彼女と出会ったのは、会社の会議室であった。去年の春、彼女は私の所属する部署へやってきた。そして、それが運命であるかのように、私は彼女の担当になった。担当といっても、彼女が仕事に慣れるまでのフォローとしての短い期間の事だったが。しかし、私はその短い期間で彼女の虜となった。少し挑発的な目、つややかな黒髪、そして、心地よく響く、透き通った声…。どれもが私の心を鷲掴みにし、私は瞬く間に彼女に惹かれていった。担当が終わる日、私は思い切って「付き合おう」と言った。何の気なしに、さらりと言うつもりだったが、声が少しうわづっていたような気がする。彼女は、私の言葉を聞くと、少しおどけたように「ふふふっ」と上品に笑って見せ、「うれしいです。」と笑顔を見せてくれた。その時の彼女の顔がまぶしすぎて、私は固まっていることしかできなかった。彼女は、私の間抜け面を見て、少し呆れたように「ふふふっ」とまた笑ってみせる。私は、それを見て、にやにやと腑抜けた顔を隠し切ることはできないのだった。
 彼女との付き合いは、とても楽しかった。幸せだった。たわいもない話をしたり、ちょっとした間に散歩へ出かけたり、ご飯を一緒に食べたり、そんな特別でもなんでもないことが、彼女が隣にいるだけで、とても新鮮で、うれしくて、今までのどんな時よりも輝いていた。初めて彼女とキスをしたときは、胸の鼓動がうるさすぎて、その鼓動の音ばかりが頭に残り、肝心の彼女の唇については全くと言っていいほど覚えていなかった。「中学生かっ」て、自分で突っ込みたくなったよ。
 あの頃の私は、いつまでもあの幸せが続くと思っていた。いつでも彼女が隣にいて、笑顔が絶えない。そんな輝かしい日常が…。けれども、そんな理想は壊れてしまった。あの日、彼女の発した一言で、私の輝かしい日常は壊れてしまった。最後に残ったのは、何とも言えない脱力感と、彼女への未練だった。
 
 あの気味の悪い男と会って、一週間が経とうとしていた。あの日から私は帰り道で、あのビルの間を意識するようになった。しかし、あの日以来彼の姿は見ていない。今思えば、彼は私の作り出した幻覚だったのではないか、という考えが頭の隅をかすり始めていた。しかし、私のコートのポケットには、あの時彼からもらった地図がしわしわになりながらも残っていて、幻覚ではなく現実であったことを物語っていた。
 そんなある日のこと。私は、会社で彼女と鉢合わせした。振られてからは、できる限り会うことを避けていたが、如何せん。同じ会社なのだから、避け続けることは不可能であった。私が、どうしたものかと悩んでいると、彼女は「おはようございます」と、頭を下げ、以前と変わらず澄まして私の横を通り抜けて行った。私は、彼女の背中を目で追うが、彼女の方は気づかず、奥のオフィスへと入っていった。
私は、彼女のことをこんなにも気にしているというのに、彼女は表情一つ変えず、平然と横切って行った。まるで、私との関係など無かったかのように…。
悔しかった。苦しかった。そして何より、悲しかった…。意識しているのが私だけであると気付かされて…。本当に私のことを何とも思っていないと痛感させられて…。その日、私はまた一週間前のように、仕事でミスを連発し、上司にどやされた。
その日の会社終わり。何とも言えない脱力感を抱えて、まっすぐ帰宅する気力もなくなっていた。秋風が強まってきた夜道。指先が冷たくなるのを感じ、ポケットへ無意識に手を入れる。すると、カサコソと紙くずが指に触る。無造作に丸まったそれをポケットから取り出し開いてみると、『カウンセラー』と矢印で示された地図が描かれている。
「これは…」
 これはあの時、気味の悪い占い師からもらった地図だ。確か、知り合いのカウンセラーの紹介状だとか。気づけば、足は地図に示された方向へ向かっていた。
「馬鹿げている。」
 そんなことを吐いている私の目の前には、小さなクリニックのような建物があった。看板には『カウンセラー』と、おかしなことまで書いてある。ふつう、『何とか精神病院』とか『何々精神科』と書くだろうが。そして、なぜ私もこんなところに来ているのだ。ショックのあまり、とうとう頭までおかしくなってしまったのか。まあ、頭がおかしくなったのなら、カウンセラーに相談しないといけないな、などと思って苦笑する。
「もう、どうにでもなれ!」
 私は、見るからに怪しいそこに、半ば投げやりな気分で入っていった。
 中はがらんとしていた。やけに明るくなっている蛍光灯の光に目が少しすくむ。部屋の壁紙は白一色で、蛍光灯のまぶしさがさらに明るく感じられた。部屋には、ソファーと小さなテーブルが置いてあり、ソファーの反対側には誰もいないカウンターが設けられている。
「すみませーん。」
 引き扉を後ろ手に放し、中へ踏み込む。中からの返事はなかった。
「すみませーん。誰かいませ…」
 カウンターに向かって呼びかけていると、女の人がカウンターから顔を出した。
「何かしら。もう終わりなんですけど。」
 乱れた髪をかきながら、彼女は私に尋ねる。
「………。」
 その声があの人のと似ていて、私は押し黙ってしまった。
「ちょっと、あんた聞いてるの。」
 彼女は、不機嫌そうな声を上げ私を睨む。
「あ、ああ、すいません。その、相談があるんだけれど…」
「今日は、終わりだって言ってるだろ。だいたい、こんなところどうやって知ったんだい?あたしが言うのもなんだが、ここはあまり人には知られてないんですよ。」
 男らしいというか、口が汚い女だなあ。私は、彼女の口調におののき一歩下がる。
「わ、私は、駅の近くのビル街で会った占い師に紹介されてここへ来たんですが…。」
「占い師?誰だいそれ?」
「お知り合いだと聞いたんですが…。少し老けたおじさんで、歳は四十後半くらいだと思うんですけど。机に『神』と書かれた布を張って、屋台のようにお店をやってる人なんです。」
 私が、恐る恐る、しかし、丁寧に説明すると、「ああ!」と、向こうも思い出したようだ。
「神様か。なら仕方ない。少し待ってな、今そこ開けるから。」
 そう言って、彼女はカウンターの奥へ消えていった。
 控室の奥へ通じる扉を開けると、先ほどの女の人の他に男性が一人、デスクの前に腰かけていた。
「誰だい、あんた?」
 彼は、私に気付くと不愉快そうな顔をして尋ねてきた。
「私は、いいカウンセラーがいると聞き、相談に来た者なんですが…。」
「いいカウンセラー…?」
彼は、少し首をかしげ、女の方に目配せをする。彼女は、「神様が見つけた人よ」と、彼に説明すると、「ああ、神様の」と、彼も彼女の時のように納得する。
「そう。じゃあ、そこに座るといい。相談とやらを聞いてやろうじゃあないか。」
そう言って、彼は私の足元にあった腰掛を顎で指す。ここに関わる人達は、どうも口調やら態度やらに品が無く、私は頭に血が上るのを感じた。指された椅子に、ドスンと勢いよく腰を掛け、彼らの方へ向き直る。
「それで、相談とは?」
「…はい。それがですね、…」
 私は、占い師に説明した時と同じことを彼らにも話した。
「そうか。それは大変だったな。」
 彼もまた、特に大変に思ってなどいない口ぶりで、返事を返してきた。
「それで、あんたはこれからどうしたいんだい?どうなりたいんだい?」
 隣で立って聞いていた女が、私を見下ろすようにして尋ねる。
「私は、すべての人から愛されたいのです!」
 つい気持ちを乗せすぎて、前のめりになりながら答える。それを男は、鬱陶しそうに手で払う。
「すべての人から愛されたい、ね~。」
 彼らは、私の顔を流し眼で見て口元を吊り上げる。
「いいわよ。叶えてあげましょう。」
「ほ、ホントに!」
「ああ、神様の紹介だしな。」
 男と女は顔を見合わせて笑う。それにしても、さっきから出てくる神様って何の事だろう?何かの業界用語なのだろうか?
「あの、そのさっきから出てくる神様って何の事ですか?」
 私は、遠慮がちに質問する。すると、彼らはまたも顔を見合わせて笑う。
「何って。神様は神様だよ。」
 馬鹿にするような口調で男は言った。しかし、私には理解することができず、首をひねらずにはいられなかった。そんな私を見て、今度は女が口を開く。
「だから、おまえにここを教えて下さったのが神様だよ。」
 私の態度が気に入らなかったのか、彼女の口調は少し強かった。
「私にここを教えてくれたのは、占い師でしたよ。」
「ばーか。その方は神様だよ。ちなみに、俺は悪魔で彼女は魔女だ。覚えとけ。」
 今の発言を聞いて、私は思った。この人たちは危ない、と。そして、何を言っても、無意味だとも感じた。きっと宗教か何かにはまってしまった人たちなのだろう。私は、彼の言葉に「はぁ」とだけ相槌を打ち、この話を終わらせた。
「それで、なんだっけ?あんたの願いは。」
「すべての人から愛されたい、です。」
 二回目だからだろうか。私は、なんだか恥ずかしさに駆られた。
「ああ、そうだったな。愛されたいね。」
 自分を悪魔と名乗る男は、にやにやと顔をゆがめながらつぶやく。
「運がいいな、お前。その願いは、叶えるのが簡単な部類に属する。きっと、叶うことだろう。」
「ほ、本当ですか。いや~それはうれしい限りです。しかし、なぜみんなに愛されたい、という願いが簡単な部類なんですか?人は大抵、色恋や人間関係について悩んでいると思うのですが。」
「ふっ、そんなの決まっているではないか。人間は、簡単に人を愛するからだよ。」
 
 私は、呆気にとられたが、しかし、その裏ではなるほど、と関心していた。
「それで、私はどうすればいいんですか?」
「お前は、どうしたらいいと思う。」
「そんなこと…」
 そんなこと、わかっていたらこんなところまで来ていない。
「…わからないです。」
「まあ、そうだろうな。大体、わかっているのなら相談になど来ないもんな。」
 なら聞くなよ!私は、心の中で激怒する。こちらをおちょくっているとしか考えられない彼らの言動に、私はますます彼らを信用できなくなっていた。
 そんな私を後目に、彼らはけたけたと目尻に涙を浮かべていた。
「まあまあ、そんな顔するなよ。ちゃんと望みは叶えてやるって。」
 なだめるような口調で私にしゃべりかけてくる悪魔の顔が徐々に真剣みを取り戻していく。
「それで、ここからが本題だ。あんた、すべての人、すべての他人に愛されるということがどういうことか理解しているかね。」
 私は、少し考えてから首を横に振る。
「簡単なことだよ。昔からよく言うだろ。人から愛されたければ、まず自分から愛せよってね。つまりは、そういうことだよ。」
「…はっ?」
「いや、だから、人に愛されたければ、自分から人を愛せってことだよ。」
「えっと、もっと具体的に頼みます。」
 理解に苦しむ私を見て、悪魔は深いため息を漏らす。
「いいかい。つまりあんたは、これから全ての人を愛せってことだよ。」
 隣から魔女がぶっきらぼうに言い放つ。
「そ、そんなこと…、私にだって苦手な人や嫌いな人の一人や二人はいます。すべての人を愛するなんて、できるわけが」
「そこで、俺たちの出番ってわけだよ、お前さん。俺たちが、あんたの体をちょちょっと治療すれば、そのうちだんだんと苦手な人も愛することができるようになってくるから。まあ、任せておけって。」
 自慢げに悪魔は言い、顔を不敵にゆがませる。
「おい、あれ持ってきて。」
 悪魔は、魔女に向かって言う。魔女は、悪魔の言葉を聞くと「へーい」と言って奥の部屋へと入って行った。
「いったい何をするんですか。」
「まあ、気にするなって。言ったって、きっと理解できないことだからさ。」
 へらへらと悪魔は私の質問を誤魔化す。すると、奥の部屋から魔女は白い布の手提げ袋を持って戻ってきた。
「はいよ。ちゃっちゃと済ませようぜ。なんだか眠くなってきちまったよ。」
 魔女は、持ってきた手のひらほどの大きさの袋を机に置きながらあくびを漏らす。
「そうだな。俺もこいつを相手にするの疲れてきたところだ。」
 無性に腹が立つ。こいつらは、どこまで私を馬鹿にすれば気が済むのだ!自然と両手の拳に力が入る。しかし、彼らは私の苛立ちなど気にも留めずに椅子から離れ移動しだした。
「おい、あんた。ちょっと付いて来な。」
 魔女が顔だけ私に向けそう指示してきた。私は、苛立ちのせいで重くなった腰をしぶしぶあげ、これまたしぶしぶと彼らに付いていった。
 
「さあ、ここに座って。」
 入っていった部屋は、相変わらず真っ白であるが、先ほどの部屋よりも大きかった。しかし、そこにあるのは一つの椅子だけで他には何もなく、私は少し不気味に感じた。
 私が椅子に腰を掛けるのを見ると、魔女が「じゃあ、倒すね」と言って手に持ったスイッチを押した。すると、体がいきなり後ろへ吸い込まれ、私は情けない叫び声をあげて赤面する結果となった。その後数分間、部屋は下品な笑い声が響いていた。
「それじゃあ始めようか。」
 二人の笑いがやっとのことで収まると、悪魔はそう言って先ほどの袋を開けた。
「えっ、ちょ、ちょっと!」
「大丈夫。少し痛いけど、すぐに感覚がなくなるから。」
 袋の中から出てきたのは、とっても太く、大きい注射器だった。その外見からは、とても少し痛いだけでは済みそうにない。私は、それを手にじりじりと近寄ってくる悪魔に怖気づき、身を翻して逃げ出そうとした。
「はい、動くんじゃないよ。」
 しかし、逃げ出すことはできなかった。魔女が、その見た目からは決してありえないほどの力で私を押さえつけたのだ。
「や、やめろ!そんなものを近づけるな!」
「安心しろ。痛いのは最初だけだから。」
「そうだ。安心して眠りな。」
 そして、夜の街に私の情けない叫び声が響いた。

 背筋に寒気が走る。私は、重たい瞼を手で擦り、薄っすらとそれを開ける。
「…ここは、…」
 目の前には、先ほどまでいたクリニックの部屋ではなく、駅近くの商店街路地が広がっていた。


       3
 あれから一週間が経った。しかし、私の人間関係に特別な変化が起こることはなかった。あの後私は、朝日に背中を焼かれながら駅へ向い、始発の電車で一旦帰宅した。電車に揺られながら、私は昨夜のことを振り返る。すると思い出せることは、あの憎たらしい二人組のにやけ顔だけだった。そう、私は自分に何をされたのか全く分かっていないのだ。電車の中のため、自分の体を確認することはできない。帰ってから確かめることにしよう。
「はっ!」
 そこで気づいた。お金。私は、代金を払っていない。もしかしたらと思い、ポケットを探る。しかし、そこにはちゃんと財布があった。ポケットからそれを引き抜き、中身を確認する。しかし、そこにもやはり何の変化は見当たらず、私は安息の息を漏らす。
 何も取られていない。たちの悪い盗人グループかと一瞬疑ったが、どうやら思い過ごしのようだ。ここ最近で、少し神経質になってしまったようだ。真横からの朝日が、がらんとした車内を照らす。そのぬくもりに私の意識は、再び擦れていった。
 
 結果から言って、外から見た限りでは、私の体には何も変化は見られなかった。いったい、私は何をされたのか。何も取られていなければ、何の傷跡も残っていない。本当に彼らは、治療とやらを施してくれたのだろか?私の頭は、少しの間はてなマークで埋め尽くされていた。
 
仕事間の昼休み。食堂へ向かおうとオフィスを出る。階段を下り一階へ向かう。クリニックへ行ってからの私は、他人に相談したからか、仕事のミスが減っていた。人に話すと楽になる、というのはあながち間違っていないようだ。仕事の調子を取り戻しつつあった私は、気分がよく、軽いステップで階段を下りていた。一階まで降りると、私はそのままの勢いで廊下へと繋がる通路を曲がる。
 すると、そこで突然私の足取りが止まってしまった。彼女だ。曲がった先の廊下に、彼女の姿があった。彼女と目が合う。逃げ出したい。今すぐ体を翻して逃げ出したかった。しかし、そんなことをして、まだ彼女を意識していることがバレるのもまた嫌だった。そんな逃げ腰な考えを巡らせているうちに、彼女の方はみるみるとこちらへ近づいていた。次第に私の鼓動は高まり、体は完璧に硬直してしまった。
 彼女が私の横を通り抜ける。それを私は目で追う。ふわりと彼女のにおいが鼻をくすぐる。ぴんと張った彼女の後姿が角を曲がって消える。わずか十秒ほどの出来事が、妙に長く感じられた。
私は、思い出したかのように再び呼吸をし始める。
まただ。また彼女は、表情一つ変えずに私の横を通り過ぎて行った。手のひらに痛みを感じ、手を覗く。そこには血の滲んだ爪痕が残っていた。これでまた、せっかく取り戻しつつあった調子が崩れてしまうだろう。私は、重くなってしまった足を引きずるように動かし、食堂へと向かった。

仕事が終わり、会社の出入り口である自動ドアをくぐる私の心は、不思議な感覚に囚われていた。今日の、正確には午後からの私は、結局上司に呼ばれることは一度もなかった。一週間ほど前の私なら、あんな出来事の後は耐え切れず、ミスを連発していた。それなのに、今日は一度もミスをせず、むしろ調子が良かった。彼女のあの態度に何も感じなかったわけではない。しかし、前の時とは明らかな違いがあることに私は気付いた。胸だ。前に彼女に傷つけられた時、私の胸は言葉には表せない痛みのようなつっかえを感じていたのを覚えている。それが、今回は感じられなかったのだ。
これが、もしかしたら…。そう思った瞬間、私の足は帰りの駅とは違う方向へと足先を変えていた。

「そろそろだと思っていたよ。」
悪魔はにやけ顔で私を出迎えた。
会社を出て駅へ向かっていた私は、胸の異変に気付いた途端、居ても立ってもいられなくなり、そのまま踵を返して見るからに怪しいあのクリニックへとやってきていた。
「私に何をしたんですか。」
問いかけるというより、睨みつけるように私は悪魔を見つめる。
「言ったって理解できないって言っただろ。そんなことより、どうだ、その胸は。いいもんだろ。痛まなければ、苦しみもしない。どんなに辛いことが起こったって、その胸は何とも反応しない。素晴らしいだろ。」
「あ、ああ…。まったく不思議な感じだ。」
「人間の胸は、傷つきやすい。そして、人間は傷つくのをひどく嫌う傾向がある。だから、俺たちが治療して、その痛みを取っ払ってやったのさ。」
 悪魔は、自慢げに鼻を高くさせて微笑む。その顔は、やけに癇に障るものだったが、正直この胸にはとても助けられたため何とも言えなかった。
「ところで、今日は魔女さんはいないんですか。先ほどから姿が見えないですが。」
「ああ、あいつは最近帰りが遅いんだ。」
「どこかに通ってるんですか?」
「仕事みたいなもんだよ。」
「仕事って、ここで働いてるんじゃないんですか。」
「いや。そういう時もあるが、基本は外でやってるよ。正直、俺には理解できないが、あいつは楽しいらしいんだよ。」
 そう言って、悪魔は面白くなさそうな表情を浮かべ、椅子を体ごと子供のように前後へ揺らす。
 それから私は、悪魔と一言二言言葉を交わしてクリニックを後にした。出るときに悪魔は笑顔で「また来いよ」と手を振って見送ってくれた。
 帰りの駅へと向かう途中、私は、またしても彼女と出会った。会社帰りの彼女はスーパーのレジ袋を片手に下げ、暗くなった夜道を足早に歩いていた。私に気付いた彼女は、頭を一度だけ下げ、あとはそのままのスピードで私の横を通り過ぎて行ってしまった。
 しかし、妙だ。なぜ、彼女がこんなところを通って帰っているのだろう。確か、彼女の住んでいたアパートはもう二駅も離れていたというのに。しかし、私に彼女に声をかける勇気など持っておらず、しぶしぶ駅へと足を向けなおす。胸を治療されたからと言って、自分自身が変わったわけではない。全ての人から愛されるのはいつになることやら、と一人頭を抱えながら、私は電車に揺られ、電気のついていないアパートへと帰った。

 
       4
 あれから二ヶ月が経とうとしていた。空気は一層寒さが増し、マフラーや手袋が手放せない時期がやってきていた。駅の周りは、きらびやかに電飾が飾られ、そこら中から聞き覚えのあるクリスマスソングが耳に入ってくる。
 そう、今日はクリスマス・イヴなのである。一年に一度の聖夜。若いカップルや子供と手を取りながら歩く家族たちを横目に、私は一軒の居酒屋へと入っていく。中では、すでに待っていた会社の同僚や先輩たちが楽しそうに談笑し、盛り上がっていた。
 「よお。遅かったじゃねえか。ったく最近調子がいいからって、仕事やりすぎなんだよ、おまえは。」
「そんなことないですよ。」
 向かいに座っていた先輩の茶々入れに苦笑いで答えながら、私は空いていた角の席に着く。そして、注文を取りに来たウェイトレスにビールを頼む。「すぐお持ちしますね」と、ウェイトレスは笑顔で答え、カウンターの奥へと消えていった。
「この間のあれはやばかったな。」
 隣の同僚が話しかけてくる。
「ああ、あれな。確かにあれはやばかった。」
「ビールの方ー。」
「あ、はい。私です。」
「でさ、…」
 飲み会は、仕事の愚痴や、世間話など他愛もない会話で盛り上がった。話が盛り上がるにつれ、お酒も進み、徐々に酔いが回ってきていた。
「そういえば、今日はs来てないのー。」
 飲み会も終盤にかかろうとしていた時のことだった。私は、sがいないことに気付いた。sは、同期で部署も同じなのだが、我が強く、自己主張の激しい奴で、私はどこか彼を嫌っていた。
「…な、何言ってんだよ。sならそこにいるだろ。ったく、ちょっと飲み過ぎなんじゃないか。」
 少しの沈黙の後、向かいの先輩がおどけた口調で答えた。しかし、辺りを見渡してもsの姿は見つけられなかった。
「えー。どこにいるんですかー。あんまりからかわないで下さいよー、先輩。」
 酔いのせいで間の抜けた口調になってしまった。私は、テーブルわきにあった水を一口口に含み、もう一度辺りを見渡す。すると、皆が困ったような顔つきでざわついていることに気付いた。
「…おい、本当に大丈夫か。sならそこにいるだろ。ほら。」
 先輩は、そう言って私の座っている列の角を指さす。私も先輩の手につられて指差す方を見る。しかし、やはりsの姿などどこにも見当たらなかった。
 何かがおかしい。冗談やおちょくりでないことは、周りのみんなや先輩の口調からわかる。なら、なぜいるはずの人間が私には見えないのだ。背筋に寒気が走る。さっきまでの酔いが嘘のように一瞬で消え、冷静さを取り戻していく。そして、冷静さを取り戻していけば取り戻すほど、私はどうしようもない恐怖に駆られた。
「俺たちが、あんたの体をちょちょっと治療すれば…」
 あいつらがやったのか。
 気付けば私は走っていた。みんなが驚いたような顔をして何も言えなくなっている間に店を飛び出し、私は目的地へと走った。
―何をしたんだ。
―何をされたんだ。
 きらびやかに輝く夜の街を必死になって走る私の頭には、恐怖とともにそんな言葉ばかりが響いていた。

 ガラス製の手動ドアを乱暴に引く。
「おい!どういう…」
 私は、走ってきた勢いのまま、声を荒げてクリニックへ入っていった。しかし、控室には、いつも通り誰もいなかった。
 私は、奥へと続く扉へとずかずかと歩み寄り、勢いよくそれを開ける。
「おい!どういう…」
 どういうことなんだ!そう怒鳴りながら、彼らに説明を求めるつもりだった。しかし、私の怒りは部屋の光景を見た途端、どこかへ飛んで行ってしまった。
―なんでこんなところに彼女がいるんだ。
 そこには、悪魔と楽しげに話をする彼女の姿があった。そういえば、この間一回だけこのあたりで彼女を見たな。でもなんで…
 私の頭は「なんで」という疑問で埋め尽くされた。もう、訳が分からなくなりそうだ。居るはずの人が見えず、居るはずのない人が見えるなんて…
 突然の私の訪問に、彼らも戸惑っているようだ。悪魔が彼女を指さして何か言い、彼女もそれを聞いて驚いた表情を浮かべる。こうして見ていると、二人はなんだか仲がよさそうに見える。前から知り合いだったのだろうか。もしかして、付き合っていたり…
 考えれば考えるほど、私は惨めな気持ちになっていく。しかし、痛みなどは何も感じない。私は、すがるように彼らを見つめる。
「や、やあ。今日はどうしたんだい。」
 先に口を開いたのは、悪魔だった。
「なんで、彼女がここに…」
「え、ええっと…」
 喉が押しつぶされるような感覚の中、必死に悪魔を問い詰める。すると、困ったように悪魔は答えを濁す。しかし、私をもう一度見て、あきらめたようにため息を漏らす。
「おい。教えてやれ。」
 悪魔は、そう言って彼女の方を振り返る。彼女は彼の指示にうなずき、何やらごそごそと妙な動きを始めた。まるで、何か着ているものを脱ぐように体をかがめ、そして彼女は勢いよく起き上がった。私は、彼女の意味不明な行動をただ茫然と見ていた。そして、起き上がった彼女の姿を見て、私は驚く。
「な、なんで、どうして…」
 手品でも見ているようだ。確かにさっきまでそこには彼女がいた。しかし、彼女が起き上がると、そこには彼女ではなくあの魔女の姿が現れた。
「こういうことだよ。」
「こういうことって、彼女は、彼女はどこへ行ったんです。」
「彼女ならここだよ。」
 そう言って、魔女は手に持っていたしわくちゃな何かを私に寄越した。私は、それを恐る恐る手に取り開いてみる。
「っ……」
 言葉が出ないとはこのことだ。私は驚きと恐怖のあまり声が出せなかった。魔女から渡されたものは、彼女だった。正確には、彼女の抜け殻だった。
「う、うわぁ。」
 私は、驚きのあまり、変な叫びとともにそれを投げ捨てる。呼吸が浅くなり、肩で息をし始める。鼓動が早まる。胃液が逆流してくるのを感じ、私は口元を抑える。
「ど、どうしてこんなことに…」
 投げ捨てたそれを横目に、私は弱々しくつぶやく。
「殺したからだよ。」
 背中の方から魔女の声が響く。
「殺したって、…そんな…。だって、昨日だって会社にいたんだ。いつもと変わらない彼女が居たんだ。殺されているわけがない。」
「昨日会社にいたのも私だ。それが事実だ。残念ながらな。」
「う、うそだ…。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だって言ってくれ。」
 私は、現実を受け止めきれず、その場で崩れ落ちる。
「嘘なんかじゃないよ。」
 頭の上に降る言葉に顔を上げる。
「嘘なわけがない。だって、わたしは魔女なんだもの。人間を殺すのなんて、当たり前のことじゃない。」
 そう言って、魔女は口元を吊り上げる。
「…こ、この、人殺しが…」
 私は、震える膝を手で支えながら立ち上がる。上げた顔を魔女に向け、うつろな目で彼女を睨む。
「さあ、今度はあんたの番だよ。大丈夫きっと向こうで彼女が待っていてくれるよ。」
 そう言って、悪魔が私に近づいてくる。
―やばい。このままでは殺される。
 震える足に力を込める。私は、身を翻して走り出す。扉を押し開け、クリニックを飛び出す。
―駅まで。駅まで行けば…
 震える足のせいでうまく走れない。もつれもつれの足。甚だ不格好な走り方で必死に走る。逃げる。周りに人気は全くない。後ろを振り返る。視界にあの二人は見えない。
―逃げ切った…
 そう思い、前を向き直った瞬間だった。私の頭上を通り過ぎる影が二つ、視界の隅をかすめる。
「よお、どこへ行くつもりだ。」
「逃げ切れるとでも思っちゃったのかな。」
 私の上で二人はけたけたと笑う。そして、静かに降りてくる二人。
「は、はね?ほうき?」
 そう、私の後ろからは誰も追っては来なかった。私の上を飛んで追って来たのだ。空から降りた二人はいつもと恰好が違った。悪魔の背には羽が生え、あの特徴的な尻尾まで伸びている。魔女はというと、片手に自分の背丈ほどの竹ぼうきを持ち、頭にはあのとんがり帽子が被られている。
「お前たちは、本物の…」
「何今更なことを。最初からそう言ってるじゃねえか。」
 彼らは、本物だった。本物の悪魔と魔女であった。最初から…
 私は、驚きと恐怖のあまりその場から後ずさる。
「おいおい、どこ行くんだよ。もう逃げないでもらいたいんだが。」
「そうそう。追いかけるのも疲れるし。」
 彼らの言葉で、私の足は止まる。
「そうそう。いい子だ。じゃあ、最後の治療をしようじゃないか。」
「ち、治療!何が治療だ。私の体にいったい何をした。いるはずの奴が見えなくなるなんて聞いてないぞ。」
「そりゃあそうだ。言ってないもの。」
「ふざけるな!」
 私の怒鳴り声が路地に響く。冬の空気が頬を切る。その場に沈黙が広がっていく。
「教えてやるよ。」
「えっ」
 またも先に口を開いたのは悪魔だった。
「さっき聞いてきたじゃないか。いったい何をしたんだって。だから、その問いに答えてやるよって言ってんだよ。」
 悪魔は口早に言い、口元を吊り上げる。
「俺たちがお前にしたこと。それは、最初に言った通りお前の望みを叶えることだ。」
「嘘だ。私は、見えるはずのものが見えなくなるようなめちゃくちゃな体にしてほしいなんて一切望んではいない。」
「いや。俺たちはお前の望みを叶えてきた。俺たちは悪魔と魔女だ。契約は絶対に守る。」
「じゃあ、なんでこんなことになっているんだ。おかしいじゃないか。」
「おかしい?」
 悪魔と魔女は二人して首をかしげる。
「どこがおかしいって。何にもおかしいことなんてあるもんか。お前もほんとは気付いているんだろ。お前の望みは着々と叶えられているって。」
 彼の言っていることがよく分からなかった。自然と眉間に皺ができる。
「望みが叶えられている?そんなことはない。私の人間関係は一切の変化も見られていないのだから。」
 だんだんと語調が弱くなっていく。目線が下がり、足元に留まる。
「おい、お前。」
 悪魔の声に反応して頭を上げる。
「『悪魔の手』って知ってるか。」
 私は、聞き覚えのない言葉にかぶりを振る。
「『悪魔の手』っていうのはだな。所有者の命と引き換えにそいつの真の望みを何でも叶えてやるってものだ。」
「真の望み?」
「そうだ。心の奥深くに眠る真の望みだ。俺たちはそれを叶えてやったのさ。」
 口の中が乾いてパサつく。
「お前は心のどこかでこう思っていたんじゃないか。」
―人間の胸は傷つきやすい。こんなものがあるから私は怖がって人を避けてしまう。こんな傷つきやすい胸なんかいらない。
―人は陰口が好きだ。あの笑い声もあの笑い声も私を馬鹿にしているものに聞こえてしまう。私の悪口ばかり聞こえてしまう耳なんてずっと塞いでしまいたい。
―私は傷つくのも嫌だが、傷つけるのも嫌だ。だから、人を簡単に傷つけてしまう口なんか捨ててしまいたい。
―人の悪いところばかり目についてしまう。犯罪、いじめ、詐欺…見たくもないものばかり映ってしまう目なら、いっそ潰してしまいたい。
 
悪魔の声が頭に響く。どこか遠くで聞いたことのあるようなフレーズが、ぐるぐると頭の中を巡る。
「…だから」
 私の喉から擦れた声が漏れる。
「だから、あたしたちは取ってあげたのさ。あんたが捨てたがっていた胸も耳も口も目も。」
「…そんな…」
私は、膝から崩れ落ちた。地面に両腕を付き、何とか上半身を支える。体が凍り付いたかのように冷たくなっていくのを感じる。
「さあ、最後の治療の時間だ。」
 地面を蹴る音が聞こえた。私は、垂れ下がった首をどうにか持ち上げ前を向く。すると、二人の間からぬっと一人の男が現れた。
「へっへっへ。こんばんは。久しぶりだね。」
 二人の間から出てきたのは、私に二人を紹介したあの薄気味悪い男だった。
「…あなたが、すべて仕組んだのか…」
「へっへっへ。そうとも。なんせ、俺は神だからな。」
 そう言って男は、どこから出したのか、自分の背丈ほどもある大きな鎌を取り出した。
「まあ、神は神でも死神なんだがね。」
そう言って、またあの不気味な笑い声をあげる。
「さあ、最後の治療をしようじゃないか。」
 男は、そう言って私の方へ歩き出す。
「く、来るな!」
 私の叫びなどまるで聞こえていないのか、男の歩みは止まらない。
「ち、ちょっと、ちょっと待ってくれ。」
―私は…
 男は、私の前で立ち止まる。
「待ってくれ。お願いだ。」
 男は、手に持ったその大きな鎌をゆっくりと振り上げる。
「さあ、これで最後だ。これでお前の望みが叶えられる。」
「―私は…」
 ひゅんっ、と風を切る音が響く。見上げると、歯をむき出しにして頬を吊り上げ、これでもかというくらいの笑みを浮かべた死神の顔がそこにはあった。闇夜の中で不気味に輝く二つの目には、真っ二つになった私の姿が映っていた。

―私は、すべての人に愛されたかった。ただ、それだけだったのだ。

 静まり返った夜の街に、不気味な笑い声が響いた。

愛される

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  • 短編
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-15

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