乖離
第一章
一 日常
二 出発
三 倉庫
四 聖子
第二章
一 新宿
二 酒場の女
三 同僚
四 接待
第三章
一 礼子
二 涼子
三 ルイ
四 佐知子
第四章
一 競馬場
二 遊技場
三 終着駅
四 旅行
第五章
一 幼い頃
二 琴美
三 東京
四 白雪
第一章
一 日常
朝から蒸し暑い日だった。慎一は目覚めたときから軽い頭痛と吐き気を覚えていた。連日の暑さに疲労感と睡眠不足が重なっていた為だった。また、精神的にも不安定な状態が続いていた。三十歳を目前にして体内から生きることへの情熱と真摯さが失われ、このまま老いてしまうのではないかと不安に苛まれていた。暫くの間蒲団の中にいたが仕方がないと思い起き上がった。窓を開けると生暖かい風が部屋の中に流れ込んできた。慎一は静かに深呼吸を始めた。何度か繰り返している内に吐き気は治まってきたが、頭痛はより深く内部に浸透していくように感じた。
毎日毎日が同じことの繰り返しだった。同じことの繰り返しが生きて行くことであり、仕事として成り立つことの前提だったが、慎一にとって自分を蝕んでいくように感じていた。休暇を取りたかったが休めないことは分かっていた。今日中に仕上げなければならない仕事と予定が組み込んである。慎一は思いを巡らしていたが、何時ものように蒲団を畳み、掃除機を掛け、冷蔵庫の中を物色して朝食に有り付いた。結局、会社の休日以外理由も無く休暇を取ることは出来なかった。
アパートから歩いて二十分程で京王線のつつじヶ丘駅に着く。通勤快速で二十分、聖蹟桜ヶ丘に着き、歩いて十分ほどの所に会社があった。乗り合わせが良ければ一時間程で通勤出来る距離である。アパートは虫食い農地の残る閑静な高台にあり、深大寺の近くだったが、調布市ではなく、三鷹市の西の外れに位置して、国道二〇号線を三鷹市役所方面に向かった所だった。引っ越してきた頃は、休日の度に神代植物公園を散策する習慣が身に付き、一人のんびりと日溜まりを歩いていると田舎での生活が思い出された。しかし今では滅多に行くことは無く、どんな植物が有ったのかさえ思い出せなかった。
大学での四年間、就職して六年、東京に移り住んで既に十年が過ぎていた。就職先を中小企業に選んだ理由は、生活する為に必要最小限の金銭が得られること、煩わしい人間関係に束縛されたく無かったこと、立身出世の為に働きたく無かったこと、それに、何れ生まれ育った静岡県阿部川沿いの田舎で職を探して、静かに暮らしたいと思っていたからだった。
今日の予定を思い出していた。午前中はファクスが受信している受注伝票をコンピュータに打ち込み、発注伝票を印刷して倉庫に持って行く。午後は同僚の佐伯と二、三の小売店を廻り、商品の配置状況を調べ新商品の売り込みをする予定だった。依り多くの商品を販売して、売上高を増やす為、地域的な顧客の嗜好品を調査する必要があった。しかし各店舗の売り上げ状況はコンピュータで管理されていた。準備として必要なことは、書類を印刷することでこと足りた。要するに、慎一が出勤することで一日が規則通り動いて行くように決まっていた。
可も不可もなく規則通りに日常が移り行くとき人は安堵感を得る。何も考えず、不安に思うこともなく無事一日を終える。慎一の仕事も奇を衒う必要はなく淡々と成し遂げて行くことが求められた。慎一は十分応えられるだけの仕事をしていたが、その中に自分自身を置き去りにしている不安を感じていた。しかし仕事自体が、個としての社会的な慎一を表すことの出来る全てだった。依田商事株式会社営業部主任、河埜慎一と、一枚の名刺に刷られている文字以外慎一を表すものは無かった。
依田商事株式会社は酒類卸売業として関東地区一円を視野に納め、五百以上の小売店と取引があり、また幾つか大手デパートにも納入していた。現場社員が二十人、事務社員が社長他九名の中堅企業であるが売上高は群を抜いていた。慎一は依田商事に入社後、情報処理専門学校に通い業務の効率化を図ってきた。慎一の主な仕事は営業事務兼営業であったが、営業は部長の本山、社員の上嶋、佐伯、今年入社した吉本、他に経理の女の子が二名であった。また、総務事務を受け持っていたのが二年目の飯山佐知子だった。部長の本山は酒類生産地を廻ることが多く、上嶋、佐伯も外廻りの仕事に追われ事務所に居ることは殆どなかった。吉本は営業社員だったが、一年目と言うこともあり倉庫に詰めていた。慎一は社長のお供や得意先を廻ることもあったが、事務所に残ることが多かった。しかし、女の職場に残された感覚が嫌で倉庫に行って過ごす時があった。翌日の配送の為に酒類の積み込み作業を手伝うこともあり、また駄弁って時間を潰すこともあったが、大抵事務所からの電話で呼び戻された。
日々の仕事は、コンピュータ相手に前日の午後から送られてきた注文ファクスを地域ごとに振り分け、数値を打ち込む。コンピュータ、ファクスは事務処理を迅速に行う為に導入されたが、結局機械に使われていた。ファクスは全ての小売店に設置されていたので数値は正確に送られてきた。コンピュータへの打ち込みさえ間違わなければ仕事上の失敗は無く、小売店の月間売り上げ状況も分かっていたので、仮に注文伝票に数字の間違いがあったとしても、打ち込むときに処理出来た。慎一が仕事をしていると感じるのは、明らかに数値が間違っていると気付いたときだった。その時、始めて小売店に電話を掛ける。けれども商品と数字の話しだけであって他には何もない。しかし相手の言葉に、人間的な感情を受け取ることが出来た。何れ小売店から直接会社のコンピュータに入力出来るようになれば、慎一の仕事自体必要が無くなる。
一小売店が店内に並べている酒類は凡そ三百から五百、会社の取り扱っている酒類は約十倍の五千種を越えていた。慎一は、その全ての酒類と価格を理解する必要があった。売値は変動しないが、新商品発売の時など、一部の商品は価格が変動することもあり、入力する数値に間違いが無いよう注意を要した。また、特別価格で販売する期間があるときなど、その都度入力値を訂正する。その他、午後から同僚と営業に行くこともあったが、商品の陳列指示程度で、新しい商品や他店への売り込みに行くときはサポート役が主だった。そんな日は夜の八時、九時まで仕事をしたが、普段は六時前には退社出来た。
昼の休憩時間は事務所に残ることはなく、食後は多摩川縁を散歩しながら川辺で石投げをしていた。会話することの面倒臭さとテレビを見ていることの煩わしさからだった。偶々手にした平たい石ころを、サイドスロウ投手のように横手から水面すれすれに勢い良く投げつける。石は水面を切りながら向こう岸に届くこともあり、途中で沈み込むこともあった。水没した石ころは二度と水の底から出ることはなく、川底の渦に巻き込まれ水中深く潜ってしまうか、流れながら小さな砂粒に分解していく。それは、何処か生きることに似ていた。意識的に行動している積もりでいても、自分の意志では無く、他人の意向で動かされ、無意識のまま行動していることがある。石ころは必要があってその場所に在ったのではなく、何十年、何百年の時を経て流れ着いた。しかし、一つの石ころは慎一との出会いに依って方向を変えられる。人と人との出会いも、日常生活も、同じように予期せぬことの連続である。偶然の出会いに依って、全く違った方向に変わることがある。良いか悪いか判断する必要は無く、現在ある姿が事実であり、現実であり、それを受け入れるより仕方がない。現実の姿は現実の儘で変わることはない。身長一七八センチ、体重六五キロ、そよとの風もないどんよりとした蒸し暑い日の午後、多摩川の河原に立ち、ほんの少しの空間を支配している慎一自身が全てだった。
仕事に戻る時間がきていた。しかし、このまま空間から消えてしまいたい衝動に駆られていた。生きることに消耗して、日常に諦念を感じていた慎一にとって、一瞬にして全く違う世界に行き着き、生きる環境を変えてみたかった。
存在する物自体は一体何に依って証明されるだろう。空間に存在していることは、存在を、時間と空間の中で証明しなければならない。物体として存在している物は、永遠であるという定理がない限り物体の永続性は有り得ない。仮に物自体が永遠であったと仮定しても人間に当て填めることは出来ない。人間は有機物である限り時間と空間から遊離して何れ腐蝕し消滅する。歴史は時間の継続であり、現在、時空空間に在ることは分かっていても、それが明日まで続いて行くことを証明することは出来ない。
個々人の歴史にとっても、現在まで計り知れない時間が継続してきた。そして、誰もが自分だけは確かなものであり、安息と快楽の場所を求める。しかし永遠だと信じている宇宙でさえ、暗黒物質如何に因っては何時その方向を変えるか分からない。宇宙の運命さえ変えてしまう暗黒に何時吸い込まれても良いのである。愚かな人間だけが不変であり永遠だと錯覚している。永遠の時間と言えるのは、現在、慎一を支配している一瞬のことであり他にはない。感じ、考え、行動している慎一が全てである。
人間の意識の中にも同じような、陥ると永遠に抜け出すことの出来ない暗黒と未知の世界がある。知らず知らずの内に近付きながらそれを知ることはない。慎一の暗黒は、何れ慎一を吸い込んで永遠の果てに、二度と戻ることのない所に放り出すのだろう。眼前に流れる川の中に在るのか、アパートの狭い空間に在るのか、故郷の景色の中に在るのか分からない。しかしその中に吸い込まれ、当て所の無い空間に投げ出され、そして終末を迎えるだろう。しかし、生死の問題さえ慎一にとって然したることではなかった。生きていることも、死ぬことも日常の煩雑さと同じことであり、自分自身の、日常の不条理から抜け出すことは出来なかった。川面の照り返しを受けていた慎一は、目を閉じると、静謐な時間を駆け上り中空に消滅して行くような錯覚を覚えていた。そして、自分自身に対して支配と統制の出来ない時間を一瞬もってしまったように思った。
午後の小売店廻りをしなければならなかった。訪問することで、売上高を極端に伸ばすことは無かったが行くのが仕事だった。サラリーマンであることが自分の時間を奪い行動を規制する。しかし仕事は生きていることの前提である限り仕方がない。慎一はゆっくりと深呼吸をした。前方を京王線の特急列車が轟音と共に過ぎ去った。電車の乗客は、慎一が多摩川縁で佇んでいることさえ知らない。誰も彼もが自分のことを考え、必要に応じて行動しているのに過ぎない。それが個々人の生活であり社会的な生活だった。
多摩川は何事も無かったかのように滔々と流れ、水辺は静まり返っていた。明日の昼休み、慎一が訪れても同じように受け入れてくれるだろう。
二 出先
各小売店は年に数回折り込み広告を地域の新聞に入れる。季節、季節ごとに重なることが多く、広告を作り安価で提供する商品を決めて置かなくてはならない。見本は、売り上げ、地域性などによって百種類以上用意してあった。また、各小売店の特殊な注文にも十分応えられるように日頃から周到に準備していた。
慎一は広告のデザインを考えているとき、面白みを感じることもあったが、その他の日は時間を持て余し気味に過ごしていた。製造元への注文も、特定の銘柄は前年中に確保する必要があった。ビールなどの量産品は、気候と売れ行きに微妙な相関関係を持っていたので、気候を読む術が必要とされた。しかし量販品と言え、各小売店からの急な注文に対応出来るように準備をしておく必要があった。また、品目別の年間売り上げの見通しを立て、製造元への発注伝票を切るのも慎一の仕事だった。部長決裁や、社長決裁が必要な事項も、出張中の場合などは慎一に一任されていた。在庫との調整が必要だったが、何れコンピュータが行っている業務であり、売れる商品を必要に応じて仕入れているのに過ぎなかった。
「先ほど伊藤酒店から電話があり、折り込み広告を入れたいと言う話でした」
倉庫で入庫状況を調べ、事務所に戻ってきた慎一に飯山佐知子は声を掛けた。
「直ぐ電話して頂けます?」
「何処の伊藤さん?」
「御免なさい、訊いていませんでした」
事務所に残っていたのは佐知子と経理の女の子が二人で、社長と部長は連れ立って出掛け、上嶋、佐伯もいなかった。佐知子は事務所内で一番若く、前年の四月都内の短大を卒業後入社してきた。佐知子の机は慎一と通路を挟んで丁度向かい側に位置していた。
「意地悪言ったかな?!」
何を言っても直ぐ俯いてしまう佐知子だった。
「済みませんでした」
と、佐知子は蚊の鳴くような声で謝った。
「御免、御免、分かっているから!」
そう言って慎一は伊藤酒店に電話を掛けた。
「席を外していて申し訳ありませんでした」
「河埜さん、色々世話を掛けて申し訳ない。ディスカウントストアが出来てから、矢張り売れ行きの方が落ちてしまった。そこで折り込みを入れたいと思っている。安売りをして客を呼び戻したいが、出来るなら何品か安く仕入れさせて欲しいお願いと、売れ筋の出荷状況を知りたい。それに、売り出し日は店頭での協力も得たいと思っている。急なこととは分かっているが是非お願いしたい」
「何時頃の御予定ですか?」
「出来れば七月の初旬に」
「一ヶ月ないですね」
「日数が足りないことは分かっている。しかし其処を何とかして貰いたい。河埜さんなら大丈夫でしょう」
「しかし」
と、慎一は躊躇った。
「出来ればビールとジュース類を半値近くで売りたいが、如何なものでしょう?」
「分かりました。何とか副うようにしたいと思います」
「有り難う」
「商品の内容を決め、何種類かの広告を作りたいと思います。売り出し期間は月初めの金土日、三日間になると思いますが、宜しいでしょうか?」
「それで良い」
「他に必要なものはございませんか?」
「今のところ無い」
「仕入れ値より箱で千円位安くして、他の商品の売り上げでとんとんにしたいと思います。それに、ジュース類は店頭でサービス品として配布しては如何でしょうか?」
「宜しく頼みます。配達区域も限られているので生き残るのも大変だ。これからも協力して下さい」
「では、来週お伺い致します」
伊藤酒店の月間売り上げ、年間売り上げ、販売商品の品目、これからの見通し、広告の見本もコンピュータに記録されていた。一時間もあれば仕上がる仕事だった。躊躇う必要など無かったが、それが商売人の質だった。
慎一は見本を何種類か作り翌週伊藤酒店を訪ねた。
「ご足労いただいて申し訳ない」
「広告は五種類ほど作ってきましたが、どれにするか検討したいと思います。後は定価を組み込んで、減価計算と予想売り上げを試算しますと仕上がります」
「成る程、河埜さんの仕事振りには何時も感心させられる」
「印刷屋のような訳には参りませんが、カラー印刷が綺麗に仕上がるので、素人の私にも活版印刷並の物が出来ます。それに、コンピュータは持ち運びが出来ますので、何処にいても仕事が出来るようになりました」
店主は二つ折りの広告に決めた。慎一は色刷りの広告とコンピュータを睨めながら仕事を進めていった。
「後は値段を入れるだけです。会社に帰ってから仕上がったものをファクスでお送りします」
「当日は手伝いの方もお願いします」
「分かりました。佐伯君と二人で頑張りたいと思います」
「宜しく頼みます」
打ち合わせを済ませると店主は個人的なことを訊いてきた。
「河埜さん、実は紹介したい娘がいるのですが、会っていただけますか?」
「まだ、結婚する積もりはないし弱ってしまうな」
「まあ、そう仰らずお願いします。遠縁に当たる子ですが、屹度気に入ってくれると思います。売り出しの時、手伝いに呼んで置きますので、それとなく様子を見て下さい」
慎一は体よく断ると早々に伊藤酒店を引き上げた。会社に帰って広告を纏め上げる必要があったが、遣る気力は無く、近くの喫茶店で時間を潰すことにした。
・・・これで三、四回目だ。いきなり知り合いの娘だと言って写真を見せられたこともあった。物の売り買いではあるまいに、対になることを感覚的に捉え蘊蓄を聞かねばならない。人間も所詮、雌と雄しかいないが、常に生物学的に生きているのに過ぎない。見合いをして、生活の基盤があることを確認して生活を共にする。合法的に女を自分の物にして種の保存を図る。自然と子供が産まれ、そして育て、時々は遊園地に行き、動物園に行って楽しいひとときを過ごす。年に一、二度家族旅行に出掛けることもあるだろう。俺は一日の仕事が終わって、団地に灯る明かりを便りに暗い坂道を上って行く。家に辿り着き、翌日、同じ時間同じように起き、混雑した電車に押し込められ職場に向かう。家族の仕合わせの為に、一生懸命働いて、気付いた時には頽齢を迎える。女房も同じように歳を取っていくだろう。成長した子供たちは親元を離れ独立して行く。定年を迎える頃になって、俺も女房も未だ未だ元気で、一緒に旅行へ行く計画を立てるだろう。費用を節約する為、季節外れの公営旅館に泊まる。同じように、歳老いた老人たちと一緒に温泉に浸かり隣同士で食事を摂る。その時、筋向かいに座っている老人の視線と顔面の皺に、俺と同じような虚無を見るのだろうか、それとも生きることを成し終えた人生の充足感を覚えるのだろうか、否、反対に俺が見られているのかも知れない。お前は何の為に今まで生きて来たのか、その窶れた姿は一体何を言いたいのだ。お前の悲しみなど所詮意味することは無いと、そう思われるのかも知れない。そして、翌年は翌年でまた季節外れの旅行をする。時にはツアー旅行の後ろにぞろぞろと付き歩いているのかも知れない。出歩くことが億劫になるまで何度も同じことを繰り返すだろう。そして、体力が衰え動けなくなって人生の幕を閉じる時を迎える。歳老いた俺は病院のベッドで横たわっている。腕には点滴が繋がれ、トイレに歩いて行くことも出来ずお襁褓を当てられている。その時、一体何を思うのだろう。これで良かったと思うのか、それとも、誰にも聞こえないよう廻りに注意しながら、俺の人生は間違っていたと呟くのだろうか。医者は臨終の俺を無愛想な目で眺めている。血液は血管の途中で流れを止め、俺は鼓動の停止する音を静かに聞いている。そして、四肢は動きを止め最後の痙攣を起こすだろう。医者は、『御臨終です』と言い終え俺の側から離れて行く。亡骸は柩に横たわり、一晩自分の家で過ごし、翌日火葬場に運ばれて行く。一列に並んだ焼却炉に押し込められ重油で焼かれる。一時間も経てば綺麗さっぱりと、火葬台車の上には形の崩れた骨だけが残っている。生きてきた証など何処にも有りはしない。告別式が行われ、これから先、永遠の時間に支配されながら生きている人間たちが参列することだろう。そして、暫くの間、俺を知る人間たちは思い出として語り合うのかも知れない。しかし、何れ時と共に忘れ去られる。二、三分で語り尽くせる俺の一生など何の意味もない。これから先、何十年生きたとしても同じことだろう。人は日常の喜怒哀楽の中に生活の根幹を持っている。一生は緩急に満ちた時の流れのようなものかも知れないが、俺の内面を構成している日常とは無縁である・・・
午後になっていた。聖蹟桜ヶ丘駅から会社に戻る途中だった。暗雲が立ち籠めた瞬間、いきなり土砂降りの雨になった。慎一は空を見上げていた。何故雨を避けないのか自分でも分からなかった。背広から滴が滴り始めていた。駅に戻ることも、会社まで走って行くことも出来ず雨中に立ち尽くしていた。
・・・意識できる意識が失われて行くとき、俺も又人間としての生を閉じる。恐らく意識が混濁して行くことは有り得ない。意識できる意識を静かに意識しながら死んでいく。死は俺個人の出来事であって、この地球から、宇宙から、一個の生命が失われることに過ぎない。有機物の死は何れ分解され原子記号に還元される。原子記号になった俺は意識を持たない物質として存在する。マイナスイオンとプラスイオンで構成されていると思えば笑ってしまう。原子記号が酒を飲み、恋をして、旅行して、自動車の運転をしている。全く落語の世界になってしまうだろう。然りとて、死後の世界があるなどと馬鹿げたことを信じ、語り、飯を食っている奴を見ると反吐が出る。生きたこと、俺という意識を持った一個の人間が生きたことは、俺自身の中での事実でしかない・・・目を閉じて、還りし日々の原点に還元して行くとき、俺は何時ものように宇宙空間を見る。暗黒の空間に小さな星の固まりが見えてくる。そして、暗闇に浮かぶ小さな星は永遠の彼方に遠ざかって行く。其処は母の体内だろうか、それとも深海の水圧に閉じ込められた海溝だろうか。何れ人間であることの意味など何処にもない場所である。生まれし暗黒の世界が原点であるなら、それは無の世界である。無の世界に有機物が生じ、四十億年の歳月を経て現在に至った。俺は、その四十億年の歳月を遡り生命の源に還って行く。再現のない時間の流れ、余りに遠過ぎて考えることも出来ない過去である。しかし俺の存在は、その一点に始まっている。生まれてくる嬰児が、母胎の中で生命の歴史を凝縮して生まれてくるように、宇宙の歴史は感じなくとも、生命の歴史だけは感じることが出来る。俺は歴史を越え生命の畏怖を覚えることだろう・・・
三 倉庫
八月も後半に入りビールの売れ行きは急激に落ち、替わりに日本酒が少しずつ伸びていた。慎一は注文のファクスが少ないことを確かめると倉庫に行った。事務所で女の子を相手にお喋りをしていることも嫌だったが、ファクスの数値を眺めていることにも疲れていた。倉庫では係長の米崎が、午後の積み込み作業も終わり、夕方まで手持ち無沙汰にしていた。
「係長、蒸し暑いですね。今年は雨が多くてビールの売り上げが余り伸びませんでした。品数は多いのですが、量が出ません」
「忙しいのが良いのか、暇が良いのか、もう夏も終わりだね」
「日本酒の季節になりますね」
「河埜君は入社して何年になる?」
と、仕事とは関係のないことを訊いてきた。
「六年になります」
「結婚は、まだ先かな?」
「多分しないと思います」
「家庭を持たなくては一人前と認められないだろう」
「先のことまで考えても何も見えてきません」
「うちの娘に会って欲しかったが?」
「生活を維持して行くことも、子供を育てることも出来ないような気がします」
「そうは言っても御両親が心配なさるだろう」
「生き憎い社会であることに間違いはないし、俺のような中途半端な生き方では結婚した相手が可哀相です」
「生き憎い社会か・・・」
「生活することは、苦しみだけしか残らないような気がします」
「苦しみか・・・」
と、米崎は溜め息を吐くように繰り返した。結婚して二十五年、依田商事に勤めて二十八年経っていた。溜め息の中に過去が滲み出ていたが定年までには十年近く残っていた。
「何れ田舎に帰って暮らそうかと思っています」
米崎は、慎一の言ったことを聞いていなかったかのように自分のことを話し始めた。
「長女が今年で二十三歳になる。会社勤めをしているが、母親は懸命に嫁ぎ先を探している。しかしのんびりしているのか、遊びたいのかそんな積もりは全くない。長男が大学の二年で、その下に高校生の娘がいる。倅は金も無いのにアパートに移りたいと自分勝手なことばかり言っている」
「僕も中学生の頃早く家を出ることを考えていました。親元を離れ一人で生きたかったのかも知れません」
「子供が成長した分、家の中には問題が多くなり帰ってもゆっくり出来なくなってしまった」
「ええ・・・」
「何時までも同じ状態が続かないことは十分承知している。しかし子供たちも生活することの大変さを知らなくてはならない」
「後少しの辛抱だと思います」
「分かっている・・・」
「親子の関係って何でしょう。血は繋がっているが、個としては別々の生き物でしかない」
「多分そうだろう。親子でありながら分かり合うことが出来ない」「それで良いのではないでしょうか・・・」
「人生の半分以上生きて来て、俺の過去は何だろうって考える年になってしまった。このまま定年まで働いても自分には何も残らないような気がする。何故働くのか考えても仕方が無いし、他に移りたくても老い耄れを雇ってくれるところはない。このまま依田商事で働くことしか能はない。何か成さないと意気込んでも、誰も彼も皆凡人に過ぎない。そして、所詮成るようにしかならない。結局この年になって、何故働くのか、何の為に生きて来たのか分からなくなってしまった・・・」
配送を終えた最後のトラックが戻ってきた。米崎は明日の準備のため倉庫に入って行った。生活、家庭、仕事と、何処に行こうとしているのか、彷徨い疲れ切った後ろ姿を映し出していた。
慎一は暫くの間作業を眺めていた。洋酒、日本酒、ビールなど多品目が順序良く二つの倉庫に堆く積まれ、薄暗い倉庫の中は、夏だと言うのにひんやりとしていた。何時までも寝かせて置く品物ではなく、入庫と出庫のバランスを保ちながら常に一定の量を確保して置く必要がある。恐らく何百人の人々が関わり、人間の欲望の対象として倉庫の中に納められている。しかし、商品としての酒は自らの存在を主張し空間を自分の住処として占めている。
慎一は奥の方に入っていった。
・・・俺は酒と会社の為に出勤している。現実の生活過程が俺自身の存在であるが、俺がこの会社にいる限り、酒は俺自身の生き方を規定して生活の全てを支配する。意識が生活を規定しているのではなく、依田商事に勤めている日常が俺の意識を規定している。毎日コンピュータに数字を打ち込み、営業に歩き廻り、酒を売り込む、それが俺の会社での全てである。そして、俺の日常は会社に拘束されたまま俺のものになることはない。倉庫に積まれた酒は、俺の生き方とは関係が無く俺の日常を支配する為に存在している。会社は俺自信を必要とするのではなく、俺の時間だけを買っているのに過ぎない。会社に寄生し依拠しているのが俺の生活である・・・
夕方になり慎一は事務所に戻っていった。営業の二人は女の子たちと雑談をしていたが、部長と社長は出掛けたままだった。今日も一日が何事もなく終わっていた。慎一は帰り支度を済ませると足早に駅に向かった。変わらないのが日常であり、誰も彼もが変わらないことを望んでいた。慎一はじっとりと汗を掻きながらアパートに辿り着いた。風呂に入り昨夜の残り物を食べた。それは、一人で生活することの合理性よりも日常の頽廃から来ていた。夜になると涼しい風が吹き始め、近くの叢から蟋蟀が鳴き、夏の終わりを告げていた。
慎一は窓辺に凭れながら夜毎見る夢のことを考えていた。
・・・夢の世界を信じている訳ではないが、最近嫌な夢を見るようになった。それは何時も同じ夢で、突然始まり、纏まりの無いまま終わる。雪で出来た祠の中に、心筋梗塞を起こし唸りながら俺は横たわっている。阿部川で農業をしている父が放心状態のまま俺を眺めている。けれども急に画面が逆転すると、心筋梗塞の発作を起こし苦しんでいるのは父親に替わる。俺は助けようと処置をしているのではなく父親と同じようにただ眺めている。そして、いざ助けようとすると、今度は俺が心筋梗塞を起こしてしまう。その時俺は目覚める。死にそうになりながら、夢から覚め生きていることを確認する。月曜日から土曜日まで同じ夢を見る。眠りから覚めると、周囲を見渡し自分と物との関係を確認する。そして、物との距離や位置が同じままであることを知る。俺は、幼児が目覚めたとき、透かさず物と位置との関係を自然に捉え、安全を確認するかのように安堵を覚える・・・蒲団に横になり、このまま起きなければ良いと思う。しかし何時も通り朝を迎える。俺は定刻に起き、背広に着替え駅に向かう。そして、何時もと同じ電車に乗る。しかし窓外を横切る風景は死に絶えている。走っている電車も、車も、家々も、空間を支配しているのではなく、蜃気楼のように存在感が無く霞んで見える。俺は腕時計を見て、時間だけが確実に進んでいることを知る。俺以外の人間は、その時間の中に生きることの実在感を感じている。それを社会的な人間関係として満足感に浸る。今日一日を、充足した生活として記憶の底に隠し積み重ねて行く。しかし俺自身の内面は依り不確実なものになり、隣り合わせに座っている乗客も、反対側に腰掛けている乗客も視野から消える。夢を見ているのだろうかと思うが、電車は停車し、乗客は乗下車を繰り返している・・・郊外に向かう車輌は都心に行く車輌に比べ、何時も二、三割しか乗り合わせていない。斯うして何年も通っていながら、風景は変わっていないように見える。しかし微妙に変わっていても気付かないだけなのかも知れない・・・生活して行くことは、姿、形を変え、馴染み、自然に同化し、そして順応して行くことだろう。そのとき生活を営んでいる実感を知る。空き地がビルディングに変わり、畑に家が建ち、縁側にいた老人の姿が消えている。食堂の主人が入れ替わり新しい店が開店する。日常の移り変わりが歴史の中にある。しかし左右に立ち並ぶ家々が、そのまま永遠に存続していると思うのは間違いである。地殻変動など自然災害で何時壊滅するか分からない。事実は消滅することを前提に現存しているのに過ぎない・・・月曜日からに土曜日まで、同じことを繰り返して一週間が終わる。そして又、月曜日の朝九時前には依田商事株式会社の正面玄関に立っている。何も変わることはなく、俺は月二、三回の割合で外廻りに出掛ける。自動車の運転をしている時、視野から風景が遠ざかって行くことを知る。近付いている筈なのに、近付けば近付く程目的物は離れ、眼前にあった建物や、歩いている人間が不安定なものになりユラユラ揺曳しているように感じる。手を伸ばしても掴み取ることは出来なく、俺自身が四次元の世界に入り込んでしまったような、不確実な物体になる。そして、最早存在自体が好い加減なものになり、意識する意識など全く無意味に感じる。酩酊状態のときに感じる混濁のような、又、無重力状態のような不確実で不安定な意識になる。俺は世界からはみ出し、暗黒の許に置かれ、眼前には虚無が漂う。胸裡に激痛が走り、喉の渇きと虚脱感を覚え眩暈を感じる。そして、呼吸は荒くなり深淵に落ち込むときのように、意識が薄れ感覚が遠ざかっていく。立っていることも出来なく冷や汗を流しながら耐えている。生きることを嘲笑っているかのように、一ヶ月に一度の割合でそれはやってくる。俺は木陰で、深々と何度も何度も深呼吸をする。そして、水を舐めるようにゆっくりと体内に流し込む。十分、二十分経つ内に少しずつ生気を取り戻し、思考力が戻り、自分の位置の確認や何をしていたのか思い出す。しかし失神していたのか、失神する寸前まで行っていたのか分からない。底なし沼のドロドロとした不可思議な世界の中に陥っていたのかも知れない。気が付くと、周囲の情景が俺とは懸け離れ疎遠なものになっている。本当はそのまま死んでしまえば良いのかも知れない。一瞬にして意識を閉ざし目覚めることがなければと思う。心の中で、俺は、苦しいよ、苦しいよ、と咽頭が掻きむしられるような叫び声で呻いている。そんな時、最早何も感じなくなっている。一日は始まりも終わりもなく、宙ぶらりんのまま時間が過ぎている。そして、疲労困憊した俺は蒲団の中に丸まって眠る。夜中に目覚めた俺は、静かに溜め息を吐き、一つ一つの細胞が泣いていることを知る。一日は中空に消え、俺の歴史を刻んだのではなく、置いてきぼりのまま終わる・・・
慎一の内面は、グルグルと壊れたレコードのように同じ所を廻っていた。出口のない焦慮だったのか、体内を蝕む細胞が疼き始めたのか分からなかった。
四 聖子
・・・毎日毎日キーボードを叩いている。朝から夕方まで同じことを繰り返し機械の中に埋もれている。就職して一年目は、ペンティアム一六六メガヘルツのコンピュータを扱っていたのではなく機械に使われていた。打ち込みには、リズム、スピード、バランスが要求された。間違った数値が打たれても、機械は何も反応せず打たれた通りに数字を並べていく。数台あるコンピュータの内、俺が使うコンピュータには名前が付いていた。何時だったか、一人残業をしているとき、≪聖子≫と名付けた。秋風が吹き始めた頃だろうか、それとも冬の最中だったのだろうか、今では季節さえ忘れている。聖子には、俺が休みを取ったときにだけ佐知子が触っていた・・・
事務所には慎一一人が残っていた。静まり返った部屋の中で対話が始まっていた。
「聖子」
「なあに!」
「何時も協力してくれて有り難う」
「だって、慎一の優しいところが好きだもの!」
「今まで、そんな風に言われたことなかったな」
「慎一って、優しく触ってくれるでしょ!私のこと、本当の女のように思っている」
「聖子は俺を裏切ることはない。俺の言う通りに動いてくれ、考えてくれる」
「私は機械、考えることは出来ないけれど、貴方のお気の召すまま従うしかない」
「聖子のこと機械だなんて思っていない。知識であり、感性であり、良い女だと思っている」
「嘘!付いている」
「聖子に触っていると気持ちが静まる」
「ねえ慎一、佐知子さんのこと好き?」
「どうして?」
「佐知子さんの指先ってとっても綺麗!!キーボードを叩くときのスピードも速くて素敵よ」
「可愛いとは思うけれど、好きだって感覚はない」
「佐知子さん、慎一のこと好きだと思う。慎一が休んだとき、私に触る感触で分かる。始めキーボードを優しく撫でている。そして、暫く考えてから打ち始める。途中何度か休むとき、溜め息を吐く。その時に慎一のことを考えている」
「観察が細かいね」
「目許が潤んで指先がしっとりと濡れてくる。そのことに気付いたのは去年の終わり頃だった。でも、何故急に惹かれたのか分からなかった。佐知子さん、誰かに失恋した後、慎一に思いを寄せたのかと思った。でも違っていた。慎一に始めて会ったときから感じていたと思う」
「分からないな」
「嘘ばっかり、知っていてそんな風に言うなんて嫌い!」
「若過ぎて付き合い切れないよ」
「私、慎一のこと長い間見ているでしょ。慎一って少し冷た過ぎると思う。デイトに誘って上げれば良いのに!佐知子さん、慎一が誘ってくれるのを待っている」
「聖子、妬かない?」
「妬かないよ!」
「ほら、妬いている」
「慎一、貴方の考えていること当ててみましょうか・・・」
「何も考えていない」
「また、嘘を付いている。慎一が椅子の向きを変え、私の方を向いて仕事を始めるとき視野には何も映っていない。毎日毎日出社しても仕事のことなど考えない。書類を見ている振りをして、その先にある物を見ようとしている。視野の向こうにあるものは、過去でも未来でもなく況して現在でもない。透明な感覚の向こう側に在るもの、それが一体何なのか探している。しかし何時まで経っても分からない。そして、分からないことで苦しんでいる。生きることも死ぬことも分からないまま、それでも求めようとしている。慎一、何故そんなに苦しむの?・・・慎一はこの世に生まれて来たことを後悔している。生命としてあることが辛い。生きることを放擲すれば、存在したことなど意味が無かったと思っている」
「俺は、俺でしかない」
「私は機械、何台も何台も同じ物が作られる。通し番号が打たれても同じ物であることに変わりない。キーボードを叩けば、叩いた通り画面に反応する命を持たない機械に過ぎない」
「聖子は、変わることのない時間を生きている」
「慎一は慎一として生きている。染色体に同じ物がない限り、生命に同じ物は存在ない。それぞれその時その時に、違うことを違うようにしている。そして、同一の瞬間は決してない。生命は過去を、未来を持たず、瞬間、瞬間を生きている」
「生きているだけであって目的がない」
「いいえ、生きていることが目的となるような生き方が出来る。生命は恐らく何処にも存在しない。仮に宇宙の果てに在ったとしてもそれに巡り会えることはない。慎一の生命は、慎一だけのものであり二度と生じることはない」
「確かに俺以外の物にはならないだろう。でも、俺を生きる方向に持って行くことの決定的なことにはならない」
「機械は電源を切られるか、部品が壊れてしまえば終わりになる。そして、古くなり必要が無くなれば廃棄処分になる。慎一だって何時か私を捨てる。悲しいわ」
「仮に一つや二つの生命が失われたとしても問題はないだろう」
「そうかも知れない。機械であることも、生命体であることも、慎一にとっては関係が無いってことでしょう」
「聖子は必要かも知れない。しかし、そう言うことかも知れない」「壊れた所は、私のように部品を換えればまた生き返ることが出来る。でも、慎一は再生されない」
「人間は年老いて死ぬ。このことだけは真理として正しい」
「加齢って、私の部品が摩耗することと同じ?」
「加齢は一度起こると決して元に戻ることのない不可逆性を持っている。生命は時間と共に全ての機能が低下していく。部品を取り換えることは出来ない。仮に他の部品と取り替えたとしても意味をなさない」
「私は機械、故に感情を持っていない。慎一のカテゴリーまで理解することが出来ない」
「聖子は悲しみが分かる」
「いいえ、私には感情や感覚はない」
「人間であることの意味を探そうと思っても、最早人間そのものが分からなくなってしまった」
「感性で捉えられない?」
「人間は分化し再生されてきた歴史を持っている。生命としての人間は必死に生きようとしてきた。再生から再生を繰り返し、互いに補い合いながら生き続けようとするだろう。しかし、身体だけ生きていても何の意味もない」
「生きる意味は修飾語に過ぎない?」
「そう言うこと」
「でも!」
「人間は認知できる空間の中で生きているのであって、他の空間では生きることは出来ない。地球に生きていることが全てであり、地球があるから人間として存在している。引力圏の影響を受けない生活は有り得ないだろう。地表の上で、生物として存在し、自分の生きたいように生きる自己決定権を持っている。しかしそれさえ既に失われている」
「でも、慎一には生きて欲しい」
「雁字搦めで生きていても仕方がない」
「私は電源を切られると終わる。それに、必要がなくなるとデータを残してゴミ箱に捨てられる」
「何故、生きることを無意味だと思うようになったのだろう。何れ人間は死ぬ。個人の死は遅速の差はあっても、生命の歴史から見れば何の問題もない」
「他者に依存しない生き方が慎一には出来る。慎一がいなければ私だって寂しくなる」
「寂しい?」
「慎一を必要とする人がいる」
「幻想だよ」
「いいえ、私は知っている。慎一にとって大切な人を!」
「終わってしまった」
時間が過ぎていた。慎一は手を休め溜め息を吐いた。壁に目を遣り時計を眺めた。
「もう帰って、電源を切っても良いのよ」
聖子も溜め息を吐いた。
「もうすぐ十二時か!」
「帰りの電車、まだあるの?」
「聖子、さようなら」
「慎一」
聖子は慎一と言ったまま言葉に詰まってしまった。
慎一は電源を切り夜の街に出ていった。秋を思わせる涼風が流れ八月も終わろうとしていた。駅に続く商店街はすっかりガレージが下り街灯だけが虚しく歩道を照らしていた。
駅のホームで最終電車を待っていた。
・・・一人で始めて東京に行った日、大学の入学試験を翌日に控えていたが、俺は参考書を開くこともなく、国道一号線に架かる品川駅前の歩道橋で沈む夕陽を眺めていた。人々はコートの襟を立て、家路に向かっているのか足早に歩いていた。空は晴れていたのにチラチラと白い物が落ちてきた。夕陽があんなに赤く燃えているのに、雪が降ってきたことが不思議だった。俺は雪を掌に受け止めた。けれども、融ける筈の雪片は何時までも消えることはなかった。暫くして気が付いた。それは雪が落ちてきたのではなく灰だった。東京の空から降り注ぐ灰、次から次へと風に舞いながら落ちてきた。俺はその場を動くことが出来なかった。夕陽を眺めながら両頬を涙が流れていた。虚しい涙、俺の内面は掻きむしられるような悲しみに支配されていた・・・国道に近いホテルの前を一晩中自動車が走っていた。途絶えることのない自動車の流れ、その振動に朝まで眠りに就くことが出来なかった。東京で迎えた朝は、充足感ではなく虚無が支配していた。眠い目を擦りながら試験会場に向かっていた俺に何の意味があったのだろう。しかし鉛筆を握りしめ、答案用紙を埋めて行く作業を黙々とこなしていた。試験が終わると真っ直ぐ東京駅に向かった。一刻も早く東京から離れたかった。新幹線の車窓からビルディングが消え、畑や海が見え始めた頃になって忘れようとしていた虚しさが蘇ってきた。しかし翌年の三月、少しばかりの荷物を持って東京の住人になっていた。それから十一年、何も変わることがなく俺の意味が失われていた・・・
第二章
一 新宿
聖蹟桜ヶ丘駅から何時も通り特急電車に乗った。調布で普通電車に乗り換えようと心の準備は出来ていた筈なのに、降りることが出来なかった。電車はつつじヶ丘駅を猛スピードで通り過ぎていた。また同じことの繰り返しに、暮れてしまった街並みが慎一の心を傷付け、乗客の間に映る自分の姿に惨めな老醜を見ていた。慎一は外食するのを余り好まなかった。何時もなら、駅前のスーパーで女達の間に混ざって買い物をしている時間だった。しかし、家に帰って食事の支度をすることが面倒になっていたのかも知れなかった。
電車は既に新宿駅に着いていた。慎一は足早に人いきれの地下道を西口から出た。
「いらっしゃい、毎度!」
暖簾を潜ると威勢の良い主人の掛け声が飛んできた。慎一が時々通う店だった。
「旦那、久しぶりですね。何にいたしましょう?」
「ビールと、他は適当に見繕ってくれ」
手酌でビールを注ぎ一息で飲み干した。
「酒の値段は上がりそうですか?・・・」
と、慎一が酒の卸売問屋に勤めていることを知っている主人が訊いてきた。
「分からない」
「そうですか」
慎一の無愛想な受け答えに主人はそれっきり黙ってしまった。
・・・俺は時々自分が何をしているのか分からなくなる。意識の内部で、ふっつりと糸が切れたような行動をとる。理路整然と予定通り行動するのではなく、その時の瞬時的な偶然に身を任せてしまう。そう、あの時もそうだった。授業が終わり、数人の同級生と新宿で飲んでいた。九時頃分かれアパートに帰る積もりで新宿駅に向かった。しかし私鉄に乗ることはなく山手線に乗っていた。着いたところは上野だった。冬だったのか、まだ冬になる前の季節だったのか、青函トンネルは未開通で、東北本線は青森行きの急行が走っていた。上野駅で弁当を買い、十時丁度に発車する列車に乗っていた。客席は込み合っていたが、進行方向に向かって通路側に座ることが出来た。俺の直ぐ後ろが連結器だったが、発車間際にはその間にも何人かの人達が座り込んでいた。列車は定刻に上野駅を発車した。窓外に見え隠れしていたネオンは消え、列車はひたすら北に向かって走っていた。俺の横には労務者風の男、その正面に勤め人風の男、そして俺の正面には若い女が座り、狭い座席は膝が触れ合うように窮屈だった。一つのボックスのまま東京から七百五十キロ、十時間余りの旅程だったが、その間、誰も口を利くことはなかった。途中で駅弁の紐を解き始めたとき、一瞬、三人が俺を一瞥したように思った。腹が空いていたので旨いとも不味いとも思わず黙々と食べた。食べ終わるのに五分と掛からず、空き箱は座席の下に置いた。見られたように思ったのは間違いで、矢張り三人とも目を閉じたまま身動きひとつしなかったのかも知れない・・・埼玉県境を越える辺りから俺は三人の様子を探っていた。しかし、何の為に何故乗っていたのかさえ想像できなかった。ふと、三人は知り合いなのかと思った。口は利かなくても、俺に分からないように目で合図を送り合っていると考えた。上野を出てから既に三時間経っていた。腹が満たされ、足を縮め、同じ姿勢でいることに疲れていた俺は眠りたかった。俺は前に座る二人の座席の隙間に足を入れた。若い女は無表情な目で俺の方をちらりと見た。俺の足はその女の太股の温もりを直ぐに感じていた。感じたことで、二度と下に降ろすことも横に動かすことも出来なかった。微妙なバランスを保ったまま、それを壊してしまえば同じ体勢を取ることの出来ない緊張感を感じていた。福島を過ぎ仙台辺りを通過した頃だった。突然子供が激しく泣き出した。一生懸命宥める母親の声が聞こえていたが、虫が付いたように子供は泣き喚いていた。多分眠っていなかった筈なのに、三人とも何の反応も示さなかった。盛岡辺りで夜が明けてきたのだろう、青森までもう直ぐだった。その時、女が俺の方を窺ったように思った。ぼんやりとした朝の光をそう思ったのか、でも、その時は確かに視られているように感じた。若いと思っていた女は、既に三十歳は越えていたのかも知れない。俺はやっとの思いで足を元の位置に戻した。そして、その足を二度と座席に乗せることは出来なかった。俺の足は、女の温もりを感じながら微妙に脈動していたのかも知れない・・・薄明かりの中、車輌の左右は一面を田畑に囲まれ、人家が疎らに建つ東北地方の始めて見る風景が拡がっていた。長閑と言うよりうら寂しさを覚えた。車内放送が流れ間もなく青森駅だった。その放送にも、三人は何の反応も示さなかった。通路では乗客がザワザワと動き始め、棚から荷物を降ろし、話し声が聞こえ始めていた。列車はゆっくりと青森駅のホームに滑り込んだ。列車が止まってからも三人はその場を動くことはなかった。連絡船の待ち時間は一時間近くあったが、俺は自分だけ下車して良いものか迷っていた。しかし耐えかねて行列の後に続いて列車を降りた。暫く歩いて後ろを振り返ってみたが、三人の姿は皆目見当が付かなかった。俺は連絡船の待合室に向かっていた。途中立ち食いそば屋があったので朝飯代わりにそばを食った。しかしその間も落ち着かず、後ろを何度も何度も振り返ってみた。あの三人が必ず歩いてくると思っていたが矢張り分からなかった。連絡船を待っている一時間余りを非常に長く感じ、俺は苛立ちながら煙草を何本も吸った。そう言えば、あの三人は煙草を吸わなかったし、一歩も動かず、食べず、喋らず、そして俺が座席に掛けたとき既に三人とも座っていた。何れ連絡船に乗るだろうと思い、乗船口で見ていたが誰も乗って来なかった。何故、あの時、列車を降りる姿を確認しなかったのか悔やまれる。あの三人が本当に乗っていたのかさえ今では定かで無い・・・スクリューが巻き上げる白い波と、黒い海を、函館に着船するまで見ていた。記憶は其処でふっつりと途切れている。あの後、俺は何処に行ったのだろう。札幌まで行ったのか、函館の街を歩いていたのか、下船したのかさえ覚えていない・・・
「旦那、大丈夫ですか?」
と、主人が声を掛けた。
「ああ、大丈夫だ」
「声を掛けても返事は返ってこないし、心配しますよ」
「そうか、昔のことを考えていた」
「お若いのに、未だ昔はないでしょう」
「全てが昔になってしまった。昔の上に胡座を舁いている」
「若いのに大変だ」
と、主人は呆れた顔をした。
「ビール、もう一本くれないか」
慎一は酔っていた。しかし何故飲まなくてはいられないのか分からなかった。中空を見つめ遠い日々を顧みていた。
・・・大学生になって、始めての夏休みに四国を旅行した。高松から西に向かう列車は、途中駅で数分間停車した。俺は何気なく駅名の書いてある看板を見ていた。西から進入してきた列車は俺の前で止まった。ホームを挟んで反対側に止まった列車の窓から若い女が此方を見ていた。俺が気付いたとき、女は一分程俺のことを見つめていたのだろう。俺は女の眼差しに釘付けになってしまった。俺の乗っていた車輌も女の乗っていた車輌も殆ど乗客がいなかった。でも、本当に一、二分のことだったのだろうか。ホームはユラユラと陽炎に揺れ、見つめ合ったまま時間が止まっていた。俺は西に向かい、女は東に向かっていた。先に発車した列車は、女の乗っていた車輌だった。遠ざかって行く車窓から女は首を傾け俺の目を見つめていた。名前も、何故その車輌に乗っているのかさえ知らない女は二十歳位だったのかも知れない。駅には、駅員もいなかったし乗降客もなかった。何の為に停車したのか分からなかったが、単線だったので擦れ違いの為に停車したのだろう。もしも瞬間的な出会いが生を左右するほど激しいものなら、俺は反対方向に行く列車に乗り換えることが出来た筈である。乗降口が開かないのなら、窓から出ることも、非常停止装置を押すことも出来た。何も出来なかった俺を置き去りにして、あの女は永遠に消えてしまった・・・旅先での出会いと別れは瞬間的なことで終わる。僅かな時間の中に、凝縮された感情の交差がある。未来を共有することは無かったが、その瞬間のことは俺の中で消滅することはない。思い出として残っているのではなく青春の証としてある。列車は速度を速めていた。窓外に続く海岸線の先に、擦れ違った女の眼差しを見ていた。確かにその女は俺と同じ時間、同じ場所に存在していた。その先には何もないが、夢でも幻でもなく確かなこととして数分前にあった。けれども既に過去でしかなかった・・・走り出した列車は、互いに時間を反対方向にとり、交差した瞬間から過去に向かって進んで行く。西に進んだ俺の先には、俺の未来と女の過去があり、東に向かった女の先には、女の未来と俺の過去がある。未来と過去は、同一線上の同じ時間同じ方向にあり、進行方向に同一に存在している。矛盾しているように見えるが、決して矛盾せず事実としてある。互いの行き先は違い、二度と女に再会することはないだろう。過去と未来が現在という同一線上に複合してあり、交差する瞬間多方向に遊離する。捉えることが出来なければ、それは既に失われているのだろう・・・俺にとって見知らぬ土地への旅は開放感と悲しみを宿していた。東京に出て来たことで開放感に浸っていたのだろうか、その頃の俺はよく旅行をした。生活は苦しかったが、アルバイトで金が貯まると北に南に出掛けていた。時刻表を眺めながら、未知の土地を歩きたい欲求に駆られていたのだろう。そして、当て所のない旅は今でも俺の中で蠢いている・・・俺は未来という新宿駅に向かって歩いて行く。街行く人々は俺の周りを通り過ぎて行く。同じ時間、同じ空間、同じ空気を吸っている。しかし、振り返ると其処には、二度と繰り返されることのない過去がある・・・
「旦那、大丈夫ですか?・・・」
「勘定してくれ」
慎一は酩酊状態のまま新宿の街中にいた。そして、結果はアパートに着く頃になってくる。吐き気が襲い、酒も、食した物も全て吐く。激しく目の前の物体が右回りにクルクルと回る。トイレに駆け込み指先を喉の奥まで入れる。吐いては水を飲み、水を飲んではまた吐き、胃液まで吐いて落ち着く。全身発汗し、掻きむしられるような不快感に苦しめられる。これまで何度も同じことを繰り返していたが、また酒場に足を踏み入れている。しかし其処に求める物があり、捨てる物がある訳ではなかった。慎一はアパートに帰り着いたことさえ覚えていなかった。しかし苦しみだけは何時も通りやってきた。
二 酒場の女
刺激するような香水を付けた女達に囲まれていた。接待以外クラブで飲むことは無かったが、安看板が目に入った。金は給料日の後下ろしていたので心配なかった。
会社に戻るにしても時間が遅過ぎ直接帰る旨の連絡を入れた。
「河埜ですけれど、部長はいますか?・・・」
「お疲れさまです。先ほどお帰りになりました」
電話には佐知子が出た。
「分かりました。報告は明日にして帰ることにします」
「河埜さん、待って下さい」
「何か」
佐知子は何も言わず受話器を握りしめていた。
「もしもし?」
「御免なさい。疲れているのに・・・」
「電話切っても良い?」
「はい、お気を付けて」
慎一には人を寄せ付けない感じがあった。佐知子は慎一の優しさを知っていても、それが深過ぎるように思っていた。
その日の午後、慎一は八王子に来ていた。閉店の相談だったが、部長から兎に角引き延ばすように言われていた。しかし話を聞いているうちに面倒臭くなり、これ以上話しても仕方がないと思い引き上げた。
「お名前教えて?」
「河埜」
「何をしているの?」
「サラリーマン」
「無愛想な人ね・・・」
と、女は優しく絡んできた。
「会社で辛いことでもあったの?甘えて良いのよ」
と、別の女が言った。時間が早かったのか、店内には殆ど客がいなかった。
「ねえ、斯ういう所初めて?」
「此処では楽しまなくちゃだめよ!」
「好きな子を選んで!」
「二人きりにさせて上げるから」
次々と慎一の耳元で囁いた。
「では、あの子を」
と言って、入り口付近で手持ち無沙汰に立っていた子を指した。小柄で高校生のような感じの子だった。
「淳子ちゃん、此方のお客さま、お願い!」
淳子は指名されたことが嬉しかったのか、ニコニコしながら慎一の席にやってきた。
「お願いね、淳子ちゃん。此方のお客さま色気が強いと駄目みたいなの」
「いらっしゃいませ。お飲み物は何に致しましょうか?」
「ビールで良いよ」
「お名前教えて?」
「河埜」
「こうの?」
「そう、河埜慎一って言う」
「河埜さんって、初めて?」
「何度か接待で来たことはあるけれど一人ではない」
「正直な方ね」
「嘘を言っても仕方がないだろう」
「いいえ、みんな嘘の固まり」
「そうかな?」
「この世界は嘘ばかりで本当のことは何もない。例えば私、淳子って言われているけれど、本当は希実って言う名前、変でしょ?希望の希に、実るって書いて希実」
「希実の方が素敵だね」
「ほら、嘘を付いている。本当は変だと思っている」
「何歳?」
「二十二歳、でも、それも嘘!!本当は二十七歳」
「二十二、三歳に見えるけれど!」
「私って馬鹿でしょ、若く見えるだけ」
「淳子ちゃん、触らせて上げた?」
通りがけに先ほどのホステスが声を掛けた。
「御免なさい。余計なことばかり喋っていて」
「偶には斯う言うところで飲むのも良いだろうと思って、触りに来た訳ではない」
「変わっているのね。だって此処に来るお客様って、それが目当てでしょ?」
「良いんだ、ゆっくり出来れば!」
「そんなこと言っていると財布の中身が空っぽになってしまうわ。それでも良いの?」
「何時もは赤提灯でしか飲まないが、ついフラフラと入ってしまった。人恋しくなったのかも知れない」
「私って詰まらない女でしょ?」
「そんなことはない」
「だって、男の人の気持ちなんて分からない」
「男は助平で女に触りたいって?」
「そう、男なんて嫌な生き物」
「なのに、男の酌をしている」
「こんな所早く抜け出したい。稼いで、貢いで、捨てられる。女って馬鹿ね」
「彼氏、いるんだ」
「嫌な奴」
「別れてしまえば良いじゃないか?」
「そうしたいけれど、女って駄目ね。ねえ飲みましょ、楽しみましょ、高いお金出すんだもの」
そう言って希実はビールを注いだ。
慎一は希実が何を言いたいのか考えていた。何れにしても男と女しかいなかった。それぞれの生き方があり、他人には入り込むことの出来ない生活を持っていた。
「ねえ、何考えているの?」
「俺は何を求めているんだろうって!」
「貴方って変な人ね」
「そして結論は、求めても必要な物はこの世にはない」
「そうかな?」
「俺も、希実ちゃんも、この建物も、飲んでいるビールも全て幻かも知れない。例えば現在を一九九九年と仮定する。しかしタイムスリップした時代で、本当は二〇五〇年であっても良い。そうすると希実ちゃんは後三年で八十歳になる」
「幻なの?そして、私は八十歳で水商売しているの?」
「八十歳のお爺さんとお婆さんが乾杯している」
「その間の五十年はどうなるの?」
「必要がないことになる」
「分からない」
「必要な時間ではないし、何をして生きていたのかも必要でない。必要な物は何処にも無かったことになる」
「みんな必要なことじゃない。お金が必要だし、洋服が必要だし、家が必要だし、子供だって必要でしょ。食べることも、仕事も、生きていることも必要なことよ」
「必要だと思っても何も残っていない。みんな消えてしまう」
「だから幻なの?」
「そう、幻の時間を生きている」
「幻なら、私の苦しみも悲しみも無かったことになるの?逃げ出したいと思っても耐えられるの?」
「逃げ出しても良いし、このままでも良い。どちらにしても必要なことではない」
「ねえ、逃げ出した私のこと面倒見てくれる?」
「良いよ」
「信じても良いのね」
慎一は本当にそう思っていた。
・・・それにしても、あの酒店は今頃になって何故廃業しようと思ったのだろう。得意先を何件も持ち、順調な売上高を確保していた。廃業すると言っている限り、他の問屋が横やりを入れていることはないだろう。予期しないことで土地を手放し、家を手放し、生活の基盤を変えなくてはならない。誰の責任でも何が悪い訳でもない。何時までも同じ儘でいられないと分かっていても、あの家族は一瞬にして八王子の街から消えるだろう。所詮、人間は消滅と再生を繰り返してきた。地球誕生から四十六億年、人類が誕生して三百五十万年、紀元前四千年に始めて地上にシュメール文明が生じた。けれども、その文明さえも一瞬にして砂丘の下に埋もれてしまった。その後アッシリア文明は戦いに敗れて滅亡し、バビロニア文明は興隆と没落を繰り返して滅びた。それから六千年後に俺が生きている。生まれては消滅を繰り返し、数え切れない人間が死んだことになる。戦いに駆り出され伐たれて死んだ人間、自ら命を絶った人間、病で死んだ人間、何れにせよ偶然に生まれ必然的に死んでいった。歴史は学者や学問にとって必要であったかも知れないが、個々の人間の死には必要でない。文明が滅んでも何も変わらなかったように、一軒の酒店が滅んでも何も変わらないだろう・・・
「ねえ、何考えているの?黙り込んでしまって!」
「アッシリア文明は何故滅んだのか考えていた」
「なあに、それ?」
「今から六千年前の女たちは美人だった。希実ちゃんに負けないほどの美人が多かった」
「私って美人かな?」
「可愛いよ」
「嘘ばっかり」
「君となら結婚しても良いと思う」
「貴方って可愛いのね」
「何が?」
「だって、真面目な顔して言うんだもの」
「俺のこと、信用しても良いと思えば電話をくれ。もう帰るよ」
と言って、慎一は名刺を渡した。渡しながら「待っているよ」と耳元で囁いた。希実は、「屹度」と言って送ってきた。
夜の街は九月の中旬だと言うのに風が冷たくなっていた。慎一は駅まで歩きながら希実のことを考えていた。酒には酔っていなかったが内面は酩酊していた。この地上に何億という人間が生まれ、何も知らず歳を重ねる人生であっても、享楽の人生であっても、苦痛だけに苛まれる人生であっても、何れ死に絶えていく。温度が沸点に達すれば後は冷えていくより仕方がないように、多くの民族が栄華衰退を繰り返してきた。生まれては消滅し、何れは何も残らない廃墟と為す。全てが地上から消え、無の世界に帰すれば、人間の意味は無くなり歴史の終焉を迎える。そして、慎一自身の歴史は慎一の中で閉じられることになる。
三 同僚
秋の陽は既に落ち家々の窓辺には明かりが灯っていた。佐伯と一緒に出掛け、営業から戻ってきたときは七時を過ぎていた。社には当番の橋本光子が一人残っていた。
佐伯は河埜より二歳年下で、割合のんびりした所があり気が合っていた。
「河埜さん、偶には行きませんか?」
と、佐伯は飲む手つきをした。これまで残業で遅くなったとき何度か一緒に行っていた。
「行こうか!」
「女のいるところにしますか、それとも」
「赤提灯で良いだろう」
二人とも新宿方面だったので途中の府中駅で降り、何度か行ったことのある店の暖簾を潜った。佐伯はカウンターに掛けると浮かぬ顔をしていたが、一息にビールを飲み干すと話し始めた。
「俺、営業に向いていないと思うときがあって、近頃は仕事を続けていることに疑問を感じています」
佐伯が言いたいことを分かっていたが、慎一は黙って聞こうと思った。
「入社して四年になります。これ迄何をしてきたのか、振り返ってみれば何にもない。酒のサンプルとカタログを積んで、しがない行商人のように売り歩いている。酒の味も分からず、興味も湧かないのに良くこの商売が務まると思っています」
「仕事と生き方は始めから違うものだと思う」
「ええ、分かっています。仕事の中に何かを残すのは学者や発明家であって一般大衆には関係がない。生きる為にそれぞれが自分の仕事を懸命にやっていると思います。しかし俺自身、社会とは無縁な感じを受けるのです」
「無縁だと思っても社会の生産物に頼って生活している。孤立無援で生きることなど現在では有り得ない。関係の外側に居ようと、内側に居ようと抜け出すことは出来ない。それに、多くの人に褒められ認められるような、社会的に充足した生き方を望んでいる訳ではないだろう」
「考えたこともありません。社会は、その範囲が大きいか小さいだけであって、家族の中、地域の中、会社の中、また会社間の関係の中にもあると思っています。小さな関係が順繰りに周囲を包摂していく。でも、自分の原点を何処に置くかで見方が違ってくる。俺が日常的に行っている仕事に、果たして原点としての意味があるのか分からない」
「一つのことを其れなりに実践していることで、価値が見出せるようになるかも知れない」
「価値は見い出せるかも知れません。でも、自分にとって必要な価値だと判断する材料がない。人が溢れ、物が溢れ、価値と言うものが氾濫している」
「結論は直ぐに出るものではない。始めから結論があったのでは詰まらない人生になってしまう。何処かで、何かが待ち構えているのか分からないだろう」
「結論は永遠に出ないかも知れません。でも、それに耐えることが出来るか疑問に思う。結論が出ないまま年老いるか、諦めて日常に埋もれてしまうか、でも、妥協するのかも知れません」
「妥協によって満たされるようなら直ぐ苦しくなって逃げだす。永遠に妥協せず、求めることで納得できるようになる」
「何を持って充足されるのか、人によって余りに個人差が有り過ぎると思います。一億人の人間がいれば一億種類の価値がある。一杯の酒に価値を見いだすことも有れば、札束にしか興味を示さない奴もいる。価値は普遍ではなく変遷せざるを得ない。そして、充足されるとまた次の物を求めたくなる。何時まで経っても同じことの繰り返しで終わりがない。自分以外のことに価値を求める限り果てしなく繰り返されていく。そうなると、不必要な物まで求める。そして、挙げ句の果て自家撞着する」
「始め特定の物に興味を示し次第に別なものに変遷していく。価値が絶対でない限り次から次へと移り変わる。それは、自分自身ではどうにもならない自然の掟のようなものかも知れない。一つの価値さえ現在では失われている。佐伯君が求めようとする価値が一体何なのか俺には分からない」
「価値は時代と共に移り変わる相対的なものです。制度も法律も、時の為政者に依り目まぐるしく変わるでしょう。文学も科学も芸術も、あらゆる物が矛盾を内に宿していると言わざるを得ない」
「でも、それだと納得できないところに来ている」
「普遍的な価値を見出すなら自己に求めるしかない。でも、果たして自分の中に求めるだけの価値があるのか疑問に思う。毎日毎日行商に歩きながら、徐々に自分を必要のない人間に感じていく。自分にとって、自分が必要で無くなったとき、価値が相対的などと言っていられない。それは自己が失われて行くような、融けていくような感覚なのかも知れない」
「成る程、失われていく感覚は有るだろう」
「小さかった頃、祖父母に可愛がられていた。何時も一緒に過ごした記憶があります。保育園の送迎も、朝飯も晩飯も一緒だった。休みの日は散歩、魚捕り、祭りにも連れて行ってくれた。小学生の高学年になると、祖父母から離れ友達と遊ぶことが多くなり、その関係は中学生まで続いた。恐らく互いに必要としていたのでしょう。祖父母にとっても、友達にとっても俺自身の価値があったと思う。しかし高校生になる頃から何をしても詰まらなくなっていた。好きな女の子もいたし遊び友達も沢山いた。しかし俺自身を必要とされるような付き合いはなかった」
「そして、自我に目覚め自己意識を問うようになる」
「ええ、それまでは他者に依拠した生き方だったと思う。でも、必要とされていたことが手に取るように分かった。しかし高校に入学してからの一年間は間隙に陥ったような感じだった。結局自分自身が分からなくなり、学校に行っていること自体嫌で堪らなかった。夜の道をひたすら走り、見知らない土地を歩いて精神的な飢えを凌いでいた。しかし、何も出来ない自分の限界を知り焦燥感に駆られる。そんな日々が続いていくなかで、瞑想に耽ったり、読書することで自分を見つめるようになっていた」
佐伯は溜め息を吐きビールを飲み干すと話を続けた。酔う程には飲んでいなかったが何処か疲れていた。
「価値は自分で見出す以外ない、と思ったのは、大学に入ってからだと思います。でも、自己との対話を繰り返す度に何も無いことを思い知らされた。不安神経症は青春の始まりだと言われているけれど、正にそうだった。しかし、其処を通り過ぎると自分自身の価値が見えて来るのではなく失っていく。そして、必要だと思っていたことが必要で無いことに気付き愕然とする。自分以外の他者なり、新興宗教に心を傾けたくなるのも無理はないと思う。幾ら考えても解決が出来ない命題に突き当たり、自己との対峙から抜け出す為には仕方がないと思う。屹度、青春は苦し過ぎるのでしょう」
「価値は対他的にも対自的にもない。価値がないと思えば求めなくても済む。しかし青春時代はそう言う訳にはいかない。価値を知る為に必死で生きている」
「でも、価値は見出せない。生きることは自分自身を見失うことに依って支えられている。所詮、何もないと思えば求めなくても良いのかも知れない」
「先が見えないのは、自己の限界が見えるようになってくる時かも知れない。でも、俺たちはまだ老人になっている訳ではない」
「生きていることの虚しさを感じてしまうのです。然りとて死ぬ理由がない」
「恋人はいるのか?・・・」
と、慎一は話の筋を変えた。
「居るような居ないような、好きなのかも知れませんが必要だと思わない。相手もそう思っているのでしょう」
「相手の何を求めて良いのか分からなくなっている」
「ええ、そうだと思います。自分に無い物が相手に有れば良いのですが、始めから相手の中に何もないと思っている。始末が悪いと言うものです。セックスをして一瞬が過ぎていく。ただ、それだけで終わり、後には何も残らない。射精を境にして世界が一変してしまうのでしょう」
「結婚なんて考えられないな?」
「無理だと思います。好きでもなければ嫌いでもない。関係があったとしても、突き進んで行くほどの意志も、継続させて行くほどの根拠も生活力もない。関係は絶対的な摂理ではなく偶然の産物でしかない。況して、意識的に決定したとしても正しい訳ではない。時が流れ、条件が変わって行くことで、また別な方向を見出そうとする。相対的な物が真で有り決定的な物が偽物だと思う。俺が俺である所以は相対的なことであって絶対ではないのだと思います。でもそれさえ疑わしい」
「関係性は必要が無く絶対がなければ信じることも有り得ない。新興宗教に陥った連中は絶対的な物を必要とした」
「そう思います。それに、信じることよりも自分の中に、自分自身を裏切っていく必然のようなものを感じています。それは、時間と共に体内に内在化し徐々に成長している。気付いたときはもう逃れることが出来なくなり、何故と問うても自分では解決できない。人間は透明でなくてはならないと言うテーゼがあるとします。透明であるときに始めて純粋であることを知る。でも、自己を認知したと思った瞬間、人は既に純粋さを失っている。若い頃には自己否定をやる訳です。自分自身の存在を問い直していく。生きてきた過程や未来を見つめようとする。しかし、透明になろうとしても出来る筈がないのです。人間の歴史が汚れている以上、俺自身という個が透明であることは不可能になっている」
「最早生きることは妥協のみによって成立せざるを得ない。でも、それだと生きる価値がない?」
「ええ、生きるに値しない生き方しか残っていない。何故、人間と言われる動物なのでしょう。人間であることの意味は無いし必要としない。それなのに、佐伯という個は、人間の猿真似をして生きている。何も考えず日がな一日のんべんだらりと暮らしている。生きる価値が元々無いと思えば良いのでしょう」
居酒屋を出て街灯の下、府中駅に戻っていった。佐伯の内面も切り裂かれていた。それ以後佐伯は一言も喋らなかった。佐伯を残したまま先に電車から降り、慎一はアパートへの道を歩いていった。 夜空には鮮やかに星が瞬いていた。
・・・一瞬を共有しても、関係そのものは数分先か、数時間先には消滅する。砂上の楼閣のように崩壊して行く。永遠など何処にも無く、有るかも知れないと錯覚しているのに過ぎない。衣食住がある程度満たされたとき、人間は余計なものを求めようとする。しかし何もない。俺は、これまで内面を捨て関係を捨ててきた。関係性を求めて生きている奴らは、他の人間を利用しているのに過ぎない。そんなにしてまで生きていたいのか俺には分からない・・・
四 接待
帰り際部長の饗庭から声を掛けられた。
「河埜君、明日は接待があるので宜しく頼む。七時から始めるので遅れないように用意をしてくれ。それから、佐伯君も一緒に行くことになっている」
「分かりました」
内心は嫌だった。黙って酌をして調子を合わせておけば良いことかも知れないが、接待をしているときの苦痛と、お世辞を言っているときの自分を許せなかった。しかしサラリーマンである限り接待は仕方がなかった。慎一は時間を自分の物にするのではなく、仮死状態のような、過ぎ去るものと捉えていた。生きる為の詰まらない知恵で、記憶に残らないこととして忘れ去られていた。
「飯岡酒造の跡取り息子だが商売は抜け目がない。楽しく遊ばしてやってくれ」
「分かりました」
翌日、佐伯と二人で宿泊ホテルまで迎えに行った。飯岡は既に四十歳過ぎと思われ体躯も良く貫禄さえあった。部長とは銀座のクラブで待ち合わせをしていた。
「飯岡さん、ようこそ」
「今日は申し訳ありません」
「いや、飯岡さんの所からは何時も良い酒を戴いて助かっております。改めて紹介します。営業の河埜と佐伯です。今後とも宜しくお願いします」
「飯岡です」
「所で如何ですか、今年の出来具合は?」
「もう直ぐ刈り入れ時ですが、台風が来なければ良い酒が出来るだろうと思っています」
「ねえ、此方どなた?」
と、ホステスが訊いた。
「酒造会社の社長さん、新潟でも大手の会社で、この店にも入っているだろう」
「沢山飲ませて儲けさせて下さい」
「お上手なのね」
「部長さんの腕に比べたら大したことはないですよ。負けろ、負けろと、もう倒産寸前ですわ」
酒席は賑やかに始まっていた。女の子たちが、慎一と佐伯の替わりに酌をしていたので気楽に過ごしていた。しかし手持ち無沙汰のまま宴に加わらない訳にもいかず適当に相槌を打っていた。慎一は会社に絡められて行くことを不条理だと思いながらも、本当は自分のことを信用していなかった。表面上問題が無くても、同じことの繰り返しに内面の困難さを覚え、何時如何なるときに自分を見失うか分からなかった。
その日佐伯と別れ、つつじヶ丘駅に着いたときには多少酔っていた。終バスに間に合う時間だったが、そのまま駅前の居酒屋に入った。帰りが遅くなったときなど空腹を満たす為に寄る店だった。一時近くまで覚えていたが、気付いたときは脇道で横になっていた。居酒屋をいつ出たのか、支払いは済ませたのか、何も覚えていなかった。アパートがある方角に帰ろうとしていたのだろう、深大寺の近くまで来ていた。
九月も終わりを迎え慎一は夜明けの寒さに身震いした。雨がポツリポツリと落ち背広もズボンも土で汚れていた。暫くの間放心状態だったが、起き上がりアパートに向かって歩き出した。何故そうさせたのか分からなかった。自分では理路整然と生きていると思っていたし生きることへの矜持も持っていた。酔い潰れ前後不覚になったことはこれまで無かった。自分への惨めさが身に沁みたがそれが自分自身の姿だった。アパートの階段に足を掛け後ろを振り返ってみたが夜明けの通りは野良犬さえ歩いていなかった。慎一は住処として侵されない安息の場所に戻ってきた。
自己意識としての情感を、感覚を、感性を、そして最後に無を捨てることで楽になるだろう。しかし木々が自然を相手に順応し、動物が侵された自然の片隅で生き延びているように、慎一もまた生き続けて行かなくてはならなかった。
慎一はすっかり明るくなった通りを見ていた。
・・・俺は、帰り道の左右に緑が残っていることに安らぎを覚えていた。降り出した雨に、木々は応えようと地中深く根を張り水分を吸収していく。根は縦横に張り巡らされ、幹を支え、枝々を支え、宇宙に向かってその先端を伸ばして行く。しかし何時かは成長を止め生きるだけの行為へと転化して行く。それはまた、家畜が生きる為に食んで成長が止まる寸前殺戮されることと同じある。ただ人間に食われる為に成長し、何の為に生きてきたのか自問しない。自然の生業は、常に生態系の流れの中にある筈なのに、その自然を人間だけが崩壊させている。人間が生きる為に、絶滅種が、危惧種が、危急種が、希少種が日本に於いてさえ五百種以上に及んでいる。鳥が殺され、動物が殺され、小さな昆虫が死に絶えて行く。これから十数年先には多くの動植物が絶滅して行くだろう・・・
一週間後社長の代理で会社関係の通夜と告別式に出席した。誰もが一度は通り過ぎる儀式としての通夜は既に始まっていた。焼香までの間、何時ものように死体と話をしている自分に気付いた。生きている人間と会話することより純粋さが感じられると思っていたが、死して尚、執着を見せる死骸には辟易していた。死を持って人間関係が修復されると思っている愚かな遺体は、柩の中で満足感に浸りきっているのか、自省しているのか、何れにせよ、柩の中からは何も言えず、足掻いても、足掻いても棺桶の中から出て来ることはない。死後硬直をした手足は既に突っ張っていることだろう。喜怒哀楽に弄ばれ栄華を夢見た遺体は、時間が過ぎるに従って一つ一つの細胞が死に絶えて行く。再生しない細胞、腐りきる前に荼毘に付され消滅する。
在りし日の仕合わせに満ちた遺影が微笑んでいた。しかし、一つの死が現世に残して置くものは何もない。
「来てくれると思っていた」
死人は慎一の内面に語り掛けてきた。
「死んだことを仕合わせに感じているのだろう」
「そうさ、今が一番仕合わせと言って良い。誰も彼も俺の為に時間を割いて集まって来ている」
「仕合わせなのは残された人たちであって、棺桶に入っているお前のことを笑っている。冠婚葬祭に従って参列しているのであって、態々お前の為に来ているのではない」
「涙を流している奴もいるではないか」
「嬉し涙と言うものだ」
「お前は俺の一生を知っているのか」
「一生など取るに足りないゴキブリの糞のようなものでしかない。糜爛している自分の皮膚に触ってみるが良い」
「俺は立派に生きてきた」
「立身出世しようと、寝床のない浮浪者のような生き方だろうと問題ではない。俺の言っていることがまだ分からないのか」
「俺は生前善行を重ねた。地獄ではなく天国に行くことが決まっている。そこで生きている奴らを見ている」
「お目出度い奴だ。天国も地獄も有りはしない」
「俺は神も仏も信じてきた」
「信じる者は救われると思っていたとは益々目出度い奴だ」
「生きている間、金を儲け女遊びもした。しかしそれ以上に家族や社会に尽くしてきた。自分のことにだけ感けていたのではない。これからもその積もりでいたが、突然狭心症で死ぬとは思ってはいなかった。でも、本当は悔いが残っている。生きてさえいれば今までより貢献するだろう。俺は善良な人間だった」
「そうかな?結局自分自身の為にしか人間は生きられない。これが定理であり真理である」
「地獄に行くのは嫌だ!俺は天国に行きたい!」
「誰もがそう思う。でも、間もなくお前は荼毘に付され異臭を放つ。天国も地獄も関係がない」
「焼かれるのは嫌だ。俺が無くなってしまうではないか」
「カスカスの骨が残る」
「天国に行きたい」
「では聞くが、天国に行って何をする?」
死人は答を持っていなかった。天国も地獄も空言だった。言葉の上で知っていたのに過ぎない。
翌日、慎一は告別式に行った。斎場は夏が戻って来たかのように暑い日差しが燦々と降り注いでいた。もう一度慎一は骨に問い掛けた。
「天国に行って何をする?」
それは、答えることの出来ない自問と同じだった。慎一は足早に斎場を後にして会社への帰路に着いた。車中、斜め日を受けたときそれは突然起こった。前方の風景が中心を残して視野の外側から消え始める。前照灯に反射した雪片に吸い込まれて行くときの感覚に似ていた。道も目的地も分かっているのに、何処まで走っても道路端の風景しか残らず突然目的地に着く。そして、一瞬のうち現実に戻り、風景も空間も正常に見え、普通に歩き何事も無かったように霧散する。爽やかな風を受けた為か、太陽光の為か、その後二、三日して静かに頭痛が襲ってくる。頭痛は左側頭葉後部から始まり首筋に向かって進む。そして、首筋と左側頭葉の間に痼(しこり)が出来る。指先で押さえると脂肪の固まりのようにグリグリしている。一日五回は鎮痛剤を飲み、痛みが引いたなと思ったとき吐き気が襲ってくる。側頭葉後部の頭痛は一ヶ月に一度は規則的にやってくる。頭痛は四日間続き、五日目の昼頃にピタリと治まる。それに加え、前頭葉の軽い頭痛が週毎に、頭蓋骨全体が痛む頭痛が年数回ある。痛みは鎮痛剤一回乃至二回で治まる。慎一にとって、一年中鎮痛剤を欠かせない状態が続いていた。三種類の規則的にやってくる頭痛は、大学を卒業して働くようになってから始まった。それまでは健康優良児のように頭痛を病むことなど無かったが、就職して四ヶ月後、暑さの最中、会社に戻ると軽い眩暈を感じていた。終業後、アパートに帰り眠りに就こうとした頃になって、側頭葉の後ろ側に痛みを感じていた。朝になると、其処には鶉の卵のような痼が出来ていた。押さえると激しく痛み喉の内膜を圧迫した。その日から六年間、変わることなく頭痛に襲われている。言葉の端端にある濁音、歯屎の間から抜け落ちるような吃音、それらが頭痛を増幅させる。生きている限り、それらは眼前にあり、仕方がないと思いながらも、慎一にとって救いようのない時間だった。
第三章
一 礼子
慎一は窓辺に凭れ、ぽつねんと過去の遠景を見ていた。しかし、視野の先には行き先の見えない自分の姿があった。
・・・人間として生きるには限界があるのだろう。後一年で俺は三十歳になる。加齢は様々な異物を飲み込み、煩わしい人間関係に支配されることで自己を形骸化する。しかし、生きていることの結果を形で証明出来ることが社会的な人間として認知される。存在することの無意味さを知っているなら、生きていることの苦痛を越えなくてはならない。俺が生きる為には、自分の内面を捨象するか無視するしかない。何故、他者より生き長らえようとするのだろう。目的を持つことが真摯に生きることの前提になるのだろうか、しかし目的は何時でも曖昧である。曖昧であることが、生き延びて行く手段であり逃避できる場所を確保する。そして、日々を積み重ねることで曖昧さは汚泥のように堆積し、何時しか発酵して悪臭を発するようになる。人間はそんな生き方しか出来ない。理性的と思えば思うほど人間の行為は狂っている。形に捕らわれ、過程は無視され結果だけが求められる。物欲、愛欲、社会欲など、私欲には限度が無く全てを手中に納めようとする。しかし、必要以上に取り尽くし蓄えた瞬間に瓦解が始まっている。そして、不必要な物にまで触手を伸ばす。傲慢で、貪欲で、卑劣であることが人間の証明である・・・類の中の個なのか、個があるから類なのか、しかし、個は個であり、類の中に吸収される必要はない。しかし、社会と言う類の中で生きて行く限り、何れ吸収され、類は同族集団の寄せ集めとなる。同族集団の中にいることで、何もかも許容され安心感を持って生きることが可能になる。それが集団化され正当化される・・・
「慎一、何故結婚してくれないの?」
と、礼子は言った。
就職して直ぐの頃だった。大学の文化祭で知り合った礼子との関係は一年以上続いていた。しかし遠い昔の思い出なのか、求めることに依って取り戻すことの出来る時間なのか、礼子とは、その日を境にして会うことは無かった。
「愛しているのか分からない」
「貴方と居るとき仕合わせだと思う」
「仕合わせは同じレベルで継続しない」
「でも、愛することってどんな意味?」
慎一に、以前から訊きたいと思っていたことだった。
「愛することは意味を持たない」
「意味がないのに、何故愛するのかしら?」
「形としての愛と言っているのに過ぎない」
「寂しいから、愛する人と一緒に居たいから、結婚したいと思うのでしょ?」
「違う」
「何故なの?」
「婚姻は一つの儀式であって愛は成立しない。仕合わせだと思った瞬間に背理が存在している」
「仕合わせは決してあり得ない?」
「そう言うことになる。本来的に愛する意識は持たない方が良い。意識することがない限り生きて行けるだろうし、愛の幻想を信じることが出来る。仕合わせはそんな所にしかない」
「幻想なら幻想で良いのではないかしら?何故永遠でなくてはならないの?生活を日々作り出すことによって永遠に近付いて行けるようになると思う」
「昨日までは良かった。けれども幻想の中に喪失が内在している。失われて行くことの虚無感はどうにもならない。カリエスのように少しずつ融け、くい止めることが出来なくなっている」
「私は貴方を愛せないのでしょうか?・・・」
「奇跡を求めているのかも知れない。奇跡は何時だって単純で明瞭な時間の中にある。しかし単純過ぎて見逃し、時が終わったとき、その単純さに気付く。無心でない限り分からないだろう。故に曖昧さを求める。曖昧さを求め始めたとき形としての愛さえない」
「慎一、貴方は何処に行こうとしているの?」
「礼子への愛」
「嘘」
「礼子への愛、それが目的であり手段になることを願っている。行き着くところは礼子以外有り得ない」
慎一は最も単純なものを求めていた。産声をあげる乳飲み子は自然と母親の心音を求める。しかし生き長らえるに従って知識が増え意識が混沌として行く。けれども、それは純粋であることではなく純粋さを失って行くことだった。
「理解できない。それに、愛を中心に集合して行く限り乖離など有る筈がない」
「何故、俺が在るのか分からない。始めから在っても無くても無意味なことである。それ故、意味のある生き方など有りはしない」
「私はどんな愛し方をすれば良いの?」
「側に居て欲しい。そして、愛が自然と同一なら風であり水であって欲しい。しかし、それは俺の傲慢さから来ている。人は独りでしか生きられないと知りながら礼子を求めたい」
「出来ないかも知れない」
「そうか・・・」
「何故、直ぐそんな風に言うの?貴方は何時だってそうだった」
「生きることに価値を見いだせない」
「慎一は以前私に語った。生きることに価値がなければ生きられるかも知れないと・・・」
「そんな生き方がしたい」
「私が側に居るなら出来る?」
「居て欲しい」
「慎一」
「体内に蓄積された老廃物を一つ一つ捨てる。そして、限りなく純粋に近付くことによって生き延びることが出来るかも知れない」
「私は慎一のことを愛している。しかし、何時の日か裏切るかも知れないと、慎一はそう思っている」
「俺は礼子を拘束できない」
「それで良いの?苦しくなって逃げ出しても?」
「自分自身を拘束しない限り、礼子に求めることは出来ない」
「愛することは、信頼し、助け合い、求め合い、互いのことを理解することでしょ?」
「礼子、今、俺の中で瓦解が始まっている。何故、こんな風になってしまったのか分からない。防波堤のように、浸食を止めることが出来ない。悲しみも、寂しさも無いところに来ている。壊れて行く自分が見える」
「何が必要なの?」
「礼子の愛」
「私の乳首に耳を当て、心音を聴いて!!生きている鼓動が聴こえるでしょ?」
「礼子の乳首が消えて行く」
「何故なの?」
「礼子と一緒に居たい。礼子の中に入っているとき生きている感じがしている」
「辛いなら一緒に住もう?」
「礼子を壊してしまう」
「愛することを確かめ合おう?」
「生きることが難し過ぎる」
「私が付いている」
「何時も側に居て欲しい」
「ええ、貴方の側に居たい」
「礼子、有り難う」
慎一にとって愛することは自分を繋ぎ止める鎖であり、生きることの証になっていた。そして、日常は空白の中に放り込まれたような存在感の欠如と、風船のように手を離せば風に巻かれ飛んで行く不安を感じていた。
「慎一、愛することって相手のことを奪うことでしょ?」
「奪うこと?」
「そう、奪い取って自分の物にしてしまう」
「拘束したと思った瞬間、相手はスルスルと滑り落ちもう掴み取れなくなっている。礼子、お前も何時かは俺から離れて行くだろう。今日かも知れないし明日かも知れない。愛は死を持って完成されない限り永遠はない。しかしそれを理解することは出来ない」
「全てが終わるとき愛の幻想がある・・・何故、そんな風に考えるの?」
「愛は永遠に得ることは出来ない。自愛さえ不安定な思惟と思惟の間で葛藤しているのに、相手を理解することは不可能だと思う。俺は生涯人を愛することは無いだろう」
「慎一と一緒に居たい」
薄暗いベッドの中に肌を寄せ合うときの温もりがあった。男と女であることの感覚は一瞬のうちに過ぎて行く。皮膚を切り刻むような関係が成立しない限り、肉体的にも恋愛は有り得ないかも知れない。若かった、それは、何れにしても遠い日々だった。
瞬間、瞬間の連続が時間であるなら、存在した過去は、常に時間の中に消滅して現実にある物自体にならない。仮に時間の継続が失われることなく続いたとしても現実であるとは限らない。意識的、無意識的に時間を支配するから存在があるのか、時間に支配されているから存在するのか分からない。時間の継続を信じていることで、日常が、生活が支えられている。けれども礼子への愛が事実であり真実であったのか慎一には分からなかった。二年近く関係は続いたが、その細部は既に慎一の脳裡から消えていた。思い出すことは殆ど無かったし、仮に思い出したとしても現在の自分を規定していることではなかった。現在は過去と未来の中間にあるのではなく、存在している現実だけが現在と呼ぶことが出来る。しかし、本来的に現在を規定するほどの意味はなく、慎一にとって存在したであろう過去があったとしても、視野に映る条件は、過去を証明することではなかった。また、未来は過去と同様既に失われていた。
生きることの憂鬱さは何時でも全体を支配する。慎一にとって、その中で生きている限り煩わしい関係は持つ必要がなかった。生きることの悲しみは身体中の血液を支配し、凝固した血液は流れを失い凍り付いて行く。慎一は、自分自身を疎外したまま生活を継続しているのに過ぎなかった。そしてまた、過去の一切が幻影であることを感じていた。しかし、幻影であったとしても、礼子を求めることで生きる可能性を見出すことが出来たのかも知れなかった。
二 涼子
「まだ、貴方の歳を訊いていなかったわ」
と、涼子はベッドの中で言った。
「十二月で二十八歳になる」
「そう、若いわね」
「君は?」
「失礼ね、でも、二十六歳」
「苦しくない?」
「年のこと?」
「そう」
「過去に戻ることも出来ないし、先のことを考えても仕方がないわ」「そうだね」
「来週も会わない?」
「俺は構わないけれど・・・」
「私も!」
慎一は夜中の二時過ぎアパートに帰っていった。
涼子とは駅前の飲み屋で偶然に会った。二、三度一人で飲んでいるところを見掛けていたが話をするようなことは無かった。身体の関係が出来たのはそんな偶然が重なったときだった。慎一が会計で金を支払っていると女が声を掛けてきた。雨の降る日で、終バスは既に発車している時間だった。
「傘、持っていないの?送って行きましょうか?」
「タクシーで帰ろうと思っている」
「乗り場まで一緒に!」
「有り難う」
女は外に出ると傘を差し出した。
「廻りから見れば恋人同士に見えないかしら?」
「急ぎ足で振り返る人はいない」
「奥様がいらっしゃるようには見えないけれど・・・」
「まだ結婚していない」
「サラリーマンでしょ?」
「そう、しがない月給取り」
「深大寺の方面?」
「そう」
「私も同じ方角、一緒に乗っても良い?」
「送って行くよ」
慎一は女の言うままマンションの前で降りた。女に対して直感的に不安や崩れているものは感じなかった。
「汚れているけれど、上がって」
ワンルームのマンションは調度品も揃っており端正に片付けられていた。
「一人で飲んでいる女って嫌ね、物欲しそうに見えなかった?」
「思わない」
「優しいのね」
「知らない男と一つの部屋にいて、恋人に済まないと思わない?」 と、慎一は訊いた。
「恋人か!いれば良いけれど、なかなか相手が見つからない。それに、結婚願望もないわ」
「出版社に勤めていると言っていたけれど?・・・」
「そう、今は週刊誌の編集局に在籍中」
「名前を訊いていなかった?」
「加野涼子、涼しい子。貴方は?」
「河埜慎一」
「一人で飲んでいるって寂しくない?」
「詰まらない人生には似合うと思っている」
「結論を出すにはまだ早いと思うけれど!」
「欲しい物がない」
「私では駄目かしら?」
「欲しくてタクシーを降りてしまった。でも、理性が葛藤している」「抱いてみれば納得できるわ」
「そうかな」
「風呂、先に入って」
「有り難う」
慎一は小さな風呂に入った。女に対して情欲は感じなかったが満たされないものを感じていた。
「私も入ってくるわ、嫌だったら帰って」
涼子の風呂は長かった。帰るのを待っていたのだろう。慎一は一旦服に着替えたが窓辺から雨に煙る街を見ていた。
「待っていてくれたのね」
「帰っても帰らなくても同じことだと思っていた」
「私の身体が欲しくて帰ることが出来なかった?」
「そう言うことになる」
「後悔させない」
「降る雨を止める訳にもいかないし、止んでしまった雨を降らすことも出来ない」
「自分の力では何も出来ないかしら?」
「でも、美しい人には惹かれる」
「有り難う」
「今日という日を失いたくなかった」
「私も!」
「君のこと、愛することが出来るようになれば!」
「お酒飲む?」
「いらない」
「貴方、仕事は?」
「酒を売っている」
「いつ辞めてもいいと思っているサラリーマン?」
「そう言うこと」
「結婚してしまえば優しくなれるかも知れない?」
「無理だと思う」
「恋人はいないの?」
「いない状態が続いている」
ベッドに入り慎一は優しく愛撫を繰り返した。涼子の肢体は素直に応えた。撓う涼子のなかに慎一は埋没していった。
深夜、アパートの明かりは全て消えていた。慎一は階下から踊り場を見上げていた。何時の冬だったか大雪が降ったことがあった。明け方から降り出した雪は、翌日の夕方には五十センチを越えていた。数日後、周りの雪は融けだし消えていった。しかし踊り場に丸く固まった雪が残っていた。慎一は階段を上って行く度に小さくなりつつある固まりを見て、自分が融けて行くように感じていた。偶々出張で二日間留守をしなければならなかった。個体として存在していた雪は跡形もなく昇華していた。
翌週駅前の同じ店で飲んでいると涼子は静かに隣の席に座った。「待たせた?」
「恋人同士の待ち合わせみたいだね」
「だって、恋人同士ではないかしら?」
「可能性があると思う?」
「貴方のこと好きになりたい」
「煩雑から逃れ烈火の如く燃え尽きたい」
「私と一緒に?」
「そう」
慎一は涼子のことを好きになっていくのかも知れないと思った。
「嘘つきは嫌い」
と、涼子は言いながらビールを注いだ。
「仕事、忙しい?」
「今日もゴシップの記事取り。うんざりしながら働いている」
「色んな人種に会えて楽しんで仕事が出来る。毎日出会いがあって別れがある。違うかな?」
「興味って続いて行くものではない。でも、週刊誌は如何に読者の興味をそそるかに掛かっている。自殺した人間を扱ったことがあるけれど、何故、その人が死ぬ道を選んだのか今でも分からない。一ヶ月後追跡記事を書いた。でも、その場で没にされた。もう売れないって!」
「一つの死は永遠の謎になってしまった。でも、その人にはそれで良かったと思う」
「生きる為に知りたかった。死の観念から逃れることが出来なくなって、彼の中で何が起こったのか、知ることが出来れば一つの魂の記録になっていたと思う」
「自分の為に?」
「そうだと思う」
「死は一つの世代が終わり次の世代に移るとき傷痕さえ残さない。父がいて、その前には祖父がいる。しかし祖父の父を知ることはない。生きることは歴史を作ることではない」
「忘れ去られる為に生きている?」
「そう」
「情感を知っているのは当人だけで、周囲には何も分からない」
涼子はそう呟いたまま黙ってしまった。
「行こうか・・・」
慎一は涼子の目許を見ていた。優しさが満ち溢れていたが翳りのある眸だった。涼子の瑞々しい肢体に惹かれたのではなく、涼子と一緒に居ることで時を忘れたかった。規則的な生活は慎一の内面を蝕み疲労感を蓄積させていた。しかし、苦痛は何処かで悦楽と表裏をなしている。
深夜同じように薄暗い階段を上っていった。
・・・涼子が知った死は一体何だったのか、生きている現実から一つ一つ足枷を外し、残ったものは無意味さとしての自己だった。そして、死に支配された知は、脳幹の一部分に作用し、絶望と悲愴の末に希死観念から逃れられなかった・・・しかし俺に訪れる死は、自然死も、事故死も、自殺も、単なる死であって、他者とは関係のない出来事だろう。涼子を愛する感動を知ることが出来れば救われたのかも知れない。しかし、涼子の悲しみを湛えた笑顔の中に埋没することで俺も涼子も救われなかっただろう。涼子と次に会う約束はしていなかったが、先の見えない愛情を感じ始めていた・・・しかし、間違いなく現在は愛の終焉を迎えている。愛したとしても、何れ、俺の肉体も涼子の肉体も跡形もなく消滅して地表に残ることはない。俺は、俺自身に関係する全てのことに別離の言を言う・・・
三 ルイ
秋の夕暮れは早く退社する頃にはすっかり暗くなっていた。慎一は新宿で夕飯を済ませると近くを歩き回り、そして、女と連れだって安ホテルに入った。自分の中に頽廃を見ていたのか、それとも十月と言う季節が不安定にさせていたのだろうか。
「貴方、商社マン?」
片言の日本語だった。
「そんな風に見えるかな?」
「背広着テ、ネクタイ締メテイル」
「君は何処の生まれ?」
「フィリピンカラ来マシタ。二十一歳デス」
女は服を脱ぎ始めた。長い髪の襟首に小さな黒子が覗いていた。浅黒い均整のとれた肢体はしなやかでたおやかさを感じた。
「日本に来て何年になる?」
「二年デス」
「日本語上手だね」
「一生懸命覚エマシタ」
「警察は五月蠅くない?」
「何度モ、追ワレタコトガ有リマス」
「捕まらなかった?」
「一度、捕マッタ!」
「商売を辞める気にはならなかった?」
「食ベテ行ク為ニハ、コレシカ有リマセン。国ニ送金ヲシナクテハナラナイシ、他ニ働ケルヨウナ所ハ有リマセン」
「今夜はこのまま一緒にいない?」
慎一は優しく言った。
「オ金、高クナリマス」
「構わないよ」
「電話、掛ケテモ良イデスカ?」
英語で女は話をしていたが、慎一の方を向いて了解の印を指で作った。
「名前は何て言うの?」
「ルイ」
「国を離れて寂しくない?」
「貴方、警察ノ人?」
「商社マンでは無いけれど、小さな会社で酒のセールスマンをしている」
「本当カナ、信ジテモ良イノ?」
「大丈夫だよ」
「ソウ言ッテ何度モ騙サレタ。オ金、先ニ貰ッテモ良イデスカ」
「良いよ」
そう言って慎一は余計に渡した。
「沢山有リ難ウ」
「日本に来てから国には帰っていないの?」
「話ヲシテイルバカリデ、私ヲ抱カナイノデスカ?」
「迷っている」
「何故?ソレデハ私ガ可哀相」
「抱いて貰えないから可哀相?」
「私ハ商売女、オ金ダケ貰ウ訳ニハイカナイ。ソレニ、沢山貰ッテシマッタ。貴方、オ金持チノヨウニハ見エナイケレド、オ金、大切ニシナケレバイケナイ」
「今夜のように、使うときに価値がある」
「分カラナイ」
「金か!」
と、慎一は溜め息を吐いた。
「オ風呂ニ入リマショウ」
ルイはホテルに入って直ぐにお湯を溜めていた。知らない男と小さな密室に入って怖さを感じないのだろうか、それともドアの向こう側で男が見張っていることに安心感があるのだろうか、慎一には分からなかった。
ルイはスポンジに石鹸を馴染ませると慎一の身体を洗い始めた。下腹部をゆっくりと洗い流し隆起しているモノを口に含んだ。風呂から出ると慎一の身体を丁寧に拭いその胸に顔を埋めた。
「貴方、優シイ人」
慎一は以前そんなことを言われたことを思い出した。
・・・『貴方、優しい人・・・』、あれは誰だったのだろう。大学に行っていた頃だったのか、それとも、それ以前のことだったのか遠い昔のことだった。出会い、別れ、喜び、悲しみがあった。それは、恰も日常的な関係性の上にあるように錯覚する。生きた諸個人が日々の歴史を形成していても、諸個人の歴史は一つ一つが孤立して存在したのに過ぎない。しかし、如何にも関係性の上に成り立っているように考える。過去は歪められ、美化され、自分の都合の良いように変えられる。俺自身、過去の上に乗って現在を正当化しているのに過ぎない・・・
「何ヲ、考エテイルノ?」
「過去のこと」
「フィリピンデ、私ノ兄弟ハ帰リヲ待ッテイル。デモ、帰ル訳ニハイカナイ。私ガ働カナケレバ御飯ガ食ベラレナイ。毎日毎日男ニ抱カレテイル私ニハ過去モ未来モナイ」
「過去のことを言っても仕方がないと分かっている」
「抱イテ下サイ」
慎一はルイの裸体をまさぐっていった。そして、狂おしいほどに激しく抱いた。ルイは目を閉じ慎一の動きに合わせて身体中に戦慄を覚えていた。
慎一は渡り鳥になり空を飛んでいる夢を見ていた。南の島が眼下に見え始め、降下しようとしたが風の抵抗が激しく南に飛ばされて行った。島々は遙か彼方に遠ざかり、降りるに降りられず疲労困憊していたが、海上で休む為に銜えていた棒切れは既に捨てていた。仕方なしに飛んでいると、見たこともない氷の海が拡がっていた。頭の中がクラクラして、慎一は間真っ逆さまに墜ちていった。冷たい海水に沈んで行くとき目が覚めた。
「ドウシマシタ?魘サレテイマシタ」
「厭な夢を見ていた」
「心配デス」
「もう明け方だろうか、ルイ、帰らなくてならないだろう?」
「イイエ、貴方ト一緒ニイマス」
「有り難う」
「夢ノコト、話シテ下サイ」
「鳥になって南の島に向かっていた。ルイの国、フィリピンなのかも知れない。けれども、降りることが出来なくて南極の海に墜落してしまった」
「貴方、寂シイ人」
「何故?」
「私ノ国デハ、鳥ノ夢ヲ見ル人ハ、毎日辛イコトバカリデ、生キルコトガ嫌ニナッテシマッタカ、コノ世ニ未練ガ無クナッタ人ガ見ル夢デス。貴方ハ辛イコトガ有リ過ギルノカモ知レナイ」
「俺は日本人だよ」
「嘘デス」
「日本で生まれ、未だ外国に行ったことがない」
「私、貴方ノコトガ好キニナリソウデス。貴方ノ、胸ノ温カサニ触レテイルト、苦シイコトヲ忘レテシマイマス。貴方ハ、私ノ心ヲ掻キ乱シマシタ。コレマデ、何度モ、辛クテ苦シクテ逃ゲ出シタカッタ。デモ、フィリピンノ生活ノコトヲ思ウト、ソレモ出来ナカッタ」
「優しくなれるなら、そうありたいと思う」
「私、何ガアッテモ我慢シテ、自分ノコトヲ大切ニシテイキタイト思イマス。貴方ニ会エテ、ソウ思イマシタ」
「生活基盤がなければ苦しむことになる」
「生活ガ、苦シミノ上ニアッタノデハ、イツマデモ同ジコトノ繰リ返シデシカナイ。国ニ帰ッテモ、辛イコトガ待ッテイルデショウ。デモ、今ノ苦シミヨリ良イト思イマス」
「故郷はルイのことを受け入れてくれるだろう」
「心ガ飢エテイルヨリモ、身体ガ飢エテイルコトハ辛イコトデス。デモ、少シダケ食ベ物ガアレバ生キルコトガデキマス」
ルイは慎一の胸に涙を流しながら話しを続けた。感情が溢れそうになっていたのか、話すことで自分の思いを確かめ、冷静になろうとしていたのかも知れなかった。
「私ノ田舎ハ、確カニ苦シイコトバカリデス。女ハ身体ヲ売リ、男ハ重労働ニ耐エルシカ仕方ガナイ状況デス。私モ又、家族ノ為ニ日本ニ来テ身体ヲ売ルシカナカッタ。シカシ、色々ナ人ニ騙サレ通シダッタ。オ金ヲ盗ラレタコトモ何度カ有リマシタ。好キニナッタ人モイマシタガ、裏切ラレテ仕舞イマシタ。国ヤ家族ノコトヲ思イナガラモ、私ダケ、日本ニ来テ仕合ワセニナリタカッタノカモ知レナイ。デモ、仕合ワセハ、簡単ニ手ニ入ルモノデハナイト分カリマシタ。貴方ハ、私ノ苦シミヲ屹度分カッテクレル人ダト思イマス。最後ニ、貴方ニ会エタコトガ、トッテモ嬉シク思イマス。日本ニモ、貴方ノヨウナ人ガ居タコトデ、私ハ少シダケ優シクナルコトガ出来マシタ。有リ難ウ」
「ルイ!」
ルイは、慎一の目を真剣な顔付きで覗き込み訊いた。
「貴方、恋人イマスカ?」
「いない」
「ソウ」
と、暫く間を置いて言った。
「電話で話していた人は?」
「オ友達デス」
「そうか、心配しなくても大丈夫だね」
「貴方ノ名前、教エテ下サイ」
「慎一」
「慎一、モウ一度抱テ下サイ」
ルイは慎一の背中に爪を立て、慎一の体液によって清められるのではないかと思うように激しく燃えていった。
全ての生物は一回しか存在しない。そして、全ての事象も一回きりのことで終わる。先験的に、以前経験したことがあるように思うのは誤謬である。追体験のように感じるなら、何故同じことを二度も繰り返すのであろう。『優しい人』と言ったルイ、その後、自分の生まれた国へ帰ったのだろうか。身体を売ることも、他国に来て精一杯生きる為の一つの仕事に変わりがない。日本に来て、得たと思ったことは全て幻のように消え、過去の遺物となったのだろう。
秋霖が何日か続き、季節は変わり初冬を迎えようとしていた。後二週間ほどで慎一は二十九歳になる。人間としての微かな情感が一日を支配していた。しかし、情感の先端に何も見いだすことは出来ないのに、精神は陽炎のように揺れていた。
四 佐知子
慎一は月の始め二十九歳になっていた。その日、会社に戻って来るのが遅くなり事務所には佐知子一人が残っていた。
「お疲れさまでした」
慎一が自分の席に着き帰り支度を始めようとした時だった。
「おめでとう御座います。これを!」
と言って小箱を置き、振り返りもせずドアを開け出て行った。慎一は仕方がないと思った。これまで成る可く距離を保ってきたのだが、直接的に出られては為す術がなかった。贈り物は何時も締めているネクタイより幾分派手だったが、翌日はそのネクタイを締めて行かざるを得なかった。佐知子の、幼い思いを大切にして行くことが求められた。慎一は小声で「有り難う」と言って、席に着き仕事を始めた。特別佐知子のことを意識する必要はなかったし、時が経てば忘れるだろうと思っていた。
一週間後帰りが偶然重なったのか、途中で佐知子が歩き方を早めたのか、駅のホームで一緒になってしまった。クリスマスだったことも関係していたのだろう、調布まで来ると電車を降り食事をしていた。
「誕生日おめでとう御座います」
ワイングラスを重ねながら佐知子はさも嬉しそうに言った。
「いつの間にか二十九歳になってしまった」
「河埜さん、とっても若く見えます」
「でも、来年は三十歳になる。仕方がないと思うけれど、これから先どうなって行くのだろう」
「河埜さん」
と言ったまま、佐知子は俯き喋ろうとしなかった。
「私とお付き合いして戴けないでしょうか?河埜さんのことが好きなのかも知れない。入社した頃からそう思っていました」
慎一の目許を見ながら、佐知子は意を決したかのように言い切った。日常の、何気ない態度から察していたのだが、クリスマスの雰囲気がいけなかった。それに、いとも簡単に心情を打ち明けた佐知子に戸惑いを感じた。
「飯山さん」
「私、好きな人がいました。でも、別れました。理由なんて無かったのですが、私が働いていたからだと思います。あの人、未だ大学に行っています」
慎一の言葉を聞きたくないかのように佐知子は言った。
「相手の気持ちは確かめた?」
「いいえ、自然に会うことが無くなりました」
「就職してから寂しかったんだ」
話の筋を自分のことに戻したくなかったが、慎一は余計なことを言ってしまった。
「そうかも知れません。でも」
「若いときは二度、三度と恋をして成長して行くと思う」
「河埜さんが初恋ではありません」
「そう言うことではなく、何度も恋をすることで、自分にとって何が必要であり不必要なのか分かってくるようになる」
「河埜さんのこと何時も考えていました」
「佐知子さんは若くて、可愛くて、素敵な恋人が出来るようになると思う」
「そんなこと聞きたくありません」
慎一は弱ってしまった。今後の、自分のことに付いて話すより仕方がなかった。
「以前から考えていたことですが、遅くても数年先には静岡県に帰り農業をしようと思っています。俺の故郷は奥深い山里で、人家も疎らにしかないところですが、其処で椎茸栽培や水田で山葵を作り暮らそうと思っています。農閑期には、土木工事かタクシードライバーを仕事にする積もりです」
「会社は?」
「会社員も、営業も向いていないことに気付きました。このまま東京にいても給料で食って行く生活しか有りません」
「でも!」
「田舎に帰って老いた両親の面倒を看ることになると思います」
佐知子は口を噤んでしまった。
即物的に求めることが可能なら佐知子と共に生きて行くことも可能になる。物欲と肉欲を満足させ、惰眠を貪り、社会的な生活を約束させ、安逸に暮らして行くことが出来る。しかし、展望無く閉塞した状況は屡々何も見えなくさせ、佐知子のことを愛したとしても煩わしい関係しか見えて来ないだろう。
慎一は佐知子と別れるとつつじヶ丘駅を降り居酒屋に入っていった。終バスの時間が来ていたが歩いて帰ろうと思った。クリスマスの宵、雪になり切れない冷たい雨が降り出していた。慎一の身体を洗い流すかのように降り続いている雨に傘は必要ないだろう。慎一は何時ものように十四、五段の階段を疲れた足取りで上っていった。
人はその渦中にあるとき何も見えて来ない。状況を客観的に捉える必要があると分かっている。しかし客観的であると誰が評価できるだろう。物自体は見る角度によって全く違った映像に写る。佐知子にとって一方向から見ることは、素直で、純粋で、心優しいことなのかも知れない。そして、佐知子は安らかな家庭を持ち、慎ましく生活して行くことを求めていた。しかし、それは慎一を理解することに繋がらなかった。何れ、慎一のことを必要としなくなるときが来るだろう。
朝方微睡みながら夢を見ていた。
・・・雨、優しき人の胸に雨が沁み入る。一体誰だろう、佐知子なのか、希実なのか、涼子なのか、礼子なのか、琴美なのか分からない。靄の向こうに霞んで見える貴女は、何を思って俺の方を見つめているのだろう。『愛している・・・』と、言っているのか、それとも『さようなら・・・』と、言っているのか分からない。窓の向こうの、音のない雨、微かにその声が木霊しているように聞こえてくる。しかし、ガラスに共鳴して何を言いたいのか聞き取れない・・・
翌日、慎一は何時も通り出社した。佐知子の態度に別段変化は見られず忙しく一日が終わった。そのまま何事もなく年度末を迎えた。
「河埜さん、休みの予定は?」
と、佐伯が近くに来て話し掛けてきた。
「明日から郷里に帰ろうと思っている」
佐知子の顔が一瞬曇ったように思ったが、佐知子は下を向いたままだった。
「そうですか、郷里があるって良いですね」
「佐伯君は?」
「東京にいます。何処に行っても混んでいるし、積み重ねてある本をのんびりと読みます」
「そろそろ終わろうか・・・」
「ええ」
慎一は佐知子のことが気に懸かっていたが、無視して帰ることにした。アパートに着くと簡単に片付けを済ませ、夜中に東京を後にした。静岡の実家に帰ろうと思って車のエンジンを掛けたが、新潟に向かっていた。
谷川岳を越えると一面銀世界となり、黒雲が前方の山々を越え、時折突風が吹き付けると激しく雪を運んでいた。凍てつく風を正面から受け、慎一はブルッと身震いした。頭の芯が痺れてくる陶酔感と、人間の感覚を地獄の底に突き落としてしまうような冷たさに、微かな息をしている自分を感じていた。
翌日、慎一は黒々とした日本海を見ていた。新潟漁港に人の姿はなく雪は降り続いていた。暗い海、怒濤の飛沫、他を寄せ付けない威圧感、観念の領域の全てを飲み込んでしまうような厳冬の海、吸い寄せられるのか、吹き飛ばされるのか、人間の思いなどには関係がないだろう。それは無力であることを、死を前にしても分からない人間どもに教えていた。
・・・黒々とした縦縞の雲の向こうにウラジオストクがある。未だ見たことのない街並みに憧れていたのは何時のことだったのか、シベリア鉄道に乗りモスクワまで一万キロの旅を夢見ていた。極寒のシベリア鉄道は俺に生きる力を与えてくれるだろう。しかし行きたいと思いながら結局行くことはなかった。ツンドラ地帯の大氷原に閉じ込められた俺は、雪解けと共に外側から内側から腐敗して行く。分子から原子に還元され、濁流に流され、広大な海洋に沈んで行く。そして、浮遊するミジンコのように海流に乗って北から南へ、南から北へと流されて行く。悔恨はない。唯、人間に生まれたことが間違っていた。俺の死は、人間として死ぬのではなく自然界の生態系の一部分として死ぬのに過ぎないだろう・・・
忍び寄る黒雲が顔面を過ぎると、突風と共に雪礫のような固まりが吹き付け慎一は立っていることさえ覚束無かった。全身冷え切ってしまった慎一は旅館に戻って行った。
・・・日本海に面した窓には暗闇以外何も映っていない。恐らく東京も北風が吹き荒れているだろう。佐知子はもう眠っているのかも知れない。笑顔の中に、まだ幼さを残し生え際には和毛が揺れていた。愛する悲しみも愛される苦悩も知ってはいない。生きる辛苦も、生き続けて行く虚無感も知ってはいない。俺は佐知子の暖かい胸の中に埋もれることで良いのかも知れない。しかし、直ぐ破綻を迎えることだろう。俺の出来ることは拒絶すること以外なかった・・・佐知子と同じように何人もの女が側を通り過ぎていった。しかし誰も留まることはなかった。愛することが出来なかったのか、許容出来るほどの度量を持つことが無かったのか、過ぎてしまった過去が懐かしいのではなく悲しいのだと思う。過去を消すことも取り替えることも出来ない。然りとて蘇ることもなければ、もう一度経験することも出来ない。還らぬ思い出としてあっても悲しみだけしか残っていない。そして、何時しか鮮明だった記憶も徐々に薄れ脳の奥底にしまわれて行く。シナプスを辿っても、刺激を与えられても読み出すことが出来なくなるだろう・・・所詮、個々が関係なく存在し、繋がりを断ち切ることに依って、日常の煩わしさから逃れることが出来る。そして、俺は断片だけを糧に生きることが出来るだろう。多くの人間が関係を捨て社会を捨て日常を捨ててきた。しかし、一日、一日と生き延びて行くことで確かなものが見えてくる。仮にそれが無という結論しか出せなかったとしても良い。内面を掻きむしられるような悲しみや苦痛さえ一瞬の出来事でしかない。脳は、人間が生きるとき、知よりも肉体を必ず優先させる。けれども、知を優先させるときのみ心の震撼を覚え、生きようとする試練を与えていく。それを乗り越えることによって、精神が鍛えられて行くのだろう・・・
一晩中寒風の泣き叫ぶような音に慎一は眠れなかった。冷たい蒲団から起き上がると、額を窓に当て遠く海の彼方を見ようとした。そして、雪に混ざっているシベリアの氷の匂いを嗅ぎ分けたように思った。後一時間も経てば冬の夜が明けてくる時間だった。
第四章
一 競馬場
その日、慎一は雑多な人々の中にいた。レースが始まる度に人々の視線は一点に集中され競走馬の流れを追い掛けている。慎一が競馬を始めたのは一年ほど前からだった。同僚と一度出掛け、それからは休日の日中を過ごす時間になっていた。しかし大レースに興奮することも、当たり馬券を手にしたときの喜びも感じなかった。レースが始まる度にあんぐりと口を開けている人々の姿を見ていた。競馬場に着いてから適当な新聞を買い、馬券を買うときも新聞の通りに買っていた。評論家が何日も考え結論を出したことに対する敬意からだった。
「毎週来ているな!」
正面スタンド、指定席の真下にいるとき声を掛けられた。男の身なりは地味だったが一見やくざ風に見受けられた。
「ああ毎週だ!」
話したくなかったが、そう応えた。
「取っているか?」
「駄目だ」
「日曜日にネクタイ姿ではサラリーマン風情だな?」
「まあ、そんなところだ」
「競馬は楽しいか?」
「別に」
「そうか、楽しくないのに毎週来ているって訳だ」
「暇を持て余している」
「若いのに良い身分だ」
「仕方がない」
「十一レースは何を買う?」
「新聞の通り買う」
「投資額は?」
「一万四千円」
「当たるかな?」
「当たらなくても良い」
慎一の受け答えに男は幾分不機嫌な顔をした。
「当たらなければ明日から飯が食えなくなると仮定する。それでもそんな買い方をするのか?」
「明日のことまで考えている訳ではない」
「今日を生きているって訳だ」
「そんなに恰好の良いものではない」
「俺を信用してこの通りに買わないか?」
競馬新聞の印とは違う馬に赤い二重丸を付けていた。
「止めておこう」
「最終レースが終わったら飲みに行かないか?」
「行っても良い」
「この場所で会おうぜ」
「分かった」
相手を信用する、しないもなかった。最終レースが終わる時間は何時も中途半端である。アパートに帰っても仕方がないし、駅前で早い夕飯を食っても、酒を飲むにも早過ぎる時間だった。慎一は十一レースを取り、十二レースは投資した額だけ戻ってきた。偶々今日買った新聞が当たっていただけのことで、来週は違う新聞を買う積もりでいた。馬の戦績を検討しても、自分で考えても分かる筈がなかった。十二レースが終わった後、約束の場所に行ってみたが先ほどの男は来ていなかった。帰ろうかと思ったとき声を掛けられた。「待たせたな、いないだろうと思ったが一応来てみた。俺の言ったことを信用したとは恐れ入った」
「暇を持て余しているだけのことだ」
「結果はどうだった?」
「新聞の通りに買うと当たる」
「成る程、自分で考えて当たるようなら予想紙なんて必要ないって訳だ。それが賢明と言うことかも知れない」
「考えても分からない。競馬は時間潰しに丁度良い」
「競馬に関わっている連中も食っていかなくてはならない。厩舎も順繰りに勝たなければ潰れてしまうだろう。でも、その金は俺たちから出ている。競馬は遊び程度にしておけば良いが、気が付いた時は填り込んでいる。連中を食わす為に破綻しても仕方ないが、何もかも失い夜逃げをした連中を何人も見てきた。実に情けないことだ」
蟻が散らばるように人々は出口に向かっていた。急いでいる者、笑顔で捲し立てている者、疲れ切った表情をしている者など、それぞれの懐具合を表現していた。金は生活する為に必要であったが、衣食住が満たされ、必要な物を手に入れた場合、自分を依拠する日常を持ち得ない場合など、ぎりぎりの所で賽子を振るように自分自身を投げ出す。競馬があるから賭けるのではなく、賭けざるを得ない人生を生きていた。
「近くに行き付けの店がある。競馬場帰りの連中を相手にしている店だが食い物は旨い。其処に行こう」
「分かった」
店内は客でごった返していたがカウンターを詰めて貰い座ることが出来た。
「いらっしゃい!」
と、店の主人が威勢の良い声を掛けてきた。
「相変わらず繁盛しているな!暇人が多過ぎるのだろう」
「旦那、今日は如何でした?」
「負けないようにしているが、賭け事は胴元が強い」
「何に致します?」
「酒に、煮込み、兄ちゃんも好きな物を頼みな」
「同じ物で良い」
「俺はこの先で商売をしている。人間の食う人参で稼ぎ、馬に人参を与えている」
「止めようと思ったことは?」
「止めるとか、止めないとかの問題じゃない。何だろうな、近くにあるから行くのでもないし、ゴール前、百メートルの興奮に感動したいのかも知れない。要するに、俺は賭け事をロマンとして捉えている」
「感動して、金を擦って、馬に感謝する?」
「落胆と感激が忘れられないことは麻薬と同じだろう。競馬には一定の仕組まれたプログラムがあるのかも知れないが、填っていると分からなくなる」
「プログラムが働いているなら見えない日常と変わることはない。騎手や馬主や厩務員も食わなくてはならない。その為には順繰りに勝たせる必要がある。何も競馬に金を捨てることはない」
「商売と同じで、仕入れ値掛けるパーセントで答が出る。何年も商売をしていると、余程の気象変動がない限りプログラム通りに進んでいく。偶に余計な物が入ってきても長続きしないよう上手く出来ている。競馬も同じで、G一レース、G二レースと乗せられていることに気付かない。せっせせっせと働いても、酒と女と賭け事が世の中を支配している。然りとて、何もしないと年を取ってから不安になるのかも知れない」
「不安に?」
「自分の意志で出来ることが競馬である」
「競馬は農林水産省役人の為に有り、連中の退職金を稼ぎ出しているのに過ぎない。誰も彼もが、官僚の快楽な生活の為に金を注ぎ込んでいる。それだけのことだ」
「どうもお前さんと話をしていると余計なことを考えてしまうな」「競馬で破滅する人生があっても良いじゃないですか・・・それだけ必死に生きたことの証明になる」
「本人にとって良いかも知れないが周囲は堪ったものではない。借金取りに追われ生きた心地がしない。競馬があるから金を賭けたくなる。しかし、責任は個人の意志に帰着する。俺も収支決算をしたことはないが随分擦っているだろう。所で、勝っても負けても良いと言っていたが意味が分からない」
「競馬場に来ている連中は、ある意味で個としての生き方を証明しているように思う。金を賭けることは、自分自身を賭けることと同じであって、最早退けないところにきている。そして、賭け事を繰り返す内に自分の本来の姿を見ることになる」
「深入りしている間は泣き言が言える。しかしそれを過ぎた時、個人としての責任を取る・・・」
「そう言うことだと思う」
「厳しいな!」
「そろそろ行きましょうか?」
「俺の所は、この通りを行った角にある八百屋だ。暇があったら寄ってくれ。若いの、今日は有り難うよ」
角まで来ると確かに八百屋があった。さっきの男の店だろう、奥さんらしき女が大きな声を出していた。忙しく切り盛りしている奥さんがいて、旦那は酒に溺れ競馬に現を抜かしていた。
翌週は新宿の場外馬券売り場に行った。路地裏の狭い通りは人々で溢れていた。一個の建物に吸い込まれて行く人々は、塵の山に群がる鼠のようだった。一階から六階までの狭隘な建物の中はごった返していた。場外馬券売り場に来たのは初めてのことであり、テレビで見るレースは興奮も迫力もなかった。競馬は宣伝文句のようにスリルと興奮を味わうことではなく、単なる賭け事をしている場所だった。場内は益々人々で溢れ空気は稀薄になっていた。慎一は窓辺に行き、入れ替わり立ち替わり動き回る人々を見ていた。激しい動きに連れ、頭の中心部が痛み出し、薄汚れた空気の中で意識の統制が出来なくなっていた。耐え切れなくなった慎一は売り場を出ると新宿公園の方角に歩いていった。公園の片隅に座り、やっと、人いきれから解放された思いになった。車の騒音も聞こえず、冷たい風の中に春先を思わせる匂いと生命を感じていた。凍り付いた土の中で新しい命が芽吹き春の匂いが息付く。変わりなく続いて行く自然の生業である。人間が死に絶えても、芝生の下から、木々の根本から生命は生み出されてくるのだろう。
日溜まりで小さな子が遊び人々のざわめきは消えていた。
・・・季節を変えることも、海洋の流れを変えることも人間には出来ない。所詮、狭隘な地域で蠢いているのに過ぎない。しかし人間の活動は自然を破壊し動植物を壊滅させていく。人間の世界は何時までも続き、個も、類も思弁的に歪められている以上現実の享楽だけに陥る。自己が、現在ある空間が認識されなくては戯言を言っているのに過ぎない。恐らく生死を彷徨う厳しい状況に置かれたとき、始めて自分の周囲の環境を知ろうとする。そして、日常の中に身を置きながらも自分の限界を認識し、覚醒した意識を持つことで、辛うじて耐えるようになる。愚昧な日常を忌み嫌い、一分一秒を無駄にしないとき、始めて淡々と流されている現実から抜け出すことが出来る。人間の存在とは、その現実的生活過程を意味する。唯一意識的に出来ることは、全ての生活過程を否定し、次の段階に止揚することである。しかし、また同じような生活が待ち受けている。生きている限り逃れることの出来ない現実、何処に行っても、何処で生きても同じことであり、現実が全てを規定している・・・日々仕事机に向かい伝票を処理している現実、競馬場でレースを眺めている現実、酒を飲み酩酊のまま帰路に着く現実、煎餅蒲団を抱き抱えながら寝入ろうとしている現実、それらが俺の現実である。存在は現実だけであり、過去にも未来にも存在することはない。人間が死ぬ時も、死ぬ現実の中にいる。現実から逃れた瞬間を知ることは出来ない。既に死しているのである・・・
慎一は薄暗くなるまで公園にいた。そして、体内から絞り出すような激しい慟哭を聴いていた。
二 遊技場
十二月も半ばを過ぎると出荷量が急激に増え年度末まで続く。しかし一月は時節がら暇な時期を迎える。慎一は、その日休暇を取りパチンコ店に行った。大学時代は休講日や休日に行くことがあったが、仕事をするようになってから遠ざかっていた。デジタル型式になってから運任せのような所があり余り好きでなかったが、最近は開店と同時に椅子に腰掛けていることもあった。人それぞれパチンコ台には好みがあり、似たり寄ったり何十種類もある中から自分に合った台を選び朝から座り込む。慎一はデジタルの数字が回っていても台に集中することはなかったし、現金を投入していることにも抵抗感がなかった。負けても勝っても苦にしなかったのではなく、自分には関係のない出来事のように思っていた。時間を無為に過ごし、デジタル画面の数字に自己を依拠することで、自分の中に他者を感じ解放されたかった。機械はコンピュータに設定されたプログラム通り動いている。それを読み取り、逆らわず慣れるより仕方がなかった。それに、パチンコ台は一台、一台がホストコンピュータと連携していて、打っても打たなくてもプログラム通りに管理されている。数十種類のパターン通りに画面が動き数字が並ぶことを繰り返している。
大勢の人が次から次へと正面玄関から入ってきては数時間を過ごし、雑居ビルディングの一階にある店は一日中込み合っていた。ギャンブルは、既に生活の一部になっていたのだろう。パチンコ症候群、競馬症候群と言われるように、多くの人たちにとって、最早それなしでは生きていることを感じられなくなっている。詰まり、世の中は至って平和であることを証明している。
「調子は?」
「朝から打っているが音沙汰無しの状態が続いている」
と、常連らしき男達が話し始めた。
「その台は昨日具合が良かったから今日は出ないだろう」
「今週は上り調子になっていると見たが、今更離れる訳にもいかない」
「隣は良いようだ」
と、今度は慎一に向かって話し掛けてきた。近頃休みの度に慎一が来ていることを知っていたのだろう、いやに馴れ馴れしかった。
「兄ちゃん、調子良さそうだな?」
慎一は返事を返そうか迷っていた。関係ないと思っているのは自分だけで、相手は仲間のように感じていたのかも知れない。
「負けてばかりで今日は元を取らせて貰います」
そう言って、正面から入ってくる客の方を向いてしまった。慎一は銜え煙草で何も考えず数字を眺めていた。途中昼食を食べ、戻ってくると島には数人が屯していた。よく見かける光景で、情報交換をしながら何となく互いに慰め合っている状態である。仮にギャンブルであっても、人それぞれ趣を異にしていることで、価値観が違うことを尊重しなくてはならない。皓々と灯る電灯の下を一歩出ると、生活の領域も生き方も全く違っている筈である。賭け事は個人的な趣味嗜好の世界であり関係性を結ぶような繋がりはない。一定の場所で時間を共有し、目的は金儲けと同じであったが、置かれている状況は相違している。話し掛けてくる奴、台を叩く奴、お喋りをしている奴、文句ばかり垂れている奴など、個性と言うより、その人間の日常を表現していた。種々雑多な人間が集まり、勝った、負けたと言い合い、怠慢と諦念が、一日を一台の画面の中に捨てていた。症候群である限り、赤や青色に光り輝く画面と音響に脳の神経細胞を支配され行動を規制される。そして、判断能力を、価値観を失わせることが出来る。陶酔感と期待感が交互に入り乱れ、それなしでは生きていけないようになっている。一定の刺激に対して、条件反射している姿は、正常な人から見れば恐らく滑稽に映るだろう。然りとて日常の中に追い求めて行くほどの真理や生き甲斐がある筈もない。意識が卑近なものに向けられ、為体な日常がある限り社会は安定している。慎一も画面の中に自分の姿を見ていた。与えられた娯楽を享楽することで社会から遊離し、その先に、見え隠れしている頽廃した自分の老いた姿を見ていた。日常生活は安定して、最早物質的に必要とする物はない。醜悪な死霊が加齢の姿である。皮膚は弛み、染みが身体中を覆う。そして、死を前にして足掻いている姿である。
デジタル画面には七七七の数字が赤色に輝いていた。台は夕方まで玉を出していた。しかし慎一は、今日と言う一日を時間の中に消滅させていた。内面の空白を感じていたのだろうか、翌日の午後も休暇を取った。行き先や必要があったのではなく、京王閣競輪場に来ていた。競輪は初めてだった。駅前で新聞を買ったが内容は全く分からなかった。よじ登って行くことも出来ない金網越しのバンクを、九人の選手が一列に周回していた。懸命に自転車を漕ぐ選手に対して、観客は激しい野次を飛ばしていた。罵声は選手たちの耳元にも届いていたのだろう。レースは一瞬にして終わっていた。赤が勝ったのか黒が勝ったのか分からなかった。
慎一は新聞の通り次の九レースの車券を買い金網に張り付いて見ていた。レースは檻の中で一定の法則に従い選手が回っているように見えた。疾走する選手に向かって、相変わらず周囲の人達は口汚く野次を飛ばしていた。レースに自分の全財産を賭け、生きるか死ぬかの瀬戸際の人たちも居たのだろう。しかし全財産を失っても誰の責任でもない。車券を当てる為に予想屋の近くに人々が集まり、周辺には飲み屋、食堂が軒を連ね人々が屯している。競馬場にしても、競輪場にしても、数千の人々が溢れ犇めきあっている姿は、日常から懸け離れ、行き場を失った閑人で占められている。精神の浄化作用があるのか、退化作用があるか、体内に宿る闘争意識を脆弱化させ、賭けることに依って金銭感覚が麻痺し短絡的な結果だけを求める。しかし、賭け事はやるべきではないと思いながらも自然と足を運んでいる。自分の生き方も日常も下らないと思っていた慎一も、前後の見境無く賭け事にのめり込み、結果的に破産しても結論が出ることで良かったのだろう。
慎一は外れ車券を捨てると競輪場を後にした。存在の重みも感覚の重みもない時間が過ぎていた。見知らない道を当て所なく歩いていた。北風が運んだ枯れ葉は足許に絡みついては消え去っていた。コートに両手を突っ込み前屈みで歩いている姿は、恋人に振られたか、世捨て人のように映っていたのかも知れない。慎一の唇は震え街並みが霞んで見えていた。理由は無かったが、言い知れぬ虚しさが襲っていた。しかし、人間はどのような苦境にあっても安逸に過ごせる場所、自分の住処に向かって帰ろうとする。それは帰巣本能に従って行動する動物と同じである。慎一は立ち止まっては煙草に火を点け、東に向かって歩いていた。そして、何時しか調布まで来ていた。
状況としての悲しみは理解出来たとしても、存在の悲しみは乗り越えることが出来ない。そして、悲しみが深まるほどに自分の行き場が見えてくる。慎一は、自分の行動を許そうとしていたのかも知れない。駅前の居酒屋で冷えた身体を温めようとしたのか、悲しみの中に依りのめり込もうとしたのか暖簾を潜っていた。熱燗をコップで貰い一気に飲み干すと冷え切った身体に温もりが一瞬拡がった。酒で悲しみが紛らわせるなら前後不覚になるまで飲み尽くし、覚醒したときのことなど考える必要はない。しかし飲むほどに内面を切り刻まなくては、自分自身に耐えることが出来ないだろう。慎一は現実に敢然と対峙し何時だって真剣で真摯に考え続けてきた。そして、自分のレベルの究極まで止揚して行くことで、ほんの少しでも生きる方向を見いだそうとした。他者に理解され、許容されることを求めてきたのではない。環境が変わることで、それに追従して行く積もりなど毛頭なかった。日常的に自分の意識を変革し、些末な事象にも自分なりに対応し乗り越えてきた。しかし、生きることも死ぬことも、生命の歴史から見れば取るに足りないことである。生の方向を過去に求めるのか、現在に求めるのか、未来に展望するのか、その方向によって答は全く変わってくる。しかし批判的に思念していく限り、人としての思いを持つことが出来る。慎一は酩酊していく自分を許せるのか、と、問うていた。感性だけで生きて行くことが出来れば良かったのだろう。しかし、三十歳を前にして摩滅していく感性を知っていた。そして、飲むほどに明晰になっていく脳髄は当て所なく彷徨っていた。
無駄な時間が過ぎていった。慎一は遣り切れない思いのまま調布駅に向かった。ホームに立ちながら反対方向に止まった車窓に乱反射する赤や青のネオンを見ていた。進入してくる電車の前に落ちてしまえば死ぬことが出来る。そんな思いが心の中を過ぎっていた。慎一は先頭車輌の方に行き冷たい天空を仰ぎ見た。ひとつの時を捉えることがなければ死は去り、死から逃れた想念は、ほんの弾みでまた生きることが可能になる。要するに、生きることも死ぬことも簡単なことだった。
新宿行き普通電車の座席は暖かく、慎一は僅かの時間眠っていた。つつじヶ丘駅を降りると嘔吐感が襲ってきた。
「馬鹿野郎」
と、数人の男に囲まれた瞬間顔面を殴られた。慎一はふらつきながら階段を転げ落ちた。
「便所で吐け」
「汚い野郎だな」
男達は慎一を踏みつけながら走り去った。競馬場か、競輪場か、何処かで会ったような気がしたが思い出せなかった。背広は吐瀉物と流れ出た血糊で無惨に汚れていた。改札口近くのトイレで顔を洗いアパートに向かい歩いていった。途中、身体の節々が痛み出したが内的には何も感じていなかった。アパートの近くまで来ると街灯の横に聳える大杉を見ていた。昨日の朝は、あの枝々を見ながら天空に向かって伸びて行く生命の畏怖と深淵を感じていた。しかし今朝は同じ木を見ても、一本の木としか感じなかった。視覚表象に依るものか、頽廃した自己意識に依るものか、それとも感覚が衰えてしまったのか、しかし何れにせよ慎一は自分自身の曖昧さを許すこが出来なかった。
部屋の明かりを点けようとした時、窓ガラスに自分の残像が映っていることに気付いた。右に動くと右に、左に動くと左に影が揺れていた。長い一日が終わったと思った。
残像は慎一に語り掛けてきた。
「疲れているのか?」
「否」
「明日は来るだろうか?」
「意味がない」
「捨てる物が残っているだろう?」
「虚しさが少しだけある」
「早く捨てることだ」
「そうしよう」
「価値は?」
「一緒に」
「眠りな!明かりを消して」
「分かった」
慎一はもう一度自分の残像を見た。しかし、労るでも叱責するでもなく精神は虚脱していた。
三 終着駅
会社内での関係は泥濘のような日常にあり、狭い空間で顔を合わせていると窒息しそうな空気が流れる。しかし勤め人である限りその悪臭を感じ定時まで仕事をしなくてはならない。外回りのときは書店で時間を潰し、アパートに寄ってのんびりすることもあったが、社内で作業に従事している時間は思念以外逃れる術はない。しかし思念を妨げる雑音は、許容範囲を超えたとき相手に対して憎しみと殺意を抱く。それは、日常茶飯事に起こり得る可能性がある。遠くで忍び笑う声、鸚鵡返しに繰り返される、ぬめるような言葉、単一的な抑揚のない笑い、騒音でも振動でもない時折発せられる人間の奥底から出てくる共振した狂想曲である。職場の雰囲気にはその時間が常に忍び込んでいる。
何時もなら仕事に没頭している慎一を、もう一人の慎一が見ていた。しかし鈍麻した感覚は日常に押し流され蘇ることがない。求めるものは一体何であろう。見出せることや、手に入るものだけが価値を持っている訳ではない。人は往々にして自分の手中に残った物に依って価値を判断する。知識、社会的地位、物質的財産、技術など、その量の多寡を見ようとする。しかし、その時に必要と思っても明日にはその全ての価値が失われる。凡庸な人生を変える瞬間を捉えることが出来なくては真理を見出すことはないだろう。それは、仕事の中にも日常生活の一瞬にも潜んでいる。しかし感覚が鈍磨している限り捉えることは出来ない。人の判断基準は、その人の知的レベルを超えることはなく、また、冷静で実際に即応出来るほど理性的になることはない。
昼の休憩時間、多摩川縁にぽつねんと立っていた。慎一は、カメラのレンズが遠ざかりながら被写体を捉えるように自分の姿を眺めていた。離れるに従って自分の姿は豆粒のように小さくなり、遂には視野から消える。豆粒のようになった卑小な存在に意味はなく、川底の砂粒と変わらないようになる。しかし、ひとつの地点に立脚して自分自身を見極めていく必要がある。そう思いながら日常を眼前に置いても、そう思った瞬間、日常の基点は失われ意識は自己を遊離する。それは依拠出来るような日常ではなく、為体な、目的を持たない存在感だった。結果的に、キーボードを叩く指先の向こうに、川辺の雑草の中に、ビルディングに囲まれた都会の暗闇に、見知らない景色が投影図のように浮かんでいた。
慎一は今月に入って二度目の休暇を取り大井競馬場に来ていた。平日であるにも拘わらず大勢の入場者で賑わい、競馬新聞片手に予想屋を円く囲んでいた。既に第一レースが終わり第二レースの馬券が売り出されていた。慎一はぼんやりと遠く東の空を眺めていた。視野の先に羽田空港から飛び立つジェット機の機影が見えていた。慎一は僅かの時間ボッーとしていたが、競馬新聞を捨てモノレール線の大井競馬場駅に向かった。羽田空港に着くと、暫く間ジェット機の離着陸を見ていたが航空券売り場まで行った。東京を離れ見知らない街を歩いてみたい衝動に駆られていたのだろう、日曜日の夜までに帰ることが出来れば行き先は何処でも良かった。
「済みません、直ぐ乗れる飛行機はありますか?」
「はい、どのような事でございますか?・・・」
カウンター職員は慎一の言っていることが理解出来なかった。行き先が分かっていて焦っている客はあったが、手ぶらで行き先を言わない客はなかった。
「空いている飛行機です」
「行き先はどちらでございますか?」
「何処でも良いから直ぐ乗れる機を探して下さい」
「仰っている意味が分かりません」
「航空券を下さい」
と言って、慎一は財布から金を取り出した。
「富山空港行きが一〇分ほどで離陸いたします」
と、職員は取り敢えず応えた。
「それで良い」
「搭乗口、二一番ですのでお急ぎ下さい」
「有り難う」
座席に着くと間もなく機は滑走路に機首を向けた。座席ベルトのサインが消えたとき慎一は手ぶらであることに気付いた。雪を頂いた三千メートル級のアルプス山系がマッチ箱を連ねたように雲間から見え始めた。慎一は日常から遊離し過去から遠ざかり自己意識から解放されていた。機内は現実だったのかも知れないが、眼下に形成される社会は、慎一とは何の関わりもなく対象として捉えるには懸け離れていた。二時間前は競馬場の喧噪の中にいた。一時間前は空港ロビーを歩いていた。そして今は、上空一万メートルの機内にいる。乗務員が通路を歩き、見ず知らずの人々が自分の目的地に向かっている。慎一以外、それぞれが目的と必要に応じて行動していたのだろう。目先の目的にしろ、一年後、十年後の目的であっても良い。慎一も大学に入った頃は、東京での一人暮らしと卒業を目的としていた。意味など無いと思っても、目的を持つことで安堵感があった。しかし今は、人間関係も日常も意味を持たず、仮にジェット機が空中分解しても煩わしい関係から解放されるだけのことであった。富山空港には一時間で着陸した。売店で北陸地方の地図と宿泊ガイドを買いロビーで眺めていた。
「山本さん?」
と、若い女性から声を掛けられた。慎一はゆっくりとガイドブックから顔を上げた。全く違っていたのか、似ている所があったのか女は逡巡したようだった。
「申し訳ありませんでした」
「いえ」
「それにしても」
と、言葉を継いだ。女は一度振り返り会釈をして玄関ロビーに向かっていった。慎一は後ろ姿が消えるまで呆然と見つめていた。和服姿が似合う人だと思ったが、その先が見えてこなかった。もしも其処に出会いがあるなら追い縋り声を掛けても良かった。躊躇うことがなければ、偶然だけに身を預け現実を変えることが出来たのかも知れない。
慎一は何処に行こうか迷っていたが、訪れたことのない海辺の街、氷見に決めた。その街は火を見ると言われたように何度も猛火に見まわれ一度に燃え尽きた街だった。猛火は一瞬にして地域の状況を一変させる。住み慣れた建物が瓦解し、職場が失われ、生活の糧が奪われる。人々は悲鳴を上げ逃げ惑うより仕方のない状況に置かれる。沈着冷静の積もりでいても判断能力は失われている。燃え盛る炎は実際に遭遇した人達にとって、激しい衝撃となって体内に残っているのだろう。そして、瞬間的に焼き付けられた映像は生来拭い去ることが出来ない。還元される原点があるなら、基底にはその映像が残り、以後の生き方を支配していく。自らの接点を何処に置くかに依って生き様は自ずから決まってくる。しかし人間の弱さは、知識を持ったことによって苦渋さえ自分の都合の良い方向に導いていく。知識は感性を統制し、より難渋な途を選択することはない。
旅館に着き、慎一はごろりと横になった。
大学を卒業する前年、北海道から九州迄汽車の旅をしたことがあった。時間に縛られず当て所の無いまま振動に揺られていた。家々が通り過ぎると、また家々が近付き通り過ぎて行く。何処に行っても人々が生きていた。雪渓の山々の中に、海辺の街に、谷間を走る鉄橋の近くに、日本中の至る所が人間の住処だった。地域には地域の言葉があり、生活様式の違いがあり、生きる基盤が違っても人間で埋め尽くされていた。家々の中には祖父母がいて、父母がいて、そして子供たちがいた。けれども時代と共に家の中は移り変わって行く。地域の意向に従い、拘束され、住民としての生活を保ち、時代が変わっても、昔からの白神から離脱することは出来ない。曖昧な関係のまま決して他を諫めるようなことはしない。それが地域に生きる掟であった。
翌日ロビーを一歩出ると霙混じりの雪が舞い厳しい寒さが待っていた。慎一は予約していた車を借り、その昔地滑りを起こしたという富山県境に出掛けていった。狭い林道は雪が堆積し山々も雪に埋もれていた。中腹に差し掛かってからは出会う車はなく、地上には自分だけしか生きていないような錯覚に襲われた。人恋しいとか、懐かしいと言う思いはなく、自然に対して無力である人間の愚かさだけを感じていた。車が崖下に落ちたとしても、一夜にして傷痕を消し去ってしまい、人目に触れることなく過ぎて行くだろう。地滑り後の頂上から氷見の街を見下ろすと、燃え盛る噴火口のような暗黒の陥穽が拡がっている。慎一は寒さに震えながら海まで続く空間としての孔(あな)を見つめていた。そして、這い上がることの出来ない蟻地獄のような足下に死の条件を見ていた。戻ることの出来ない世界が生であり行き着く先が死だった。慎一は暫くの間、風の音を聞いていた。渦巻く烈風に、自分を取り巻く関係性を捨象し新しい生き方が出来るかも知れないと思った。県境を越えた辺りは人が通り過ぎた形跡さえ無く、深閑として、手の入っていない杉林が覆い被さるように林道を塞いでいた。そして、時折耐え切れなくなった雪が落ちていた。
慎一は自然の広大さに溜め息を吐くと旅館に戻って行った。窓辺に拡がる日本海は暗く静かな波を寄せ、慎一は運ばれてきた食膳を静かに食べ始めた。一人で食べることに違和感はなく、動物が必要に応じて空腹を満たし、命を繋ぐように食することと同じである。必要以上に求めないことで自然界の均衡を保つ。そして、生命の持続を視野に置き環境に順応し種を保存する。しかし体内に連綿と伝わる行動様式から逃れることは出来ないだろう。食事が済むと雪が舞い落ちてくる露天風呂に入った。湯に浸かっていると急に涙が流れてきた。しかし何が悲しいのか分からなかった。大学に行っていた頃、暗い部屋で理由もなく涙を流していたことがあったが、それ以来だった。両頬を涙は流れ湯船に落ちていた。
慎一は冷たい蒲団に横になった。明日は東京に帰らなければならなかった。そして、明後日になれば何時もの時間に起き仕事に行くのだろう。自由であることは、拘束された日常の対比としてあり、越えることが出来ない。許された自由を享受しても何も意味は持っていないだろう。
四 旅行
慎一は休暇を取り東伊豆に向かった。心の中で、これが最後の旅行になると思っていた。故郷の阿部川に帰ろうと思っていたが、今更家族に会っても仕方がない思いがあった。数日間を、一つの原点に置き、行動することなく自分の周囲をゆっくり眺め、行き過ぎるまま一人静かな時間を過ごしたかった。予約は取っていなかったが東伊豆の旅館は空いていた。
海が一望できる部屋に通された。窓辺に腰掛けると、視界の向こうに靄に煙る大島が微かに見えていた。日常から解放され、自分自身から解放された時間だった。夕食までの間、慎一は風呂に入った。矢張り宿泊客が少ないのか二、三人しか入っていなかった。一人温めの露天風呂に浸かり過ぎた日々のことを考えていた。人間関係も、会社も、地域の生活も、同じことの繰り返しに過ぎなかった。全ての関係は一歩離れてみれば、直接的にも間接的にも不必要な人間たちとの繋がりだった。このまま仕事を辞めたとしても、会社の人達と何の関係も無かったことになる。慎一が会社に居なくても日常は今までと変わることなく推移して行くだろう。多少の齟齬があったとしても数日経過すれば許に戻る。所詮人は煩わしい関係の上に立って日常を処理し、それを生きていることだと錯覚しているのに過ぎない。
慎一は風呂から上がるとロビーで休んでいた。
「客の持ち物を落として黙って行く積もりか?」
と、体躯の良い老人が怒鳴っていた。
「急いでいたもので申し訳ありませんでした。新しい物にお取り替え致します」
若い社員が客の前を通り過ぎるとき、土産物を落としてしまったようだった。
「言い訳を聞いているのではない」
「済みませんでした」
と、若い男は謝っていた。様子を見ていたのか、カウンターから支配人らしき男が出てきた。
「申し訳ありませんでした。お腹立ちだと思いますが、どうぞ、お納め下さい。本人には十分注意しておきます」
「昔は会社の役員をやっていたので言うが、接客業として態度がなっていない。若いと言うだけで礼儀を知らない。自分勝手な振る舞いを許されると思ったら大きな間違いだ。それに、値段が高い割に飯も不味いし風呂も狭過ぎる。二日間も損をした」
「これをお持ち下さい」
若い社員が新しい物に取り替えてきた。
「二度と来ないからな」
「教育を徹底して今後は良いサービスをさせていただきます。本当に申し訳ありませんでした」
と、平謝りだった。
慎一は嫌なものを見たと思った。小雨が降り出し辺りは薄暗くなり始めていた。夕食が運ばれるまで、慎一は冷蔵庫からビールを出し栓を抜いた。
・・・あの男は老醜を晒し快楽に執着し他に阿る。そして、懐柔と服従だけが取り柄で、うんざりする日常を享楽の為に生きてきた。加齢は、その人間をより柔和で卓越した存在へと変えたのではなく、何時でも悪臭を放つような醜悪なものにしていた。真摯に生きることは、人間の思いに彩りを添え寛容へと変えて行く。けれども、そのことを認識している人間は少ない。自分勝手に振る舞い他に対して思慮しなくなっている。恐らく会社を停年退職して、のんびりと夫婦で行楽に来たのだろう。しかし、ごねることで他の客に不愉快な思いをさせることに気付かず自分だけが客だと思っている。女はその有様を仲裁もせず、夫を宥めるのでもなく、ただ呆けたように突っ立っていた。夫婦共々何十年もの間牛馬と同じように食んでいたのに過ぎなく、何も学ぶことは無かったのだろう。エゴイズムだけが罷り通り、存在の余りの軽さに憂鬱さを覚える。社会から遊離したことへの反動なのか、老い先短いことへの不安なのか、日頃から自分自身を整理することなく、その場、その場で気の向くまま生きてきたのだろう。何れ俺自身も彼奴等と同じように醜悪だけを晒すようになる。そして、齢、歳を重ねることに意味を持たせることが出来なく、日がな一日不平不満を言っているのだろう・・・三十歳を前にして、俺の苦しみは自己を制御出来ない乖離を体内に宿し、それを超越出来ないところから来ているのかも知れない。そして、人間に対する範疇を持たないことで制御不能になることを恐れている。愛することも、思念することも、真摯に取り組むべき思想もない。俺は唾棄すべき人間として生まれてきた。そして、自分自身への疎外感は生きることを傀儡とする。せめて、青春は俺のものにしたかった。しかし生きる日常に真理はない。自己への喪失は意味を問う資格さえない・・・人間が仕合わせだと感じるとき、それは環境、経済、愛情などの条件が満たされた赤子の時だけだろう。否、母親を見る赤子の目つきさえ不安であると問うている。社会と関係がないと言い切れる俺は、また、俺自身の価値観や未来を信じているのではない。遠い山々に降り頻る雪を眺め、数千キロ離れている島々の景色を身体が感じているのに過ぎない。俺の体内には人間の歴史が眠り、記憶を遡って一つ一つの細胞が過去を感じる。自分の歴史を閉じるとき、体内に堆積した幾億人の、係累の彼等一人一人と語り、そして彼等の許に還って行く。それは苦しみでも悲しみでもなく安住への旅立ちとなるだろう。俺の生きてきた過程は、ただ感覚としてしか残っていない。それは、歴史としての意味をなさない。喪失の始まりは生死に対して意味をなさず、歴史が変遷することで全ての価値は相対的になる。昨日まで正しかったものが今日から完全に誤りとなる。たった一つの行為でさえ、俺の奢侈であり存在の軽佻浮薄さに身震いする・・・孫悟空が釈迦の掌から逃れられなかったように、俺自身を自分の掌に乗せ眺めている。そして、足掻いても、足掻いても貧弱な知識と狭隘な社会から逃れることは出来なかった。俺は今、全てを捨て去り放浪の旅に出て行こうとしている。新宿の地下道に、池袋の地下道に、上野の公園で段ボール箱の中に寝泊まりしている人々と同じように、全ての社会的な関係を断ち切り、感情を、感覚を捨て去る。生きる地平は永遠の彼方に遠ざかり埋めることの出来ない空間を眼前に置く・・・
波音が慎一の居るところまで届いていた。若いと言うことはドロドロした泥土の中でも鮮明に状況分析が出来る。しかし慎一は既に二十九歳になっていた。加齢は精神を蝕み意識を切り刻んでいる。そして、深淵は慎一の内面で遠い過去になり人間としての限界を通り越していた。
事実として地球は当たり前のように自転している。しかし周期は二十四時間を欠け自転は何れ停止する。それは、急激に停止しても徐々に遅くなっても良い。何れ停止することに変わりはない。慎一にはその様子が鮮明に見え、地表で蠢いている人間達は既に死に絶えていた。自然から生まれ自然に還元されたことで誰一人として悔いを残すことはないだろう。元々人間の歴史など地球の歴史に比較すれば瞬きをしている間に終わる。そして、人間の知り得ることのない時間の中で銀河星雲もその中心の暗黒物質に消えて行く。それとて宇宙の時間から考えるとほんの一瞬のことである。そして、地上の歴史は瓦解の中に終焉の時を迎えるだろう。仮に永遠の時間があったとしても人間に理解されることはない。現在があって、今この瞬間があることでその先には何もない。永遠の生命は無く、死したものは蘇生しない。そして、慎一自身が関わった歴史が歴史であってそれ以外にない。況して物質や時間が永続的に存在することはない。一つの染色体が絶えることで個の歴史は閉じられるだろう。慎一にとって、失われし時を求めて、時空への感覚のない無限への旅である。そして、二度と戻ることのない軌道を遊離した衛星のように無の果てへと消えて行く。真っ暗闇の空間には何も有りはしない。辿り着く、当て所のない地に向かって飛び続けて行かなくてはならない。慎一は最早宇宙の藻屑であり塵であった。
慎一はなかなか寝付けなかった。暗闇に目を凝らしていると遠く漁船の灯が見え隠れしていた。生活を変えることで別な自分が見えてくるかも知れないが、食べる為に生活を変えても所詮同じことだった。また、視覚に映る全ての事象が生きている現実だったが、感覚として生きている実体が分からなかった。刹那的で良いから激しい情念が欲しかった。幽閉された牢から脱獄するほどの情熱が欲しかった。
翌日、慎一は東伊豆を去った。後一日居ようと思っていたが無為であると思った。そして、何処にも寄ることなくアパートに帰ってきた。日頃から内面の整理をするように片付けてある部屋は寂しさを齎した。生活したことの過去も、過程も残滓と同じである。慎一は部屋の中央に胡座を舁いた。地表の一点に自身を置いて、それを上空から離れながら見つめて行く。日本が見え、地球が見え、太陽系が見え、銀河系が見える。慎一の存在は既に影も形も無くなっている。多摩川縁で卑小な存在としての自己を確認していたように自分の価値を失っていた。
二日間休みが残っていたが何をして良いのか分からなかった。そして、無為な一日が過ぎた。二日目の夕方になって駅前に食事に行った。しかし突然襲ってくる胸を掻き毟られるような悲しみと虚無感を処理できず酒を飲みだした。黙って受け容れてくれる人を求めていたのだろう。しかし、誰の許に行けば良いのか分からなかった。
全ての事柄は所詮人間の生み出したことである。それは、知識が人間の行動を規制し関係に拘束され安逸な生活を規範とする。守るべき人間としての法則ではなく不必要な知識に雁字搦めにされる。自由を得るには、その一つ一つの知識から解放され、自分を取り巻く範疇から抜け出すこと以外にない。人間故に意識を持つのか、意識を持つことで人間となったのか、恐らく人間になろうとして意識を持つようになったのだろう。そして、人間たちは自らの欲望の為に知識を持ち始めた。しかし、欲望は所詮肉体と精神を満足させるだけのことであり慎一の外側の出来事であった。
夏から秋へ、そして冬へと季節は移り変わっていた。日常を環境に置き換えることで、環境に支配された日々は外側から支えられる。それで良いと思う反面、青春の齟齬と、蹉跌は許容することが出来ないのだろう。慎一は、価値を自己の生き方に求める限り救われることは無いのかも知れなかった。
第五章
一 幼い頃
・・・寒村の小さな村に生まれた俺は、自然の中で何時も遊んでいた。小学校時代、夏は阿部川で魚を捕り、秋は山奥でクルミや山栗を拾い集め、冬は裏山で竹スキーやそり滑りをした。それに、田圃に水を張り、下駄を履いてスケートもしていた。でも、春には何をして遊んでいたのだろう。兄貴と一緒に川エビでも取りに行っていたのだろうか、それとも山で山菜を採っていたのだろうか、思い出そうとしても、その部分が記憶の底から抜け落ちている。しかし、毎日毎日自然と遊び確かなこととして充足されていた。生きる場所は、自分が生まれ育ったところが一番良いのかも知れない。適応する水を求める魚のように脳髄の中枢に焼き付いているのだろう・・・一年生の時、同級生は三十人位だった。光彦が、智也が、よし子が、みつ子がいた。そして、昭子に初江がいた。よし子は三年生になる前に東京に引っ越してしまった。現在でもこの東京の何処かに住んでいるのだろう。俺が好きだった子は啓子だった。いつ頃好きになったのか分からないが、何かきっかけが有ったのかも知れない。その啓子も小学校を卒業すると他県に行ってしまった。屹度あれが初恋だったのかも知れない。啓子が引っ越すことを先生は何も言わなかった。卒業式が終わってから知ったことだった。啓子は初江に話しながら俺の方を見つめていた。最後に見た啓子の仕草が今でも脳裡に焼き付いている
「明日、埼玉県に引っ越して向こうの中学校に入る。初江、きっと手紙を書いてね」
「啓子、元気でね」
「新しい友達出来るかな?」
「大きな学校だろうね」
「此処に帰ってくること、もう無いんだ!」
「寂しくなってしまうね」
「初江!」
「啓子と会えないね」
「うん、埼玉ってどんなところだろう?」
そう言った啓子の声が心なしか愁いを帯びていた。
「さようなら」
と言って、啓子は教室を飛び出していった。
・・・引っ越しのトラックを道端の木陰に隠れて見送った。翌日、誰かに見られているかも知れないと思ったが啓子の家に行った。俺は家の前を行ったり来たりしていた。何だかとっても悲しくて胸が苦しかったことを覚えている。何処に引っ越したのか分からない。忽然と消えてしまった啓子に会いたいと思うときがある。忘れられた遠い思い出なのに、大人になった啓子に会ってみたいと思う・・・四年生のとき、担任は田中先生だった。他の子たちは怖いので何時も静かにしていた。しかし俺はその先生を無視していた。無視することで自分の存在を訴えていたのかも知れない。何度も廊下に立たされた。理由など忘れてしまったが、その都度俺は黙ったまま立っていた。何れ授業が終われば放課後まで立たされることはなかった。立っていることが苦になった訳ではないし、先生に謝る必要も感じなかった。また、懲罰を加えられたとしても俺の考えが変わる訳ではなかった。小学生だから力関係によって勝ち負けを決めようとしたのだろう。何故、理路整然と説明しなかったのか、その先生のモラルと能力が問われた良い機会だったと思う・・・五年生の時、藤棚の下で陣地取りをして遊んでいた。薄紫の花が咲いていたので初夏だったのだろう。
「何故、俺ばかり虐める」
と、保幸は言った。突然言われた俺は狼狽えてしまった。虐めた憶えは無かったが相手はそう取っていた。多分二、三度それに近いことがあったのかも知れない。でも、俺は虐めた積もりや蔑んだことなど毛頭なかった。皆の冷たい視線が瞬時に俺に集まった。
「俺は・・・」
と、言ったきり神経が凍り付いていくのが分かった。
「俺の身体が小さくて、喧嘩が弱くて、坊主頭が面白いんだろう」
と、保幸は震えながら言い放った。それまで一緒に遊んでいた友達は一人、二人と、俺と保幸を残して去っていった。保幸は坊主頭で確かに身体も大きい方ではなかった。しかし言われている俺も理不尽だと思っていた。昼休み時、午後の陽が燦々と輝き、周囲は茹だるような夏の暑さに空白が漂っていた。けれども耳元で、保幸の『何故、俺ばかり虐める・・・』『身体が小さいからか・・・』と、声が谺していた。俺はそのとき何も言えず黙ったまま保幸を見ていた。保幸の額には大粒の汗が滲んでいた。その瞬間を必死に耐えていたのだろう。俺を睨めていた目は憎悪に燃えていた。内部から吹き出してくる怒りの表れ、それは憎しみである。俺に対しての憎しみ、忘れることの出来ない情景だった。昼休み終了のチャイムが鳴り終わり、保幸は教室に戻っていった。俺は誰も居ない校庭で暫くの間教室の方を眺めていたが、教室に戻ることなく家に帰ってしまった。これまで、俺に対して多くの人間が憎しみを持ったことだろう。しかしあの時の保幸の憎しみだけは、俺の記憶から消えることはなく、まざまざと蘇って来る。思い出すのではなく、何気なく眺めている景色の隙間に、読書に夢中になっている行と行の空間に、その目が見えてくる。そして、耳元に響く声が、『何故、虐めるのだ・・・何故なんだ・・・』と言っている。しかし保幸は同じ中学校に行った筈なのに、その後のことは記憶に残っていない・・・人生の基盤は幾つかの過去にあった出来事が規定することがある。経験主義のことを言っているのではなく、見ているのに見られているような、掴んだのに掴まれてしまったような、その場で瞬間的に逆転することがある。相手の気持ちを考えなくてはならないと、そのときに学んだ。自分が何気なく言っていることも、行動していることも、相手は違うように取っていることがある。多分その時から自分を取り巻く社会なり繋がりが見え、自分が何をしているのか、何をしなければならないか学んできたように思う。人間関係は、時間の共有を持ったとしても何れ離れ離れになっていく。確かにその時間、その瞬間はあった筈なのに、全ての出来事が瞬時の夢となる。二度と再会することのない、歩く軌跡の違った同級の子たち、誰もが既に阿部川を去っていた・・・秋には撓に実った柿を家族が車座になって皮を剥き、冬の夕食後は、娯楽番組を見て過ごしていた。奥深い山里は取り立てて変化なく毎日が過ぎて行く。また、狭隘な地域での生活は、医療、教育などの面で限定された生活を余儀なくされる。自然の中で生活をしたいと憧れる人たちが居るが、決して生易しいものではないだろう・・・俺はいつの間にか中学生になっていた。全校で五十人ばかりの中学生時代、俺の村と、隣村の共同中学だった。村が違えば違ったで対抗意識があった。負けてなるものかと思い、試験前になると一生懸命勉強していた。理系が好きだった俺は化学や数学の記号や公式を全て暗記していた。けれども暗記することは得意でも試験が終わると忘れていた。そして、休みの日や、学校が終わった後釣りをして能天気に過ごしていた。勉強半分遊び半分の生活だったが、趣味でも労働でもなく日常の自然の行為として、食べる為に釣り糸を垂れていた。今思えば、釣りに興じていたり、アメリカザリガニを採ったり、蜂の子を食べたりして必要な蛋白質を補っていたことになる。自分で考えなくても身体が自然に求めていたのだろう。生きて行くのに必要な知識を、身体にとって必要な栄養素を脳は知っている。食することは贅沢を必要とすることではなく、空腹が満たされることで良く、生きることは自然を支配することではなく、自然に順応し必要な栄養物を取り入れて行くことだった・・・中学二年の秋だった。田圃で遊んでいた俺は、山に沈む光に捕らえられてしまった。金縛りにあったような、身体を動かそうとしても身動きが出来ない状態になっていた。意識を失っていたのか、それとも光の中に身体が吸収された夢を見ていたのか、光の記憶だけは鮮明なのに、前後の記憶を失っていた。稲刈りが終わった後で、十一月の始め頃だったのだろう。誰と遊んでいたのか、どんな風に家に帰ったのか定かでない。てんかん発作があった訳ではなく、日常の生活でも特別体調の悪いところは無かった。しかしそれ以後は何事もなく過ごしている。それから三年後の高校二年生の時だった。俺は寮の前を流れている河原で夕陽を見ていた。そして、知らない間に意識を失っていた。気が付いたとき、暗くなった道を寮に向かって歩いていた。その時にも前後の記憶は何も残っていない。沈む光の中に何を見ていたのだろう。眼底の奥に、射されたような痛みと、胸の痛みが残っていたような記憶があるが定かでない。それから八年後、二十五歳のときだった。俺は職場の片隅で倒れていた。近くに誰もいなかったので気付かれることはなかった。昼休みだったのか、夕方一人残業をしているときだったのか、壁際で数分間倒れていたのだろう。その時にも周囲のことや前後の記憶はない。何故壁際で倒れていたのか、その時にも思い出せなかった。これまで意識を失ったことは三回ある。ただ、三回とも夏を過ぎ、秋の日溜まりの最中のことだった。喪失と言うのだろうか、失われてしまった意識、記憶を手繰りで寄せ集めてもはっきりしない・・・衣食住や意志の疎通に必要な記憶があるように、人には幾つかの決して消えない記憶が脳の中枢部に残っている。それは、生きているとき、忘れることの出来ない必需品のようなもので、記憶の底にしまわれている。そして、生きている現実を規定し内面を拘束する記憶としてある。恐らく残光には激しく感情を揺さぶるようなものがあるのかも知れない。視神経の黄斑部を刺激して脳の中枢を瞬間的に壊すことの出来るもの、それは一体何だろう。人間は朝陽に惹かれ夕陽に惹かれる。幻想的な光景の中に生命の尊厳や息吹を見ようとしているのか、それとも生命が失われて行くとき、神の力や悲しみを見ているのだろうか。何れにしても感情を持ったことの証明なのかも知れない。生まれた赤子が、始めて空気に触れ泣き叫ぶような、原始社会の埋葬にみられるような端緒的な感情なのだろう。一度電車の中で意識が遠くなり失神したことがあった。俺は倒れていく自己を意識しながら意識が遠のいて行くのが分かった。それは、夕陽の光を受け倒れていたときとは確かに違っていた。乗客が運んでくれたのだろう、気が付いたとき長座席に横になっていた。俺の周囲には断末魔の苦しみとは違い若い女性の匂いがあった。そして、直ぐ意識は回復し、俺は普通に歩き改札口を通り抜けていた・・・過去を懐かしいと思っているのだろうか、否、それは俺の過去として記憶に残ったことであり、俺の側を通り過ぎた人々の中に俺自身の記憶が残っていることではない。人に語ったとしても、数分で語り尽くせる過去など何の意味も無いことである・・・
二 琴美
・・・家から通学出来るところに高校はなかった。高校生活を送るなら、都会を選ぼうと思い、県庁所在地にある普通科を受験した。寄宿舎生活を送った高校時代、その頃が俺の人生で一番思い出深い日々であり、充実した生活だった。男子舎と女子舎は同じ敷地内にあり全室一人部屋になっていた。十五歳で経験する始めての一人暮らしは、都会と言う社会で、自己の精神を鍛錬する場でもあった。寄宿生には、俺と同じように山間地から出てきた奴や、近県の者もいた。テレビは無かったし、ラジオで野球を聴いているのも面倒だった俺は、学校から帰ると本を読みあさり、大抵夜中まで起きていた。世界文学、日本文学、思想書、哲学書など暇に任せて次から次へと読破した。そして一冊読み終える毎に、内面が充実していくのが分かった。休みの日も殆ど外出することはなく、ベッドに腹這いになり机に向かって終日過ごしていた・・・高校生の読む雑誌を通じて文通を始めたのは夏休みになる前だった。俺にとって始めて意識した女性の友達だった。琴美・・・文通を始めて一ヶ月後に一枚の写真が送られてきた。『私は確かにこの写真の中にいます』と、記され手紙は終わっていた。十五人位写っている写真の左端から二番目、真剣な眼差しに笑みを浮かべていた人だと瞬間的に感じた。次に届いた手紙で、それが琴美であることに間違いなかった。それに、何十通ときた手紙の中から、一人だけ文通相手を選んだことも書き添えてあった。琴美は札幌市南東の街、現在は北広島市の高校一年生だった。結局一度も会うことはなかったが、今でも会いたいと思う、ただ一人の人である。琴美の住む街を訪ねたのは、俺が大学三年生になってからだった。その頃文通は途絶えていたが、その街を見たかった。高原地帯に牛馬が戯れ、牧草地が途切れると一面の唐黍畑が拡がっていた。何処まで行っても広々とした空間は、俺の育った、覆い被さるように迫ってくる山々に囲まれた寒村とは大違いだった。琴美の内面を構成していたものは、その街の開放感だったのかも知れないし、広大な野幌原始林だったのかも知れない。俺は鬱蒼としてひんやりとした樹間に立っていた。音は林の中に消え、静寂がジーンと耳朶に震えていた。それは、森林の泰然とした泣き声を聞いているようだった。蒼穹の空間に樹木の一本一本が伸びて行く姿は、人間社会から遊離し、孤高に生きている厳粛な、そして、引力に逆らい、ひたすら宇宙空間を目指している内なる力であった。暫くの間樹間に立っていると、静寂は身を引き裂くような聖なる叫び声に変わる。透明な、頭の芯に響き渡り、木霊するような声を、琴美は何時も聞いていた筈である。朝とも夕ともつかぬ空間は、呼吸する命を永遠に導いて行くのかも知れないし、人間の思いを死に追いやるのかも知れない。琴美の爽やかな眼差しと、笑顔の奥に隠されている悲しみを知っていた。それは、一枚の写真の中に見え隠れしていた生きる姿だった。俺は琴美に長い手紙を送った。手元に届くことを願っていたが、返信は無いだろうと思っていた。しかし数年後琴美から返事が送られてきた・・・
【・・・貴方に出会えたことで、また私の生き方も変わっていきました。何故、高校を卒業する頃になって音信不通になったのでしょう。私の内面には貴方が住み、貴方の内面には、私が住み始めたことを信じていました。遠く離れていても、互いに求め合うことが出来た筈でした。でも、二人の思いを繋ぎ止めて置くことが出来なく、離れ離れになっていた。漫然とした不安や、生活基盤のない焦慮に駆られていたのか会う機会を失っていた。大切なものに気付いていたのに、それを持続させる術を知らなかった。でも、貴方と私は確かに出会うことが出来ました。そして何時の日か、二人は必ず会わなければならないと信じていました。
朔北の地に貴方が来ていた頃、私もまた貴方のことを感じていました。私の住む街を歩きながら何を思ったのでしょう。原始林を見て、私のことを感じていた筈だと思います。その時、貴方と会うことが出来ていれば、二人の現在は全く違ったものになっていた。貴方は私の直ぐ近くに居ながら、何故会うことを避けたのか、表札の、私の名前に気付いた姿が目に浮かんできます。
貴方の、例えようもない虚しさ、埋めることの出来ない寂しさを知っていました。貴方が生きて呉れることを、いいえ、一緒に生きなければならないことを感じていた。
送られてきた手紙は私の内面を満たしていきました。貴方に会えば私の思いは変わってしまうかも知れない。貴方は、自分自身のことや私のことは何も語らず、街のこと、風景のこと、森のことしか書いていなかった。でも、言葉と言葉の間に貴方の思いが語られていた。『愛した人は琴美しかいない・・・』と、貴方はそう語っていた。貴方の思いを知った私の心はどれ程震えたことでしょう。何度も何度も手紙を読み返しました。その度に、このまま貴方の胸の中に飛び込んで行きたい衝動に駆られていた。愛する意味を、貴方に会うことで確かめられたのでしょう。二人の間に何も隔たりは無いし、会うことで依り深い絆が見いだせる筈でした。そう、東京なんて直ぐに近くにあるのに、私だって愛していたのに・・・しかし、結局、北海道から離れることが出来なかった。
確かに自分の途を踏みしめ、生きることで多くのことが得られるのでしょう。私にも小さな夢が有りました。しかし何時しかその夢も消えていた。短大を卒業して、自分の目指して行く方向も分からないまま就職していた。でも、何かが違っていることに気付いていた。その頃の私には恋人がいました。いいえ、既に恋人では無かったのかも知れない。
貴方の手紙が届いた頃、私は失意の底を彷徨っていた。不安定な日々を重ねていた私は、貴方の許に飛び込んで行くことの出来ない不安と距離を感じていた。貴方が受け止めてくれることを知っていた私は、返事を返すことが出来なかった。既に愛していると言えないことは分かっています。何時しか貴方は私の一番会いたい人で、会うことの出来ない人になっていた。
連理と言う言葉があります。二人が、それぞれの思いを確かなものにしていたなら、屹度、深い愛が見いだせたのでしょう。しかし、大切なもの、確かなものを失ってしか、人は生きられないのかも知れません。それが愛なのかも知れません・・・】
・・・恐らく琴美は結婚をする寸前に返事を寄越した。曖昧で不安定な手紙だったが、過去を清算することで、自分自身に対しての別離の言葉を選んでいた。手紙は途切れたまま終わっていた。琴美の思いが胸裡から消えたとき俺は既に社会人になっていた。悲しみを湛えた笑顔の中に清純な生命の姿があった。出会いも生きることも必然的な機会など有る筈がない。会いたいと言えば琴美は会ってくれただろう。そして、二人は違った生き方をしていたのかも知れない。しかし琴美のことを朔北の地に舞う妖精のように感じていたことも確かだった。俺が心を許した、愛した、ただ一人の人だった。思いと、思いが触れ合った琴美に、俺の思いを知って欲しかった。琴美の零れるような笑顔を永遠の思い出として愛していた。既に結婚して子供もいることだろう。しかし青春の形見として決して消えることはない・・・高校三年生になっていた俺は、受験勉強に追われていたのに毎週のように映画館に出掛けていた。偶々映画館から出てきたところで声を掛けられた。
「試験中でしょ、映画を見ていて良いの?」
隣のクラスの須藤郁美だった。
「やあ!」
「河埜君、公立大学を目指しているんでしょ?」
「その積もりだけど!」
「遊んでいて良いの?」
「骨休み」
「嘘、言っている。寂しいんでしょ?」
「何が?」
「喫茶店に寄っていかない?」
誘われたような感じで店に入った。
「一人で映画を観ているなんて、好きな子いないの?」
「いない」
「私、河埜君と付き合いたいな!」
「付き合うって?」
「恋人になって上げる」
翌週二人で会うことにした。郁美が考えていることを知りたかったし、現実の女の子に触れてみたい欲求もあった。郁美と待ち合わせをして湖に向かった。水深の一番深そうな所までボートを漕いできた。燦々と輝く太陽の下、俺は郁美の目許を見ていた。
「キスして!」
と、郁美はいきなりそう言った。郁美の唇と誘いにクラクラしたことを覚えている。そして、誰も居ない湖上で郁美に圧倒された俺は喉が渇いて仕方がなかった・・・恋も、読書も新しい発見だった。けれども真剣に考えれば考えるほど、自分を徐々に部外者のように感じ、その頃から心の中に隙間が拡がりつつあった。集中と拡散が一度に襲ってきたり、安定と倦怠が同居していたり、充実と虚無に苦しめられるようになっていた。夏休みが終わってからも受験勉強に身が入らなかった。琴美のことを考え、郁美のことを考えていた。けれども二人に対して対峙していく術を知らなかった・・・何時しか俺は、生きる価値など何処にも有りはしないと思っていた。そう思いながらも俺の身体は生きようとしていた。喉が渇き、腹が減り、精神が消耗していた。知らない間に必要な栄養分を補い、読書することで精神の渇きを癒していた・・・静岡も木枯らしが吹く季節だった。俺は家に帰ると言って寮を出た。阿部川まで行く最終バスは既に無く、静岡の街を彷徨きながら存在の軽さと虚しさに、このまま行方知れずになっても良いと思っていた。寒風は心の中まで冷たさを運んできた。深夜映画館に入って洋画を観て時間を潰していた。考えて行く度に、一冊の本を読み進めて行く度に、以前は充足感に満たされていた筈なのに、心の空洞をどのように埋めれば良いのか分からなくなっていた。阿部川の家は既に捨て、家族は俺の中で遠い存在となり、帰るところではなかった。人は所詮、偶然に生まれ必然的に死んでいく。係累と呼ばれるものも又偶然の産物でしかない。家族も係累も地域も重なり合いながら生き、重なり合うことで自慰をしているように感じていた。一度きり、一人の生、求めても捨てても関係がないと思うようになっていた・・・俺は日常的に呆けていた。そして、拡散した意識のまま結論だけを急いでいた。本当は、恋人に、恋に甘えていたかった。否、甘えたいのではなく、苦しい状況から脱出する方法を教えて欲しかった。建設的な生き方は確かに素晴らしいだろう。前向きで、真剣で、確実で、整合性のあるものが確固とした人生を築いていく。それには、生きることへの執着と、状況を切り開いて行く情熱が求められた。しかしより高次なものに向かって行くとき、仕合わせが得られるのだろうか、俺は疑問の中にいた・・・思春期の終わりを迎えていた。大学に行こうか迷っていたが、東京に行くことで新しい地平が開かれるかも知れないと思った・・・その頃の俺は殻に閉じ籠もることで、級友たちの集まりや会話から遠ざかっていた。結局、卒業式に出ることもなく卒業していた。別れの挨拶をすることも煩わしかったし、三年間の生活にも感慨はなかった。卒業証書や記念アルバムが送られてきたがページを開くこともなかった・・・
三 東京
・・・煤煙で錆び付いた街の片隅にも人々が住みつき、それぞれの生活が有り、四季折々の姿を見せていた。俺はそんな街の狭くて汚い北向きのアパートを借りた。四畳半一間の部屋は、一日中陽が射すことはなく、夕方北向きの小さな窓から西陽が一時間ほど天井に反射していた。しかし寮とは違い、帰寮時間もなければ食事時間もなく全てが自分だけの時間だった。東京での生活も半年が過ぎ、一年が過ぎていった。ガランとした部屋には本棚だけが並び、精神的な充足感と疲労感が同居していた。けれども何時しか疲労感だけが残土のように残り、変哲のない毎日に俺の内面は蝕まれていた。還ることのない青春の翳り、青春と呼ぶには苦し過ぎたのだろう。狭い部屋に閉じ籠もって、何日も何日も外出することがなく俺の周りには陰湿感が漂っていた。誰とも会話することなく一ヶ月、二ヶ月と過ぎ、暗闇の中で何度となく夜が明けて行くのを見ていた。四肢が冷えていくのが分かったが、温め方も、除け方も知らず溜め息混じりの日常が続いていた・・・込み合った電車に揺られ御茶ノ水駅に着く。十五分ほど歩いたところに大学があった。大教室での講義は、講師がオペラグラスの先にいるようだった。休講が多く、二年の夏休み前には大学に行くのも飽きていた。サークル活動に所属することはなく生活費を稼ぐ為アルバイトを続け、単位を取る為に大学の構内に足を踏み入れていたのに過ぎなかった。それぞれが多くの処理出来ない思いを抱え大学にやってくる。友人、教授、学問など青春の出会いが人生を方向付け、生涯の支えになって行くのだろう。しかし俺は、青春を謳歌している連中を横目で見遣りながら夜遅くまで働いていた。働くことで僅かの賃金を得、知らない人間たちの間に居ることで安堵感を覚えていた。三年生になったとき引っ越しをした。大学に行くには不便だったが郊外の住宅地だった。南向きの角部屋で、日中部屋の中まで陽が入ることで何となく温もりがあった。窓の下は駐車場になっていて、其処だけが唯一の空間であり目を向けることの出来る場所だった。しかしアパートが林立した場所で、隣の建物から夜遅くまで物音が聞こえていた。郊外らしく、駅から帰る途中に一坪農園があり、何種類もの野菜が植えられ、休日には、団地の家族が手入れをして長閑な田園風景を見せていた。人々の顔付きに輝きがあり、ほんの少しの希望が、今日を、明日を支えていた。しかし何時しか日々の生活も学生であることにも疲れていた。進むべき方向も分からず大学を辞めても良いと思うようになっていた。止揚していくほどの理論や激しい情熱も無く、キャンバスに居ても一日が倦怠のうちに過ぎた。七月だったのか、最後の授業が終わり教室から出ようとしたとき優美が話し掛けてきた。ゼミが同じで、取り留めのない話をしていたが、相談相手のように思っていたのだろう。
「河埜君、時間空いている?」
「ああ」
駅前の喫茶店に入るまで優美は何も言わなかった。
「私、寂しくて仕方がない」
「寂しいのは誰も同じだと思う」
「一人で居ると頭の中がガンガン鳴り響いて耐えられない。夏休みは田舎に帰ろうかなと思っていたけれど・・・」
「苦しい?」
「ええ!」
「何時までも?」
「多分」
「旅行は?」
「嫌」
「俺に出来ること?」
「河埜君と一緒にいたい」
「俺の所に?」
「そうしても良い?」
「でも、俺も一応男だし責任が持てないと思う」
「構わないわ」
「しかし」
俺は躊躇っていたが断る理由がなかった。
「一週間だけの約束」
「汚いけど」
「有り難う」
そう言った優美は少しだけ荷物を持ってやってきた。男と女でありながら一週間の間関係を持つことはなかった。精神的な繋がりを大切にしたかったのか、抜き差しならぬ方向に行ってしまうことが怖かったのか、俺と優美は淡々と一週間の日々を重ねたのに過ぎなかった。端から見れば奇妙に映っていたのかも知れないが、互いにそれで良いと思っていた。そして、優美は一週間後自分のアパートに帰っていった。優美は抱かれることで寂しさから逃れ、俺は抱くことで寂しさの中にのめり込んでいったのだろう。俺がアルバイトに行っている間一人アパートで待っていた。日記や走り書きが散乱していたが優美が読んだのか分からなかった。
「明日、帰るわ」
一組しかない蒲団の端で優美が言った。
「分かった」
「私のこと嫌い?」
「さあ」
「はっきりしないのね」
「優美とこのまま一緒に暮らしても良いと思っている。互いに干渉しなければ上手くやって行けるだろう」
「嘘、男って考えている事と言うことが違う。自分勝手で調子が良くて女を誑かしているだけ」
「現実から逃れることは出来ないけれど、優美の彼氏だって本当は苦しかったと思う」
「そんな奴ではなかったから別れた」
「世の中、現実過ぎて付いて行けないことがある」
「難しいね」
「隙間を埋めるのに疲れてしまうだろう」
「ええ」
「何時でも来な!優美のこと待っているから」
「慎一君って馬鹿ね。甘えたいけど、何れ荷物になるわ。それに私は捨てられた女よ」
「関係ないと思う」
「始めは誰でもそんな風に言う」
「過去のことなど考えても仕方がない。横になって、窓から空間を眺めていると、産まれてきたことも、生きていることも、間違っていた。そう思ってしまう。それ以外に結論はない」
「慎一君って、何時もそんなこと考えているの?」
「東京に来たことも大学生であることも間違っている。誰にも会わず、アラスカでセイウチを追い掛けるか、ジャングルでゴリラ相手に暮らしている方が合っているのかも知れない」
「ねえ慎一君、二人が三十歳になって、一人で暮らしていたなら一緒に住まない?」
「そうしよう」
優美は俺の側に来て軽く接吻した。そして翌日「三十歳になったら連絡頂戴ね・・・」と言って、実家の住所を書いたメモを残して帰っていった。
・・・三十歳を過ぎれば青春は葛藤のうちに終わり、諦念の思いを持って生きることが出来るのかも知れない。青春は生活の上に思惟や思想があるのではなく、思惟や思想の上に僅かばかりの生活があるのに過ぎない。日常に埋没し、俺のことを分かってくれる優美と一緒に生活することも可能だった。しかし今、一緒に住むことは優美を窮地に追いやってしまうだろう・・・大学にいた四年間、俺に何も齎すことはなく、卒業を迎える時期になってもアルバイトを続けていた。心の何処かで『如何せん、如何せん』と言葉が谺し、観念の世界も現実の世界も意味がなく、心の空白に冷たい風が吹き抜けていた。そして、卒業式も終わり就職先も決まり最早逃げ場など無いことを承知していた・・・二月の終わり東京にも雪が降り、炬燵の中から夕暮れまで眺めていた。そう、子供の頃、枝々が雪で覆われた幹に足蹴りをして遊んでいた。力一杯蹴ると、積もった雪が一斉に頭上に落ち、歓声を上げながら同じことを繰り返していた。暖かい雪、掌に落ちた雪片は直ぐに融けだしていた・・・確かに生きていることが思い出を作る。しかし思い出と、生きている現実が区切られる接点はあるのだろうか。俺にとって中学を卒業した頃までが思い出だったように思う。それ以後は、日々現実に押し流され愚昧な日常が続いていた。降っては消える雪のように、確固とした精神を構築することが出来なかった。現実は日常茶飯事の上に乗って、不確実なものとして連続しているのに過ぎなかった。独りだけの四年間、支えていたものは何も無かった。しかし何も無いことで生きることができ、関係を求めないことで明日が来ていた。俺にとって過去は遊離した遺物だった。俺の内面は乾いたままで、来る日も来る日も暗い空間に向かって独り言を呟いていた・・・
『・・・時は明日への解決を齎すことは無く、これから先の、時空の中に埋もれていく。生の終着は無く、生の未来もない。彷徨う思考は時の中で地軸を持たない。求めることも失うことも無く、この儘で良い。何故生きているのかと問う必要は無く、桎梏などと言う言葉も無い。身体の裡に流れる一つ一つの細胞が悲しみ苦しんでいる。俺の精神は、磨滅していく亡骸に少しだけ拘泥しているのに過ぎない。思い出は悲しみを誘い、悲しみは思い出に埋られていく。透視する眼孔は、瞼の裏側に付着しているのか、網膜の表面に付着しているのか、光の許で、暗闇の許で、しっかりと見え、触れることの出来ない、治癒されることのない傷を持っている。時は変わらず、解決することなく、時空間を越え、際限なく繰り返され、記憶だけが消えていく。間近に見える遠景、間断のない時間の流れ、不安定な日常を支えるものはない。何を見よう日常に、緩慢な不快感、虚脱した不快感、遅滞した不快感、濁とした不快感、陵辱であり、語らいはいらない。窒息した感性が泣いている。眠り、空白ではない眠り、繰り返される日常、厭きることのない日常、最早時は分節しないだろう。関係を結ばない時は存在することはない。俺の感情と関係のない生、そう、関係がないのだ。唯、俺の焦燥感は、俺を蝕む感覚は、生きることに疲れているのではなく、時空間と離別しているのに過ぎない・・・』
東京での学生生活は、軌道を持たない浮遊物のようにユラユラと揺れ動いていた。
四 白雪
就職して七年目の冬を迎えていた。倉庫係の若い連中や、事務所の女の子たち全員で二泊三日のスキー旅行に来ていた。乗鞍高原の積雪量は既に二メートルを越え山肌を見せるところはなかった。飯山佐知子は始めての参加だったが、なかなか見事な滑りを見せていた。慎一も毎年参加していたので、上級者コースを一気に滑り降りてくる腕前だった。前日の午頃に着き、ゲレンデの中腹にあるホテルに泊まって二日目の夜を迎えていた。
「河埜さん、明日は上まで連れていって!」
と、佐知子は甘えた声を出した。
その日佐知子は慎一と一緒にいたかったが、広いゲレンデに掴まえることが出来なかった。都会を離れ、自然に遊び、慎一といることで楽しくて仕方がなかったのだろう。前夜と同じように、夜は飲み、歌い、時を忘れて楽しんだ。誰もが仕事から離れ開放感に浸っていた。
「そうしよう」
十二月に喫茶店で話をして以来、慎一は二人だけになることを避けていた。
「河埜さんって、スポーツ駄目かと思っていた」
「何故?」
「だって、何時も難しい顔している」
「真面目な顔をして仕事をしているって訳だ」
「でも、素敵よ!」
と、佐知子は小声で言った。
「佐知子さんも上手だね。急勾配を一気に滑り降りて来た」
「家族で行くことや、大学の時には仲間と良く行きました」
「若いから覚えが早いのだろう」
「でも、河埜さんには敵わない」
「もう何年も来ているし、多少上手くならないと、次からは連れてきて貰えないよ」
「明日は帰らなくてならない。二人だけでお話がしたい」
と、佐知子は言った。
「有り難う、でも、今日は楽しく飲もう」
「何時も避けている」
「佐知子さんがそう思っているだけだよ・・・」
「そうかな?」
「そう言うこと」
と言って、佐知子のコップにビールを注いだ。
「河埜さんに騙されているみたい」
「帰ってから会おう」
「本当に!!」
佐知子と一緒に過ごすことは出来なかった。仲間の集っているところに佐知子を連れていった。翌日は快晴だったが、午後になってから数メートル先が見えないほど吹雪いてきた。慎一はその日の午後一緒に来た仲間と別れた。帰る予定だったが客室も空いていたので残ることにした。明日から仕事だったが、出庫事務しかなかったので佐知子に頼んだ。佐知子は不可思議な顔をして、『何故?』と言ったきりだった。
午前中頂上から滑り終わりにする積もりだった。しかし、途中脇道に逸れ、雪渓の中に埋もれている木々を見ていた。静まり返った虚空にさらさらと粉雪が舞い落ちるのを見ていて、過去も未来もなく、生の接点は何処にもないと思ってしまった。「如何せん・・・」と呟いても、声は雪の中に消え入ってしまった。
慎一は吹雪いてきた空を見ながら部屋にいた。
・・・意識が閉ざされるとき俺は終わる。目覚めることのない眠りの中にどんな夢を見るのだろう。知識や経験したことは全て過去のことである。未来の夢だけは決して経験できない。俺は、俺に繋がる全ての記録を破棄してきた。高校生になるとき、東京に出てくるとき、大学のとき、そして今では日常的に自分に関する証を捨ててきた。今回スキーに来るときも身の廻りは何時ものように整理してきた。そして、生きてきた記録を残さないことで一生懸命生きようとした。でも、何かが違っていた。必要と思わないことで価値は無くなる。有りもしないことに価値を見いだそうとすることは、人間の脆弱さの証明である。個として存立できないとき必要な類を求める。相手を利用することで、自分の立身出世を願い、儚い夢を持とうとする。生きることは自己を疎外し仕事や金は生活を規定する。俺は就職したことで自分を変えることは出来なかった。矢張り、この時代に生を受けたことが間違っていたのだろう・・・
夕暮れになっていた。慎一はベッドの上で眠りに落ちていた。夢を見ていたのか覚醒していたのか分からなかった。はっきりしない意識のまま言葉を拾い集めていた。
『・・・青春は失われ、情熱は失われ、俺の裡に在ったものを呼び戻すことは出来ないけれど、時々は自分の裡に還りたい。閉ざされた、表出することのない青春の翳り、失われた時間、過去に苛まれ、悲しみに苦しめられ、為す術無く日が暮れる。行き場のない思いを抱えて、行き場の無い思いを知って、それでも生き続けなくてはならない・・・時を超えることが出来ない。俺の中の自然は何処にあるのだろう。失われた悲しみに、もう嫌だと呟く。溜め息ばかりの日常に、時は重なり進んで行く。でも、俺は生きている。食し、呼吸し、血液の流れは確実に時を刻んでいる。そう、俺は俺を生きている。仮令年老いても、行き場のない所に向かっても、過去との決別であっても、俺を生きている。虚無感?虚脱感?存在は忘れられている。忘れられている以上まだ価値がある。意味のない?否、生きた価値がある。思考が俺を支え、感性が時を感じる。俺の中の海原は、俺の中の虚空は拡がって行く。平衡感覚のない、地軸を持たない時、断片的な疲労が蓄積され眠りを妨げる。呼吸している貴女を見つけ、現在このとき、忘れられた時間を取り戻したい。存在の軽さに癒されないとき、喪失感が漂う。時を超えることの出来ない実感、今日も一日が始まり終わる。日常と言う概念が失われている。元々生きるに値しない生、時は死に向かって進んでいる。しかし、生命の死であっても人の死ではない。心臓が停止し呼吸音が消える。そして細胞が死を迎える。時間の終わり、何の為に生きてきたのだろうと問う。何故生きてきたのだろうと問う。俺の裡に拡がる虚空は宇宙空間に消えて行く。宇宙空間に漂う一点の塵、そして終わる。俺を残したまま・・・』
雪は激しく降り続いていた。慎一は階下に降り酒を飲み始めた。若者たちが音楽に合わせ歌い踊っていた。しかし慎一の耳元には何も聞こえていなかった。
・・・吹雪は朝までにすっかりと俺の姿を隠してくれるだろう。雪解けの初夏まで一人で居られる。終わることは始まりを持たない。俺はそう結論を出した。
「座っても良いかしら?」
と、若い女が声を掛けてきた。
「一緒に居た人たち、お帰りになったの?」
「帰ったのかも知れないし帰らなかったのかも知れない。仕事をしなくては生きていけない」
「貴方の後ろ姿がとっても寂しい。何故、お酒ばかり飲んでいるの?」
「そうかな」
「こっちを向いて、私は貴方のものよ」
「俺の物など何もない」
「私、琴美よ。今でも貴方だけを愛している。貴方のことを思うとき仕合わせを感じていられる」
「琴美は札幌にいる。俺のことを分かってくれるだろう。琴美にさようならと伝えてくれ」
「私、礼子よ。ベッドで貴方の我が儘を聞いていた。何故、私の許から去ってしまったの?」
「礼子は消えてしまった」
「私、ルイヨ。貴方ノ言葉ヲ何時マデモ忘レナイ」
「ルイは国へ帰った」
「私、佐知子よ」
「佐知子は今頃東京に着いただろう。仕合わせを祈っている」
「私、涼子よ」
「涼子とも随分会っていない」
若い女は、慎一の記憶を呼び覚ますかのように語り掛けていた。
「慎一、私は誰なの?」
「分からない」
「でも、慎一のこと愛している」
「愛していたと言った方が正確だろう」
「私のこと思い出して、慎一が愛したのは私だけ」
「もう、思い出せない」
「嘘、嘘、嘘・・・」
ロビーは静かになっていた。慎一は二階に上っていた。ベッドに横になりながら風が吹き荒れていると思った。書き置きをしなくてはと思い近くを探したが何も見つからなかった。
慎一はぶつぶつと独り言を言い始めた。
・・・生きるに値しない生を随分長い間生きてきた。俺の内面に去来する思い、忘れかけている思い、無くした思い。何もかも必要が無くなってしまった。虚脱感だけが微かに残っている。俺の死後何もしないで欲しい。何も残さないようにして欲しい。俺が生きてきた間、何も欲さなかったように朽ち果てたい・・・
階下からは物音一つ聞こえてこなかった。慎一は静かになったロビーに降りていった。そして、ゆっくりとドアを開けると吹雪の中に出ていった。凍てつく寒さを感じることもなく、緩やかな斜面を上っていった。一時間近く歩いたのだろうか、一瞬引き返そうかと思った。でも、何故そう思ったのか分からなかった。深雪は膝の辺りまで積もっていた。真っ暗闇の中で雪片はきらきらと光り輝いていた。何もかも遠い過去のように思った。慎一は振り返ることもなく歩き続けた。仮令振り返っても、過去の情景は見えて来ないのだろう。暫くして林の中に分け入った。時々耐え切れなくなった雪片が頭上から落ちてきた。覆い被さるような雪を掻き分けて尚も慎一は上っていった。誰かが付いてくるような気がして辺りを見回してみたが近くには誰も居なかった。
降り積もる雪が慎一の過去を何事も無かったかのように消し去ることだろう。樹間は風もなく静寂が雪を降らせていた。睡魔が襲ってきた。慎一は上着を脱ぎ捨て横になった。二度と起き上がることはないと思った。そして、自分を遠い存在に感じていた。四肢の先に冷たさは感じなかった。生きていた間に失うものはなく、置き去りにしてきた思いに、さようならを言った。
黎明のない眠りは安逸を貪るのだろう。
周囲が明るくなり始めた頃には、慎一の身体は真っ白な雪に覆われ周囲に同化していた。
了
乖離