閉ざされた時間
目次
一 視覚
二 密閉
三 真空
四 流域
五 放逸(ほういつ)
六 軽薄
七 流露
八 遺物
九 異物
十 蒼茫
十一 乱倫
十二 乾き
十三 死海
十四 不安
十五 畏怖
十六 分裂した聖域
十七 繋縛(けいばく)
十八 降下
十九 流星
二十 不快
二十一 修正
二十二 境界
二十三 そして、閉ざされた時間(終章二十三時)
一 視覚
覚醒したのか、睡魔のなかにいるのか、意識が確実に蘇って来ないことに不安を覚えた。未だ夢の中であれば目覚めることを必要とし、既に覚醒しているのなら、何処に居るのか、何をしようとしていたのか、眠っていたのか、起きていたのか、平成何年何月何日なのか、午後なのか、午前なのか、自分の置かれている情況や時間さえ定かでない。工藤雅生は必死に考えようとした。自分が置かれている情況を考えることで現況が解明され確認出来ると思った。しかし蘇生した意識が戻らない限り先に進むことは出来ない。雅生はもう一度周囲を見渡した。見ることに依って、距離感と忘れていた意識が戻るのではないかと思った。暫く時間が経った。そうか、伊集院綾が帰ったのだ。ついさっきまで布団に丸くなっていたが急に帰ると言った。そうであるなら確かに眠りに就こうとした時なのかも知れない。
「帰るわ」
と、綾は言った。声に張りは無く混濁しているようだった。
「終電は通り過ぎた」
と、雅生は言った。
「電車に乗ろうと思っていない」
「此処に居るのが嫌になったのか?」
「違う」
「帰るにしたって方法がない」
「歩いて行く」
「丘を越えるにしても十キロ以上ある」
「構わないわ」
「送っていかないよ」
「始めから期待していない」
「夜道は危険かも知れない」
「送っていかないと言いながら、そう言う言い方はないと思う。私を愚弄する積もり」
「悪かった。何故か分からないがもう会えないような気がした」
「そうね、明日の約束をしている訳ではないし、明日が来ることなど可笑しくて信じられないでしょ?」
時間は既に一時を回っていたが、手早く身支度を整えると綾は帰って行った。
その時から始まっていた。
雅生は閉ざされた時間の中で堂々巡りをしていた。狭いアパートの中から外に出ることも無く常時自分自身を自覚している苦しさがあった。しかし雅生の意識は未だ曖昧だった。綾が帰ってからどの位経ったのか、本当に綾とアパートの一室で一緒に居たのか不安だった。何故、急に綾は帰ろうとしたのだろう?
その瞬間、辺りは一瞬真っ赤に燃え上がった。朝焼けの光だと思ったが陽炎のようにユラユラと揺れている。熱風を受け、窓がピシッピシッと鳴いた。座り込んだまま居眠りをしていたのかも知れない。光は軈て激しい轟音に変わっていた。ガラス戸の向こうはメラメラと音を立てながら盛んに燃え、火の粉が飛び散り、コールタールの焼け爛れた悪臭が辺りに拡散している。燃え尽きるなら燃え尽きてしまえと雅生は思った。なまじ残滓が有れば人間は欲を抱くものだ。綺麗サッパリと燃え尽きてしまえば考え方もまた変わる。雅生は、「燃えろ、
燃えろ」と有らん限りの声で叫んだ。闇と炎の競演ほど刺激的で嗜虐的なものはない。燃え尽きようとする炎の中に真実がある。
「燃えろ、全てを灰にしてしまえ。そして、灰は風に吹き飛ばされ空中に拡散しろ。後には何も残すな。形ある物は必ず消滅する運命にある。崩壊するだけでは済まない。跡形もなく消えてこそ素晴らしいのだ」
「雅生も時には良いことを言うな」
「当たり前だ。見ろ、ガスに引火しただろう、今激しい爆発音がした。全てが焼き尽くされたとき人間は始めて真実を知る。そして、生きることの原点に還る」
「人間の原点かな、それとも執着への原点かな?」
「どちらでも良いではないか」
「負け犬の言葉を吐くではない。地上に生きる人間は選ばれた者だけである。炎の中から生き返ることが出来ぬなら死ぬが良い。おや、炎の中に一人の男が踠いている」
「あの中に人間が居ると言うのか?」
「確かにいる。悲鳴を上げているではないか」
「悲鳴を?」
「そうだ。多少の金品に執着する余り眺めることを知らない。炎の中に飛び込んだあの男は建物と一緒に消滅するだろう。選ばれていない人間としては当然のことだ」
「経営者か?」
「そうだろう、工場の隣に邸宅を構え住んでいた。物欲は人間の精神を堕落させ、見境を無くさせることに気付かない。とどの詰まり、斯う言う結果になる。雅生、呉々も言って置くが、お前は他に迎合することなく自分の本質のみを見極めるが良い。そうする時にのみ生きるに値するのだ。然もなくば、あの男のように炎に呑み込まれることになる」
「欲望は終末を迎える?」
「人間の五感は単に欲望を満たす為に存在する。操っている積もりでいても、実は欲望に操られていることを知らない。精神の内なる呟きを聞くのだ。本来的に必要なことと不必要なことを見極めるのだ。そうすることに依って雅生自身が現実に存在することが出来る。現実を確乎とした眼で見ることが出来る」
「現在の俺は欲望に操られていると言うことか?」
「そう言うことになる。全てを焼き尽くすあの炎を見よ。全てを失うことによって始めて真理が見えてくる。中心から拡散するのでは無く炎は中心に向かって収斂して行く。そして、燃え尽きたとき其処には何も残らない。無に帰するのだ」
「男は助かるだろうか?」
「無理だろう。所詮欲望の固まりに過ぎない男は、炎の中心に消滅してこそ誠実であったと言える」
「お前は何故、俺に語る」
「さて、私が誰で在るかと言う問いであるが、私はお前自身である。お前の生き血を吸いながら生きている。しかし二十四時間後に消滅する。それ以上お前の裡に居たとしても意味を持ち得ない。お前にとって必要なことを語るだろう。そして、綺麗さっぱりとお別れだ。二十四時間は永遠の時である。その時間が工藤雅生の生涯を決定することになる。しかし時間など本当は意味を持つことはない。唯、時間と共にしか生きられない人間には必要だが私には必要がない。時間を超えることの出来ない苦しみ、時間に拘束される苦しみ、時間に追われる苦しみ、時間こそが人間の生き方を規定する。そして、何時しか時間と共に朽ちて行くのである。しかし、何れにせよ時間を支配するときが来るだろう。そして、永遠の時を得ることになる。永遠の時、即ち死の時である」
「永遠の時、それは死の時?」
「その通り。全ての生命は無から生じ無に帰する。それが真理である。炎に焼かれているあの男を見よ。あの男は、これから永遠の時を得ることになる。苦痛など屁とも思わないのである。無の空間に還元されることに依って、人間としての存在から逃れることが出来る。苦痛も快楽もない正に無の空間である」
「お前は何故俺の裡に居る?」
「雅生、お前の意識外のことである。そんなことに一々構うことはない。残された時間は僅かである。お前は二十四時間後には一人で生きることになる。そして、全てを失う。何も無い空間で何も考えることなく、唯、時を送るだけである。視覚に写る事象は、お前の内面に値しないのだ。見よ!生きている人間どもを!彼等の一人一人が視覚に操られ生きている。彷徨っていることを知らず、日々に追われ、日々に埋没しているのだ。無為を無為と認識することも無く、虚空に彷徨う死人の群である」
「ひとつ聞きたいことがある?」
「何だ」
「何故、二十四時間後に消える?」
「好い加減にしろ。馬鹿野郎とは、お前の脳細胞にピッタリと当て嵌まる言葉ではないか。何の為に生きようとしているのだ。日々生きていたとしても何の価値がある。一日、二十四時間が他の物に取り替えられることはない。二十四時、それは存在しない時間でしかない。人間共にはたった一日あれば十分である。それ以上の時間は不必要な頽廃に支配された時間でしかない。お前が存在の軽佻さに気付いたとき始めて分かるだろう。しかし滓頭の脳細胞が果たして理解出来るだろうか、疑問だ」
「お前に愚弄される覚えはない」
「逃れられると思うのは間違いだ。自己の愚昧さから逃れようとするとき、人間は居丈高になるか分かった振りをする。最も愚劣な行為を日々している。雅生、お前がそれだけの人間でしかないと言うならそれで構わないだろう。理解されようとするのではなく、理解していくのだ。自分の行為の限界を知るのではなく、仮令、凡庸な精神のままであっても存在の原点に還るのだ」
「愚昧な日常とは、俺の精神の起点である」
「お前のことを馬鹿にしている積もりは更々ない。雅生、ぼやいても仕方のないことで限界は誰にでもある。しかしそれは生理的な限界であって知的な限界ではない。知的な限界を超えようとするとき生理的な限界をも支配できる」
未明のけたたましいサイレン音が鳴り響いていた。鼓膜を突き破らん限りの高周波は雅生の目の前で止まり放水が始まった。しかし火勢は弱まることは無くより激しさを増している。複数のサイレン音からして消防車は数台来ている筈である。しかし一台きりしか見当たらない。旋盤工場に向かって放水は懸命に続いていたが、水は上空高く飛び散っていた。地上の引力を利用して工場の真下に落下させようとしていたのか、しかし水は落下して行く間に霧散した。
地表面のあらゆる場所は同じ条件下で存在しない。何故、そんな単純なことに気付かないのか不思議だった。馬鹿の一つ覚えと同じように、一定の条件下でしか反応出来ないよう日頃から訓練されている為である。しかし消防士にとって、単に消火することのみが与えられた責務である。加勢は弱まることはなかった。始め透明な水のようであったが消防車は真っ黒い汚泥を放水し始めた。尿や糞、川底に溜まったヘドロなど辺り一面に撒き散らした。周囲はあっと言う間に悪臭に満たされ、密閉されている部屋にも関わらず、異様な臭いで雅生は窒息しそうになった。しかし、悪臭の中で幼い頃味わった懐かしい臭いを感じた。田舎道を歩いて行くと左右に馬鈴薯畑が拡がり転々と肥溜めがある。しかし人に出会うことも、人家の影も無く、燦々と午後の日が照り返している。其処で時めくような臭いに包まれている。しかし、一体何時の時代に生きていたのだろう、今時、何処に行っても肥溜めなど有る筈がない。
軈て真っ赤に燃え上がった工場は鎮火した。そして、辺りは又真っ暗闇に閉ざされ、一つの残骸も無く工場は消失した。見物客もいない火災現場にいても仕方が無いのだろう、消防士は手持ち無沙汰のまま帰っていった。しかし消防車には運転手しか乗っていない。消火作業をしていた連中は何処に行ったのか現場には誰も見当たらない。崩れ落ちる材木や壁の中に埋もれたのだろうか、それとも始めから消防車の中には誰も乗り込んでいなかったのか、雅生は不可思議な情景を見ていたのだろうか・・・。綾が帰り、火災が起き、誰かが語り掛けてきたような気がしたが定かでなかった。
二 密閉
見慣れた部屋の四方を雅生はジロリと眺め回した。此処に住み始めて既に一年が経っていた。小さな窓が一つだけの入口と出口が同じ狭いドアの付いている部屋、本棚と小さな机、簡易ベッドと団地サイズの台所、十二平米にも満たない空間、しかし此処は雅生にとってブルーの聖域である。
自分が見ていると思いながら一室に閉じ込められている情況は、見られていることと同じである。人間は時間の計測されない密閉された空間で、外界と遮断され、酸素と食事だけを送り込まれ、何日耐えることが出来るか実験されたことがある。部屋が広かろうと狭かろうと関係がない。情況を監視していた奴らは嘸かし面白かっただろう。見られる立場より見る立場の方が愉快であることに変わりない。しかし実験した奴らは、個の孤独、情況としての孤独、実験場の孤独の確実な分析を、自分自身を眺めながら問うたのだろうか甚だ疑問である。耐えることの限界は精神に歪みを生じさせる。しかし、見る側と見られる側の意識の逆転が行われることに屡々気付かない。見られることを意識しながら歩いている連中がいる。しかし連中は、唯見られることで快感を覚えているのに過ぎない。正に下らないことである。
意識の浮遊は、誰も知ることのない雅生の内的な言葉なのかも知れない。ブラブラ歩いて行くと公園があった。四方を壁に囲まれた公園にベンチが一つだけ有り、誰が座る訳でもないベンチは雨に濡れ所々ペンキが剥げ落ちている。雅生は濡れたベンチに腰掛け、ヌルッとした肌触りに全身の悪寒を覚えた。立ち去ろうと思った瞬間足腰に力が入らず、ベンチに縛り付けられたように動くことが出来なかった。傘を持たない雅生は雨に打たれ、頭髪から滴が垂れ始めていた。四角い公園、通り抜ける道は無かったが一人、二人と雅生の側を通り過ぎている。雨に濡れている雅生を眺め、さ然も不可思議な顔をする。夕暮れの公園は、いっとき人通りが多くなり誰もが雅生を愉快そうに眺めている。『見るな!』と怒鳴ったが人々の耳元には届かない。雅生には分からなかった。いつも眺めている筈なのに今は眺められている。不条理だと思っても情況が変わることはない。
見ることと見られること、見られることと見ることの相違、立場が逆転することの感覚は何時でも行われる。これまでの雅夫は常に見る側だった。物自体を対象として捉え、それに注釈を加えてきた。自分にとっての対象であり対象としての自分を捉えていた。しかし雅生の周囲には何もない。眺め回す部屋は、唯、空洞のように視野の先に何も映らない。
コツコツとドアを叩く音に雅生は目覚めた。地球の内部から聞こえて来るような重厚で静寂な音だった。頭の中で反響していた音に始め夢を見ているのかと思ったが、十分程経っても未だコツコツと音がしていた。目を覚まそうとすると徐々に遠退いて行くように感じたが、ベッドから降りると雅生は足音を忍ばせドアの処まで行き声を掛けた。
「一体、誰だ?」
「貴方そのものですよ。貴方の処に来ているからには貴方以外に有り得ないでしょう?」
「俺が俺に話をしているのか?」
「そう言うことです」
「俺はドアの内側にいる。しかし足音は廊下から聞こえてくる。それに、俺が眠ってからでないと聞こえて来ない。俺である筈がない」
「錯覚ですよ、音は貴方の内奥で響いているのです。コツコツとドアを叩いているのでは無く貴方の骨が互いに反響しているのです。それに、私は壁を叩いているのであってドアを叩いている訳では有りません。横になると骨同士が身体を支え合い重力をはね除ける。詰まり、その反動としてコツコツと聞こえるのです」
「好い加減なことを言わないで貰いたい」
「本当のことを言っているのに信じないのですか・・・?確かに貴方以外に聞こえないのかも知れない。しかし貴方以外には有り得ないでしょう」
「何故、俺に?」
「屹度、自分が恋しいからではないですか?」
「そんな筈はない。況して、俺の内部から聞こえてくるならドアの処まで行かなくても聞こえる筈だ」
「だから、錯覚と言っているのです」
コツコツと叩く音はその日から夜毎聞こえてくる。寝入る頃になると階段を上ってくる何人かの足音が聞こえ、夫れ夫れの扉の前に立ちコツコツと叩いている。確かに一定のリズムを取りながら他の部屋もノックしている。しかし部屋の住人たちは何故起きて来ないのか、夜毎繰り返されることを夢の中の出来事のように感じているのか、それとも俺以外には聞こえないのだろうか、もしも自分だけの声を聞き取ることが出来るなら、夫々の部屋に夫々同じ人間が訪ね、自分の声を聞き自分の叩く音を聞いている筈である。人生の終焉を喚起させようとしているのか、それとも無為な生活を慰めに来ているのか誰にも分からない。しかし夫々の住人は応えることは無かった。雅生だけが音に対して敏感である筈がない。だが、雅生には確かに聞こえていた。
「銭、銭、銭、銭だけが全てだよ。雅生、お前に俺の全財産を与えよう。お前こそ受取人として相応しい」
と、壁の中で老人は言った。そうだ、確かに老人の声である。しかし雅生の内部からの声であるなら雅生の反響音である。
「一体お前は誰だ。夜毎、俺の所に来ては眠りを妨げる。好い加減イライラしてきた」
「何を言っている。人間とは弱いものだ。自分の理解を超える出来事に焦燥感を味わい声を荒立てる。その位のことでイライラしているようでは大成出来ないだろう」
「余計なお世話だ」
「そう言うな、処で銭は必要だろう」
「金は必要なだけ有れば良い」
「若僧甘いな!金がなければ世の中通用しない。何をするにも金が物を言う。俺の全財産を呉れてやると言っているのに、何故欲しいと言えない。欲しい物が手に入り遣りたいことが出来るだけの金がある。酒を飲み、女と遊び、ギャンブルで明け暮れる。会社を作りたければ会社を作る。それとも出世する為に金をばら蒔く。好きなように使えば良いのだ」
「出世をしたい訳ではない。生きるに必要な、少しだけ食べ物が有れば良い。それ以上何を必要とする」
「ほほう、キリストじゃあるまいに戯けたことを言うでない。金が無いことで、どれ程多くの人間が命を落としたか知るまい。金の為に生き、金の為に死んで行く、それが世の常だ。それが理解出来ないようでは雅生も大した男にはなるまい」
「対社会的に生きるとき金は価値を見出すかも知れない。しかし今の俺には必要が無い。仮に有ったとしても価値を見出せない」
「弱気なことを言うお前は余程の馬鹿か間抜けだ。これから何十年会社で扱き使われようと金を貯めることは出来ない。しかし価値は金が決めることを忘れるな。社会の仕組みから外れたときお前は取り残される。そうなったとき、一体誰が手を差伸べてくれよう。誰も彼もお前とは関係がないように振る舞い、無視、侮蔑されるようになる」
「俺の人間関係は無意味と言うことか・・・?」
「当たり前だ。そんなものを信じても裏切られることが落ちだ。今必要なのは金である。俺の全財産をお前に呉れてやると言っているのだ。こんなに良い話がある筈がない」
「金額を言え!」
「自分で決めろ、欲しいだけ出してやる」
「今日喰えなくて明日死んだとしても構わない。何なら今日であったとしても意味を持たない」
「お前に必要な物は何なのだ」
「金でも女でもない。未来でもなければ現実でもない。何も必要としない」
「多分、俺は納得しないだろう。しかしお前の言っていることを分からぬ訳ではない。俺にも若いときがあった。確かなことは、自己の存在と現実の過程だ。日々の現実に自己を埋めて行くことで生きていることを感覚的に捉える。しかし金が必要だった。金が必要であることに気付いた俺は投資という博打に手を出した。金が入ることで時間を手に入れる。時間を手に入れたことで関係性を断ち、束縛されることのない個としての自由を手に入れた」
と、老人は幾分同情を仕始めた。
「金の力が永遠を約束すると言うことか?」
「そう言うことだ。金がなければ日常に埋没していく。雅生、お前が考える時間を手に入れる為には金こそが約束する。観念は所詮妄想でしかなく、具現化させる為に日常を自分の物とする。詰まり、金以外に無いのだ」
「そうして、人間は堕落の道を歩んできた」
「幾らか分かってきたようだな若僧、俺のことを零落した老醜だと思っているだろう。しかし俺に従うことで現実を手に入れるのだ。密閉された情況では幻覚を見、幻聴を聞く。しかし閉ざされていることを意識下に置くときはこの限りではない。それが出来るのは金であって日常と来るべき未来を支配するのだ。これ以上言うまい。俺の言うことが信用出来ないのならそれで良い。このまま朽ち果てるが良い」
「狭い部屋で一人生きている。それが悪いと誰に言える。俺がこのまま朽ち果てたとしてもお前には関係がない」
個々の歴史など所詮過去の遺物となり意味を持つことはない。そして、現在さえ過ぎるものである限り意味を持たない。要するに総てが意味を持たないことになる。意味を見出そうとするから生きるのか、否、考えることなど無いから生きるのだ。抑圧され、圧迫されていることに気付いている人間はいない。日々生きることに精一杯で、他のことに気遣ってなど生きてはいけない。日常は考える必要は無く、行為の全てが組み込まれ、唯単にそれに乗ってさえいれば良い。また、煩わしいことに悩むこともなく人間とは何と便利な生き物だろう。生理的に生きているのであって一日が終わり眠りに就く。空間を意識下に置くことなく生きているのが動物であり人間である。永遠に続いて行くと思っているが良い。生活に追われ日常に埋もれることを唯一の生き甲斐として送れば良い。人生などこれ程簡単なことはなく、百人居れば百人の生があるなどと嘯く必要はない。
雅生は立て続けに煙草を銜え狭い室内は霞が掛かったように煙で朦々としてきた。換気扇は廻っていたが役立たず、天井付近は既に黒茶に染まっている。雅生にとって、紫煙の中に遊び紫煙の中に意識が見えて来ることがあった。微粒子が集合体を作ることで一つの物になる。しかし煙草の、煙の中の分子が一粒一粒見え空中拡散してしまう粒子の中に一瞬の人生があった。
三 真空
固定しない限り位置関係の定まらない空間がある。部屋に漂う紫煙のようなもので、掴んだと思った瞬間掌から消えている。雅生は自分の置かれている位置の確認をしようとしたが宙ぶらりんの状態で自分自身を確認出来なかった。意識する意識の確認が出来ないまま、意識の内部では複雑に交錯した曖昧な状態が続いていた。しかし何も無ければモヤモヤしたままで良い筈である。
午前三時、目覚めるには未だ早すぎる時間であり、雅生の脳細胞は吐きそうな不快感に襲われていた。
「なあ、雅生」
と、深い皺を寄せ濁声で老爺が言った。始めから老人であったかのような、擦っても擦っても消えそうにない深い皺が両頬に刻み込まれていた。人間は加齢と共に老化していくのが普通である。しかし若年だった頃の面影は微塵も無く、生まれた時から老醜を晒していた顔面である。
「何の用だ」
「用がある訳ではない。何れ朽ち果てるまでの短い人生である。私はこれまで生きようと踠き苦しむ人間たちを見てきた。しかし誰一人として生き返ることはない。せめて臨終を迎えるときは静かでありたい。そう思わないか雅生・・・?」
「雅生さん、目を覚ますのよ。臨終を迎えるまで貴方らしく生きなくてはならない」
老婆の声も酷く聞き取りにくかった。
「五月蠅いな」
「早くしろ、午前三時、起きなければ間に合わない時間だ。この機会を逃せば最早永遠の時間は得られない。若僧には分からないかも知れないが俺たちは百二十年生きている。その全ての時間を充足しながら生きている」
「そうよ、雅生さん。私たちの言うことに間違いない。人間には失ってはならない時間が必ずある。正に今この瞬間がそうよ。それが分からないなんて・・・」
老婆は深い溜め息の中にいた。
「老残(ろうざん)の身であってもお前より増しである。長く生きていることが知識を蓄え生きる術を獲得する」
「老耄(ろうもう)が戯けたことを言うな!」
「何れ、誰彼となく老醜を迎える。俺たちは加齢の速度が早過ぎたのに過ぎない。しかし、そんなことは何の意味も持っていない。美の瞬間、知の瞬間、闘争の瞬間、あらゆるものが一つの瞬間を持っている。その瞬間を失えば内的な崩壊を迎える。しかし気付くことの無い人間の生は充足することはない。何時まで経っても充足しないことを生きていることだと錯覚する」
「そして、どうなる?」
雅生は老人の話に興味を持とうとした。
「一瞬一瞬の積み重ねが人生ではない。捨てるのだ。その時こそ生きる価値がある。大体生きていることは自我の集積ではないか・・・。集積が故、蓄え、身を纏い、鍵を掛け守ろうとする。守ることを生きることだと錯覚しているのに過ぎない」
「秩序があり、家庭があり、社会があり、人々が集う」
「それがお前の言うことか・・・。お笑い種だ。求める物はない、失う物はない、得る物はない。所詮、何もないのだ。目覚め、自らの生きる地平を求めなくてはならない」
「闘うのよ」
と、老婆は急いだ。
「木々は木々の必要とするように均衡を守り、鼠は鼠の必要とするように均衡を守り、蟻は蟻が生きるように均衡を保っている。総ての動植物が互いに均衡を保ち領分を侵すことなく生きている。領分を侵したとき、瞬間的な繁栄の後消滅する。人間共は不可侵条約を結びながら相手の隙あらば侵略を繰り返す。しかし勝ったところで儚い夢であることに気付かない。俺は侵略と権力闘争である民族の闘いを許容しない。しかし土地を奪われ、女を陵辱された民族はあらゆる武器を持って戦い、自らの血を、地を取り戻さなくてはならない。相手を殲滅(せんめつ)しなくてはならないのだ。闘いの中に今日があり明日がある。闘争意欲を失ったとき、生きるに値しない地獄が待っている。闘いの中に自らの生き方を見出したとき、始めて人間としての価値が生じる。知能と、両手両足を持った人間としての価値がある。闘いの中から真理が真実が見えてくる。疑うことなく闘うのだ」
「最早、何もない」
と、雅生は怯んだ。
「目先のことに執着しながら生きている証はお前自身が持っている。お前のような輩がウヨウヨいることが問題なのだ。互いの利益の為に人間は相互利用した。その利益も、自分の方が相手よりも若干でも多いと判断してのことだ。また、付与されることが人間としての文化なら、裏金を得、享受する人間は醜い。与えられることを期待して、阿る(おもね)、ごねる、拗ね、生活の基盤を築いていく。そして、結束することが知恵であり、利益を得、困難を凌駕できると思っている。お前も、お前の仲間も無為を求めながら利益は何処に有るのか探し続けている。しかし、生きることは裏腹の知恵しか持てず、曖昧さが人間の生き方を規定する。曖昧さは自分の立場を利用することで成り立ち、生きる知恵であり生き方である。しかし曖昧であるとき、其の人間は既に死滅した生き方を持つことになる。自分の立場を明確にしないことで生きる方向を探る。曖昧さこそ、調子よく生きる最大の武器であり、追認追従することで、選択を避け尻馬に乗る。感情も感覚も捨て去れば簡単である。そんな物を持っているから人間として進化しなかった。喰う為に生き、生きる為に喰うのだ。弱肉強食の社会にあって感覚など問題ではない」
「俺には何も出来ない。曖昧であることで自己を許してきた。感覚を信じ感性を信じてきた」
「雅生、感性とは感じとる人間性のことである。印象とは情況を留めることであるが、感性は感じ発展的に思考していく過程である。感じることは、ある一定の条件の下で感じるのではなく、何時、何時であっても瞬時的に反応を示し行動している状態で、自分の体内を稲妻のように戦慄が走り抜けている。そして、瞬時的な記憶は肌で感じ脳内に仕舞い込まれる。それらは二度と脳の中から放出することは無く、発展的に、機械的に処理し蓄積していくものではない。同じ時間、同じ体験をしても、人それぞれ感じることは違う。過去に繋がるか、現実に繋がるか、未来に繋がるか、何も思わないこともある」
「雅生さん、現実は貴方しか居ないことを知るのよ。そうすれば貴方の時間を貴方が生きていくことが出来る」
「時差や場所の関係で時間がずれていても、誰もが同じ時間を生きている。しかし、誰にとっても時間は同じ筈ではない。仮に同じ時間を生きていても時間の感じ方は誰もが違う。恋人に会っているときは短く感じ、手術室の廊下で、手術の終わるのを待っている時は長く感じる。これまでのお前は一日を充足するような時間を生きていた。しかし老いるに従って間延びしたような時間を生きることになる。確かに感じ方が違う以上同じ時間など何処にも有りはしない。全ての人間は孤立的に生きているのに過ぎず、誰もが夫れ夫れの時間を生きている。そして、死ぬ瞬間まで個々の時間は続き、死んだとき、始めて生きている時間が止まる。人間とは儚いもので、誰もが自分こそは究極の時間を生き、常に充足している時間を生きていると錯覚している。しかし、堆く積まれた死体の山を見るが良い。其処に果たして究極の時間があるのか・・・?雅生、お前が目指している時間は決してそのようなものではない。眼前に置かれるあらゆる情況は日々変化する。変化する情況を真に受け止めなくては個の時間は成立しない」
「始めから分かっていることだ」
「しかし、受け止めるには受け止められる感覚が必要である」
目も眩むような閃光が目の前を通り過ぎた。一瞬辺りは真昼のように燃え上がり又闇夜に戻っていた。雅生は頭の中がクラクラしていた。未だ残光が残り、瞳孔を一瞬焼かれたように思った。暗闇の中で辺りを見渡してみたが何も見えない。自分が何処にいるのか、何をしようとしていたのか思い出せなかった。
老醜が辺りを包摂していた。しかし、老醜は数分後の自分自身であり行き場のない観念であった。生きるとき、死ぬとき、自分を繰り返し越えなくてはならない。そうして行かない限り必ず自身を許容する。そして、いつの間にか自身を見失い時間の中に埋もれてしまう。行動しなくては為らないと思っても出来ない。止揚するどころか頽廃の一途を辿る。固定化された観念は、消滅せず知らぬ間に元のもくやみに帰するのである。新しいものを受け入れている積もりでいても、何らかの形でこれまで許容してきたものだけであり、内在化している観念の許容範囲で、理解し与えることしか出来ないのである。
人間の心理は新しいことに対して拒否的である。拒否することで自分の立場を守る。知識にしろ、生活にしろ、学問にしてもなかなか受け容れられない。固定観念から脱却することの困難さは誰もが知っている。況して、自分の意見ほど素晴らしいものはないと思っているとき、又、経験論を論じるような場合、又、自分の知識を振り翳そうとするときなど、固定観念の化け物であると言って良い。固定観念に縛られているときこそ自分の真価を発揮すると思っている。
雅生は暗闇の中で自身に問うていた。
「雅生、諦めたら如何かな・・・?」
「お前の言う通りかも知れない。類を求めようとしていた俺が間違っていた。一人では生きられないことは分かる。それは、生命保持の為だけであって、それ以外にない。生きることと生活することの差異を分かっていなかった」
「一人でのんびりと生きるのが性に合っている。無理に迎合しようとするから齟齬を来す。死んでいくのに必要な物が無いように、一人で居るが良い」
「お前は死ぬまで一人なのか・・・?」
「そうだ。地面を這いずり回り獲物を探している。大都市の中で仲間に会うことはない。寿命が尽きるか事故死が待っている。何を望んでも始まらない。そもそも生きようとすること自体が下らない範疇に属する」
「そうかも知れない」
「そうだ、生きていることも死んでいることも問題ではない。如何に生きるかなど戯言に過ぎない。人間の妄想が作り出したことであり、目的のない人生こそ人間にとって相応しい。個の歴史は類の中で消滅してきた。残すものはない。仮に物質的に精神的に残ったとしても消滅する。雅生、執着すべきことは何もない」
暗澹たる時間が過ぎていた。夜中の三時、やるべき事は何も無かった。
四 流域
雅生が行動していることは意味の無いことであり、意味が無いから余計夢中になる。始めと終わりのない中間地点の直中で前後に進んで行く必要はない。閉ざされた流域の中で、知恵が知識を蓄え知識が生き方を変えてきた。そして、辛うじて現在を生き延びている。しかし生きることの利益を追求することで、個々の人間の存在は忘れ去られる。日常と言う言葉を聞いただけで確かにうんざりする。しかし日常のみが雑多な問題を抱えながらも進んでいく。また、予定したことや予想していたことが一瞬にして変わる出来事がある。変わるように変わるのではなく全く反対のことになる。幾つもの坂道を乗り越えこれで終わりだと思ったとき、目の前に泰然とまた山が現れたりする。しかし日常とは、変わることも替えることも出来ないものでありながら簡単に変わるものである。
生活の接点を求める為に一日が有り、一日が継続していくことが日常である。淡々と続く平々凡々とした日常は若者を加齢へと押しやる。しかしそれが生きてきたことの証である。そもそも人間が生きているのは、一分一秒と言う時間であるが、日常はその時間さえも忘れさせてしまう。しかし、情況事態が閉塞されている限り出口のない日常となる。そして、行き着く先が自身の中で見出されない限り、日常に淀み沈殿していく以外ない。雅生は深みに填っている自身を見ていた。
「何故なの?」
と、綾が言った。
「俺には時代を切り開く力も体制に対峙する力もない。一人も集団も同じ事かも知れないが、圧縮された意識は元の状態に戻ろうとする。しかし元の状態とは平々凡々とした日常に過ぎない。町工場で働き、田畑を耕し、漁民が日々の生活を得る為に漁に出ることと変わりがない」
「それで良いと思う」
「連綿と連なる日々は俺にとって足枷に過ぎない。二十二年間、その呪縛から逃れることなく生きてきた。一人一人の個は単体として求め死んでいく」
「それは人間の存在のことだと思う。如何に存在するのではなく存在することは知と共にある。知ることが人間の存在を変えようと変えまいと関係ないが知らなくてはならない。そして、知る事に依って始めて先に進むことが出来る。雅生が何から逃れようとしているのか私には分からない。でも、行く先だけを追い求めたとしても始まらない」
「俺は生命の終焉を見たかった。このままで行くと、俺の生命の終わりを見ることになる」
「貴方の存在など何にも関係がない」
「衝動的な思いではなく地球が破壊していく姿を思い描く。遙かなる時の流れが体内で疼くとき、俺は最早地上の存在で無くなる。歴史は体内で構築され自身を遠く眺めるだけになる。歴史を創り上げ、俺の生命としての歴史が此処にある。これこそが自身に一体になることの出来る瞬間である。綾、個が人類の生命保持の為の誤差なら、俺たちが生きていることには何の意味もない」
「そうね、あらゆる場所で飢餓と戦争が続いている。為政者のみが類を操作して笑っている。個の感覚や感情などは収斂され表現されることはない」
「全くお笑い種だ。元々生きる範疇には存在しない」
「でも、雅生はその場を求めようとした」
「価値と言うものは過去に於いて不思議なものだった。必要なときには価値があり不必要なときに価値はなくなった。価値は必要か不必要かに依って決定的に決まる。要するに、時代、市場、考え方、政治情況や歴史、その人の思考の中で転々と変容してきた。転々としながら昨日までは捨てられ、今日は価値があるような、実に相対的なものだった。価値自体、絶対的な価値はない。後生大事に守っていても、一瞬後には全く邪魔な代物になる。時の為政者に沿うように変わらざるを得ない価値に惑わされていた。俺自体、時の中に捨てられ、既に何もないことを知るべきだった」
雅生の言葉は途切れていた。
当てのない道を真っ逆様に落ち込んで行くような感覚に捉えられ、其処は、流域に流れ込む川底だったのかも知れない。雅生は振り返ることなく地底に潜って行った。暗闇の中に川が流れ、川は、細かい川筋を合流させながら地底湖に通じていた。
三坪ほどの湖水には数匹の川蝦が遊んでいる。暗闇の中から一歩も外に出たことのない蝦の目は既に退化し無くなっていた。触手だけで情況を感知出来るように進化したのか、暗闇の生活の為、視力を使う必要が無く退化したのか、退化することも進化することも同じことで、蝦にとって環境に順応して行くことが生きることの知恵だった。地球で生きて行く為の順応で、進化を繰り返していると思っていたのに、いつの間にか退化の方向に進んでいる。雅生も川蝦も何も変わることはない。今まで必要だったことが必要で無くなり生きて行くことが出来る。条件を受け入れる度に、葛藤しながらも其れを押さえ込んでしまうように、体内の一つ一つの細胞が働いてしまう。川蝦は最早この環境を受け入れたことで、自らの生きる地平を閉ざしてしまった。そして、雅生も順応して行くことで最早生きるに値しない。
「其れで良いんだよ」
と、川蝦は雅生を慰めようとした。
「分からない」
「環境に順応していくことは俺一代で出来たことではない。この地底湖が出来、俺の祖先は上流から流され、此処に留まるしかなかった。陽の見える場所に遡上出来ず随分悩んだことだろう。時が過ぎ、何時しか流れは地下水だけになり、二度と元の川に戻ることが出来なくなった。一つだけ救われたことは、地底湖に天敵の魚がいなかったことで、襲われ食われてしまう心配がなくなった。地底湖の暗闇では見る必要はない。俺はこの洞窟から生涯出ることは無いだろう」
「安逸な暮らしと、敵がいないことで安定を求めた」
「俺の祖先を許すしかない」
「仲間たちはいるのか?」
「地底湖は幾つかまだこの奥にあり、夫れ夫れの湖水には俺の仲間が群をなしている。しかし、生命を持続させて行く為の必要な数しかいない。俺たちは少ない数で永遠を生き未来を取り込む。地球が破裂するか、地殻変動で環境が変っても順応して行くだろう。其れが生命を持ったことの勝利で有り権利である」
「生命を持ったことの勝利だって?」
「そうとも、生命は無から生じた。時を経、姿、形を変えてきた。順応出来たものだけが勝利を掴み取る。失われし生命は二度と再生することはない。そして、個は個としては生きる資格もなければ生き延びて行くことも出来ない」
「群を持たなくては生きていけない。其れは真理かも知れない」
「単体は滅びていく。生きる為に群と環境に馴染むしかない。しかしお前には出来ないだろう」
「死ぬものにとって未来は有り得ない。個は単体としての個であり他の在り方として存在することはない」
「新しい生命は今後生じることはないだろう」
「何故そう言い切れるのだ。人間は日々破壊と再生を繰り返している。有機物としての生命は日々造られている環境は有るが、しかし俺とは関係のない出来事である」
「生きているものにとって、先行取得の権利と持続の権利がある」
「何故、前提として生きることしか考えないのだ」
「種を残すことが生命を持ったことの証である。体内に眠るDNAは生命の危険が冒されるとき目覚める」
「たかが地球上の出来事である」
「尊いとは思わないのか?」
「思わない。偶然生まれ偶然死ぬ。俺にとってそれ以外にない。生命は個のものであり他に有りようがない」
「しかし、何の為に生まれてきたのだ」
「人類という生命を持続させる為であり数合わせに過ぎない。それは領域の誤差に過ぎない」
「お前が生きていようと死んでいようと関係ないことになる」
「そう言うことだ」
「闇夜に泳ぐ俺たちは何の為に生きているのだ」
「意味など無く、連綿と継続されたDNAは朽ち果てる。人間にとって、他の生命は利用され喰われることのみ価値があり、一センチにも満たないお前達は何の役にも立つことはない」
雅生は闇夜に泳ぐ蝦を自らに重ね合わせていた。人間に生まれた自身も、盲目の蝦も、領域の誤差である限り同じ運命であり、何の意味も無く淡々と死んでいく姿が見えていた。しかし誰にでも訪れるもの、それが死である。幼くして死ぬとき、これから生きようとするとき、老いて迎える老衰など、自分だけの病気や事故死があり、他方、人の手により生命を無くすこともある。何方であっても個体としての生命はその時で終わる。死はいつ、何時どの様な形で訪れるか分からない。誕生と同じようにただ一回限りである。一回限りであることに依って自身を意識する必要は無く、要するに死は一切分からない。分からないから人々は不安を覚え、狼狽え、忘れようとし、また解明しようとする。しかしそれは他人の死であって自分の死ではない。解析も解明も出来ない限り価値のない無意味なことになる。想像することは勝手であるが、宗教を称える輩はそれに信憑性を持たせる。仏教であれ、キリスト教であれ、あらゆる宗教や密教、果ては占いに至るまで死に関して論じたがる。不毛な言語を尽くし論争してきた。死体が喋りでもするなら死について確実なことが分かるだろうが、その様なことが事実としてあることはない。死は個々の細胞活動が停止した状態であって、人間が感情を持ったことで死に対して意味を付与するようになった。感情を持つことがなければ死は単なる死である。
生死を決定できるのはその個人である。しかし、往々にして植物人間になったときや、寝たきり状態で、人の手助けが必要になったとき意志表示が出来ない。生きたいのか、死にたいのか判断出来ないままベッドの上で点滴栄養剤や流動食と共に生きている。生きているのであろうか、否、生かされているのに過ぎない。益して現在の医学では幾らでも生かしておくことが出来る。しかし人間には幾つか感情がある。喜怒哀楽から羞恥心、虚無感、頽廃感、喪失感など、しかしそんなものが、ベッドの上で横たわっている物質としての人間にとって一体何の意味があるだろう。雅生にとって、そして、人間にとって生きる意味を見出すことはない。暮れていく夕陽を眺めていることや、夜毎酒でも飲んでいる方が益しである。
五 放逸(ほういつ)
気圧が低くなっていく毎に雅生は腰や四肢に気怠さと痛みを感じていた。一ヘクトパスカルの微妙な気圧を感じるような身体構造になっていたのかも知れない。身体が敏感になるに従って、脳の構造が乱れ思考力が落ち睡魔が襲ってくる。街中を彷徨いている時も、椅子に腰掛けている時も気付くと眠っていることがあった。虚脱感と倦怠感に意識が朦朧とし、四肢の先から意識が解き放たれ、自分自身を意識出来なくなる。そう、放逸の時である。自分を見失うときこそ快楽である。しかし明日は予定が、約束があるとは何と言う苦しみだろう。明日さえなければ救われる。今日で世界が、否、自己の終焉を迎えるなら苦しみは無くなる。一日ゆっくりと休息するが良い。何も思わず考えず、時間の過ぎて行くのを眺めているが良い。
雅生は降り出した雨に抵抗することもなく窓から眺めていた。しかし遅々として時間が進んでいなかった。一秒たりとも無駄にしない雅生にとって好都合だったが、時間に置き去りにされたような感覚になっていた。捉えることの出来ない時間があるなら、それは雅生が死してからのことである。
淡々と過ぎる日常は、縦の移動では無く横への移動に過ぎず、何処に行こうと、日々を重ねようと、平面の上をグルグルと回っているのに過ぎない。昨日も今日も同じことで、一年前も一年後も同じことである。ピョンピョンと蛙が飛び跳ねているような、社会的な日常、政治的な日常、起こり得る事件も事故も、一年前の内容も十年前の内容もさして変わりがない。百万人の人間が行うことも、世界中の人間の行うことも変わらず、何も変わらないことを、如何にも変わっているような感覚に陥るのは、惰性から抜け出したいと言う人間の欲望、希望である。新聞記事は、住所と名前を変えることでこと足り、日常と言う歴史は既に死んでいる。同じ事を繰り返すことで、個としての進歩も人間としての進歩も有りはしない。そして、何時の日か、個として人間は滅びる。
宇宙の歴史も縦への繋がりではなく横への拡がりでしかない。左右にずれ歪んだまま拡がって行く。星々の煌めきも、生命も、道端に転がっている石ころも価値は無く、何も変わらない同じことの繰り返しでしかない。
「俺であっても、お前であっても関係がない」
と、雅生は言った。
「個としての現実や理想がある。日常は個の物であり他者との入れ替えは出来ない」
と、木戸良一は応じた。
「理想と現実のことなどどちらでも良い。より高い地位や賃金を得ようとして日々努力と勤勉を重ねて人間は奔走している。何の為に?俺がお前にならない為だ。そうせざるを得ないように社会が成り立ち、上り詰めて行くことに心血を注いでいる」
「座右の銘、箴言、家訓、教訓、遺戒など、人は戒め守るべき事として幾つかの人生訓を持って暮らしている。人生の指針として、また、家や商売の守護神として大切にしている。短い言葉の中に人生の全ての価値と生活上の教えとして依拠している。そして、依拠することで安堵感を得ている。しかし、短い言葉に縛られていることに気付かないまま過ごしている」
「要するに一々考える必要はないと錯覚して邁進している」
「人生訓は凝縮した言葉であり、社会にとって、より志向的な人間を育て上げる必要なものである。その言葉を大切に守り信奉して行くことで、依り良い人生が待っていると言って良い。そして、その言葉は本来的にその人固有の物になり、個々的な差異があったとしても懸命に生きることが出来れば良い」
「阿呆が人生訓を披露して、素晴らしい生き方であると信じ、御都合主義を持ち出す。親が子供を説得するときの条件に使い、生活上不都合を生じたときに使用する。人生訓とは随分便利な利用価値を持ち、その人間個人の言葉で語る必要もなければ考える必要もない。信念とか信条なども同じように使われ、依り良き人生を送る為の方便であり行動を規制する概念でしかない」
「無駄な日常が続いている限り生きているとは言えない訳だ」
「良一、お前など取るに足りない人間でしかない。日常を享受していることに意味などない。俺は幾つか旅に出た。何処に行っても人々の住処しかない。都会であっても温泉街であっても、人々の住処に旅しているのに過ぎない。何処に行こうと、無人島に行かない限り人間たちから逃れることは出来ない。個とか、個の存在とか嘯いても、人間たちに囲まれ、人間たちの力によって生かされている。人間たちから逃げ出すことは不可能であり、行き着く先には人間たちが細く微笑んでいる」
「単一的な情況のみが戯言(ざれごと)を言える」
「そう言うことだ。良一、お前に再会する一日前のことだった。俺は情況として閉ざされ、強烈な日差しに体内から水分が蒸発し、一滴一滴と指先から水が垂れていた。俺は干からびて烏賊(いか)の干し物のようになっていた。脱力感と意識が朦朧として行くのが分かった。水分の蒸発が進み一定限度を超せば死ぬ。干涸らびながら死ぬことに不安はあったが最早考える力さえなかった。人間であることよりも生物であることが先行している。人間などと、戯言が言えるのは衣食住が満たされ多少の金を持っているときで、食うや食わずの生活を強いられているとき、悲しみだの、愛だのと言っても無意味なことだ。その時の俺は、炎天下の中で意識さえ失われつつあり、ヒリヒリとした身体の痛みも遠退いていた。死の瞬間が近付き、生きたいと言う思いは無かった。過去は遠退き未来は無意味である」
「そして・・・、」
「激しい睡魔が襲い、前のめりになりながらも耐えていた。しかし自己を意識する感覚は途絶え考えることが出来なくなっていた。白昼夢を見ていたのだろう、親子らしい二人がキャッチボールに興じていた。何処にでもある風景で、日中の明るいときなら誰も不思議がることはない。しかし星も月も出ていない真っ暗闇の中でグローブに受けるボールの音がパシッパシッと響いていた。闇夜のキャッチボールは朝方まで続き東の空が薄明るくなる頃に止めた。不思議なことに、キャッチボールをしている間中二人は一言も喋らなかった。俺はその光景を側でジーッと見ていた。彼らは俺が居たことを知っていた筈である。確かに何度も何度も俺の方を振り向いていた。無視されたことが逆に俺を刺激したのだろう、俺は二人に向かい殴り掛かった。しかし、その瞬間二人の姿は消えていた」
「雅生、お前は夢と現実の間を彷徨っているだけで、目的も意味もない生活をしているのに過ぎない。現実は益々遠ざかり、自分自身を統制出来なくなっている。このままでは、何れ自らを失うことになるだろう。青春を徒に浪費して何になる」
「二十二歳の青春が終わったとしても一時の出来事に過ぎない。無駄な時間を過ごしている俺にとって関係ないだろう」
「自己を意識下出来るか出来ないかは個の問題である。ただ情況に左右されながらも常に一定の地平で考えなくてはならない。でなければ肉体が物体として存在しているのに過ぎない」
「下らないことだ」
「そう言うな雅生、自己の意識下を認識できる奴は少ない。俺たちは常に対象を眼前に置き問うてきた」
「それが間違いであることに気付くこともなかった。青春を謳歌している奴等とさして変わりがない」
「確かに日常生活に於いては殆ど素通りしてしまう。意識下しなくても何ら不便は無く、欲求を満たす為には代えって余計な物になりかねない」
「俺は鏡を前に自問する。悲しげに笑っているのか、辛辣な顔付きなのか、呆けているのか、何れにしても俺自身であることに変わりがない。生活することに放逸(ほういつ)であっても、構成する意識をバラバラにするほどの知恵もない。所詮、俺にとって生きることなど問題外である。生きること自体に付与させるような意味も目的もない。一つ一つの情況と、自らを対話させ切り開いて行くことなど人間の行為ではない」
「生活に放逸であっても、取り返しが付かないような情況を作ってはならない。濁流に財布を落としてしまったような場合、濁流に飛び込むことは出来ないだろう」
「そうかな・・・」
「免許証などは再申請をすれば新しい物が手に入る。しかし失った一秒は戻ることはない。確かに限界は有るのかも知れない。持続的な意識を持ち続けることの困難さ、日常を克服していく困難さ、エトスを持てないと思う」
「取り返しの付かない状態になっても仕方がない」
「たった一回きりの人生、悔いが無いことが求められる。運命と言う進化がある。そう、何もかも運命であるから仕方がない。これもあれも運命だから逃れられないと、運命に責任転換することで自己から逃れようとする。自らの責任を逃れ、諦め、運命という言葉に将来を託す。即ち運命によって自己決定が出来未来が見えてくる。運命は人の生涯を支配して生活を規定する。しかし、そのことを真っ向から否定出来ない」
「何かに依拠しなければ生きることは苦しい」
「自己から逃れる為には、他者に依存するか、麻薬に手を染めるしかない。でも、それで良い。要するに虚構の社会の中では自己の存在を確認出来ない。社会は既に消滅している。其処から這い上がるのではなく依り深く埋もれて生きるより仕方がない。そうすることが唯一人間性を取り戻せのかも知れない。雅生、お前にとって依り生き難い社会が待っている」
「時間が過ぎて行く」
「残すのではなく時間を取り込まなくてはならない。意識する意識は常に自分自身を捉えている。現在自分が行っていること、考えていること、感じていることを確実に認識している状態である。行為は無意識になされるが、意識は衣食住や、他者との関係である日常生活上必要は無く、一般的に、自分にとっての利益、不利益に関わってくる場合のみ意識することになる。その他の場合は無意識の内に行っていると思っても過言ではない。単に日常を生きているのであって、水が川を流れている状態と同じである。しかし日常生活に於いても常に意識する意識を持たなくてはならない。意識しなければ全てが眼前を通り過ぎて行く。確かに日常を意識することで色々なものが見え感覚が磨かれてくる。雅生、何れお前は自らを脱却するだろう」
「遠い存在の果てに行き着くことがあるだろう。しかし意識はその果ての地点で途絶え死滅する。堪らないと呟くのか、仕方がなかったと呟くのか、俺は、精神の上昇と下降の過程を繰り返しながら行き着くかも知れない。しかし今の俺は、泥濘に填り込んだままである」
時間だけは過ぎていた。取り返しの付かない時間なのか、取り戻すことの出来る時間なのか、雅生には分からなかった。
六 軽薄
ホレホレホレ、ホレホレホレ、ホレホレホレと薄気味悪い笑い声がした。雅生はイライラしながらカーテンを開け正体を突き詰めようとしたが、しかし其処にあるのは自分自身でしかない。一睡もしないまま時が過ぎ窓辺に黎明が近付いていた。爽やかな夜明けだと言うのに笑い声は徐々に大きくなり、南風と重なり合いながら雅生の胸糞を悪くさせる。
「時間の経過と共に意識は死滅していく。それは、生きる姿を生み出すことのない時間を作り過去の残像さえ残さない。そして、無為は自身のなかで創り出され抵抗する術さえない。自責の念も無く、俺はそんな生活を続けている。これで良いのかと問うても答など有る筈がない」
と、圭一は言った。
「求めても、求めなくても与えられないだろう」
「何もかも忘れて今の仕事に没頭できるほど単純でもない。しかし、先が見えないことには智子との生活を継続していけない」
「別れるより仕方がないのかも知れないな」
「そんな単純な話なら良いがこれまでのことを精算出来る筈もない。智子が求めている物を俺は壊してしまった」
「子供が出来た訳でもないだろう」
「子供が居るなら苦しむことはない。子供に与える人間としての根元的な情愛、知、そして時を創るヒューマニティ。しかし、それらは意識の奥底に仕舞い込まれ成長すると共に忘れ去られる。真剣な眼差しの向こう側にある物が失われて行く」
「子供を育てるときの虚しさだな、しかし求めようではないか、生きている限り自分の思うことを求め尽くしていく。誕生から死ぬ瞬間までの総ての時間は残されたものである。残された時間を求めることによって生きていくのが理想である。必要なことは、意識下した時間である。意識下した時間を持つ限り幾らでも求めることが出来る。子供にはその事が理解出来るようにしなくてはならない。しかし現状では無理なことだ」
「智子のことを理解したい。しかし一緒に暮らし始めて既に四年が過ぎようとしている。その間、何が有ったのか分からない。男と女でしかなかったのか、生活が生きる価値だったのか、頽廃だけが支配していた。そして、情念はいつの間にか消滅していた。その日、その日を耐えているのか、見過ごそうとしているのか、自分では分かっているのに身体が付いていかない。そんな生活を四年も続けていた間に智子との関係が希薄になっていた。先に、見出す物がなければ生きられないと智子が言っていた。しかし戯言に過ぎない」
「行き先の見えない情況を生き、焦慮感だけが支配していることに変わりがない」
「脱出したいと思いながら出来なかった」
「気付いたことで終わりになる」
「そう思う。しかし・・・」
「しかしは必要なことではない」
淡々と過ぎて行く時間は許容出来るが一つのことに拘った場合は破綻する。圭一も雅生も知っていた。そして、その後のことを話す必要はなかった。
雅生の中にホレホレホレと生臭い声が甦ってきた。
「男と女の腐った話など何方でも良い。要は、お前が楽しく生活出来れば良い」
「余計な世話を焼いてくれる訳だ」
「何が欲しい」
「お前に消えて欲しい」
「無理なことを言うな、俺に会えたことを喜ぶべきである。雅生、一人の生活に消え入るような魂が悶えている姿はみっともない」
「全く余計なことだ」
「別にお前を追い詰めている訳ではない。雅生、人間としての履歴書は自分自身で作らなくてはならない。しかし、既に個の生き方は失われている。二度と人間らしく生きることは出来ないだろう。自ら考え行動しているように思っても時間の傀儡に過ぎない」
「敷設(ふせつ)されたレールの上を走っている訳だ」
「物欲に支配され、物欲から抜け出すことは出来ないだろう。物欲こそ唯一人間を動かしている原動力である。感情は個の情愛の中に僅かに残ったが、それさえ理解出来ない人間が多い。物を求める為に働き、物を浪費する為に働き、人間としての感覚など必要が無い時代である。情愛など人間には無く自らを満足させる為に生きている。何故、愛など語る必要があるだろう。何故、恋などする必要があるだろう。利益の為にだけ働く人間にとって人間の内的なことなど必要ではない。感情は人間共にとって利益となり、利益は物質的にも精神的にも感情を支配している」
「感情を捨てた俺にとって関係がない」
「情況は生活領域を規定しても思考領域まで規定できない。雅生、生命の持続があるから生きているのであって、死んでしまえば何も残らない。金がなければ生活は成り立たない。金だけで成り立つのが生活である。その金さえも労働に依らなければ入ってこない」
時間の切り売りは雅生の脳裡を真っ黒な闇で埋めていた。生きて行くことも、考えることも、霧の中に入り込んだようにモヤモヤしたままだった。自分の頭を叩いてもスカスカしているだけで、応答は無く脳味噌は腐っていたのだろう。
「俺の頭は・・・」
「お前の頭は空っぽで最早生きる為の神経細胞は破壊されている。中枢神経系、自律神経系、体性神経系など、総ての神経組織は元に戻ることはない。神経がなければ肉も骨も必要ない」
「俺も骸骨に成り兼ねないと言うことか・・・」
「そう言うことだ。そして、人間共は死滅してしまえば良いのだ。煌々と輝く太陽が死を迎えれば其れで終わりになる。この先、四十五億年も拡張しながら地球を射程圏に納めるような悠長なことを待っている必要はない。冷えるか爆発すれば終わりになる。そう、生かされていることを認知出来ない人間どもに鉄拳を下す時が来るのだ。不都合が生じてくると、神秘だの、神の力などと嘯き問題を摩り替える。人間は最早自分の未来を想像出来ず薄皮一枚の向こうに何も見出せない。其れなのに藁にも縋る思いで生き延びようとする。良いではないか執着したとしても後数日なり数年の命である。短い命を懸命に生き延びようとする、何と哀れなことだ」
「身体の中に熱が籠もってしまったようだ。四肢の先から熱は飛散せず脳味噌に蓄えられていく。感覚が徐々に鈍り、シナプスが砕け破壊する」
「お前は体内のあらゆる力を凝縮し呻き声を洩らすだろう。しかし誰の耳朶にも聞こえる筈はない。何れ地下牢のような暗闇に閉じ込められ其のまま朽ち果てるだろう。誰にも発見されず鼠やゴキブリに食い殺される」
「良い話だ」
「昇華するように、この地上から消滅することの心地よさを味わうことになる」
「俺の終焉はそれで良い」
「一つの歴史が終わるとき文明は何も残さない。残さないことで新しい文明が生まれる。個々人も同じように、雅生のようになって欲しいものだ。しかし、人間が感情を持ったことで色々な関係に紛れ込んでしまった」
「俺の生涯は一切の関係から払拭する。態(わざ)とがましい顔をする必要もない。語る言葉も不必要な感覚を身に付けることもない。俺の存在は何時でも無に等しい」
「シンプルで良いことだ。そうすることで、ゴキブリに食われるまでの期間精一杯生きることも可能になる。さて、俺は引き上げることにする。雅生に相応しい相手を残しておく。ホレホレホレ、ホレホレホレ・・・又な・・・」
夜明け前、薄暗闇の中で骸骨が足の先、手の先に紐が繋がっていることも知らず踊り狂っていた。自分は踊りが上手い積もりでいるのかも知れない。そして、傀儡であることも知らずに一人前の口を利いていた。
「上手だろう」
「カタカタ踊っているだけではないか」
「俺様は骨になっても生きている」
「骨が生きていても仕方がない。大体骨が飯を食えるか」
「飯を食わなくても生きていられる。骨であることは人間の原点である」
「何が原点だ。お前は骨と骨を繋いでいる糸を知っているのか?」
「糸だと」
「そうだ。天空に延びている糸がお前の手足に繋がっている」
「否、俺は俺の力で生きている」
「誰もがそう思っている。でも実際は傀儡に過ぎない」
「又、おれ様を騙す積もりだな」
「何の為に?」
「俺様のようになりたいのだろう」
「骨が踊って何になる」
「人の為に生きていると錯覚している方が余程馬鹿じゃないか?」
「お前も偶には良いことを言うな」
「俺の脳味噌は人前以上にある」
「何を言っている。空っぽで透けている」
「よく見ろ!」
「肉もなければ皮もない」
「俺のような真面目に生きてきた人間に嘘を付くような奴は信用出来ない」
「骨が真面目に生きたなどと本当に馬鹿だな、俺より早く骨になったことを仕合わせに思え」
「お前は何が苦しいのだ。苦しいよ、苦しいよと、ほざいて遊んでいるだけではないか」
「骸骨に諭されるようでは仕方がないな」
「亀の甲より骨の甲だ」
「俺は骨も残らないことを希望するよ」
「上手くいくかな」
「骸骨め!お前などに関わっている暇などない。失せろ」
「そうは言っても、お前も遺骨のような感じがする」
「願っていることだ」
「俺はお前の死ぬのを見たい」
「何時でも見せてやる。楽しみにしているが良い」
「仲良くなれるな」
「どうかな」
雅生が知ろうとしているのは自分の死であった。他人の死は他人の死であって関係がない。老いて行くのは誰でも同じであり、若い頃、心身共に頗る強健で生きていた奴も、持病を抱えながら生きてきた奴も、何れは老いを感じ、死の不安を覚え、寝たきりの老人を見てポックリと死にたいと思う。しかし死は死である。殺される死であっても良い。死ぬことに意味などなく価値もない。修羅場を生き長らえるより気楽である。何れにしても雅生にとって関係のないことであった。
七 流露
内に籠もることは出来ても感情を吐露しなければならないときがある。会議は七時から始まっていた。雅生は黙って聞いていたが徐々に不快感を覚えてきた。
「人間の生きる環境を変える必要がある」
と、遠藤が言った。
「環境が変われば何が変わる?」
と、桐山が応じた。
「当然人間が変わる。生き方や考え方、目的や行動の仕方が変わってくる。今まで真理だと思っていたことが愚にも付かないことになり、見捨てられていたものが価値を見出す」
「価値など相対的でしかない。しかし人間にとって、それ程の価値の有るものは一つもない」
と、加賀見純一が言った。
「相対的なことを超え絶対的なところに来たとき価値がある。価値が相対的などとほざいている間は何も分からない」
「価値など何処にあっても良い。何れ、このさもしい現実から逃れることは出来ない」
「具体的にどこの銀行を襲うか考えよう」
「R銀行で良い」
「投げ遣り的だな」
「金の価値は認めざるを得ないだろう」
「正しいと思えば何でも出来る」
「しかし、金がなければ必要な物は手に入らない」
「正当な理由は?」
と、雅生は言った
「俺たちが生きる為だ。一つのことが終わることにより思惟が変遷する。勝利者になったとき価値が生まれる」
と、遠藤淳二が応えた。
「勝手次第と言う訳だ」
「そうは言っても現況を越えることに意味がある。与えられた物以外許容されない生活を送っている俺たちは馬鹿者でしかない。しかし銀行を襲うこととは関係がない」
「そう言うことだ。現状を打破しても仕方がない」
「雅生、一緒に行動する以外道はない」
「俺は止めておくよ」
「統制が乱れるな」
と、桐山が言った。
「必要なことではない。自身を越えることに他者は関係がない。その時、自身をどこに置くかで決まってくる」
「雅生の言う通りだ」
と、遠藤が応じた。
「集団は個の集まりではない」
「真理だな、夫々がそれぞれの思いで遣れば良い」
「躊躇するのは教育されたことに依る」
「その後は?」
「個別的に考えれば良いことで、拘束される必要はない」
行動を起こすことで集団の規律が生じることはなく、一人では単に行動する範囲が足りないだけである。行動は起こされるだろう、そして起こされたことで安定する。遠藤にしても桐山にしても、日々の生活から逃れる術を知らず、ともすれば情況に流されるより仕方がない。日々の生活が齎すものは何も無く、虚無感は誰もが一度や二度は感じる。感じても、其れが何であるのか突き詰めて考えない。また、虚無感は持続せず、持続すれば生きようとする志向性や方向性を失ってくる。生きている人間が依り良い生き方を目指す限り、何時までも虚無感に浸っていたのでは生きられない。虚無感は、数分、数時間、数日で消滅して本人が気付いたときには雲散霧消している。恐らく心の防御反応が働くのだろう、成る可く心の中に隙間を作らないようにしている。しかし虚無感が持続して行くとき、始めて自分の生き方や過ぎし日々が見えてくる。それは、生きてきた過程の一切の価値から解放される。価値など無いと思えばその人間にとって一切無い。宗教に帰依した奴など現実の生活を省みるとき、『目から鱗が落ちた』と感じる。最早、虚無感などとは無縁な薔薇色の人生が待っている。
雅生は虚空を見ていた。行き場のない喪失感は時間だけを失っている。遣りきれない思いのまま溜め息を吐いた。その瞬間、雅生は蜥蜴になって地を這いずり回っていた。汗を掻くとも出来ず、暑い日差しに木陰で涼を取りながら空を見ていた。静かだと思った瞬間一羽の真っ黒な鳥が襲い掛かってきた。雅生は必死に叢に逃げ込んだ。空を見上げると真っ黒な鳥は上空高く飛んでいる。しかし、旋回しながら再び急降下してきた。雅生は、また舞い上がる鳥の影を見ていた。鳥の嘴には蜥蜴の尻尾が揺れている。雅生の近くでウロウロしていたのだろうか、雅生より機敏さに欠けていたことで、一瞬の違いで生きることを放棄してしまった。真っ黒な鳥は尻尾まで飲み込み未だ上空を旋回している。今度は雅生を目がけ急降下してきた。雅生はジーッとして待っていた。来るなら来て見ろと思った瞬間、雅生を嘴で挟み弄んでいた。しかし直ぐに飲み込みもせず都会の方に連れて行った。上空から乱立したビルの群が見え、此処で落とされるのかと思った瞬間其処には暗黒の世界が拡がっていた。時空を超えた知ることのない未来、西暦四千年の空間に雅生は居た。人間は一人も生きていない、木や雑草一本とて生えていない不毛の地で、空間を遮るものは無く、全ての生命が死滅したような世界だった。展望できる筈の、想像することの出来た科学も文化も、医学の進歩も、発達した空間も無かった。人間の歴史を、痕跡を探そうにも手掛かりになるものは一切無く、足許は砂礫がカサカサと泣いている。透明感のある匂いの無い空気、雲一つ無い空は何処までも蒼いままで、南の空に眩しいばかりの太陽が輝いていた。それは、生まれたての地球のような新鮮な感覚だった。雅生は声を出してみた。反響する建物も無いので、声は地平の彼方に消えていった。
その後の歴史に何があったのか、人間たちは日常に埋没しながらも耐えざる目標を持って進化しようとしていた。しかし、進化のなれの果てが生命の興亡を招くことになるとは誰一人として気付くことはない。人間の欲望には切りがなく、切りが無いから依り以上のものを求める。その繰り返しの果て総てを失うことになる。人間だけではなく地球上のあらゆる生命の命を奪うことになる。在った筈の過去は既に消え、過去自体は消滅する為にのみある。
西暦元年の地上は生きる人間の匂いがした。李(すもも)のような甘酸っぱい匂いを放ち、電信柱も、舗装された道路も私鉄も無かった。辺り一面焼け野原の土地は誰の所有物でもない。人間たちは、所々に集落を作り共同生活が始まろうとしている。足許を見ると、蟻が行列を作り西に進んでいる。雅生の住んでいる西暦二千年と何も変わりがない。しかし地面の至る所蟻だけである。そして、空間と時間を超え誰が西暦四千年の未来を想像しただろう。人々は日々の暮らしに追われ、明日のことまで考えることなど億劫で出来ない。明日のことが分からないのに未来のことなど、況して二千年先のことなど関係がない。何故生きているのかなど問う必要はなく、日々の生活に追われ、今日一日のことを考える余裕さえない。
雅生は自分が何処に居るのか分からず脱力感に襲われ意識が薄れて行くのを感じていた。目を閉じることも腕を上げることも出来ず、自分の身体を他者の身体のように操られていた。開いた視野の先に周囲の物を捉えることも出来ず、こんな状態で生き、何故、日常を超越出来ないのか不安に駆られた。生きている果てを越えない限り新しい地平は戻って来ない。子供の頃に感じた新鮮な思いは最早何処にも有りはしない。川辺で魚取りをした。森で蝉取りをした。ギラギラ輝く太陽が肌を焼き、喉の渇きを覚え、生きることに飢えていた。毎日が活き活きとして活動的だった。怖れるものや不安など有りはしなかった。学校から帰宅すると毎日毎日フラフラと歩き回っていた。目的の無いことがせめてもの支えだった。同じところをグルグルと旋回していようと、それが生きている証だった。
吐息を吐くと雅生は薄目を開けた。過去なのか、未来なのか、現実なのか分からなかった。
「長い間眠っていたな、雅生」
と、桐山が言った。
「他の連中は?」
「準備の為に帰った」
「しかし、何も変わることはないだろう」
「夫々が承知している。俺もお前も進歩することも後退することもない。唯、必要なことを失うかも知れない」
「それで良い」
「センチメンタルになっているのか酒が飲みたくなった」
「それも良いだろう」
「中途半端のまま自分の行動を許容していく。情けないと思いながらそんな生き様しか見えない。しかし俺にとっても二十二歳の青春の筈である」
「仕方がない」
「何処かで逃げたいのかも知れない。しかし、残余の生でしかない事も事実である」
「俺もそう思っている」
と、雅生は言った。
「虚無ではなく、単なる無に等しい感覚は、閉ざされた時間の中で既に行き場を失っている」
「足りないものは無い」
「満たされている訳でもない」
「しかし、失っている」
「俺たちが生きている時代が悪いのか、生まれてきたこと自体が悪いのか、一瞬を境にしても何も変わらないことを知りながら生きている。先が見えない不安ではなく、現実が不安の中で踠き苦しんでいる。雅生、明日俺は死ぬかも知れない。しかし必然も偶然も関係がない以上生も死も関係がない」
「過程は無意味でしかない。得るものが無くても?」
「分かっている。そして、最早行動を規定するものは無い。成るようにしかならない」
生きている間人間同士は関係を持つ。無意味であると知りながら互いに理解したいと努力を重ねる。雅生や桐山たち以外に人間はいない。人間であるとき、人間が人間を証明する。類人猿の進化した姿、即ち人間、しかし単に人間が証明しているに過ぎない。人間と言う言葉は多くの学者が定義してきた。どんな定義付けを試みようと、それは対社会的な存在や、生物学上の規定をしたのに過ぎない。類的な存在としての定義である。
雅生たちにとって、無目的であるとき、何処に紛れ込んで行こうと関係がない。其れはただ現実社会から逃避しているのに過ぎず、戻るべき場所のない悲しさか、戻る場所を失った悲しさなのか、雅生も他の連中も同じことだった。感情や感覚を吐露して、例え相手がそれを受け入れたとしても同じ事であった。唯、無意味なことでしかない。
八 遺物
「私は神である。過去からの贈り物を受け取るときが来た。お前は神々により推薦されこの栄誉を与えられた。心して受けるが良い」
と、神は言った。
「神だって、巫山戯るんじゃない。それに推薦されたとはお笑い種だね」
「お前が信じられないことは当然かも知れないが、私が神であることに違いはない。お前に与えるもの、これを持ってさえいれば人々の心の内を読み取ることが出来る。何を考え、何をしようとしているのか手に取るように分かる」
「人間を構成している内面など取るに足りない。別に読み取る必要はない」
「内面のみが未来に向き、その他の総ては過去のことである。私はお前に未来を与えようとしているのだ。誰も知ることのない確実な真理と未来を!」
「未来が有ったとしても、俺にとって必要がない」
「未来が見えるなら生き方が変わるだろう」
「確定された未来など必要がない」
「未来が分かっていることで安堵感が得られる。そして、莫大な利益を得ることが出来る」
「神さんよ、お前は本当に馬鹿だな。現在さえ意識下に置くことが出来ない俺にとって、過去だの未来だのと言って何になる。大体、宗教集団の代表者的なことを言い、人を誑かして何が面白い?」
「信じることから始まる」
「信じて飯が食えるのは極一部の連中で、神さんよ、お前も同じ穴の狢に過ぎない」
「雅生、お前の不安は時間を失うところにある。そして、その不安から逃れられない」
「確かにそうかも知れない。しかしお前とは関係がない」
「私はその不安を解消できる」
「はて!!襤褸(ぼろ)が出ないかな!」
「何時までも同じ場所で堂々巡りをしている思考は、結局同じ場所に戻るしかない。そして、循環運動のように依り少ない摩擦を求め他からの衝撃なり刺激を極力避けようとする。現在のお前のようにな。脱却するには自分を捨てることで良い。選ばれた人間は幾らでもいる。お前など単なる一部分でしかない」
と、神は些か焦慮の感があった。
「俺は遺物と言う訳だ」
「卑下するものではない」
「自己の存在は自己が決定する。体制的なことを言うが、現在社会では自明の理と教えられたように思う」
「否、類の中の個でしかない。詰まり、社会の中のお前でしかないことが自明の理である。お前自身が一番分かっているだろう。お前の根元的な情況としての自己は、自らの存在の非存在を求め認めている。詰まり、私と同じことである」
「面白い話だ。俺は神に昇格する。お前は唯一無二の存在を否定され唯の人間か化け物になる」
「そう言うことではない。雅生、失うことを怖れることはない。仮に再生されなくても良いではないか」
「で、一体何を呉れるのだ」
「支配する力を与える」
「民衆は馬鹿ではない」
「民衆ではない。自己を支配する力である」
「自分を支配して何になる」
「何も無い感覚を身に付けるとき、総ての情況から離脱した意識を持たなくてはならない。生きると言うことを考えるとき、ともすれ日々の生活の中で拾うことのみ必要とする。生きることは、その生活に根差すことだと勘違いをしているようである。生は誰にでも与えられている。生きていること即ち生である。牛も、馬も、猿も生きている。生きているもの総てが生である。ただ生活することを唯一の目的として生きている。しかし雅生、お前は自己の存在を昇華して行くことで最も人間の重みを知ることになる」
「面倒臭い話だな」
「未来と過去と現在を統合しない限り展望はない。その時、始めて生きている一瞬が見える」
「神と言うお前は、トイレットペーパか、箱ディシュのようなことしか言えないようだ」
「ほざくが良い」
「天罰でも欲しい気分だ」
「雅生、人の言うことを信じなくてはならない」
「人に転落したようだな、失せろ!」
虚無感で支配された日常は感動や悲しみを覚えることはない。意識そのものを必要とせず低迷したまま深淵に沈み込んでいく。生きることが歴史を刻んでいくと分かっていても、時間の概念が無い限り歴史など無意味なことになる。歴史の為に生きているのではないが、何れ何もかも歴史の為に生きていることになる。
神と呼ばれる存在は何処にでも居る。神と別れたばかりの雅生はまた神に捕まってしまった。
「残す物は歴史以外に無く現実の諸過程が歴史を構成する。其処には神も居ればお前も居る」
「お前とは俺のことか?」
「そうだ」
「ふん、余計なお世話だ」
と、雅生は言った。
「歴史がなければお前は生まれて来ることはなかった。歴史の生産物は歴史から逃れられない。分かる筈だ。帰依しろ、そうすることで失っている時間を取り戻すことが出来る」
「ほほう、一体何に帰依するのだ」
「世界は一つの目標に向かっている。苦痛も悲しみもない人間の安定した生活を求めている。歴史の産物は歴史から逃れられないと言う意味が分かるだろう。自分の生存した歴史は自分の過去から逃れられない。詰まり、どんな生き方をしても迎合され生きるに値しない生き方しか残っていない。帰依することで新しい生き方が出来る」
「その先に何がある?」
「未来を掴み取ることが出来る。未来に対して一人では何も出来ない。しかし一つの集団は確乎としたものに向かう。その時こそ個の歴史が生まれる。確かに一人一人の人間は集合体に集約され利用されてきた。しかしその間に、関係が生まれ社会が生まれ力が生じてきた」
「自らを売り渡すことによって個の歴史は閉じられた。どの集団も社会も宗教集団のようなものでしかない。それらは未来に向かうことはなく、過去の遺物に縋り付いているのに過ぎない」
「自らの歴史を創造して行くのだ」
「儚い人生に夢と希望を・・・と、言う訳だ」
「未来を切り開く時個は充足する。そして、何より歴史に参加することになる」
「そして、死に絶える」
「お前に鉄拳を下すのは容易い」
「何時でも来い。社会の中に俺は居るのではない」
「俺は俺の中にいる。そう言いたければそれで良い。しかし、情況としては不利であることに違いない」
「俺は行くよ」
「雅生、少しは骨のある奴だと思っていたが阿呆を相手にしていたようだ。何処に行くのも勝手である。しかしお前の身体の中には人間としての過去の歴史がある。精神的にも身体的にも変わることのない永遠と続く本能が息付いている。否定したくとも否定出来ない血は、お前が生きることを肯定するだろう。そして、牛にも馬にも飛躍出来ない哀れな奴になる」
「数々の教訓、身に染みて受け取るよ」
帰巣(きそう)本能はあらゆる動物が体内に持っている。犯罪者が犯罪現場を確認する。学生生活を終えると生まれ故郷に就職する。同じ道を辿り、同じ場所を訪ね、同じ様な旅行を何度となく行う。人間は二度も三度も同じ事を繰り返し、安堵感を得る為に、自己確認する為の作業を繰り返す。複雑な脳を持ちながら、要するに脳の単純さに支配されている。安定性の為か、受けた生命としての維持存続の為か、しかし雅生は体内に眠る帰巣本能を、継続的な遺物として受け継がれてきた感覚を必要としなかった。同じことの繰り返しは行動の定位性を齎し、行動としての再確認は必要としない。過去から脱皮出来ず、歴史と言う時の流れに反逆することもない。しかし行動様式を、過去の歴史を越えなくてはならない。自分の歴史は自分で刻んで行く。そうすることが、個としての生命の存続から逃れることである。しかし、一人で生きることの出来ない人間にとって最も過酷な出来ごとになる。
雅生は内面に漂う景色を眺めていた。其処では老婆が川縁で黙々と白詰草を引き抜いている。そうすることで安堵感を得ているのでは無く、意味のない単一的な行動は精神の破壊に通じ、意識を喪失しながら年老いて行くのである。白詰草を幾ら引き抜いても何も変わることは無い。時間が過ぎれば死んで行く虚しい作業を繰り返しているのに過ぎないが、しかし単一的な作業の中に生きている喜びを感じている。自分の周囲を見回してみるが良い。そう言う連中のみが現在社会を構成している。遺物?そう全てが遺物である。過去の遺物ではなく、現在そのものが遺物である。雅生は老婆を見ていた。そして、自分の過去も現在も未来も無いと思った。
「何故、草を抜いている?」
と、雅生は問い掛けた。しかし老婆は振り返ることもなく同じ作業を繰り返した。
「何故、草を抜いている?」
雅生は大声を出した。
「聞こえているよ」
「悪かった」
「自分の行動に対して一々理由など有る筈がない。意味を求めようとするから詮索することになる。お前のような奴は豚に食われて死ぬが良い」
「俺は何をして良いのか分からない」
「時間は過ぎて行く。それに従うしかない」
と、老婆は言った。しかし、その言葉に対して雅生には何も応えられなかった。
待つことが出来る状態は対象が有って始めて成立する。対象が無ければ待つことなど出来ない訳である。待つことが出来るとは実に歓迎すべきことであり、期待感は少しずつ膨らみ内面に豊かな感情を齎してくる。人間だけに残された感情であり、待ち続けることは生き続けることであり、日々を過去に押し遣り明日があることを知る。明日があることで明後日がある。そして一年、二年と過ぎて行く。そんな風に考えることが出来れば、雅生にとって一つや二つの楽しみもあったことだろう。
九 異物
雅生の住む一Kのアパートの中心は上下左右からジワジワと圧力を受け、住人の発する声や軋む音は、天井、壁、柱を伝わり反響しながら振動している。アパートの中心こそ、重力ゼロの地点であり墓場である。円の中心に居るような、等距離を保つことであらゆる力が消滅または増幅する。
窓のないシャワールームから出ると鏡に映る醜い裸体が目に入った。これまで感じたことなど無かったが、鏡に映る自分の姿が内面を見せているようだった。ダラリと垂れ下がった腹部、筋肉の無い腕や足、突き出た臀部など厭なものだった。考え行動するのは脳だったが、それらの贅肉が支えていると思うとウンザリした。高校時代、大学に入ってからも鍛えることはなかった。文部科学省推薦の健全な肉体に健全な精神が宿るには程遠過ぎ、ブヨブヨした肉体にブヨブヨした精神が宿っていた。
肉体とは呼吸する細胞の集合体であり、精神とは細胞の中にある思考の集合体である。水分を含み過ぎているなら炎天下で干し上がるのが良い。寒さが続くなら凍り付いてしまえば良い。況して、陰部にはブヨブヨした痼(しこり)が二ヵ所あった。以前からあったが、この一ヶ月の間に急激に成長していた。
「さあ、切り取ってくれ」
と、雅生は言った。
「痛いぜ」
と、新庄は人ごとのように言った。それに釣られたかのように執刀者の神田が言った。助手の園部はニタッと笑った。
「全身麻酔は出来ないから切り取る音が聞こえるぜ」
「構わない。まごまごしていると当直が回ってくる」
「いくぜ」
と、言った瞬間グサッとメスを入れた。
「硬いな」
と、神田が言った。
「癌は周囲の血管から栄養物を取り込むが此奴は違うようだ。周囲の肉そのものを栄養として取り込んでいる。このままでは肉体そのものが完全な異物となる」
「癌でなければ全く違う新生物だ」
「そうだ、見たこともない生命体を宿したことになる」
「どう言うことだ」
と、雅生は呻きながら訊いた。
「何度も手術しているが見たこともないものだ」
「勝手に動いている」
と、助手の園部が手を伸ばした。
「静かにしろ、足音が聞こえる」
「気の所為(せい)だ。交代には未だ一時間以上ある」
「一つめを切り取る」
「丁寧にやれよ、二度と手に入らないかも知れないからな」
と、新庄が言った。
「分かっている」
「此奴によって新しい地平が切り開かれるとも限らない。もしもそうなれば俺達は一躍有名になる」
「社会に出るって訳だ」
「ほほう、論文を書いて博士になることが出来る」
「黙れ、集中力に欠ける。二つめを切り取る」
「大丈夫か雅生?」
「二つとも生きているように蠢いている」
「縫合すれば終わりだ」
「上手くいったな、気分はどうだ」
「痛みはない」
「終了だ。麻酔が切れると痛むぜ」
と、執刀者の神田が言った。
「異物は?」
「研究室で育てる。何に変化するか楽しみだ」
「しかし俺のものだ」
と、雅生は嗄れた声を発した。
「これは人類全体のもので個人の所有物ではない。今後の研究結果を待つしかない」
「そろそろ引き上げようぜ」
「雅生、車に乗るまで我慢しろ」
そう言ってストレッチャーを押した。
夜の街にライトを点けた車が通る度に影絵のように画面が揺れる。写真のように捉えることが出来ない影は、点いては消え、点いては消え本当の姿を見せない。相手に頼ること以外生きる術がない人間のように他の力を借りていた。
雅生に取り付いた異物は肉の養分だけを吸い出す。腐り掛けている肉体を捨てることは新しい方向を見出すことではなく、これからも腐った肉体と共に生きなくてはならない。糖尿病と同じような、手足に十分な血液が行き渡らず感覚が鈍磨する。そして、何れ腐り出し四肢の外皮から内蔵まで達していく。立つことも寝返りを打つことも出来ない状態で眼球が空を睨んでいる。
「雅生、お前は間もなく朽ち果てる」
アパートの一室で柳田が言った。
「其れがどうした」
「怖くはないか?」
「生きていることが問題でないように、腐ることも死ぬことも同じである。一々考えていたのでは時間の無駄だろう」
「強気だな!」
「真理を変えることは出来ない。それに従うまでだ」
「まさかお前の口からそんな言葉が出るとは以外だ。現況を越えることしか興味のなかったお前が過去に縛られ引きずられる。変化を受け入れるのは容易い。しかし真理など何処にもない」
「知ったことか」
「所で異物はどうなった?」
「新庄が持っている」
「お前の部屋で育てなければ死ぬかも知れないな、何せ生みの親元を離れてしまった」
「柔なものではないだろう」
「癌のように他にも転移しているかも知れない。もしそうなっていれば俺も貰いたい」
「やるよ」
「願ってもない」
「しかし、何れ俺とは関係のないことになった」
「人間に必要なことは衣食住という日常が満たされることだ。しかし知らぬ間にその事を忘れ観念の世界に溺れている。俺たちが求めるものを忘れない様にすることだ。異物は正に現実を引き戻すことになった」
「二十二歳の俺は恋も愛もゴミ箱に捨てた。そして、脆弱な肉体と異物を宿したのに過ぎない」
「仕方がない。既に狂っているのだ」
「何処に行くべきなのか分からなくなった」
「氾濫する言葉を理解するには余りに難題すぎる。言葉の数が多いだけではなく次から次へと新しい言葉が生まれてくる。短縮して発音する、イントネーションを変える、言葉は文化であり、文化は歴史になり生活の中に根差し定着する。言葉は生き物のように、生まれては消え生まれては消え新しい物に取り替えられる。元来、言葉が人間たちの間に生まれてきた過程は、相手との交渉や、意思伝達の手段としての必要性からで有り、生活領域を徐々に拡大したことに依る。しかし最早言葉は必要ではない。相手を理解することも認識する必要もない。個が崩れることで必ず社会も崩壊する。雅生、俺は一人になったとしても必ず相手を殺す。一体生きていることが何だと言うのだ。旨い物を喰い、飲み、良い女に出会う事だけでしかない。この一瞬一瞬の中に、自身を繋ぎ止めるような感覚を得ることはない。夢中になっても、熱中することに出会っても何れ冷める。人間としての感覚とか感情はない」
「相手を殺しても得るものはない」
「草味(そうまい)な情況が良い。文化が発達したことで何もかも狂ってしまった。自分の還る環境は既に無く、歴史は現実の俺たちに何も残さなかった。一体何の為に人間は生きている。同じ事を繰り返しながら互いに殺し合いを正当化しているのに過ぎない」
「妄想に取り付かれることがある」
「夢と現実が錯綜しながら進む。のめり込んでいるのが愚にも付かない夢の方である。それは、自分自身の弱さから来ているのではなく現実がそうさせている」
「しかし、俺たちを絡めながら生きている現実を否定するには、武器を持たなくてはならない」
「雅生、くよくよしていても始まらない」
「俺は、もう終わりだ」
「交差点で前方を見ていた。車の両輪がグルグルと絶え間なく回っている。その時、回ることによって移動していることに始めて気付いた。見なければ何もかも過ぎて行く。その事が分かっていながら何も出来ない。去勢された精神は一つの集合体としてしか存在しない。俺たちは同じ所を独楽のようにクルクルと廻っている」
「人間の生きる過程は遠心力に依る頽廃に過ぎないだろう」
「そして、抜け出すことは出来ない」
「思考する阿呆、確かにそうなってしまった」
「放心したような、瞬間的に何も考えられない状態になる。語彙を意識下に集めようと思っても出来ない。脳味噌のある部分を探り出そうとする。しかし、脳味噌、脳味噌と探しあぐねている状態で、自分の頭をかち割り目の前に置いて解剖したくなる」
「少し痛みが出てきた」
と、雅生は顰め面をした。
「異物に宜しく」
雅生に宿った異物は間もなく雅生自身となり、全く違った生物として生きることになる。雅生は何も求めてはいなかった。しかし、異物に求められていた。
十 蒼茫
視野に収まり切らない空間が広がりキラキラと煌めきながら空気が流れていた。宮殿の前には花々が咲き乱れ若い女たちが戯(ざ)れている。地球と違っていたのかも知れないと思った。ウツラウツラ眠気を誘う空気の中から一人の手弱女(たおやめ)が語り掛けてきた。
「雅生さん、此処に来て!!何を躊躇っているの?」
「此処は?」
「貴方と私の愛の巣」
「聞いたことがない」
「貴方の経験したことのない快楽と仕合わせを上げる」
「女に執心はない」
「馬鹿ね、女の素肌こそ命の糧になるのよ。でも、貴方には、私のような女ではなく凄艶(せいえん)な女が良いのかしら?」
女はニコリとして雅生を見た。
「俺は」
「愛して上げる」
「理由がない」
「馬鹿ね、貴方が味わったこともない射精をさせて上げる。そう、何度も何度も、貴方が壊れてしまうまで!!」
「しかし」
「しかしなんて言わないの、雅生の悪い癖よ。生活とは、詰まり日常でしょ?衣食住を満たしていくことに何があるの。生活の先には一体何が見えるの。一日一日と老いていく雅生の姿がくっきりと見えるわ。皺が増え、白髪が増え、下腹部が弛み足腰が衰えてくる。男と女が居て、それだけのことよ」
「堅くなってきた」
女は雅生の服を脱がし始めた。隆起した物を銜えると舌先で先端部をつつき始めた。
「名前は?」
「ルージュ、私、貴方が此処に来ることを知っていた」
「何故?」
「貴方は夢の中の出来事だと思っている。でも、これは現実であることを知っている」
「俺に与えられたルージュ?」
「いいえ、私は私の意志で貴方と居る。この広々とした草原の中で貴方と暮らしたい」
「現実離れしている」
「何故、いけないの?毎日毎日貴方は快楽の中にいる。必ず満足するようにして上げる」
「お前は俺のものではない」
「ほら、独占したいと発言している。それは貴方の本能ではなく理知が求めていることよ」
「求めるものはない」
「いいえ、私は貴方のものよ。貴方の為なら何でも出来る。でも、貴方を拘束しない。無償の愛、今の貴方には理解出来ないかも知れないけれど嘘ではない」
喋りながらもルージュは先端部を時々含んでは舌を絡めていた。雅生は脳を刺激する快感を楽しんでいた。
「ねえ、気持ちが良い?」
「ああ・・・」
「後一時間、我慢できる?」
「持たないかも知れない」
「私だって濡れている。貴方が悪いわ、後一時間我慢をしていれば又違う世界に連れていって上げる」
「忘れられた時間なのかも知れない」
「でも、それで良い。休息の時だって必要なことよ」
「失った時間でしかない」
「貴方は納得しないと分かっている。でも、今この時が現実であるように、貴方は受け入れなくてはならない。ほら、貴方の物が震えている。射精して良いのよ」
「我慢する」
「馬鹿ね、甘えて良いのに」
「何れ空白になる」
「私には貴方しかいない。そして、貴方の為に生まれてきた私を捨てることは出来ない」
「俺は乱れている」
「そうよ、それが本当の貴方」
「目的を失った俺が頽廃的な生活をしていることを嘲笑って良い」
「何故そんなことを言うの?貴方はとっても素敵よ」
「何時になる?」
「時間なんて関係がない。ねえ雅生、私は貴方を愛している。時の過ぎるまま、斯うして二人の世界を作りたい。二人の間にはこんなに素敵な時間がある。それは、誰にも犯すことなど出来ない二人だけのもの。雅生、私のことを捨てるなんて考えてはいけない。貴方に上げるものは知性であり美であり闘争心である。一つの完成された雅生であって欲しい。何時までも貴方から離れることはない」
ドタバタと踏み板を鳴らしながら数千匹の鼠が通り過ぎた。徒党を組むことで力関係を誇示する。通り過ぎたと思った瞬間一匹の鼠が戻ってきた。いきなり後ろを向いて尻の穴からネバネバした便を雅生目掛けて放(ひ)りかけた。ネズミの便は丸くて臭いの無いものだと想像していた雅生は不意を突かれた。ウンザリするほどの出っ歯を出し、ネズミはフッフッと笑った。
「お前は死ぬしかない」
「何故だ」
「俺は疫癘(えきれい)に罹っている。人間は抗体を持ってはいないから助かることはない」
「問題ではない」
「今まで出会った連中より良い度胸をしているな」
「誉めているのか」
「そうだ、しかし死ぬことから逃れることは出来ない。これから先お前にとって死が本質になるのだ」
「本質など問題ではない」
「本質を持つから生きることが出来る。本質とは死ぬ瞬間まで普遍的である。しかし人間どもには分かりはしない。しかしお前には本質が見えてくる」
「本質など日々刻々と変わる。死を前提にしたとても行動形態が抑制されるものではない」
「良かったではないか、思わぬ所で本質に出会えたのだ。しかし死ぬまで疫癘から逃れることは出来ない。どいつも此奴も同じように震え上がる」
「死を恐れて怖がるとでも思っていたのか?」
「哀願しないのか」
「馬鹿馬鹿しい」
「死に対する恐怖感から逃れることは出来ない。刻々と心音が消えていく。その苦しみに耐えられるかな?」
「意識は朦朧としないのか?」
「さて、俺は死んだことがないからな」
「都合の良いことばかりほざいて」
「これまで経験したことのない良い思いをしたのだ。当然、次に苦しむことになる」
「お前とは関係がない」
「あの女は俺の物だ」
「溝鼠に女がいたとはお笑い種だ」
「何故女に近付いた。あの女は最高だっただろう。しかし、お前はルージュを二度と立ち直れないようにしたのだ」
「どういう意味だ」
「意味を訊いても仕方がないだろう」
「俺はあの女を手放す積もりはない」
「馬鹿め、何を言っている。鼠に恋をして何になる」
「鼠だと」
「言ったではないか、俺の女だと!雅生、お前は何処に居たのか分かっているのか、地獄だ」
「楽しいところに替わりがない。地獄でも天国でも良い」
「しかし生活をしていないことは、自分勝手な想像の世界を拡げ妄想に耽る。地道に生きられないお前は置いてきぼりを食うことになる」
「鼠に意見されるようでは仕方がないな」
「俺は心配しているのだ」
「矛盾しているな、疫癘で死ぬ筈だが?」
「そうだったな」
「しかしあの女は俺の物だ。誰にも渡す訳にはいかない」
「まあ良い、快感を得た替わりに死ぬのだ」
「ルージュは何を欲しがっている?」
「お前の死だ」
「思念する時間を求めることが理に適っている筈だ」
「女の欲望には限度がない」
「ルージュは俺を必要としている」
「蟷螂(かまきり)の雄のように食われるが良い」
「お前は仲間たちと行かなくて良いのか?徒党を組む鼠さんよ」
「俺は選ばれている」
「何を遣っても良いと言う訳ではない」
「忠告しておくが既に情況は終焉している。何もない空間を生きるには鋭い五感を持たなくてはならない。そうすることが生き延びることに繋がる。そして、獲物を仕留める為に必要な武器を調達することだ。雅生、ルージュは自由である。お前はルージュを犯していることに気付かなかった。俺の女だと、巫山戯たことを言っている馬鹿者とはお前のことだ」
「鼠が一人前のことを・・・」
「そう言う偏見が未だお前の中にある。苦しみながら死んでいくが良い。馬鹿者め」
惰眠を貪るような生活は日々を破壊していく。しかし、分かっていながら生活を元に戻すことが出来ない。雅生の生活も一日一日と忘れられていた。必死で否定しても、目前に遣るべきことを用意しても手を付けることが出来ない。脆弱な精神が邪魔している訳でも、他に欲望や快楽がある訳でもない。しかし失って行く時間を取り戻すことが出来ず、焦慮感は余計重圧として圧し掛かり、溜め息が漏れるが虚空に消えて行く。何故、と問うことが出来ない訳ではないが、朝、目覚めた時間は既に眠りに就く時間となっている。
雅生は雅生自身に行き着くことが可能なのか、そして、自身を取り戻すことが出来るのか不安であった。生きるには、それなりの理由が必要である。しかし現在の雅生には何も無く、干涸びて行く自己を眺めていることが精一杯であった。そして、うろつくことも無く部屋の中に閉じ籠もったまま時間が過ぎる。今日が有ったのか明日が有るのか分からない。雅生にとって、止揚という言葉が理解出来るのか甚だ疑問であった。
十一 乱倫
一定の方向に進んで行くことが理に叶っている。理を乱すことなく同一方向に進んで行くとき生の行き着く先が見えてくる。雅生は自分の進むべき道を間違えていなかった。一日遊び呆け、真理を求めるなどと言えば笑われるだろう。しかし内面を構成するものは自らの生き様であり、それが分かっていながら甘えようとする。そう言う生活をしている限り、何時まで経っても生きる地平は見えて来ない。そして、雅生の中にある真理を追い求めていかない限り老化していく。
燦々と輝く陽光は二十二歳の若者に青春を齎すことはない。僅かな糧を肉体労働で得、そして消費する。その繰り返しは正に生きていることであり日々を構成する。
「消滅する光は一瞬輝く」
と、矢崎は言った。
「最後の足掻きであり断末魔の叫びでしかない」
「誰もが一度は最高の時がある。しかし、その一瞬を捉えることの出来る人間は殆どいない」
「個人的な出来事は所詮個人的なことに過ぎない」
「確かに、人は一生の内で何度か人を愛すると言われる。しかし、愛することの『愛』とは、何かと、考える必要がある。誰もが言う、『愛している』と。感覚的にその人が欲しいことを愛と錯覚しているのではないか、愛することは、恐らく、一つの知としての感情だろう。幾重にも折り重なっているのではなく、純粋に単一的なものである。単一的であるからこそ、他と競合するとき激しい軋轢を生じる。其れを乗り越えるとか否定するとかではない。否定も肯定も出来ないから苦しむ。また、愛の錯覚に付いても考えなくてはならない。愛が時間と共に冷めるのではなく自分を納得させる為に自己肯定する」
「矢崎、所詮瞬間は継続しない」
「錯綜とした思いのなかで人間だけに感情を与えられた」
「衣食住が満たされ何の苦もない奴だけである」
「俺は、それを大切にしたい」
「阿呆の一つ覚えと言うことだ。愛だの、恋だのと言っても作られた領域のことでしかない。見えない風景の中に人々が住んでいる。同じ時間、途方もなく離れている地域に生きる人々の生活をTVの画面が映し出す。実況中継を続ける映像の恐怖は計り知れない。高速道路を疾駆する自動車の運転手、道路を横切る主婦らしき女、同一の時間、見えない人々の姿を目の当たりにする。文化、交通の発達が見えない地域に直結する。正に映像の恐怖である。日々恐怖の中に生きているのに、人間はラジオを聴きTVを見る。距離を一つの集合体として受け入れる。時間と空間を乗り越え、おぞましき集合体に支配される。声高々に興奮しているアナウンサーよ、お前の為に人々が震え上がっている。火災を、交通事故を、歌謡番組を、街の風景を映像として送り、素知らぬ顔をしている下司野郎である。感覚を、人間の英知の中から追いやり、単一的な集合体に変容させている。一つの出来事を共有することを強制的に強いる。同一の認識、同一の思考、同一の行動形態を齎し、個性だの独自性だの言うこと自体巫山戯たことで、お前たちが居る限り人間としての感覚も失われる。そして、映像は瞬間さえも共有化させることで単一的なものにする。動物を飼う人間はその動物に良く話し掛ける。話し掛けることで動物はその人間の思いを感じ取る。しかし、人間は言葉を感じ取ることが出来るのか甚だ疑問が残る。日常的な生活の手段として言葉は使われている。言葉が氾濫している中で、人間が生きる上で必要とする言葉を、基本となる言葉を捉えるなら、生きている価値を、生きてきた価値を、些少であっても見出すことが出来る」
「しかし、言葉も集合体から生まれた」
「言葉にはそれぞれ意味があり、言葉を使うときは必ず意味を持った目的を付与する。一つの言葉に深い思いがある場合、軽い気持ちで使っている場合、余韻を持たせる場合など様々に使い分ける。しかし必ず意味がある。それらは意味を持ち目的があることで生きた言葉になる。また、言葉の裏面に隠されている思いを知るには、何故その言葉を使用するのか、相手が知ろうとしない限り言葉の持つ意味も目的も思いも分からない。一冊の本を手に取り、また一通の手紙を読み始めるとき、一瞬たじろぐ時がある。理解出来るのか、相手の思いを読み取ることが出来るのか不安を覚える。しかし、言葉の持つ意味の正鵠さを知らなくても、雰囲気なり情況を知ることに依って捉えることが出来る。難解だと始めから思うのではなく、一つ一つ言葉の意味を追っていくことで流れが見え全体が浮かび上がって来る。言葉は、言葉の持つ意味を解析するのではなく感じ取ることである。事実や現実は意味を持つことはなく、感覚のみが生きていることの証となる」
「時間を失うことは、自分を失うことになる」
「感傷的なことを言っても仕方がないが、果てしない海、俺はそこに行きたい」
「遣りたいこともなく終わりを迎えることになる」
「それで良い」
「結果論的に意味が無いなら内なる情念は消し去るに限る。そして、俺たちがこの社会を生き延びるには耐えるしかない」
「何れにしても詰まらないことだ」
僅かばかり残る感性や感情は意味を為さない。雅生は自らに問うことを放棄する。道を閉ざすことで安逸な生活を享受しているのに過ぎなかった。
すっかり辺りは静まり返っていた。
産まれて六ヶ月ほどの蝮(まむし)はスルスルと薄の茎を上っていた。そして、初秋の日差しを全身に受け欠伸をしながら目を閉じた。小さくても毒蛇に変わりがない。威風堂々とした態度は、他を省みることはなく、人が通り過ぎようと身動き一つしない。雅生は日差しを背に受け蝮を眺めていた。蝮の影にならないように注意深く気遣っていた。
「何時までそうしている積もりだ」
と、蝮は声を掛けてきた。
「さて」
「お前に聞いているのだ。応えないか、最近この辺りをウロウロしているだろう、一体何の目的がある?」
「別に何もない。暇を持て余しているのに過ぎない」
「良い身分だ。俺たちは間もなく地に潜る。体温調節が出来ないことでひたすら我慢を強いられる。五ヶ月間、無為な時間を過ごしている。恐らく人間共には分からないだろう」
「暗黒の地中に、身動きひとつせず、時間をやり過ごしていることは無為ではない。耐えざる時間、失った時間として明日を待っている。素晴らしいことだと思う」
「しかし、死んでいることと変わりがない」
「出来るなら、そんな風に時間を送りたい」
「多分、と言っておいた方が良いだろう。潜った場所を何時人間共によって掘り起こされるか分からない。そうなったときは死ぬ以外ない。しかし、それも運命だと諦めるより仕方がないだろう」
「運命を口にするとは思わなかった」
「蛙を喰い、蜥蜴を喰い、蟷螂を喰う日常が理解できるか?蛇に生まれてきたと言えばそれまでだが、人間共と同じように立脚点のない生活をしてみたいものだ」
「意味が分からない」
「意外な答えだ。お前たちの日常は、生きる為に必要な闘争心を失っている。平々凡々とした生活に慣れ親しみ惰眠を貪っている。楽しいだろう?」
「立脚点がない?」
「惚けた日常、飼い慣らされた日常、日々の糧を追うだけの日常、単なる生物として生きているのに過ぎない。芸術も文学も政治も一部の為政者のものであり個々の人間共には関係がない。地下で時の過ぎ去るのを待つ俺たちと変わりがない」
「確かにお前の言う通りだ」
「そうかな、良い思いをしてきたお前に何が分かる」
「妬くな」
「快感のみを求めているお前に、綾は良い女かも知れないな」
「生きる必要はない。綾との情交は唯一支えになっている」
「お前に取って代わるものは無限にある」
「お前には自由がある」
「夏だけの、喰うか喰われるかの自由に過ぎない」
と、蝮は川辺の日溜まりに遊びながら言った。
「それでも生きていることの快感を味わうことが出来る。肉体的にも精神的にも満たされることだろう」
「関係を捨て、社会を捨てたルンペンであるお前の方が享受しているだろう」
「捨てたくて世を捨てた訳ではない」
「誰にだって理由はある。しかし後から付け足したものであって、その瞬間から生き方を変えている訳ではない。人間を対象にすることは間違いで、生きることは自身との対応に過ぎない。俺のように生殖の時のみ対応すれば良いのだ」
「俺に失う物はない」
「喰う為にのみ存在し、そして必ず終焉を迎える。関係を絶つことで本来の姿が見えてくる。人間社会に在りながら自らを部外者としたお前の生き方に共感する」
その時激しい飛沫が襲い、蝮は一瞬怯んだ。
「水流に呑み込まれてしまえば俺は終わる。今が良いチャンスかも知れない。そう思いながら六ヶ月が経ってしまった。死に対する恐怖が徐々に身体を支配しているのかも知れない」
「それでは俺が先に飛び込む。後からついて来い」
「その必要はない」
「お前が呑み込まれるのを確認しようか?」
「これは俺の問題であってお前には関係がない」
「遺伝子を組み替えることで状態を変える」
「馬鹿は死ぬに限る。雅生、歴史を変えることは出来ない。そして、進化してきた過程は否定できない」
「そうかも知れない。しかし変えなくてはならない」
「お前と話をしても仕方がない。俺は飛び込む」
雅生は自分の言葉について意味と目的を持っているのか考えていた。それは、自分自身を分析することであり、日常の意味と目的を問うことになる。十八歳から既に四年が過ぎていた。しかし現況の生活の中に、自身を問うことを放棄した思いがあり、挫折した感覚を持っていた。持続的な集中力や、瞬間的な情念を引き出すには、自らを鞭打ち、生きてきた過程の殆どを否定しなくてはならない。そうすることが唯一残された道である。
渦巻きのように海底に潜り込んで行く様は、誰もが望む死に方である。海の藻屑になることで自らを美化する。それは、一つの偶然を追い求めるような死に方でしかない。しかし誰にでも許された行為である。
十二 乾き
夫々他者には分からない自分だけの疾患がある。夏の日差しが急激に射し額の左半分からボタボタと汗が流れてきた。刺激される汗腺は身体の左半分だけである。寒さを感じるのは右半分なのに暑さは左半分である。生まれたときからそうだった。そして、二十二歳になる今でも身体の基礎的な変調は変わることがない。日常的に苦痛に思うことが無くても、ふとした瞬間に感じてしまう恐れがある。それを、誰にも悟られないように自己の内面に隠さなくてはならない。況して、知られたとなると、その苦痛は数十倍に膨れ上がる。雅生にとって、肉体の苦痛は精神的な苦痛と相乗しながら自らを圧迫していた。
一気圧の筈だが少しずつ気圧が低下しているようだ。低気圧の中心部が近付いているのかも知れない。頭蓋骨が圧迫され痛みが外側から中心に向かっている。脳の中心まで行き着くのに数分と掛からない。痛みは、中心に着くと増幅しながら反響する。そして、脳全体に拡がっていく。雅生は水を少しずつ飲み始めた。喉の渇きを癒すかのように、脳に水を与えることで飽和状態を作り出す。気圧が一定になれば痛みは和らいでくる。しかし、痛みに替わって飽和状態になった脳細胞は緩慢な圧迫感に支配される。
拘束される為に時間を気にしながら職場に向かう。それが生きることである。相反する行動を意識的に行うことで得る為に失う。しかし生きる為、生活する為には仕方のない行為である。
「こう言う生き方しか出来ないことも事実だが、自身を失ってまで生きる必要がある」
と、飯島嘉典は酔った口調で言った。
「俺が甘すぎるのかも知れない」
と、雅生は応えた。
「飼い犬のように何も知らないか、知っていて権力を持つようになるか、全く革命的に生きるしかない」
「自らの中に埋もれることが良いのかも知れない」
「許せるか、許せないかの問題になる」
「俺は何度も呻いていた。しかし、飯島も結論を出せる筈がない。時間は過ぎて行くものであり、その中で確たるものを構築出来る訳ではない」
「雅生、確かに時間は過ぎて行く。知らない間に時間の中に埋もれる。しかしそれを誰が責められる。一定のことを成し遂げる場合は捨象すべきものを含む。条件を何処に置くかに依って自ずからの考え方も日頃の行動も変わってくる。阿る人間もいれば拒否する人間もいる。生きている情況は意味を持たず、本来的に生きて行くことは自分自身との闘いであると言って良い。要するに、置かれた情況よりも自分が目指そうとしていることが意味を持つことになる。そして、目的が何処に置かれるかに依って全く違った生き方をするようになる」
「それぞれが必要なことをしているのに過ぎない」
「山深い田舎を旅行して何時も思うことである。道があり、数件の家があるだけなのに酒屋がある。また、ビルが建ち並ぶオフィス街を歩いても酒屋がある。又、食堂と言われるような場所の全てに酒は置いてある。酒は最早人間の生活から切り離すことが出来ない代物になっている。原始の社会から今日まで一滴とて途切れたことはなく、生活の総ての部分に渡って酒は入り込んでいる。家族のなかに飲兵衛が居なくても何処の家にも酒は置いてある。酒を飲まなければ一日が終わらないのか、身近に酒を置かなくては安心して居られないのか、歌の世界も演劇の世界も常に酒が纏わり付いている。世界中に氾濫する酒類は恐らく何万と言われている。しかし酒は人々に何を齎すのか、喜怒哀楽、感情の個人的なことから、世界情勢や、社会的出来事の総てに渡って感情の動きに会わせて酒が巡り歩く。酒に依って、その感情を依り刺激的に増幅している」
「何が言いたい」
「所詮、自我を忘れる為に酒を飲み生きている。しかし、乾きが癒えることはない」
「それは関係に於いても同じだろう」
「人間には誰でも係累関係がある。動物たちの間では一定の時間が過ぎると関係そのものが解消してくるが、人間の場合はなかなかそう言う訳にもいかない。日頃は離れ離れに生活していても、祭事がある場合は色々集まってくる。その集まり方も尋常ではない。従兄弟くらいは二、三十年経っていても分かるが、その子供となると五里霧中である。全く持って係累などと言うのはそう言う類のものであり、日本中から世界中から珍品種が集まって来るようなものである。しかしDNAや血液の一部が同じ形態、型式を持っていても、街中で会っても、隣り合わせで電車に乗っていても気付くことはない。誰もがそう言う経験が少なからずある。日頃よく顔を合わせていた人間が自分と血が繋がっていたり、親戚関係であったり、不可思議な経験がある。しかしそんな関係は、俺にとって単なる負荷に過ぎない」
飯島は話を続けた。
「そんな関係を永遠と続けているが、人間関係など一定の筋道が有ればこと足りる。筋道通り話すことで十分相手に通じる。英語を理解出来ない相手に英語で話し掛けても恐らく理解できない。理路整然と話しても、相手が言語の共有を持っていない限り通じない。社会は、一定の共有する時間、社会関係、生活を持っていて、その中で共通する言語、価値意識、共有概念を持って安定している。しかし互いに理解し合うことが出来ない。親と子、夫婦間、恋人同士、同じ年代の仲間でさえ理解し合えない。しかも理解しないまま平然と過ごしている。一定のルールの中で社会生活をしているのであって、それ以上の関係を求めること事態煩わしくなる。個の生活が重要視され、個と個との関係は相互に十分納得している。短い人生に無意味な関係を結ぶ必要はない。多少の誤差や齟齬があったとしても構わない。しかし残るものは何もない」
「確かにそうだろう」
「文化は人間の進歩に寄与していない。優しさ、人間らしく、そんなものは始めから有りはしない。豚と同じで、喰って飲んで放って寝ているのに過ぎない。人間共を見るが良い、文明や科学技術を発展させたとしても、其処には文化と呼ぶべき生き様は疾うに失せている」
「最早、行き着くところがない」
「そうなってしまった。反面、誰もが安定した生活を望んでいる。青春時代は否定され地域の枠に填め込まれる。加齢は内に芽生えた乾きを癒し人間としての意識を捨てる。俺も何れそうなるだろう。そして平和な日々を送ることになる。雅生、瞬間的な情熱は瞬間的な情熱でしかなかったと虚しさを知ることになる」
「個別的に考えるとき線引きをしたくなる。しかしそれさえも虚しい作業となる」
「評価する、批判する、判断する、しかし自分のことになると何れ肯定する。そんな生き方が許される筈がない」
「しかしお前の言うように、何処で生活しようと、その中に組み込まれ自分自身を失う」
「俺はもう嫌になった」
「そう言うな、一つや二つの思い出は誰にでも有り、その思い出を一つ一つ紐解くことをした経験がある。思い出はフッと気が抜けたような時や、疲れた時、苦しい時などに襲ってくる。思い出、過ぎた時間は、人の意識を決定付ける力を持っている。しかし過去は現在に繋がることはない」
「論理的に間違っている」
と、飯島は言った。そして、「瞬間は、その時、その時のものであり過去も未来も必要ではない」と、結んだ。
「詰まり、時間の継続を認めない訳だ」
「積み重ねが結果ではなく結果はその瞬間にしかない。俺はその時間を生きていきたい。雅生の言うことは分かる。しかし何時までも乾いた儘ではいられない。自己防衛反応かも知れないが保守的になる。しかし、誰も責めることは出来ないだろう」
「誰もが自分の生きている時代以外知ることはない。そして、歴史は単なる過去の記録である。お前がどの様な生き方をしても何ら問題はない。それが、その時代の記録に残るような歴史に関わっていたとしても意味を為さない」
「単純な情念に支配されたいときがある。生きる意味が有るとすればその時だけかも知れない」
「何もかも失うことになる」
「しかし、殲滅(せんめつ)されようとも闘わなくてはならない。それが人間としての矜持ではないか、雅生」
「矛盾していることは分かっている。しかし、守るものが無い」
「死に対する恐怖、そして、無為に対する恐怖を越えなくては無理だろう」
「俺には出来ない」
「そうではなく、その情況に陥るのだ。考えることも感じることも必要ではない。その時、始めて乗り越えた情況になる。乾いた儘でも生きなければならない」
「乾いた儘?・・・」
と、雅生は言った。
類推して行くと何も残らない情況がある。しかし、脱却しなければと思いながら抵抗感が無くなっている。茫洋と霞む雲海に居るような、精神が肉体から遊離しているような感じである。雅生は、確かに雅生の精神と共に生きてきた。自己を意識することで感覚的に生きていることを知っていた。しかし、その後の雅生は意識を失って行く時の態を保ちながら生き延びている。そんな風にしか生きることが出来ず、癒されない意識を持ち、物事に熱中することの無い中途半端のまま暮らしている。
集中、熱中出来る物が有り、寝食を忘れ取り組むものが実際あるのか、否、独裁者のように、総てのことを一点に集中させるものが有りはしない。平和呆けした世の中に生死を彷徨う戦いがある筈はなく、人間が、人間として生きられるような世界も、人間を捨てるかも知れない懊悩の絶壁に立つことも有りはしない。ピンボケした写真と同じ歴史社会に生きていて、頭の中もカラカラと空洞化している。所詮、取り留めのない空想物語に時間を潰し自慰することしか知らない。しかし、全く違った方向に行くことが可能な情況の展開も有り得るだろう。何時までも同じ儘で進んで行く筈はなく、一瞬にして情況は変容し、人間の感覚も考え方も瞬間的に変わる。正常だと判断する材料でさえ信用出来ず、人間の言う議論に議論を重ね、慎重に決断したものほど信用出来ない。一人で生きられない限り徒党を組み、群を為す。全く馬鹿馬鹿しいことである。
否定は繰り返し行うことで明確に見えてくる場合がある。しかし人間の弱点は、他者に身を委ね責任転嫁するところから始まる。繰り返される日常を刹那的に生き、その瞬間に憩いを求める。それで良いと言えばそれで良い。が、しかし、と考える。
十三 死海
何もせず時間は過ぎて行く。そして、過ぎ去った時間を戻すことは決して出来ない。雅生は自明の理と知りながら決して理解出来ないだろうと思っていた。一分一秒が静かに時の中に消え、鳥が囀り、花が咲き、空気が流れる。
雅生は真っ黒な鳥になって上空高く飛んでいた。カラスに似た鳥だったが、大きさはカラスより幾分大きく、鷲の眼孔のような鋭さを持っていた。声を出そうとしたが、嘴から呻き声のように『ウーウー』としか発することが出来ず弱々しさを与えていた。鼓膜の感覚が悪いのか、雅生には自分の声をそんな風にしか聞こえていなかった。
眼下に目が覚めるほど青い海が拡がっていた。暫くの間上空から眺めていたが、軈て引力に引かれるように落ちていった。
「雅生、やっと着いたな。此処が死の海である」
「死の海?」
「待ち望んでいたお前の帰るべき故郷である。誰に遠慮する必要も無く勝手気ままに過ごすことが出来る。束縛もなければ自由もない領域である。最早何の不安も心配もない無の海である」
「俺が望んでいたものは無ではない」
「お前の願っていたものは自らの意識を捨て、唯、生きることに専念する森のリスのような自然である。此処こそが、その自然に相応しい場所である。懈怠(けたい)も諦念もない空間で自らの生命の燃焼を見るが良い。何故、人間は時間に拘束されるか考えたことがあるか?生を受け、死ぬまでの時間など取るに足りない。雅生、海の底を覗くが良い、蠢く人間たちの姿が見えるだろう、それがお前自身の過去である」
「俺たちは確かに生まれてきた。しかし、近代以前的な身分制度の枠に填め込まれている。単に一つの生を生きているのであって、自身を価値付けるようなものはない」
「脱却は可能だろう、方向を持たないことで自分自身が見えて来るようになる」
「簡単に言うな」
「真理は依り細分化された処にしかない」
「確かにそうだろう」
「自由に考えることは単に都合が良いだけである。しかし、現実に束縛されている限り無意味なことである。執着などするから疑問に思い勝手に行動する」
「何だって良いではないか、所詮意味など有りはしない。俺が思い考え行動する。正であっても負であっても何ら意味はない」
「投げ遣りになっても何も生まれることはい。雅生、無意味であったとしても見ることは出来る」
「価値はない」
「それで良い。しかし、何れ人間の社会は終わる。高速道路を走った後フロントガラスには無数の虫の死骸がへばり付いている。雑巾で擦っても破裂した体液は消えない。虫が悪いのか、激しいスピードで走ったことが悪いのか、小さな虫を殺したのは人間である。何れ、人間対して虫が死を持って復讐する。フロントにへばり付いた虫どもに何時か喰い殺されてしまう。エンジンに、車内に、虫の死骸や悪臭が立ち籠めるようになる。骸にしがみつく虫たち、その体液によって融けていく。正にお前が求めてきた情況である。傷痕を残さないことが生きていた証である」
「成る程、お前は賢い」
「道路を歩いていると頭上から鳥の糞が落ちてきた。逃げようと思った瞬間、糞は其奴の脳天に落ちた。糞は髪の毛を伝わりこめかみに流れてきた。慌てた其奴は余所の家の外(そと)水道に走った。家人の許可も得ず栓を全開にして頭から被り続けた。どうにか糞が落ちたと思った瞬間、水が襟元から身体の中に流れ込んできた。ビタビタとした襟首、腹の辺りが冷たくなっていった。終わった瞬間から逃れられず、捉えられた儘の時間が始まっている。逃れられない情況は何処にでもある。知らないか、見過ごしているのに過ぎない」
「詰まらないことだ」
「しかし其奴は負ける訳にはいかない。足許はドロドロする沼地だった。何故、裸足で入り込んでしまったのか、踠けば踠くほど足許を取られ沼地に填り込んでいく。ズルズルと滑る泥土は足首から臑まで来ていた。其奴は足の動きを止めようとした。すると全身がブルブルと震えだし、其の振動の為太股まで泥に填っていった。最早逃れる術がないように思った。あと二、三分も経てば、其奴の全身は底なし沼の泥に飲み込まれてしまう。そして、泥沼の底で死を迎える。【待っていた瞬間が来た】と、耳許で囁く声がした。【俺と知ってのことか】・・・【そうだ、お前の来るのを待っていた】・・・【用意周到に準備していた訳だ】・・・【逃れられないのだ。情況を変えようとしても無駄なことであって、踠けば踠くほど死海に近付くことになる。考えることも感じることも必要としない世界は、遺伝子と単体細胞のみによって生きる理想の社会である。自分以外の声に耳を済ませるのだ】・・・【無意味なことだ】・・・【人間の活動は自らを呪縛することにある。永遠に続くと言う神話から逃れることがない限り自身を解き放つことはない】・・・【もう良いんだ】と、其奴は逃れたかった」
「死海は望まなくては得られない」
「得られたとしても頽廃から逃れられない」
「頽廃?」
「頽廃まで行き着くには幾つかの条件が必要である。その条件をクリアしない限り頽廃と呼ぶには相応しくない。詰まり、行動することを無意味だと思い自分自身に価値を認めない。執着していたものが無くなり生きることを不条理だと思う。生活上の一切の価値を捨て、虚脱感に支配され意識が荒み価値を喪失する。しかし、日常生活も仕事も何の変化も無く行われる。毎日が一定の条件を満足させ、周囲に居る人たちとの接触も会話も何の変哲もなく行われる。頽廃は、その人間の内面だけの問題であり周囲には理解されない。理解されようと思わないし語っても仕方がない。人それぞれの感じ方も考え方も相違し、右もあれば左もある。目的を持って生きている人間もいればのんべんだらりと生きている奴もいる。しかしどちらであっても良い。一生懸命仕事に没頭して、家族の為に生きることも、自分自身の為に生きるでも良い。しかし、其処に具象化される本人は何も感じない。感じないどころか喜悦も苦痛も超越しているかも知れない。とどの詰まり、自分を意識する必要はなく全くの阿呆と言って良い。恐らく頽廃などとは無縁の情況が現出している、そんな人間である」
「何れ境界線があるのかも知れないが問題はない」
「しかし雅生、地団駄を踏みながら越えることになる。その時に戻る内的な世界こそ死海である」
「それさえ下らないと言っているのだ」
「仕方がない」
日差しの強い午後、整備された公園を何時も通り眺めていた。公園には様々な花があり、手入れの行き届いた雛壇に赤や青の花が順序よく並んでいる。人間の手によって管理され、必要に応じて咲くことを許された花である。しかし枯れ始め、景観を損ねるようになったとき根こそぎ抜かれる。人間の為に植えられ、人間の為にのみ一生を終える。生きるに値しない管理された生命である。
雅生は、自分の周囲で異様な臭いを感じていた。小さな昆虫や花々が悪臭を発散している。交尾に必要なフェロモンを放出していたのだろう、しかし最早悪臭である。同一個体の集中化は他種族の聖域まで破滅させる。そして、何時しかその地域そのものが死滅する。逆襲は単体で出来るものではなく集合する蟻のように一斉に襲い掛かってくる。
「我々も復讐しなくてはならない」
「そうだ、人間の息の根を止めなくてはならない」
「進化は我々が生きる為にある。体内の組織を変えることで一斉に攻撃に出る。地上に生きる場を取り戻すことで歴史を戻さなくてはならない」
「否、俺たちには何も出来はしない。こうして咲いているだけで十分だ」
「馬鹿野郎、お前のような奴が居るから人間共がのさばるのだ。今こそ結集して悪臭を発するのだ」
「俺たち昆虫の世界も終焉を迎えるのだろう」
と、蟋蟀が言った。
「仲間たちが生きる地表を奪われ死んでいる」
「復讐を人間共にしようじゃないか」
と、蟷螂が鎌首を研ぎながら言った。
「街々で集中的に襲えば、人間の一匹や二匹殺すことが出来る」
「そうだ、一斉に襲い掛かろう」
「この鎌で人間の首を切り落としてやる」
蛾や珍しい鍬形も飛んで来た。
「人間どもに復讐を!!」
「この地上は元々我々昆虫と植物の世界である。それなのに何故我々だけが死に絶えるのだ。それも総て人間共がのさばりだし、自然環境を、地域を変えてきた。それを自分たちが生き延びる為と称して傲慢にも正当化してきた」
「この暑さの為に木々が枯れだし草花が芽を出さなくなった」
「この俺が」と、蛾が言った。「俺がいなければ交配しない植物があることを知らない。しかし体力を奪われ自身が生き延びる力さえ失われている」
「斯うなったことも全て人間が勝手な行動をするからだ。その為に俺たちは滅びることになる」
「集団を形成することで生命の存続を図る。自然に支配されることは類が生き延びる唯一の方法である」
「傲慢でないことが集団の掟である」
「欲望には限りがない。しかし、その事が破戒の始まりであり破滅への道である」
「阿呆が資源や環境を食い潰す」
「僅かな時が支配した」
「死海、最早戻ることの出来ない死の海」
「唯、死を待つことはない」
「騙されるな、歴史が証明する」
「単なる偶然が理解出来ない人間共に資格はない」
「糞どもを殺せ」
「殺せ」
変わらないと思っている生活は加齢を含んでいる。時には旅行に行き、買い物をして、外で食事を摂る。しかし同じことを繰り返しているのに過ぎない。生活とは何の変哲もない日常の繰り返しであり、十年、二十年と続いて行く。しかしそのことは、他を犠牲にして成り立っているのに過ぎない。雅生は殺せと言う言葉を確かに聞いていた。何も無い日常の中に欲望と傲慢のみが潜んでいる。日常を省みないことで、日々の生活が成り立ち歴史と言う残滓を残す。しかしそんなものに価値も意味も有りはしない。
ポケットの中に手を入れると小銭がジャラジャラと鳴った。この小銭を使ってしまえば無一文だった。無一文という状態を経験したことはなかったが、金が無くても何とかなるだろうと思った。レストランで食事をしても前払いはなかった。レストランの主人も、客は支払い能力が有るものと見なしている。社会生活に順応しているからには、そのくらいの犠牲を支払っても当然である。
十四 不安
当てのない生であっても、生きていることが雅生を支え一日を過去に押し遣る。気怠い午後の一時、工藤雅生は夢想の世界を彷徨っていた。
「神に祈っているのは自分であって自分では無い」
と、伸三郎は言った。
「しかし、お前が祈っているのだろう?」
「祈り始めは神前の前に鎮座する。しかし、祈り始めて直ぐ自分を意識出来なくなる。体内から自分が消滅してしまうような、昇華するような感覚になる」
「神に召されているように感じるのか?」
「否、一体になる」
「お前が神になっていると言うことか?」
「そう思う。神と人間の間を行き来している。行き来している間に神に変身する」
「覚醒するのは何時のことだ?」
「眠りから覚めたとき始めて自分に気付く。まるで夢の中の出来事のように感じる。しかし祈りに入るときのことは知っている」
「その間の時間は?」
「二、三分の時もあれば一時間以上の時もある。しかし、その時のことを回想しても何も覚えていない。意識を失っているように感じるが意識体としての自分の儘である。俺は俺で在りながら俺を超越している。意識の移行や共有が行われているのではなく正に俺自身である。俺は神であると言って良い」
「夢の中では無いな?」
「夢ではない。眠りから覚めると言っても俺は正座しているか、その場を歩き回っている。俺が何をしているかは周囲の人間たちが知っている。詰まり、先験的に行動して言葉を自分のものとしているのであって、其処には俺自身が居る。予言するのではなく、正に現実に起こり得ることを、未来を読み、過去を知り、内的には言葉を知悉し、発している。多分、お前には観念過ぎると批判されるかも知れないが事実である」
伸三郎の話は綾の話に似ていた。個性は個としての意識下の出来事である。しかし、綾は店の入り口を潜ってから出てくるまでの時間の経過を知らない。意識が失われるのではなく、意識とは別なものに支配される。綾で有りながら綾の時間は失われている。綾にとって意識下されない意識とは何を意味するのだろう。
「家の近くに祠があった。何が祀られていたのか俺は知らない。子供の頃そこで寝ていたことを憶えている。夏の暑い日の午後ことだった。何時もなら木影になって陽は射して来ないのに、その日は一切の木々を取り払ったかのように燦々と陽光が降り注いでいた。見上げると、天空から降り注ぐ陽は俺を吸収して仕舞うかのように依り激しくなり、脳天から身体全体の水分が蒸発するようになっていた。その時、俺の意識は俺から遊離した。虚空を彷徨(さまよ)い、意識する意識を探していた。神と一体となるときである。自己を規定する一切の物から脱却する。そして、自分自身を意識出来なくなったとき俺自身が消滅する」
「これからどうするのだ」
「普通のサラリーマンとして生きて行くだろう」
「自己を消滅、脱却出来るような人間が生き抜いて行く姿が見えない」
「お前と同じように、生きるには値しない人生だと思っている。要するに日常の連続が加齢を迎える。気付いたときは三十歳になり四十歳になる。それだけのことに過ぎない」
「しかし、生きなくてはならない」
「安住の地は何処にでもある。他に阿ることなく自立した生活は確かに可能である」
「しかし、自分を捨てることになる」
「それで良いのだ。神と一体になるなど有ろう筈がない。個として可能なことがあるかも知れないが無意味なことである」
「自分の思いに反することになる」
「否、俺は何も期待しない。仮に得たとしても人生の終末が見える。田舎の祠に籠もり俺の肉体は蛆虫が這いずり回っている。神、神などと言っても蛆虫には勝てない」
「目の前の蟻や蚊を殺す」
「殺さなければ何れ自分が殺される」
「干渉しないことが求められる」
「雅生、最早そんな時代ではない。俺は、自分以外何も理想としない」
「内面の虚しさを捨てる場所がない」
「誰でも一度や二度不安になったことがある。生きることの不安、仕事に対する不安、勉強に対する不安、恋愛の不安など、身近には乗り越えられない不安が山ほどある。不安は人間の精神活動を活発化させる。それは、頽廃的な日常生活から抜け出すことが可能な因子となる。葛藤が起こったり、選択を迫られたり、焦慮のなかで自分のことを考える。時が経つに連れ、徐々に解決されてくることも有れば、より深く受け止めることもある。しかし、そのことが日常を支える」
「直視しても差別意識から逃れることは出来ない。信仰は個別意識の極端な表現でしかない」
「不安になれば逃れようとするが生きている限り時が解決する。所詮遺伝子によるコピーに過ぎない人間は、同一の染色体の一部分が入れ替えられることで生き延びる。しかし、何れ遺伝子の復讐により人類は滅亡する」
「コピーか」
「そうだ。遺伝子に支配されているのに過ぎない。雑多な種類が生きている。個性、知性、感性、人生観など独り善がりを言っているが、山羊にも牛にもある。実際お前も単なるコピーに過ぎない。意識する意識も、現実も、虚構の世界ではないと誰に言える。総ての歴史が劇場の演劇に過ぎないかも知れない。披瀝しない自己意識を自己のものだと錯覚することは容易(たやす)い」
「俺は俺自身であることを喪失する」
雅生は深く深呼吸をした。
「そう言うことだ」
「しかし」
「先にも後にも何もない。それで良いのだ」
「僅かな時間を生きる」
「しかし金が必要である」
「その金と地位を得る為に自らを喪う」
「ジャングルの中で誰にも知られず生きることも可能である。天敵は知識であり血液関係であり国籍である。唯、それさえ時間の経過と共に消滅する」
「限りない未来は・・・」
「雅生、止めろ」
「意味が無いと知っている」
「阿弗利加(あふりか)を見ろ、中東を見ろ、皆殺しにされる」
「何の為に生まれてきたのか・・・」
「完成された人間はいない。また、一定の法則は歴史のみにあり変えることは出来ない。雅生、俺たちは何れにしても必要のない一生を終える」
「認識の方法は肉欲、食欲、金銭欲、自己認識の方法はいたぶる。しかし知らない内に生の原点を越える」
「しかし、取るに足りないことだ」
「俺は理解したい」
「理解出来なくて良いのだ。相手を理解したとしても何かが生まれる訳ではない。人間関係の怪奇さは複雑窮まりない。理解しようにも情けない話だが出来ない。また、そんなものに関わりを持つほど暇ではない」
「カラス擬きが空中から一匹の蜥蜴を狙っていた。しかしその蜥蜴が自身であることを知らない。自分を喰ってしまう愚かな人間の姿に似ている。喰ってしまえば始めて自分であることが分かる。喰う前には決して気付くことはない」
「所詮、その程度のことである。単一的な生活は単一的な思考に導かれる」
「しかし何処かで日常の区切りを付ける必要がある」
「他人にとって遊びであることも、実行している本人にとって真剣であれば、それは遊びではない。社会に対峙するとき、自分自身に対峙するとき、本来的に一時の時間も無駄に出来ない。そんな生き方をしなければ何時かは自分自身を失うことになる」
「所詮、矛盾などと言っているのに過ぎないだろう」
「世界は統一に向かっている。それは、信仰によっても武力によっても構わない。しかし歴史は何も証明せず異端のみを生み出す。身の回りの喜怒哀楽に攪乱され道理を失う。英知などと言う前に自らの逃げ道を確保する。しかしその事を一秒過ぎる毎に忘れ、俺もまた同じ部類に過ぎない」
「確かに歴史は殺し合いをしてきた。恰もその事が生きることの証明のように感じ、自らの安住の地とする」
「これから数万年後の未来を知りながら、同じ事を繰り返している人間に何の未練がある筈がない」
「為政者が権力を執行するとき、歴史は数々の隠れ蓑を創り出してきた。人々はその度に翻弄され捨てられてきた」
「矢張りこのままでは終わりたくない」
と、伸三郎は言った。
「俺は・・・」
「力を持って征するしかない」
「俺は・・・」
遅々として時間が進まなかった。何度も時計を振り返ったが一秒も進んでいないように思えた。実際、置き時計が止まっていたのかも知れない。雅生は時計の中心に視野を移した。秒針は一秒一秒と確実に時を刻んでいる。一分、二分と時が流麗に過ぎたが、秒針は突然動きを止めた。そして、暫くするとまた動き出した。目の錯覚かと思ったが一分、二分過ぎるとまた同じことを繰り返した。時間が遅れているように感じたことは無かったが継続した時間が遅れていた。一日という時間に変化は無くとも、失っている時間、不確実な時間を内蔵している。空間の中にある無空間、宇宙にある暗黒のような、一見矛盾しているように見えても、真理であるような逆説的な時間なのかも知れない。人間は確定することの無い暗澹とした時間の中で生きている。そして、捉えることの出来ない時間は不安のみを残す。
伸三郎は奮い立つ内なる思いを捉えていた。歴史の証明となる生き方が出来る筈だと確信していた。そうすることが、唯一自分の生きる道のように思えた。
十五 畏怖
侃侃諤々(かんかんがくがく)と協議を続けていた。夫々が自分の立場で主張を続けている限り纏まりなどが付く筈がない。しかし黙っていることで情況を承認することを知っていた輩は、何であれ主張せざるを得ない。言いたいことは誰であっても言えば良い。会議も喧嘩も命を懸けない限り結論など出る筈はない。
「現状を変えなくてはならない」
と、前沢が言った。
「ほほう、どうしろと言うのだ」
「詰まりは、打破しなくてはならない」
「そして」
「其れだけだ」
「その事によって、俺の破壊された脳細胞が元に戻ることになると言うのだな」
と、今川が言った。
「その通りだ。今までのやり方では何時まで経っても改善が見られない。詰まり間違っていたからだ」
「言っておくが失敗した場合誰が責任を取る」
「責任?」
「責任は取る必要がない。失敗は予想されることだ」
「無責任と言う責任か、失敗することが予想されるのに誰が好んで手術を受ける。全く馬鹿馬鹿しい」
「一々責任を取っていたのでは何も始まらない。犠牲になる奴がいなければ進歩はない」
「人類の進歩の為に、俺の生命を捧げろと言うのか」
「犠牲無くして進歩はない。但し成功する場合もある。その時には一躍有名になる」
「下らない」
「結論は自分で出すことに意義がある」
「失敗した場合責任を取る必要がないからな」
「他人に迷惑を掛けることにならないか」
「迷惑だって?」
「そうさ」
「馬鹿馬鹿しい。厭なら始めから参加しなければ良い。所詮集まって議論しても、俺たちは組織ではなく個々人の集まりである」
「でも、目的を持っている」
「ほほう、目的だって?」
と、唐沢が言った。
「生きる為に闘っている」
「一人や二人殺したとしても生き方が変わることはない」
「世間に震撼を与えるだろう」
「三日も経てば忘れ去られる。ニュースが多すぎてメディアは同じ事を何度も放送しない」
「危機感など有りはしない」
「俺たちの集まりは一体何だ?」
「そうだ、これでは井戸端会議に過ぎない」
「当たり前だろう、一分も掛けて話し合っている」
「否、生命は再生するかの議論だ」
と、金城が言った。
「そうだ、必ず再生させなくてはならない」
「再生したとき人類に新しい未来が開ける」
「俺を犠牲にしてか」
「信頼して貰う」
「誰であっても良いのではないか」
「身代わりは他から連れてくれば良い」
「そう言う訳にはいかない」
「しかし」
「意志が関与していることは自明の理である。俺たちは意識的にやろうとしている。詰まり、理解者のみによって構成されている。実験材料で行う訳にはいかない」
「俺が死んだとき、お前たちの、その後の態度を知りたい。そのくらいの権利はあるだろう」
「今川、そう言う訳にはいかない」
「要するに、今川は悲しんで欲しいことになる」
「感情など、その瞬間的な出来事であり、継続的な意味がない限り無意味である」
「単純化させても仕方がないだろう」
「しかし、瞬間的な感情を持つことは能面面しているより良い」
「俺たちは比較論をしている訳ではない。余計な詮索や中途半端な感情は正誤を誤る」
「格好の良いことを言うのは簡単であるが依存的な考えである。そう思わないか、雅生?」
「行動しない限り迷路を彷徨う」
と、雅生は言った。
「そう言うことだ」
「しかし」
「判断は一度で良い」
「罪に対して心の痛みなど感じることはなかった。しかし残された時間が迫るに従って、今まで感じたことも無かった出来事が蘇ってくる。一人の女が死んだ。死んだのではなく俺が殺したことと同じだった」
と、これまで黙っていた須埼が言った。
「残された時間とは、お前にとってどんな意味があると言うのだ。死を前にしているか、それとも自己を疎外したまま生き続ける以外ない」
「俺は、」
「俺は何だと言うのだ」
「俺は女を殺したまま生き続けるのが相応だろう。雅生のように理路整然と生きている訳ではない。しかし、」
次の言葉が続かなかった。須埼にとって、日常は最早意味を為すことは無かったが、それでも生きることを選択せざるを得ない。情況の変化に流されることで生きる為の糧を得る。しかし、誰にその事を非難できよう。
「単一な動きは眩暈を誘い、目の前で回転する景色は脳の一部を破壊する。しかし慣らされた生活は何も見ようとしない」
「建設的でない限り生きることに値しない。中途半端であることは優しさではなく悪である」
「そんな言葉に慣らされてしまった俺たちは、後一度だけ議論しなくてはならない」
「何れ、俺たちの集団は散り散りになる。しかし何処かに接点は有る筈だ。能天気と言われるかも知れないが、俺はその事を信じている」
と、雅生は言った。
「人間は一つの物に向かって進んで行こうとする。時には振り返って自分の歩んできた道を眺めることも有り、ひょっとしたら、この道は間違っているのではないかと思うときもある。山登りをする人たちが居る。山は其処にあるから登るのではなく頂点があるからの登る。頂点とはなかなか良いものらしい。汗を舁き舁き一歩一歩踏みしめ確実に登って行く。行き着く先が確実に見えるから進んで行く。人生を振り返ったり考えたりする必要はなく前に進むのである。しかし人間は長い一生を過ごす」
と、それまで側で聞いていた金本が言った。
「一生に意味はない」
と、前沢が言った。
「一生の中に何が残せるか分からない。しかし、人間は老後を快適に過ごす為に働いているようなものだ。そこには生きてきた過程や証があるが、人生の目的、目標としているものが単に老後に向かっているのに過ぎない」
「人生は空しかったと、結論を出すには相応しい」
「小さな会社でも大企業でも構わないが、特定の狭隘な社会を人生の最大の場面として過ごし、目的を無理矢理見出そうとする。そして、振り返ることを拒否することで日々充足しているように感じる」
「何れ勝ち組、負け組に別れる」
「そんなことで良い筈がない。しかし社会が安定する為には、苦汁を舐める人間が八割、九割必要である」
「俺たちは長い間生きることになるだろう。そして、気付いた時には何もかも失っている。その陰で細く笑みを浮かべている奴がいるだろう。殺さなくてはならない。殺すことは、自らの生きる地平を切り開くことと同じである」
「個の利益だの、自由だの、権利だの、如何にも全てが保証されているような感覚を与えているのに過ぎない」
「悩み苦しむことは阿呆のやることで快楽は勝者のみが得る」
「議論は内向する情況を切り開くことはない。俺は刺客となり一人一人殺していく。此の地で、一億年も爬虫類である恐竜時代が続いていたことを考えれば人間など虚しい生き物でしかない。確かに頭脳は発達して、宗教だの哲学だの政治や社会だの考えたかも知れないが、そんなことに意味はない。個々人が夫々刺客となり情況を変えていく」
「俺は賛成だな!」
と、須藤が言った。
「喰うだけで良い、そう思わないか雅生?」
「確かに、それ以外に必要なことは無い。俺は幾億年の時を経て生まれてきた。それが正しいことなのか、間違いなのか問うていたことが俺たちを脆弱にする。得たものは、得ようとしたものは不確実な日常と快楽としての情愛でしかなかった。連綿と続いてきた歴史は屈辱と汚辱で塗れ、生きる思いは死を前提にしてのみ表現されてきた。拘束された思惟、陵辱された青春、殺戮された類、閉ざされた時間の中で踠き苦しむことを強いられたとしても、俺たちは生きなくてはならない」
権力は自らの地位と欲望を齎す。誰もが持とうとする欲望の極みであり他を支配する力である。しかし恐怖を感じる人間は、苦しみ、踠き、虫螻のように殺されるか飢えに苦しめられる。それ故、略奪はどんな形であっても許される。生きようとする若者は、草むらに集(すだ)く虫たちと同類ではない。現在は生きる時代で無くても同じ状態が永遠に続くことはない。生きることに内的な畏怖を持つ限り闇を越えることが出来る。雅生も、前沢も、今川も分かっていた。しかし、体制は盤石であり若者は既に死んでいる。目先の快楽に浮かれ他者に依存する行動力しかない。
歴史は変遷することなく独楽のように同じ所をクルクルと回り、管理、統制された時間は、出口のない闇夜の中で埋もれている。そしてジワジワと真綿で首を絞められるように殺される事を容認している。少しだけ楽しかったような・・・思い出も少しは有ったような・・・しかし自責の念は無く、そんな死に方しか出来ない。
十六 分裂した聖域
そう、これは犯すことが出来ない時間である。自分の時間で有って自分の物では無い、そう言う時間がある。意識の移行が行われるか認識して行く場合、互いに相手の内面に入り込む。相手を理解しているとか愛し合うことではない。移行や認識は、同じ主観で認識することで有り共有出来るかが問われる。
これまで工藤雅生は一度も人を愛したことがなかった。愛は失われる。それは自明の理であり失うことで元に戻ることはない。愛することの愚かさは茫然自失した意識のまま生きざるを得ない。人間は愚かな作業を数万年と繰り返してきた。愚かであるとき愛がある。しかし、女を裸体にしたとき其処に何が見えると言うのだ。男を裸体にしたとき其処に何が見えると言うのだ。乳首と恥部があるだけで他に何も有りはしない。
腐り切った人間関係は大学の中にも歴然とあった。同じような人間が生きている限り仕方のないことかも知れないが、腐り切って行くことで、存在することが楽しみであり快楽となる。大学生活は、方向性を持たないことで、金銭的に恵まれていることで、多くのことを考える必要さえない。日々狂態の生活に明け暮れ、人生は快楽だけの為にあると錯覚する。しかし、それが生活である。男は女を求め、女は男を求める。交合することを日々念頭に於いて求め合うのに過ぎず、意味のない、求めることのない生活、日常、日常、毎日毎日が日常だった。
過ぎ去って行くことが日常であり、何処にも生活が有り人々が生きている。しかし日常の意味が分からない。地域の中で生き、地域に束縛され、地域と共に生きるより仕方がない。そして、次の段階は多少なりとも社会的な地位を得ることにある。利得の為、趣味嗜好の為、最大限に欲望を満たす為に発揮する。
足掻いても、足掻いても手の届かないところで細く微笑んでいる連中がいる。その隣には、休む暇なく苦痛な顔をして汗水を垂らしている連中がいる。共通点は同一の時間、同じ社会に暮らしていることであり、唯、それだけのことである。
「人間の命など虫螻よりも劣る」
と、山川が言った。
「人間が人間を殺すのではなく、コンピュータに操作されたロボットが殺す」
「画像を見ながらミサイルの発車ボタンを押す。実に単純で自責の念はない。対等な殺し合いではなく単なる殺戮である」
「しかし、それが現実だ」
「科学技術の発達は人間や生活を豊かにしたのではなく、科学技術がより発達した国が支配する構図を作ったのに過ぎない」
「人道も糞も有りはしない。木端微塵に吹き飛んだ人肉をカラスが啄み、人間として生きる為の信念や思想や価値は餌に過ぎない」
「雅生、何故許す?」
と、上田が言った。
「人間の生き方などと戯言を言っていることが俺たちの集団に過ぎない。力は武力を持って対抗するところから始まる。当然、宗教的な力も歓迎する」
「僅かばかりの与えられた安全な場所、聖域とは、俺たちが暮らしている空間である」
「俺の生きる場所はこのアパートの一室なのか、大学の構内なのか分からない。地域は必要性に応じて存在していたが、一旦関係が切れると終わりになる。地域で生きようとする連中は、地域そのものを拘束しているのに過ぎない。寄り集まることで価値を認め自慰する。そう言う関係しか成り立たない。ひとたび関係が崩れると憎しみに変わる。互いに憎しみを持ちながら地域の中で暮らすことになる」
「喰う為だけで良い、それ以上望むことはない」
と、添嶋が言った。
「確かにお前の言う通りかも知れない。しかし現在はそれを許さない。喰う為に闘うのではなく、単に破戒することに情熱や喜びを感じている。他を犠牲にしてのみ優越感や安堵感を得る」
「文化の問題で有る限り俺は集中するかも知れない。しかし、現実の殺戮から逃避している訳ではない」
「雁字搦めの社会から逃れる術はない。術がない以上、自己の内面に向かう」
「喰う為に進化した人間は、文明という欺瞞に乗じて共喰いを始めた。現在も過去の歴史も変わらない」
「聖域は種族、係累、仲間、個人に限られ、他を侮辱する。そして飢えに苦しむ人間は同類ではない」
「排他的であることは利益を守る」
「詰まり、足掻くことさえ無意味だと思い知らされる」
「自然は自然のままで、これ以上手を入れることはない。ある日の午前、河川敷に数百本の傘が干してあった。一体何の為に、何の目的があって干してあるのか分からない。地面に固定されない限り、風が吹けば何処にでも飛んでいってしまう筈である。俺は思った。あの場所は特殊な地域であり、誰も入り込むことは出来ないのかも知れないと」
「要するに聖域は個の意識の中にしか存在しない」
雅生は何も語ることなく話を聞いていた。そして、虫たちの会話を思い出した。蒸し暑い日の深夜のことだった。街灯に誘われて蛾や蟷螂たちが集まって来た。草陰では蟋蟀たちが集くっていた。夏の宵は虫たちにとって自己主張をする場である。
「雨が少ないな!」
と、蟋蟀が言った。
「少し水分が欠けてきたので声が出なくなっている。否、元々俺は声を持っていなかった」
「暑くて仕方がない」
と、蟷螂が応じた。
「草も少なくなった。自然は徐々に破戒され人間の数だけ増えた。このままでは住む場所さえ無くなる」
と、 鈴虫が言った。
「人間たちの議論を聞いていると、自分勝手なことを言っているのに過ぎない。身の保全を図りながら他の意見を聞かない。同じ穴の狢で有りながら自分だけは先進的だと信じている」
「巫山戯ていることに気付こうとしない」
「矢張り殺すに限る」
「何れにしても常軌を逸している。俺たちの方が早く住み始めた。しかし進化としては後れを取ったかも知れない」
「そう言うことではない」
「共存することに意味がある。しかし、人間共には決して分からないことだ」
「窒息死させよう」
「それが懸命である」
「一気に襲い掛かり一匹ずつ確実に殺していく」
「俺たちが何を望んだと言うのだ。何も望んだことはない」
「行くぜ」
虫たちは一斉に飛び立った。数万、数十万の昆虫は寝静まった人家に襲い掛かった。
しかし、終わりのない人間たちの議論はまた始まっていた。
「何をほざいている。結論を遅らせても仕方がない」
「蟻には蟻の時間があり犬には犬の時間がある。夫々の動物、植物が内なる時間に支配され生きている。そして、生命の営みは適応することを条件にのみ継続する」
「しかし、自然は犯され河川は整備され尽くしている。こんな情況の中で俺たちの感覚は完全に麻痺している」
「詰まり価値は完成されたものであり、その価値を信奉するときのみ生きる聖域が与えられる」
「議論をしても仕方がない」
「夫々が生きたいように生きるとき、接点があるのかも知れない」
「失ったものを取り戻そうとする必要はない。達観している訳ではなく静かに死の時を迎える」
「個は、個の領域から抜け出すことは出来ない。しかし、何れにしても短絡的に行動している限り情況は変わらない」
「感情や感覚は育たないだろう。そして、刹那的であるとき社会はそれを利用する。単なる一般的な出来事として処理できる。実に便利な代物である」
「規制、規則、規律、そして法律、誰も知ることのない法律が笑っている」
「そんなものに支配され、犯した罪や行動によって刑罰が科せられる。理不尽であろうとなかろうと、税金を払い、連中を喰わせ、挙げ句の果て其奴らに愚弄される」
「安定した精神の持続を維持することは大変なことだ」
「しかし、人間にとっての喜怒哀楽も生きて行く日常性も同じ様なもので、体内に受け継がれているものを、人間関係の中で引継、其処から逃れることが出来ない」
「狸や、狐や、蟻が生きているのと変わりがない。人間の奢りの為に他の生命を犠牲にすることなど許される筈がない」
「そうだ。偉そうに生きている人間は復讐の対象である」
懺悔することのない人間の群に、昆虫の復讐劇は始まろうとしている。しかし昆虫の復讐にも関わらず、蜜蜂は蜂蜜のことに夢中になっている。自然の継続性など持続出来る筈がない。所詮、繰り返される生命活動に意味など有る筈がない。
雅生は遠く風の音を聞いていた。無意味な音だったのかも知れないが微かに心を揺さぶられた。頽廃と化した自然、雅生は人間たちから遊離して自分だけの安住の地に来ていた。誰とも会話をしなくて良い世界、それこそ安住の地である。日常を越え、歴史を越えた生活感のない場所である。其処から見える風景は、一秒たりとて停止することのない人々の流れが続いている。遠く地球の姿が映っている。人々が犇めき合い右往左往している姿が見える。そして、何時しか人間たちは死に絶え、鼠とゴキブリと少数の生き残った生物が狼狽えている。斯うなることは予想されていた。地球にとって楽しい一時が始まり、四十億年の歳月を遡ることだろう。国も、社会も、法律も、全て無意味なことなど始めから分かっている。人間に生まれたこと自体が間違いで、二十年間の生自体が必要なかった。そして、自省は単なる自己満足に過ぎない。
欲望は尽きることがなく、人間の歴史は欲望によって支えられてきた。進化しているのではなく、改革も発明も欲望の為に生み出されてきた。「人間か」と、雅生は呟いた。人間であることの意味は何処にも有りはしない。しかし、雅生が求めている人間さえ分かりはしない。緊張している時間が継続しているのではない。連綿と続く時間の中で虚脱した無意味さがある。そして、無意味であることが日常生活を安定させる。「良いではないか」と、雅生は言った。安定した生活からはみ出すことなど出来る筈がない。ガタガタに崩壊する意識は雅生だけのものである。
十七 繋縛
綾は舌を使って陰茎を必要に愛撫した。そして、精液を総て飲み込むと「美味しいわ」と言った。綾の愛撫は何時も雅生を夢の世界に誘う。
「雅生、良かった?」
「綾の舌使いは何時でも最高だ。綾は?」
「私は感じない。一々感じていたのでは商売にならないでしょ」
「さっきは商売のように振る舞っていた?」
「そうじゃ無いけれど、感じることはないわ」
「それで良いのか?」
「構わない。自分の身体を自由に操ることが出来なくては商売として成り立たない。自分の身体であっても商売の時には自分では無く商品として扱っている」
「商品が金を稼いでいる。その間、何を考えている?」
「分からない。店を出たとき、始めて自分であることに気付いてゾ
ッとする」
「そうすると、その間の意識は無いことになる」
「ええ、自分であることが分からない」
「別の人格が働いているか、全く意識を失っていることになる。店に入る瞬間、意識の喪失が起こり店から出た瞬間蘇生する」
「難しいことは分からないけれど、店では名前も変わっているからなのかも知れない」
「仕事以外の場合は?」
「時々ある」
「例えば?」
「私の趣味は万引、其れも高価な物しか狙わない。でも、ゾクゾクするような緊張感も興奮もないまま盗んでいる。私が行動しているのに私では無いように感じるけれど、店から出たとき矢張り私なんだなと思う。緊張感は私を支配して、しっかりと必要な品物は手中に収めている。品物を眺めながら仕合わせだと思う」
「違うな、其れでは綾は綾のままである」
「私、正常なのね。良かった」
「どうかな、楽しみや無関心は自分を正常と思わせるが、沸点を過ぎると水が蒸発するように霧散する。どこかに生理的な限界や意識的な限界があるのだろう」
「意識が無くなる瞬間、私の体内で何かが変わる。気付かないまま同じ事を繰り返している。しかし振り返っても自制心は働かない」
「時間に取り残されたようになる」
「多分そう思う。失った時間は許に戻ることはない。時間を捨てながら生きているのに、私の場合は余計に時間を捨てていることになる。戻る筈のない時間の為に今がある」
「しかし、時間の経過を知らないことが良いのかも知れない。所詮どんな奴も時間に拘束されながら生きている。現実の時間を意識しようが仕舞いが関係はないだろう。呪縛から逃れられない」
雅生の言葉も行動も曖昧であった。曖昧であることによって許容するように出来ている。所詮自分を許すことで誰もが同じように安逸な生活を貪るようになる。雅生にしても同じで、対峙するなどと綺麗ごとを言っても始まらない。こうして夜な夜な悶え苦しみ、一日を無事過ごせたことに安堵する。確実であろうと不確実であろうとどちらでも良い。価値は求めようとするから生じるのであって、求めなければ安逸に暮らすことが出来る。
重みに耐えかねて植物は自分の枝を折るか内部から腐り出す。そうすることで生き延びようとする。蛸が足を切り、蜥蜴が尻尾を切り落とす。そして、生きる為に耐える。人間とて同じ事で、許容出来ない範囲を越えたとき無視するか居直る。居丈高になることでその場を逃れる。また、関係を絶つことで新しい明日に向かう。所詮ひ弱なだけで、生き延びて行く為に有りとあらゆる手段を講じる。しかし、それは生命維持の為であって本来的に生きることにはならない。所詮、生きるなどと戯言を言っても始まらない。
「綾」
「なぁに、雅生」
「綾と一緒にいたい」
「私も!」
「生きることが出来なくても良いのか?」
「一緒に行きたい」
「これから先、得る物が無くても?」
「もう全てが終わった」
「何処に行こう?」
「外国」
「シベリア?」
「そう」
「そして、始まりがあるかも知れない。綾、」
「貴方と一緒なら」
「何処かで救いを求めているのかも知れない」
「それで良いのだと思う」
「誰もが強い訳ではない。しかし、」
「生きているときにだけ明日があり過去がある。そして、生きているからこそ違う世界に出会う可能性が残る」
「確かに綾の言う通りかも知れない」
「歴史が示しているように死は何も残さない。貴方には生きて欲しい。そして、個としての歴史を作って欲しい」
「しかし、」
「しかし、なんて言ってはいけない。不安定なまま生きたとしても価値を見いだせる」
一日の内で自分自身を喪うときがある。時計は十五時を指していた。昼でも夜でも無い中途半端な時間である。誰も訪ねて来ることのない時間、雅生は自分の喪失感について考えていた・・・綾が意識の喪失感を受容するように、俺も又失うことがあるのだろうか、失うことが出来るのは失う物があるときである。日常的に、意識的な行動が行われている以上喪失感はない。しかし、綾の場合は無意識的な行動の中に自然と意識した行動をとっている。綾はその事に気付いていないだけのことだろう・・・である。
「私と貴方との関係は?」
「関係はない」
「冷たいのね」
「約束しても、愛していると言っても嘘になる」
「嘘でも良いからそう言って欲しい時がある」
「綾らしくない」
「それが男の傲慢であることに気付かない」
「弱いところを認めたとしても仕方がない」
「未来を期待しているより余程良いわ、貴方が求めているものは一体何なのか答は出ない」
「多分そうだろう」
「逃避?」
「そう取られても仕方がない」
「日々は進んでいる。振り返ることなど無意味でしょ?貴方なんか死ぬことが似合っている」
「でも、俺は綾が好きなことに間違いはない」
「信用できない」
「屈辱かも知れないが生きることを受け入れる」
「それが信用できないと言っている」
「人間は中途半端が良い。妙に完成されたような顔付きや行動をとる奴より信用できる。諦めて何もしない奴、悟りきった奴、都合の良いように動く奴、しかし単に加齢がそうさせる。恐らく完成されないことが人間なのだろう」
「目的や、未来のことを考えても仕方がない」
「しかし、人間は自己に問い掛け社会的な適応を目指している。そんな生き方しか出来ないのかも知れない」
「要するに信用できない」
「俺のことも含めて?」
「そうね、放擲することに価値は無いと言っていた貴方が、自分を失うときはない」
「俺は綾を求めている」
「でも、貴方との別れは必ず来る」」
「何時までも若くはない。加齢は避けることの出来ない事実で有り、肉体的、精神的に微妙な差異があったとしても、一年経てば一歳年を取る。老化は生理機能が低下する自然現象であり、決して元に戻ることのない不可逆的な現象で必然的に死が待っている。歳を取るに従って、日常生活は変容し関係も生活も変わって行く」
「歳を取るなどと、考えても無意味なことでしかない」
「今、綾を受け止めることが出来ても何れ齟齬を来す」
「でも、拠り所が欲しいと思うようになる」
「誰も受け入れることが出来ないように、俺のことは、誰にも受け入れられないだろう。そして、俺は俺自身しか見ることが出来ない嫌な奴になる」
「どう言うこと?」
「人間という言葉の中から感情は消えた。人間は無機質なロボットのような、感覚のない爛れた皮膚のような存在でしかない。何れ、帰着すべき地点を持つことはなくそのまま放浪する。そして、息絶え死滅する」
「人間の歴史にも、明日のことにも興味は無いわ」
「しかし、」
「貴方の物を含んで貴方の熱い生を感じる。そう、性ではなく生を感じる」
「確かに、何も無いところから何かを生み出すことなど出来ない。一足す一が二になるように生産しなくては画餅の餅になってしまう。生きることは常に生産物に頼るしかない」
「雅生、生きよう。生きることで全く新しい地平が開けるかも知れない。そう考えることが唯一の道だと思う」
「一つ、忘れることが生きていることになる」
「でも、それで良い」
「俺には生産手段がない」
「例え借り物で有ったとしても、今日を生きて行くことで明日に繋がる。生きていることが快楽さえ齎す」
「俺は俺を失い掛けているのかも知れない。でも、それが生きている証になる。今日が終わればまた明日仕事に連れ戻される」
「一体私たちがどれほど多くの人々と交わることが出来るのか分からない。雅生、貴方がなりたいと思っているのは、主か、国王のような存在だと思う。でも、そんな者になれる筈がない。単に観念の世界を彷徨っているのに過ぎない」
「自家撞着していることは分かっている」
「私は貴方が好きよ。何時までも!」
綾はもう一度雅生の物を含んだ。そうすることが、雅生を現実の世界に引き戻すかのように愛撫した。
夕暮れが近付き既に一日が終わろうとしていた。
十八 降下
一瞬にして無重力を経験するような、身体は浮き上がり、拡散、その後急降下した。四肢から筋肉がはぎ取られ力を入れようにも入らない。筋萎縮症のような両手両足が垂れ下がったままで、最早自分の筋力では元に戻ることは出来ない。
瞬間的な出来事で生涯を規定することがある。進藤勝実がそうだった。理想に燃え、自分の生き様を記録に取って置くことが唯一の生き甲斐だった。しかし彼奴(あいつ)の記録は、その後拍動と脳波の記録だけになった。生きた証が欲しいのは、他者の為であることに何故気付くことが出来なかったのか、記録は自分にとって全く必要がない。進藤勝実の間違いは、自分の為に生きようとしたのに、他人の為に生きていたことになる。彼奴は死ぬまで医療用の狭いベッドから離床することはない。
「勝実、俺のことが分かるか?」
少しだけ開いている瞳孔に話し掛けた。ピクリとも動かない身体に幾つもの延命器具が取り付けてある。
「矢張り間違っていたのは俺か?」
と、残っている脳味噌が応えた。
「そう言うことだ」
「今は空しいと思う」
「気付くことが遅すぎた。自分で生きる道を失ったことで、また他者の為に生きることになる」
「仕方がないのか、これで良かったのか」
「自分のことなど関係がない。何故、そう思うことが出来なかったのか?気付いてさえいれば、こんな風にはならなかった」
「そう言うことだ」
「最早、仕方がない。呼吸器を外して欲しくないか?そうすれば、ゆっくりと死ぬことが出来る。人として最上の死が待っている」
「そうしてくれ」
雅生はゆっくりと人工呼吸器に手を伸ばした。そして、スイッチをオフにした。
「本音を聞きたい」
「聞いてどうする」
「役に立てたい」
「嘘を言うな!お前に役立つことなど有る筈がない」
「それは、俺が決めることでお前には関係がない」
「何故逃げたのか俺にも分からない」
「それで良い」
「所詮人間の出来ることは過去のデータと瞬時に照らし合わせることである。そして、現況の正誤を正そうとする。データ以外頼るものはない。正しいデータならそれも良かろう。しかし、人間の作ったもので有り間違いがないとも限らない。そうしたとき、全てが破壊される。それでも良いのなら使うが良い」
「浄化できない血液が体内を循環し、中枢神経に悪影響を与え脳が破壊される。抗うことの出来ない瞬間から逃れることは出来ないだろう。行動するときの判断能力を規制されていることで人間の能力は低すぎる。自分を常に安全な場所に置き、行動するときは、ある程度の結果を予想する。仕方がないと思えば仕方がない。価値を持った人間の生き方である。ただ、俺にはそうはなれない」
「平均的であることが生きて行くことである。中庸の徳だって、巫山戯るんじゃない。右か左か、西か東しか有りはしない。何処に行こうと勝手であるが、自分の存在ははっきりさせる。損得を考えるなら行動など出来ず、どっち付かずのままでは生きている価値さえない。白黒はっきりさせることで、自分の立場を鮮明にして、生きることも死ぬことも大切であると知る。俺の立場などどうなろうと構わないが、何れ生きていようと死んでいようと取るに足りない。誰もが中途半端のまま生きていて其れで良いと思っている。好い加減すぎるのだ。しかし、その中途半端が社会を支え日常を支えている」
「生きることは単純で良い」
と、雅生は言った。
「しかし、その単純さは複雑な行動様式や理論に支えられない限り意味を持たない。余りに抽象的なことが多過ぎ、それに気付かない」
「抽象的でも具象的でも構わないが取るに足りない」
「雅生にとって、これまでの生き様は何だったのだ?」
「お前は優しすぎる。優しすぎることで人とは相容れない人生を歩むことになる」
閉ざされた未来から逃避する為に現在があるのか、過去があるのか、何れにしても時間からの逃避に過ぎない。時間を意識下に置く限り同じ過ちを繰り返す。しかし時間から逃れる方法が必ず有る筈である。其れが分かれば過去で有っても現在で有っても変わりがない。人間は何処に行っても十分対応して生きて行ける。逃避は常に現実の自分からの逃避であり、一瞬自己を忘れても一体何になるだろう。必要なことは、限りなくゼロに向かって行くことである。ゼロこそ人間にとって一番大切であり必要な意味を持っている。何時だって何も持っていないことを自覚すべきであるのに、持っているかのように錯覚している。茶碗も、箸も、自動車も、ただ利用しているだけであって持っている訳ではない。ゼロこそ生きている証左であって、其処には自分自身の生命としての理がある。
時計の針は同じ所をグルグルと唯、回っている。しかし逆回転することは無くスピードを上げていた。時間が早く過ぎて行くことで生きる時間が消えていく。何故、これ程までに時間に拘束されるのだ。雅生は時計を持ち上げると窓から放り投げた。時計はグルグルと回転しながら永遠の彼方に飛んでいった。
「戻ることのない時間の彼方で遊ぶことだろう」
と、雅生は言った。
「有り難いことだ」
時計が未来から応えた。
「俺自身の時間も止まってしまった。時は過ぎるものではなく、同じ平面の上でグルグルと移動している」
「そうだ、時はもう無い。過去は消え未来は来ないような同一線上の移動に過ぎない。これまでの人間は時間に支配されてきた。しかしこれからは時の無い時間のなかで自由になることだろう」
「時を失ったことで、何時までも生き続ける」
「しかし、何時までも生き続けることに意味があるか?」
「失った時」
と、雅生は呟いた。
途切れた拍動は、これから永遠の時を刻んでいく。誰に侵されることも無く自分だけの時間に支配される。
「勝実」
「脳味噌だけの俺は世にも奇怪な化け物に過ぎない。しかし雅生、お前がスイッチをオフにしたことで、また新しい人生が始まることだろう」
「逃げ遅れたお前は官憲の手により殺された。そして、これ以上お前の脳に血液が流れないようにしたのも官憲だ。俺はお前の為に、お前の為に未来を、生きなくてはならなかった未来を取り戻してやる」
「しかし、最早時間の継続はない」
「未来は時間の経過ではなく常に終わった時間に始まる」
「雅生、これで良いのだ。一つの死は単に一つの死であって、始めから価値はない。俺に家族か係累が居るなら伝えてくれ、俺が死んだことを」
「そうしよう」
「確かに俺は瞬間的に老化していた。ベッドの上で時間は止まり自分の時間さえない。喪われた時間が機能低下と共に表現され、俺自身の存在は時間の中で喪われていく。人間歴史の前提は生きた人間諸個人の存在である。生きている人間が居ない限り、それも少数では無く数十万、数百万単位でなくては歴史は始まらない。文明は、生まれては消え生まれては消えて行った遺留品のような物で、僅かばかりの価値もない」
「お前も俺も消滅する」
「消滅は自然界の出来事であって社会的なことではない」
「存在の悲しみはない」
「二度と会うことはないだろう」
体力を失って行くとき激しい絶望感を感じることだろう。勝実はベッドの上で自らの機能障害を受け入れるより仕方の無い情況であった。
「勝実、人間としての存在とは?最早、完全に失われたのかも知れない」
「俺の生体は急激に変化していくだろう」
「何もかも中途半端になってしまった訳だ」
「全ての機能が日々低下していることを実感していた。それらは急激に老化の一途を辿っている。神経は、骨髄膜が厚くなり頭蓋骨と癒着した残った脳の縮小や神経細胞の萎縮、動脈硬化による血管の狭化、触覚、温度覚、痛覚などの減衰、循環器は、血圧の上昇、冠動脈の動脈硬化、不整脈、呼吸器は、肺胞の機能低下により気管支炎、呼吸不全、消化器は、唾液腺の萎縮、食道の蠕動の減少、肝臓の萎縮、泌尿器は、膀胱の許容容量の低下、膀胱炎、前立腺肥大、血液は赤血球、色素量の減少、赤血球の寿命の短縮、骨髄の老化、その他、感覚系の低下、代謝異常、骨組織の低下、皮膚の低下など、見事なものだろう」
「そうだな、医学部の学生にしか言えないことだ」
「そして、記憶障害、失見当など精神機能の広範な部分の低下、記名障害、保持機能障害、知的障害、判断機能低下、統覚機能低下、人格全体の病的低下が進行している」
「何れ精神障害を来すことになる」
「雅生、その通りだ」
「自己意識の整合性を失い、これまで正常に機能していた脳幹部が心気妄想や、躁鬱病を併発してくる。俺は権力に殺された」
勝実の統制された意識や機能は完全な形で老化の一途を辿っている。再生しない細胞、再生しない意識、再生しない脳、再生しない生命、そして終わりの時を迎える。雅生は、その姿に自分自身を重ね合わせていた。
人間諸個人の存在は歴史の重さにその全てが踏み潰される。雅生や新藤勝実と言う個人が生きたことなど取るに足らない出来事で、益して価値はない。日々の悲しみ、瞬間的な快楽、食したときの満足感、そんな物が全てで有り、それ以上の物はこの世には存在しない。
個人は単に歴史の点に過ぎない。しかし、その点の連鎖が歴史になるのではない。頭蓋骨をかち割られた勝実は既に生きる屍でしかない。雅生は呼吸器のスイッチを切ることで人間としての勝実の現実を肯定する。
十九 流星
窓辺に寄り掛かり未だ暗くなり切らない南の空を雅生は凝視していた。そして、体内で燃える細胞の感覚を信じようとした。しかし独りで居ると身体がぶるぶると震え、鳥肌が立ち、毛穴から水蒸気が音を立て発散しているようだった。布団を掛け、丸まっていたが震えは止まらない。
近頃全身の振顫が時々やってくる。そして、悪霊に取り付かれたように生臭い声が脳の中で反響していた。
「俺はあの虚空の向こう側を覗いてみたい。誰も見たことのない空間の向こうに有るものに触れてみたい」
と、雅生は呟いた。
「雅生」
「誰だ」
「お前の、唯一の友人だ」
「知らない」
「お前が知らなくても俺が知っている。それで十分ではないか」
「振顫はお前の仕業か?」
「苦しいか」
「否、時間を持て余しているのに過ぎない」
「そう言いながらもまだ震えているではないか、特異体質でもないだろうに、負け惜しみは言うでない」
「俺はお前などに負けない」
「何故そんなことに拘るのだ。それ自体負い目がある証左ではないか?人間は成るようにしかならない。余計なことに神経を使っても仕方がないだろう。確かに苦しいことがある。その苦しさを素直に認めることで快楽が得られる。悦楽の園にお前を誘うことが出来る」
「悦楽か」
「生きている証が得られるだろう。LSD患者のように、体内から沸き上がるような快楽と興奮が味わえる」
「俺に求めるものは無い」
「そう言いながら生きている。雅生、生きていることは求めていることである。観念で有れ、概念で有れ、戦争で有れ、感情で有れ、眠りで有れ、求めているのに過ぎない。世界は変遷している。時間に乗り遅れることで得る物はない」
「素晴らしいことだ。しかし必要では無い」
「世界を自分の物にしてしまえば良いのだ。金を得、女を得る。他に何がある?」
「金と女か」
「それで十分ではないか、生きている間が全てであり、他者など問題外である」
確かに雅生の生活は頽廃そのものであった。朝起きてから一日中ベッドの上でゴロゴロしている。生産的なことはせず、日光を浴びる訳でも無く、何日も同じ状態のまま過ごしている。自己批判することは無く、のうのうと惰眠を貪り何もせずのらりくらりと暮らすことは何と快いことだ。しかし、雅生は執着しない代わりに自分の意識を捨て去った。これで良いのだと思い込むことも、自己否定する必要もない。最早誰からも後ろ指を刺されることなく、極上の暮らしだけが待っている。酒と女と快楽だけの生活を望んだことで、辛苦を舐め、渇きを覚えることもない。
「雅生、人間の一生は一回限りで終わる。齷齪(あくせく)働き、得るものは無く、苦しみ悶え藻屑のように終わる。しかし現実社会は欲望と快楽に満ち満ちているではないか、何奴も此奴も現実から逃避し何も求めようとしない。過去も未来も否定して置きながら、現実に埋もれのうのうと生きている」
「時間など無い世界で生きている限り拘束されることはない」
「人間は時間に追われ、時間を区切る生活を余儀なくされた。しかしそうすることで安定する。人間から時間を盗ってしまえば、最早混乱の中から抜け出せなくなるだろう。時間が過ぎている感覚は、時計を見ながら一分一秒と確かに過ぎていることを知る。しかし其れは、人間の作りだした時間に過ぎない。朝が来て昼が過ぎて夜が来る。正に時間が経過したように感じる。そして、現実の人間は時間の概念に乗って経過と共に老いて行く。子供は大人に、大人は老人に、そして死んでいく。しかし宇宙の拡張は空間の拡大だけであって時間の拡大ではない。時間そのものは停止したままで、止まった時間の中で空間が広がっている。時間を超えた拡張が続き、一個の生命は一つの空間、時間の無い空間を生き、そして死ぬ」
「対象化させることで違う自分が見える」
「そう言うことだ」
「これから経験するだろう老化を見るが良い」
「俺の範疇には無い」
「しかし、生きている限り歴史の置きみやげとしてお前の中に内在している」
「拘束され、束縛された自由、喪われた未来か」
と、雅生は言った。
「加齢は突発性ではなく過程で有り、時間の継続の中に老いを孕んでいる。そして、一度起こると決して元に戻ることのない不可逆性を持つ。もう一度若返ってみたいと誰もが思う。あの時こうしていれば、また違った人生があったかも知れないと回想する。しかし一回しかない人生、どの様に生きようと勝ってであるが、加齢は避けて通ることは出来ない。加齢と共に身体機能が低下してくる。循環器系、呼吸器系、消化器系、泌尿器系、感覚系、骨組織系などあらゆる面で機能低下を起こしてくる。起こしてくるから加齢を重ねたことになる。意識だの感性だのと言っても日々の老化に敵うまい」
「持続する意識、持続する感性がある」
「阿呆が、染み、皺、歯の磨滅、排尿障害、脳血管障害、虚血性心疾患、動脈硬化、血液需要の低下、脳の萎縮、神経細胞の萎縮、動脈硬化による内腔の狭化、脳室の拡大、脳波の減少、触覚、痛覚、味覚の減衰、数え上げれば切りがない。雅生、お前の意識や感性とは何の関係もなく低下していく」
「俺とは関係がない?」
「換気機能の低下、内分泌機能の低下によるインスリンの質的量的変化、その作用による糖処理能力低下による病変、睾丸の萎縮、疎隔理論で言うところの老化は、他者との人間関係の数を減らし残された人間関係の性質を変えていく。お前が何もしなくても残存期間の減少、生活領域の縮小、内的活力の減衰、避けて通ることの出来ないお前自身の過程である。さて、能力は、お前の知能は問題解決に向かって一定の方向に思考を保ち続けているか?その本質を理解、洞察して新しい解決法を見出しているか?その解決法が正しかったか自己評価しているか?抽象的思考、具象的思考、その操作性が正しく行われているか疑問である。二十二歳のお前の身体機能、脳気質機能は、遅速の差は有ったとしても避けることの出来ない低下という普遍性を持っている。それは、個々の体内に生まれながらに内在している不可逆性を持ち、日々の中、一分一秒の中に進行している。最早止めることは不可能である」
「未来は進行する」
「そうだ。唯、体内の全ての領域に渡る機能低下の為に進行するのに過ぎない。その先に待っているものは機能停止した細胞、工藤雅生の死である」
「未来は既に死んでいる訳だ」
「直線的な低下、そして、個々の持つDNAに因ってのみ決まる。延命に多少の差異性が有ったとしても問題はない。体内温度、浴びた放射線量、臓器の素因、そんな物は大した問題ではない」
「俺の言う瞬間、瞬間など得られない訳だ」
「染色体の形状、タンパク質の形状、加味されるは生活形態の差異があったとしても矢張り問題ではない」
「何が病理学だの生理学だの、ほざくでない」
と、雅生は抵抗した。
「雅生、脳の一部分が低下することは老化の一途を辿る。精神機能の低下は生活を規定する。聴力、視力の著しい疾患、神経細胞の減衰、妄想、幻覚、躁鬱、老人斑、痴呆の雅生を見てみたいものだ。愛だの、恋だのとほざいているが良い。醜悪なDNAを宿しているお前の獲得した精神的な能力は、何れ原発的持続的に失われることになる。それらは、脳実質の原発的変性に因る萎縮、脳動脈の硬化、脳血管障害に因る痴呆を齎す。雅生、公園に横たわる彼奴を見るが良い。記銘障害としての新しいことに対応出来ない情況、保持機能障害としての古い記憶の再生が出来ない状態、知的障害としての言語の流暢性の欠如、脈絡の取れない語り口、知覚、判断機能低下に因る誤認や数処理の欠落、統覚機能低下に因る無為無目的な行動、人格全体の病的質的低下、それらが連中を支配しているのだ」
「ふん」
「人間は誰でも自分自身の一回限りの生を生きている。そして、その死は、彼自身の死であり独自の死である。人間的生命を誰もが全うしなくてはならない。俺の優しさが滲み出ているだろう、な、雅生、既に未来は無いのだ」
「そうかな、数万年の間、世界の人々はその死に直面し自分の問題として捉えてきた。そして、その死を安らかなものとなるように、死者に対して自分自身に対して祈るような思いで獲得してきた。宗教に対して何も言うまい」
「しかし死は死でしかない。長い間眠っていたな、雅生。眠っていた間に自身の将来の姿を見たであろう、夜の公園で彷徨く自分を、屍を、全く目出度いことだ」
「眠ってなどいない」
「半日も眠っていて寝ていないなどと、お前の時間に、置き去りにされている情況だ。動物の時間、植物の時間、個々人の時間、その種類によって違っていることに気付くべきである。長い歴史の過程で作られ、その神髄をDNAに組み込まれている。雅生の個としての性格も、性質も、思考能力も全てが単なる歴史の生産物として、お前の中に組み込まれているのに過ぎない」
「承知している」
「神の力に従うべきだ。お前が寄与できる歴史など、何の価値も未来も有りはしない」
「承知している」
「愚かな人間どもに復讎が始まっている。お前の遣るべきことは戦いに参加する以外残されていない。お前は、俺のことを悪霊だと思っているようだが?」
「俺に取り付いた悪霊」
「神の言葉が聞けないとは情けない奴だ。良い勉強をさせて貰ったことを有り難いと思え。死ね、雅生」
「精々長生きするが良い」
と、雅生は言った。
誰も彼も何れ死ぬ。一つの意識体としての終焉、二度と同一の生命を得ることのない死、しかし個の死は単なる死であって、生きてきた過程を表現することはなく、自殺でない限り、火葬され、頭蓋骨や背骨が多少火葬台車の上に残るだけである。
二十 不快
過去を見ても未来を見ても何も変わることはない。人間は彼らの生産(生活)手段を生産することによって間接的に彼らの物質的生活そのものを生産している。しかし、それらは個人に属しているのでは無く類としての人間たちの物である。しかし現今では、それらは特定の人間の所有物に過ぎなく、行き場のない現在社会は、自己を他者に委ねることで成り立ち、貧困の中で踠き、苦しみ、精神的にも肉体的にもどん底の生活を強いられる。辛うじて生き延びているが、その先にある物は、歪められ捉えられた前代の歴史の目的となる。人々の生活は何も解決されず個は個のまま益々孤立化していく。
行き場のない日常、行き場のない生活、行き場のない思想、行き場のない思惟、行き場のない感性、追い詰められた日常、生活、思想、思惟、感性、そして、軈て死を選択する。
「執着、執着、執着せよ。不快感こそ生きている証である。雅生、昨日の夜から胃の中に何も入れていないようだな」
「水だけで一ヶ月は生きていられる」
「骸骨のようになってしまえば何も考えることが出来ない」
「自分の死に様を見るには丁度良い」
「馬鹿な、思考力が無くなれば見るのではなく見られているのに過ぎない」
「道は既に閉ざされている」
「やっと分かるようになったな、閉ざされた意識を持っていても仕方がない。犬にでも呉れてやれ」
窓を開けると蜂の死骸が転がっていた。全体が乾き切って仕舞い既に黒くなっている。いつ生まれ、何故サッシの隙間で死ぬことになったのか、雅生は蜂の屈辱を考えていた。生きることを途中で奪われてしまったことが、乾ききった黒い眼球に滲み出ていた。人間が余計なものを作らなければ、寿命が尽きるまで生きていられた筈である。自然界の掟を破り、自分らに都合の良いように文明を作り出したことが蜂の死骸に繋がっている。しかし、其処が工藤雅生の住処である。自然の摂理に逆らったのではないが、人間相手では勝ち目がなかったのだろう。人間こそが歴史を、自然を、時間を、未来を、生命を納めている。人間に逆らうことは即ち命を落とすことに他ならず、人間以外の動植物はその事を学習しなくては生き残ることは出来ない。蜂はガラスが填め込まれていることを知らなかった。学ぶ時間が無かったのか、自由に生きてきた歴史がその体内に埋め込まれていたのか、生命の歴史は、子孫、子孫に受け継がれていく。その受け継がれたDNAから逃れることが出来なかったのだろう。
開け放した窓から一個の種が風に運ばれ飛び込んできた。地面に落ちさえしていれば、花を、実を付けることが出来たのかも知れない。小さな砂粒のような種は息をしているようだった。雅生は窓の外に落とそうかと考えていたが指先で潰してしまった。中からネットリとした緑色の粘液が指先に絡み付いてきた。粘液は乾くこともなく親指と人差し指を緑色に染めていった。
「何故、俺の命を奪った」
と、指先が悶えた。
「お前は余りに小さい。それに、地面に落ちれば良いものを部屋の中に転がり込んできた。それが摂理である」
「お前に俺の生命を奪う権利はない」
「小さ過ぎるのだ。命は自ら勝ち取らなくてはならない」
「要するに、自分より弱いものの命は奪って良いと言うことか」
「そう言うことになる。弱肉強食の社会では繰り返し行われる」
「忘れるなよその言葉、何時の日かお前の命取りになる」
「俺には関係がない。人間も動物である限り習性によって生きている。習性のみが生きていることの原点であり、拘束された自由は習性の中にある」
「お前にとって俺は部外者になるな」
「人間の習性とは何か、個としての生命の持続と、種族の継続、与えられた環境に適応しながら種の保全を第一義的に考え進化する。それのみが習性である。しかしお前のように途方もない場所に落ちてしまう奴もいる。自らの方向が分からず風に飛ばされ、種の継続を偶然に任せるような生き方しか出来ない事もある。それもまた仕方のないことだ」
「俺はお前の指先から離れないだろう」
「関係がない。嫌なら切り落とせば良い。俺の指に永遠に纏はり付こうと、要するに生命の絶対性などある筈がない」
「死ぬまで取り付いてやる」
「勝手にしろ。悪霊が取り付こうと、粘着物が取り付こうと俺の知ったことではない」
「俺の毒によって死ね」
「当てにしているよ。他を利用して死ぬことが出来るなら、これ程有り難いことはない」
「馬鹿にしているのか」
「当たり前だ。眼中にも無いのに何時までも喋るな」
「お前のような奴は生かして置く訳にはいかない」
「殺せ!」
「一気に老化させてやる」
「面白い、遣ってみな!」
「これがお前の姿だ」
雅生は自身の正確な姿を鏡面に映し出した。鄙びた老醜の零落した姿である。不快極まり無い晒し者である。
「ホレホレホレ、小便の垂れ流しだ。垂れ下がった皮膚、すかすかの骨だけだ」
「楽しみが出来た。その年まで生きることが出来れば本望だ。何時死ぬか、何時死ぬかと踠いている俺をお前は救ってくれた。こんなに心配してくれるとは実に有り難い。愛していると言っても良い。何なら結婚して遣っても良い」
「巫山戯ているが良い」
「その続きを講義してやろう」と、雅生は言った。「老醜の個性と言って良いのか、形作られた性格と言って良いのか、パーソナリティを類別すると・・・、現在と過去を受容し自分自身を楽観的に捉える未来志向型の者、老化の現実を受け入れられず積極的に活動することによって老化を無視している者、若者を妬み、また攻撃的で偏見に充ち他人を非難し老いを受容出来ない者、悲観主義的で、何時でも不安感を抱いて自分の人生を敗北者の人生と見なし、その原因や責任をもっぱら自分自身に課している嗜虐的な者、色々難しいことは考えず、現状維持を支持して生の先に何も見出さない者、昔は良かったと過去を追憶していく者などがある。老化は個体に内在しているものであって、人は生まれ、成長し、そして老いて行く。また、老齢は新生に対して消滅であり、獲得に対して喪失であり、新たな出会いに対して離別である。残存諸感覚が全て萎え衰えている姿もまた良かろう」
「多少は建設的だと思っていたが、既にお前は、お前の脳味噌は死んでいる」
「粘り着いた意識、老いて尚生きようとする意識、建設的と言う向こう側に見える執着、自分を誇示することで他を誹謗中傷する輩、不快何だよ。結局、何奴も此奴も不快何だよ」
「生きている限り受け入れろ!」
「遊離することは俺の前提である」
「結局面倒臭い、それが不快の正体だろう」
「さすがだ」
「自然の摂理を受け入れろ!でなければ、生きることは自己意識の消滅を繰り返すことになる」
「逆に摂理と来たか、阿呆が、そして消滅だと」
「何れ老いて死ぬ。その死から逃れる為に人間共は有りとあらゆる手段を講じてきた。しかし、総ての死に共通なのは何れも意識の問題である。一日、二日、三日、一ヶ月、半年、一年が経つ。その間の心の動きを克明に記録しない限り意識の底に残ることはない。悲しみ、憎しみなど、激しい情念に気付いたときには消失している。何故そうなってしまうのか、愛する女との別離であっても情念が消失している。人間は忘れる為に生きているのであって、その意識ほど当てにならない。決して・・・、などと言う言葉を使うこと自体好い加減なことはない。要するに人間の思いなど取るに足りないのだ」
「ほほう、・・・」
「ホレホレホレ、雅生、お前の負けだな」
「老いて死ぬ為に生きる」
「安堵した生き方が必要になる。所詮この世は男と女と物しか存在しない。意識、感覚などと抽象化させても言葉の遊戯でしかない。何時の時代も不条理だろう、不条理の中で踠き苦しむ連中がいる。しかし其処には何も存在しない。死、運命、時間、不安、青春、加齢、接点、別離、価値、人間、止揚、理路、全てが抽象的な戯言でしかない」
「表現されたとは意識が始まる。言葉として、態度として具象化された表現は個の立脚点となる」
「なるほど、お前のいわんとする事は分かる。しかし現時(げんじ)は抽象化された時間でしかない。諸個人が彼らの生産を表す仕方が彼ら自身であるが、生きる明日も、過程も、道具も奪われている諸個人にとって、一人一人の人間は与えられた道具そのものでしかない。彼らは人間では無く、単に生かされている奴隷に過ぎない。この社会でさえ飢えに苦しみ貧困が覆い尽くしている現状で、誰もが、何時その場所に落ちたとしても良い情況である。飢えで死ぬ人間、経済的貧困で死ぬ人間、その渦中に生きている現在は、その責めを個人に転嫁させる。細分化された社会に踏み留まったとしても常に転落の危機にある。要するに観念化された社会を観念化した頭脳でひねくり回している。継続した時間はお前の姿を、その醜い老醜となって表現しているのだ」
「正にお前の姿と同じ訳だ」
「そうかな、何れ骨しか残らないお前の体内で意識だの観念などと言っても、生活の無い情況では意味をなさない。空白を理解出来ないお前は生活領域さえ持っていない。自己を離れるのだ、己の中に感じる言葉に耳を澄ませ。そうすることで全く違う自分が見えてくる。成り切るのでは無く、成ることが出来る。雅生、お前と言う個人など表面だけのことで、お前の苦しみを、時間を止めることで逃れてきたことは知っている。しかし、それ自体で時間の無い世界に行き着くことは出来ない」
「俺が逃れたいのは・・・」
「時間だ」
と、老醜は言い放った。自身を置くことの出来ない時間、病に伏し起き上がることも出来ない時間、繰り返される生産性のない時間、歪められた思弁の先にある歴史としての時間、雅生に見える物は行き場のない時間だった。
二十一 修正
日常的に許容できる声と頭蓋骨の中心をズキズキと刺激して破壊する声がある。澱部亮子の声は虫酸が走るほど厭なものだった。二万ヘルツ以上か、二百ヘルツ以下の振動ならば聞こえて来ることはないが、恐らくその中間辺りから声を発していたのだろう。醜悪なものは醜悪さから生涯抜け出ることはない。顔を見るのも、声を聞くのも、側を通り抜けることもおぞましかった。これまで人を憎み殺したい衝動に駆られたことなど無かったが、澱部良子だけは例外である。噛み合わない前歯を見ていても、ひん曲がった目つきと尖った眉毛を見ていても殺したくなる。何時会っても厭な女で、雅生は何時かこの女を殺してしまうのではないかと本気で思った。狂気の殺人者工藤雅生と三面記事に顔写真入りでデカデカと載るだろう。しかし本人からのコメントは取れる筈もなく殺した理由も分からない。刑事を前にして、雅生は前歯が気に入らないから殺したと尋問に答える。しかし、人間の、雅生の感覚など知る由もない刑事共は狼狽えることだろう。そして何故殺したのか適当に理由付けをする。
「貴様は人間の感覚を持っているのか、人様を殺しておいて、理由が無いなどと巫山戯たことをよく言えるな、殺された澱部亮子のことや両親の気持ちを考えて見ろ」
「考えることはない」
「巫山戯ているのか」
と、刑事は雅生の顔面を殴った。
「お前が殺したことに間違いないな」
「そう言うことだ」
「理由は」
「理由はない。あの声を聞いているだけで虫酸が走る」
「それで殺したのか」
「それで良いではないか」
「殺して、その後何をした」
「見ていた」
「澱部をか?」
「自分を見ていた。死んだ女を見ていても仕方がない。それに醜い女に興味はない」
「貴様は、それでも人間か」
「関係がない」
「この野郎」
と、言って刑事はまた殴り掛かった。
「同じ事だろう、瞬間的に俺を憎んだお前と俺の違いはない。何れお前も人を殺すだろう、楽しみにしている」
「しかし、それまで生き延びることが出来るかな」
と、刑事は笑みを浮かべた。
「生きているだろう」
「死刑にしてやる」
「裁判官でもあるまいに」
「この野郎」
と、言って刑事はまた殴り掛かった。
「好きにしろ」
「何故殺した」
「理由はない」
「何故殺した」
刑事は同じ質問を繰り返した。しかし雅生は既にその場には居なかった。何を聞かれても同じ事ことだった。独房に戻った雅生は何とも言えない安らかな気分になっていた。
密閉された部屋に何処から入ってきたのか、天井から一匹の蜘蛛が垂れ下がって雅生の目の前で止まった。そして、ジーッと、その視線を雅生に向けた。
「人殺しが来たな」
「殺して何が悪い」
「あの女にも生きる権利がある」
「何が権利だ、糞食らえ」
「醜くても一つの意識体であることに違いない。誰もが自分だけの生きようとする志向性を持っている」
「そんなことはどうでも良い。宙ぶらりんの儘で苦しくないか?」
「一向に」
「何の為にやって来た?」
「お前に人知を諭しても良い。俺のことを知っているのかな?」
「単なる蜘蛛だろう」
「良い度胸をしているな」
「どういう意味だ」
「俺の毒を避け切れるかな?」
蜘蛛はニタリと笑った。
「避けてみせるから掛かって来い!」
「盲目になり全身が痺れたまま動くことが出来なくなる」
「唯、其れだけのことで所詮殺すことは出来ないのだろう?俺は一人の醜い女を殺してきた。恐らくお前などと比較にならないほど醜い。全身血塗れになり踠き苦しんでいた。しかし、何故自分が殺されるのか分からなかっただろう」
「殺す理由も殺される理由も有りはしない。偶々、偶然にそうなっただけに過ぎない。加害者であっても被害者であっても、仮に、どちらであったとしても良い」
「漸く分かったか、その通りだ」
「理由無き殺意と言うものが確かにある。俺の毒は死に至らしめることは出来ないかも知れないが其奴の脳を破壊する。生きていながら死んでいるようなものだ。思考しない人間を、感覚を持たない人間を幾らでも作り出せる」
「だから、何だと言うのだ」
「お前もそうなりたいか」
「やってみるが良い」
「良い度胸だ」
「お喋り蜘蛛が、何も出来ないくせに喋ることだけ一人前だな」
「盲目にしてやる」
と、言いながら毒を吐き掛けた。しかし雅生の目を外れた必要な毒は床に落ちた。
「真剣に遣れ、喋りながらやるからこう言う結果になる。お前は既に必要な一瞬を失った。最早生きるに値しない、失せろ」
「あの女のように殺せ」
「蜘蛛を殺しても仕方がない」
「殺さなければ自ら死ぬ」
「勝手にしろ、俺とは関係が無いことだ」
「人殺しが、人殺しが」
蜘蛛はそう言うなり自らの足を喰い出した。雅生はそれを見ていたが何も言わなかった。死にたい奴は死ねば良い。
一つのボタンを押し間違えたことで、世界は一変するような修正不可能なことがある。人類は為政者の、ひとつの間違いで滅びる。持つことの出来ない権力、しかし、内に秘める権力は暴力に支配される。これまでの歴史はそれのみであった。抑圧され、支配されることで構成される人間社会は人間が滅びるまで続いていく。
「頂点に立ったことで、お前たち人間は自らの掟を作る。しかしそれは都合の良い人間共のことであり、お前のような下司野郎とは関わりのないことだ」
「足は旨いか?」
「下司野郎は、あの官憲やお前のように自らのことしか考えず、生まれてきた頃からの現象面が語られているのに過ぎない。人間故喜怒哀楽が有ったであろう。しかし感情の遺物に過ぎない。人生をどの様に要約しても一時間で語り尽くせるものではない。しかし実際には一時間で語り終えることが出来る。それだけの生き方しか出来ない人間共は俺たちと差して変わりがないことを知るべきだ」
「大した極論だ」
「女を殺したときの感想を聞こう。生きているお前には話す義務がある。感情の拡張ではないことは分かる。しかし単なるエゴの使用ではないか」
「不可抗力だ」
「一人の人間を不可抗力で殺せるか」
「殺せる」
「お前も権力を支配しているのに過ぎない」
「確かにそうだろう」
「中途半端なのだ。中途半端のまま生まれ、何も成すことなく死んでいく。喰っている時だけ生きていることを感じ、それ以外の時間は幻想でしかない。しかしその時間の中で自己を蝕み、苛み、他から辱めを受ける。何者にも代え難い瞬間が有っただろう。しかしそんな物は何時しか忘却の彼方だ。雅生、お前はあの女を殺した。それは自分が生き延びようとする為にだ。殺すことで、自らを正当化することではなかった。何時までも生き延びるが良い」
「違うな、生き延びる為でも、相容れない感覚でも無く、単純に俺の感覚が、不純物は取り除く必要があると指示した。動物、植物の進化の中で不要物は自然淘汰される。あの女は自然界から淘汰されたのに過ぎない」
「お前にとっての理屈でしかない」
「人間の存在とは彼らの現実的生活過程を意味する。それが失われたとき全てが終わる。現在進行中の出来事によってのみ存在して証明される。しかし其処には歴史も未来もない。何故そうなってしまったのか、個々人は、個々人の安逸さを求め日々の生活を流していく。決して修正されることのない日常、それが現在社会で美徳とされる。そして、都合良く現在を生き延びる為に過去を利用する」
「それを作っているのは誰だ」
「現在生きている俺であり人間共である」
「狂気の沙汰だ。偶々そんな風に見えるだけであって、その人間は現実を受け止め対峙して生きている」
「仕事は人生に何を齎すのか、人生そのものだと思っている連中に仕事以外考えることはない。日常も、会社に居るときも総て仕事に関わりを持つようになる。会社の中に人生があり、関係する人間たちの間に人生がある。そして、社会と深い関係を持っているような錯覚に陥っている。仕事の中に人生を見つけ、バリバリ働くことが良い人間となる。しかし最後に残っている物は一体何なのだ」
「お前の言いたいことは単に社会からの逃避で、出来損ないが自ら自慰しているのに過ぎない」
「そう言うことだろう。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定していく。しかし、齢(よわい)、歳を重ねる毎に生活に埋もれていく過程は、意識も自分の外側に置いていく」
「結果的に、お前のような敗北者は精神病院のベッドの上か、鉄格子の中に居ることで世界を征服したような錯覚に陥っている。白昼夢、白昼夢、白昼夢だ」
「笑止千万」
「お前の哀願する姿が見たいものだ」
「失せろ」
「明日も取り調べが続いていく。それを楽しみに待っている」
蜘蛛はスルスルと天上まで昇り高窓の鉄格子の間から外に出ていった。雅生は、その行動の一部始終をじっと見ていた。
二十二 境界
布団の中で目を閉じていた雅生の耳朶にタラタラと水の流れる音がしていた。配管パイプから漏れが生じているのか、確かに壁の中を流れているように聞こえる。水はジワジワと壁の中を伝わりながら鉄骨やコンクリートを腐食させている。雅生は壁紙が剥がれたところをあちこち押してみた。凝固しない壁はフニャフニャしていて、人差し指はジンワリと壁の中に吸い込まれた。
「こっちにおいで」
と、壁の中から手が伸びてきた。
「俺に何の用がある」
「平面を歩くことを教えてやる」
「蟹じゃあるまいに横に歩く必要はない」
「平面を垂直に歩くことは誰にでも出来る。しかし、垂直面を垂直に歩くことは出来ない。四次元の世界から離れて三次元の世界を知ることになる。時間のない世界は雅生の想像外だろう」
「有る筈がない」
「理解出来ない世界を、総て有る筈が無いと片付けることは人間の単純な反抗でしかない。雅生、お前もそう言う馬鹿者と同じ種類の人間か?持っている知識そのものは過去の遺物でしかなく、過去に固執することで永遠を得ることもない。進歩、進化、未来、先進、そう言う類の言葉が好きなくせに、いざとなると後込みする」
「個としての知識も、集団としての知識も必要でない。俺が求めているものは何も無い」
「逃げ口上を言うでない」
「空間に存在した水分八十?の炭水化物に過ぎない。そして、死は単体としての物質に戻るだけである」
「世界は単一的な平面上のことではない。壁の中にも、地下の中にも、空間の中にも世界がある。お前は単に理解しようとしない」
「壁の中で生きたとして何になる」
「この建物は何れ崩壊するだろう。しかし、一つの歴史を作ることになる。一つの時代を超えたことで、時間の無い世界、継続した時を持たない世界は、架空の出来事では無いことを証明してやる。そもそも瞬時的な時間が繋がっているなどと嘯くのは、過去と未来が同一線上に存在することを否定しているのに過ぎない。何時でも前向きに、何時でも前進している状態でしかない。時を捉えることは日々生きている証明であり、生きることへの願望である。繋がった時間は無く、単に平面上のことである限り、生きることなど何にも問題はない。己の存在の証明も必要としない」
「俺の間違いは、生きる証明を必要とする」
「そう言うことだ。いちいち御託を並べ、一つの地平を切り開いたかのような錯覚に陥るのは自分勝手であるが披瀝する必要はない」
「時間の、その向こうに何が有るのか知らない。ただ、分かることは加齢の姿である。闇の向こう側、空の向こう側、内面の向こう側、生きていることが、平面の上をグルグルと回っているだけなら矢張り得る物は何もない」
「所詮抽象的な思考しか出来ないお前は、結果論的に壁の中に入ろうとしない。恐れか?甘受か?自己への肯定か?何れにせよ、時を越えることは出来ない。世界などと言うものや、政治、社会などは存在せず、行動事態が単純に出来ているのだ。人間は存在しない物の為に日々悩み苦しんでいるのに過ぎず、感動したなどと言う馬鹿者が多いことに何故気付かない。もし時間を超えたように感じるなら、その個人だけであって、追随している馬鹿者が多過ぎるのだ。雅生、時はもう無い」
「分かっている」
「究極の時間、二十四時は決して来ることはない。与えられた人間のみ知ることが出来、二十四時を過ぎてしまえば取り戻すことの出来ない時間、不必要な時間、失われた時間が待っている」
「論理の摩り替えだ」
「違うな、過去は日々の中で精算し、終わった時間は存在しない。自明の理ではないか?何故、そう言うことが分からない。悶々と生きているとは巫山戯た話だ」
「壁の中に自由が有り、存在の原点があると言うことか?」
「境界は元々存在せず、越えたと思うのは、日常や、生活の接点としたいだけである」
「最早、自分自身を証明することなど出来ない訳だ」
「壁の中には自由がある。お前が望んでいる自由がある」
乗り越えられるか、それともこのまま踏み留まるのか、こちら側に居ることは安堵の証明であり、境界を越えることは新しい地平を切り開くことになる。死と生の境界、地と天の境界、マイナスとプラスの境界、零と一の境界、三次元と四次元の境界、日常的には、地図に引かれた線一本の違いで住む地名さえ違う。しかし、確定された一つの普遍を越えることで世界は一変する。雅生は静かに壁の中に入った。自由を望んでか、それとも自由など無いことを知ってか、何れにせよ自身の問いに対する答えなど有る筈がない。
知っている駅の改札口を出て駅前の路地を南に向かう。雑多な路地で人通りが絶えることはない。目的を持ち、町名も番地も分かっていながら見つけ出すことが出来ない。途方に暮れても、その人に会いたい一心で探し回る。しかし、結局訳が分からないまま場面が終わる。何度も何度も白昼夢のように同じ夢を見続ける。何処を越えれば良いのか、始めから越えることなど出来ないのか、その場所は壁の中に在るのか、現実の社会や、生活の中に在るのか、皆目見当が付かないまま置き去りにされる。
「綾、お前の乳首を吸っていると懐かしい時間が蘇ってくる。脳の片隅に忘れられた遠い、遠い過去のような感じがする」
「子供の頃?」
「もっともっと前、数億年前の味がする」
「馬鹿ね、生きていない」
「そんなことはない」
「貴方に必要な時間が過ぎたことは知っている」
「綾の乳首をこのまま吸い続けていたい」
と、雅生は吸い続けた。しかし既に一瞬の時は終わっていた。綾は雅生にとって、雅生は綾にとって、一時の生きた証に過ぎなかった。男と女の瞬時の出会い、しかし築かれる物は何も無かった。
「綾、お前との関係を終わりにしたい」
「始めから何の関係も無いのに、終わりにしたいなどと、雅生変よ」
「俺は、綾を懸命に愛そうとした」
「雅生の戯言など信じていなかった」
「空間を構成しているのは水袋である。その水袋の上を歩いて人間は生きている」
「意味が分からない」
「何時の時代も同じ様な人間がいて同じ様な生活をしていた。しかし個の意識にとって無関係でしかない。恰も関係があるように感じるのは勝手であるが、境界を越えることは出来ない。人々は同じ地域に住み、偶然顔を合わせることや、職場なら毎日のように顔を合わせることになる。しかし物理的に同じ時間、同じ場所ですれ違っただけで、共有する意識や論理的な問題がある訳ではない。微妙な心の動きはあるかも知れないがそんなものは取るに足らない。一秒後、心の内を整理することで決着が付く」
「そうね、決着さえ付けば耐えられ、時間が経過することで忘れられ、意識の中から霧散する」
「肉体的な別離はあっても確かに精神的にはなかなか難しい。しかし次第にその人の語り口から消え別離を意識する。混じり合った情念や悶えるような熱情は脳の片隅からも消失している。全く人間は自分自身に都合良く出来ている。防御本能が、こんな場合にも働くことを実に虚しく感じる」
「脳も、肉体も終わっている。過去は過ぎ去ったもの、でも、その人の歴史は生きてきた過程だと思う」
「しかし、そんな物は必要としない」
「体力を失って行くとき、激しい絶望感を感じる。老いは絶望感との闘いであり、私も雅生もそのことを感じるときが来る。諦念だけが生きている証となり、日常を他者に転嫁しながら生き延びようとする。人は生まれ成長し、そして老いて行く。老いることを免れる人間はいない。でも若いときには老いを感じることはない。意識の外側にあり、対象として捉え、自分の問題ではなく老人の問題であると考える」
「俺には最早何も越えられない」
「昔、昔、遠い昔、婆さんが言っていた。二十一歳で結婚して二人の子供を儲け、二人とも小学生の頃に離婚した。それからと言うもの必死で働き育ててきた。自分が老いて老人になるなど思ってもみなかった。二人の娘が結婚して孫が生まれても未だ未だ若いと思っていた。でも気付いた時には六十歳を越え、視力が急激に落ち一人の生活にも不安があった。そして、いつの間にか六十五歳になっていた」
「綾、未来を展望しても始まらない」
「雅生、貴方との未来を感じることは無かった。でも、私は生きている自分が見える」
「老いは絶望感との闘いになる」
「そうね、目に見えない時間の継続の中に老いを孕んでいる。もう一度若返ってみたいと誰もが思う。あの時こうしていれば、また違った人生が有ったかも知れないと回想する」
「与えられた時間はもう無い」
「神が?壁が?あの女を殺したことが、雅生の新生生物が?」
「婆さんのように、語り出せば一時間ほどで人生を話し終えることが出来る。その時に懊悩したことも、悲しみも、恋愛も、俺の時間の全てが無駄であったと感じる」
「それが相応しい」
「綾、俺は綾を愛していた。しかしそれは閉ざされた時間の中だったのかも知れない」
暫く目を閉じていたがなかなか眠りに就くことが出来ず、自分の生まれ育った家のことが蘇ってきた。しかし、自分を何処に置き去りにしてきたのか、何を求め生きようとしたのか相変わらず分からなかった。二十四時が近付いていた。踏み越えることの出来ない境界、越えることの出来ない時間の中で踠いていた。
具現化されない日常、具現化されない意識、表現は記録されない限り失われ、日々無駄な労力をせっせっと繰り返している。そして、人間の社会は生産物に依ってしか証明出来ないようになっている。生きることは、唯、唯、生産することでしかない。しかし記録に無い生き方もある筈である。何故なら、その多くの人間は個の歴史など残すことはなく死ぬ。雅生や綾も同じで、記録に残らない時間を生きているのに過ぎない。
閉ざされた時間が迫っていた。それは、始めから何も無い空白の時間なのか、多少なりとも重みのある存在した時間なのか、工藤雅生は結論を出さなければならなかった。
二十三 そして、閉ざされた時間(終章二十三時)
工藤雅生は真っ暗闇の中空に浮かび上がる蒼を見ていた。視覚的に捉えることが出来なくても、蒼白く燃えている霊魂なのか、山際で光る雷鳴なのか、闇夜の中に彷徨う自身なのか、地上の電極と中空の電極が正に一つになる瞬間抜けるような、そんな蒼を見ていた。混じりっけのない蒼、それは、日常を生きる為の証明であり魂の叫び声だった。
雅生が望む最後ものは得られるのか、しかし、臨終を前にして望むべきものがあるのか、生命の虚しさを感じることが生きてきた過程だった。結局そこから抜け出すことが出来ない。高校から大学と確かに生きることを求めて来たような気がする。しかし、現在の雅生は何も持っていない。不条理で、不都合で、生きている限り公衆の面前に身をさらけ出し、耐えることが生きていることの証明だった。陵辱されているのだろう、生活は人間の単一的な思考領域を規定し、生活がその人間自身の表現となる。また、生活は越えることの出来ない環境に拠って規定され、自身の在り方に拠っても規定される。蓋し、在り方そのものを規定しているのは環境でしかない。
人間の思考は幾つかの規定に従って物事を考えるのでは無く、意識下することで自由な発想を持つ。しかし現況は、型枠に填め込まれていることに気付くことは無く誰もが同じ轍を踏む。檻の中でしか思考出来ない、行動出来ない、一があれば二があり、付随して、その後に幾つも幾つも同じことが続いて行く。単純にプラス、マイナスが出来ると考えても仕方がない。思考することは常に進行形で、終局のない思弁こそが思想となる。それが分からなくては、これまでの会合のように中途半端なものしか生まれない。言いたい放題を言って、挙げ句の果て言い逃れをしている、半端な行動形態がなせる技である。
激しい日差しが脳天を焼き、雅生の体内から水分を蒸発させ視界が薄ぼんやりとしていた。意識が遠退き間もなく昇天する。誰も知ることのない、知られることのない自分だけの世界がある。誰もが経験しながら語ることを許されない自分だけの世界がある。死は自らに与えられた犯すことの出来ない唯一の自己意識である。しかし遠退いて行く意識を自分のものにする事など出来る筈もない。渇きを克服する方法はなかった。乾涸らびて行く雅生は、指先に揺曳する水蒸気を愛おしく眺めていた。しかし、既に指先を口に銜えるだけの気力さえ残っていない。
「雅生、眠りに就くが良い。魂が体内から昇華して行くのが見えるだろう」
「お前は誰だ」
「誰でもない」
「魂が俺の体内から蒸発している?嗤って仕舞うな」
「死に対する恐怖心を持つことは許される。決してお前だけでは無い。誰もが不安を抱え生きている」
「しかし、誰が許す」
「自身で良いではないか」
「俺は関係を持たないことで何とか生き延びてきた」
「しかし結局嘯いているのに過ぎない。お前の過去や未来など誰にとっても関係がない。本当に生きようとするなら戦場に赴け。閉ざされた時間、閉された環境、閉ざされた生活、食い物さえ無い生活、常に死と直面している情況、仲間は敵であり、自身もまた敵となる、そこで問うてみるが良い」
「確かに、お前が正しいだろう」
「雅生、終焉を迎えた自分自身を確かめるが良い。存在の根底などあやふやなものは無いと、それが分かるだろう」
到頭一日の終わりを迎えようとしていた。やっとの思いで一日を生き延びる。工藤雅生にとって、一日は数百年にも値したのかも知れない。時間は途切れること無く続いて行く。しかし、時間の中に埋没することで、唯、生命を維持しているのに過ぎない。雅生は未だ二十二歳になったばかりで、そんな雅生が生きるに値しないと結論付けた生を生き続けていく。二十四時間、そう一日である。一日生きることで浪費する時間である。一分一秒を繰り返し生きている雅生にとって耐えざる時間であることに違いない。一日は永遠の時間と同じように、果てしなく、その中に埋没し、出口のない延々の生活に支配される。繰り返し、繰り返し襲い掛かる時間に脳は破壊されるだろう。
座ったまま時間が過ぎていた。仕事が無いこと、行動する予定の無いこと、取り敢えず今日と言う一日を過ごす。人間が今日を生き延びるのは、約束事や予定が立てられることであって、買い物、食事、個別的な予定や、公な予定が有るから時間を刻み生きていられる。さもなければ何をして良いのか分からず、茫洋とした海面に霞が掛かったような状態のまま生きている。正に雅生の日常は、出口の無い、予定の無い日々であった。
時刻は既に二十三時を回っていた。
道端に真っ黒い犬の死骸が転がっていた。犬は生暖かい血を口元から流している。タラリタラリと流れる血は地面に伝わり辺り一面赤黒く染めていた。血は凝固することなくアスファルトの地面を流れ、生き物のように雅生の足許までやってきた。ネットリとした血が靴底にへばりつき、伝わり、足裏に染みてきた。そして、浸透圧の原理か、雅生の薄い血を吸い出し、急速に体内から血の気が失せていった。立っていることも出来ずヨタヨタとその場に蹲(しゃが)み込んだ。しかし、蹲んだところは既に雅生の血で海のようになっていた。
「何故、俺の血を吸い出す?殺すなら一気に殺せば良いだろう」
「爽快だろう」
「朦朧としてきた」
「痛みを感じることなく意識を失う。そして、意識のない儘この世とおさらばだ。体内の血を抜き取ることが至高の死である。こんな風に死ぬことは王族以外できない」
「俺は何処に行く?」
「死は苦しみを齎すものではなく、意識を失うことは、快感以外の何者でもない。時刻、二十四時、このまま時間が過ぎることで、お前の血は一滴も体内に残らない。そして、死を得ることになる」
「確かに人間の死も犬の死も違いはない。多少の生活様式の差異があったとしても問題ではない」
「そう言うお前を信頼している」
「有り難うと言って良いのか、待ってくれと言って良いのか、俺は迷っている」
「これで良いのだ。お前にとって、死が至高の物であればお前自身が納得できる。誰だって、これで良かったと思いながら死んでいきたい」
声を張り上げようにも喉から声を出すことは出来ず、酷い耳鳴りの為か、周囲の音はジージーと頭の中で響いていた。夢を見ているのか覚醒しているのか分からない。耳鳴りは頭の芯に響き、内部で反響する声がしていた。
「もうやめようぜ、毎日眠っていても仕方がない」
「眠っていた訳ではない」
「惰眠を貪っているとしか思えないが?」
「起きている。確かに起きている」
「人生は短い。何もしないと直ぐに老いてしまう。今、遣らなければならないことがある筈だ」
「俺の中で何かが変わろうとしている」
「錯覚とは恐ろしいものだ。こんな筈ではないと嘯く」
「嘘ではない」
疲労感が支配していた。細胞の固まりが疲れているのか、それとも一つ一つの細胞核が疲れているのか、流れる血液も筋肉も骨もガタガタだった。体内の臓器の総てが意思に逆らうかのように造反を繰り返している。機能が停止、腐敗していく過程だろう。関係のない自己造反劇の始まりである。しかし、醜悪な肉体が滅びるのであり寧ろ歓迎すべきことである。
時刻、二十三時五十九分、死に神から逃れた雅生は未だ彷徨っていた。
「お前の肉体は滅びるのだ」
「一体お前は誰だ」
「幼い子がお前の前に転がっている。未だ自分のことを意識下に置くことの無いあどけない子だ」
「幼い子を殺すことに何の意味がある」
「よく見るが良い。お前に似ているように思わないか?元来人間などに生きる権利や資格など有りはしない。偶々生理的な都合で産まれ、偶々個別的な意識や生活を持ったのに過ぎないくせに、それを天からの授かり物のように、後生大事に守るだけなら許されるが、自らの道具として使う。俺は許さない」
「お前などに殺される理由がない」
「理由など必要がない。それに、生きるに値しないお前に自分の力を誇示する資格はない。何故そんな道理が理解出来ないのだ。俺とその子の関わりはない。だが単に感情の流露として殺したのではない」
「支配している訳か」
「そうだ。他に何を必要とする。雅生、お前などが一々ほざくことではない。越えるべき障壁を持たないことで、のんべんだらりとした生活しかないお前が発すべき言葉は無い」
「俺は、」
「俺はだと、うんざりするぜ。この期に及んで」
得る物は無く人間は自分の時間を失いながら生きている。確かに得たと思った瞬間、既に失われている幻影なのだろう。しかし、日々幻を追い求めることしか出来ない。また、統一的に考えようとしながら一瞬一瞬を失い、失ったことで繋がりを持たない。そんなことを繰り返しながら人間は自分の人生を失っていく。雅生もそうであった。気付いているのかいないのか、何れにしろ、二度と戻ることのない時間を失っている。必要のない行為、必要のない時間、必要のない生産、失われた時間の中で無でしかない。それは・・・、そして二十四時、工藤雅生個人の中で起きた出来事であり、全く価値の無い意味の無い独り言でしかなかった。
濁りのない空間に限りない神秘を秘め、中心に行けば行くほどその濃さを限りなく増して行く。何処まで行っても行き着くことの無い中心、平坦を辿るのではなく距離を辿って行く。何も無い虚空に吸い込まれそうに一瞬意識を失う。蒼、雅生は片手を力一杯伸ばそうとした。しかし、意識の中で幻でしかない蒼を掴み取ることなど不可能であった。
雅生にとって、二十四時間一歩も外に出ることはなかった。狭小な空間に囲まれただけの生活である。六畳一間のアパートには、唯一つの窓だけである。見渡す限り何も無く、窓から眺める風景は平坦のまま何処までも続いている。あの時の火事で何もかも融けてしまったのか、融点に達した空気は全ての物質を溶かし、地面の底に沈み込ませていた。形を残さないことで、其処に存在したことさえ記憶の中から消える。形の有ったものだけが記憶として残り歴史となる。しかし、何れ崩壊する。二十四時、それは雅生にとって閉ざされた時間の始まりでしかなかった。
了
閉ざされた時間