1204号室
2016.3月 二度目の更新
1.テープ①:昭和52年1月25日、小林ノブオ
母はひどく複雑な状況にあって、仕方なくああいう育て方をしてしまったのだと思います。母が悪人だというふうには、やはり僕には、どうしても思えないのです。
僕は母を、寧ろ可哀そうなひとだと思っていました。
母は美しさだけが取り柄の売春婦でした。
その母の仕事内容について、僕は幼い頃から何となくわかっていましたし、成長するにしたがって、それがどういう事なのかはっきりと理解するようになりました。僕は学校には通っていませんでしたが、大体小学校低学年の歳頃には、そのような事情を認識し、それを当たり前の事の様にすら思っていました。
というのも、母はその『仕事』の模様を僕に隠すどころか、寧ろ見せつけるような境遇に僕を置いていたし、母は何故そのような事をしなければならないのか、その理由について僕に説明した事もありました。
あの部屋を初めて出ることになった十六の歳まで、僕の世界というのは、母と住んでいたマンションの一室が、そのすべてでした。それが本当にすべてだったのですから、当時はその環境に不満を感じる由もありませんでした。
マンションは画一的な建物がいくつも並んだ団地の中にありました。居間・台所・寝室・子供部屋という間取りでした。割りと内装は新しかった印象がありますし、十四階建ての十二階だったので、風通しも悪くありませんでした。綺麗好きな母だったので、部屋の中はいつも整然としていて、僕の部屋も常に整理されていました。
母の『仕事部屋』を兼ねた寝室と、子供部屋は隣り合っていて、防音には殆ど役立たない薄い壁と、引き戸一枚で仕切られていました。
僕の部屋からトイレや台所に続く廊下へ出るには、この母の寝室を通る必要があったので、母の『仕事中』には、トイレにも行けず、どうしても我慢できない時には予め用意された幼児用のおまるにビニール袋を自分で敷いて、出来る限り音を殺して用を足す習慣がついていました。
すみません、汚い話になってしまいました。よしましょう、そういう話は。
先ほども言ったとおり、僕は、少なくとも自分の記憶の内では、十六歳まで一度も家を出たことがありません。
母の話によると、もっと幼い時には何度か病院へ連れて行かれた事はあったようですが、それは母に読み聞かせられた絵本のお話よりも、ずっと非現実的なものに感じられました。
これだけお話しすると、どうしても母が悪者の様に聞こえてしまうかもしれません。でも、決してそうではないのです。
確かに、学校に通わせず、マンションの一室からの外出を厳しく禁じられていたのは確かですが、別に、僕は外に出たいとは思っていませんでしたし、今思い返しても、あの頃の生活に全く不満はありませんでした。
いつだったか、『箱入り娘』という言葉を、母に教えてもらいました。母も言っていましたが、自分でもまさにそんな感じだったのだと思います。形はどうあれ、母は僕をとても大事にしてくれていました。
母の名誉のために言っておきますが、確かに躾が厳しい時はありましたが、僕に対して暴力を用いた事はありませんでした。
それに、厳しい叱責の後には、いつもきつく言ったことを詫びてくれましたし、『仕事』の無い日には必ず、寝る前に絵本を読んでくれる優しい母でした。
僕にとって何より幸せな時間は、母があの柔らかな声で、絵本を読み聞かせてくれる、あのひと時でした。自分である程度の漢字を読めるようになってからも、僕は母に絵本の読み聞かせをねだったものでした。
母は絵本以外にも、図鑑や小説等、本や新聞は惜しみなく買い与えてくれました。僕が特に気に入っていた出版社の童話シリーズは、少しずつ買ってもらって、最終的には全巻揃えました。巻末に必ず、全部で百種類以上あるお話のリストが載っていて、一冊読み終えると、その中から、面白さそうだと感じた題名のものから順に、一冊ずつ母にリクエストするのです。
そのシリーズは何度も何度も読んで、やがて成長してちょっと難しい小説や新聞を読むようになってからも、時折読み返しました。そして、母は僕の語る、それらの本についての感想をいつも嬉しそうに聞いてくれました。
そんなこともあって、将来の夢…いつか僕は『童話作家』になりたいと思っています。難しいかもしれませんが…。
そんな具合で、確かに母の教育方針には偏りはありましたが、十六年間ずっと外出させられなかったことだけを除けば、普通の家庭の、普通の子供と同じ様に育てられました。寧ろ、新聞記事で読んだ事件の可哀そうな子供達よりも、ずっと温かい母の愛の中で、僕は育てられたと思っています。
…確かに、私生児である事、何より母の『仕事』内容に関しては、一般的に幸福とは呼べない境遇かも知れません。
でも…僕は母の仕事を全く軽蔑していませんでした。子供の頃から当たり前の様にその『仕事』を見ていましたし、母はしっかりその意味も教えてくれましたし。
その説明のすべてをそのまま理解することは出来ませんでしたが、童話の中の不思議な世界と比べれば、それほど不思議なお話ではないと感じました。
寧ろ、苦しそうな声をあげながら、僕らと母の生活のために、『仕事』をしている母を応援する気持ちすらありました。ある時、母にその気持ちを伝えた時には、母は心から嬉しそうに微笑みながら、僕を抱きしめてくれました。…母は少し泣いていたと思います。
母のいいところばかり言っている様に聞こえてしまいますか?
敢えて言うなら、母の最大の欠点は不器用、と言うか…あまり合理的な考え方ではなかったと、子供の自分から見ても感じるところはありました。
子供の僕が言うのもおかしいのですが、あれだけの容貌を備えていれば、うまく立ち回れば平凡以上の幸せを、難なく得られたはずです。
僕自身の出生については、母が何も語りたがらなかったものですから、何も知りません。ですが、きっと悪い男…つまり私の父に当たる人に騙されて、捨てられてしまったのではないかと思います。
その出生について、僕は興味ないのですが、なんにせよ、僕が母の人生において重荷になった事は間違いないでしょう。
ですが…あまり言い過ぎると、やはり僕が母を良く言い過ぎていると思われるでしょうけど…それでも、その美貌を活かせば、それなりの男性と、平凡な幸せを掴むくらいのことは出来たように思われるのです。
それが出来ない不器用さが、また一方で、母に偏った教育方針と生き方を強いてしまったのかもしれません。
それともうひとつ、母の欠点と言えば、その不器用さとも関係するのですが、ヒステリックを起こしてすぐに感情的になるところや、思い込みが激しいところでしょうか。
先ほど、躾が厳しい事もある、と言いましたが、時にそれはかなり激しい怒鳴り声を伴いました。原因は僕の部屋が散らかっていたり、苦手な食べ物を残したり、つい爪を噛んだり、歯磨きを忘れたりと、子供にはありきたりなものばかりです。ただ、確かに怒り方が激しい事はあっても、その起因が理不尽だった事は無かったと思います。
時には『仕事』のお客とも口論になっていました。隣の部屋で母が見知らぬ男と言い争っているのは、自分が叱られている時よりもずっと恐ろしいものでした。
幼いながら、僕は自分が叱られる原因は、自分が何か悪い事をしたからで、母はそれを正す為に『叱ってくれている』のだという意識がありました。
ですから、自分とは関係の無いところで母が怒鳴っているというのが、とても…その当時は自分が直接怒られるよりもずっと恐ろしかったのです。
それから…その恐怖の中で、僕はそれを紛らわせる為に、軽い自傷行為を覚えてしまいました。変な考えですが、そうすることで、お客に向けられた母の怒りが、自分に向けられているように錯覚したかったのだと思います。幼いころから身体になじんでしまった習慣なので、母にどんなに咎められても、この癖だけは治りませんでした。
だから、今も身体に残っているこの青あざや傷跡は、自分でつねったり、噛んだりして付けたものなので、決して母が直接手を下したものではないのです。
一種の自己防衛、なのでしょうか。ああいう状況にあって、精神が傷つく代わりに、自分の身体を傷つけようとしたのでしょう…。
これも、自分の想像でしかないです。そういった分析は専門家の先生にお任せしましょう。
…それで、話を戻しますね。
そういった訳で、母の性格上、お客との言い争いも少なくなかったのです。そしてあの日、それが最悪の結果を招いてしまいました。
普段から、大体言い争いの内容は、常連客の嫉妬によるものか、代金の事かのどちらかだったと思いますが、その日はどうやら前者の方だったらしいのです。
それ以前にも何度か聞いた事のある中年男性の声が聞こえていました。いつも割りと大人しい印象のあった男性でしたが、その日は部屋に入って来てからずっと様子がおかしかった事が、隣の部屋にいた僕にもわかりました。それと言うのも、その日は母が何を問いかけても、その男性がまともに応答せず、母はそれについてとてもイライラしていたようでした。
…話の細かな内容までは聞き取れませんでした。覚えていないだけかもしれないし、無意識にわざと聞かないようにしていたのかもしれません。
やがて急に男性が何やら怒鳴り声をあげたかと思うと、何度か鈍い物音がしました。今思えば、恐らく男性が母親に殴り掛かっていたのだと思います。記憶は定かではありませんが、母の短い呻き声が聞こえたような気もします。
その時、私はひどく怯えながら、自分の左腕を内出血するほど噛みしめていました。
ほら、今もこんなに…。
私は嫌な予感でいっぱいになりましたが、その時も母からきつく言いつけられていた『仕事中は絶対に子供部屋を出てはならない』ルールを守り、怯えながら、じっと部屋の隅でしゃがみこんでいました。
…やはり、この場面に関してだけは、何度話しても。…話すだけでも、とても…とても…辛くて…。
…いや、すみません。悪いのですが、この場面については、僕からはこれ以上、詳しく話せません。
怯えきったまま、耳をふさいでちじこまっている内に、いつの間にか一時間ほどうとうとしてしまっていました。
次に気が付いた時には、すっかり外は暗くなっていました。口論は収まっていて、マンションの中には完全な静寂がありました。
それでも電気もつけず、暫くは大人しくうずくまっていましたが、やがて空腹に耐えきれなくなった僕は、意を決して自分の部屋の引き戸をゆっくり開け、寝室へ入りました。
暗い寝室で、母は裸の状態でベッドの上にうつ伏せになっていました。暗くてよく見えないながらも、それがただ眠っている状態ではないことはすぐにわかりました。
…その前後は、記憶がひどく曖昧なので、その時のことはオサムに訊いてみてもらえますか。彼は僕よりこういう状況に強いので、きっともっと詳しく話してくれるはずです。気弱な兄に似ず、気丈な弟ですから…。
…何だかひどく疲れてきました。久々にこんなに長く話したからでしょうか。今日のところはそろそろ部屋に戻って良いですか?
また必要であれば、お話します。今日はどうかここまでにしてください。最近なんだか疲れやすくて、すぐに眠くなってしまうのです。
すみませんが、失礼させて頂きます。
ではまた…。
2.テープ②:昭和52年1月29日、小林オサム
もう母親の話なんか、俺はしたくねぇんだよなぁ…。ノブはどうかしているのさ、アイツは未だに筋金入りのマザコンだからな。
大方の話は、こないだノブから聞いただろう?
俺たちはずっとあの狭いマンションに閉じ込められて、母親のペット、いや、オモチャと言った方が近いかもな。ペットは外を散歩してもらえるもんな。…いや、どっちだっていいか。こんなことばっかり言っていると、またノブに怒られちまう。まぁ、そんな感じで、飼われていたって訳さ。
ノブがどんな風に母親との生活について話したかはわかっているけど、俺から言わせればあれは監禁以外のナニモノでもないぜ。
あの女は、客を拾いに家を空ける事も多かったが、玄関のドアには特別に外から細工がしてあって、ヤツの外出中は中からも鍵を開けられない様になっていたんだ。おまけに十二階だったから、そう簡単に逃げ出すことは出来なかった。
俺一人だったら、ベランダから隣家へ逃げ込むとか、手紙を外へ投げるとか、何か手段はとれたかもしれないが、なにせノブは逃げる気が全くないどころか、そういう行動に反対していたからな。
俺の中でノブを見捨てたり、あいつの意見をまったく無視したりって言う選択肢は俺の中には無かった。あんなやつでも、大事な兄弟であり、十六年間ずっと一緒に過ごした親友でもあるからな…。
ノブはああいうやつだから、母親の言うことを何でも素直に聞いてたから良かったけど、俺はしょっちゅう暴力を受けていたよ。青あざや傷跡が至る所にあるぜ?
…ほら、ここにもすごいあざがあるだろ?
でも、俺が暴力のはけ口になっていたお蔭で、きっとノブは一度も母親から殴られなかったんだ。あいつも、口では母親の擁護ばかりしているけど、そのことはどっかで分かってくれているみたいだけどな。
それに、俺たちが部屋を出てから、ある程度こうやって常識を持って会話が出来るのも、俺の手柄だと思うんだよな。
ノブは母親に与えられた童話や小説ばかり読んで、すっかりメルヘンな気質になって、よく言えば素直で道徳的な人間に育っていったけど、それだけじゃ本当の世間なんて一ミリも理解できないままだろ?
母親は厳しく禁止していたけど、俺があの女の外出中にこっそりテレビを見ていたんだよ。本体の電源スイッチは押せないようにテープで固められていて、リモコンも隠されていたけど、俺はその隠し場所に気が付いていたからね。あれはだいぶ世間勉強になったな。
それでもノブは母親にばれるのを怖がって見たがらないから、俺が観た後でノブに内容を教えてやっていたんだ。
あいつ、怖がりながらも、実のところ興味ありげに俺の話を聞いていたよ。多分それで、辛うじて社会性とか常識が出来たんじゃないかな。あいつはテレビの内容を聞いていたことすら、否定するだろうけどね。
でも、そういう常識が希薄だからこそ、あんな状況でもノブはまともでいられたのかも知れないとも思うな。
ノブから聞いただろう?母親が身体を売っていた事を。あいつはそれを応援してたんだ。『僕の為に一生懸命仕事してくれてありがとう』だなんて、ノブが口にした時にはさすがにぞっとしたよ。
当然、俺はあの女の『あの時』の声を聞く度に、どうしようもなく吐き気がしたよ。母親はかわいい息子の為に仕方なく…なんて言っていたけど、俺を含め、どこの誰が聞いたって、そんな迷言を信じ込めるのは、ノブただ一人だと思うよ。
だからあの日、あの中年のおっさんが母親を殺した時には、その不快な声をもう聞くことはないんだってことを真っ先に思って、俺は正直ほっとしたよ。
あの女は、包丁で背中を刺されていた。あまり近くでは見なかったけど、背中から血を流して死んでたことは明らかだったし、血の付いた包丁が女のすぐ傍らに落ちていたのは確かに見た。
多分、下らない痴話げんかの末に、おっさんが刺しちまったんじゃないかな。俺とノブが寝室に入った時には、もうそのおっさんはいなかったから、多分殺しちまった後で、慌てて逃げ出したんだろう。
俺はあのおっさんに感謝しているから、一度会ってお礼を言ってやりたいくらいだよ。まだ捕まらないの?そのおっさんは。捕まったらぜひ一度会ってみたいもんだなぁ。
まぁ、ノブが絶対に許さないだろうけどな。
…あぁ、その後に、部屋を出ようと言ったのは俺だよ。ノブは相変わらずぼーっとしてて、放心状態だったけどな。
母親の外出時以外は、鍵が開いている事は知っていたから、取敢えず俺は外に出てみる事にしたんだ。
物心ついて以来、十六歳にしてはじめての外の世界なんだ。俺でも足が震えたよ。ノブなんか、辛うじて付いて来てはいたけど、半分失神していたんじゃないかな。
夕方なのにすごく暑かったな。部屋の中でいつも着ていた上下のスウェットで外に出たら、すごく暑かった。
母親の監視の下で、ベランダには出たこともあったけど、外って本当に四季があるんだなって初めて実感したよ。部屋の中はいつも適温に設定された冷暖房が二十四時間、惜しみなくつけられていたからね。
ただ、当然だけど、外に出たって行く宛は無かった。俺とノブはマンションの下まで階段で…知ってはいたけど、その時初めて見たエレベーターに乗るのが何だか怖かったから…恐る恐るゆっくり階段で降りて行って、下から自分たちの部屋を見上げて、呆然とするしかなかった。
それに、母親以外の人間とは会話した事も…まともに顔を合わせた事も無いわけだから、通りすがりの人間に、いちいちひどく怯えていた。
勢いで出てきたものの、やっぱり俺とノブだけじゃ、どうすることも出来ないんだなってわかったよ。二人とも、何にも言えなくなって、暫く立ち尽くしていた。
本当は俺が何とかしたかったんだけど、どうしようもなくて、結局サエコにその後は任せちゃったんだ。
サエコには出来るだけ頼りたくなかったんだけどな…。
ずっと一緒に暮らしてきたけど、いつもあまり喋らないし、何考えてんだか、俺とノブにもよくわからないし…。ただ、俺ら二人より冷静で頭もいい事は認めるし、頼りになるヤツだとは思っているよ。
正直な話、俺もサエコがいたから母親に対して強気でいれたっていう部分はあったかもしれないな。
だから、部屋を出てからの話はサエコに訊いた方が早いぜ。多分、ヤツのことだから機嫌が良くないと喋らないだろうけど。
あ、そうだ、ノブがこないだはありがとう、って伝えとけってさ。俺もその場で話は聞いていたからわかるけど、ノブはあんたの事、けっこう気に入ってるみたいだよ。
…ノブと同じく、俺もな。
眠くなってきたな…そろそろ時間か?
…じゃあ、またな。
3.テープ③:昭和52年2月中旬某日、小林サエコ
…どうも、話すのは苦手なの。
何せ、ノブ君とオサム君以外と、私は話したことないし。三人の内、私だけは母とすら一度も話したことはないしね。
私は他の二人とは違って、なぜだか自分の人格が出ている時の記憶を他の人格に共有させない様に出来るから、彼らも少し距離を感じているんだと思う。
彼らが私を嫌っている訳でない事も分かるんだけど、そういう性質もあって、ちょっと怖がっているところもあるのね。
…母親は私たちのことを、『ゆうちゃん』って呼んでいたから、母親からすればこの身体の名前は『ゆうちゃん』だったんだろうけど、物心ついた時から、少なくともこの身体は『ゆうちゃん』のものではなかったの。
由来も自分たちではわからないけど、それぞれの人格にはノブオ、オサム、サエコと名前があるってことだけは、いつの間にか三人ともわかっていた。
もちろん、母親の前に出る時には、誰も多重人格のことは言わなかったけどね。ノブ君やオサム君は、不服に思いながらも『ゆうちゃん』として母親と接していた。
ノブ君もオサム君も、お互いを本当に仲のいい兄弟だと思っているから、自分たちが多重人格の人格の一つであることから目をそむけているのね。だから、私みたいに割り切って三つの人格について、本当のことをあまり話したがらないの。
さっきも言ったけど、私だけはどうしてか、他の二人に内緒で行動したり話が出来るので、今もこうしてありのまま話せるんだけどね。
二人がこんな話を聞いたら、慌てて人格交代しようとすると思う。
でも、やっぱりそもそも、この身体は性別からして男のモノだし、私はあまり表に出ない様にしていたの。私は主人格ではないって自分でもはっきり認識していて、控えめにして…。
あの部屋にいた頃は、一番『ゆうちゃん』に近い人格はノブ君だったと思う。大まかに割合的には、六割がノブ君、三割がオサム君、それで私は一割も無いくらいの頻度で、表に現れても何かすることはあまりなかったかな。母親の前ではやはりノブ君が一番適応した人格だったし、ノブ君が受け止めきれない部分、虐待だとかそういう辛い部分を、オサム君が良く支えてくれていた。
私はそんな二人をサポートしたり、兄弟げんかを仲裁したり。多重人格からくる矛盾をうまくフォローするのが役回りになっていたのね。
彼ら、自分たちは本当の兄弟だと思い込もうとしていたから、それについての矛盾があった時には、混乱してしまうの。
そういう時には私が出て行って、二人の人格を暫くシャットアウトしてあげる。そうすると二人は冷静になって、それについて考え過ぎちゃいけないことを悟るみたいね。
だから、この施設に来てからは、私の出番がずいぶん増えた。
この施設のみなさんは、私たちの人格をノブ君かオサム君に統合させようとしているみたいだけど、それじゃきっと駄目。
だって、そういう試みをする度にノブ君もオサム君も引っこんじゃって、私が対応することになるんだもの。
多分、一番主人格から遠い私に、幾ら色々な療法を試みたって、効果は無いんじゃないかな…。
それでも、施設のみなさんにはよくしてもらっているし、母親に閉じ込められてた頃に比べれば、今はずっと素敵な環境だね。
だって、監視…とも言うけど…付添はあるけど、外を散歩させてもらえるし。
私、散歩は好き。
何年間も閉じ込められて、初めて散歩した時には少し怖かったけれど、今は何よりも楽しい。
ノブ君はいまだに散歩がちょっと怖いようだけど、オサム君も散歩が楽しいみたいで、前よりオサム君と私が会話する時間も増えた気がしているの。
…あ、少し話がそれたか…。
私はノブ君ともオサム君とも違って、母親のことは好きでも嫌いでも無くて、彼らのどちらかに偏らない、どっちつかずの感覚だった。
三つの人格のバランスを取ること。それが自分という人格の存在意義だと認識していたからね。
だけど、こうして今、とても穏やかに暮らせていることを考えると、やっぱり、あの人を殺してよかったんだなって思う。
…あ、ノブ君とオサム君は、私が母親を殺したってことは知らないから、絶対に言わないでね。二人には、そしてこの施設にいる人たちや警察にも、あの日の男性客が母を殺したってことにしてあるの。
あのひとが加害者ではないとも言えないし、ノブ君の記憶のとおり、言い争いの末にあの男性が母親を殴ったことは事実だし。
ただ、その時、母親は失神こそしたものの、全く命に関わる様な状態ではなかったのね。
その時、ノブ君は恐怖のあまり人格を閉じてしまったし、オサム君も、普段は強がっているけど、あれで結構繊細だから、ひどく怯えていた様なので、私が表の人格として交代して、二人には眠っておいてもらったの。
あの男は母親を殴って失神させた後、ひどく動揺した様子で部屋を出て行ったみたい。その様子は部屋の中から私が耳を欹てて聞いていた。
男が部屋を出たしばらく後に、そっと寝室に入ってみると、ベッドの上で失神したままの母がうつぶせで倒れていた。どこか期待を込めて脈を確認すると、その時点ではしっかり生きていることが分かって、何だかがっかりしてしまったのを覚えている。
でも、それと同時に、その時、私はその状況をチャンスだと思ったの。
失神している母親を殺すという容易さもあったけど、それだけならばこれまでも寝込みを襲うという方法もあったかも知れない。
でも、そうではなく、その時をチャンスだと思った最大の理由は、この状況でなら、私が母親を殺しても、ノブ君とオサム君にはあの中年男性が殺したように誤魔化せると思ったわけ。
ノブ君は母親を心から愛していたから…。絶対に私が母親を殺したなんてことは話せないし、オサム君とノブ君はまさに一心同体で全て筒抜けだから、オサム君自体は説得できたとしても、ノブ君に知らせないためには、オサム君にもこの事は決して知られちゃいけなかったの。
私はすぐに決意して、台所から包丁を持ってきて、失神している母親の背中へ思い切って三度ほど刃先を刺しいれた。
短い呻き声が何度か聞こえたけど、多分、失神から目覚めないまま死ねたんだと思う。
それは、思った以上に簡単な作業だった。うつ伏せの母親の上に馬乗りになって、両手でしっかり握りしめた包丁を入れる時の感触は、まるでなにか、モノに…布団かなにかに包丁を刺しているような感じでしかなかった。
返り血を浴びちゃったから、着ていたスウェットを洗濯機に放り込むと、さっとシャワーを浴びて、別のスウェットに着替えた。
全く同じスウェットが何着もあったから、それで彼らにこのことがばれる心配はなかった。
その後、何事も無かったように自分の部屋に戻って、元の通りにうずくまっておいたの。
それで、どちらかの人格がまた自然と出てくるまで待っていたら、ノブ君が徐々に戻ってきて…後は二人から聞いたとおりかな。
…動機?何だか急に取り調べみたいね…。
でも、当然の疑問ね。さっきは私、母親に対する無関心を強調したものね。
確かに、それは嘘ではなくて。…ただ、私が母親を殺した動機と言うのは、彼女に対する憎しみだとか、そいうものじゃなく、純粋な外の世界への憧れだけだったの。
部屋にいた頃、たまに私の人格が表に出た時は、特に何をするでもなく、窓の外の景色を眺めていた。
私はノブ君が読んでいた童話の様な世界が…もちろんそれが作り話に過ぎないことは分かっていたけど…そういった世界の様な景色が、この景色の中のどこかにあるんじゃないか…と、そう妄想するだけで楽しい気分になれたの。
ここへ来て、散歩するようになってから、この現実の世界で、そう言った童話の中で見た景色の断片を見つけることが出来ることがわかった。
例えば、この施設の庭園の、花壇の上を飛ぶちょうちょ、肩を濡らす通り雨も、私にとっては夢の様に素敵な出来事のように映るの。
きっと人を殺すのって、それ自体が目的になってしまうとひどく恐ろしいものだけど、私の様にそれが別の目的の為の一手段にしか過ぎなければ、意外とあっさりしているものなんだよ。
だってオサム君は母親を憎んでいて、殺意のようなものも持ち続けていたけれど、結局踏み切れなかった。それはノブ君に配慮したっていう言い訳よりも、母親を殺すという目的に対する恐怖が邪魔していた事が、私にはよくわかっていた。
…話をまた、あの日の経緯に戻すね。
家を出た後、オサム君に頼まれて、その後は私が表に出てきた。二人とも、私に任せる他に、これからどうすべきか、何も思いつかなかったんだと思う。私は交番を探して、警察官にすべてのあらましをそのまま伝えたの。
…ただ、母親を殺したのは私ではなく、例の中年男性だということにしてね。
その後は大人たちの作った流れに任せて、勝手にたどり着いたのがこの精神療養施設、ってわけ。
施設の先生は、私たちの多重人格や人格分離を病気だなんて言って、どうにか修正しようとしている。その先生の目論見では、最善の方法はノブ君かオサム君に人格を統合させる、というものらしいけど、さっきも言った理由で、それはまず無理ね。
…とは言え、あの環境で必要に応じて作られた私たち三人の人格も、母親の監禁から解き放たれた今、その必要性を失いかけているみたい。
実際、私たち三人のそれぞれの人格が目覚めている時間も少しずつ減ってきているしね。私たちはそれを、便宜的に『眠い』なんて表現するけど。
…あと二か月もすれば、私たちの人格は、あなたにすべて統合されるんじゃないかな。
私たち三人の人格は殆ど同時に生まれたから、三つ子みたいなものだけど、その考え方だと、あなたは私たちの後に生まれた人格だから、私たちにとっては弟みたいなものね。
でも、どうやら私たちよりもずっと要領もよさそうだし、社交性もありそうだし、施設の方々にもきっと気に入られると思う。
自然と、あなたのことは、私たち『ゆうちゃん』って呼んでいたのよ。もちろん、頭の中でだけでね。
あんな母親だったけど、その呼び名がやっぱりこの身体の正式な名称だと思うし…。『ゆうちゃん』って言うのは、呼び名でしかないから、正式にはどんな名前なのかは私たちにはわからないけどね。
…久々に、いっぱい話して疲れちゃった。それに、私も眠くなってきたみたい。
他の人にはひとりごとを呟いている様に見えるだろうね。ゆうちゃんの人格にだけは、何故だか私たちが本当に口に出さないと、声が届かないから…。
また、機会があったら、お話しよう。いつまで私たちが残っていられるかわからないし、大体のことは話したつもりだけど、他に何か聞きたいことがあれば言ってね。
そろそろ私も眠るよ。
…またね、ゆうちゃん。
4.証言①:昭和53年11月15日、呉博士
それでは、証言させて頂きます。
呉と申します。
研究所付属の精神療養施設にて被告の担当医をしておりました。
ご存知のとおり、今回の事件は、特殊な状況と多重人格症が引き起こしたものであります。また、それ故に過去に例を見ない奇異な事件であったと言えます。
はじめに断っておきます。一専門家としての興味が、担当医としてのモラルを上回っていた事について、若干本旨からずれますが、先んじて告白いたします。また、私の治療方針は結果的に彼…いや、彼らの治癒にはなんら効果をもたらさなかったことも、ここに認めざるを得ないでしょう。
治療の一環のつもりで録音された先ほどのテープが、本件の最重要物品となったことは言うまでもありません。
検察のみなさまから既にご説明のあったとおり、彼らが真犯人であることはこれらのテープによって、裏付けられたわけでございます。
裁判官に、順を追ってこのテープと、その時系列について解説いたしましょう。簡潔にいたしますので、どうかお時間を賜りたく…。よろしいでしょうか?
テープの中でも語られたとおり、サエコという人格の状態の被告は、母親に幽閉されていた事実について、既にその全てを警察に話しておりました。殺人についての供述は虚偽でしたが、それ以外の話、つまり彼らの人格の存在については医学博士の私が保証いたします。
その後、警察の事情聴取の中でその特殊な精神状態、多重人格が発覚し、被告は我々の精神療養施設で保護されることになりました。
最初は彼らを、残酷な母親の支配からようやく逃げ出してきた、憐れむべき被害者として扱い、人格の統一による社会復帰こそが担当医である私の使命であると、意気込んでおりました。ゆっくりと着実に、彼らを治療しよう、と。
ところが一週間後に警察の方が私の療養施設を訪問し、驚くべきことを告げられました。
曰く、凶器である包丁には指紋をふき取った跡が残されており、それによる犯人の特定は不可能だったものの、包丁が収められていた戸棚から検出された真新しい指紋の跡が、子供部屋から無数に検出されたものと一致した。つまり、被告の指紋と一致したというのです。
恐るべき事実に私は戦慄しました。恐らく、被告は母親から与えられて読んでいた探偵小説などから、凶器についた指紋の証拠隠滅を思いついたのでしょう。しかし、戸棚の指紋にまで気が回らなかったようです。
稚拙な手落ちの様にも思えますが、現場の、あの極限の状況下に居た本人にとって…しかもまだ若年の被告にとって、そこまで気が回らなかったのも無理はありません。
事態は一変、急を要する事となりました。警察からの要請もあり、早急に彼らを治療しなければならなくなりました。その要請は被告をこの法廷へ送り込むという最終目的がありましたので、担当医として、私は非常に複雑な心境で被告の治療に当たることとなりました。
また同時に、彼らから事件についての供述を、治療の妨げとならない範囲で、さりげなく聴取する事も求められました。
そこで、彼らにばれないよう、部屋にレコーダーを設置したわけです。ただ、この方法は幾ら担当医であるとは言え、人権保護の観点からすると、やや度が過ぎた手段であると感じていました。そこで、私は誰にも告げず、単独でこの手法を実行に移したのです。
そのため、この手法に関して、当施設の他の職員には一切責任が無い事を、付言させて頂きます。
私一人で実行していた為に、非効率もあり、結局うまく彼らの会話を録音するまでには幾らか年月を要しましたが、やっと先ほどお聞きいただいた三件の重要な音声記録を得られたのです。
それ以降も録音を試みたものの、どうもうまくいきませんでした。それと言うのも、サエコ人格の発言にあったとおり、徐々に人格がユウ人格に統合されていったようで、会話は徐々に減っていきました。
また、我々が行っていた通常のカウンセリングにおいても、サエコ人格の録音が取れた一週間後、突如『ユウ人格』が現れました。
彼の話は犯行の核心を避けながらも、これまで不明瞭だったあの部屋で起きた出来事や、自分を含めた三つの人格の存在やそのあり方について、実に明確に語りました。
それからというもの、他の三人格の出現を、我々は確認出来ておりません。統合がほぼ完了しつつあるのだと思われます。
ユウ人格曰く、今でも別の人格と会話する事はあるらしいのですが、内容は他愛のないものが殆どだと聞いていますし、完全な統合も間もなくでしょう。
ユウ人格に対しては音声を隠して録音していたことを告白しましたが、怒るどころか彼はすんなりそれを受け入れ、そのテープのコピー提供を希望されております。
問題はないと思われるので、私としては提供してやりたいところですが…それについては警察のご厚意を賜りたいところです。
さて、お聞き頂いたテープや、その録音経緯についての説明は以上となります。求められた本旨はこれまでではございますが、最後にもう一言、私の意見を述べることをお許し頂きたい。
彼は無実であるべきだ、と私は思います。
それは担当医としての情も混じっているものと疑われるかもしれませんが、これまでの観察・分析から断言できるます…犯行について隠し事があったとは言え、彼の症状に演技や虚偽は含まれておりません。
特殊な環境による情状酌量の余地は十分にあるし、実際に犯行に及んだサエコ人格は『消滅』というかたちを持って、罰を受けたのではないでしょうか。
ユウ人格…いや、小林ユウ君の入念なカウンセリングの結果、彼には一切危険な性質が無い事は保証いたします。
それどころか、非常に高い知能と十分な道徳心を備えており、正しく教育し、社会復帰させれば非常に立派な人間に育ってくれるのは間違いないでしょう。
…以上で私の証言を終了します。
どうか彼に、ユウ君に正しい判決が下ります様…。
5.証言②:同日、小林ユウ
これまでお聞きいただいたテープの内容、呉博士のお話共に、殆ど異論はありません…。
ただ、ひとつ…呉博士のお考えに反論するようで大変恐縮ですが、事実と一か所だけ齟齬があるので、その点だけ訂正させてください。
ノブ兄さん、オサム兄さん、サエコ姉さん…三人とも、この身体から消えてなんていません。
確かに、僕という人格が生まれる前と比べれば、兄たちの人格の現れている時間は減ったのかもしれませんし、そういった感覚から、兄たちは自分の人格がもうすぐ消えるのだと思っているようです。
しかし、今でも僕は兄たちと会話出来ますし、この先も消える事は無いように思います。
先ほどのテープの中で、サエコ姉さんは、『あの環境で必要に応じて作られた私たち三人の人格も、母親の監禁から解き放たれた今、その必要性を失いかけているみたい』だ、と言っていました。
確かに姉さんの言うとおり、その当時の複数人格形成の理由…あの異常な状況で生きる目的での複数人格は、もう必要ないかもしれません。
しかし今でも、僕、ユウとしての人格が生きていくために、兄たち三人の人格は絶対不可欠なのです。
言うまでも無く、ああいう環境で育った僕には家族も友達もいません。…もしいつか父親だという人に会ったとしても、今さらそのひとを本当の父親だ、家族だとは思えないでしょう。
そんな僕にとって唯一の肉親、心の支えは兄たちの存在なのです。
テープのコピーを頂きたかったのは、兄たちを絶対に消滅させないための、いわば保険の様な目的です。
万が一、将来的に兄たちの人格が薄れそうになった時、テープに録音されたこの会話を聞けば、それを食い止め、僕の中で兄たちが生き続けられると思ったからです。
そして、これは、この法廷において不謹慎な発言になるかもしれませんが、この裁判、判決の内容に関して、僕はそれほど関心が無いのです。
なぜなら、この一つの身体の中に僕と兄たちがいる限り、僕たちはどんな状況でも支え合い、幸せに生きていけると考えているからです。兄たちは元々、マンションの一室の、閉じられた世界に生きていた…ユウ人格の僕も、それを味わってみたい気さえしているのです。
…はい、もう十分は、言えました。
僕からは以上です。
6.記事:昭和53年11月16日、日陽新聞より抜粋
xx町 女性殺害事件裁判 容疑者である息子に無罪判決
xx県xx町で無職、小林眞子(38)を殺害したとして、xx県警は昭和51年9月未明に自ら交番に保護を申し出た眞子さんの長男(16)を、殺害の疑いで11月に立件した。同容疑者は未成年であることに加え、精神に異常が認められたため、療養施設で治療を受けながらも慎重に事情聴取が進められていた。
昨日15日にxx地裁で行われた当該事件の裁判においては、容疑者の精神状態が安定的な状態に戻ったとの担当医師の判断から、容疑者自ら被告として証言したものの、公判中に被告の精神状態は尚も不安定であることが認められ、更にその後の度重なる検査結果により裁判長は被告に刑事責任能力はないと判断。
更に裁判長は、たとえ被告に責任能力があったとしても、その特異な状況から、情状酌量が十分認められるとし、事実上の無罪判決を下した。
この判決に対し、担当医は同容疑者を再び療養施設に戻し、暫く保護することを主張。裁判長はこれを認め、被告もこれを受け容れた。
担当医曰く、今後はこれまでとは異なり、患者の意志を取り入れた新たな療法を検討するとともに、社会復帰に向けた職業訓練も同時に行う方針との事。
なおxx県警は事件に深く係わりがあると思われる、xx市の男性経営者の身柄を拘束。現在取り調べが進められている。
1204号室
多重人格をテーマにした話は、やりつくされているけどやはり書きやすい。
割りと気に入っているので、二度更新しています。