赤目と雨


むかしむかし、何もかも枯れ果てた土地に一つの村がありました。村には、昔から守られてきた言い伝えがありました。

村に宿る神に人を喰わせよ
さすれば神は村に恵みを与え
村は栄えるであろう

村はこの言い伝えの通り、多くの人を生贄として神に捧げ続けていました。そうして村は栄えていきました。
神に喰わせる人は当然、村人なのですが、村では人を喰わせる事に反発する人は全くと言っていいほど居ませんでした。それには理由があります。村にはもう一つ、言い伝えがあったのです。

 赤目の人は人を喰らう
 赤目は神への供物であり
 人とは異なる存在である

この言い伝え通り、村は赤目を生贄として神に捧げ続けていたのです。
赤目は二十歳を迎えるまでは普通の人と変わらず、家畜の肉を喰い、神からの恵みで育った作物を喰って生活します。しかし二十歳を迎えると、それまでの食生活は一変し、人のみを喰うようになるのです。
 赤目を恐れた村人は、赤目を人と認めず、赤目差別を続けていたのでした……。

ぐちゃぐちゃ。ぐちゃぐちゃ。
虚空に響く。
ばきばきばき。ばきばきばき。
噛み砕いたそれを一気に飲み込み、ふうと溜め息をつく。
「今日の人間はあまり旨くないな。やはり男よりも女の方が旨い」
腕を組みながら、うんうんと頷く。
「さて、村人たちに施しをせねば」
身体を龍の姿に変え、晴天の空へ勢いよく昇る。たちまち空はずっしりと重い雨雲に覆われ、村に雨が降る。
「おお、神の施しだ!」
畑仕事をしていた村人は、農具を道に投げ捨て、その場で踊り始めた。
こうして喜ばれるのを見て、悪い気はしない。この村に居れば、雨を降らすだけで、質の差は多少なれども、食糧が手に入る。その上、村人に崇拝され、敬われる存在でいられるのだ。
私はこの生活を多少は気に入っていたが、大部分は気に入っていなかった。
この生活、快適ではあるが、退屈なのである。この村に宿るようになり数百年経つが、その間にしてきた事と言えば、食事と雨を降らす事だけなのだ。私に好奇心や行動力が足りなかったのではない。私が生まれる遥か昔から、神とはそういう存在なのだ。その日の気分で海へ行ったり、山へ行ったり、はたまた違う村などに行くのは許されないことなのだ。これが神の掟というものなのだ。
 しかし、いくら神と言えども延々と人を喰って雨を降らすだけの生活など、耐えられるはずもない。神にも我慢の限界はあるのだ。
この生活を続けていては、私の心は錆ついてしまうのではないかと、毎日、毎時、毎分、毎秒、私は不安で仕方がない。
「明日こそは……」
自分を励ますように独り言を呟き、眠りに就く。
 翌日、朝。ゆっくりとまだ重い身体を起こし、伸びをする。眠い瞼を擦りながら、昨日考えていた事を思い出す――。
 自分の考えていた事を思い出し、思わずハッとする。そうだ、今日こそはこの生活から抜け出そうと思っていたのだった。掟を破れば何が起こるか、全く分からないが、この際そんなことはどうでもいい。私はもう限界なのだ。掟を破ったところで、私を咎める者など居ない。私は外の世界を知りたいのだ。私は神という存在よりも、私でありたいのだ。
自分の意志の再確認と、外へ出る決心をしたので、次は行き先を決める。寝起きの頭を出来る限り回して、思考を巡らす。
村の周辺には海が無いので、海を一目見てみたいと思っていた。山にも行ってみたいし、村の様子も気になる……。考え出すと、行きたい所なんて、山のようにある事に気づく。なかなか行き先を決めることが出来ず、しばらくその場で頭を回し続けた――。
「よし、決めたぞ!」
ようやく考えが纏まった解放感を含ませ、大きな声で叫んだ。
「まずは村へ行こう!」
続けて叫び、叫んだ途端人の姿に化けて、布を身体に巻き、祠を飛び出した。そして、村に向かって勢いよく走りだす。期待で満たされた心は、村に私を引っ張るように、私の歩幅を徐々に大きくさせて行くのだった。

 三十分ほど走り続けて、村を一望できる丘にたどり着いた。息は上がり、裸足のままで走っていたため、足の皮はぼろぼろになり、痛かったが、目の前に見える景色は、現実よりも遥かに輝いて見え、その程度の痛みなどは容易に掻き消してしまうほど美しかった。  
村はもう目の前だ。私は足が痛むことなどすっかり忘れて、村へと続く坂道を駆け下りる。
「着いた!」
村へ着くと同時に、湧き上がる高揚感に身を任せ、両手を振り上げた。
ようやく、代わり映えの無い日々に変化が生まれた。これからはもっと自由に、自分の意思で行動しよう。自分を縛っていた枷から、完全に開放されたような気がして、嬉しさのあまり身体が震えた。
「しかし、務めはちゃんと果たさねばならんな。そうでないと、この村が無くなってしまう」
自分を落ち着かせた後、これは自分の意思だ。と、心の中で続けて呟きながら、村の入り口を抜ける。
 入り口を抜けた通りには、人の姿が無かった。何百年も空からこの村を見下ろしているので、ここに人が少ない事は知っていた。人が多いのは市場だ。今は丁度日が真上にある頃だから、多くの人がそこに居るはずだと思い、市場へ向かって進んでいく。
 そうして市場へ着いたのだが、市場へ来る途中にもあまり人はおらず、せいぜい見たのは三人ほどだった。そして、その内二人に声を掛けてみたが、どちらも私の顔を見るなり、恐ろしい形相で、悲鳴を上げながら逃げ出してしまった。二人がこうなのだから、三人目の反応も予想がつく。なので、敢えて三人目には声を掛けず、早く市場に向かうため、三人目の前を歩こうと、三人目の視界に入った瞬間、
「あなたは何故、眼覆衣を着ていないのですか?」
と、突然問われた。
眼覆衣。一人目も二人目も三人目も、目を覆うほどの頭巾の付いた、裾の長い上着を着ていたので、おそらくそれの事だろう。しかし、空から見ていた時も思っていた事だが、何故村人は皆、眼覆衣を着ているのか分からなかったので、こちらからも問いを投げかけようと、後ろを振り向いて、
「眼覆衣とは何なので……」
「きゃああああああああ! 赤目!」
言い終わるより先に、大きな悲鳴を上げて、三人目は逃げ出してしまった。
――赤目?
今度は全く見当もつかない言葉だった。
――人間の目は赤いのではないのか?
生贄として祠に来る人間は、皆赤目だったので、人間は目が赤いものだとばかり思っていたが、どうやら違うらしい。
人と出会う度に悲鳴を上げて逃げ出されては困るので、目を覆うことの出来る眼覆衣を探すことにする。
そして、今に至る。
市場の入り口には、旅人用に眼覆衣の貸出しをしている無人の屋台が在った。そこから眼覆衣を一着借りて、市場へ入っていく。
市場は予想通り、多くの人で賑わっていた。しかし、その誰もが買い物を急いでおり、何かに脅えている様子だった。
――皆、赤目に脅えているのか? 何故……。
期待とは違う村の雰囲気に、憂鬱な気分になる。同時に、村と赤目の関係に対する疑問が胸の内で膨らんでいくのを感じた。
 疑問が残ったまま市場を見回ってもつまらない。その上、自分が生かしている村の事情を知らない事は、愚かなことだ。
 そう結論を出した私は、村人に赤目について訊ねることにした。
 ――眼覆衣も着ているし、旅人だと言えば問題無いだろう。
 そう思い、前を歩く男に声を掛ける。
「すいません」
 男はこちらを気にせず歩き続けた。
 ――聞こえなかったのか? それとも……。
 今度は男の肩を掴み、声を掛ける。
「すいません。少し尋ねたい事があるのですが」
 男は立ち止まって、しばらく黙って周りを見回し、逃走の機会を窺っていたが、私が肩をずっと掴んでいたので、諦めて、脅えながらこちらを向いた。そして、肩を掴んでいた私の手をどけながら、
「あなたは?」
 震えた声で言った。
「旅人です。赤目について尋ねたい事があるのですが」
言った瞬間、男は私の頭巾を脱がした。
 男と私の目が、合う。
 ――は?
 男の行動に、ただただ混乱した。状況を理解する間も無く、男が悲鳴を上げる。
「あ、ああ、赤目じゃないか! うわああああああああ!」
 男は一目散に逃げ出そうとしたが、混乱した私の身体は、反射的に男を捕まえ、足を掛け、地面に叩き付けた。倒れた男をうつ伏せにし、馬乗りになり、腕を抑え拘束する。
男の行動に対する怒りもあるが、今ここで赤目の事を聞いておかなければ、今後赤目について聞くことの出来る機会が激減するであろう、という判断の下の行動だった。もう後戻りは出来ない。この男に対する質問で、赤目に関する情報を全て聞き出さなければならない。
ごくり。と、つばを飲み込み、質問を開始する。
「赤目とは何だ?」
「なんで……」
男は今にも泣きだしそうな、悲壮な声で言った。
「なんで……なんで俺が食われないといけないんだ? なんでお前らは人を食うんだ? 食われるのはお前らだけでいいんだよ!」
「食う? 私はお前を食ったりなどしない。質問に答えさえすれば、お前を開放する」
 ふと、至る所から視線を感じ、顔を上げると、いつの間にか多くの村人たちが、私と男の周りを囲んでいた。
 男はそれを確認すると、叫んだ。
「こいつを捕えろ!」
村人たちは黙って周りを見回し、しかし行動は起こさなかった。
 ――所詮、人間はこの程度なのだろうな……。
 村に来てから、見たくないものを見続けてきたせいで、すっかり気分が落ち込んでしまった。しかし、今は何よりすべき事がある。
 ――早く情報を聞き出さなければ……。
 視線を男に戻し、質問を続けようと口を開いた瞬間。後頭部に重い衝撃が伝わった。
「ぐ……っ!」
 振り向くと、丁度、別の男が金属の棒を振り上げたところだった。
 ――あ……。
 もう一度、頭部を殴られる。
「死ね! 化け物め! 死ね! 死んじまえ!」
二度、三度、殴られる。
「ははっ、赤目も大した事ないじゃないか!」
何度も、何度も、殴られる。身体から力が抜け、その場に倒れ込んだ。拘束していた男はいつの間にか逃げ出していたようだ。視界が自らの血で赤く染まっていく。
 ――こんなはずじゃ、なかったんだが……。
遠のく意識の中、視界の隅にこちらへ走ってくる影をとらえた。それは、私を殴っていた男に体当たりをした。
――なんだ……? 誰だ……?
「大丈夫ですか!?」
 頭巾の奥の目は私を見つめる。私を見つめるその目は、血色に輝く赤の目だった。
 赤目は私と男の間に立ち、私を庇うように、両手を広げる。
「何も、ここまでする必要は無いんじゃないですか……?」
「何故そいつを庇う!? そいつは人を食おうとしていたんだぞ!?」
「そ、そんな訳無いじゃないですか……。村に二十歳以上の赤目は居ないんですよ?」
 赤目が言うと、少し間を置き、男が言う。
「最近は子どもの赤目が人を襲うという事件が続いているんだよ。まさか、知らない訳じゃあないよな……?」
 ――なるほど、それで村人たちは赤目を恐れていたのか……。
「私は病弱なものですから……。普段はあまり、外には出ないんです……」
 再び、会話が止まる。不穏な空気が漂う。
「まさか……。あいつも赤目なんじゃ……」
 野次馬の一人が呟いた。村人たちがざわつき始める。
「そうなのか……? ちょっと頭巾脱いでみろよ……」
「……いいですよ」
 ぱさっ。頭巾が脱げると共に、艶やかな黒い長髪が風になびいた。そして、赤い目が群衆の前に晒される。
空気が凍った。
「……きゃああああああああああああああ!」
 市場は、野次馬たちの叫喚と逃げる足音で埋め尽くされた。残るは赤目と私と男のみ。
「あなたは逃げないんですか?」
「だ、誰が逃げるか!」
「そうですか。では私は、あなたを食べたいと思います。いっぱい食べられると思ったのに……。あなたのせいで食べられませんでしたから。」
「は、はあ? お前、人を食うような素振りは一度も見せなかったじゃないか! それに、俺のせい? 何の事だよ……」
 ふふっ。赤目の少女が楽しげに笑う。
「私、人が慌てふためく様を見るのが好きなんですよ。善人ぶって皆騙して、後で正体を明かせば、皆驚くでしょう? そして逃げる。そんな人を食うのが私は大好きなんです」
 でも……。低い声で呟いた少女は、淡々と、言う。
「あなただけ、逃げなかった。そんなあなたを見ると、興が冷めてしまった。あなたのせいで、私の楽しい食事が台無しです」
 だから……。
「死んで償って」
「う、うぁ……うわあああああああああああああ!」
 溢れんばかりの狂気を含む言葉は、男を彼方へと逃がした。それを確認した少女は、再度こちらを向くと、優しい声で言った。
「私の家、来てください。怪我の治療をしなきゃ」
 私の意識は、そこで途切れた……。

 目を覚ますと、そこは見慣れない場所だった。上体を起こし、辺りを見回す。
 ……木造の一軒家のようだ。それにしても、やけに本が多い。部屋の隅に置かれている本棚は、どの段も端から端まで本で埋め尽くされている。そればかりか、床にまで大量の本が積まれており、歩ける箇所がほとんど無い状態だった。と、本の山の隙間に、仰向けで倒れている人を見つける。
 ――あれは……なんだ……。
 どこか見覚えのある気がする……。無防備に床に寝そべるそれを、観察してみる。艶やかな黒の長髪と、華奢な身体。どうやらこの家に住む少女のようだ。
 ――この黒髪の少女……私の記憶が確かなら……。
「おい、起きろ」
 目の色を確認するため、少女を起こそうと、少女の身体を揺する。
「ん、んん……。はっ!」
 がばっ、と、勢いよく起き上った少女の目はやはり赤色だった。
 ――この少女、あの時私を庇った少女に違いない。
 念のため、確認を取る。
「お前は、あの時私を庇った少女か?」
 少女はまだ寝ぼけているらしく、瞼を擦りながら、気の抜けた声で言った。
「はい……。あなたの怪我の治療をしたのも私ですよ……」
――頭に包帯が巻かれていたのは、そのためか。
 しかし、何故この少女は私を庇ったのだ?下手をすると、私のようになっていたかもしれないのに……。
 疑問が生じると共に、ある事に気が付く。
 この少女が私を庇ったという事は、少女は私に敵意を抱いていないという事だ。赤目について、何か聞けるかもしれない。
「あの、聞きたい事があるのだが……それも沢山」
「いいですよ! 何でも聞いてください!」
 ついさっきまで寝ぼけていたのに、それが嘘だったかのような、覇気の籠った声で、少女は言った。赤い目を輝かせて、こちらを笑顔で見つめている。
「赤目とは何だ? 人なのに、人を食うのか?」
 少女の顔から笑顔が消え、驚いた、と言うように表情を変えた。
「あなたはこの村の人じゃないんですか? 赤目の事を知らない赤目なんて……。なんだか変ですね」
 まずい、このままではまた何も聞けないまま……。頭を最大限回して、もっともらしい嘘を言う。
「ああ、私は旅人だ。生まれたころより、赤い目をしていたのだが、赤目について知る者が、私の故郷には居なくてな。旅をしている内に、この村なら、赤い目の秘密が知れると耳にしたんだ」
「なるほどなるほど……。分かりました。赤目についてお教えします」
 どうやら誤魔化せた様だ……。
 こうして、私は様々な事を少女から聞いた。
 赤目は本来、二十歳にならないと人を食わない事。赤目は生まれた時から両親から引き離され、二十歳になるまでに生贄として神に捧げられる事。そして、赤目は二十歳にならないと人を食わないと知りながらも、事件が起きる前から、村人はずっと赤目を差別していた事。
そして、それを当然の事のように話す目の前の赤目の少女を見て、私の胸は締め付けられているかのような痛みを感じた。
哀しい。少女の境遇もそうだが、理由の無い差別をする村人の愚かさが。同じ人なのに。赤目は好きで赤目に生まれた訳じゃないのに。そして、今まで村の事を何も知らずに、何となく赤目を食って、村に雨を降らせていた自分の愚かさが。
私が悲しむのは、何か間違っている気がする……。が、溢れだす感情を止めることは出来なかった。
 自責の念とお門違いの同情で、私の胸は満たされた。少女は話を続けていたが、私の耳は少女の声を反射するばかりで、それから先の話は全く頭に入らなかった。
「どうかしましたか?」
 虚ろな私の目を見て、心配そうに、少女が言う。その表情からは、哀しみや、憂いは全く伝わってこなかった。
「どうしてお前は、普通の顔をしている? 哀しくはないのか?」
 ……少しの間。
「もう……、慣れましたから。それに、私には本があります! 家族や友達が居なくても、いくら酷い目に遭っても、本さえあれば大丈夫なんです!」
 ――ああ、この少女は本当に本が好きなんだな。
 少女の赤い瞳は、私にそう思わせるに、充分な輝きを放っていた。
――人間の瞳とは、いや、人間とは、こんなにも美しいものだったのか。
私はこの時、初めて村に来て良かったと思えた。どんなに辛く、哀しい境遇でも強く生きる少女の姿が、とても美しく、儚く見えたからだ。そして、人間を食う立場である私が、おかしな事に、この少女を大切にしたい。と思ってしまったのだった。何故この少女が私を庇ったなど、どうでもいい気がした。
「私は、本を読んだことが無いが、お前の目を見ていると、それがとても素晴らしい物だという事が分かる。私に本を貸してくれないだろうか?」
 少女を喜ばせるため。そして、少女と仲良くなりたい、という想いからの言葉だった。
「え、でも、赤目についての話はもういいんですか?」
「そんな話はもうどうでもいい! 一緒に本を読もうじゃないか!」
 この方が、少女は楽しく今を生きられるだろう。本について話をする時が一番、少女の瞳は輝き、美しく見える。
「お前が一番好きな本は何だ?」
「あ、えっと……」
 少女は私の突然の要求にわたわたと混乱していたが、本棚から本を取ってこちらへ戻ってくる頃には、今まで赤目の話をしていた事なんて、覚えていない様な笑顔を浮かべていた。
「この本です!」
 少女が私に手渡した本の表紙には、美しい青色の上に白色の文字で「空の色」と書いてあった。
「この村に住む赤目が書いた小説なんですけど、とっても面白くて……。何度も何度も読んでいるんですよ!」
「なるほど。さっそく読ませてもらおう」
 表紙をめくって、本を読み始める。少女は、本棚から別の本を取ってきて、私の隣に座って、本を読み始めた。
 ……ぺらっ。……ぺらっ。紙を捲る音だけの空間で、時間はゆっくりと流れていく。
 ふと、少女の様子を見てみると、微かに微笑みながら、私が見ている事には全く気付かず、本を読むのに夢中になっている様だった。
 ――なんだか、不思議な気持ちだ……。上手く表現出来ないが……。今、私が幸せであることは間違いない。
 今まで経験したことの無い心地よい感情に浸りながら、私は自分の本に目を落とす。

「ふう」
 ぱたん、と読み終わった本を閉じて、溜め息をつく。外はすでに暗く、窓から見える景色は、深い黒のみとなっていた。
 少女も、二冊目の本を丁度読み終わった様だった。そして、私が本を読み終わったのを確認すると、再び目を輝かせて言った。
「どうでしたか? 面白かったでしょう?」
「面白かった。初めて本という物を読んだが、こんなに面白い物だとは、思っていなかった」
 本心からの答えだった。
「じゃあ、こっちの本も読んでみませんか? きっと楽しめると思いますよ!」
 すっかり日も暮れていると言うのに、少女はまだまだ本を読むつもりらしい。このまま一緒に本を読み続けていれば、夜が明けてしまいそうな勢いだ……。健康を保つためには、しっかりと睡眠をとらなければならない。少女にその事を話した後。
「また明日も、来させてもらうよ。だから今日は早く寝るといい」
 そう言うと、少女は笑顔で頷いた。
「あ……。でも……」
 ふと、何かを思い出したように呟くと、笑顔が消え、初めて見せる哀しげな表情で言った。
「私、次の生贄に選ばれているんです……」
 突然の残酷な言葉に、動転する。
 ――次の……生贄? 私がこの少女を……食う?
 身体中から嫌な汗が噴き出す。唖然としている私に、少女は続けて言う。
「私が食われる日は、今日から五日後です。だから……それまでの時間を、できるだけあなたと過ごしたいんです……」
「ちょ、ちょっと待て。何も、真面目に神に食われに行く事、ないんじゃないか? 逃げる手伝いなら、私がしてやるから……」
「いえ、私は食われないと駄目なんです。これだけは絶対に変えられない。だから……」
「何故だ!? 何故お前が食われなくてはならない!? おかしいだろ!?」
 おかしいのは私だ。今まで赤目を食ってきたのは、私だと言うのに。私が村に雨を降らせ、村に宿るようになったから赤目が生贄にされる習慣が生まれたと言うのに。全ては私の責任だ……。
「ええ、おかしいです。おかしいんですよ……。赤目だけが食われて、普通の人たちは食われない。死んだ赤目たちは誰の記憶にも残らず、ただ村を生かすための道具として使われていく……」
 少女の哀しげに震える声を聞いた私は、自分を嫌いになれずには居られなかった。全て私のせいだ……。私さえ居なければ…。
 少女は続ける。
「だから……。私は神を殺す事にしたんです。そのためには、私が食われなくてはならないんです。」
 そう言うと、少女は本棚の方へと歩いて行き、下から二段目、左端から三番目の本を取り、真ん中辺りのページを開いた。その本は普通の本とは違い、ほとんどのページが長方形にくり抜かれており、そこに出来た空間に、透明な液体の入った小瓶が隠されていた。少女はそれを手にとって。
「これは、神を殺せる毒です。私はこの毒を飲んで神に食われ、神を毒殺しなければならないんです」
少女は私に理解出来るように、丁寧に説明する。そして私は、理解したくない事実を理解してしまう。
――何でこうなってしまうんだ? さっきまであんなに幸せだったのに……。
 少女が普通に祠へやって来れば、正体を明かして、食う事無く逃がすことが出来たが、毒を飲んでから来るとなると、逃がしたところで毒によって死んでしまうだろう、かと言って今正体を明かす訳にもいかない。村から逃げる事はしないと決めている様だし、少女を救う唯一の方法は……「毒を盗み、祠で少女を逃がす」だ。少女にとっては不本意な結果になってしまうが、そうする事でしか少女が生き残る方法は無い。私は少女を救う事を決意し、毒を盗む方法を考える。
 少女が毒を飲む予定の日は五日後なので、その前日の夜に盗めば問題無いだろう。
「そうか……分かった。五日後まで、この家に泊まらせてもらう事にするよ。いいか?」
「もちろんです! ありがとうございます! あ、もう一つお願いがあるんですけど……。いいですか?」
「いいぞ」
「私、他の人から人って認められた事が無いんです。だから名前を呼ばれた事も無くって……。だから……、これから私を呼ぶ時は、名前で呼んでくれませんか……?」
 申し訳なさそうに言う少女に、また胸が痛む。
 ――今まで、名前を呼ばれる事すらなかったのか……。
「もちろんいいぞ。何という名だ?」
「……茜。茜です!」
「茜。お前は人間だ。私はお前を人と認める」
 そう言うと、茜は目に大粒の涙を溜め、ぼろぼろと泣きだしてしまった。茜が泣きやむまで、私は茜の傍に居た。

 それからの四日間、私と茜は他愛も無い話をしたり、本を読んだりして過ごした。茜と色々な話をするのはとても楽しくて、私たちは生贄の事など忘れ、笑いあっていた。ただ、幸せだった……。
 そして、生贄の日前日の夜。私は茜が眠ったのを確認すると、置き手紙を残して、毒を盗み、玄関を抜ける。
『茜へ。私は、茜に死んでほしくないんだ。茜と過ごした日々は、とても楽しいものだった……。だから、毒は盗ませてもらった……。分かってくれ……。そして私は……この村に宿る神なんだ。信じられないかもしれないが……事実なんだ。だから、祠に来てくれたら、私はそこでお前を逃がす事ができる。茜が望むなら、私はこの村を離れるつもりでいる。明日、祠で返事を聞かせてくれ。』
手紙を見た茜は何を思うだろうか。哀しくなるのだろうか。愚かな私を許してくれるのだろうか。それとも、私を激しく憎むのだろうか……。私の選択は正しかったのだろうか……。
明日の事を思いながら、祠へと帰り、眠りに就く。


生贄の日、朝。茜の居ない空間で、目を覚ます……。夢は見なかった。……寒い。
それからは、祠の入り口をただただ眺めていた。茜が来るのを、ずっと待っていた。しかし、いつもなら生贄がもう祠へ来ている時間になっても、茜が来る気配は無かった。夜になっても、茜が祠に来る事は無かった。
――何故来ない……。何かあったのか……?
何かがおかしい。そう思った私は、茜と過ごした家へと向かう。夜だと言うのに、家には全く明かりが灯っていなかった。だんだん、私の内で嫌な予感が大きくなっていく。心臓が速度を増して脈打つ。私は、恐る恐る玄関の扉を開く。
そこには、いつもと変わらず本の山があり、茜は私がこの家で目を覚ました時と同じように、本の山の隙間で眠っていた。
――なんだ、眠っていただけか……。
安心した私は、安からに眠る茜の顔を見ようと茜に近づく。その顔は、作り込まれた人形のように白く、美しかった…………。

 
茜が呼吸をしていない事に気づくのに、時間はかからなかった。茜の傍には中身のない小瓶が転がっており、それは毒で茜が死んだ事を意味すると理解した。茜が手紙を見た時、何を思っていたのか。最期、何を思って死んでいったのか。茜が居ない今、知る術は何もない…………。
 その後の事はあまり覚えていない。ただ、赤目でない人間を殺すとだけ考えていた事を覚えている。私はいつの間にか狼のような姿に化けており、身体中は血まみれになっていた…………。
空虚な心。私はただ、声を上げて泣き続けるばかりで……。村には止まない雨が降る。

赤目と雨

ありがとうございました

赤目と雨

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted