鷺草(さぎそう)

  一

 学期末試験も終わり山下裕二は高校生最後の夏休みを迎えようとしていた。一年生の時から常に学年上位の成績を修め、今回もある程度の成績が取れたことで、このまま行けば来春公立大学が受かるだろうと確信していた。また、兄は地元の公立大学工学部の三年生で、自分も同じ大学の教育学部に進学する積もりでいた。将来は学校の教員となるか、公務員として働くことを希望し、遊びたい年頃だったが、机に向かうことは嫌いではなく却って勉強している方が落ち着く性格だった。
 夏休みまで一週間を残していた。
「明日から三者面談が始まります。必ず御両親と一緒に出席して下さい。皆さんも将来のことは既に決めていると思いますが、一応この面談が最終となります。よく話し合って臨むように・・・」
 と、担任が言った。
「先生、もしもですけれど、話し合いが上手くいかなかった場合はどの様に考えれば良いですか・・・?」
「その時はそれなりの資料を用意してあります。唯、ある程度自分の成績を考えて、余り無理を言わないようにして下さい。個人別の進学ランク表は全て出来ていますが、何れにしても決めるのは君達です。今日はこれで終わりにしましょう」
 担任はそう言って教室から出ていった。
 裕二はG私立大学附属谷川高校に自転車で通っていた。ゆっくり走っても三十分で通学出来る距離である。進学校としてはそれ程有名ではなかったが、最近国公立大学への進学率も高くなり、都下の附属校としても一ランク上の印象を与えていた。
 午後から授業は無かった。家に帰るのは面倒だったが、母親が食事を拵え待っているので一度帰ることにした。
 三者面談は明日に迫っていたが、母親の朋子は、学校のことを話さない裕二が心配だった。
「試験の成績は如何でした?」
 昼食を摂りながら話し掛けてきた。
「大丈夫だと思うよ」
「R大学の教育学部が第一志望で、Q大学の教養学部が第二志望だったわね」
「兄貴と同じR大が受かると思うけれど・・・」
「期待していますから」
「うん」
「明日の三時ね、面談時間?」
「そうだよ」
「明日も一度帰って来るでしょ?」
「そうしようと思っていたけれど、また出掛けるのも面倒だし、昼飯は近くの食堂で食べ学校で待っている」
「今日はもう出掛けない?」
「うん」
「お母さん、これから用事があって出掛けますけれど、留守番お願いして良いかしら?」
「帰りは?」
「六時前には帰ってきます」
 母親は片付けが終わると直ぐ出掛けて行った。裕二は自分の部屋でCDを聴きながら勉強を始めた。兄の威彦はアルバイトに行っていたので音量を上げ楽しむことが出来た。しかし暫くすると、『大学か・・・』と、何気なく呟いた。『小さい頃から兄貴と比較され、それでも負けない程度に勉強してきた。中学、高校と、大学を目指して此処まで来たけれど、ガールフレンドもいないし、腹を割って話せる友達もいない。そして、いつの間にか十七歳になってしまった。親父もお袋も、兄貴も同じように大学大学って、俺の顔さえ見ればパクパク蛙の合唱じゃないが同じことの繰り返しだ。勉強して良い大学に入ることが良い生活を保証するってことか・・・確かに目的を見失ってフラフラしている奴や、ツッパリだけが生き甲斐の奴もいる。しかし奴らにとって、これからのことは何方でもよく、現在生きていることが実感出来れば良いのだろう。誰だって明日のことなど分かりはしないし、高校生活は大学に行く為の一つの通過点に過ぎない・・・しかし俺は、この二年半の間に何をして来たのだろう・・・大学を受ける為に学習塾に通い、中間、期末、進学、統一、模擬の試験試験で追いまくられ、自分が何を遣りたいのか、何に興味があるのか、そんな風に考える時間などなかった・・・これが高校生の姿なのだろうか・・・現在、俺の中には何もない。これまでの俺は、其処にある物を何も考えず受け入れてきた。教師の言うことを聞いて、親の言うことを聞いて、兄貴の言うことを聞いてきた。それが正しいことなのか、間違っていることなのか考えたことはなかった。俺の中には物事を判断する能力が欠けている。ツッパリにはツッパリの理由が、暴走族には暴走族の理由があるのだろう。しかし今の俺には、俺の生きている意味が分からない・・・勉強していることが本当の目標であって、大学は勉強する為の手段でしかない。そう考えれば生きている理由なのかも知れない。俺はこれまで何も感じなかった。自分の感情が激しく揺れ動くような、感動でも良い、激情でも良い、心の底から震えるような情熱や出会いはなかった。悲しみも、寂しさも知ることなく、感情の無いまま生きてきた。俺の心の中は、何も無い空っぽのカラカラだ・・・十七歳である意味は一体何だろう。夏が過ぎ、秋が過ぎ、十二月には十八歳になる。十八歳がこれまでの継続ならば、俺の心の中は何も生み出さない・・・十七歳でしか出来ないことがあるのだと思う。それとも十七歳に意味など無いのか・・・これまで、生や死に付いて考えたことはなかった。考える必要が無かったのではなく考えることさえ出来なかった。何もかも俺の側を通り過ぎていた。過ぎて行くものが何なのか、どんな意味が有るのか、捉えることが出来なかった。女の子から手紙を貰ったこともあった。時々電話を掛けてくれる女の子もいた。でも、感じることが出来なかった。しかし決して馬鹿ではない筈だ。馬鹿ではないけれど、唯それだけであって他に何もない。俺にとって、何もないことが教育だったのだろう。教育の作り出したロボット、それが俺である。何も考えず、何も思わず、飯だけ食って勉強する。その勉強さえ手段であって目的ではない。一体何だろう・・・この俺は・・・?』
 CDが終わっていた。終わっていることにも気付かなかった。時間は既に五時を回っていたが母親が帰っている様子はなかった。裕二は勉強しなくてはと思いページを捲ったが手に付かず窓外に揺れる青葉を見ていた。塾は夏期講習まで休みだった。『・・・大学に行くことが本当に意味の有ることなのか・・・将来のことや、給料を貰って生活することを考えれば親父の言うように必要なことかも知れない。大学、大学院卒と言うことで初任給から差があるだろう。大企業なら大学によっても将来が違ってくる。何れにしても始めから格差、差別と言う社会に組み込まれる。従姉妹の結婚式に出席した時もそうだった。何々大学を優秀な成績で卒業して、と紹介していた。学歴に依って将来が約束されるのだろう・・・高校時代から将来が見えている。まだ十七歳で、恋も、愛も、苦しみも知らない内に全てが決まっている。将来は、未知でも夢や希望がある訳でも無く既に失われている・・・大学に行くことは将来の安定の為に、一定の条件を得る為の場なのだろう。それが生活のレベルを決めることになる。家が持て、レストランで食事を摂り、高級車に乗って、家系の良いお嬢さんと結婚して、歳を取って行く。それが幸福なのだろう。しかし俺は、山下裕二は一体何処に居るのだ。俺が選んで、俺の手で掴み取ったものでは無く全てが用意されている。これでは始めから何も無いことと同じだ。俺は将来教育者になることを考え大学の教育学部を選んだ。しかし教師になって生徒に何を教えようと思ったのだろう。単に大学で学んだことをそのまま受け売りするだけである。将来の生活の為に、職業としての教師を選んだのに過ぎない。今の教師と同じように、生徒の相談に乗るのではなく、煙草を吸えば親を呼び出し、髪を長くするな、染めるな、スカートの丈が何センチだの、校則の枠からはみ出さないように注意するだけである。教師は教師で、自分で処理出来なければ教頭に、校長に下駄を預け、校則だの、内申書を盾に取って生徒を脅しているのに過ぎない。教師は俺達の上に居て、唯、縦の列、横の列からはみ出さないよう見張っている。そして、はみ出してしまった奴はそのまま放っておかれる。枠からはみ出してしまえば、無視されるか退学するより仕方がない。教師であることの意味は、高い給料を貰って良い生活をすることだけだ・・・』
 裕二は階下で母が呼んでいることに気付き返事をした。
「同じことを何度言わせるの、下りていらっしゃい」
「はい」
「御飯よ」
「親父は?」
「お父さんと言いなさい。今日は遅くなりますって」 
「そう・・・」
「裕二、勉強進んでいる?」
「受験は大丈夫と思うけれど、何の為に大学に行くのかよく分からない」
「何を今頃になって言っているの?」
「本当はもっと考えることがあるような気がする」
「大学を出ているかいないかで将来のことが決まります。 裕二、しっかりしなさい」
「そうかも知れないけど、よく分からない」
「心配させないで」
 裕二は夕食が済むと二階に上がった。父が帰ってきたとき話しをしようと思ったが、所詮成り行きが見えるようで面倒臭くなっていた。
 同じ物を眼前に置いても人それぞれ捉え方が違う。感じるか、感じないかはどちらでも良いことであって、どの様に感じるかが問題となる。その人の一生を決めるほどの出来事になるかも知れないし、取るに足りないことかも知れない。要するに感性の善し悪し、感じ方に依って、日常的な出来事の捉え方が自ずと決まってくる。感性は個人に始めから備わっているものではなく、生きて行く過程で創られる。そして、感性は、感性そのものを止揚して行くと言って良い。状況は日々変化し、その変化する状況を、真に受け止めるとき始めて感性は磨かれる。
 裕二は未だ気付いていないが、問うことで、何れ自分自身を捉えることが出来るような感性を持つことになる。そして、感性そのものが生きることの、考えることの基盤になることを知ることになる。

  二

 もう一人の主人公田中正美の通う都立商業高校は、裕二の通っている私立校より三キロほど東に位置していた。東京の郊外で、広葉樹が多く残っている街並みと、家々の庭先には、柿木やカリンなど実の生る木々が植えられ穏やかな風情を見せている。その日、クラブ活動が七時過ぎに終わり正美は帰宅の道を急いでいた。母親は仕事で遅くなると分かっていたので、早く帰って夕飯の支度をする予定だった。
 都立商業高校は女子生徒が殆どを占め華やかなところがあったが、正美は身なりも大人しく学校の中でも目立たない存在だった。髪はストレートに伸ばし後ろで束ね一本で纏めていた。商業科の二年生で、クラスは女子が多く男子は四分の一程度だった。正美は中学生の頃から卓球を始めていたので、高校に入ってからも卓球部に入部した。女子卓球部は都の大会でも常に上位の成績を納め、卓球部目指して入学して来る生徒もあった。正美は未だ補欠だったが練習を休むこともなく熱心に励んでいた。中途半端なことを好まない性格にも起因していたが、ひとつのことに集中することは自分の為であり、練習の為の練習でもなく、仲間と集う為の練習でもないと割り切り、ひたすら汗を流すことで精神鍛錬の場と捉えていた。
 本来的に行動を規定するものは内的な意識である。必要と思うものを必要と感じ、不必要なものは不必要なものとして処理できる能力を正美は持ち合わせていた。一歩後ろに下がるなり、角度を変えるなり、対象自体の中で考えるなり、対象から離れて考えるなり、一方向から考えるようなことはしなかった。しかしそれらは生得的に持ち合わせていたものではなく、矢張り正美自身が獲得してきたものだった。
 前向きに考えることで、家族の生活を考えることで、高校卒業後は就職をして、少しでも家計を助ける積もりでいた。正美の下には中学生の弟と小学生の妹がいた。母はパートで働いていたが、衣料品関係の仕事で、月の半分は夜の八時以後に終わり、家に帰って来る時間は九時を回ることが多かった。父親は土木関係の職人だったが、気難しく、家に居ても殆ど口を聞くことはなく酒臭い日が多かった。前日遅く帰って来たときなど、翌日の昼過ぎまで寝ていることもあり、経済的にも安定している家庭とは言えなかった。
 正美はよく図書館で本を借りて読んでいた。家に帰ってからは時間に追われる生活だったが、寝入る前には必ず本を開いた。読書することで自分の内面が変わって行くことを知っていたし、日頃の生活が充足して行くことが分かっていた。唯、正美も女の子なりに洋服も欲しかったし新しい靴も欲しかった。しかし親の前では決して言わなかった。我慢していたのではなく、働くようになれば何れ買うことになるだろうし、執着すべきことは自分自身の精神生活であって、その他のことにまで興味を持っていなかった。また、夢や将来の希望とか考えるより、花を見て歩いたり、物思いに耽っていたり、時には詩を書いていることが好きだった。それらは空想物語ではなく、正美の内面を、生きることを支えている思念だった。しかし理路整然とした知識や理論を持っていた訳ではなく、性格から来ていることだった。日々決して楽しい生活ではなかったが、自分自身を見つめ、読書も勉強もスポーツも、しっかり捉えようとしていた。要するに、自己制御や、無理をして耐えているようなことは無く淡々と過ごしていた。さりとて焦燥感に駆られるようなことはなかった。
「正美、今日も帰るの?」
 と、帰り支度をしていると夏江が言った。
「母さん遅くなるし、夕飯の支度をしなくてはならない」
「偶には付き合って欲しいな!」
「でも・・・」
「嘘よ、意地悪言って御免ね。本当は相談に乗って貰いたいことがあったの」
「夏江の相談って?」
「彼のこと・・・」
「ふふうん?」
 と、正美は語彙を延ばし探るような目で夏江を見た。
「出来たような、出来ないような、分からないから困っている。付き合って欲しいと言われた」
「羨ましいな!!」
「でも、断るかも知れない」
「何故?」
「商業科から普通の大学に行くって厳しいでしょ。推薦入学と言う訳にもいかないし、恋をしている暇なんてないと思う」
「夏江って、案外古風なのね」
「どう言うこと?」
「確かに勉強しなければ後れを取るかも知れない。でも、恋をするって人を成長させると思う。私達の前には時間が無限に拡がっている。そして、自由という扉を持っている。その扉を閉めて置くことも開け放して置くこともその人が決めることだけれど、私達にはこれから先どんな人生が待ち受けているか分からない。自分を規制する必要や、せっかちに結論を出す必要もない。もっと素直に自分のことを見つめ直した方が良いと思う」
「うん・・・」
「それに夏江は、夏江自身さえ気付かない未知の扉を持っている。その扉を開けられた時、違った夏江が見えてくる。彼がその扉を開け、夏江の思いを、感覚を満たしてくれるのかも知れない。そんな素敵な人との出会いになるかも知れない」
「そうである可能性は?」
「瞬間的に感じ取ることが出来る」
「少しだけあるかも知れない」
と、夏江は考えながら言った。
「御馳走さま!」
「ところで、夏休みに何処か行かない?」
「良いよ」
「来年の夏は受験勉強に追われているだろうな」
「頑張ろう」
「じゃ、気を付けてね」
 正美にとって、夏江は唯一の友人と言ってよかった。遊び友達はいても、内面のことまで話し合える友人はいない。夏江とはクラブ活動もクラスも違っていたが、高校一年の夏休み、市の図書館で何度か一緒になり、家も近かったので友達になることが出来た。

 何時もなら大通りから住宅街を抜け帰っていたが、急いでいたので近道をしたのが悪かった。土手の橋詰めにワイシャツをだらしなく着た高校生と、作業着を着た数人が屯していた。引き返そうと思ったが間に合わなかった。
 辺りは既に薄暗くなっていた。
「可愛いな!」
「商業の子か?」
 煙草を揉み消しながら作業着を着た男が言った。
「お願い、通して下さい」
「デートの帰りか?」
「時間も早いし、俺達と付き合えよ」
「それにしても可愛いな」
「お願い、通して下さい」
 正美は泣き声になっていた。
「可愛いじゃねえかよ、泣いているぜ」
「いや、触らないで」
「いや触らないで、だってよ」
「ゲームセンターに行かないか、金持っているだろう」
 寄って集ってからかわれ、正美は恐くて恐くて堪らなかった。しかし数人に取り囲まれていたので、逃げ出せる状況ではなく必死に耐えていた。

 学校で母親と別れてから裕二は中心街の書店に寄った。三者面談は簡単に終わった。支障になるようことは何もなく、担任も地元のR大学なら大丈夫だろうと言った。母親は安心して、「早く帰っておいで」と言って先に帰った。
 必要な参考書を探していた。しかし今更買っても仕方が無いと言う思いもあった。書店の中を一回りして、何冊かの本を手に取りページを捲ってみた。文学書も、哲学書も、詩集も知らないものばかりだった。著者の名前は知っていても、読んだことのない本が棚一面に並んでいた。裕二の知っていたのは、試験に必要な参考書や辞書類に過ぎなかった。
 裕二は書店の中に立ち尽くしていた。『・・・結局、俺は何も知らない。何も知らないまま十八歳になるのだろう。こんなに沢山の本が並んでいるのに、一冊とて読んだことがない。それに加えて、絵を観ることも音楽を聴くこともなかった。感じることも考えることも必要としない日常、心の中は空っぽのまま生きていた。大学に行けば知ることが出来るのだろうか。でも、探し求めなければ何も得られないだろう。一つのことに対して、主体的に関わることも、何故と問うことも、本当だろうかと考えたこともなかった。無目的に大学に行こうとしていた・・・英語のスペルは知っている。単漢字や熟語は読むことが出来る。でも、単語として知っているだけであって、本当の意味は知らない。何も知らないことが十八歳になる俺だ・・・立ち止まって問い掛けることはなかった。ぼんやりと静かな時を送ることはなかった。真剣に、ひとつのことに集中することはなかった。目先のことに追われ、深奥に何があるのか見極めようとしかった。この、内部から吹き上げてくる虚しさは何だ。己の生活も規範も俺自身が考え創り出したものではない。言葉も思いも俺を遊離して中空に浮遊している・・・俺は?俺は?俺は?・・・一体何だ・・・』
 裕二は書店を出て、自転車を引きながら家とは反対の方角に歩いて行った。考えることが沢山あるような気がした。しかし溜め息が漏れるばかりで、何を考えて良いのか分からなかった。放心状態のまま歩いていたのだろう、前方に人のいることさえ気付かなかった。「離して、お願い離して」と、女の子が叫んでいる声だけが聞こえてきた。裕二は自転車に飛び乗り、女の子を囲んでいる男たち目掛けて闇雲に突っ込んでいった。

  三

 その日、裕二は九時近くになって帰宅した。そして、「ただいま」と言うなり母や父にも会わず玄関から二階に上った。顔や腹を殴られ痛みは残っていたが出血はなかった。ワイシャツは破れていたがズボンは大丈夫だった。二階から、「お母さん、飯は友達と食ってきたから風呂だけ入る。空いたら呼んで」と言って、部屋の戸を閉めた。
『・・・自転車で突っ込んだから相手は怪我をしたのかも知れない。しかし上手く逃げることが出来た。彼奴ら何処の高校だろう、暗かったから俺の顔は見られなかったが、暫くあの道は通らない方が良いかも知れない・・・』
 風呂から出るとそのまま二階に上がった。そして、濡らした手拭いでズボンを丁寧に拭き部屋の中に干した。『・・・上半身も下半身にも痣があるが服を着れば分からないだろう。顎のところが赤く腫れているが下を向いていれば分からない。それにしてもよく逃げることが出来た。どの道を通ったのかさえ覚えていないが、兎に角怪我をしなくて良かった・・・』
 興奮していたのだろう、その夜はなかなか寝付けなかった。寝入ってからも、後を追い掛けられる夢を何度も見た。翌朝起きると身体のあちこちが痛かった。顔が気になり鏡を覗いたがそれ程腫れていなかった。翌日、学校の帰りに橋の方に回ってみた。裕二の自転車は逆さまに川底に沈んでいた。

 一週間経ち学校も夏休みに入っていた。
「裕二、電話よ」と、二階から下りてきた裕二に、「田中さんて言う女の子」と言って、母は受話器を渡した。
「私、正美、電話を掛けなければと思っていたけれど、出来なかった・・・」
 正美はそう言ったきり黙ってしまった。
「怪我しなかった?」
 電話の向こうで正美は泣いていた。
「会いたい」
 と、正美はやっと声を発した。裕二は泣いている正美のことを思った。
「俺も・・・」
 裕二は何と言葉を繋いで良いのか分からなかった。それに、何処で会えば良いのか思い付かなかった。受話器を握り締めたまま時間が過ぎていた。
「明日の十時、市立図書館で」
 と、やっとの思いでそれだけ言えた。
「はい」
 と言って、正美は受話器を置いた。
 裕二は電話を待っていた。待ってはいたけれど、茫洋と浮かぶ春先の船倉のような思いのまま正美のことを考えていた。しかし日が経つに連れ忘れようとした。裕二は自分のことだけ考えていて、何故電話を掛けられなかったのか、その理由を慮ることが出来なかった。電話が切れた後やっと分かった。何故正美が泣いていたのか、何故こんなに切ないのか自分の心が分かった。

 正美は前日髪型を変えていた。前髪を短く刈り揃え、後ろ髪は肩のところで内側にカールして、ストレートであった頃の少女らしさから少し大人びた感じになっていた。一週間の間考えなくてはならないことが沢山あった。しかし、裕二と同じように何を考えて良いのか分からなかった。電話を掛けなければと思い、受話器を持ち上げ何度かダイヤルを回した。しかし途中で回し切ることが出来なく、不安と動揺と遣る瀬無さが混沌とした一週間が過ぎていった。

 市立図書館は朝九時から開館していた。閑静な住宅地の外れにあり、周囲は公園になっていて、緑も多く、朝夕は地域の人達の憩いの場所になっていた。
 正美は一番始めに図書室に入り、窓側の場所に座り、窓外遠く目を遣っていた。何か見ていたのではなく、その向こうにある自分の姿を探していた。『・・・私は電話を掛けながら泣いていた。受話器の向こうに彼が居ると思っただけで涙が零れてきた。これまでの私は、こんな風に心の痛みや高ぶりを感じたことは無かった。毎日、平々凡々として異性に思いを寄せることなどなかった。屹度、これが初恋なのかも知れない・・・私の心は揺れ動いていたのではなく震えていた。しかし、意識は掠れていたのではなく依り鮮明としていた。あの日、彼は必死に私の手を掴み逃げてくれた。あの、強い手の力に触れたその瞬間に私は変わったのかも知れない。ベッドに入ってからも襲われたことは何も考えなかった。私の手を握り締めていた強い手のことだけ考えていた。あの力が、心の中深く入り込み、根を下ろし、そして一週間が過ぎた。もうすぐ来てくれるのだろう、会えることを願っていた・・・これまでの私は男の子に好意を持つことはなかった。どちらかと言えば嫌悪感の方が強かったように思う。家に帰ってくるまで酒を飲み、家に居るときも自分のことしか考えない身勝手な父親。時々会う従兄弟たちとも真剣に話をしたことはなかった。学校にいる男の子たちは、日々の些末なことに明け暮れみんな自分を見失っている。私の目には、屹度異質な存在に映っていたのだろう。でも、本当は知りたかったのかも知れない・・・私自身も自分の殻の中から出ることは無かった。成る可く人と交わらないようにしていた。しかし好んでそうしていた訳ではなく、何処か入り込めないことを感じていた。臆病だったのかも知れない。独りで居ることに慣れ、閉鎖的な生き方しか出来なかった。でも、私は十六歳になった・・・そう青春の始まり・・・その時、彼に出会うことが出来た』
 正美にとっても、始めて自分の生に向かい合う時を迎えていた。これから先、内在化する思いを創り出すことで新しい自分を発見して行くのだろう。何が正しくて、何が間違いなのか、確固とした考えを持つことで、進むべき方向が分かって来るのだろう。

 裕二は図書室に入るなり正美の姿が分かった。でも、直ぐ近くに行くことも出来なくて暫くその場に立っていた。しかしひと呼吸置くとゆっくりと歩き始め正美の正面に立った。そして、やっとの思いで声を発した。
「元気だった?」
 裕二の声は震えていた。
 正美は目で頷いただけで何を言って良いのか分からなかった。目を机に落としていたが、やがて裕二の目をしっかりと見つめた。その目から涙が落ち始めていた。裕二もその涙に応えるかのように正美を見つめ返した。裕二は涙が流れてくるのを必死で堪えていた。十六歳の少女と、十七歳の少年が互いの思いを知った瞬間だった。一つの思いが互いの心のなか深く入り込んで行く感覚だった。正美の内面には裕二が、裕二の思いの中には正美が隙間なく瞬時の内に埋め尽くされていた。
 愛すること、人を思うことに年齢は関係ないだろう。しかしその瞬間、精神的にも感性的にも純粋でなくてはならない。純粋であることに依って、全ての年齢を、これまでの過去や生き方を覆い尽くすことが出来る。震撼する心があるからこそ、純粋さがあり、愛する思いを知ることが出来る。誰も彼もが経験することのない思いである。
「電話を待っていた」
 と、外の芝生に座って裕二は言った。
「掛けようと思っていた。でも、出来なかった」
「夏休みになった?」
「うん」
「クラブ、何をしているの?」
「卓球」
「強いんだよね」
「うん」
 お喋りする必要はなく一緒に居るだけで良かった。同じ場所で同じものを見、同じことを考えていた。一つの思いを共有するとき、感性は伝わり確かな強さになる。
「もう直ぐお昼、帰って食事の支度をしなければ・・・中学二年の弟と小学生の妹がいるの・・・三人兄弟の一番上」
「俺、兄貴と二人」
「帰らなくては!」
「来週の今日また会える?・・・午後一時に」
「屹度」
「正美って呼んで良い?」
「裕二って呼んで良い?」
 互いに頷き合っていた。
「行こう正美」
「行こう裕二」
 夏の日差しが照り付けていた。溢れるほどに感情が一杯になっていた。生きることの苦しみも辛さも知らない二人だったが、互いのことを思いやり、厳しさに耐えられることを既に感じていた。正美と裕二にとって、互いの内的世界に、いとも簡単に入り込むことが出来たのは、問うことを己の命題としたからだろう。
 意識的に行動して、内的に自己を形成できるとき青春が始まる。しかし、青春を謳歌して青春と共に滅びる人達がいる。それは自己形成の場とするのではなく、正に自己破綻の場として青春を送る。日常を対象化して考えることを止め、況して、類や個、社会を考えることはない。また、感情や感覚を磨くことは無く今日一日を終える。それで良いと思えばそれで良いのだろう。しかし青春と呼ぶことの出来る時間はほんの一瞬にしかない。その一瞬の間に、濁流が迸るように考え生きなくてはならない。一ヶ月を数年の感覚として生きることも、また、一年を瞬く間に終わったと感じることも出来る。対象を常に眼前に置くことで、そして、問うことで、裕二や正美の人間としての青春も始まることだろう。

  四

 弟、妹は食後直ぐ出掛け、正美は食後の片付け終えるとベッドに横になり読みかけの本を開いた。しかし本の中に入って行くことが出来なく、今別れてきたばかりの裕二のことを考えていた。『・・・裕二に会うことが出来た。私のなかで裕二との出会いを摂理ではないかと感じるときがある。あの日、私を引っ張って行く手の力に、私の全てを吸収してしまうものを感じていた・・・私が虐められていたところを遠くで見ていた人がいた。でも、誰も助けに来てくれなかった。恐くて恐くて逃げることが出来なかった。裕二が助けてくれたのは、裕二の理性を支える本能的なものだった。何が起きたのか分からなかった。時間がどの位経ったのか分からなかった。裕二は何も言わないで家の近くまで送ってくれた。私は「電話をします」と、それだけしか言えなかった。裕二は「うん」と、言っただけで帰ろうとした。「電話番号?」と訊いてやっと教えてくれた。裕二は振り返らないで帰って行った・・・その日、私は興奮していたのだろう、朝までうつらうつらしていて眠ることが出来なかった。次の日、学校に行ったが卓球の練習は休み夕方まで一人ぼんやりと過ごしていた。家には誰も居なかったので電話を掛けることが出来た。でも、受話器を上げ途中までダイヤルを回したが矢張り出来なかった。時々溜め息を吐いたりたりボーッとしていたり何だかとっても変だった。夜お母さんに、「何ボーッとしているの、大丈夫?」何て言われた。次の日も、その次の日も裕二のことを考えていた。怪我をしなかったか、あの後不良たちに見つからなかったか、学校には行っているのか段々心配になってきた。心配していたのだから電話を掛ければ良かったのかも知れない。でも裕二が電話に出なかったら、それに電話番号が間違っていたら、二度と会えなくなってしまう不安があった。五日目、裕二の学校の近くまで行った。若しかして会えるかも知れないと思ったが直ぐ帰ってきた。私、とっても馬鹿だった・・・夕方美容院に行って髪を短くした。裾の方はカールして前髪は短く切って貰った。鏡の中に少しだけ大人っぽくなったような私がいた。鏡の向こう側から裕二が見つめているようで会いたかった。でも、裕二に会う為には自分の内的な何かが変わる必要があった。しかし髪型が変わっても中身は変わらないことは知っていた。でも、少しだけ違う自分になりたかった・・・一週間経って、やっとダイヤルを最後まで回すことが出来た・・・夜遅くなって、日記を書いては溜め息を付いているところを見られて、妹に、「お姉ちゃん好きな人出来たでしょ?早く寝るから頑張ってね」何て言われた。勘の良い子・・・裕二、今頃勉強しているのでしょうか・・・これまで私は恋をしたことがなかった。好きなのかな、と思う人はいたのかも知れない。でも、恋は憧れの延長線上にしかなかった。好きになって、恋する思いがあって、ドキドキするときがあって、でも憧れなんだと思う。屹度自分に無いものを欲しがるように、唯、求めたいだけなのかも知れない。恋が、恋愛になって行くのか分からない。でも、欲しいと言う思いだけなら恋のままなのかも知れない。また違うものが欲しくなり、新しい恋をしなくてはならない。屹度私には出来ない・・・必要なことは感性なんだと思う。音楽を聴いて、絵を観て、感動する思い、そう言うものは心に感じて一生残る。本を読んでも同じように、主人公の生き方に感動出来るなら、自分もそんな生き方をしてみたい・・・私はまだ十六歳、でも、裕二のこと感じている・・・愛することがどんな意味を持つのか知らない。でも、何時か知ることが出来るのだろう。星の王子さまに書いてあった。同じバラなのに、水をやり、被いをかぶせ、アブラムシを捕ったバラは違うバラになるのだと・・・私は裕二の心のなかに住みたいと思う。裕二の内面で考え、行動し、感じたい。そして、私の心の中にも裕二が住み、思いに触れることで強く生きることが出来るだろう・・・高校生になったとき、お母さんが一冊の本をくれた。ブレヒトの詩集だった。お母さんが大切にしていたのだと思う。それに、色んな童話のこと、小説のことなど教えてくれた。お母さんが若い頃読んだものだった。夜遅くまで縫い物や片付けをしている側で遊んでいるのが好きだった。邪魔、邪魔って言われたけど何時も側にいた。お母さんは私の思いを分かってくれるだろう。でも、裕二のことは私のなかにだけにしまっておこう・・・』
 正美にとって長い一週間だった。友達と待ち合わせをしたことはあっても、これ程待っていることが長く感じたことはなかった。でも、心のなかは爽やかだった。初めて愛する思いを知った正美だった。十六歳の少女であっても、感覚的に愛することが止揚であり、試練に耐えて行くことだと知っていた。
「正美、何をニコニコしているの?」
 と、夕食後の片付けをしながら母親が言った。
「何でもない」
「そうかな?」
「そうよ!」
「心配事は相談しなくては駄目よ!」
「何時の日かお願いします」
「はい、はい」
「ねえ、お母さん、夏江と夏休みに出掛けても良い?」
「どうぞ」
「有り難う」
 正美は二階に引き上げた。『・・・もう直ぐ会える。やっと会えると思うと、どうして良いか分からない。約束が出来るって素晴らしいことだと思う。その日が近付いてくると生きている実感が湧いてくるのかも知れない。何時だか分からない日を待っているって辛いことだと思う。今日会えなければ一週間後の今日、一週間後に会えなければ次の週って、何回も約束の日を作りたい。仮に、その日に会えなかったとしても、次に会う約束さえ有れば少しも辛くない。明日は約束の日、長かった一週間が過ぎて行く・・・矢張り私の中で、内面の一部分が変わろうとしている。母は私が変わりつつあることを既に見抜いている。でも、決して問い詰めてくるようなことはしない。私を信頼して任せている。母の、心の豊かさがそうさせているのだろう。何時も穏やかで頼りない振りをしているが、内に激しい情念を持っている母・・・私も母に似ているのかも知れない・・・何があっても中途半端で終わることなく、ひとつのことを手がけたとき限界まで突き進んで行く。そうすることで違った自分が見えてくる。持続性?責任感?否、垣間見る間隙なのかも知れない。確かにそう思う。思念と、私と、日常の間には、私が考えているより深遠な千尋が拡がっている。負けない自己を確立しなければならない・・・』
 翌朝、突然夏江やってきた。夏休み、何処に行くかの相談だと思っていたが様子が違っていた。
「夏江の彼、その後は?」
「付き合っている」
「そう。夏江、私も好きな人が出来た」
「例えば、男の子?女の子?それとも読んだ本の主人公?」
「正真正銘の男の子」
「正美が?」
「人を好きになるって何なのか考えていた。でも、考えても分からないけれど胸が熱く切なくなる」
「そして?」
「潮が満ちてくるように満たされてくる」
「相手は?」
「まだ、秘密」
「正美のこと分かるなんて、私しかいないと思っていた」
「妬いているの?」
「少しだけ」
「用事って?」
「正美に相談があってきた」
「どうしたの?」
「一泊で海に行かないかと誘われた」
「彼と?」
「そう」
「良いの?」
「迷っている」
「信用できる人?」
「分からない」
「恋は当事者にならないと分からない。でも、そのことが夏江の心を傷付けないことを願っている。もしも、後悔すると思うようなら止めればいい」
「後悔するような恋?」
 と、夏江は不安な顔をした。
「目先のことに惑わされると肝心なことが見えなくなる。私達の年齢って危険なことが一杯ある。でも、それらを確かなものと、そうでないものとに選択していく。直ぐ結論なんて出ないけれど、自分に何が必要なのか考えなくてはならない」
「そうね」
「自分を信じていれば結論は行動したときに付いてくる。こうしよう、ああしようと思っても、思っているだけで結論ではない」
「主体的に?」
「そう、責任を転嫁しないこと。ひとつの出来事が生涯を制し、苦渋に拘束されて生きることもある。若いと言うことは社会から許されることではなく、また自分を許すことでもない」
「責任か・・・」
 と、夏江は溜め息を吐いた。
「責任を持てと言われても大人の詭弁に過ぎない。責任なんて何処にあるのか分からないし、仮に持ったとしても、何に持てば良いのか分からない。それに、常時拘束されながら生きていかざるを得ない。制服に着替えるとき中途半端な私を証明している」
「正美って、私の心の友達」
「有り難う」
 夏江は帰って行った。
 大人になりかけている少女たちは、それでも自らの判断で行動しなくてはならない。支えるものは許容できる友人であり、自らに語り掛けることで、心の支えとなり指標を与えてくれるような、内的な存在としての恋人で有り友人なのかも知れない。夏江は自分自身の心に問い掛けながら必要な結論を導くであろうと正美は思った。それが、信頼される友人として出来る唯一のことだった。

  五

 裕二は正美と別れてから近くの店でパンを買い、公園で食べ終わると再び図書館に戻った。焦燥感を感じていた。今やらなければならないことが沢山あるように思った。背表紙を見つめ、其処に自分自身を置いてみた。何故生きているのか、何故高校生なのか、これから何をするのか、何を求めているのか知りたかった。その日、裕二は夕方まで図書館にいた。何冊かの本を手に取り、ぱらぱらと捲っては文字を追っていた。
家に帰って風呂に入ると直ぐ二階に上がった。裕二は一人になりたかった。一人でいることで自分自身を見つめようとした。『・・・正美はどんな生き方をしてきたのだろう。確かに自分の考え方を持っている。感じることの出来る感性を持っている。俺に無かったものを既に持っている・・・俺はこれまで真剣に物事を考えたことがなかった。そして、そのことを良いとも悪いとも思わなかった。此処に山下裕二がいる。塵のようなちっぽけな存在が地球の上に乗っている。日本という国の上に乗っている、取るに足りない塵だろう。東京タワーに行ったことがあった。下を見ると自動車がミニカーを走らせているように見えた。人間が、あのちっぽけな箱の中に居ることが信じられなかった・・・何時も近視眼的にしか見ていない。しかし、視点を変えることで別なものが見えてくる筈だ。それに、これまでの俺は相手のことなど考えなかった。相手が何を言いたいのか、何故そう言うのか考えなかった。そんな生き方しかして来なかった・・・俺の価値は一体何だったのだろう。自分にとって、自分の価値など無いものが、人にとって価値などある筈がない。しかし正美は、俺のなかの何かを感じた。一体そんなものが俺の中にあるのか・・・俺は正美を感じることが出来た。でもそれが一体何なのか未だ分からない・・・』
 裕二は図書館で見つけた長編小説を借りてきた。これまで長編小説など読んだことがなかった。十七歳の今まで読書とは無縁の生活を送っていた。題名に惹かれて読み始めることで良いのだろう。一冊、一冊と読破することで、血となり肉となって体内に蓄えられていく。そして、日々の生活と競合しながら逞しくなる。精神生活との出会いがなければ青春の始まりと言える筈がない。裕二にとって新しい日々が始まっていた。

 裕二は確実なものとして日々を捉えようとしていた。『・・・正美と会って六日が過ぎていった。俺はこの六日間一歩も外に出ることはなかった。午前中は受験勉強をして、午後からは本を読んでいた。朝が来て、いつの間にか夕方になっているのではなく、時間を捉えることが出来るようになったのかも知れない・・・明日になれば正美に会える。正美との時間を確かなものとして捉えることが出来る。充足している時間、無為な時間、それぞれの中に自分の姿を見なくてはならない。どんな時にも、何故そうしているのか、いられるのか知らなくてはならない・・・主体的に関わることが自分自身を常に捉えていることになる。そして、自分が正しいと思ったことを純粋に感じなくてはならない。そうすることで、山下裕二という自己が見つかるのかも知れない・・・これまでの俺は何処にも存在しなかった・・・何が山下裕二の証明なのだろう・・・十七歳、男、付属谷川高校三年生、山下家四人家族の一人、鏡に映る自分・・・でも、違うのだろう。一体どんな条件がイコール山下裕二なるのか、学校に行っても、家に居ても、俺が山下裕二であることに間違いない。しかしそれは、俺の姿、形を見て皆がそう思うのであって、仮装することで違う人間になる。しかし生きている俺が、俺の日常と、内的な生活が統一されて行くとき俺自身になるのかも知れない。どんなことも一つ一つ思念するように、そして継続的に鍛えなくてはならない・・・明日になれば正美に会える。これまで、こんな時間の過ごし方を知らなかった。充足した一週間だったのかも知れない・・・』
 裕二は一週間の間本を読み続けていた。午後から夜中を過ぎるまで活字を追うことで安らぎを覚えるようになっていた。集中力を高めることで人はまた成長して行く。そして、人間的にも社会的にも変容を見せて行くことだろう。

 朝から快晴だった。午前中部屋の片付けをして裕二は出掛けた。「何だかとっても久し振り」
 と、正美から話し出した。
「やっと会えたね」
「受験勉強していた?」
「少しだけ」
「少しだけ?」
「この間図書館で借りた本を読んでいた」
「勉強しないと駄目よ」
「正美、来週映画に行かない?観たいのがある」
「映画の題名分かっているから言わなくても良いよ」
 正美も観たい映画があった。多分、その映画のことを言っていると思った。
「その後、街の方に行こう。正美と書店を歩きたい」
「そして喫茶店に行かない?」
 女の子たちだけで入ったことはあっても、好きな人と入ったことはなかった。
「裕二、お昼まだでしょ?一緒に食べようと思って、おにぎり作ってきた」
「ふうん、正美がね、おにぎりを作ってきたとは・・・」
「あ、馬鹿にしている。上げないから」
「じゃあ公園に行こう」
「上げないから」
二人は図書館を出て木陰に入った。暑い日だったけれど街中より少しだけ小高いことで木々の間を風が渡っていた。
「本当は昼御飯食べて来たでしょ?」
「少しだけ。暑くて、俺だって食欲は落ちるよ。でも本当に正美が作ったの?」
「裕二と一緒に食べたかった」
 二人は冷たいお茶を飲みながらすっかり食べてしまった。若いと言うことだろう、幾ら食べても足りない年齢だった。
 芝生の上に寝ころんで中空を見ていた。
「吸い込まれてしまいそう。あの遠い空の向こうに何があるのだろう。蒼穹の空間、あの空間の向こうに行ってみたい。真空の宇宙、近くに見える星も本当は永遠の彼方にある。果てしない旅立ち、虚空への旅立ち、裕二連れていって!」
「永遠へ?」
「そう、心のなかも同じなのかも知れない。何時まで経っても行き着くことのない模索の日々、自分の内面への旅を続けて行く。何処に行くのだろう。行き着かないまま壊れてしまうのかも知れない。苦しくて、辛いことが待ち構えているのだと思う。でも、必死で求めて行きたい。生きていくことは喜怒哀楽を越えて内面を直視して行くことだと思う。裕二、私の側にいて叱咤激励して欲しい」
 夏の暑さは二人を避けて通り過ぎていた。
「裕二!お願いがあるの、聞いてくれる?」
「うん」
「裕二に出会うことが出来た七月二十一日、これから先、二人が離れ離れになっても、その日の午後一時、この場所で会うって約束してくれる?」
「うん」
「何時どんなことがあるのか、どんな風になってしまうのか分からない。でも、一つだけ約束があれば耐えることが出来る」
 正美は裕二の目を見ていた。裕二のなかに人として生きることの出来る感性を感じていた。光は陰を作り、陰は光がなければ決して生じることがない。切り離すことの出来ない絆を感じていたのだろう。そして、ひとつの約束は悲しみを遠くに押し遣り、明日を待つことが出来るようになる。
「裕二、何処の大学を受けるの?」
「R大の教育学部」
「そう、私も大学に行きたいな!」
「大学に行く積もりでいたけれど、今はよく分からない」
「何故?」
「目的意識のないまま行っても仕方がないように思う」
「大学は色んな人達が集まってくる。そんな人達の間に入って、始めて自分が見えて来るのじゃないかな?」
「自分の存在や意識が確立していれば良いのかも知れない。でも、大学に行く目的が見えてこない」
「崖の上で色々考えているよりも、飛び込んでから考えても良いと思う」
「崖から飛び降りていることを忘れなければね」
 と、裕二は笑った。
「裕二が大学生で私が高校生か、子供扱いしたら許さないから」
「正美は?」
「多分行けない。経済的にも無理だと思う。でも、機会があったら行ってみたい」
「うん」
「通信もあるし夜学もあるから考えてみる。行こう、裕二」
 二人は書店に寄り喫茶店で時間を過ごした。既に夕暮れだった。「送って行こうか?」
「大丈夫」
「来週、同じところで」
 初々らしさがあった。初々らしさは正美のなかで天性のものだった。歳を取ってからも失われることのない初々しさは、その感性のなかにしかない。若い時から歳を取った姿が想像される人がいる。しかし正美のなかにはその欠片さえ微塵も感じられなかった。
 人を思い、感じることを知った若い二人の精神は依り深い絆へと進化して行く。しかし何れ人を思う試練が試されるときが待っているのだろう。

  六

 裕二の内面は変容しつつあった。青春時代にとって自我の確立は必要不可欠のことである。自分と言うものを確立することで、人間として確かなものを見出して行く。受験に合格しても失敗しても、しっかりとした意識がなければ結果的に生きることの前提を失う。裕二は自分の中に何があるのか知りたかった。
「裕二」
 母親が階下から声を掛けた。
「何か用?」
「御飯だから下りていらっしゃい」
 今夜も二人だけの夕食だった。
「親父、毎晩遅いね」
「お付き合いがあるから」
「お母さん、俺が大学に行くことどう思っている?」
「行かなくてはならないでしょ。社会で生きて行くには、どうしたって大学ぐらい卒業していないと信用されない。でも、最終的には裕二が決めることだと思う」
 三者面談のことを考えていた。担任は国立のR大学なら大丈夫だと言っていた。裕二のことを信頼していた。
「そうだと思う。でも、行くだけじゃ仕方がない」
「入学して、四年の間に考えれば良いことでしょ?」
「そうかも知れない。でも・・・」
「この間電話をくれた子、裕二のガールフレンド?」
 母親には母親なりの心配があった。受験を前にした親の心配だった。
「何で」
「ちょっと気になったから」
「真面目な子だよ」
 裕二はそれ以上話す気はなかった。子供じゃないし余計な世話だと思っていた。
「そう、安心した」
 裕二は二階に引き上げた。これ以上詮索をされるのが嫌だった。ベッドに横になりこれからのことを考えていた。『・・・大学か・・・教育学部に入って、教師になって、その仕事に打ち込めるのか・・・現在の学校に生徒のことを真剣に受け止め、信頼出来る教師は、どう考えたって一人もいない。俺は信頼されない教師になろうとしている。学校の決まりや、社会的規範に教師も俺達も縛られている。そして、決まりさえ守っていれば互いに干渉することはない。所詮、通過するだけの高校生活だから余計な浪費はしたくないのだろう。生徒は教師を信頼せず、教師も生徒のことなど相手にしない。それが現実である・・・高校生であることの意味など何処にも有りはしない。高校生、高校生、一体高校生って何だろう。頽廃だ。高校時代など頽廃に過ぎない。教師は教科書の受け売りしか出来ない。それなのに何故、教育などと呼ぶのだろう。教え育てるところではなく、生徒の感性や人格を無視することが教育である・・・俺も同じような教育者になろうとしている。しかし一体何を教えられると言うのだ。何も無い俺が何も無いことを教えることは出来るが、生きることの意味を、厳しさを教えることは出来ない。生きる時間は長く続いて行く。これから五十年、六十年と生きて行くのだろう。しかし、その長い人生の中で、一つの思いを、失ってはならない思いを持続出来るのか分からない。生きることは、日常生活を規定する考え方、行動の支えとなるような思惟、思想を持つことなのかも知れない。今までの俺には何かが足りなかった。でも、それが何であるのか朧気ながら分かってきた・・・毎日毎日しゃがみ込んでは蟻を見つめている男がいた。何をしているのかと思い近くに行ってみると、男は蟻に話し掛けていた。話の内容はたわいのないもので、男の顔付きは穏やかで笑みを浮かべていた。蟻の言葉を聞き、動きに合わせて言葉を掛けていたのだろう。蟻と話せる。蝶と話せる。蜻蛉と話せる。そう、自然界の全ての生き物と話が出来るようになる。あの男を構成している思念とは・・・一つ一つのことに集中できるとき自分の内面が見えてくるのだろう。俺は俺のなかを一気に迸る流れを捉えなくてはならない。構成する細胞の一つ一つが確かな時を刻み、溢れるような青春を生きなくてはならない。そうすることで自我が確立される。山下裕二と言う一個の人間になる・・・』
 既に十二時を廻っていた。都道から脇道に入っていることで静かだった。裕二は窓ガラスに映る自分の姿を見ていた。『・・・静かにしていると海鳴りが聞こえてくる。遠く南太平洋から押し寄せる波間に海鳥が群れている。俺はその海に筏を出す。漕ぎ手も舵取りも俺一人で賄う。仮令意味を持つことが無くても、中途で挫折して海の藻屑と消えても良い。肝心なことは、俺は既に沖に出ていることである。そして、蟻や蝶と話すことが出来れば、その他に何も要らないように自分の道を進んで行こう・・・課題を持たなくてはならない。それは、自分自身を律する上で必要である。唯、柔軟な規範でなければ可能性は失われる。凝り固まった思惟思想は、自己を規制、拘束するのみであって何の発展も止揚も齎さない。そして、雁字搦めの生活は、唯、自分自身に干渉するのみで、何れ自家撞着の末、末路を迎える・・・何故、これまで何も考えず生きて来たのだろう。考えることをしなかったのではなく、記憶や暗記をすることだけに時間を費やしてきた。時間を自分のものにすること無く、時間に追われ受験勉強に追われていた。趣味や興味を持つこともなかった。内面が形成されなかったのは、一つのことに集中することのない生活を送って来たからに過ぎない。暇な時間があれば、テレビを見たりゲームを楽しんだりお喋りしていた。自分から物事に関わりを持つことはなかった。何も見える筈がない。物欲は満たされ小遣いは十分にあった。生活感もなければ不安もなく、何もせずエスカレーターに乗って高校生になっていた。俺の発する言葉は、単に右左を選択する意志表示であって意味はない・・・主体的に関わり、生きることによって物事の本質が見えてくるのだろうか。表面だけ見ていたのでは結果的に何も見えていないことと同じである。裏面に何が隠されているのか、感じ取ることが出来ない限り、物事はいつの間にか俺の側を擦り抜けて行くのだろう。しかし捉えることの出来る感性を、果たして、俺のなかに持つことが出来るのだろうか?・・・』
 裕二は明け方まで起きていた。疲れも眠気もなく、階下に下りると外に出て行った。都会を少し離れていることで、玲瓏たる空間に小鳥が囀り空気は新鮮に感じられた。『・・・黎明・・・俺の知らないところで時は移り行く。生きることは瞬きをしている間に終わってしまうのかも知れない。閉ざされた入り口の向こうに何があるのか、何れにしても突き進んで行かなくてはならない。何も為さず、牛馬が生きる為に食むような為体な日常を越えなくてはならない。そうでなければ不平不満ばかりを蓄積して行くのだろう。そんな生き方だけはしたくない・・・存在を規定するもの?・・・・現実の過程の総和が俺である。変わることのない意識の継続こそ求められる・・・俯き加減に冷笑する近藤、がなり立てながら廊下を彷徨く飯島、暑い日も寒い日もトラックを直走る野崎、しかし、彼らの行動は自己を直視するところから始まっている。俺は、彼奴らに嫉妬と羨望を感じていた。俺に無かった情熱を持っていたからだろう。自己の限界に挑み、越えることを目的として、対象とする現実を眼前に置くことで青春を謳歌する。一日一日が確かなものになり燃焼できる日常を持っている。野崎が言っていた。俺に出来ることは何もない。しかし為体な日常を越えることが青春なら、走っている現実のなかに俺がいると・・・確かに、辛くて、苦しくて、踠きながら走り終える。そして、一時の安らぎを得る。走ることに喜びは無く何時でも緊張感を持っている。緊張感を持たなければ走る意味は失われる・・・自分にはこれが出来ると、確固としたものが欲しいのかも知れない。それがなければ自分を依拠出来ない。脆弱かも知れないがそれが俺である・・・野崎は自分の道を走りながら考えているのだろう。確かなものがあるとは思わないが、自分と対峙することを知っている。近藤は何も喋らない。しかし、怜悧な笑みの先に自分の方向を模索している。恐らく受験に失敗することはなく、卒業後は世間を視野の片隅に置きながら正鵠な仕事をして行く。しかし内面では激しい情念が渦巻いている。それは、何れひとつの明確な形となって表出する。彼奴にとって社会など取るに足りないものでしかない・・・飯島・・・個の限界も、人間の器も、周囲が育てるものだと知っている彼奴は満艦飾を誇示する。対象とするのは個でも小集団でもない。右に転ぶか左に転ぶか分からないが、対経済か、政治を視野に納めるような人間になるのだろう・・・俺が知らないところでそれぞれの個性が輝いている。一定期間、一緒に過ごしながら二度と会うことがない奴、半年後には違った人生を歩むことになる・・・車の両輪に乗せられ此処まで来たが、そのまま乗って行く奴、また、新しい出会いを待つ奴、しかし俺は、俺の道を切り開いて行かなくてはならない・・・俺には信頼できる友人がいない。しかし信頼するとは?俺に理解を示すのではなく、俺が相手を理解したいと思うことだろう。何時の日か、ひたむきに生きる人間の価値が認め合えるような奴に出会いたいと思う・・・』
 裕二はゆっくりと丘を登っていった。小さな公園に着くと、街並みを見下ろしながら正美のことを考えていた。
 内的なひとつの思いに気付いたとき視野に映る世界は一変する。今まで何気なく見過ごしていたものに価値を感じるようになる。考えること、感じること、行動することが次から次へと押し寄せてくる。結論を出すことなど出来ないが、問題意識を持つことは、地層が歴史を重ね、積み重なるように堆積して行くことと同じである。感性などと言っても裕二には分からなかった。悲しみも苦しみも寂しさも知ってはいない。叩かれ鍛えられていかない限り感性など生まれて来る筈がない。裕二にとって、一生懸命生きること、そして考えることが求められた。
 未だ十七歳で、青春の始まりは混沌としていた。そして、裕二の青春を一変させる出来事が間近に迫っていることなど思いも依らなかった。

  七

 正美は夏期練習の為朝早くから登校していた。昼迄練習があり、帰宅後は昼食の支度、掃除、時間があれば読書をしていた。また夕方になると買い物に行き夕食の準備に追われた。家事をしていても苦痛に思ったことはなく、時間に追われる生活だったが心のなかには余裕があった。それも正美の性格だったのかも知れない。
 二階のベランダから涼しい風が流れ込んでいた。『・・・夏休みが終われば高校生活も丁度半分終わる。来年の今頃は就職が決まっているのだろう。就職か・・・でも、これで良いのだろうか・・・まだ何も知らないのに就職して、大人たちの間に入って埋没するのかも知れない。生きることは私にとって一体何だろう。高校生活の中では見出せないのかも知れない。現実は就職する為の手段を勉強しているのであって、その先にあるものを求めなくてはならない。私にとっての生きる目的を・・・十六歳か・・・たった十六歳なのかも知れない。でも、裕二との出会いが私の青春を決定付けて行くのだろう。多分、仕合わせとか不仕合わせとか関係がないのかも知れない。波瀾万丈の人生であっても充足した生き方がしたい・・・私の求めているものは自分自身に対して正直に生きることだと思う。苦しくても辛くても生きていることが感じられるような生活、何も無くても、これで良かったと思えるような生活をしたい。裕二は分かってくれるだろう。でも、今は高校生であることの意味を、無駄な時間を過ごさない為にも知らなくてはならない。一度きりしかない青春、しかし就職する為、大学に行く為の予備校のようなものかも知れない・・・これから一年半の中で考えて行こう。出来れば大学に行きたい。そこで色んな人達と出会い、私の知らない世界を知りたいと思う・・・』
 正美は家庭のことを考えていた。大学に行けるような経済状態では決してなかった。況して商業科だったので、受験勉強とは程遠い授業内容だった。しかし、現実に流されて方向を見失うようなことはしたくなかった。そうは言っても、何をすれば良いのか正美の知識だけでは乏しかった。

 約束の日、正美は図書館への道を急いでいた。途中、この間襲われた連中に出会ったことに気付かなかった。正美の後を白い二人乗りの車はゆっくりと付けて行った。
 正美は図書館に着くと急いで二階に上った。裕二が先に来て待っていた。
「一週間振り、元気だった?」
 会えたことで一週間の時を埋めることが出来る。恋人たちにとって人を思うときは何時でもそうである。
「行こう公園に!!裕二のお弁当作ってきたよ」
「有り難う」
 二人が階段から下りてくる様子を車の中からじっと窺っているものがあった。
「卓球の練習は?」
「下手だから選手になれないかも知れない。でも、頑張っている。裕二は勉強している?」
「学部の変更をするかも知れない」
「急に?」
「うん、学校の先生になろうと思っていたけれど分からなくなってしまった」
「そう、色々考えなくてはね」
「正美は始めから就職する積もりでいた?」
「その為に商業科を選んだけれど、矢張り分からない」
「一緒に大学行けると良いね」
「自分の中に何もないことが不安になる。それに、これから何をして良いのかも分からない。でも、焦っても仕方がないと思う。大学に対する憧れもあるけれど、兎に角働いて、その後で考えようと思う。長い道のりを越えて行かなくてはならない」
「俺の中にも何もない。構築するだけの材料もない。何にもない高校三年生」
「何にもない高校二年生」
「これから先見つかるだろうか?」
「見つけよう!!」
「本質が見つかるときがあるかも知れない」
「本質って」
「何時もそうだけれど、結局表面だけしか見ていない。その内部まで見ることが出来ない。社会的なことも、自分のことも、内面的なことまで捉えられない。表面だけ見ていて、それが何に根差しているのか分からない」
「そうなのかも知れない」
「一があって二があって、そして三がある。でも、マイナス一、二、三は見ようとしない。そんな風にしか生きて来なかったのだと思う。調子よく振る舞うことだけに長けていて、自分に都合の悪いことは切り捨てる」
「上昇志向が悪いってこと?」
「そう言うことではない。本質は隠されていて、その本質が一個の個人を規定しているのに分からない。例えば、本来的に人間は純粋なのかも知れない。しかし、その純粋さを知ることが無いから、いつの間にか汚れている」
「裕二は自分が何であるのか、自分の内部に向かって行こうとしている。何処まで行っても行き着かないかも知れない。それでも後悔しない?」
「行けるところまで行くより仕方がない。果てしない、と言うことが少しだけ分かるような気がする」
「生きることって難しい。唯、生きていることは出来る。でも、納得出来るような生き方って矢張り難しいと思う。何処かで妥協するのかも知れない。妥協したとき自分の大切にしているものを失う。一つ失うと、また一つ失う。そして気付いたときは何も残っていない。何も無くても生きられるけれど、そんなの生きることではない」
「正美、俺達ってどんな生き方が出来るのだろう。一つ一つのことを一生懸命考える必要がある。でも、今日考えたことが本当のことなのか分からない」
「でも、また考える」
「そう、分からなければまた考えれば良い。そして、間違っていることに気付いた時やり直す勇気が必要だと思う。同じことを繰り返しながら段々大切なことが見えてくるのかも知れない」
「若いんだもの大丈夫、そして、そう言う風に考えるなら何時までも青春が続く。失った時間を取り戻すことが出来る。そんな生き方がしたい」
「確かに取り戻すことが出来る」
「裕二、一緒に生きて行けるよね」
「そうだね」
「苦しくたって乗り越えて行けるよね」
「そんな風に生きなければ意味がない」
「裕二が先生になれば、色んなこと一杯教えてくれる先生になると思う」
「そうかな?」
「大学に対する夢とか希望とか始めから持たなくて、何か見つかるかも知れない程度の方が良いと思う。高校と違って、日本中から色んな人達が集まってくるし、そんな人達から学ぶことが沢山あると思う」
「俺、知らないことが多過ぎる。知ろうとしなければそのまま終わる。知る為には、思考力と、忍耐と、真摯な態度がなければ駄目だと思う。これから先、それらが持続出来るような思想を持ちたいと思う」
「裕二は人として生きることが出来る。人が人として生きるには、感じることの出来る感性だけで良いと思う。人の苦しみが、悲しみが、寂しさが共有出来ることが一番大切だと思う。そして、相手の心を感じ取ることに依って理解出来るようになる。そう言うとき、人間として生きている価値があると思う。だって、裕二は瞬間的に私を助けてくれた。裕二の中には、そんな情念のようなものが内在している。それが裕二の人間性になっていると思う。人間性と言うのは何時まで経っても変容しない。変容していくような人間性なら結局嘘でしかない。裕二の人間性を、真摯な思いを信じることが出来る。そして、何があっても失われないと信じている」
「これから先、どんな生を生きて行くのだろう。生きとし、生きることの出来る生を、知ることが出来るのだろうか・・・?」
「出来ると思う」
「辛くても?」
「裕二の為に生きたいと思う」
 裕二も正美も精一杯生きることが、たった一度の人生、自分との闘いであることを感じるようになっていた。若いと言うことは、体力も知力も充実しているときである。そして何よりも自分自身が何者であるのか、何故生きているのか、存在しているのか考えるときである。確固たる概念が形成されることが無くても、諦めることのない情熱を持っている。
「来週も三時丁度に会おう。正美の合宿が始まると会えなくなってしまうね」
「寂しくなる」
「選手になったら応援に行くよ」
「本当!?頑張らなくちゃ」
「送っていかないよ」
「うん」
「じゃ来週!」
 裕二と正美は自転車置き場で別れた。
 二人の会話を直ぐ近くの木陰で聞いていた二人はニタリと笑っていた。

  八

 裕二は一週間の間受験勉強に取り組んでいた。国立大学を目指していたが、受験科目が同じと言うことで教育学部だけではなく、もう少し考えてみることにした。それに、難しいことは分かっていたが、家から通学するのではなく自分だけの生活をしたい欲求もあった。夕飯のとき父親に相談した。
「話があるけれど・・・」
「大学のことか?」
 父親は最近の様子を母から聞いていたのだろう、そんな風に応えた。
「大学を変えたいと思っている。でも、具体的に何処にしようか決まっていない」
「学部は?」
「今までは教育学部のことしか考えていなかった。身体を使った仕事をしてみたい気持ちもある」
「成る程な」
「自分にしか出来ないことがあるのではないかと思う。夏休み中色々調べて、二学期が始まる前には決めたいと思う」
「自分の進みたいようにして構わないが、大学に行く気持ちだけは大丈夫だな、矢張り仕事をするには大学を卒業していなければ何れ辛くなる。公職に就くことが一番だと思っているが、裕二が真剣に考えるなら良いだろう。これまで中途半端のまま潰れた人間を大勢見てきた。ひとつ躓くことで取り返しがつかなくなり、遣ること為すこと次々に失敗する。挙げ句の果て責任を転嫁する。裕二はまだ高校生で、責任を取れとは言わないが、今までのことが無駄にならないようにしなさい」
「分かった。唯、家を出て下宿するようになるかも知れない」
「裕二、家を出て一人で生活するなんて!」
 黙って聞いていたが、母親の心配だった。
「男だから心配しなくても良い。裕二にも、裕二なりの考えがあって言い出したことだ。唯、急なことだし威彦とも相談した方が良いだろう」
「そうする」
 裕二は迷っていた。しかし大学に行くには自分なりの方向性を持って、主体的に決め、将来の手がかりになるようなことを見つけたかった。

 正美は将来のことを考え勉強しようと思っていたが、今は自分の出来ることを自分なりにして行くだけだった。夜間大学か、通信大学ならどうにか行くことが出来る。その為には就職先をある程度限定する必要があった。夜間大学なら授業が始まる前に通学出来る所で、仕事は正確に終わる必要があった。しかし幾つか自分だけでは解決出来ない問題が残っていた。
「お母さん」
 母親と二人きりになったとき話をした。
「私、大学に行きたいと思っている」
「そう、でも」
 大学に行って欲しかったが、経済的に余裕がないことは分かり切っていた。
「働きながら行きたいと思う」
「働きながら・・・?」
「これから学校の先生と相談して考えたいと思う」
 母親は暫く考えていた。
「正美が大学に行きたいのなら、お母さん一生懸命働くから頑張りな!」
 と、勇気付けるように言った。何時かは自分の手を放れて行くだろうと思ってはいたが、急に大人になったように感じた。
「有り難う、お母さん」
「でも、大変なこと分かっているだろうね」
「覚悟している」
「お父さんには私から話して置くから心配しないようにね。正美の好きなようにして欲しいけれど、今の経済状態では仕方がない。本当に済まないと思っている」
「ううん、奨学金を貰えるように頑張る」
 正美は充実した日々を送ることが分かり掛けていた。裕二のことを思い、卓球の練習をして、就職と同時に大学を目指そうとしている自分が、前に進んでいることを実感出来た。それは一週間、一ヶ月間の日々を一日と感じるような充足感だった。

 朝からどんよりとした雲に覆われ今にも雨が降り出しそうな日だった。来週から合宿も始まり、当分の間会えなくなることを正美は悲しく感じていた。その日、約束の時間に間に合うように夕飯の準備をして家を出た。図書館に着いたとき裕二の姿が見えた。夏休み中だと言うのに自転車置き場は閑散としていた。
「塾の支度してきた?」
「今日から一週間頑張るよ」
「裕二、勉強進んでいる?」
「大丈夫」
「何だか嫌な空模様ね」
「降り出すかも知れないね」
「行こう、芝生の方に」
 二人で公園の方に歩き出したとき、四人乗りの乗用車が図書館の狭い駐車場に入ってきた。四人のうちの一人は車の中で登山ナイフを弄び、車から降りることなく辺りの様子を窺っていた。裕二も正美も車の入ってきたことに気付かなかった。
「裕二、私大学に行くかも知れない。でも、仕事と夜学と掛け持ちになると思う」
「勉強しなくてはならないね」
「教えてくれる?」
「正美の為なら喜んで!」
「裕二、お弁当作ってきたよ」
「有り難う」
「雨が降り出す前に食べよう、少し早いけれど・・・」
 正美が弁当を拡げ終わったとき、二人の後に近付いてきた四人のうちの一人が「旨そうだな」と嘲笑してきた。「俺達にも食わせろよ」「仲の良いとこ見せつけてくれるじゃないか」「この間は逃げられたが今日はそう言う訳にはいかねえぜ」「けりは付けて貰うからな」「女も連れて行くか」と、次々と雑言を吐いた。そして、一人がいきなり裕二に殴り掛かってきた。「女を捕まえていろ」と、年長の一人が言った。裕二は顔を数回殴られ腹を蹴られた。口腔から血が流れ痛みのため腹を押さえていた。しかし尚も代わる代わる殴られ裕二の意識は朦朧としてきた。弁当は踏みつけられ辺りに散乱していた。「やばい人が来る」「逃げろ」「女は連れて行け」と、正美を引きずって行った。
「裕二・・・裕二・・・」
 正美の叫び声が意識を失いかけた裕二の耳元に届いた。
「助けて・・・裕二、裕二、助けて」
 裕二は起き上がるとふらつきながらも四人目掛けて走り、飛び掛かっていった。
「この野郎巫山戯けやがって」
 と、ナイフを持っていた男だった。隠していたナイフを取り出すと裕二に襲い掛かった。裕二は辛うじて身を躱した。裕二は殺されると思った。
「裕二逃げて、逃げて」
 正美は叫び続けた。もみ合っているうちにナイフは裕二の手に渡っていた。嗚呼という叫び声と同時に男が倒れた。裕二の手には血糊の付いたナイフが握られ、その様子を見ていた三人は慌てて逃げた。裕二はナイフを握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。正美は裕二の側に来て足下にしがみついた。
 立ち篭めた暗雲からいきなり激しい雨が降り出した。二人は豪雨の中、身体を動かすことも出来なかった。身体中から滴がひたたり落ちていた。

 その日正美は警察の事情聴取を受けたが、興奮状態が収まらず家に帰され事情聴取は翌日に持ち越された。裕二のことを考えていた。朝までまんじりともしないで考えていた。考えていたけれども何も分からなかった。夜が明けようとしていた。しかし、正美のなかで一つの決心が付いていた。『私の命に替えても裕二を守る』と、そう自分に誓った。何があっても、どんな状況になっても裕二を守っていかなくてはならない。そして、それが出来ないときは死んでも良いと思った。
 ともすれば投げ遣り的になりやすい少年少女時代に、自らの知恵と信念を持つことで生きる力を与えられるのだろう。未だ十六歳の少女にとって、これから生きることの苦しみを、生きることの辛さを乗り越えて行く箴言に近い結論だった。

 裕二は警察の捜査段階で自分の行動を全面的に認め、少年法の規定により直ちに家庭裁判所に送致された。法的調査及び社会調査が行われ、第一回目の審判が家庭裁判所で開かれた。裁判官の人定質問の後、非行事実を告知し裕二に弁解を求めた。しかし裕二は捜査段階での供述を翻すことはなかった。
幸いだったのだろう、相手は重傷を負ったが死亡することはなかった。また社会調査に於いて、犯行の背景も偶発的な事件と認定されていた。第二回審判で結審し、判決は六ヶ月の保護処分の結果、中等少年院送致と決定した。週明けに、裕二はN中等少年院に護送されることになった。

 夏休みも終わり九月も中旬に入っていた。残暑が続いていたが朝夕はめっきり涼しくなり秋を思わせた。その日、正美は学校を休んで少年鑑別所の見える小高い丘の上に立っていた。裕二が鑑別所からN中等少年院に護送される日だった。
 午前八時丁度に少年鑑別所を一台の車が西に向かい走って行った。音のない、光のない風景が正美の心のなかに拡がっていた。『裕二・・・』と、呟いた正美の頬を涙は伝わり落ちていた。

  九

 N中等少年院は関東地方の南西部多摩丘陵地帯の一角にあった。周囲は閑静な住宅地に囲まれ、未だ開発が進んでいない山林地帯が拡がり、小高い丘の上からはS市の全景が見渡せた。しかし少年院の周囲は、高さ四メートルの剥き出しのコンクリート塀に囲まれ、内部の所々は有刺鉄線が張られ物々しさが感じられた。N中等少年院は、収容人員二〇〇名、職員数七十名で管理運営されていた。正面玄関に管理棟、その奥に独居棟が二方向に延び、管理棟を中心に拡がっていた。独居棟と独居棟は丁度中程で二の字で繋がり、一方を食堂が占め、片方を訓練棟や学習室、医務室などが並んでいる。中庭には芝生が植えられ、芝生の間には遊歩道を思わせるような砂利道が敷かれていたが、外界から遮断するかのように塀の前で途切れていた。N中等少年院の隣は児童公園になっていて、休日には子供たちで賑わっていた。入院者にとって、社会から隔絶された場所であっても、子供たちの歓声が風に乗り途切れ途切れに聞こえてくるだけで慰められるものがあった。
 少年院は此処関東甲信越地区に十六カ所が数えられ、収容人員総数は三千名を越えている。初等少年院、中等少年院、特別少年院、医療少年院に別れ、【少年院法第四条】矯正教育は在院者を社会生活に適応させるため、その自覚に訴え規律ある生活のもとに、教科並びに職業の補導、適当な訓練及び医療を授けるものとする。と規定し、教科については在院者の特性に基づき、その興味と必要に即して自発的に学習するように指導しなければならない。とされている。【少年院法第八条の二】に規定する矯正教育とは、【少年院処遇規則第二十条の二】の規定によれば、職業補導のことを言い、職業補導によって入院者が死亡した場合、身体に障害が残った場合のことを規定している。学校教育と違い、身体に危険を及ぼさないと誰に言えたであろうか。結果論的に言えば少年院で死亡、障害が残った場合など、死亡手当金、障害手当金などを与えることで処理されていた。また、【少年院法第六条】累進処遇、及び、【少年院処遇規則二十五条から四十二条】に渡り、在院者の処遇には段階を設け、殊遇状況が決められていた。その改善、進歩等の程度に応じて、順次に向上した取り扱いをしなければならない。となっていた。
【少年院処遇規則第二十六条】の規定により、N中等少年院では山下裕二を二級の下の取り扱いとした。これから先、二級の上、一級の下、そして一級の上になり、保護期間の三分の一を経過した時点で地方更生保護委員会に仮退院申請をし、許可されることによって保護期間を残して退院となるであろうが、今の裕二は何も知らなかった。昇進及び降下の審査は毎月一回以上行われ、在院者の成績を正確に判定するため、入院時から出院するまでの経過を記載した少年簿、及び、【少年院処遇規則第三十条の一】学業の勉否及びその成績、【二】職業補導における勉否及びその成績、【三】操行の良否、【四】責任観念及び意志の強弱よって審査された。

 その日、山下裕二は看守二人に付き添われ、護送車に乗り八時丁度に少年鑑別所からN中等少年院に向かった。カーテンの掛けられた車窓の向こうに自由な社会があった。それは、どんなに足掻いても足掻いても直ぐに取り戻すことの出来ない社会であった。裕二の両手には手錠が掛けられ、車内の隙間からは何も見えず、看守に話し掛けることもなかった。裕二はこれから連れて行かれる少年院のことを考えていた。六ヶ月の期間をどのようにして送るのか不安であった。しかし屹度乗り越えて行くだろうと思った。
 幾つもの坂道を越え、護送車は一時間以上掛かってN中等少年院に着いた。鉄の扉がギーギーと鳴く音が聞こえてきた。護送車が停車したところは少年院の中庭だった。
 少年院処遇規則は、【少年院法第十五条第一項】の規定に基づき、第一章から第十一章まで八十条に渡りその細則が決められている。また、細則に従い個々の処遇上の項目は少年院で、また法務大臣が規定することになっている。処遇規則に沿って、裕二のN中等少年院での入院生活一日目が始まろうとしていた。看守に付き添われ八畳程の部屋に連れて行かれた。衣類、所持品の検査を受け、少年院用の服に着替え、腕には二級の下の腕章が付けられた。腕章は、【少年院処遇規則第二十五条の二】在院者には、記章又は腕章により、処遇の各段階の区別を表示させなければならない。の規定により、入院者がどの段階にいるのか分かるようにされていた。
 裕二は着替えが済むと院長室に連れて行かれた。入院者に対して院長の査問である。家庭裁判所の送致決定書と、本人が人違いのないことを確かめ入院させる為である。入室してきた裕二を、院長は一瞥し院長机の正面に対峙する格好で立たされた。
「名前は?」
「山下裕二です」
「年齢は?」
「十七歳です」
「生年月日は?」
「昭和五十八年十二月五日です」
「住所は?」
「東京都W市W町二丁目一一九五番地です」
「両親の名前は?」
「父、山下剛。母、山下康子です」
「これから少年院の使命、日課の概要について説明するからよく聞いているように」
「はい」
 院長は少年院処遇規則総則に沿って裕二に説示した。一通り話し終え次のように結んだ。
「尚、これから概ね二週間、経歴、教育状況、心身の状況など身上調査をする期間は、他の収容者との接触しないように常時独居にいなくてはならない。その後、矯正教育の計画書が出来るが、進んで改善に励むように」
「はい」
 院長は一呼吸おいた。
「山下君、これから六ヶ月間の矯正教育が始まるが、規則を守り、しっかりと教育を受け退院出来るように頑張って下さい」
「はい」
「徐々に慣れて行くと思うが、あくまでも矯正教育の場であることを忘れず、また呉々も院内ではもめ事を起こさないように。指導する人たちの言うことを良く聞いて、早く退院出来るように努めなさい」
「はい」
「日常生活上必要なことは、この後説示を受けるように」
「はい」
 裕二は院長室から別の部屋に連れて行かれた。そこで、日課、衛生上のことなど簡単に説示され独居に連れて行かれた。
「昼食時紹介をするから此処にいるように」
 看守は裕二を独居に入れガチャリと鍵を掛けた。

 独居房は三畳程の板の間で隅に蒲団が畳まれていた。その奥は板塀で仕切られ、便器が置かれていたが他に何もなかった。壁にラジオが組み込まれていたのでスイッチを入れてみたが何の音も出なかった。扉は鋼鉄製で、上の方に二〇センチ四方の覗き窓があり、壁には、食器の出し入れ用の戸口が付いていた。また反対側の壁に、はめ殺し窓が付いていたが其処にも何本かの鉄格子が組み込まれていた。独居の中では就寝時間の二十一時まで横になることは許されず、裕二は昼食までの時間座禅を組んでいた。『・・・今、俺は独りである。社会から閉ざされ、個としての自由は奪われ、他者に依拠した生活が始まろうとしている。内側から開けることの出来ない鉄の扉、鉄格子の入った窓、幽閉された空間、恐らく命を繋ぐだけの最低の場所なのだろう。二十四時間監視され、一切の自由を奪われ、人が、人として生きることの出来ない牢獄の中で、正誤は一体何であるか一つ一つ考えていかなければならない・・・寂しく、虚しいのだろうか・・・否、何も感じない・・・何か遣りたいことがあるのだろうか・・・否、何もない・・・監視され支配された生活に、人間として生きることが出来るのだろうか・・・否、人間らしい生き方などある筈がない・・・そして、鉄格子の中で徐々に人間性を蝕まれて行くのだろう。語る相手もいなければ、自分の考えを具現化させることも出来ない鉄格子の中で頽廃を見るのかも知れない。施錠された三畳の板の間だけの社会である。此処には俺しかいない。俺だけの社会であり俺だけの世界である。しかし自由が奪われても、俺の内面は誰にも支配出来ない・・・置かれた環境によって変容せざるを得ないのも、また人間の心なのかも知れない。俺はそれに負けることなく、この鉄格子に負けることなく生きなくてはならない。しかし郷に行ったら郷に従え、朱に交われば赤くなる。そう言った類の生活しか出来ないのだろうか、否、そうではない。仮に苦しみしか無くても、それに耐えることの出来る理性と勇気を持ち生きる力を蓄えなくてはならない・・・』
 昼食の時間だった。看守と共に大食堂に連れて行かれた。この施設の中で唯一全員が集まる場所である。入院者の殆どは裕二の方を見ようともしなかった。名前だけ紹介され席に着いた。
 現在N中等少年院は二〇〇名近くが収容されていた。法務省の管轄下に置かれ、十六歳から二十歳未満の保護処分一、二年以内の初犯、または再犯の少年たちだった。二〇〇名の収容者のうち、五〇名ほどの入院者は給食班、洗濯班、衛生班などに組分けされていた。それらは、【少年院処遇規則第三十五条の二及び三、第三十六条】により、職員の監督を受けて一級の入院者が当たっていた。また、一級の入院者には殊遇上の恩典が与えられている。【少年院処遇規則第三十二条、三十三条、三十四条】特別の居室、日用品その他特別の器具の使用の許可、単独での外出及び帰省の許可、特別の服装の許可など、仮退院申請中の者、又は仮退院申請を間近に控えた者で、社会に戻される前の自立訓練とされていた。
 その日は入院初日であり昼食後は独居に戻された。『・・・初めて見た食事風景だった。唯、食しているだけであって、生きることの凄まじさを教えられる情景だった。若いエネルギーを、誰も彼も浪費しているのに過ぎない。俺も、此処で同じように時間を浪費するだけの青春を送るのだろう。院長の言うように、少年院の目的として、在院者の心身の発達を考慮して、明るい環境のもとに規律ある生活に親しみ、勤勉の精神を養わせ、正常な経験を豊富に体得させ、その社会不適応の原因を除去し、心身ともに健全の育成が図れるのだろうか・・・俺の矯正教育とは一体どのようなものになるのだろう。それに、社会不適応とは一体何を言うのだろう。人を刺してしまったことが、偶然であれ、刺してしまったことが社会不適応と言うのだろうか・・・此処には大勢の若者が収容されている。それぞれが何らかの罪状があり、その為に保護処分を受け収容されている。一人仮退院をすればまた一人入ってくる。何時まで経っても同じことが繰り返される・・・俺は六ヶ月の保護処分を受けた。少なくとも六ヶ月間は此処で矯正された生活を送らなくてはならない。日常の全てが決まっている牢獄で、地獄のような生活を送るのだろう。少年院法が何であるのか知らない。少年院処遇規則が何であるのか知らない。しかし、それに沿って規則通りに規制されるのだろう。何れにしても、自分が自分でない生活が強制される。六ヶ月後の俺は、此処を退院するとき何を思うのだろう・・・何も思わないようにする為の教育なのかも知れない。しかし俺は、俺を失わない為に生きなくてはならない・・・』
 五時前になっていた。夕食が運ばれてきた。逮捕されてからの食事は何時も同じ器だった。アルマイトのお盆にアルマイトのどんぶりと皿、夕食を食べ終われば就寝時間の九時まで何もすることはない。そして、明日の朝六時半の起床時間まで横になることが許される。それがN中等少年院の規則である。独居の中まで規則、規則で拘束されるのが少年院である。
 裕二は食後の洗面が済むと、独居の鉄格子に囲まれた閉塞された空間の中で座禅を組んでいた。『・・・正美と最後に会った日から既に一ヶ月近く経っているのかも知れない。激しい豪雨の中、正美は全身ぐしょ濡れだった。別々のパトカーに乗せられG警察署に向かった。パトカーから降りたとき正美の姿が見えた。俺の方を見据えていた正美は未だ泣いていた・・・あの時、俺を見据えていた正美の眼差しを見たときから俺は冷静でいる。警察の取り調べも、少年鑑別所に入所中も、家庭裁判所の審判の時も、相手の言っていることも周囲の状況も理解していた。一つ一つの質問に事実だけ答えていた。現実の自分自身から背理するのではなく冷静な自分が見えていた。俺自身が俺に対して背かないことが、正美のことを考えるときに、そして、これからの生き方を考えるとき一番大切なことだと思っていた・・・正美、俺は此処で六ヶ月間を過ごさなくてはならない。一体何が待っているのだろう。何があったとしても、それに耐え乗り越えて行く。そして、必ず正美の許に帰る・・・』
 就寝前の点検時、自分の番号を看守に告げ就寝だった。少年院での一日が終わろうとしていた。

  十

 裕二が逮捕されてから正美は不安定な日々を送っていた。両親との軋轢、また、父親から殴られ酷く罵られた。母親は正美を庇っていたが、父親はそんな母も罵っていた。弟や妹も不安な眼差しで姉を見ていた。
 夏休み中は外出することもなく過ぎて行った。そして、二学期が始まり一週間が過ぎた。G警察署で事情聴取を受けていたことを学校側は知っていて、登校初日校長室に呼び出された。校長室には教頭、学年主任も立ち会っていた。
「田中君、此処に来て貰った理由は分かっているね」
 と、校長が切り出した。
「いいえ、何故呼ばれたのか分かりません」
「八月五日、G警察署に行っているね」
「はい」
「何故、警察署に行ったのか理由を言って貰いたい」
「別に理由は有りません」
「理由が無いのに警察署に行く訳がないと思うが?」
 と、やんわりと言った。正美は話すより仕方がないと思ったが決して本当のことは言うまいと思った。
「図書館で勉強をしていました。でも、夕方になったので帰ろうと思って公園を歩いていました」
「それで」
「公園で喧嘩をしているところに通り掛かりました。そして、事情を訊かれました」
「新聞に依れば、高校生同士の喧嘩で、一人が刺され重体になったとあるが、田中君はそれを見ていたと言うことかね」
 校長が新聞に依ればと言ったことで、何も知らないだろうと推測した。
「偶然見てしまいました」
「その高校生たちと知り合いではなかったのかね」
「全く知らない人たちです」
「パトカーに乗せられ警察署に連行された。全身ぐっしょり濡れていたと聞いているが?」
校長が何処まで知っているのか不安になった。
「急に雨が降り出しました」
「警察署ではどんなことを訊かれたかね」
「ナイフは誰が持っていたか、刺したときの様子とか、そんなことです」
「田中君との関係を訊かれただろう?」
「訊かれましたけど、関係のない人たちです」
「翌日も警察署に行っているね」
「人が刺されたのを見たのは初めてです。すごく興奮していたと思います。夜お母さんに迎えに来て貰い帰りました。その日は警察署で何を話したのかよく覚えていません。次の日、お母さんと一緒に行きました」
「それで」
「でも、偶然その場を通り掛かっただけで、雨も降っていたのでよく覚えていません。警察官の質問にも殆ど答えることが出来なかったと思います」
「もう一度訊くが、田中君は本当に関係がないね」
「はい」
「分かった。もう行っても良いよ」
「心配をお掛けして申し訳ありませんでした」
 その後、校長からの呼び出しもなく学校生活に変化はなかった。六ヶ月間の少年院送りになったことは裕二の母親から聞いた。裕二の母には本当のことを話すより仕方がなかった。正直に話すことで理解されたかった。しかし激しく罵られ、二度と裕二に会わないように、そして電話も掛けないように言われた。仕方がないと思った。それ以上裕二のことや少年院の様子を訊く訳にもいかず電話を切った。唯、自分の母だけには分かって欲しかった。話すことで理解されたかった。
 正美は学校から帰ってくると、何時も通り母親の代わりに夕食の支度をしていた。陽も西に傾き辺りは薄暗くなっていた。手を休めると裕二のことが思い出された。『・・・少年院の中でどんな風に過ごしているのだろう。私を守る為に犠牲になった裕二、挫けないで欲しい。手紙を書くことも面会に行くことも出来ないけれど、裕二のことを信じています・・・』

 正美は卓球部を辞め勉強に打ち込んでいた。暇な時間を作らないことで、裕二の思いに応えることが出来、勉強することで、残された高校生活の将来の方向を見出そうとした。父親も母親も正美の外出を許さなかったが、両親とも出掛けた三週後の日曜日、裕二の収容されている少年院に行った。
 列車を乗り継ぎS市に着いた頃から秋雨が降り始め、N中等少年院へ着く頃には本格的な降りになっていた。閉ざされた門柱に、所々錆びた真鍮の表札が填め込まれていた。N中等少年院の文字を見た瞬間正美は戦慄を覚え体中が震え出した。涙が流れてきた。暫くの間その場を動くことが出来なかったが、気を取り直し、塀に沿って歩き始めた。時々立ち止まっては塀を見上げ、厚い剥き出しの壁に触れた。傘を畳み、塀に耳を当ててみたが中からは何も聞こえず、静まり返った虚空に雨音だけが響いていた。小高い丘がその先にあったので正美は登って行った。しかし塀の内側は分からず、その高さが外部の一切を遮断させていた。正美はN中等少年院を一周して、児童公園の中で暫く間立ち止まっていたが駅に向かって下りて行った。
家に帰り着いたとき両親とも帰っていたが何も言わなかった。蕭々とした正美の姿に何も言えなかったのだろう。その夜は夕食を摂ることもなく早めに横になった。『・・・外部を遮断する塀の高さに圧倒されてしまった。正面が管理棟兼事務所になっているのだろうか、その横に大きな鉄の扉があった。護送車の入り口なのかも知れない。裕二はあの扉から塀の中に入ったのだろう。入院するときも、退院するときもあの門を通るのかも知れない。一旦入れば自由を奪われ社会から隔絶される。有刺鉄線の隙間から中の様子を窺ったが何も見えず静寂さだけが漂っていた。あの塀の中に、一人鉄格子に囲まれ、寒々とした建物の何処かに幽閉されている。四六時中監視され、個としての自由の無いところで苦しんでいる。会いに行くことも出来ない閉ざされた空間・・・何時あの塀の中から出て来るのか分からない・・・不条理・・・法のみが肯定され、法のみによって差別選別される。一定の枠の中でしか処理出来ない社会生活、人間として生きている存在が軽視され短絡的に結論を出す。其処は個として生きることが否定され、何故、と問うことさえ出来ない。現実を肯定するとき生きる資格が与えられ、未来を認知するとき人間として受容される。しかしそれ以外に生きる方法があるのだろうか。個性も人間性も必要では無く、規則を遵守する者、命令に従順な者のみが生き長らえる。人間の尊厳は、集団と隔離との相乗作用に依り摩滅する。裕二はその中で踠き苦しまなくてはならない・・・負けないで欲しい・・・』
 雨はまだ降り続いていた。正美は裕二が居るだろう方角を見ていた。何かが違っていると思った。でも、それが何であるのか確かなことが掴めなかった。屈辱、恥辱、隔離と、幾つかの言葉が堂々巡りをしていた。

 正美が塀の周りを歩いていた頃、裕二は図書室の格子の窓から外を眺めていた。降る雨の向こうに正美の姿を見ていた。裕二の心の中にも、正美の心の中にも雨が降り続いていた。唯、雨に打たれているより仕方がなかった。雨宿りの方法も傘を差すことも知らなかった。しかし二人にとって、何時かは逞しく成長して行く為の試練だった。逃避することなく、悲しみに苛まれることなく、受け止めて行く勇気は持っていた。
 翌朝も雨は降り続いていた。秋霖には程遠い季節であったが、雨に濡れながら登校した。今の正美にとって、夏江と過ごすことが日課のようになっていた。昼休み、何時ものように雨を避けながら屋上で話をした。
「昨日行ってきた」
 と、正美は小さな声で言った。
「そう・・・苦しかった?」
「ううん、唯、あの中に裕二がいると信じられなかった。深閑とした建物、高い塀、人を寄せ付けない威圧感、拳で叩いても何の反応も無い壁、辺りは樹木に囲まれていたけれど要塞のようだった。少年院って何だろう・・・?」
「六ヶ月間を耐えると思う」
「自分では開けることの出来ない鉄格子に囲まれ、必死で耐えている姿が見える。でも、私には・・・」
「駄目、泣いては駄目、私達だって見えない格子の中にいる。彼、逞しくなって帰ってくると思う。その逞しさに負けないように正美も成長しなくてはならない。一日一日を長く感じるかも知れないけれど、待つことに耐えなければ明日は来ない。この一、二ヶ月、正美は波間に浮かぶ小舟のように激しく揺れ動いていた。彼のことに苦しみ、自分のことに耐えていた。正美の辛苦は、正美を何れ変えて行く」
「うん」
「元気を出して!彼がいない間、私が恋人になって上げる」
「いらない」
「今度一緒に行こう」
「有り難う」
「正美・・・夏休みに誘われていた旅行、結局行かなかった」
「そうすると思っていた」
「授業始まるね」
「明日の昼休みも待っている」
「行こう」
 午後のチャイムが鳴っていた。現在やることは一生懸命勉強することだった。しかし授業に集中しているようであっても、ふと気付くと裕二は何をしているのだろうと、深い物思いに沈んでいた。

 十一

 N中等少年院に入院してから二週間が過ぎていた。正美のこと、家族のこと、学校のことなど考えることが次から次へと浮かんできた。不安であった。不安であったが静かに考えて行こうと思った。
 その頃の裕二は少年院での日常が分かり掛けてきた。六時半の起床、居室の清掃及び整頓、七時の点検、七時半の朝食、八時半の出房、十一時半までの教育、十二時の昼食、休憩、体操、レクレーション、そして還房は午後三時、夕食は五時になっていた。入浴は一週に冬季二回、夏期三回、時間は十五分と決められ、十人から十五人が看守の監視下一緒に入った。昼食は食堂兼集会室で全員一緒に摂り、朝と夜は独居でひとりであった。夕食後はラジオを聴いたり雑誌を読んだり学習時間として過ごした。就床は九時だった。
 矯正教育は教科学習と職業の補導に分かれていた。また、性格の隔たりが著しい者や人格に幼稚性の残る者に対しては生活指導があった。職業の補導は独立自活に必要な程度の知識と技能を身に付けると言うことで、職業能力開発促進法等により農木工作業、ワープロ、コンピュータ学習なども行われていた。教科学習は、義務教育課程の履修を必要とした者、及び高等学校教育を必要とし、意欲のある者に行われていた。誕生日月には、その月の誕生者に特別の甘い物が配給された。また、国民の祝日には全員に甘い物が一品追加されることがあった。下着類に関しては自分で洗濯が出来、また保持を許されていたが、二枚ずつ配給されている上着、ズボン、体育着などは衛生係が洗濯をしていた。独居から雑居房に移動出来る者は出院を控えた一級の上の入院者に限られていた。雑居房では施錠されることはなく、社会生活を前提にして、日用品、その他特別に電気器具など許可されていた。
 裕二は出房後灰色の壁に囲まれた空間で、朝のラジオ体操後、木工作業に精を出し、午後からは図書館で受験勉強をして過ごした。少年院の中は、前向きに生きようとする者、何をして良いのか分からなくなっている者、情緒不安定の者、犯罪的傾向の進んでいる者など雑多な人間が集まっていた。
「お前、何処から来たんや?」
 図書室で小説を読み始めた時だった。少年院に入院してから初めて声を掛けられた。五月蠅いとは思ったが話をしなければならないだろうと思った。
「W市」
「名前は」
「山下裕二」
「一体何をしたんや」
「人を刺した」
「何で」
「喧嘩をした」
「女のことか?」
「トラブルに巻き込まれて刺してしまった」
「刑はどの位や」
「六ヶ月」
「そうか、それじゃ大人しくしていれば一月中には出られるな」
「何故?」
「刑が短縮される」
「知らない」
「馬鹿な奴だな」
「何故短縮される?」
「少年院法でそう決まっている」
「詳しく教えてくれ」
「刑期の三分の一真面目にやっていれば、地方更生保護委員会から面接にやってきて直ぐ出られるようになる」
「それで、一月中には出ることが可能な訳か」
「そう言うことだ」
「お前の名前は、未だ聞いていないが」
「齋藤光男、こうちゃんと呼ばれている。十七歳だ」
「同級生か、それにしては」
「それにしては、擦れていると言いたいのか?」
「そう言うことではないけれど」
「まあ良い」
「初めてなので何も知らない。これからも分からないことがあったら教えてくれ」
「分かった。土、日は此処で本を読んでいるか勉強している」
「独居に持ち帰っても読めるかな?」
「それは大丈夫だ」
「光ちゃんは何故此処に来た?」
「看守が五月蠅いから少し離れようぜ」
「分かった」
 裕二は少年院に入ってから始めて人と話をした。入院して三週間誰とも話したことはなかった。一週間は独居での生活が続いた。その後、補導や学習の時間も私語は禁じられていたし、休憩時間も外の塀を見ていた。拘禁状態は常に命令され、許可を得てから行動するより方法はなかった。
 図書室の、格子の窓からは園内の庭が見えていた。刈り取られた芝生、その向こうにはコンクリート塀、木々は塀の向こうに高く聳えていた。雨の日だったので公園からは子供たちの声は聞こえてこなかった。『・・・有りのままを話したことが、このような結果になってしまった。しかし俺が刺したことに間違いない。偶然の重なり合いにせよ、それが事実だった・・・手に残った感触、刺したときの感触は今でも残っている。ワイシャツ一枚下は裸だった。名前も、何処の学校の奴か何も知らない。審判の時にも結局分からなかった。けれども俺の掌には、ナイフから伝わってくる肉の微動がピクピクと動いている。彼奴は、古傷に触れる度に俺のことを思い出し、俺は俺で、手に残った感触を忘れることはないだろう・・・あの瞬間俺の生き方が変わろうとしている・・・しかし俺の為に家族は苦しんでいる。退院しても家に帰らない方が良いのだろう。学校は辞めなくてはならない。良い方にか、悪い方にか分からないが、俺の人生が始まったのかも知れない。此処を出るまでには、これから先のことを考えなければならない・・・』
 状況が変わろうと、時間が移ろうと、裕二も正美も内面の変容がある訳ではなかった。変容することのない生き方が青春と言えるのだろう。そして、青春は自分で作り出さなくてはならない。一つずつ確かなものを自分のなかに蓄積させ、そして、これからの生き方として、指標となるものを作り出さなければ矢張り青春とは呼ぶことは出来ない。
「裕二」
 と、光男がまた声を掛けてきた。看守も図書室ではある程度大目に見ているようだ。
「何を考えている?」
「これからのことを考えていたが、未だよく分からない」
「そうか」
「光ちゃんは何故此処に来た?」
「お前と同じだ。来てから二ヶ月になる。でも二度目だから三分の一経過してもすんなりと出してくれるか分からない」
「何故、二回も?」
「此処は初犯の傷害事件の連中が多いが、なかには二回、三回の奴もいる」
「詳しいな」
「二回も入院すれば知らないことはない」
「そう言うものか」
「此処を出たら大検を受けようと思っている」
「大検?」
「そう、今からまた高校に行く訳にもいかないだろう。卒業する頃には二十歳を越えてしまう」
「それしかないか」
「そして、大学に行こうと思っている」
「俺も高校に戻る積もりはないと考えていた」
「目的がなければ同じことを繰り返す」
「成る程、二回目で目覚めたと言うことか」
「まあ、そう言うことだ」
「大学で建築学をやろうと思っている」
「建築学?」
「俺の親父は大工をしている。俺は親父の為に図面を描きたい」
「そうか」
「親父には苦労を掛けた。しかし何も言わなければ怒鳴られたこともない。多分それだけ苦しかったと思う。今頃になって分かるようになった」
「俺もこれから何を勉強するのか決めなくてはならない」
「互いに頑張ろうぜ」
 光男はそう言い残して図書室の隅の方に行った。雨はまだ降り続いていた。少年院にもそれぞれの生き方を持った入院者が多くいるのかも知れない。此処での生活が半年、一年と続く間に、これからの人生を決めて行くのだろう。けれども社会に出て行けば、また軋轢の中で暮らさなくてはならない。生きる方向を持っていても挫けてしまうこともあるだろう。そしてまた同じことを繰り返す。本人の意思の脆弱性に起因することもあるだろうが、狭隘な地域性、居住地の閉塞性など、一つの犯罪が何時までも尾を引き、家族を、自分自身を圧迫する。しかし住み慣れた生活の場所を簡単に変えることなど出来る筈がない。少年院の入院者には、仮退院後受け入れが十分でなく、また遵守事項を守らない、守らない虞があると言うことで、少年院に二度、三度と収容されることを余儀なくされる者もいる。罪を犯したことが社会の責任であるとは言わないが、一度でも罪を犯した者を素直に受け入れるだけの受容性が、地域や社会にあるのだろうか。
 裕二は家族ことを考えていた。新聞が報道したことで、肩身の狭い思いをしていることを済まないと思った。そして、退院後の自分の場所は既に無いだろうと考えた。

 十二

 天気の良い日だった。午後のラジオ体操が終わり、裕二は一人ベンチに掛けジーッと塀を見ていた。入院後一ヶ月半過ぎていたが、裕二は努めて一人で居るように心掛けていた。話をしないことで自分自身に耐えていたのではなく、一人黙々と作業することや、瞑想することで正確に物事を捉えようとしていた。また、独居での生活に順応しながらも、一つ一つの事柄を正確に記憶して置くことが、裕二にとって院内に於ける唯一の抵抗だったのかも知れない。
 近くで立ち話をしていた二人が裕二の側に寄ってきた。少年院の中では互いの接触や会話は禁じられ、作業中、昼食中、入浴中など隣同士でいても会話することはない。唯、一日一回の休憩時間だけは特別許可されていた。看守に背を向ける位地に立ち、二人は近くにいる入院者に聞こえる声で詰め寄ってきた。
「此処に来て大分経っているが俺に挨拶がないとは良い度胸をしているな、ぼんくら」
 裕二の前に立ちはだかり兄貴株の男が言った。袖を捲り上げた腕に入れ墨の後が見えた。
「能面づらしやがって、兄貴に挨拶がないとはどう言うことだ」
子分だろう、一人が楽しげに応じた。
「毎日楽しいか」
「訊いているんだから、何か言ったらどうなんだ」
「口が利けねぇのか、このボケ茄子」
 言えば言ったで余計絡んでくるだろうと思った。近くにいる連中は見て見ぬ振りをし、互いに干渉しないことで日頃の平静さが保たれていた。
「何とか言え、馬鹿野郎」
「良い子振りやがって、谷川付属から来たって言うじゃないか、大学受験を前にして学校の面汚しをした訳だ」
「学校は退学したんだろう、お前みたいのがいたんじゃ他の連中に迷惑を掛けるからな」
「私立校のお坊ちゃんがムショ暮らしで嘸かし楽しいだろう。折角来たんだから、もっと楽しくなること教えて上げよう」
「いい加減にしてくれないか」
 裕二はイライラしてきた。
「何だと」
「塀に囲まれた中で何を言っても始まらないだろう」
「塀の中だから楽しいじゃないか」
「そう思うなら仕方がない」
「人を刺したからには直ぐ出られる訳ではない。楽しみがあった方が良いと言っているんだ」
「同じ穴の狢だ。狢同士楽しくやろうと兄貴が言っているのに、楯突くとは良い度胸をしているな。これから此処のしきたりをみっしり教えてやる。覚悟しておけ」
遠くで様子を窺っていた齋藤光男が割って入ってきた。
「お前ら何やっているんだ。看守が見ているぜ」
「何もやってねーよ」
「穏やかで無いように見えたぜ」
「此処で暮らすには、どうしたら良いか教えているんだよ」
「素人に絡んでも仕方がないだろう」
「一丁前の口を利くじゃねーか」
「このまま穏やかにしていれば、お前らも年末には目出度い退院が待っているだろう」
「看守並だな、この野郎」
「齋藤、今日のところはお前の顔に免じて許してやるが、ムショにはムショの規律があることを忘れるなよ」
 二人は捨て台詞を残しながら離れていった。
「注意しな裕二、暇を持て余している連中が、ああして仲間を作ろうとする。そして、勢力争いの為に引きずり込もうとする。仲間になりそうもないといちゃもんを付ける」
「分かった」
「出てからのことを考えれば良いのに、此処で楽しく暮らすことしか考えていない。弱った連中だ」
一日の日課が終わり裕二は独居に戻って何時も通り座禅を組んだ。『・・・季節は変わったが此処での二ヶ月間は何も変わらない。変わらない風景、変わらない空間の中で日常が推移して行く。見慣れない奴に時々出会うことがある。入院者は月に十人以上入れ替わっているのだろう。おどおどしている奴、同じ年頃なのに随分と大人びた奴、看守に取り入ろうとしている奴、無関心を装っている奴など遠くから見ていてもそれなりに性格が分かる。それぞれが反社会的な、法に触れることで審判を受けてきたのだろう。しかし何故、こんな牢獄に居なければならないのだ・・・生を他者に委ねるとき自己を喪失する。人間としての尊厳さを剥ぎ落とし、社会から隔離することで何を得ると言うのだ。そして、俺達を何処に連れて行こうとしているのだ・・・此処にいる多くの連中は知らない間に自分を失っている。生きる為に必要な情熱を取り戻すことも無く呆けさせてしまう。牢獄、牢獄、牢獄、社会から隔離されたことで社会を暗闇に閉ざす。無目的になったとき何も見えなくなる・・・静寂の中で自分自身と対峙する。壁と対話する以外やることは何もない。なかには拘禁状態に耐えられなくなり、断末魔のような奇声を発している奴もいる。しかし監視されていても、俺の内面まで管理されることはない。此処には煩わしい関係もなければ不必要な時間もない。一日が実に合理的で、時間通りに区切られ時間通りに終わる。しかし規律ある生活が矯正教育に役立つのだろうか。学校と同じで、唯、平坦な道の上を歩いているのに過ぎない。所詮何も生み出すことは無いだろう・・・今日絡んできた連中も既に明日を失っている。明日を感じることがなければ投げ遣り的になる。そして、塀の一部分から見える空間に自由を見出すのではなく、拘束を見ている。自由と言う名の先に少年院があり、身体が忘れても心の痛みは脳の深奥部に刻み込まれる。少年院は人間の生きるところではなく死ぬところだと断言できる・・・雨が降り出してきたのだろうか、嫌に冷え込んできた。雨粒が壁に吸い込まれる音さえ聞こえてくるほど静かである。しかしこの時間の中に俺自身が居て、明日があるのかも知れない・・・確かに俺は今生きている。しかし明日死刑を執行されるのかも知れない。他者の手に委ねられている以上明日のことなど分かりはしない。事態が急変するように今から呼び出されることもある。そして、闇から闇に葬り去られる。この拘束に耐え切ることが出来るなら、俺の刑など取るに足りないものになる・・・これまで過ごしてきた様々な情景が蘇ってくる。しかし懐かしさへと帰着して行くのではなく、過ぎ去った時間として有ったのに過ぎない。忘れ去られる過去、それで良いのだろう。俺の生きる方向は鉄格子の中で始まっている。そうでなければ俺の価値など何処にも有りはしない・・・』
 看守の交代時間だった。今日も最後の点検が終わることで安堵することだろう。裕二は填め殺しの窓に目をやった。其処には蜘蛛が巣を張り巡らせていた。『・・・この少年院はいつ頃出来たのだろう。一番始めに入院してきた奴はどんな思いで厚さ三〇センチ、高さ五メートルはある灰色の塀を、そして、揺すってもびくともしない鉄格子を眺めたのだろう。既に三十年以上経っているのかも知れない。男は五十歳を越えている。人間として生きることの限界に来ている年齢である。独り鉄格子に囲まれ、染み一つない、磨かれ、静まり返った独居房の一夜に何を感じたのだろう・・・廊下、壁、鉄格子、アルマイトの食器、それらが歴史を作ってきた。一つ一つの汚れが入院者の感情を包摂している。激情が、悲哀が、恐怖が、苦痛が、虚無が、歴史の上に歴史を積み重ねて行く。そして、社会から遊離した日常が少年院の中で重なって行く。俺もまた、収監者一二五号としての歴史をN中等少年院に刻んで行くのだろう。消えることのない青春の一情景として・・・十七歳も終わりになろうとしている。正美に会うことがなければ素通りして行くだけの十七歳だった。何も考えず大学に行き、何も考えない教師になろうとしていた。青春は何処にあるのだろう。失われて行くだけなのだろうか・・・青春・・・そして俺・・・』
 就寝時間が来ていた。何時も通り看守二名の点検を受け横になった。常夜灯が廊下に灯っていた。正美のことが気に掛かっていたがその後の様子を知る術はなかった。

 十三

 毎日が淡々と過ぎていた。無為な時間は生きることを放擲して惰性に身を委ねる。少年院の生活は若者たちに生きる力を、希望を与えるものではなく、心を、人間性を蝕んでいた。しかし裕二や齊藤光男にとって自問することで微かに保っている。
「一日が意味を持っていない」
 と、図書室の片隅で齊藤光男が言った。
「そう思う」
「独房の壁に触れていると過ぎ去った俺の日常が見えてくる。社会的な生活をする為には共通する知識、認識を必要とする。誰も彼もが共有する主観を持っていなくてはならない。そして、価値が同一の時、始めて生きることを許される。しかし生活することと内的な意識を持つことは違っている。意識は個のなかで生成され発展する。そのことを知りながら日常は意識を空洞化するところから始まる。少年院がそうだ。此処では共通の規律、規則、法的概念の許で平等である。しかし一旦自己主張して、共有の主観から逸脱したとき制裁が待っている。俺が生きることを主張できるのは、自己意識を捨てるか、南極の氷に囲まれて一人で生きる以外にない。社会が社会としてある所以は法を犯さないことである。擦っても、擦っても垢に塗れている俺は、人間であることにおぞましさを感じていた。何故、二度も少年院送りになったのか分からない。此処にいる多くの連中と同じように気が付いたとき鉄格子の中にいた。しかし俺は自分を恥じていない。俺には好きな女がいた。十五、六歳で好きだ、嫌いだと言っても始まらないが、気が付いたときその女を刺していた。そして、ナイフを持って町中をふらふら歩いているところを逮捕された。興奮していたのだろう、取調中も審判の時も何を言ったのか覚えていない。初犯でお前と同じように六ヶ月の刑だった。しかし膠着した意識のまま六ヶ月が過ぎていた。退院した俺は何時も奇異な目で見られた。家に寄り付くことも出来なく巷を彷徨いていた。そして、知らぬ間に一年が過ぎていた。友達もいなければ相談相手もいない。このままでは自滅するだろうと思ったが何をして良いのか分からない。家を出ていた俺は、夜はアルバイトをして、昼間は狭いアパートで手当たり次第に本を読み始めた。そして、二年が過ぎた。意識の持続性は本を読むことで覚えた。持続する意識を持つとき自分が変わることを知った。俺は自分という者が分かりかけてきたのだろう、刺した女の所に行こうとしたときだった。偶然から喧嘩に巻き込まれた。ついていなかったと言うより、そんな風にしか生きられなかったのかも知れない。ちんぴら相手に立ち回りをしていた。挙げ句の果て此処に舞い戻ってきた。何故、俺は女の許に行こうとしたのだろう、謝罪する為か、寄りを戻そうとしたのか、関係のない女だと思いたかったのか、しかし会うことは無かった。現実を即物的に見るとき、始めて俺と言う主観が分かってきた。しかし、現実を否定も肯定もせず逃れることに精を出す。社会は曖昧で順応することを求めている。しかし俺は逃げも隠れもしない。手錠を掛けられ、鎖で繋がれても俺を拘束できない。瞑想は逃避では無く現実に還ることである。裕二、此処は生きる場所ではない。俺達は俺達の新しい地平を切り開き、取り残されたまま自滅してはならない。諦念は須く全てのことを放擲する」
 と、光男は結んだ。
「俺達に未来はあるのだろうか?」
「多分あるだろう。自己意識を持ち、現実を内在化させ、社会を対象化する。そうする限り乗り越えられる。そして、傀儡ではない自分を発見する。裕二、一日を捨てるな!一分一秒を捨てるな!いつでも残されている時間だと思え!」
「勉強する。そして自分の方向を見極める」
「裕二、俺達は生涯の友達になれるかも知れないな!」
「有り難う」
 独房に帰る時間が来ていた。それが少年院の掟だった。

 裕二は処遇審査会において二級の上に昇進していた。この二ヶ月間、午前中は木工作業を、午後からは学習に取り組み、夜は独居で読書をしていた。既に決心が付いていた。学校は辞めざるを得なかったが、此処を退院した後は独学で勉強して、大検を受け、一年遅れで国立大の農工学部を受けようと思った。都会から離れ、自然を相手に生きる道を探そうとしていた。
「一二五号面会だ」
 名前で称呼されることはなかった。
「はい」
 看守に付き添われ裕二は面会室に入った。両親が待っていた。看守は事務机に座り、時間は二〇分と決められていた。
「裕二」
 と、母親が言った。
「元気か?」
 と、父親が言った。
「元気にしているから心配しなくても大丈夫」
「心配しない親がどこにいる」
 父親が声を荒だてた。
「お父さん、もっと優しく言って」
「しっかり食べて、夜も寝ている」
「風邪惹かなかった?」
「うん」
「この前来たとき言えば良かったけれど、正美さんから電話が有りました」
「それで」
「余計なことを言って、正美さんの心を傷付けてしまいました」
「正美って子は、家庭裁判所での審判の時に言っていた田中さんのことか?」
「ええ、裕二のお友達」
「お父さん、お母さん、兄さんに迷惑を掛けて済まないと思っています」
「そんなことは良い。裕二、これから先のことを相談しなくてはならない」
「急にそんなこと言っても」
「間もなく此処を出るだろう。学校は今のところ休学扱いになっている。しかしこの儘と言う訳にもいかない。この間、学校から呼び出しがあり相談してきた」
「高校は辞めようと思う」
「裕二、何を言うの」
「この儘では留年は確実だと思う。此処を出たあと大検を受けようと思っている。その為の勉強は既に始めている。何れ一年遅れになるけれど、大学に行く気持ちは変わらない。学部も教育学部から農工学部に変えたいと思う。それに、家に居ると迷惑を掛けることにもなるし、出来れば伯父さんのところに行きたい。伯父さん、子供がいないから引き受けてくれると思う。お父さんからも話しをしておいて欲しい。伯父さんにもこの間手紙を書いたけれど、お父さんとお母さんに相談してから出そうと思っていた。出来れば伯父さんにも会ってお願いしたいと思っている。そして、大学を卒業した後は北海道に行きたい。これまでレールの上を真っ直ぐ歩いてきた。目的はあったけれど経過がなかった。その単調さにも気付くことが出来ました。お父さんお母さんには、お金のことや生活のことで迷惑を掛けるけれど、俺は俺にしか出来ないことをしっかりと掴みたいと思う。その為にも負けないで頑張り通します」
 母親は裕二の話を聞きながら涙を流していた。裕二が哀れでならなかった。裕二の為に何もして上げられないことが苦しかった。家族のことを考え、自分で苦しみながら将来を決めていたことが辛かった。
「兄貴も随分心配していた。裕二のことは人一倍可愛がっていたので面倒を見てくれるだろう」
 学校のことを話す必要はなかった。裕二はそれ以上のことを考えていたと思った。
「裕二、ごめんね」
「早く退院出来るように頑張るよ」
 看守が面会時間の終了を告げていた。
「来てくれて有り難う」
「裕二元気でね、また来るから」
 裕二は看守に連れていかれた。二級の場合、N中等少年院では月二回の面会が許されていた。但し面会者は近親者、入院者から見て一等親、乃至は二等親に限られていた。【少年院処遇規則第五十四条】面会にあたっては、これを有益に指導するため、職員が立会わなければならない。また、【第五十五条】通信及び小包の発受は、矯正教育に害があると認める場合を除き許可しなければならない。となっていた。つまり、郵便物など発受の一切が検閲を受けなければならなかったし、面会は職員が必ず立ち会っていた。
 裕二は何度も正美に手紙を書こうと思った。しかし他人に読まれることが、それも検閲と言う事実が許せなかった。内面の問題である。裕二と正美の内面は二人だけのものであった。知られる必要のないことだった。

 十四

 裕二は図書室にいた。読書することの楽しみを少しずつ身体で感じ始めていた。土曜日や日曜日、独居にいるとき、読書することで自分自身を変えようとしていた。
「裕二、腕章の色が変わったな」
 と、齋藤が言った。
「お前もな」
「このまま行けば年度内に出られるかも知れない」
「そう言う訳にはいかないだろう」
「さにあらずだ」
「退院出来れば良いが!」
「二段階特進がある」
「どう言うことだ」
「成績が良ければ今年中に上下と進む。此処を出院して家族のところに帰れると言う訳だ。次から次ぎへと入院してくる。何時までもいたのでは直ぐ一杯になってしまう。トコロテンじゃないが押し出されるって訳だ」
「成績か・・・」
 と、裕二は溜め息を吐いた。
「大人しくしていれば兎に角出られる。誰とももめ事を起こすな。一度起こせば一ヶ月ずつ延びる。此方には権利も自由もない。それを忘れるな」
「権利も自由もないか」
「塀は外から眺めるものであって内側から見るものではない。此処を出なければ何も始まらない」
「齋藤はいつ頃出院出来る?」
「三月中だろう」
「一緒に大検受けようぜ」
「そうしよう」
「俺は農工学部を受ける。卒業した後北海道に行きたい。隣の家まで車でなければ行けないようなところに住みたい。屹度、修学旅行の印象が残っているのかも知れない」
「北海道か、良いところだろうな!しかし世の中、何処に住んでも生きる喜びがなければ生きられない。俺は地道に生きる。地道さのなかに、地に根差した生き方をしたい。黙々と働きながらも人間としての矜持を忘れないようにする」
「支えになるものは一体何だろう?」
「俺は、俺自身に負けたくない。その為にも一生懸命勉強をする。そして、何年掛かろうとも必ず建築関係の大学に行く。早く気付くべきだった」
「何も考えないように教育されている。考えないことで生きていられる。個の主体性とか存在とかは無意味になり、日常は雁字搦めにされていることが分からない」
「錠を下ろされた独居房のような生き方しか残されていない。四方八方塞がっていて出口がない。しかし三度の飯は保証される。日常生活用具はある。風呂に入れる。ラジオを聴くことができる。便所はある。必要な物が手に入ることで、それ以上の欲求はない。単純なことは素晴らしいだろう。蓋し、単純過ぎることは人間を馬鹿にしている。少年院は無能な人間を送り出すことに専念している。自由への道は、人間への道ではなく鈍磨した不毛の道でしかない」
「そうだろうな」
「生きるに値しない生を生きている」
「少年院って何だろう?」
「矯正教育されたという事実を、その個人の意識の中に植え付けるものだ。環境が変わり、生活が変わり、俺を知らない人間たちの間にいても、俺の意識の中からは決して消滅することはない。ガチャリと下ろされた施錠の音、食器の擦れる音、定時毎に廊下に響く看守の足音、シーンと静まり返った独居の何処からか聞こえてくる排尿の音、毎朝流されるラジオ体操のピアノの音、拘禁に耐え切れず啜り泣く声、独り考えているのか時々漏れる溜め息、看守の目を掠め檻の中でする自慰、視姦されながら入る入浴、号令を掛けながら歩く廊下、それらは決して消えることはなく、秘め事のように引きずりながら生きて行く。そして、脳髄の深部に埋め込まれた事実は、時と共に消滅するのではなく膨らみを増して行く。一つ一つの映像が夜な夜な夢に出現するだろう。そして、おぞましさに魘され目覚める。手を休めたときなど、日常の何気ない生活に影を落とす。俺は此処を呪うだろう。救いは死刑囚ではなく有期刑に過ぎない。看守一人一人の相貌を、収容者一人一人の視線を忘れることなく、俺は其奴等の毒を浴びながら踠いている。そして、少年院の内部構造の細部まで思い出すだろう。何れ結婚して子供が産まれる。その子にまた子供が産まれる。歳老いた俺は孫と河原で石投げをしている。『おじいちゃんは何をしていたの?』『僕、おじいちゃんのようになりたい』と、孫が無邪気に訊いたとき、俺は何と答えられるだろう。それに、此処で一緒だった奴らに何時何処で出会うか分からない。しかし仲間ではない。仲間ではないが同じ釜の飯を食った仲となる。少年院にいたと言う事実は刻印のように消えることはない」
「一生の足枷になるのだろう」
「俺にも何時か恋人が出来るかも知れない。でも、その時に少年院にいたことを素直に言えるか分からない。多分言えないだろう。心の何処かで隠そうとする。そして、意識の奥底で葛藤する。好きな女が出来たら辛いだろうな」
「言って、離れて行くような女だったら諦めるしかない」
「そんなことを何度も繰り返していたら絶望だ」
「絶望もまたよし」
「色んな場面に打ち当たり冷静でいられるか不安になる」
「関係ないと思っても相手が絡んでくる」
「仮退院の身ですと言う訳にもいかない」
「もめ事を起こせば直ぐ連れ戻される」
「何かあれば、また彼奴かも知れないと疑われる」
「それでも生きなくてはならないし、生きる目的を持たなくてはならない」
「そう、一生懸命生きて行こうや」
「俺が早く出てしまうと光ちゃん寂しくなるな」
「年季が入っているから大丈夫だ」
「そうだな」
「ところで裕二、彼女に連絡しているのか?」
「していない」
「そうか」
「検閲のことを考えると書く訳にはいかない」
「囚われの身だから秘密保持は有り得ない。しかし手紙を書こうとする相手がいるだけでも裕二は仕合わせだ」
「光ちゃん、好きな人はいないのか?」
「いない。それどころではない。話は変わるが、囚われていることを考えたことがあるか?拘束とか束縛とか違う意味で」
「考えてはいたが良く分からない」
「囚われていることは山下裕二ではない。生殺与奪は彼方次第であり、生きる権利の保証はない。何があっても闇から闇に葬り去られる。飼われた動物と同じで、退院するまで生きて帰れるのか棺桶に入っているのか分からない。何れ、どちらにしても構わないことである。それに、意識が衰退して行くのが分かる。長くいればいるだけ廃人になる。出院したとき、外の風景を見て負けないだけの力を蓄えているのか直ぐ試される。以前、外科手術で三ヶ月以上寝ていた奴がいた。ベッドから下り、歩こうとしたが足を上げることが出来なかった。筋肉は三ヶ月の間に弛緩していた。此処でも全く同じで、意識は知らない間に慣らされ正常だと錯覚する」
「自我が目覚めなければ自分を捉えられない」
「そう言うことだ」
「検閲のことだが、矯正教育に害がある場合は検閲しても認めないとなっているが、そんなことが許されるのだろうか?」
「害がある、ないの基準は一体誰が決めるのか分かりはしない。回し読みをされたのでは堪らん」
「価値基準は国によって違うだろう?」
「価値は歴史と共に移り変わって行くが、此処では有り得ない。人間にとって最低の場所が俺達のいるN中等少年院だ。拘禁状態の俺達には何も認められない。生きるに値しない場所であることを知らなくてはならない。それなのに此処を生きる場所だと錯覚している奴もいる。娑婆に出ても適応出来ないだろう。そのことに気付かなければ俺のように舞い戻ってくる」
「少年院を対象化しなくてはならない。現実は客観と主観が入り乱れている」
「そう言うことだ。主体は己であり客体は己である。己を見失ったとき惰性のみが支配する」
 独居に戻る時間だった。
 裕二にとって光男だけが話し相手だった。週に一回図書室で話をしていることで精神的に救われていた。単調な生活と、拘束されていることで意識の変調を来す者がいる。勉強も、働くことも、生きる為の目的が必要だった。正常な意識を取り戻せないまま医療少年院に移送される入院者もいた。罪を犯した者が悪いのだろう、けれども一度犯した罪は、その個人によって測ることの出来る基準など何処にも有りはしない。犯した罪によって入院期間が決められるべきものではない。再犯があり、再々犯がある限り矯正教育だけでは解決出来ないところに来ている。

 十五

 学期末試験も終わり冬休みも間近に迫っていた。一日が長く、そして短く過ぎていった。
「正美、毎週行っているの?」
 と、夏江が言った。
「うん」
「正美の恋って辛過ぎる」
「今は待つことしか出来ない。でも、苦しみではない」
「子供だった正美が、いつの間にか大人に変わっていた。何が正美を変えたのか考えていた」
「私・・・」
「私達って一人の人間として見られることがない。本当は精神的に自立しているかいないかであって他のことは必要がない。高校生だもの経済的に自立など出来ないことは承知している。でも、意識的な行動が出来るとき自立していると言える。何も思わず終日送るのではなく今日一日が終わったことを考え感じたい。意識しなければ全てが通り過ぎ、意識することで色々なものが見えてくる。正美は苦しんでいた。でも、その苦しみは意識された苦しみであり誰にも触れることは出来ない。恋することって傷付きながら成長することだと思っていた。でも、成長するにはそれなりの理由が必要だと思う。始めも終わりも中途半端では何も残らない」
「夏休みのことは?」
「自分の事としてしっかりと受け止めていれば彼と旅行に行ったと思う。でも、出来なかった。卑怯だったのではなく、それだけの私だった。その後彼とは会う事も電話を掛けることもなくなっていた」
「私に出来ることは何もない」
 と、正美は呟いた。
「自己を意識下出来るとき青春が始まり、自己を意識下出来なくなったとき青春が終わる。屹度、感性的であることが一番大切だと思う。私も正美も高校生であることに間違いない。でも、一般的に言う高校生のように感じるのではなく、普遍的に意識の底から感じなくてはならない。詰まらないことに何時までも関わり、為体な日常を送っているようでは、高校生であっても日常に埋没してしまう。正美を変えたものは正美であり裕二さんだと思う。二人の意識の重なり合いが複合しながら新しい自己を作り上げたと思う。正美は十七歳で掛け替えのない青春を知った。嫉妬したくなるような素晴らしいものだと思う。でも、青春なんて直ぐに過ぎてしまう。そして、毎日毎日代わり映えのない生活が待っている。十七歳の時が、十八歳の時が、十九歳の時があったと思えるようになりたい。一日一日を、一年一年を大切に、そして、しっかりと地に着いた足で歩いていきたい」
「夏江、有り難う」
「波瀾万丈の人生を送りたい。でも投げ遣り的に生きるのでは無く、ふと気付いた時これで良かったと思えるような生き方で有りたい。苦しくなれば楽な方に逃げたくなる。でも、叱咤激励して自分に負けないようにしたい。畑だって、田圃だって、手を抜くと直ぐ雑草が生える。雑草が多くなると抜き取ることが面倒になる。でも、汗を拭き拭き一本ずつ抜かなくてはならない。そう言う努力が自分を鍛え上げて行く。機械で根こそぎなんて器用なことは出来ないし、する必要がない。自分の中にある力を信じて今日を生き抜いて行く。そう、気付かないまま苦しみから逃れようとするとき自己を捨象する。そして、その繰り返しは人間としての感性を失い自己を傀儡とする。懸命に生きるには、依り強靱な意識を持たなくてはならない。でも現実は、制度や慣習、決められた形式のなかでしか考えられない。それらが価値観を決めている。固定観念に縛られ短絡的に結論を出すとき、もっとも楽な方法だと思う。論理的な思考を忌み嫌い、枠のなかに全てを当て填め、仕方がないと誰もが諦める。技術や機械は進歩するけれど、人間の意識は後退している。私達の前途には問題が山積みされている。でも、負けないように頑張ろう!」
 夏江は正美のことを、友達と言うより保護すべき自分の仮の存在のように感じていた。これから過ぎて行くだろう青春に、何を為すべきなのか、自らに果たした課題の重さを知ろうとしていた。

 正美は日曜日毎に電車を乗り継ぎ、片道二時間掛けてN中等少年院に行っていた。窓外には蕭殺(しょうさつ)たる風景が拡がり、街並みは冬の気配を感じさせていたが耐えるしかなかった。何時も通り私鉄のS駅を降りると少年院への坂道を登って行った。門柱を暫くの間眺めた後、周囲を一周して児童公園のベンチに掛け塀の中にいる裕二に語り始めた。『・・・裕二にも子供たちの走り回る歓声が聞こえているのでしょうか・・・日曜日なので作業は無く、独り独居の中にいるのでしょうか・・・寒くなりました・・・裕二を連れ去った護送車が消えてから三ヶ月が過ぎました。何時になればこの高い塀の中から出てくるのでしょうか・・・裕二のことが知りたくて、一度お母さんに電話を掛けました。でも、もう掛ける訳にはいかない。お母さんは酷いショックを受けていた・・・』 
 日溜まりには子供たちが遊んでいた。正美は目を凝らして塀を見つめていた。『・・・裕二が私宛に手紙を書かないのは、それが検閲されることを許せないからでしょう。でも、裕二は何時も私に語り掛けている。高い塀が邪魔をしているけれど直ぐ近くに感じている。二人にとって距離や塀は関係がない。私の思いは裕二の心に、裕二の思いは私の心に届いている。そして、この冬さえ乗り切れば私の許に返ってくる。そう信じています・・・』

 既に十二月も終わりに近付いていた。賑やかな街並みを通り過ぎると丘陵に差し掛かり正面から北風を受け寒さが身に凍みた。広葉樹は葉を落とし、所々積み重なっては風に飛ばされ正美の足下に絡み付いていた。
 正美は建物を正面から見ていた。『・・・今日はクリスマス、一緒に過ごすことは出来ないけれど、少年院の中にもクリスマスはあるのでしょうか・・・塀の中からは何も聞こえて来ません。商店街の賑やかさに比べて、此処は北風が吹き抜けている。裕二、私の直ぐ前にいるのに、この高い塀がまた邪魔をしている。何時になれば会えるのでしょう・・・会いたい・・・裕二の苦しみを考えると何も出来ない私が虚しくなる。待つことしか出来ない私・・・裕二、貴方のことを何も分からないことが辛い・・・寒い日が続いています。裕二、元気でいて下さい・・・』
 公園に子供たちの遊んでいる姿はなかった。時折雲間から風花が舞っていた。正美はもう一度少年院の正面に行った。≪N中等少年院≫静まり返った門柱に誰も寄せ付けない悲しみがあった。

 その日、N中等少年院では年度末を迎え今月二度目の処遇審査会か開かれていた。正月前に仮退院させることに依って家族と共に過ごさせることへの配慮だった。
 裕二は十一月末の処遇審査会で一級の下に進級していた。そして、この処遇審査会で一級の上に進級したことによって、仮退院申請書を地方更生保護委員会に送られていた。仮退院決定書の謄本がN中等少年院に送られてきたのが、その年も押し迫った十二月二十八日だった。そして、裕二の出院は翌年の一月五日と決定された。その日の午後、家族に退院日と時間が知らされた。
 母親は正美に退院の決定を知らせようか迷っていた。しかし正美に知らせることは、裕二にとって、そして正美にとって大切なことだろうと思った。正美からの電話を罵り切ったことを大人気無いことだと悔いていた。

 正美が少年院に行った日から四日後のことだった。両親とも未だ帰宅せず、兄弟三人の夕飯が終わったとき電話が鳴った。
「田中さんのお宅ですか?」
「はい」
「正美さんはいらっしゃいますか?」
「私です」
「裕二の母です」
「はい」
「裕二、一月五日の一〇時に退院が決まりました」
「本当ですか・・・嬉しい」
「正美さん、裕二のことこれからも宜しく」
「お母さん」
「正美さん御免なさい。あの時は私も興奮していて余計なことを言ってしまいました・・・」
「本当に良かった」
「ええ、こんなに早く出院出来るとは思ってもいなかった。正美さんもお元気で」
「電話を頂き有り難うございました」
 短い電話だった。暫くの間受話器を握ったまま、その場に蹲っていた。正美の心は激しく波打っていた。自然と涙が零れ、裕二が無事だったことの喜びが溢れてきた。
 時間が経つに連れ、これからのことが鮮明に見えてきた。ともすれば挫けそうになっていた生きることへの不安が消えていった。待っているのではなく前に向かって、北風に縮こまるのではなく、全身に受け止めて行ける力強さが戻ってきた。

 一週間が過ぎていた。待つことの最後の夜だった。裕二との出会いから今日までの苦しかったことが蘇ってきた。『・・・私は、いつの間にか十七歳になっていた。忘れることの出来ない十七歳・・・私鉄のS駅から真っ直ぐ北に延びて行く坂道、商店街が切れると未だ農耕地が拡がっている坂道、単調な道をひたすら歩いて行く。十字路を左に曲がると鬱蒼とした一角が眼前に拡がる。あの道を登って行くのも明日で最後になる。そして、下ってくるときの言い知れぬ悲しみを二度と感じることはないだろう・・・この四ヶ月間、一つの思いを共有していた。会うことも、声を聞くことも出来なかったけれど、裕二と私の思いは共有する意識のなかで染み入るように感じていた・・・コンクリートの塀に閉ざされている荒涼とした建物と、N中等少年院と書かれた文字を決して忘れることはないだろう・・・』
一日が終わり黎明が近付いていた。十七歳になった正美にとって過酷な日々は過ぎようとしていた。

十六

 裕二は暖房のない独房で蒲団にくるまっていた。これまで冬の寒さなど感じたことはなかったが寒くて仕方がなかった。四ヶ月間の独房での拘禁生活は身も心も切り刻んでいた。『・・・明日が来ることを信じて勉強していた。しかし十年も二十年も此処に居るような気がする。確固たる意識を持続させようとしても不安に脅される。慣らされることは無いだろうと思っていた。でも、知らず知らずの内に精神は腐敗して白昼夢を見るようになる。現実を否定も肯定も出来なく信仰するように自己を忘れる・・・朝が来て、夜になり、また朝が来て夜になる。回旋曲のように同じことを繰り返し、今夜もまた同じ夢を見るだろう。そして、此処は何処だろうと、問うている夢で跳ね起きる・・・堕落・・・否・・・猿のように檻の中で飼われていても人間であることを忘れまい・・・』
 十二月二十八日になっていた。その日、午前中で院内作業は終了した。これから正月三箇日が過ぎるまでの五日間作業は無く、単調な日々が待っていた。午後から独居で読書していた裕二は看守に呼び出され院長室に連れていかれた。途中理由を考えたが分からなかった。院長は慇懃な態で事務机に向かっていた。そして、書類から視線を外すと徐に立ち上がり退院の日時が決定したことを告げた。しかし何の感慨も無く裕二は事務的に聞いていた。唯、直立不動の姿勢で余計なお喋りを聞いている自分の辛さが許せなかった。簡単な訓辞が終わると独房に戻り読書を続けた。高校の退学届けは既に受理されていたので退院後のことは決まっていた。
 一日が過ぎ退院まで一週間を残していた。『・・・一週間後に退院する・・・閉ざされた牢獄からの解放を言うのだろう。一日があり一週間があり一ヶ月があった。しかし一週間後、此処を出ることが決まり、自由になると言われてもよく分からない。塀に囲まれた鉄格子の中には拘束された自由があった。決められた日常を、決められた日課で、時間通り進めて行く自由があった。最低限の生活が残された場所、N中等少年院・・・逮捕されてから五ヶ月が経っている。生きることの辛さを、生きることの最低限の社会を見てきた。留置場、少年鑑別所、護送車、少年院、その全てが表と裏の社会である。鉄格子と塀に囲まれた社会なのに、拘束されることを、如何にも自由を享楽していると錯覚する。閉ざされていることで正常な意識が働かない場所である。縮小された擬似社会が、生きている空間になっている。でも、此処は生きるところでも死ぬところでもない・・・一歩踏み出すことで状況が変わる。踏み出さなければ少年院で廃人にされる。拘束された五ヶ月間、耐えざる時を耐えていた。しかし後一週間、永遠の時間が残る。今まで以上に長く感じるだろう・・・喧嘩をしなかった。作業、学習が勤勉だった。独房の掃除をした。禁断症状を起こさなかった。命令に服従した。それが俺に対しての矯正教育と言うのだろう。社会復帰後の生活、学習、仕事の可能な状態の許可、それが仮退院の決定書と言うのだろう。しかし俺自身を信じ、確固たる信念や目標があったとしても、それだけでは生きることは出来ない。家庭があり、援助を受けなければ、また同じことを繰り返さないと誰に言えよう。見せ掛けの、理屈上のことで、実際とは懸け離れていることを、机上の論理で処理しているのに過ぎない・・・俺に家族や近親者がいても保護司の監視下に置かれる。真面目にやっているかと監視され、状況を聞かれ、メモを取られ、教訓を垂れるだろう。永遠と続く余計なお喋りに俺はうんざりしながら耐えている。お前などにくどくど言われる筋合いは無いと思いながら鉄槌を下すことも出来ない・・・隣の百二十四号は十日ほど前に退院した。一度も口を利いたことは無く、陰鬱な表情をして、俺が通る度に視線を落としていた。百二十三号は頬に浅傷(あさで)が残っていた。冷たく無表情な目元は、社会を、自分を嘲笑っているかのように薄く開いていた。百二十二号は窓側の壁に張り付き耳を澄ましていた。何を聴いていたのか、目はとろんとして恍惚の表情をしていた。百二十一号は作業に行くことも無く独房で終日過ごしていた・・・誰も彼もが死に絶え、生きるに値しない生を強制される。退院しても三割、四割と戻ってきて当たり前だ・・・此処は一体何処なんだ・・・』
 左右に並んだ独房の数人が消えていた。年度末の二十日以降、N中等少年院は入院する者は無く仮退院者が多かった。正月特赦とでも言うのだろう。静まり返った独居で裕二は独り過ごしていた。はめ殺し窓の向こうに雪が降り始め遠く除夜の鐘が反響していた。裕二は一つ、二つと数えて行く内に眠りに落ちていった。元旦には正月料理が付いた。酢蛸、きんとん豆、蒲鉾、膾(なます)に雑煮など世間並の物が配食された。

 N中等少年院百二十五号独居での最後の夜だった。『・・・俺の前には鉄格子が有り、外側から鍵を掛けられ閉じ込められていた。廊下の施錠が二カ所、管理棟に続く施錠が二カ所、合計五回鍵を開ければ其処が社会へと続く道である。塀を外側から眺めるところに行ける・・・俺は此処で働いている人達を人間とは思っていなかった。彼らに依って生かされている俺が人間ではないように、彼らもまた人間ではなかった。俺の心は蝕まれていた。そして、彼らの心もまた蝕まれている・・・何時かは此処を退院出きると思っていた。しかし一日一日は退院を前提に過ぎて行くのではなく、施錠された独居の中に明日は無かった。過去があり、未来があるのではなく、毎日同じことを繰り返している日常に、耐えることが一日の生活だった・・・精神の葛藤が徐々に肉体を蝕み、肉体の葛藤が徐々に精神を蝕んでいく。ガチャリと下ろされる施錠の音が脳髄を破壊していく。この生活が一年、二年と続くことで、二度と社会に対応出来る精神力は失われて行くだろう・・・正常な精神力があったとしても、直ぐ衣食住が満たされる訳ではない。最低限の生活か、それなら此処にもある。けれども出院する元犯罪者にとって、最低限の生活の保障とは一体何を意味するのだろう・・・俺は、明日の朝十時に鉄格子から解放される。多分間違いはないだろう。しかしそれが本当のことなのか、明日N中等少年院の外に一歩でなければ事実にはならない。明日の朝、何処に連れて行かれるのか俺には分からない・・・俺の帰って行く社会の中に鉄格子がないと誰に言えるだろう。見えないだけで、何時でも俺の前に厳然と立ち塞がり、嘲笑って待ち構え、レッテルを貼られたことで要注意人物となる。事件がある度に指紋を照合され官憲から眼を付けられる・・・鉄格子と対峙した四ヶ月間、拭うことの出来ない、理由のない不確実な悲しみを知った。それは冷蔵庫の足下が錆び付いているような、道端に転がっている石ころの陰影のような、屋根の上で飛び跳ねている雀を眺めているような、そんな悲しみなのかも知れない。悲しみは癒されることは無く、日々のなかで依り深まっていた・・・一生懸命生きたとしても、ふと、溜め息を吐くことだろう。見えない虚空に向かって大声で馬鹿野郎と叫ぶだろう。辛くて、辛くて耐えきれなくなって泣き叫ぶだろう。悲しくて、悲しくて涙を流すだろう。しかし、そんな俺を俺は許すだろう。酒を飲めと慰めるだろう・・・鉄格子・・・俺は此処を脱出することを真剣に考えただろうか・・・看守を殺して塀を乗り越える。俺は死刑囚でも無期刑囚でもなかった。六ヶ月間我慢していれば自然と出られると思い耐えていた。服従することを余儀なくされ矜持を捨てる・・・屈辱だ、屈辱だ、屈辱だ・・・法に従い、法の元で許される範囲の生活・・・結局、俺は明日少年院を出たとしても、俺のなかで崩壊した意識を取り戻すことは出来ない。累々と伝わる歴史は俺を拒み、歴史の異端者となる。そして、俺の一生は自己を取り戻すことに費やされるだろう・・・この四ヶ月間が俺のこれからの人生に意味を齎すのだろうか・・・否、意味など何も無い。それが俺のN中等少年院での結論である・・・』

 九時丁度に独居の鍵が開けられた。続いて廊下の鍵が開けられ管理棟への鍵が開けられた。管理棟内にある一室に連れていかれ、着替えを済ませると領置物品を還付された。続いて院長室で仮退院書が渡され訓辞を受けた。【犯罪者予防更正法第三二条】監獄又は少年院の長は受刑者又は在院者を釈放するときは、本人に対し、書面で、仮出獄又は仮退院の期間及びその期間中遵守すべき事項を指示し、且つ、署名又は押印をもって、その事項を遵守する旨を誓約させなければならない。となっていた。仮退院後は保護観察中であり、【同第三四条一】一定の住居の居住、【二】善行の保持、【三】交際の禁止事項、【四】不在する場合許可を得ること、その他の遵守事項があった。【少年院処遇規則第二十八条三】仮退院中、遵守事項を守らなかったため、又は守らない虞があったために少年院に戻された在院者は、二級の下に編入する。但し、仮退院中の成績が特に悪かった場合には、三級に編入することが出来る。となっていた。裕二は仮退院の身であり保護処分期間の六ヶ月間が満了するまでは、遵守事項に拘束された生活が続いて行くことになる。
 幾つかの蹉跌を踏みながら青春は過ぎて行く。蓋し青春と呼ぶに相応しい生き方が出来るものではない。振り返ることが出来る青春があり、考えるのも嫌になる青春もあるだろう。正美と裕二の青春は序に付いたばかりである。こりから先、数々の試練を乗り越えなくてはならない。
 廊下に両親と伯父が待っていた。正面ドアを開け、深く深呼吸をすると車に乗り込んだ。

 児童公園の入り口に正美は隠れるように立っていた。そして、N中等少年院から出てくる一台の車を凝視していた。車は正美の横を通り抜けスピードを上げようとしていた。何気なく裕二は後ろを振り返り少女が立っていることに気付いた。正美に間違いないと思った。
 急停車した車から裕二は飛び降り少女の許へ走っていった。

       了

鷺草(さぎそう)

鷺草(さぎそう)

大学受験を前にした高校生が偶然から殺傷事件を起こし少年院に入院する。前半は少年と少女の出会い、後半は少年院で自我に目覚めていく過程を克明に描く。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-17

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