イノセント

朝早く起き、中藤の作成・収集した証憑書類をチェックする。厚いドッチファイル二冊にも渡っているので、チェックにもそれなりの時間を要した。いくつかの箇所に付箋をし、そのページだけ差し替えのページを作成、プリントアウトすると同時に、中藤に「会社に出てくるように」と電話し、自分も会社に向かうことにした。
会社、というのは正確ではない。『元』我々の勤めていた会社である。会社は任意整理という形になっているが、平たく言えば負債を追っての倒産である。もう存在しない筈の会社に人目を忍ぶように通っているのは、案件の後始末が残っている元社員だけだ。三月上旬というタイミングで会社が潰れてくれたおかげで、続きものの案件は殆どなかった。ただ、実施した案件の清算のための書類を収集、あるいは作成しなければならなかった。私と中藤は、ある省庁に請求書を提出するための見積・納品・請求・支払いの証拠書類を収集、あるいは捏造するために元会社に忍び込んでいるというわけである。
会社に着いた。一〇時五〇分。約束の一一時より早く着き、中藤がまだ来ていないことに軽く安堵を覚えつつ、カードキーを操作する。社長の富岡からカードキーを預けられているのは私だけなので、私が先に到着する必要があったのである。部屋に入ると、私は計画に支障が生じていることに気付かされた。テレビドラマなどで見るように、コピー機がテープで雁字搦めにされているのである。会社の資産はすべて差し押さえになると聞いてはいたが、昨日まで普通に使えたものが使えなくなるという状況に接し、いよいよ会社が無くなるんだなぁと感じた。
一一時三〇分。中藤が現れた。済みません、と口にする中藤に、正直何と言って良いのか分からない。とりあえず、挨拶代わりに、コピー機の方を指さし、「死にたい」と言ってみた。中藤はそれにいつも通り、はにかみながら「まだ殺してあげません」と答える。いつものやり取りである。私は少し安堵を覚える。
中藤は私の三年後輩で、小柄であどけなさの残る少女のような容貌をした女性である。入社以来、私のチームでずっとやってきた。その真面目で几帳面な仕事ぶりとは裏腹に、遅刻の常習犯であった。経営の傾いている会社である。他にも遅刻や無断欠席をする者は居たが、その者たちは一様にやる気のない態度を隠さず、会社の悪口を口にするなど悪態を吐いていた。中藤の場合、決してそのような悪態を見せることはなく、ただ遅刻してくる。理由はないのである。今日もそうして遅刻してきたという形である。
せっかく集まっても、コピー機が使えないのではどうしようもない。仕方がないので私が通っていた大学に行き、必要書類をコピーして省庁に持ち込むこととした。
大学でのコピー作業は順調に進んだ。だが、量が量なので時間がかかる。一四時。遅めの昼食を採ることにし、近くの定食屋に入り、親子丼を二つ頼んだ。
黙々と親子丼を口に運ぶ中藤を見ながら、私はぼんやりと富岡の言葉を思い出した。会社を畳もうかと思った、という言葉であった。
会社の経営がそこまで危うくない時期、一寸した事件が起こった。中藤が出席していない入札説明会に出席したかのように会社に報告したため、入札に参加できない、ということがあったのである。朝の時間の説明会だったので彼女には直行するように指示を出し、彼女も説明会のメモを通常の手続きと変わらず作成していたので、誰もそれに気づかなかった。富岡は入札に参加できなかったことよりも、「あの中藤があんなことをするなんて」という意味でショックを受けていたようだった。「そういう社会人しか育てられない会社になってしまった事を思い、会社を畳もうかと思った」、と言ったのである。私自身も、中藤が虚偽の報告をしていることにショックを受けたが、一方では妙に納得もしていた。中藤は理由なく遅刻をし、そして理由なく虚偽の報告をしたのだと思ったのである。
コピーは無事終了した。駅のホーム。両手にファイルを持ちながら、中藤に「死にたい」と言った。すると彼女はいつもと違い、私の方をまっすぐに見て「本当ですか?」と聞いてきた。電車が警告音を鳴らしながら近づいてくる。私は白線を一歩踏み越えた。中藤が私の背を押してくれるのを待ったのである。

イノセント

イノセント

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-14

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