遠景の向こうに
一
夕暮れ時、急激に曇り始めた空から大粒の雨が降り出した。山手線を降り駅前のビジネスホテルに行こうとした私は、通りの先に取り残されたように立ち尽くしている女に気付いた。暫くの間女の後ろ姿を見ていた。そして、『似ているな』と思った。背筋を真っ直ぐ伸ばした姿勢が傘の内側に感じられ幸子を思わせた。
幸子と別れて既に五年が経っていた。しかし過去として葬り去ることの出来ない生の生々しさが残っていた。その場に釘付けになった私は、何時の間にかその女の先に忘れ去られた日々と幸子を重ね合わせていた。
今日と同じように、夕暮れ時激しい雨が降り出した日だった。新宿駅地下通路の行き交う人々の間で手紙を渡された。何時もなら中央線のホームまで一緒に行く筈なのに、幸子は通路で立ち止まった。混雑を避けながら大きめのショルダーバッグを肩から下ろし、封印のされていない茶封筒を素早く手渡すと、暫く間私を見つめていた。そして、何も言わず足早に立ち去った。私を見つめていた眼差しの奥に光るものがあった。最後に見た、触れることの出来ない涙だった。手紙には何が記されているのか分かっていた。分かっていたから後を追うことが出来なかった。後ろ姿が雑踏の中に消えてからも、私はその場を立ち去ることが出来なかった。仕方が無いと思いながら、立ち直ることの出来ないだろう自分の姿をその時見ていた。
その日、幸子は殆ど喋らなかった。何時もより遅れがちに私の後を歩いていたり、時々立ち止まっては行き過ぎてしまった私を四、五メートル後からぼんやりと眺めていた。振り返ると、目を逸らすこともなく笑みも悲しみもない透き通るような眼差しを私に向けていた。私は側に来るようにとも言えず、唯、黙って見ているより仕方がなかった。そして、今日で最後になるかも知れないと心の片隅で思った。
夕方場末の居酒屋に入った。幸子が弄びながら飲み干したコップに私は二杯目のビールを注ごうとした。しかし幸子は、『もう良いわ』と言ったきり黙り込んでしまった。いま思えば、その日幸子から発せられた言葉はその一言だけだったのかも知れない。寡黙な幸子は二人きりのときも殆ど喋ることはなく、謎めいた、疑問符の付いた言葉を時々言っていた。喋るのが億劫な訳ではなく、言い掛けた言葉を呑み込んでしまうことが癖のようになっていた。私が喋らないときには二人の間に時間だけが過ぎていた。しかし、共通の話題に事欠いて息詰まるような時間を持て余していたのではなく、『矢張りそう考えていたの・・・』『私も同じことを考えていた・・・』などと言っていた。
幸子との逢瀬は、東京への日帰り出張の日や組合の集会があるときだった。街を歩き居酒屋で腹拵えをした後は、新宿駅のホームに幸子を置き去りにして松本行特急列車に乗り込む。列車は徐々に加速を始め都会を離れて行く。車内が落ち着きを取り戻した頃、新宿駅に立ち尽くしているだろう幸子のことを考える。幸子は直ぐ帰路に着くことはない。帰るように言っても、『ええ・・・』と言うだけで決して帰ろうとせず、ホームを離れて行く列車にじっと目を凝らしている。その目を見ていると、何もして上げられない幸子に対して、溢れてくる寂寥感を如何ともし難く心の中を冷たい風が吹き抜ける。次に会う約束をすることもなく中途半端のまま同じことを繰り返していた。二人にとって、淡々と日々に耐えることを義務感のように感じていた。しかし逢瀬を重ね乍ら二人の間には微妙な差異が生じていた。気付いていながら気付かない振りをしていたのか、気付かないまま時間だけが過ぎていたのか、しかし私は、愛することの惰性に陥っていたのに過ぎなく、本来的に必要なことに目を瞑ろうとしていた。そして、結果的に何時しか幸子の内面から遠ざかっていた。
幸子と初めての逢瀬は新宿だった。冬枯れの寒い日で、松本行き最終列車が発車するまでの短い時間だった。夕方待ち合わせ、西口近くの高層ビル街のホテルに行き着いた。ロビーで冷たくなったコーヒーを眺め、語り合うこともなく時間が過ぎていた。静けさも、人々のざわめきも聞こえて来なかった。私の前には幸子がいた。その時、私は幸子を生涯愛するだろうと思った。しかし二人で積み重ねた三年間は最早戻ってくることはなく、別れてから既に五年が経っていた。別離の場所も新宿になっていた。そのように幸子は決めていたのかも知れない。始めと終わりが同じ場所、時間だけが経過したが何も残らなかったかのように・・・。
松本行き最終列車は既に新宿駅を発ち、朝まで地下通路で過ごすより仕方がなかった。寂しさも遣り切れなさもなく、私のなかには空白が拡がっていた。通路の壁に寄り掛かり、消えてしまった幸子の姿を探していた。しかし、幾ら目を凝らしても幸子は何処にも見当たらない。最早二度と会えないだろうと思った。そして一箇月、二箇月と時が経つに連れ、雑踏の中に消えた後ろ姿が脳裡に焼き付いていった。
二
雨は間断なく降り続いていた。不動のまま立ち尽くすことが出来る女だった。稲妻が走った瞬間こちらを振り向いた。確かに似ていると思った。私はホテルに行くこともなく女を見ていた。幸子であれば私のことに気付くだろうと思った。
私の胸裡に幸子の長い手紙が蘇ってきた。開封することもなく事務机にしまっておいたが一週間ほど経ってから読んだ。
隣に座っている貴方を見ていて、私のなかの感情が急激に冷め、離れて行くのが分かりました。愛しているのに、こんなに愛しているのに、何故か分からなかった。貴方への思いが消えて行くのを、唯、眺めていることしか出来なかった。
何時も私の側にいない貴方・・・今日もまた、新宿の街に私を置き去りにしてしまう貴方・・・悲しい時に、苦しい時に、呼んでも呼んでも来てくれない貴方・・・。
就職して二年目の秋、未だ夏の暑さが残り、眠ることも食べることも出来ない日々が続いていた。身体を支える力は既に私のなかに無かった。起きようとしても、起きようとしても身体を動かすことさえ出来なく、その日私は仕事に行けなかった。このまま逝ってしまうのではないかと思う程苦しかった。身体の不調を感じ始めた頃、貴方に電話を掛けようと思っていた。貴方の声を聞くことさえ出来れば、苦しみを、辛さを乗り越えられると思った。でも、受話器の向こうに貴方がいなければ・・・と、それを考えるとダイヤルを回し切ることが出来なかった。目が覚めているのか、眠っているのか、宙を彷徨っていたのでしょう、唯、貴方の名前を呼び続けていた。直ぐ其処にいるのに、一生懸命手を伸ばして縋り付こうとしているのに、貴方は難しい顔をして私を見ていた。何故なのか分からなかった。私の貴方なのに、何も答えてくれなかった。『何時でも良い、何時だって良い』と、私の愛に応えてくれる貴方の優しい言葉を信じていた。電話を掛けて『助けて・・・』と言えば直ぐ来てくれたのでしょう。でも、私には出来なかった。唯、貴方の名前を呼び続けることしか出来なかった。夢の中でも叫び続けていたのでしょう、枕は何時も涙で濡れていた。会いたかった。貴方に抱かれ、その腕の中で呼吸さえ出来れば苦しみが癒される。でも貴方はいない。直ぐ来てくれる人ではない。会いたいときに会えない人と分かっていながら、唯、待っているより仕方がなかった。
数日後、少しずつ体力を回復した私はベッドから起き上がることが出来た。そして、僅かながらも食事が摂れるようになった。時々ベッドから下り、庭先の草花を見ることや、秋の爽やかな日差しも感じられるようになった。それから数日後貴方からの手紙が届いた。手紙を読みながら貴方への思いが微妙に変わっていくことを知った。手紙には何時ものように約束の日と場所が記されていた。しかし私のなかには小さな不安と微妙な憎しみが芽生えていた。
三週間の間、私の苦しみを知らなかった人・・・朦朧とした意識のなかで助けを求め続けていたのに、私用で東京に来ていた日があったのですね。何故、何故、電話を掛けてくれなかったのでしょう。会う時間が無かったから?・・・それとも電話を掛ける約束の日では無かったから?・・・私は何時も何時でも貴方を待っていた。仮令電話であっても貴方の声を聞きたかった。会えなくても直ぐ近くにいるように感じられ、受話器の向こうから聞こえてくる息遣いが好きだった。いつもそうだった。電話が切れた後、暫くの間受話器を置くことが出来なかった。ツーツーと、耳許で響く通話音が二人の間を途切れさせていたけれど、貴方のことを直ぐ近くに感じられていた。でも貴方は遠い所に居る人だった。私を貴方の許に連れて行ってくれる人では無かった。何故、強引に私を奪い去ってくれなかったのでしょう、私が望んでいなかったから?・・・それとも、そのことが二人の関係を壊してしまうと考えたから?・・・。
会えないことを、待つことを、苦しみと感じていなかった。先の見えない不安があったのではなかった。ほんの少しだけ、私のなかに透き間があったことを貴方は知らなかった。そして、気付かないまま透き間は徐々に拡がっていた。
別れる為に逢瀬を重ねていたのでしょうか・・・いいえ、そのようなことは決してなかった。貴方を駅のホームで見送りながら、私は寂しいとも悲しいとも感じなかった。会えば別れなければならないと始めから知っていた。暫くの間、その場を離れることが出来なかったのに過ぎない。でも、遠ざかって行く列車を、貴方を連れ去ってしまう列車を、二度と戻って来ないように感じていた。
人々が忙しなく私の側を通り過ぎていった。奇異な目で私を見ている人がいた。でも、貴方のこと以外何も感じることはなかった。貴方が松本駅に降り立つ頃、私はやっとの思いで家に辿り着き、ベッドに横になる。そして、見知らない空間のことを考えている。でも、不安も違和感もなかった。貴方が愛していたのは私であり、貴方の本当の姿を知っていたのも私だった。日常的に隔たりがあったとしても、苦しくも辛くもなかった。私は貴方の許にあり貴方は私の許にあった。最早変わることのない時間が二人の間を支配していた。そう、決して苦しくなどなかった。貴方と私は同じ時間を共有していた。
三
私は女を見ていた。降り頻る雨の中、その場に居なくても良いのではないかと思った。恋人を待っていたのだろうか、それとも行き場を失ってしまったのか、不可解な様子に不安が募っていた。行き交う男たちがまじまじと女を見遣っていた。私の前を通り過ぎながら、「良い女だな」と言う声が聞こえ、私の内面は無性に苛立っていた。
貴方と私は漸く会うことが出来ました。私の探していた人がいたのです。貴方は、出会いの瞬間から私の内面を見抜いていた。そして、心のなか深く入ってきた。
松本駅に降り立った日、実習が無事出来るのか不安だった。教育関係に向いていないのは分かっていた。でも、違う自分が見つかるのではないかと思い望んだ実習でした。それまでの私は、闊達で笑顔を作って元気な子を演じていた。嘘で身を固め、殻のなかに閉じ隠って、心のなかを人に知られないようにしていた。でも本当は、何時も何時でも悲しくて寂しい毎日だった。人と一緒に過ごすことが出来なく、中学生の時も、高校生の時も、そして大学に入ってからも、草花を眺めていることや詩や本を読んでいることが好きだった。
教育実習も後数日を残していた。その日、クラブ活動が終わり掛けていた頃、貴方は、見学していた私たちに教育のこと学生生活のことを少しだけ語った。そして、最後に小さな声でひとこと言った。『人を愛さなくてはいけない・・・』と、その言葉は私に向けられていたと直感した。何故私に、と思いながら、心が微かに震えていたのが分かった。そして私は、これから先貴方のことを愛して行くのだろうと、その瞬間感じていた。これまで人を好きになったことや、人から愛されているのではないかと思うときが何度かあった。でも、その時の感覚は未だ経験したことのないものだった。微かな震えは振幅を繰り返し、私の心は何時までも震えが止まらなかった。
二人が初めて東京で会った日、貴方の内面に、愛に触れていた。月に一度か、二箇月に一度しか会えなかったけれど、貴方を知って行く度に、これまで満たされることのなかった思いが充足されていくのが分かった。愛されていることが嬉しかった。愛されていることで日々の苦しみを乗り越えることが出来た。
冬の初めの出会いから春が過ぎ夏も終わろうとしていた。私は未だ迷っていた。しかし就職先を決め、自分の道を歩いて行くしかなかった。そんな苦しい日々を送っていたとき貴方からの手紙が届いた。別れの言葉は一言も無かったけれど、読み終えたとき別離を感じていた。胸のなかに拡がる虚しさは悲しみと混じり合い凍り付いていった。頬を伝わる涙は枯れるまでそのままにしていた。そして、皮膚は水分を失ってしまったのか、夏の暑さも感じなくなっていた。この夏を境に貴方との距離を拡げてしまったのは私だった。出会った時から貴方の許で生きることを願っていたのに、何故、貴方の許に行くと言えなかったのでしょう・・・。
会えない日々、貴方を求め貴方のことを考えていた。愛することを教えてくれたのも、愛されることを教えてくれたのも貴方だった。貴方以上に私は、私は・・・愛していた。でも、もう会えなくなってしまった。私を東京の片隅に残したまま、今まで以上遠くに行ってしまった貴方だった。
何が二人の間を遠ざけてしまったのでしょう。貴方の家族が住む松本の街・・・私の入り込む透き間がないのか、入り込むことで、貴方との関係を壊すことを怖れていたのか、何れにしても既に貴方を失っていた。貴方を知ってまだ一年も経っていないのに、何故、別れの手紙など送ってきたのでしょう。
愛することの行き着く先は何時しか虚しさに変わる。いえ、そんな筈はない。愛することは何も望まないこと、何も得ないこと、貴方と私の関係は純粋に二人だけのことだった。会えない日々何を考えて良いのか、何をして良いのか分からなかった。唯、貴方のいないことに慣れて行くしかなかった。何時でも、何時までも貴方のことを考えているのでしょう。そして、貴方が考えたように考え、行動したように行動するのでしょう。貴方の思惟から逃れられないのではなく、貴方と共にしか生きられないことを知っていた。私が望んだことは、貴方の許に居ることだった。でもそれは、貴方を苦しめ、距離を縮めるのではなく依り拡げてしまうことだった。貴方と私は、離れていても時々会うことが出来ればそれで良かった。でも、もう戻って来ない。私は毎日毎日郵便受けを覗いては微かな溜め息を付いていた。
夏休みが終わりかけた頃友人と大学生最後の旅行に行った。そう、松本の近くの小さなホテルで三日間を過ごした。日中は高原を散歩して、夜は貴方への思いを一冊のノートに綴っていた。思いを込め、ペン先の向こうに見える寂しげな眼差しに語り掛けていた。貴方の思いも、私への思いも変わっていないことを信じていた。貴方への愛は永遠であり、私への愛も永遠だと知っていた。何時も、何時だって変わることのない愛を知っていた。それが二人の愛だった。ノートに文字を埋め乍ら、また会えると信じていた。でも、そのノートも貴方の手許に届くことはなかった。
私が生きることは、日々のなかに自分自身を溶解させるような生き方だった。自然に溶け込む風や日差しのように一体となることを望んでいた。そして、日常から、肉体的にも精神的にも解放されることを願っていた。
四
女の身体は確りと雨に包まれていた。飛沫で濡れている女に同情ではなく愛情を感じ始めていた。そして、現れない相手に憎しみと嫉妬を感じていた。
幸子と松本で待ち合わせをしたことがあった。雪の舞い散る日だった。駅前の喫茶店で会うことになっていたが、幸子はその店の入り口で立ち竦んでいた。コートの先に雪が絡みつき、指先は凍えるように冷たくなっていた。喫茶店に入れなかった幸子への思いと、立ち尽くしている女の像が重なっていた。
虚無感の漂う日々届く筈のない手紙を待っていた。秋が過ぎ冬も終わろうとしていた。二月の末、雪の降る日があった。夜遅くに降り始めた雪は翌日の明け方まで続いた。窓を開け、まんじりともしないで眺めていた。そして、雪明かりの向こうに貴方の姿を探していた。『愛しています・・・』と、呟いた言葉は降る雪のなかに消え、貴方の許に届くことはなかった。
春が来ていた。四月からOLとして働いていた。毎日毎日家と会社の往復の生活だった。学生時代の友人たちは、それぞれ故郷に帰り会う機会がなくなっていた。単調な日々、遣り切れない虚しさと寂しさが続いていた。貴方を忘れようとしていた。そして、何時しか春も終わり初夏になっていた。この夏さえ乗り切ることが出来れば、貴方がいなくても独りで生きられるだろうと思っていた。そんなことを考えていた日々、貴方からの手紙が届いた。黒いインクで書かれた細目の見慣れた文字が何通かの封書の間に見えた時、体内からスーッと血の気が引いていくのが分かった。直ぐ開封することも出来なく厚めの封書を何時までも見つめていた。
会うことのなかった日々、私への思いが記されていた。嬉しかった。貴方の思いを知り待っていた苦しみは消えていった。私の愛は終わっていなかった。貴方に会うことで愛することが生きることが出来る。甘え、その腕に抱かれることを願った。再会の日まで後数日だった。待つことがどんなに嬉しいことでしょう。貴方の為に可愛くなりたかった。鏡を覗いたり、洋服に迷ったり、私のなかに別な女の子が住んでいるようだった。そして再会の日、甘え抱かれてさえいれば・・・。愛する人に抱かれることを躊躇ってしまった私・・・あの日、二人の身体が触れ合い、思いを、愛する思いを確かめ合うことが出来ていれば・・・何故、躊躇ってしまったのでしょう、決して厭だった訳ではない。接吻も、触れる指先も好きだった。貴方の愛を受け入れ身を任せていた筈だった・・・貴方はとても苦しい顔をしていた。私に対してなのか、貴方自身に対してなのか、その時には分からなかった。でも、あの時の貴方は自分自身に対してあれ程暗く辛い顔をしていたのですね。
貴方に私の全てを預けることで、屹度、苦しくても辛くても二人で生きることが出来たのでしょう。二十三歳になっていながら私は未だ未熟だった。何も分からない私は、貴方の腕の中にいることで仕合わせだった。それだけで嬉しいと思っていた。でも、あの時の一瞬の躊躇いが、今貴方への別れの手紙になっているのですね。愛しています。こんなに愛しているのに、何故別れの手紙を書いているのでしょう・・・優しい貴方は、別れの言葉さえ受け入れてしまう人・・・何時も私を許してしまう人・・・。
再会の日から一年が過ぎました。貴方の腕の中にいることで毎日が仕合わせだった。そして、貴方の優しさに触れることで私も優しくなれた。二人だけの時間、二人だけの思い、二人だけの会話、何時も二人きりだった。でもそれは、ひとときのことでしかなかった。ひとときの中に凝縮された愛だった。貴方の眼差しに映る私は、その眸の中で何時も小さく震えていた。そして、『幸子』と呟く貴方の声に私の全身が応えていた。優しい貴方、会う度に私は自分が変わっていくことを知っていた。貴方と歩いた街、貴方と乗った列車、貴方と走った汀、小さな湖が見える部屋、漁船の明かりが見え隠れする海辺の部屋、山間の白樺林に囲まれた静寂の部屋、貴方との思い出が脳裡を過ぎっていきます。
貴方は私の為に何時も一冊の本を用意してくれた。貴方は目を閉じたまま語っていた。詩を朗読してくれた。童話を語ってくれた。貴方の語らいに私の胸は満たされていた。でも、貴方の優しさが怖かった。消え入りそうな優しさが悲しかった。貴方の、心の透き間を私に埋めることが出来るのか不安だった。
私は貴方を求め貴方に会えることで生き返ることが出来た。しかし会えない日々少しずつ乾いていた。逢瀬はそんなことの繰り返しだった。でも、時々貴方は悲しそうな顔をしていた。私の手の届かないところで苦しみに耐えていた。何も出来ない私は、貴方に意地悪をして甘えるしかなかった。でも、貴方は怒りもしないで笑って遠くを見ていた。何時も会えない貴方だったけれど、共に苦しみ困難を乗り越えていきたかった。でも本当は、私のものに、私以外の誰にも渡したくなかった。そんな私の思いに貴方は気付いていなかった。私の張り裂けるような叫び声が聞こえていなかった。
五
雨足は行き交う人々を一瞬立ち止まらせていたが、後から後から押し出されるように駅前から離れていった。私は女に近付いて声を掛けたい衝動に駆られていた。幸子かも知れない。幸子であることを心の何処かで願っていた。
二度と会うことのない幸子、もしも幸子であれば、失われた時を取り戻すことが出来るのかも知れない。平々凡々とした生活から抜け出せるのかも知れない。そんな浅はかな思いで女を見ていた。
長い手紙だった。大学ノートに埋め尽くされた細かな文字に込められた一つ一つの別れの言葉・・・日々の記憶は薄れていくのに、時を経るに従って細部まで思い出すことが多くなっていた。忘れようと思っても、脳裡の奥深い所に残土のように残っていた。
その日、廊下の長椅子に座り煙草を吸っていた私は、玄関から入って来る三人の姿に気付いた。二人の後に隠れるように付いてきたのが幸子だった。俯き加減に歩いていた幸子の姿に、眠らない子だな・・・と、そう感じた。和毛の可愛い壊れてしまいそうな子だった。幸子の全身に漂う雰囲気を一瞬にして知った私は、私のなかの忘れられていた憂鬱さを感じていた。
幸子に何を求めようとしていたのだろう。失った青春の翳りを、熱情を取り戻したかったのか・・・教育実習の終了日だった。場所と日付の書いたメモを渡していた。幸子は何も言わず受け取った。その数日前のことだった。三人を前にして、『人を愛さなくてはいけない』と言った私は、『貴女を愛したい』と言い換えていた。幸子は直感的に感じていた。
私は東京での学生生活も終わり、郷里の高校の教諭になり四年目が過ぎていた。何も必要としない生活、感情も感性も捨て、日常の中に埋没していた。そして、私の亡骸は仕事の中に捨てていた。考えることを止め感じることを止めた生活だった。既に幼い子がいた。幼い子と遊ぶことで良い父親だったのだろう。しかし日々が惰性だった。そして、惰性を変える必要はなかった。生きることを捨てたことで老いていく私を見ていた。
愛することは、その人を永遠に許容する。その人のなかで生きることが、仮令悲しみの内に終わろうともそれが愛なのだろう。しかし人は愛することに疲れていく。愛する思いが薄れるのではなく、唯、疲れていく。そして、その人への愛を終わろうとする。しかし愛は深淵の底に、永遠の水圧に閉じ込められるように感じなくてはならない。愛することの辛さも、待つことの苦しみも、沈み行く過程で浄化される。瞬間が永遠となり、永遠は瞬間に凝縮されるように愛さなくてはならない。
何故生きているのか、何故生きなければならないのか、私には分からない。しかし愛することはその一つの答えなのかも知れない。愛することに依って生きていることを感じていられる。しかし私の感性は仕事に情熱を感じることも生活に明日を感じることもなく摩滅していた。身体中を虚しい風が吹き抜けていた。この虚しさを癒してくれるのは幸子に会う時だけだった。一緒に眺めた景色、歩いた街、その一瞬一瞬のなかに幸子を感じ、生きていることを感じていた。幸子との、二人の生活を考えていたと言えば嘘になるのだろうか・・・家族を捨て、家を捨て、仕事を捨てる。そうすることで幸子の愛を得ることが出来たのだろうか・・・恐らく幸子は私を許すことはなかったのだろう。失われた生活の向こう側に愛があり、基盤を持たないことで愛の幻想に突き進んでいく。それは、内面を制する規範を持たないことや、錯綜する思いを押し遣ることで愛していると錯覚する。
幸子への愛は出口のない泥濘に陥っていた。しかし私は単に臆病で、自分自身を鍛えるような確固とした思念を持つことが出来なかった。そして、愚昧な日常から抜け出すことをしなかった。幼い子のことを考え、仕事、家庭、幸子と現象面のみに捉えられ、その過程で堂々巡りをしていたのに過ぎない。幸子を苦しませることも、自分が苦しむことも怖れ、曖昧で無為な日常を送ることで確定的なことから逃げていた。幸子は、私の不明瞭な態度に不安定になっていたのだろう。そして、私の愛し方は幸子を執拗に追い詰め、青春を徒に浪費させたのに過ぎなかった。
加速度的に過ぎていく青春を、内面の激しい葛藤を、最早摩滅した感性で捉えきることが出来なく、私の日常は煩わしい諸事に明け暮れていた。幸子の清純さは、妥協することも迎合することも許容しない。有らん限りの努力は始めから徒労に過ぎなかったのかも知れない。そして、そんな風にしか愛せない私の躊躇いを幸子は知っていた。何故、愛したのかと問われても今では分からない。生きることに疲れていた私は夢中になれるものが欲しかった。そこに偶々幸子が現れた。しかし私に残された最後の機会ではなく、幸子に出会えたことが始まりだったと気付くことはなく、真摯に自己に問い掛けていくことが、幸子に対する答えだったと、そのことに気付かないまま時が過ぎていた。
実習が終わり幸子は帰っていった。私が渡した小さな紙片を握り締めていたのに違いない。それが幸子の生きる糧になり、私と出会ったことの証だった。幸子は私の愛を受け入れ、既に激しく葛藤していたのだろう。松本を去るとき、学校の方角を一瞬見たのかも知れない。花を語り、木々を語り、生きることの悲しみや寂しさを語っていた幸子だった。そんな幸子に私は苦しみだけしか残さなかった。
六
男や女たちが帰宅を急いでいた。擦れ違っただけの二度と会うことのない人々、共有することのない、関係のない時間に私の意識は凍り付いていた。時間だけが過ぎていた。
感覚をただ一点に集中するかのように女は立ち尽くしていた。側に行きたかった。しかし、傘の内側に人を寄せ付けない悲しみがあった。雨を見遣りながら、当て所のない未来と幸子への思いが交錯していた。
大きな窓の向こうに拡がる湖・・・夏の賑やかさを迎える前の静かな季節でした。その日、貴方に会う前から緊張していた。だって、初めて二人きりで夜を過ごす日だった。私は未だ何も知らなかったし怖かった。
鎌倉で待ち合わせをしました。蓮池の木陰のベンチに掛けていた貴方・・・貴方だと分かっても直ぐに近付くことが出来なかった。私は反対側のベンチに行き、暫くの間貴方を見ていた。時々俯き加減に蓮池に目を遣っていた貴方、そんな貴方の姿がたまらなく好きだった。貴方は三十分近くも私のことに気付かなかった。小さな池には小さな魚が飛び跳ねていた。落ちるところを間違えた小魚が葉の上に乗ってまた水の中に落ちていた。
幾つかの峠を越えた向こうに湖が見えてきた。湖面は夕靄に包まれていた。湖岸に車を停め寄せる波音を聞いていた。辺りはすっかり暗くなり湖には人の影さえなかった。貴方は車から降り星空を見上げていた。でも、すぐに戻って来てくれた。それが貴方の優しさだった。
二つ並んだベッドを引き寄せ、『おいで』と言った貴方・・・『暗い湖が綺麗』と答えた私・・・湖を見つめている私の肩を抱いて、『好きだよ』と言った貴方・・・私は何時までも貴方の胸のなかで泣いていた。
夏が過ぎ秋になっていた。夕暮れの海、私は貴方を残したまま汀を走っていた。貴方の足音は聞こえてこなかった。私が振り返るのを待っていたのでしょうか、それとも戻って来るのを待っていたのでしょうか、声を掛けても届かない所で貴方は遠い海を見つめていた。海は静かに波を寄せ砂浜は未だ暖かだった。貴方は私の身体を引き寄せ唇を重ねてきた。あの時が初めてだった。二十一歳で知った初めての口づけだった。『好きだよ』と言った貴方・・・貴方の腕に凭れながら満たされていく私を見ていた。星が輝き始めていた。小さな漁船が通り過ぎていった。海は静かで寄せる波音は優しかった。貴方は何も語らなかった。闇が迫っていた。貴方は遠い海の果てを見ていたのでしょうか、それとも既に行き場のない二人の姿を見ていたのでしょうか、星明かりの許、時だけが過ぎていた。朝まで波音に抱かれていたかった。貴方に凭れたまま、その腕のなかで温もりを感じていたかった。私の思いも感覚も貴方のなかに吸収されていた。
東京に戻る時間が迫っていた。でもこのまま一緒に、波音に抱かれるように時間が止まって欲しかった。愛することは、愛する人のなかに全てを吸収されてしまうこと。何時も何時までも変わらない思い、持続していく思い、それが愛なのでしょう。貴方と私のなかに、一日一日と創り出され、身体のなかに蓄積されていくもの、それが愛なのでしょう。貴方を感じることで、少しずつ自分のことが見えるようになっていた。愛することの意味も苦しみも知らなかったけれど、確かに貴方を感じていた。
湖に行った日から五箇月が過ぎていた。夜明けまで湖を見ていた私・・・貴方の腕のなかで涙に濡れていた私・・・切ない愛だった。その日から今日迄待っていた。待っていることしか出来なかった。でも、辛くなかった。待つことは、待っている私のなかに貴方が居ることと同じだった。二十一歳まで愛することを知らず、何時も独りぼっちの私がいた。でも、もう独りではないことで仕合わせを感じることが出来た。
湘南の海を離れ雑踏の街に戻ってきた。でも、貴方と離れることが厭だった。『一緒にいても良い?』と言った私・・・窓外にビルの照明や小さな公園の見えていた部屋・・・ベッドと小さな机で一杯になってしまう部屋・・・暗い部屋のなかで初めて素肌を寄せあった。貴方は私の濡れた瞼に何時までも唇を当てていた。唇が首筋を這い私の乳首に触れたとき、身体中を戦慄が走っていった。『幸子』と、呟いた声に少しだけ首を振ってしまった私・・・貴方の唇が、指先が、少しだけ躊躇い、指先は乳首の上に置かれたままになっていた。私の身体は小刻みに震えていた。『抱いて』と、言えなかった私・・・躊躇っていた貴方・・・。
私が初めて口づけをして素肌を寄せあった日だった。貴方のものになりたかった。愛しているのに、貴方に愛されることを願っていたのに・・・何故あの時、私を、私の全てを貴方のものにしてしまわなかったのでしょう。優しすぎた貴方・・・その腕のなかで涙を流していた私、止まることのない涙だった。眠ってしまった貴方の唇に触れ、心の中で、『抱いて下さい』と言っていた私・・・時間だけが過ぎていった。既に東の空が白み始めていた。
七
女は構内の辺りを頻りに伺っていた。そして、通りを渡りこちらに来ようとしていた。私の視線に気付いていたのか、時々こちら見ていた筈だった。雨中をゆっくりと近付いてきた。一時間近く立ち尽くしていた為か、ぎこちない歩き方だった。
貴方との再会の日、私の心は激しく揺れ動いていた。約束の場所に行くことが出来るのか不安だった。愛する人なのに、半年もの間待ち続けた人なのに、でも会うことが出来れば、その不安が消えていくことを知っていた。貴方は約束を守る人・・・必ず会いに来てくれると信じていた。しかし私の不安は、これから先の未来に対するものだったのでしょう。貴方の前に身を投げ出すことが出来るのか、貴方を何時までも待ち続けることが出来るのか、そのような不安だったのかも知れない。貴方の住む街に行きたかった。貴方の近くで、その呼吸が聞こえる所で生きたかった。貴方を求め、貴方に抱かれ、貴方の腕のなかで眠りに就きたい。何時も、何時でもそう思っていた。
一年前の夏・・・そして秋・・・そう、秋も終わり冬へと過ぎていった・・・貴方との逢瀬は少なくなり手紙も薄れていた。でも、私には貴方のいない生活は考えられなかった。何故、松本に行くと言えなかったのでしょう。一緒に居なくても、貴方の住む街に行くことで満たされたことでしょう。時々は会え、私の部屋で寛ぐ貴方・・・貴方の為に食事を拵え、帰りを待っている私・・・貴方の腕のなかで時々は眠ることも出来たでのしょう。貴方はそう望んでいた。それが私の願いでもあった。しかし私は行くことが出来なかった。そのように生きる私が怖かったのか、貴方を苦しめることが怖かったのか、行くことが出来なかった。
約束の時間、貴方は何時もの所で待っていた。以前と変わらぬ風情、変わらぬ前屈みの姿勢で立っていた。私が声を掛けるまで気付かなかった。『浩一』と呼びかけた私に、貴方は優しく微笑んだ。私を捉えて離さない悲しい笑みだった。貴方は私の髪に触れ、『元気だった?・・・』と、ひとこと言った。貴方の手が触れただけで身体中を戦慄が走っていた。会えなかった日々を、空白の時を、一瞬にして埋めてしまう人・・・愛する貴方はそのような人だった。あの日、私は仕合わせだった。貴方が側にいることで満たされていた。公園のブランコに乗っていた貴方・・・ベンチに掛けていた貴方・・・時々私の方を見て微笑む貴方・・・私のなかに貴方がいた。少し離れた所で『抱いて』って呟いた私・・・貴方の耳許まで届くことのない小さな声だった。時が過ぎていった。公園には誰もいなかった。貴方と私が取り残されていた。貴方の指先が私の髪に触れ、項の黒子に触れ抱き寄せられた。『好きだよ』と、言った貴方・・・黙ったまま貴方を見つめていた私・・・静かな夜だった。北風は未だ優しかった。
眼下に見える街は雑踏のなかにあり、再び会えた喜びが私を満たしていた。唇を開き貴方の求めに応じていた私・・・貴方の口づけは私を甘美な世界に誘っていった。貴方の指先に、唇の動きに応じて、私の身体は燃える火のように震えていった。そして、唇が背筋を這い下腹部に触れたとき、私は何も分からなくなっていた。
どの位経ったのでしようか、静けさが支配していた。目を閉じて静かに呼吸しながら貴方は私の髪を撫でていた。貴方の眼差しに触れたとき貴方のものにならなかったことを知った。私には分からなかった。熱く燃える身体のまま何を言ったのか、何があったのか分からなかった。何も覚えていなかった。貴方の腕の中で何時までも震えていた私・・・時間だけが過ぎていた。もう一度抱いて欲しかった。貴方のものになりたかった。『お願い抱いて』と、言葉にならない思いが心のなかで谺(こだま)していた。
貴方の思いを知っていた私・・・私の思いを知っていた貴方・・・満たされたい空白を互いに持っていたのに、満たすことの出来なかった二人・・・静寂の中に規則的な呼吸音を聞いていた。『浩一』と、何度も呼んだのに貴方は静かに目を閉じていた。眠っていたのでしょうか、眠りから覚めていたのでしょうか、貴方の瞼に触れた私・・・貴方の指先に触れた私・・・貴方の唇にそっと接吻した私・・・再会の日、貴方と過ごした夜でした。そして、貴方の指先を握ったまま少しだけ眠った私・・・。
戻ることも進むことも出来ない錯綜する思いのなかで何時しか二十二歳になっていた。貴方のことを信じていた。信じていても心のどこかに遣り切れない悲しみがあった。何故か分からなかった。でも、越えることの出来ない悲しみをその時知ったのかも知れない。夜明けが近付いていた。眠っている貴方の唇にもう一度唇を重ねていた私・・・『愛しています』と、小さな声で呟いていた。貴方にはその声が聞こえていたのでしょうか・・・。
夜明けの空に小さな星が残っていた。静寂を取り戻した東京の街、私は既にひとりの女になっていた。そして、後戻り出来ない時間を知っていた。
八
微かに残る香り、幸子と同じ香水だった。女は、私を一瞥して足早に遠ざかっていった。待ち人は来なかったのか、行き場がなく其処にいたのか不安定な女だった。幸子でなかったことの安堵感と失意があった。しかし、その後の幸子のことを知らない不安が拡がっていた。
幸子との逢瀬は二箇月に一度か、三箇月に一度になっていた。しかし会う度に大切にしたいと思いながら何も出来ない不安が重なっていた。会えば別れの辛さに苦しみ、会わなければ日々の辛さに苦しんでいた。せめて次に会う約束さえ出来れば救われていたのかも知れない。私が踏み越えられない日々幸子はひとりで待っていた。『最早戻ることはないだろう』と、そう言う思いで東京に行った日があった。私の視野の片隅に焼き付けられていたのだろう、幼い子の残像が分かったのか、『帰って、待つこと出来るから・・・』と、そう幸子は言った。
夏が過ぎ秋になっていた。幸子は松本に来ることはなく東京の商事会社に就職が決まっていた。私を苦しめたくないと幸子は思い、私は幸子を壊せないだろうと思っていた。踏み越えられないことだった。私の掌のなかで成長していく幸子・・・美しくなっていく幸子・・・私にはその変容する姿が見えていた。しかし幸子の成長は、幸子のなかに内在していたものが明確な形となって現れてきたのであって、私との出会いと過ごした日々はきっかけに過ぎなかった。何時の日か掌のなかから飛び立っていくことを予感していた。仕方のないことだった。幸子を背負い切れないのではなく、背負うことの出来ない不安があった。
何時のことだったか幸子は私の少し先を歩いていた。ビルの谷間から急に西陽が射し幸子をくっきりと映し出した。私はその場に釘付けになり後ろ姿を見ていた。光り輝く女神のように美しかった。その姿は、幸子の内面の神秘さと、冒してはならない尊厳ささえ持っていた。余りの美しさに私は絶句した。そして、既に私の手の届かない所に行ってしまったように感じた。
幸子の悲しみを有りのまま受け入れることで、二人で生きることが出来た筈だった。しかし幸子と私の思いが交差することは、何時しか幸子の清楚な思いを、純粋な愛を壊してしまうことだった。月日が流れていた。『会いに行くことが出来ない・・・』と、書いた短い手紙を投函した。二人の間に終止符を打つことが、永遠の思い出として心の中に残ったのかも知れない。そして、再会することなくその時に終わっていれば、愛は永遠の彼方に見いだすことが出来たのかも知れない。
幸子と別れて五年が過ぎていた。その間、私は私の生き方を掘り下げることもなく徒に時を過ごしていた。悔恨という言葉が虚しさと反響して為体な日常に覆い被さっていた。出会いの瞬間に幸子との生を重ねていた筈だった。そして、再会出来たとき既に後戻り出来ないことを知るべきだった。二度の失ってはならない機会があった。それなのに・・・何故・・・幼い子供のことを考えていたと言う私は、言い逃れをしていたのに過ぎなかった。湖で『執着しても良い?』と言った私は、幸子に対して変わらない愛を誓っていた。後ろから抱きしめている腕に幸子の涙が幾筋も幾筋も落ちていた。腕に絡みついた涙は私の身体のなかに染み込んでいった。夜明けの湖を歩いていた。湖岸の近くは靄で煙っていた。あの時、私は失われていた愛の感覚を知った。それは幸子によって呼び起こされたものではなく、初めて知った震撼するような思いだった。
失ってはならない愛を失った私は、何時しか軽薄な思いを抱いたまま老いて行くのだろう。そして、ぽっかりと空いた空洞を埋めることもなく二度と幸子に再会することもないだろう。それが私に与えられた罪と罰なのかも知れない。
生きること、愛すること、生活することは同じ事である。それは寂しさと虚しさの交差する接点の上に在り、そのことを人は知らないまま見過ごしている。待つことは内に苦しみを蓄積していく。しかし待つことが思いを変容させることではない。愛は変わるのではなく、その姿を変え、日常の中に潜み、出口のないまま埋もれている。人が人として生きる時間は短すぎる。その短い生のなかで愛する時は一瞬しかない。しかしその一瞬さえ知る人はない。寂しくて虚しい胸裡を掻きむしられるような思い、溜め息のなかに消え入ってしまいそうな生、そして愛・・・。
人は、人を求めるから独りであること知る。そして、人を求めようとするから寂しさを知る。愛することは、その寂しさを、独りであることの寂しさを癒してくれる。愛の希求と欲望は矛盾しない。互いに求め惹かれた二人にとって全てを透明にする程強いものだろう。愛は共有する時間の中で芽生え、会えない時間の中で形作られていく。けれども、先が見えなく明確な形で現れてこない。それでも人は愛さずに生きていられないのだろう。
日々が過ぎていった。しかし幸子を愛していながら、自分自身を構築していくことをしなかった。幸子は、そんな私に対して自分を預けられない悲しみを感じていた。そして、何時しか無為に過ごした時間だけ幸子から遠ざかっていた。愛すことは、自己との、社会との闘いではなく内なる時間の共有化であり持続する感性の進化なのだろう。
私の日常は同じことの繰り返しだった。幼い子から離れていく私を幸子は許すことが出来るのか、矛盾と逡巡から抜け出すことが出来なかった。それが間違いであることに気付かなかった私は、一歩一歩と幸子からの距離を拡げていた。
九
驟雨の続く東京の街、私の入り込む透き間など始めからな無いのかも知れない。幸子の住む街に行って確かめたい思いがあった。しかし一体何を、何を確かめれば良いのだろう。既に五年も過ぎていた。仮令其処に住んでいたとしても会える筈がなかった。しかし、心の震えだけは確かめることが出来たのかも知れない。
この一箇月の間私は悶え苦しんでいた。本当に別れることが出来るのか、不安で不安で仕方がなかった。手紙を書き始めては破り、途中まで書いては破り捨てていた。
貴方と過ごした日々の重さが蘇り、こんな筈ではなかったと迷路を彷徨っていた。そして、溜め息を吐いては窓辺に映る私を見ていた。三年の間に少しずつ変わってしまったのでしょうか、其処には大人びた私がいた。貴方と会えない日々のなかで、蒔かれた種が芽を出し、蕾を付け、そして花を咲かせようとしているのかも知れません。でも、一体どんな花になるのでしょう。咲いたまま枯れてしまうのかも知れない。でも、それで良いのです。
最後の、逢瀬の日が近付いて来ました。書き終えた手紙を持って貴方の許に行くのでしょう。でも書き終えることが出来なく、途中でゴミ箱に捨ててしまうのかも知れない。そうあって欲しいと、私は願っています。
冬・・・貴方と私は夏に過ごしたそのホテルに行きました。白樺林の間を粉雪が舞い落ちていた。『雪景を寄せ集めても、幸子の蒼く燃える肌が焼き尽くしてしまうだろう』と、貴方は言った。私は貴方の言葉が分からなかった。でも、そう言った筈の貴方なのに私を抱くことはなかった。朝方目覚めた私は冷たいベッドの中で震えていた。そのとき愛されていないのではないかと感じた。それまで一度も感じたことなど無かったのに、何故?・・・何故?と問うていた。それは螺旋階段を下りて行くような、同じところをぐるぐると廻り続けていたのか、進行方向に向いて走っているのに、後戻りをしている列車のように、行ったり来たりしていたのかも知れない。
不確実な時間が当て所無く進んでいた。そして、人いきれの街と貴方に会えないことが徐々に私を疲れさせ心を蝕んでいた。私は一人の女として生きたかった。得る物も失う物も無いならば、後戻りなど出来ないことを知っていた。もしも後戻りをしたならば、私もまた、自分の生を見失ってしまうのでしょう。東京の片隅に小さなアパートを借り貴方のことを待ち続けていたかった。私の愛はそんな愛で良かった。半年に一度、一年に一度でも良い、確かなこととして貴方のことを待っていたかった。
信じることが青春で、悲しみが私のなかに住み始めた女だったのかも知れない。貴方は、私の、その思いを知りながら何も言わなかった。何故?・・・何故だったのでしょう。優しさは、苦しみを内に宿さない限り本当の優しさになれない。貴方を頼るのではなく貴方と共に生きたかった。
貴方の過去に何があったのか知らない。でも、過去など取るに足りないものでしかない。私の愛した人は貴方そのものだった。銀河が宙の中心に向かって吸い込まれて行くように貴方は其処にいた。それが私の貴方だった。貴方の存在を、確乎とした感性と愛情を知りたかった。そして、少しでも貴方に近付いていきたかった。貴方の読んだ本を読み、聴いた音楽を聴き、深奥に眠ったまま蓄えられている深淵を信じていた。
私の部屋には貴方から送られた何冊かの本が積まれている。その一冊一冊のなかに貴方が見え隠れしていた。そして、貴方が私と出会う以前に書いた断片、私宛に書かれた手紙が堆く積まれている。もう一度始めからその全てを読み返すのでしょう。でも、捨てられないまま残して置くのか、貴方を忘れる為に捨ててしまうのか分からない。空白の行間に貴方の陰を感じていた。私は、その白い行を、貴方を待つことで埋めていくことが出来た。屹度、貴方はそうしてくれることを願っていた。
ひとつのことに思いを込め、確然とした思念がある限り負けない自分を知っていた。私は貴方に出会ったとき、その瞬間に内なるPATHOSとETHOSを蓄え始めていた。それなのに、別れの為に使われようとしている。
私は、貴方を待つことが出来るのでしょうか・・・屹度、何時までも待っている。私の愛は、辛くても苦しくても待つことを知っている。でも、二度と会うことのない関係・・・距離を拡げることも縮めることも私には出来ない。貴方と私との関係はそのようになっていた。声が届く距離なのか、永遠に届かない距離なのか分からない。でも、声の届く所に何時までもいたい。
これからの私は、以前のように自分の殻を閉ざしてひっそりと生きて行くのでしょう。貴方以外の人に、私の表面は見せても裡側に生きる内なる私を語ることは決してないのでしょう。疲れ切ってしまったのかも知れない。私にとって、失うことの出来ない三年間なのに、必死で這い上がろうとしても何も見えなくなっていた。浩一・・・何処にいるの、浩一・・・私のこと捨ててしまうの、浩一・・・私にとっての青春はもうありません。貴方の触れた指先が、唇の感触が蘇ってきます。浩一・・・貴方は、私の何を求めたのでしょう。
十
女は既に過去になっていた。雨か・・・と呟く私は、私の頽廃した日常から抜け出すことが出来なかった。軽薄な私は、何もかも捨て去り雨中に飛び出し叫びたい衝動に駆られていた。家も仕事も捨て一人になりたかった。そんな風にしか答えを出せなかった。それが既に失われていても・・・。
眼下に貴方の住む街が見えてきました。矢張り、その日のことを記さなければと思います。その頃の私は、貴方のことを思う度に切ない苦しみに耐えていた。私が貴方に会いに行く。松本で会いたいと言った私は、その街が貴方の内面を作り、どのように変えたのか知りたかった。
朝の早い時間、新宿駅のホーム立っていた。何時もなら貴方を見送るホームに列車はゆっくりと進入してきました。発車間際まで躊躇っていた。でも、ベルが鳴り終わりドアが閉まる瞬間車内に滑り込んでいた。一駅過ぎる毎に、何時の日かこんな風になることを予感していた。行ってはいけないと自分に言い聞かせていたのに、これで良いと思うようになっていた。
寒い日でした。松本駅は冬景色に染まり、実習に来た時とは随分と違って見えました。待ち合わせの時間には一時間以上ありましたが、逸る私はその場所を確かめようと思い駅を出ました。指定された喫茶店は直ぐに分かりました。でも、中に入ろうか迷っているうちに少しずつ不安になっていた。喫茶店の名前も場所も確かな筈なのに、貴方が来るのか、ここで待っていて良いのか分からなくなっていた。寒くて寒くて震えていたとき貴方が目の前に立っていた。貴方は不可思議な顔をして私を見ていた。『寒かった?』と聞いた貴方・・・『ううん』と答えた私・・・切なくて、嬉しくて、涙を流していた。知らない街、知らない人々、一人で男の人を待つことや、況して、会いに行くことなどこれまでなかった。始めて私は自らの意志で行動したのです。一歩を踏み出した私は、自分の生きる方向を探し当て、閉じられていた殻を破ることが出来たのです。
山間のホテルに上って行きました。早い夕暮れは、灯影に揺れる松本の街を映し出していた。
『貴方の街』と、私は指さした。
『多分そうだろう』と、言った貴方。
『貴方のこと知りたい』と、私は言った。でも、本当は感じたいと言い直していた。
『日常が影絵のように消えて行く。結局、確かなものは存在することなく意味を持っていない』
『でも、この瞬間が確かなもの?』と、問うた私。
『幸子といる今が全てであって、他の時間は継続に堪えられないときがある。何も思わなければ何も考えない。過ぎたとき、始めて経過したことを知る』
『単純なものほど確かであり必要なこと?』
『そう思う。しかし分かっていながら突き進んで行けない。脆弱なのかも知れないが、人は個としてしか存在しない。歴史はそれを証明している。EGOから抜け出すことは出来ないだろう。でも、幸子に出会ったことで越えられるかも知れない。そう願っている』と、貴方は言った。
少しだけ会話をした。そして、貴方は松本の街に帰っていった。それは始めからの約束だった。でも、その日は私にとってひとつのことを越えた日でした。自分自身を知りかけていたのでしょう。松本から帰り貴方への思いを一冊のノートに綴っていた。
松本の街を見下ろしながら、『過ぎてしまえば今日のことも遠い過去になる』と、貴方は言った。本当のことかも知れないが嘘であって欲しかった。だって、何時の日か私のことさえ忘れてしまう。そして全てのことが過去となり、貴方のなかで意味を持たなくなる。でも、私は貴方が生きてきた過程を知っている。街も、そのホテルでの時間も私のなかで意味を持ち続けている。過去は戻ることはない。でも、貴方と私が交差した接点は限りない拡がりを持っている筈だった。
これまでの私は臆病で自分からは何も出来なかった。後悔するのが厭だったのかも知れない。でも、これからは積極的に生きることが出来る。貴方に出会ったことが愛の始まりだと信じていた。不確実だったことが、貴方により確かなこととして見えるようになっていた。帰ってしまった貴方、見知らない街、でも、貴方が住んでいることで仕合わせを感じていた。そして、貴方の優しさに包まれて少しずつ大人になっていくことを予感していた。
大学に入って半年ほど過ぎた頃恋をしました。その人はスポーツマンで、凛々しくて頼れる人でした。女の子たちの間でも人気があり誰からも好かれていました。私のことを『幸子』と、始めて呼んだ人でした。私はその人に惹かれていった。大学二年の夏、グループで旅行に行った。始めからそう言うことだったのでしょう、気付いたときにはそれぞれカップルになっていた。星空のもと、海辺を歩いていたのに、何時の間にかホテルの部屋で二人きりになっていた。そして『俺のこと好きだろう!好きなら良いじゃないか』と、いきなりベッドに倒された。油断していた私も悪かった。私は必死で抵抗した。そして、やっと逃げ出すことが出来た。駅まで夢中で走っていた。終列車に間に合わず、誰もいない待合室でまんじりともしないで朝が来るのを待っていた。辛くて、悲しかった。でも、幼かった自分の心に誓っていた。何時の日か必ず愛する人に出会いたいと・・・。
二人きりの時・・・松本の街・・・私ははしゃいでいた。でも、それが私に出来た愛と甘えだった。優しかった貴方、私が愛した人はそんな貴方だった。一度きり、ほんの数時間過ごした街、でも、そのとき苦しんでいる貴方のことを知った。そして、貴方の苦しみを共有出来ることを願っていた。
十一
幸子に似た女と二度と会うことはないだろう。埋めることの出来ない過去と未来、遣り切れ無い虚しさが残っていた。失ってはならない一瞬を失った私は、ホテルに戻り朝まで雨を眺めていることしか出来ないことを知るべきだった。
やっと会えて、変わらない貴方の思いを知って、私はまた日々の辛さに耐えられるようになった。私の為に会いに来てくれ、私だけを愛してくれる。私の髪に触れ、『綺麗だね』と言った貴方・・・私の唇に触れ、『可愛いね』と言った貴方・・・そのように私を変えたのは貴方だった。貴方と一緒にいることで、貴方の愛を感じることで私は変わった。貴方の為に愛される私になりたかった。貴方の為にもっと綺麗になりたかった。貴方の求めに応じられる私でありたかった。私の思いは、何時も何時でも貴方によって満たされていた。
貴方のことをこんなに愛しているのに、何故、別れの手紙を書いているのでしょう。貴方のいない生活・・・貴方を感じることのない生活・・・私は生きることが出来るのか分からない。これから先、何を考え、何を求めれば良いのでしょう。貴方のなかで呼吸し成長していた私・・・貴方が道標であり支えだった。貴方と共にしか生きられないことを知っていた。別れることが本当に出来るのか・・・私の悲しみを、寂しさを知っている人・・・貴方といる時にだけ素直になれた私だった。
貴方と歩いた小さな湖水の畔、貴方の腕に凭れ掛かっていた。手を繋いで歩いた坂道、何時も小さく震えていた。二度と、貴方のような人に巡り会えることはないのでしょう。私のなかの越えることの出来ない思い、貴方のなかの越えることの出来ない思い、それが何なのか分からない。けれども決して越えることが出来ないと知っている。貴方と私の愛は、生きていることではなく死ぬことによってしか解決されないのかも知れない。貴方と私の死に依って完成される愛・・・仕合わせと喜びの裡側に感じていたもの、愛することは人を傷つけ悲しい思いにさせていく。私の愛は、悲しみと苦しみの間にしかないのかも知れない。
ペンを執り苦しい日々が続いていました。何も出来なく枕は何時も涙に濡れていた。苦しくて、苦しくて、このまま狂ってしまえば屹度救われたことでしょう。再会の日からどの位経ったのでしょうか、嬉しさと苦しみが一日の内に交互にやってくる。本当は何方なのか自分でも分からなくなっていた。愛しています。これからも貴方だけしか愛せないのでしょう。
貴方の腕のなかに眠る時、言い知れぬ仕合わせと安らぎを感じていた。出来るなら、この手紙を破り捨ててしまいたい。捨ててしまえば苦しんでいても時々は会えるのでしょう。会えない日々の辛さを越えることが出来るのでしょう。
ペンを擱かなければ・・・でも・・・貴方と過ごした日々が蘇ってきます。何度か国立美術館で待ち合わせ、小さな休憩所で小さなアイスクリームを食べました。ルノアールが好きだった貴方は、何時までも絵の前に立ち尽くしていた・・・貴方の後ろ姿が悲しくて、何故なんだろうと問うていた私・・・絵のなかに何を見ていたのでしょう。繋いだ指先から貴方の鼓動を聞こうとしていた私・・・コンサートを聞きに行ったこともありました。そう十二月、渋谷で待ち合わせ、道玄坂を上って行った。風冴ゆる日、草臥れたコートを着ていた貴方・・・目を閉じたまま聞き入っていた貴方・・・時々横顔を盗み見していた私。終演後、『送って行こうか』と言った貴方・・・『いや』と、答えた私・・・我が儘ばかり言っていた。甘えたかった。だって、貴方はまた何処に行ってしまうか分からなくなる人・・・。
その日も二人で過ごすことが出来た夜でした。『絵を観ていても音楽を聴いていてもよく分からない。けれども、画家の、そして音楽家の生活が見えてくる。自分の為にではなく、人の為にではなく、況して社会や歴史の為ではない。その人の日常が、歩いている姿が、眠っている姿が、窓辺から遠く果てしない虚空を眺めている姿が、時間と空間を越えて見えてくる。日常の営みを遠景の向こうに押し遣るかのように生きている姿が見えてくる』と、そう言った貴方・・・伊豆に行ったこともありました。朝靄に煙る箱根街道を車で走り、熱海、伊東を抜け石廊崎迄行きました。雨が降っていた。海は一日中乳白色の霧に包まれていた。貴方の運転する横顔を見ていると、『前を向いていろ!』って叱られた。その日、泊まる所がなくて防風林のなかに車を停め、その中で眠りました。風波が松林の鳴き声に重なって朝迄ざわめいていた。私の掌を握り、『怖くない?』って訊いた貴方・・・『一緒だもの』と、答えた私・・・でも、本当は少しだけ怖かった。夜明け、貴方は私の肩を抱いて汀まで歩いて行った。其処には言い知れぬ静寂さが残っていた。
貴方と過ごした日々、私の中から消えることはないのでしょう。沢山有り過ぎるのかも知れない。その一つ一つがこれからの私の生を支えてくれるのでしょう。思い出としてではなく、私が生きた証として・・・そう、今日で終わり・・・。
閉じられたカーテンが夜明けの明るさを取り戻してきました。夜が明けていきます。黎明ではなく終焉としての夜明けが・・・貴方が約束した日、私の心はまだ迷っている。でも、貴方は私の思いに気付いている。そして、そのことを知りながら私の許に来る。何故?・・・何故なのでしょう。私のことを愛しているのなら来ないで下さい。会いたくない。会いたくない。今日会えば全てが終わってしまう。貴方を愛する私への終止符を打たなくてはならない。そう、青春の終わり・・・。
貴方に話しておくことが、伝えておくことがあるのかも知れない。でも、何を言って良いのか分からなくなってしまいました。
さようなら、貴方への愛。何時までも愛しています。幸子
擱筆
十二
何度も二人で降りた駅だった。美味しい魚を食べさせる店があり時々幸子を連れて来ていた。学生時代から通った店だったが、幸子と別れてから一度も暖簾を潜ることはなかった。私は女が待っていた辺りを一瞥すると、ホテルとは反対の方角に歩き出していた。雨は未だ降り続いていた。
何度も手紙を書いては破り捨てていた。投函出来る筈のない手紙だった。そのままポストに落とせば良かったのかも知れない。しかし投函口まで入れながら引き出していた。何故出来なかったのかと問うことが苦しかった。幸子との日々は既に失われていた。求めたとしても交差した直線が互いに距離を拡げて行くように、二度と交わることはなかったのだろう。
幸子の住む街に二度、三度と行ったことがあった。地図を頼りに新興住宅街を歩いた。しかしほんの数分いて帰ってしまった。その後、東京に行く度にもう一度行ってみようかと思いながら足を踏み入れられなかった。しかし東京の街を歩いても、松本の街を歩いても、何処に行っても幸子を探していた。
幸子に始めて出会った日、幸子の眼差しの裡側に悲しみを感じ、深奥に眠っている寂しさに触れてみたいと、そう思っていた。幸子との逢瀬を重ねる毎に、愛することが、愛されることが、確かに時間と空間を越えていることを知っていた。
何故、人は愛を知ろうとするのだろう。愛は、時を共有することだけではなく、時を、その中に捨てることである。その愛の為に生きることが出来るなら何も必要としない。しかし分かっていても、何時しか忘れられ愛することが出来なくなっている。二人の間断のない時間を持ちながら、結果的に愛することを見失ってしまった。きっと、幸子を引き受けることの出来ない不安を感じていたのだろう。それは私の無為からきていた。
愛することは、青春と呼ばれる日々のなかにしかない。老いていくに従って、愛することを忘れ日常の中に埋没していく。そして、得たと思ったのは影幻であり、失ってしまったこともまた幻影となる。残像だけでは既に愛とは言えない。
五年の歳月は、私の中に何を齎らしたのだろう。胸裡の、深淵のなか刻み込まれた愛だった。しかし蘇ることのない愛だった。そして、何時しか記憶は薄れ幸子のことさえ過去の出来事になる。何故と問うこともなく、日々の中に埋もれ頽廃した生活に追われる。愛したことは最早意味を持たなかったことになる。しかし、時々は心のなかで幸子と呟くのだろう。意味のない呟きは虚空に消え、幸子の許へ届くことはない。
私が幸子に抱いていた愛情は、ガラス細工に触れるような感覚だったのかも知れない。大切に守りたいと思いながら、幸子の基底に触れることを怖れていたのだろう。幸子はそのことに気付き、何時しか私との関係に確かな意味を見出せなくなっていた。『信じることが青春で、悲しみが私のなかに住み始めた女だったのかも知れない』と、言った幸子。答えを出し切れなかった私。
幸子への思いは私の中で何処に行くのだろう。これから先の人生に覆い被さるように悔恨の日々を残すことだろう。幸子は、私にとって失ってはならない確かな愛だった。それが分かっていながら何も出来なかったことが私の限界だった。何を見ても、何をしていても幸子のことを考えている自分に気付いていた。そして、徐々に薄れて行くだろうと思っていた感情はより深くなっていた。毎夜のように夢を見る。夢の中でしか愛することが出来なくなり、一日一日と、思い出は遠い彼方に去っていく。しかし思い出として過去の遺物となるのではなく依り鮮明な悔恨として残る。そして、深い溜め息を吐きながら失われた情念の中に老いていく私が投影される。『思い出だけで生きることが出来る』と、幸子は呟いたことがあった。それは、幸子の寂しさと悲しみだった。その時、私は思い出だけでは生きることが出来ないと言った。幸子を愛し続けることが、その言葉を否定することだった。幸子の存在は、私にとって厳寒の絶壁に取り残された一輪の花ではなかった。しかし、何もかも過去の出来事になってしまった。
新宿駅地下通路、大勢の人々が行き過ぎていた。幸子が考えていたように、私もまた、今日で最後になるだろうと思って東京に行った。何故、と問われても分からなかった。
私の時間は、初めての逢瀬から方向が分からないまま当て所無く彷徨っていた。もう一度会いたい、と書いた手紙を投函さえしていれば・・・幸子に会うことが出来たのだろうか・・・。
幸子の、捨てることの出来なかった手紙は、机の中に仕舞われたままになっていた。そして、既に色褪せていた。
了
遠景の向こうに
小説になっていますが、幸子の章は散文詩のような形で書いています。ゆっくりと読んでいただければ幸いです。