夏の終わりの静かな風 7

 ふと部屋の時計に目をやってみると、時刻はまだ一時時半をちょっと回ったあたりだった。僕は喉の渇きを感じたので、麦茶でも飲もうと思った。

 子供部屋を出て、キッチンに向かう。そして冷蔵庫から麦茶の入ったタッパーを取り出すと、それをコップに注いで一息に飲んだ。麦茶はよく冷えていて美味しかった。
 
 妹はまだ眠っているのだろうかと思って妹が眠っている畳の部屋を見てみると、案の定、妹はまだ眠っていた。僕は試しにもう一時時半だよと妹に声をかけてみたのだけれど、妹は生返事をするだけで、一向に置きだす気配はなかった。

 このまま家にても退屈なだけなので、どこかに出かけようと思った。でも、どこに出かけようと考えて、僕はさっき読んだ小説のせいか、急に海が見てみたいような衝動に駆られた。

 僕は服を着替えて出かける準備をすませると、母にことわって母の車を借りた。そしてその母の車で僕は海に向かった。

 僕の実家のある小さな町は、さっきの小説ではないけれど海がすぐ近くにあって、車で三十分程も行くと、比較的きれいな海水浴場まで行くことができる。

 車を運転するのはずいぶんと久しぶりのことなので少し緊張もしたけれど、海岸線の道をひとりで運転するのは楽しかった。平日なので道も空いていて、自分の好きなペースで運転することができた。車のカセットデキには、僕がずっと昔に録音したテープがそのまま残っていて、そのずっと昔に録音したテープを聴きながら車を運転した。

 テープに録音されていたのは二、三年前に、僕が大学生だったときによく聴いていた音楽だった。それらの音楽に耳を澄ませていると、懐かしい気持ちになった。僕は大学生だった頃のことを色々思い出した。

 そして、ほんの少しだけ切ないような気持ちになった。知らないうちにずいぶん色んなことが過去の出来事になってしまったんだな、と、僕は感じた。僕は漠然とした喪失感を感じた。いつの間にか、かつてそこにあったはずものがもう既に失われてしまっているというのは、寂しい感じのするものだった。まるで雨の日の、人気のない浜辺を見ているみたいに心がしんとなった。

 やがて僕の運転する車は目的地の海水浴場にたどり着いた。僕は駐車場に車を止めると、車を降りて、海水浴場に向かって歩いていった。

 訪れた海水浴場はもうお盆を過ぎてしまっているせいでほとんど人影がなかった。浜辺の隅の方でカップルが水遊びのようなことをしているだけだった。

 お盆を過ぎてしまうと、クラゲがたくさんでて、泳ぐことができなくなってしまう。だから、お盆前まであれだけ盛況だった海水浴場も、まるで道端に投げ捨てられて形がいびつに変形してしまった空き缶みたいにほとんど誰からも顧みられなくなってしまう。おまけに今日は曇っているせいで、よけいに人影が少なく、浜辺にはまるで世界中から忘れ去れてしまったかのような静けさがあった。

 僕は波打ち際まで歩いていくと、そこに立ち止まって、寄せては返す波をぼんやりと眺めた。空の灰色の雲の色素を映して暗く沈んだ色合いをした海面を見ていると、ふと物悲しい気持ちになった。

 僕も先月の七月で二十六歳になった。二十六歳という年齢は、世間一般の常識から考えればまだ十分に若いといえるのだろけれど、しかし、自分のなかではずいぶん歳を取ってしまったな、という感覚があった。もう、二十六歳なんだ、と思った。まだ十九とか二十歳の頃は自分の未来に、明るい可能性や希望をいくらでも見出すことができた。それこそ努力次第で何でもできるような気がしていた。

 でも、二十六歳という年齢になってしまうと、自分の未来がすっかり色あせてしまっているのを、感じないわけにはいかなかった。かつて信じていた華やかな将来が、実は、自分の無邪気な妄想に過ぎなかったことに、嫌でも気付かされてしまう。

 僕はこれから先どうすればいいんだろうと暗いに気持ちになった。二十六歳でフリーターをしているなんて、すごく情けないような気がした。この先ほんとうに小説で結果を出すことができるのだろうとか考えると、自信が持てないのが正直なところだった。

 それなら小説を書くことはきっぱり諦めて、就職すればいいのかもしれなかったけれど、でも、小説を書くことを諦めた人生に、一体どんな望みを持てばいいのだろう、と、ついつい大袈裟に考えてしまう自分がいた。所詮人生なんてこんなものだと諦めて生きていくしかないのだろうか。

 あるいは就職して働きながら書くという法方もなくはないのだろうけれど、でも、僕はあまり器用な方ではないので、就職して、義務や目標に追われながら小説を書いていけるとはどうしても思えなかった。

 実際に就職して働いている友人の話を聞いていると、みんな一様に終わりのないサービス残業やノルマ等に追われて、あまり自分の時間が持てないのが実情のようだった。そういう話を聞いていると、積極的に就職しようという気持ちにはなれなかった。じゃあ、このままでいいのかと思って、無論そんなことがあるはずがなくて、僕の思考は堂々巡りを繰り返してしまう。

 結局僕は甘えているだけなのだ。それはわかっていた。でも、自分のそんな甘えた弱い気持ちはどうすることもできなかった。

 僕の思考は次第に先細りになって、出口を見出せずに、自分のなかで小さく弱くなっていって、最後は波の音に飲み込まれるようにして消えてしまった。あとには大袈裟な言い方をすれば絶望に似た暗い気持ちが自分の感情のなかにぼんやりと残っているだけだった。
 
 僕はその場にしゃがみこむと、手を差し出して、打ち寄せてきた海の水に触れてみた。手に触れた、白く砕けた海の水はひんやりとして冷たかった。その海水の冷たさは、優しいようでもあり、懐かしいようでもあった。

 僕はずっと昔の子供の頃に家族でこの海水浴場に遊びにきたときのことを懐かしく思い出した。あのときは今と違って天気はよく晴れていて、目映い夏の太陽が気持ちよく世界を照らしていた。だけど、それはもうずっと過去の出来ことだった。

 僕はしゃがみこんでいた状態から再び立ち上がると、歩いていって、近くにあった自動販売機でコカコーラを買った。そして適当に浜辺に腰を下ろすと、目の前に広がる海をぼんやり見つめながらコカコーラを飲んだ。
 
 強い風の音と、いつくもの波の音が耳元を吹きすぎていった。
 
 やがてコーラの入っていた缶が空になってしまうと、僕は砂浜から立ち上がって、駐車場までゆっくりと歩いて戻った。

 そして車に乗ると、またひとりで車を運転して町まで戻った。

夏の終わりの静かな風 7

夏の終わりの静かな風 7

夏の終わりの静かな風の続きです。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted