「おいしい」の一言

食べることが大好きな女の子とその女の子が気に名ある男の子の話


 僕の所属している劇団の役者仲間の一人に中森かな子という小さくて、でも元気いっぱいで、そして食べることが大好きな女の子がいる。

「中森さん。クッキー食べる?」
 僕が声をかけると、彼女は途端にキラキラと瞳を輝かして、頷いた。クッキーを手渡すと、より一層輝いた瞳で彼女は元気に、ありがとうとお礼を言ってから、クッキーを頬張りはじめた。
僕は、彼女の食べる姿が好きだ。今のように、食べ物を目にした途端に輝きだす瞳だとか、頬張る姿がまるで小動物のようだとか、そういったところがとても可愛らしく思えた。そして何より、彼女は本当に幸せそうに食べるのだ。見ていてこっちまで幸せになるような、そんな食べ方だ。幸せそうに食べる彼女を見ると、僕も幸せになった。その幸せそうな彼女の笑顔が大好きなのだ。
それは、僕だけではなくて、他の役者仲間たちも同じだった。差し入れはいつも彼女が喜びそうな、話題のお店の食べ物ばかりだ。彼女は皆の妹で、とても愛されているのだ。僕ももちろん、そんな彼女が大好きだ。
僕と彼女は歳も近いから、よく一緒に行動する。休憩中にゲームをしたり、稽古終わりに二人で食事にも行っていたりしていた。

ある日、今日は、前から彼女が行きたがっていた鉄板焼きのお店にでも誘おうかと思い、いつものように稽古終わりに声をかけてみた。すると、彼女は一瞬困ったような顔をしてから申し訳なさそうに言った。
「今日は、やめておくよ。ごめんね。村雨さん」
あんなに行きたがっていたのに、彼女は家でのんびりすると言った。こんなことは初めてで驚きはしたが、一人になりたい時もあるだろうと思い、深くは考えないでいた。
しかし、その日を境に何度食事に誘っても、彼女は首を横に振り続けた。具合が悪くて食欲が出ないのだろうかと心配したが、毎回しっかり稽古には来ているから、その可能性は低い。そして、こうも断れ続けられると、もしかしたら避けられているのではないかと不安になる。気づかないうちに彼女の気を悪くさせるようなことをしてしまったのではないかと考えてみても、心当たりはなかった。食事に誘っていたこと自体、迷惑だったのかもしれない。そんなことばかり考えていたら、だんだん暗い気持ちでいっぱいになってきた。
「村雨、どうしたんだ?」
ぽん、と肩を叩かれて振り返ると、劇団の先輩である高原さんが心配そうに僕を見ていた。高原さんは劇団のお父さん的な存在の人だ。そんな彼に、僕は思い切って彼女のことを相談してみることにした。話し終えてから、彼はしばらく考え込んでいるような仕草をしてから顔をあげてこう言った。
「お前だけじゃなくて、ここ最近、カナはみんなの誘いを断り続けているんだよな。だから、お前が嫌われているとか、そういう心配はしなくていいんじゃないか」
ぽんぽん、と今度は二回肩を叩かれた。それから彼は、指を顎に当てて首を傾げた。
「でも、なんで急にそうなったのかは、わからないな」
高原さんの、その言葉を聞いてから考えてみた。最近僕は誘いを断り続けるようになる少し前から、彼女に違和感を持っていた。何かがおかしい。何かが足りない。そんな気がした。どこか元気がないようにも見えた。
その時、ふと気が付いた。あぁ、そうだ。最近彼女が何かを食べている姿を見ていない。    
あの幸せそうな笑顔を最後に見たのはいつだろう。

次の日、稽古終わりに彼女に声をかけてみた。
「ごはん、食べにいこう」
「ごめんなさい。今日もやめておくよ」
いつもだったら、ここで引き下がっていたが、今日はそうしなかった。まっすぐに彼女を見てハッキリと言った。
「だったら君の家でもいい。とにかく一緒に食事をしたいんだ」
僕のこの言葉に彼女は眼を見開いて驚いていた。それから渋々といった感じに僕を家に招いてくれることになった。
強引なことをしているとわかってはいるが、こうでもしなければ何も変わらない。
もう後戻りは出来ないと、僕は手のひらを強く握って、彼女の後に続いた。

「今日は、お母さんたち出かけているから、出前で済ませちゃうつもりなんだけど、村雨さんもそれでいいかな?適当にメニュー選らんじゃうね」
「うん。任せるよ」
予想外だ。まさか彼女の親が外出中だとは考えていなかった。つまり今、年頃の女の子と二人きりということであって、さすがに、ここは帰ったほうがいいのかもしれない。しかし、そんなことを気にしているのは、どうやら僕だけらしく、彼女は出前のメニューを片手に、せっせと電話をかけていた。ここは、男として意識されていないことを悲しむべきかどうか、複雑な気分のまま、彼女の後姿を眺めていた。

しばらく経ってから、何かがおかしいと思い始め、それからすぐに違和感に気付いた。やけに電話が長いのだ。二人分の食事の注文にそんな時間がかかるとは思えない。僕は気になって電話をかけている彼女の声に耳を傾けてみた。
「それから、チャーハン三つに餃子が五つ。醤油ラーメンが二つに味噌ラーメンが三つ。天津飯が二つ。麻婆豆腐が一つ。酢豚が二つ。ライスが六つ。あ、それから…」
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて声をかけると、キョトンとした顔の彼女が振り向いた。どう考えても多い。尋常ではない量だ。二人だけでは絶対に食べきれない。
「食べきれないんじゃないかな」
「大丈夫です。私、最近たくさん食べるんですよ」
 ヘラリと彼女はそう言って笑った。確かに、彼女はよく食べる方だ。男の僕より、もしかしたら食べるんじゃないだろうかと思うぐらいだ。それでも、さすがにこれは多すぎだろう。しかし、彼女は僕の話は聞かずに、キャンセルするどころか、さらに追加で注文してから受話器を置いた。
注文してしまったのならしょうがない。僕は気持ちを切り替えて彼女と向き合った。
「最近、食事に誘っても断っていたから、どうしたのかなって思って…食欲がないのかと思った。」
「逆です。ありすぎて行かなかったんです。だって、さすがに恥ずかしいでしょう?」
 そう言って、彼女は笑った。その様子を見てどうやら僕の考えすぎだったようだと、安心した。
それから、他愛もない会話をしていたら、家のチャイムが鳴った。どうやら出前が届いたようだ。運び込まれる料理の数に圧倒される。テーブルに乗り切らない。いつもどうしているのかと聞くと、仕方がないから床に置いていると彼女は言った。こうして、部屋は山のような料理でいっぱいになった。
席に着いた僕たちは、いただきますと食事前の挨拶をして食べ始めた。味は、悪くない。でも、やはりこの量は無理だろうなと部屋に広がる料理の数々に視線を向けた。彼女は、ただひたすら食べていた。ごはんを常に横に置いて、色鮮やかな色の炒め物や点心などをおかずにして食べている。いつもだったら、この光景が微笑ましいと感じる僕だけれども、なんだかそうは感じることはできなかった。特に見た感じでは、変わった様子もないのに…。
なんとなく、僕はそこで、こう質問してみた。はたから見れば何の変哲もない質問だ。だけれども、今この瞬間彼女にとっては、とても重要な質問のように思えたのだ。
「おいしい?」
 すると、今までの動きが嘘の様に彼女の動きが一瞬止まった。
「え?」
「ん?」
「あ、いや…うん。」
 いつも、すぐにおいしいと答える彼女らしからぬ返事に僕はまた違和感を持った。おかしい。そういえば、彼女はさっきからひたすら食べているだけなのだ。例えば、今彼女が食べている天津飯だって、卵のふわふわ感がたまらないと彼女は満面の笑みで言うだろうに、一言もしゃべらないでいる。それに、変わらない表情も気になった。
あの瞳の輝きは何処に、幸せそうな顔は何処に行ってしまったのだろう。思わず、箸を持っていた手に力が入った。
「嘘だよね」
「え?」
「中森さん。嘘ついているでしょう?」
「何が?」
「この料理。おいしいって、思っていないでしょう?」
「…そんなことない」
「そう?」
「うん」
 視線を逸らされて、彼女はまたもぐもぐと料理を食べ始めた。
もぐもぐ、もぐもぐ、彼女は食べている。
僕も、また手を動かし始めた。カチャカチャと食器が触れ合う音だけがむなしく部屋に響いた。
 
どのくらい経ってからだろうか、彼女が突然ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「私ね、最近テレビのお仕事も始めたんだ」
 話し始めた彼女だが、手を休めることなく食べ続けている。僕は、相槌を打ちながら彼女の話を聞いた。
「舞台の芝居以外の、仕事って始めてでね、すごく疲れるんだ」
「うん」
「この前出たバラエティー番組なんてね、本番ではさすがに使われなかったけどね、いやなことたくさん聞いたし、聞かれたし、普段見えていなかった汚いところ見せられた気分でね、いやになっちゃったの」
「うん」
「それでね、私ね、食べるのが好きだから、いやなことがあったら、食べてスッキリしようって、考えるタイプなんだ。だから、テレビの仕事が始まってから、たくさん食べるようになったの」
「うん」
 カチャカチャとレンゲで麻婆豆腐を小皿によそいながら彼女は話し続けた。食べる手は、まだ止まらない。
「最初はね、おかずを一品増やす程度だったの。だけど、またいやなことがあると、それじゃ全然足りなくて、また増やしていったの。いつの間にか、こんな量になっちゃった」
 そう言って、彼女は僕に見せるように、レンゲでご飯をいっぱいよそって口に運んでいった。
ぱくぱく、もぐもぐ、彼女は食べ続ける。
「でもね、ある日気づいちゃったの」
「何を?」
「わかんなくなっちゃったって」
「…何が?」
「味が」
 僕は、目を見開いて彼女を見つめた。彼女は困ったように笑っていた。その手に、今度はラーメンのどんぶりがあった。
「このラーメンの味も、さっきのご飯の味も、全部、全部わからなくなっちゃった」
「じゃあ、おいしくない?」
「おいしいもなにも、わからないから。でも、さっき、嘘ついたことには変わりないから誤るよ」
 僕は、別に謝って欲しいわけじゃないのに、何も言えなかった。そんな顔じゃなくて、僕が見たいのは…。
「食べても、食べても、味がわからないんだ」
 ズルズルと、彼女はラーメンを食べ始めた。
「中森さん」
「おいしいってわからない」
 彼女の名前を呼んでみても、彼女は答えてはくれなかった。
「楽しくない。でも、食べるのはやめなかった」
「中森、さん」
「だって、いやなことを食べ物と、一緒に、一緒に飲み込んでしまいたかったから」
 いつの間にか、彼女は、ぽろぽろと泣いていた。泣いているというより、むしろただただ目から雫が溢れ出ているという感じだった。でも、それでも彼女は食べるのをやめなかった。やめられないのだ。
「本当は、食べることが好きなのに」
「中森さん」
「楽しいはずなのに」
「中森、さん」
「いつの間にか、苦しいことになっちゃってた」
「中森さん」
「なんでかなぁ、なんでこんな感じになっちゃったんだろう」
「中、森さん」
「おいしいって、最近言ってないもの」
「中森さん」
「おいしいって、なんだっけ?」
 ここで、初めて彼女は表情を歪ませた。何かに耐えるような、苦しそうで、悲しそうな顔だった。ようやくここで、僕は彼女の心が見えたような気がした。
「中森さん」
「ごめんね、一緒に食事をしているって言うのにさ」
 しかし、すぐにそれは隠されてしまって、彼女は苦笑した。でも、苦笑しながらも涙は流れ続けていた。もぐもぐ、ぽろぽろ、ぱくぱく、ぽろぽろ、ぽろぽろ。心と体が矛盾している。
彼女は、それでも食べ続けていた。
「やっぱり、これからも、一人で食べたほうがよさそ…」
「中森さん!」
 彼女の言葉を遮るように、そして自分でも驚くぐらいに大声が出た。シンと、部屋が静まりかえる。見ている僕が耐えられなかったのだ。
僕は、何もわかっていなかったんだ。彼女をここまで追い込ませたものにも気づいてあげられなかったんだ。でも、まだ間に合うと思いたい。また、あの幸せそうな笑顔が見たいんだ。
「キッチン借りてもいい?」
 先ほど、僕が大声を出したことにびっくりしのか、彼女は目を見開いて僕を見ていた。その彼女が、こくりと頷くのを確認してから、僕はキッチンへと向かった。冷蔵庫を開けて少し考え込む。
彼女の、あの笑顔を見たい僕は、考えた。考えた結果、これしかないと思ったのだ。
冷蔵庫から、数種類の食材を取り出していった。
 
それから数分後、彼女の前に小さい土鍋を一つ置いた。待っている間、彼女は食べることはやめていた。ただ、ぼんやりと座っていたようだ。
「開けてみて」
「うん」
 蓋を開けたとたんに、やわらかい湯気が立ち上り、ふわりとやさしい香りが漂ってきた。我ながら、うまくいったと思う。
「たまご雑炊だよ。あまりもので簡単に作ってみたんだ」
「うん」
 目を擦りながら彼女は曖昧に頷いた。僕は、勇気を振り絞って、彼女に語りかけようと思った。君は一人じゃないよとか、君を想っているよとか、頑張ったねとか、無理しないでいいんだよとか、言いたいこと、言うべきことはあるのだろうけど、僕は口に出せなかった。
ただ一言言うだけで、いっぱい、いっぱいだった。
「ゆっくり、食べてね」
 すぐに彼女は雑炊に手を出さなかった。怖がっているように見えた。また、味がわからなかったら、悲しい、怖いと、僕の料理に対して、そう思ってくれているように見えた。
 しばらく経って、ようやく彼女はレンゲを手にした。それから、恐る恐るといった感じに、彼女は雑炊をすくった。
「いただきます」
 小さく呟いた彼女は、一口だけ食べた。
もぐもぐ、もぐもぐ。彼女はゆっくり、ゆっくり食べていた。
こくり、と飲み込んで一息ついた彼女が顔を挙げた。彼女と目が合う。すると、ふわりと彼女は微笑んだのだ。
「おいしい」
その笑顔は、まさに僕が見たかった、あの、幸せそうな笑顔だった。
「おいしい、おいしいよ。村雨さん」
 でも、その笑顔はすぐに泣き顔に変わって、彼女はまた泣きながら食べていた。でも、今度の涙は、悲しいとか苦しいものじゃないだろうなと、僕は思う。
もぐもぐ、ぽろぽろ。
おいしい、おいしいと彼女は何度も言いながら食べていた。
 それからしばらく経つと、もう土鍋の中身はきれいになくなっていた。両手を合わせて彼女はご馳走様でしたと僕に言った。
「おいしかったです」
「うん。よかった」
「また…」
「ん?」
「また、村雨さんの手料理が食べたいです」
 いいですか?と彼女は遠慮がちに僕のほうを見ながら首をかしげた。もちろん、僕は彼女のあの笑顔と「おいしい」という一言が大好きなわけで、そのためだったら何度でも彼女に手料理をふるまう。僕は笑顔でもちろんと彼女に答えると、彼女もまた嬉しそうに笑ったのだった。

 次の日から、僕は彼女のために手作りのお菓子だったり、お弁当だったりを渡すようになった。それに気づいた高原さんは何も聞かないで、ただ僕と彼女の頭をぽんぽんと撫でて、よかった、よかったと温かい目で言った。

「今日はキノコのパスタを作ってきたんだ」
「へぇ、おいしそうだね」
彼女は早速お弁当を開けた。彼女の隣に僕も腰かけて、二人並んで食べ始めた。
「どうかな?」
「うん、おいしい」
 よかった、僕は安心してそう言った。僕も彼女に続くようにパスタを食べる。うん、我ながら悪くない。もっと、もっと上手くなれば、彼女は喜んでくれるだろうか。頑張らなくては。
僕は、何度だって、彼女の「おいしい」という言葉を聞きたいのだ。

 

「おいしい」の一言

これも、授業で書いたものです。

「おいしい」の一言

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-14

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