Wash Out

wash out- 【他動詞】+ 【副詞】〈…を〉洗い落とす,〈…を〉押し流す

 ほんのり薄暗く、退廃的な空気の漂うこの場所は、どんなに時代が変わってもなくならない。
 いろいろなことが便利になった世の中で、どうしても必要な場所だとは、思えない。
 私だって、できることなら、週に二、三回、通わなくて済めばそれに越したことはないと思っている。
 学校の都合や友達との約束、あるはずのない恋人とのデートなどという予定が入っていないことを前提にして、私は毎週、月曜と木曜にここへ来る。

 何度会っても、『知り合い』にはならない人たち。
 太い黒縁の眼鏡をかけたインテリ大学生風の男。彼はいつも、待ち時間にベンチに座ってプロレス雑誌を読んでいる。
 月曜日にだいたい一緒になる、いわくありげな女。ギスギスと痩せた身体に、ヒョウ柄のワンピース。間違いなく、夜のお仕事。いつもは濃い目に化粧していると思われる、すっぴんの血色悪い顔が、『薄幸』という言葉を連想させる。
 でかいアメ車に乗ってくる、チャラチャラした服装の若い男。ウーハーがうるさい。指にいくつも、ごついデザインの指輪をはめている。格好つけて、馬鹿みたいだ。そんなふうに世の中に歯向かったって、てめぇのパンツは毎日汚れるんだよ。アメ車を買う前に、洗濯機を買え。

 深夜のコインランドリーは、二十一世紀の日本の文明から取り残された人たちの、集まりみたいだ。

 私は、生まれて二十数年、コインランドリーに言ったことがなかった。でもそれは、別に珍しいことじゃない。全自動洗濯機は、いまやどの家庭にだって当たり前に、ある。
 実家にいたときには、母が家の洗濯機で家族の衣類を洗った。まだ私が小さかった頃、うちには『二槽式』の洗濯機があった。母が、洗濯槽から脱水槽に衣類を移す作業を、冬は手が冷たいと言って愚痴っていたのを、幼心に覚えている。
 実家を出たのは、十八歳のとき。実家から離れた大学に通うためだ。だけれども、賃貸アパートでの独り暮らしは、一年半で終わった。
 二人暮らしになったのだ。
 付き合った男は、二十代の社会人だった。私は、それまで暮らしてきたアパートの家財道具をすべて売り払って、彼の、独り暮らしだった部屋へ転がり込むパワーを持つほど、彼が好きだった。
 二人暮らしの二年間は、あっという間に過ぎた。大学に通いながらも、彼との暮らしを私は結婚生活のように錯覚した。
 そしてあるとき、私がサークルの飲み会から帰ると、彼は消えていた。
 二人でかわいがっていたハムスターのケージ、そして洗濯機とともに。
 突然だった。
 それ以来、彼は戻ってこない。

 ハムスターは、まぁわかるよ。だけど、なぜ、洗濯機?
 私のように、いっさいの家財道具を捨てて転がり込んだ女の家に、たまたま洗濯機がなかったとか?
 それとも、洗濯機が一台じゃ足りないほど、汚れ物がたくさん出る女? それ、なんかいやだな。
 とりあえず、私の使える洗濯機は、なくなったということ。これだけは事実。

 彼(と、ハムスターと洗濯機)の失踪事件があったのが、二か月前。それから私は、例の場所へ、夜な夜な通い続けているのだ。
 新しく洗濯機を、買おうと思ったことがないわけじゃない。むしろいつだって「そろそろ買わないとなぁ」と考えている。
 なにか他の用事で家電量販店に行ったとき。
 テレビで洗濯洗剤のコマーシャルを観たときだって、意識は、する。
 お金がないわけでもない。
 『二人暮らし』の件は、両親には秘密にしていたから、実家に電話をかけて「洗濯機が壊れたみたい」とでも言えば、「それは仕方ないわね」としぶしぶながらも、洗濯機代を送金してくれるだろう。
 それでも購入に踏み切れないのは、そろそろ替え時だと思っていながらドラッグストアで新しい歯ブラシを買い物カゴに入れるのがいつも後回しになる、そんな感覚に似ている気がする。



 初めて、アパートの近くのコインランドリーに行ったときのことは、よく覚えている。私はとても緊張していた。コインランドリーのシステムが、まるでわからなかったからだ。
 その日は、私の他に五、六人の客がいた。みんなが、まるで生まれたときからの常識として知っているみたいに、黙々と、ただ洗濯をしていた。とても、その中の誰かに使い方をたずねられそうな雰囲気ではなかった。もし勇気を出して声をかけようものなら、ここにいる全員が、なにか珍しい生き物でも見るように私に注目するんじゃないかと思えた。そしてなにより、この空間にはなにかしら、乱してはならない『独特な秩序』みたいなものがあるように感じたのだ。

 私は、洗濯物の入ったエコバッグを両手で抱え、なるべく音を立てないように他の人の前を通り、備え付けてあるベンチに腰を下ろした。そして周りに悟られないように、他人の洗濯を観察し始めた。
 コインを投入するタイミング。ボタン操作。あ、そういえば洗濯洗剤なんて持ってきていない。洗剤は、自動的に出てくるの? ……違う、あそこに見える自販機は、洗濯洗剤を売るものだ。
 四つ並んだうちの右から二番目の洗濯機は、もうとっくに仕事を終えているのに、誰も中の物を取りに来ないようで、それ以外の三つはすべて、稼働中。右から二番目の使用主は、きっと出かけてしまって、洗濯していたのも忘れているのだろう。迷惑な話だ。とは思いつつ、『埋まっていて使えない』という理由を、右も左もわからない私に与えてくれたことには、少し感謝した。
 しばらく見ていると、一番左の洗濯機が、終了ランプを点滅させて、ピーッと鳴った。この洗濯機の使用主はベンチで漫画雑誌を読んでいて、まるで病院か銀行で自分の名前が呼ばれたときのように、すっと立って速やかに中の洗濯物を取り出した。模範的なコインランドリストだ。私は、この、ちょっと気の弱そうな学生風の青年を、手本とすることにした。
 洗濯物を取り出した彼は、続いて乾燥機に向かった。ここからが大切だ。
 私だって、洗濯機くらいなら、使ったことのない機種であっても、操作できる気がした。ボタンには親切にそれぞれの機能を示す名称や記号が書かれているし、戸惑うことはないはずだ。わからないのは、あのばかでかい金庫みたいな、乾燥機。私は、じっくりと彼の動作を観察する。
 まず、扉を開けます。洗い上がった洗濯物を入れます。扉を閉めて、コインを投入。なるほど、百円で十分間、回るのか。青年は、百円玉を二枚、投入口に入れた。『20』という数字が、デジタル表示される。青年はそこでまたベンチに戻って、雑誌の続きを読み始めた。あとは二十分待つだけでオーケー。できあがり。

 よし、これなら私にもできそうだ。勇ましく立ち上がり、さっきまで模範青年が使っていた洗濯機の前に立つ。
 洗濯物をどさっと放り込んでから、洗剤を買うのを忘れていたことに気がついた。顔を赤らめながら、こそこそと自販機に向かい、洗剤を買う。私がランドリー素人だと、周囲の人に気づかれたかも知れない。
 自販機の洗剤は小さな使いきりタイプで、少ししか入っていないわりに値段が高い。次からはドラッグストアで買って、持ってこよう。マイ洗剤を、小脇に抱えて入ってきたら、私もプロ・ランドリストに見えるかも。
 コインを入れて、洗剤を入れて、無事に洗濯機を稼働させることができた。とりあえず、一安心。塗装のはげかかったカラーボックスから、何か月も前の号のファッション誌を取り出して、ベンチに座る。膝の上で雑誌を広げながらも、私は辺りが気になって仕方がなかった。
 誰もが無言で、洗濯機と乾燥機だけが静かに唸っていた。彼らの視線が交差することはなく、なぜだかみんな伏し目がちで、雑誌や本を読んだり、携帯電話をいじったりして、ひたすら洗濯が終わるまでの時間を潰しているようだった。
 確かに、外に出て用事を足して来られるような時間はないし、かといって、ただ待つには十分、二十分というのは意外と長い。右から二番目の洗濯機のように、出かけていって終了時間に間に合わない、というのも心配だ。他の人に迷惑がかかる上に、自分の衣類を、目の届かないところに放置するのは、やっぱり不安でもある。

 夜、十一時の、郊外のコインランドリー。洗濯機が止まるのを待つ間にも、入れ替わり立ち代りお客が来る。ここ最近、雨が続いているせいか、乾燥機を使いにくる人が多いようだ。
 突然、ガタン、という音のあと、ピッピッという洗濯機とは違う機械音が鳴り、先ほどの模範青年が立ち上がった。彼は無駄のない手つきで乾燥機の扉を開け、中に入っていた衣類をきちっとたたみながら、旅行カバンのようなものに詰め込み、それが終わるとさっさと出て行った。
 青年を目で見送ると、私の衣類の入った洗濯機が、終了の合図を鳴らした。他のお客に取られまいと急いで脱水の終わった衣類を取り出し、さっきまで青年が使っていた乾燥機にそれらを投げ込む。
 さっき見た通りに、投入口にコインを入れる。いったいどのくらいの量で、何分間まわすべきなのか、さっぱりわからなかったので、青年にならって百円玉を二枚、入れることにした。
 再びベンチに戻り、読みもしない雑誌を広げる。
 右から二番目の、放置洗濯機の主が戻ってきた。悪びれる様子もなく、もたもたと洗濯物を取り出すその男は、のちによく会うことになる、アメ車男だった。
 二十分後、乾燥機から出てきた私の洋服たちは、びっくりするほどふんわりと温かく、思わず顔をうずめたくなる。たたみながら持ってきたときのエコバッグに詰め込んでいくと、バッグからはみ出そうなほどだ。なんだか嬉しくて、帰り道は大好きな歌を口ずさみながらのんびりと歩いた。
 不思議な空間だけど、思ったより悪くない。
 こうして、私のコインランドリーデビューは無事に終了したのだった。



 あんなにドキドキして、嬉しかったデビューでも、半年も経てば慣れるし飽きる。やっぱり洗濯は、家でできたほうがいい。コインランドリーは、けっこうお金もかかる。
 とはいえ、洗濯機があろうがなかろうが、否応なしに洗濯物は溜まる。私のコインランドリー通いは、いつしか人の少ない月曜と木曜の深夜の習慣になっていた。

 ここにくる客には、二種類の人がいる。
 乾燥機のみを使いにやってくる人と、洗濯から乾燥までひと通りこなしていく人。乾燥だけの人は、家で洗濯をしたけれども、急いで乾かしたいものがあるだとか、天気が悪いせいで、洗濯の回数が洗濯物の乾く速度を上回っているとか、そんな理由で利用するのだろう。
 対して、ここで金を出して洗濯機を使う人。深夜に洗濯をすると翌朝かならず近隣住民からポストにゴミが投げ入れられている、それなのに洗うべき衣類が溜まっていてどうしようもない、というような、特別な事情があるとか。それとも、ただ単に洗濯機が壊れてしまって修理に出しているから、とか。たまに来るだけなら、こんな理由も考えられるだろう。

 では、それ以外の人は?
 何度も何度も見る顔。毎回、フルコースで洗濯物を仕上げてゆく。
 彼らはなぜ、洗濯機を持たないのか。
 私だって、そう訊かれたら明確な答えは出せずに、困り果てるに違いないけれど。
 そして来る時間帯を深夜に変えてから、ここで会う人たちは、ほぼ決まった顔になった。
 まだ家庭に洗濯機もなかった時代や、使う習慣のない国の人であれば、これが交流の場のひとつにでもなり得るだろうが、二十一世紀の日本、深夜のコインランドリー。そんな可能性は皆無に等しい。



 それはある木曜日のことだった。
 いつもの時間に、洗濯物を抱えてコインランドリーに行くと、インテリ眼鏡と、他に二人お客がいた。私はルーティンワークをこなすように、洗濯を始める。
 洗濯機を稼働させてベンチに座り、持参した文庫本を読んでいるうちに、二人の客は乾燥を終え、出て行ってしまった。インテリ眼鏡と二人きり。
 過去にも何度か同じシチュエーションになったことがあるし、特に気まずい思いはない。
 彼は、音楽プレイヤーのイヤフォンを耳にはめながら、今日もプロレス雑誌を読んでいる。私も、途中まで読みかけた小説のページを開く。
 入り口のドアが開く音がした。ちらりと横目で見る。四十歳前後の男だった。スーツ姿で、首元のネクタイはかなり緩んでいる。
 あれ、と違和感を感じたのは、男が『手ぶら』だということに気づいたからだった。
 洗濯機は私が使っているもの以外は上ぶたが開いているし、乾燥機もインテリ眼鏡の使っている一台だけが回っている。男が洗濯物を取りに来たのではないことは、明らかだ。

 いやな予感がした。

 男はふらふらとおぼつかない足取りで、私の座っているベンチへと近づいてきた。
 そして私の隣にどさりと座った。
「ミキちゃんがさぁ、予約がいっぱいだって、断られたんだ」
 そう言う男の息は、ずいぶんと酒臭い。顔は上気しているようだけれど、なんだか赤いというよりは、どす黒い。
「はい?」
 意味がわからずに、無愛想に返事を返す。
「ミキちゃん、次にきてくれたらサービスするって、言ってたのに……。断られたんだよ」
 悲しそうな声を出すが、私にはただただ気味が悪いだけだった。
「おねえちゃん、ひまかい?」
 顔を上げ、私を見る。
「ひまじゃないです」
 言い終わらないうちに、男が私の両肩を掴み、酒臭い息を吐きながら顔を近づけてきた。息を避けるように、横を向く。
「ね、ちょっとだけ。ちょっとだけでいいからさ」
 ちょっとだけなによ、と思いながら男の体を必死に押しやる。けれども酔った体は重く、汚らしい唇をさらに接近させてくる。
「やめてもらえませんか」
 力づくで男の体を離そうとするけれど、顔はどんどん近づく。
「あいてててて! なにするんだよ!」
 急に、男の叫びが室内に響いた。
 はっとして男の背後を見ると、さっきまで大人しく音楽を聴きながら雑誌を読んでいたインテリ眼鏡が、男の腕を後ろ手にひねりあげていた。インテリ眼鏡はそのまま、男を床に叩きつけるように私から引き離すと、うつ伏せに倒れ込んだ背中に馬乗りになり、組んだ両手を男のあごにかけ、そのまま力任せに上に持ち上げた。
「くるしい、くるしいよ」
 男の声は声になっていない。体はえびぞりの格好で、顔はみるみる真っ赤になっていく。
「わかった、わかったよ悪かった! ギブだギブ! もう離してくれ!」
 両足をばたつかせながら、絞り出すように男が言うと、インテリ眼鏡は無言で手の力を緩めた。その隙に男は、インテリ眼鏡の股ぐらから素早く抜け出す。
「なんだよ、にいちゃんたち付き合ってるのかよ。人が悪いぜ。ミキちゃんにも断られるし、今日はもう最悪だ」
 おどおどした視線で、私とインテリ眼鏡を交互に見ながら、男は逃げるようにドアを開け、飛び出していった。
 あっけに取られていると、外で「おえぇ」と男が嘔吐しているのが聞こえた。
 インテリ眼鏡は、終始、無表情で、男が出て行くと、また元のベンチに座って、何事もなかったように雑誌を広げ始めた。私はまだ、立ち上がったまま座れずにいた。
「あの」
 なにかお礼のようなことを言わなければと、インテリ眼鏡のベンチに近づく。
「キャメルクラッチですよ」
 雑誌から顔を上げず、淡々と、私の言葉を遮った。
「え?」
「技です。プロレスの」
「あの、さっきのやつ?」
「はい」
 今まで興味もなかったので気が付かなかったけれど、インテリ眼鏡は、よく見ると肩幅も思ったより広く、半袖のTシャツから覗く上腕にもほどよく筋肉がついていた。
 ありがとうございました、と言うタイミングが見つからずに、立ち尽くしていると、彼は続けた。
「たまに来ますよ、ああいう人。ここ、駅も近いので。この時間帯は特に」
 そう言うとインテリ眼鏡は、またイヤフォンを耳に装着したので、私はお礼の言葉をいったんあきらめて、ベンチに腰を下ろした。
 洗濯機が脱水を終えて、終了音を鳴らす。
 中の衣類を、備え付けのキャスター付きバスケットに移しながら、独り言のようにつぶやいた。
「なんで、『付き合ってるのかよ』なんて言ったんでしょうね……。あの人」
 その瞬間、イヤフォンで音楽を聴いているはずのインテリ眼鏡の顔が、急に赤らんだのを、私は見逃さなかった。



 あの『事件』以降もインテリ眼鏡とはよく会ったけれど、お互い挨拶や会話をする関係になることはなく、それまでと、まったく変わらなかった。
 会うメンバーに変化もない。インテリ眼鏡を含む三人。月曜に行けばヒョウ柄女。月曜にも木曜にも、ランダムに会うのはアメ車男。

 アメ車男は、よく女を連れてここに来ていた。どういう付き合い方をしているのかわからないけれど、女はしょっちゅう変わった。彼女たちの共通点は、甘ったるい声が聞いているこちらをイラつかせるような、頭の弱そうな印象の女子ばかりだということ。そういう女が好きなのだ。この男は。アメ車男についてくる女たちは、洗濯を待つ間、いつも男にべったりと寄り添っていた。

 ある女は、雨の続いた日の夜、少し混雑した室内で、フル回転の乾燥機が空くのを待っていた私とアメ車男が、同時にひとつの乾燥機の扉に手をかけ、その手が少し触れ合ったのを見て、私のことを親の仇でも見るかのように、キッと睨んだ。
 ある女は、ベンチで化粧をしながら、室内に響き渡る声量で、ヘタクソな流行り歌を歌っていた。
 また別の女は、「ねぇー、タカちゃん。あたしー、生理こないんだぁ」と携帯をいじりながら言い放ち、その場にいた私やインテリ眼鏡に気まずく下を向かせた。
 このアメ車男が、コインランドリーでみずから洗濯をする、いや、しなければならない理由が、わかるような気がした。この女たちには、任せられないからだ。男は、女を連れてくるくせに漫画雑誌に夢中で、女の言葉には、ああ、とか、んー、とか面倒くさそうに返事をかえすばかりで、余計に女をやかましくさせる。

 まったく、秩序を乱すってのは、こういうことだ。

 私は、もうすっかりプロ・ランドロリストになっていた。来始めたときにドラッグストアで買った液体洗剤は、もう二本目だ。四台の洗濯機、六台ある乾燥機のすべてを使った。カラーボックスに並ぶ『美味しんぼ』は、あるだけ全巻読破した。この場所はもうすでに、自分のランドリールームだ。



 梅雨の時期も終わりかけた月曜の夜。十二時近くになってコインランドリーに行くと、見慣れない客がいた。その男性客は乾燥を終えて帰るところで、ちょうど私と入れ違いになった。彼が、乾いた洗濯物を抱えて出て行くのを見送ると、私は、もう少し早く来れば良かったと、後悔した。

 私と同じくらいか、少し年上に見えるその彼は、二重の目が印象的で、ちょっぴり私の好みだった。

 彼が出て行くと私はひとりきりになり、まるで自分の家であるかのように洗濯機を回し、文庫本を開いた。
 すると、いつもの気だるい調子で、ヒョウ柄女が入ってきた。パーマとカラーでさんざん傷めつけられた髪が、薄暗い蛍光灯の下で、バービー人形の髪の毛みたいにギラギラしている。
 女は、今日は洗濯機を使わず、乾燥機の前に直行し、やけっぱちに洗濯物を入れてコインを投入した。
 今日も、いつものヒョウ柄スリップワンピース。肉のない鎖骨から繋がる肩の骨が、とがっている。細い腕。肌には水気がなくて、推定年齢三十五。長く伸ばした爪には、きれいなエナメルにラインストーンが散りばめられている。ミュールのつま先からちょこっとはみ出している足の爪にも、同じデザインのアートが施されていた。きっと、きちんと化粧をして髪を結い上げたら、別人のように艷やかで美しい、夜の女になるのだろう。
 女は、洗濯物とともに、いつも週刊誌を何冊か持ってきて、待っているあいだ熱心に読んでいた。隅々まで目を通しているのか、ページをめくる速度が遅い。単なるゴシップ好きなのか、それとも、お客さんとの会話のネタを拾っているのかはわからない。この女を気に入って指名するお客は、彼女がこんなふうに夜な夜なコインランドリーで洗濯をしていることなど、想像だにしないだろう。
 本を読むふりをして、そんな妄想をふくらませていると、ふと静まり返った室内を切り裂くように、Queenの『We are the champions』が、エルメスのバニティバッグから鳴り響く。女は慌てて週刊誌を置き、バッグから携帯電話を取り出しながら出て行った。ガラス越しに外の女を見ると、お客さんからだろうか、いままで見たこともない顔で、楽しそうにしゃべっている姿があった。ぱっと華が開いたような、そんな笑顔だった。

 女の、着信音の選曲も気になったけれど、ちょうど私の洗濯機も止まったので、バスケットに濡れた衣類を移していると、ふいに入り口のドアが開いた。生ぬるく湿気を含んだ空気をまとって、誰かが入ってくる。女はまだ外で電話中だ。人影は一直線に乾燥機に向かい、足はヒョウ柄女の使っているドラムの前で止まった。
 ガタン、という音を立てて回転が止まり、終了の機械音が鳴る。
 乾燥機の扉が開けられるのと、女が戻ってきたのは同時だった。
「泥棒!」
 甲高い叫び声を上げ、バニティバッグを左手に持ったヒョウ柄女が、入り口の前で仁王立ちしていた。
 女は、ミュールのかかとを鳴らして乾燥機の前に立つ人物に駆け寄り、鷹か鷲が獲物を捕らえるときみたいに、グッと長い爪を食い込ませて二の腕をつかんだ。
 ぎょっとして振り返った相手の顔を見たとき、私の心臓はドキン、と大きく音をたてた。
 私がここに来るときに入れ違いになった、二重のきれいな彼だったからだ。
 彼は、下着泥棒だったのか。
 そうであって欲しくない私の気持ちを裏切る光景が、そこには確かにあった。女性ものの衣類の入っている乾燥機の扉を右手で開け、鬼のような顔をした女に、左腕をつかまれている男。中身の衣類に下着が入ってなかったとしても、『変態』と呼ばれておかしくない、絵。
「ちょっと、そこのあんた、早く警察に電話して!」
 急に女に視線を投げかけられて驚き、自分の人差し指で自分の顔を指して、無言で「私?」と問いかける。
「あんたって言ってんだから、あんたしかいないでしょう! 他に誰がいるのよ」
 女があきれた表情で言うと、その後ろで小さく蚊の鳴くような声がした。
「あの……」
「なによ」
 女は振り向く。長い髪が少し遅れて舞う。
「違います、あの……俺、なにもとってないです」
「だから、これから盗ろうとしていたんでしょう?」
「そうじゃなくて」
 形勢は彼にとって完全に不利だった。私は、ただ見守ることしかできずに、もどかしい思いで立ちつくしていた。
「三十分くらい前に、ここの乾燥機を使っていたんですよ」
「それで?」
 女はいらついた様子で、まだ彼の腕をつかむ手を緩めない。
「で、家に帰って洗濯物をたたんでいたら、その……」
「その?」
「下着が一枚、足りなくて。ここに忘れてきたのかなと」
「信用ならないわね。上手い言い訳で、逃れたつもりなの?」
 女はどうしても、彼を下着泥棒に仕立て上げたいようだ。
「あたしが使う前には何も入ってなかったわよ。ねぇ、あんたまだ電話してないの?」
 女は忙しく首を動かし、彼から私へと顔を向けた。
 私は、二重の彼の、困った表情を見て、また鼓動が高まるのを感じた。なにか言わなければ、と思った。
「彼、確かにその乾燥機を使っていましたよ。私と入れ違いだったので、覚えているんですけど」
「ね、ウソでも言い訳でもないんです」
 急に味方が増えて、彼はちょっと安心したようだった。彼のまぶたが動くのに合わせて、私の心臓も音を立てる。
「とにかく、中身、確認してみたらいいんじゃないですか」
 私はやっと歩き出して、二人のもとに立った。
 女が、フン、と小さく鼻を鳴らし、乾燥機の奥から衣類をかき出す。彼の忘れられた下着が、その中に紛れていることを私は強く願った。

 バスケットの中に、赤やらピンクやらの、ひらひらした布切れたちがふんわりと舞い落ちる。まるで手品師の、なにもない手の先からこぼれ出す花びらのようだ。
 その中に、明らかに場違いな、よれたブルーのコットン生地が、申し訳なさそうに顔を覗かせた。
「あー! これです! これ」
 彼は満面の笑みで自分のボクサーパンツを握りしめたあと、はたと我に返って恥ずかしそうにうつむいた。
「どうも、お騒がせして、すみませんでした」
 ボクサーパンツを胸の前で大事そうに握りながら、私と女にぺこりと頭を下げる。
 女は悔しそうに、彼と私を睨みつけた。
「見ず知らずの男のパンツなんかと一緒になっちゃって、また洗濯しなおしだわ! それに、勝手に人の使っている乾燥機のドアを断りもなしに開けるだなんて、常識うたがちゃうわね」
「本当に、すみませんでした。焦っちゃって、その、ごめんなさい、一声かけるべきでした」
 彼は心から申し訳なさそうに、もう一度、頭を下げた。
 それを無視して、女はバスケットの中身をかきあつめるようにして取り出すとまた、フン、と鼻を鳴らして、カカトを大げさに床に打ちつけながら、外へ出て行った。

 取り残されたように、彼と私だけが立っていた。
 妙な沈黙が、私に汗をかかせる。
 なにか、話さなきゃ。そう思えば思うほど、言葉が出てこない。私は、自分の洗濯がまだ途中だったことを思い出して、脱水の終わった衣類の入ったバスケットを取りに行く。
「ありがとうございました」
 先に口を開いのは、彼のほうだった。
「いえ、とんでもないです」
 ぎこちない会話は、ふたことで途切れた。一度止めた手を再び洗濯物に伸ばし、ひとつずつ乾燥機に入れていく。
「あの」
「はい」
 彼の先制を待って返事をすることしかできない代わりに、私はわざとゆっくり、作業をする。
「良かったら、コーヒー、おごらせてもらえませんか」
 ちらりと彼の視線が動いた先には、建物の外に設置されているジュースの自販機があった。
「そんな。私、なにもしてないですから」
 本当に、私はただ、ヒョウ柄女の前で、自分が見た事実を話しただけのことなのだ。確かに、彼を救いたいとは思ったけれど。
「いやぁ。あのままじゃ、俺は下着泥棒になっていましたからね」
 彼は照れながら笑った。かわいらしく二重が縮む。
「洗濯、途中ですよね。俺、外で買ってきますよ! なにがいいです?」
「……アイスカフェオレ」
 彼のペースに引き込まれ、こたえてしまった。それを聞くと彼は嬉しそうに外に飛び出していった。
 私はバスケットに残った衣類を一気に全部、乾燥機に投げ込み、回した。ふー、とひとつ、溜め息がこぼれた。
「お待たせでした。これでよかったかな」
 彼が冷たいカフェオレの缶を差し出した。そして二人でベンチに腰掛ける。
「本当に、助かりました」
「いえ……」
 乾燥機が低く唸る。その振動にも似たざわめきを、私は肌の下で感じている。おごってもらったカフェオレの缶が冷たくて、もしくは話し出す言葉が見つからなくて、頻繁に缶を口に運ぶ。横目で彼を盗み見る。まるでひと仕事終えたような、そんな落ち着いた表情で、まっすぐに前を見つめていた。
「あの女の人、すごい格好でしたね」
 前を向いたまま、彼が言う。
 彼の持つ、赤いコーラの缶から聞こえる、ピチピチという炭酸の弾ける音。その音をBGMに、私の頭の中で、女の、花びらのようなランジェリーが舞い踊る。
「あの人、よく会うんです」
「ここで?」
「そう、です」
 一瞬、対等な口ぶりになりかかり、初対面だということに気がついて慌てて「です」と付け足した。
「いつも、あんな格好?」
「いつも、ヒョウ柄」
 彼は、はははっと笑って、「すごいな」としみじみつぶやいた。
「よく会うってことは、よく来てるんだ、ここ」
 言われて、ヒョウ柄女とよく会うと話してしまったことを後悔した。かぁっと顔が熱くなる。
 このご時世に洗濯機が家にないことは、できることなら知られたくない情報だった。私は、ここに来ている人たちが、洗濯が終わるのを待ちながら、なぜあんなにも伏し目がちで黙り込んでいるのかが、このとき痛いほどわかった。
「そうかぁ。コインランドリーって、生活の穴場だよね。なんか」
「穴場?」
「そう。存在自体は知ってるけど、あまり行く機会がないところ、っていうか。例えば『活け花教室』とかさ。俺自身は縁がないから、どんな人が通ってるんだろうって思うけど、実際に通っている人がいるから、成り立ってるんだよなぁって」
「活け花、ですか」
 突拍子もない例えに、思わず吹き出してしまう。
 なんだか少し、変わった人だな、と感じた。
「あと、昔ながらの商店街にある『洋品店』。ウィンドウから中を見ると、全体的に紫とか黒っぽい色彩でさ。ときどき、外に向かって立ってるマネキンが、でっかいトラの顔のセーター着てる。ああいう店に、客が入っているの見たことある?」
「ないですね、確かに」
 こらえ切れないように笑い出す彼につられて、『トラ柄セーター』をリアルに想像してしまい、肩が震える。
「でもさ、需要があるから、ああいう店も、いまだに存在するんだよね」
 その後も彼は、ほとんど一方的に話し続けた。ローリン・ヒルの死亡説がなぜか仲間のあいだで流れて、みんなで一万円ずつ賭けた、とか、次元の吸っているシケモクは、元はルパンの吸殻なんだとか、シーフードヌードルに酢を入れると美味い、とか。

 だけど最後まで彼は、私がなぜ、ここで洗濯をするのか、その理由は訊かなかった。

 ガタン、という乾燥機の音で、会話も止まった。
 ピッピッピッと鳴る音は、私と彼のおしゃべりの時間の終了を知らせる合図だ。
「あ。終わったみたいだね」
「そうですね」
 私はバスケットを持って立ち上がった。彼もそれに続く。
「んじゃ、俺、そろそろ行きます。本当に、どうもありがとう」
「こちらこそ、ごちそうさまでした」
 私が頭を下げると、彼は左手を軽く上げて出て行った。
 乾燥機の扉を開ける。ふわっと乾いた熱気が、顔をなでる。宙を見つめながら、機械的に衣類をかき出す。
 なんだか、疲れがどっと押し寄せた。
 ふと、さっきまで二人で座っていたベンチを見ると、そこには、ブルーの布切れが丸まってぽつんと置いてあった。



 困ったことになった。
 翌日、私はブルーのボクサーパンツを前に、悩んでいた。

 あの人は、本当にそそっかしい人なんだ。忘れ物を取りに来て下着泥棒に間違われ、危うく警察沙汰になるところを免れたにもかかわらず、その、取りに来たパンツをまた忘れていくだなんて。
 彼は、三たびあのコインランドリーに行っただろうか。私が持っているということに、気づいただろうか。気がついたところで、為す術はない。彼は私の名前も連絡先も知らないのだから。

 男性の、下着に対する感情ってのはよくはわからないけれど、あまり執着している人は見たことがない。いままで付き合ってきた人や、男友だちのことを思い出してみても、大抵、「俺なんか三枚千円だぜ」とか「ゴムが緩んでるけどめんどくせーからそのまま履いてる」とか、そんなことを言っていた。
 そう考えると、昨日の彼は、いま私の手元にあるこのボクサーパンツを、もう探さないかも知れないと思えてきた。一度ならず二度までも、忘れられていったパンツ。自分には縁がなかったものかも、とあきらめている可能性も高い。
 私は、このボクサーパンツをどう処理すべきか、腕組みをして考えた。
 悩むくらいなら、最初から拾って来なければ良かったのだ。あとさき考えずに連れてきてしまった捨て猫を持て余すみたいに、私は自分の行動を後悔していた。
 褪せたブルーを見つめていると、彼の、笑うとふにゅっと細くなる二重の目が浮かんでくる。

 よし、もしもまた偶然会えたら、そのときに渡そう。私はそう決意すると、いつもコインランドリーに洗濯物を入れていく、空っぽのランドリーバスケットに、ボクサーパンツを放り込んだ。
 それから毎回、私は男物の下着を持って洗濯に通った。洗うわけでもなく、乾かすわけでもなく、ただ持ってきてはまた持ち帰るだけの、ボクサーパンツ。
 インテリ眼鏡が、プロレス雑誌の隙間から、ちらちらとボクサーパンツを見ていた。本当なら訊かれてもいない理由を一から十まで説明したいほど恥ずかしかったけれど、少しも気に留めてないように振る舞った。

 いつまで経っても、彼は現れなかった。

 会うのは例の三人ばかり。いつもと変わらない空間。薄暗い照明。低く唸る機械音。



 ボクサーパンツと共にコインランドリーに来るようになって、二週間が経った。もういい加減、あきらめればいいものを、私は律儀に毎回、彼の下着を持って、洗濯に行った。

 ランドリーバスケットに入れっぱなしだった、と言うこともできる。
 持っていくのをやめたところで、ではこの下着をどうしたらいいのだろう、と悩んだ末の、惰性の行動と言うこともできる。

 捨てようと思えば、それは簡単で、ゴミ箱にポイと投げ入れれば済むだけの話だった。けれども、放り込んだゴミ箱の隙間から、あのブルーの生地がちらりと見え隠れする場面を想像したとき、なんだか死体を捨てたみたいな気分になって、怖かったのだ。持ち主を知っていて、少し前まで身に付けられていたものだと思うと、ゴミ箱からのぞくブルーが、まだ体温を持つ死体の腕かなにかのようで、まるで自分が残忍な殺人犯になった気になる。
 もう、持ち主はこんなちっぽけな下着のことなど、忘れ去っているかも知れない。忘れていても、いいのだ。別に。このまま、あと何日か何週間かわからないけれど、いつかそれをやめる日が来る。それは、無事に彼に返すことができた日であっても、そうじゃなくてもいい。それまでは、このブルーのパンツのことはあまり考えないようにしようと決めた。

 私は、当たり前のように彼の下着が入ったままのバスケットに自分の洗濯物を入れて、我がランドリールームへ向かった。
 いつもの道を歩いていると、夜風や車のエンジン音をかきわけて、ふと聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「リカ」
 声は、私の名を呼んだ。
 振り返らなくてもわかる。
 私はかつて、この少し低めの平坦な声で、幾度となく、こんなふうに呼ばれていた。
 前に出しかけた足が、ピクッと止まる。
「リカだろ」
 もう一度、声は私の名を繰り返した。
 こらえきれずに、振り返った。
 想像通りの、懐かしい顔があった。
「リョウタ」
 私の唇は、無意識に彼の名前をつぶやいていた。
 十ヶ月ぶりに見るリョウタは、少し痩せていた。
 私は、息を飲みながらも、唇の両端が上がるのを感じた。
 リョウタは、ずいぶんと困ったような難しい表情を浮かべて、私の唇をみていた。目をなかなか合わせてくれないことで、彼が黙って部屋を出て行ったことに対する罪悪感が汲み取れた。
 私は別に、怒ってなんかいないのに。彼には、それなりの理由があったのだ。できれば知りたいけれど、言いたくないのなら聞かなくてもよかった。また前のような生活に戻れるなら、きっといつか話してくれる日がくる。
 私、気にしてないよ。リョウタのことをずっと待っていた。そう言おうとしたとき、リョウタのほうが先に口を開いた。
「リカ、困るんだよ」
「え?」
「もう……」
 言いかけて一瞬、口が止まった。
「……やめてくれないか」
 リョウタは、疲れ果てたように、下を向いた。
 私は、冷たい手で心臓をぎゅっとつかまれたみたいに、息が苦しくなる。
「俺は、もう、出て行ったんだ。わかってくれよ」
 語尾が震えている。私は、足が少しずつ後ろへ下がる。
「しょっちゅう会社にまで来て……その、待ち伏せみたいなことをされても……」
「いや!」
 自分でも驚くほど大きな声だった。前をゆくスーツ姿の通行人の肩が、びくっと動くのが見えた。
「俺だって、そんなことはしたくないけれど、これ以上、続くようなら警察を……」
「もう言わないで!」
 叫びながら、走り出していた。後ろから「リカ!」と、呼ぶ声が聞こえる。いや、もうあの声は私を呼んでいるんじゃない。ただの、音の羅列だ。

 私は、リョウタが好きだった。出て行ったあともずっと、いつか戻ってくるだろうと信じていた。いなくなってから、私は何度もリョウタの携帯電話を鳴らした。最初は呼び出し音がだけが鳴り、しばらくするとすると、いつかけても話し中になり、最後には「この番号は、現在使われておりません」という女の人のアナウンスになった。私とリョウタをつなげる唯一のラインがなくなって、私はリョウタの会社の前で、彼を待った。話がしたかった。けれどもリョウタの会社はフレックスタイム制で、なかなか彼に会うことはできなかった。そして、彼のいる部署は週に二回、定例会議があって、その日だけは二十三時に退社するのを思い出した。一緒に暮らしていた頃、私はその日が大嫌いだった。

 私がコインランドリーに行くのを月曜と木曜にしたのは、その時間に人が少ないからなんて理由じゃない。

 リョウタに、会うためだ。

 無我夢中で走って、気がつけば私は、いつものコインランドリーに来ていた。誰もいない。薄暗い蛍光灯の下で、持ってきた洗濯物を、洗濯機に詰め込み、洗剤のボトルを逆さまにした。大量の洗剤液が洗濯槽に入る。ありったけのコインを財布から取り出して、その半分を投入した。洗濯機は『水位・最大』のランプを点灯させて、ざばざばと水を溜め始めた。
 不思議なくらい、涙も出なくて、いま自分がどんな感情でいるのか、わからなかった。滝のように流れ出る水が、必要以上の洗剤をぶくぶく泡立てているのを、馬鹿みたいに見続けていた。
「あれ?」
 背後から、誰かの声がする。
 私は、振り返ることができない。
「やっぱり、きみだよね」
 声はだんだんと近づいてきた。

 ずっと会えなかった、ボクサーパンツの彼だった。会いたくても会えなかった男に、一日に二回も遭遇するだなんて。

 彼は、私の、まるで意識がそこにないような顔を覗きこんで、黙った。私もなにも言わない。洗濯機のふたに付いている小さな窓から中を見て、尋常じゃない泡の量に、少し、はっとしたようだった。
 長い長い洗濯が終わるまで、彼はずっと私のかたわらで、黙って私と洗濯機を見ていた。洗濯機がようやく仕事を終えると、中のものを取り出すのを手伝ってくれた。脱水の終わった衣類は、まだ洗剤が残ってぬるぬるしていた。私は気にせず、それらを乾燥機に放り込んだ。残りのすべてのコインを投入する。横向きのドラムが回転しだした。
 銀色の筒が、ぐるぐる回る。湿った洗濯物は、少し遅れながら重そうにその回転についていく。その様子を見ていたら、何かを思い出しそうになった。

 思い出す前に、ぽろりと涙がこぼれた。

 リョウタと一緒にいなくなった、ハムスター。乾燥機は、ハムスターの回し車みたいに、必死に回転し続ける。なにが面白いのかわからないけれど、ただ、回る。どんなに昇っても、決して頂上にはたどりつけないのに。

 私は、せきを切ったように、声を上げて泣いた。リョウタの前でも泣かなかったのに、ここへ来て一気に、いろんなものが溢れ出た。
 大きくて熱を持った手のひらが、私の頭の上に置かれる。
「泣くには、いい場所かも」
 私は返事もせずに、泣きじゃくり続けた。
「嫌なことを洗い流す洗濯機があるし、涙を乾かす乾燥機だって、ある」
 そう言ったあと、恥ずかしそうに、なーんてね、と笑った。
「でもやっぱり、ここは生活の穴場だよ。使わない人にはまったく必要のない場所だけど、きみにはここが、必要だったんだ」

 私は、この十か月間、何をしていたのだろう。
 アパートの部屋は、リョウタの匂いが消えない。リョウタの影が染み付いた日常から立ち直れなくて、私は衝動的に彼の会社に向かっていた。
 最初は話がしたかったけれど、通い続けるうちに、彼を一目見たら気が済むのだと思った。そうして、リョウタを待った。会社のビルから出てくるのは、知らない人ばかりだった。余計に、逢いたくなった。私はほとんどとりつかれたように、彼の会社に行った。いつしかそれは、『待ちぶせ』と名のつく行為になっていた。
 自分でも、わかっていた。私のやっていることは、決して良いことじゃないと。けれども、道徳心で抑えられるほど、私の、彼に逢いたい気持ちは小さなものではなかった。私は「洗濯をしにいくついでに、リョウタに逢いに行っているんだ」と、自分を正当化することを覚えて、コインランドリーに行くにはずいぶんと遠回りになるリョウタの会社に、洗濯物を抱えて行っていたのだ。

 二十三時になるとビルの窓からはぽつりぽつりと明かりが消え始め、三十分も過ぎると真っ暗になった。今日もダメだった、と私は肩を落として、コインランドリーに向かう。

 ここは、確かに、私には必要な場所だった。

 私は、無意識のうちに、たくさんのものを洗い流そうとしていた。洗濯物の汚れ。罪悪感。染み付いて取れない、リョウタの匂い。

 ゆっくりと頭を撫でてくれる手のおかげで、涙はだんだんと落ち着いてきた。
 彼は、初めて話したときに、なぜ私が洗濯機を持っていないのかということを訊かなかったように、涙の理由も、訊こうとはしなかった。
 乾燥機の、低く唸る音。
 この洗濯物が乾いたら、私の湿った心も、涙も、一緒に消えてくれるだろうか。
 あ、という彼の声で、ふと我に返る。
「それ」
 私は、彼の視線の先にある、自分の右手を見る。何かが、握られていた。
「やっぱり、きみが持っていてくれたんだ」
 彼は照れ笑いを浮かべる。
「俺、このくらいの時間に、何度か来たんだよ。あの日、また忘れちゃったってことに気づいて、すぐに戻ってきたんだけど、どこにも見当たらなかったから、きっときみが持っていてくれていると思ったんだ。でも、一度も会えなかったね」
 いつから手にあったのか、わからないけれど、ブルーのボクサーパンツは私に握りしめられて、汗でぐしゃぐしゃになっていた。
「ごめんなさい、これ……」
 彼は、ははは、と笑った。キュートな二重を細めて。
「いいよ、気にしないで。持っていてくれて、ありがとう」
 差し出す彼の手を制し、私は言った。
「これ、もう一度、洗ってからお返しさせてください」
 彼は「え?」と私の顔を見る。
「それともうひとつ、お願いがあるの。今度の日曜日、洗濯機を買いに行くの、付き合ってもらえませんか」
 それを聞くと、彼は嬉しそうに「もちろん、OK」と言って、親指を立てた。

 さて、私もそろそろ『プロ・ランドリスト』の座を降りる日が、来たみたいだ。
 私は、晴れた夏空の下、このコインランドリーの前で彼を待ち、軽い足取りで彼と電器屋に向かう自分の姿を想像していた。

Wash Out

Wash Out

『生活の穴場』って知っていますか。自分には用のない場所であっても、誰かにとっては必要な場所。『私』を取り巻くさまざまな人たち。共通する点は、『洗い流すこと』。そんなところでも、汗臭い恋の物語は生まれるんだ。(2003年作)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-14

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