ゆうばり物語 第一部

ゆうばり物語 第一部

人間の英知が石炭と鉄に陽の目を見させた。
だが、欲望が石炭と鉄の町から陽の光を奪った。
しかしそこに生きた人々の哀歓までは奪えない。
その地は、嘗てひたむきな若者たちのエネルギーが燃えたぎる町だったのだ。

 朝夕の冷気が急に肌に泌み、日の暮れがめっきり早くなった谷間の夕張は、落葉の直前を染め抜くつづれ織の鮮やかな朱が、山頂から次第に飯場長屋の近くまで下りてきつつあった。
 さてと立ち上がりかけた正造の目に、二百十日頃の雨風でかなり破れた油障子の外に立つ人影が映った。
「当山友子衆飯場はこちらでごぜえますか」
 よく透る声だが聞きなれた訛りだ。帳場の前にいた当番頭で兄分の男が、目で正造を促した。
「御意にござんす」
 三度の問い掛けが終わるや否や、間髪をいれず正造が受けた。体中に緊張が走る。
 少し浮かしたのであろうか油障子が音もなく開いた。小腰をかがめた男の左足が滑るように敷居を跨いだ。手の荷物は低く提げたままで場数を踏んだ捌きと見えた。
「ごめんなさんせ」
 作法通りの入り方だが目に油断がない。
「おすあんなさんす」
 正造は常時土間の片隅に置いてある洗足の桶をすすめる。手早く足を洗った男の身のこなしに澱みがない。その上ちょくちょく舞いこんでくる流れ者の坑夫と違って、思いの外身なりが小ざっぱりしている。
 この頃では珍しい裁っつけに似た股引きや、ピッタリ身についた腹掛けと半纏も、こまめに水をくぐらせたこなれはともかく汗くささを感じさせない。その上長旅の用心であろうか布緒のわらじが坑夫に珍しい慎重な拵えだ。そう思って見れば洗足の後の身仕舞いにも全くムダがない。
 かなりの者と踏んでチラリと左手指辺りに目を走らせた。
 どんなに熟練していても坑夫の左親指と人差指のまわりは、タガネを叩くセット(重い両頭のハンマー)が外れて傷だらけになるものだ。反対に右手指は左利きでなければ、そのセットを振り回すためかなりの握りだこができてくる。
 男の手にはその両方のたこが盛り上がって見えた。
「当番衆一名お願えいだします」
 間違いなく秋田衆の訛りだ。代わって当番頭の兄分が答える。
「浪人衆、ささ、そこは端近どうぞこちらへ」
「手前は浪人の身分、この座で御免こうむります」
「でもありましょうが、それでは挨拶になりません。どうぞこちらへ」
 間合いを詰めてのやり取りを又二度繰り返し、ようやく平土間から板の間に上がる。
 帳場や飯台の付近にたむろしていた坑夫たちも、そのやり取りに耳をすましている気配がある。見慣れた光景とはいうものの、しばらくはピリッと緊張感の漂う一時でもある。
 わらじ銭目当ての土工やならず者が友子坑夫になりすまし、見よう見まねの仁義を切って交際飯場のタダ飯にありつこうとしてくるのだ。浪人と呼ばれる渡り坑夫を装って登飯(宿泊)してくるのを見破れなかったとすれば、飯場の当番頭は陰で物笑いにされる。そのかわり偽物と見破った時はそいつを半殺しの目に合わせる事もあった。
 徳川初期から伝えられた坑夫の組織友子のつながりは九州を除く全国に及び、それなりの格式としきたりはあったが、その伝承の作法やきまりを守れる人間は段々少なくなっていた。
 一方の肩を落として中腰に構え、膝頭の上で握った両の拳をそのままに早口の仁義が切られる。
「向がいましてあんださんとは今日こう初の対面にござんす。二度の対面、言葉のまちがいひらにご免こうむります。時候がらと申しましては段々の寒さの節と心得ます。その節あんださんの身にとりましては、始終ご壮健にお暮らしのほどお目出とうさんにござんす。早速に上申させでいただきます。手前出生やまと申しましては、秋田県鹿角郡尾去沢鉱山において、明治十一年一月十日皆さんのご尽力を得て、出生させで頂きました若え者でございます。その折の立会衆一々名乗るのが本来ではございますが、手前至って口不調法者でございますから、なにとぞかわせ(省略)にお頼ン申します。まだまだ申し遅れまして手前親分と申しましては、陸中国の産橋田源蔵と申す者でございます。手前こそは羽後国の産、姓は北川名は栄治と申す者、まだ修行中の身の上万端よろしくお引立のほどお願えいだします。今までの稼ぎどころと申しましては、秋田県雄勝郡院内鉱山におきまして永い間稼ぎとうつかまつりましたが、自分都合によりあちらこちらと浪人いだし、今日まで使役のないため、本日当山友子衆飯場を頼って参りました若え者でございます。なにとぞお引立のほどよろしくお頼ン申します」
 節をつけるような独特の抑揚で一気に言い終え全く乱れがない。近頃では珍しく筋目の通った仁義と言えた。従って受ける当番頭も自然と気合が入りしっかりと身構えた。
「浪人衆でございますか。只今入坑中、長屋勝手の者もありますから、一同の挨拶かわせにお願い致します」
 間をおかずに北川と名乗った男は返してきた。
「只今当番頭より一同の挨拶かわせとはありがとさんにござんす。早速ながらそれでは楽座させで頂きます」
 これで膝をくずし銚子一本が出て飯となるのだが、万事絵に描いたような作法通りの仁義と身ごなしであった。
 挨拶通りとすれば鉱山十五年の年季に仕立て上げられた渡り坑夫だが、一見して只者とは思えない。その反面渡世ずれしたこんな坑夫は、ほとんどが一宿一飯の義理を受け、わらじ銭をもらって翌朝旅立ってゆくのが常であった。
 だがその男北川栄治はその夜のうちに世話役(元組長)へ仕事の斡旋を頼んだようだ。
 正造は、自分の出生やまである院内銀山に働いていたと挨拶した北川に、訊ねてみたい事が一杯あった。帳場との打合せが終わるのを待っていると、北川は世話役の案内で彼のほうからやってきた。
「正造。浪人衆がおめえに用事があるんだとよ」
 正造は院内の話や自分の親分高村久平の消息、同じ銀山の坑夫をしている叔父三原政吉の事など、どうやって訊こうかとあれこれ考えていたところだっただけに些か面食らった。
 北川は仁義を切った時とはまるで別人のように穏やかな口調で切り出した。
「あんださんが三原正造さんだかね。実は俺ラ、あんだの親分高村久平さんや、三原政吉っつあんに頼まれだもの持ってきたんだや」
 友子坑夫のしきたりで、交際飯場に義理を求める際は荷物を背負って入る事は許されない。どんな重い物であれ手に提げなければ敷居を跨げない。きっちりとくくられた荷の中を探って一通の手紙を取り出した。
 見覚えのある叔父政吉の筆跡であった。
「いやァ。実は院内にいだって喋ってらから、こっちから訊こうど思ってらどこであったんス」
 聞いてみると北川が院内にいたのは一年余りにすぎないが、その前は阿仁、小坂、萱草と秋田県内の主な鉱山を転々としていたらしい。同じようにあちこちを流れ歩いた正造とは、通ずる話もありそうだ。歳も二つ三つ上と見えたが一つしか違わない。同じ秋田衆というばかりでなく、なぜか惹かれるものを感じた。
 当時秋田の鉱夫(かねほり)は決して評判が良くなかった。
 夕張開坑には多くの人手を要したが中々集まらなくて、当初は幌内同様囚人の手を借りる予定であった。しかし囚徒拝借は内外の批判が高まったために官が二の足を踏んだ事もあって、会社は計画を断念せざると得なかった。代わっての募集坑夫を鉱山の多い東北方面に求めたが、いい人材が余っている筈はない。当然の如く質の良くない連中もかなり入ってきた。他の各地から集められた坑夫との間でも、いろいろ揉め事を起こしたりしていた。
 元は秋田で鉱夫の親分だった石川市太郎の飯場に入るため、渡り坑夫一〇人ほどに混じって三原正造が北海道石狩国夕張(登川)炭山にやってきたのは、ちょうど二年前明治二十四年の事であった。
 北海道炭砿鉄道の幌内、手宮(小樽)間の中間駅岩見沢から、開墾地や原生林の中の刈分け道をたどって東へ約一〇里(四〇キロ)。やっとの思いで着いた山の中に、坑口を囲んで飯場や長屋らしき小屋がポツポツ建っていただけの辺鄙な谷間、それが夕張炭山であった。
 秋田院内銀山に働く叔父を頼って鉱山友子の新大工になったのが一二の歳だ。定法通り三年三月と十日厳しく仕込まれて坑夫に出生(と呼ぶのがしきたり)し、取立式が済んでから礼奉公も含めると前後五、六年を院内ですごした。その後の数年は県内の鉱山を渡り歩く流れ者の坑夫稼業であった。
 友子の作法に従って各鉱山の交際飯場を流れ歩き、飯場の空気からそのやまの景気や現場の様子をいち早く感じ取り、付き合い料のわらじ銭をもらって一晩で退散した鉱山もいくつかあったが、半年一年をすごした鉱山ももちろんあった。
 尾去沢、花岡、阿仁、小坂と渡り歩いているうち、小坂で知り合いになった坑夫に誘われて、遠い北海道へ来る気になったのは全くの偶然でしかない。強いて上げれば、自分を一人前の坑夫に育ててくれた親分の高村久平と、石川市太郎が友子での兄弟分であった事を県内の鉱山巡りに飽きてきた頃に何となく思い出し、ふっとその気になって足を向けたというぐらいの事だった。
 慶応四年(明治元年)秋田県由利郡笹子(じねご)村で農家の三男に生まれた正造は、高等小学校を終える頃までは鉱夫になろうと本気で考えた事などはない。
 旧矢島藩領内の笹子村は、南に山形県の鳥海山を望み東は雄勝郡の山々に接し、秋田県では北秋田郡や鹿角郡に次ぐ有数の鉱産地帯と隣り合っている。
 当時父親の弟政吉も、笹子川の上流松ノ木峠の登り口から間道伝いの近道をとれば、たかだか三里(一二キロ)ほどの院内銀山に働いていた。この辺りではそんな男たちが珍しくはない。仕事を求めてもっと遠くの鉱山や町へ働きに出ている者も少なくなかった。
 時々叔父の所へ仏事や家の行事を知らせる使いをしているうち、いつとはなく銀山に馴染むようになり、気付いてみたら鉱夫になっていたというぐらいの事であった。
 だがキッカケはどうあれイヤイヤながら親の稼業を継いだという訳ではない。どこか身に合うものがあったのか、経験を積むうちに知らずに太くなった腕のおかげで、どこのやまに行ってもなまなかの事では音を上げない男になっていた。
 その正造が何度も尻(けつ)を割って逃げ出そうとしたヤマ、それが夕張炭山であった。
 地中の産物を掘り出せばよしとばかりに、坑口付近の事業施設はそれなりに増えていったが、人々の暮らしの周辺には気持ちを和ませる場所も時間もないにひとしかった。
 飯場は皮も剥かない生木の柱に笹葺きの屋根は致し方ないにしても、壁の仕切りもロクにない平土間に申し訳程度の板敷部屋で、男ばかりの雑居暮らしは只荒々しいだけの毎日であった。当然の事ながら酒の上での喧嘩口論は三日にあけず、飯場内のいさかいが昂じて飛び出したまま帰ってこない坑夫も珍しくはなかった。
 仕事は鉱山(かなやま)と違って、カンテラの灯がかすんで見えるほどもうもうと上がる炭塵を浴びたり吸いこんだり、人相も判別がつかなくなるほど真っ黒になる毎日であった。どんなに慣れても身体にこたえる以上の不安やつらさを感じて不思議ではない。
 それでも追っ掛け突っ掛け人が集まってくるのは、周旋人と飯場主(組長)たちが巧妙で強引な募集を続けていた証拠でもある。又一つには炭砿という産業が、明治に入ってから開発されたばかりの分野であり、職を求める人々を大量に受け入れる所として常に門戸を開放していたからだ。はるばるやってくる者の間には、あるいは大いなる期待に胸ふくらませてきた者もあったに違いない。
 開坑と同時に始められた炭砿鉄道夕張支線の敷設工事が完了して、二十五年暮れからはそれまでうず高く野積みされていた石炭の輸送が始まり、翌二十六年四月から日に一往復の旅客輸送もするようになった。待っていたように人が増え次第に家らしい建物増えていった。
 採炭所のある辺りからシホロカベツ川沿いに南へ下った谷間の東側に、自然にでき上がった一並びの商家のある一帯は、先住者のアイヌがつけたのかサルナイと呼ばれていた。一方採炭所や坑口、飯場長屋のある山間はサルナイからみてかかみの山と呼ばれたが、正式な地名はないらしい。
 何といっても少し前までこの辺一帯はすべて天皇家財産たる御料地であったため、ほとんど人の手が入っていない原生林であった。それを炭砿開発のためにおよそ六三〇万坪(二,一〇〇町歩)を借りて事業を開始した北海道炭砿鉄道会社だった。だがサルナイの辺りに日増しに商家が増えるのを見て、事業に直接関係のないこの一帯はいち早く御料局に返した。管理が間に合わないほど無秩序に次々と家が建てられていったからだ。
 サルナイが賑やかになるのは、かみの山に炭砿施設や長屋がこれからも増えてゆくと睨んだ商人たちの、炭砿の先行きに賭ける勘を含めての投資だったのであろう。
 一方開坑一、二年までの飯場は、飯と汁の外は塩の利いた魚でもつけば御の字で、食う事の楽しみは腹一杯にする以外何もない有様だ。上がり酒の一杯も毎日の事だけに、気分次第で呑みすぎたりすれば、間違いなく割当(かっとう)と呼ばれる月二回の勘定から差っ引かれてしまい、胸算用の手取りがガタ減りになるのは間違いなかった。
 残った僅かな上げ金(手取り現金)をつかんだ独り者坑夫は、一目散にサルナイ目掛けて走る。使い道のまず初めは決まっていて、それ以外の買い物などは一仕事終えてから考えるのが普通だ。
 敵娼(あいかた)の眉目秀麗(みめかたち)や年頃などの注文は、飯場の明け暮れに仲間同士での見栄やハッタリで言ってみるだけだ。金の入る日が決まっている土地だけに早いもの勝ちで、順番が回ってくればよしとばかり、妓夫や遣手を兼ねることさえある強かな主との駆け引きもそこそこに、言い値の先払いで部屋に上がる者さえある。
 薄暗い行灯やカンテラの灯りで確かめられるのは、抱え主に強いられて刷いた安白粉に塗りつぶされた顔と、色ばかり鮮やかな長襦袢ぐらいであったろう。
 ありったけの精力を、飯場長屋より数段上とはいってもまだご大層な料亭造りには程遠い安普請の戸襖揺るがして吐き出し、束の間の快楽と放心の後に見た女の顔でやっと人心地つくといったほどの憂さ晴らしでしかなかったのだ。
 運悪く後くじ引いたドジな坑夫が順番を待つ間の酒に、酌だけの小娘や婆アとの上の空のやり取りの果て、ヤケ半分に飛び込む小博奕の賭場さえも抜け目なく二、三できていた。
 しょっちゅう移動を考えて尻の落ち着かない坑夫には着る物への執着などまるでない。仕事に着る筒袖の胴着、股引、腹掛、半纏の着た切り雀で、洗い替えすら持っていない連中が沢山いる。ボロでも丹前や長着を持っていたら上の上で、いずれその長着は仲間に借り廻される事は必定であった。
 言うならば食えて呑めればそれでよしの暮らしなのだ。従って飯場の組長や帳場に無心の一つも言わない坑夫は、むしろ変人扱いされるというのがこの頃の炭山坑夫であった。
 そんな味気ない暮らしの飯場はねぐらになっても住家にはならず、腰を据える気になれないのは当然だ。大方が独り者の飯場坑夫の中には、呑みすぎ遊びすぎがたたって借金がかさんでくると、身軽なのを幸いに厳しい警戒の目を潜ってドロンしたりする奴も出てくる。
 飯場とは、そんな危ない橋渡りを屁とも思わぬならず者食い詰め者、警察から追われている者すら紛れ込んでいたりする場所でもあった。それを先刻承知と目を光らせていても、その裏をかく悪擦れした連中には、さすがの組長たちも手を焼いた。
 開坑から暫くの間は組長が坑夫を雇い会社と一括契約する形をとっていたため、逃げられても会社には金銭関係の被害はなかったが、坑夫の数が足りなくなるのには頭を悩ました。何とか長屋を増やして移動の少ない所帯持ち坑夫を入れようと図ったが、そう簡単に長屋は建たない。
 東西から山が迫り南北に深い谷間となっている炭砿用地には、家を建てるに適した平地が全くといっていいほどない。たとえ小屋を建てるにしても山腹を階段状に削るか、人馬往来のために急勾配でも道をつける事から始めなければならない。その分だけでも費用は割高になり、生産施設を優先する会社は中々坑夫長屋には手をつけなかった。従って個人名義の土地など一坪もないかみの山だったが、飯場と指定職人の建物だけは特別扱いを認めた。それぞれの名義人が建てる費用費用を自己負担し、直接間接に会社のやるべき事を肩代わりする形をとったからだ。
 一方石炭を掘るための坑口は二十三年からつけられて、北のほうから順に一番坑二番坑と呼んだ。翌年更に二本の斜坑が開坑した。山腹に向かって水平に掘った坑内を何番坑と呼び、いきなり傾斜して入る坑口を掘った順に第一第二斜坑と呼ぶ、安直な名付けかたであった。
 北から南に細長くくねる深い谷間の底を流れる川シホロカベツをはさんで、冷水山へと立ち上がってゆく東側の山腹は切り立つように急であった。向かい合う西側は幾分ゆるやかな斜面になっているとは言え、この夕張は人の住む所としては決して条件のいい地形とは言い難い。
 その西側の山腹には、鳩の巣山から三角山までしわのように幾筋もの沢が走り、どの沢にも春秋には手のしびれるような冷たい水が流れていた。だが沢添いに水源をたどってもいつか深い樹々や下草にまぎれて見失ってしまう。季節によっては水涸れする沢もあったが、さして高くない山の頂きまで密生する樹木のせいもあり、地下に滲みこんだ水がこんこんと湧き出て涸れない所があった。
 そんな沢の裾近く第一斜坑と向かい合う位置に坑内夫専門の石川飯場があり、川を隔てた斜坑の上には松尾の大飯場があり、川に近い坑口付近には奈良、恩村飯場があった。更にこの夕張で一番高い冷水山から流れ出た水を集めて、小さな滝となるプトマチャウンペの沢を隔てた北側の山腹には、大塚、石神といった坑外夫専門の飯場もあって、一、二年前が信じられないような活況を呈していた。

 その頃の坑夫にしてはキレイ好きだった正造は、一目で北川の同じような性癖を見抜いた。
「なんでこのやまさくる気になったのセ?」
「院内もハァ、今年の初めから、イヤ去年あだりからおかしだあんべえになってるのセ。俺ラ、めんどくさくなってしまって、高村のおどさ相談かけだのセ……」
 後々思い出してみても、初対面の北川と正造がこれほど打ち解けて話せたのは、互いの性格からいって実に不思議であった。どう考えても見えない何かに牽き寄せられて生涯の交わりを得たというしかないのだ。それが何であったのか二人とも恐らく答える事はできなかったであろう。
 北川がその夜正造に語った院内を離れるに至った理由とは、彼自身の事情もあってさして詳しい内容ではなかった。だがそれがほんの偶然から発した事とは言え彼の後半生からして見れば、時の流れを先取りした賢明な選択であったというべきかも知れない。
 秋田県では二十五年暮に坑夫税徴収の噂が流れ、県内に数ある鉱山の鉱夫たちは動揺した。院内銀山の鉱夫らもその例に洩れなかった。
 県内有数の鉱山となった院内での銀鉱の発見は慶長十一年(一六〇六)の事である。その後数年せぬうちに銀山に働く者が七,〇〇〇人を数えたとの記述が『院内銀山記』にある。以来二六〇年余り幾度かの興亡を繰り返しながらも明治の今日まで操業が続いている。
 鉱山の経営は明治に入ってすぐ秋田藩営から廃藩置県による県営となり、続いて小野組の稼行を経て明治八年工部省の所轄となった。だが一七年に小野組の支配人から独立した古河市兵衛に払い下げられて、古河院内鉱山となった。
 過去の銀山景気は鉱山内のあちこちにその面影を残していたが、現在の鉱夫たちにとっては過ぎし昔の語り草でしかない。古河の経営に代わって進んだものは勿論あるが、相変わらずの手掘り作業は変わらず、鉱夫の待遇は少しも良くなっていなかった。
それどころか選鉱精錬の技術が上がった分だけ過酷な能率を強いられ、事故や怪我が増えるほどには収入はよくならなかった。
 何でこんな事になるのだと首を傾げた鉱夫がいて、二十五年の六月から実施された『鉱業条例』を読んでみよう、と仲間を集めて『鉱業条例を研究する会』を作った男がいた。
 その男の名は永岡鶴蔵という。
 この『鉱業条例』の中の『鉱夫』という章にはこんな事が書かれていた。
 経営者は労働者の賃金を通貨で支払う事。労働者の病気、負傷に対して救恤規則を作る事。農商務大臣の監督下に、労働者の生命、衛生の保護などの事務を行う鉱山監督署を設ける事。その監督署長には、鉱山に対して危害予防や停止命令を出せる権限を与える事。
 その他の項目についても、古河院内は数々の条例違反をしている事に鉱夫たちは気がついた。永岡を始めとして高田、関川といった主だった連中は『鉱業条例』を目安に、一〇項目にわたる規則改正を含む請願書を会社に出した。鉱夫を抱える飯場主も加わった運動であった。
 総勢五〇〇人余りの参加を得て三日間の同盟罷業に発展した請願運動は実に整然と行われた。
 明治二十六年の事である。
主な項目は、鉱夫の生命と衛生の保護、危害予防と公益保護を訴え何一つ理屈に合わぬ要求はない。すべて国が定めた『鉱夫条例』を基礎にして、その実施を求めただけにすぎない。
 だが鉱夫の集団的な動きを暴動と見た会社は警察の出動を要請した。たちまち巡査が二〇数名も駆けつけた。そればかりか日当三円で雇った剣客を、これ見よがしにやまのあちこちに配置した。
 矢来に似せた木柵を巡らし、背丈の倍もある大木戸をしっかり閉ざした鉱山事務所は、総二階寄棟造りの瀟洒な建物にもかかわらず、目付きの悪い男たちがうろうろする異様な雰囲気に包まれた。
 しかし鉱夫たちは申し合わせ通り、警察や用心棒どものいかなる挑発にも乗らず、手荒な事も目立った反抗もせず指示通りの行動をした。仕事柄気の荒い者も大勢いたため歯ぎしりの出るほど我慢のいる事であった。
 これには手の出しようがなかった会社は、警察の勧告でもあったのか渋々ながら鉱夫請願の七割方を容れることにして、やまの緊張状態を解いた。
 会社側には屈辱的な打撃であったろうが、鉱夫たちにとっては大変な経験であり、大きな自信になったのはいうまでもない。
 但し何もかもうまく事が運んだという訳ではない。
 そんな集団的な鉱夫の行動は、世話になっている古河様への恩義を忘れた不埒な行為だと非難する友子の頭役も少なくなかった。その上同盟罷業の成果は、友子に加入していない村方鉱夫との間にも微妙な確執を生む事になった。
 多分、これを機に鉱夫たちが一枚岩になって団結する事への危惧と懸念から、陰で糸を引く会社側の策謀があったのは間違いない。
 その頃秋田県内にはようやく鉄道が敷かれようとしていた。鉱山、油田の開発も少しずつ盛んになりつつある時で、道路の建設や拡幅も含めて莫大な公費が必要であった。財源として可能な限りの新税が検討された中に『鉱夫税』というのがあったのだ。
 一等 一日の給料四〇銭以上の者は年税金九〇銭、以下、七等 一日の給料一〇銭以上の者は年税三〇銭、に至る七段階の徴税内容である。
 食う事さえやっとの鉱夫らがこぞって反対を唱えたのはいうまでもない。
 二月の同盟罷業で力を得ていた院内の主だった連中は、何度かこの鉱夫税の件で会合した。五月六日になって遂にその撤廃運動に立ち上がる事を申し合わせ代表を選んだ。前回に続いて永岡鶴蔵、高田為五郎、関川栄太の三人が選ばれた。三人は運動の貫徹を誓い、鉱夫社会の改善を誓い、そのために禁酒を誓い合って、県内各鉱山へ鉱夫の結集を呼びかけに散っていった。
 それがやがて『日本鉱山同盟会』という組織になり、平山秋田県知事を始め三六名の県会議員に陳情を繰り返し、鉱夫の窮状を訴える請願運動に発展していった。その半年に及ぶ運動の中ではこれまで恐らく例のなかった議会傍聴を鉱夫たちが行い、議長から制止退場の注意を受けるほど声を上げて、議員たちの発言に烈しい圧力を加えた。
 その結果明治二十六年十二月十九日飽きた県議会は、出席議員二六名中一六名の賛成により『鉱夫税廃止決議案』を可決する事になる。

 九月初め頃には院内を去っていた北川がこの結末を知ったのは大分後の事であった。
 北川は同盟罷業には加わっていなかった。わらじを脱いだ飯場の主がこの運動に反対していたため、渡り鉱夫としての義理もあって流れの外にいた。
 それが影響しない筈はない。陰に陽に向けられる仲間外れは流れ者として覚悟の上だが、仕事へのイヤがらせは少しこたえた。そこに加えて身内の不幸が重なった。生まれは院内から遠く離れた尾去沢とは言え、いつ聞かれたくない話が伝わらないとも限らない。ここが退山時と見切りをつけたが、県内の鉱山はこの度の騒ぎを警戒してどこも入山者の身許を厳しく調べているとの事だった。いっそ陸中(岩手)常陸(茨城)辺りの鉱山へでもと考えている時、ふと小耳にはさんだのが炭山坑夫への誘いであった。少し前までは考えてもみなかった北海道の炭山坑夫募集にかなり気が動いた。
 縁あって槌組を組んでいた高村久平に離山前の挨拶を思って訪ねた。夏頃の事である。
 北川の話を聞いた久平は、しばらく考えていたがこんな事を言った。
「わがった北川よ。おめえはまンだまンだこれがらの若えもんだ。俺ア引き留めねえ。それにおめえは腕も根性もある。どごさまくれ(転げ)だって心配えなかべ。今はいいども、銀山だっていづヨロケるかわがったもんでねえ。人間だっておんなずよ。ヨロケが来てがらではどうにもなんね……」
 ヨロケとは硅肺の事だが、どんなに用心しても硅酸を多量に含む粉塵を吸い込んで、永い間には肺をやられ身体がヨロヨロになり早死にしてしまう。
 江戸時代までのかね掘りに、四〇を越せるものがめったにないと言われたのはそのせいもある。同じように鉱脈を掘りつくして貧鉱になる事も、ヤマがヨロケると鉱夫はいう。
 その他銅鉱山にはタンパと呼ぶ天井から滴ってくる水がある。硫酸を含んだ強酸性の胆ばん水の事だが、除虫罪や吐剤に使われるくらいの毒性がある。これが衣類をボロボロにしたり、肌を真っ赤に荒らしてしまう。
 久平は若い頃に転々とした鉱山を思い出すようにこんな事を言った。
 炭山にはヨロケもタンパもないと聞いている。開坑して間もない北海道の夕張炭山に、小坂鉱山から行った兄弟分の石川が飯場を開いているが、そこには自分の子分の三原正造もいる。行く気があるならば一度そこを訪ねてみたらどうだ。
 腕一本体一つの渡り鉱夫でも、見ず知らずのヤマに登山(友子ではヤマを訪ねる事をいう)するにはそれなりの覚悟がいる。思いつきや気まぐれで行ってひどい目に合うのは決して珍しい事ではない。
 北川は久平に礼を言ってその話に乗る決心をした。
 暫くしてから三原政吉が一通の手紙を持って訪ねてきた。北川も顔ぐらいは知っていたが、久平と親しくしていた事までは知らなかった。
 もし甥の正造に逢えたら渡して欲しいとの事であったが、当てになるかどうか分からない男に託すより、なぜその手紙を郵便にしないのか北川は不思議に思った。

 聞き終わって正造はつらい思いをした。北海道に来て二年半、誰にも便りなど一本も出していない叔父が北川に頼んだのは、宛て先が分からなかったからなのだ。高等小学校まで六年間も学校に通わせてもらって字が書けない訳はない。それどころか無筆者もいた坑夫の間では、一通り読み書きもできる男として重宝がられる存在の正造であった。
 集配はしていないがサルナイには郵便局もあったし、郵便が着けば到着日が掲示されるので出向いて受け取る事もできた。それなのに親にさえ現在の居所を知らせていない不精を、厳しく咎められたような気がした。
 職親として、実の息子以上に自分を可愛がってくれた親分高村久平の、節くれだってたこだらけの指や、普段は小さいのに怒りだす一瞬前から突然まン丸くなる目が、頭の中一杯に広がってきた。
 その久平と長い付き合いで、蔭で何くれとなく心配りをしてくれていた叔父政吉の後ろ姿も、交々浮かんできた。肩から背中にかけてや歩き方までが正造の父親と驚くほど似ている。
 この二人が自分を一人前の鉱夫にしてくれた事を忘れる筈はなかったが、北川の話から更めてもう一度それを思い返さずにはいられなかった。
 政吉の手紙はお世辞にもうまい字とはいえないが、用件だけはしっかり伝えていた。

 お前もたっしゃでくらしていると思い候。
 こちらのことは北川さまからおきき下され候。
 じつはことしのおぼんで笹子にかえり候とき、お前の父より、正造の兄たちもみなみなよめをもらい子をなしたるものもあり、こんどは正造のばんなれど、えぞにいったきり一どのたよりもなく、としんぱいいたしおり候。
 正造のよめについては胸づもりもこれあり候とのはなしなれば、どうかくに元へのたよりをして下されたく候。
 五十をこえて、リョーマチのいたみをこらえでいる母おやのこと、時には思いだして下されたく候。
                          政吉
   正造どの


 いつも背を丸めて働く口数の少ない母親の姿が手紙の上に重なった。
 幾らかずつ指が反り曲がってくるリューマチの母の手が、いつだったか着物の襟をなおしてくれた事があった。その指がひどく熱っぽかったことまでハッキリと思い出した。
 正造はこの時、嫁の話はともかく一度秋田に帰ろうと決心した。珍しく二年半も腰を落ち着けてしまったこの夕張に、近頃かなりイヤ気がさしていた事もある。
 今年の正月、何だか訳の分からない騒動に巻き込まれたのが原因かも知れない。

 第一斜坑近くの奈良飯場の帳場とか若い者一〇人くらいが、去年の暮れのうちに採炭所に乗り込んで、直談判をしたという話は正造も聞いていた。何を談判したのか知らないが、大晦日から年明けにかけて頻繁に人の出入りがあって、隣の恩村はもちろん斜坑の上の大飯場松尾も入った。当然ここの石川も入ったと飯場の名を上げて頻りに騒いでいた。
 このところ採炭所が単価を下げやがって、と組長や帳場が目を吊り上げて喚いたあげく、みんなの手間を下げてしまったので、月に二度の割当のたび坑夫まさかりが飛ぶ大荒れの鬼踊りが続いていた。そんな時の組長の台詞は決まっている。
「俺ラだに言ってもしゃアねえンだ。会社が下げてきたんだからよ」
 飯場の者たちは組長に雇われていて会社とは直接関係ない形になっている。トン当たりの単価が上がろうと下がろうと坑夫にはどうでもいい事なのだ。一車当たりの単価の交渉などは組長と会社がやるべき事で、どんなに細かく説明されてみても、上げ金が多いか少ないか以外には関係がないと思っている。
 正月三ガ日が休日と定められている訳ではないが、せめてその辺りぐらいまでは呑んだり食ったりの浮かれ気分ですごしたい坑夫たちにとって、上げ金が減って懐寂しいのは何より我慢がならない。
 正月ぐらいはパアッといこうといつもの月より気張って稼いだ年末なのに、飯場で買った物品代差し引かれた上げ金を見た若い者は、揃って同じような不満を口にした。
 大体が飯場で食わせる米味噌を始め、置いてある酒煙草から手拭いシャボン足袋わらじ一切が、そこいらの店で買うより五分から二割も高くなっている。ツケで売ってやっているんだから少々の口銭は当たり前との理屈がまかり通っている。だがその上で一人ずつの総稼ぎの五分から七分のピンハネを会社から認められ、組長の中には月収二〇〇円を越す者さえいたのだ。
「もし本当に単価の切下げがあったとしても、オラたちの頭ばっかりハネてねえで、少しは手前らの取り分も泣いてくれたらどうなんだ。それが親方っちゅうもんでねえのか」
 まるで口裏を合わせたかのような憤懣が溢れだし、各飯場の空気は次第に険悪になっていった。
 奈良飯場の帳場は慌ててその矛先を逸らそうとしたらしい。
「採炭所さ行げ。お前えらの単価を下げたのも、米が少ねえのもみんな会社が悪りいのよ。所長に会ってお願えするんだな。したら何とかなるかも知らねえ。ンでも只行ったってダメだ。何なら俺が一筆書いでやる。いいか談判ではねえど。お願えだど……」
 この動きは長屋住まいの所帯持ち坑夫にも伝わった。
 割当のたびにもらう何ほどかの上げ金を待ちかねて使ってしまい、二、三日もすれば一銭の現金もないという坑夫が結構いた。それは働いていさえすれば生活必需品は会社が貸してくれて、翌月の稼ぎで清算すればいいという制度のせいもあるにはあった。
 正月とあっていつもより余計に米を借りたりしていた。だがその米を上げ金の少ない連中は、暮れのうち餅や酒に替えてしまい、正月中食う分さえ不安になっていた者もあったのだ。
「採炭所さ行ぐんだったら、米味噌の貸付けももっと増やしてくれるように話してもらいてえ!」
 狙い通りにみんなの目が会社に向いたと見た帳場は、急いで請願書とやらを書いたという。内容も『賃金の値上げと米味噌の貸与』の二項目にしたそうだ。
 それを持って奈良飯場の誰とかを先頭に、恩村飯場の者も加わって何人かで採炭所に行ったのが暮れの事だったという。だが休み前とあってハッキリした答えは得られなかった。
 明けて正月三日返事を聞きに所長の社宅へ押しかけたら、米味噌の貸与はともかく賃金の事は一存で決められないので、札幌本社に行って相談する。それまで待てとの返事だったそうだ。
 正造が騒ぎに巻き込まれたのはそれからであった。
「さア話は決まった。米味噌を借りたい奴は明日まで申し出ろ。単価だって上がるかも知れねえ」
 交渉に行った連中からどう聞いたのか、鬼の首でも取ったような威勢で触れ回る者があった。その話があっという間に広がった時、誰かがこんな事を言ってみんなを煽った。
「こったな事はみんなでやんねばなんねえのに、坑外飯場だけはかだって(加わって)こねえっちゅうのはどういう訳だ!」
 話の出所が坑内夫専門の飯場からだった事もある。それに賃金の安い坑外夫日頃の暮らし向きからして、稼ぎのいい坑内夫とは違ってつつましいのが普通だ。やたらに借りては返すのが大変、と誘いに対して尻込みしたらしい。誘った連中も無理強いはせずに一旦は引き下がった。
 だがそれは足並みを乱す日和見者のやる事だと騒ぐ者がいて、再び仲間に入れるべく説得に行った。ところが坑内飯場と同じにはできないからと断られ、言い訳代わりの酒が出された。それを呑んだ連中が気勢を上げたため、人の動きに妙なはずみがついてしまった。
 炭鉄が管理し切れずに変換したサルナイ一帯は今も御料地であったが、人が増え商家がどんどん建ってきたので、区画を定めて市街地にする請願手続きがとられている最中であった。だが酒を呑ませる店や坑夫が遊ぶ所は次々と増えていた。とは言え御料地内であるため、遊郭や妓楼が正式に許可される事はまずない。従って表向きの看板は料亭としながら、酌婦に客をとらせるという店が何軒もあった。その中で一、二を争う店に北海楼があった。
 通称越後常と呼ばれる博徒の親分が経営しているこの店は、楼と名乗るほどご大層な構えではないが、玄関脇にはこれ見よがしの刀剣類を並べた賭場を持っていた。
 道路に面した部屋を賭場にして、堂々と開帳していたとはいかにも人を食った話だが、かみの山とサルナイを合わしてもたった一人の請願巡査では、ほとんど取り締まる事は不可能に近い。
 請願巡査とは費用の一切を頼んだ側が負担する駐在巡査だが、分署さえおけない開拓途次の地域にとられた制度の一つだ。官に経済的余裕がなかったための措置でもあろう。
 振舞酒で気が大きくなった奈良飯場の連中は、北海楼へ繰り込んで行った。坑外飯場から酒の外に幾らかの包み金も出たらしい。そこで何がキッカケだったかは知れないが、先客の土工数人と衝突して大立ち回りとなったあげく、散々に痛めつけられてしまった。飯場に逃げ帰った連中が事の次第をどう説明したのか、聞かされた連中に火がついてしまった。
 所長が本社と相談してどんな返事を持ち帰ってくるか、その次第によって事を運ぼうなどと知恵を働かせる切れ者はいなかった。それどころか正月気分の名残でお祭り騒ぎを面白がる無頼な輩と、ぶすぶすと不満をくすぶらせていた坑夫集団は、雪崩を打って表へ飛び出して行った。
 一隊は話し合いに加わらなかった坑外飯場へと向かい、一隊は色よい返事をくれなかった採炭所へと向かって行った。
 誰が知らせるまでもなくせまい谷間の中で怒号する群衆の声はたちまち響きわたった。斜坑近くの飯場から、その上その隣の飯場、更に西山の移住民長屋からと溢れ出た男どもは自然と集団化し、まず不参加の坑外飯場を襲ってこれをめった打ちに壊してしまった。
 別の一団はステンション近くの採炭所に乱入し、机や椅子を蹴飛ばしたり、止めに入った人間を小突き回すなどした。だが何故かここではそれほど大きな騒ぎにならず、すぐ脇の請願巡査駐在所に向かって行った。立ちはだかった巡査を突き飛ばし、駐在所の器物に八つ当たりして後、二隊は自然に合流して勝ち誇ったようにときの声を上げた。
 一月五日の夜時すぎの事である。
 正造も自然とその流れの中に入ってしまった、というより入らざるを得なかった。飯場の中に残っていては、いきり立った連中に何をされるか分からなかったのだ。
 完全に暴徒集団と化した一団の人数は見当もつかなかった。一〇〇人ぐらいか二、三〇〇人もいたのか、喚き合う声からはもっといるようにも思えた。ヤマ中の男たちが集まったかと思われるほど物凄い熱気になった。
 雪明かりの中、誰が支持したでもなく街へ向かった一団の騒ぎに、慌てて門口の行灯を吹き消した商家もあった。博徒らしい着流しの男たちですらこの集団の狂気を見て、急いで身を隠したほどだ。
 北海楼の玄関先に立った先頭の数名が、怒鳴るような押し問答を応対の男たちと交わした。しかし統制の利かなくなった集団は、話し合いなど待ち切れずに奔流となって襲いかかった。正に手綱の切れた荒馬さながらに猛り狂って奥へ殺到した。
 土工連中は店側が逃がしたのか、騒ぎに気付いて逃げたのか、とうに姿はなかった。
「野郎共は、どこさけづかった(行った)んだ。一人も逃がすなッ!」
「おいッ、あのタコどもバ早くだへでや!」
 抱え女と客が泊まりに入る大引けにはまだまだ早い。酒を呑んでいた客や妓たちが先を争って逃げ出す悲鳴が続いた。物を商う一般の商家と違って、一段と数を増してある行灯やカンテラの灯に浮かぶ派手な模様の衣装や夜具が、雪崩込んだ坑夫たちの目に映った途端何かが弾けてしまったのかも知れない。男たちはあっという間に沸騰してしまった。
 それからの短い時間に何が行われたかは、後でこわごわ現場を覗き見た者の噂ではこうであった。
 北海道開拓以来明治十七年頃まで毎年のように大発生して、移住農民から自殺者を出すほどの被害をもたらした大蝗(おおいなご)の話がある。陽を遮るほどの大群で飛来しては作物を根こそぎ食い尽くす恐ろしい害虫集団の前に、人々は防ぐすべを持たなかったという。襲われたが最後呆然と立ち尽くし、ひたすら通り過ぎるのを待つしかなかった。そのため力尽きた人々の中には、農業を諦めて転々としたあげくやっとこの炭山にたどり着いた者もあった。
 その人々が蝗害を語る無念さは、丹精の作物を残らず食い荒らされる現場に佇む悔しさであったろう。北海楼の襲撃は、絶滅したと伝えられるバッタの襲来を見たようだったという人もあった。
 戯れ歌にも当時流行っていた店を、丸西、一の谷、北海楼と並べて歌われた料亭である。札幌小樽とは比べものにならないとしても、この夕張では繁盛もしそれなりに金もかかった店だ。
長屋飯場ではまず目にする事のない家具調度、什器類から夜具衣装を手当たり次第に壊し引き裂き、建具戸襖はいうに及ばず、柱と屋根を残しただけというほど凄まじい破壊が続いた。
 女と酒と博打に形を変えて、これまで北海楼に吸い取られた金が坑夫の怨みを引き出したとしか言いようがない。たとえ猪口一つ皿一枚でもそのままにしておくものかと、ありったけの鬱憤晴らしをしたのかも知れない。
 土工の逃走に気付いた連中は益々いきり立って、隣の梅川楼にまだ潜んでいるかも知れないと、騒ぎであらましは避難していた無人の料亭を襲った。手には北海楼の賭場から持ち出した長脇差や匕首の類、はてはどこから見つけたのか鳶口まで持っている者もあった。
 訳もなく興奮した集団は休む事なく体を動かして益々その狂暴さを加速した。どこから担ぎ出したのか酒樽の鏡を抜き、通りの四つ角に高々と焚き火の炎を上げ気勢をあおった。暴徒たちは自分が今何をしているのかさえ分からなくなっていたのであろう。意味のない叫び声を発しては駆け回り、そのたびに又何かを壊していった。
 腹がへったと言えば集団は食い物を求めて街を走った。その場で炊けるわけでもないのに俵ごと米を担ぎ出し、寒いと言えば薪代わりのものを探しだし、油をぶっかけたりして火の手を強め、その火勢にあおられるように又一層暴れ回ったりするのだった。
 当然炭鉄の仕事は止まってしまい正に一揆さながらの暴動と化した。去年の夏の一番坑のガス爆発で一八人死んだ時以上の大騒動になり、ヤマ全体が不安に揺れて落ち着かなくなった。
 通報で札幌から警官や検事判事が大挙して駆けつけるまで、二日半にわたって街は荒らされた。商家は一軒残らず店を閉じて息をひそめた。
 だが指導者のいない暴徒集団は呆気なく取り押さえられてしまった。五〇人以上の坑夫が逮捕され、苗穂刑務所に送られたとの事であった。
 理由も分からずただウロウロしていただけの正造は幸いにして逮捕を免れた。しかしいつ捕まるか知れないと内心穏やかでない日がしばらく続いた。
 その後二〇人ばかりが裁判にかけられたとの事であった。坑夫の多くは何故こんな騒ぎになったのか知らず、陰でこっそりと顔見知りの者だけが、騒ぎ回った時のあれこれを声をひそめて話し合うだけであった。
 単価が下げられた事でうまみの減った奈良や恩村の組長や帳場が、若い者をけしかけて会社を脅したのがキッカケだという者がいた。但しそれは正造等のいる石川飯場での話で、外の飯場の連中は石川を主導者の筆頭に上げる者もいたそうだ。だが本当のの事は坑夫たちに何一つ分からない。只、こんな大変な騒ぎになると誰もが予想しなかった事だけは確かのようであった。
 今回の騒ぎに懲りたのか、夏頃になって会社は思い切った改革を打ち出してきた。
 組長制の撤廃である。つまり飯場制度を完全に解体しようという狙いなのだ。
 会社との契約者たる組長が天引きする手数料と、飯場扱いの品物にかけられる口銭で、二重に目減りする賃金への不満が飯場坑夫を走らせ、長屋坑夫がそれに釣られたと会社は判断したようだ。
 もう一つは稼ぎになる現場、つまり掘りやすくて金になる請負現場を獲得するため、小頭や社員の買収を図る組長親方たちの露骨な手段が、目に余るようになってきた事もあったらしい。
 小頭や下級社員の中には坑夫への現場を割り当てる職権を利用して、当然の如くつけ届けを要求する者があった。それを彼らは年貢とか賽銭と呼び、坑夫の側はその裏取引を油を引くと言っていた。
 油を引くためには金や物ばかりではなく、人手不足を補う女坑夫を使う事もあった。女好きの小頭が目をつけた女坑夫がいたりすると、見回りにきた小頭と女坑夫だけを残し、しばらく現場を明けて気を利かすというような事もあったらしい。その女坑夫が誰かの女房であっても、娘であったとしても問題の起こらぬ筈はない。
 その結果かどうか、次の割当て現場の良し悪しが油の引き具合のせいだと考える者が多いらしく、益々やり方が悪どくなっていた。
 会社は、組長制をやめて坑夫全員を会社直轄にし、日用品の購入が口銭なしでできるよう会社直営の販売所を設け、その購買所を炭山各所に作ると発表した。これで二重の搾取はなくなり、問題は一時に解決できると相当な意気込みであった。
 騒動を機にかねてから儲けすぎが批判されていた組長制を、会社は一気に潰しにかかったのである。
 驚いたのは組長や親方たちだ。いきなり息の根が止まる仕打ちに当然猛反対した。飯場の者たちに貸してある現金や物品代その他の下がり(赤字)はどうしてくれる、と会社に詰め寄った。
 目下はその交渉の最中であるらしい。
 だが噂によると会社は組長らの要求を容れて、坑夫の借金を一括立替え払いするから証拠の書類を出せと言ってきたそうだ。それが本当ならば会社は本気で飯場潰しをやる気なのだろうが、結局何の損もしないで済むのは組長たちだけだ。飯場暮らしの坑夫らにとっては、借金の相手が組長から会社に代わっただけだと、却って不安がる者もいた。
 少し後の話になるが、金づるを絶たれそうになった組長の中には、ヤケ糞半分に坑夫への賃金や下がりを水増ししたり、空証文を書いて会社に提出した者もいた。バレたら間違いだったと引っ込めればいいという小ずるいやり口だ。ところが会社は内容の詮議をしたのかしないのか、組長の申立通り値切りもせずに支払ったのだ。それほど組長制の撤廃を急いでいたのかもしれない。
 喜んだのは詐欺まがいの請求をした組長であり、悔しがったのは正直に申告した組長であった。
 但し飯場はすぐ様取り潰す訳にはいかない事情もあり、食費を含む適正な利用料を今まで通り坑夫宿舎として使用する事にした。だがその際に、数ある飯場の中でも良心的と見られた組長は、世話役の名で宿舎や部落内に残したが、今回の騒ぎを操ったと見られた三つの飯場は、規則改正を理由に解散させ組長らに炭砿用地内からの立退きを命じた。
 さてそれからの事だが、一時に莫大な金を手にした組長連中の乱行は後々までの語り草になるほどだった。彼らがバカ遊びに使った金のお蔭で、その頃から区割りにかかった市街地のうち一区から三区に集中していた料亭呑み屋劇場までが、新しく建ったと言われたほどの乱痴気騒ぎが毎夜続いた。
 街の軒先に吊るされた行灯やカンテラの数がそれまでより増え、三味太鼓に囃される妓たちの嬌声が夜遅くまで聞こえ、振って湧いた馬鹿っ景気に浮かれる日が続いたのも事実だ。
 空知炭山の組長連は会社のやり方に腹を立て、共謀してごろつきを雇い一夜相当暴れたらしいが、坑夫がそれに同調しなかったので大した騒ぎにはならなかったとのことだった。
 正造は、自分たちのした事は一体何だったのかと、正月からの出来事を思うことがある。
 誰が何を狙って仕組んだにせよ、もしかしたらこれで俺たちも幾らかは良くなるかもしれないと少しは思った筈だ。それが思いがけない結果に終わり得をしたのは組長連だけで、損をしたのはこっち側だけだったと思わない訳にはいかない。よく考えもせず熱に浮かされてバカな振舞に及んだ罰だったと諦めてはいるものの、自分のした事の意味はどうしても見つからなかった。
 正造の頭では考えても結論の出る事ではなかったが、それだけに胸のどこかにわだかまる思いを引っ掛けたまま秋を迎えていたのだった。

 生まれて初めてといっていい手紙を、父親と叔父政吉に書く気になった。親分の高村久平にも書きたいと思ったが、久平は字が読めないのだ。久平と親しい叔父に伝えてもらうしかない。
 帳場から筆や硯を借りるのが恥ずかしくて、紙も含めて一式買いに行った。北川はそれを見て笑っていたが何も言わなかった。
 何枚も書き損じてようやく正造は二通の手紙を書き上げた。内容はほとんど同じもので、雪が融けたら一度秋田に帰ります。ご無沙汰のお詫びはうまく書けそうもないので、帰ってから直接言います、と味もそっけもない文章で終わった。
 叔父の真似をして候文で書き出したのはいいが何としても態をなさず、おまけに使いつけない筆を持て余し、大して内容のない手紙を書くのに二、三日もかかってしまった。
「読むのは何ンも苦労さねえのに、書くンだバ、なしてこんなにおったつ(疲れる)んだや?」
 散々ぼやいて北川に笑われた。
 何日かかって届いたか知れないが、返事がきたのはそれから一月半もたって、夕張の山々もすっかり根雪に閉ざされて坑夫の出入りも止まり、明治二十七年の正月がすぐそこまで近づいた凍れる日の事であった。
 北海道開発を語る上で欠かせない話は沢山ある。その中でも、本州とは際立った違いを見せるものの一つに気候の厳しさがある。特に本州から渡った人を恐怖に陥れるのは、何といっても半年に近い冬とその間の寒さであろう。
 たとえば明治二十二年一月三十一日、前年に開設した上川測候所から。その朝の気温零下三四度六分と札幌に報告があったが、誰もその数字を本気にせず何かの間違いと思った。だがそれから一三年後の明治三十五年二月二十五日、同じ上川測候所は零下四一度の日本最低気温を記録する事になる。
 それほどの気温となると、手と言わず顔と言わず僅かでも露出した肌で感ずる厳しい寒気は、もはや「たばねた針もて深く突き立てられたる痛みに似て……」と記された報告に間違いはない。
 寒気をしのぐ以外にも火をほとんど一年中絶やす事ができないせいか火事が多かった。山火事を含む火災の被害に泣かされたのは、開拓途中の零細農民ばかりでなく町や炭山でも同じ事だ。消防設備が全くといっていいほどないこの時代、出たが最後で鎮火まで打つ手はほとんどないに等しい。
 その上農民を震え上がらせたのは稲を食う大蝗と、野菜を全滅させる夜盗虫の大量発生であった。
 加えて十六年の旱魃、十七年の冷害、追い討ちをかけるように天然痘やコレラ狂犬病が流行し、年々かなりの死者を出していた。
 そんな中で、いかに明治政府が笛を吹き太鼓を叩いて北海道移民や殖産をあおっても、釣られて踊る人々は中々増えなかった。お上が公方様であれ天子様であれ、誰も信用できないと思うのは下々の勝手だ。
 もし仮に福沢諭吉が提案した如く、領地を天皇に返上した「元領主や華族たちが率先して移住するならばその後に従うであろう」の主張通りに事が運んだとしても、どれほどの成果があったかは分からない。第一その提唱に耳を貸した元藩主元公卿は極めて少なかった。
 心ある人々が北海道開拓にかなりの関心を抱いていたとはいうものの、進んで投資を考えるまでには立ち至っていなかった。何しろ事情のつかめぬ外地といった印象が強く、ひたすら政府のお手並み拝見とばかり、遠巻きにその開発を眺めていたというしかない。
 その政府の施策の一つが屯田兵制度であった。
 当初は幕府崩壊で仕事と俸禄を失った士族を中心に編成し、平時は農業に従事しながらも、有事の際は北辺警備に武器をとる名目で、土地と僅かばかりの恩恵を引き換えに送り込んだ。しかし過酷な開拓農業が不評を呼び希望者は減る一方になった。やむなく条件をゆるめて平民の参加も認めたところ、たちまち士族より多数を占めるようになり定着も増えた。
 それでも明治八年から三十二年までの二四年間に集団移住したのは七,四〇〇戸弱、家族を含めても四〇,〇〇〇人に達せず、しかも離農する者の数は少なくなかった。

 日高山脈の北の外れと北見山地の接する辺りに源を発する石狩川は、日本第二の長流である。その豊富な水量と水勢で運んだ土砂の堆積は、広大な石狩平野を形作った。だが大河長流というものは時として流域住民に容赦なく襲いかかり、何もかもを泥水に呑み込んで絶望の渕に突き落とす事もした。
 明治二年北海道開拓使庁が置かれるようになった札幌は、アイヌ語の原名サトポロが示すように乾いた広い土地であったのと、近くの豊平川が石狩川の支流であったため、日本海からそのまま遡上できる水運の便もあって注目される事になった。
 将来を見越して最初から行政経済文化の中心となるべき官の意図通りに町は造られたが、広漠たる石狩原野開拓の拠点としても次第に人が集まり、見込み通りに発展した町でもあった。
 石狩平野を形に譬えれば、大きな扇子を横に開いたようである。
 その要を札幌とすれば、付け根の石狩湾から東の夕張山地まで東西約一〇〇キロ、北は滝川か深川辺りから、南は千歳苫小牧に至る南北二〇〇キロにも及ぶ北海道最大の平野になる。
 まず豊富な魚介類や海草類の採取加工から手をつけた北海道開拓だが、続いては誰しも広大な土地を拓いて農業をと考えるのが自然であろう。しかし極端に寒冷な気候のため本州と同じ作物や収穫は難しく、開拓は徒労と挫折の繰り返しであった。
 もう一つの開発は、山地に埋もれていた鉱物資源である。北海道は金属資源も少なくはないが、何よりも開発調査を命じた人々を驚喜させたのは、信じられないほどの埋蔵量を示した石炭であった。その量は五、六〇億トンとも推定され、当時はほとんど無尽蔵と報告された。
 日本全国の石炭埋蔵量の半分は北海道にあり、しかもその七割ほどが石狩地方にある事も判った。従って東西二五キロ南北二〇〇キロに及ぶ一帯は石狩炭田と呼ばれるようになったが、いつの間にかほぼ真ん中を東西に走る山群の北側を空知炭田、南側を夕張炭田と呼び分けるようになっていった。
 夕張炭田は、用途別によっては全国一、二と言われる炭質もさる事ながら、その埋蔵量も桁外れでおよそ二〇億トンを下るまいと推計される大炭田であった。
 信じられないほどの埋蔵量を隠しきれなくてチラリと地表に顔を覗かせた炭層が、間に挟みとか合盤と呼ぶ石の帯を挟んで合計二四尺(七メートル以上)もの厚さに達している事を示す場所がある。
 その日本一の大露頭は、夕張川の支流シホロカベツの上流を囲む鬱蒼とした原生林の懐深く抱かれ、ひっそりと木の間洩れる光を浴びていた。それが炭田発見のキッカケとなった剥き出しの炭層は、僅かな傾斜を見せて川岸から切り立つ崖一杯に、誇らしげな黒曜の輝きを放っていたという。難渋をきわめてやっとたどり着いた調査の人々が、正に一瞬息を呑む壮観と威容に満ちていたと伝えられる。先年その石炭を求めて夕張川を遡った人々は、深い断崖といくつかの滝に阻まれて遂にその目的を果たせなかった。だが夕張川に注ぐ細流の中には、その昔蝦夷地支配の松前侯がこの辺りに持っていたとも伝えられる隠し金山の鉱脈からでも流出するのか、かなりの砂金が採れるとの事であった。その砂金を追うアイヌが住んでいたとの古い記録をたどって遡上に挑んだのだが、夥しい石炭の砕片を発見しながらも大露頭に達する事はできなかったのだ。
 もし石炭という資源が、明治初年北海道開拓使から招かれた来道したアメリカ人技師、スミス・ライマンやその弟子たちによって発見されなければ、この辺りは恐らく鳥や獣の棲む静かな環境であったに違いない。大自然の静寂の中でアイヌと獣たちが穏やかに生きる営みを続け、決して急激な開発を強いられることはなかった筈だ。
 だが本来は人類と何の関わりもない地下の石が、資源や商品として価値を持った時から様相は一変した。その生成の不思議や神秘などがどうであれ、ただ限りない欲望の対象とされていったのだ。
 こんな山深い夕張だが、明治二年から二年間だけ高知藩をうけた事がある。勇払郡と千歳郡が一緒の支配地であった。しかし金のない政府に代わって北海道の分割経営を押しつけられた各藩は、ほとんど何も手を下さぬまま明治四年の廃藩置県で、北海道開拓使の管下に返してしまった。
 夕張は札幌から五〇キロほど東の位置にある。北は夕張岳に連なる深い山並みに阻まれてけもの道以外の道はないと言っていい。東は冷水山から夕張山脈へとつながる急な谷や沢の果てに富良野へと境を接している。だが西はいくらかゆるい傾斜を持つ鳩の巣山三角山と、更にその隣の雨霧山やアノロにつながり栗山栗沢に続いている。
 ほぼ平行四辺形をしたこの地の広さは七六〇平方キロもあり、滋賀、奈良、和歌山などの県より広い面積を持ちながら、その九割以上は人跡も稀な原生林である。つまり総面積の僅か一割に満たない土地を耕し家を建て、人が住むといういわゆる辺地であった。
 三方を山に囲まれた地形は、さながら神話の巨人が大地に発止とばかり打ち込んだ斧の手元をくねらせながら、南に向かって後ずさりしたかのようでもある。その刃先となる谷底を流れるシホロカベツが夕張川と合流する辺りからやっと平地が開け、胆振の勇払や由仁千歳と地境をなしている。
 開坑時炭山へ入る交通路は谷の出口に当たる南の峠だけで、深い谷を抜ける九十九折れの険しい道が一筋あるにすぎなかった。その一本が人々の命をつなぐ生活道路であり産業道路ともなっていた。石炭を掘るための器具や資材は勿論、生活の必需品を牽いて運ぶ馬が通れるようにかなり手をかけて広げた峠道だった。だが原始の姿そのままの森は差し交わす枝葉が太陽を遮り昼でも暗く、その上ひどい悪路であったため、夜間の通行はほとんどできなかった。
 そこへ明治二十五年十一月鉄道の開通となり、道は目的を失って往来は日に日に寂れていった。
 東西から迫る山腹は、蛇行するシホロカベツやその他の支流をはさむように深い谷を形作り、風はその季節によって谷間沿いに北からあるいは南からと吹き抜ける。
 どこの家も川を見下ろす高い位置にあるため水利が悪く、飲み水や洗濯用水なども近くの沢水を引くか湧き水を使うしかない。集落内には井戸が数えるほどしかなく、一旦火が出たりすれば風向き次第で止めどなく広がる事になる。
 ヤマで最も怖いものはガス爆発と崩落であり、次いで人々が恐れたのは、出したら最後消すのが至難となる火事と、飲み水から広がってゆく伝染病であったかも知れない。
 その頃夕張で流行ったものは付けにこんなのがある。
《おっかないもの、ガス落盤、流行り病いに水当たり、割当まさかり火事にごろつき》
 割当まさかりやごろつきは付け足しにしても、正にその通りであったろう。

 正造がまるで人が変わったように呑む機会を避け、サルナイに下りる事も努めて控えるようにしてから半年近くたった。飯場仲間からは付き合いが悪くなったと非難されながら、柄にもなく必死で金を貯めた。
 北川だけはその理由を知っていたから、たまさか正造が酒でも買おうとするとその手を押さえた。
「俺ラが買うでや……」
 何としても正造に金を使わせようとしなかった。
 どうしても人の足が多い道路や飯場の出入口から雪が融け、少しずつ土が顔を出した。だが目を上げて見るまでもなく中腹や山頂にかけては、まだまだ厚い雪に覆われている四月のある朝、正造は旅の支度を整えて独り飯場を出た。
 みんなが蒸気と呼んでいる鉄道の終点夕張ステンションは、かみの山一帯としては一番低い所にある。ステンションを取り囲むように建っている飯場は元々鉄道敷設工事のためだった。しかし現在はそのまま坑夫飯場になっている。山側の道路近くには人夫紹介所を兼ねた旅館があり、少し離れてはそこだけが二階建てなので一際目立つ夕張採炭所の事務所もある。その周りを取り巻くように上級社員の社宅があり、線路沿いには鉄道に勤める人々の住居もかなり建っている。
 その辺り一帯をよく見ると気付く事がある。仮小屋とも見える長屋や人夫飯場にまだ人が住んでいるのだ。それは炭砿開発にやってきた人々がまず足掛かりとして住み着き、南北に細長く続く谷間での生活を始めた場所が、この辺りからであった事を示している。
 ステンションは、三角山を水源とするシホロカベツの水流が夕張瀑布になだれ落ちる少し手前で、束の間ゆったりと勢いをゆるめる低地の辺りに位置している。多分僅かに土砂が溜まって平坦な州となっていた辺りを更に埋め立てて、駅やそれに続く選炭場貯炭場などを造ったのであろう。
 次々と数を増やしてもう七、八本もできた坑口から、数珠つなぎのトロッコで休みなく送られてくる石炭を篩(ふるい)にかけて、石を取り除き等級毎に炭塊をより分ける選炭場と、それを貨物列車に積み込む設備や貯炭施設など、見るたびに大きくなっている。
 炭山番外地の石川飯場から歩いて一〇分ほどの距離にあるステンションの近くまできた時、正造は採炭所前の道を北山へ上ってゆく一かたまりの人影を目にした。
 向かい合う冷水山側より傾斜がゆるいとは言え、まだ鬱蒼と繁るえぞ松や楢の大木の蔭から、時折熊や狐の姿も見かけるという山道を、何故か盛装した一団が登っている。
 目を凝らすと、その一団の中にはこの地でしか見かけない神官らしき装束をした人が混じっている。採炭所付近の道はもう雪が融け始めているので、神官は不恰好なごんべ(わら長靴)を履いているようだ。衣装や足元を気にしているのか危なっかしい足取りは、ひょっとこ踊りでも見ているようでなんとなく滑稽に映った。
 その一団が登ってゆく北山のかなり高い所に、近頃新しい神社が建ったのを思い出した。
 そう言えば仕事帰りの道々、どこかの男が大声で噂していたのを聞いたのはつい先日の事だ。
「おとどし代わった社長だか何だかの偉い人いたべ? その社長が去年の七月だったべか、このヤマさきたンだとよ。ンでな、ホラおとどしから爆発だ坑夫が騒いだ、ヤレ崩れたの潰れたのっちゅうのが続いたべ。ありゃア斜坑の上の松尾の隣にある山神社の方角が悪りいンだ。まるっきり鬼門さ向いでっからダメなんだって言ったンだとよ。早えどこ向かいの北山さ移せって命令バ出して帰ったっちゅう話だったべ。したけどもよ、言いっぱなしで去年の秋だったかさっさど社長やめたんだってな。まア今までのはかみの山の有志が寄付で造った小っこい神さんだったども、こんだ偉え人の一言で建てたんだからでっけえ神社になったっちゅう話だ。まンズ山の神さんは喜んでるかどうだかわかんねえども、この雪の中で引っ越しだバ、人も神さんもゆるく(楽で)ねえべよ」
 それがたとえわが身に及ぶ事ではないにしても、入れ揚げた女をこき下ろしたり人の色事を取り沙汰するのに飽きれば、妙に熱心に語られたりする。
「神さんが家移りしただけでハア、悪りい事も危ねえ事もみんなサッパリ消えでければ言うごとねえども、そしたうめえ塩梅えにいぐもんだかや。神さんも大事だどもよ、俺ラだちのごとも心配してければ、有り難え社長だって手ッコ合わせで拝んでもいいどもな?」
 確かに昨年と一昨年は炭砿鉄道にとっていろいろとご難な年であった。その一つに操業開始二年足らずでこれからという時に、初代社長堀基が辞めさせられる事件があった。
元々鉄道は幌内で掘り出した石炭を小樽手宮の埠頭まで運ぶためのもので、炭砿を含む官営事でであった。それを払い下げてもらって北有社による民営としたのが、官営の時炭砿鉄道事務所長の地位にあった村田堤である。しかし北有社は赤字続きで営業成績を上げられなかった。
 これに目をつけたのが元道庁理事官で第二部長を勤めた堀基であった。
 北有社から事業を一旦道庁に返還させ、あらためて炭砿と鉄道をそれぞれ払い下げてもらった上で、北海道炭砿鉄道会社として初代社長に納まったのだ。
 官営事業を民間に払い下げる際前例のあった利子補給については、炭砿鉄道の場合八年間にわたって対して受けられる条件であった。つまり資本金の六五〇万円は一般公募も含めて全額を株式とするが、それに対して事業が軌道に乗るまでの八年間は、国が五%の利益保障をするという特典つきである。その代わりその八年の期間内は、社長始め全役員の任免は国に権限があるという内容なのだ。金も出すが口も出すという事であろう。
 坑夫たちにはその意味などさっぱり分からなかったが、たとえ分かったところでほとんど関心を持たなかったに違いない。ところがそれから二年半後、何らかの不都合があって堀社長はやめさせられる事になった。
 実は何らかの不都合どころではなく、鉄道路線変更事件と名付けられたこの問題は、連日新聞紙上を賑わす話題であった。そればかりでなく、開設されたばかりの衆議院でも問題になった、と受け売りらしい噂話を得意顔で振りまく坑夫も中にはいた。
「何でもよ。官に届け出た通りに線路を敷かないで、会社の都合で勝手に汽車を走らしたってお上が怒ってな、社長の首切っちまったんだってよ。だけどお前え考えてもみな。工事やってみてよ、思いがけねえ難しい事情ってものにぶつかったら、約束通りまっつぐって訳にはいかねえやな。そこでちっとばかり曲がったのくねったのったって、何も北海道へ行くつもりが九州へ向いたってえほど変わった訳じゃあるめえし、ぐずぐずいうこたアねえと思うんだけどよ……」
 東京弁でまくしたてた坑夫の感想ほどの知識は正造にもあった。
 その後開坑してまだいくらもたっていない一番坑でガス爆発があり一八人死んだ。初めての大事故で大騒ぎになったが、原因はよく分からなかった。
 明けて正月早々から組長らが黒幕と言われる例の飯場騒動があり、その事後処理にえらい手間ひまがかかった割には、やまの空気は一向に落ち着いていなかった。
 代わってお上が社長と決めた人は、創立時から取締役だった高島嘉右衛門という人だ。この人は江戸の生まれで根っからの商人であったが、易学に明るく二三才の時安政の大地震を易学で予見し、材木の買い占めに走って財をなしたとか伝えられていた。
 その高島社長が、二十三年の開坑当時斜坑の上に祀った山神社を、会社の不祥事はこの神社の位置と方角のせいと断じた。そして移転を命じ自らその位置まで指定して帰ったのが去年の夏だった。その後まもなくどういう訳かその高島社長も退任してしまった。
 今までは松尾飯場のすぐ傍にあったので、九尺四方とは言え身近な神社として何かと縁起をかつぐ坑夫やその家族は、通りがかりに手を合わせる事もできたが、今度はそう簡単にいきそうもなかった。
 今日がその遷座とやらで神さんの引っ越しが行われる日だったのか、と正造にもすぐ察しはついたが、かなり高い所へお社が建っているようだった。道路からよほど山道を登らないと、前より数段立派になったらしい神社にはたどり着かない。
「あっこだバ、眺めはよくなったべども、ちょっこらちょいとお参りさ行げねえな」
 誰かが洩らした言葉を思い出しながら正造はステンションに着いた。
 夕張支線が旅客輸送もするようになってからちょうど一年たっていたが、正造はまだ一度もこの線には乗った事がない。この夕張を退山する時でもなければ乗る必要はないだろうと思っていた。第一汽車賃がばかにならない。
 米は一升七~八銭。四斗俵(六〇キロ)で三円止まり。酒は内地の上酒で一升四〇銭以下。道内の地酒なら二〇銭前後で買えるのに、夕張-追分間の並等運賃が三八銭である。いかに便利な乗り物とは言え決して安い料金とは言えないからだ。
 道路の雪が消え始めると人々は待っていたように動き出す。人ばかりではなく北国の生きもののすべてが何にもまして雪解けを待っている。
 この線では初めての蒸気に乗った正造は何となく落ち着かなかった。石炭輸送が主になっているこの線では、客車は日に一往復しか走っていない。そのせいかかなりの人が乗っている。
 午前九時二〇分、上りの汽車は発車した。夕張追分間は四二・八キロメートルあるが、そのほぼ中間点にある紅葉山で給水のための停車時間を含めて二時間半かかって走るのだ。それでも人々はさすがに蒸気は速いものだと感心していた。
 正造が夕張に入ったのはこの線の開通前であったから、岩見沢から角田までの囚人道路を六里近く歩き、馬替えの中継所である継立てを通り抜け、険しい山道や峠道を五里前後も歩いてやっとたどり着いたのだ。車窓から目にするこの辺りの風景はもちろん初めてである。
 石川飯場には、この夕張支線工事を請け負った橋本組の人夫だった男が二、三人いた。ステンション近くの鉄道飯場にも、工事完了後橋本組から離れてそのまま炭山に残った者がたくさんいた。だが彼らの評判はあまりよくなく、街のやくざ者との衝突や坑夫仲間との喧嘩出入りにも、また橋本組の人夫かと噂される事がしばしばあった。
 正造はその連中に、この鉄道工事がかなりの難工事であった事を何度か聞かされている。
 支流のシホロカベツはやがて夕張川本流と合流するのだが、入り組んだ山裾を縫いながら僅かずつ巾を広げ水量を増してゆく。だが川は大きくくねったあげくあたかも逆行して向きを変え、上流に向かったかと目を疑わせる場所がある。そこから登川の地名が生まれたとも伝えられている。
 その蛇行する川を避けられなくて、この夕張支線にはたくさんの橋が架かっている。その中にはまだ橋脚が木のままというのがいくつもあった。そのためだったのかどうか増水期には流される事もあり、そのたびに危険を冒して橋の架け替えをし、命を落とした人夫もいたという。
 夕張を出て鹿の谷辺りを更に南へ下ると間もなく短い橋を渡る。川に沿って東側には切り立った崖が続き、見上げる断崖の上からひさしのように松が枝を伸ばしていた。枝先にはこのところの日差しで融けかかった雪が残っており、まだかなり枝をたわめていた。だがその根元辺りから川面まで、垂直に削ぎ取ったような崖のどこにも雪の痕跡すら見えない。更にもう少し南へ下ると、その崖が東西から迫ってあたかも天然の水門に似た谷となり、高い橋が架けられている。
 車窓からチラリと覗いただけでも、はるか眼の下で雪解け水が轟々と響きをあげて泡を噛んでいた。橋桁だけは鉄製だが橋脚はすべて丸太や厚い板である。両手の指をしっかり組み合わせた形に似て、一見頑丈そうな造りには見える。だがそれでもこの激流に耐えられるのかと一瞬不安が頭をかすめた。
「やがては全部鉄橋になるんでしょうが、これからの季節では何となく恐い気がしますね」
 突然隣の男が話しかけてきた。まるで正造の腹のうちを見透かしたようである。とっさの返事ができずあいまいに頷いた。
「炭砿鉄道の石炭はますます増えてゆくでしょうから、どうしても木の脚じゃもちませんよね?」
 正造より少し年下に見えた。袷の下から見える詰め襟のシャツや袴も特別上等な物とは思えないが、どことなく垢抜けて見える。夕張近辺の人間ではないような気がした。
「俺ラだにはわからねえども、そしたもんですかね?」
「イヤ私も鉄道の専門家ではないので、ホントの事は分かりません。でも上野青森を走る日本鉄道あたりでは、鉄橋の脚は大体石造りだったような気がするんですよ」
 そんなやりとりから口がほぐれて少しずつ話すようになった。正造が故郷の秋田へ行く事を告げると、男は札幌に帰る途中との事であった。    - キッカケが何であれ、知らぬ同士が互いの間を詰める最もいい機会は酒か旅であろう。特に旅は昨日までの世界から己を解き放つ又とない時間でもある。それが風景や人とも初めて出合う独り旅ともなれば、更に幾分なりとも変化や期待を抱かぬ者はないと言っていい。たとえ行きずりの出合いであろうとも、その時の印象や情景によっては生涯忘れられなくなる事もある。
 正造の場合が正にそうであった。
 後年この二人は、思いがけない場所で再び顔を合わせる。だが信じられないほど時が経っていたにも関わらず、正造は一瞬にしてこの出合いの日を思い出したのだ。
 もしかしたら渦巻く雪解け水の濁流を見るたびに、記憶のどこかでこの時の情景が繰り返し焼き直されていたのかも知れない。
 男は札幌から来た新聞記者との事だった。去年炭砿鉄道会社が社名を改めて北海道炭砿鉄道株式会社となり、十一月に高島社長が退任する前に井上理事が大鉈(なた)を振るった改革の結果、どこがどんな風に変わったのかを確かめに行ったのだとの事。札幌本社で聞いた話と地元からの投書との違いが気になり、やはり現地で見聞きするしかないと夕張へ行ったのだという。
 採炭所の幹部社員は、これから徐々にその結果が出てくる段階だから何とも言えない、とハッキリしない。従業員からじかに聞きたくても、奴らには分かりません、ロクに口の利きようも知らない連中ばっかりで、と会わせたがらない。ムリを通そうとすれば露骨にイヤな顔をしているのが分かる。これじゃア却って何かあるんじゃないかと疑いたくなるのが人情、とは言っても記事になる材料を拾えなければ仕方がないので、止むなく一旦は引き揚げる途中だったんです。だがどうやらあなたは炭山で働いていた方とお見受けしました。決してあなたにご迷惑はかけませんから、差し支えない範囲でいろいろお聞かせ願えませんか、と折り目正しい申し出であった。
 正造にとって新聞記者などという人種はまるで異民族のようなもので、どんな口を利けばいいのか見当もつかない。だが決して悪い印象ではなかった。
 筆で飯を食っているくらいだから相当に学問もしているのだろうが、その男は偉そうな物言いをしなかったし、こちらに何か聞くためそう装っているようにも見えなかった。
「俺ラは元々秋田の鉱夫(かねほり)だハで、難しい事はわがんねえス。炭山もまだ三年ぐらいのもんだハッてなんぼ役に立つかわがんねえども、知ってら事は喋るハンでなんでも聞いでけさい」
「いやアありがとう。知ってることだけで十分です」
 大喜びで男は自分の名前を中田秋介と名乗った。
 追分に着くと室蘭線への接続に五〇分の待ち時間があり、それに乗って岩見沢乗換えで更に一五分待つ事になり、札幌までの所要時間は六時間四五分という正に半日がかりの汽車の旅である事が分かった。話す時間はたっぷりある。
 追分で昼飯を食いながら中田秋介の問いかけに答える形で話は続いた。始めはぎこちない会話も、中田の上手な聞き出しと歯切れのいい話し方に釣られて、正造はいつか気楽に口を利けるようになっていった。立ち入った事はともかく、合間に互いの生い立ちや家族の事なども語ったりした。
 中田は正造が思ったとおり三つ年下であった。生まれは東京で一年ほど前までは東京の新聞社に勤めていたが、今は札幌の北海道毎日に移っているとの事であった。
 話を聞いているうちに正造は思い出した。去年正月早々にあった坑夫騒動の顛末を、一番詳しく載せたのが北海道毎日という新聞との噂であった。
 熱にうかされて走り回った坑夫のほとんどが、騒ぎの全貌についてまったくといっていいほど知らなかった。もっとも引っくくられるのを恐れて、口をつぐんだ者が多かったからかも知れない。
「新聞読んで分かったけど、えらい派手なことやったもんだて。したけど只走り回って損した……」
 そんな言い方で、逆に新聞から例の騒ぎのあらましを知った者も少なくなかった。もしかしたら今はもうクビになったり、騒擾罪を適用されて苗穂刑務所にぶち込まれた連中でさえ、あんな騒ぎになってゆくとはまったく予想していなかったのでは、という気がしていた。
 正造はその時の模様を思い浮かべながら、あの後会社が打ち出してきた対策や改善の内容や、厳しさを増した長屋や飯場の管理などについて、質問されるままにあれこれと答えた。
 大きく頷きながら聞いていた中田は、一段落したところで突然こんな事を訊いた。
「ところで去年の騒ぎの事ですが、あの時中心になったのは一体どんな人物だったんですか? つまり、事件を引っ張った頭領のような人がいた訳ですよね?」
 あらためて訊かれてみると、それが誰だったのかはどうしても思い出せなかった。
 年の暮れ頃採炭所へ掛け合いに行ったのは、奈良飯場の青木という帳場であったらしいとは聞いた。だがキッカケはその帳場がつけたのだとしても、騒ぎをあおって喚き声を上げていたのは別の連中だったような気もする。イヤもしかしたら誰の指揮でもなく、人の群れだけが勝手に渦巻いて、興奮したり熱狂していたのかも知れない。
 正造のあいまいな返事に中田が言った。
「惜しいと思うんです。先頭に立つ者がうまくみんなを引っ張り、騒ぎになんかしないで事を運んでいたら、言い分の一つや二つは聞いてもらえたかも知れない、という気がするんですよ」
 言われてみれば分かる気もした。だが中田はこんな言い方もした。
 請願や陳情というものは、大体がムリ難題を吹っ掛けるという性質のものではない。やむにやまれぬ事情で出されるのが普通だと思う。しかしどんなに切実な内容であれ、それを訴えるのに数を頼んで暴れまわったりするのは最も損なやり方だ。結局力には力の仕返しで決着をつけられてしまう。そうされても何も言えない種を先に作ってしまうからだ。
 大凶作の後などに起きる百姓一揆や町人の打ち壊しにしても、それがためにすべて敗北してきたと言っていい。相手がたとえ人々に憎まれ続ける支配者や権力者であっても、牙を剥いたと見なされたが最後、集団はもちろんだが一人二人であろうとも決して容赦はされない。掟破りの厳しい処罰が待っていて、今ならば鎮圧とか秩序の回復という名目で、警察や軍隊が襲いかかってくる。そうなれば勝負は明らかで、武器も金も力もない民衆は常に敗北する事になってしまう。
 中田は声をひそめるでもなくそんな言い方をした。
「だったら、どうすれば勝てるのかって聞かれても、僕には答えられません。多分、世の中の仕組みというものが変わらない限りはむずかしい、というぐらいしか言えないでしょうね」
 酒、女、博奕、喧嘩といった話題が中心になる仲間の話と違って、よく解らないところも多かったが、それだけに中田の話は耳新しかったし面白いと思った。中田が自分より年下である事などいつしか忘れてしまっていた。
「さっきもお話しましたが、去年十月に社名が変わりましたよね……」
 言われてみると去年確かに採炭所の看板は、新しく北海道炭砿鉄道株式会社と書き換えられたが、坑夫らにとってはどっちだろうと関心のある出来事ではなかった。
「四年ちょっとの間に社長が三人交代し、社名まで変わってしまったんですよね。利子補給という形でいくらかでも国から金をもらっているとなれば、いい加減な事はできないのかも知れませんが、それにしても、お上のやり方は非情というのか、目まぐるしいというのか……」
 正造には何の事やら分からない。
「だってそうじゃありませんか。炭砿鉄道が国から払い下げられた時、その創立免状をですね、時の北海道庁長官永山武四郎が、自ら堀社長の屋敷へ届けたというじゃありませんか。そりゃア堀基のほうが同じ薩摩出身でも、永山長官より先輩だったかも知れません。しかしその時は片や長官、言わば道内では一番偉い人。一方は野に下った市井の民間人にすぎません。そうなっても序列を変えたりしないのが薩摩人の気風と言うんですかね。でもそれが罷り通ったのも薩摩の総帥が首相だったうちだけで、それが一旦代わったとなると、大臣だろうが長官だろうが薩長の総入替えですからね。勘ぐりだけでなく、目障りな堀社長の首を、前々から狙っていたとしか思えませんね」
「なんか、お上にごしゃかれる(叱られる)えンたごとしたって話だったども……」
「口実でしょうね多分。首を切るためにはどうしても何か一理屈つける必要があります。薩長の藩閥争いのあおりを食ったんでしょう。ま、ある意味では当然だったのかも知れませんが、なんにしても露骨すぎるとは思いませんか?」
 心ある人々が一様に眉をひそめた政治事件の裏には、必ずと言っていいほどこの藩閥抗争にからむ人の動きや、それにまつわる金の流れがあると言われた。
 明治維新とは孝明天皇を戴く官軍、つまり薩摩、長州、土佐、肥前の四藩連合軍が、徳川慶喜を戴く幕軍を倒した言わば内乱に違いない。その後攘夷論者の孝明天皇が急死した後をうけ、幼年の第二皇子を即位させて生まれたのが明治政府だ。
 だがまだ若い天皇の後ろへまわって己の意を通そうと図る権力争いは、いつの間にか薩長の二勢力に絞られて、どちらかの藩閥に属さなければ出世はおろか利権に近づく事すら難しくなった。
 政権の頂点が代われば官僚これになびく図はいつの世も同じで、北海道庁長官や道庁官吏といえどもその例外ではない。
 北海道開拓が政府の大きな期待を担っていながらも、甚だ金も時間もかかる厄介なお荷物扱いされているのも現実だ。その原因の一つに藩閥人事がからんだ行政の乱れがあり、更にそこへ付け込んでくる御用商人たちのあくどい利権争いにあったと言っていい。
 先鞭をつけたのは、何と言っても参議で陸軍中将のまま開拓長官になった黒田清隆その人である。
 明治七年八月から十五年一月まで七年半その任に当たったが。開拓長官でありながらほとんど東京におり、行政の実務は全く部下任せにした。そして道庁の上級官職をすべて郷土の後輩から選んだ。言わば腹心の部下である。その役人たちは上に倣って下僚を薩摩人脈で固めてしまった。
 維新以後、政府や官界をほぼ二分していた薩長の勢力下で、その頭領でもあった黒田の影響力は
かなりのものがあり、それが北海道開拓に当たって大きな力となっている事は否定できない。だがその功績もさる事ながら、あまりにも偏った郷党びいきの人材登用や、酒乱の悪癖だけが取り沙汰されて伝えられるのにはそれなりの理由があったのだ。

 太政官時代の明治十四年関西貿易商会なる会社から願書が出た。それには北海道にある官営設備を、三八万円無利息の三〇年年賦で払い下げてもらいたい。北海道産品の売りさばきを任せてもらいたい。その他低利の金を国から貸してもらいたい、との内容であった。その官営設備とは開拓史が一〇年間に一,四〇〇万円の巨費を投じたものであった。
 開拓庁長官の黒田は簡単に賛成の意見書をつけて政府に提出した。当時この類の願書は例のない事ではなく、特にでたらめな条件とされるほどの内容ではないと思われた。
 だがこれが事件に発展した。世に言う「官営物払い下げ事件」で「明治十四年政変」のキッカケともなった。
 そもそも関西貿易商会というのは薩摩出身の大物政商五代友厚と、元山口県令(知事)の中野梧一が代表となる会社であった。その他に正式認可となった暁には退いて重役になる筈だった開拓使の官僚安田定則、折田平内、鈴木大亮らの薩摩人も名を連ねていた。言わば薩長連合会社である。
 政府部内の薩長出身大臣はこれを認めた。ところが首席参議である佐賀県出身の大隈重信ただ一人が強硬に反対した。これは大隈が薩長と対立の立場にあったからばかりではなく、ある目論見からこの事件に目をつけたと言われている。
 当時国会開設論を提唱して、渋る政府を揺さぶり続けていた大隈は、この一件を種に自らの主張を有利に展開しようとして利用したと言われた。その根拠というのが大隈の背後にいる岩崎弥太郎(三菱)の存在である。岩崎はそれまで北海道の利権を一手にしていたので、関西貿易商会への払い下げを強硬に反対させたのだと見る者が多かった。
 世論がにわかに沸き立った。新聞もこぞってこの事件を取り上げ政府の処置へ一斉に非を鳴らした。たちまち凄まじいばかりの反響が各地にまき起こった。
 政府部内ではあまりにも激しい反発に驚いて、払い下げの決定を延ばしてしまった。怒ったのは黒田で時の太政大臣三条実美に詰め寄り、傍の燭台を投げつけて脅したとも伝えられた。公卿出身で気の小さい三条は黒田のあまりの剣幕に震え上がり、東北巡幸の旅に出たばかりの天皇を千住まで追いかけて、その裁可を得たのだという。
 これを知った新聞はもとより、民党の論客たちが各地で大演説会を開き政府攻撃の狼煙を上げた。それがたちまち全国的な運動となり国会開設を望む世論に結びついて、まだ基礎の固まっていない政府の屋台骨を揺るがす大事件に発展していったのだ。だがそのため大隈は政府部内から追われる事になり、薩長独占の政治体制を作り上げるキッカケとなったこの事件は、結局払い下げ取消しということになった。そのために黒田は失脚し開拓長官も更迭されてしまった。
 しかしその後を襲った開拓長官も西郷隆盛の弟従道であり薩州人であった。僅か一月足らずで農商務卿に転じ開拓使は廃されたが、その後の三県一局制度でも札幌、函館、根室の県令すべてが薩摩出身者であった。しかも四年間ただの一度も交代する事なく薩人支配は十九年まで続いた。
 やがて制度が変わり三県一局は廃されて北海道庁が誕生した。第一次伊藤博文内閣の時である。その時の初代長官の岩村通俊は土佐の人であったが、道政の藩閥支配に手を加える改革までは至らなかった。
 しかも薩長のたらい廻しであった内閣は長州の雄である伊藤博文退いた後、薩族の推す黒田清隆に代わった。二十一年四月の事である。黒田は当然の如く岩村通俊を閑職に追い落とし、郷党の後輩である永山武四郎を屯田兵司令官兼任の北海道長官に任命した。それは首相に就任して僅か二ヵ月後の事である。
その永山は、藩閥人事の幣ここにきわまるという乱脈不公正な道政を、三年間にわたって敷いた。土地払い下げ、会社設立などは露骨に藩閥優先で、鹿児島県人が名を連ねるかその派閥に情実がなければ、まず許認可が下りる事はないとまで言われるほどだった。
 遡れば明治七年、黒田は陸軍中将兼任の開拓長官であり屯田憲兵事務の総帥でもあった。その配下に準陸軍大佐堀基がいて、その下に永山が少佐でいた。
 それから一〇数年たって立場が逆転した筈なのに、常に永山は堀に頭を押さえられていた。藩閥における上下関係は終生変わらず維持されるものなのか、社会的地位や役職の序列さえも超えていたようであった。
 薩摩閥特にその傾向が著しく見られ、何らの疑いも持たれないかの如くであった。
 黒田内閣は一年半で終わった。代わって政権をとったのが山県有朋である。彼は伊藤博文、井上馨と並ぶ長州閥の三尊の一人である。彼は何よりも政府部内から薩摩閥の追い出しに力を注いだ。
 内務大臣に同じ長州人の品川弥二郎を据えると、その頃は内務省管轄になっていた北海道庁の人事に手をつけ、まず永山武四郎を罷免して後任に滋賀県知事であった渡辺千秋を任命した。
 その頃堀は、黒田から受け継いだ薩摩人脈による道政支配の頂点にいて辣腕を振るっていた。それだけに目に余る行動も少なくなかった。札幌の彼の屋敷は豪壮なもので御殿と呼ぶ人もあったほどで、後輩である長官などを無視する所業もしばしばあったと伝えられている。
 夕張支線の鉄道敷設工事の最中であった。道庁の認可をうけていた路線を独断で変更した事が明るみに出たのだ。当初計画では夕張支線の分岐点はアノロ(角田村)から山を越えて夕張にゆく筈だった。それをその馬追山を越えるのは難工事だからと、変更届けを出す前に追分に変えて着手したのだ。
 又、岩見沢から分かれる線の終点空知太の駅を、計画では空知川を渡って滝川寄りに設ける筈だったのを、工費がかかるからとして川の手前に作ってしまった。その他にも無許可で小さな変更をいくつかした。
 測量技術んぽ低かった事もあったし、変更後の方が良かったものもあった。だが品川内相の意をうけて、薩派の重鎮征伐を意図していたと思われる渡辺長官がこれを見逃す筈はない。
 いかなる事情があったにせよ、事前に許可を得ずして独断専行したるは、官を軽んずる所業にして違反の事実明白なり、と堀基の首を切ってしまった。北海道長官に任免の権限がある以上文句は言えない。堀社長は上京して黒田に泣きついたがもうどうにもならなかったという。
 しかし道内薩摩閥の本山とも言われた炭砿鉄道の取締役には、三県時代根室県令だった薩人湯地定基も残っていたし、道政の隅々にまで根を張っている薩派の官僚を一掃する事など、到底できることではなかった。

「考えてみればまったく妙な話だと思いませんか。北の外れの北海道が、南の外れの鹿児島県人に首根っこを押さえられているようなもんでしょう?これじゃア鹿児島県庁支配地蝦夷村だっていう人もいます。時代は明治と遷り変わってもう二七年にもなるというのに、未だに徳川の幕政が続いているのと同じようなものじゃないですか?」
 正造にはあまりにも難しい話ではあったが、中田の語り口がなぜか耳に快かった。かなり言葉を選んでくれてはいるのだろうが、素直に聞くことができた。こんな話を聞いたのも、こんな相手にぶつかったのも生まれて初めてだったが、ただ小うるさい理屈をいう男には映らなかった。
「手宮まで真っ直ぐ行くつもりですか?」
 車窓の外を流れる荒漠とした開墾地風景が切れて、近くに時折人家も見えるようになった。もう札幌が近いのかもしれない。中田が突然話題を変えた。
「はア。手宮で降りてどっか宿探して、明日の船で内地さ向かうつもりでいるス……」
「どっちみち泊まるのでしたら、今夜は札幌で泊まりませんか?そして明日の朝発って手宮に着いても同じですよ。札幌も大火の後は不景気が続いていますが、小樽とは又違った趣もありますよ」
 旅の行きずりに交わすたわいない雑談とは違う話だった。もっとその先を聞きたい思いがふと湧いてきた。正造は中田の勧めに素直に従う事にした。
 時間や予定を限っての旅ではなかった。それに噂に聞く札幌という北海道きっての町も見ておきたかった。以前とは違って札幌手宮間には日に五、六本の列車運行があると聞いている。
 一昨年(二十五年)五月四日夜九時頃、狸小路四丁目から出た火は折からの強風にあおられてまたたく間に燃え広がった。これが札幌の中心部にある官公建築物や学校を含む民家商店など八八七戸、実に全市街の五分の一を焼く大火になってしまった。あまりの被害の大きさに絶望した人々の中には、札幌を見限って小樽へ越した者もあり、一時は札幌の人口が減ったと伝えられていた。
 中田秋介の勤めている新聞社も焼けてしばらくは仮社屋での営業であった。もっとも中田が札幌に来たのが去年の始めであれば、大火には直接遇っていない事になる。
大火の後その年はもちろん去年も札幌の不景気は続いた。とはいっても焼け跡には直ぐさまかなりの家は建ったが空き家が多く、一、〇〇〇戸以上も空いたまま住人がついていないとの事であった。
 おかげで分不相応に広い部屋を、安い下宿代で借りていられると中田は首をすくめながらいう。
 さすがに夕張のステンションとは比べ物にならない札幌駅の大きさに、正造は恥ずかしさも忘れてキョロキョロと見回した。
 寂れているとの話だったが駅前広場には驚くほどたくさんの人力車や馬車が出入りしていた。彼岸も過ぎて日が伸びたとは言え夕方四時半頃だったからあちこちに日差しの影が出て、札幌の街は少しひんやりとしていた。
 八、九年前にヨーロッパから種を持ち帰って植えたという駅前通りのアカシアが、一〇〇本近くもうかなりの背丈に育っており、とげだらけの枝に丸っこい小さな葉をいっぱいつけていた。一年で一メートルも育ちもう一月余りすると白い花房がつき、この辺り一帯に生臭いほどの甘い香りを漂わせるという。
 正造は明日の都合もあるので駅の近くに手頃な旅館はないかと中田に訊いてみた。
「いやア駅の近くはやっぱり高いですよ。少し離れたところのほうがいいと思いますね。そうだ、いっそ僕の下宿はどうです。空いている部屋がある筈だから、頼んでみましょうか? 旅館よりは安いと思いますよ」
「いや、それだバあんまりつらつけない(厚かましい)話だハッて、どっかそこらへんの宿バ教えでもらうだけでいいのス……」
「遠慮されるほど上等のところじゃありませんが、まず下宿で訊いてみて、ダメだって断られてから探してもいいじゃないですか。僕の部屋は結構広いんですが、むさ苦しくしてますんでね」
 こだわりを感じさせない中田の話につり込まれ、正造は初めて降りた札幌の街を歩いた。
 中田の下宿は大火で焼けた一帯の西の外れに位置する辺りとの事だった。その言葉通り当時の火事の凄まじさを物語る焦げ後が、まだ羽目板に生々しく残っていた。
 中田の頼みで一夜の宿を快く引き受けてくれたお内儀さんに礼を言い、二人は又表へ出た。
 大火があってからもう二年近くたっているというのに、火元とは言え目抜き通りの狸小路ですらポツポツと空き地がある。繁華街であるだけに却って目立つのかも知れない。
 復興のどさくさに商業の主流がいつの間にか小樽へ移ってしまったと中田は言っていたが、今まで見た事もないほどの人出に、焼ける前はどうであったのか想像もつかなかった。
 その上になんといっても正造の目を奪ったのは立ち並ぶ建物であった。中でも五、六年前に完成した北海道庁の前では思わず足を止めてしまった。煉瓦造りの二階建て洋館は、前が三角屋根で後ろに八角形の塔を背負い、ようやく萌えはじめた新緑の中で一際鮮やかにそびえ立っていた。その赤煉瓦の色合いはハッとするほど派手に人の目を惹いたが、不思議と周りの景色にしっくり調和してハイカラな絵を見ているような気がした。
 日頃背の低い日本家屋しか見ていない正造には、どう考えてもそれがそのまま異国の建物にしか見えなかった。まだ数は少なかった洋風の建物を見るたびに感嘆の声を上げた。
 そうやってあちこち歩いた後、とある通りの一角に中田は立ち止まった。向かい側にある二階家を指さして言った。
「僕が尊敬する中江先生のお宅です」
「ハア?えらい先生であったスな?」
 特に大きくも立派でもない普通の家である。
「ハイ。今国内でこの兆民先生より立派な方を探すのは、ちょっとムリと言ってもいいでしょう」
 中田は、この中江兆民を慕って東京の新聞社をやめ札幌へ来たようなものだと話した。
 中江兆民は土佐の人で早くからフランスに留学し、帰朝してからは自由民権運動の論客として「東洋自由新聞」や「東雲新聞」の主筆を務めたりして活躍した。
 二十三年の第一回衆議院選挙に打って出て当選を果たしたが、自分の所属する野党立憲自由党土佐派の代議士二九名が、与党の大成会に寝返って変節した事に腹を立て、本会議後、帝国議事堂を「無血虫の陳列場」と痛烈に皮肉って議員を辞めた。
 その後いろいろと辛酸をなめながらも二十四年四月に招かれて小樽に移り「北門新報」を創刊したが、現在は札幌に出てここに住まっているのだとの事であった。
「僕は直接に教えを受けた事もなく、面識もありませんが、著作はほとんど読まして頂いています。暮らしには相当困っておいでのように聞いていますが、それでも節を曲げずに清貧を貫いていらっしゃる兆民先生こそ、本当に尊敬に値するお方だとおもってます」
 中田秋介は、自分の話が正造に理解されているというより、自分の思いを訴えずにはいられない口調であった。そしてその兆民と深く親交のある新聞記者、久松義典が勤めていると知った事で、東京の新聞社から北海道毎日に移ったのだとも語った。
 その二人の事を話す時、中田の目はまるで少年のようにキラキラしているのが不思議だった。
 話の中身にもそんな人間にもまったく無縁な環境で過ごしてきた正造だったが、いつの間にか引き込まれて真剣に耳を傾けていた自分が信じられなかった。どちらかと言えばこんな話を好む人間の傍には近づかないようにしていたほうであった。
 独り身のまま一五年近く鉱山から炭山の坑夫へ転々としてきた。その間酒、女、博奕三昧でその日を送ってきた、と言ってもいいような荒っぽい暮らしであった。
 中には誰に何を言われようと、付き合いもせず酒も呑まず、手慰みや女郎買いも一切しないで、ただ一旗上げる日を夢見ている者もいるにはいたが、例外なく変人扱いされ除け者にされた。多くの坑夫たちは、その時々で耳新しい話題に飛びつきはしても、大真面目に政治や社会を論じたりする事などまず以ってない。その日がなんとか無事に過ごせればよかったのだ。

 帝国憲法が伊藤博文らの草案を中心に作られ発布されたのは、明治二十二年二月十一日の事である。七章七六条から成るこの憲法は、天皇の手から時の総理大臣黒田清隆に授けられた。だが国民の大部分がこの「憲法発布」の意味を理解できなかった。中には政府から「絹布(けんぷ)法被(はっぴ)」がもらえる日だと大真面目に思っていた者もあったほどで、一般からははるか縁の遠い出来事と見られていた。
翌二十三年帝国議会の開設に当たって衆議院議員選挙が行われた。但し選挙権があったのは、年額一五円以上の税金を納めている者に限られた、いわゆる制限選挙であった
 一五円あれば四、五人家族がなんとか一ヶ月暮らせた時代である。それだけ税金を払える者は決して多くはなかった。従って二五才以上の成人約三、〇〇〇万人中、投票資格を与えられた有権者は僅か四五万人でで全人口の一・五%に過ぎない。その上選挙権は男子のみに限られていたのである。
 その事は第一回の国会でも取り上げれて、資格を納税額一〇円の者までに引き下げる改正が行われた。それにしても、税金を納めるほど収入を上げられない多くの人々には、選挙権も与えられなければ政治への関心もないというのが実情であった。
 二十四年から始まった府県制に伴って地方議会が次々と開設された。有権者の間では当然わが村や町に対する政治や行政への関心は高まっていた。だがそれはあくまでも本州四国九州での事であった。中央から見れば北海道と沖縄は依然として外地の印象だったらしく、まだまだ議会開設を云々する段階にはないという認識であったのだ。
 そんな扱いに反発して北海道議会の開設を声高に叫ぶ人や、その声を連日伝えるのが新聞であった。但しその新聞を購読する人の数も多いとは言えない夕張であった。

「三原さん。僕は社に顔を出してから帰ります。下宿までの道、分かりますか?」
「ハア大丈夫です。セば俺ラもも少しそこら辺バ見でから……」
 どこへ行くにも山道か坂ばかりで平らな道などほとんどない夕張や、似たりよったりの鉱山しか知らない正造だ。ところが目の届く限りは建物ばかりで、低い山並みさえはるか遠くに押しやられている札幌という町は、どこを見ても珍しくて仕方がない。
 第一どこまでも真っ直ぐでしかも碁盤目に切ってある道路は、覚えやすいようでいながら目印に乏しくて、うっかり曲がるといつかしら同じ場所に出てしまう不思議な道であった。
 この半年あまりの辛抱で遊びから遠ざかっていたせいか、去年あたりまでならば気になって仕方がない盛り場にも、どういう訳か足が向かない。われながら信じられない思いがしていた。
 と、向こうから道巾いっぱいに広がった若者の一団がやって来た。学生のようだ。先頭を歩く紺絣にあんどん袴の男が、後ろを振り向きながら怒鳴った。
「繰り返して言うが、校長は故意にやったのではなかろう。そんな事をする人ではない。それをあげつらって、不敬不忠とはあまりにも大袈裟に過ぎるではないか! 官は一体何を企んでいるのか。その真意いずくにありやを問うべし!」
「しかり!言いがかりとしか思えん。真に汝らのうち罪なき者のみ石を投げ打てだ。官に一人たりともその資格ある者のありや否や!」
「同感! 官憲横暴! 断じて抗すべし!」
 一〇数人の若者が一斉に興奮を剥き出しにし、中にはこぶしを振るって絶叫する者さえあった。
 正造はその異様な光景に驚き、慌てて肩を開いて若者たちに道を譲った。
 それでもゆっくりとその辺りを眺めて歩き、初めての見聞を楽しみながら下宿にたどり着いた。その正造を追っ掛けるように中田も帰って来た。
 二人で近くの湯屋に行った。正造には炭塵で真っ黒になった男たちが一人も入ってない風呂は、思い出せないほど久しぶりの事だった。
 旅は始まったばかりで落とすべき垢も汚れもさしてない。だが思いがけない成り行きで見知らぬ町の湯屋にいる事や、隣にいる中田秋介との出会いにも、何故か場違いな思いを抱いてはいなかった。そんな気にさせてくれる男の横顔を見ながら、正造はこれまでに感じた事のないくつろぎを覚えた。
 湯屋から戻ってみると、正造の分も含めて夕食の膳が支度されてあった。特に珍しいものや手の込んだ料理などない普通の夕食なのだろうが、見飽きた飯場の丼飯と違うせいかご馳走に見えた。
「ちょっと待ってて下さい」
 中田は徳利を借りて酒を買いに走ったようだ。
「あれから社へ顔出しに寄ったでしょう。そしたら、妙な騒ぎが起きてましたよ」
「騒ぎって?」
「札幌師範の生徒が、同盟休校に入るとか入ったとかの噂で、何か不穏な気配があるようなんです」
「それは、どした事セ?」
「もしかしたら、学生の一部が授業を拒否して学校に出ないかも知れないという事らしいのですが、ほんとにやったとしたら厄介な事になりそうなんですよ」
「何でなス?」
「事件の発端はほんの些細な事のようです。何でも師範の校長が、天皇陛下の御真影、つまり写真を蔵ってある場所の扉を開けたまま学生を退場させた、という事から始まったようなんです」
「……セばどした事になるのセ?」
「うっかり閉め忘れただけなのかも知れないのですが、誰かが騒ぎ立てたため校長は検事局に召還されて、不敬不謹慎のかどで取り調べられたのです。これは一週間ほど前の事でした。問題なのは、二月前に出たばかりの道庁訓令です。えーと御影並びに教育勅語奉衛に関する規定、というんですがね」
「難しい言葉だなッス」
「そうなんです。中身もものものしい文章で大変です。第八条まであって、天皇皇后両陛下の写真と勅語は粗末に扱うな。奉置所の扉はむやみに開け閉めするな。これを置いてある学校は教員の宿直をつけろ。奉持式では最敬礼をせよとか、厳しい通達があったばかりなんです。それを怠ったとして官憲に査問された校長の進退問題が当然出てきます。そうなると学生の間に動揺する者が出てきたとしても仕方がないでしょう」
「なんと、まンズ……」
「学生たちは、道庁長官宛に陳情書か嘆願書を出したようですが、聞き入れられなかったのでしょう。そこで抗議のために同盟休校しようという学生と、それに同調しない学生との間も険悪になって、今夜あたり何か起きるかも知れないとみんなピリピリしてる訳なんです」
正造はもしやと思って、夕方見た光景を中田に話してみた。
「恐らく師範の生徒でしょう。しかし危険だな。もし同盟行動が起きたらそれを収める方法が難しいし、必ず犠牲者が出ると思います。後が心配ですね」
 中田は眉をひそめて考え込む風だった。
 正造はふっと去年正月に起きた夕張での騒ぎを思い出した。
「学生でも、監獄さ入れられるだかや?」
「ウーン。そんな手荒な騒動にならないことを祈りたいですね」
 少し間を置いてから中田は正造にこんな事を言った。
 明治十五年から施行されている新刑法は、維新後に作られた仮刑律とか、新律綱領という仮の法律を根本的に改めたもので、元々はフランス刑法を下敷きにして作られた。従ってそれまではあった士族や平民を区別する身分階級を、刑法の上からは取り去って平等に扱っている。
 だがこの新刑法の草案が今は廃止になった元老院で審議された時、一番問題になった点は意外な事であった。
「ねえ三原さん。何だったと思います?」
「さア、俺ラには……」
「妾を認めるか否かだったのですよ。それまでの定めでは親族の扱いだった妾を、一体どの位置に置くか。それが大真面目で論争されたんですよ」
「めかけ?」
「そうです。しかも二親等としてですよ。妾というものを法律上で祖母、姉妹、孫と同じ位置に明記する国がどこにありますか? もちろんこの刑法の母国フランスでそんな馬鹿げた事はしていません。第一妾なる存在そのものがおかしいとは思いませんか? この元老院の議員連中は、華族とか上級の官職にある者ばかりでした。一握りの金持ちだけしか得られない特権のために、何で世界中に恥をさらすような法律を作らなくちゃいけないのですか? それを一体誰が喜ぶのでしょう?」
次第に中田の口調は熱が入ってきた。
「結局認められませんでした。当然ですよね。ま、手本にしたくらいですから、元のフランス刑法は立派なものだと思います。でもそのままわが国に当てはまる筈はありません。そこが大事なところです。元々の精神を失わないように、しかもわが国の法律として作り直す人々が、本当に立派な人ばかりだったら問題はないでしょうが、そんな人ばかりはおりません。そこなんです……」
 明治十八年から今の内閣制になったがその前は太政官制度だった。古い律令制を模したものだっただけに今の世に合わない様々な不備があった。刑法もその一つで新しくなったからといってすぐ完璧なものになる筈はない。恐らく今後も何度か見直しをしなくてはならないと思う。
 その太政官時代、国会開設や憲法制定を望む自由民権運動が国中に高まり、常に維新政府の足元を脅かし続けたのを忘れる事はできない。政府はその運動を押さえるために、新刑法の中に「兇徒嘯聚罪(きょうとしょうしゅざい)」などを盛り込んで、人々の結社や集会に制限を加えようとした。つまり政府の方針に逆らう輩を厳しく罰するという意向を明らかにした。だが一旦燃え上がった民衆運動はそれぐらいの事では収まらなかった。
ところが十四年に黒田清隆を囲む官有物払い下げ事件が起きた事で、大隈重信やその有志らに迫られて一〇年後の国会開設を天皇の詔勅という形で約した。しかしその後の政府のやり方がよくなかったため、前にも増してあちこちに政治事件が続出した。
 十五年の福島、十六年の高田、十七年の加波山、秩父と続いた事件が、いずれも時の政府高官や県令の暗殺を企てたものとして世間の耳目を集めた。見方を変えれば人々をそれだけ過激な行動に駆り立てる何かが、政府の側にあったという事にもなる。
 首謀者を捕らえて、片っ端から北海道の集治監に送ったのもその頃だった。それでも安心できなかった政府が、二十年二月二十五日に突如として公布したのが「保安条例」というものだ。
 これが伊藤内閣の中で内務大臣だった山県有朋が、閣内の反対を押さえて立法化したと言われる弾圧条例で、治安維持を理由に東京から自由民権論者やその支持者を追い払う、という凄まじい強権法だった。
 骨子となった第四条は、皇居又は行在所(天皇の宿所)から三里以内の地で、内乱を陰謀したりそそのかしたりした者、又は治安を妨害する恐れありと認められた者は、期間を限って退去させる。その判断については政府や地方長官、又は警察が行うという甚だ一方的な内容であった。
 しかもその「保安条例」は、十二月二十六日午後官報の号外で突如公布し即日施行に移すという、身構えるひまさえ与えない強引なやり方だった。
 その夜から警官による執行が開始され、自由民権運動の指導者星亨、中島信行、尾崎行雄、片岡健吉、中江兆民ら五七〇名は否応なく退去させられてしまった。その後三年以内は東京へ立ち入る事はもちろん、近寄る事も禁止され常に身辺を監視され続ける事になった。その上、秘密の結社、屋内外の集会、治安妨害文書の印刷の制限、禁止などありとあらゆる手段で運動を拘束した。
「つまりですよ。政府がこいつはためにならない人間と見たら、いやも応もなく追放か監獄ですよ。こんな恐ろしい事てたりますか? 誰も何も言えなくなるじゃないですか。法律や規制を作る人間がその権利を悪用するとどうなるか、という見本がこの保安条例だという人もいます」
 正造はただ頷くしかなかった。
「新聞だって、政府の顔色を見ながら書くようになっては、何のため誰のための新聞ですか? 兆民先生が主筆となった新聞も発刊停止になった事があります。書かせないのです。書けば筆をもぎ取られるのです。西洋の偉い人が言っております。一国の雄弁家が口を閉ざす時、その国は滅びると。まさにその通りなんです。だがそうなっては大変だと思いませんか?」
 伊藤博文は轟々たる非難の中に二十一年四月長閥内閣を明け渡し、薩閥黒田内閣を誕生させた。その理由は様々に上げられるが、一つには後世に残る悪法「保安条例」の責任を取らざるを得なかったと見る向きもあった。
 悪政を蔽い隠すために防塁を厚くしても、それを打ち破る策が練られるのは当然で、やがてはどこからかほころびてゆくのが世の習いだ。まして条例や弾圧が永く人々を押さえ続ける強大な力になどなり得る筈がない。次第に人々はこけおどしの威令には屈服しなくなる。
「帝国憲法がいつの間にか制定され、帝国議会が約束どおり開設されました。でもみんなが願っていたものとはかなり違うところが多いのです。何故だか分かりますか三原さん?」
 正造は首をかしげた。そんな事は考えた事もない。
「作った人は偉い人ばかりで、われわれのような下々の人間が一人もいないからじゃないでしょうか。食う事に苦労をしたり、住むところ働くところに難儀した事のない人たちが作ったからでしょう。今この日本には、四千何百万人間がいると言われています。その大部分の人が、その日暮らしの貧乏人なのです。それなのに、藩閥の利害だとか、自分の損得、果ては妾の身分がどうのと大真面目に論議する人たちが法を作り、政治を動かしているのです。よくなる筈はありません!」
 首を左右に振りながら大きくため息をつく中田の顔は、それでも決して絶望したり諦めている表情ではなかった。それどころか言葉とは全く違う覇気のようなものさえ感じさせ、いささかの翳りも見せてはいない。
 もしかしたら、自分の意見を素直に聞いてくれる相手に、思い切り心のうちを語ってみたい欲求をずっと持ち続けていたのかも知れない。
 向かい合う正造には一語一語の意味よりも、自分のような男を見下したりもせず対等に扱ってくれる事が何より嬉しかった。心許した友だちに接するような中田の態度のお蔭で、今まで聞いた事もない類の話に、飽きるどころか身を乗り出す思いで聞き入っていたのだ。
 人の縁とは何と不思議なものであろう。つい今朝がた飯場を出る時までは思ってもみなかった出会いがあり、初めての地札幌に足跡を印したばかりでなく、その人から聞いた話に胸熱くなる思いを抱くようになるなど、まったく予想さえしなかった一日を終えようとしていた。
 酒には強い正造だったが中田の話に酔ったのかも知れない。火照った顔を真っ直ぐ名中田に向けながら、これまで感じた事のない心地よさに陶然となった。
「やア、すっかり独演会になってしまって申しわけありません。酔ったのかな。退屈だったでしょう」
「いやアなんと、こったに面白い話は生まれて初めてであったス。ホントです。俺ラもこれがらは新聞読んで、少しは勉強さねばって思ったんス。まンズなんて礼言えばいいんだか……」
 正造はそう言って頭を下げた。お世辞でも追従でもなく、本気でそう思ったのだ。
「そうですか。そう言ってくれるとほんとに嬉しいな。僕はこれから原稿を書きます。三原さんから聞いた話を含めて、今夜中にいい記事に仕上げます」
 きめてくれた部屋に引き取って横になったが、慣れない経験で別な気疲れを感じていたのに、しばらくは却って眠れなかった。
 翌朝新聞社に出勤する中田と一緒に食事をとった。
 この次会う機会があるとは思えなかったし、その約束などできる筈はない。ともかく縁があったらいつかどこかで、という別れのためか自ずと言葉少なく過ごしてしまった。それでも一足先に玄関に降り立った正造に、中田は数枚の原稿を手にして言った。
「今朝までかかりました」
 いくらか目は赤くなっていたが中田の満足そうな笑顔を見た正造は、深く頭を下げて表へ出た。

 正造はその日のうちに、小樽から船で北海道を離れた。明治二十七年四月二十日の事である。
 この日札幌師範学校生徒四七名が、校長清川寛不敬事件の取調べに抗議して同盟休校に入った。

笹子村に帰った正造を待っていたものは、やはり嫁取り話であった。兄二人はとうに所帯を持って子供まであったし、妹二人も知らぬ間に嫁いでいた。
 一二の年から鉱夫稼業に入り数えるほどしか家に帰っていない正造は、親戚の者たちに言わせると親不孝の見本という事になるらしい。
「俺ラ、なーんも心配かけだ訳でなかべ……」
 正造の抗弁も郷里では通用しない。
 他の兄妹全員が片づいたのに、いい年になっても身を固めていない息子がいるというだけで、親は肩身のせまい思いをするという理屈だった。
 寄ってたかって嫁取り話が組まれ、同じ村の娘木下ふさと見合いをさせられた。同じ村とは言っても、早くから家を出ていた正造にはその名前にすら覚えがなかった。
 六つ年下の二一と聞かされたその娘は、商売女しか知らない正造の目には只々眩しかった。だが取り立てて器量がいいというのではなく、見たところどこに取り柄といったものも感じさせない娘だった。言ってみれば仲人口では決まり文句の、体が丈夫で働き者でしかも辛抱強い女そのものといった娘であった。
 それでも、じっくり考えてとか、よく見てという言葉は仲人の外交辞令にすぎない。ほとんどの場合は急いで返事をしなければならないものとされている。正造は母親に訊いた。
 三年前より更に指の曲がり方が進んだ母は、どうかすると日常の立ち居にも少し障りが出始めているようで、昔よりも寡黙になったようだ。だが正造の問いにはキッパリと答えた。
「ふさはいい嫁ッコになる。まちがいねえ!」
 正造はふさと結婚する意思を父親に告げた。但し直ぐさま自分と一緒に夕張炭山へ行く事だけが条件である事をつけ加えた。
「そうがや、決めだか。えがった、えがった。木下で何ていうかわがんねえども、お前えが決まればハア、俺ラもうなんも思い残すごとなんかねえ……」
 大袈裟なと思いながらも、ほんとに肩の力を抜いたような父親のほころんだ表情を見た時、不意にどーんと背中をどやしつけられたような衝撃を感じた。
 便りのないのは達者のしるし、と勝手なご託を並べて三年近くもの間手紙一つ出さなかったのが、果して単なる筆不精ですまされる事だったのか。その間親たちは、生死のほども確かめられない息子の事をどんな思いで過ごしていただろう。正造は長く父の顔を正視できなかった。
 それなのに、背中が丸まって以前より小さく見える父親は、心なしかめっきり増えた白髪頭を何度も頷かせて、心底喜んでいる風であった。
木下家から、返事は少し待って欲しいという言葉が仲人を通じて届けられた。娘をいきなり北海道へやる事にためらいがあったのかも知れない。それを聞いた翌日、正造は久しぶりに院内銀山へ親分の高村久平を訪ねる事にした。
 南は山形県境に聳え立つ鳥海山から続く山郡が迫り、北側にそれほど高い山がないとはいえ、姥井戸山からのゆるい傾斜地の間を流れる笹子川に沿って、院内から本荘に通ずる一五里余りの街道が通っている。だがその途中には深くて目もくらむばかりの峡谷と断崖の続く松ノ木峠があるためか、道巾も狭くて往来の盛んな街道とは言えない。
 笹子川沿いの僅かな平地を拓いた田んぼと山腹を耕した段々畑だけでは、この辺り一帯が豊かな農村になる条件には乏しかった。そこで多くの人々が仕事を求めて付近の鉱山へ、あるいは他国へと流出していったのは当然の事であった。
 松ノ木峠へかかる少し手前を南に折れると、銀山へ通ずるせまい間道がある。
 副業に炭を焼く笹子の農夫たちは、何俵もの炭を背負い一列につながってこの道を行く事がある。険しい地形を縫うこの間道は、銀山が発見された慶長年間から二百数十年たった今でも、決して車の通れるほど拡げられた事はない。だが地元の者は銀山への往来にほとんどがこの道を使っていた。正規の道をたどって院内に入るには、どうしても難儀な松ノ木峠を越えなければならないからだ。
 未曾有の好景気が続いていた院内銀山では、親分高村久平も叔父三原政吉も、わが子を迎えるように喜んでくれた。
 北川は鉱夫間の反目や争いにイヤ気がさして離山したとの事だったが、昨年の院内銀山は産銀量が三,六七二貫」(一三・七トン)で全国一だったという。明治二年からとられている銀本位制を金本位制に切り換える事が噂にのぼりだした頃であった。だが変動が激しいとは言っても貨幣の主流はまだまだ銀の時代だった。
 明治十七年、それまで官営だった院内銀山の払い下げをうけ、赤字を克服して日本一にした古川市川兵衛の得意や思うべし、院内鉱山史中正に絶頂の時代ともいうべき頃であったろう。
 但し鉱夫たちにとっては銀の産出量が日本一になったところで、賃金が日本一になる訳ではなく、懐具合は決して良くなってはいなかった。それどころか前にも増して仕事はきつくなっていたし、それだけ危険もふえているとの事であった。
「どんだバ、炭山のあんべえは?」
 久平に訊かれて正造は少し返事をためらった。実情を話せば心配してこちらに戻って来いと言いだしかねない。さりとて炭砿のこの先については、ただ漠然とした期待を抱いているだけにすぎない。
「まンズ、どこでもおんなじえンたもんでセ。ただこれがらは、炭山も伸びでいってもらわねばなんね、どは思ってらども……」
「ンだな。俺ラも、これがらは石炭(ごへいた)の世の中サなるえンた気イしてるんだや」
 二人とも特別な知識や根拠あっての話ではない。それぞれは別でも何となく感じている事を口にしただけであろう。しかし経験と勘を何よりと考える坑夫稼業の二人が、石炭というものの将来について、その時説明のつけ難い何かを感じたのかも知れない。
 何故ならその頃から半世紀以上もの間、他の資源にとって代わられるまで、石炭はエネルギーの王者であった。炭砿の衰退はともかく石炭が全く必要とされない時代はなかったからだ。
 だがこの時の二人が、それから後にやってくる時代を予想し得るものは何もなかった。
「石川はどうしてらや?」
 正造がいる飯場の組長は久平の兄弟分だったのだ。そこで正造は去年の飯場騒動の一件を詳しく話した。その騒ぎをあおった組長の中に、石川やその子分の名が上がった事。そのせいで飯場制度が変わった事。今は石川も世話役になっている事などもあらまし話した。
「そうがや、そった事があったのか。だどもその騒ぎの時、先頭サ立つ者誰かいなかったのかや?」
 つい先日中田秋介にも、同じような質問をうけたのをふっと思い出した。
「それなのセ。訳もわがんねえで三日も暴れで、酒ッコ食らって、人の家バぶっ壊して、それで捕まった奴は監獄さぶっ込まれで……。結局誰がなんのためにあったな事したんだか、まるっきりわがんねえのせ」
 騒ぎの後しばらく落ち着かない日々だった事を思い出してみた。だがもしかしたらうっかり見過ごした光景の中に、あの騒動を引っ張っていた者がいなかったか、頻りに大声を出していた連中の顔を次々と思い浮かべてみた。しかし中田に答えた時と同様、思い当たる顔も名前も出てこなかった。
「去年のの院内でも大変だ事があったのセ。会社相手に一騒ぎあったども、まンズ大した人間がいでよ、始終(とろぺつ)騒ぎたがるバカどもバ押さえで、そりゃ見事だ手綱さばきしたもんだ。ンで会社ど警察バ黙らへで請願通したんだでや」
「うん。北川から聞いだ」
「そうかや、北海道さも聞こえだか。したどもその永岡っちゅう鉱夫には、その後もえらい働きバしてもらったのセ。ンだのにやっぱり鉱夫はバカよ。みんなのために半年も稼ぎバ休んで、鉱夫税廃止の運動やったのに、誰一人も永岡の家族見でやる者はいながったのセ……。永岡が請願通して帰って来たどき、ホントはみんなして頭バ下げで迎えなくてはなンねえ筈だった。ンだのに女房(あっぱ)や子供(わらし)がまんま食えなくなってる事バ誰も知らなかったのセ。こっ恥ずかしくて誰も顔出せるもんでねえ。俺ラも思った。いい年こいで、知らなかったの気イつかながったでは通るもんでねえ。自分の家族さそったなつらい思いさへでまでみんなのために働いだ者に、そした真似したンだバ友子の義理は立だねえ! 誰も気がとがめではいたんだど俺ラ思う。だども永岡はなんも喋らねえで今年の春ここがら出て行った。ホントのどこはきも焼け(腹を立て)でらど俺ラ思う。なんでも羽前(山形県)の朝日鉱山サ行ったっちゅう話らしいどもな……」
 酒が入った久平は、久しぶりに会った子分の正造を相手に雄弁だった。以前はよく怒り出す前にまン丸くなった目が、何故か永岡の事を話す時にもまん丸くなった。それだけこの話には気のたかぶるものがあるのだろうと正造は思った。
「キリシトの信者だっちゅう話もあるども、キリシトだね、ノンノさん(僧侶)だね、中々できる事でねえ! 永岡はいつだり(いつでも)本コ読んで勉強してらっちゅう話だったども、これがらの人間は鉱夫でも土方でもみんな勉強さねバダメだなや、正造よ!」
 翌日は久しぶりの院内をあちこち見て歩くつもりだった。何度断っても久平は仕事を休んで正造に付き合うという。ゆっくりしていればますます迷惑がかかりそうなので、正造は腰を上げる事にした。
 父親似の三人の息子のうち長男は一五だったが銀山に働いていた。一番下の息子は来年から尋常科に上がるとの事だったが、利かん気な顔つきに似合わず無口な子だった。
「一丁前になったら北海道サも来いでや」
 挨拶代わりに末の子正一の頭をなでると、正造の帰る気配を察したのかふっとベソをかくような表情になった。あまり喋らないくせに、たった一晩近々と寝起きしただけでいつかなついていたのかと可愛くなった。
 俺ラは無学で読み書きもできないが、息子(あんこ)らには何でも一番になってもらいたい、と名前の下が全部一の字であった。二男三男も久平には関係ない。長男には久一、二男には平一と自分の名前を分け、三番目も男と分かった時には、女房のまさを正の字に見なして正一と名付けたと聞いた。
 久平は又、友子のしきたりだからでなしに心底子分思いの親分でもあった。
 もしこの久平が亡くなった時には、子分である正造が三年以内に墓を建てなければならない。それが友子の取立で縁結びをした親分に、子分が尽くさなければならない義務であり最大の儀礼である。この仏参というしきたりに背くような事をすれば交際友子の間に廻状が回り、坑夫社会から恩知らずの不義理者としてはじき出されかねない。坑夫の技とともに受け継がれてきた伝承の一つだが、そうした約束ごとを煩わしく感ずるのか友子に加入しない抗夫が増えていた。
 しかしもし久平に何かあればしきたりや義理などからではなく、何をさて置いても駆けつけずにはいられない肉親の絆のようなものを、正造はどこかに感じていた。
 叔父政吉の家にも一泊して笹子に戻った正造を待っていたものは、木下家からの正式な結婚承諾の返事であった。
 あれよあれよという間に結納が交わされ式の日取りもバタバタと決まり、親戚縁者を集めて盃と形ばかりの披露を済ませたのは、正造が夕張を発ってからまだ一月とは経っていないという慌ただしさであった。翌日から墓参り親戚回りで二日ばかりを過ごし、ふさが持って来た荷物の中から、着るものを中心に選んで数個に荷づくった。
 正造が初めから身一つでと望んだふさは、普通よりはるかに身軽い嫁入りだったにもかかわらず、それをさらに削って故郷を後にしたのは五月の末頃であった。

 この月五月八日、韓国の全羅道において東学党の乱が起き、郡役人はその鎮圧に手を焼き韓国政府の派兵を求めた。だが農民を中心にした一揆は各地に拡大する兆しのある事が伝えられた。
 日本国内では帝国議会も第六回の開会を宣したが、第二次伊藤内閣は冒頭から野党の総攻撃を浴び大苦境の国会となっていた。懸案となっている条約改正問題が一向に進展していないせいであった。
 安政五年大老の井伊直弼が攘夷論者の孝明天皇から勅諭を得られぬままに結んだ通商航海条約は、そのせいで未だに仮条約と称ばれていた。又、米英露仏蘭の五カ国に対し不馴れな外交交渉の結果ほとんど相手の言いなりに与えてしまった特権や、条約更改の期限を定めていない事から不平等条約とも言われていた。そのため条約改正を急ぐ事が歴代内閣の最重要な外交課題とされていたのだ。
 しかし治外法権を認められ、関税交渉の権限さえも与えられているこの通商条約の利益を、やすやすと手放す国などある筈はない。特にイギリスとの交渉が困難をきわめていた。
 イギリスはインドに続いて清国を植民地にするべく、阿片戦争に勝って莫大な権益をもぎ取り、更に日本を含む極東諸国に対してもその利権を広げる意図を持っていたからだ。
 伊藤、黒田、三条、山県、松方とたらい回しの薩長政府が、野党と対決して常に勝ち目のなかった難問が、この不平等条約の改正問題であった。
 野党六派は結束して条約改正失敗の政府責任を追及した。その蔭には、二十年の暮れ近衛兵まで動員して強行した保安条令によって、散々痛めつけられた自由主義者たちの反発や、薩長政府への反感が大きな力となっていたのはいうまでもない。
 伊藤は議会の解散を以て野党を牽制した。対する野党は内閣不信任案を多数で可決し、次いで内閣弾劾上奏案で応じた。だが天皇はその上奏案を容れず、伊藤の手続き通り議会の解散を命じたのだ。
 その頃東学党の乱はますます広がって全羅道全州が反乱軍の手に陥ちた。李朝政府は慌てて清国に援軍の派兵を要請した。
 韓国をめぐっては、歴史的に韓国を属邦と見なす清国とそれを認めない日本とは常に対立していた。従って清国の抜け駆けを押さえる目的もあって、十七年に天津条約を結んでいた。それには韓国に出兵の必要ある場合は事前に話し合う条項が盛られていた。
 清国公使から、韓国王の要請により属邦保護の目的で出兵すると日本政府に伝えてきた。これに対して日本は、出兵の件は承知したが韓国が清国の属邦である事は認められない、ついてはわが国も居留民保護の目的により若干の派兵をすると答えた。
 李鴻章ひきいる清国三,〇〇〇に対し、大島旅団の兵力は七,〇〇〇であった。これが在日清国公使に通告した若干の派兵であった。この不均衡が清国を刺激しない筈はない。同時に、この機会をとらえて韓国を軍事的に支配しようと企む日本の意図が、露骨に見えてきた事に清国は反発した。
 折も折、一旦治まった東学党の主戦派が再び日本軍に反抗しだした。
 これが開戦前の日清韓をめぐる情勢であった。そこに思いがけない国際情勢の変化が生まれた。
 これまで何度か条件を引き下げて改正を申し入れていた条約交渉に、突然イギリスが応じる姿勢を見せてきたのだ。その背景や理由が何であれ、伊藤内閣がこれに飛びついた事はいうまでもない。譲れるだけ譲った日英の新通商航海条約の交渉は、それでも七月半ばまでかかった。
 イギリスが阿片戦争を仕掛けて清国からむしり取った賠償金や、香港割譲などの権益は莫大なものだった。その一角を脅かすロシアのシベリア鉄道建設による極東進出を、何とかして阻止牽制する役目を日本に担わせようとする狙いが潜んでいた。
 六月二日に議会解散と韓国出兵を宣して軍が韓国に出動したのは六月四日の事である。以来韓国内での軍事行動は、韓国をそっち退けにしていつの間にか日清の野望剥き出しの争いになっていった。但しその間も日英交渉は休みなく続けられていたのだ。
 もし日清が開戦となれば、イギリスは清国の支持に回るであろうとは誰しも思うところであった。だが条約交渉の進展次第でそれがどうなるか、という読みが日本政府にはあったからだ。
「この条約は日本にとって、清国の大軍を敗走させた以上に意義がある」
 改正条約の調印席上、イギリス外相はぬけぬけとそう言い放ったという。
 自国の権益を守るため恩着せがましい外交交渉に誘い込むなど朝飯前の事であったろう。そんな遠謀の真意を知るや知らずや、日本政府はイギリスの後ろ盾を得たものと小躍りして清国に宣戦布告した。日英新条約調印の僅か九日後の事である。
 執拗な野党による政府攻撃や、外交の弱腰を非難する国民の声をかわすには絶好の機会であった。国中挙げて一つの目的に集中させるには戦争以外ない、と薩長政府が危険な賭けを打ったと見る人もあった。
 江華湾豊島沖の日清両海軍の衝突は七月二十五日であった。だがそれが日清戦争の口火となった。宣戦布告は日清ともに八月一日であったが、実際の衝突ははるかにその前から始まっていたのだ。

 正造がふさを連れて夕張に戻ったのは六月に入ってからの事であった。
 青森へ出て船で小樽へ向かうつもりが、つい先頃手宮の色内で火事があり六〇〇戸も焼けて一面焼け野原になったと聞き、新しくできた室蘭への航路を選んだ。室蘭から苫小牧を経て追分に至り、更に乗り換えて夕張に入る汽車の長旅は、初めて故郷を離れたふさをひどく疲れさせた。
 ロクに口を利いた事もないうちに嫁入りとなり、落ち着く間もなく挨拶回りから旅支度と続き、大荷物を背負っての長旅は、いかに辛抱強いふさにとっても泣きたくなるほどの大仕事だった。
 気づいていながらそれを口に出して慰めてやれない正造も、行きとはまるで違ってしまった帰りの旅に、実はどうしていいのか分からない戸惑いがありいささか身にこたえていた。
 発つ時とは違って辺りの山々には雪のかけらさえ見当たらない夕張の駅前に降り立った時、疲れと緊張でほとんど泣きそうになっているふさに、正造は言った。
「ここが俺ラだのヤマセ。いい時ばっかりはねえべども、二人でけっぱるしかなかべ。な?」
 黙って頷いたふさの手から、風呂敷包みをもぎ取るように自分の荷物と一緒に提げた正造は、先に立って歩き出した。
 風に乗って何か知らない花の香りが一瞬鼻をくすぐった。夕張はようやく春が終わろうとしていた。
 急に手ぶらになったふさは、一瞬体の平衡を失ってよろめきながら慌てて正造の後ろに従った。長旅で疲れているのは正造も同じ筈だし私より多くの荷物を背負ってきた。その上更に持たせては申し訳ないと思いながら、どう言えばいいのかにわかに言葉は浮かんでこなかった。
 用事以外ほとんど口を利かない正造が、ただ無口なのか不器用なのかあるいは照れているのか無神経なのか、ふさにはまだよく分からない。それが不安でないと言えばうそになる。まして生まれ育った土地を離れてはるばる海を越え、ようやくたどり着いて見れば思っていたよりずっと辺鄙な山の中であった。もしかしたらその気持ちを察しての言葉だったのだろうか。
「……いい時ばりはねえ……。だども、二人してけっぱるべ……」
 そんな風に聞いた。そうなのだ、これからは何があってもこの人に随いてゆくしかない。何でも二人でやってゆくしかないのだと思った時、初めて夫たる男の肩巾の広さに微かな安心が湧いてきた。
 出発する時には気づかなかったが、僅か一月余りの間に急に家も増え、道行く人の数も多くなったように正造には感じられた。
 ステンションを上から見下ろす通りに沿って、人夫紹介の看板も一緒に並べている旅館があり、その隣の敷地には小学校が建っている。まだ正式に認可されていないため私塾の扱いであった。それでもこのヤマにはここしかないためずいぶん生徒も増え、帰る時間なのか一段と賑やかな歓声が聞こえた。五、六十人ぐらいはいるのかも知れない。

 飯場では若い嫁さんを連れ帰った正造は注目の的になった。その分だけ二人とも、特にふさは緊張の続く日々となった。
 夫婦者の入る部屋は別になっていたが特別扱いなど何もなく、ほとんど雑居と変わらなかった。
 帰り着いた日正造は、世話役と呼ばれるようになった石川の親父より、まず北川にふさを引き合わせた。固くなって挨拶するふさの顔を、北川は息を呑むようにしてしばらくは凝視め続けていたが、不意に目を逸らした。何故かそれから後の北川は落ち着かなくなり、どうしてもふさとめを合わそうとしなかった。
 何という照れ屋なのだろうと正造は可笑しかったが、そのうちには慣れるだろうと思った。
 会社に掛け合って長屋を借りる相談をした。幸い半年ばかりびっしりと働き詰めに働いた実績もあって、斜坑の上に空いた長屋の一戸に越せる事になった。秋田から戻って半月余り経った六月末頃の事であった。
 斜坑の上は、冷水山へとつながる切り立つような山腹が徐々に傾斜を緩めて、シホロカベツの左岸となるかみの山一の居住地であった。石炭の大露頭に近いのと緩やかな地形のせいで、一番多くの飯場が建った場所でもあり、それに連れて坑夫長屋の数もヤマ一番の部落と言えた。
 実際には斜坑の上部落より一キロ余り北の山奥、一番坑の付近に建てられた笹葺きの小屋が坑夫長屋の発祥であったらしいが、そこいらは位置的にも地形的にも大きな部落となるには余りにも条件がよくなかった。
 斜坑の上からプトマチャウンペの沢一つ隔てた隣の三番坑の上部落も、シホロカベツをはさんで向かい側の西山にある移住民長屋の一帯も、いずれもかなりの斜頚地である。その点採炭事務所、ステンション、そして商家の集まるサルナイの市街地に最も近く、どこへ行くにしても便利な位置を占めているのが斜坑の上であった。
 正造とふさが入ったのは間口二間の八畳一間に台所とも呼べない単なる流し場がつき、それに並んだ土間剥き出しの靴脱ぎがあるだけの造りだ。それでもそこを玄関と名付け破れたら貼り破れたら貼りの油障子が立て切ってある。上がり框から座敷の間には襖どころか障子さえなく、目を動かさずとも部屋の隅々から天井まで一瞬に見渡せるという広さなのだ。
 板壁も薄い四分板をせいぜい一間(一・八メートル)止まりの高さで隣と仕切った八戸が、一つ屋根の下に背中合わせで十六戸という棟割長屋であった。おまけに天井が張ってないため、見上げれば棟木から梁まで丸見えの馬小屋さながらの造りとなっている。
 正造夫婦の入った一戸は、前にいた住民が気にしたためか壁板の継ぎ足しがあり、隣から覗かれないようにしてあった。
 八畳一間しかなければ居間も寝間も客間も兼ねているのはもちろんだが、それも只の板敷きにすぎない。正造は走り回って薄縁(うすべり)代わりの荒むしろを手に入れてきた。その頃の坑夫長屋で畳を敷いている家など一軒もなく、畳ござに布で縁取りした薄縁が敷かれていれば最高で、荒むしろが普通の敷物であった。
 突破に使うダイナマイトの空き箱は、戸棚どころか押入れもないこの長屋では貴重な収納であり、二つ重ねると食卓代わりにもなった。
 鍋釜七輪茶碗ランプから一組の煎餅布団まで、差し当たっての暮らしに必要な物一式何から何まで新しく揃えなければならない。物入りが続いた後なのでとても金が足りそうもなかった。だがその事をあけすけふさにいう訳にはいかない。
 炭山暮らしに慣れていないどころか、まるで外国にでも来たように心細い思いを必死でこらえているふさが可哀相でもあり、正造にも男として多少の見栄もあった。会社の購買所から借りられるものは借りて何とか最小限の必要品は調達した。
 気丈に見えてもふさはまだまだ若い女であった。嫁入り以来一月半というものは気の休まる日はなかったと言っていい。飯場から正造が借りていた一つ夜具に、くるまって寝るだけでも身の縮むほど恥ずかしく、疲れているのにぐっすり眠る事さえできないでいた。
 正造と肌を合わせたのは祝言の夜たった一夜の事であった。それさえも儀式のように契っただけにすぎない。以来長旅に続く飯場の起き伏しとあっては、人の目はもちろん耳まで気になるらしく、知らずに襟元を合わせ身を堅くしているふさに正造は無理強いできなかった。
 越したばかりの棟割長屋は、二人の持ち物が入ったいくつかの柳行李や風呂敷包みがあるだけで、およそ殺風景な部屋であった。薄縁代わりの荒むしろは新しいだけにまだ足裏にチクチクと痛い。掃くとか拭くといった広さも場所もない。飯場の賄いから差し入れされた握り飯を夕飯代わりに食いながら、更めて部屋の中を見回した。
 棟木や梁の見える屋根裏から、何年も掃除をした跡が見えないように煤がぶら下がって揺れている。隙間だらけの壁板をふさぐ目張りと、壁紙代わりに貼った古新聞もごわごわに厚くなって煤けている。だが借り物長屋の一間とは言え、二人にとっては文字通り新居である。これからどんな時を刻んでゆくにせよ、自分たちがほんとうに夫婦らしい第一歩を踏み出すのはここからなのだ、という思いが二人を包んだ。
 いっぱいに上げていたランプの灯を思い切って絞った。急造仮普請さながらの部屋も二人にはもう見えない。暗さに馴れるに従って思いは一つに高まり、ふさの背に回した正造の腕に力がこもった。闇の中でも一瞬の羞じらいを見せたふさだが、やがてなすがままになっていった。
 閉じたふさの瞼にはもう正造の姿以外何も見えなかった。昼間はあれほど気になったこの部屋の内外も、家具一つない侘しい佇まいも何も浮かんではこなかった。その耳には肌を伝う激しい胸の鼓動や、次第に荒くなってくる呼吸遣いすらまったく聞こえなかった。
 式を挙げてから一月半経って、二人は初めて夫婦になった。

 長屋では台所と居間の境に囲炉裏に似せた火床(ひどこ)を作り、炭火をおこして煮炊きをしたり暖をとったりする。だが炭代をけちったり金がなくなったりした者の中には、その火床でじかに薪を燃やして炊事をしたり、寒さしのぎをする不心得者もいた。
 又そんなやり方ではどうしても部屋が煙るのを嫌ってカンテキを使う者もある。それは空になった油缶の上部をくり抜き横腹に孔をたくさんあけ、簡単な火受け棚をつけたトタン板製の手作り七輪ともいうべき代物だ。それを戸外に持ち出して煮炊きに使うのだ。
 本来は各戸とも七輪を使う事になっていた。だが割れたり傷んだりしても金がなくて買替えに困ったりすると、家の中で焚き火をするという危ない事を平気で繰り返す者がいた。火事への懸念は当然だが、長屋中が煤煙で真っ黒になるのさえ気にしない無神経な所業である。
 一つ所に落ち着けない暮らしを続けてきた坑夫たちの中には、衣類や家具といったものに無関心な者もいる。しかも住むところは必ず飯場か会社の長屋であったせいか、大事に扱うとかキレイにして住もうという考えを持たない連中がいたから始末が悪い。
 いつ起きたのか、ふさが昨日買った七輪で朝飯の支度をしていた。正造が目をさました事に気づくと、傍に座って手をつきながら小さな声で言った。
「堪忍してたンセ」
「どしたバ?」
「味噌つゆの実ッコも弁当のおかずも、何ンにも買ってない事を忘れでたンス」
 見ると泣きだしそうな顔をしている。
「なんだ、そした事だバなんも気にさねえッていい。家移りしたばっかりだもセ。生味噌でも入れでおけばいい」
 本当にその日は具なしの空汁で朝飯を済まし、弁当にも味噌をまぶして仕事に出た。
 一番坑の繰越(坑夫集合場)で北川に会った。
「どんだや?」
 北川に訊かれて何となく今朝の失敗を話し、生味噌まぶしの弁当を振って見せた。
「俺ラが気イつけでればえがったのに、なんだかんだ買いサ走ったりして、コロッと忘れでらんだ。おかげで今日はおかず抜きだや。」
 照れ隠しもあった。それに何より気の置けない北川なのでおどけたつもりであった。
「可哀相(むぞー)な……」
 北川はポソッと言って眉を寄せた。
 一瞬何を意味しているのか正造には分からなかった。
 同じ坑内で採炭をしていながら、現場も違えば組んでいる先山も違っている。朝は挨拶程度の会話が精一杯ですぐ別れた。歩き出してから、今夜にでも来いと言い忘れた事に気づいて振り返ったが、もう北川の姿は見えなかった。
 一番坑は水平坑道で、南側に向いた山腹に坑口がつけられている。山肌に露出していた炭層から掘り出してそのまま進むいわゆる沿層採炭で、通称狸掘りと呼ばれるやり方に近い。
 岩盤と岩盤の間にある石炭を掘ってゆくところが、狸の穴掘りに似ているからだという人もある。それに対してかな山(鉱山)の坑夫は異説を立てる。
 純度の高い鉱石を直利(なおり)と呼ぶのだが、その直利だけ選んで掘るのを「抜き掘り」という。そんな事をすれば質の悪い鉱石しか残らなくなり、やまの衰退(よろけ)を早めてしまう。それはともかく、安い魚油を使うランプの灯で「抜き掘り」をする鉱夫の顔が、もうもうと煙を出すランプの煤で真っ黒になり狸さながらになる。そこで「抜き掘り」する鉱夫を指して「狸掘り」と呼ぶのだという。
 直利だけを追っ掛けて掘るため坑道はせまくなり空気の流れも悪くなる。当然ランプから出る油煙も他の場所よりずっと多くなるのであろう。
 どちらの説が正しいのかよく分からないが、どちらとも何となく分かるような呼び方であった。
 三〇〇メートルほどの水平坑道を歩いてから、それぞれの切羽(採炭現場)に向かう枝坑道に別れてゆく。坑口付近と違ってこのぐらい奥になると、空気はかび臭い土の匂いや支柱に使う生木の匂いやらで複雑な匂いとなる。
 坑夫は真っ暗闇の坑内で、目ばかりか鼻も耳もいっぱいに広げて鋭敏でなければならない。
 それにしても暗い。手提げ方のデビー式安全灯は、去年あたりまで使われていた石油カンテラよりただ重いだけで、ちっとも明るくないと坑夫の評判はよくない。
 裸火のカンテラに馴染んだ鉱山からきた鉱夫が多かったせいもあり、そのせいでガス爆発に対する知識があまりなかった。剥き出しの火が何より危険なものとは知らないのだ。
 デビー式は筒型の外周をスッポリ目の細かい金網で囲ってあるため安全との触れ込みだったが、そのせいで暗くなるのが何より欠点だった。だが爆発の一番の原因がカンテラのせいだと言われてみれば、暗い重いが二の次にされてしまうのも致し方ない。
 だが入坑したばかりでまだ目が馴れない時の暗さは、毎日の事なのにほとんど足元さえ見えない。切羽に着く前にじめじめとぬかるんでいるところへ踏み込んだり、トロッコを牽く馬が落として歩く馬糞を踏んずけたりしてわらじを塗らしてしまう。
 紺無地でできた通称「メク」の股引きの腰に、履き替えのわらじ一足はぶら下げて行くのだが、水濡れさせるとすぐ切れてしまう。下手をすれば出坑までもたない心配があるのだ。
 坑夫たちは地底の暗さに仕方なく耐えているだけで、ほんとは何よりも明かりを欲している。煌々たる明かりなど坑内では望めないと知りつつ、せめてもう少し見えくれればと暗い安全灯に苛立つのだ。真の暗闇の中で働く者たちにとって、灯火の明暗一つでさえ生死を分ける大問題でもあった。
 この当時一番坑が用いていた採炭方法は至って簡単なものであった。
 炭層を一区画六〇尺(十八メートル)の碁盤目に切ってゆく。その左側を昇りと呼ぶ上向きの傾斜をつけて、半分の三〇尺だけ炭丈(炭層の高さ)いっぱいの高さで掘り進める。残り三〇尺巾は地圧を支える炭柱としてしばらくは残しておく。
 一気に掘って大きな空間を作ると地圧で崩落を起こしたり、その空間に地中から出るメタンガスが溜まりやすくなる。それが何より恐い爆発の原因になる事はいうまでもない。残りの三〇尺巾は適当な間を置いてから次の組が掘る。
 大ざっぱに言えばその繰り返しが一番坑の採炭方法であった。
 崩落の危険は、切羽が地底深く進めば進むほど増してくる。普通一メートル四方の岩石がもつ重量は二・五トンと言われている。切羽がもし一〇〇メートルの深さにあるとすれば、頭上一平方メートルに二・五トンの一〇〇倍二五〇トンもの重量がかかってくる事になる。
 想像さえつかない巨大な重量が地圧というものだ。厄介な事にそれは上からばかりでなく、回りの土べら(側壁)からも下盤からもかかっている。従ってその地圧をかわすために切羽の近くに支柱を立てなければならない。仕事をしている間だけ何とか地圧を逸らしてくれればいい程度の支柱である。長く使う坑道と違って切羽の支柱は大抵の場合簡単なものになる。石炭を掘った後はほとんどの場合埋めるか潰すかしてしまうからだ。
 更に掘った石炭を運搬用の主要坑道に下ろす必要のため、わざと傾斜をつけた左側の昇り坑道に複線のレールを敷く。一番上に坑夫が自転車道と名付けた滑車の座を固定する。その滑車にマニラロープを通し、半コロと呼ぶ現場用の小型トロッコを切羽近くまで引き上げる。それに石炭を積んで滑車と座板の間にはさんだブレーキ棒で加減じながら下ろす。その重量を利用してもう一方のロープに結わえた空の半コロを引き上げる。言ってみれば車井戸式のやり方である。
 そうして出した石炭を一カ所に集めて普通のトロッコ(〇・七トン積み)に積み替える時、空車の内側に掘った組や先山の名を打ち込んだブリキ板を掛けておく。その荷トロ(実車)が選炭場で空けられた時に、誰の組が何車出炭したかを知るための名札なのだ。言わば納品書の役目をする訳だ。
 さて運搬方法になるが、二番坑や三番坑のように斜坑であれば上記で動かす捲揚機や循環機が必要となる。しかし一番坑は今のところ採炭現場まで水平なので、馬がトロッコを牽いていた。
 馬にもよるが石炭の実車なら八車前後、石ズリ(ボタ)は重いので五車ぐらいを牽いて選炭場まで往復する。
 採炭方法は至って単純であったが、このやり方にはいろいろと問題の多い事が次第に分かってきた。まず通気の事だ。碁盤目に切った坑道は意外に空気の流れがよくなくて、ガス払いが難しいのだ。もう一つはこの方式によると、強大な地圧を支える柱代わりにかなりの炭量を残さなければならない。そうでなければ天盤(天井)の安全が保てないのだ。大量の石炭を目の前にして全部を採取できないこの残柱式または柱房式採炭方法は、採算の上からも大いに問題であった。
 会社は、目下別な採炭方法を考えているとの事であった。

 正造と組んでいる先山は岩田源吉でまだ四〇前であった。だがちょっと見には五〇近くにも見える大酒呑みで、いつも鼻の頭を赤くしている。しかしここぞという時には信じられないような怪力を発揮する事で知られている。口癖の言葉が、わったわった(一所懸命)という津軽弁のせいで、岩田に引っかけたつもりのわった源と呼ばれる事が多い。
 もう一人は正造よりもずっと年下の高木三郎だ。わった源と同郷青森の呑み仲間の伜で一九だった。これがわった源とは正反対に一九どころかまだ少年のような顔をしている。だが父親のいう事はさっぱり聞かないくせに、「さンぶ」と呼ぶわった源の津軽訛りには逆らう事なく素早く応ずるのだ。
 高木の父親がわが息子を自分の手子として使う事なく、他人であるわった源に預けたのもその辺にあるのだろう。
「おい三原とさンぶよ。わったわったどやって早ぐ上がるべ。ンめえ酒ッコは待ってるし、なんたってハア、三原にはめんこいあっぱが待ってるべからよ。なア」
「朝からこれだもセ」
 冗談の掛け合いをしながらも、いつかしらピーンと気合は入ってゆく。
 天盤や土べらに異常はないが、払い(採炭)跡のバレ(崩れ)がどうなっているか。ガス溜まりはないか、と気にしなければならない事は無数にある。
 わった源が、炭壁に目方が二キロもある片鶴(片側がハンマー状になった鶴はし)を振るって透かしを入れている間に、さぶは留め(支柱)に使う丸太を取りに運搬坑道まで何往復もする。その日に使う材料は朝のうちに準備しておかなければならないのだ。
 正造はわった源の指示や自分の判断も加えて、炭目(すみめ)沿いに鶴はしをぶち込んで炭壁をゆるめたり、支柱の段取りをしたり溜まった石炭を掻き出したりする。
 石炭の質や炭目の方向(板目、柾目)、地圧の強弱によって掘り方も違うが、それは先山が決めてくれる。この見きわめが年期であり腕でもあるのだ。先山は会社の技術系社員や担当と呼ばれる職制や小頭の指示を受けながら、自分の経験や工夫を折り込んでの段取りを考えてゆく。
 会社としては常により多くの出炭をと考えるのは当然の事だろうが、それは切羽の状態によって毎回違ってくる。炭層の厚い薄いや傾斜の角度、更に炭質が硬いか軟らかいかによって、その都度微妙な細工や工夫が必要とされてくる。
 経験不足の先山にはその見分け方が重荷となる。その他危険に対する判断やいざという場合の処置も、先山の腕や能力を決める大事な要素である事はいうまでもない。
 後山のほうにしてもできれば腕の悪い先山とはなるべく組みたくはない。金にならないばかりでなく時には生命に関わる事もあるからだ。
 わった源はずば抜けて腕のいい先山という訳ではないが、どういう訳か正造とは気が合っている。大酒呑みではあるが酒癖の悪いほうではない。それに槌組を組んでいる正造やさぶにとって何より有難いのは、金にガツガツしない点だ。割当分けでそれぞれの取り分を決める時も、さっぱりしていてほとんど揉めた事がない。坑夫まさかりが飛ぶような不快な思いを一度もした事がない。
 去年秋頃から従業員全員が会社直轄になった。そのため組長らのピンハネはなくなっていた。だが採炭、留め付け(支柱)、石掘りといった二人以上で槌組を組む仕事では、どうしても毎月の取り分の話し合いはしなければならない。
 ただ一つ困るのは、酒を呑みすぎて時々仕事を休む事だ。それは仕方がないとしても休んだ次の日が凄まじい。口癖通りわったわったと稼いで休んだ分を取り返そうとする。当然正造とさぶはそれに付き合わされて、仕事終いにはクタクタで口も利きたくなくなるという訳だ。
 昼飯までの間にわった源と正造で一払い(受持ち切羽全面を掘り進める一回分の仕事)をした。踏前(足元)から後ろの下り方向へさぶが必死になって石炭を掻き出し、半コロに積み込んでは自転車道を使って何度も下に降ろした。
 わった源は片鶴を真横に振るって、下盤スレスレの辺りにかなり深い掘り込みの透かしを入れる。この作業は相当鍛えていないと横っ腹の筋肉がビリビリ痛む。これをわった源は難なくやってのける。熟練している事もあるが恐るべき怪力という外ない。
 透かしを入れると、地圧のせいで炭壁が掘りやすくなり時には自然にバレてくる事もある。そこを正造が炭目の反対側から縦に鶴はしを叩き込む。うまくいけば面白いように炭塊が剥がれてくる。それが足元にたまってくればさぶを手伝って炭積みをする。わった源はその間に落ちそうな天盤に留めを立てたりもする。
 仕事に追われながらも弾みがついてくるようになると、冗談一つ出てこなくなる。見る見るうちに噴き出した汗に炭塵が張り付き、裏表の見分けがつかないほど真っ黒になる。だが昼飯になったとしても顔や手を洗うなどできない。せいぜい手拭いで口の周りを拭えば終わりだ。
飯時には誰が決めるでもないが天盤のしっかりしていそうな場所を選ぶ。掘ったばかりの切羽は山が動いて安定しない。危険と思われる所から少しでも遠ざかるのが坑夫のやり方なのだ。そこにスコ(わらで作った腰当て)か支柱の切れ端などを置いて腰を下ろす。
 暗いとこぼしながらも三個の安全灯を吊るせば少しはましな明るさになる。
 広げた弁当にむしゃぶりついたわった源は、正造の弁当を覗き込んで目を丸くした。
「三原よ。お前えの弁当、味噌ッコだけな?」
「ンだ。昨日家移りしたばっかりだもセ」
「ンだば、俺ラのおかず突っつけでや。何ンもじき(遠慮)さねってもいい」
「イヤおどよ。今日だけだハッテ、気イ使わねえでけれ」
「しだども三原よ。なんぼめごいあっぱだバッデいい加減にせえよお前え。おかず作るひまもやんねえで、朝までずーっと抱いでらんでねえのかや?」
「又始まったもや。そったな事ねえって。只おかずさするのも買うの忘れでだけセ」
「まア、まンずいいっていいって。俺ラだって覚えのある事だね。若え時はよ、通し晩(徹夜)でけっぱったってお前え、仕事なんかわったわったどできだもんだ。なアんも恥ンつかしい事なんかねえ。なア、ンだべ、さンぶよ?」
 ニヤニヤ聞いていたのに急に同意を求められて、さぶは慌てて飯をのどに詰まらせたようだ。
 昼飯の後で正造はわった源に正直なところを打ち明けた。まだまだ買わなければならない物もあるのだが金が足りなくてと隠さずに話した。
「俺ラがその銭ンコ貸してやれればいいんだども、呑んべだバッてクソの役にも立だねえ。銭ンコはハアみんな腹ン中さ入って出る時はしょんべんだ。勘弁してけろや」
「なアんもだっておどよ。俺ラ、おどから銭借りたくて喋ったんでねえ。こだな時だから少し稼がへでもらいてえど思っただけだバッて……」
「分かった三原。俺ラだち坑夫はよ、泡ンぶく銭持ったり借金なんかさねえほうがいいど思うんだ。あるだけでやるか、無え時は食わねえで我慢すっかしかねえべ。後はハア、自分の体で稼がねばまいね!俺ラ、そう思うんだや。違うか三原よ?」
「俺ラもそう思う。おどよ、俺ラなんぼでもけっぱる。頼むでや稼がしてけれ!」
「おうおうやるべやるべ。さンぶも聞いだかや?お前えもけっぱれよ。わったわったど稼いで銭ンコ取れば、お前えのおどやおががなんぼ喜ぶか。ンでその銭ンコ持って後家屋さ走ればハア、こんだ女ア泣いで喜ぶど。なアさンぶ!」
 精一杯汗を流しての昼飯はロクにおかずなどなくても食える。まして気の通い合った槌組ならばなおの事、遠慮ない軽口の応酬が何にも勝る味付けであったかも知れない。
 飯場での食事に馴らされた連中は、まず空きっ腹を満たすほうに気をとられ味はその次になる。だから大食い早食いも芸のうちとばかりに掻っ込むのだ。のんびり味わっていようものなら、早いもの勝ちで汁も菜もなくなり、どうかすると食いっぱぐれる事さえもあった。
 しかし正造にとって今日の昼飯は美味かった。生味噌をまぶしただけの弁当を、瓶に詰めて持ち込んだ水で掻っ込みながら、これほど美味いと感じた事はない。
「さア、さンぶ。やるど!」
 わざと正造の名を呼ばずに立ち上がったわった源の掛け声で、二人は勢いよく立った。
 午後からの仕事は気合が入った。一服も惜しんでいつもより多くの石灰を出した。一服とは言っても坑内で煙草はもとより火気一切が厳禁だ。石油カンテラの頃は何かの都合で消える事もあったので、内緒でマッチを持ち込む連中もいた。だがそれが何より危険と今は禁止されている。一息入れる中休みを坑夫は一服という。
 頑張った分だけ上がり(出坑)は遅くなったが、正造には快い疲れだった。
 一年で一番日の長い頃であったが、もう鳩の巣山に陽がかげり道行く人の影が長く伸びていた。このヤマにももうすぐ夏がやってくる。坑口近くにだけ集中している建物の間を抜けると、すぐ笹やぶや丈高い雑草に囲まれた道になる。
 一番坑と第二斜坑の坑口から続いている複線の車道は、雪で通れなくならないように屋根付きの長い廊下に似た造りになっている。やまの人々はそこを輸車路(ゆしゃろ)と呼ぶが、その終点は必ず選炭場なのだ。
 この当時の選炭場に複雑な設備などはなく、大雑把にいうならば炭塊の大きさを篩(ふるい)の目で分ける万石式の装置と、人の手で石灰とズリを選別するだけの場所と仕掛けがあるにすぎない。後はそれを貸車に積み込む貯炭場があれば事足りたのだ。
 輸車路に沿った細い道の上に覆いかぶさるように木の枝や熊笹が生い茂り、差し交わす枝葉や雑草からむせかえるような青葉の匂いがしていた。
 坑口から斜坑の長屋までどんなに急いでも二〇分余りはかかる。正造が油障子を開けると待ちかねたふさが立っていた。飯場にいた時より遅い帰りと今朝の失敗を気にしていたのであろう。
「なんかあったんでないかと思って……」
「心配さねっていい。山がハア硬くて……」
 炭質が硬ければ掘るのにそれだけ時間がかかるという意味なのだが、炭鉱に来たばかりのふさにそれが分かる筈もない。
「大分前に北川さんが来て、家移りの祝いだってあれ置いで帰ったンス」
「北川が?」
 見ると、酒一升に塩引き鮭が一匹置いてある。
「上がって待ってでたンセって喋ったんだども、三原がいねえんだバいいってすぐ帰ったンス」
「セば、風呂の帰りでも飯場さ回ってみるかや」
 着替えや洗面具を受け取り松尾の風呂へ行く道々で正造は思った。今朝入坑前に顔を合わせた後で、今夜にでも来い、と言い忘れたのが聞こえでもしたようで不思議な気がした。
 がさつで無作法な連中の多い坑夫の中で、北川は珍しいほど律儀な男だった。夕張に来てまだ一年も経っていないのに、飯場内でも現場でも不思議なほど信用があり評判は悪くなかった。派手な金遣いもせずかといってケチでもなく、仲間とも酒を呑むが正体なく崩れたりした事もない。たまにはサルナイに下りて遊ぶ事もあるようだが入り浸る訳でもない。見ようによっては一風変わった男だった。
 だが友子の交際もキチンとしていて不幸米も欠かさず出した。これは友子加入の本人か家族に不幸かあった時、香典代わりに友子全員が出す米の事だが、その付き合いを惜しんだり不平を鳴らす者も少なくなかった。その上、新大工と呼ばれる見習い坑夫は、その度に不幸当番として休んで手伝いに行かなければならない。それが度重なれば負担も大きくなるのでイヤがる者も出てくる。
 そんな折、新大工どころか熟練坑夫と言っていい北川が、頼まれれば黙って手伝いに行った。口数の多いほうではないないので何を考えているのか周りの人間にはよく分からない。性格も決して明るいほうとは言えなかった。だがそれが却って友子の頭役や現場の槌組、あるいは小頭らの信用を高めていたのかもしれない。
 只、正造はいつも不思議に思う事がある。
 いつしか兄弟同様な付き合いになって、正造もほとんど隠し事なく何でも話している。だが北川が自分の家族について口を開いた事は全くと言っていいほどないのだ。正造は自分の親兄弟の話をした後、さり気なく水を向けた事は何度かあった。だがその度に北川はあいまいに言葉を濁した。そのうちに正造も訊いてはならない事のように思えて、最近ではわざと家族の話を避けるようにしていた。
 ふさを伴って秋田から戻った時、誰よりも先に彼に引き合わせたのはもちろんの事だ。しかしその後同じ飯場の中にいながら、ふさからの挨拶にはなるべく視線を合わせまいとしているかにも見える北川の態度だった。それなのに今夕突然やって来たという。何か特別な用事でもあったのではあるまいかという気がしてきた。
 一回五厘の湯券を買って入った松尾の湯は、とうに混雑の峠はこしていたがそれだけにお湯は汚れていた。
 坑夫にとっての風呂は、三度の飯と同じで絶対に欠かす事のできないものだ。見える部分はもちろんだが鼻の孔から口の中まで真っ黒になる炭掘り稼業では、何よりも先に体を洗い流さなければ仕事の終わりはこないと言っていい。
 夕張炭鉱では、後には坑口付近に会社直営の大浴場を設置するようになったが、明治から昭和の中頃までは指定商人に風呂の経営を委託していた。その風呂屋は大抵雑貨屋とか飯場の兼業であった。
 斜坑の上部落で只一軒の風呂も松尾飯場の経営であったし、石川も後には飯場を閉じて風呂と雑貨屋と床屋を開くようになるのだが、中々許可を得られなくて大変であったらしい。
 用地は会社から借り受けて、建物や設備や燃料の石炭代は自己負担という事だったらしいが、日銭が入る商売なのでかなり競争もあったのだ。但し湯銭は街の風呂屋の半額以下というのが開業の条件であった。
 流し場でどんなに丹念に洗ったつもりでも体についた炭塵のせいでお湯が濁り、湯船の底にざらっと砂の感触があった。それでも入浴という行事を済まさなければ、仕事から解放された気がしないのだ。坑夫がほんとにホッとした気分を取り戻せるのは、風呂から上がった瞬間かも知れない。
 仕事疲れと風呂上がりで目が回るほど空腹を感じていたが、吊り橋を渡って向かいの石川飯場に北川を訪ねた。
「北川よ、わざわざすまねがったな。まンず少しはけっぱらねばど思って遅くなったんでや。なんもなしだバ可哀相だハッてな。それよかお前え、なんか用事あったんでねえのかや?」
「イヤ用なんかねえども、昨日家移りの手伝いサ行けねかったハで、詫ンびの印ど思ってな……」
「なんも手伝ってもらうえンたほど荷物ある訳でなし、気にするなでや。それより、大した心配さへでしまって却って悪かったなや。だども、塩引き一匹ってば二人だバ多すぎるじゃ。お前えも飯食いサ来いでや」
「ンだバ、しばらくあれ食って我慢せいでや。それより三原よ……。女つうものは男どはまるっと違う。男には下らねえ話でも、女にせバ死ぬほど恥ずかしいつう事もあるんでねえのかや?……」
 北川が何を指して言っているのかとっさには分からなかった。だがハッとした。
 今朝別れ際に彼が洩らした「むぞーな」という一言の意味と、その向け先がようやく分かったような気がした。あれはもしかしたらふさを念頭において呟いたものではなかったのか。
 新所帯から初めて送り出す朝なのに、夫にお菜なしの弁当を持たせたふさの恥ずかしさとつらさを思い、それをあけすけにいう正造への非難だったのではあるまいか。
 それともよく気のつく北川の事だから正造の懐具合を案じたのかも知れない。引っ越しに何かと金が必要だった事を彼が知らない筈はない。イヤもしかしたら手伝いに来なかったのさえ、正造やふさに気を遣わせまいとする配慮だったかも知れない。だからさり気なくお菜の品を届けに来てくれたのであろう。
 それをわざわざ態度や言葉に表す男ではない。正造は口に出せばどこか空々しくなってしまいそうな言葉を呑み込んだ。

 正造は貧しいながらも独立したのを機会に、中田秋介と約束した通り新聞をとる事にした。月極め三〇銭の購読料は正造の稼ぎのほぼ半日分を超え決して安くはない。しかし命知らずは物知らずとバカにされている坑夫稼業を、常々悔しく思っていた。
 新聞などは包み紙か壁紙に使うものと思っている連中は多かったが、定期購読を申し込む者の数はとりわけ坑夫の中には少なかった。

 日清戦争に突入した国内では、すべてが戦争一色に塗り替えられていった。
 少し前までは開戦に批判的だった各新聞も、いつの間にか戦争記事を中心に衣替えして紙面の大部分を割くようになった。中でも福沢諭吉の主催する『時事新報』は、この戦争を「野蛮を撃つ文明の戦い」であると主張し、連日清国討つべしの論陣を張って国権の拡張を唱え世論をあおった。
 そうした世論も定まらない宣戦布告から一月余り後の九月十五日、当時日本鉄道山陽本線の終点だった広島に大本営が移された。たとえ一歩でも軍隊の中枢機能を中国大陸に近づけ、戦時非常の舞台装置をしつらえた軍部は、更にその意図を露骨にした。広島城内に仮設の議事堂を造営して天皇を迎え第七議会を開会したのだ。その上で各派の協力を取り付け、全会一致で臨時軍事費一億五,〇〇〇万円の支出を可決してしまった。こうした非常態勢ともいうべきやり方で、各日に国民感情を緊張から興奮へと一気に押し上げた。
 攻めた勝った奪ったの報道は多くの国民を酔わせてしまう。それが又政府や軍部の意図するところでもあったのだろう。そうなれば戦死者戦傷者の家族の悲しみや、人々の訴える不自由や不満の声などは間違いなく吹き消される事になる。始めた以上は勝たねばならぬの一本道で突き進み、批判も反対も声高にできない雰囲気になってしまうのは目に見えていた。
 伊藤内閣の狙いは完全に成功したと言っていい。議会野党や民間の論客たちが執拗に向けていた政府攻撃の矛先は、否応なく清国討つべしにすり替えられていったからだ。
 急速に国内の物価は上がった。米、味噌、醤油、酒、木炭何でもがあっという間に一倍半から二倍になってしまった。
 北海道は特にひどかった。本州との輸送をすべて船に頼っているのに、その定期船のほとんどが御用船として徴発されてしまったからだ。たちまち流通が止まって港湾付近の倉庫には船待ちの荷が山積みとなり、生活必需品は奪い合いとなって天井知らずの値上がりになってゆく。
 炭砿鉄道も二隻しかない社有船と、契約していた傭船二隻の徴用をうけたため、急いで外国船を雇い入れて石炭の輸送に当てた。運賃は自社船と比べられないほど高くなったが、戦争による石炭の需要が大幅に増え、それに連れて炭価もぐんと跳ね上がったため、収支償うどころか大きな利益を得る事になった。
 汽車、汽船ばかりでなく機械動力の主力が蒸気機関である以上、燃料は石炭しかなかった。開戦によって刺激された産業が、低迷していた石炭の需要に火を付け、量や販路を飛躍的に伸ばしていった。
ちょうどその頃、炭砿鉄道の幌内では開坑以来からずっと続けていた囚人による坑内労役をやめ、囚徒一,二〇〇人余りを官に返還する事になった。
 以前幌内炭鉱が官営による操業であった頃、幌内坑を空知監獄署の管轄下に置いた事があった。必要な労働力を囚人で賄うためだ。採炭、運搬、選炭作業を二時間交代で続けたが、能率が上がらない割に怪我人と病人だけが異常に多いと言われた。それはあまりにもひどい環境と労働条件のせいであったが、代わりを埋める労働力を得られぬまま一〇年余りもそのまま続けられていた。
 民間事業として炭鉄に払い下げられた後も、何故か囚人は貸し与えられたままになっていた。だが囚人労役に対する各方面からの反発が強まり、道庁は囚徒の返還を迫ってきた。やむなく炭鉄は十二月二十日正式に全員を返す事にした。
 炭砿に限らず囚人労働が北海道開拓に果たした役割はかなり大きいものがある。だが彼等に与えられた外役という名の作業は、道路や河川の開削と改修、石炭硫黄等の鉱石採掘、あるいは原野、農地の開墾などどれをとっても過酷な重労働ばかりであった。罪人であるが故に法や規則をもって拘束し、官の命令を拒否できない彼等を思うままに酷使したのも開拓行政の一つであった。
 とは言え監視付きで働かされる囚人が一般坑夫と同じ仕事量をこなす訳はない。能率は半分ほどだが彼等のもたらす害は倍にも三倍にもなる、と非難する人も少なくなかった。だが実際には賃金も半分以下の額しか払われていなかったのである。
 それも当然であった。伊藤博文の知遇を得て帝国憲法の草案にも携わった金子賢太郎が、政府に提出した『北海道三県巡視復命書』という報告書には、こんな意味の文言が連ねてある。
……開拓の仕事は困難多く普通の人間には耐えられない事もある。従って労賃は高くなる。そこで集治監の囚人にこの仕事をさせる。彼らは元々が悪い者どもであるから、苦役に耐えずに死んだところで、一般の人々が妻子を残して山野に骨を埋めるのとは自ずと違う。今日のように重犯罪人が多く国庫から支出する監獄費が増加している時、開拓工事に耐えられずに死ぬ者があってたとしても、それは止むを得ない。むしろ支出を減らして国のためには悪い政略ではない……。
 こうした冷酷無比な発想や建言に基づいて作られた北海道の集治監であった。そこへ東京、宮城、三池から大量の囚人が移送された。それも年齢的には二〇代から五〇代までであったが、全体の半分以上を三〇代が占めていた。その数は明治二十六年で七,〇〇〇人以上に達し、明らかに刑罰としてよりも労働目的で集められた事を物語っている。
 だが開拓史中で囚人労働に関わる詳しい記録は残されていない。当然の事ながら公式の記録としては秘すべき部分が多かったせいであろう。
 囚徒の返還を命じられた炭鉄だが始めはひどく慌てた。今までは他人任せにしていた内地からの坑夫募集に、今度は本気で取り組まなければならなくなった。しかし後になって考えてみれば、その事はむしろ幸いであったかも知れない。
 囚徒返還前の二十六年には二,九〇〇人ほどだった坑夫が、二十八年には三,五〇〇人、三十年には倍以上の六,二〇〇人余りに増えたのを見れば、その成果がハッキリと分かる。
 日清戦争は夕張にもかなりの変化をもたらした。

 正造らの仕事はメチャクチャに忙しくなった。どれだけ掘ってもいくら働いてもこれで終わりという事はないのだ。朝五時頃には坑口に着いていなければならなかったし、それでいて夜六時までに上がれる日はほとんどなかった。出面(日当)ではなく請負であったから、働けばそれだけ金にはなったが、連日の重労働では身がもたないのだ。従って割当日以外に特に決まった休日のなかったこのヤマで、坑夫らは何のかんのと理由を見つけては仕事を休んだ。

疲れは体ばかりでなく勘まで鈍らしてしまうと多くの坑夫はいう。ひとたび山ハネ、崩落、ガス、出水などどの災害に出合っても、虫けらの如く殺されてしまう場面を大抵の坑夫は見てきている。そんな毎日を何とかくぐり抜けて生きてゆくには、勘と体力だけだと信ずる坑夫は決して少なくない。
 そのせいかどうか縁起をかつぐ者が多い。
「今朝はカラス鳴きが悪い。気になるから休む」
「ゆんべの夢見が悪かった。今日は休むべ」
 どこに根拠があるのか、何の言い伝えなのか忌み言葉や嫌われる仕草などがあった。出掛けにうっかり誰かが口にしたり、その仕草をしただけで仕事を休む坑夫さえいた。
 朝のうち何故か猿という言葉を絶対に使わせない。忌み言葉の中では死に次いで禁じられている語音のようだ。猿が申でも去るでもその音を聞いただけで仕事着を脱いでしまう坑夫すらあった。
 かぶるという状態を嫌う坑夫も多い。坑内で岩石をかぶるとは即、死を意味する炭砿の男たちはその言葉よりも形を嫌った。汁掛け飯もその一つで、飯が汁をかぶるのは縁起がよくないという事らしい。どうしても掛けて食いたい時は、汁の中に飯を入れる事でこれを打ち消すのだ。そんな男たちはとろろや納豆の時でも同じ事をする。
 針が嫌われた。これも朝だけの禁忌なのだ。うっかり仕事着のつくろいを忘れて翌朝に気づいたとしても、絶対に出針を持つ事はしなかったしさせなかった。その事で亭主や息子にどんなに怒鳴りつけられようとも、女たちのしてはならないタブーの一つなのだ。
 女房が出産したときに入坑する男も嫌がられる。特に女の子が生まれた時は数日間働きに行けなくなる。山が崩れて生まれてくるのが出産で、それが女児であれば崩落の因になると信じられていた。
 会社がそれを望む訳ではない。坑夫の間に伝えられるしきたりやタブーである事が厄介であった。
 出掛けにわらじの紐が切れた。嬶アがケタ糞悪い事をぬかした。イヤなものを見た。胸騒ぎがする。虫が知らした、と言っては仕事を休んだ。それが一々当たっているとは思えないが、時にはそれを守って災害や事故を免れた坑夫もいたりした。
 人の力ではどうにもできない災いが多かった。それ故に気にかかる僅かな出来事や説明し難いタブーにさえ、不安や恐れを感じてしまう自衛本能であったのかも知れない。だが忌み言葉や忌み事は大体共通していたが、出身地や過去の職業によっても違いがあり、各人がそれぞれのタブーを持っている事もあって一層厄介であった。
 正造は鉱山の出身であるため、久平や政吉らに教えられたしきたりタブーは常に頭にあったが、夕張へ来て知った事とは大分違う事もある。
 坑内で口笛を吹いたり、柏手を打つ事は鉱山炭山を問わず禁じている。口笛や柏手は山を押さえている神様が、浮かれて手を放すため山がゆるんで崩れるのだと言い伝えられていた。
 だが坑口から数えて三枚目以内の留め枠(支柱)に大小便を掛けるような不浄をすれば、必ずバチが当たるという鉱山での俗信はこのヤマではあまり聞かない。もっともいくらがさつ者が多いと言われる炭砿でも、坑口でいきなりそんなバカ気た事をする奴がそんなにいるとは考えられない。
 このやまには遠く九州三池の炭砿から来た者、中国四国地方や東北各地の鉱山からやって来た本職坑夫もいる。更には土工、漁師、農民などの外、博徒から何々くずれ何々上がりと言われる連中まで、数多い職業を経た人々が群がり寄った炭砿という所は、正に人間模様の坩堝であったと言えよう。
 その人々がいつ何が起こるか分からない危険な坑内で働いている以上、言い伝えを信じたり己を守るための縁起やタブーを持っていたとしても、それを蔑んだりバカにしたりする事はできない。何故ならわが身の明日を保証できる確かなものは何一つないからだ。
 正造はある日ふさから体の変調を知らされた。長屋のおかみさんの勧めで産婆にみてもらったところ、来年の三月頃の出産と判った。
 祝言の夜は形ばかりの触れ合いにすぎなかったとは言っても、間違いなく宿った夫婦の証を、恥じらいながらもふさは精一杯喜んだ。
 その産婆を世話してくれたおかみさんというのは、ふさの隣に住む坂本角治の女房うめであった。三、四才の男の子が一人いたが、二番目の子が自分と同じ来年三月の予定と聞いてなんとなくホッとした。それ以来隣人というだけでなく特に身近なものを感ずるようになった。
 ふさには誰一人として身内や知り人のいないこのやまで子供を生む心細さがあったので、自分より少し年上らしくおまけに出産経験のあるうめが頼りだった。ふさより体は小さかったが、聞いてみるとやはりふさより三つ年上であった。あまりハキハキと物をいう女ではなかったが、毎日顔を合わせているうちにいろいろな事が分かってきた。
「鶴!」
 と呼ばれている男の子は鶴吉が本当の名前で、故郷の富山県で生まれてから北海道にやってきた三才のいたずら盛りであった。
「今度は、女の子がええなと思うとるがよ……」
 すばしこく飛び歩く鶴吉を持て余すように言った。
 正造とほぼ同じ頃に富山の砺波郡から米作りを目指して移住してきたらしいが、一年ほどで入植を見限りこの夕張へやってきたとの事だ。坂本も着た当時は炭掘りの手子(後山)をしていたらしいが、留め付けのほうが金になる事もあると知っていまでは支柱夫をしているという。
 長屋の誰と顔を合わせても自分のほうから挨拶をする。その声が大きいのでどこにいても坂本だとすぐ分かるほどだ。それに読み書きができるので、無筆の坑夫が故郷に便りを出したい時などはわざわざ頼みにくるという。
 十六戸の棟割長屋となればいろんな人間が住んでいて当然だが、出身地も様々で話す言葉も訛りもかなり違っている。真っ先に気づくのは挨拶だ。特に朝よりも夕方か夜に顔を合わせた時に交わす挨拶に国の違いが出てくる。
 坂本と風呂の行き帰りなどに目が合うと出てくる挨拶がこうだ。
「おしまいなされましたか」
 砺波地方の挨拶なのだろうが何とも丁寧な言葉だ。
 正造は坂本から初めてこの挨拶をされた時は大いに慌てた。
「はア? へえ。まンズ……」
 と何だかよく分からないとんちんかんな返事をしたものだ。だがその後ふさがうめの世話になった事を聞き、少しずつ坂本と口を利き合うようになった。
 彼は正造の入っている一番坑から数十メートルほどしか離れていない第二斜坑に入っていた。だがこのヤマへくる前に坑夫の経験はまったくなく、従ってたかだか三年ほどの炭砿暮らしをしただけにすぎないという。それなのにいつも人の先頭に立っているように見える。
 ハッキリとした目と濃い眉、それにへの字なりの口許で胸を張るような仕草のせいか、なんとなく気の強そうな印象をうける。だが自分より年下のように思っていた彼が、聞いてみると意外にも二つばかり年上だった。
 その坂本は正造の北隣だが、長屋の角に当たる南隣の夫婦は、明らかに女房のほうが大分年上である事がハッキリ分かる。もしかしたら一〇近く上かも知れない。
 亭主は色白で華奢な男だ。太陽に縁の薄い坑夫稼業のせいばかりではなく、元々生っ白い肌だったようだ。その外見からすると荒っぽい仕事は不向きに見えるが、実際によく仕事を休む男だった。どこか体の具合でも悪いのか、でなければ体力がないのだろうと誰でも思う。ところがどうも違うようなのだ。
 白川友次郎と役者名前のような年下亭主を、なだめたりご機嫌をとったりして仕事に出そうとする女房のきちは、時には涙声になる事すらある。決して大声を出している訳でもないのに、薄い板壁のせいで筒抜けになるため長屋中知らぬ者はない。
 子供のいない夫婦なので、きちは亭主を「友さん」と呼んでいる。だが友次郎の休みが続けばきちの物言いや声が少しずつ尻上がりになってくる。さて今夜あたりと聞き耳を立てる長屋の物好きの期待に違わず、きまって吹き抜け同然の天井裏を伝うきちのあられもない声が走る。恥も外聞もなく洩らす声は長屋でも評判になっていた。
 しかしどんなに取り澄ましても四〇を過ぎているきちの化粧は、作れば作るほど友次郎との年の差が出てしまう。その厚化粧をからかう長屋雀のつけた仇名が「狸きち」であった。その上で、きちを息も絶え絶えに舞い上がらせる友次郎の技を、狸殺しと名付けて面白がっているのだ。
 正造と背中合わせに住む住人は近藤喜八トミの夫婦だ。夫婦とも酒好きなのはいいが、酔っ払っては三日にあげずけんかをしている。声だけ聞けばびっくりするような怒鳴り合いで、いつ殴り合うか別れるかとハラハラさせられるが、一向に大事に至る様子はない。
 トミにはハッキリと水商売を経験した感じがある。酔うと亭主をつかまえて「オイ喜八!」と呼び捨てにする。その大声が長屋中に聞こえるため、名字より先に名前のほうを覚えてしまったと誰もがいう。そのせいかどうか、近藤という姓より「喜八っつあん」と呼ぶ人のほうが多いようだ。
 トミは歯切れのいい東京弁のようだが、喜八の言葉尻には北関東の訛りがあり、栃木か茨城辺りの出身かも知れない。ぶっつけ合う言葉が乱暴で派手に口論をする割には、憎めないところがあり人の好い夫婦のようだ。だがこの夫婦にも子供はいない。
 正造が松尾の風呂で見かけた喜八の肩は、筋肉が盛り上がって鍛えた力士のようなこぶになっていた。一目見てもっこだこと分かる。このヤマへくる前は相当年期を積んだ土工であったに違いない。だがそんな坑夫はたくさんいたし、誰もが似たような前職を経てこの炭砿にきている。
 正造もふさもあまり口数の多いほうではなく、人付き合いも決して上手とは言えなかった。だが長屋のかみさん連中や酔った亭主の口から洩れてくる噂話で、いつしか他人の暮らしの中身まで知ってしまう事が多い。ただ頷いているだけで長屋中の毎日のお菜から懐具合まで知らされて、長屋暮らしを始めたばかりのふさは返事に困る事もある。そして自分たち夫婦の事はどんな風に言われているのか、とつい考え込んでしまう事もあった。
 ともあれ、生い立ちや過去の境遇がどうであったにせよ、縁あって一六組が同じ屋根の下に住んでいるのだ。このヤマで働くその日暮らし坑夫所帯に気取りや見栄は無用のものだった。まして嫌ったり憎み合ったりすれば一日も過ごせない事に気づいてゆく。出身地や訛りも違う人々の暮らしなのにいつしか身内以上の付き合いになってゆくのは自然の推移であった。
 正造にとって一生忘れる事のできない明治二十七年は、目の回るほどの忙しさの中で慌ただしく暮れていった。
 ふさの腹は隣のうめより目立つようになり、そのせいでふさのほうは男、うめの子は女ときめてかかるかみさんもいた。何もかもが初めての事だけにどうしてそんな事が判るのか不思議だったが、いつの間にかそれを信ずるようになって年が明け、明治二十八年三月いよいよ産み月を迎えた。
 本州と違ってまだ徴兵制度の敷かれていない北海道では、屯田兵を集めて臨時第七師団を編成し、永山武四郎中将が師団長となって第一軍に編入合流すべく東京に向かった。だが日清戦争はもはや終末の様相を呈していた。
 結局この臨時第七師団は上京しただけで、待機したまま戦争の終末を迎える事になった。
 すでに一月末日に清国から講和使節が来日し、二月一日広島城内で総理大臣伊藤博文と会見していたのだ。その時わが国では、清国使節の資格と全権委任状を認めないという理由で、これを追い返していた。
 これは勝ちに乗じた軍部が、なまじの条件で講和を結ぶよりこの際一気に清を攻め潰してしまおう、と大それた戦略をたてていたためと言われている。
 追い返された使節に代わって、清国軍隊をほとんど一人で動かして日本と戦ってきた北洋大臣李鴻章自ら、講和全権弁利大臣として来日したのは三月二十日の事で、間もなく下関春帆楼で講和会議が開かれた。
 先に英米の斡旋による清国講和使節を追い返していた日本政府は、今度もかなり高圧的な姿勢で会議に臨んだ。
 ところが事件が起きた。
 三月二十四日会議を終えて春帆楼から退出しようとした李鴻章を、小山六之助という壮士がピストルで狙撃したのだ。
 政府は慌てた。負傷を理由に帰国でもされたら世界中の同情が李鴻章に集まり、講和条件どころか日本の開戦意図まで叩かれかねないとして、大急ぎであらゆる手を尽くした。無条件即時停戦を命じたり、天皇皇后から見舞いが出たり、軍医総監自ら李鴻章の手術に当たったりして、八方李鴻章の引き止めに狂奔した。
 その甲斐あってか四月一日から講和条約を再開し、四月十七日何とか調印を終えた。
 主な講和条件は次の通りであった。

一  朝鮮の独立を認める。
一  遼東半島と台湾澎湖島を日本に割譲する。
一  賠償金として銀二億テールを八回に分けて日本に支払う。
一  長沙、重慶、蘇州、杭州で日本が自由な商工業活動を行う事を認める。

 日本政府は自らが不平等条約に苦しめられ、今なおその外交交渉の過程にあったにも関わらず、今度は戦勝国として清国に不平等条約を押しつけ、その主人側に回る事になったのだ。
 だが、条約締結三日後に露独仏の三国干渉が起きた。日本が得た権益は余りにも大きすぎると遼東半島の返還を迫ってきたのだ。中でもロシアの干渉は特に強硬であった。
 日清開戦を傍観していたのは、この講和条約への干渉を始めから予定していた節があると言われたほどだ。その裏にはドイツの深い企みがあったとも見られている。それはヨーロッパ制覇を視野に入れているドイツは、そのためには邪魔になるロシアの兵力を分散させる狙いから、政略的にロシアと手を組み三国干渉をあおったのだという観測だ。
 その一方で、ロシアの極東進出を牽制するため巧妙に日本を利用したイギリスは、三国干渉には一切知らん顔で何の意思表示もせず、その成り行きを横目で見ていたのだ。
 国際政治の駆け引きとは何とおぞましいものであろう。
 ともあれ欧州列強の圧力をはね返す力など日本にはなく、遼東半島は返すしかなかった。その代わり賠償金に還付報償金を加える交渉が延々と続けられた。遼東半島は返すがその分を金で支払えという事なのだ。結局支払い利子も含めた合計は日本円にして三億六,〇〇〇万円余りとなった。
 これに対して後日公式に発表された日清戦争におけるわが国の損害と軍費支出は次の通りだ。
 
 戦傷病死者         一万三,四八七人
 臨時軍費      二億四七五万五,五〇〇円

 失われた人の命を金額に換算する事などできる筈はない。たとえ国がどんなに多額の賠償金を得ようとも、再び還らぬ者への思いをどんな物差しで計れるというのであろう。
 日本国内には勝った勝ったの浮かれ気分が流れた。しかし只それだけの事なのだ。大方の人々は莫大な犠牲と出費の果てに得た賠償金が、一体何に使われたかについては関心を示さなかったし、ほとんどは知らなかった。だがその内容はこうであった。

 遼東半島還付報償金を含む賠償金とその利子の合計額 三億六,四五一万円
      内     訳
 臨時軍事費                   七,八九五万円
 陸軍拡張費                   五,六八〇万円
 海軍拡張費                 一億三,九二五万円
 製鉄所創立費                     五八万円
 三十年度臨時軍費及び一般会計繰入          三二一万円
 三十一年度一般会計補充繰入           一,二〇〇万円
 帝室御料へ編入                 二,〇〇〇万円
 軍艦水雷艇補充基金               三,〇〇〇万円
 教育基金                    一,〇〇〇万円
 災害準備金                   一,〇〇〇万円
 明治三十六年三月末残高               三七〇万円

 皇室財産に二,〇〇〇万円教育基金に一,〇〇〇万円を充てただけで、残り全部を軍備拡張と軍事費がらみの費用に計上しているのは一目瞭然だ。従って国民全体のために使った金は、僅かに教育基金の一,〇〇〇万円しかなかったという事になる。
 但しその中の皇室財産と三つの基金の正貨が日本銀行に預けられ、それを基にしてこれまでの銀本位制から金本位制への切替えが行われた。それが又日本が世界の金融市場に参入するキッカケとなったのは事実だ。世界は変動の激しい銀から金本位制へと動き、銀本位制をとっていた日本や中国極東の国々は、国際金融市場では立ち遅れている現状ではあった。
 戦争とは力の対決である以上、相手を一瞬でも早く屈服させるためにあらゆる手段とそのための知恵を動員する。大量の殺戮と破壊でさえも、相手から戦意を奪おうとする最も効果的な作戦と言える。そこには時間と効率の計算があるだけで、経済的な損得勘定は介在しない。ただひたすら勝つ事だけに集中する。たとえどんなに金がかかろうとも、それが勝つための手段となれば良しとされるのが戦争というものなのだ。
 しかし敵を攻略する武器や手段に対しては、それに打ち勝つ防衛の策を練るのが戦略であり、攻撃を受ければ反撃を考えるのが戦術というものであろう。相手より一歩早くしかもより高度な技術の完成は、国のためであり国民を救う事だと軍人はいう。たとえいささかの犠牲や不自由が伴ったとしても、物資は軍が優先であり産業が軍事中心となるのは当然と言って憚らない。
 戦時における軍需産業は、その目的と性格から平時では考えられないほど思い切った投資をうけ、設備も技術も飛躍的な進化を遂げてゆく。何とも皮肉な事に、戦争がもたらす大量破壊とそれによる大量消費は、多くの人命を奪い莫大な金を浪費する代わり、その国の産業設備や技術水準を押し上げ、著しい進歩発達を促すキッカケとなる事が多い。
 日本がそうであった。
それまで家内工業や軽工業中心であった産業構造が、大生産の工場工業に転換してゆく最初の機会は、この日清戦争が契機となった事は間違いない。
機械工業や汽車汽船を支える蒸気機関と製鉄事業、陸海軍関係の官営事業の躍進で、石炭の需要が目に見えて伸びたのも自然の経過であった。
日本の財閥は、生産と消費、建設と破壊が同時進行する戦争が巨額な投資を必要とする事に注目した。危険な賭けではあっても莫大な利益が伴う事も知った。中でも、これから石炭が担う重要な役割や大事業として成り立つ展望などは、この日清戦争を通じて初めて実感したと言って間違いない。
三月二十日の早朝、前夜からの冷え込みに続いて雪が降った。
急に産気づいたふさの苦しそうな表情を見た正造は、産婆を迎えに支度もそこそこに表へ飛び出した。とうに雪は止んでいたがまだ明けきらぬ往来には足跡さえない。そのせいか見馴れていた筈の風景が一変していた。新雪が未明の闇を薄めて辺りを仄白く浮かび上がらせ、一瞬厳しい冬を忘れさせる静寂を作りだしていたのだ。
決して急ごうとはしない産婆の足取りにいらいらし、カバンだけを抱えて先に戻った正造は只うろうろするばかりで大して役立つ事はできなかった。
次第に間を詰めて近づく陣痛をこらえるふさの呻きに時間の経つのがひどく遅く感じられ、その間正造は何をしたのか何を考えていたのかまったく覚えていない。
 生まれたのは女の子であった。その朝眼に映った印象そのまま、ゆきと名付けた。
 三日遅れて隣の坂本には男の子が生まれた。同じ産婆に取り上げてもらったので、掛け持ちとは言っても楽ができる、と人の良さそうな産婆は屈託なかった。
 正造はわった源に勧められた通り三日間休んでふさに付き添った。だが何をどうしていいのか分からず、遠慮がちに用事を頼むふさの言葉通りに動いたつもりだったが、何をやってもぶざまなドジばかりしていた。
「これだバ、稼ぎに行ったほうがなんぼか楽だなや」
 頭を掻きながらふさの枕元でぼやいた。
「堪忍してたンセ」
「イヤ何ンもふさのせいでねえ。このゆきのせいだでバ。でっかくなったら、うんと聞かせでやンねばなんねえなや。オイゆき、早く一丁前のめらしになれでや」
 明けて二八になった正造は世間一般から言えば遅い父親である。もう何人かの子がいても不思議ではない。だがゆきが生まれる前は長屋のかみさんらのいう通りに、男の子だろうと信じていた。
「男が見るもんでないよ!」
 出産が間近になった時、産婆のこの一言で表に出されてしまった。寒さに鳥肌をたてかじかむ手に息を吹き掛けながら、いつか両手を合わせる姿になっている事に気づき、思わず辺りを見回した。
 早朝の事でそんな姿を誰に見られる事もなかったが、男女どちらでも無事に生まれてくれさえすればそれでいい、と本気で祈る気持ちになっていたのは間違いない。
 だが一週間もしてからでは、男の子と思い込んでいた事などすっかり忘れていた。ゆきが生まれてきた事は当然のような顔で、まるで予期していたかの如くに思い込んでいる正造だった。
 近所の連中やわった源などにはこんな事を言われた。
「めらしかやア。いだわしい(惜しい)事したな。早えどこもう一発けっぱって、位牌持ちこさえねばなンねえな」
「ンだなや」
 自分でもあきれるほど素直になれるのだ。
 坂本では、鶴吉と四つ違いで生まれた弟に義二と名付けたとの事であった。
「今度はびー(女の子)やろうと思うとったが、男やった。なんかかんちょろい(細っこい)赤ん坊やで、心配しとるがですよ」
 坂本はそんな風に言いながらも満更ではなさそうだった。
 女にとってお産は大厄だと言われているが、連れ合いの男たるものにとっても子供が生まれてからが大仕事になる。どんな時代であれ男が甲斐性なしの怠け者であったなら、世間の波風は決して男を甘やかしてはおくまい。必死になって妻子の風除けになったり餌を運んだりしなければ、何を言われても仕方がない。それが父親となった者の義務と責任であろう。
 長屋というところは、その点で男の勝手を許しておかないような雰囲気があるとも言える。
 一つ屋根の下に住んでいるだけに、相性を抜きにすればみんな身内のつもりになってくるから始末が悪い。まして薄板一枚の壁で天井も張っていない棟割長屋となれば、食べ物から親子夫婦のけんか、借金の言い訳やら屁を放つ音までも聞こえてくる。見栄も体裁も構いようがないほどに筒抜けで、内緒事や隠し事などほとんどできない事になる。
 それだけに付き合うほうも到底他人とは思えない踏み込み方を平気でしてくる。煩わしいと思いだしたらこれほどイヤな暮らしもないのだ。
 だが正造も坂本も、長屋の人々から受ける好意や手助けがなかったならば、子供を育てる苦労は何倍になっていたかは測り知れない。
 戦争が始まってから急に忙しくなった正造や坂本は、仕事は違っていてもめったに早く帰る事はなかった。一二時間働くのが普通の事であったし、実際にそれ以上働く日のほうが多かった。
 一方赤ん坊を抱えた女たちの仕事もキリがないほどある。そんな毎日では同じ長屋に住む女たちのお節介なほどの手助けは、どんなに有難いものであるか知れない。
 ふさにとっては何もかもが初めての事なので失敗して当たり前であった。だがうめや喜八の女房トミに教えられたり、子供が大きくなっている女たちからの助言で、なんとか毎日を切り抜けていると言っていい。聞きたくもないよその揉め事や、他人の色事のあれこれを聞かされるおまけは、始めのうちこそふさには苦痛だったが、それにも次第に慣れてきた。
 特に子供のいないトミは、日に何度もふさのところにやって来てはゆきの世話をしたり、寝入っているゆきの顔を飽かずに眺めたりして過ごしてゆく。
「姐さん済まねえなス。ホントになんぼか助かってます」
 ふさが事ある毎に口にする礼の言葉に、トミはまったく取り合わない。
「なに言ってんのふさちゃん。こっちは好きで来てンだからさ、一々礼なんか言わないでよ。だけどさ、赤ン坊ってなんでこんなに可愛いンだろうね?」
「姐さんだって、赤ん坊もてない年でもないんだハッて、これからだって……」
「それがダメなのさ。生める体なら、あんな喜八の子でも生んだんだけどね……。若い時にムチャやったんでバチが当たったんだよ、きっと。それとも酒のせいだろうかね……」
 亭主の喜八と違って歯切れのいい東京弁で語るトミにも、何か曰くがあるらしい。
 このヤマで働く坑夫の多くは独り者であったが、所帯持ちと言えども何らかのつらい過去なしに炭山へやってきた者など、一人もいないと言っていいかも知れない。誘われるままに只何となくこの夕張にやってきた正造は、むしろ珍しいぐらいの部類であろう。
 ふさにしても貧しい農家の娘とは言え、人に言いたくないほどの重い過去も経験も持っていない。それだけに他人の暗い身の上話など聞くのは苦手であった。どんな聞き方をすればいいのか見当もつかなくなるからだ。
「あたしはね、あんたぐらいの頃は芸者してたんだよ。もう一〇年以上も昔の事になるけどね。その頃一回だけ孕んじまった事があるの。正体なくなるほど呑まされたあげく、いいようにされちゃったのさ……。生める訳はないよね……。もぐりの間引き婆さんの手で堕ろされたんだけど、後が悪くてね。死ぬ苦しみだったよ。それっきりもう石女さ……」
 サラリと言っているようだが、それだけにトミのつらさが伝わってくるように思えた。
 隣のきちのような厚化粧こそはしていないが、三〇の半ばは越していると思われるトミには、表情にも何気ない身のこなしにも隠しきれない水商売の匂いがあった。そうした人やそんな世界にもまったく縁のないふさだったが、トミの述懐を聞きながら邯鄲には頷く事さえできない思いを感じた。
 北川が出産祝いに訊ねて来たのは、ゆきが生まれてからそろそろ日が明ける二〇日近く経ってからの事だ。だがその時一度来ただけでそれからは正造が飯場に迎えに行くか、偶然どこかで出会った時にムリに連れて来るかしなければ、まずもって長屋には来なかった。
 さすがにふさもその不自然さに気づき、正造に言った事がある。
「北川さんはあんたのどやぐ(親友)だか知らねえども、オラの事がきっと好きでねえと思うンス」
「そった事はねえ。あいつは只恥ずかしがっているのセ。そのうちに、きっと慣れでくるでバ……」
 そう言いながらも実は正造もかなり気にしていた。長屋へ連れて来た時でも、ふさへの挨拶は目礼程度でほとんど正造かゆきのほうしか見ない。その上意固地なまでにふさと言葉を交わさない北川の態度には、そう思われても仕方のないところがあったのだ。
 正造と話したり他の人々に接する時には、こだわりなく世間話に乗る北川なのに不思議としか言いようがない。だがその理由を、改まって糺す気にもなれずなんとなくそのままになっていた。

 夕張駅から採炭事務所を背にした辺りは北山と呼ばれている。山裾はステンションにも事務所にもサルナイにも近く言わば炭山の入口に当たっている。付近には旅館もあり小学校もあり、飯場もあれば採炭所のお偉方や鉄道に勤める人々の社宅もあった。建物の数からいうならばやっと区画されたサルナイの市街より多かったかも知れない。
 だがそれは南北に走る一本の道路沿い付近に限られていて、一歩北山に踏み込むと神社以外の建物もなく、鬱蒼と樹木の生い茂る原生林であった。曲がりくねった細い杣道は地面に太陽もとどかぬほど厚く濃い枝葉に覆われている。それでも足下を気にしながら大汗をかいてしばらく登ったところに、無願社登川神社が建てられたのは、去年正造が秋田に行く少し前の事だった。
 その神社に本職の神主が決まったとの噂があって間もなく、サルナイ市街地二区の東山側にも、川向こうの鹿の谷にあった門徒の説教所が移ってきた。そこに随分人が集まっているようだと坂本から聞かされたのは、戦争劇専門の壮士芝居が寂れはじめた秋頃の事であった。
 ちょうどその頃、市街地の外れから深い谷底を流れる川向こうの辺りで、炭鉄の鉱区とは違う石炭の露頭から試掘が始まっていた。しかしその付近は数えるほどの家しかなく、サルナイやかみの山に住む坑夫、商人たちはその辺りへはほとんど関心を示さなかった。

 明けて明治二十九年、炭砿の景気はともかくとしていい事の少ない年であった。
 去年春に日清戦争は終わったが、国の中にその余波が残り穏やかでない日が続いていたのに、各地に風水害が連続して起きた。九州全域、北陸そして東北福島にも家屋の流失や浸水が相次いだ。その異常気象による農業被害は甚大なもので、後遺症は今年になっても回復する気配はなかった。
 東北出身者が多い夕張でも、故郷の様子やいかにと新聞報道を気にする者が次第に増えてきた。というのも、まだ雪深い三月末、福島県地方前年凶作のため細民に餓死する者多し、と各新聞が一斉に書き立てたからだ。福島県出身者が中心となっていた一番坑長屋の坑夫の中には、無理算段をして急ぎ帰国する者さえあった。
 四月二十七日、小樽住之江町に大火があり八〇〇戸近い家が焼けた。二年ほど前、すぐ近くの手宮で六〇〇戸を焼く火事があったばかりだ。続いて五月二十二日には岩見沢に出火があり、これも二四〇戸を灰にする大火となった。
 六月十五日、三陸沿岸を突如大津波が襲い記録に残る被害を出した。メチャメチャに潰された家が二,四五六戸、流された家がなんと一〇,六一七戸、死者は二七,一二二人、負傷者は九,三一六人、船舶被害も七,〇三二隻に達するという空前の大惨事であった。
 七月には富山県下に大洪水があり二,八〇〇戸余りの流失。八月二十六日、函館の弁天町から出た火は二,二八〇戸を一なめにしてしまった。その五日後八月三十一日には秋田地方に大地震が発生し、山崩れで五,八〇〇戸の家が倒壊の憂き目に逢い、同時に起きた火事で三二戸焼失、死者は二〇〇人を超すという酷たらしい結果となった。
 九月に入るとすぐ季節の暴風雨が各地で猛威を振るい、中でも愛知県の庄内川では堤防が決壊して、溺死する者一,〇〇〇人にも達した。
 こうした自然災害に追い打ちをかけるが如く十月に入ると全国に赤痢が流行し、この月に判っただけでも全国の患者は約七六,四〇〇人となり、死亡した者一九,〇〇〇人以上と発表された。
 この一年間に地震、火災、水害、赤痢などによって奪われた人命は五〇,〇〇〇人余り。一〇〇戸以上焼失と発表された火災で失った家屋は一〇、〇〇〇戸以上。地震、津波、洪水で倒壊流失した家屋は三〇,〇〇〇戸をはるかに超している事になる。
 これに通年死亡する人の数や、ごく普通の家事によって焼失した家屋を加えた合計の数字は、一体どのくらいになるのか想像もつかないが、決して例年と同程度ではなかったに違いない。
 夕張では九月二十三日の昼近く、三番坑でガス爆発があり八人死んだ。安全灯からの引火爆発と聞かされた坑夫たちは、今度は大丈夫と保証された「安全灯」に対して一様に疑いを持った。
「神社の向きが悪りいの何だのって家移りさせで、これで大丈夫だってぬかしたのはどこの誰だや? 神さんバあったな山のすてっぺんさ持っていげば、誰だってそうそうお参りサ行けねえべ。ンで却ってバチ当たったんでねえのかや? なにが安全灯だや!」
 皮肉と怒りを込めて坑夫は噂した。何をどうしようとも決してなくならない事故や変災に不安を抱き、益々迷信深くなり些細な事を気にする坑夫らの明け暮れであった。

 ゆきは一才になる前から歩き出して、長屋でも評判になった。隣の義二は三日遅れて生まれただけなのに。まだやっと立てるかどうかということころであった。並べて座らせておくと、ゆきのほうから手を出して義二を泣かせてしまう事もあった。ゆきに比べて義二はどこかひ弱そうな感じがしたし、その分ゆきが目立ってしまうようでもある。
「たとえ三日でもにゃーにゃ(姉)やから、ゆきちゃんのほうが強いのかも知れん」
 うめは面白がっていうのだが、鶴吉は弟が泣かされるとゆきの手を叩いて仕返しした。親にでもそうされた事があるのか、ゆきの手を自分の掌にのせておいて、ピシャンとはさむように叩くのだ。ふさもうめも長屋の女たちもそのやり方が可笑しいと笑うのだが、ゆきは叩かれたぐらいでは決して泣いたりはしない。
 ゆきは丈夫な子であった。風邪一つ引かず元気に育ち正造もふさもその点は楽だった。だが少しも女の子らしくならず、日が経つに連れて益々腕白になってゆくようだ。鶴吉に少々仕返しされても平気で、義二を家来扱いにしては泣かしたりするのだ。
 ふさはそれを見てハラハラしたが、子供たちの間ではそれも大した事ではないらしいのが大人にはよく分からない。
 言葉を覚えると「つるー」とか「よしー」とか語尾を引っ張る呼び方で、精一杯の声を張り上げる。薄い板壁を小さな拳で力一杯叩き「つるー」とか「よしー」と呼びつける。隣からは「ゆきー」と鶴吉が応ずる。続いて義二が回りきらない舌で「ゆッきー」と壁を叩き返す。
 どうかすると子供好きのトミが一枚加わって、三人の子供たちの名前を次々と呼ぶ。それを聞きつけて他の連中が「うるせえどー!」と面白半分に混ぜっ返したりするものだから、長屋は時に大飯場の様相を呈して賑やかな事この上なくなる。
 天井を飛び交う声でどこの誰だかすぐ分かる。それだけに迷惑や不快を感ずる人もいるだろうし、半ばは本気で怒り出す者もあった。
 長屋暮らしの面白くて、それでいて難しいところでもあった。

 この年明治二十九年一月一日、本州より遅れる事二三年目にして、渡島、後志、胆振、石狩の四地方に徴兵令が施行された。
 遠くギリシアのアテネで、第一回のオリンピックが開かれたのもこの年である。
 夕張では十二月になって駅近くの登川小学校に、これまでの私塾から私立の認可が下りて三年制の高等科が設けられ、私立登川尋常高等小学校と木の門柱に新しい木札が掛かり、生徒も嬉しそうだった。
 正造が仲間数人とこの夕張に入ってから五年経った。当時七〇戸足らずの戸数に三〇〇人ほどの人間しか住んでいなかったが、この年の終わりには戸数で一,二〇〇戸、人口では四,〇〇〇人余りが住む町になっていた。それは日清戦争を境にして、石炭の需要が急速に高まってきた事をハッキリと物語っている。
 だがここで働く坑夫のほとんどが、自分たちの手で掘り出した石炭の本当の値打ちを知っていたとは思えない。飯の種であるという認識は別として、崩落やガス爆発を引き起こす扱い難いやつぐらいに見ている者もかなり多いようだった。
 但しヤマで日毎に増えてくる人間の数や、市街地らしい賑わいを増してくるサルナイを見て、見飽きた黒い石の行く先に違った関心を持ち始めてはいたかも知れない。

 更に年が改まって明治三十年一月の中頃、珍しくゆきが咳き込んで花をぐすぐすさせていた寒い日、生まれて初めて一番上の兄から手紙をもらった。正造は不吉な胸騒ぎを覚えた。よほどの事がなければわざわざ手紙を書いたりしないこれまでであった。
 それはいつかやってくるとしても、まだまだ遠い先のように思っていた父の死を知らせるものだった。ランプが突然暗くなったような気がした。葬儀一切が済んで出された手紙であった。僻地の夕張ではまだ電報の取扱いがされておらず、たとえ報らされても間に合わぬ遠隔の地に住めば致しかたのない事だった。
 読み終えた正造が目を宙に据えたまま、無言のままその手紙を突き出した。ふさは夫のただならぬ気配に何かの異変を察したが、目を通すなり震えがきてこらえられずに声を上げてしまった。
 日頃はやんちゃなゆきも、初めて見る母親の泣き顔と強張った父親の表情に怯えたのか、火がついたように泣き出した。
 正造はこの前父と会った時、別れた時の印象がどんなだったか、僅か二年半ほど前の事であったにも関わらず、どうしても思い出せなかった。だが唯一だけ浮かんできた光景がある。それは母の一言でふさとの結婚を決意しそれを伝えた時、大袈裟とも思えるほどに喜んだ父の言葉とその姿だった。
「そうがや、決めだか。まンズえかった! お前えが決まればハア、俺ラもう、何ンも思い残すごどはねえ!」
 その言葉を聞いた途端不意に感じた胸騒ぎは今も覚えている。だがそれが今から二年半も前の事であってみれば、その時に父の死を予感したものだったとは到底思えない。只、小学校を終えてからほとんど家に落ち着くことのなかった正造には、どうしても、親の近くに住んでいる兄や妹たちとは違ったつらさを感じない訳にはいかない。
 貧乏農家の三男に生まれた正造には、継ぐべき田んぼも畑も得られないまま、当然の如く故郷の外に働き口を求めた。その事に不満も不服もまったくない。しかしそれが親子の縁を薄くしてしまったのでは、と感じない訳にはいられないからだ。
 手紙によると父は去年の暮れに亡くなっていたのだ。だがその時期で正造に思い当たる節やいつもと違う予兆めいたものも何一つ感じなかった。父は遠く離れた息子を思い出す事なく逝ってしまったのだろうか。それが親不孝をした罰なのか。初めて遭遇した肉親の死は正造の何もかもをガタガタと揺さぶり引き千切るような出来事となった。
 どんな交通手段をとるにしても、この季節に北海道から秋田へ行くのは大変な事であった。青森上野間に私鉄日本鉄道は通っていたが、日本海側の秋田方面を走る鉄道は敷かれていない。どうしてもかなりの道中を歩かなければならないのに、この雪と寒気の中で子連れの長旅など不安というより恐怖であった。雪国の人間ならば大抵が旅を避ける季節なのだ。さらにもう一つ気になるのがこの二、三日のゆきの体調であった。
 正造はしばらく考えた後でふさに言った。
「ふさ。お前えとゆきは残れ! 俺ラ一人で行って来る!」
「あんたおそれだバあんたの嫁として死んだおどさんにも、親戚の人さも、オラ顔向けできねえス。それに、ゆきだハッてとうとう顔見でもらえなかったし、せめて仏さんの位牌さでも謝らねば、オラ、申し訳ねくて……」
 日頃正造の言葉に逆らった事などないふさが、必死に抗弁した。
「ふさ、よく聞けでや! もし親父が病気だどか危篤だって知らへでよこしたんだバ、俺ラ何としてでもお前えやゆきバ連れで行く。ンで何とか息のあるうちにゆきの顔バ見でもらう! だどもいいかや?もう親父が死んで半月以上も経ってるんだや。今更この雪の中ムリしてにがこ(赤ん坊)連れでって、もしもの事でもあったら何とする! それで死んだ親父が喜ぶかや?そこさもってきて今、ゆきのあんべえが変でねえのか?……」
「だども、オラが行かねかったら、みんなの前であんたは肩身のせまい思いさねバなんねえス。それ考えたらオラ……」
「俺ラの事だバいい。笹子も雪国だバッて訳喋ればみんな分かってくれるど思う。お前えの親だちさも、時期見で必ずお前えとゆきバ連れで来るって、何回でも頭下げでくるつもりだや……」
 できる異ならばどんな方法をとってでもふさとゆきを連れて行きたかった。家計はふさに任せっきりなので、今のわが家に蓄えがあるのかないのか正造には分からない。しかしなければどんなムリ三段でもするつもりはあった。何よりもふさが同行を望んでいるのは痛いほど分かっていたからだ。
 だがどう考えても一年中で一番厳しくてつらい季節に二人を連れて行くのはムリとしか思えない。ましてや日頃は丈夫なゆきが咳き込んだりして顔色も良くない。どんなに親戚中の非難を浴びようとも自分一人で行って詫びるしかないと決心した。
 そう思う一方でそれがいかに大変な事であるかも痛感していた。
 習慣やしきたりを大事にする故郷の人々は、命の始まりより、終りを送る儀式に悼みを伝えるほうが何倍も重いものと教えられてきている。その中でも特に親の死は、何にも代え難い出来事と骨の髄までしみ込まされて育ってきた。
 集落でのルール違反に対する制裁に村八分があるが、例外的に黙認される残り二分の付き合いとは火事と葬式である。決め事はないにしてもこの断交と孤立を一時的に解かなければならない出来事は、人の死以外にないと言っていい。その義理を欠く行為は、昔からの伝統や慣習の中で生きてきた人々にとって、自分の死よりも恐ろしくてつらい場合もある。
 だが正造はすべて目をつぶってわが家族の身を守るほうを選んだ。ゆきの体調が厳冬の長旅に躊躇を感じさせたのが理由だった。
 しかし結果的にその選択が間違っていなかった事を後になって知る事になる。
 正造は北川を訪ねて事情を話し、留守中の事はよろしく頼むと頭を下げた。北川は一瞬驚いたように目を瞠ったが、多くを聞かずに只頷いた。
 隣の坂本にも頼んだ。周辺の飯場は開坑当時より良くなったとはいうものの、まだまだ無頼な男たちや得体の知れない手合いがいて、荒っぽい事件を起こしてはヤマの話題になっていたからだ。それに開拓途次特有の現象とは言え男の数が圧倒的に多いため、女をめぐってあれこれと騒がしい出来事が絶えないからだ。
 正造は慌ただしく支度を整え、小正月も過ぎてどうやら年始気分がとれたばかりの夕張を後にした。
 ほぼ一ヶ月後に開駅を予定されていた清水沢と滝の上両駅の工事は。心うつろな正造の目にも雪の中かなり急がれている気配を見てとれた。
 うず高い雪に覆われてはいるものの、二十七年春頃と比べて沿線に家が増え地形さえも変ったように見えた。どこまでも続く白い風景を眺めながら、これから向かう故郷笹子(じねご)の冬景色を思い出そうとした。だがゆっくりと流れてゆく眩いばかりの雪原が却ってそれを妨げる。何故なのか苛立つほど考えているうち、不意に父親の姿が浮かんできた。
 只あくせくと田んぼや畑を這いずり回って、一生を笹子から出る事なく過ごした父親だった。だがそれを愚痴ったり嘆いたりしたのを一度も聞いた事がない。ならばそんな生活に満足していたのかと訊いてみようにも、今となればそれも叶わない。
 親の許を遠く離れた事が不孝の始まりというのであれば、もう何を言われても返す言葉はない。生まれた時代とそうした土地柄や環境であった事を悔やむ以外にない。だが周辺の人々も似たりよったりの暮らしであった。たった一つ違うところは三原家の子供たち全員が高等小学校までやってもらえた事だ。貧乏農家で五人の子をそうするのは、費用ばかりでなく大変な時代であった。その事で恩着せがましい言われ方をされた事もなく、又聞いた事もない。
 だが俺は父親に一体何本の手紙を書いたのであろう、と考えて愕然とした。
 北川に託された叔父政吉の手紙を読んで書いた一通と、ゆきが生まれた事を知らせる便りのたった二通しか書いていない。それも用件を伝えるだけの短い文言を連ねたにすぎなかった筈だ。
 それを受け取った父親がどんな思いで読んだのであろうかと思った時、不意にこみ上げてくるものがあった。先々の事ながらもしゆきにそんな仕打ちを受けたとして、果して父の如く自分はじっと耐えていられるか、何も言わずに待ってやる事ができるだろうか。
 今更ながら離れて暮らした十数年の歳月をどう埋めようもない。生前にはあまり感じなかった父への思いが何の脈略もなしに後から後から湧いてきて、絵にも形にもならないまま正造の脳裏を駆けめぐった。何度か独り言を呟きそうになって辺りを見たが、車中には見知らぬ他人ばかりであった。鋭い痛みが背骨の辺りから脳天に突き抜けた。その時初めて涙が溢れてきた。

どこをどう通ったのか半ば上の空で笹子村にたどり着き、まだ新しい父の位牌に只頭を下げた。長患いの果てというのではなく突然だったという父の最期は、同じ家に住む兄夫婦すら気づかぬうちの出来事で、その臨終を見届けた者は誰もいなかったと聞かされた。
 農期が終わって仕舞い込まれた農具の手入れでもするつもりだったのか、たった一人で雪の中の納屋に入ったまま倒れそれっきりであったらしい。短命というほどではないにしてもまだ六〇には二つほど間があった。
 臨終に間に合わなかったのは自分だけでなかった事を知り、幾分正造の気は軽くなった。だが誰にも看取られる事なくひっそりと息を引き取った父が、又別な意味で哀れであった。
 母のリューマチは一層進んだようで、自分の身仕舞いをするのが精一杯に見えた。どんなに手を尽くしてもこの病気を治す方法も薬もないと聞いていたが、正造には見るに忍びない母の老いと手足の不自由であった。加えて父を失った悲しみのためか、前より更に寡黙になっていた。
 正造はふさが来られなかった理由を説明して了解を求めた。厳冬の季節子連れの長旅がどんなであるかを知っているせいか、本心は分からないが一応納得してくれた。だが一家で北海道からここまでやって来る費用を思い合わせて頷いたのかも知れない。
 だがふさの実家木下家からは烈しく非難された。
「なじょして一緒に連れで来てけながったんだや? これだバなんとして三原の家さ申し開きするんだや! 俺ラ家では、ふさを、そったな義理欠きの恥知らずな女サ育てだ覚えはねえ!」
 ふさの父親に詰め寄られて正造はひたすら頭を下げた。何よりもゆきの体調が悪かったからであって、決してふさが来たがらなかった訳ではないと繰り返し話した。
 結局は不承不承認めてはくれたものの、木下家には強い不満が残ったようであった。それにはこんな機会だろうとも、娘や孫に会えるという秘かな期待が裏切られた事も原因していたかも知れない。だが義理やしきたりが法律以上のしがらみになっている故郷から、十数年離れて暮らした正造にとっては、譬えようもなく重い空気に感じられた。
 正造が駆けつけた事によって四十九日の繰上法要が営まれた。その後体を休める暇もなく笹子村を後にした。夕張に残してきたふさやゆきの事が気にかかっていたし、ゆっくりできる余裕は気持ちの上からも懐具合からもなかった。
 だが笹子に戻ったからには、どうしても親分久平の所へ寄らずに帰る訳にはいかない。少々道筋を捩じ曲げてでも院内に向かわねばならない。
 銀山への往来がなかったら冬の間はきっと閉ざされてしまう間道は、葉を落とした木々の間を縫うように、人一人やっと通れるほどの道巾が辛うじて残されていた。辺り一面はまだ深い雪に覆われているが、何とか通り抜けると急に開けてくる谷間の一角に久平の長屋はある。
 突然訪れた正造の帰郷の理由を聞いて久平はびっくりしたようだ。叔父の政吉は、久平に心遣いをさせまいとして正造の父の死を報せていなかったらしい。
 決め事や義理を何よりの大事と伝える友子の中にあって、それを疑うことなく頑なに守り続けてきた久平にような鉱夫には、村方鉱夫である政吉の気遣いで不義理者にされるほうが却ってつらい事なのだ。近いうちには必ず笹子へお参りに行くからと、子分の正造に頭を下げて何度も詫びた。
 だが久しぶりに訪れた院内銀山の空気は異様であった。どことなしに荒れているようでもあり、殺気立っているようにも感じられた。先年訪れた時とは行き交う人々の表情さえ違って見える。
「せんどな(先日)会社から、間代(請負単価)下げるって喋ってきたども、ほんとに今月から下げできたのセ。冗談でねえってみんな怒ってしまって、何するか分がったもんでねえどこだんだや。ンだども、正月過ぎですぐだったか、永岡が三年ぶりで帰って来たんだや。山形の永松鉱山サ行ってらんだど。今はハア、みんなば束ねでる最中なのセ。あの男だバきっとやる。みんなもそう思って一所懸命だんだや」
 久平の説明を聞いて、院内銀山がどうやら一触即発の危機にある事を知った。
 銀相場は二十五年頃から徐々に低落していた。世界の大勢は金本位体制び移行しつつあり、国内でもその落ち込みに歯止めをかけられないでいた。休閉山の続く鉱山の多い中で一人古河院内だけは強気の操業を行っていたが、情勢は如何ともし難くなっていた。
 先年には銀の産出量が全国一になったとかで会社の幹部は鼻高々だった。それからまだ何年もしていないのに、今度は鉱夫の賃下げを通告してきたのだ。
 院内銀山には二十六年の「鉱業条例を守れ」として、鉱夫側の要求を容れさせた同盟罷業の経験と実績がある。その戦術を指導した者の中に永岡鶴蔵がいた。彼はその後この院内を去ったが、折よく三度目の入山をして来たのだそうだ。鉱夫の主だった連中は一も二もなく彼を運動の中心に据え、その手並みと行動力に期待をしているところだという。
「今度は、前の時みでえな恩知らず義理っ欠きはさねえど思う。間違っても永岡の顔つぶすえンた真似は、絶対さへられねえ!」
 よほど三年前永岡や家族に与えた仕打ちを恥じているのか、久平は細い目をまン丸くして力説した。
 その夜久平と正造が酒を呑んでいる時、長屋を訪れた来客があった。小柄な体付きながらいかにも鉱夫らしい骨太な感じのする男だ。坊主頭に近いほど短く刈り上げた髪、ちょっと腫れぼったく見える目や引き結んだ口許、万事小作りな顔立ちにこれといって目立つ特徴はなかったが、どことなく勝気な印象があった。
 見慣れない顔の正造に男は警戒の目を向けた。
「いやア、これは俺ラの子分でなッス。今は北海道の夕張炭山で稼いでいるんだども、親の法事で戻ったついでに、ちょこっと俺ラどこサ顔出しに寄ったどのなのセ」
 久平はそう男に言った後で正造に向き直った。
「正造よ。この人が今も話してら永岡さんだや。俺ラだがこれがら、なんだかんだ世話になんねばならねえどこだんだ」
「あア夕張ですか? 私の友人も夕張におるんですが、もしかしたらご存じかも知れませんな?」
 きっちりと向き直って頭を下げた永岡だが、挙げられた人の名前に正造は覚えがなかった。
「この頃の夕張は人が増えでしまって、坑夫の顔もハアむったど(始終)変わってるハで、知らねえ顔ばっかりになったネハ……」
 正造が弁解するように答えると永岡が訊いてきた。
「炭山はどないですか? 一度は行ってみたいと思うてはいますが……」
 どこか知らないが西国らしい訛りの混じる話し方だ。
 ひとしきり夕張の話題になった。
 正造は鉱山と炭山で共通する事、又まったく違うところなど聞かれるままに答えた。日清戦争以後急速に炭砿が活発になってきて坑夫の募集も凄まじく、内地の人間がどんどん入ってきている事、だが長屋その他の設備や坑夫の扱いは決して良くない実情なども話した。
 鉱山のようなタンパやヨロケは今のところ聞かないが、かな山と違いやたらに落盤が多く、その上ガス爆発がある事を話すと、おおよその事は知っている頷き方をしていた。
 先々は分からないが、今は稼ごうと思えばいくらでも稼げる。楽して金を得ようと考えるのでなければ、これからは炭山のほうが面白くなるかも知れないと正造は話した。
 昔はどうあれ今は夕張で生活する正造には、鉱山出身の坑夫たちに共通する炭山軽視や、分家扱いに対するちょっとした反発があった。
 だが永岡はその話にかなり興味を持ったようだ。夕張に友人がいるとの話だったが、炭砿の事情については余り詳しいようには思えない。
 友子の役付きに推されている顔役の久平に、鉱夫らの中でも難物の連中への説得や根回しを頼みに永岡はやって来たらしい。だが正造に炭砿の話をあれこれ聞く事にかなりの時間を費やした。
 無学な者が多かったとは言え、鉱夫らの間でも銀需要の低迷から相場が下がり、そのしわ寄せが自分たちに及んでいる事は何となく知っている。だがそれでも院内銀山の鉱夫たちにはほぼ二通りの受け止め方があるようだった。
 一つは、先細りになるばっかりの銀山景気にイヤ気を感じ、退山の時機を窺っている渡り者の鉱夫たちだ。この連中の大半が独り者で、稼ぎにならないヤマに何の未練も執着も持っていない。言ってみれば会社への賃金復活請願を支持する積極派であった。
 もう一つは、村方と呼ばれる地元の人間が中心の鉱夫や、自坑夫といういわゆる家族持ちの鉱夫たちだ。これらの鉱夫たちは、移動や退山に対してはどうしても慎重で臆病にならざるを得ない。従って会社とやり合ったりせずに、じっと辛抱して陽の当たる時を待とうと考える消極派である。
 この二つの流れは、先年の同盟罷業の時でも微妙に食い違って、後にしこりを残したという。
 この院内銀山に定着して久しい高村久平は、人当たりもよく面倒見のいい気性もあって、渡りと自坑夫の両友子にも更に村方にも信用のある貴重な存在であった。そのため何か揉め事や話し合いの場には決まって担ぎ出されるようだ。久平自身はそんな仲立ちや顔利きになるつもりはなく、いつも断っているらしい。それでも周りの人々が久平の人柄を見込んでいるだけに、顔を出すだけで話が納まったという事が何度もあったようだ。
 今回も会社側が通告してきた賃金の切下げに対して、断固復活を求める鉱夫たちと、世話になった古河さまに弓を引くような真似はできない、とする鉱夫たちとにハッキリ分かれた。それだけに同志を糾合するのは中々骨の折れる状況にあったらしい。事と次第では賃下げ反対の同盟罷業にまで押し上げようとする積極派の永岡らにとって、久平の存在は大きな力と考えていたのであろう。
「五〇〇とまとまったら大丈夫と思ってます。後もう少しで固まるところです」
 賃金復活請願書に署名してくれる人数らしい。
「俺ラは、何をせばいいんだや?」
「村方の者はしようがないとしても、友子の大当番や元老も鉱夫に違いない訳ですから、一声かけておいてもらえたらと思って……。ま、署名はムリでも今度の請願に反対しないで欲しいいう事です。請願が通れば、みんなして同じ条件を受けられる訳ですから。何度もいうように、一人でも多くの者が気を合わせないかんのです!」
「難しい事は俺ラ喋れねえども、間代バ下げられるのはもっけ(とんでもない)だハッて、俺ラでできる事だバ何でもする」
 久平はよほど永岡を信頼しているらしい。それを聞いた永岡は、自らへも確認するような口調で久平に言った。
 どんな事があっても会社の仕掛けに乗らない事だ。請願書を出した後で会社がどんな手を使って切り崩しに出てくるか分からない。しかしそれに乗ってしまったら元も子もなくなる。それを狙っての事だから必ずこっちの敗けになる。請願行動は決して喧嘩ではない。鉱夫の立場と言い分を分かってもらうしかない。請願とは読んで字の如く請い願う事だから、神に祈る心で誠意を込めれば通じない筈はない、と永岡は力説した。
 似たような話をどこかで聞いた事があるなと正造は思った。久平は永岡をキリシトの信者かも知れないと言っていたが、なるほどそんな風にも感じられない事もない。それにしても万事にわたって真剣な態度の男である。
 久平との話が済んで帰る間際、永岡が訊いてきた。
「いつまでここにおられますか?」
「明日発たねば……。あっぱやわらしが待ってるハで」
「そうですか。こんな時でなかったら、もっとゆっくり炭山の事を聞きたかったんですが……。残念です」
「まンズ大変な事だどは思うども、みんなのためだハで、一つうんとけっぱってけさい。俺ラも北海道から応援してるハで……」
 こんな別れ方であった。だが僅か数ヵ月後に再びしかも夕張で会う事になろうとは、その時の正造が気づく筈もない。
 三年前に来た時と違って帰りを急ぐ必要があった。その日暮らしの坑夫にとってはどんな理由だろうと仕事を休めばそれだけ後が苦しい。それに残してきたふさやゆきの事も気掛かりだ。一日でも早く戻って思いがけない出費の穴を埋めなければならない。
 久平の末っ子正一はもう少しすると三年生になるという事で、体も随分大きくなっていた。相変わらず口数の少ない子であったが、大きな目は母親のまさに似て活発そうに見える。
「学校の成績は一番になったかや?」
 久平が望んだ「なんでも一番」の命名に引っかけて、正造は冷やかし半分に訊いた。
 「なアんもセ。遊ぶ事だバ一番だなや?」
 久平のタコだらけのごつい掌で頭を押さえられながら、正一は照れもせずうんと頷いた。この前別れる時ベソをかいていた幼な子は、三年経った今ではもう少年の顔になっていた。
 ここさ来いと正造は自分の膝を指さした。だが正一はキッと睨むように目を上げて頬を赤くした。もう子供ではないという意思表示であろう。その表情が凛としてたまらなく可愛かった。
 ゆきが生まれてからまだ三年にもならないのに、子供を見る目がいつか父親の目になっている。だが正造はその事に気づいていない。
 この次は男の子がいいなと不意に思った。
 翌朝正造を送ると言ってきかない久平を、拝むようにして仕事に送り出した後すぐ長屋を出た。
 もう大寒に入っており厳しい冷え込みが続いていた。院内鉱山事務所の前を通りかかった時、いかにも土地者ではない正造の風体を、うさん臭げに見送るい幾つかの顔が門内にあった。賃下げに動揺する鉱夫の動きに備えて、警戒を厳しくしている会社が雇った侍くずれかも知れない。鉱夫以外のそんな顔があちこちを徘徊していたため、銀山内の空気が何となくささくれ立って感じられたのだった。

 正造が出入りした慌ただしい一日は、衰退下降をたどりだした国内産銀事業最後の砦ともいうべき古河院内が、三〇〇年の歴史を閉じるに至る言わば最終幕が明く少し前の頃であったのだろう。
 何日もしないうちに、永岡らの運動で集められた賃金復活の請願署名は五〇〇に達し、すぐさま鉱山事務所に提出された。だがその場で要求を拒絶された代表者たちはかねての計画通り同盟罷業に入った。
 四年前に行われた『鉱業条例を守れ』の請願運動は、移動の激しい鉱夫たちの間でも語り草になっており、数少ない勝利の記憶が今回の行動を支える大きな力となっていた。そのため今度も又この前と同じやり方でゆく事にした。つまりいかなる挑発にも乗らないという申し合わせの徹底だ。それともう一つは、気勢を上げながら列を組んで歩く事だ。但し気勢を上げるのは声だけで、絶対に手は出さない約束であった。
 鉱夫税撤廃運動の折、県会傍聴や圧力行動などで身につけたやり方を再現させてみたのだ。
 これに苛立った会社側の通報で、管轄の横堀分署警官が大勢銀山にやって来た。失業士族の多かった警官の中には、たかが鉱夫どもなんぞ一ひねりにと気負いこんで様々な干渉や妨害を仕掛けてきた。
 大声を出したと言っては威し、会社器物の持ち出しを理由に持ち物を調べたりした。又往来する人々の行き先をしつこく訊いたり、返事次第では拘束をチラつかせたりして威嚇を繰り返した。
 だが友子頭役も巻き込んだ申し合わせを鉱夫らは固く守った。血の気の多い連中にとっては大変な辛抱だった。この結束に警察はともかく会社が音を上げた。打つ手がないのだ。そこで又前回と同様に警察署長が中に入る形で会社側との話し合いが持たれた。まったく同じ経過をたどった。
 条件は鉱夫の賃金を元に戻す事、と主張する永岡らの要求は拍子抜けするほどあっさりと認められた。つまり賃下げ通告の白紙撤回という事であった。鉱夫側の大勝利である。思わず歓声が上がった。同盟罷業は三日で打ち切られた。鉱夫代表と会社側は警察署長立会いの下に顔を合わせたが、賃金は通告前のところまで戻すというだけであっけなく済んだ。永岡らも裏に何か仕掛けがあるのでは、と却ってたじろぐほどの全面後退といえる幕切れであった。
 事実それから間もなくその罠に気づかされる事になるのだが……。
 ともあれ、三年ぶりで院内に戻った永岡の人気はいやが上にも高まった。だが学校にもいけなかった貧しい少年時代や、酒、博奕、喧嘩に明け暮れた自分が、こんなにも変わる事ができたのはすべて神の導きあっての事、などと話す彼を何となく敬遠する者もあった。

 正造を秋田へ送り出した後のふさは、日が経つに連れて落ちつかなくなった。始めの一、二日は気を張って過ごしたが、三日頃からはどうしようもない不安に襲われて何事もてにつかなくなった。
 この長屋に越した頃正造が仕事に出た後はいつも一人だった。少々の心細さあったが今ほど寂しくは感じなかった筈だ。まして今では男の子顔負けに元気なゆきがいる。この二、三日は風邪を引いて少しおとなしくなっていたが、以前とは違って一人きりではない。何よりも壁一重の向こうにはすっかり馴染んだ長屋の人々が、家族同様の心遣いをしてくれる。
 それなのに泣きたいほどの不安がふさを苦しめるのだ。
 喜八のように酔って大声も上げない代わり、白川の如く猫撫で声も出さないし、取り立てて優しい言葉も掛けてくれない正造の不在が、これほどこたえるとは思ってもみなかった。たった一度の見合いで決めた嫁入りで、生まれ故郷を離れすぐにゆきを妊ってからこの方、出産子育てに必死で過ごした三年近い日々であった。大きな声で笑った事もないような気がする。それをつらいと思った事などないが、しみじみと幸せを感じた事もなかった。
 しかしいつの間にかふさにとって正造は、なくてはならない人になっていたようだ。
 あれほど来るのをイヤがっていたように見えた北川だが、正造にどんな頼まれ方をしたのか朝夕にふさとゆきの顔を見に寄った。飯場から一〇分ほどの距離と言っても行き帰りの立ち寄りはかなりの回り道に違いない。
「ゆきは大丈夫がや?」
「ゆきの風邪、あんべえはどんだや?」
 正造が不在であってもふさは同じように寝起きしている。そのふさに目を合わさないようにゆきの姿を追いながら顔を出す北川は、決して家の中に入ろうとせず戸口に立ったまま声を掛ける。まるでふさの顔がまぶしいかの如く、チラッと視線を走らせるだけだ。
 トミの言葉だと、ゆきを産んだふさはキレイになったという。それがもし本当だとすれば何一つ粧うでもない地味な女に、天が少しぐらいは輝く時を与えてくれたのかも知れない。だが当のふさはそのトミの言葉を、お世辞にしても恥ずかしいと心底思っているのだ。
 日中はうめやトミの他に長屋のおかみさんらが、入れ代わりやって来るので少しは気もまぎれた。だが冬の日暮れはたちまちやってくる。ランプの灯でできる事などそんなにある筈もない。よくせきの事がなければ眠れない事などないふさだったが、異様に長い夜を過ごさねばならなかった。
 けだものの如くに発情した男が、酒を食らって亭主の留守に夜這いをかけて大騒ぎになった。あるいは、娘にチョッカイを出した男が父親に坑夫まさかりで追っ掛け回された。そんな噂は相変わらずヤマの話題を賑わしていたのだ。
 正造が秋田へ発って四、五日目の夕方であった。灯油の買い忘れに気づいたふさは、まだ何となく元気のないゆきを寝かしたまま隣のうめに頼み、油瓶を提げて店に走った。
「お晩です……」
 挨拶の声にびっくりして顔を上げると、さぶがピョコンと頭を下げた。珍しく仕事終いが早かったのかもう風呂上がりの恰好になっている。後ろに誰か連れらしい男の影があった。
「オヤお晩でなス」
 さぶのほうは何度も長屋に来ているので見間違う事はないが、連れの男の顔はさぶの陰になってよく見えない。もしや正造の知り合いでもあったらと目を凝らしたが、暗い中でハッキリとは分からなかった。
「岩田のおどが毎日こぼしてね、三原でねばまいねって。俺では頼りになんねえもんだから……」
「ホント堪忍してたンセ」
「イヤア、姐さん。俺はそんなつもりで言ったンでねえスよ」
 頭を掻きながらすれ違うさぶに続いた男は、風呂上がりにもうどこかで一杯引っかけたのか、プンと酒の匂いがした。軽く目礼しながら見送ったふさだったが、その男の少し足を引きずる歩き方が目に残った。
 灯油を買って急いで長屋に戻った。
「ふささん、熱冷ましの薬ないがやか?」
 ふさの顔を見るなりうめが言った。ゆきの額に掌を当てたまま声に緊張した響きがある。
「イヤ。薬なんて何も買った事はねえッス」
「みんな丈夫やから、普段はいらんもんやしね。うちをちょっと探してみてくる……」
 うめが慌ただしく出て行った後、ランプの芯を上げて部屋を明るくした。寝ているゆきの顔は赤く肩で息をしているのが分かった。
「ゆき、どしたの? 元気出さねばダメだや!」
 火床にしている炉の中に炭を注ぎ、何とか部屋を温めようと焦った。
 覆いかぶさるようにしてゆきを抱いてみたりしたが、どうしていいのかまったく分からない。雪の戸外から帰ってまだ冷たい頬をゆきの額に押し当てた。確かに熱い。近々と顔を寄せるとゆきの眸はいつになく潤んで力がない。吐く息づかいも苦しげであった。昼間には感じなかったゆきの体調の変化がハッキリと表れて、ふさはいても立ってもいられなくなった。こんな時一番先に何をしなければならないのかどうしても思いつかない。頭の中が変になりそうだった。ゆきの顔を見ているうちに涙が出てきた。
「ゆき、こたえで(我慢して)けろや。すぐよくなっから……」
 やっと気がついて手拭いを取り出した。汲み置きの水に浸してゆきの額に当てた。こんな事もすぐには思いつかないほどふさは動転していた。水は手がしびれるほど冷たかったが今のふさにはそれどころではなかった。
「ふささん。どっこにも熱冷まし見つからんがよ。あんたどっかに心当たりないがやか?」
「イヤ、あの……。オラ、買いサ行ってくるハで、済まねえども姐さんゆきバ見ででたンセ?」
「ゆきちゃんはあちゃ(私)見てるきに、はよう行ったほうがいいかも知れんね」
 夢中であった。ふさは風呂敷ぼっち(四角い布を三角に折ったもの)をかぶっただけで長屋を飛び出した。
 そのままためらう事なしに近道を選びサルナイ市街へと向かった。そこを急げば薬屋のある一区まで一〇分ほどでたどり着ける。昼はともかく、日が暮れてからでは男でさえ敬遠したがる道であった。だがふさの頭にはゆきの苦しげな表情しか見えていない。
 飯場、長屋の家並みが切れた所から街へ向かう三、四〇〇メートルほどの間は、シホロカベツの流れに沿った谷間の細い道だ。川を隔てた向こう側には、選炭場と貯炭場、ステンション、採炭事務所、学校、旅館と建物や施設がたくさんある。だがふさの通ろうとする道は、街と斜坑の上部落を結ぶ近道ではあるが間に建物はまったくない。僅かに川向こうの家並みから洩れる窓明かりか、一区の街明かりが一帯の雪に微かに反射しているだけであった。
 ひたすら街を目掛けて急ぐふさの目に、深い雪道の少し先にボンヤリ浮かぶ人影が映った。一瞬イヤな予感がして胸の動悸が高まった。しかし今更引き返す気にもなれずそのまま進んだ。
 男が一人ゆらゆら体を揺すりながら雪の壁に立小便をしていた。明らかに酔っている体の揺れだ。ふさは立ち止った。体をひねっても肩が触れ合うほどの道巾しかないので躊躇ったのだ。その男の小用が済むのを待って通り抜けようと思った。
 男はイヤになるほどゆっくりと放尿し、ふさの気配に気づいたのか首を巡らした。だが顔の見える明るさでないし、そんな姿にまともに目を向ける訳にはいかない。
 やっと用事は済んだようであった。ふさは会釈するように頭を下げ、男の脇をすり抜けようとした。だが不意に男の手が伸びてふさの肩をつかんだ。
「おい! 見たろう。俺のを見たろう?」
「なんにも見ねえス。見えねえッス!」
 ふさは必死に男の手を振り払おうとした。
「なら、なんで立ち止った。なんで行かなかったんだ? あんたは俺のを見た!」
「イヤ見でねえッス!」
「うそ言うな! あんたは見た。大事なものを見られたからには、俺もこのまま黙っている訳にはいかねえ。ちゃんと挨拶してもらおうじゃねえか!」
 明らかに酔ってのイヤがらせである。ふさはいきなり道に座り込んで雪に両手をついた。
「堪忍してたンセ。オラ子供の薬買いサ行かねばなんねえンス。堪忍してたンセ!」
 先を急ぎたい一心であった。謝る理由など何一つなかったが、酔っぱらいにからまれて時間を取るのはたまらなかった。更にその上何をされるか分からないという恐怖がある。頭を下げて済むならば一刻も早くこの場を逃れたかった。
「謝るって事は見たってえ事だ。それなら頭下げたぐらいで済む話じゃねえ。そうだ、あんたのも俺に見せろ。チラッとでいい。それで話はなかった事にしよう!」
「堪忍してたンセ。子供が熱出して寝でるんだハッて……」
 急にふさの体が上に引っ張り上げられた。男に抱きかかえられたのだ。
「なにするのセ! やめでけさい!」
 もがいて男の手を逃れようとしたが、かなりの力で背中から羽交い締めにされていた。そうしておいて懐に手を入れ、強引にふさの胸の辺りを襦袢の上からまさぐってきた。
「助けでえッ!」
 こらえきれずにふさは大声を上げた。すると男は酒臭い息を荒げながら、もう一方の手で口をふさぎにかかった。ふさは抗って首を振りながら叫び続けた。男も必死になってふさの口を押さえ、胸に差し込んだ手を抜いて今度は首に巻きつけて力を加えた。
 一旦は顔に血が上ったが次第に耳の中から音が消え、フッと気が遠くなりそうになった。途端に手が放されたのか体が宙に浮き、ふさは雪の中に顔から突っ込んでいった。冷たさに引き戻されてわれに返った時、烈しく怒鳴りあう男の声がまず耳を衝いた。
 やっと身を起こしたふさは、すぐ傍で怒号を発しながら揉み合う二つの影を見た。
「野郎ッ!ぶっ殺されてえのか!」
 喚いているのはふさを襲った男のようだ。もう一人の男も声は発しているが言葉にならず、ただ唸るような怒声で飛び掛っていった。二、三度ぶつかり合ったが、せまい道巾と踏み固められていない雪に足を取られてはよろめき、もつれたまま倒れたりを繰り返した。
 だが次第に荒くなる息づかいの音が耳につくようになった瞬間、ふさを襲った男の手にキラリと光るものを見た。
「危ないッ!」
 叫んだふさの声が届く前に、もう一人の男はその刃物の手を押さえようとして飛びついた。
「やめでッ! やめでけさい!」
 ふさはわれを忘れて二人の男に取りすがろうとした。
「危ないッ! はるえ、そこどけッ!」
 怒鳴られた途端ふさは目を疑った。その声の主は北川であった。
 割って入ろうとしたふさは突き飛ばされたものの、一瞬の差で男の刃物が北川の左腕をかすめた。
「あッ! 畜生ッ!」
 腕を押さえてひるんだ北川に次の一撃がと思った瞬間、何故か男は慌てて斜坑の上部落のほうに身をひるがえした。
 ふさは逃げる男の後ろ姿をチラッと見た。背中しか見えなかったが走り方に妙な癖がある。フッと小一時間ほど前灯油を買いに行った時見かけたさぶの連れを思い出した。少し足を引きずるような歩き方の特徴が、逃げた男の走り方にピッタリ重なった。顔はまったく覚えていなかったし今も見ていないのだが、歩き方と後ろ姿はまぎれもなく先ほどの男に違いない。
「北川さん! 怪我は? ……なしてここサ……」
 ふさは自分でも何を言っているのかよく分からなった。
「イヤ。風呂帰りに顔出しして、隣の姐さんがら聞いだのセ。薬買いサ行くんだバ、多分こっちの道通ったんでねえかって見当つけで追っ掛けて来たんだや。間に合っていがった!」
「済まねえッス。いっつもだバ、こんな時間にこの道通らねえンだども、つい急いでしまって……」
 詫びながら、真っ白になっている北川の背に回って雪を払った。何気なく左手首に触れた時ふさの掌にべっとりと生温かい感触があった。
「アッ、北川さん。血ィ出てる! どうすべ!」
「ン? なにちょっとかすっただけだハッて、心配するごとはねえ」
「だども、何とかさねば……」
「大丈夫だ。俺ラだバ大したことねえ。それより、早ぐゆきの薬買いサ行がねば……」
 押し問答をしながらも二人は街へ急いだ。
 思わぬ北川の出現で危ういところを救われたふさは、どんなに感謝しても足りない思いであった。だが北川の怪我やゆきの発熱、更に逃げた男の事などが気になって、頭は混乱するばかりだった。
 街の薬屋でゆきの容態を説明し熱冷ましを買った後、北川のとめるのも聞かず店主に傷の手当てを頼んだ。医者ではないからと断りながらも、難しい顔をして店主は北川の腕を見た。血が出た割には傷は深くなく大事はなさそうであった。
「診療所に行かなきゃいかんよ」
 念を押されながら軽く手当てをしてもらい、ついでに傷薬も買って店を出た。
「オラのために、北川さんサ怪我さへでしまって、ほんとに申し訳ない事したと思ってるンス。あン時北川さんが来てくれなかったらバ、って思っただけでオラもう……」
「もういいんでねえかその話は。ンでもまンズ無事でいがった! 何かあったら俺ラ、三原サ申し訳立たねがったからな……」
 ふさはさっきから迷っていた事を思い切って口にした。
「あの、さっきの男……。オラ、見だ事あるえンた気イするんだども……」
「ン? 知ってる男であったネハ?」
「イヤ、顔知ってる訳でないんだども……」
 さぶと出合った夕方の状況を思い出し、足を引きずる歩き方の男が一緒だった事を話した。その時もさっきもハッキリ顔を見た訳ではなかったし、その男と決めつける証拠は何もない。勘であった。だがふさはあの男から受けた仕打ちが悔しかった。ふさは正造以外の男に抱きすくめられ。胸を探られた事などこれまで一度もなかったし、これからも絶対にあってはならないと思っていた。もし北川が現れてくれなかったらと思っただけでぞっとした。
 話をしているうちに、首を締められた事を思い出しそれを口にした。途端に北川の態度が変わった。自分が傷を負わされた事より男を取り逃がした事を悔しがっている風だったのに、凄まじいばかりの怒りを剥き出しにしたのだ。
「なにイッ、首締めたア! ホントだか? ちきしょうッ! ンだバあの野郎逃がすんでなかった。なんとしてもふんづかまえで、半殺しの目に合わせてやるンであった!」
 普段はロクに口も利かない北川が、これまでに見せた事のない全身での怒りは、暗くて表情はよく見えなくてもふさにびんびんと伝わってきた。気押されて思わず後ずさりしたくなるほどだった。だがふさには、自分のためにこんなにも感情をあらわにしてくる北川が、とても身近に思えた。
「三原が帰って来るまで、一人で夜歩きなんかしねえでけれ! もしなんとしても用があるんだバ、俺ラサ喋ってけれ。頼む。な?」
「ハイ」
 素直に返事しながらふさは何故か嬉しかった。まるで父か兄かにでも言われているようで、先ほど味合わされた恐怖感が甦り却って涙が出そうになった。このまますがりついて子供のようにワアワア泣きたくなり、張り詰めていた気が一ぺんに緩んだ。
 その時ふと思い出した事があった。
 あの男の手に刃物が光り夢中で飛び込んだ自分に向かって、北川は聞いた事もない女名前を叫んだように思う。そうだ確か「はるえ」と叫んでいた。自分の後を追いかけて来たという北川が、間違えて別の女の名前を呼ぶというのも変だし、何か腑に落ちない気がした。
 だとすれば「はるえ」とは一体誰なのだろう。
 正造から聞いた北川のあれこれを思い返してみても、そんな名前の女が登場した事は一度もない。それどころか北川の周辺に、女の影も噂もついぞ現れた事がないような気がした。女に入れ揚げたとか馴染みの女がいる、とかの話も聞いた記憶はまったくない。それなのに何故私のほうを見て「はるえ」と呼んだのであろう。
 ふさはその事がひどく気になりながら、到頭訊けないまま長屋に戻った。
 気配に飛び出して来たうめに対して北川は言った。
「さっきはどうも。ンだバ俺ラは帰るから……。姐さん、まンズ三原のあっぱやわらしの事バ、なんとか頼まれでけさい」
 丁寧に頭を下げると、今夜も上がらずに帰って行った。
 ふさは買ってきた薬を煎じて飲ませたり、額の手拭いを取り替えたり、火の気を絶やさぬよう気づかったりで、その夜は到頭床につく事もせずに朝を迎えた。
 この季節の冷え込みは、凍(しば)れるという方言でしか実感できない、まるで刺されるような痛みさえ伴う厳しいものだ。時には布団でさえ息のかかる辺りが、霜で真っ白になる事も珍しくはない。そんな夜は寝返りの度に襟元から忍び込む寒気に襲われ、思わず震え上がったまましばらくは眠れなくなる事もあった。
 綿をたっぷり使った布団や夜着など持ち合わさない坑夫が多かった。飯場からの借り物では煎餅布団に文句もつけられず、ありったけの着る物を身につけたり被ったりで、ようやく寒気を凌ぐのが精一杯なのであった。
 うめに知らされなかったら、ゆきの異常な発熱に気付かなかったのか、と自分が情けなかった。苦しげな呼吸を続けていたゆきが、やっと寝入ったのを見たふさは、肩の力が抜けるような疲れを覚えた。
 正造が発ってからまだ四、五日にしかならないのに、今すぐにでも戻って来て欲しいと痛切に思う。だがもし帰って来たら今夜の事をどう話せばいいのだろう。
 大声で叱りつけたり愚痴をこぼしたりもしない正造だが、それだけに愛想もないと言っていい。決して陰気ではないのだが明るいほうとも言い難く、何を考えているのか外からはよく分からない。
 ふさも決して口数の多いほうではないが、留守中の出来事はキチンと報告しなければならないと思っている。だがそれにしても今日は不注意や迂闊な事ばかりで、正造にどんなに怒られても仕方がない一日であった。
 親戚に避難されるのを覚悟で単身帰郷したのに十分な留守も守れず、却ってゆきの風邪を悪くした事。災難とは言え北川に怪我を負わせる結果になってしまった事なども、すべて自分に責任があるしか思えない。せめて北川の怪我が大事に至らないよう祈るより他になかった。
 それにつけても「はるえ」とは、北川とどんな関係にある女なのか又しても気になりだした。だがそのうちいつまどろんだのか、昨夜の姿のままゆきの傍に添い寝してしまった。
「ゆき、どンだや?」
 北川のいつもの声にふさは飛び起きた。まだ暗かったが油障子を細めに開けて顔を覗かせただけの北川だが、昨日と変わるところは何も見えなかった。
「お蔭さんでゆきの熱は少し下がったみたいで、今は眠ってらどこです。ゆんべはホントに済まねえ事であったンス。腕の傷、大丈夫であったネハ?」
「なんもセ。かすり傷だハッて心配ねえ。それより、ゆんべの野郎の事だども、今日さぶに聞いでみでえって思ってるンだや」
「だども、オラの事だバもういいから……。たとえ分かっても、危ない事はしないでけさい。あんな人は何するか分からない人だハッて」
 雪明かりに光った刃物がチラリと頭をかすめ、更めて身ぶるいが出た。
「イヤ心配さねってもいい。男同士の話だハデ、あんたの名前なんか絶対出さねえ! それよっかふさちゃ、少しでも寝だほうがいい。親子して倒れだら何とするや?」
「……ハイ」
 何も言えず返事一つするのがやっとであった。
 北川に引き合わされてから三年近くなり、その間にはかなりの回数顔を合わせたに違いない。だが真正面に顔を見てくれた事はもちろん、名前など呼ばれた事は一度もない。それなのに今朝は、まるで知り合いの娘でも呼ぶように「ふさちゃ」とさりげなく呼んでくれたのだ。たったそれだけであったがふさは言いようのない感動を覚え、返事以外の声が出せなかった。
 恐らく一目で寝ずの看護に気付き、気配りの声をかけてくれたに違いない。長い不満の日々が一時に拭いさられてゆくのを感じた。
 訊きたい事も訊けないうちに北川は足早に去って行った。
 その日ゆきの発熱を知った長屋の女たちが出たり入ったりして、落ち着かない一日となった。うめもトミも何度か様子を見に来てくれたし、珍しい事にきちが顔を出したりもした。それぞれが自分の経験と聞き覚えの熱冷ましや、子供の風邪の手当てなどを話しては帰った。
 きちはしきりに診療所へ連れて行けというのだが、この寒空にそれもできないと知ると、それならば医者を呼べというのだ。
 やっとこの頃建て増して診療所の体裁を整えてきたとはいうものの、このヤマに本格的な病院はない。まして医学士や博士の資格を有する大学出の医者が、こんな辺鄙な山の中に来る筈もない。従って専門学校出の医学得業士(旧制医専卒業者)に来てもらえるだけでも感謝しなければならなかった。
 開拓間もない地方ではそうした人さえ手配がつかず、無資格のニセ医者が横行するほど引っ張りだこになるのが、医師という職業であった。
 日に日に人口が増え今や四,〇〇〇人を超えようとする夕張も、所詮は辺境に位置する開拓地の一つにすぎない。何よりもまだ大きな建物すら見当たらない町であってみれば、医者ならずとも尻込みするのは止むを得なかった。まして新興地域にありがちな荒っぽい坑夫や土工が落とす金を目当てに、博徒ややくざがはびこって血生臭い争いの絶えない土地柄である。好んでやって来る医者など少なくて当然かも知れない。
 ステンションと選炭場より少し北寄りの場所に、平屋建ての診療所は早くからあった。嘱託医師は時によって二人になる事もあったが、ほとんどは一人であった。従って日中診療治療をうける患者の数からいって、とても往診どころではないのが実情である。
 町場の商家のお内儀だったと噂されるきちには、その辺りが理解できないところだったのだろう。それにしてもゆきの発熱騒ぎで、普段来た事もないきちまでもが、あれやこれやと気を使ってくれる事にふさは心底感謝した。長屋住まいの心強さがこれほど身に沁みた事はない。
 お蔭で一つ分かった事がある。それらしい話など何一つ口にした事のないきちに、どうやら子供を育てた経験があったらしい事だ。詳しい事はともかく嘗て子供の発熱をうっかりして大事になったと、ポツリ独り言のように洩らしたのだ。その時の苦い思いが、医者の往診をという言葉に結びついたようであった。
 滅多な事で坑夫長屋や飯場などに、医師の往診を仰ぐ事などは考えられない環境であったし、又そうした時代であった。都会に住み町に暮らす人々には想像もつかない不便不自由も、開拓が始まって日の浅い北海道のしかも炭山辺りでは、それがごく普通の事であった。人々もいつしかそんな状態に慣らされてしまっていたのだ。
 ゆきの熱は夕方までに徐々に下がったように思えた。熱冷ましがいくらか効いてきたのかも知れない。いやがるゆきをなだめながらおかゆを少し食べさせ、残りを自分で食べるとやっとふさも人心地つく思いがして、気持ちも落ち着いた。
 昨夜ほとんど眠れなかった疲れが出てきてボンヤリした。いつ帰るとも言わず慌ただしく旅立った正造が、今夜辺り突然帰って来てはくれないものかと、又しても不安な夜を思った時、油障子の外に人の気配がした。
「お晩です」
 一瞬正造かと弾かれたように玄関に走り出た。油障子を引き開けるとさぶと岩田源吉が立っていた。
 お晩ですと挨拶しながら正造が帰って来る筈はない。相手には知れない事とは言え思い違いが恥ずかしかった。狼狽えながら二人を急いで中に入れた。
「ゆきのあんべえが悪りいンだってがや? 今朝坂本から聞いたバッて、さぶと二人してちょこっと面出ししてみたんだや……」
 槌組の先山である岩田に、隣の坂本が声を掛けてくれたのであろう。
 一番坑と第二斜坑では坑口こそ違っていたがすぐ近くにあるため、入坑するまでの道筋は同じなので時々は一緒になる事もあるのだろう。所属や現場こそ違え古くからいる者はほとんどが顔見知りなのだ。
 正造の留守中家族に何かあったのを知らなかったでは岩田も困るだろう、と坂本が世話を焼いてくれたのかも知れない。
「すまねえです。だども少し熱も下がってきたみたいです……」
「そうがや。それだバいがった。ンでもなんか困る事あったら、何でもゆってけれでや。俺ラでもさンぶでも、なんもじき(遠慮)さねえで使ってけろ。な?」
「ありがとさんでなス」
 礼を言って二人を送り出した。だが一旦表へ出たさぶが、思いついたように戻って来た。
「今朝あの人、北川さんに聞かれたんだけど、安、なんかやったの?」
「安って?」
「ホラ、ゆんべ俺と一緒だった奴ですよ。元は橋本の土工だったんだけど、ホントは安田だか安川だか、名前のほうが安なんだか俺もよく知らねえンですよ。向こうは馴れ馴れしく声掛けてくるンだけど、俺、あいつ好きでねえンですよ」
「そしたバ、なんで一緒に?」
「岩田のおどと組む前に、別の組でちょこっと組んだ事があるンですよ。さっぱり稼がねえで、酒ばっかり人にはだって(せびって)、酒ぐせは悪いし刃物は持ってる。どこの飯場がらもすぐに追い出されて、今どこにいるんだか俺もよく知らねえンですよ。ゆんべ姐さんに会った時も、呑むべってしつこく誘われでるどこだったんです」
「北川さんは、何だって?」
「ゆんべお前えど一緒だった男に会わせでけれって。詳しくは言えねえども大事な用だって。おっかねえ顔して言って来たんですよ。金でも貸したんだべか?……まア、奴の行きそうなとこは大体見当がついてるんで、晩飯食ったら探しに行く事にしたンです」
 安を探し出してどうするつもりなのか北川の腹は分からないが、その間の事情をさぶにも話す訳にはいかない。何もなかったとしても口から口への噂はどう伝わるか知れないものだ。
「刃物持ってるなんておっかねえ男だバ、よくよく気イつけでね……」
「大丈夫ですよ。したけど、もしかして金の事だったら、安からは無理だと思うけどな……」
 さぶが帰った後、ふさは急に北川の事が気になって来た。
 男同士の話だから心配するなと今朝ほどは言っていた。だが自分に刃物を振るった相手を探し出そうとしているのだ。どう考えても穏やかに済みそうには思えない。又しても昨夜の血の感触が甦ってきてぞっとした。今夜北川が顔を出したら、何としても行くのをやめるよう懇願しなければと思った。
 穏やかな寝息をたてているゆきの寝顔を確かめてから、ふさは門口に立って通りのほうに目を凝らした。何度か出入りして北川の来るのを待ったが、それらしい人影は見えず到頭その夜は姿を見せなかった。
 ふさは前夜に続いてロクに眠れない夜を過ごした。うとうとしてはハッと目覚め、ゆきの様子を見ては又まどろむという一夜であった。ゆきの容態が最大の気掛かりとは言え、加えて北川の身に対する不安が重なり始終悪い予感に襲われ続けた。
 長屋のあちこちに朝の支度をする気配が聞こえ、ふさも体を起こした。まだ外は真っ暗だったが炭山の朝は早い。長屋前の雪道を踏む足音が悲鳴の如く寒気にはね返り、時折は小声で交わす男たちの挨拶も異様にハッキリと聞こえる。厳しく冷え込んで風のない朝は、遠くの物音がよく伝わってくる。
 ゆきの寝息に乱れはなかったし、熱もほとんど引いている。額に当てた掌でそれを知ったふさは、一山越した思いがして身体中の力が抜けた。それでもゆきが目を覚まさぬようそろそろと朝の支度を始めた。
 その朝も北川は姿を見せなかった。正造が発ってから朝夕必ず立ち寄って言葉を掛けてくれたのに、二度も顔を出さないとはきっと何かあったに違いない。さすがにふさは心配でいてもたってもいられなくなり、今夜には自分のほうから飯場に行ってみようと決心した。その日もうめやトミを始めとして次々にゆきの様子を見に来る長屋の女たちで、ふさは休む間もなくもちろん居眠りする暇もなかった。
 ゆきは大分元気を取り戻し、どうしても起きると駄々をこねて手こずらせた。ムリに寝かせようとしてもいう事を聞かない。それを見たかみさん連中が「よかった。よかった」と笑顔になるため、一層調子に乗ってふさに逆らった。
 その夜坂本の家で夕飯が済んだ気配を察したふさは、ゆきの事を頼んでから飯場へ行って見ようと立ち上がった時、当の北川が姿を現した。
「ゆき、どンだや?」
 挨拶代わりの台詞もまったく同じで、見たところ何の変わりもない。
「ア、北川さん。今、飯場サ行って見ようと思ってらどこであったンス」
「何しにな?」
「ゆんべも、今朝も顔見せないし、オラ、何かあったんでないかと思って……」
「イヤ何ンにもねえ。そした事よりゆきのあんべえはどンだ?」
 ゆきは元気に起き上って来て、門口から顔だけ出している北川に手を伸ばした。
「まンズ上がってたンセ」
 今夜はどうしても上がってもらいたかった。だが北川は油障子は閉めたものの雪沓は脱ごうとせず、そのまま上がり框に膝をついてゆきを抱き寄せた。
「ゆき、いぐなったか。オウ、えがったなア。よしよし、えがった、えがった……」
 頬ずりして相好を崩す様はまるで父親だ。日頃の北川とは別人の如く優しい表情になっている。
「ホラゆきよ。また熱出たらわかんねえど。ウン、あったかアくして寝でるんだ、なア。そうやって今少し我慢せば、すぐに外サ出てもよくなるど」
 父親の不在が寂しかったのか、ムリヤリ寝かされている事に不満があったのか、ゆきは北川の首に手を回して離れようとはしない。その手を優しくほどきながら、何度でも言って聞かせている北川からゆきを引き離した。吹き込む冷たいすきま風は、まだ治ってはいないゆきにとって厳しすぎる筈だ。
「ふさちゃ、野郎が謝ってだ。酔っぱらって済まねえごとしたって、手エついで頭下げでだ。もう二度と面バ出さねえって、このヤマがら出て行った。そったらごとで勘弁できる話でねえべども、こないだの事は、一時も早く忘れでしまったほうがいい」
 突然北川はそんな風に言い出した。
「オラはいいども……。北川さんは怪我までさへられで」
「なに、もう終わった事だ。心配さねってもいい。三原が帰って来るまで、も少しの辛抱だや……」
 結局北川は何一つ詳しい事は話さなかった。安との間にどんな話し合いがあったのか一言も洩らさずに帰って行った。
 ふさは先夜の事件から心を開くキッカケができたとはいうものの、北川のほうから話してくれない事を踏み込んで訊く事もできず、礼を言って見送るしかなかった。
 もちろん、昨夜二人の男の間に命がけの凄まじいやり取りがあった事など、ふさには知る由もない。

 昨夜さぶと落ち合った北川は、さぶが見当をつけた溜まり場を探し回ってすでに酔っぱらっている安を見つけた。北川はさぶに礼を言って別れてから安に近づいた。
 場所を替えて呑まないかと誘うと、酒となれば時、所、人を選ばない意地汚さを剥き出しににしてのこのことついて来た。顔も声もまったく覚えていないいないようだ。ふさが言った通り少し足を引きずる歩き方なのが分かった。
「そこらへんでしょんべんしてから行くべ」
 家が増えたと言っても通りを外れれば、暗い場所や人目につかない所はいくらでもある。
「オイッ安ッ! ゆんべの始末はなんとするンだや!」
 いきなり浴びせかけた北川は、返事も待たずに安の胸ぐらを締め上げた。
 普通に迫って問い詰めても恐らく白を切るに違いないと睨んで、ふさの記憶と勘に賭けたのだ。
「俺ラのほうはハッキリ覚えでるンだ! サア、この腕の傷はなんとするんだや。おいッ!」
 安は腕の傷と言われてドキッとしたのであろうか、慌てて態勢を立て直そうとしたようだがもうすでに手遅れだった。
「俺ア知らねえ。何にもしねえ! 放せッ!」
 ふりもがいて何とか逃れようとしたが、それをやすやすと許す筈はない。暴れる安を雪の中に押し倒して馬乗りになり、息つくひまも与えずに二、三発ぶっ食らわした。
 安はたちまち鼻血を噴き出し唇が切れて見るも無惨な顔になった。アッという間に戦意を失った安の懐から、むしり取るように匕首を奪った北川は一振りでさやを払い、のど首に突きつけて思い切り凄味を利かせた。
「サアッ立でッ! 請願(巡査派出所)サ行ぐど! そこでゆんべの事バみんな喋れ! 女を殺すつもりであったって、全部白状せえでや!」
「ち、違う! 俺ア殺すつもりなんかなかった。ただ、ちょっとからかっただけだ。勘弁してくれ! 俺は酔っぱらってたんだ。つい手が出ただけなんだ!……」
 安はまんまと北川の賭けに引っ掛かった。
「ンが(お前)だべ。次から次って長屋の女たちサ手ッコ出してる野郎は? さア、請願サ突き出してやっから立でッ。立つんだ!」
「イヤ違う! 俺でねえ! 俺はゆんべだけだ。ホントだ。勘弁してくれ。もう絶対にしねえ……」
 たこだらけの節くれだった北川の手で、殴られ締め上げられて安は昨日のいきさつを逐一白状した。
 辺りに人影もない所でつい悪戯心を起こしたが、抵抗され大声を出されて焦ってしまい、声を出させないつもりで首を絞めてしまった、というのだ。
 どこまで本音か知らないが、安は手を突いて何度も頭を下げた。
「ンがみでえンた野郎は、又いつこったな事するがわがったもんでねえ。聞けばまるくた(満足)に稼ぎもさねえで、酒ッコばり人にはだってるって話でねえか。ほんとに請願サ突き出されたくねがったら、このヤマがら出て行けッ!」
 一七、八年も坑夫一筋でヤマを渡り歩いた北川は、一癖も二癖もある連中に揉まれてそれなりに修羅場を踏んで生きてきた。見掛けで言われる地味で穏やかな人柄だけでは、到底越えられない荒っぽい場も何度かくぐり抜けている。いざとなったら相当に生臭い取り回しもできる男であった。
 安は明日必ずこのヤマから出て行くと約束した。いや北川が放つ凄まじいばかりの気迫に押され、そう言わざるを得なかったのかも知れない。
 元はと言えばその日暮らしの飯場者で腕も根性もない半端坑夫なのだ。橋本組で鉄道敷設の人夫をしていた時に傷めた足は、ロクな手当てもしなかったばかりに後に障りが残ってしまった。仕事に差し支えがないとは言っても、足を引きずる外見からか追い回しか半人前の扱いしか受けられず、勢いその憂さを酒にまぎらす日々となった。酒さえ呑めるならば、少々皮肉やイヤ味を言われたり蔑みの言葉を浴びせられたりしても我慢できた。
 血だらけになった唇元の辺りを拭いながら、ポツポツと話す安の話はどこまで信用できるか分からない。だが黙って聞いていた北川はボソッと訊ねた。
「ンが、汽車賃はあるのか?」
「……ない。だけど歩いても出て行く……」
しばらく考えていた北川が言った。
「明日の朝、支度してステンションさ来い。俺ラが何とかしてやる。俺ラ石川にいる北川栄治だ」
 翌朝ふさが待っていた事など知らず、北川は仕事を休んで駅に行った。
 安の口からは酒のせいだと聞かされたが、駆けつけるのがもう少し遅れたらふさの身に何が起きていたか分からない。その上自分までも傷つけた男のために、何でここまでしてやろうとするのか、北川自身にも説明のつけられない衝動があの時突然湧いたのかも知れない。
 昨夜強か殴られた鼻のまわりや頬の辺りは青黒く腫れ上がって、まともには見られない顔で安が待っていた。
「ゆんべはどうも……」
 頭を下げたのは安のほうだ。
「うん。……お前え、これがらどこサ行きてえんだや?」
「……あれから考えたんだけど、俺にはもう炭山はダメだ。何とかして町の中で暮らしたい。できれば札幌まで行きたいんだ」
「そうか……。それもいいがも知れねえ……」
 理由など一切聞かず、北川は札幌までの切符を買って安に手渡した。
「お前え、親兄弟はいねえのな?」
「……内地にいる。何年も便りなんかした事はねえけど……」
「説教する柄でねえども、酒呑んだバッてつらい事なんかなぐなるもんでねえ。醒めれば又おんなじ世の中でねえかや。ここ出てどっかサ落ち着いだら、親サ手紙でも出したらどうだや? 親不孝してればロクた死に方さねえど」
 真意は量るべきもないが、神妙な面持ちで頷きながら安は汽車に乗った。
 金を渡せば必ず酒になるであろう事を見越しての処置とは言え、北川のこの行為の一部始終を、もし他人が知ったとしたら一体何と思うだろう。何を好んでこの虫けらのような男に施すのかと、恐らくその真意を訝ったに違いない。
 だが北川は血だらけになった安を見た昨夜、どこかで同じ情景とぶつかっている錯覚にとらわれた。まだ五年前の悪夢が続き、あの男がそこにいるような気がしたのであった。顔さえハッキリと記憶していない男と、今目の前に打ちひしがれている安が同じである筈はない。にもかかわらず北川の中からスーッと何かが引いてゆき、急に安という男の姿が見えなくなった。代わってそこに、必死で許しを乞う一人の女の哀しげな表情があった。イヤそんな気がしたのだった。
 但し当の安には、何故北川がこれほどまでにしてくれたのか、恐らく分からなかった筈である。
 それにしても北川が終始して深く気づかった事がある。安を除いて先夜の事はさぶも知らない。洩れれば、世間は何もなくてもいろいろと取り沙汰する。そこでさぶを先に帰したのも安をヤマから追い出したのも、すべてふさのために心配った事であった。

 やっと汽車汽船が便利な乗り物である事が知れるようになっても、旅はやっぱり歩くのが主で時間のかかるのは当然であった。まして真冬とあれば気ばかり急いても捗る道のりではない。
 正造が日程をギリギリ詰めて夕張に帰って来たのは、それでも月が替わっていて節分の前日であった。その間北川が朝夕顔を出して、ふさとゆきを気づかってくれたのはいうまでもない。
 正造は留守中の出来事をふさから聞かされた。
 久しぶりの対面にまつわりついて離れないゆきをあやしながら、珍しく口数多く語るふさの様子を見た正造は、何かがこれまでと違うような気がした。
「そうかや、そんたな事があったのか。お前えもゆきも大変だったなや。ンだども北川には申し訳ねえ事したな。なんて謝ったらいいか……」
「も少しせバ必ず顔出しに寄ってくれるハで、今日は何としても上がってもらってなセ。せめで、酒ッコの一口でも呑んでもらわねば……。北川さんは、あんたの留守中ただの一度も上がってくれなかったハデ」
 興奮した面持ちで語るふさは、そのまま帰したらダメだよ、と念を押しながら酒を買いに走った。
 すっかり元気になったゆきを相手に、正造は旅の疲れも忘れてわが家と子供の匂いにくつろいだ。
「ゆき、どンだや?」
 ふさが言った通り、油障子を少しだけ開けて北川が顔を覗かせた。
「おい北川。上がってけれ!」
 すかさず正造は声を掛けた。
「おッ三原。帰って来たかや?」
 さすがの北川も今夜はためらう事なく上がって来た。
「北川、聞いたでや。お前えにはすっかり迷惑かけでしまって……」
「なに、他人みでえな事言うなでや。なアゆき?」
 照れているのかゆきに声を掛けた。ゆきは父親の足元から北川の足元へとからまりついていった。
「お前え、腕の傷は大丈夫だったのかや?」
「なんもセ。あったなぐれえ三日もせば何ともねえ。傷薬バ買って損した塩梅だでや。それより、院内サ回って来たのかや?」
 腰を下ろして秋田の話になった。そこへふさが戻って来た。
「まだ何もできてないけど、まンズ酒ッコだけでも……」
「ガッコ(漬物)はやす(切る)だけでいい。ゆきもここサ来てねまれ(座れ)」
 家の中が昨日までと違う空気になり、それを感じとったゆきの動きが急に忙しくなる。今までの鬱憤を晴らすかのように片時も体を休めない。だがゆきを眺める大人たちの目がいつしか和んでくる。
 北川はゆきのその様子を目を細めながら見ている。正造は北川がこれほどくつろいで自分の家族に接しているのを見たのは初めてだ。その変わり方が嬉しくない筈はないが、反面又意外でもあった。
 以前ふさに言われた事がある。北川さんは私が嫌いなのだろう。確かにそう言われても仕方がないほど頑なにふさの視線を避けていた。その北川が今見ると信じられない変わりようなのだ。対するふさのほうもこれまでとは北川に接する態度が違う。
 ゆきの発熱から薬を買いに雪の夜道を走り、酔っぱらいにからまれたところを北川に助けられたが、そのために彼を負傷させてしまったとふさから聞いた。もしかしたらその奇禍が北川とふさの間を詰めてくれたのかも知れない。そうだとすれば転じて福となったその災難に、口に出せる事ではないが内心ホッとするものを感じた。
 正造にとって今回は慌ただしい旅であった。三年前と違って連れも話し相手もない一人旅だった。親不孝と不義理を悔やみながらの道中であり、ふさの親たちにも責められたりしたつらい旅であった。それだけに胸に支える様々な思いと、見聞きした色々な出来事などを北川に聞いてもらいたくて、正造のほうから口を開いた。

院内が永岡らを中心に同盟罷業直前であった事や、久平が一役担わされていた事なども含めて、銀山の何かが変わろうとしている気配からまず話し始めた。
 秋田では鉄道施設計画がかなり具体的に噂されていたし、汽車や汽船の中では各地の路線延長を、乗客が話しているのを何度も耳にした。聞くにつれて俺の仕事と無関係ではないという気がしてきた。これからは翳りの出始めた銀山などより、石炭というものに陽がさしてくるのではなかろうか。そうなれば当然この会社も影響を受けるだろうし、このヤマだって何かしら変らない筈はない、と帰りの車中でずっと考えていた事を口にしてみた。
 そんな事への関心が元々からあった訳ではない。多分新聞を読むようになってからの事であり、それも前回の旅で中田秋介と知り合った影響によるものであるとは正造も気付いている。とは言っても北川に話したような事が、少しばかり新聞を読んだぐらいで気付くようになる筈もなく、言わば勘にすぎない。新聞の片隅から拾った投書や時評の短文などから、自分流に汲み取った推測の域を出てはいないのだ。
 だが確かに日清戦争から世の中の景気は動いた。貧乏人はどこまでいっても同じだとこぼしながらも、戦前との変わり方にはみんなも気付いていた筈だ。炭山やそこに働く人間に対してはともかく、石炭という産物への関心が明らかに違ってきた事を、正造も北川も何となく感じてはいた。
 正造は今度の旅で目にしたいくつかの情景を北川に伝えて、彼の意見を聞いてみようと思った。
 一つは夕張支線における駅の新設工事だ。車中の話題とわが目で確かめただけでも幾つかの駅が造られつつあった。それが新しい炭坑の開坑と関係があるのかどうか分からない。だがもしそうだとすればその付近だけでも確実に人が増えてくるだろう。それを見越しているのか汽車の便も増えていたし、客車貨車も新しいものが増結されていた。
 もう一つは室蘭の事だ。ここは駅から船着場の桟橋まで陸路ではたっぷり一里以上ある。だがその間を貯炭場から往復する馬車と人夫の数、あるいは艀(はしけ)での運行は大変な活況であった。だがそこにも駅から桟橋近くまでの線路の延長工事が行われ、この夏頃までには開通するらしい。旅客はもちろんだがそれよりも石炭を大量に輸送するのが狙いだとの話も聞いた。
 その石炭が内地のどこに運ばれてゆくのかは知らないが、その一部は確実に製鉄事業のために使われるのだと新聞は報じている。詳しい内容はともかく粉炭から作るコークスなるものが、製鉄に欠かせないという話はおおよそ知っている。
 三年前だったか釜石炭山の田中製鉄所が夕張の石炭を使って、製鉄に必要なコークスの製造に成功したという話を聞いた。何でも安政四年に日本で最初に銑鉄を吹いた老舗の田中製鉄所が、夕張の石炭を使ってくれるようになれば大したものだ。これで先の見通しも明るくなった、と勢い込んでいた採炭所のお偉方が言っていたからだ。日清戦争が始まって間もない頃のことだった。
 その戦争が終わって賠償金がどうのと、とてつもない金の額が取り沙汰されたのも束の間で、もう世間ではアッサリと忘れている。だがその金の一部を注ぎ込み今度は日本で軍艦を造るために、九州のどこかに官営の製鉄所を建設することになった。その遠大な計画は、去年の第九議会で承認されていた。
「戦争して分捕った賠償金だバッて、又も軍艦や大砲バこさえねばなんねえって思ってるンだかや? まンズ、偉い人だの軍人っちゅうものは、明けでも暮れでも、戦争やる事しか考えでねえンだなや?」
 正造は誰かにそんな事を言った覚えがある。もしかしたら北川だったかも知れない。
 今度の秋田行きではつらい思いも味わってきたが、鉄道や港湾がらみの工事や人の動きを見た正造は、世の中のあちらこちらがうねるような動きを始めた気配を感じたのだ。
 正造の話をただ頷きながら聞くだけで北川はほとんど言葉をはさまない。珍しく熱っぽい口調で語り続ける正造に少し圧倒された事もある。だが半月ほどとは言えこのヤマから外に出ていた人間の見聞きしたり感じたりした事が、一番新しく確かに違いないと北川は思っていたのだ。その上これほど喋る正造を見た事はなかったし、それだけ気の入る何かを感じたのだろうと見たからでもある。北川の手応えを見ているらしい正造の気持ちは分かったが、それだけに迂闊な事は言えなかった。
 はしゃぎ回っていたゆきが、正造の膝で丸くなって寝込んだのを見た北川は、自分も腰を上げた。
「ゆきはめんこいなア……」
 少し酔ったような北川はしみじみと洩らした。
「お前えも、早えどこ誰かめっけで一緒になれ。へバすぐ授かるでや」
「そった事、俺ラにはできねえ!」
 なたで叩っ切るような北川の返事が返ってきた。
「何でだ。何でできねえンだや?」
 それには何も答えずに北川は帰って行った。
「おかしだ事いう奴だなア」
「オラも、北川さんが一日も早く嫁ッコもらって、かまど(所帯)持でばいいと思ってるんだども」
 少々手荒に揺すっても目を覚ましそうにないほどゆきはぐっすり寝込んでしまった。きっと興奮して跳ね回りすぎたのだろう。寝巻に着替えさせたりしたがまるで死んだも同然であった。
 部屋が静かになり、流しで後片付けをしているふさの後ろ姿を見た時、正造はやっとわが家に戻った事を確認した。明日から死に物狂いで稼がなければならないなと思った。だがそう思った途端、帰り着くまであれほどまとわりついて離れなかった重苦しさがフッと遠ざかっていった。急にふさをそのまま押し倒してしまいたい欲望が体の芯から突き上げてきた。
 灯を消して真っ暗にした部屋の隅で着物を脱ぐ気配がした。ふさが何一つ身に着けず隣に入ってきた。正造は冷えたふさの体をしっかりと抱きしめた。
 低くおさえてはいるが気の昂ったふさの声が洩れる。
「オラ……。寂しかった!」
「そうか!」
 後は言葉にならず、言葉はいらなかった。次第に激してくるふさの昂りが正造にも伝わり二人はたちまち火になった。
 抑えようとしても抑えられない声をふさは歯を噛んで必死にこらえた。半月余りの間耐え続けていたものが夫の胸に抱かれて一気に迸りだし、深いところから燃え上がってくるのをどうする事もできなかった。しびれるような熱いうねりに何度か襲われいつしかその波に呑まれていった。
 ふさが初めて味わう目も眩むような歓喜であった。
 およそ半月ぶりで仕事に出掛ける日は、正造に直接何の関わりもないが、遠く福岡県の遠賀郡八幡村では農商務省が所轄するという製鉄所の開設が決まった日でもあった。
 暦では明日が立春となる節分の朝、まだ白みもしないうちから正造は長屋を出た。
ヤマでは一番寒い時間でもある。暗い中に吐く息の白さだけが煙のように舞い立ち、背を丸めて出勤する坑夫の姿を浮かび上がらせる。去年あたりから見ればその数がかなり増えてきた。
 坂本と一緒になった。
「やア坂本さん。ふさに聞いだども、留守中すっかり世話掛けでしまって……」
「なんの。大変やったろう冬の旅は? ゆきも元気になってよかったがや」
「お蔭さんで……」
 夜にでも一杯どうだ、と坑夫の挨拶は決まり文句で終わり、それぞれの坑口に向かう道で別れた。正造と違って坂本は坑夫仲間への顔が広いようで挨拶の声を掛けてくる者も多い。それに答える坂本の声も寒気に逆らって一際高く聞こえた。
 正造が帰ってくるのを待っていたわった源やさぶと、口癖通りわったわったと稼ぐ日が又始まった。
 三月に入ったイヤな事件が起きた。正造らの住んでいる長屋のほぼ真下にあたる第一斜坑で、又ガス爆発があった。去年の爆発からまだ半年しか経っていないのに、今度は五人死んで二〇人ぐらいの怪我人が出た。死んだ一人は石川飯場にいる男で正造も知っている顔だった。通夜に顔を出した帰り北川の部屋に寄った。
「俺ラだも、いつ殺されるかわがんねえな……」
 北川はポソッと呟いた。だが殺されるという言い方に、日頃の北川らしからぬものを感じた。
「お前えもあっぱもらって、早えどこ跡継ぎこしらわねば、北川が絶えてでしまうど」
「絶えだっていい、こった名字なんか。だども……」
「……だども、何だや?」
 正造が問い返したのに返事はなく、長い沈黙があった。こんな時正造は促したりせずにじっと待つ事にしている。何か話し出す時の北川の癖なのだ。
「……俺ラ、おやおや(両親)の墓建てねば、死ぬ訳にいがねえンだ」
 初めて聞く言葉だ。じっくり言葉を探しているらしい北川の話に、正造は相槌もうたずにただ耳を傾けた。
「おどは、俺ラがわらしの時に尾去沢(おさりざわ)で死んだ。あばはここさ来る一年前に死んだ。だども俺ラ、まだ墓も建てでねえのセ……」
 北川がこの飯場に交際を求めてわらじを脱いだのは二十六年秋で、以来深く付き合うようになってもう三年余りになっている。だが何かの折に自分の家族や生い立ちの話に及んでも、北川はさり気なく外して語った事はない。正造もそれをしつこく聞きたがる男ではなかったので、彼の親兄弟はもちろん彼自身の事もほとんど知らないも同然であった。
 北川の父親は尾去沢鉱山で働く腕のいい鉱夫だったという。だが彼が小学生の時分、仲間のけんかを止めに入り誤って刺されるという災難に遭い、それが因であっけなく死んでしまった。
 その後は母親が彼の小学校卒業まで必死に働いた。小学校を終えるとすぐ彼は尾去沢で友子鉱夫となり、橋田源蔵にみっちり仕込まれた。そして一人前になってからは各地を転々とする渡り鉱夫になったが、母親はそのまま尾去沢に残っていた。だが二十五年ふとした病気で死んでしまった。
 その二人の墓を建てないうちは死ぬにも死ねないのだ、と言い終えた北川だが、時々不自然なほど言い澱む重い口調から察して、まだ何かを隠しているように感じられて仕方がなかった。
 それから一か月ほどして、ぼつぼつ雪解けが始まった四月の中頃、ふさが何となくもじもじしながら正造に言った。
「あんた……。ゆきの後産(も)っていい?」
「ン?……。できだのか?」
 正造の顔を見ながら少し恥ずかしそうに頷いた。そう言われて見ると、近頃何となくふっくらとした気がしていた。長屋のかみさん連中の冷やかしばかりでなく、ふさの印象がどこか違って見える事があった。
「そうか、できだか……。こんだは男だバいいなや」
 ホッとしたようなふさが嬉しそうに頷いた。
 その時正造は、何故か親分久平の末っ子正一を思い出した。母親似の大きな目を瞠り凛とした表情で、正造を睨みつけていた少年の顔が浮かんできた。あんな男の子だったらいいなと秘かに思った。だがそれをふさにいう訳にはいかない。
 いつの間にか五月も終わろうとしていた。山桜も散ってしまい、朝夕はともかく日中の陽気は汗ばむ日もあるようになった。
 久しぶりの休みに正造は北川を訪ねた。すると飯場内がひどくざわついて、やけに人が多いのだ。
「何だや、何があったンだや?」
 正造が訊くと、待っていたように北川が応じた。
「ちょうどいいどこサ来たな。秋田から、イヤ院内からうって(たくさん)坑夫が来たどこだんだ」
「院内がら?」
「ンだ。家族連れで来た者もいるハンで、一〇〇人以上にもなってるっちゅう話だや」
「そったに又何でだ?」
「院内もハア、いよいよよろけだんでねえのかや? もうあっちこっちの飯場だの長屋サだの散らがった塩梅えだども、見だ事ある顔もなんぼかあったなや」
 正造はつい三、四ヵ月前に見た院内のただならぬ様相を思い出した。院内に何か大きな異変が起きたのであろうか。とっさに永岡らの企図していた同盟罷業の失敗を思い浮かべた。もしそうだとすれば、久平や叔父政吉とその家族などは一体どうなったのであろう。急に不安を感じた。
「北川。お前え誰かサ聞いでみたか。何でこったにみんなでここサ来たんだか?……」
「おう、聞いだ。何でもこの夕張から派手に周旋も掛かったし、そこサ金も少しは出たえンた塩梅だや。それよりも何も、まンズお前えがいつだか喋ってら通り、銀山バもう何としても金稼げねくなってきたっちゅう話だ。なんぼ掘っても延ばしても、まま食えねえって喋ってだ。そこサ誰か音頭取る者あって、みんなして下山したンだどよ」
 北川が聞いた通り院内から集団募集されてきた坑夫とその家族は、坑夫宿舎となっている元飯場や西山の移住民長屋へと分けられたが、まだ正式には割り振りされていないようだった。
 飯場の連中の話ばかりでなく、こんなにたくさんの坑夫が一時に移動して来たのは、正造にも覚えがない。恐らく開坑以来初めての出来事だったろう。誰が采配を振っているのか知らないが、やり繰りにてんてこ舞いしているのは間違いない。
 近くの若い坑夫をつかまえて久平の消息を訊ねてみた。だが知らないようなので、移住組と思われる連中に次々と聞いてみた。すると意外な事が分かってきた。
 この集団募集の中心人物の中に、永岡鶴蔵の名があったのだ。正造には懐かしいというほどの面識や付き合いがあった訳ではないが、久平の家で炭砿の事を聞きたがっていた人物だけに、何か気になる存在ではあった。その永岡はどうやら西山の移住民長屋に入っているらしい。久平や政吉の事を聞くためにも早速訪ねてみる気になった。
 ようやく探し当てた長屋に永岡は不在であった。乳飲み子も含めて男二人に女二人の子供と夫婦で都合六人所帯との事だったから、いかに何でも一戸では狭そうであった。永岡の女房に自分の名前と長屋を教え、一度訪ねてくれるよう頼んで帰って来た。
 永岡が訪ねて来たのはそれから数日してからの事だ。大分日が伸びて、風呂から帰って飯を済ませても幾分明るさが残っていた。永岡は採炭の手子をしているとかで、目の周りに風呂で洗い流せていない炭塵の跡を黒く残したままであった。
 正造には思いがけない再会で何からどう話していいか迷ったが、とにかく一番気になっている久平の消息を訊ねた。
「ここへ来る前に、高村の親父さんにはもちろん挨拶に行きました。その時の話をしにそのうちあんたを訪ねるつもりだったんですが、高村の親父さんはこう言ってました。俺の事は何も心配いらない。院内がよろけてどっかへ行く事になったら、必ず知らせる。体に気をつけて稼ぐように伝えてくれいう話でした……」
 久平はこの集団移住に最初から応ずる気はなかったという。上の倅も働いているので二人力を合わせれば、住み慣れた院内でも何とか煙を上げていけるという。だが本音は、今更この歳で根っからのかね堀りが炭山へ移ったところで何ができる、という意地を貫いたものらしかった。
 正造は久平らしい身の処し方に納得するものを覚えた。だがもう一つどうしても聞きたい事がある。
「そうであったスな、それ聞いで安心したス。だども永岡さん。何でみんなしてこんな遠い夕張サ来る気になったのセ?」
 正造は請願運動直前までの事しか知らないのだ。
「それなんですがね……」
 永岡は大挙してここに来た経緯を話し出した。
 三日間の同盟罷業の結果、警察署長の仲介であっけない幕切れを迎え請願の目的は達せられた。運動の中心となった永岡らは、裏に何かきっとあるという不安を感じたものの、とにかく賃金を切下げ通告前の基準に戻すという会社側の妥協に反対する理由はない。
 しかし大勝利に鉱夫が喜んだのもたった一月であった。掘り出した鉱石の単価、間代は下げなかったものの、それまで会社持ちだったものの費用や、工具材料の費用もすべて鉱夫側の負担に改めてきた。更に稼ぎ日数に応じて会社が支給していた米も、これからは無料にはできないという。
 鉱夫たちは又々騒いだが、会社が執拗に実施しようと図る賃下げや経費削減の背景に、金本位制移行による銀相場の下落がある事を、ほとんどの鉱夫が知っている。天下の古河にも、銀需要の落ち込みを防ぐ術がない事を知った鉱夫たちは、揃って下山を決意し行く先を探した。
「県内の他の鉱山に行こういう話が多かったんです。しかしまとまって行くとなれば、他のヤマの鉱夫の足を引っ張る事になり、手間の叩き合いになるのは目に見えてます。そこで私が炭山行きを提案してみました。他のヤマで一緒だった男が夕張にいて、誘ってくれた事もあります。もう一つは三原さん、あんたですよ。高村の親父さんの家であんたに炭山の事いろいろ聞いてから、何となく頭にあったんやと思います。もし院内がよろけたら今度は炭山に行ってみよう、いう気がどっかにあったんでしょう。そこへたまたま夕張から募集が掛かったいうのも何かの縁ですよ……」
 警察署長とグルになったのか、その顔や力を借りたのか、とにかく古河という会社のやり口が許せなかった。たった一月で手の裏を返し、元の木阿弥にしてしまったえげつないやり方に何としても一矢報いたくて、一斉下山という思い切った手段で炭山に行こうと永岡は提案した。
 海の向こうの蝦夷へ行くのか、と深刻に悩む者反対する者様々あって、中々話はまとまらなかった。しかも同行を希望する者が一〇〇人以上になってから、永岡は闇討ちにあった事もあった。会社か飯場頭のどちらの差し金によるものかは分からなかったが、束になってやめられては困る側の仕業であるのは間違いなかった。
 結局本当に離山して夕張へ来た鉱夫は八〇人ほどになった。それでも家族持ちが大分いたので、総勢からすれば一〇〇人以上になる集団移住となった。
「着いてまだ一〇日ぐらいですが、三原さん。炭山いう所も大変なとこですなア。かなやまとはえらい違うように思いました。まア来た以上は家族もいる事やし、簡単にケツ(尻)割りはできんと思ってますが……」
 正造にも似たような経験がある。
 秋田の鉱山からこの夕張に来た時、飯場にしても坑内にしても今よりはるかに条件が悪かった。明日は辞めよう、勘定もらったら出て行こうと思わない日はないほど仕事も暮らしもひどかった。それでも何とか持ちこたえたのは、今から思えば単に意地を張っていただけの事にすぎない。
 斜坑の上の大飯場松尾には、親方松尾国太郎が九州三池から連れて来た本職の炭砿坑夫が大勢いた。その中には石川飯場のかね掘り上がりの坑夫を、素人呼ばわりする者もいた。
 炭掘りとかね掘りとでは、採掘、支柱、通気、照明といった技術や山あしらいがかなり異なるところもあり、その違いが開坑当初には出来高や事故件数の差になっていると見られる事もあった。
 硬い鉱石相手に何百年の技術を積み重ねてきた鉱夫たちは、確かに軟らかい石炭を甘く見ていた傾向はあった。ガス爆発というものについても知識は薄かった。それが事故や災害につながった面もないとは言えない。もっともその多くは経験の浅いかね掘り鉱夫のせいであったのだが。
 その点九州組の本職炭掘りはすでに経験を積んでいる分だけ、能率にも事故への取り組みにもその差を発揮した。だがその事はしばらくの間、優劣とは言えないまでも、先輩後輩の序列を思わせる複雑な感情を生んだ。
 正造は自分が九州の炭掘りより劣っていると思いたくなかったし、他人にも思われたくなかった。そのためにも絶対にケツ割りなんかしねえ、と意地を張ったように思う。何にしても秋田のかね堀は、とその頃下がりっぱなしであった評判通りにはなりたくなかったのだ。
 永岡にその事をいう気はなかったが、八〇人着山した中から大分ケツ割りが出そうな気はした。
 正造は更めて永岡を観察した。この小柄な男の一体どこに二十六年と今年の二度にわたって、院内の鉱夫を同盟罷業にまで引っ張っていった力が隠されているのか、不思議な気がしてならなかった。人づてに聞いた噂の他はたった一度会っただけの永岡だが、押し出し風貌ともに他を圧する迫力とか、会う人を引き入れずにおかない独特の弁舌といったものにも触れてはいない。一見して他の鉱夫と変わるところのない永岡が、三〇〇人五〇〇人の集団をまとめて同盟罷業を成功させたという事に、自分との器量や素質の違いと言ったようなものを感じない訳にはいかなかった。
 再会したばかりの永岡についてほとんど知るところはないが、久平の言った通りの男だとすれば、このヤマでも温順しく過ごせそうもない気がした。仕事も暮らしも銀山と違った厄介な問題がたくさんあったし、院内から来た鉱夫が黙ってそれに従うとは思えなかったからだ。
 だが永岡から、八〇人もの仲間とこの夕張に来るキッカケとなったのは、あんたとの出会いも関係していたと聞かされて、正造は少し複雑な思いを抱いた。
 院内での銀山事情はともかく、自分が話した炭砿や坑夫の暮らしを、永岡がどんな風にみんなに伝えたのであろうという不安が真っ先に頭をかすめた。その上こんなに大勢の人間を引き寄せる事につながった自分の言葉に、これでよかったのかどうか判断に迷う気持ちがからんで、募集に一役買った事を単純には喜べなかった。
 ともあれ、会社は院内鉱夫の来山を手放しで歓迎したようであった。

 少しばかり天気が悪かろうと、この季節長屋の子供たちが家の中に閉じこもる事など絶対にない。ゆきも例外ではなく、ますます男の子のようになって鶴吉や義二と一緒に飛び回り、今や長屋中の人気者だ。
 子供のいないトミには特に可愛がられている。そのせいかどうか、相も変わらず酔って大声を上げている時でも、ゆきがトコトコ入ってゆくと二人のけんかが納まってしまう事もあるという。
 ある日、例によって酒を呑み長屋中に響きわたる口げんかを始めた。そんな事にはお構いなしのゆきが入っていった。そしてじっと二人のやり取りを見ていた。
「手前えみてえなド多福につべこべこかれて黙ってられっか! いってえ誰のお蔭で、手前えはおまんまを食ってられンだ? え、このどすべた!」
「どすべたで悪かったね。オイ喜八! えらそうな口利くんじゃないよ。いいかい? あたしゃァ居てやってンだからね、間違うンじゃないよ。世間様はなんて言ってるか知ってるかい? お前なんかにゃアもったいない女房だって、みんな言ってるンだよ!」
「なに吐かしやがンだこの阿魔ア! 自惚れもいい加減にしやがれ。その面ア出せッ! 一発ぶっ食わしてやっから!」
 これを聞いていたゆきが喜八の足元に近づいた。喜八は「なんだ?」というつもりか腰を折り、ゆきの背丈まで顔を寄せた。するとゆきは、突然小さな手で喜八の頬っぺたを叩いた。
「ダメッ!」
 真剣な目つきで喜八を睨みつけた。
 一瞬あっけにとられた喜八は、殴られた頬を押さえてゆきの顔を見ていたが、急にはじけたように笑い出した。
「そうか、ゆきはトミが好きなのか、そうだっぺ? イヤ俺が悪かった。ごめん、ごめんな」
 トミもゆきを抱いて頬ずりしながら、嬉しくてたまらないように笑い続けた。
 北川もよく来るようになった。以前とは比べものにならないほど頻繁に顔を出す。ゆきを迎えに来るのだ。夕方になっても表でゆきが遊んでいると、門口からちょっと顔を覗かせただけで声を掛ける。
「ゆき連れてくど!」
 ゆきも喜んで北川について行ったり、抱かれて行ったりする。何を話したりどんな遊びをするのか知らないがしばらくすると又送って来る。ゆきはまったく人見知りをしないので、誰にでも可愛がられた。
 八月に入って産み月まで後三月と迫ったふさの腹は、相当に目立つようになった。
 ある日ふさが言い出した。
「あんた。オドさんの初盆も近くなってきたども、オラ家で供養さねってもいいの?」
 父の死は昨年暮れの事であったからこの夏が新盆だ。ふさの腹を見るまでもなく、墓参のため秋田へ帰る事などもちろんできる話ではない。
「ンだなや……。なんとセバいいんだか……」
 遠く離れたまま死に目にも会えなかった親不孝を思いながら、もう一つふさの実家木下家との約束が気になっていた。
 ──そのうち必ず親子揃って墓参りに来ます──と繰り返し頭を下げて許してもらった。だがその口約束はふさが身籠もった事で又当分先に延びる事になってしまった。
 気にしていながら、ゆきの下が生まれる事をまだどこにも知らせていない。もしかしたら木下では、この前の約束を今年のお盆と思っているかも知れない。そう考えるとかなり気の重い事であった。
 簡単に往復できる旅でも距離でもない。まして家族を引き連れての旅などは、仕事を求めての移住以外にそうたやすく実現する事ではない。もしするとなればかなりの準備や決心がいる時代であった。
「位牌もなくて、お経上げでけさいって頼んだんだバ、あとさん(坊さん)なんて言うかネハ?」
 ふさの言い方に思い当たる事がないでもない。
 正造が夕張に来た頃は、サルナイ一区に真宗大谷派(東本願寺派)の僧侶が建てた小屋のような説教所が一つあっただけだった。だがその土地が鉄道用地になるとかで移っていった先が。随分離れてしかも川向こうだった。そこへ行くには川を渡らなければならないのに橋もなく、どうしても水に入るしかなかったため、いつしか訪れる人の足も止まってしまった。
 その後二代目の坊さんに代わってからどういうつてがあったのか、二区の山腹にかなり大きないかにもお寺らしい造りに建て替えた。その説教所になってから随分人が集まるようになったと聞いていたが、その寺にもまだ名前は付いてない。何故ならサルナイ全体がまだ御料地であるため、寺に限らず一坪の私有地も許されていないのだ。三〇〇坪以上の寺有地を持たなければ寺号を認めない宗門のきまりに従って、いかに立派な本堂を建てたとしても説教場と呼ぶしかないのだという。
 特に信心深い人々が多いとは到底思えない。だが炭砿という危険な仕事がこの町を支えているためか、各宗派の説教場にはかなりの人が出入りして念仏を唱える声も絶えなかった。
 正造は自分の家と同じ宗旨であるお東(東本願寺派)のこの説教場を訪ねて、今ふさが言ったと同じ事を訊いてみたい思いはあった。かと言ってこの夕張に骨を埋める気も墓を建てる気も今のところなかった。
 寺と関わりを持つのは、檀家として子々孫々まで世話になる事だという習わしが、どこか重たくて今のところ踏ん切りがついていない。だがその反面で亡くして初めて感じた親への思いを、どこでどんな風に表せばいいのか迷いもしていた。自分が親になったせいでもあろう。
「お盆前に一回行って、訊いでくるかや?」
 実はふさが気にしていたのは正造の思いとは少し違っていた。墓参りもしないまま二番目の子を産む事が気になっていたのだ。たとえ初産でないにせよお産はやはり女の大厄であり大仕事である。気に病みながら仏への義理を欠いては、もしもという不安がどこかにあった。
 夫の父が亡くなったと報せがあったにも関わらず、ゆきの発熱で帰れなかった事。夫の留守に思わぬ災難に出合った事も、もしかしたら親不孝への罰であったかも知れない、と心のどこかに気になるものがあったのだ。
 月遅れのお盆に入ってすぐ、正造とふさはゆきを連れて街に出た。
 盆休みがあった訳ではない。しかし北海道の短い夏は八月も半ばを過ぎればもう終わりなのだ。肌に秋風を感ずる前に、ヤマの人々は旧暦の行事を一月遅れに繰り替えて、季節を締めくくる習わしとするようになっていた。
 今年の夏は例年に比べて暑くなる日が少なかった。やや凶作という翳りも出て何となく落ち着かない。その上天然痘が二十五、六年に続いて流行し、更に赤痢も全国に蔓延していた。そんな時につきものの暗い噂も巷に流れ、神社やお寺にお参りする人の数が増えているらしい。天地自然に逆らえないと見るや見栄も体裁もなく神仏にすがる人間の姿は、正直すぎてむしろ滑稽とも見えた。
 街はいつもより随分人出が多かった。この頃のヤマの景気を映してかなり人口も増加したと聞いている。それを裏書きするようにちょっと見には一、二、三区に空き地が見当たらなくなった。かと言って一方が深い谷になっているサルナイ市街では、家を建てるとしたら東側の山腹を削って地ならしをする以外に土地の確保はできない。大袈裟ではなく隣へ行くにも坂を上るか下るかしなければならないのだ。
 二区と三区の間は東山へと立ち上がる急な坂道になっている。その中腹で家並みの切れた所にお東の説教場があった。お寺でもなければ誰も行きたがらないような場所だ。だが信徒が一番多いと評判通りにかなり人の出入りがあった。何々寺と名乗る事を許されてはいないものの、いかにも寺らしい造りになった説教場は、日頃とは明らかに違う騒々しさに包まれていた。
 旧暦にこだわらず分かりやすく一月遅れにしたお盆のため、もうもうと立ち込める線香の煙とお経の声で、普段は物怖じしないゆきでさえ尻込みするほどの雰囲気であった。
 先日ここを訪ねて頼んでおいたので、すでに読経の始まっていた本堂の片隅にふさとゆきを連れて上がり、人々に混じって手を合わせた。
 目を閉じて亡き父親のあれこれを思い出そうとした。だがむせかえる煙と絶え間なく叩かれる鉦やりんの音、お経に和して人々が唱える南無阿弥陀仏の声や数珠を揉む音、本堂いっぱいに籠もる参詣者の人いきれや何かで、しみじみと父親を追慕する気分にはなれそうもなかった。
 足がしびれてくる長いお経にゆきはたちまち飽きたとみえて、何度も正造の膝から立ち上がった。二、三度はムリヤリ座らせてはみたものの、そのうちどこかへ行ってしまった。
 数えて三つのゆきにはムリな事と知らぬ訳ではなかったが、到頭顔を見る事なく旅立った祖父に孫を引き合わせるには、こんな形しか思いつかなかった二人には止むを得ない事だった。
 須弥壇の周辺こそ灯される大小のローソクで明るさがあるものの、他に特に照明のない本堂の中は燻らす煙が満ちて一層見え難くなっている。一心に正座誦経する人をかき分けてゆきを探す訳にもいかない。そのまま読経の終わるのを待つ事にした。
 やっと長いお経が終わり人々が正座をくずして説教法話を聞きに入った時、聞き覚えの笑い声が耳に入った。ゆきの声だ。正造から一番遠い辺りから聞こえたようだ。恐る恐る立って薄暗がりの中を探してゆくと、誰かの膝にチョコンと腰を下ろしている。慌てて近づくと驚いた事にそれは北川だった。ゆきは坊さんに背を向けたまま、周りの人の顔を見ては場違いな笑い声を上げていた。
 ゆきがこうした所へ来たのは生まれて初めてだ。慣れない雰囲気に最初こそ緊張したものの、もういつものゆきに戻っているのだろう。周囲の大人たちが一斉に同じ格好で頭を足れ、手を合わせているのが不思議であり可笑しく映ったのかも知れない。
「北川!」
 声を殺して正造はまだ目を閉じている北川に呼びかけた。北川はゆっくりと目を明けてシーッという恰好をした。見ていたゆきがたちまち真似て、口の前に指を立て正造のほうに顔を寄せてきた。
 法話が終わって本堂を出ようとした時、北川は流れに逆らって前へ進み須弥壇正面の坊さんから何かを受け取った。よく見ると小さな白木の位牌だったが三つもあった。わざわざ盆供養を受けるため携えてきたとしか思えない。
 正造には北川がこんな場所にいる事も、風呂敷に大事そうに包み込まれた位牌の事も何もかもが意外で、どう言っていいのかとっさに見当がつかなかった。だが北川は何事もなかったかのように、ゆきとしっかり手をつないで本堂から出て来た。
 ゆきを探しに立ったきり戻らなかった正造を、今度はふさが探しながら出て来た。だが北川と並んでいるゆきを見て人の流れの中に一瞬立ち止まってしまった。よほど驚いたのであろう。
「北川さん! なしてこんなどこに?」
「イヤ、お盆だハッて、おやおやにお経上げでもらおうど思って来たんだ。そこサゆきが来たハで、俺ラもどってん(びっくり)したどこセ」
「俺ラだって探しに行ったら、北川の膝ッコサ座っているんだもセ。たまげたでや」
 ゆきは北川の顔を見つけた事でとてもはしゃいでいる。家族揃って出掛けた事など初めてであったし、一番可愛がってくれる北川に手を引かれて街を歩く事も嬉しくて仕方がなかったのであろう。その上見るものすべてが珍しく興奮は止まりそうにもない。
 一軒一軒の店先に立ち止まっては中をじっと覗き込む、それを咎めたり急がせたりもしない北川が一緒に付き合うため、どうしても足を停めない訳にはいかない。普通一〇分か二〇分の道のりが一時間もかかる事になる。さすがに正造もゆきを叱りつけたが、その度に北川が遮った。
「怒ンなでや三原よ。ゆきがあんなに嬉しがっているんだもセ」
 正造は北川がこんなにも子供好きとは知らなかった。普段ゆきを連れて行くんは、飯場暮らしの退屈しのぎであり、時間つぶしの相手をさせているのだろうぐらいにしか思っていなかった。だがどうやらそうでもなさそうだ。
 北川は舌足らずな言葉でうるさく話しかけるゆきに、いい加減な返事をしたりはぐらかしたりはしない。もちろん叱りつけたりうるさがったりもしていない。その上馬車が来たり道の悪い場所にさしかかったりすると、急いで手を取ったり抱き上げたりして親以上の心配りをする。心底子供好きか、ゆきへの心遣いに並々ならぬものがなければできな仕種に見えた。
 そのまま飯場に帰るという北川をムリに誘ってわが家に戻った。ふさは手早く酒を出してから夕飯の支度に立った。
「北川よ。お前えどこの宗旨と、俺ラどこの宗旨はおんなじだったのかや? 知らながったな」
「イヤ、俺ラは宗旨なんて知らねがったんだや。去年あすこの寺サ位牌持ってったら、初めてお東だこと教えられだ塩梅えなのセ。普段はまるくた手ッコ合わせだ事もねえンだども、盆だ彼岸だってばハア、やっぱり気になって……。親不孝してる咎めセ」
 北川が去年から寺へ行っていた事などまるで知らなかった。彼が信心のため寺へ行っていたかどうかは分からないが、見掛けと違って信心深い坑夫は結構いた。
 炭砿で暮らす限り事故や災害にまったく無縁ではあり得ない。それがわが身か近くの他人かの違いはあっても、避ける事のできないものと坑夫はどこかで思っている。そんな時他人の不幸に出合った人々は、ほとんど例外なしに坊さんや寺と関わり合う事になる。その度にこの世の無情と人の命の儚さを諭され、繰り返し仏の慈悲なるものを説かれる。そのせいばかりとは言えないが、どこかで先祖や親の供養を気にする者も出てくる。見掛けの信心と口では言いながら、しないよりはと手を合わす者は案外に多かった。
 何か起きる時も、起きてしまった時でも、必ずそれは突然であり、誰の助けも借りられない事を坑夫ならばみんな知っている。
 金属鉱山と違う事故の特色はまずガスの突出と爆発であろう。色も匂いもないガスが突然噴き出したり、引火爆発を起こすなどは金属鉱山では余り考えられない。その上鉱石に比べて軟質な石炭は、崩落しやすい性質を持っている。これはガス爆発とは違って大災害となる事は少ないとはいうものの、頻繁に起きるのが難儀である。直撃を食らえば当然重傷か、時によっては死ぬ事も珍しくはないので、坑夫にとっては何より怖い災害の一つである事はいうまでもない。
 本気で信仰を持っている者がどれほどいたかは分からない。ただ何となく親が関わっていた宗旨を、そのままなぞっている者も少なくなかった。しかし、真っ暗闇の地の底で何が起きるか分からない日常では、時折襲いかかってくる恐怖を振り払う何かが欲しい。最後には神仏にすがるしかないと考えてしまう者がいたとしても仕方のない事であった。
 正造はフッと思い出した。先ほど本堂の薄暗がりの中で、北川が受け取った位牌は確か三つあった。
「北川。お前えどこ、位牌たくさんあるな」
「……おやおやのだ」
「三つあったンでねえがや?」
「ン。あれは……。身内みんなのだ」
「おやおやの他に、まだ身内いたのかや?」
 酒の注がれた湯飲みを持つ手が宙に止まってしまった。気まずくなるほどの沈黙が続いた。だがようやく北川は酒を飲み干して湯飲みを置いた。
「……イヤ、喋りたくねかったらいいんだや。俺ラは何でもかんでもお前えどこの事バ聞きてえ訳でねえ。ただ、位牌でちょっと……。ンだどももういいでや」
 たったこれだけの話題で目を伏せたっきり考え込んでしまった北川を見て、正造は自分がよほど大変な質問をしたのかと却って慌ててしまった。
 今まで何度水を向けてもついぞ語ろうとしなかった家族の事について、やっと口を開いたのも仲間坑夫の通夜があったこの三月の事だ。それも両親がすでに亡くなっている事を手短に語ったにすぎない。しかし正造は却ってその夜以来、人にはどんなに親しい間柄の者にも、知られたくない何かを持っている事を更めて強く感じさせられていた。
 今日も偶然の成り行きでそんな話題になっただけであって、正造が特に意図したものではない。だが北川の反応はいかにも深刻であった。
「イヤ三原。ふさちゃも聞いでけれ!……」
 薄縁代わりの荒むしろは、日が経つにつれて新しい時の弾力やサクッとした感触を失う代わり、足裏に馴染んで柔らかくなりチクチクととげ立った肌触りもなくなってくる。
 その荒むしろにキチッと座り直した北川は、正造とふさに真っ直ぐ目を向けた。
「いつかは話さねばなンねえど思ってだ。今日はちょうどお盆だし、親たちの位牌の前で、嘘も隠しもねえ事バみんな喋る。ふさちゃ。俺ラのためだったバなんの支度もさねえっていいから、ここサ座って聞いでけれ!」
 恐ろしいほどに緊張した北川の物言いであった。
 正造に促されてふさも流しから支度の手を止めて膝を揃えた。
 いくらかは冷やで呑んだ酒の勢いも手伝っていたのか、それとも盆供養に寺を訪れて何か決意するところでもあったのだろうか。北川の表情はいつになく硬く真剣そのものであった。

 父親がけんかの仲裁で仲間鉱夫に刺されて死んだ時北川は九つだったが、下にはその時やっと二つになったばかりの妹がいた。
 腕のいい鉱夫と言われた父親だったが蓄えなどはまったく残していなかった。たちまち暮らしに困った一家は、余り体の丈夫でない母親が働きに出るしかなかった。北川は父親や母親の親戚の間を転々とたらい回しになり荷厄介にされながら小学校を四年で終え、以後は迷う事なく鉱夫になった。
 七つも年の離れている妹が誰よりも可愛かったし、母親とも一緒に暮らしたかった。だが一人前の鉱夫に取り立てられた北川は、県内各地の鉱山を転々とした。だが気ままに流れ歩いた訳ではない。母親と妹に仕送りを続けるため一銭でも余計に金の取れるヤマを求めて、人の噂を聞いては移動した。従って、少しでも翳りの見えたヤマは思い切りよく飛び出し、すぐに次のヤマを目指した。だが移動の範囲は県内に限っていた。尾去沢に住む母親と妹から遠くならないよう心掛けたのだ。
 院内銀山の景気を伝え聞いて阿仁鉱山から移る気になり、尾去沢の母親を訪ねたのは二十五年前の春の事だった。まだ山には十分雪が残っていた。
 久しぶりに会った妹は一八になったばかりだったが、兄の目から見てもドキッとするほど女っぽくなっていた。だがまだまだ子供だと思っていた妹の口から、思いがけない事に、好きな男がいるから一緒になりたい、と聞かされて北川は狼狽えた。目のやり場に困るようなキッとした表情で、兄を見つめる妹の一途な思いがひしひしと伝わってきた。年頃なんだから仕方がないのだろうと北川は思ったが、即答はしなかった。
その夜母親から相手の身許を聞いた北川は、翌日すぐ男に会いに行った。男は町の遊び人であった。どんなキッカケで知り合ったか分からないが、姿は悪くなく若い娘の気を惹きそうなところはあった。だが一筋に妹を思う北川の念を入れた打診にひるんだのか、男はあいまいに言葉を濁した。どうやら妹と所帯を持つ気など始めから持っていないのだ。
 北川は妹の気持ちがまったく通じていない事に腹を立て、ぶん殴ってやりたい思いをやっと押さえた。そしてこんな男に妹をやれるものかと心に決めて帰って来た。
 自ら父親代わりと決めている北川は、その日妹にあの男との結婚は諦めるようキッパリ言ってやった。詳しく理由を話すのは却って酷だと思った北川はダメの一点張りで通した。
「あの男バダメだ。見込みがねえ!そのうちきっと、もっといい男が必ず見つかるでバ……」
 泣いてすがる妹の申し出も、先々のためを思って無視した。
 だがその夜こっそり家を出て行った妹は到頭帰って来なかった。心配する母親の予感通り、妹が男を訪ねていた事を翌日再び出向いた北川は知った。男の話では昨夜遅く訪ねて来た妹に、一緒になれるよう兄に頭を下げてくれと懇願されたが、当分嫁をもらう気はないと答えたところそのまま帰って行ったとの事であった。
 あちこち探したが見つからずもう一度男を訪ねようとした時、妹が水死体で上がった事を知らされた。兄に反対され男に断られた妹は、近くの米代川に身を投げたのだ。警察の調べで妹が身籠っていた事を知った。
 男は葬式にも顔を見せなかった。寂しい野辺送りが済んだ後すぐ北川は男を訪ねた。酒を呑んでいた男を引っ張り出してもの言わずぶん殴った北川に、カッとなった男は刃物を向けた。
 無残な形で妹を失ってしまった北川のやり切れない怒りは、男が向けた刃物で逆に頂点に達してしまった。自らその刃物に体を叩きつけるように捨て身で飛び込んだ北川には、始めから身をかわす気も防ぐつもりもなかった。ただ男に対する怒りと憎しみがあるだけだった。
 半ば脅しで刃物を抜いた男とは明らかに気迫の違う北川は、男をたちまち組み伏せてところ構わず滅多打ちに殴った。あっという間に鼻血を噴き出し顔中が真っ赤になってしまった。その凄まじい形相に殴っている北川が一瞬ひるんだ隙に、男は素早く跳ね起きて今度は本気で刃物を構えた。
 北川はそれでも恐れなかった。男の前に仁王立ちになり胸を叩いた。
「さア、刺してみれでや! やってみれじゃ! いいか、お前(んな)は、俺ラの妹ばりでなく腹ン中のお前のわらしまで殺したンだ。二人殺すも三人殺すもおんなじだや! さアやれッ。ズブッとここバ、刺へッ!」
 着物の前をはだけて胸を見せた北川に、荒い息を吐いていた男は目を見開いたまま言葉を呑み、次第に動かなくなった。やがて構えていた刃物がブルブルと震えだし、手から抜け落ちていった。
 しばらくは時が止まったかの如くそのまま立ち尽くした。血だらけの顔を拭いもせずに放心状態にあった男は目を宙に据えたままだった。だが呼吸が静まるまで向かい合っていた男は、くるっと北川に背を向けた。一瞬ではあったがその男の目に光るものを見た。
 北川はハッとした。
 もしかしたらこの男は、思い詰めて結婚を迫って来た女の腹に、自分の子が宿っていた事など知らなかったのではあるまいか。知っていたとしたら夜更けに訪ねて来た女をにべもなく追い返したりしたであろうか。だがもしそうだとすれば妹は何故この男にホントの事を話さなかったのか。何か話せない事情でもあったのだろうか。様々な疑問が次々と湧いてきた。
 男とはそれっきりになった。再び会いたいとは思わなかったし男を許す気にもなれなかった。だがそう思えば思うほど、あんな男の子を身籠った妹が愚かであり情けなかった。どんな出会い方をしたとしても一目で遊び人と知れる男に、一八の生涯を捧げ尽くして自ら命を絶った妹は、世間から見ればバカな尻軽娘にすぎない。どんな陰口をされても弁解の余地はない。
 それだけに北川は妹が哀れであった。恐らく何もかも一人で背負い込み、親や兄に言えないまま死を選んだ妹の気性が哀しくて口惜しかった。更に北川を苦しめたのは、それほど悩んでいた妹の心に気付いてやれなかった事と、自分が余計な干渉をしなかったら死なずに済んだのではという後悔であった。
 どうしてもこの土地を離れたくないという母親を残して、北川は院内銀山へ行った。そしてもし院内がいい所であれば、ムリにでも母親を呼んで落ち着くつもりであった。だが妹の四十九日が済んで間もなく、娘が身を投げた同じ米代川に入ってその命を絶った。一八年間わが身に代えて育て上げた娘に先立たれた母親は、生きる張りも気力も失っていたらしかったが、離れて暮らしていた北川はそんな事などまったく知らなかった。
 親戚からの報せで駆けつけた北川に、母親と生前親しくしていた近所の人がこんな事を言った。
 娘を死なせてしまったのも、何の罪もない体内の孫を殺してしまったのも、みんな自分が息子に余計な事を喋ったからだ。あの時あんな事を喋らなかったら、と母親は自らを責め続けていたという。
 両親とたった一人の妹まで失って天涯孤独になった北川は、少なくとも母親と妹は自分が殺したようなものだと思った。そのせいだったかどうかわが家族を異常な死で見送った尾去沢や秋田という地が、たまらなく疎ましくつらく思えて何もかもイヤになった。院内でのごたごたもからみ内地を離れ北海道へ渡る気になった。
 二十六年秋、母親がなくなって一年余り後の事だ。

 語り終えた北川に向かい合って、正造もふさもしばらくは声が出せなかった。言うべき言葉が見つからなかったのだ。
「そうか。それで位牌が三つだったのな……」
 呟くような正造の独り言が洩れたのも大分経ってからの事だった。
「……オラと同じくらいだったんだね。生きでれば……」
「はるえは、ふさちゃと同じ年だった!」
「えッ、はるえ? 妹さんははるえっていう名前であったネハ?」
「ンだ。北川はるえだ」
 ふさの頭から背筋まで何かが走り抜けた。
 北川は風呂敷にくるんでいた位牌の中から一つを取り出し前に置いた。
「今だからいうども、三原が秋田からふさちゃバ連れで来た時、俺ラは声も出せねかった。はるえが生き返って来たかど思った。俺ラア、妹の幻バ見でるんでねえかって手前えの眼(まなく)バ疑った。イヤよく見ればあっちこっち大分違った。第一はるえはあんたほどの女ではねえ。だども、俺ラにはあんたがはるえに見えで仕方ねかった。それからっちゅうものはあんたと顔合わせるたンび、米代川サ入って死んだはるえに責められでるようで、つらくてつらくてなんねがった……」
 北川の声が途切れ、握りしめた両手が小刻みに震えていた。
 正造にはただ頷くのが精一杯で掛ける言葉も見つからない。
 ふさはたまらずに顔を覆った。聞けば聞くほど北川のたどった道の残酷さや背負った荷の無情な重さが憎い。だが自分に何ができるのだろう。ただ聞いてやるだけしかないのがつらかった。だが正造にも話さないでいたあの夜の疑問は一瞬に解けた。あの時「はるえ!」と叫んだのは、刃物に飛びつこうとしたふさが妹の「はるえ」に見えたからに違いない。その瞬間、命懸けで妹を庇う兄に返ったのであろう。とは言えあの夜のふさは突然の女名前に戸惑い、何故か訊いてはならない秘密の匂いを感じてしまった。それが今日まで胸にわだかまっていたのだ。
 知れば一々納得のゆく北川の態度であったが、もしあの夜それをしつこく質したとしても答えてくれたかどうかは分からない。北川の追った傷が途方もなく深い事を今日更めて知らされたからだ。
 ゆきは半日歩き回ってくたびれたのか、部屋の隅に積んである布団の上でいつの間にか眠っていた。
「三原やふさちゃには悪りいども、ゆきが、はるえと一緒に死んだわらしの生まれ変わりに見える時もあるんだや。きび悪りいど思わねえでけれ! めごくてめごくて……。きっと、後追いみでえに死んだ俺ラの母親(あば)が生きでいたら、おんなじえンた思いしたんでねえかど思う」
 ゆきの寝姿を見つめる北川の目は父親ですらできないほど優しく慈愛に満ちていた。
「そうがや。あばは気の毒だ事したな……」
 やっと正造が言ったのに対して北川は首を振った。
「イヤ、あばの体は長年のムリでボロボロだったから、自分でも長生きはできねえって知ってらど思う。ンだのにはるえの後バ追(ぼ)ったのも、自分の孫になる筈のわらしまで殺したど思い込んだからでねかったべか? はるえだけだバとにかく、何の罪もねえ腹の中のにがこバこの世に出してやれねがったのは、自分のせいだって思い込んでらんだと思う……」
「だども北川さん……」
 言いかけたふさの言葉を北川が遮った。
「そりゃア俺ラも生きでいてもらいたかった! だどももしかしてあばがあれから生きでいたバ、尚更苦しんだンでねかったかや? 一生娘殺し孫殺しの気持ちに責められで、気イ狂うえンた思いさねばなんねかったンでなかべか? ……無慈悲な言い方だども、あれでいがったンでねえかって俺ラはこの頃思うのセ……」
 そこまで答えを出している北川に、二人が言うべき事はもはや何もなかった。
 日が長いようでももう八月半ばとなれば、開けてある西側の窓から射す陽の光も幾分翳を帯びて、少し前とは違う涼風を運んでくるようになった。
 沈んだ空気を入れ換えるようにふさは立ち上がって夕食の支度に戻った。男たちは話題を変えて再び湯呑みを取り上げた。
 この日を境にして正造夫婦と北川の間にあった微妙なしこりやもやもやした壁が消えた。その影響かゆきまでもが変わっていったのではないか、と後になってから気付いた。
 特にふさはハッキリと北川への気持ちを近づけた。夫の親友としてよりもむしろ兄として彼を見るようになった。そうする事が、妹を思う一心で自分を守ってくれた北川への礼であったし、彼の目にもそれを望む何かを感じたからだ。

 この年は春から心配されていた通り凶作の気配濃厚となった。日に日に米の値段が上がっていた。
 九月に入ってすぐ長野県下伊那飯田地方で米よこせの暴動が起きた。二,〇〇〇人ほども加わっての騒ぎと新聞は伝えた。二日ばかりして鎮撫したとの続報があったが、案の定騒ぎは伊那だけに止まらず、すぐに隣県の富山にも飛び火して、不安な米価に反発する動きがそこここに起きた。
 その他甲府地方だけで赤痢患者が五,〇〇〇人も出たとの事だったが、年末の発表では全国で約九,〇〇〇人近くが罹り、その四人に一人は死んでいた。
 北海道ではその上天然痘まで流行し、一,〇〇〇人余りの患者中三〇〇人が亡くなり、三人に一人以上という高い死亡率となった。
 十月一日いよいよ金本位制が実施され、この日を境に銀の凋落は決定的になっていった。

つづく

 十一月に入ってふさは男の子を生んだ。正造が漠然と期待した通りの男子誕生であった。
 ゆきの時と違って長屋にもその近所にもたくさんの知り合いができていたので、手を貸してくれる人、ゆきの面倒を見てくれる人、正造の飯まで心配してくれる人に事欠かなかった。特に裏のトミはゆきを連れて行ったきり二、三日も預かり続ける可愛がり方で、迎えに来た北川をガッカリさせる事もあった。
 生まれたのが望んだとおり男の子だったのに、正造はその名前を考えるのに悩んだ。もちろんふさには相談したが、子供の名前は父親がつけるものと取り合わない。
 フッと正造の脳裏に中田秋介の顔が浮かんだ。
 年は若いが豊富な知識で正造の目を開かせてくれた中田は、今まで出合った人々の中でも特に忘れられないさわやかな人物であった。その彼のひたむきで気取らない人柄と、清々しい印象にあやかって見ようかと思った。正造はその思いつきが気に入り、秋の字をもらって秋夫とする事にした。だがふさに中田の話をした事は一度もない。
「秋田の出だから秋夫なのセ? 少し寂しいえンた気イするども、いい名前かもしれないね」
 正造の思いなど知らないふさは簡単に納得した。
 年の瀬になって炭鉄とは違う小さな炭坑がサルナイの川向こうに開かれ、そこの石炭を積み出す駅がすぐ隣にできたとの事であった。駅と言っても単に石炭の積み込みをするだけで、乗客の乗り降りはまだ扱っていなかった。その炭坑の名を新夕張炭山というのだと聞いたのは、翌三十一年に入って大分経ってからの事であった。
 正月早々から又ガス爆発があった。やはり正造らの住む長屋のほぼ真下に当たる第一斜坑の出来事で、続いて発生した坑内火災も含めば死者は三〇人近くも出たが、原因については不明であった。
 そこは白川友次郎が働いている坑内である。しかし彼は運搬の雑務として坑底(斜坑と水平坑道の接点)付近にいたため、難を逃れたとの事であった。
 元々採炭とか支柱のような力仕事の向かない男だ。しかも欠勤が多いので、誰かと組んでやる作業にはつけられていない。誰かの噂通りこぼれ炭を掃除するような出面仕事をやっていたのだろう。
 正月五日の事でまだ休んでいる坑夫も多かった。そのため爆発の規模や範囲の割に被災者の数は少なかったとの事だが、確かにそうだったのかも知れない。
 白川も例によって休み癖のついた正月明け、ぐずぐずと駄々をこねるのをやっとの事きちに送り出された日の出来事であった。
「お前は、私が早く死ねばいいと思ったんじゃないのかい?」
 ネチネチときちにからんで、翌日から又しばらくの間仕事に行こうとはしなかった。
 五日に起きた爆発で坑内火災が発生し、翌六日になっても爆発が続いた。丸一日も経ってから連続爆発とは珍しい事であった。もっとも翌日の爆発時には入坑者は限られていたから、人間への被害よりも坑内の損傷や破損状況のほうを会社は心配し、作業再開の遅ればかりを懸念する風だった。
 げんをかつぐ坑夫らの間ばかりでなく、爆発騒ぎのさ中ですら新年早々の事故を気にして、今年の先行きに不安な思いを抱く人々が多かった。何かにつけて交わされる言葉が決まっていた。
「今年ア、正月からこんな騒ぎだもの、いい事なんてあるわけアねえ」
 だが日清戦争後思いもかけずにやってきた世の中の不況と比べれば、炭鉄にはまだまだ好況が続いていた。一昨年から去年にかけて会社全体では従業員の数が二、四〇〇人余りも増えていたし、今年に入ってからも徐々に増やし続けていた。それも人間ばかりでなく、会社はその傘下に炭砿に関連する事業をいくつか抱え始めていたのだ。
 それは多少事故や災害が増えたとしても、それを補って余りあるものが得られると見た判断であろう。つまりは石炭の需要がこの先も伸びると算盤をはじいたからに違いない。しかもこの会社は石炭ばかりでなく鉄道という強力な財産を持っている。やり方次第で大企業となり得る展望を睨んでの事であったと見るべきかも知れない。
 戦争によって動き出し膨れ上がった企業や新しい工場は大量の人々を呑み込んだ。人々は流行りに乗るように工場の職工になり、ほんの一部の人は間口を広げている炭砿へも流れた。決して賃金も労働条件も戦前より良くなってはいないし、むしろ乱立によって悪くなっている所のほうが多かった。にも係わらず人々は競って新しい職種職業へと働き口を求めた。
 これでは家内工業や手工業の職人として賃仕事に精出す者が少なくなるのは当然であった。今までは日本中のどこにでも土地を持てない小作農や貧農の二、三男が溢れていた。その一部が近くの地方都市部にあった様々な仕事を支えていた。つまり地方にはいつでもかなりの労働力が余っていたのだ。
 だが鉄道の発達と戦争景気は、その人々の多くをいとも簡単に都会へと運び去り、更に遠くへの移動を可能にしていった。戦争前とは働く側の事情が大分変ってきていた。
 当然この夕張にも日本中から各県の人々が集まってきた。その人々の話す故郷訛りは、仕事を終えていささか浮き立っている風呂場に飛び交い、立ち込める湯気の中でさながらお国言葉の競演となる。
 各部落の中にある銭湯は坑夫らの恰好な情報交換の場となる。現場での一服や昼飯時に交わされた内緒話でさえ、話好きな男の口からまわりの男たちへと、面白可笑しく披露されてゆく。話に加わらない人間の耳にも当然入るから、あっという間に又翌日の話の種にされてしまう事になる。
 面白い事にそんなお喋りな者に限って、話題を広めたのが自分である事に気付かないものだ。噂話や陰口などというものは口から口と伝わるに従って、ほとんど原形を止めないほど変わってしまうからだろう。
「イヤ、あんなものはインチキきわまるものだ。われわれ貧乏人を狙っているとしか思えない!」
 珍しく松尾の湯で坂本と顔が合い、背中を流し合いながら互いの仕事場の話などしている時だった。よく透る声で、一際高く言い切る口調が二人の耳に入った。振り向いて見ると、少し離れた所で体を洗っている男たち三、四人の中で、立ち上がったらさぞ背が高いだろうと思えるガッチリとした体格の男が、語気鋭く言い放ったようだ。
「ついこの間まで歌にも歌われておったろう? 徴兵懲役一字の違い、腰にサーベル鉄鎖。全くその通りだと俺は思う。今度の戦争で一体何人死んだと思う? 新聞に出ただけでも、一万五千人もの兵隊が死んだんだ。俺は徴兵令なんて敷かれない方がよかったと思うんだ!」
 どうやら今年一月一日から北海道全域と沖縄にも、本州と同じ徴兵令が施行された事を指しているようである。
「やっと内地並みになった……」
 とその政令を歓迎した坑夫に反論する気らしい。
 湯気の中に吊るされたカンテラの明かりで顔立ちまでは見えないが、かなり過激な物言いをする男であった。
「したってお前え。なんもかんも内地に差アつけられたまンまだったら、北海道っちゅうどこはいつまでたっても、バカにされっぱなしでいねえバなンねえべよ」
 少しは物の分かっていそうな男の一人が言い返した。
「イヤ。徴兵令なんかより、もっと先にしてもらわなけりゃならんものが、いっぱいある筈だ」
「そりゃ何よ?」
「たとえば北海道議会の開設もそうだし、学校教育の制度にしたってそうだ。本州ではとっくに行われている事が、北海道ではほとんど手がつけられてない。それにも関わらず兵役の義務だけを真っ先に押しつけるなんて、土台おかしいと思わないか?」
「そういうもんか?したけどお前え、難しい事知ってるなア」
 正造は坂本とそんな話をした事はなかったが、その男の意見にはどこか納得できるものを覚えたので一人頷いた。見ると坂本も何か感ずるところがあるのか、洗う手を止めて聞き耳を立てていた。
 確かにその男のいう通りの論議が、心ある人々の間では問題にされていた事は間違いない。
 北海道議会の開設がされない限り市町村制の施行ができない、と国会で論議されたのは二十六年十二月の事である。だが掛け声と違って北海道や沖縄への政治的配慮はまるで行き届いていない。そうした制度上の不備から市町村制の実施が遅れ、本来は全国同じであるべき小学校令にも、適用特例区域としての差別がつけられたりしていた。つまり開拓地では正規の義務教育を短縮する事を認める、といったような事だ。
 たとえば小学校の尋常科では、四年が義務年限と定められている。だが開拓地、旧土人(アイヌ)居住区では、二年又は三年でもよいという差別的な特例を公認している。
 人が少ないとか施設が整わないという実際問題はあるにしても、政府が開拓開発を奨励し力を入れるつもりならば、その責任のすべては国が負うべきであろう。新聞や識者の意見ばかりでなく、心ある誰もが考える事に違いない。
 だが政府は、今度の日清戦争で一番活躍した軍人や兵隊に注目が集まっているうちに、何よりも先に若者に押しつけ、男子皆兵の制度を確立した。
 それをその男は怒っているのだ。
 明治六年に徴兵制度が敷かれ二十才男子の徴兵義務が制度化された時、たくさんの兵役免除項目があった。
 官公立の学校に就学中の者。家督を継ぐ嗣子あるいは養子、又は一人息子は除外された。そのため戸籍上だけ他家の養子になる者が続出した。
 その他に代人制度というのがあった。これは二七〇円納めれば徴兵を免除するというものだ。一五円前後の金で四、五人家族が一月過ごせる時代二七〇円と言えば大変な金額であった。だが金のある者にとってはまことに便利な制度に違いない。これを利用した金持ちは多かった。それを裏返せば、金のない者には逃れる術のない制度であるとも言えた。
 日清戦争前後にこの制度の欠陥に気付いた政府は、何度か手直しして内容を改めたが、どんな時でもその義務にしばられ確実に狙われるのは我々貧乏人だ、と指摘したその男の言葉はまったくその通りに違いない。
「あの男は誰だや?」
 正造は坂本に訊いてみた。
「松尾の長屋にいる鈴木の食い扶持やと聞いたことがあるがやが、名前は知らんがよ」
 今は会社が買い取って直営の宿舎になっている元の飯場だが、未だに建てた親方の名前で呼ばれている。その中に友子の頭役や古手の先山が会社の許可を得て二戸借りしている長屋があった。
 家族が増えて住まいが手狭になったという理由で、実際は親戚の若者や飯場衆の中から見込みのありそうな者を連れてきて住まわせる。もちろん適当な食事世話料を取って家族扱いにし、そのうちほんとの子分にしたり嫁を世話したりして、頭役あるいは先山としての勢力範囲を広げてゆく。
 会社は従業員確保と 坑夫の退山を抑える意味もあって、古参坑夫の二戸借りを黙認したのだ。そうした若い者をこのヤマでは食い扶持と呼んでいる。だが後年この呼び方には居候と同じような響きがあって、ムダ飯食いの印象が強いと嫌われたため自然に消えていった。
 つまり坂本が言ったのは、松尾の長屋だった所に住む友子の頭役鈴木が世話している男、という意味なのだ。さすがに坂本は顔の広い男らしく、 うてば響くように答えが返ってくる。
 二人が体を洗い終わり湯に漬かって
流し場から出る時まで、その男たちは次から次へと声高に論じ合っていた。傍を通りながらチラッと見た男は、眉が濃く彫りの深い顔立ちで中々の男前であった。
 正造はその顔にまったく見覚えがなかったので、自分や坂本が入っている一番坑や二斜坑方面の坑夫ではない事を知った。
 急激に増えた人間のせいで入れ替わりが激しく、近くに住んでいても知らない顔があるようになった。戦争前ならば一度も口をきいた事がなくても、大体はどの辺りに住んでいるかどこに働いているか、およその見当はついたものだ。更めてこのせまい谷間の異常な人の増え方を噂しながら、正造と坂本は長屋に戻った。

 去年十一月秋夫が生まれる少し前であった。清国山東省でドイツ人宣教師二名が現地の匪賊に殺されたと言う新聞記事を読んだ。正造は何気なく読み下したが、この事件をキッカケにヨーロッパの大国が牙を剥いて清国に襲いかかる事になろうとは、誰も予想していなかった。もちろんその事が日本の政治や産業に大きく関わり、やがて国の命運を決する戦いに発展してゆく事など、到底気付く筈もない。
 宣教師殺害に憤ったドイツは、二週間後には清国膠州湾に艦隊を差し向けこれを占領してしまった。水兵六〇〇名を上陸させて清政府に対し、遺族扶助料六〇万両と軍艦派遣費の賠償、担当地方官の厳罰と犯人極刑など六項目の要求を出した。
 これに対して清政府は地方軍の警備を厳重にした後、膠州湾からの軍艦退去を交渉前の条件として要求したが、ドイツは自国の要求が容れられなければ一歩も退かないと公言して清政府を揺さぶった。その上更に山東省への鉄道施設と、周辺の鉱山採掘権も認めよと要求を増やして迫った。
 その頃こんな噂が流れた。
 ドイツ、ロシア、フランスの三国が同盟密約を結び、極東の国々から土地を分割略取する陰謀をまとめた。ロシアは韓国と清の北東部(後の満州)を、フランスは台湾と福建省を、ドイツは山東省をとそれぞれ協定しているというものである。その手始めに膠州湾を狙ったのだと書く新聞もあった。
 日清戦争後の講和条約で割譲を受けた台湾を、やっとの思いで統治下に置いたばかりの日本国内では、韓国問題も含めてとんでもない事だといきり立つ空気がそこここに起きた。
 清国は頑強にドイツの撤兵を要求したが、却ってドイツは嵩にかかり更に四,五〇〇名の兵を増員して膠州湾に派遣した。
 そんな最中今度はロシア太平洋艦隊六隻が、突然旅順口に入港した。そして清国政府に対し、イギリス人の鉄道技師を解雇せよとか、ドイツ人の陸軍教官を罷めさせてロシア人教官にせよ、との無理難題を吹っ掛けた。
 そのうちイギリスも加わり、もし清国がドイツに屈服してその要求を容れるならば、わが国も同様な要求をするであろうと駆け引き抜きの露骨な威しをかけた。
 その頃日本国内では、首相松方正義が野党の提出した内閣不信任案を見るや、突然衆議院を解散してしまった。結局その事は翌三十一年に第三次伊藤内閣を誕生させる事になるのだが、所詮は薩長閥だけで内閣をたらい回ししているに過ぎないため、内政外交問題何一つ解決されずただ先送りされるだけであった。
 その事は、政治が官僚を中心として政党や実業家の意向を無視し続けた、いわゆる超自然内閣の終焉も意味している。何故なら日清戦争によって膨張した産業界は、政党と結びついて政界に力を持ち始めていたのだ。その要求や意向に対していつまでも 超然たる態度では、 藩閥政治や官僚内閣を維持できなくなっていた。三たび首相の座についた伊藤には、内外に山積する難問が待ち構えていた。
 一方、国土は大国でありながら内政が経済力とともに崩壊寸前にあった清国は、ドイツの強圧に屈し一月初めついに膠州湾の九九年間租借を認めてしまった。
 これを他国が黙って見過ごす筈はない。ロシアはたちまち大連湾及び旅順をドイツと同じ条件でと迫った。もしこれを許さずに大連湾を一般の商業港湾として開港するならば、ロシアは必ず報復するであろうとなりふり構わぬ脅迫に及んだ。
 そんなゴタゴタの最中又してもドイツ兵殺害事件が起きた。これを以てドイツは更に要求を拡大し,鉄道施設区間の延長と借地区域の拡張を条件に加えた。
 これを見て清国に一番権益を持つイギリスは、湖南省の兵州開港と清国内河川の自由航行を求め、フランスは自国人の誘拐を理由にその賠償金を要求し、これに応じなければ清国南部におけるフランス権益の拡大を図ると威した。
 清国政府は、揺さぶりに負けて一つを認めた事により次々と認めざるを得なくなってしまった。
 結局、ドイツに膠州湾。イギリスに九龍、威海衛。フランスに広州湾。ロシアに旅順、大連をそれぞれ租借させた。その他に鉄道の延長、鉱山の開掘権、その上一定地域を他国へ開放しない不割譲宣言と、言いなりの権益をもぎ取られる事になった。
 それがほとんど一八九七年(明治三十年)から九八年にかけほぼ一年足らずの間に集中した。この欧州列強のやり口は、正に手負いの巨象に襲いかかる野獣の群れそのもので、情け容赦なく食らいつき清国を食い千切ったと言っていい。
 この様をわが国政府は、日清戦争の賠償金が全額支払われるまで黙って見ていた。だがたまりかねた政党は政府の軟弱な外交を攻撃する世論を巻き起こした。これを受けた政府はようやく清国と交渉の結果、福建省を他国に割譲しない事。鉱山開発の便宜を各国と同様に供与する事、日本に対して中国米輸出の禁令を解く事などを約束させた。
  こうした一連の清国苛めや権益の割り込みを清国人が喜ぶ筈はない。外国人排斥の運動が高まってくるのは当然であり、常にどこかで小さな衝突が繰り返されていた。それが又清国を狙う国々の恰好な口実となり、結局自らの首を締める結果になっていた。
 わが国は清国から持ちかけられた賠償金の支払延期を拒否し、完済される三十一年五月七日までは事を起こすのを避けていたのだ。だがそのやり口が嫌われたのか九日に湖北省沙市で日本領事館と税関が焼き討ちされた。談判の結果二ヶ月後の七月に賠償金一五,〇〇〇円と、居留地堤防費の半額七五,〇〇〇円を支払わせる事で決着した。
 眠れる獅子とも言われた清国は、広大な国土ゆえに却ってその巨体の統制と支配に苦しんだのであろう。まだ目を覚まさない獅子は、北はロシア南はフランス東からはイギリスとドイツに次々と噛みつかれ、清王朝の政治体制は確実に終わりを迎えようとしていた。
 西欧諸国がこの大国を狙う理由に共通している事は二つある。一つは膨大な人民を抱えるこの国を商業市場とする事。もう一つは開発の遅れている天然資源への期待だ。どんなものがどれだけあるのかはほとんど不明なだけに、各国の野望は膨らむばかりなのだ。
 各国は争って鉄道の敷設を求め、沿線の鉱物資源開発の権利を得ようとした。そのために沿岸の要港を開港させ、しかも自国の権益を侵されまいとする余り、必ずその周辺地域を他国に貸さない事を条約に盛り込んだりした。
 清の不幸はそれを阻止する軍事力も経済力もなく、政治行政人民すべてが疲弊混乱していた時であり、他国にはそこが付け入る絶好のチャンスになったという事であろう。
 中で最も露骨に行動したのはロシアだ。ドイツフランスを巻き込み三国干渉の中心となって日本に遼東半島の返還を迫り、それが成功した途端に臆面もなくその遼東半島を狙うというえげつなさだ。
 シベリア横断鉄道と東清鉃道をつなげて清国東北部を縦貫し、瀋陽から遼東半島の先端にある大連旅順の租借と、そこに至る鉄道敷設権を強引に手に入れたのは一八九八年(明治三十八年)三月の事だ。更に反日感情の高まってきた韓国内の空気を、親露派と手を組んで一層あおり、イギリスを上回る極東での権益を得ようと画策した。
 日本政府にとってこれはすこぶる不愉快な事であった。多大な犠牲を払って日清戦争を戦ったのも、元はと言えば朝鮮半島支配を睨んでの遠謀でもあったからだ。やっとの思いで韓国から清を追い出し、名目的とは言え韓国の独立を国際的に一応認めさせはした。さてと操り糸を持ってみれば、実はその半分がこちらの意のままになりそうもないという極東情勢の変化は、日本政府を大いに慌てさせ苛立たせる事になった。
 やがては欧州列強に肩を並べ、中国大陸への進出と権益獲得を遠目に見ていた日本だった。だがそんな事情では、まず韓国内に続発する反日抗争事件を押さえ、野望の足場である朝鮮半島の沈静化に力を割かなければならない。そのためには韓国の背後にいるロシアの動きやその意図を、正確に読まなければならないという事にもなる。
 遡れば明治二十八年に起きた乙未(いつび)の変は、ロシアと結びついて反日政策をとっていた韓王妃閔妃(びんひ)を、日本公使が壮士とともに宮廷に乱入して惨殺するという前代未聞の事件であった。この強引なやり方が韓国内の反日を根強くし、逆にロシアへの傾斜を強める事になった。その以後ロシアの韓国に持つ権益や発言力が一層強くなったのは否定できない。
 日露の直接対立の因はこうして韓国に火の手を上げながらも、清国に舞台を移してその権益獲得を巡り鎬を削った。だがその結果として三国干渉でムリヤリ返還させられた遼東半島の旅順大連に、その遺恨を集中させ血を流す事になってゆくのだ。

 この春から坂本の長男鶴吉は小学校に入った。
ヤマの坑夫らの中には子供を小学校に入れるのをイヤがったり、就学年齢を無視する者もいた。
「なに様の子でもあるまいし、親の俺が行ってもいねえのに、学校なんてぜいたくってもんだ。第一坑夫や土方のガキが学問したってなンになるんだ!」
 ふてくさったり酔っぱらった時でなくてもそんな事をいう者がいる。そんな坑夫は自分の息子が一二、三になると年を偽って坑内に入れ、平気で仕事を手伝わせたりする。
 学齢期頃の子供に野良仕事をさせたり、子守を言いつけたりする感覚で、何のためらいもなく坑内に連れてゆく親に、法律や規則を持ちだしてうるさくいう者は少ない。会社でさえ目をつぶって知らん振りする事もあったからだ。正造はゆきにそんな事をさせるつもりは毛頭ない。たとえ女の子だろうと、せめて小学校は終えさせなければと常々思っていた。自分では手紙一枚さえ中々書かない正造だが、人並みに読み書きできる事を内心では親に感謝していたからだ。だが周辺には無学無筆の男や女がたくさんいた。それを恥じる者はわが子を学校にやろうとしたが、そういう親ばかりとは限らないのだ。
 坂本は鶴吉の入学をとても喜んでいたようだ。
 鶴吉が初めて学校に行った日の夜、坂本の家には大勢の客があった。普段から人の出入りの少ない家ではなかったが、その夜は特別にたくさんの男たちの声がした。鶴吉の入学を喜んで客を呼んだにしては少し派手すぎる気がして、正造は何気なくふさに聞いた。
「鶴の入学祝いかや?」
「イヤ。消防の人らが集まるンだって、姐さん喋ってらども……」
「消防って?……」
「アラ知らなかったネハ? 隣のおどさん、去年できた会社の消防組サ入ったんだと」
 そう言えば採炭所が去年七月頃頻発する火災や事故に備えて、前からその必要を叫ばれていた道消防組を作ったという話は聞いた。だが始めの話では、消防手へのなり手などいるのかとの事であった。ところがいざ募集してみると、志願者が多くて絞り込むのに苦労するほどだったと聞いて、正造はへえと思ったものだ。
 本来は村営で施設や人を揃えるのが筋なのかも知れないが、開村後日の浅い登川村には到底その力はない。大体この辺りは一○年ほど前の明治二十年頃、行政的には夕張郡の中に含まれてはいたものの、まだ正式に地名すらつけられていない地域であった。二十四年からやっと夕張郡岩見沢村の管轄として、登川村という名前が用いられるようになったばかりの土地である。
 二十一年に石炭の大露頭が発見されても、開発が始まったのはその後二、三年してからである。人が増えてきたのはこの数年で、その勢いは異常なほど急激であった。だがいろんな手続きや届け出には、岩見沢郡役所まで行かなければならず、往復するだけで一日はかかり、待ち時間を考えればどうしても泊まらなければならなかった。人々の希望が容れられて、由仁戸長役場ができたのは二十六年の事だった。幾分近くはなったがそれでもやはり一日はかかってしまう距離である。
 登川村はその後も石炭事業の進展とともに年々膨れ上がり、二十九年末には四 ,○○○人前後の人口となり、戸数も一,二○○戸を超すようになった。役場の仕事も飛躍的に増え一々由仁役場まで通うのは大変だった。又しても代表者の請願するところとなり、やっとサルナイに登川村戸長役場が置かれたのはつい去年の事だ。しかしまだ市町村制の対象にすらなっていないこのちっぽけな戸長役場には、ほとんど何の権限もない。出生死亡の届け出の外簡単な書類の受付程度で、大部分は郡役所への取次ぎにすぎない。もちろん登川村独自で何かをする事などは、費用人員ともにできる事ではなかった。
 ほとんど八〇%の面積が皇室財産たる御料林で占められるこの夕張は、どこを拓くにしても森林伐採が先で、そのためしばしば山火事が起きた。伐採人夫の火の不始末によるものとは言っても、その時の風向きや火事の程度によっては、人家への延焼が何より心配となる。急造安普請の上せまい地域に密集して建てられた家は、飛び火貰い火の区別なく火がつけば乾いた薪束を燃やすようなものだった。どこまでも燃え広がって大人になる事が多く、人々を何より恐がらせた。
 かみの山サルナイ辺りの地形を何かに譬えてみれば、両掌を合わせてから親指側だけをこじ開けた形と似ている。東西の山腹が壁となっているこの地では、よほどの手間をかけなければ、消防の水利はおろか飲み水を得る事さえ難しい。そのために必要となる費用は 莫大で、どんなに申請したところで許可されるほど官の財政にゆとりはない。
 会社は事業の財産や設備を守る意味からも、私設の消防組を持つ必要があった。もちろん行政からの要請や指導も再三にわたってあった事もある。
 青丸に赤で北極星をかたどったとか言われる社紋を打ち、組名のいろはにを筆太に書き込んだ四本の線を揃え、合計一○○人余りの消防手が訓練している姿は、中々のものだという評判であった。
 かみの山、つまりステンション近くの選炭場から北の事業施設 と、長屋飯場を含む部落一帯をい組ろ組が受け持ち、は組に組がサルナイ市街から南を分担する事になっているそうだ。
 人の話ではまだ刺し子半纏もできていないらしいが、何にしても隣の坂本が入っている話はまったくの初耳だった。若い者が中心となる消防手に、正造より二つ三つ年上の坂本が志願するなど、始めから考えられなかったからだ。だが二、三日して顔を合わせた坂本から、その辺の事情はあらまし聞かせられる事になった。
「やア正造さん。先日はえらいしょわしない(やかましい)事で、 済まんかったなア。なんせ、若いもんばっかりやからもうおごって(騒いで)しまって、手ェつけられんもんやから……」
「いやア何も……。消防の若えもんだってかや?」
「そうながよ」
 坂本の口ぶりにはどこか得意気な響きもある。 私設消防組の誕生は去年七月だったが、組創設の話は大分前から起きていた。総指揮や部長副部長小頭といった役付きは何度かの会合で決まっていたらしいが、肝心の消防手については、各坑の小頭の中で坑夫に顔が利く連中に人選を頼んでいた程度だったという。
 ところが初めのうち声のかかった坑夫は逃げ腰だった。何をどんな風にやればいいのか、何をやらされるのか皆目見当がつかない不安もあったし、やって得になるという話でもなかったからだ。
 世話を頼まれた顔役や友子の頭役連中は焦りだして、義理を楯に押し付け半分おだて半分の人選びを始めた。だがそれでも埋まらない頭数を揃えるのに、この連中は年齢制限の巾を勝手に広げてしまった。当初は全員生きのいい二○代を並べるつもりの計画がこうして少しずつ崩れていった。
 それから先が思いがけなかった。誰かが苦しまぎれに語ったらしい講釈もどきの町火消し縁起や、女の気を引く火消し装束などのほうが話題になり、妙な人気が出てきたというのだ。そのせいかどうか自薦他薦の消防手志願が殺到する事になり、今度は整理するのに苦労する騒ぎになった。
 坂本に声がかかったのは、顔が広いのと世話好きなところを買われての事だったが、なり手が集まらない時の事だったのは間違いない。ところが志願者が増えてくれば話は別で、若いほうから決まってゆき坂本への話は立ち消えになってしまった。
 しかしこれも炭山では珍しくもない話だが、ヤマを去る者怪我を する者などが出て、折角決まった消防手に欠員を生ずる事になった。そこで坂本に再び声がかかってい組に入ったのだという。
「消防手の中でも、俺は年食ってるほうやが、まだまだ負けとれんがや。それになア正造さん、消防の仕事いうもんも中々難しいもんや。ただむてん(やたら)に鳶口振り回すだら(ばか)ではだちかん(ダメな)のや」
 それから消防の仕事についてひとくさり語り出した。 以前から関心があったのか、消防手になってから覚えたのかは知らないが、散々能書きを聞かされる羽目になってしまった。だが彼は年嵩である分だけ若い者に気を使っており、時には長屋に呼んで呑ませたりしているらしい事も分かった。
 それにしても、消防手になったからといって手当てが出る訳ではないようだ。火事が起きる度に仕事を放り出して現場に飛ぶ、いわゆる駆けつけ消防のどこが気に入っているのだろう。日頃は締まり屋でもある筈の彼のいささか自慢げな口ぶりが可笑しかった。
「まア坂本さんよ。あんまりムリすんなでや」
「なアに、何もムリなんかしとらんちゃ」
 気軽に答える坂本だが、こんな事に限らず彼は人前に出る事を少しも厭わない。それどころか好んで引き受けるようなところさえある。正造はそんな坂本が嫌いではない。むしろ自分とは真反対とも思える彼の気性を羨ましくさえ思う事があった。
 前年暮れも押し迫ってから突然衆議院を解散した松方内閣の頃は、民党の中でも板垣退助率いる自由党と、大隈重信を党首とする進歩党は特に力を持った政党になっていた。
 帝国議会開設以来いくたび宰相が代わり新内閣が誕生しようとも、一貫して変わらなかった薩長閥中心の官僚政治に反発して、議会内には小党や会派が選挙のたび毎に増えていた。それには日清戦争を契機に力を持ち始めた実業家や地主たちがからんでいる。一つにはそれだけ現内閣や政治に対する不信が高まり、更に要求も細分化してきた事による小党分立もあったのであろう。
 第二次松方内閣を追い込んで辞職を迫った時も、自由進歩の両党がそれぞれの党人を閣内の要職から引き上げ、松方政治に協力しない姿勢を明らかにした事から始まった。たまりかねた松方が首相特権で議会を解散してしまった。
 その後をうけた第三次伊藤内閣だが、大隈進歩、板垣自由両党に持ちかけた提携を断られている。表向きは政策の不一致であったが、わが党にと狙う椅子の分捕り合戦で、進歩自由の両党が折り合わなかったためだ。これまでの如く、政党など何するものぞと超然たる態度でふん反り返っていては、いかなる議案も成立しなくなった事を意味している。
 だが軍部は日清戦勝利によって発言を強め、内閣に大幅な軍備拡充費を求めていた。その財源に地租(土地税制)を改正して増収を図ろうと、第一二臨時議会にかけた増税案だが、板垣大隈らの結束で否決されてしまった。こうなってはもはや歳入を増やす目途はまったくない。伊藤は閣内の山県や桂の反対を押し切って内閣を投げ出してしまった。
 しかし後になって見れば、たった五ヵ月そこそこで内閣を明け渡し衆議院を解散したのも、次に政権を担当する者たちの行く末を見越した読みと、深い権謀あっての事かも知れなかった。
 ともあれこの時期、難局を引き受ける元老も藩閥閣僚もなかった。そこで議会開設以来一〇年近く経って、やっと政党に対して組閣と政権担当のお鉢が回っていった。
 明治維新政府が誕生し太政官時代から議会開設を悲願として、様々な弾圧や干渉をうけながら散っていった自由民権論者や、その運動の志士たちが夢にまで見た政権の座はこうして手中に入った。大隈や板垣を頂点とする民党の雄は、一応自由党と進歩党を解党して憲政党を創立した。三十一年六月の事である。
 いろいろ面倒はあったにせよ、とにかく大隈重信を総理大臣に、板垣退助を内務大臣にしたいわゆる隈板(わいはん)内閣が誕生した。わが国における最初の政党内閣である。
 だがこの内閣の成立に最初から反対し、不成立を企む陸海軍両大臣は入閣を拒否した。それでは憲法上の規定で組閣ができない。前任伊藤の仲介工作で桂陸軍大臣と、西郷海軍大臣が留任する事になった。だがその条件として、政党は軍備に関して一切口を入れない、という一札をとられる事になった。
 立ち上がりからこれではうまくいく筈がない。おまけに元々は意見を異にする自由、進歩両党が政権獲得のため寄り合った憲政党である。何かにつけてギスギスするのは当然であった。更に閣僚の椅子を争ったしこりがいつまでも尾を引いていた。そこへ文相尾崎行雄の共和演説事件が起きた。
 これは尾崎が教育茶話会の席上で、金権政治の風潮が台頭してきた事を非難する演説を行った事に端を発したものだ。
「現在の日本において共和政治が行われる心配はまずない。しかしもし仮にわが国に共和政治というものが存在したとしたら、恐らく三井三菱は大統領候補となるだろう……」
 立憲君主制の否定が目的ではなく、金の力が政治に及ぼす影響をこのような例を引いて話した。だが政党内閣の成立を快く思っていない貴族院や枢密院の議員たちは、早速この言葉尻をとらえた。
「いやしくも文教を主宰する立場にある者が、共和政治を口にするとは何事ぞ。不敬きわまる」
陰で糾弾の火の手をあおったのは桂陸相で、文相の進退を天皇に奏上したのは板垣内相であったと言われる。ともあれ尾崎弾劾の尻馬に乗った連中が次々と現れて、尾崎は辞職した。だがその後任を巡って激しい内紛が続いたのだ。
尾崎は進歩党系であったが、これ幸いとばかりに板垣は自由党系の人間を推した。しかし大隈は単独で犬飼毅を上奏した事から憲政党は真っ二つに割れ、板垣ら自由党系の閣僚は揃って辞任した。そうなっては大隈も内閣を維持する事はできず、わが国初の政党内閣 は一度の本会議も招集できないまま、僅か四ヵ月の短命に終わってしまったのだ。
 初めは自由民権の理想に燃え藩閥政治への厳しい批判を旗印に、国政の変革を目指して一途に走り続けた男たちは、何とも愚かな猿芝居を演じて表舞台から去っていった。だがそれは単なる政党内閣の挫折だけでは済まなかった。もしかしたらそれが、日本の政治を永く暗い渕に引き込んでゆく大きな渦となるキッカケであったかも知れないからだ。
 隈板内閣の次に登場したのは山県有朋であった。彼は政党内閣を策謀で壊滅させた藩閥と、軍人政治の両方に跨がる巨頭ともいうべき人間だ。その山県はその後二年余りにわたって政権を握り続ける事になる。だがその間に彼は、政党を再び政権の座につかせないよう数々の手を打ったのだ。
 軍部大臣現役制や文官任用令などもそうだが、何といっても最大の影響を残す事になったのは「治安警察法」の制定であろう。二十二年十二月に出された「保安条例」より一層厳しく拘束力のあるこの法令は、あらゆる政治活動を封鎖するため、集会、結社、大衆運動の制限や禁止をハッキリと打ち出した。その上更に労働者の団結権と同盟罷業権も奪い、永くその弊を残してゆく事となった。
 つまり軍備の拡張、軍権の拡大に反対する政党活動を露骨に威嚇しながらも、返す刀で政党とは違う勢力の台頭をも押さえ込む狙いであった。それは日清戦争後各地に自然発生しつつあった労働争議、運動、組織を厳しく弾圧制限できるよう数々の条項を盛り込んでいたのであった。
 政党内閣の醜い争いによる自滅は、やっと目覚め始めた労働者農民の意識に恐怖感を与え、集団で行動し何かを主張する権利さえも奪い取るという、量り知れない禍根を残してしまった。
反対に軍部の勢力が、議会の中で一段とその影響を強める事になったのはいうまでもない。

 北海道議会がまだ開設されていなかったため、道予算は一々国会の予算審議を経なければならない。道政は去年九月まで拓殖務省の管轄であったのが、再び内務省に移管され北海道局に属していた。しかし何をするにもすべて中央にお伺いを立てなければならず、手続きに時間がかかるばかりでなく、道内事情に疎い中央官庁の役人に、費用を伴う書類の決裁をうけるのは大変な事だった。
 そんな中でわが国有数の暴れ川として悪名高い石狩川は、開府以来頻繁に洪水や氾濫を繰り返していた。近年でも二十二、二十五、二十六、二十八、二十九年と立て続けに水害を発生し、流域住民に 甚だしい被害を与えていた。
 今年も四月二十日から二十一日にかけて雪解け水が氾濫し、河口に近い低地帯を水浸しにした。例年より少し雪の量が多いだけで溢れるこの川は、その場しのぎの対策ぐらいでは、おとなしくなる気配をまったく見せない。何と言っても広大な平野を貫く日本第二の長流だけに始末が悪かった。
 再三の水害対策、治水工事の申請が出されているにも関わらず、中央省庁はたび重なる内閣交代や政権混乱でそれどころではなく、すべてが先送りとなっていたのだ。

 九月に入ってすぐ本州方面の異常な天候が伝えられた。本来はまだまだ残暑の気候であるべき筈なのに少しも気温が上がらず、その上関東東北地方が暴風雨で被害続出となった。特に埼玉、群馬、茨城、岩手、新潟の状況がひどいという事であった。
 九月五日未明、北海道全域にも冷たい霧雨が降った。秋口とは言えいささか早すぎる肌寒さに人々は震え上がった。しかし細かな雨はいつしか本格的な降りになって、だんだんに雨足が強くなった。それでも一晩たてば少しは納まるだろうと期待したが、翌六日になっても雨の勢いは衰えるどころか、いっそう激しさを増していった。
 六日夜半までぶっ続け三六時間小止みなく降った大雨は、まるで滝壺の中にいたようだという人もあった。正にその通りで、横殴りの風をうけた土砂降りの雨には、いかなる雨具もまったく用をなさなかった。
 あちこちで堤防が決壊したために流失倒壊した家屋三,五〇○戸余り、何らかの被害をうけた家は二五,○○○戸にも及んだ。冠水したり作物に影響のあった田畑は五五,○○○町歩に達し、死者も二五〇人を数えるという開府以来最大の水害となった。
 対雁(ついしかり)にある石狩川の水標測定は雨が止んだ後の十日正午に、これまで最高の水位八メートル二三センチを記録した。この暴風雨による全国での被害状況の中で、石狩川氾濫による流域が最も大きかった事が分かった。
 夕張川も六メートルの増水とともに氾濫し、栗山から長沼夕張太にかけて浸水流失した家と畑が延々と続き、見渡す限りが泥の海と化した。人々は茫然として手を加える気力さえ奪われてしまった。
 収穫間近い田畑を泥沼同然にされた人々の中には、村を見限る者も出た。そして体一つで受け入れてくれる炭山にどっと流れ込んだ。そのためヤマに見慣れない顔が急に増えたと言われたほどである。
 炭鉄が受けたレールの流失や冠水、運転中止による損害も大きく、その合計一三五,○○○円余りとの事であった。
 鉄道による輸送網を寸断された道内各地にはかなりの混乱が起きた。もちろん出入口を断ち切られた夕張もその例外ではない。ある地域では確保してあった手持ちの食料を食い尽くし、飢餓状態に追い込まれた人々が殺気立って押しかけ、あわやという場面も起きたほどであった。
 但し炭鉄では、入って来る被災農民を消極的ながらも歓迎した。事の次第はともかく人集めの手間が幾分でもはぶけたからであろう。

 年の暮れ近くの寒い朝、正造は珍しく白川友次郎と顔が合った。彼は家から一〇分足らずの第一斜坑に入っている。三〇分近くかかって一番坑まで行く正造とは、出て行く時間が違う筈だ。その日は何かの都合で早出したのかも知れない。
 隣合わせていても特に親しくしている訳ではなかった。共通する話題も見つからないまま、挨拶を交わした後は何となく分かれ道まで肩を並べて歩いたにすぎない。若く見えても正造より多分一○才前後は上の筈だし、仕事も正造は採炭彼は運搬であった。それでも同じ坑内に入っていればまだしも、互いをつなぐ話題は中々見つからない二人だった。
 分かれ道の近くまで来た時、二人を追い抜いて行く坑夫があった。かなり上背のある男である。
「白川さん。お早う」
「え。ア、お早う」
 不意に声をかけられて白川はびっくりしたようだ。
 筒っぽの袖口が短くて、ぬっと突き出た腕首は白川と違って骨太に見えた。首に巻いた手拭いの端っこを襟元に押し込んだだけで、みんながする盗っ人被りや鉢巻きもしていない。今朝の冷え込みでは剥き出しにしている耳も痛そうだ。正造より大分若いに違いない。
「まったくイヤになるよな、こんな早くから……」
 よく響く男の声に聞き覚えがあったが思い出せない。
「ホントだよ。でもお前さんなんか若いからいいけど、私にはこたえるよ」
 声に思わせぶりな抑揚をつけて、白川が溜め息を吐いている。正造は二人に一歩遅れるように道を譲った。後ろから見た男の肩巾はがっしりと広く張って、まるで壮士風だ。背丈は並んだ白川より二寸余りも高く、およそ五尺六寸(一メートル七〇センチ)以上はありそうだった。
 分かれ道で正造は右に折れたが、彼らは左に曲がって二○○メートルほど先にある第一斜坑へと向かって行った。白川はそのまま行ったが、男は振り向いてチラッと正造を見た。濃い眉と窪んだ眼窩に特徴がありフッと思い出した。いつだったか坂本と松尾の湯で見かけた男だ。確か徴兵制や教育制度がどうのと、難しい事を言っていた鈴木の食い扶持に違いない。あの時とは違って穏やかな口調で白川と話す男はまるで別人のようだったが、どうやら白川と同じ現場か顔見知りであるらしい。

 数日して正造は友子の大集会(おおしゅうかい)に出るため、会場になっている石川飯場(正しくは制度が変わったので元飯場というべきだが、誰もがそのまま呼んでいた)に行った。
 正造も北川も友子の会員と呼ばれていたが、鉱山で取り立てられて坑夫に出生してからざっと二〇年近くにもなり、二人ともそれぞれ中堅と呼ばれていい立場にある筈だった。だが炭山坑夫へと身すぎを変えてからではたかだか六、七年に過ぎない。それでもこのヤマではいつしか古顔の仲間入りをしている。そのせいで何かと声はかかるのだが、性分もあって正造は前へ出ないようにしていた。しかし今年の大集会では、これまでの平会員から何かの役を背負わされそうであった。
 現在山中友子の大当番を勤め、元老とも呼ばれる元組長の原田から先日声をかけられたのだ。そろそろお前も何かやれ、とい う根回 しであった。
「勘弁してけれでや親父さんよ。俺ラそした柄でねえし、人付き合いも下手だもセ。外になんぼでもいい人間いるんだハッて……」
 正造は片手拝みしながらその話を断ろうとした。
「三原よ。いつまでもそったら事いうもんでねえ。石川の親父もお前えだバッて言ってだど。折角推してくれる者がいるんだ。それもお前えっちゅう人間の裏表バ見込んでの話だべ。いいか? こんだの大集会で推薦の声がかかるかも知ンねえ。そン時ア、断ったりするンでねえど」
 まだ決まった訳ではないがと断ってはいたが、そんな打診があった時にはほぼ決定である事ぐらいは分かっていた。そんな訳で、今日の大集会は正造にとって少し気の重い出席であった。
 暮れの大集会はこのヤマにおける友子行事の一つで、言わば山中友子の総会である。会費の収支決算、山中不幸の内容や同盟友子からの回状通達、更には申し合わせや注意事項の発表、そして役付き人事の取決めが行われる。そんな事務的な事に決着がついて始めて新年の取立式の話になるのが普通だ。そのため大集会はこれまで、友子交際所の置かれている飯場で行うのがきまりであった。そして新年の取立式は、サルナイの各料亭を持ち回りでやるのも慣例にな っている。
 少し早めに行って北川の部屋を覗いた。彼の意見も聞いてみようと思ったのだが北川はいなかった。若い者の話では、今夜の大集会の準備に走り回っているという。いつもの事ではあったが、その腰の軽さにあきれると同時に少し腹も立った。
 もう新大工や修行中の若い者でもあるまいし、何でもかんでも一 緒になって飛び歩く必要はないのだ。又気安く彼を追い回しに使う当番頭に、文句の一つも言ってやりたくなった。
 鉱山友子とは言え北川が鉱夫に取り立てられたのは明治十一年だったから、今年で丸々二〇年の坑夫稼業である。小学校だって尋常科四年の卒業と言えば、坑夫仲間では御の字だ。しかもその上更に勉強している事は正造がよく知っている。
 一方自分はと正造は振り返る。高等科に進んだ分だけ北川より遅れ、しかも一つ年下なので取立は十三年であったし少し後輩である。
 叔父政吉を頼って院内銀山へ行ったのが一二の年だ。政吉は甥の正造を自分の長屋に預かりながら、鉱夫の修行は他人の下でさせるのが本人のためと考えたらしく、友子への加入を働きかけてくれた。政吉自身は友子に入らない村方鉱夫で過ごしてきたが、そのために味わったつらい思いを、甥にはさせたくなかったのかも知れない。
 取立式で決められた親分が高村久平であった。本来は取立式の当日まで、親分子分の組み合わせは絶対秘密にされるのが普通である。何故ならこの親子の縁組に片寄りや不公平が起きないよう、どっちからも自分の都合で相手を選べないのがしきたりなのだ。
 だがしかし政吉が久平の人柄と鉱夫としての技量を見込んで、蔭でいろいろ手を打ってくれなかったら、正造は別な親分と組み合わされていたかも知れない。
 政吉の見込み通り久平は良い親分だった。学校に行った事はなく読み書きはできなかった。だが鉱夫としての知識、技量、経験の深さ、加えて穏やかな人柄に仕事熱心ときて、何一つ文句のつけようがない人間だった。正造が実の親以上の思いで接するようになったのも故のない事ではない。
 とは言っても鉱夫の修行は生易しいものではない。覚えなければならぬ事は山ほどあるが、そのすべてが口伝てによるものであった。現場で出合う様々な出来事はそのまま頭と体に焼き付けなければならぬ鉱夫の学問であり、虎の巻も教科書もない経験一筋の学習であった。物覚えや勘の悪い者にはかなり厳しい修行の毎日でもあった。
 取立式では面付けという大事な行事があって親分や兄分が決められ、初めて「出生免状」が親分に預けられ、盃事をして鉱夫への出発となる。それから作法通り三年三月一〇日間鉱夫としての修養期間があり、その期間内は新大工と呼ばれて掘り子修行をしなければ一人前の鉱夫にはなれないのだ。その間は他山への移動はおろか一切の好き勝手は許されない。
 新大工の修養期間は形だけのものではない。一日の大半を坑内で過ごすのはもちろんだが、出坑してからも休む間もなく親分や兄分の家の雑用をしなければならない。薪割り、草むしり、時には雪掻きから水汲みに至るまで、頼まれた事以外にも思いつく限りの手伝いをするのが当たり前の事とされていた。
 その他に友子交際所のある飯場の便所掃除や汲み取りをしたり、 鉱山内の不幸触れ(葬式)に駆り出されて、追い回しの下働きをさせられる事も珍しくはない。だがそうした事をイヤがってはならない。子分がそれに耐えられるかどうかも試されているのだ。そこから次第に親分子分の信頼関係が生まれてくる、というのも人情であろう。
 鉱夫には直接掘る事や留め大工と呼ばれる支柱の仕事以外にも、熟練しなければならぬ事は無数にある。道具の手入れや点検も当然欠かす事はできない。
 その一つに塾(タガネ)作りがあった。
 大体は掘りタガネと発破タガネの二種類を持って入坑する。掘りタガネは短く二〇センチ前後が普通の長さだ。発破タガネは二、三種類あって三、四〇センチかそれ以上のものもあり、仕事によって使い分ける。そのタガネを叩き込むハンマーも二種類あって、鉱夫の間ではこれをセット(接頭)と呼んでいる。形は先細の鉄砲型と一方の頭が熊手の形になったものとがある。どっちも目方が一キロ以上の重さがあり、長時間振り続けるのは並々ならぬ力と技術を要する。しかも力一杯叩き込むタガネの頭が五分径(一六ミリ弱)しかないときては、確実に命中するようになるだけでも相当かかる。
 だがタガネ扱いはそれだけでは済まない。硬い鉱石にぶち込まれる先っぽは減るかつぶれるかして、丸くなったり欠けたりするのが当たり前だ。それを仕事帰りに打ち直して生き返らせるタガネ焼きも、鉱夫にとっては重要な熟練作業の一つである。
 火床(ほど)の木炭や五平太(石炭又はコークス)をふいごの風でおこし、タガネ先を真っ赤に焼いて叩き直す。その後で焼きを入れるのだが、焼きが硬すぎれば欠けるし甘いとすぐつぶれて使い物にならない。今取り掛かっている切羽の硬さ次第で焼き入れの程度を決めるのだが、物差しや見本があるわけはなくそれも経験と勘でやるしかない。
 つぶれたり欠けたりした刃先を赤熱させ、金床の上で思い通りの鋭角に打ち鍛えて形作る。タガネは削ってただ尖らせただけでは肌も腰も甘くなる。夕ガネ先は焼いて鍛える火作りが、最も強靱でしかも粘りが出るものとされている。明日これを叩き込む切羽を考えながら、食いつきのいい刃先に仕上げてゆく。
 鍛えた後で刃先だけを赤め明かりにかざして透かし見る。微かな黒い線となって表れる焼けひびがあれば、どんなにもったいないと思っても、再び焼いて切り落としてしまう。いくら直そうとしても一旦できたひびは絶対になくならず、いつか必ず欠けるか折れるかして却って危険になるからである。
 ひびがなければ焼き入れに入る。軽く赤めて水に入れればそれで済むが、叩いた時耳がキーンと痛くなるような音が出るほど焼きが入ってしまう事が多い。それでは一撃で欠けてしまう事疑いなしだ。そこで刃先を欠けもつぶれもしない、頃合いの硬さに整える焼き戻しをしなければ使えない。ここから先がタガネ焼きの中で、最も難しい技術となる。
 火作った刃先を真っ赤におきた火床の上に置く。火の具合を見ながらタガネを手元でクルクル回し一呼吸二呼吸待つ。頃合いを見計らって手早く引き抜き焼け色を見る。紫色になっていたら戻し過ぎ、ほとんどナマクラ同然になっている。うっすらと肌が黄土色に曇ったところで、求める硬さによって水か湯か粘土のいずれかに素早く刃先を突き立てる。この間合いが微妙なのだ。粘土は一度は熱くなっても、ゆっくりとタガネ先を冷やしてゆく。急冷させないコツがここにある。焼け色を判断しかねて、いつまでも眺めていると戻し過ぎるので、その呼吸を呑み込むのが勘であり独特の技とも言えた。
 厳密に言えば、焼き方戻し方は季節やその日の天候気温によっても違う。刃物鍛冶が焼き入れを秘伝にするのは、その薄い刃先に起きるひび、歪み、又は切れ味がすべてこの焼き入れ次第による事が大きいからだ。タガネはそれほど厳しいものではないにせよ、難しい事に変わりはない。焼き入れも焼き戻しも、扱いの呼吸一つで活きたり死んだりする厄介な技であった。そこが長年やっている鉱夫でも、中々思い通りのタガネを作れない事を嘆く理由であった。もしかしたら経験ばかりでなしに、天性の素質が必要だと言われるところなのかも知れない。
 タガネ焼きに限らずこれに類する難しい技術や特殊な作業は、どんな職業にもあるに違いない。しかしほんの僅かな不注意や未熟な仕事が、直ぐさま危険につながり時には死を招く事もある鉱夫稼業では、特別に厳しくしかもしつこく言われるのは、止むを得ない事であった。
 気を抜いた仕事のしかたをする子分や新大工に対して、気合を入れる親分の口癖は決まっている。
「いいか。一つ間違えば俺たちの命は吹っ飛ぶ。仕事は早いほうがいい。だが手抜きはするな。鉱夫の道具は侍の刀と同じだ。大事に扱え。坑(あな)に入ったら目も耳も鼻もしっかり開けて、上がるまで一時も気を抜くな」
 言葉はそれぞれ違っても、若い者に繰り返し言って聞かせる親分たちは、嘗て同じ事を教えてくれた親分兄分の言葉と、自分の経験を重ね合わせて懸命に伝えてゆく。
 その態度が真剣であれば伝わらぬ筈はない。子分もそれを承けて一所懸命親分に尽くす。そこに情が通い何とかしてよその子分よりいい鉱夫にと親分は励む事になる。実の子よりも可愛くなってくるという親分もある。そんなものかも知れない。
 こうして鉱夫坑夫(鉱山炭山の別で書き分けているがまったく同じ)が育ち技も受け継がれてゆく。その他に古くからのしきたりで、友子は鉱夫の技と身を守る知恵以外に、坑内に係わる神事や様々な儀式も伝えていかなければならない。その他にもそれぞれの伝承があり、その一つに仏参と呼ぶ厳しいしきたりがある。親分が死んだ時子分は三年以内にその墓を建てるというものだ。
 炭山の友子の中には、一年以内という短い期限を定めている所もあった。墓といっても自然石に自分のタガネで名前を彫り込んだものから本式の石塔まで様々だが、それにしても仏参の負担は子分にとって重いものであった。掟破りにはそれなりの制裁が加えられて、地元の友子から除名回状が全国の同盟友子に出される事もあった。
 親分について習う事は、まず鉱夫がしてはならない事や、口にしてはならない言葉などから教えられ、余りの多さに驚かされる。次に毎日の仕事に欠かせない知識、危険から身を守る知恵や技、これも又その時々に応じて教えられる。それが身に付く頃には更に難しい事が仕事として待ち構えているのだ。とても三年三月一〇日の修行ぐらいで習得できるものではない。新大工から大工、初老、中 老、元老あるいは当番や何々頭、世話人と友子組織の役付きになるならないはともかく、一人前の鉱夫になるためには、その気になれば覚える事や習う事は限りなくあった。
 こうした修行経験の上では、北川のほうがはるかに正造よりつらく厳しい年季を過ごして来たらしい。口の重い彼が何かの折に洩らした話から、親分橋田源蔵のしごきの凄まじさを聞いた事がある。
 まだほんの子供だった北川は、体がふらつくほどの道具を背負わされ、足が遅いと言っては怒鳴られ、仕事が遅れると喚かれては殴られた。長屋に戻ってからでも間なしに用事を言いつけられ、少しでも不服そうな顔をすれば容赦なく拳骨が飛んできた。
 タンパで赤剥けになった足指がヒリヒリと痛み泣きべそをかいていても、代わりのわらじへの履き替えを中々許してはもらえない。 わらじを濡らさぬ工夫を身につけるためとの言い分であった。
 毎日背負わされる道具の種類だけでも、セット、タガネ、刃広まさかり、鋸、鶴はし、さば切り、掻き出し棒(発破孔から鉱石の砕片を出すもの)探鉱鶴といった塩梅で、大変な重さなのだ。始めは運ぶだけであったが、日がたつに連れてその手入れや修理も仕込まれ、出来具合によってはそのたびにぶん殴られた。言い訳をすれば更に殴られるので、自然口数も少なくなり大抵の事は我慢して腹に呑み込むようになった。
 それを聞いて正造は思った。そんな目に合いながらも彼が必死に耐えたのは、一日も早く母親と妹をこの腕でと考えたからであろう。その一念に加え腕の良い父親の血をうけて技を磨いたに違いない。
 北川のタガネ焼きは抜群だとよく耳にする。タガネも鶴はしも北川の手にかかると苦もなく生き返り、簡単には欠けもつぶれもしないとの評判であった。そのタガネを使って発破孔を掘るのも早く、石目の見方も的確だという。その上留め付けと呼ばれる支柱もうまく、仕事には文句のつけようがないと、仲間うちからも一目置かれているらしい。だが若い者からはいささか不満の声もある。
「北さんはよ。あの通り口数もねえから、怒ったり怒鳴ったりはしねえけど、それだけ仕事のことも教えてもらえねえ事になる。夕ガネ焼きなんか、親父よりうめえンだから、ホントはも少し教えてくれればいいンだけど……」
 正造は北川をこんな風に見ている。彼は確かに口数は少ないが決して口下手ではない。考えている事や言いたい事はキチッと相手に 伝える言葉も術も知っている。ただそうする事を好まないだけだ。それが必要な時にはきっと喋る筈だし、その話ぶりに人々はきっと驚くに違いないと思っていた。そんな北川にこそ、新大工世話人の頭役でもさせればいいのにと正造は思う。ただ彼が引き受けるかどうかは問題であったが……。
 大体このヤマの友子組織は秋田の鉱山友子に比べるといかにもまとまりに欠け、力も弱いような気がする。それでも飯場に力があった数年前までは、それ相応に友子らしい格式もあったし、睨みも利いていた筈だ。それが例の騒ぎで新聞種になるほど荒れ狂った事件以後からおかしくなった。後始末で会社から次々と飯場が解散させられ、交際所を取り仕切る者が力を失った。そこに加えて今度の戦争景気で急に人が増え、友子を知らない素人坑夫が多くなった事もあり、だんだんと名ばかりの組織になってきたような気がしてならないのだ。
 しばらく待っていたが戻って来ない北川に少し腹を立てながら、彼の部屋を出て入口近くの食堂に行った。いつもよりランプの数を増やしているせいでかなり明るくなっている食堂には、もうかなりの人が集まっていた。
「やア三原さん。お晩でございます」
 丁寧な挨拶があったので振り返ると永岡だった。
「ア、お晩でなス。永岡さんも会員であったスな?」
「そうです。年の割には遅い取立で、はたちぐらいの時でしたか。 大和国(奈良県)吉野でした」
 言葉にどこか西の訛りが混じっていたのは、そのせいだったのだ。
「そうであったスな。で、ここでは?……」
「去年の六月頃、着山してすぐ入れてもらいました。何と言っても坑夫は友子ですよ。みんなして大いに盛り上げたいものですね。そう思わんですか三原さん?」
「ハア……」
 正造は、永岡がこのヤマの友子に期待して言ったのであれば、きっと失望するだろうと思った。
「しかし三原さん……」
 少し声を落として永岡が顔を寄せてきた。
「院内の古河もひどかったが、ここよりはまだましなところもあったと思う。一体この会社は炭砿部をどう思っているんでしょう。鉄道部の成績は悪くないというから待遇もいいのかも知れないが、坑夫に対してはまるでダメですな?」
「ハア?」
 正造は迂闊にも、この会社に炭砿部鉄道部の両方がある事を忘れていた。いや忘れていたというより、仕事も違い日常接する機会もないだけに、同じ会社の一員と思った事は余りないというべきか。
「イヤ、私も鉄道部の事を詳しく知ってる訳ではないが、炭砿のほうの待遇があまり悪いんで、ついひがんでしまうのかも知れん」
「まア俺ラも、ここの扱いがよそよりいいとは思わねえども……。 今だバどこも似だようなもんでねえのセ?」
「そうかも知らんなア。しかし院内から一緒に来た連中、この一年半で大分又内地に帰りました。銀山はダメでも、よその鉱山に行って見るいうて……」
「そうだったのセ……。まア仕方なかべども、この節、かなやまの景気はどした塩梅えなんだべ?」
「さア……。炭山ほどではない思うけど。どのみち大ヤマには中々入れんのですから、数ある小ヤマに行くしかないのと違いますか?」
「ンだスなア。だども小ヤマはふけさめ(乱調)が多いから、よろけ出したら早くて……。独り者だバいいどもかまど持ってれば、嬶やわらしの事バ気にさねえ訳にはいかねえし……」
「そうなんですよ。簡単に踏ん切られんとこはそこなんです。一家六人食わしていかなくてはならんですから……。私だけやったらどこに行こうと、信ずるものがあるから生きてはゆける。だが家族を飢えさす訳にはいかんですよ」
 以前久平から聞いた話がふと甦ってきた。
 彼が請願運動に熱中している最中に家族が食えなくなった。その時仲間鉱夫が助けてくれなかった事にこだわりがあるのかも知れない、と思ったのだ。
 だがそれよりハッとしたのは、私には信ずるものがあると言い切った事だ。やはり久平の話していたキリストの信者、という噂はホントだったのかも知れない。
 正造は人との付き合いが多いほうではないが、その中でもキリスト教徒の知り合いはいない。故郷の笹子村にもそんな人がいたという話はあまり聞かない。だが明治十三年頃たった一度だけ、キリスト教というものに関して耳にした事はあった。
 院内で鉱夫になった頃銀山には二人の外国人がいた。シウインとロージングというドイツ人技師だったが、当時官営だった院内銀山へ工部省から招かれて、新しい精錬法などを指導に来ていた。
 雄勝郡横堀から矢島へ向かう街道から松ノ木峠の少し手前を左に折れて、小さな橋を渡ると銀山に入る一本道がある。入ってすぐ右側に維新の頃まで役人が詰めていた十分一番所が、山を背負っていかめしい大門の名残を見せている。
 そのすぐ隣に、当時の秋田には珍しい赤煉瓦造り二階建ての洋館があって、異人館と呼ばれていた。その又隣には珍しいどころか秋田中探してもないと言われた、これも煉瓦造り二階建ての白銀小学校ができた。それは銀山景気華やかなりし頃の象徴とも言えた。
 それはともかく、異人館の中にキリスト教の神様が祀ってあり、碧い眼の異人が跪いて胸に十字を切るという。見た事はないが何もかもが違う遠い国の妖しい儀式に思われて、異人館の前を通るたびに足が早くなった事を覚えている。
「永岡さん。今どこサ入ってるネハ?」
 正造は話題を変えて訊いてみた。
「二番坑で、炭掘りの手子やってます」
「そうかや。ンだバ花田? 横内? それとも谷村か?……」
 友子の頭役の名前を上げてみた。正造がこのヤマに来てから七年経っている。親方や頭役の主だったところに知らない顔はない。
「イヤ、あすこに来ている本間の親父さんの組ですよ」
 永岡が指すほうを見なくてもその名を聞くだけで分かる。草分けの友子世話人で子分もかなりいるし相当な顔役でもある。
支度に駆け回っていたらしい北川がやっと姿を現した。
「おう三原、来てだか。早かったな」
「北川よ。何ンもお前えがそったに飛んで歩かねえっても、若えもんバ使えばいいんでねえのか?」
「ン? まアそうだかも知んねえ。ンだども、人使うより自分でやったほうが早えンた気イして。つい、な」
 そんな風にいうだろうと思っていた通りの返事である。そこが又北川の良さでもある。
「北川よ。この人覚えてるかや?」
永岡を見ながら訊いた。
「あア。院内から来た永岡さんであったスな。飯場の若いもんから聞いでるから……」
「三原さん。この人は?」
永岡は北川を知らないらしい。
「俺ラのどやくですが、院内からの渡りで北川っちゅう男でなス……」
「あア、この人が有名な北川さんですか?」
「え……。俺ラは何ンも有名でねえス」
「イヤ。この飯場の若い衆ばっかりでなく、あんたの名前は二番坑のほうでも噂になってます。タガネ焼きの北川って。本職の鍛冶屋よりいい腕してるって……」
「何ンもなんも……」
 北川はしきりに照れている。それにしても意外であった。北川の腕の確かさは耳にしていたものの、その噂を伝えた者は正造と北川の関係を知っていたので、少しは気遣いが含まれての話であろうと思っていた。だが仕事ではほとんど関係のない二番坑にまで聞こえているとなれば大したものだ。
 一番坑二番坑と隣り合う番号になってはいるものの、距離では一キロも離れ坑口へ通う道筋もまるで違うため、それぞれの坑夫たちが顔を合わせる事は滅多にない。にも係わらず北川のタガネ焼きが噂になっているとすれば、これは紛れもなく本物に違いない。
 正造は何故か自分が褒められたように嬉しくなった。 もう一つの意外は、北川が永岡の顔を知っていた事だ。もしかしたら、院内であれほど活躍したと言われる永岡の事だ。このヤマでも何かの活動を始めたのだろうか、と正造はふと思ったほどだ。
「イヤ。実のところ院内組のケツ割れが多くて、散々言われてる最中なんで、北川さんの評判がいいのは助かります。ホントに……」
「まンだ足が止まってねえのなス?」
 北川も気になっている口ぶりだ。
「今は年の暮れなのでバタバタはしとらんようだけど、春になればどうなるものやら……。今年の正月みたいに、又ガス爆発だの何だのがなければいいんだが……」
 最後は独り言のようにいう永岡だった。顔が揃ったと見えて大集会が始まるようであった。食堂や土間に置かれた薪ストーブと火鉢のほうに、ざわざわと人が寄っていっ
た。
 永岡は本間の親父の傍に行って何か話をしていたが、すぐ別の人間に耳打ちしたりして相当に忙しそうであった。
 正造がこの飯場にいた頃は、暮れの大集会や臨時の集合をかける友子の呼び掛けに、否応なく引っ張り出されていたものだったが、長屋に越して四年の間あまり顔出しはしていない。それでもいつの 間にか開坑以来の古顔の一人になり、このヤマの生き字引になりつ つある。それほど坑夫の移動が激しく、腰を落ちつける者が少ないとも言えた。たまにこんな集会に顔を出すと、挨拶に来る若い者が増えた事で少し狼狽え面はゆくもある。
 正造は他人の目に映る自分というものをあれこれ気にするほうではない。従って自分がこのヤマではどう思われ、どれほど注目されているのかなどあまり考えた事もない。そういう考え方が苦手であったし、面倒くさいと思っていた。
 だがしかし採炭所の幹部社員や友子の頭役などは、正造の仕事振りや人あしらいなどをどこかで見ていたのかも知れない。いつかその場を与えて見ようと考えていたらしく、原田元老の瀬踏みもその手始めに違いなかった。
 大集会の議事が型通りその年の出来事や、交際金(会費)の出納などを報告した後、他山の交際友子からの回状が一件発表された。交際金不払いと使い込みの上逃亡した坑夫の除名回状であった。よくせきの事がなければ坑夫社会から追放するという手荒な処置をしないのが通例だが、悪質な坑夫と見られての回状となり、箱元(友子会計)から近くの友山に回覧手続が取られる事となった。
 その後新旧役付きの交代や留任が発表され、大当番の原田が立ち上がった。
「さていよいよ新年の取立式について相談を願わねばならんのですが、その前に、一つだけみんなに聞いてもらわんならん事があります。ご承知の如く、このヤマも昨今着山坑夫が多く、従ってこの際に友子への加入も増やさねばならん訳であります。申すまでもなく、山中友子の末永い繁栄を望む者として、これに力を尽くすのは当然であります。しかしながら、かような仕事は反面において役付き、当番、世話人などの負担を甚だしく重くする事となり、関係者のご苦労が絶えん訳であります。そこでこの際、いささかなりともその労を補い、助ける者を置いてはいかがなものかと、ご相談申し上げる次第であります。取り敢えずは、新大工世話人を助ける者として二人ばかりお願いしたい。本来なれば会員の推挙を待った上で行うべきところながら、まだこれを正式の役付きとするかどうかは、改めて後日の審議を待たねば決定できない。従って取り敢えずは今夜集まったみんなの互選乃至は推薦による、という形でお願いできればと思うが、いかがなものだろうか?」
 堂々たる話ぶりで、さすがの貫禄ともいうべきであった。
 一呼吸の間があって誰かが立った。
「只今の大当番の話はもっともだと俺ラは思う。どうだべ。ざっくばらんなとこで候補の名前バ出して、そン中からみんなで推薦するっちゅう塩梅にしては?」
「ンだな」
 てんでに座の中から声が上がってひとしきりざわめいた。だが誰の名前も出ない。又別の一人が立ち上がった。
「誰も出さねえようだから思い切っていうど。俺ア、岩田の組の三原と、ここの北川がいいンでねえかと思うんだ。二人とも若え者に熱心だし、力もあると思うがどうだや!」  根回し済みの事とは言え、いきなり名前が上がった。
 正造には前もって話があったので、気が進まなかったとは言えそれなりの覚悟はあった。だが思いもかけず北川の名前が出たのには驚いた。隣を見ると北川には何の根回しもなかったのか、目をパチパチさせていた。何か言いたげに口を動かしたが言葉にならないようだった。
「ちょっと待でや!」
 隅っこから声が上がって一人の男が立った。
「二人とも確かに大した男だ。それサ文句つける気はねえ。だどもよ、二人とも一番坑でなかったかや? それだバ少し片寄るんでねえのか? このたびはどっちか一人にしておいて、もう一人は外の坑の者にしたほうが、まンズ丸くていいんでねえべか?……」
 どこにでもこうした考え方や取りなしをする男がいるものだ。何でもかでも足して二で割るか中間を取れば無難と考える手合いだ。それを姑息だ面倒だと言って無視してしまうと、後々必ずと言っていいほど悶着の種になるから妙だ。
「三原、お前えやれ。俺ラはいい……」
 北川が急いで正造の耳元に囁いた。
 結局、正造ともう一人三番坑で炭掘りをしている西野という男に決まった。北川はホッとしたように溜め息を吐いた。安心したのであろう。
 取立式は年明けの正月十日、市街地三区にある料亭松月で行う事を決めて大集会は終わった。
 永岡には正月にでも遊びに来てくれと言っておいた。その後で正造はもう一度北川の部屋に行った。
「北川よ。今年の大晦日は、俺ラどこサ来て一緒に年取りさねえか? ゆきもふさも待ってるハデ」
 ふさからは必ず承知させてくれ、と出掛けに念を押されてきた話なのだ。
 飯場暮らしでは大晦日だろうが元旦だろうが、特別な行事も献立もある訳ではない。それでも飯場が親方の所有でその支配下にあった頃は、雑煮や祝膳の真似事ぐらいはしていた。飯場によって内容も違ってはいたが、お国柄の風習に合わせて家族的な行事をするところもないではなかった。
 しかし飯場組長制の解体が行われ、制度上は飯場が単なる坑夫宿舎となってからは、そうした配慮も当然なくなった。月極めの賄い料を盆正月だからと言って変えれば不満が出る。だから特別な事は何もできないとの言い分であった。
 後にはこうした不満や宿舎の不足に加え会社の労務管理の変更もあって、飯場制度は違った形で復活してゆく事になる。それはともかく飯場はちょうど新旧体制の切替え時にあり、何となくガタガタとして落ち着かない雰囲気にあった。
 盆暮れ正月などが、家族のない飯場者にとって味気なく侘しいものであるのは、正造もよく知っている。ふさに言われるまでもなく、例年この時期に必ず北川を誘うのだが、これまでは来た事がない。明けて新年の挨拶に顔を出す事はあっても、それさえゆっくり過ごして行く事はなかった。
 だが今年こそはと、正造も内心に期するところはあった。
「……ンだどもよ。年取りの夜ぐれえは、身内だけでやるもんでねえのかや?」
 断るというよりどこか迷っている響きを感じた。明らかに去年までとは違う。
「お前えは身内とおんなじだ。ふさもゆきも、誰も他人だと思ってねえ!」
「だども……」
「お前え一人で来るのが塩梅え悪りいっちゅうんだバ、年取りの晩ゆきバ迎えによこすかや?」
「オイ三原、やめれでや! ゆきはまだ四つでねえか。バカだ事さへるもんでねえ! あの吊り橋のあだりは、晩になれば大人だってきび悪りいどこだんだ。何ンかあったら何とする!」
「へバ、迎えサ出さねえっても来るか?」
「分かった。行く、行くでバ。その代わりハア、ずっぱりよばれで(ご馳走になって)けるからな。後で何だかんだこぼしたって知らねえど」
 珍しく嬉しそうな北川の冗談が返ってきた。この夏までのどこか他人行儀な物言いはいつの間にかすっかり影をひそめている。
「オウ。かまど返す(破産する)ぐれえ呑んだり食ったりせいでや」
 北川の滅多にない冗談に応酬する正造もつい軽口になったが、それだけホッとするものもあった。早くふさに知らせてやろうと飯場の玄関を出た。
 その時少し離れた賄い場の入口でチラリと動く人影があった。いつも賄い場にいるとくさんだろうと思った。みんな蔭では後家ばあさんと呼んでいたが、もしそれを面と向かって言ったとしたら、まず二、三日は倍の風当たりを覚悟しなければならなくなるだろう。それほど気が強くて口うるさい。四〇半ばすぎとかいう飯炊きのとくさんは、賄い場に続く部屋に一人で住んでいる筈だった。
 だが夜目に映った人影はとくさんではなく、もっと若い女のようだった。ここへは始終出入りしているが、遠目ながら見覚えのない姿に見えた。このところ増えている着山坑夫の家族かなと思ったが、それにしては賄い場の入口から出入りしているのは解せない。飯場の住人ならば却って出入りをしないのが普通だったからだ。
 正造は更めて知らない顔が増えた事に気付かされた。
 今年の暮れは根雪になるのがいつもより少し早かった。だがその夜は月が一段と冴えて明るく感じられた。こんな夜は厳しく冷え込んでくるのが普通である。だが不思議と寒さはそれほどでもないのだ。それでも後数日したらやってくる正月は、もしかしたらひどく凍(しば)れるかも知れないと思いながら、正造はしぐれ橋に向かった。
 父親の一周忌が近い事を大分前からふさに言われていた。だが何をどうするかまだ何も決めていない。こんなずぼらな男が、新大工世話人の手伝いなど勤まるのか、とわれながら苦笑いが出た。

 暮れ近くになると仕事を休んで餅つきの手伝いに行く坑夫が出てくる。まだこの頃には坑夫長屋で餅つきをする者などほとんどいなかった。少し前ならば金回りのいい組長や採炭所の幹部社員の家に、押しかけ同然に顔を出して、一臼か二臼ついては一杯にありつこうという連中もいた。しかし制度が変わってからは何かとうるさくなって、頼まれた者以外はそんな事もしにくくなっていた。
 坂本と顔が合った。消防組の部長の餅つきを手伝いに行ってきたという。
「世の中いうもんはおかしなもんや。米作っとる頃には餅どころか、米の飯食うのが大変やったわいね。それがどうや。米作りやめたらちょっと手伝いに行っただけで、駄賃がわりにこんなにもらえるんやから皮肉なもんや……」
 土産にもらったらしい餅の包みを振って見せた。そう言えば彼から何度か聞いた事がある。
 坂本は最初富山から移住して来た時、故郷と同じく米作りをするつもりだったという。しかしそれを一年足らずで見限ったのは、第一に本州とあまりに違う気候。第二にそれほど肥えているとは思えない土地。第三には信じられないほどの虫害。第四には小作の条件だったそうだ。
 何となく解るような気もする。しかしそれをたった一年にも満たない経験で決めてしまった坂本を、決断がいいのか軽率なのかよく分からないと思う事もある。
 今年の九月初め暴風雨で石狩川や夕張川が氾濫し、農村地域の大被害でこのヤマにどっと人が流れ込んで来た時、坂本はこんな事を言った。
「やア百姓しとらんで、つくづく良かったと思っとるがや。俺の入っとった辺りもすっかり泥の下になったと聞いて、今更やが身震い出とるがよ」
 一戸当たり五〇円と家族一人一〇円の移住旅費をもらい、小屋掛け料二〇円、開墾費一反当たり一円二○銭で農具貸与、三ヵ年間は小作料免除と聞いて、そんなに悪い条件ではないと思った。何とか三年間は辛抱して開墾し収穫まで頑張るつもりだった。
 はるばる海を渡って北海道に着いた時、何よりもその広さに驚き胸が躍った。だがつらい開墾作業が始まってすぐ、不安になるような噂を聞かされその実情も見せつけられた。
 気候の厳しさと開拓の容易でない事はある程度覚悟はしていた。今時そんなうまいばかりの話が転がっていると思うほど甘くも若造でもない。だが折角芽を出したばかりの野菜を根こそぎ食い荒らす夜盗虫(よとうむし)の大発生は、たちまち坂本一家を苦しめた。富山にいた頃噂に聞いたとのさまバッタはもう絶滅したとの事であったのに、代わりの虫がはびこっていようなどとは露ほども知らなかった。
 だが何よりも坂本の夢と胸算用を打ち砕いたのは、その地に数年前から入植していた先住者の暮らしぶりを目の当たりし、その人たちの話を聞いた時であった。
 米の収穫量は一反当たり一石四斗(二一〇キロ) 以上というのが平均と聞いていた。土地によってはそれ以上の所もあれば、その半分以下の場所もあるのは当然としても、平年であれば一石を切るなどは滅多にないとの事であった。それでも本州と比べたら随分と低い収量だ。
 将来は富山のような米作りをと目指して来た坂本だったが、入植早々水田に取り掛かれるなどとは思っていない。それにしても聞いているうちにだんだん暗い思いにとらわれた。
 三年前の二十二年は反当たりの収量は四斗七升に満たなかったという。その前の二十一年も七斗にはならなかった。にも係わらず小作料はそれほどまけてはもらえなかった。もちろん最初は反当たり二斗五升から九斗までを、田んぼの等級によって納める約束であった。不作の年は手加減するというのも当然その中に入っている。だがこれほどひどい収量になっても、全額免除になる事は絶対にないという。結局未納分は借金となりいつか支払わなければならず、その外の備品器具代自分たちの食い料も、当然の事ながら借金になって残ってしまう。
 これでは平年作以上あるいは豊作になったとしても、繰り越された小作料や借金を払うのに追われ、一体いつになったら楽になれるのか見当もつかない。
 家とは名ばかりの掘っ立て小屋に住んで、背中や腰がきしむほど働いても、まだ米の飯が食えないと嘆く先住者の話を聞くと、坂本は一緒に移住した兄一家と別れて、さっさと炭山へやって来たのだという。
「天気や虫でくよくよしとる百姓より、稼げは稼ぐだけすぐ金になる坑夫のほうが、俺の性に合っとるのかも知れんがよ。ま、もっと儲からんと話にならんのやが……」
 そう言って坂本は笑った。だがすっかり坑夫稼業が身についているような彼が、元々は地味な農夫であった事のほうが正造には想像し難かった。
 正造にも実はあれこれ迷った時期がある。今年の春の事だった。 国有未開地処分法が施行される事を新聞で知った時、秋田の兄たちに報せたものかどうかを考えた。せまい田んぼや畑にしがみついている兄たちに、北海道の土地が無制限無償で払い下げられる話をしたら、一体どう受け取るだろうと思いながらも、何故か筆をとりかねた。
 払い下げの条件というのは、当然の事ながら一定期間内に決められただけの開拓開墾をする事である。それが何とか可能な事なのかどうか正造には分からない。しかし広い土地への憧れや欲求は、生まれ育ちが農家であるだけに兄たちも同様であろうと思った。
 だが何となく吹っ切れないまま過ぎてしまったのは、炭砿に流れ込んで来る人々の中に、坂本のような集団移住からの脱落組がかなりあったからかも知れない。それだけ大変な仕事である事は想像できたし、冷害凶作、河川の氾濫、虫害の噂なども、内地とは比較にならない規模で襲いかかってくる事を、日常耳にしていたせいもあった。
 到頭兄たちへは知らせず終いになってしまった。

 正月は正造とふさが所帯を持ってから五年目で、初めて賑やかな過ごし方をした。北川にすっかりなついたゆきは、彼が来なければ一人で迎えに行く事もあったが、正月中は特に頻繁に出掛けて行っては彼を連れて来た。
 坂本夫婦も顔を出したしトミだけでなく喜八までもが来た。永岡も遊びに来た。さぶもわった源の家へ挨拶に行った帰りにやって来た。その他の坑夫仲間や石川飯場の連中も顔出しに寄ったりしたものだから、一日中来客の絶え間がないような日もあった。
 坑夫の家がどこでもそうであるように、正造の所でも毎日使う道具のセット、タガネ、鶴はし、まさかりや鋸などを、火作ったり磨いたりして手入れを済ませ、部屋の隅に立てかけて注連(しめ)を飾りお神酒を供えた。それにはゆきも幼い秋夫も絶対に手を触れなかった。ふさの躾けであった。
 一見引っ込み思案にも見えたふさだが、ちょこまかと歩き回る秋夫に気を配りながら愛想よく客の応対をした。その態度には特別の気負いやムリも感じられない。そんな事ができる女だとは思っていなかった。二人の子持ちになり忙しい明け暮れをしていれば、いつか世間並みの母親や女房になってゆくものなのかと思ったりする。だが一緒になった当時のふさを思えば、いつ頃からこんな変わり方をしたのかよく分からない。
 樽で買う筈もない酒なのに、いつ買いに行くのか一度も切らさなかったし、いつ作るのか正月らしい食べ物も手際よく客の前に出す。大してお喋りする訳でもないが、以前のように来客のたびに流し前に逃げだす、というような事ももちろんなくなっている。
 坑夫の女房たちのほとんどがそうであったように、盆正月といっても何一つ着飾る訳ではない。せいぜい水をくぐらせて小ざっぱりしたものを着ているだけだ。衿元に見える淡い紅色が日頃と違う唯一の彩りだが、それとても半衿代わりの別布であろう。髪だけはキリッと束ねているが、きちのように髷を結っている訳ではない。もちろん化粧などは論外で、祝言の時以来この五年間ただの一度も見た事はない。
 ふさが紅白粉を嫌ってつけないのであれば致し方ない。だがこの暮らしでは手が届かないと諦めているのならば、何とかしてやるのが男の甲斐性だろうと考える事はある。
 特に手入れをしているとは思えないふさの顔や手肌は、取り立てて色白でも艶やかでもない。だが正造に応えて熱く息づく夜、昼には見えないしっとりと潤うような柔肌となる事を知っている。そんなふさを少しは飾ってやりたい、と思わぬほど正造はケチでも無粋でもない。
 つい数年前の独り者だった頃、博奕はともかく酒や女にどれほど金を注ぎ込んだか知れない。今でも街の何々楼とかに、高い前借をつけて連れて来た妓がいるとでも聞けば、チラリと心動かない事はない。まして時折は嬶の目をかすめて悪所通いする男さえ珍しくはないこのヤマの事だ。呑んだ勢いで正造を誘う奴さえいる。もちろん応じた事はない。
 大体ふさは正造のする事に口を出した事はない。いいとも悪いとももちろん愚痴も言わないので、けんかになった事は一度もない。張り合いがないほど目立たない女であった。だが正造は、これまで知ったどの女からも味わった事のない不思議なものをふさに感じていた。
 それが何なのかは解らないが、生娘のまま正造と結ばれたふさが男を悦ばす術を心得ている筈はないし、夫婦の睦み合いで技巧を凝らすほどの知恵も経験もある訳はない。ただあるがまま飾らず自然に振る舞うふさのやり方が、何よりも正造を落ち着かせていたのは間違いない。
 口数の少ない母親が太鼓判を押し、それを心底喜んでくれた亡き父親だが、田舎娘のふさがこうなる姿をあの時から予見していたのだろうか。それにしてもたった一度の見合いで自分を選んだふさの胸の内が、今もって正造には分からない。それを確かめるつもりなどないが、今のところ他の女に目が向く事はまずもってないとはハッキリ言えた。
 とは言え正造はふさにただの一度もそんな気振りを見せた事はない。もちろん北川にさえわが女房の話など滅多にする事はない。だがもしこの先北川が嫁をもらう相談でも持ちかけてきたならば、きっとふさを物差しにしてあれこれ比較してしまうのは間違いなかった。
 この春せめて桜の咲く頃までには、ふさに着物の一枚も買ってやれないものかと秘かに思っていた。ただがむしゃらに稼ぐしか能がないのも情けないと思うからだ。

 年始に来た永岡は、部屋の隅に積んであった北海道毎日新聞を見て言った。
「三原さん、勉強ですな。どうですかこの新聞は?」
「どうも何も、これしか読んでねえから……」
 新聞なんてどれも同じようなものなのに、何故あんなにたくさん の種類があるのだろうと正造は日頃から思っていた。
 永岡は頷きながら新聞を読んでいたが、顔を上げた。
「やっぱり、鉄道の国有論が騒がれてますな」
「……ンだなス」
「炭鉄の井上専務あたりが、相当に動いているようですね」
 正造も去年あたりから頻りにそんな話題が新聞に取り上げられている事は知っている。だが自分の会社である炭鉄に関する記事として読んだ事は、まったくと言っていいほどない。
「さア、俺ラには……」
 最初は幌内から手宮まで九〇キロ、官線だった鉄道が払い下げられて北有社となり、次いで現在の北海道炭砿鉄道株式会社となった事は誰でも知っている。
 北有社時代、幌内から幾春別まで七キロ延長していたのを含めて九七キロの鉄道が、発足時の炭砿鉄道の総延長距離だった。その後室蘭岩見沢間、更に追分夕張間、岩見沢空知間の支線工事が完了した時は全長三三〇キロにも及び、停車場や付属施設を増やし、手宮や室蘭の海岸を埋め立てて広い土地を造ってきたのも、みんな炭鉄になってからの事である。
 官鉄時代、雪が降れば札幌から幌内太の間は翌年の五月頃まで運転休止が続いた。十一月頃になると各停車場には次のような張り紙が出された。
 [積雪の候に近寄り候につき、何時札幌以東を閉場すべきやも計り難く、此の段広告候なり]
 この掲示が出てきた事で人々は冬が近い事を知り、幌内付近では米の値段が、一升で一五銭や二〇銭ぐらいすぐハネ上がったとも言われている。
 村田堤らの手に移った北有社時代でもこの冬季休業は変わらなかった。それが又営業不振や利用者からの不評の原因ともなった。
 堀基の炭砿鉄道になってからはそれを次第に改め、よくせきの大雪でもなければ営業を休止するような事はしなくなった。ただ札幌から小樽へ向かう途中の銭函張碓(ぜにばこはりうす)間に一つの問題を抱えていた。
 この辺りは険しい断崖に日本海の荒波が打ちつける急峻な地形であったが、官線敷設当時ここにレールを敷くのは時間や金がかかり過ぎるとして、海沿いの道路をそのまま鉄道にしてしまった。ところがたまたま鉄道が開通した翌年は、その辺り一帯がひどい不漁で鰊が取れなかった。これをもって、汽車が走る響きに怯えて鰊が近寄らないのだと憤激した漁民が、張碓(はりうす)のトンネルを潰してしまえと押し寄せたのだ。これを警官と官吏が必死に説得して阻止したという事件があった。

 この官線時代のしこりが永く残ってたやすくは解けず、炭鉄に経営が移ってからも、練不漁のたび毎に鉄道排斥運動が持ち上がるとの事であった。
 とは言え次第に奥地へと広がってゆく入植開拓の後を追って、鉄道も北へ或いは東へと延びていった。それに連れて商業地図は大きく変化しその利益と功績は量り知れないものがあった。だがどこよりも目に見えてその恩恵をうけたのは、札幌小樽やその付近に住む人々であったに違いない。
 人とともに農水産物、商工品の輸送流通はそのまま金の流れだ。汽車が走るたびに札束が運ばれ人々が知らぬうちに世間が潤されているのだ、という新聞投書を読んだ正造はなるほどそんなものかと感心した事がある。
 汽車などという便利なものができる前はどこへ行くにしても歩くのが当たり前で、乗物と言ったら馬か駕籠、当節やっと普及した人力車も大きな町以外での営業は少ない。
 正造の故郷では汽車を見た事のない人のほうが多くて、汽車汽船に乗って帰って来た話をするだけで、兄たちや親戚の者に非難の目を向けられた。
「高え金とられるンだべにもったいねえ。何のために自分の足持ってるンだや……」
 歩くより何倍も速い汽車で往復し、早く着いた時間だけ稼げば払った汽車賃のモトはとれる、と何度説明しても納得してもらえない。半季か一年の収穫を節季で清算する村の人々には、時間を金に換算する理屈など中々呑み込めなかったのであろう。
 鉄道の発達はやがてこんな人々の暮らしやものの考え方も、根こそぎ変えてゆくに違いないと利用してから正造は思った。そのうちその便利さに対して、村の人々も金を払うようになるだろうと思うしかなかった。
 それにしてももっと運賃が安くならないものか、と思うのは一人正造だけではあるまい。本州に余っている物を北海道に運び、北海道で採れる物を本州に安く運べたらとまでは誰でも考える事だが、そのためにどうすればいいのかとなると、到底正造の頭の及ぶ事ではない。
 炭鉄は日清戦争の終わり頃それまで無料にしていた未加工農産物の輸送を、一月から通常運賃の四分の一取ると発表した。
 官営から私営として炭鉄に払い下げる時の条件に、他府県からの移民は無料に、未加工農産物は半額にという運賃の取決めがあった。それを炭鉄は、自社の石炭輸送に支障なしとみて無料にした。
どうせ大した人員や数量になるまいと楽観した向きもある。
 ところが戦争が始まるや否や人々の移住は増え農業開発は進み、農産物の輸送量は急激に増加した。それを見た炭鉄は農業移民の運賃は今まで通り無料とするが、未加工農産物の運賃は規定の四分の一だけとる事にすると発表したのだ。途端に炭鉄を非難する声があちこちから一斉に上がった。
 官有物をタダ同然に払い下げさせ、それで儲けている炭鉄は従来通り農産物の輸送は無料にせよ。
 この戦争で炭砿の景気がよくなった炭鉄は、鉄道運賃を取るべきではない。
 こんな内容の記事が時折新聞に載るようになった。だが次第にそれだけでは済まなくなり、炭鉄を攻撃する内容や方向が複雑になってきた。
 手宮とか室蘭の港湾付近が開けてくるに連れて、次第に土地がなくなってきた。やがて海岸を埋め立てて用地を確保しなければならなくなった。その一番条件のいい場所を、ほとんど炭鉄が貯炭場やそれに伴う施設の用地として独占している、という何やら含みのありそうな非難であった。
 その上更に話を複雑にするのが、全国の主要私鉄を国が買い上げるという[鉄道国有]論議である。
「元々は国が造った鉄道とは言っても、一旦は民間に払い下げたんだから、自分のほうの都合だけで返せいうんだったら、こんなバカな話はないと思う。まア一応は戦争やった結果、国有にしなけりゃならん訳ができたと言ってますが、何かわれわれの知らん駆け引きを、政府と議会でしてるような気がしてならんのですよ。そう思いませんか?」
 永岡にそう訊かれても正造には答えられなかった。それに鉄道国有論などと言われても、話が大きすぎてどこにどんな風に取りつけばいいのか見当もつかない。
 フッと中田秋介の顔を思い出した。鉄道や汽車の話題になると不思議に彼の事が頭に浮かんでくる。口を利くキッカケが追分までの車中であった事や、炭鉄の初代社長堀基が路線変更の責任を負わされてクビになった背景など、詳しく教えてくれたのが彼であったせ いかも知れない。
 思い出した途端急に会いたくなった。彼ならば新聞記者という職業柄、こんな話題でも解りやすく説明してくれそうな気がした。彼にあやかって名前をつけた秋夫だが、彼のように爽やかで正義感に 溢れる男に育って欲しいと更めて思った。
 永岡は夕張の山中友子がまとまっていない事を嘆き、正造が新大工世話人の補佐を引き受けたこの機会に、もっと役付きらにいろいろいうべきではないかとしきりに繰り返した。それを言いたくて正造の所に来たらしい。だがそれが意外に難しい事を知っている正造は、返事をあいまいにしておくしかなかった。
 さぶがわった源の家に新年の挨拶をしに行った帰り正造の所へも来た。一緒にやって来たのは、去年春から手子として岩田の組に加わっている川原だ。年は三○前後で正造と同じぐらいのようだが、津軽弁で結構喋る割にはちょっと正体の知れない男で、三番坑の上にある飯場に住んでいる。
 青森から毎年のように江差辺りへ鰊漁目当てにやって来る出稼ぎ組の一人だったらしいが、近年の不漁続きで漁場稼ぎを見限ってこのヤマに来た、というぐらいの話は聞いていた。
 正造の家に来たのは初めてであった。槌組の頭であるわった源の家で呑んでいたが、さぶが帰る時誘って来たようだ。すぐ酒になって、さぶが身振り手振りでわった源の真似をやりだした。もう大分酒も回っているのだろう。
「こらッ、いいかお前えら!酒だバ仕事だバ女だバ、なんもかんもみんなおんなじえンたもんセ。まンズわったわったど腰使わねバまいね。ンがだ(お前ら)は本気で腰使ってらか?……。こうだも、なア川さん。話が、すぐあっちのほうサいくんだ。いっちょう若え者に手本バ見せでやっか。オイ、ってかあちゃんの尻(けつ)バ撫でて、思いっ切り引っぱたかれてたよ」
 正造もふさも吹き出した。毎日呑んではいても滅多に大酔した事のない岩田の親父だが、正月ぐらいはメチャクチャに酔っぱらうのだろうか。かみさんにふざけかかり、挙げ句に小突かれて引っ繰り返る無様な姿が目に浮かび、みんなして笑い転げた。
 川原はさぶの話に相槌を打つだけでにこりともせず、じっとゆきや秋夫の姿を目で追っている。
「川、お前えは河内だったかや?」
 飯場の名前だ。やはり元の組長の名で呼ばれているのは石川や松尾と同じで、前と変わらない。
「ンでせ」
「わらし、好きかや?」
 正造が突然訊いた。川原は一瞬驚いて顔を上げたが、とっさには 返事ができなかったようだ。
「……ン? イヤ。まンズ嫌いではねえンだども……。オラ、飯場 だハで……」
 何だかよく分からない返事だった。だが正造は返事よりも彼の視線や態度のほうが気になった。
「そうそう、岩田のおどだけどよ。ただの呑ンべえだと思ったら、女の噂にも耳早いんだな。なんでも石川飯場にえらい別嬪いるんだってよ。聞いたかい正さん?」
 突然さぶが素っ頓狂な声を上げた。
「イヤ、聞いてねえ」
 正造はそんな話を耳にした事はない。
「おどの話だとよ。この頃石川のまわりに用もねえのに若え者がウロウロしてるんだと。その別嬪バ見たくてよ。さンぶ、お前えも早く行って場所とらねば、外の野郎にその別嬪バ取られるどっておどかされたよ。まったくおどにはかなわねえよな正さん」
 川原がゆきのほうから目を移して言った。
「オラどこの飯場でも評判立って、石川サ移りてえって喋ってらがいだ」
「そんなおなごいだかなア石川に。暮れに俺ラも行って来たども、そった話聞かなかったでや。北川もなンも喋ってなかったし……」
 言いながら正造は思い出した事がある。大集会の帰り賄い場の入口から入っていった若い女の姿だ。月の光が雪に映えてかなり明るかったとは言え所詮は夜の事だ。近々と見た訳ではないから、そんなに騒がれるほどの別嬪であったかどうかは分からない。それにその女だったかどうかも分からないが、そう言えば確かに見慣れない女だったような気はした。
「川さん。帰りに石川サ寄ってみるかい? もしかしておどがホラこいだ(ウソついた)んだら、一発文句言ってやるべよ」
「オラいい。お前え一人で行ってこいじゃ」
 正月の浮かれ気分と酒の酔いも手伝ってか、さぶはホントに一人で出て行った。後に残った正造と川原は、さぶが再び大騒ぎしながら報告に戻って来るものと思い呑みながら待っていた。
「川よ。お前えが稼いでだのは、どこら辺の漁場な?」
 仕事の行き帰りや一服の時などに交わされる話の中身は、立ち入った身の上話や深刻な生い立ちの話は相応しくない。どうしても面白可笑しい事件や、他人の色事の噂などがまな板にのるほうが多い。本人が切り出さない限り槌組同士の事を、あれこれ訊いたりはしないものだ。それでもどこからか入ってくる噂で、何となく詮索が始まるのも多くの場合酒が入っての事だ。
「五、六年は江差の辺りばっかりだったども、去年の春は積丹だった」
「鰊、ダメだったのな?」
「うん。もう明けだからおとどしになるかや。江差はまったく取れねがった。前金はもらってあったども、後金だばニスン取れねえのに何とすて払えばいいんだや、って網元は怒鳴るばっかスで話にも何もなんねがった。オラだちだって何とせバいいんだや? 国サ帰るどこでねかったのしゃ……」
「帰ンねがったのな?」
「ようやっと帰りの船賃だけで、帰れるもんでねえ。あっつこっつで拾い出面の土方やったり、小樽で仲仕やったりしてだ」
「去年の積丹もか?」
「小樽から二月頃古平(ふるびら)のほうサ行った。オラ毎年来てだから、建て込みの人夫からやれば銭ンコになるのは知ってだし、四月までけっぱった。一稼ぎしたらハア津軽サ戻るつもりであった。ンだども、僅ンつかばりニスンきただけでハア、ホッケがきてすまった。オラ、もう諦めですぐ又小樽サ出た。まんま食えねえもの。それがらニスン場稼ぎやめで、募集サ掛かってここサ来たのセ」
 鰊漁場への出稼ぎは、早い者は漁場準備が始まる二月初め頃から行く。この場合出稼ぎと言っても本職の漁師が主で、傷んだ網のつくろいから練を運ぶモッコ(背負い箱)作り、漁場の整理、身欠きを作る干し場の手入れなどから始める。
 次いで、仕込みや網の建て込みをする者が三月初めから中頃にかけて漁場に入り、仕込みを建てる事になる。建網一統に対し船頭が一人、下船頭が一人、漁夫とか雑夫を含めて二、三〇人ぐらいが一組になる。かなり熟練した者が中心となって指揮をとり、ひたすら鰊の<ruby>群来<rt>くき</rt></ruby>を待つ。網を入れた後は昼夜の別なく監視を続け、初鰊のかかるのを待ち続けるのだ。
 初鰊はかなりまとまってくる事もあるが、大体は数えるほどしか取れない。だがたとえ一○匹でも二〇匹でも初鰊が網にかかったら、それから数日前後で必ず群来る。初鰊とは群団の露払いなのだ。
 遠くから眺めても海の色が変わり、時には僅かながら海面が盛り上がって見える大群団の集来は、魚影に敏感なゴメ(かもめ)が喧しく群れ飛んで知らせる。群来を告げる望楼の見張番の叫びと鐘太鼓で、浜や漁場はたちまち様相を一変させて、さながら戦場の騒ぎと化してゆく。
 沖で網起こしが始まり、その鰊を汲んで(すくって)一旦は枠網に移す。こうなると漁師もヤン衆も眠る暇もなくなってゆく。一度 群来ると、鰊は次から次へと休みなく押し寄せてくるからだ。
 鰊を満腹に呑み込んだ枠網は、杭から外されて親船か曳き舟につながれる。代わりの新しい枠網を建て込むと、曳き船は満杯の枠網を曳いて浜まで運ぶ。
 浜で待ち構えているのは、多く三月過ぎにやって来る出面の人夫 だ。彼らはポンダモと呼ぶすくい網でモッコに移した練を、ただた だ廊下(処理場)に背負い込むだけである。
 この廊下とよんでいる作業場は、生鰊を一刻も早く加工するための場所だ。ボヤボヤしていると餅が腐って売り物にならなくなる。つぶし鰊、目刺し、身欠き、鰊粕、魚油、数の子や白子の処理など、何よりも早ければよしとする凄まじい労働が始まる。女子供年寄りの区別なく、体の動く者は病人以外全員駆り出されてしまう。だがその人々の賃金はすべて現物の鰊で支払われる事になる。
 浜の露天に据え付けられたいくつものかまどから立ち上る煙は、直径一メートルに余る大鍋で煮る鰊の匂いと混ざり合って、初めての出面人夫が吐き気をこらえきれなくなるほどの悪臭を放つ。だがじきに慣れさせられる。慣れなければ一日も勤まらないし浜に近づく事もできない。
 煮上げては角胴と呼ぶ絞め器にかけて油を絞り、その粕は絶好の肥料となるため角形に固められたまま干される。これ又乾くに従って別の異臭を放ち、絶え間なしに動き回る人々の体にまで染みついてゆく。
 腹を割いて数の子白子を出す者、縄にかけて干し上げ身欠き鰊にする者、目刺しにする者、塩漬けする者、手の余る者はない。小学校も臨時休校となり、宿屋の女中、役場の吏員、坊さんまでもが動員され鰊粕魚油の加工を手伝ったりする。
 荷造り積み出しも又大変で、こうした重労働は全部季節稼ぎの人夫の仕事でもあった。大体が三月末から四月いっぱいが普通の漁期だが、時によって五月にずれ込む事もあり、豊漁であればかなり仕事が残って、六月過ぎても網干しができない年もあった。
 群来が始まって二、三週間から一ヵ月、戦場騒ぎの波は魚群の厚さで何度かの大勝負を繰り返し、次第に群来は薄くなってゆく。そのうちにホッケが網にかかるようになり、人々はそこでようやく鰊漁の終わりを知る事になる。
 この体長四〇センチにも達するホッケという魚は、脂がのっていれば鰊とは違うこってりした旨さがあり、好む人は結構多い。しか しこのホッケが、沿岸近くの海草に産みつけられた鰊の卵を狙って やってくる事を、漁師なら知らない者はない。常に嶼群団を後ろか ら追っ掛けているホッケが、鰊漁の終わった事を知らせる目印となる。この魚が獲れ出したら幕を引くものとして漁場の後片付けに入るのである。
 だが鰊が中々やってこない年も当然ある。それでも浜の人々は鰊が必ずやってくると信じて待ち続ける。その期待が祈りに変わっても沖を眺めながらひたすら待つ。そんな時でも、ホッケは情け容赦なく鰊待ちの徒労を嘲笑うようにやってくる。
 一見猛々しい面構えをしたこの魚を、地獄の使いだと憎んで散々に踏みつける漁師や船頭もいた。豊漁の年であれば、この魚の姿に一区切りのホッとする思いや、土産や帰る日の楽しみを思い描く出稼ぎ人夫もいたに違いない。だが不漁の年のホッケはその姿形すら嫌われた。
 莫大な借金をして一網千石に賭けた網元の中には、この魚を見ただけで夜逃げをしたり、首を吊る者さえあったという。
 「お前え……。青森に、家族いるんでねえのかや?」
 川原はゆきのほうを見ながらしばらく黙っていた。
「……。今更、帰れたもんでねえのしゃ……」
「何ンでだや?」
「……。当てにした銭ンコはハア稼げねかったし……。そっつこっつまくれで歩いで、三年もハア家明けでしまったし……」
「便り、出さねかったのな?」
「オラ、字書けねえし、あっぱも読めねえ……」
「ンだども、何かほかに手ェあったんでねえのかや!」
 正造は思わず声を荒らげた。前後の事情は分からないが、彼のやり方はいかにも無責任だ。だが川原はそれには何も答えないで、只じっとゆきを見ている。
「わらし、いるんだな?」
 彼の素振りから見て間違いないと思った。
「めっけわらし(女の子)が、一人いた……」
 ボソッと呟くように言った。だが正造はいたという過去形の言い方にドキッとした。
「いたって……。死んだのか?」
「イヤ、わがんねえ。死んでるんだか生きでるんだか……」
 切れ目なく訪れた客を相手に呑んだ酒のせいで、正造はいつになく彼の話にこだわりしつこく問い質した。
 明治二十九年の暮れ頃、毎年人集めにやって来る周旋の北海屋と契約し、前金は故郷青森で受け取った。翌三十年二月江差に向けて出発する直前、四つになる一人娘が病気になった。日頃からあまり丈夫でない娘だったが、その時は特に容体が良くなかった。しかし約束の出発日がきたら、前金をもらっている以上出掛けない訳にはいかない。支度に使った残りを渡し、五月までには必ず帰るからと弁財船に乗り、例年通り江差に向かった。
 三月に出る中金もあるが、僅かばかりなので小遣い程度にしかならない。後金も契約額の残りをもらうだけにすぎないが、もし今年も大漁であれば、九一(くいち)と呼ばれる臨時の歩合がたんまりと入る。それが何よりの楽しみで出稼ぎ漁夫を続けていると言って いい。
 ところがその年は散々の不漁で地元の漁師すら夜逃げしたり、函館や小樽辺りへ奉公に出すと偽って、わが娘を売る者さえあった。
 川原にとっては初めての経験だった。手紙を書けない川原は、どこか他の土地で一踏ん張りして必ず金を持って帰ると、同じ村から来た男にわが家への伝言を頼んで北海道に居残った。
 だがどこで何をしてもうまくいかなかった。わが身一人食うのが精一杯でとても金を残すどころではない。年が明けて今年こそはと積丹に向かったが、又しても不漁に見舞われてしまい、帰る潮時を失ってしまった。
 小樽に出てうろうろしている時に炭山への坑夫募集に出会い、思い切ってこのヤマにやって来た。始めは漁場同様に短い期間を手荒く稼いでサッと引き揚げるつもりであった。だがそう目論見通りにゆく筈はなく、出るも退くもならないままの飯場暮らしとなった。

「その子は、今なんぼになるんだや?」
「……今年から、多分尋常科さいく筈であったども……」
「長屋借りで、呼んでやる気はねえのかや?」
 正造の問いに対して答えはない。ただ黙ってゆきや秋夫が遊んでいる姿を見ているだけであった。
 否応なしに聞こえる一部始終を耳にしているふさは、事が子供に係わるいきさつだけに胸痛むものがあるのであろう、眉をひそめながらも精一杯こらえる気配を見せた。
 さぶは到頭戻って来なかった。目指す別嬪に出会ったのか、あるいはその辺で別の仲間にでもぶつかって、どこかへ流れて行ったのかも知れない。顔が広くて付き合いのいい若者だったし、おまけに浮かれ気分の正月とあればあって当然の事だろう。足どりも行く先も定まらない一杯機嫌の鉄砲玉をいつまでも待てず、川原も間もなく帰って行った。

 何かがあって忙しかったのか北川に会ったのは、松が取れ友子の取立式も終わった大寒近くの頃であった。さすがにその頃になると怠け癖のついた正月気分に気合を入れて、坑夫は否応なしに稼ぎに戻るしかなくなっていた。
 わらじの下で雪がキュッキュッと鳴くほど凍れる朝だった。坑口に向かう輸車路沿いの道で同じ飯場の若い者と歩いていた北川を、正造は気付かずに追い越した。
「おい三原!」
「おう北川か。凍れるなア」
「お早うござンす」
 北川と並んでいた若者が丁寧な挨拶をして間を空けた。自然に正造と北川は肩を並べる形になった。
 いつの間にか正造は若者たちにそんな扱いを受けるようになっていた。もっとも正造自身はそれがどういう事なのか気付いてはいない。
「お前え、この頃顔見せねえな」
 正造がいうと、北川は首をすくめたまま返事した。
「ンだなア。だども、正月中はむったり面出してだから、ふさちゃに悪くてハア......」
「何喋ってるンだお前え。たまに顔出さねば、却ってふさはむくれ るど。ゆきは行ってるのかや?」
「この頃はよ、ダメだって喋っても一人で来るからなア。それにゆきは飯場の人気者だや。あの後家ばあさんのとくさんがよ、ゆきバめごがって放さねえのセ。ゆき喋ってねかったかや?」
「イヤ、何ンも聞いでねえ。それより、たまには飯食いに来いでや」
「あア、そのうち行く」
 ゆきはこの頃いっぱしの大人のような口を利く。正造のやる事でも気に入らないと平気で文句をいう。明けたからもう五才(満四才)になる。もしかしたら親に逆らいだす最初の年頃というべきか。そうでなくても男の子のように活発な娘なのだ。それが飯場の大人たちの目には面白く映るのかも知れない。
ゆきがあまり生意気にならないうちに、少し厳しい躾けをしたほうがいいかなと正造は思った。

 石炭の需要が増してくるに連れて、会社は様々なところに手を加え改良を目指してきた。当然の事ながらまず採炭の方法が見直された。これまでの残柱式や柱房式の採炭は、素人にも解る単純な方法である代わり、大部分が掘り残しとなるため実収率はすこぶる悪い。切羽全体で炭量の二、三割しか採取できない現状では、炭鉱の将来から考えても莫大な損失に違いない。その上一旦空気に当たった石炭はやがて酸化発熱し、自然発火の原因となる場合があり、保安上由々しき問題でもあった。
 その外に柱房式切羽の最大欠点である通気の悪さから、浸出ガスの溜まりや澱みを作ってしまう事が多い。それが原因でガス爆発を起こせば、すべての損失は量り知れないものになる。
 これが会社にとって何よりの痛手になる事はいうまでもない。そんな訳で、坑内作業を全部機械でやらない限り絶対に欠かせないのが通気である。どんなに深い現場や坑道にも、おか(坑外)と 同じ空気を常に隅々まで流通させなければならない。それが地中から滲み出てくる爆発ガスを散らし、あるいは薄めておかに放出する事になって爆発の予防となる。人間に対する危害予防もさる事ながら、会社は爆発による坑口閉鎖を何よりも恐れる。
 つまり坑道がどんなに長く深くなっても、常に一本の管と同じような風を流すのが理想の通気計画である。つまり一方の口から吹き込むか、あるいは吸い出すかすれば、空気はムリなく流れてガスが 溜まる事などなくなる。
 大量の出炭を求める余りやたらに柱房式の切羽を作れば、あるいはガス爆発の原因を作るのと同じである。採炭所幹部もそれを承知していながら、本社の増産要求に合わせて切羽を増やしていたのだ。坑夫の中にさえその事に疑問を持つ者はいたが、会社のやり方に逆らえる筈はない。
 だが会社もたび重なる事故や災害の繰り返しで、否応なしに従来とは別な対策を迫られたのだ。そこで各所に分散している切羽を、
なるべく少ない個所にまとめるようにした。そうすれば通気のムダも少なくなり効率もよくなってくる。その上で更に大型で高性能な扇風機を設置すれば、坑内通気は確実に今までよりもその質が高ま り、ガス爆発の危険も少なくなるであろうという計算であった。
 切羽がまとまって大きくなるに連れて、掘った石炭の運搬も、これまでのように人手や馬などに頼っていたのでは到底間に合わない。何とか機械や動力を利用して能率を上げる計画も検討された。
 手掘り中心の採炭や掘進も、消炎ダイナマイトによる発破や掘進機器の利用を増やし始めた。そうした機械設備や器材建物といった生産への投資は年毎に増え、飛躍的に進歩変化しつつあった。
 そうした事は何も炭砿だけに限った事ではなく、日清戦争を境にした国内産業全体の傾向でもあった。その現象の一つが、地方から都会へと移動する人々の激増ぶりであろう。多くは戦前までほんの一部でしかなかった工場の職工や女工となるため、男は戦後急速に 増えた重工業へ、女は紡績工場へと吸い込まれていった。
 中でもある時期における紡績女工の数は、職工全体の六割にも達 した。それだけ紡績製糸は時代の花形産業であったとも言えよう。だが女でもやれる、女だから安く使える、という使用者側の論理 が、この産業を押し上げる要素の一つであった事もある。
 その紡績を追うように石炭産業が伸びていった。双方とも日清戦 争の賠償金二億テールと、講和条件の一つ揚子江沿岸の市場開放が もたらした、大陸への商業進出の影響があったのであろう。それはともかく炭砿の坑夫たちは、自分たちの周辺に新しい機械や設備が増えてゆく事に、妙な不安を感じ始めるようになった。今 までより少しは楽になった筈だし、確かに仕事の能率も上がってきた。だがその割にしては手にする稼ぎがよくなっていかないのだ。もしかしたら機械や器具に、自分たちの稼ぎを吸い取られているの ではないか。そんな疑いを口にする者もあった。
 炭鉱はその多くが、都市や人口密集の工場地帯から遠く離れた山間僻地に存在している。しかも特異な環境や状況の下に作業をし、日常の暮らしを立てなければならない。どうしても他との交流は薄く、情報が入りにくい条件にあるのは致し方なかった。
そうした離れ小島の如き不利を逆手にとって、会社は生産や運搬のためには惜しまず使う金も、従業員のためには中々使おうとはしない。
 長屋宿舎が何よりいい例である。笹葺きが柾葺き屋根に変わった くらいで、人間らしい住まいに改める気は会社にまったくないとしか思えなかった。それでも強いて上げれば、一六戸あるいは二〇戸で一棟だった棟割長屋は建てられなくなり、代わって八戸とか一○戸長屋が建ち始めたというぐらいのものであった。
 それも好況に連れて従業員が増えたため、どうしても長屋を増やさなければならなくなり、最も不満の集中した棟割をやめるよう進言されたからに外ならない。決して会社の自発的配慮ではなかった。従って煮炊きのたびに、屋根の隙間からもうもうと煙の出る開 墾地さがらの風景は、一向に改善されてはいなかった。
いつの間にかわった源の槌組も人数が増え、七人にもなっていた。
  正造には岩田の組から出て三原組を作ったらどうだ、と会社から 言ってきた。自分の組を起こすにはいい機会であった。わった源も そう勧めてくれたが、正造は考えるところがあって、すぐ飛びつくような返事はしなかった。頭になれば今より間違いなく高い割当を得られる魅力はあったが、それだけで会社の指示による相棒と組まされたりしても、中々うまくいかないのを知っていたからだ。
 そろそろ春の彼岸が近づいてきた。夕張の谷間はまだまだ深い雪に覆われていたが、日中の日差しに時には少しばかりの温みを感ずる事もあった。それでも夜中が強い吹雪に見舞われる日もある。そんな朝には、吹き溜まりのどこかに必ず鋭い雪庇ができる。それが恐いほど尖って冬の厳しさを思わせたりしても、昼までは持ちこたえられない。だらしなく融けたその庇<ruby>漢字<rt>ひさし</rt></ruby>の下から、黒い煤の跡を幾筋も浮かび上がらせて、待ち焦がれた春の気配をそこはかとなく感じさせる。
 日のあるうちは行き交う人々の顔も、心なしか和んで見えてくるから不思議であった。
 ゆきが生まれて四度目の誕生日がもうすぐだった。それを特別に祝う習慣はこの地になかったが、子供の成長で知る事は無数にあるものだ。珍しく明るいうちに帰って来た正造は、ゆきの不思議な仕草を見た。一緒に遊びたがる秋夫の手出しを防ぎながら、しきりに新聞を覗き込んでいるのだ。
「秋、ダメッ!」
「ゆき。遊んでやれ」
 正造が見かねて声をかけた。
「秋は、新聞やぶくンだもん」
 見ると、ゆきは精一杯手を広げて新聞の上に囲いを作っている。その囲いの中に入ろうと、秋夫は懸命にゆきの手を越えようとしている。
「新聞だバ、破いたってなんぼでもあるんでねえかや。ホラ」
 部屋の隅に積んである別な新聞をとって秋夫に与えようとしたが、秋夫はゆきの新聞を欲しがってむしゃぶりついてゆく。そうされてもゆきは一心に新聞に目を凝らし、まるで読んでいるような目つきをしている。
「何見でるンだ、ゆき?」
「新聞読んでるの」
 顔も上げずにゆきが答えた。
「新聞読んでる?……。まさか?……。オイ、ふさ!」
 台所で夕飯の支度をしているふさに声をかけた。 背を向けていても部屋の中の情景など、手にとるように見えているふさの返事は事もなげだった。
「あア。ゆきはこの頃、字読めるみたいだよ」
「えッ。お前えがおせえだのな?」
「イヤ、オラはおせえでない。どっからか覚えできたみたい。もしかセバ、北川さんでねえのセ?」
 確かにゆきは誰にでも可愛がられる娘だった。人見知りや物怖じもせずどこへでも行くからだろう。隣の鶴吉や義二と遊ぶせいばかりでなく、生まれついてのヤンチャ娘は、手荒い坑夫たちの好みに合うのか、メソメソする女の子より人気があるようだ。この近所ばかりでなく、北川のいる石川飯場にも顔見知りが大勢いるらしい。
 ふさに代わってたまには正造が風呂に連れて行く事もある。だが男湯の中でも断然の人気なのだ。
「ゆき!」「ゆきちゃん!」
 正造の知らない男たちに次々と声をかけられる。その一人一人がゆきを膝にのせて背中や体を流そうとする。ゆきは小さな掌にお湯をすくって男たちの顔にかけたり、持っている手拭いでピシャリと叩いたりする。正造が叱りつけて手を引っ張ると、決まったように男たちはいう。
「いいんだってば、なアゆきちゃん……」
 ゆきのいたずらっぽい反抗を一層嬉しがって、尚の事顔を突き出したり大仰な歓声を上げたりして、ゆきとじゃれ合う男たちもいる。
 ゆきを通じて知り合った顔もある。
「ゆきちゃんのおどさんかい?」
 更めて親子の顔を見比べられた事もある。
 ふさが教えたのではないとすれば、そんな人々の中に誰かゆきに字を教えてくれた人がいる。それも一度や二度の回数ではない筈だ。始終顔が合いゆきを可愛がってくれる人と言えば、ふさのいうように北川かも知れない。
「ゆき。とうちゃんサ読んで聞かへでけれや」
 去年あたりまではおどだったが、ある時裏のトミに注意されてし まった。
「ふさちゃん。子供ン時に馴染んだ名前や呼び方は、大きくなっても中々直せないもんだよ。お父っつあんとか、おっ母さんとかは言いにくいだろうけど、せめてとうちゃんかあちゃんぐらいは、今のうちから呼ばしたほうがいいと思うよ」
 始めは照れくさがっていた正造たちも、トミに教わった通り「とうちゃん」「かあちゃん」と呼ぶゆきの声に慣らされて、いつからか自分たちも自然と口にするようになっていた。
「うん」
 ゆきはまず広告の大きな字を指さして、得意気に大声を張り上げた。
「たんせき。ふくほうあんそくがん。ねしょうべん」
 両隣や裏にも聞こえるような声だ。正造は目を凝らしてゆきの指している新聞を見た。確かに「たんせき」「複方安息丸」とある。 振りがながあるのでそっちを読んだに違いない。但し次の「ねしょうべん」は「ね」の字が変体がなであった。
 びっくりしてふさのほうを振り返ったが、ふさは知らん顔で食事の支度を続けている。
「せきどめ菓子。コッポ氏発明……。とうちゃん、この字なんて読む?」
 続く字を指先で押さえている。見ると壹瓶と難しい字で書いてある。この場合で言えばひとびんと読んでもいいような気がしたが、それをゆきに説明するのは難しい。文字通りいちびんと読んでやる。
「いちびん、二○銭……。はやりかぜにきこうさん……」
「何だ、薬の広告ばっかりでねえか。誰に字おせえでもらったんだや。ゆき?」
「ンーとね。とくさんとね、かよこねえちゃん」
 どうやら北川ではなくて賄いのとくのようだ。 この辺りでは珍しく訛りのない言葉でポンポン浴びせかけるとくは、ピシャリと痛いところをつくとかで飯場の若い者も中々言い返せないという。多分その仕返しが後家ばあさんという綽名になったのだろう。
 口調も気性も荒く手のつけられないがさつ者も多かった飯場衆相手に、口では一歩も退けをとらないどころか、互角以上に渡り合う度胸のよさは、数あるヤマの飯場中に鳴り響いていたと言っていい。その割に憎まれていないのは、どこかに陰口と違う何かがあっ たのかも知れない。
 正造がこの長屋に越してから二年ほど後に石川飯場の炊事婦としてやって来たが、その時すでに独り者であった。後家ばあさんの綽名からすれば元は亭主持ちであったのだろう。だがばあさんと呼ば れるにはまだ早く、その気になればまだまだ男で一苦労あっても不思議ではない年格好であった。
正造はとくについての噂話や陰口は耳にしていたし、しょっちゅう北川の所に出入りするのでもちろん顔も知っている。だがほとんど口を利いた事はないし、とくが自分を知っているとも思えなか った。
 そう言えば、いつか凍れる朝に珍しく出合った北川の口から、ゆきが飯場の人気者でとりわけ後家ばあさんのとくから可愛がられている、と聞いた事を思い出した。
しかしゆきの口から出たもう一人の名前、かよこねえちゃんについては全く心当たりがなか
「かよこねえちゃんて誰だや。ゆき?」
「ンーとね、ゆきに字おしえてくれるの。ゆきね、字書けるよ」
 部屋の隅に積んである行の陰から、顔まで入るほど深く手を入れて新聞包みを取り出してきた。秋夫のいたずらを嫌って奥深く隠したつもりなのかも知れない。
 新聞紙をうまく折って作った袋ものだがまるでカバンのようであった。ふさの手作りに違いない。その中から何の紙かほぼ同じぐら いに切り揃えた束と、ようやくこの頃あちこちで見かけるようになった鉛筆を取り出した。
 正造は鉛筆など使った事はない。小学生の時でも筆に墨すずりであったし、夏のうちは砂の上に棒や指先で文字の手習いをするのが普通だった。いつだったか父や叔父に初めて手紙を書くために買った道具は、あんまり使う気も機会もなく埃をかぶっている筈である。字を書かなければならない用事を気重く感ずるのは、文を考えるのが全くの苦手であったからだ。
 それにしても便利なものができた。一本が一厘ぐらいの値段というのは高いか安いかよく分からない。それを削って大事に使う人を見ても、自分で使いたいとは思わずただ珍しいと感ずるだけだった。だがその鉛筆というものを、たった五つの子が持っているのにも驚いたが、それでゆっくりしかもしっかりと字を書く姿を目の当たりして、それがわが子である事が信じられなかった。
 みはらゆきは平がなで書き、三原秋夫とはマッチの軸を並べたような漢字で書いた。危なっかしい手つきではあったが、大きく元気な字であった。
「とうちゃんの名前も、かあちゃんの名前も書けるよ」
たった今書いた紙を顔の前にぶら下げて、見てくれとばかりに顔を寄せてくるゆきからその紙を受け取り、正造はしばらく声が出せなかった。
「……ふさ、見だかや!」
「うん。よく書いだね、ゆき」
 近所の男の子とばかり遊んでいて、自分を男と勘違いしているのではないかと、何度もふさと嘆いた。そのゆきがいつの間にか読み書きを覚えていた。とは言え両親は一度も教えていないのだ。どこかの誰かに教わったという。だが待てよと正造は思った。字を書けない親を持ったのであればともかく、もしかしたらこれは世間に対して相当恥ずべき事だったのではあるまいか。
 後家ばあさんのとくと、もう一人のかよこねえちゃんとゆきが呼ぶ女の人にも、よくよく礼を言わなければならないような気がした。
「ふさ。お前えはかよこねえちゃんて、誰だか知ってらのか?」
「イヤ。とくさんのほうだバ覚えでるども……」
 それでもしばらく考え込んでいたふさはこんな事を言った。
「正月だったかに、さぶちゃんが喋ってら人でないかって、今思ったんだども……」
「さぶが? なに喋ってらっけ?」
「ホラ。石川飯場に別嬪さんがいるとかいないどか……。もしかしたらその人がかよこっていう人でないかって気イして……。あんた、さぶちゃんや北川さんに聞いだ事なかったねハ?」
 そう言えば正月にそんな事もあったなと思い出したが、別嬪さんの話はその後聞かない。北川の部屋にも暮れ以来ご無沙汰をしている。
 大集会で推薦され引き受けた友子の雑用で、飯場に顔を出さなければならない用事もあったのだが、仕事の忙しさにかまけてまだ行っていない。
 実のところその忙しさの中身についていろいろ疑問を感じている正造だったが、坑夫たちの多くは追いまくられるのをこぼしてはいながら、忙しければ金になる事をどこかで喜んでいた。
 炭鉄の井上専務は二月の株主総会後、例によって長広舌を振るいこんな新聞発表をしていた。
 去年一月五日の夕張炭砿ガス爆発による損害、九月七日の水害による鉄道の損害、十二月四日の鉄道部手宮工場火災による損害を合計すると、五五万円余りの巨額に達した。だが前期一割五分に及ばないとは言え、今期も一割二分の配当を確保できた。もしこの災害なくば二割の配当をしても尚余裕の繰越を見たであろう。しかしながら石炭商況はようやく渋滞の傾向が出て、中でも下等炭の売れ行きに支障が生じてきた。これは国内商工業の不振と諸物価高騰のせいであり、九州、磐城炭との競合でどうしても在庫が増えてゆく状況にある。幸い夕張炭、幌内、空知の上等炭の価格は僅かの下落に止まっているため、この販路を広めて減収減益を最小限に押さえたい。そのためにも社内では努めて営業経費を節約し、更に石炭の採掘運搬の費用なども減らすよう努力して、商況の回復を待たなければならない。
 この大号令が専務談話として新聞に載る前から、ヤマ元の現場ではいろいろとうるさい目が光りだしていた。いつだって掛かる経費はなるべく少なく、生産はできるだけ多くというのが、人を使う者たちの決まり文句である事に変わりはない。
 だが好景気の恩恵ときたら実にゆっくりと、それもほんの僅かしか届いてこないのに、災害や不景気の影響は何と素早くしかも露骨に襲いかかってくる事だろう。
 正造は、新聞発表の内容や株主配当の率を思えば、従業員への風当たりが何となく納得できない気がしていた。何故なら、この頃は 各槌組が出した炭量や石ずりの混入率を計る歩留りも下げられた。一日の掘進量を測る延取りも手加減なしに厳しくなっていたし、資材の使用にも目的や場所数量などうるさい制限がつくようになっていたのだ。  つい先頃、バイキの政が首になった。
 政は腕のいい石掘り坑夫だったが、わった源同様酒好きで呑み過ぎるとすぐ仕事を休むのが玉に瑕であった。わった源と違うところはバリバリ稼いで取り返さずに、小細工して金を得ようとする事 だ。
 坑道掘進は採炭にも運搬にも欠かせない大事な作業の一つだが、一日でどれだけ掘り進めたかで金が支払われる。従ってその延取りのスタートとなる目印を、支柱の一部を削って小頭か担当がつけておく。その印からどれだけ掘ったかを間縄(けんなわ)と昔は呼ばれた寸法縄(巻き尺)で測る。これを計尺というのだが、この印は坑道が延びるに連れてだんだん前進してゆく。当然会社側の担当者がやるので坑夫はこの印に手を触れられない事になっている。
 政は二日酔いで仕事をしたくない時、この目印を勝手に削り落として一、二本ほど出口の支柱に似たような印をつけてしまう。ホントの印のあった削り口には泥などをすり込んで判らなくしてしまう。
 日頃十分に賽銭を上げて油の引いてある小頭であれば、気がついても時には目こぼしをして計尺する事もある。しかしそれがたび重なって、目印は到頭枝坑道の入口近くまでバックしてしまった。
「ええ加減にせえよ政! お前の仕事は、前さ行かねえでバイキ(バック)すんのかこの野郎!」
 と小頭から怒鳴りつけられた豪の者で、以来「バイキの政」と綽名されるようになった。
 北海道では馬を操る時、後退させる掛け声は「バイキ、バイキ」が普通だ。後戻りをそんな風にいう人は多い。だが笑い話ですむうちはよかったが、やはり目に余る不正や怠業と判断されたのか、名物男の政が首になった話はいち早くヤマ中に伝わり、坑夫を何となく不安にさせた。
 新聞記者を相手に大風呂敷を広げる会社の偉い人の話は、そのために締めつけられ追いまくられる坑夫の事など、かけらほども考えてくれてはいない。本当は景気がいいのか悪いのか分からないこの 頃の忙しさが、正造は妙に気になっていた。
「ふさ。暗くなんねえうちに、ゆき連れでとくさんどこさ礼言いに行ってくる」
 正造は空きっ腹も忘れてゆきの手をとった。ゆきは喜んで先に立ち、通い慣れた道を飯場へと一目散に駆けだして行った。
  石川飯場は丁度夕飯時だったので食堂にはかなりの人がいた。板の間にはそのまま作り付けの飯台がある。たとえ蹴飛ばしてもぶつかってもビクともしないよう頑丈一点張りに作られた飯台は、もちろん酔っぱらって暴れたり引っ繰り返そうとしても多分動かない筈だ。
 飯場の角に炊事場の入口があり、中へ入るとすぐ大金や鍋をかけるかまどが二つ並んで、薪でも石炭でも焚けるようになっている。
 土間の流し台の横には水を汲み置く大がめがやはり二つある。それを背に畳一枚半ほどの調理台があり、食器を載せる丈夫な棚が四段ほど土間から壁添いに作り付けられている。そこに間仕切りを兼ねた枠だけの窓がありその向こうが食堂であった。
 帳場と食堂の間に巾一メートルほどの通路があり、それが帳場や組長の前を通って奥の各部屋に通ずるようになっている。一つしかない入口からは、すべてそこを通らなければ奥へは行けない造りなのだ。
 今ではその目的が全く失われていたとはいうものの、開坑時の飯場坑夫をどう管理したかその扱いが否応なしに判る造りはそのままで、何一つ変わってはいない。
 いつも通り食堂を通り抜けて北川の部屋へ行こうとしながら、チ ラッと炊事場に目をやると、仕切りの窓口近くで後家ばあさんのと くがお菜を並べていた。その向こう側になる流し前で、下げられた食器を洗っている女の姿があった。感じからすると若い女のようだったが後ろ姿なのでよく分からない。
 いきなりとくのところに行って話しかけるのも、今までロクに口を利いた事もない正造にはできない。一応北川にキッカケをつけてもらってから礼を言おうと思っていた。
「オヤ、ゆきちゃん。又来たの? 北川さんならまだ帰ってないと思うよ」
 目ざとく見つけたらしいとくの声だ。
「ちょっと見てくるー」
振り返りもせずゆきは奥に駆けて行った。勝手知った足どりはまるでわが家にいるようだ。
 正造は見送っているとくの視線に軽く会釈した。とくも正造をゆきの父親と知っている表情で頬をゆるめて頷いた。どっちへ行くべきか一瞬迷った正造の足元へ、たちまちつむじ風のようにゆきが舞い戻って来た。
「とうちゃん。おじちゃんいなかった」
ゆきは正造の手を引いて、食堂と炊事場をつなぐ戸のないくぐりのほうへ行った。窓口から食堂のほうに受け渡す食器を台に置くと、とくはすぐ壁際のくぐりのほうに来た。
「とくさん。ゆきのとうちゃんだよ」
 一ぱし大人びた物言いで父親をとくに引き合わせるつもりらしい。それを聞いたとくも嬉しそうに顔中くしゃくしゃにして大きく頷いた。
「知ってたよ、ゆきちゃん。ゆきちゃんの父さんはここに何度も来てるからね。それにさ、ゆきちゃんの父さんだもの……」
 その返事も待たずにゆきは、流し前で仕事をしている女のほうに走り寄った。
「いつもゆきが邪魔してるっちゅうのに、何にも知らねえでいて済まねえど思ってます」
「とんでもない。相手をしてもらってるのはこっちなんだから。この頃はね、ゆきちゃんの顔が見えないと何か気になって、気になって……」
「いやア、何とまンズ……。それより、ゆきが読み書きまでおせえでもらって……。俺ラ、今日始めて分かったどこであったンス。とにかく礼言わねばと思って来たどこです。ホントにありがとさんでごぜえました」
「そんな、三原さん大袈裟な。こっちは楽しんでやってんだから、礼なんか言わないで。それにね、一所懸命読み書き教えたのは、かよこ、あの子なんですよ」
 とくが振り返ったほうに、洗い物をしながらゆきと楽しげに話している女がいた。
「かよこ。ゆきちゃんの父さんが、あんたに礼を言いたいってさ」
 男が締めるような紺地の前垂れで手を拭きながら、恥ずかしそう な笑顔を見せたのは、二〇才前後と思える娘だった。
 水仕事が中心の炊事に明け暮れていれば、どうしても化粧や身繕 いを構っていられなくなる。このかよこと呼ばれる娘も、何一つ娘らしい粧いやお洒落をしているようには見えない。だが持って生まれた生地は隠しようもなく、恐らく行き合う人を振り返らせずにはおかない何かがあった。
 どうやらふさの勘は当たっていたようだ。 正造はただ驚いていた。だが、およそこの飯場には似つかわしく ない美しい娘は、大集会の帰り月明かりで見たあの若い女であった 事に間違いない。そしてわった源が煽りさぶが騒いでいた別嬪というのも、紛れもなくこのかよこであろうと納得した。
「いつもゆきが可愛がってもらってるそうで……。ゆきが新聞読んだり、字書いでるのバ見だらハア嬉しくて。ホントになんて礼言えばいいんだか……」
「いえ。私はただ、ゆきちゃんが可愛くて。それに、ゆきちゃんとっても物覚えがいいから……」
 とくもかよこも、濁りも訛りもない言葉だ。この辺りでは聞けない話し方をする。
 人は言葉遣いだけで他人への印象を変える事ができる。だがそのために気取ったり装ったりしたとしても、付け焼き刃は必ず剥がれてしまう。相手が大人であろうと子供であろうと、その不自然さは伝わってゆく。このかよこにはそれがなかった。話しながらゆきに微笑みかける表情や仕草などにわざとらしさは微塵もない。
「この娘は私の姪なんだけど、女学校出てるんだし、きっとゆきちゃんのいい先生になるよ。ねえゆきちゃん」
「おーい、とくさーん。腹へったア。飯だ、めしー!」
「大きい声出すンじゃないよ。なんだいまだ真っ黒けのまんまじゃないか。飯より先に風呂だろう? なにさ汚い顔して、まわりの者が飯不味くなるよ。ホントに……」
「このまンま風呂サ入ったら、体浮いてしまうべや。それとも死んでしまうかもしんねえど!」
「バカ、死んじゃいな。いい若いもんがなんだい。ざアッと流してサッパリしといで。飯もおかずもチャンととっとくよ。さア!」
「ちえッ。目エ回りそうなんだこっちは……」
 ブツブツ文句を言いながら、それでもとくのいう事を聞いて窓口を離れていった。
 何とも小気味のいいやり取りである。不平を鳴らしながらも逆らわないのは、言い返されるのが恐いのばかりではなさそうな気がした。もしかしたら若い者にとっては、口うるさい母親のような存在なのかも知れない。手荒い言葉を浴びせながらも、どこかに温かみを感じさせるとくであった。
 二人に何度も礼を述べて、そのまま残って遊びたそうなゆきを促しながら飯場を出た。
 「とうちゃん、さっぽろってどこだ?」
歩きながらゆきが訊く。
「そうだなア、汽車サ乗ってずーっと行ったどこだ。何でだや?」
「あのネ。とくさんも、かよこねえちゃんもネ。家がさっぽろだっ たんだよ」
 道理で言葉遣いが違っていたのかと納得した。それにしても北川は、ゆきがとくさんに可愛がられているとは話していたものの、かよこの事はただの一度も口にしなかったなと思った。あれほどゆきがなついている以上彼がそれを知らない筈はない。それなのに名前はおろかそんな娘の存在すら語った事はない。北川には縁のない若い娘だったからか、あるいは眩しすぎるほどキレイな娘だったからか、いずれにしても噂すら聞いた事はなかった。
 それにしてもあれほど美しい娘であれば、わった源があおるまでもなく若い者が騒ぐのもムリはない。だが女学校まで出ている娘が、なんでこんな飯場の賄いなどしているのか不思議な気はする。何となく訳がありそうに思えた。
 ゆきは周りから褒められたりおだてられたりするのが嬉しいのか、読み書きは目に見えて進んでいった。正造が新聞を使って教える事もあったが、かよこに教わるのが何より頭に入るようだった。
 飯場の食事は夜勤者もいるので朝昼晩の三回、一度たりとも欠かす事はできない。だが昼間は通いの炊事婦もいるので、住み込みのとくとかよこには息抜きが許されているらしい。その時間がゆきと遊んだり読み書きを教える時でもあるようだ。
 正造が礼を言いに行ってから、ふさも二人を訪ねて挨拶をした。正造に勧められた事もあったが、わが子が親以上に慕って毎日のように通いつめる相手の姿を、一目見たいと思う気持ちもあった。
 とくのほうは近所の店で買い物をしたり、飯場の近くで若い者をやり込めている姿を見かけた事もあるので、初対面の気はしなかった。だがかよことはまったくの初対面である事を知った。それにしても正造から聞かされてはいたものの、これほど目を惹く人とは思っていなかった。女のふさから見てさえ、今まさに咲きかけようとする白い花、といった感じがした。それだけにこの男くさい庭には何とも似つかわしくない気がする。それにしてもあまり出歩かない人なのだろうと思った。
「いう事聞かなかったら、遠慮なくせっかんしてやってたンセ。この子は男わらしみたいだハデ」
「とんでもない。ゆきちゃんはいい子ですよ。この飯場で、もしもゆきちゃんに手を上げる者がいたら、私が絶対に承知しませんよ、ゆきちゃんの母さん!」
 息巻くとくの口調は可笑しかったが、それだけわが子が可愛がられているのを嬉しくない筈はない。
「今頃いうのもおかしだ話だども、オラ三原ふさです」
 ゆきちゃんの母さん、と聞き慣れない呼ばれ方をしたので、ふさは更めて名乗った。
「知ってましたよ。ゆきちゃんが何度も書きましたから。そうそう私も名乗らなくちゃいけないわね。滝沢とく。世間では後家ばあさんて言われてるらしいけど、しょうがないわね。ゆきちゃんのおばあちゃんぐらいの年なんだから……。あの娘は飯島佳代子。私の妹の娘なの。もうはたちなんだけどゆきちゃんといい仲間。姉妹みたい、じゃ可笑しいか。年が違いすぎるもんね」
 まるで男のようにアッケラカンと言ってのけ、自分で言っておき ながら一人で笑った。
 その間もゆきは佳代子の周りを片時も離れようとせず、次から次へと何かを質問しては答えをねだっている。それをイヤがりもせず付き合っている佳代子を見て、ふさはもしかしたらこの人は一人っ子で育ったのではないかという気がした。
「汚いどこでよかったら、家サも遊びに来てたンセ」
佳代子に声をかけると、待っていたようにゆきが言った。
佳代子ねえちゃん。ゆきんちへおいでね」
「ありがと、ゆきちゃん。そのうちきっとね」
 ゆきに返事をしながら、ふさのほうへは笑顔を向けて丁寧に会釈した。
「オヤゆきちゃん、私には言ってくれないの? 佳代子ねえちゃんだけなのかい?」
「とくさんもいいよ。そしたらね、鶴にも、義にも字おしえてね?」
「あア、隣の子かい? だけどゆきちゃんみたいに物覚えよくなかったら、とくさん引っぱたくかも知れないよ。それでもいいかい?」
「ウン。男だからそれでもいいよ」
 まるで大人同士のやり取りのようで、からかったとくも聞いている佳代子も吹き出した。
こんな調子だから飯場の連中に可愛がられているのかと、ふさはわが娘が自分と正造のどちらに似ているのか首を傾げた。
 今年は暖気が続いて春が早いと挨拶の言葉にも交わされるこの頃、お蔭で雪解けが始まり米の冬相場もゆるんで、白米が少し値下がりしたそうだという人もある。
 それを聞けば誰でも喜ぶかと思ったら、森林伐採の杜夫(そまふ)や催引きは雪解けが早すぎると、伐り出した原木を山から運ぶ藪出しに権が使えなくて、泣く泣く山を降りなければならないと、山子の嘆きを代弁する人もあった。
 サルナイと呼び慣らしていた市街地もやっと先月から区画を定めて、いよいよホントの街らしくなるそうだとの噂通り、何とかいう戸長が新しくやってきた。一昨年戸長役場が由仁から独立して一年半ほどしか経ってないのに、もう三代目との事であった。
 丁度その頃、由仁戸長の悪口が新聞に載った。態度も言葉遣いも横柄で、たとえば登記の事務取扱は九時から十二時までのきまりだったが、一分でも過ぎたら絶対に受け付けない。遠路はるばるやってきた人にも、情け容赦なく門前払いを食わせるとの事であった。その日受け付けられなかったばかりに貸借登記ができず、むざむざ一ヵ月分の利息を払わなければなかった人が何人もあったとの投書であった。
 北海道長官は国が任命し、町村制が施行されていない郡区長をその長官が任免し、後の村長に当たる戸長はその郡区長が選ぶ事になっていた。開拓途上の北海道では、大体が歳入不足の国の予算で行政費用を賄っていたため、歳費節減が何よりの課題であった。初代 長官が考えだした苦肉の策にこんなのがある。
 郡区長は警察署長を兼任し、郡役所の吏員が警察官を兼ねた。従って戸長役場は警察分署という事になり、戸長は分署長という訳だ。そのため逆に巡査も行政事務を分担するという、他県に例を見ない特殊な北海道官制を、明治三十三年までとっていた。そうした特例の一つとして、申請した地域や団体がその費用を負担すれば駐在させる、請願巡査の派出制度もあったのだ。
 明治三十年十月に郡役所が廃止されて空知支庁になり、行政と警察は分けられたが、それまで身についたオイコラ気風は中々抜けず、住民の上に君臨する態度を改めない由仁村戸長のような者も少なくなかった。

 ふさが挨拶をしに行って顔つなぎができたせいか、佳代子は時折ゆきを送ってやって来るようになった。もちろん長い時間飯場を空ける訳にはいかないので、そうゆっくりはできないが、秋夫の相手などして一時過ごしてゆく事もあった。
 飯場にいる所帯持ち坑夫と違って、長屋住まいの家族は彼女にとって珍しいのであろう。決して話し上手ではないふさの口から語られる秋田の話などを、佳代子はとても熱心に聞いてゆく。
 ふさにしてみれば佳代子が聞き役になるので仕方なく話す側に回ってはいるが、本当は逆になりたかった。彼女の言葉に比べていかにも重たい口調の自分の話し方がイヤだった。何とか聞き手に回ろうと間を空けても、佳代子は静かに微笑っているだけでめったに自分から喋ろうとはしない。結局又ふさが次の話題を見つける事にな る。普段口数の少ないふさには初めての経験と言ってよかった。だがお蔭でほとんど一方的に質問する事になり、僅かずつではあるが佳代子の事が分かってきた。
 去年の夏までは札幌にいたが、生まれは東京で小学生の頃北海道に来たとの事。母親は三人姉妹の末だったがその上がとくである事。とくとは佳代子の母親が亡くなる前から一緒に暮らしていた事。ふさが思った通り一人っ子であった事など、回を重ねる毎に少しずつ口がほぐれてきた。
 もう一つ彼女が当時としては珍しい女学校出であった事を思い出し、そうした学校がどんなものなのかある時訊いてみた。ふさにはそんな高等教育を受けた知り合いなどほとんどいなかったし、そんな人が何故こんな所にという思いも強かったからだ。
「佳代子さんは、女学校出でるって聞いだども……」
佳代子は首を横に振った。
「卒業前にやめちゃったから、ホントは卒業してないのよ」
「なんで又?」
「……家の都合もあったし……。仕方なかったの」
 言いにくい事情がありそうであった。ふさはさり気なく話題を変えた。
「賄いの仕事だバ、ゆるくない(楽でない)でしょう?」
 飯場の食事時ときたら昔より良くなってきたとは言え、美味い不味いの文句は当然ながら、時には賄い料の高い安いに至るまで、機嫌次第で炊事婦に突っかかってくる者もいる。そうでなくても空きっ腹を抱えた男たちは、食う事だけを楽しみに飯場へ帰ってくるのだ。よほど慣れていても一つ捌きを誤ったら大ごとになりかねない。ふさはそれを知っていた。
「ううん。そうでもない。慣れてるから……」
 ふさにとっては近くに自分より若い女がいなかったせいか、思ったより何でも気軽に話せる事が意外だった。言葉を選んだり気遣いしながら話す年上の相手と違って、何の身構えもなしに喋ったり聞いたりするのが、こんなにも愉しいものであった事を今まで忘れていた。
 いつの間にかふさは、ゆきを送って来てくれる佳代子を心待ちするようになり、彼女と話す短い時間が何よりの楽しみになった。そんな気持ちは佳代子にもあったのであろう、互いに佳代ちゃんふささんと呼び合うようになるまでそれほど時間はかからなかった。
 六つ違いと言えばかなり年は離れているほうであろう。だがふさにしてみれば、自分が姉のように振る舞える初めての女友だちだったのかも知れない。

 去年や一昨年と違って厚田や余市の付近でも鰊が大分取れたらしく、今年は安かった。正直なものでどこの家からも鰊を焼く煙と匂いが流れ、風に乗って谷間一杯に溢れた。それは陽当たりのいい斜面の雪が融けて久しぶりに肌を見せた黒土から、ゆらめいて立ちのぼる微かな湯気とともに、北海道の春を知らせる何よりの徴とも言えた。
 ある日突然永岡が訪ねて来た。
「もしかしたら、原田の親分あたりから話は聞いているかも知れんけど、今度作る会に是非三原さんの加入をお願いしたいと思って来たんです」
「会?」
 正造はとっさに彼が信仰しているキリスト教への勧誘を頭に浮かべた。何故だったのか知れないが、もしそんな話だったら返事に困るような気がした。
 正造はとっさに彼が信仰しているキリスト教への勧誘を頭に浮かべた。何故だったのか知れないが、もしそんな話だったら返事に困るような気がした。
「そうです。目下準備中なんですが、正式には帝国鉱夫組合会という名前になります。一見難しい事をするように聞こえるかも知れんけど、中身は明快単純で、一にも二にもわれわれ坑夫のためになる事を、みんなの手でやろういう趣旨です」
 永岡の説明によればこうだった。帝国鉱夫組合会は歌志内の神威坑にいる友子の親分、後藤直蔵ほか何人かの人々が提唱したものだ。月々いくらかの会費を集め、それを基にして坑夫の生活救済を図り、その上で坑夫間の風儀を矯正し、互いの親和を維持するのが主な目的だとの事だった。
 つまり山中友子の如き各ヤマ毎の小さな組織では力がないため、坑夫の怪我や疾病に対してほんの見舞い程度の事しかできない。実のところそれでは何の救済にもなっていないし、単なる儀礼にすぎない。それを北海道のヤマ全体とか、やがては全国にまで広がる組織にすれば、自分たちにもしもの事が起きても、その会が助けてくれるようになる。それを目指して各炭砿や鉱山の友子に趣意書が回って、主だった親分や心ある人々が加入に動いているという事であった。
「誰からも、なんも聞いでねかったなア……」
 正造が答えると、永岡は首を傾げた。
「松尾の鈴木も、本間の親父や横田もこの前寄り合いした時、趣旨は承知したいう返事をもらったんですが、そうでしたか。原田の親父さんは何も言っておらんのですか?」  札幌に住む藤田玉吉代表名義で、道庁長官あてに『帝国坑夫組合会」の基金募集について、三月三十一日設立趣意書と会の規約も提出済みとの事であった。その基金として総額一,○○○円を六月十日までに募集する事を目標に、主に友子会員から加入者を勧誘しているところだと永岡は説明した。
「もちろん、坑夫であれば友子会員でなくても一向に構わんのです。何と言っても加入者が多ければ多いほどいい訳なんですから……。それに会費なども決して高くなる心配もありません」
 キリスト教への誘いでなかった事に何故かホッとした。だが院内の久平から聞いた通り、この永岡という男は並の坑夫ではない事を更めて感じた。一昨年この夕張で再会した時、ここでも何かやりそうな予感を持ったのだが、やはりそうだった。年も正造より大分上の筈だし、小柄で決して見栄えのする男ではなかったが、先日会った時より生き生きと見える。
 仕事の外にこれといった事もせず、ましてや宗教などに一切関心を持っていない正造には、この永岡が何故こうした事に夢中になれるのか、不思議で仕方がない。
「もしかしたら、この話で近く札幌へ行くようになるかも知れんのです。いよいよ本決まりで動く事にでもなったら、三原さん。あんたにも是非力を貸してもらいたいと思って、顔出しに来たんです。その節にはよろしく頼みます」
 永岡が帰った後で正造はふと気がついた。いつどこで会っても、坑夫同士が挨拶代わりに交わすバカ話や、どうでもいいような噂話など、彼とはただの一度もした事がないのだ。それどころか鉄道国有論なるものに関心を持ったりしだしたのは、彼との会話がキッカケだったように思う。だがそれさえもよく呑み込めないでいるうちに、彼は又違う事に目を向けて活動すら始めている。
 永岡が坑夫仲間のために、何故あんなに夢中になって動こうとしているのか、まったく解らなかった。

 明治の初め頃国が資本を下ろして作った鉄道は、民間事業を刺激奨励するためと、政府の財政難が表裏の理由で次々と払い下げられた。だが投下した資本の何十分の一かの価格を更に年賦に分け、利子補給の特典までつけて事業家や御用商人たちに払い下げたいきさつは、どう考えても納得のいかない不正や汚職ありと見て、当時世間を騒がす最大の話題となった。だがその頃に始まる政治家、官吏と財閥、実業家の裏取引や癒着は半ば公然と取り沙汰されながらも、それは噂だけで実態が明るみに出る事は、ほとんどなかったと言っていい。
 しかしこれだけ新聞が発行され読む人々も増えてきたこの頃では、いかなる権力者といえども目に余る所業を続ける事はできない。すぐ記事になりそれが命取りなる事もあったからだ。だが反対に書かれた事で世間に知られ、実態以上にふくらんでしまう場合も出てくる。その典型的なものの一つに株がある。新聞が伝える何気ない噂や消息あるいは推測が、ある業種や会社の株価を左右してその存亡にさえ関わってくる事もある。
 日清戦争の頃、軍事に少しでも関係のありそうな企業の株は異常に値上がりした。その中でもとりわけ鉄道株は急上昇した。鉄道の二文字が付されているだけでそこの株を買い、よく調べたら直接鉄道を経営している会社ではなく、慌てて売ったというにわか投資家もあったという。
 鉄道の所在、近隣都市や地域の発展性、将来の展望を検討する必要から、参謀本部測量の地図を買い求める投資家たちによって、地図が売り切れてしまうほどの人気が鉄道株に集中した。
 炭鉄の株も時流に乗って買われ、高値を記録したのはいうまでもない。明治二十四年、株を公募した翌年は額面の五〇円を割って四七、八円だったものが、戦争終結時の二十九年には、一一三円にも高騰して倍以上の値をつけた。
 炭鉄の株は華族世襲財産として認められ、発行当時の筆頭株主は 内蔵頭(くらのかみ・宮内省)を名義としている天皇家であったが、それだけ安定した優良株であった事を示している。その株は昨年になって一二四円と更に値を上げていた。
 炭鉄の場合、その株価が炭砿部と鉄道部のどちらの業績が評価されたのか、ハッキリしないところがある。しかしそのどちらもが、二、三年前に比べて特別に業績を伸ばしているとは思えないのに、 株価だけが勝手に独走しているという人もあった。つまり根拠のない株価の高騰だというのだ。
 現に最近は貯炭量が増えて下級炭の値が下がりつつあるのに、株 価は一向に下がらないのだ。その上石炭の販売が落ちれば運賃収入 も落ちてくるのは当然なのに、株価にはその影響が出てこない。社 内によほど株価操作に練達の士がいるに違いない、とうがった見かたをする事情通もいた。
 政治経済、まして株式の動きなどにまるで関心のなかった正造だが、新聞の見出しを追うだけで、仲間同士の雑談とはまったく別の興味を感ずるようになっていた。興味を持てば否応なく頭に入る。そしてその記憶は知識となり、貪欲にも新たな疑問を呼び起こしてくる。その答えを探す作業が更に知識を蓄える事となってゆく。その繰り返しが正造の中で次第に何かを刺激した。
 今まで何気なく見過ごしてきた新聞活字の中に、これまで以上に注意や興味を惹くものがいくつか出てきた。たとえば炭砿とか石炭という活字、夕張とか秋田といった地名の文字も軽く読み流せなくなった。更に近頃はそれに加わるものが出てきている。
 鉄道、あるいは鉄道国有建議といった文字である。
 初めのうちは何の事やらさっぱり解らなかったが、三日に上げず紙面に登場してくる話題のため、いつしか頭の中で少しずつつながり始めた。その話題は騒がれるほどには進展も変化もしないに係わらず、支持する者反対する者の思惑や意気込みだけが、妙にきな臭く空々しく感じられてくるようになった。
 その理由の一つは、鉄道を国有にすべしと建議する代議士にもそれに反対する議員にも、後ろで糸を引いている者がいると書き立てる新聞のせいだ。
 鉄道を国に買い取らせようとする側の利益は解るが、それに反対する側の利益とは一体何なのか。その事のために政治家に金を使ってどんな得があるというのだろう。それにたかだか一〇年ほど前に民間に払い下げた鉄道を、いかなる理由で再び国に買い戻させようとしているのか。せっかく順調に運営されている鉄道会社を国が買い取るには、膨大な費用が必要になるのは目に見えている。
 国がどうしても鉄道を国有にする事を正式に立法化したら、民間会社は反対などできない。だが損をしてまで売る必要はないから、相当な値をつけてくるに違いない。そんな金はいかに政府といえども簡単に調達できるものなのであろうか。第一そうまでして鉄道を国有にしなければならない理由がどこにあるのだろう。
 鉄道国有論の表向きの理由は、国防上の問題から有事のためには国の管理下におく事。現在民間会社に分断されている鉄道を一本化し、運輸を円滑にし相互の疎通を図る事。その事によって運賃を下げ、設備の重複を避けたりする調整と共通化を目指す事とされている。
 確かに一理も二理もあって文句のつけようはないが、それほど立派な理屈がなぜ議会の一会期に納まらないで、繰り返し揉め続けるかが解らない。それに議員同士の白熱する論議をよそに、政府が国有建議にかなり消極的に見えるのも妙な空気であった。
正造にとっては理解をはるかに超える内容ではあったが、何故か興味をそそられる問題であった。しかしそれがやがて炭鉄の命運をかける事態となって発展し、その末端で正造とその家族が思いがけなく翻弄される事になろうとは、まったく気付かなかった。

 五月に入ってふっと気付くと、辺りの沢でもよほど深い日陰の場所でなければ残雪も見られなくなった。長い冬の間にすっかり葉を落とした木の枝にもようやく淡い緑が芽吹き、目を上げると山肌の半分あまりにいつしか生色が甦っていた。
 桜がまだ蕾を固くしている頃、ただ一つ山肌に淡い彩りをもたらす花が、ここかしこに咲き始める。蕾の形が、しっかり握りしめた幼児の拳に似るところから、その名があると言われる辛夷(こぶし)である。葉よりも先に花が咲き、満開になると枝全体が真っ白く見えてくる。桜ほどの艶やかさや目を惹く色はないが、まだ鮮やかな緑になりきらない山肌で、ひっそりと春の到来を知らせてくれる。
 季節の移ろいなどから縁遠い坑夫の中には、こぶしをちり紙の花とか、おみくじの木などという者がいた。遠目には、枝が白い紙か造花をいっぱいにつけているかにも見えるからであろう。キレイな言葉を使いつけない坑夫らしい呼び方だが、それでも精一杯の関心 を表すつもりの命名なのだろうか。
 こぶしの花が終わると山神社の例大祭がやってくる。その後少し間をおいて桜が咲く。そのあたりから夕張は本当の春が真っ盛りになり、日一日と暖かさを増して時には暑く感ずる日さえやってくる。
 それにしてもこれまでの季節を表す色の主役は、なんと言っても雪の白だったがもう充分に飽き飽きしていた。それも無残に薄汚れていつの間にか視界から消え去った。その後を遠慮がちながら淡い緑が追いかけてくると、隙間を埋めるようなこぶしが、控えめな白で山肌を和らげる。それを待っていたように、萌黄色が日増しに巾を利かせ、やがて匂うような桜が咲き揃うと、辺りの色をすべて霞ませてしまう。それから先はひたすら緑がその濃さを増し、山々の色は却って味わいを失ってゆく。
 だが人々は、そんな日々を心待ちにしているのだ。
 桜の露払いをさせられているようなこぶしも、もうそろそろ峠を越した頃であった。
 その日の朝、仕事に取りかかる前北川はいつもの如く、一わたり 切羽の天盤や土べらを見回した。年季の入った坑夫なら誰でもする事だ。
 槌組の先山はすぐさま現場の段取りに入る。後山や手子も材料取りやトロッコの準備に散って行く。指示があってもなくても、毎日の仕事の手順はある程度決まっている。それぞれの分担や役割も、特別な事がない限りほとんど変わらない。
 北川は坑道に置いてある昨日の残材を取りに、一人切羽を離れた。北川らの切羽は交代番のない採炭現場だったので、昨日上がった時のままになっている筈であった。だがその朝見ると、どこかが何となく違うような気がした。
 気のせいか、留めや笠木(支柱の上に渡す丸太)の間に打ち込んだ矢木のつぶれ方がひどいように見える。念のため安全灯を近づけて見たがハッキリとは分からない。験しに留め足と笠木を軽く叩いてみた。弾かれるほどバンバンに張っている気配だ。かなり山が圧しているのだろう。だがそれもさして珍しい事ではない。
 量り知れないほど強大な地圧がかかっている地層の中に穴を掘っているのだ。それを埋めつぶそうとのしかかる重圧を、完全に防ぎ切るなど本当はできない事を、熟練坑夫なら誰でも知っている。四方八方からせめぎ合う地圧をなだめたり、うまく逸らしたりできればそれだけでいい。まともに地圧を支え切る支柱などは、一抱え二抱えもある太い丸太を以てしてもできない事であった。
 採炭ではなく岩盤掘進を例にとってみよう。そこに何トンも何十トンもある浮き石(岩盤から離れた岩石)があったとする。これはいつか地圧に押されて弾き出されてしまう。天盤に時折発見されるが、こんなのをそのまま落下させたら大変な事になる。かと言って慌ててその浮き石の真下に支柱を立てたとしたら、やがてその柱は 折れるか、折れないままでも縦につぶされてしまう。
 経験の深い坑夫は、その浮き石のなるべく隅のほうに、一本だけつっかえ棒を立てる。これをぼうずと呼ぶ。防柱からきたのだという説があるが、うまい位置にぼうずを立てると浮き石はピタリと落ちつく。端っこの一点を軽く受けられれば石は傾く。傾けば石のどこかの角が引っ掛かり、重さで周囲の岩盤に自ら食い込んでしまう。やがて折を見てぼうずを外しても石は落ちなくなっている。
 この浮き石を見つけるのも、ぼうずを立てるポイントを決めるのも経験や勘が物をいう。浮き石の発見が遅れたり、ぼうずを立てるタイミングを失したりすれば当然崩落する。だが発見してもその処置を誤れば、ぼうずなど文字通り屁の突っ張りにもならない。
 北川は暗い手提灯をかざして天盤に目を凝らした。微かに砂のような小石がパラついた。急いで切羽に戻り発破タガネを手にして、天盤をコツンと突き上げてみた。その手応えと音の感じが地山の石とは微妙に違う。何がどう違うと聞かれても明確には答えられない。 手に伝わる当たりに、浮き石の微かな響きを感じたとしか言いようがないのだ。
 木食い虫が落とす糞の如き石の粉。石目と交差する糸の如きひび割れ。
 北川は急いで先山の作間与助に声をかけた。
「おど! ちょっと来て見でけれ! おかしいでや……」
「なに? どら……。浮きか?」
 作間が飛んで来た。二人の手提灯を手一杯高く掲げて天盤を照らした。
「北川ッ! 中ぼうずだッ!」
 作間の言葉が終わらぬうちに北川は駆けだしていた。本来、真っ暗で足下のよく見えない坑内を走るのは新米坑夫のやる事だ。頭上や土べらから何がぶら下がったり、突き出たりしているかも知れないのだ。しかし時と場合によるのである。
 途中で材料を担いできた手子と行き合った。ほんの一言で材料を 北川はぼうずの根っこに近い辺りを片鶴で力一杯叩き込んだ。 奪い取るようにして受け取り、それを横抱きにして駆け戻った。
 作間は細い雑木を縦に二つ割りした矢板を腹合わせに使い、下盤から天盤の浮き石までの寸法を測って待っていた。
丸太か天盤がミシッと鳴った。間一髪ぼうずが効いたのだ。
 北川は浮き石から少し離れた場所に、横抱きの材料をそっと下ろした。いつもならば勢いよく投げ下ろすところだが、今はそんな事をしてはならない。ちょっとした振動や音が崩落を早めないとも限らないからだ。
 作間は手にした寸法木の矢板を当てて長さを決めた途端、あっという間に差し切り鋸で丸太を挽き切った。差し切りと呼ばれる坑夫専用の半月型の鋸を自分で目立てし、万一にも木が切れずに息が切れたなどと言われぬよう、日頃から手入れをしているとはいうものの、信じられない速さであった。到底二五センチ余りもある径の丸太を、鋸で挽いた速度とは思えない。
「お前えら、そばサくるなッ! 離れでろッ!」
 二人は後山と追い回しの手子を、現場から遠ざけておいてから仕事にかかった。
 普通の仕事ならば留め足がずれたり沈んだりしないように、できるだけ下盤の固いところまで根掘りするのだが到底間に合いそうもない。それどころかいつ抜ける(落ちてくる)かも知れない天盤を 睨みながらの仕事で、一瞬たりとも気をゆるめる事はできないの だ。安全灯も浮き石から離して前後に吊ってあるため益々暗い。
 槌組の頭作間がしっかり胸に抱いたぼうずを浮き石の一点に当てたと見るや、その根元を蹴飛ばす勢いで素早く直立させなければ、上から圧がかかった時ぼうずは弾き飛ばされてしまう恐れがある。北川はぼうずの根っこに近い辺りを片鶴で力一杯叩き込んだ。
丸太か天盤がミシッと鳴った。間一髪ぼうずが効いたのだ。浮き石の一点を支えたぼうずがピーンと突っ張って、もうどんなに叩いても中ぼうずは微動だにしなくなった。
「やったでや北川! 間に合ったア……」
こらえていた息を一ぺんに吐き出すような作間の声に、北川もフッと力が抜けて体を起こした。だがその瞬間を待っていたかの如く、ふわっと何かが降ってきた。
 もっと明るければ反射的に飛び退いたかも知れない。あるいは瞬きさえできなかった作業の後でなければ、思いっきりのけ反っただけで難を逃れ得たかも知れない。だが子供の頭ほどもある落石は北川の肩先に当たってから、更に右足の甲に落ちた。
「アッ!」
 北川はその落石ではね飛ばされたのか、自分から飛んだのかよく分からないと後に語ったが、その場から離れた所に倒れ込んだ。
 急造の担架をこしらえた槌組の手でおかに運び出され、坑口からは肩代えの坑夫もつけられて、会社の診療所に運ばれたのは、それから二時間余り後の事である。
 血は止まっていたが右の肩口が裂け、右足甲に落ちた石は小指の先の骨も砕いていた。
 こうした仕事上の事故や災害の時以外、入院治療させる設備もない診療所は、手当てはするが食事や身の回りの世話まではしてくれない。頼んで誰かにやってもらうしか方法がないのだ。 北川を担架で運んだ連中が、現場へ戻る足で石川飯場に連絡した。
 飯場では朝食の後片付けも済み、昼食は数も知れているため、とくと佳代子は一日のうちで一番ゆっくりできる時間を過ごしていた。そこを見計らったようにゆきがやって来た。幼いなりにどんな時間がいいのかを知っているようだった。
 作間組の後山から北川負傷を報された帳場は、慣れているせいか慌てて駆けつけたりはしない。それよりまず診療所へ行く前に、怪我人の着替えなどを心配したりする。
「とくさん、済まねえけどもよ、北川の持ち物引っ掻き回してえんだ。ちょこっと立ち会ってもらえねえかや?」
「北川さんの? 何するんだい?」
「うん。たった今、北川が怪我したって報せがあったんだ。これから下の診療所さ行くどこだが、着るものでも持っていってやるべと思ってよ」
「何だって? それで怪我の具合はどうなの?」
「イヤ。行って見ねえば、俺にも分からねえんだ」
 こんな事からとくも北川の部屋に入った。着たきり雀でロクに着替えも持っていない連中の多い中で、北川は意外なほどキチンとしていた。表向き世話役と呼ばれて閑居しながらも、依然として飯場の連中に絶大な影響力を持つ石川に、大事なものは預けているらしかったが、持ち物の整理は行き届いてい た。柳行李やダイナマイトの空き箱に収められた洗い替えの衣類は、キレイに畳んで仕舞ってあった。
 その中から差し当たって必要と思われるものを選び、とくと帳場が食堂に戻った時、先ほど来ていた筈のゆきの姿が見えない。
「佳代子。ゆきちゃんは?」
 とくが訊いた。
「家に帰したの。ふささんにも知らせたほうがいいと思って……」
「そう。そりゃアよかった。私も同じ事を考えてた」
 帳場が出掛けてから大分経った頃、息せき切ってという感じで、ふさがやって来た。
「北川さんが怪我したって聞いたんだども、どした塩梅だか教えでたンセ……」
「それが誰も分からないの、ついさっき聞いたばっかりで。すぐに帳場さんが診療所に行ったから、そのうち様子が分かると思うけど……」
 ふさは、秋夫を隣に預けてきたのでもしもゆきがここへ来たらよろしく、と言い残してすぐ診療所へ向かった。
 正造の親友であると同時に、自分には兄とも思う北川の怪我が大した事でないのを念じながら、ふさは気が気でなかった。飯場から沢添いの道を伝ってステンション近くの診療所まで、ほとんど小走りに駆け続けた。
 診療所から三、四○○メートルほど先を右に折れて、北山深く入った所に登川神社があるのだが、その参道入口近くに群がる一団の人影が見えた。灯籠や高張提灯を立てている人々のようだ。そう言えば、去年十一月新たに作らせた三座の神像を、それまでのご神体と入れ替えて以後初めての例大祭が、あと数日に迫っていた。
 専務井上角五郎が、昨年正月五、六日に起きたガス爆発や火災の視察にやって来た際、山神社のご神体が一個の炭塊であった事を知って大いに驚き、その後で美術学校とかに依頼して三体の神像をこしらえてもらった話は、いつの間にかこのヤマ中で知らぬ者はない。だがその頃坑夫の誰かが洩らした呟きも、このヤマの男たちほとんどに共通する思いのようでもあった。
「まったくこの会社のお偉方ときたら、何だってば神さんの事ばっかり気にしてよ。この前は神社の方角が悪いからって、あんな高いどこさ祭り上げてよ。こんだご神体が悪りいからロクでもねえ事が 起きたっちゅうのかい? まずなんもかんも神頼みせバいいもんだか? この次何かあったら、神さんバ取っ替えるべっちゅう話になるんでねえのか? それともよ、大奮発して、金ムクの鳥居でも奉納する気だべか?」
 そうした陰口のせいでもあるまいが、会社も今年のお祭りには力を入れているらしかった。その噂もあってか、普段はわざわざ参詣のため山頂近くまで登る気のない者も、今年は行って見ようかという気になっていると前評判は上々だった。
 鉄道の引込線の向こう側に選炭場と貯炭場積み込み場がある。見上げれば山腹に立ち並ぶ長屋、市街地に続く一本道に沿って左はステンションと呼んでいる夕張駅、右は学校、旅館運送屋、ちょっと先にはこのヤマの本拠ともいうべき採炭事務所もある。そのぐるりをお偉方の社宅が囲んでいる。
 そうした駅周辺から北になるかみの山に向かって少し入った、ここら辺りでは一番低い位置になる沢の入口に炭砿診療所がある。開坑以来少しずつ建て増していくらか広くなってはいたが、まだまだ 手狭な平屋建てにすぎない。
 ふさが汗ビッショリで診療所にたどりついた時、診察室で石川飯場の帳場がまだ医者と話をしていた。ふさはすぐ部屋の中に入った。
「あの……。北川さんの怪我は?……」
「この人は?……」
 話の途中に飛び込んで来たふさのうわずった物言いに対して、医者はゆっくりした言い言い方で帳場に訊いた。
「ア、北川の友だちのかあちゃんですよ。普段から仲がいいもんで、心配して来たんでしょう。なア三原のかあちゃんよ」
「ハ、ハイ。それであの……」
 医者はふさをなだめるように話しだした。
「心配はないな。肩口に傷はあるが骨に異常はないようだ。ただ右足小指の骨折だが、こっちのほうは甲の打ち身とともに暫くかかると思う。だが大丈夫、必ず元通りに治るから……」
「こんな口調で明るくハッキリ話してくれる医者は珍しい。殊更重々しくもったいぶった物言いをするのが官吏と医者、というのがこの辺りの通り相場であった。坑夫を見下してロクに説明もしない 医者も多く、下手な質問をして怒鳴りつけられたという話はよく耳にする。
 ふさは医者の言葉を聞きながら何度も頭を下げた。傍目には北川の女房と見えたかも知れない。
「……ただね。怪我人には気の毒だが、ここには本式の入院設備がない。しかし患者が自分で動けるようになるまで、どうしても暫くはここにいなければならないんだ。その間の飲食と下の世話をする者が付いてくれるか、あるいは毎日通って来てくれるかしないと困るんだよ。聞けば患者は独り者だっていうんでね、どうしたものかと相談していたところだった。誰か心当たりないかなア?」
 医者の話は本当なのだ。これだけ事故や怪我の多い毎日でも仕事を優先し、こうした分野への配慮や設備の点ではかなり遅れている。理由は色々あるかも知れないが、新しい産業としての成長発展ぶりの裏側では、表沙汰にできないほど死傷事故が買えていた。
「あア。そんな事だバ、オラが毎日ここサ来ますから!」
 どちらへともなく問いかけた医者の言葉を引き取って、ふさはキッパリと言った。
「オイ、三原のかあちゃんよ、大丈夫なのか? ゆきの下はまだ小っちゃいんだべ?」
「秋夫だバ、頼めば見でける人はなんぼもいます。だども北川さんの身内代わりってば、オラどこだけだと思うンス」
 まだ昼前の事であり診療を待つ人はたくさんいた。医者との長話も憚られてふさと帳場は奥の病室に入った。
 寝台に横たわっていた北川は傷が痛むのか、唇を噛んで苦しげな表情をしていた。だがふさの顔を見て一瞬目を瞠った。
「ふさちゃ。なしてここさ……」
「いいから、なんも考えないで北川さん。オラがついてるス」
「そうだ北川よ。後の事はともかく、今は三原のかあちゃんの世話になれ。な?」
「何か言いかけたが、痛いのか北川はそのまま黙った。間もなく帳場は帰って行った。
「まだ仕事にかかる前の事故だっただけに、顔も体もほとんど汚れてはいなかったが、青っぽいメクの股引きの足首あたりまで厚く巻かれた包帯の白さが目立ち、却って痛々しかった。既に半纏腹掛けは脱がされて、上半身裸になっている右肩の辺りはこれ又こんもりと白布が当てられ、正に満身創痍といった感じがあった。
 寝台の足元に丸めて置いてあった腹掛けと半纏を畳みながら、ふさは訊いた。
「痛む?」
 一つ息を吐き出してから北川の返事があった。
「ン? イヤ……少し。なに、大丈夫だ……」
 言葉とは裏腹にひどく痛むのか、返事が体をなしていない。ふさは半纏の右肩に、まるでねずみが齧ったような疵がある事に気付いた。何がどうなって怪我になったのかまだ誰にも聞かされていないが、それを更めて訊く勇気が出てこなかった。
「北川さん。オラ何せばいい? 何でも言ってけさい」
「す、済まねえ。ふさちゃ……」
北川は何をしてくれとも口にはしない。だが時折肩か足のどちらかに痛みが走るのであろう、声は出さないが顔を歪める事があった。その度にふさは居ても立ってもいられない思いに襲われた。
 細身の股引きは洗い晒して布地の色は薄くなっているが、元々は紺無地の木綿で作られている。丈夫が何よりの仕事着には持って来いの布地だ。ところが楽に穿けてゆとりのあるようなものは野暮とされ、股やすねにピッタリと張りつく窮屈な仕立てが流行りで粋とされていた。
 それが怪我をして横たわっている北川にはいかにもつらそうに見える。何とか脱がしてやりたいが今のままでは到底ムリだ。穿く時は踵に新聞紙か何かを当ててスベリを作らなければ、スンナリと足が通らない細身が仇になっている。仮に包帯を外したとしても、腫れ上がった甲の辺りを通過させる事はできないだろう。この際は脱がすのを諦めて切り裂くしかない。
「北川さん。股引き……、つらいんでねえのセ?」
「うん? だどもいい……」
 恥ずかしがっているのだとふさは思った。脱いでしまえば恐らく下帯一つの裸であろう。ふさにしても彼以上に躊躇う気があった。だがそんな事を言っている場合ではない。ふさは決心した。彼を少しでも楽にさせられるならば恥ずかしさなど二の次だ。
「北川さん。股引き切るしかねえども、我慢してけさい!」
「ン?……。イヤ、いい……」
 北川の返事には取り合わないで部屋を出た。看護婦に鋏を借りるつもりだった。
 着物の上に、胸明きのない被布のような白衣を着けた看護婦が、二、三人忙しく立ち働いていた。訳を話して頼み込むと、それはこちらでやるから手出しをしてくれるな、という。鉄とは言え刃物だ万一何か起きてからではかなわない、という事かも知れなかった。
 怪我の程度が分からないうちはただ動転していたふさも、北川の命に別状がない事を知って、これから何をしたらいいのかを看護婦に訊ねた。必要なものやこれからの手順などを頭に入れながら、診療所を後にした。
 炭山に事故はつきものとは言え、この五年近い間にふさの周辺や知り合いが、大怪我をしたとか亡くなったという事はない。だから今日のように怪我人を間近に見たのは初めてであった。だがホントはそんな経験なしに五年も過ごした、というほうがむしろ不思議なくらいだったのだ。
 それほど事故や災害は炭砿にとって日常的な出来事であった。開かれて間もない炭砿には未知の分野や問題が多かったのに加え、新しい機械器具作業へすんなりと頭も体も切り替わらない人もいる。 又会社がその対策に時間や金をかけてくれなかったせいもある。
 ふさは汗ばんでくるほど急いで家路に向かいながら思った。もし今日事故に遇ったのが正造だったとしたら、恐らくこの何倍も逆上し取り乱したに違いない。これまで一度の怪我もなく過ごせた夫の強運のようなものが、いかにも大変な事であったのに気付いた。しかしそんな好運ばかりがいつまでも続く筈はない、という不安にも駆られた。それを打ち消しながら、せめて今日一日の無事を祈らずにはいられなかった。

 その日からふさの仕事は一気に何倍かになった。食事や洗濯の手間などは一人分増えたところでどうという事はない。だがそれを日に二、三度運ぶのは大変な仕事であった。片道一五、六分の道のりとは言え、それが二度三度となれば大仕事となる。その他にわが家の事、子供たちの世話と、一日が終わった時には自分の体とは思えないほど疲れた。
 正造は自分の友人である北川のためそこまでしてくれるふさに、特別いたわるような言葉もかけなかったが、更に負担を増やすような用事も一切言いつけたりしなかった。
 一人北川だけは終始身の縮む思いがするらしく、ふさと顔が合うたびに繰り返した。
「ふさちゃ。俺ラの世話は帳場サ頼んで、誰かバめっけでもらってけれ。体悪くしてしまうでや」
 ある日ふさは思い切って言った。
「北川さん。今でもオラの事、はるえさんに似でるって思ってらネハ?」
「ン?……。そりゃア……」
「セば、はるえさんに世話してもらってるど思ってたンセ。オラは、北川さんをあや(兄)だど思ってるもの」
「……済まねえ、ふさちゃ……」
 ゆきは利口な娘だったが、五つぐらいでは怪我のため突然部屋に戻らなくなった北川の状態を、スッキリとは納得していない。
「いつ帰ってくるの? ねえ?」
 何度も聞いては佳代子を困らせていたらしい。登川神社の大祭当日は、カラッと晴れ上がっていい天気になった。休日が決められていない炭山は割当日に休む坑夫が多かった。だが今年は噂通り五月十二日の本祭当日が、何となく一斉休日にな った。
 診療所の上の通りを、ヤマから下って来る人々の足が引きも切らずに続いた。昼日中だというのに酔って大声を上げながら歩く者や、はしゃぐ子供たちの甲高い声も聞かれ、夕張もやっと春真っ盛りの気配が谷間に満ちた。更に濃い緑の匂いは暖かな日差しと混じり合って、いっそう人の心を浮き立たせているようだった。
 恐らく駅前から神社へ続く細い参道も、今日ばかりは参詣に行き交う人々の袖が触れ合う賑やかさであろう。顔が合い目が合うたびに互いの声が弾け、日頃は静まり返る北山に潜む鳥や獣などは、何事ならんと身を固くしていたかも知れない。しかし参詣を口実にしそのまま繰り出しゆく人の波で、狭い市街地もごった返してくるのも間違いなかった。
 ふさに頼まれた正造は早々と北川の所に飯を運んで行った。何かと雑用の溜まっているふさは後で来るという。だが休みとあって飯場の連中や槌組の仲間も次々と現れた。正造の知らない顔もかなりある。北川の付き合いの広さに更めて驚かされた。
 世話役の石川も来た。珍しい事だ。よくよくの相手でなければ、このヤマ草分けの飯場主だった親父が見舞いなどには出向かない。それだけ北川を見込んでいるという事かも知れなかった。
「北川よ。お前え、正造のあっぱに何もかんもやってもらってるっちゅう話だなや。どうだ、ここらあだりでかまど持つ気ねえのか? お前えがその気だバ、俺が世話してやってもいいど。どうだ?」
「イヤ、親父さん。それは……。まンズ、この怪我治ってからでも ハア……」
「そうそう人の手ばっかり当てにはなンねえど。それにお前えだっ て、いつまでも若え訳でなかべ? 考えでおけでや」
「ハア……」
 こと結婚の話になると、北川の態度は急に頑になるのだが、さすがに石川親父にはにべもない返事はできない。それにしてもどこか逃げ腰の気配は相変わらずであった。
 理由はともあれ両親や妹を自然な死で見送ってやれなかった北川だったから、世間並みに嫁をもらって一家を構える、という事が簡単には考えられないのかも知れない。もしかしたら、家族が増えればそれだけつらい事や悲しみの数も増える、と過去の経験にこだわっているようでもある。しかしそれを以て結婚に恐れや不安を抱くとしたら、明らかに間違っていると正造は思う。
 どんなに丈夫で頑健な人にも死は必ずやってくる。だがそれがすべての終わりであろうか。きっと誰かの心にその人の何かが伝えられ引き継がれてゆく、と正造は信じている。その上家族というものは、つらさや苦しさを忘れさせる力を多く持っている。そのためばかりではないにしても、人は自分の係累を残そうとするのが普通だ、と北川に話した事もある。
 正造は一つだけ彼に訊いてみたいと思うことがある。それを彼がどう考えているか知りたかった。
 彼は両親と妹の墓を建てないうちは死ぬにも死ねないという。もしそれが本当ならば、結婚もせずもちろん彼の血を引く者も残されない場合、その墓は一体どうなるのだ。彼の死後、守ってくれる者のいない墓の行く末を考えた事があるのだろうか。それでも墓を建てたいと願うのだろうか。
 だがそこまで立ち入って確かめた事は一度もない。
 今日は一日北川と過ごしてやるつもりであった。怪我をした日の夕方駆けつけて以来、普段はどうしても見舞う事が難しかったからだ。
 急に入口のほうが賑やかになって、聞き馴れた甲高い声が聞こえた。振り返ると開けた戸口から勢いよく入って来たのはゆきだった。来る事は知っていたが、わざと北川には話していない。だが驚いた事にその後ろには佳代子の顔があったし、もっと驚いたのはどういう訳か、秋夫を負ぶったさぶの顔まで続いていた。
「おじちゃん! 北川おじちゃん、どうしたの?」
いつものように体当たりする勢いで北川の傍に駆け寄ったが、厚く巻かれた包帯の白さに一瞬ひるんだようだった。そして大きな目を更にいっぱい見開いて、食い入るように肩と足を見比べている。
「オウゆき! なに大丈夫だ。おじちゃんすぐ帰るでや。ウン、明日かあさってか、もうすぐだ。なんでもねえんだハッて心配すンなじゃ。そうかや来てけだかや……」
 僅か数日の事ではあるがゆきは北川に逢っていない。ふさは絶対にゆきを診療所に連れてこなかった。北川の苦痛がとれて落ち着くまではと思っていたからだ。
 ゆきに向かうと途端に北川は饒舌になる。外の誰にも目もくれずゆきべったりになってしまう。それでもやっと一緒に入って来た人間の顔触れを見てびっくりしたようだ。
「や、どうも。まンズ、いろいろ気の毒かけでしまって……」
 佳代子とさぶの取り合わせが解らないのだろう。正造も腑に落ちなくて訊いてみた。
「さぶ。お前えは、なしてここサ?……」
「イヤ……。あの、神社サ行ってみるつもりで出たんだ。したら姐さんに会ってしまって。訊いだら北川さんのどこサ行くっていうし……。俺だって、北川さんだら、一回ぐらい顔出ししないばなんな い義理もあるし……。それで……」
 何かさぶらしからぬ頗る歯切れの悪い物言いだ。するとふさが説明を加えた。
「ゆきが一人で飯場サ行ってたんで、後で秋夫連れでったら、佳代ちゃんも見舞いサ行くっていうのセ。とくさんも来たかったらしいども、みんなして飯場明ける訳にいかねくて、オラたちだけで出たら、さぶちゃんに会ったのセ。セば俺も行くっていうから、秋夫負ぶってきてもらったンス」
 どうやら読めた。さぶの目当てはいうまでもなく佳代子だ。ふさに会ったのは偶然だろうが、同行するらしい佳代子を見た途端にわかに思いついたのだろう。よしんばその行く先が北川の許であろうとなかろうと、何とか口実を設けて、ふさにくっついてきたに違いないのだ。
 どこかに童顔の名残を残すさぶだが、年はもう二四、五になる。人一倍女に関心があって当然だ。しかもこの辺りの若者にとっては、憧れの的ともなっている佳代子に近づける又とない機会である。少しばかりの小細工でお供が叶うならば、たとえ使いっ走りでも何でも喜んでいたしますという顔だ。
 正造はさぶの顔を見ながら、わざと意味ありげにニヤッと笑った。さぶは慌てて目を逸らし、背中から下ろした秋夫を追っ掛けたりした。それがいかにもとってつけた仕草に見えるのだ。
「北川さん、いかがですかお怪我の具合? 伯母も大変気にしておりました」
 佳代子が進み出て挨拶をした。普段はあまり口数がないと聞いていたが、こうした時だからか意外にハッキリと物をいう。だがその挨拶を受けた北川が大変だった。
「えッ、イヤなに、こったらもの大した事ねえ。まンズ、いろいろとみんなサ気の毒かけで……。アノ……。俺ラだバ、何ともねえんだハッて……」   
 まるで返事にも何もなっていない。恐らく佳代子の見舞いがまったく予期しない事だったのだろう。気の毒なほど狼狽えて、事もあろうに傷めた肩の右手を挙げようとしたからたまらない。
「アッ。つうッ!……」
 半分も伸ばせなかった手が縮んで、反対の手が傷めた肩の辺りを押さえた。よほど痛かったのか俯いたまま息を止めた顔には、見る見るうちに血が上った。
「大丈夫? 北川さん!」
 丁度真ん前にいた佳代子は急いで膝をつき、北川の顔を覗き込んだ。今にも泣きだしそうに見えるほど真剣な表情であった。
「おじちゃん、痛い?」
 ゆきまでが寝台に手をついて北川に顔を近づけた。みんなが一斉に彼の表情に合わせて息を止めた。
「ダ、大丈夫だ。つい忘れでしまってハア……」
 恥ずかしそうな北川の表情がまるで少年のようだった。
「しっかりせいでや北川よ。ンだども、痛えどこ忘れる塩梅えだバ、もう心配えねえなや?」
「北川さん、早く快くなってや。北川さんが怪我してからの正さんはうるさくて……。ちょこっと腰下ろすんでも、すぐ天盤だ土べららだって見で回るンだも。一服した気イしねえのサ」
 さぶが横目で正造を見ながら憎まれ口を利いた。
「ホウそうか。ンだバもうやめだ。勝手にせいでや!」
 言いながらさぶを殴る真似をした。さぶは悲鳴を上げながら大仰に頭を抱えて悪ふざけに乗った。
「痛えッ! ウソだってば正さん。ホントはありがた涙がポロポロなんだよ……」
 北川の気を引き立てようとする茶番ではあったが、若い娘がたった一人いるだけで、男たちは訳もなく浮かれてしまう。
 このやり取りを見てゆきは、父親の半纏の裾を引っ張った。
「とうちゃん! 大人バ叩いたらダメッ!」
真剣な顔つきだ。きっと母親にそんな風に言われた事があったのだろう。子供に冗談は通じない。いつの間にか秋夫もゆきと並んで 同じ仕草をした。周りの大人たちは何となく顔を見合わせたが、期せずして一斉に頬がゆるんだ。部屋中の空気がホッと和んでゆく。中でも佳代子が一番嬉しそうに笑っていた。
ふさは片時もじっとしてはいない。運んできた食器や、今持ってきた洗濯物の片付けを始めた。
「ふさ。今日は俺ラがやるから、みんなして市街地サでも行ってこいでや。な?」
 正造は今朝から考えていた事を口にした。
「えッ? だども、まだする事も残ってるし……」
「ンだでや、ふさちゃ。そうしてけれ。折角のお祭りでねえかや。連れでったら、ゆきも秋もなんぼ喜ぶか……」
 北川もここぞと歩調を合わした。
「姐さん。折角正さんが言ってくれるんだも、行こうよ、俺が付いでるからさ。秋は俺が負ぶってってやるよ。ね?」
 さぶも加わった。男たち全員に勧められてふさの気も動いたようだ。
「佳代ちゃん、あんたも行かねか? 時間はどうだの?……」
「そうねえ……。伯母は、ゆっくりしてきていいよって言ってたから、夕方頃までに帰れれば……」
 語尾が消えてハッキリしなかったが、断っている風でもなかった。言いながら北川のほうにチラッと視線を走らせたが、北川は気付かずにふさの返事を待っているようであった。 正造はもっと前にふさを連れて街へ出るつもりでいた。独り決めながら、ふさに着物を買ってやる胸算用をしていたのだ。一緒に行くのは気恥ずかしかったが、ふさ一人では決して自分のものを買おうとしないのを知っている。もったいないを連発して、子供たちか正造のものにしてしまうのは目に見えていた。
 祭りまでには何とか間に合わせてやりたかったのに、到頭その暇がなかった。祭りの当日ならば休めるかな、と思っていた矢先に北川の怪我だった。
 そんな胸の中を誰に話せる訳でもなかったが、せめて今日ぐらいはのんびりさせてやろうと朝から考えていたのだ。
「さぶ! お前えなんかどうせ行くどこなんてなかべ? 今日は女子供の追い回しになれ! いいか、お前えの行きてえどこでねえど。大事だお客さんの行きてえどこだど。間違うなや?」
 正造はさぶに片目をつぶって見せた。
「わ、分かった正さん。任してけれでや。暗くなんねえうちに、間違いなく送ってゆくから……」
 慌てて返事をしながら、さぶは気負い込んですぐに秋夫の手をつかんだ。
 ちょっと見には陽気で些か軽薄にも見えるさぶだが、結構骨っぽくてしっかりした根性を持っているのは長い付き合いで知っている。任せておいて何の心配もないどころか、いっそ今日の役どころは打って付けと見た。恐らくは佳代子の前で大車輪の活躍をするに違いないと睨んだ。
 正造はわれながらいい思いつきだったと内心ではニヤリとしながら、今夜ふさに報告を聞くのが何とも楽しみになった。
 みんなが出て行った後の病室には、暫し風の途絶えた山間にも似た静寂が残った。男二人には急いで語らなければならない話題もない。
 だが正造はフッと思い出して口を開いた。
「北川よ。お前え、あの娘さんバどう思うや?」
「どうって、何だや?…….」
 正造が問いかけた真意を計りかねている。
「飯場の飯炊きだえンた柄でねえよな?」
「ンだなや……。似合わねえかも知らねえなア……」
「いつ頃、飯場サ来たのな?」
「……去年の九月五日からだ!」
 思いがけなくキッパリとした返事が返ってきた。正造は驚いて北川の顔を見た。
 遠くを見るような目つきをした北川は、確信ありげに頷いた。
「お前え、日にちまで覚えでンのか?」
「……石狩川や夕張川が暴れたのは、あれは五日の朝から降り出した霧雨が始まりだった……」
 記憶をたどるように、ゆっくりと北川が語りだした。


(ゆうばり物語 第一部 了)

ゆうばり物語 第一部

ゆうばり物語 第一部

炭砿を題材にした小説やドキュメンタリーは多々ありますが、戦前、明治〜昭和初期にかけての坑夫の物語は極めて少なく、著者は子供の頃見聞きした坑夫たちの生活や、お年寄りから聞かされた古い因習をからめた逸話、労働運動の開拓者たちの生き様など、自分の頭の中に残っている生々しい記録をなんとか小説という形で残したいと考えていました。在職中から膨大な量の資料を集め、定年後10年かけて全五巻もの長編小説を書き上げました。刊行の10年後に著者は病没しましたが、夕張の歴史遺産の一つとして、多くの方に読んでいただければ幸いです。

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-15

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