・ISM(イズム)(下)
忘却されたデータの地底から
都内某所、閑静な住宅街の片隅に黒い塗りのはげかけた鉄柵の彼方。鬱蒼とした雑木林の中、敷地内にたたずむ赤レンガの三階建てがある。年季の籠もった西洋建築は、樹齢百年の銀杏の大木を庇にして都心の喧騒を逃れ、落葉松やブナ、クスノキなどの林から立ち上る、湿っぽい藪の匂いに包まれていた。
ここは大正時代にドイツ人の貿易商人が棲み、戦後はGHQの高官が自邸に接収した年代ものの洋館だ。その後、闇商売でのし上がった戦後商人の所有になり、言わずと業の深い近代建築を現代に生き永らえさせるために、神津良治の資金が注入されていることを知っている人間は、意外にもほとんどいない。
本来はさして重要とは思えない文化財を管理する休眠法人を蘇らせた神津は、この屋敷を取り巻く、さまざまな法制上の利用価値を貪りつくす一方で、自分のいいように、屋敷を改造していた。神津自身はこの屋敷を、あらゆる意味をこめて自分のストックだと表現している。確かにそれが、考えうる限りの意味において神津の在庫、つまり、ストックのための倉庫だと言うことを、悠里は知っていた。
ここには神津の活動の全体像を補完するための、現在待機中の在庫がすべて、厳重に保管されていたのだ。
偶数日の土曜日のみ一般公開されている一階のスペースよりも、神津が特に力を入れたのはスペースを改造した、広大な地下室だ。
ピンクの殺鼠剤が撒かれている、かびて黒ずんだ漆喰の壁が地底まで続いている印象を与える。明治時代からその力を誇示しているような、丈夫な排水パイプの剥き出しのまま通った天井の下を潜り抜けると、今、悠里は、鉄扉の前に立っていた。
もともとは抜け穴があると言う触れ込みだったと言う。しかし今あるのは精々、災害時に生き埋めになることが出来るのが関の山の、金庫を改造した陰気な密閉空間だ。
世紀末以来、地球最後の日が少なくとも百年は延びた今、この穴倉にあえて人が棲むと言うならば、座敷牢以外に有効な用途を見つけることは出来まい。例えば仮に、ここで二度目の関東大震災が起きたとしても、こんな陰鬱な地下牢で自分だけ命冥加を喜ぼうとは、決して誰も思いはすまい。ここに棲むことを望むのはまさに、地球最後の一人になりたいような人間なのだ。
もし幼いときに、この部屋に十年以上幽閉されていたとしたならば、自分の精神がどのように狂っていただろうか。想像もつかない悠里に、少なくともここで生き延びられる資格はあるまい。
さっきの地震の話ではないが、ここでもし地球最後の一人になったことを祝う羽目になるのなら、苦痛と恐怖を最小限に、自分の存在を消し去る方法をなにか考えるに違いない。
クワ・ハルはここで、生きていくことそれ自体について独り、執拗に学び続けた。
最初は自分と世界との取っ掛かりを見つけることに、ひどい苦労したに違いない。どこから手をつければいいのか。それだけを考えるだけで、大抵の人間なら気が狂いそうになるに違いない。
例えば『死』と言う概念と言葉すら、闇に生まれた彼には与えられなかったのだから。
入り口には、当時として最新式の十桁のキーロックが設置されている。空調や警備システムなどと連動して、館全体の日常は、コンピューターで完全管理されている。しかし神津がここに再び戻ってきたここ一週間足らずのうちに、この厳重な暗号と監視システム付の電子キーが、忠実な看守であるどころか、三歳児より無邪気な裏切り者であることがもろくも判明してしまったのだ。
少なくともこの二、三年は、監視システムは子どもに買収されたベビーシッターのように、神津の目を欺き続けていたわけだ。
神津が彼に命じた一見、果てしのない神経の緊張を強いる『宿題』は、彼がひそかに開発した、株式売買のための人工知能の代行によってごまかされていた。神津が叩き込んだ、あらゆる金融理論による刹那的な売り買いのパターンは、誰よりも忠実に神津の資産を殖やし続けていたのだ。
まだ記憶に新しいアメリカでの不可解な金融危機を発端にした、異常な相場のときの不審な投資行動に気づかなければ、今でも神津は日本に帰ってきてはいなかったに違いない。この件で大幅に減損した外貨建ての余剰資金を差っぴいても、その運用資金は非合法のものを合わせてまだ、数千億円の単位で活動を続けていたのだから。
神津の言葉でなければ、少なくとも全体の三分の二を超える額の隠し資産が、彼の気づかない間にまるで挽き肉にされた殺人者の妻のようにばらばらに解体されて、まったく後をたどれないような形で流用されていたとはにわかに信じがたい。・ISMとクワ・ハルの反逆によって、それらの巨額の資産は今や、マフィアともやくざともなんの関係もない、生まれたての赤ん坊のように疑問のない極上の財産になっているはずなのだ。
クワ・ハルが持ち出したその退職金と・ISMがあれば、どこのどんな国の、まったく違う人間に今から生まれ変わっても、誰にも文句は言わせない一生を送れることは間違いないだろう。短くも、これ以上はもううんざりな十八年間のすべてを帳消しにして、なお、あまりある理想が実現するのだ。
それをただの夢だとは、悠里は思っていない。自分がその分け前に預かれるだけの資格が、当然あるとも考えたりはしていない代わりに、誰よりも一足早く、現状を検討するチャンスを与えられたのだから。
悠里はすでに自分だけの挽回策を実行に移す段階に来ていた。
肝腎な問題は、権利があることでは別にない。悠里はその素晴らしい機会を、クワ・ハルから入手するだけの材料は持ち合わせているとしか考えたことはなかった。権利は主張して与えられるのを待つだけのものだが、駆け引きはその主張のしあいだけで成立したりはしないものだ。
いつの場合も、必要なのは、実効力のある武器に過ぎない。泥沼の話し合いは、いつでも暴力が打開する。戦争などと言う一般的な例を取るまでもなく、抜き差しならない数々の経験が悠里の揺るがない価値観を育てていた。
もちろん悠里の使う武器は、一般的な暴力とは違う。要は抑止力だ。相手を振り向かせる情報を握っているか否かが鍵になる。後はそれを、実効力のある事実として積み重ねていくことで、相手の動きを封じ、最終的には自分の意のままにすることが絶対条件だ。
その第一の扉の前に悠里は今、立っていた。
神津との連絡でここに立ち入るたびに、送信されるテンキーのパターンを解析しておいたのが役に立った。今では、定期的に変化する暗証番号の組み合わせすべての法則を読んで対応できるようになっている。
悠里は迷わず、キーを入力した。三度の間違いで警報が鳴るシステムはまったく反応することなく開錠した。
彼女の前に出現したのは、二度と足を運ぶまいと思っていた、やはり憂鬱な地下牢だった。神津の改修工事によって拡張された空間は、衝立と簡易な鍵の掛かるドアによって、大きく分けて三つに区切られていた。入り口から三列ずつに並べられた書架を中心とした文献の海が、外界からの侵入者を迎えた。
部屋全体に籠もった、息苦しい持ち主の体臭とともに、彼らは外界の異物の闖入を拒否していた。膨大な書籍にビデオテープ、DVDやCD‐Rの山は床に溢れ、半開きのドアを点々と伝い、今は立ち去った持ち主の形跡をひそかに伝えている。
この資料の山を泳ぐことに、外界の人間としての常識が軽い挫折を感じたことを、まず悠里は認めなければならなかった。江戸川沿いの隠れ家にあった比ではない。電子情報で保存してあるものを見ても、膨大な数があるはずだ。
奥はキッチンやバストイレ、寝室やパソコンのある書斎などの生活空間になっているが、ありとあらゆる場所に、クワ・ハルが吸収した知識の痕跡が散らばっているのだ。
悠里はここに監禁されていた少年が、週に一度、神津に連れ出されて外に出るときに、あらかじめ用意された生活必需品を届ける役割を担っていた時期があったのだが、すべてはなにも変わってはいなかった。
バスのタイルやトイレの壁一面に、クワ・ハルがマジックで書き殴った、数式ともコンピュータの言語とも、ダダの音響詩ともつかない擬音の文様が、年月の水垢と摩擦によってぼやけて掻き消えながらも、まだ原型をとどめているところなどは、悠里が持つ、数少ない当時の郷愁をいくつか蘇らせる。
九歳で買い取られた悠里は、神津が主宰する無数のセミナーに参加させられ、その利用価値を最大限に発揮する方法論と実践を、いやと言うほど追究された。
悠里が入った【神童塾】には、彼女と似たような事情で会社や家族ぐるみ買い取られた家の、まだ十歳にもならない子どもたちが、何人も送られてきていた。彼らはそこで、神津が稼いだり、裏社会から委託を受けてきたりした莫大な闇資金の洗浄や増殖のためのあらゆる手法を叩き込まれたのだ。
厳しいノルマを課す神津の要求に、まずほとんどの子どもが、脱落した。しかし神津はそうした子どもたちを叱責したり、虐待したりはしなかった。彼らを決して無駄にしたりはせず、別の利用価値で必要とする様々な非合法組織に容赦なく転売していったからだ。
学校には、自分の稼いだお金で通わせてもらっていた。しかしそれも神津の都合でどこへでも転校させられ、同年代の友達など一人も出来たことはなかった。それでも、裏で転売されていった彼らよりはましだと思って自分を慰めた。
新興宗教のセミナーで、売春をさせられている子もいるのだと話に聞いた。裏ビデオや臓器売買の組織に回されて、殺されたのだという子も実際、知っている。虚実取り混ぜたそれらの噂の恐怖に耐え切れず、自殺した女の子は悠里の古い友達だった。
幼い命を助けてくれるものなど誰もいなかった。父親は悠里によって自分の命が繋がっていることだけに安堵し、神津がたまに回してくる小さな仕事だけで食いつないでいたし、母親は健康療法の新興宗教に入信し、無償のボランティア活動で全国を飛び回り、家には帰ってこない。もはや悠里には、捨て去るものはあっても、未練のあるものなど、何もありはしないのだ。
探しものの漠然とした見当はついてはいる。問題はその裏づけを、クワ・ハルがどれだけここに残していったかだ。迷っている暇はない。悠里は膨大な文献を掻き分け、データのラベルをチェックして、それに当たりそうなものを探した。
クワ・ハルが運営した過去ログのデータなども、用意のバッグに片っ端から押し込んだ。キーを知っているとは言え、危険を冒して何度も入れる場所ではない。少しでも感性に引っかかりそうなものは残らず手に入れるべきだ。
寝室の作り付けのデスクと、ベッドの下に散らばったCDのうち一枚に、悠里は目を留めた。それらは恐らく、完全に自分の嗜好のために造ったものだと見当がついた。
【自宅・部屋】【学校】【プライベート・外出】各分類の音声や盗撮映像が記録されたと思われるCDに、粒子の粗い画像がプリントして起こしてある。映っているのは間違いなく、北浦真希だ。背後に半分だけ、若菜が映っている写真も確認できる。
悠里の予想が確かなら、これらはこの一、二ヶ月の間に急激に収集されたもののはずだ。ここに残ったのはただのお気に入りで、マスターはここにあるデータ量の比ではないはずだ。
クワ・ハルは・ISMを、自分の目的のために完成させようとしている。
それがなにかはこの際、関係ない。要は、相手の尻尾を掴むことだ。『清算』に参加したひとつの確実な理由=やつ=クワ・ハルは確実に、北浦真希に執着している。それが切り札になる。
(見てろ)
そのとき、静寂を揺るがして悠里のバッグの中で携帯電話が震動した。三回、一回の断続的なコール。神津だ。次の二度目に、悠里は通話ボタンを押して、相手の声を聞く。
『今、どこにおる?』
「指示通り【揺り籠】にいるわ。現状の確認は済んだ?」
『ああ、これから戻るところや。大人ししてたろうな』
「今のわたしになにが出来ると思うの? クワ・ハルが見つからなきゃ、わたしだってやくざの的にされて終わりなのよ。言っとくけど捕まったら迷わず、あんたを売らせてもらう」
『相変わらず堂々とでかい口利きよんな、悠里ちゃんは』
「自分が何者かはわかってるつもりよ。今のところ、一人ではなにもできない小娘・・・・・それでも、はっきりさせることははっきりさせて置かないとね」
『おれらの間は、常にそんなやからな』
「もう一度確認する。一つ、わたしたちは運命共同体じゃない。二つ、お互いに、利害の合わないことはしない」
多少強引でもここは、強気でいくに限る。それでいてまずは遠まわしに、神津にすべてを委ねるふりをするのだ。神津は機嫌をよくしたのか、電話口で乾いた笑い声を立てていた。
ドカッ、となにかを蹴る音が後ろでした。今度は思わず手を突いた壁が、震動している。背後に殺し屋のミョンジンが立っていた。例の大きなスーツケースを寝室に運んだまま、二時間も姿を現さなかった。
「今戻るな。・・・・・・神津に言え」
妙なアクセントで、悠里に命令してきた。常に持参しているケースは今、足元にはなかった。
「場所が割れた。車、壁の外で、お前を待ってる」
その通りのことを、悠里は神津に伝えた。
『しまったな。ここがまずいとなると、次に打つ手がない』
「賃貸でよかったら提供するけど、どう?」
頃合を見計らって悠里は言った。
『なんとか出来るのか?』
「ええ、手はずはつけてある」
ミョンジンがまだ、睨みつけている。悠里は後ろをもう一度振り返ると、神津に言った。
『どう言う場所だ?』
「電話で詳しくは言えないけど、やくざが来にくい場所だと言うことは確かよ。経営してた売春クラブの顧客で、そこそこ力のある国会議員がいるの。高校生の愛人と逢引するマンションを持ってたはずだから、今から電話して、そこを開けさせるわ」
『手際がいいな』
思わず失笑するところだった。子どもの頃はともかく、今は賛辞など何の足しにもなりはしないことはとっくに気づいている。
「合流する場所は、ここを抜け出してから追って連絡する。緊急時はさっきのサインの最初の三回を二回にしてコールすること」
『お前に借りが出来たか』
「返す気があるから確認したと受け取っておくわ。・・・・じゃあ」
悠里は電話を切った。順番待ちで気分を害したのか、侮蔑を含んだ口調で彼女が話しかけてくる。
「神津はお前を逃がせと言ったか?」
「ええ・・・・・この後、あんたが安眠できる場所が欲しいなら助けろって。あんたの身柄を渡して逃げろと言われなかった代わりにね。・・・・・・あんたの国はどうか知らないけど、日本のやくざはあれで中々、しつこいのよ」
顔のわりに下品に鼻を鳴らすと、ミョンジンは肩をすくめた。
北側の外壁に沿って黒いセダンが停まっているのが、二階のバルコニーからかすかに見えた。ぐるりを調べたが、まだ包囲されてはいないらしい。あの車は物見兼連絡係と言ったところだということは、悠里にも見当がついた。神津の到着を見越して、動員される人数は、時間を追うごとに増えていくに違いない。
「どうするの?」
身支度をしろと、悠里は指示されただけだった。移動の準備なら、とっくに済ませていた。
「正面のゲートを開けろ」
「本気で言ってるの?」
ミョンジンはじろりと横目で悠里を睨みつけた。
「・・・・・今のうち逃げるんじゃなかったか?」
でかいケースのキャスターを出して、ミョンジンは悠里の方に押し出してきた。脱出を引き受ける代わりに、荷物持ちになれと言うことだろうか。持ってみると、それは驚くほど軽かった。
「中にはなにが?」
悠里は思わず聞いた。ミョンジンはぶっきらぼうに答えた。
「中身は外」
指示通り、正面ゲートの電子ロックは解除して全開にしてある。彼女に誘導されて玄関に出て、悠里はミョンジンの正気を疑った。あの黒いセダンが猛烈なスピードで、こっちに突っ込んでくる。
(どうする気?)
彼女は一切、応戦する武器を持っていない。どころか、軽く、車内に合図するように手を上げてみせただけだった。次の異変に悠里が気づいたのは間もなくのことだ。車は急ハンドルを切ると、ちょうど二人の足元あたりに停車した。その運転席にはなぜか、誰も乗っていないのだ。
「・・・・・どういうこと?」
困惑する悠里の前で、横付けした運転席のドアが開いた。
這い出てきた『物体』の異様さに、さすがの悠里も一瞬、継ぐ言葉を失った。
運転席から腹ばいで出てきたのは年端もいかない少年だった。タイ人かヴェトナム人、年齢は十五歳前後に見えた。
悠里が絶句したのは、褐色のしなやかな身体つきをした少年が衣服を身につけていなかったことと、その足が太腿の付け根から切り取られていたことだ。
蛇のように身体をくねらせて、這いよってきた両腕を掴み上げたミョンジンと、少年は抱き合って一言二言、二人にしかわからない言語体系でコミュニケーションをとった。少年の報告をミョンジンは、慈しむように目を細めて何度も肯いて聞き、後部座席のドアを無造作に開けた。そこから、二人のスーツの男の死体が、ぼろりと転がり出てきた。いずれも手際よく、いびつな方向に首を折られて仕留められていた。
足のない少年の背丈は、小柄な悠里の胸辺りまでしかなかった。ミョンジンに抱き上げられたまま、薄く色のない目で、少年は悠里を視認した。豹のような、美しく無駄のない顔立ちをしていた。そこに自分とは違う動物がいると認識するように、悠里を見ていた。
「運転しろ」
遺体を足でのけると、当たり前のようにミョンジンは命令した。少年はするすると開いたスーツケースの中に戻っていく。身体を器用に折り曲げて、蓋を閉め、ミョンジンの指がロックを掛けた。軽々とケースを載せると彼女は後部座席に陣取った。
「この死体をどうする気よ」
悠里は聞いたが、彼女は意に介さない様子で首を振った。
考えている時間はなかった。悠里は苦労して、二人の男の死体をどうにかトランクに載せた。無関係な場所に放置すれば、身元は暴力団のものだけに警察も、なにがしかの筋書きを勝手に考えてはくれるかもしれない。
諦め顔でせめて舌打ちをすると、熟れた手つきで悠里はバックにギアをシフトして、車を急ターンさせた。
「・・・・・逃げられたか」
「今、全力で後を追わせてます」
「その必要はねえよ」
バックシートで石原は、露骨なあくびを漏らした。助手席の板垣に自分の電話を放った。
「こいつは・・・・・・・?」
「見張りの車にカメラがつけてあるんだ。・・・・・・防犯用に自宅につけるものらしいが、この手のもんに詳しいやつがいてな」
リアウインドウから運転席にかけての映像か。そこには、薄暗い車内の映像が映し出されている。
「保険打っとかねえとな。やつら、車奪って逃げたらしい。なかなか、胆の据わった殺し屋が居やがる」
「追いましょう。そこ、どこですか?」
「慌てるんじゃねえよ。・・・・・見ろ、ここには、女しか乗ってねえ。神津とどこかで合流するんだ。それからでも話は遅くない」
もちろん、石原は彼らが、潜伏先を特定させるような初歩的なミスを冒すとまでは、思ったりはしていなかった。だが別に焦ることはない。徐々にでも神津を追い詰めていけば自ずと、・ISMでの情報取得レベルも高まり、結果的に確実にやつに近づくことになるのだ。今はまだ、十分に泳がせることが先決だ。
(お前が創り上げたものの場所までな)
・ISMは恐ろしいシステムだ。使ってみてそれがわかる。それをやつからそっくり奪い取ることが、神津に対しては何よりの復讐になりえる。そして無論、目的はそれだけじゃない。
おれは。そうだ、ここから抜け出さなくてはならないのだ。
それもまだ、若さに抵抗する力のあるうちなるべく、早くにだ。
年齢や体力とともに往年の力が弱れば、やくざものほど惨めな商売はない。天寿をまっとう出来るものなど一握り、ぼけっとしていれば足元をすくわれ、骨も残さず後進に食い荒らされるだけだ。
神津との件に決着をつければ、本家での面目は取り戻せるだろう。しかし、過去の失態は永遠に残るものだ。またいつ、蒸し返されるか分かりはしない。そしてそのときは、自分の命まで奪われて償わされるときに間違いない。これは退職金代わりにどこまでも自分についてくる決して消えない汚点のひとつだ。
たった一度のミスで、一家から過去の業績や存在すらも抹消された先達を、石原は何人も知っている。今さら足を洗いたいとか、過去を帳消しにしたいとは言わない。のしあがるためにそれなりのことはして来たし、悔恨の情に浸りたいとも思わない。ただこの世界に何の証も遺さず、消え去ってしまう自分に耐え切れないだけだ。
この五年間極秘裏に、石原は神津の周辺については調べられることは余さずに調べ上げてきた。
だがそれはある意味ではこの社会におけるけじめをとって、名誉を挽回するためなどではなかった。閉ざされた自分の先行きへの活路を、神津を追うことに見出したからだ。
・ISM、そしてその元になったTLEプログラムに関する情報を集めることに、石原の復讐は、いつしか、摩り替わっていったと言っていい。慣れないインターネットや携帯電話の扱いに、独学で習熟したのもすべてこのためだ。米国で昨年発覚した事件の細部に至るまで、石原はほとんどを把握していた。
インターネットを隠れ蓑にし、あらゆる電子媒体にアクセスしたTLEは、全米各地で密かに選出された【代理人】によって、さまざまな形で悪用されていた。
そのうちもっともケースが多く、悪質であったものは、各機関に登録された個人情報の抹消だった。マフィアの死体処理係から、人身売買組織、カルト教団にテロ組織などによって米国民の個人情報は大混乱を来たし、中には開拓時代から三代に渡る家系史が、抹消されたケースもあったと言う。
問題を収拾する見込みがつかなくなることを恐れてか、現在に至るまで、政府は公に戸籍を含む公的機関の個人情報が、TLEによっていいように改ざん、抹消、または新たに偽造されたと言う事実を認めていない。
事件後結成された調査委員会の報告が出るまでには少なくとも五年近くはかかると言うことだが、一説には全米で数千万件の個人情報が被害に遭い、修復不能になった電子化された金融資産の損失額は、天文学的な金額に上ると言う。例えばまだ記憶に新しい世界的な金融危機ではアメリカの金融機関の財務体質の悪化が問題になっているが、その主要な原因はTLE事件に負うところが大きいとの噂も立ち始めているとか。
石原にとって重要なことは今の・ISMが完全に個人の過去を修正できるかと言うことだ。他人の身柄をこの世から永久に消し去るだけではなく、汚い過去を捨て去り、今からでも、まったく違う別人としての一生を送れる。今の石原にとってこれほど、ありがたいものはない。事例を探せばその手の先例はいくつもあった。
お気に入りは三十年間、東海岸を食い物にし続けたシカゴマフィアの話だ。男は一生かかっても償いきれない前科を持っていた。さらに、それらの大部分を証明することの出来る自分の会計士に裏切られ、その後半生を刑務所で暮らすことがほぼ決定していた。
そのときTLEが男の話を立証する証拠の山を掻き回し、審理の続行を不可能にしたのだ。彼が有罪になることで壊滅的な打撃を受けることを恐れた組織が【代理人】に命じたのだ。
証拠が滅茶苦茶になったことに対して、その管理と信頼性に疑問があると、彼の弁護士はそこで裁判に異議を申し立て、保釈金を払って自由になると、男はマイアミに飛んで、家族ともども整形手術を受けた。その後彼らは堂々と空港のエントランスを通って、メキシコに入国したのだが、当局は彼らをあの有名なシカゴマフィアの一家であると証明することは、ついに出来なかった。
彼らはまったく別の家族として、正式な手段でパスポートを取得していたし、元のデータと照合しようにも、顔写真や指紋、DNAその他の個人情報は、TLEの乱入により、電子の彼方に霧散してしまっていたからだ。男は家族を引き連れ、意気揚々と出国していった。その後、足跡を消し、ブラジルで富豪になったとの噂がある。
このとき、TLEは侵入した形跡すら残さなかった。FBIが昨年、TLEの暗躍を突き止めて事件を解決に導くまで、証拠の紛失は内部の杜撰な管理体制のせいだとされ、多くの職員が処分されていた。そう。今の・ISMでも自由に出来れば、どこにだって金を持って逃げられるのだ。
(そのとき本当のおれを知るのは、娘の美和だけでいい)
それ以外、おれの過去を知る人間はもう必要ない。
「板垣」
合流車線を読んでいる運転席の板垣に、石原は声をかけた。
「すんません。娘さんとの待ち合わせ時間には、間に合わせますんで」
「・・・・・いつも悪いな板垣、おれの都合で使ってよ」
「なに言ってるんすか」
驚いて板垣は石原の顔を見直した。石原は言った。
「さっきのことは忘れろって、下のやつらに言っとけよ。東条組が集めた武器があるんだ。細かいことは気にせず、がんがんやれよ」
「・・・・・石原さん」
感に堪えたような声で、板垣は言った。
「これは戦争だ、好きなだけ暴れさせてやる。おれがすべて責任は取るよ。神津のやつに、思い知らせてやれ」
どんな人間にも秘密がある
「あ・・・・・雨」
言ったのは、真希だった。ガラス窓にうっすらと雨粒が吹きつけ、ノイズのような雨が静かに下りてくる。薫たちは金城と別れ、真田の車に乗って、雨の明治通りを走っている。相変わらず混む。やや手持ち無沙汰になった車の中で真希とマヤは、車の中でしばらく他愛の無い話に興じていた。生まれも育ちも価値観もまったく違う二人の少女の話は、助手席の薫を楽しませていた。
見た目通り、真希は本当に大人しい子のようだった。はじめはマヤが成り代わっていた時期のことを話していたのだが、彼女に質問されてようやく、ぽつりぽつりと、自分のことなどを語り始めた。
「じゃあ、小さい頃は北海道にいたんだ」
助手席から薫が真希に聞いた。
「はい。・・・・・昔、お父さん、画家を目指してたことがあって。わたしが生まれてからしばらくは、北海道の叔父さんの農場に住みこませてもらってたんです」
「あなたも絵を描くの?」
「たまに少しは。・・・・・でも、わたし、あんまり上手くないですよ。マヤちゃんみたいに描けたら、いいんですけど」
「あたしのは、ただの証明写真みたいなものだから」
自分に話題が向くと途端にマヤは口ごもる。
「照れなくてもいいじゃない」
狎れないマヤは少し、真希から目線を反らして真田に言った。
「クワ・ハルの狙いは真希よ。このまま彼女を、ただうちに帰したりはしないでしょう?」
「言われなくても、警備はもう手配してある」
運転席から真田が言った。
「それに君のチームも監視を続けているはずだ。抜かりはないさ。それより間違っているなら言ってくれ。・・・・・大体君はこのこと、元から予想はしていたんじゃないのか?」
「真希に目を留めたのは偶然よ。もともとあたしたちが、探りを入れようと機会を探っていたのは、嶋野美琴だったし」
「まだ、おれたちに隠していることがあるな?」
「少しはね」
微笑を含んでマヤは言った。
「成田空港の職員殺人事件と、彼女が被害に遭い出した時期が符合しているのは、偶然じゃないはずだ。・・・・・泰山会が五億で買ったデータの中身についての情報をうちはまだ、お前らから教えてもらっていない」
「時期が来たら、話はするわ。・・・・・忘れてるみたいだけど、話をしたくてもあたしは、あなたたちとは格段に権利が制限されているの」
「君は日本人だ。例えばそいつをどうにかしたら、話すのか?」
みえみえの駆け引きは聞かないという風にマヤは苦笑した。
「あたしの顔写真がまた、VICAP(FBIのデータベース。凶悪犯逮捕計画)にアップされるのを見たかったら、そうすればいい。でも、そうなったら、あなたと薫の首だけじゃ足らないと思うけど?」
真田もマヤと同じ顔をしたらしい。深いため息をついた。
二人のやりとりの背景は知っている。
実はさっき、薫は真田と二人で話をした。
「君は出来るだけ、フカマチ・マヤから情報を引き出せ」
真田は言っていた。
「向こうの連絡機関は、TLEについての情報をこちらに提供することを極端に制限している。たぶん、彼女のような犯罪者を連絡係にしたのもそれが目的だろう。彼女と話したことで、少しでも引っかかることがあったら、迷わずおれに連絡をくれ」
「待ってください。・・・・・じゃあ、つまり、わたしは」
薫は真田を遮って、聞いた。
「彼女の監視役ってことですか?」
「ああ、そう言うことだ」
今さらなにを言う、と言う風に真田は言った。
「今のところ、君は彼女とは上手くやっているようで安心したよ」
「そんなこと聞いてません」
「それなら、今、言おう。確かに彼女の言う機関とおれたちは協力関係にある。だが、言うまでもなくそれは全面的にじゃない。お互いの領域の利害が一致した部分だけだ。おれたちが知られたくないことがあるように、奴らにもおれらに、知ってほしくない本音がある。仲間じゃないんだ」
「今、彼女は犯罪者ではないはずです。それを・・・・」
「君は彼女を追っていた。確か、野上若菜を死に追いやった人物として、だった。違うか?」
「彼女の疑いは、もう晴れました」
「それならもう一度、疑ってくれ。彼女は情報を、隠してる」
「本音を言ったらどうですか?」
薫は怒りに震えそうになる声をどうにか鎮めてから、言った。
「・・・・・わたしを使ったのは、公安の人間を使わないで、彼女から情報を盗み取るためだったんでしょう?・・・・・外部の、なんの立場もないわたしを使って、彼女を油断させて話をさせる」
「悪く言えばそうだな。でも、公安が責任を負わないようにと言うのは、君の誤解だ。君の身柄も行動に対する責任も、おれがすべて引き受ける条件で、おれは君を借り受けた。おれは、おれの職務の範囲で君を全力で守る」
「・・・・・なりふり構わないやり方は相変わらずですね」
呆れた顔で薫は、吐き捨てた。
「随分引っかかるな。おれが君になにかしたか?」
「言ったはずです。真田さんは忘れても、わたしは忘れていないことはあります」
肩をすくめると、真田は言った。
「おれたちの仕事はこう言うものだ。前にも言わなかったか? 君らは結果を捜査して原因にたどりつくが、おれたちの捜査は原因を積み重ねて、結果を作り出す。・ISMに関わったおれたち全員に、それぞれ違う目的がある。彼女、フカマチ・マヤにしても同じだ。君にも。例外はない。おれたちは家族や仲間じゃない。問題はその中で自分がどうやって結果を出すかだ。過程は問わない」
「ひとつだけ、わたしに聞かせてください。真田さんの目的は一体何なんですか? なにをしようとして今の、この仕事をしているんです?」
「おれの目的は、おれたちの領域を守ることだ。それ以外になにかがあるとは思えないがな」
ため息をつくと、真田は言った。
「君らとそう、大した違いはないんだ。異質なものを排除して、もとの安全な状態に戻す。国同士もそうして、治安を保っている。危険なものは、なるべく取り除いておかないとな」
「彼女のことですか?」
薫は言った。返答次第では、彼女の代わりに怒りたい気分だった。
真田は一笑に付した。刺すような声でゆっくり、答えた。
「おれの基準に触れたもの、すべてだ」
家に帰ると、珍しくマヤは、人目につかない場所で、しばらく電話をすると言って外に出て行った。
通話の内容は外国語で、雨も強くなり始めてきたために、あまりよく、聞きとることは出来なかった。もともと彼女は、囁くように静かに話をする。
薄暗い蛍光灯の下で、途切れ途切れに彼女の声が聞こえてきた。談笑しているようにも思えた。キッチンの窓が少し、開いていることに気づいたのかもしれない。後ろを向くと、マヤの声はよく聞こえなくなった。
「どこに電話をしてたの?」
薫は聞いた。マヤの答えは、なぜか速かった。
「別に、話すようなことじゃないわ」
「あなたのチームに電話を?」
彼女は答えなかった。
「話をしてくれないの?」
「ねえ薫、どんな人の間にも、秘密はあるわ」
ため息をつくと、マヤは口を開いた。
「それがあるから上手くいくこともある。今の場合がそれだと思ったら、二度は聞かないで」
「親しき仲にも礼儀ありね。日本の諺。・・・・・でも、なにか隠し事があるなら、今のうちに話をしてほしいの」
「時期が来たら話すことは話す。真田にも言ったけど、あたしが言えるのはそれだけなの」
「マヤ、覚えてる? あなたは一度、・ISMについて、これは実験だったと言うようなことを話したでしょう?」
「あたしの記憶が確かなら、そうだと思ったのは薫だった。その後、あたしは、こう言ったと思う」
間を置くと、噛んで含めるようにマヤは言った。
「一概には、言えない」
「・・・・・・・・・」
「ねえ」
マヤは薫になにがあったのかを察したのか、静かな声で言った。
「あたしは薫のこと、信頼してるわ。少なくとも、クビにはなってもらいたくないし、あなたを傷つけるようなことはしたくない」
薫は次の言葉を見失った。得体の知れない気分の正体は、自己嫌悪だと気づいた。真田の言うとおりにする気はないのに、彼の言葉に混乱させられて、結果的に薫は彼女を、疑ったのだから。
「分かったわ・・・・・今の話は忘れて」
薫はようやく口を開いた。思えばこの嫌悪感は、クワ・ハルの部屋に繋がっているのかも知れなかった。
「謝る・・・・・・また、あなたを疑ったこと」
「ありがとう。・・・・・・次は気をつけるわ、あたしも。薫の信頼を裏切らないようにする」
淡く微笑すると、マヤは言った。気まぐれの多そうな、猫のような彼女の微笑は、その裏表の有無に関わらず、人の邪推を生むのかもしれなかった。
「また明日、捜査を続けましょ。道のりはまだ、遠いわ」
深い不定形の闇の中に背後から。
ゆっくりと落ちていく夢を、そのあと薫は見た。
もう、悪夢は見ないはずだったのに。最初のイメージはそれだったのかも知れない。現実の世界に持ち込むことの出来ない夢はあるものだが、なにかひどく懐かしい記憶が蘇った気がする。
目を醒ますと、まだ五時にもなっていなかった。
カーテンを閉め切った、リヴィングの薄闇の中にグリーンが点滅している。実家からの留守電のようだった。よほど急な用事だったのか、刑事の仕事柄、どこで鳴るか分からないのでかけないで、と言う約束だったのに、携帯にまで何度も掛けてきている。
兄の晴文がまた、消えたらしい。今度は実家の金を持ち出していった。水越家が江戸時代、徳川御三卿家に仕えていた折に拝領した、家伝の宝刀もなくなっていたと言う。伝来の当主だけが手に出来る、その刀を父は何より大切にしていた。
最初の二件は、母の愚痴だ。最後は泣いていた。残りの三件は、父が怒りを訴えている。
『薫、いい加減に連絡を寄越しなさい。家で犯罪が起きたんだぞ』
まるで電話に出なければ、お前も共犯だ、と言うような口ぶりだった。
『とにかくお前、晴文を連れてすぐに実家に帰って来なさい。これは命令だ。帰ってくれば、窃盗の件は不問にしてやる。戻るなら今のうちだと、お前から晴文にちゃんと伝えるんだ。いいな?』
ブツリ。ツー、ツー。
どうやら薫が応じないことで、混乱した事実認識が彼らの間で、既成事実と化しているようだ。やっぱり兄は、薫のところに来ていると、二人は踏んでいるらしい。いや、違う。薫は思い直した。父は結局のところ晴文と薫を、ひとまとめにして同一視しているに過ぎないのだ。
二人が二人、親の意に沿わない厄介者だから。一人は研究室にも残れない大学院出で三十過ぎたフリーター、もう一人は親の意向を無視して、違う地区で捜査課の刑事を志した、偏屈な娘だ。
産んでもらったことに感謝はしているが、別に生まれてからの人生まで、規格して欲しいとは思わなかった。それだけのことで、不良品扱いされるような謂れは本来、ないはずなのだ。
実を言うと携帯の着信には、ずっと前から気づいていたのだ。だが、薫はやはり、出る気をなくした。先制して父が宣告したように、これは今さら、対等な対話の申し入れなどではないのだから。
留守電を消去しようと操作をしていると、マヤが起きてきた。
「おはよう」
彼女は、眠たそうな声で言った。それがでも、彼女の平常だった。
「ここの電話、一晩中鳴ってたから、悪いと思ったけど操作して音を止めておいたの。中身を聞いたりしてないから安心して」
救われたような気分になって、薫は息をついた。
「家族よ。携帯の方にも一晩中、電話してたみたい」
「話は出来た?」
薫は黙って首を振った。マヤは視線を電話に移した。
「掛け直した方が、いいと思うけど」
薫はまた、首を振った。必要ない、と言う意味で振ったのか、掛け直さなかったことに対して悔やんでいるのか、自分でも判らなかった。
「四つ年上の兄がいるんだけど、親と折り合いが悪くて、実はまた、居なくなっちゃったのよ。ずっと探してくれって、千葉の両親に頼まれていたの」
マヤは黙って、薫に手を差し伸べた。
「写真はある? 手がかりがあれば探すのを手伝うわ」
「いいのよ、別に。気を遣わないで。・・・・・これはわたしたち、家族の問題だから」
「薫、本来あたしには関係ないからこれ以上は聞かないけど」
いつになく真剣に、マヤは言った。
「本当に問題を解決したいと思ってるなら、なるべく急いだ方がいいと思う」
「・・・・・実はね」
自分の中の重たいものを吐き出したい気分になって、薫は言った。
「判らないのよ、自分でも。・・・・・・家族でもここ数年はほとんど、まともに話したこともないし、お互いの思惑を知ろうとすることも、したいとも思わなくなった。例えば誰かの幻想で、わたしたちは家族をしていたんじゃないかって思うくらい、お互いのことを考えるのが物憂いの」
これ以上意見を挟まずマヤは静かに、薫が話すのを聞いてくれた。
「起こして悪かったわ。こんなことも話すつもりじゃなかったのに・・・・・まだ早いから、時間になったら起こしてあげる」
「もう十分寝たから心配ないわ。・・・・・それに薫の家族の話を聞くのも、別に不快じゃないよ。あなたの言う、幻想をあたしは持って育たなかったから、興味深いわ」
「あなたの家族はどんな風だったの?」
「それは今のあたしを見て、想像して」
マヤは微妙な表情を見せて、肩をすくめた。そこにある空しさの意味がなんとなく、薫にも判る種類のものだったような気がした。
「コーヒーが飲みたくなったわ。薫もほしい?」
「お願いしていい? 目が覚めないからすごく熱いのがいい」
OK。唇の動きだけで言うと、マヤはキッチンに歩いていった。
なんで、あんなことを話してしまったのだろう。迷っているなんて。だが今は少し、気が楽だ。不思議だ。一人でいることに、本当はこれだけ疲れていたなんて、気づきもしなかった。家にいる誰かの温かい気配は、実はこれだけありがたく、貴重なのだ。
「コーヒーメーカー、どこかに隠したでしょ、薫」
流し場を探しながら、マヤがぼやいていた。さっきふと出た微笑を呑みこんで、薫は言った。
「戸棚じゃないかな。・・・・・・覚えがないけど、わたし、昨夜片付けたと思うよ」
皆殺しの進路相談
「磯野武徳を緊急逮捕するぞ」
朝方、急に金城から呼び出しがあった。鶴見と磯野のことは、まだ、打開策がない状態のはずだったのに急転があったのだ。この件を覚悟を決めて話を通すのに一晩かかったのか、金城の目はこころなしか赤く潤んで、浅黒い顔もむくんで見えた。
「サイバーパトロールに通報があった中から、うちの職員が徹夜で探したんだ。ネットで磯野のものらしい、犯行予告の書き込みが発見された」
金城はプリントアウトを薫とマヤ、真田に手渡した。
HOLOCOUNSEL 読者の皆さん お待たせしました プロローグ第一章の開幕です (祝)ヒロイン登場
「履歴は昨日の夜になってる」
「冒頭の単語の意味は?」
真田の質問に、マヤが答えた。
「磯野が書いた、ネット小説のタイトルよ。二つの単語を掛け合わせた造語・・・・・holocaust(虐殺)とcounsel(教育相談)」
「皆殺しの進路相談か。新学期を迎えて、みんな、あの世に進路案内するわけだ」
真田の軽口を金城は睨みつけると、
「今日から四月の一日で、新入生を除く全校生徒が一斉に登校を開始する。これからこの小説に登場する磯野が勤めていた学校と、実名の主人公として登場した五人の児童を自宅待機させて警備する予定だ。まもなく、磯野は必ず、彼らを襲うはずだ。機動隊と一緒に八時までにおれも、現場に入る。お前らもそのつもりなら、ぜひ、手伝ってくれ」
返事をせず、なぜかマヤはじっと、磯野の書き込みのプリントを見つめている。口を開いたのは、真田だった。
「手伝ったら、磯野をこっちに渡してもらえるのか?」
「おれらの後でな。やつを捕えれば、残りは三人だ」
「早い者勝ちにしよう」
「捕まえてみろよ。その代わり、うちが捕えたら、今度こそこっちの自由にさせてもらうぞ」
同時に出て行くのかと思ったが、真田はデスクに椅子を引き寄せると、金城が用意した捜査資料に目を通しだした。
「走る気があるのか、それとも欠席か?」
「自宅学習だ。気にせず、走ってくれ」
金城の皮肉に、真田はにこりともせずに言い返した。
「そうかよ」
憤然として、ひとり金城は部屋を出て行った。
「待って」
薫はあわてて、後を追おうとして、マヤに引き止められた。
「マヤ、なにするの?」
「待つのは君だ。君はこっちのメンバーだろう? それを忘れないでほしいな」
足を組みなおして、真田は言った。
「薫、あたしも同じ意見なの。犯行予告に浮き足立たずに、もう一度よく考えたほうがいいと思う」
「何の疑問があるのよ」
簡潔に、マヤは答えた。
「磯野の犯行には、・ISMを使う必然性がない」
「競争は冗談だ、座れよ。よく知っている小学校を襲うんだ。・ISMを使って、わざわざ知りたいことは今さらないはずだろう?」
真田の言いたいことは、薫にも分かった。
「でも・・・・・・」
「・ISMで得た情報と取得ポイントは、常になんらかの行動を伴う目的のために、消費される運命と性格を持っているわ。磯野が美琴の襲撃事件に参加したのは、言うまでもなく、自分の犯行に繋げるため。でもこの犯行に際して、今さら彼が知るべきことはなにもない。なにかがあると考えるのが自然よ」
「あの事件は先月の十日に起きたのよ。半月近く経ってる。もう、そこまでは済んだとは考えられない?」
「書き込みには、【プロローグ 第一章】とある。でも、磯野の小説には、プロローグと題した部分はない。小学校での突然の犯行から、すべてが始まっている」
「【(祝)ヒロイン登場】としているのも、気になるところだ。実名で登場した五人、女子もいるが、男子も混じっているはずだ。それに彼らは全員、殺されるんだろう? ヒロインはどこだ? 彼女を見つけないうちは、物語は始まらない」
そこまで言うと、真田は黙り込み、分厚い資料を通読し始めた。磯野の書いた小説など、全文プリントしたものはかなり長く、ネット掲載物にしては文字も詰まって、なかなかの分量があった。
「君らはもう、こいつは読んだのか?」
「あたしは読んだ。意外と、クリエイティヴな内容だったわ」
「じゃあ君は、筋を薫に説明してくれないか。先に始めてくれれば、後からおれが追いつく」
「じゃあディスカッションしながら、進めていけばいいかな。薫は一応、物語の粗筋は知ってるんでしょ?」
「ネットで出回っている粗筋は読んだわ。確か、いじめで自殺した女の子の恨みを晴らすために、啓示を受けた元・教師の男が、精神病院から抜け出して、学校に立て籠もるのよね?」
「そう。桜が咲く季節、新学年になった五年生のクラス全員が揃う・・・・・でも一人だけ、五年生になれなかった女の子がいる。元・教師は死んだ彼女のメールに導かれて学校に侵入し、子どもを人質にして大人たちを殺害した後、今度は子どもを標的にし始める。学校は男が作ったバリケードで封鎖され、警察も中に入れない。そんな中で各クラスに散り散りになっていた親友の五人の小学生が男を出し抜こうとするんだけど・・・・・・」
五人の小学生は、女の子が三人、後は男の子だ。彼らは脱出を試みるが様々な方法で殺害される。男をメールで導く少女の霊が、常に五人の裏を掻く方法を彼に与え、ときに姿を現しては、罠に追い込んだり、彼らの仲を裂こうと幻惑するのだ。
「恐らくはこの、女の子の霊が、磯野の言うヒロインだと考えていいと思う。名前は、【えな】。作中では、一人称の【僕】にあたる男が【君】や【えなちゃん】と語りかける形で登場する」
マヤは作中の登場人物の名前をすべてピックアップして、メモしたものをすでに作成していた。
「登場する児童は全員、実名を使われているわ。さっき言った五人の他、殺害される十名の子たちのうち、六名は磯野が最後に勤めていた学校の生徒の名前」
「残りは、前に勤めていた生徒の名前ね?」
資料の中には、磯野が担当した二つの学校の生徒の名簿が入っている。
「この中に【えな】と言う名前の子は見当たらない」
「磯野の妄想じゃないの?」
「・・・・その線も強いけど、【えな】には実在のモデルがいる可能性が高いわ。薫は作品を読んでいないから、分からないと思うけど、ところどころの彼女の容姿に関する描写は、かなりリアルよ」
そのとき、実際に小説を読んでいた真田が言った。
「感触や匂い、質感まで、思い入れの強い部分がひと目で分かるほど、入念に書き込まれているな。例の、五人の小学生だが、折りに触れて彼らの容姿や話し方や癖、服装まで細かく描かれている」
「男の子のシャツや、女の子の下着が血や肉で汚れる描写が執拗なのは、フェティッシュな欲望へのより強い執着を感じさせるわ。描き方が具体的な部分は創作と言うよりは、フィクションの物語を現実と結びつける、偏執的な妄想と考えていいと思う」
「【えな】を描写する部分の情報を拾うか」
真田は言った。
「イメージを元に、似顔絵を描いてみるわ」
集められた情報をもとに、マヤは似顔絵を描き始めた。
現れたのは、長い髪を前分けにして背中まで垂らした、あごの小さな細身の女の子だった。視線はやや、斜め下を見る雰囲気、きゅっと結ばれた唇は意志が固そうで、痩せた身体つきからも、ちょっと神経質な印象を与える子だった。眉は太く、彫りの深い、はっきりとした顔立ちをしている。
服装はボーダーの袖のついた、女の子っぽい明るいピンクのシャツにジーンズだ。ラストで蘇り、警察が用意したヘリに乗って逃走した男のピンチを救い、桟橋から船で、【秘密の島】へ導くのだが、そのときは、薄いピンクのリボンのついたツーピースを着ている。
「・・・・・ピンクに執着があるようね」
ピンクは別イメージで何度も出てくることも、マヤは指摘した。
「他に、役に立ちそうな情報は?」
「生前の彼女に、男が手を差し伸べてやれなかったことを何度も後悔するシーンが回想つきで登場する。精神の疾患を理由にされて、彼の主張では【職員室と教室の共同の陰謀】にはまってクビになり、教師として【君】を救うことが出来なかったと、男は許しを請う」
「不当な解雇か・・・・・・その部分、引っかかるな」
確かここに、と真田は言うと、資料の山をひっくり返した。
「なにか見つけたの?」
「不当な解雇と言うのが、気になってね。確か、磯野は最初の学校を退職した後、学校側に対して不可解な抗議をしてきたらしい」
目的のものを見つけたのか、真田はそれを取り出すと、言った。
「嘆願書だ」
「嘆願書?」
「自分の復職を願う、雇用側への抗議を含んだ嘆願書だ。学校長やPTA代表に向けて出されたものだ。内容は、自分の不始末について論議するよりも、主張を正当化する根拠を別の問題に摩り替えて書いているな」
真田は書類に目を通すと、言った。
「これによると学校側は特定の女生徒への長年のいじめを隠蔽していて、それに抵抗した磯野を解雇したことの不当を訴えている」
「女生徒の名前は分かる?」
「春海絵菜」
【えな】だ。薫はマヤと、顔を見合わせた。
「磯野が勤めていた、最初の学校に照会します」
すぐに、薫は電話をかけた。
「・・・・・春海絵菜は確かに、磯野が持つ四年生のクラスにいたわ。隣のクラスの子だった。三年生の末くらいから、不登校を繰り返していて、勉強も遅れ気味だったから、学年の先生たちが交代で面倒を見ていたみたいです」
「今日は学校に出ているのか?」
「それが・・・・・・・・」
薫は首を振って言った。
「二学期に親の都合で転校して、今は横浜にいるそうです」
「すぐに身柄の無事を確認してくれ。おれは人員を手配する」
真田は部屋を飛び出していった。
「薫」
急いで電話を掛けなおそうとした薫を、マヤが呼び止めた。
「知らせなくてもいいの? 金城に」
「知らせるわ。春海絵菜の安全を確認してくれる?」
「電話番号を教えて」
マヤは言った。
ゲームにはゲームで
金城が合流して、周辺で大きな捜索が開始された。
その頃、少女の、ワシントンホテル内の子どもブランドの店での目撃証言が出た。つい、一時間ほど前のちょうど昼前。よく日焼けした、二十歳代の若い男と一緒にいたと言う。その様子は親しげで、少女は男を、お兄ちゃん、と呼ばせていたらしい。
二人は試着を楽しみ、白地にピンクの生地のラメで文字の入ったシャツと黒のスカート、替えの下着などを買った。その後、地下から車に乗って出て行った。車種はグリーンのSKワゴンだった。ナンバーからして、レンタカーらしい。すぐに照会がなされた。
「絵菜の転校先から家庭の状況、携帯電話の番号までよく調べてある。半月も使って、じっくりと彼女を追い詰めたのね」
「それだけじゃないわ。電話回線から盗聴、携帯を通した隠しカメラ、両親の仕事への嫌がらせまで、・ISMで出来るありとあらゆる手段を使って、自宅にいながらにして彼女を軟禁状態に置いて、確実にその抵抗力を奪っている。・・・・・例えば、見て」
マヤが薫に見せたのは、絵菜の日記の三月十五日の昼だ。耐え切れなくなった絵菜は、ついに警察に通報している。しかし、携帯も家の電話も、警察署に繋がることはなかった。
『だめだよ、通報なんかしちゃ』
警察官のふりをして出た高い男の声が、絵菜を脅している。
『助けてって一回言ったら、一回につき、絵菜と仲良しの人を一人、殺しちゃうよお』
「これらは・ISMに習熟した人間ならではのやり口ね。普通のユーザーには出来ない。・・・・・やはり磯野の背後には、製作者、クワ・ハルがいると考えて間違いない」
マヤの絵菜の視点を追って、SSELは二人を出来る限り追いかけたが、追跡は途絶えた。消えたのは高速道路の付近で、彼らが都内に戻った可能性があることも、検討された。だが、料金所のカメラに、それらしい車種を発見することはついに出来なかった。
「もしかしたらまだ市内にいるかも知れない。根気よく探そう。引き続き、薫はマヤをサポートしてくれ」
真田は、言った。やがて春の日が、傾いてきた。午後四時のニュースで、小学生女児連れ去り事件として情報提供を呼びかけることになっている。模倣犯や・ISMユーザーを刺激しないように、・ISMが事件に関係していることや、磯野が美琴の事件で嫌疑を受けていることは、一切伏せられることになっていた。
「なあ、薫、お前はなにか見えないのか? 美琴の時みたいに」
金城は薫とマヤを車に乗せ、あてもなく横浜市内をめぐっていた。なんの収穫もない。噛みつくように言う彼のいらだちが、薫にも痛いほど分かっていた。
「見えたらもう、とっくに話してる」
つい、つっけんどんに、彼女は言い返してしまった。
「ああ・・・・・おいどうする、もう時間が、ないんだぞ」
それも薫のせいだというように、金城は言った。
「ここまで判っていながら、なんてざまだ。これで彼女が死んだら、いったい、誰の責任になるんだ」
「女の子の命より、自分のクビが大事なの? いい加減にしてよ」
「二人とも喧嘩するなら、次の信号で車を停めて外に出てやってくれる?・・・・・時間がないのは確かだけど、まだ希望はあるわ。絵菜が決定的に自分に逆らわない限り、磯野は彼女を殺したりしない。・・・・・二人で、【秘密の島】に行くのが彼の目的だから」
「どこなんだよ、【秘密の島】って」
「今言えるのは、これが実際の島ではなくて、なにかの比ゆである可能性が高いってことだけ。・・・・・あのお店での振る舞いといい、磯野と一緒にいる女の子は結構賢い子よ。磯野の機嫌を上手くとって、琴線を刺激しないように時間稼ぎをしているのかも知れない。彼女がまだ冷静で、磯野の自尊心を満足させていれば、絵菜は生きて、しかもそう遠くにいない可能性が高い。諦めないで探すの。磯野は絵菜を支配しようとし、彼女もそれをちゃんと理解している・・・・・でも加害者と被害者、どちらかの忍耐が切れれば・・・・・・いぜん、時間はないけど、迷ってる暇はない」
「だからってでも、これ以上どうすりゃいいんだよ?」
「手がかりが必要ね。もう少し最新の。・・・・・彼女の姿を発見できれば、そこから視線を追える。絵菜の携帯が・ISMにジャックされていて電波もたどれない今、唯一の方法はこれしかないわ」
「車を停めて」
日の出町の大きな交差点の信号を通り過ぎたとき、突然、薫は言った。繁華街の界隈は夜の賑わいを見せ始めている。
「そこの端に車を停めて、お願い」
薫の様子に驚いて、金城は言った。
「仲直りしたはずだぞ、喧嘩はごめんだ」
「そうじゃないの・・・・・ずっと、考えていたことがあって。マヤ、・ISMはネットを通せば、誰にでも平等に使えるシステムなんでしょう? もしあなたがそれを使えば、今逃げている磯野の手がかりを探すことは可能なの?」
「出来なくはないわ。あたしの能力を併せて使えば、短時間で二人の現在位置を探し出すことも不可能じゃないと思う。でも」
「取得ポイントの不足は、わたしが補うわ。例えば、警官だから、利用できないってことはないんでしょう?」
「確かに、そうだけど、今からどうやって・・・・・」
薫の指定した場所に、金城は車を停めた。ソープランドの建物がある通りの角の裏路地、酒のつまみを卸している問屋のビルの裏に、小さな公園が見えた。
「あそこなら人通りも少ないし、邪魔もないと思う。マヤ、一緒に来て。金城はここで、待っててくれないかな」
「おい、なにをする気なんだ?」
ドアを開けて外に出かけた薫に、金城は聞いた。薫は微笑すると首を軽く振り、なにも応えなかった。マヤが先に外に出たのを見計らい、ハンドルを握る手を、静かに握り締めた。頬に軽く、キスをしてもよかったが、とっさにそこまでの決心はつかなかった。
「待ってて」
「お、おい・・・・・なんだよ、どう言うことだ?」
困惑する金城の声をあとに、マヤは先に公園の中にいて、薫を待っていた。
「薫がやろうとしていることは、想像がつくわ。でも」
「時間がないんでしょ?」
遮るように、薫はかぶせた。
「今、・ISMは使えるのよね?」
「ええ、それは構わないけど」
真田からもらった二十二口径は、ハンドバッグに入れていた。リボルバーの弾倉を取り出し、一発だけ実弾を込める。
「何回、引き金を引けばいい?」
「証明するには、ムービーを送らなきゃならない。さっき、弾丸に込めるところからもう一度やって、約百八十秒で撮れるから」
「三回引いて生き残れば確実ね」
「ねえ」
マヤは薫に手を差し伸べた。
「危険すぎるわ。失敗しても生き残れる方法を考えたとしても、今度はあなたが美琴のように、無数の誰かに狙われる羽目になるのよ。どうしてもやるって言うなら、あたしがやる」
「心配しないで」
薫は言った。自分でも上手く微笑できているかどうか、考えたのがなんとなく不思議だった。
「それならせめて、あたしに弾を込めさせて。公平を期したほうがポイントは高い。そこからムービーに撮るから」
薫の様子に不審を抱いて、金城が飛び出してきていた。マヤの手にある拳銃を見てすべてを察したらしく、急いで止めに入る。
「薫、なにやってんだ! 馬鹿な真似はやめろっ!」
「とめないで、金城。決意がぶれるわ」
もはや何者も、自分を止める術はないと言う風に、気持ちを持っていく。
「なあ、ぼけっと見てないで、とめろよ、お前もっ」
「やめて、もう遅いの。今止めたら、ただの失敗になる。結局わたしの命で、失敗を清算するだけのことになるわ」
はったりだった。しかし、金城の制止はとめることが出来たようだ。片手に銃を持ったまま、反対の手で、携帯電話を使っていたマヤが言った。
「薫・・・・・ゲームが承認されたわ。もう、後戻りできない」
「弾丸を込めて銃を渡して」
薫は言った。マヤはムービーを起動すると、空の弾倉に一発、実弾を込めて撮影し、手の甲で弾倉を回転させると、そのまま装填した。トリガーを引き起こして、薫は銃口を自分のこめかみにあてる。ぴたりとあてられた金属の質感はやはり冷たく、生ある薫の肉体に接触することをどうしても拒んでいるように感じた。
「なあ、やめろ・・・・分かった、おれがやる・・・・・おれがやるから銃をこっちに渡せ」
マヤが、薫を撮影している。
がちん、と、薫は一気に引き金を絞った。うわ言のようにつぶやく金城に注意を引いていたせいで、意外と引き金は軽かった。胸に息が詰まって、たまらなく苦しい。落ち着こうと、薫は息を吐いた。
「OK・・・・・二発目からは、ポイントが倍になる」
マヤは言った。時間がない。すぐに二発目を引くしかなかった。金城は自分に銃を突きつけられたように、身じろぎもせずに、浅い呼吸を繰り返している。こめかみに、汗の玉が滲んで光った。
二発目の引き金を握り締めた。空砲を撃った瞬間、筋肉が反射的な防御反応をみせて硬直し、銃口がこめかみを打った。暴発の恐怖に鳥肌が立つ。ニッケル金属で出来た銃身は硬く、そこにある確かな死の存在を再認識させるに十分だった。
あの世からの死者は戸板一枚のところで、出番を待っているのだ。
「時間が無いわ、あと一発」
出口が見えている。光が射している。同時に、死への暗い陥穽が、あと一歩の希望を餌にして、口を開けている不吉な予感が奔った。二回助かっても、一発は一発。命は、わたしの意志や記憶は、今の一瞬、ただのひとつしかない。
二十二口径の弾丸は微力だが、頭蓋骨を割って侵入し、出口を失ってピンボールのように駆け巡って脳細胞を滅茶苦茶に破壊する。貫通力はない分、念入りに人を殺すのに向いているのだ。アメリカでは、マフィアが処刑用に使用する。
「最後ね」
薫は言った。その最後が、どの最後を指しているのかは、あえて考えなかった。
そこから、あと一歩、次の河岸まで踏み出す気力が欲しかった。たどり着いた地平が、生に立つか死に立つか、今の苦痛に比べれば、もうどうでもいい気がした。
がちん、と聞きなれた音が、薫の記憶を繋いだ。生きている。次の呼吸をした途端、膝から力が崩れ、その場にへたりこんでしまった。はっ、と自分でもびっくりするくらい別人の声が、吐息とともに出た。死体のように自重を支える力を失った薫を、寸でのところで、金城は抱きとめる。
「大丈夫か」
がっちりとした安定感と生あるものの質感。オーデコロンの匂い。その中で、薫は無言で肯いていた。再び自分に繋がった、すべてが急にいとおしく感じられ、涙がにじんだ目を思わず隠した。
「ばっ・・・・・お前なんで、こんなやばいこと考えたんだ」
「思い出したの・・・・交番で拳銃自殺した警官。たぶん、・ISMを使ったんだと思って・・・・・」
「木津橋は死んだんだぞ、馬鹿野郎・・・・・もうやめろよ、絶対。こんなこと二度と考えるな」
「・・・・・言われなくても、もう絶対しないって」
あごの筋肉まで強張っていて話しにくい。薫は再度深呼吸した。
「尊敬するわ、薫、びっくりした。・・・・・でもまさか、本当にやるとは思わなかった」
「自分で自分が理解できないところよ。さっきの・・・・・実は撮ってないとか、言わないでしょうね?」
「残念ながら、その通りよ。・・・・・・安心して。薫のポイントで国家機密からスパイ衛星の情報まで、今から自由に取れるわ」
軽くウインクをすると、マヤは微笑んだ。気がつかなかったが、指がこわばって拳銃が外れなかった。仕方なく手の甲で、薫はマヤと拳を合わせた。
「行こう。絶対にもう一人も救わないと」
金城に手伝ってもらって、薫の手からどうにか銃が外れた。銃を空に向けて撃鉄を持ち上げながら、金城はマヤに聞いた。
「なあ、さっき本当にやるとは思ってなかったって言ってたけど、本当は実弾なんか入れてないんだろ?」
マヤは曖昧な笑みを浮かべて、肩をすくめるだけだった。
金城はそのまま引き金を引いた。すると乾いた音を立てて二十二口径の弾丸が、夕暮れの空に向かって飛び出していった。
未知からの侵略
一瞬目を覆いたくなるほどの。
紅い夕陽が、街を覆っている。子供のとき、こんな夕方は、帰りたくなくなったものだ。このあと夜までの、退屈な習い事のスケジュールをサボるために、なにか口実はないかと必死で考えた。時間を過ぎると、それ以上、誰も遊んではくれなかったのにだ。
三ヶ月契約、ワンルームのアパート。磯野が戻ると、クローゼットの扉が開き、中のものが目茶目茶に荒らされていた。テレビが大音量にセットされて、ドアは開けっ放しだ。血のついた、女の子の上下の下着がくしゃくしゃにされたまま、フローリングの敷布団の上に放置されていた。下着姿なら逃げないからと、拘束を緩めてやったのがまずかった。思った通り、なかなか、頭のいい子だ。
四時のニュースを、もっと早く観ておくべきだった。夕方、この時間帯、ニュースをやらないチャンネルは少ない。半日の行方不明で、一気にこれほどまでに、連れ去り事件として大規模な報道になるとは考えられない。絵菜の親からの通報じゃなくて、・ISMを追ってきた警察が本格的に動いたのだ。鶴見の観測も、存外、あてにならない。時間までに絵菜を連れて、逃げられるといいが。
秘密の島へ、彼女を連れて行きたい。彼女は馬鹿じゃない。彼女は、特別だ。僕の見込んだ通りだった。君の学校で教師をしていたときからあれほど、僕は言っていたのに。えな、君は弱いから、群れからはぐれたんじゃない。僕と同じで、特別だから、嫉妬されたのだ。だから、
「・・・・・僕らは」
そう。
「結ばれなくちゃならない」
祝福されるべき、存在なのだ。選ばれた二つの遺伝子。切ないほど甘美で儚げな、僕の、秘密の半身。
磯野はケースから狩猟用のライフル銃を取り出した。それは父が唯一、大学生だった磯野に買ってくれたものだった。出来ればこいつを使いたくはない。彼女を傷つけずに、救いたいものだ。大丈夫だ、話せばきっと、分かってくれる。
磯野は期待を胸に、銃を持って外に出た。
遠くで銃声を聞いたような錯覚をした。磯野は実家から、ライフル銃と実包十五発を持ち出している。情報を公開したことで、逆に磯野に最終手段をとらせる結果になってしまったのではないか、と言う危惧が、車内の薫たちの脳裏を掠めた。
閑静、と言うよりは死んだように静かな、郊外の住宅地だ。海際の山林で家と家の間が大きく、日暮れ前のこの時間帯だと言うのに、まだ、明かりもついていない人家が多い。離れた場所に車を停めて、薫たちは真田からの連絡を待っていた。
「もう出ましょう」
耐え兼ねたように、マヤが言った。
「近くにいるわ。今なら、助けられる」
「・・・・・行くしかねえか」
金城もさすがに、我慢の限界のようだった。
「応援待ちたいところだが、あの映像見せられちゃ、じっとしちゃいられないな」
どうやら絵菜は、磯野からの脱出に成功したようなのだ。マヤが取得した空撮画像は、ちょうど五分前に絵菜が、近くの二階建てアパートから出て行く姿を捉えている。磯野のものらしきカーキ色の男物コートを、彼女は羽織っていた。
「薫、悪いがお前はここで待機していてくれ。本部から連絡があったら、状況を伝えるんだ」
「でも・・・・・・」
「おれにも少しは、見せ場作ってくれよ」
冗談めかしたが本気で、金城は言った。
「お前だって命張ったんだ」
「薫は休んでて。一日に、二回も命張ることないよ」
「分かったわ。ここで待機する。くれぐれも無茶はしないで」
「お前に言われてもな」
苦笑すると、金城は出て行った。
「マヤ、念のためにわたしの拳銃を持っていって」
「必要ないわ。銃の相手はあなたより慣れてる。それに、あたし、射撃は苦手なの」
言うと、マヤは後ろから薫の拳銃を取り出した。いつのまに、薫の胸から掏り取ったのだ。弾丸を確認して安全装置をかけると、マヤは指先で素早く銃口を数回転させて、ぴたりとグリップ側を薫に差し出した。
「こう言うのは、得意なの?」
銃を受け取ると、薫は聞いた。マヤは答えた。
「銃に対処する方法は、色々仕込まれてるってこと」
「無理はしないでよ」
軽く肯くと、マヤは消えた。直後、真田が近くに来たと入電してきた。現在の状況を詳しく伝え、真田にも絵菜の保護を最優先に進言する。おれもすぐ出ると言い残して、真田は無線を切った。あと数分が明暗を分けるかもしれないのに、ここでじりじりとしている自分が今さら歯がゆくなってきた。
ふと、後部座席に目がいった。マヤのスケッチブックがシートから落ちかけている。何気なく手にとって、開いてみた。絵菜の似顔絵がそこにある。まだ、言葉も交わしたことのない少女の危機が、薫にはひどく痛ましく感じた。
夕暮れ、未知の大人からの暴力。抵抗不能の幼い意志。小さな胸から突き上げてくるような、緊張と恐怖感。幼かった薫もどこかで体験している。どこでだろう。
次のページを、薫はめくった。そこには絵ではなく、走り書きのような文字の乱脈が錯綜していた。見たことはないが、マヤの筆跡。もちろんすべて英語。形はラフだが、繊細な線の筆記体。大きく書かれた文字が目に留まった。
Secret island(秘密の島)。そう言えばそれはどこにあるという金城の質問に、マヤは何かの比ゆだとはほのめかしただけで、すぐに別の話題に移してしまった。急いでいたので気づかなかったが、あれは彼女の作為だったのだろうか。なにか話したくない内容が?
秘密の島は矢印でコネクトされて、連想のように別の言葉に続いていた。マヤは車のいる間中、後部座席でこれを書いていたと思われた。薫は字面を追う。
Plans for the perfect(完璧な計画)、Liberty land’s survives(自由の島の生き残りたち)、Strictly Selected behaviors(厳しく選択された行動)・・・・・最後に示された言葉に薫は釘付けになった。そうだ。マヤは秘密の島の名前を知っているのだ。もしかしたら、それがどこにあるのかも。そこには、大きくこう書かれていた。
All for my revelation, all for my Turtle Land’s Escape
すべては、自分の解放のために。
すべては、亀島の逃避のために。
亀の島とはどこのことだ? 薫の脳裏に蘇る。真田が言った言葉。彼女はなにかを隠している。目を離すな。油断するな。そう、フカマチ・マヤは、生まれつきの犯罪者なのだ。やはり彼女は、すべてを知っている。もしかしたら、囚われの身の自分のため、この亀の島への逃避のために。
湧き上がる疑念を、薫は必死に振り払った。信頼していると、彼女は言った。嘘だとは思えなかった。嘘ではない、客観的な保障はなかった。今はもう、なにも考えたくなかった。緊張が解けたばかりで、張り詰めた神経にはひどく堪えた。薫は大きく息をつくと、ダッシュボードに突っ伏した。思えば、それが命の明暗を分けた。
轟音とともに、フロントガラスが砕け散った。熱い破片と粉を、薫はとっさに伏せた髪と首筋に浴びた。射手が判らない。
「ばるげるばるだっ」
病気の犬が鳴くような、意味不明の絶叫が遠くでこだました。再び銃声がすると、ドアミラーが消し飛んだ。別の方向から、別の男と思われる声が、さっきの火星言語に応えている。
「びぼるぼ、ぶるべるぼっ」
「どほっ、どほっ」
「バ☆る×●び※@ぱっ」
(誰?・・・・・いったい、なにが起きたの?)
瞬間、未知の恐怖が、薫を捉えた。反撃する気力も湧かなかった。這うように運転席に移ると、イグニッションキーを回して、アクセルをべた踏みした。後ろのガラスが弾丸ではじけ、バンパー下のフレームにも被弾した。自分の尻を撃たれたような恐怖感に駆られ、薫は悲鳴を上げた。
襲撃者を認識できないまま、車は急発進した。ハンドルに臥せったまま、薫は動きがとれない。胸が詰まるような、火薬と硝煙の匂いが呼吸器の活動を妨げた。車はスピードを上げる。アクセルから、足が離れなくなった。ブレーキを踏む、その思考すら凍りついていた。薫の車はカーヴを曲がりきれず、ブロック塀に衝突した。
背骨がたわむような衝撃とともに薫はハンドルで胸を強く打ち、そこにしがみついたまま、激痛に意識が遠のくのを感じた。クラクションの音が静寂をつんざいて、薫の感覚を塗りつぶす。
歪んだ運転席のドアが開き、血だらけの自分の身体が引きずり出されるのを薫は認識した。まるで狩猟の収穫のように、乱暴に薫はアスファルトに横たえられた。
「やったな」
誰かが言った。ちゃんとした発音の、日本語だった。
「妹ゲット」
別の声が言った。問い返す余力は、彼女にはもうなかった。薫はその声の主に後ろ手に縛られ、土の匂いがする、なにかの袋の中に入れられた。そのとき息苦しくなってそこで、意識が途絶えた。
路地でマヤに出くわした磯野に、ライフルを使う暇もなかった。素早く踏み込むと、喉を狙う要領でマヤの指拳が磯野の両眼を捉えた。磯野は視界を潰されたが、眼球をえぐられたわけではなかった。しかし彼女にとって数秒、磯野の注意がそこに向けば、ライフルを使うしか能のない男を制圧するにはそれで十分だった。
怪我をした少女を先に保護したせいか、彼女は攻撃に容赦をくわえなかった。目打ちで足が浮くと、反対の軸足の腿に抱きつき、片足タックルで磯野を押し倒した。後頭部を強打し、磯野はうめき声を上げる。舗装された道路に倒れこんで倒れ際、今度は右手で睾丸を握りつぶした。うめき声は絶叫に変わり、銃を握る手が緩んだ。その右手に両足をかけ、マヤは肩関節を一気に外す。それで、すべてが終わりだった。その両足に銃身を挟むと、念のためマヤはそれを遠くに放り投げた。
あまりの痛みに磯野は気絶し、目が醒めるとへし折られた腕を押さえて道路にうずくまったまま、子どものように泣き喚いていた。
その声を頼りに、別方角から来た金城が、駆けつけてきたのだ。
「・・・・・どうしよう」
どう見ても未成年のマヤは、警察関係者であることを絵菜に理解してもらうのにむしろ苦労していて、恐怖から解放されて火がついたように泣き出した絵菜に胸に顔を埋められて抱きしめたまま、ほっとした顔で金城を迎えた。
「おい、遣り過ぎじゃないか」
「こっちは素手だし、銃を持ってたし」
そのために銃を持っていかなかったのかと、金城は訝った。話に聞く、薫の苦労もなんとなく判る気がした。だが彼女の行動で、ひとりの被害者の命を救うことは出来た。
痛みに歯を喰いしばっている磯野に、金城は声をかけた。
「磯野武徳、未成年者略取の現行犯、及び、嶋野美琴殺害の共同謀議の容疑で緊急逮捕だ。病院で治療は受けさせてやるが、すぐに警察に来てもらうぞ」
聞き分けない風情で首を振ったまま、磯野は応えなかった。腕を強引に後ろに回し、金城は手錠をかけた。身体に力はなく、抵抗はなかった。返事をする気力も、尽き果てているようだ。
「真田に連絡してくれ。おれは、薫に車を回してもらう」
「分かったわ」
マヤは言った。傍らの絵菜に声をかける。
「今、車が来るわ。うちに連れて行ってあげる・・・・・今日までのこと、あとで警察に行ったらちゃんと話せるかな?」
赤く泣き腫らした目をこすりながら、絵菜はこくりと肯いた。絵菜は震える声で、こうつぶやいた。
「・・・・・かめのいる島なんか、いきたくないよ・・・・」
「お姉ちゃんがすぐうちに帰してあげるから、泣かないで」
マヤは言った。また泣き出した絵菜の前に顔を近づけると、
「でも刑事さんに聞かれても、亀の島の話はしちゃだめって、約束できる? その話をするのはとても、危ないことなの」
危ないことだと聞いて、絵菜の表情が強張った。涙目を赤く潤ませたまま、絵菜は上目遣いに自分を助けてくれた年上のお姉さんを見た。不安そうにしながら、絵菜は尋ねた。
「話さなかったら、もうそこに連れていかれたりしない?」
「今のことをちゃんと約束できれば、大丈夫。それに、秘密にするって約束するならまた、あなたを守ってあげる」
「話さないって約束する・・・・・」
言うと、絵菜は右手の小指をマヤに差し出した。
「約束よ」
その小指に、マヤは自分の人差し指を重ねて引き寄せた。小さな少女のてのひらはマヤの、細長くしなやかな指先の中にすべて隠れた。絵菜はきょとんとして、包んだマヤの手を眺めていた。
「おい」
マヤが絵菜の手を離した直後、金城があわてて、こちらにやってきた。
「来てくれ。・・・・大変なことになった」
「まだ、真田に連絡してないけど」
「それどころじゃない。その真田から、連絡をもらったんだ」
金城の目は、飛び出しそうに見開かれていた。
「薫の身柄が、持ってかれた」
絵菜を連れて二人が行くと、ブロック塀に突っ込んだ車をなんとか押し出そうとしているところだった。正面衝突の衝撃で、フレームが歪み、エアーバッグも飛び出しかけていたが、フロントガラスの大幅な破損の具合は、それによるものとは思えなかった。
赤黒くよどんだ日暮れが辺りに垂れこぼれている。薄闇の中、割れたガラスが地面に飛散し、ところどころ、血痕も見られた。
「くそっ、今度はなんだってんだっ!」
金城は壁を蹴った。
真田は車内を調べ、傷跡から弾丸を回収させていた。
「マヤ、なにか見えたか」
「車を撃たれたけど、薫は死んではいないと思う」
マヤは言った。
「襲ったのは鶴見よ。他に未知の三人・・・・・一人は散弾銃を持っている。鶴見が車を回してきて、薫を襲撃した二人を拾った。薫はトランクに入れられ、前の角を左に、猛スピードで去った」
「タイヤ痕を探せ、車種が特定できるかもしれない」
真田は証拠を回収にきた鑑識班に手早く、命じた。
「未知の三人のうち、一人がクワ・ハルか」
「そうね。たぶん、どこかに犯行の証明を遺しているはず」
真田は黙って、運転席のドアを開けた。そこに、赤く描かれた十個の円が、正三角形の形に塗りつけられていた。
「こいつはペンキだ。どうやら、計画的な犯行らしいな」
「あたしたちが別々になるチャンスをずっとうかがっていた」
「薫が車に残ったのは、ただの偶然だ」
金城が言った。
「なるべく個々を分断できれば、方法はなんでもいいのよ。来る途中、絵菜に聞いたわ。彼女は自力で逃げたわけじゃなくて、誰かに逃がしてもらって磯野の手を逃れたそうよ」
「だが薫が、どうして必要だ?」
今度は真田が聞いていた。マヤは首を振って、曖昧な答えをした。
「分からないわ。その三人を捕まえて聞くしかない」
「でもなんとなくは、分かってるって口ぶりじゃないか?」
「・・・・・・・」
真田とマヤは、しばらく視線を交し合った。先に外したのは、彼女だった。マヤは後部座席から、自分のスケッチブックを取り出して、静かに言った。
「絵菜が見た男たちの風貌は、スケッチしてあとであなたに渡す。でもそれを夜の臨時ニュースで公開するかどうかは、検討した方がいいと思う」
本当のお父さんは
「女子高生の次は小学生ときて、今度は女刑事かい」
五時のニュースを観ながら、神津は言った。
「クワ・ハルのやつ、どんな目覚め方や。あいつの考えとること、おれにもよう分からん」
「わたしたちはこれからどうするの?」
悠里の質問に、神津はお手上げだというように首を振った。
「クワの持っていった損失を確認せんことには、こちらも動きは取れん。方々でおれの仕事が焦げつくように、やつは時間差でセッティングしていて、とりあえず今のおれは火消しに奔走中や。悠里、お前があいつの手がかりを、【揺り籠】で見つけてたら、これからのめどが立つねんけどな」
【揺り籠】とは、神津がクワ・ハルを監禁していたあの場所を指し示す符牒だった。悠里は首を振った。
「あの場所に入ろうにも、わたし一人じゃ、地下室のロックを解除することなんか出来はしないこと知ってるくせに。逃げ回ってるだけじゃ、ジリ貧よ。なにか手がかりを考えなくちゃ」
「だから、お前の力が要るんや」
「潜伏場所を用意するだけじゃ足りないの?」
悠里はいらだったように鼻を鳴らすと、肩をすくめてみせた。もちろん、すべては演技だった。無能で我がままなだけの小娘を演じるつぼは、心得ている。
「香港の問題が解決しない。その件は一時間ほど、置いた後でじっくり話をしようやないか」
「期待しないで名案を待ってる」
神津がいなくなったのに見計らうと、悠里は自分の携帯電話を確認した。三十分前から、三回、指定どおりの着信がある。電話をしている神津と、もうひとりの様子をうかがう。ミョンジンはトランクとともに、寝室にこもるともう二時間も音沙汰がなかった。
「・・・・・夕食でも食べに出てくる」
通話を邪魔しないように言うと、こっそり悠里はマンションを出た。街は仕事帰りのビジネスマンで溢れている。
途中、駅のトイレで少し派手めなOL風に悠里は服装を変えた。短くした髪をブリーチし、厚めの化粧をすると、それなりには大人っぽく見えるのだ。
ウィッグを被ったり、身体に詰め物をすることもある。それはお洒落と言うよりは、変装だと思うと、悠里は自分で自分が可笑しくなることがある。普通の女性と違って、悠里は誰の気も惹かないように、変装するのだから。
特に今日は、視線を隠すためにマジックミラー張りのグラスをどうしてもかけたかった。
ネットカフェの止まり木に、ビジネスマンに混じって、くたびれたスーツを着た眼鏡の中年男が、こちらに向かって手を振っている。四十を過ぎたばかりだと思うが、細かい白髪が浮き出した髪は、梳かした跡も見られない。身につけているのはなにもかも一張羅で着たきりのもの、母親や社員に、よくからかわれていたはずだ。
入店した悠里にまったく気づかなかったようだが、彼女が腹立たしげに手を振ると、ひっくり返りそうな姿で応答した。
「なんだ・・・・・わかんなかったよ、悠里」
クラブサンドとコーヒーをトレイに載せると、悠里は黙って、男の隣に座った。
「元気にしてるのか? ママも、お前を心配してたぞ」
「心配しないで、へまはしてないから。今のところはね」
相手はなにか言い返しかけたが、その物言いに言葉が萎えた。
「それより例のもの、ちゃんと解析してくれた?」
「あ、ああ・・・・・一応はやったが、あれは一体・・・・・」
彼が出したメモリを、悠里はひったくった。
「あんたにはなんの関係も無いわ。わたしたち家族全員が、みんなそうだったように」
「なあ・・・・・・お前を神津さんに任せっきりにしたことは、パパも後悔しているんだ。でも、だから」
「それ以上は言葉に気をつけた方がいいよ、元・お父さん。去年、神津は養子縁組して、完全にわたしを自分のものにした。法的にはあなたの所有権は失効しているんだから、口を出す権利は今のあなたにないの」
それ以上、彼は何も言い返せなくなって、沈黙した。目線を隠してきて本当によかったと、悠里は思った。
「わたしをいくらで売って、そのおかげで今はどんな生活をしているのかは、せめて聞かないであげる。あんたの会社にある設備がなければわたしも、打つ手はなかったから」
「悠里」
「その名前で呼ばれることも、今になくなるかもしれない。二人も早く、どこかへ逃げた方がいいよ。無駄かもしれないけど。神津は日本中のやくざに、目をつけられているんだから」
マンションに戻ってまず、様子をうかがうことにした。意外にも、外出していて神津はいなかった。ミョンジンも消えていた。なにか、トラブルがあったのかも知れない。
そう言えば神津を庇護する大物の華僑が、都内に来ているとも聞いていた。泰山会の暴動を抑えるのにまず、そちらに泣きを入れにいったのかも知れない。自分で火をつけておいて、意外と情けないことだ。だがこれだけ執拗に、やくざに追われてはこちらも身動きが出来ない。
自分のパソコンを立ち上げ、悠里は解析されたメモリを挿入した。このデータは、クワ・ハルの過去の記録から特殊なソフトを使って、再生したものだ。
過去ログを調べると、クワ・ハルは外部に理想を同じくしたネットワークをひそかに立ち上げており、掲示板やチャットに暗号や比ゆを使って連絡を取り合っていた。【揺り籠】からの脱出は、そこのメンバーの援けによって実現したのだ。
彼らはアメリカのTLE事件についても豊富なデータをクワ・ハルに提供していて、TLEから・ISMが創られた本来の目的をすべて理解した上で、クワ・ハルとの行動をともにしていると見ていい。彼らの組織のシンボルは、赤色で示された十個の円で構成された、正三角形の形をしている。
恐らくそれは、・ISMの製作意図と、なにか関係があることなのだ。悠里はかなり前からその動きをいぶかしんでいた。
神津がクワ・ハルの不審な動きに気づいた一月の末、彼らは成田空港の検査職員を殺し、香港から流出したある特殊なデータを手に入れた。それは本国TLE事件で、エラ・リンプルウッド博士が、かれの協力者で、天才的なSE、ザヘル・ジョッシュに託したものだった。国防総省の保管庫からCIA、そして香港の裏社会に落ちたそのデータが、公式にはほとんど公表されていないTLE事件の中核をなしたものであることは、余人の想像を待たない。
クワ・ハルはそれに、なんらかのインスピレーションを得たのだ。確かに彼は天才だ。本来、脳科学者であるエラは製作にあたって、その大部分をザヘルに頼らなければならなかったが、・ISMは、クワ・ハルというアジア人の少年の一人の直感で造られた。
北浦真希に、彼が目をつけだしたのもその頃だ。悠里を通じて、なんらかの関連があったとは言え、一見無作為の、特定の同年代の女の子に、彼は執着を示しだした。
悠里が美琴と若菜に、真希に生け贄になってもらおうと提案したのは、半分はそのためだ。クワ・ハルの生まれて初めてかもしれない、人間的な感情を、出来れば無残に、ぶち壊してやりたかった。
「これ・・・・・・」
データを確認した悠里は歓喜の声をあげた。そこには、クワ・ハルが自分の構想を綿密に書き綴った、膨大な分量の資料が収められていたからだ。すべてがある。ここに。三角形の意味から、五人の選出された同志の資格、彼らが目指すもの、真希のこと。なにもかもが、解かりそうだ。TLE、そして亀の島への道・・・・・
「亀の・・・・・・島?」
悠里はそれに関する無数の関連事項に目を通しだした。珍しく夢中になっていたことに、気づくべきだった。
南洋の野性的な香水の香り、しゅるりと巻きついた、しなやかな腕が悠里の小さなあごを完全にロックした。首がとれそうな激痛に、悠里はうめき声をあげた。
「水臭いなあ、悠里ちゃんは」
神津が戻ってきている。いつの間に? 疑問は氷解した。すぐ隣の部屋に、彼は潜んでいた。手に入れたものを確認することにあまりに注意を向けすぎて、気づかなかったが、ここは元々、自分の部屋なんかではなかったのだ。
「すみませんな、お隣さん。部屋貸してもろうて」
神津の指にキーが絡んでいる。まったく、いくら使って彼はこの部屋を買収したのだろう。下らない。痛みと苦しさに耐えながら、悠里は戸口の神津を睨みつけた。
「黙秘は無駄やぞ。会話の内容は全部盗聴してある。さあ、戻ろう、悠里ちゃん。協定内のことや。なにも、悪いことはせんて」
「分かったわ。わたしが悪かった。協力関係は維持しましょう」
言うと、悠里は身体の力を抜いた。ヘッドロックが外れた。今しかなかった。悠里は、モバイルを持ち上げるとそれを思いっきり、背後に向かって叩きつけた。コードが抜け、火花が散った。後ろも振り返らなかった。悠里は灰皿を取り上げると、戸口の神津に投げつけ、ひるんだ隙に外に出た。その瞬間だ。
戸口に立っていたミョンジンの前蹴りで悠里の身体は、背後に二メートルも吹き飛ばされた。蹴りは左の二の腕に当たったが、その瞬間、全身がばらばらになったような気がした。自分の身になにが起こったのか一瞬、悠里は理解できなかった。茫然と倒れていた。
彼女にこれ以上やられていたら、悠里は死んでいただろう。制止した神津が、投げつけられた灰皿で、悠里の顔を二発、殴った。
血のついた灰皿に唾を吐くと、神津は言った。
「・・・・・ほんなら、うちに帰りますか」
バスタブにさかさまに、縛られた悠里の身体が突っ込まれている。五センチの水位があれば、人間は窒息死するという。水位はそれだけあった。水死しないでいられるのは、ミョンジンが血まみれになった悠里の顔を持ち上げ、支えているからだ。
「殺していいか」
ミョンジンが言った。顔を歪めて神津は答えた。
「メモリ取り上げてからや」
しぶしぶと、彼女は悠里の身体を隅から隅まで探った。USBから抜かれたメモリは、あれからどこかに消えたのだ。
はっとして神津は言った。
「飲んだな?」
無言で悠里は首を振った。口の中に指が突っ込まれた。とっさに、隠せる場所はそこしかないように思えた。これ以上汚いものに触れるのはごめんだぞという風に、ミョンジンは命令を拒否した。
「腹裂くぞ。嫌やったら、とっとと出せ」
「本物は、あの男が持ってる」
悠里は嘘をついた。父親を売った意識はなかった。
「嘘つけ」
「必要な用意が出来たら、待ち合わせる予定なの。なんなら、緊急の場合の連絡の取り方も教える」
「ほんまやろうな」
「嘘じゃない・・・・・信じてよ」
涙声をしぼって、悠里は言った。神津は情にはほだされない。でも、真実味は必要だった。ほんの少しのチャンスでいい。
「確認する・・・・・本人にな。娘の命と引き換えやったら、はったりもよう言わんやろ」
神津はしばらく、戻ってこなかった。ミョンジンも去った。彼女は根本的に他の女性に憎しみがあるようだった。これ以上、姿も見たくないという顔で外に出て行った。剃刀の替え刃で悠里はひそかに拘束を切っておいた。今度は慎重にやるつもりだった。頭の中で、次に吐く嘘のシュミレーションをした。
「今、届けに来るそうや」
意外な展開に悠里は、はっとした。ブラフだ。そんなはずはない。
「全面的に協力するから、わたしたちを助けて」
煙草をくわえた神津は、煙たそうに苦笑するばかりだった。やがてインターホンが鳴り、誰かがここに現れた。
父親のわけはないと、悠里は思っていた。
「悠里を渡せ」
父親の声がした。少し震えていた。手に文化包丁を持っていた。
「馬鹿な真似はやめろ」
神津は突き飛ばされた。父親が入ってくる気配がする。まさか。やがてバスタブから突き出た悠里の足を見つけたらしく、彼女の身体は抱え上げられた。拘束が解けていた。気づくと、抱きついていた。悠里は顔をしかめ、父親から身体を突き放すと言った。
「逃げなきゃ」
隙を見て入ってきた神津を、父は殴りつけた。見たことも無い表情をしていた。悠里の身体を強引な力で先に、出口へ押し出した。
ドアを開けた悠里の背後で、うめき声がした。ミョンジンと父がもみ合っていた。二人の顔の前を、ナイフが行ったりきたりした。決着は早かった。ミョンジンが金的を蹴り上げた。
「馬鹿っ、なにやってんだ、早く行け!」
それでもミョンジンの足に齧りつきながら、父親は叫んだ。
「逃げろ、早く逃げろっ、振り向くんじゃないっ」
言われたとおり、悠里は振り向かなかった。全速力で逃げ出した。最後に聞いた父親の声だけが、頭の中に何度もこだましていた。
裏路地に逃げた。どこにも行くあてはなかった。クワ・ハルの情報とこの身体の中に、とっさに飲み込んだメモリだけが、唯一の存在価値だった。
そのとき悠里の前に、一台の車が急停車した。白のベンツだった。後部座席に乗っているバレンチノのスーツを着た半白の髪の男が、悠里を強引に車に押し込んだ。
ミョンジンの影が追いすがってくる。男は左手に悠里を抱いたまま、窓からなにかを突き出した。それは映画で見るような、拳銃弾が撃てる軽機関銃だった。迷わずそれを乱射した。たちまち辺りは大騒ぎになった。すかさず男は車を発進させた。
「誰だか知らないけど、助かったわ」
「いや、別に礼には及びませんよ」
悠里に心当たりはなかった。考える間もなかった。焼けた銃身をソファに放り投げると、男は丁寧な口調でこう答えた。
「泰山会の石原です、満富悠里さん。・ISMについて、あんたから詳しい話が聞かせてもらう」
薫のゆくえ
タイヤ痕からの、車種の特定は失敗に終わった。ただ目撃者がいて、女性を乗せたのは業務用の白のワゴンだったと証言した。警戒が張られ、主要な道路はすべて閉鎖された。なにしろ仲間がさらわれたのだ、打った手は確かに迅速だった。
しかし夜半になってその車両は、横浜市内の山林で隠されていたのをようやく発見された。それは昨日の夕方、旭区で盗難があったパン屋の車だった。二人組みの強盗はパン屋を襲撃し、評判の手作りパン三十個と、六十五歳の店主が朝夕配達に使う、バンを盗んで逃げたらしい。
誰もが楽しみにしていたパンの行方は、今も誰も知らない。
「拳銃貸せ、今度はおれがやる」
金城は言った。
「冗談でもやめて。同じ奇跡は二度も起きないよ」
「やってみなくちゃわかねえだろ」
マヤは静かに首を振った。自分の電話を取り出して金城に見せた。
「ついさっき。サイトへの入り口が封鎖されたわ。いくつか別の入り口をあたってみたけど、もう駄目ね。・ISMは使えない」
「使えない理由を、お前は知っているんだろ?」
二人はしばらく睨み合った。
「知っていたら、こんなことにはならなかった」
マヤは金城の目を外さずに、続けた。
「理由は分からない。けど、封鎖された。今までどんなに追い詰めても、サイトは閉じなかったのに、使えなくなったということは、たぶん、何かそれなりの理由のあること」
「今、考えられることは?」
真田が聞いた。
「前にも言った通り・ISMは本体のデータサイズは小さい。でも、今のように常時公開しているサイトのシステムを運営するには、やっぱりそれなりの場所が必要なの。・・・・・クワ・ハルは自分のモバイルで、外から・ISMはある程度操作は出来る。しかし、システムそのものの運行を止めたり、システムの仕組みを変えるには、たぶん、その本拠地に足を運ばなくてはならない。つまり」
「自分のシマに帰ったというわけだ。そこを見つければ、やつらを追い込めるな」
「なあ待てよ。薫が殺されないって、保障はないのか?」
「その前に突き止めることだ。彼女の身を案じるなら、もっと協力しろ」
「ふざけんなお前、薫のことはどうでもいいってのか!」
「見解の相違だな。それとも、また競争でもするか?」
無言で殴りかかろうとした金城をマヤが割って入って止めた。
「落ち着いて、金城。お手上げだって誰か言った? 冷静に考えて。諦めるにはまだ早すぎるわ」
「サイトが閉鎖されたタイムラグから考えても、彼女を連れ去った奴らは、他県に逃げたとしてもそう遠くない範囲に必ずいるはずだ。同じ口を動かすなら、機動隊にでも声をかけてくれ」
「はっ、どこに逃げたかももう、見当がついてるとはな。さすが、偉い方はものの考え方が違うぜ」
マヤは平手で、金城の頬を打った。
「・・・・・なにすんだ」
「これが最後の忠告よ、金城。こんなことで次に捜索が滞ったら、今度はあたしがあなたを許さない」
「・・・・・・・・・・・」
殴られた金城は、額を押さえて頭を振った。
「すまん・・・・・熱くなりすぎた。許してくれ。あんな爆弾使うような危ないやつらに薫がさらわれてつい、パニくっちまった」
「そうか。じゃあ気が済んだら、仕事に掛かってくれ」
「真田、あなたも大人気ないわ。あなたのチームだけじゃ、非常線も張れないことくらい、分かってるはずでしょ?」
マヤは真田をじろりと見た。
「・・・・・ああ悪かった、少し張り合いすぎた。うちにも、優秀な人材は貴重でね」
彼はさりげなく、目線を反らしたようだった。その意味がちゃんと金城にも分かった。真田が言った。
「おれも上司に掛け合うよ。だから、君も全力を尽くせ。やつらの目的はまだ判らないが、基地から装備をちょろまかすくらいだ、それなりの武装はしているだろう」
「ここは、日本だぞ。これ以上好き勝手やられてたまるか」
「その通りだ、やっと見解が一致したな。・・・・・マヤ、まず捜索の方針が欲しい。システム運営を維持するための装備の規模から、やつらの本拠地の様子を推定できるか?」
「大雑把な見込みでよければ。人目につかない場所で、自衛のための防犯設備も必要だから、山の中の広い土地が必要だということはすぐ言える。エラ・リンプルウッドもコネチカットの山奥に、システムを維持するための地下室つきの大きな山荘を持っていたし」
「分かった、そう伝えよう。山梨県警にも連絡する」
「おれはどうすればいいんだ?」
マヤは言った。
「あたしが描いた似顔絵をコピーして、みんなに配るの。出来るだけ多く、急いだほうがいい」
藪の匂いが、する。どこか懐かしい匂いですらある。
冷えて濡れた夜気に漂って、薫の鼻孔をくすぐった。目を閉じながら薫は、どこかで鳴く椋鳥の断続的な鳴き声を捉えていた。東京に住んでから、夜鳴くこの鳥の声は聞いたことがない。自分は随分遠くに、さらわれて連れて来られたのかも知れない。
さらわれた?・・・・そうだった。薫は身体を動かした。右胸の下からわき腹が強張って、激痛を訴えている。肋骨にヒビでも入ったかも知れない。他にもびりびりと、やはり満遍なく全身が痛んだ。
どうやら今、和室のような場所に寝かされている。目を開けなくても判る。肌が触れる部分に当たる感触は、確かに畳だ。汗を吸って蒸れたようなカビの匂いもする。例えば柔剣道の鍛錬場などにこもる匂い。両手足は縛られて、抵抗すると身体は海老のようにたわんだ。汗を掻くほど暴れてみたが、身体に食いこんだ特殊なプラスティック製の拘束はきつく、解けない。現状を打開する考えがまとまらないまま、薫は茫然と身体の力を抜いた。
誰かが来た。中に入ってくる。薫はうっすらと目蓋を開けて、その姿を見上げた。この部屋は窓のない畳敷きの六畳、戸口は木製の重たい引き戸になっている。それがご、ご、と音を立てて開き、そこから一人、誰かが入ってくるのが見えた。
それは小さな、人影だった。小学生くらいの身長しかない。小さな両手で肩から吊った、ライフルの銃身を支えている。動くと装備が金属質の音を立てて、がちゃがちゃと鳴った。シーッ、と、パンクしたタイヤから空気が抜けるような音が、薫の耳を捉える。不規則なリズムは、無音の海底に棲む、深海魚の寝息を連想させた。
その影が薫の顔の前に立ったので目を閉じていると、ひんやり冷たく、硬いものを突然、薫の額に押し当ててきた。恐らく銃口。重たい質感はそれが、子どもの玩具などではないことを薫に実感させる。まさか一日に二度も、自分の頭に銃口が向けられるような事態に陥るとは思わなかった。
こつん、こつん、と。はじめは死んだ生き物を突くように、ひどく躊躇いがちに。やがて、大胆に。
銃口は薫の額に押し当てられたあと、なぶるように顔のパーツを下まで確かめていった。両眼、鼻、唇、そしてあごから喉。重たい銃身を維持するには腕の筋肉が必要だ。時折それはぶれて乱暴に当たり、暴発の脅威を薫に感じさせた。
そのたびにシーッと言う深海魚の寝息は、深く激しいものになっていく。寒さで身体が冷えているにも拘らず、じっとりと冷たい汗が薫の背を流れていくのが自覚できる。身体は小刻みに震え、口の中が乾いてきた。息苦しい。でも、深呼吸をしたら、撃たれるのではないかと言う迷信が、薫の肺を絞り上げて、呼吸を妨げていた。
銃口は薫の剥き出しになった鎖骨の感触を確かめると、さらにその下まで降りていった。はだけたブラウスを割って、左の乳房の根元あたりまで強引にバレルが侵入してくる。薄い皮膚と脂肪の下は、心臓だ。耐え切れず薫は息を吸った。それに従って、銃口はそこに埋まり、今度は乳房の厚みと肺の収縮具合を試すかのように、深く下着からこぼれた部分を押してきた。
冷たい銃口は薫の体温で温まってきていた。あとはそれが一瞬で沸点に高まり、銃弾が飛び出たら、火傷を感じる暇もなく彼女は死んだだろう。
そこまでで銃口は離れていった。代わりに、濡れたタオルのようなものが顔に押し当てられた。じっとりと冷や汗を掻いた顔に、洗いざらしの匂いのするタオルは生き返った気分だった。タオルを持った手は、薫の顔をいとおしげに拭いた。たまの休日に、お気に入りの車のボディを磨く、手つきはそのような感じを思わせた。
「ふうん」
くぐもった声が言った。思ったより意外に、低い声だった。
「これが妹か」
呼吸が近づき、薫は思わず目を開けた。無機質なガスマスクを被った顔が、じっとこちらを見つめていた。拙い発音で彼は言った。
「はぢめてみた」
「刑事だよ、そいつは」
吐き捨てるような声がした。もう一人が、中に入ってきた。そちらには見覚えがあった。逃亡中の、鶴見昭二だ。
「刑事? 妹だろ、これ」
「新入りの妹だよ、そいつは。兄弟と言うのは普通、同じ親から生まれた人間同士のことを言うんだ」
「そうじゃなくても、兄弟になれる方法もあるけどな」
卑猥な語り口の声がした。これも初めて聞いた。あごのしゃくれた、五分刈りの頭を金に染めた体格のいい中年男が鶴見に続いた。
「本当に? じゃあ、ぼくの妹にもなる?」
「そう言う意味じゃねえんだけどな」
「ばるべごぼるべばっ」
唐突に、ガスマスクが叫び声を上げた。しゃくれ男も真面目な顔で応じる。
「ぼろめぶば×ひ▼@うんっだ」
不快げに鶴見は言った。
「クワ・ハル、その喋り方、もう卒業しろって言っただろ」
やっぱり。ガスマスクの少年があの、クワ・ハルなのだ。
「ぼくと新井だけの、言葉なんだ。襲撃もこれで成功した」
「パン屋の親爺もびびってたぜ。鶴見先生も仲間に入れって」
ふん、と鶴見はこれみよがしに鼻を鳴らした。
「おい、この女で、今度は本当に平気なんだろうな」
「わかんないよ、そんなこと」
クワ・ハルは首を振って答えた。話し振りといい、身長といい、薫が声音から推測した年齢より、もっと幼いと感じた。
「ただ、武徳が連れてこようとした子よりはましでしょ」
「数値を無視するから、痛い目をみるんだ」
「て、言うかいくらなんでも小学生はダメだろ」
「それは関係ないよ。でも、妹なら、信頼できるデータとれるよ。子供の時から、よく知ってる人がいるならね。だから急遽、新入りの作戦に乗ったんだから」
「大体さっきから、その新入りはどこなんだよ」
「・・・・・あなたたちは」
薫は初めて、声を出した。クワ・ハルは戸惑ったようだ。さっきまで凝視していたのにあわてて身体ごと、薫から顔を背けた。
「いったい何をしようとしているの?・・・・・あの子を磯野武徳にさらわせたのも、あなたたちの計画だったの?・・・・・あなたたちが・ISMをつくった本当の目的は・・・・・」
「てめえ、いきなりしゃべりやがって、殺されてえのか」
新井が乱暴に声を上げた。
「クワ・ハルに直接話しかけんな。びっくりするだろうが」
銃を握り締めたまま、クワ・ハルは無言で顔を伏せている。
「びっくりしたのはお前だろ、新井」
揶揄するような口調で、鶴見が言った。
「ちゃんと薬飲んだのか? また忘れたか、馬鹿だな。びびりすぎると、また妄想が止まらなくなるぞ」
「なんだよそれ・・・・・なんだ・・・・・お前まで、おれを馬鹿にすんのか?」
するとみるみるうちに、新井の様子がおかしくなった。
「どいつもこいつも、おれだけ馬鹿にしやがって・・・・・・」
大きな肩を上下させると、新井は口の中でぶつぶつ文句を言い始めた。鶴見は少しもあわてずにゆっくりと新井を説き伏せた。
「おい、落ち着け。おれはお前のためを思って言ってるんだぞ。おれらは仲間だ。いいか。仲間でいたかったらすぐ薬を、飲むんだ」
鶴見はなにか話しかけながら、ポケットからなにかの錠剤を取り出すと、なだめすかしてそれを新井の口に入れさせた。
「水飲んで来いって」
鶴見が廊下を指差すと、新井は子どものように従順な顔になってこくりと肯き、立ち上がって部屋を出て行った。
「まだなにもしないさ、あんたは大切な被験者だ。出来れば最後まで精神的にも健康で、協力的でいてほしいからな」
「被験者・・・・・・わたしが・・・・・?」
薫は、はっとした。被験者、実験。製作者の意図。マヤが漏らした数々の言葉が、今さらながら断片的に頭に浮かんできた。
「お?・・・・・思い当たるふしがあるって顔だな。・ISMだけじゃなく、一体、なにを知ってる?」
薫は急いで首を振った。急いで雑念を振り払う意味もあった。声を出さないと、思い当たるふしが増えて、恐怖が倍加しそうだった。
「関係ない人をさらってなにをするつもりだったの?」
「関係なくはないさ。すべて関係してる。・ISMを使って、迎えに行くんだ。次の段階はそれを実行しただけだ。おれたち四人に必要な相手を探すのにな」
「武徳は脱落したけどね。嘘をついてた。計算したら駄目だったのに。もともと、彼と絵菜は、適合率が低そうだったし」
「適合率?」
「妹に関係ない。ていうかぼくに話しかけるな」
「話してもいいが、どうせ無駄になるだろうからな」
また、足音がした。新井だと思った。ビニールのこすれる音。閉まりかかった引き戸をクワ・ハルが大きく開けた。
「なにしてたんだ、新入り」
「パン屋を襲撃したんだろ・・・・・荷台のパンを下ろしてた」
「そうだ、夕飯だ」
ぱさりと大量の軽い音。すべてパンの入った袋らしい。
「おいおい全部、菓子パンだろ、これ。甘いの苦手なんだよ」
「ソーセージパンとかコロッケパンもあるだろ」
「薫は目を覚ましたか? 後はおれが相手をするよ」
どこか聞き覚えのある声に、薫は愕然とした。言葉をなくした。
「これ妹だ、君だけのか?」
「ああ」
男は肯いた。長年会っていないに等しいので一瞬見ただけでは、判断がつかなかった。いや、否定したかったのだ。心のどこかで。
「・・・・・晴文兄さん」
サバイバル用のゴーグルをかけたその男は、薫の震えた声とは裏腹に、いかにも楽しげな声で言った。
「なんだよ・・・・・お兄ちゃんだろ、薫」
病院での襲撃
磯野武徳が入院している救急医療の病院は、彼がフカマチ・マヤに痛めつけられた場所から、市内に向かってほぼ三十分ほどの場所にあった。彼女が与えたダメージは思いのほか深く、到着した磯野に医師は、ひと目見て全治一ヶ月を言い渡した。
潰れた睾丸からの出血と激痛、右肩の亜脱臼と骨折で、搬送されてきたときの彼はショック状態に陥っており、一時は危ぶまれた。
しかし皮肉にも彼をぶちのめしたマヤの応急処置がよく、意識は戻らないながら、どうにか一命は取り留めた。ただ正式な取調べに応じられるまでには、回復が不十分でまだまだ時間が掛かるだろうと言うのが、担当医師の無理のない判断だった。
夜間救急の搬送口から、ある侵入者が消灯を終えた病棟に潜りこんだのは、日付が変わった頃だった。手口からして、侵入者はこうしたことにはひどく手馴れた人間らしかった。誰にも目につかずに処置室やナースセンターを通り抜けた彼女は巡回のルートを頭に入れながら、さっき一度来たきりの病院を難なく歩き回った。磯野の部屋は確認済みで、まず足を向けたのは、薬の保管庫だった。
鍵を開けた細くなめらかな指先は、ラベルに書かれた文字をなぞり、目指すものを探していく。やがて薬棚の奥で手が止まる。
かたり。気配を感じて、かすかに衣擦れの音をさせた。
「振り向くなよ。お前は手が早い」
侵入してきた戸口から気配が立っていた。
「振り向くなら、ゆっくりとだ。こっちに手のひらを見せろ」
「真田ね」
マヤは言った。闇の中で、お互いの顔はよく見えない。
「急がなくていいの? こんなところに来ても無駄よ」
「お前のせいでな。磯野はしばらく尋問には応じられない」
ため息をつくと、マヤは肩をすくめた。ゆっくり身体を向ける。
「もう一度言うぞ。両手は見せておけ。おれはお前を撃てる」
「薫を追う気がないならね」
「駆け引きなら、もうたくさんだ」
真田は言った。左手からリノリウムの床になにかを投げ捨てた。
「お前のスケッチブックだ。中身を見せてもらった。知ってるはずだ、・ISMの真の意図を。少なくとも、見当はついているはずだろう? 本国で起きた事件にお前は最後まで関わってるんだ」
「・・・・・・・・・・」
「TLEを利用したエラの最後の目的はなんだった? そしてなぜそのことを、おれたちに教えなかったんだ?」
「あなたたちに話す必要はない。そう、あたしが判断したから」
「お前はもとから、誰にも話す気はない、そうだろう? お前のせいで磯野は今、尋問には応じられない。だがやつの意識を薬で醒まさせれば、お前なら尋問しなくてもやつの記憶は読める。そうしたらやつを始末して、おれたちを出し抜く気だったんだろう。最初からそのつもりで、必要以上に磯野を痛めつけたんだ。違うか?」
「・・・・・違うと言っても、信じてはくれないでしょ?」
「なら、別の話をするんだ。おれが信じられるような話をな」
「どいて」
銃口に怯むことなく、マヤは真田に歩み寄った。
「あなたは急がなくても、あたしは急ぐの」
すると出口に、もうひとつ影が立った。
「・・・・・金城ね」
マヤは足を止めた。困ったな。小さく、ため息をつきながら。
「なあ、ひとつだけ答えてくれよ」
金城は言った。
「薫がどうなるのか、お前は知ってるのか?」
「あたしの予想通りなら、大体は」
「あいつはどこに連れて行かれる? なあ、どこなんだ?・・・・・お前が考える、亀の島って言うのは」
マヤは観念したという風に首を振ると、
「前にも言ったけど、これらの言葉はすべて比ゆ。秘密の島、亀の島、これらはある寓意を指しているに過ぎない」
「お前がスケッチブックに残した言葉を読んだ。TLEと言うのは、本当は、タートルランズエスケイプと言うんだな?」
「あたしが知っているのは・・・・・エラ・リンプルウッドが、科学者である前に心理学の、いえ、詩人の才能があったと言うことだけ。彼は別に、全知全能を謳うコンピュータウィルスまがいの人工知能など望まなかった。彼が全米のマフィアや犯罪組織などの要求に応えて、代理人たちにせっせと膨大な量の失踪者を生み出させたのには、もちろんそれなりの理由があったの」
「それは今の・ISMと関係のある話か?」
「おおいにね。金城、あたしは前に薫やあなたに話した。他人の秘密を知りたがることは、人間にとって自然なことだし、それが度を越してしまう人も少なからずいるって。そして人をそこに陥らせることに、少なからず製作者の意図も感じるとも」
「ああ、確かに言った。だが今のこととは」
「・ISMはTLEが踏み込めなかった次の段階にもしかしたら大きく踏み込もうとしている。それは、本当はあたしたちがもっと早くから感じることの出来た危険だったのかもしれない。最低でもあたしたちの前に再びクワ・ハルたち・・・・・磯野が現れたときに、気づくべきだった。彼らは常に、あたしたちに向けてもいろんな形でメッセージを送っていたんだから」
「メッセージとは、その三角形のシンボルのことか?」
マヤは小さく肯くと、床からスケッチブックを拾い上げた。そしてそこに大きく描かれている三角形を取り出し、
「数学は得意?」
と、二人に聞いた。いらだったように金城が言った。
「いいから答えを言ってくれ。そいつは、本当はなんなんだよ」
マヤは言った。
「テトラクテュス」
「なんだって?」
「恐らくは、それが彼らの目的。次の段階」
「それですべてが分かるというのか?」
マヤは静かに、首を振った。
「これも半分よ。あたしが持っている情報と合わせれば、大よその辻褄も合う。薫がなんのためにさらわれたのかの見当もつく」
「いいから結論を言え」
「・・・・・その時間があればいいんだけど」
マヤが言った瞬間、ガラスの割れる音が聞こえ、ついで誰かの悲鳴が立った。
「なんだ?」
金城が様子をうかがったが、混乱はまだ目を覚ましている職員のいる下のフロアで起こったというだけで、まだなにも判らなかった。誰かが下で、暴れているのだ。
「時間がない、そう言ったでしょう?」
ため息をつくと、マヤが言った。
「これだけは言っておく。あたしの予想通りだと、あたしたちの知ってる薫には、二度と会うことが出来なくなるかもしれない」
大きななにかが倒れる、ドーン、と言う音がした。死刑囚の監房が解放されたかのように、あちこちで混乱は広がっているのだ。悲鳴と怒号、また、ガラスの粉々になった炸裂音が響く。
「・・・・・おい」
金城は反射的に飛び出そうとして、真田に止められた。
「下でなにが起きたかわからないんだぞ。放っておく気か」
「こいつが言っただろう、大体の見当はついていると」
マヤの方にあごをしゃくって、真田は言った。
「金城に言い忘れたことがあったわ。・ISMが復活してるの」
「いつからだ?」
「一時間ほど前よ。この病院の場所は、襲撃計画つきで公開されているの。言うまでもなくターゲットは、磯野武徳」
「清算か?」
マヤはこくりと肯くと、布の切れ端を取り出して、金城に投げた。それは病院が処置するときに切り取られた磯野のズボンの断片のようだった。裏返してみるとそこに、パケに入った白い錠剤が縫い込まれていた。
「磯野は自決の準備をしてたってことか」
「清算でなぶり殺しにされるよりは、ましだと思ったのかもね。でも、あたしたちにとってはそう簡単に死んでもらっては困る。処置のとき、探して取り出しておいたの。舌を噛まれたりされても困るから、麻酔も大目に打ってもらったわ。今はまだ、身体も十分に動かせないと思う」
「つまりは、囮か」
こくりとマヤは肯いた。真田に動揺した様子はなかった。
「中々いいアイディアだ。なぜ、おれたちを乗せなかった?」
「囮は美味しそうに見せるのが定石よ。それにあらかじめ厳戒態勢を取られていると、すぐには仕掛けてこない可能性もあるし」
「怪我して意識不明の被疑者を囮にするのかよ」
動揺している金城を真田は横目で見て、
「・・・・・なるほど。こう言う意見もあるしな」
「それに知ってるでしょ? あたしの権限で動かせるものは少ない。とにかく、時間がなかったの」
叫び声が、迫ってくる。気のせいか、バイクのエンジン音などもどこかでするようだ。
「つまりは今から応援を要請して、到着まで守りきればおれたちの勝ちか」
真田はそう動揺することもない口調で言った。
「それとたぶん、やつらの中にクワ・ハルの関係者がいる。この短時間で襲撃する有志を集めたとは思えないから、指導者を中心に襲撃班をあらかじめ編成している可能性が高いわ」
「おい、本当にやる気なのか?」
「死にたくなかったらな」
真田は苦笑すると、
「確か、今日は拳銃は携帯しているんだろ」
「ああ、薫のことがあってからまだ戻しにも行ってない」
「運がよかったな。じゃあ、君は磯野の病室で彼を保護して、本部に応援を要請しろ。ここは市内だし、この騒ぎなら、十分ほどで駆けつけるだろう」
「死なないでね」
マヤの不吉なコメントは、金城の顔を強張らせた。
「威嚇射撃はするなよ。規則どおりに対処すると、死ぬぞ」
「わ、分かってら」
真田はメインとサブ、二丁の拳銃の弾倉を確認して、それぞれの位置に仕舞うと、マヤに言った。
「彼女はまだ、無事なんだろうな」
「たぶん、まだなんとかね」
「だ、そうだ。しっかり、磯野を守ってくれ」
「はは」
すごい。こんなに【作戦】が楽しいとは。夢にも思わなかった。
身体中が騒ぐのだ。うずうずする。冷たいものが首筋を流れる。流れているアドレナリンでぞくぞくしてくる。
クワ・ハルは鶴見が連れてきてくれたメンバーの中でも、新井と過ごすのが一番好きだった。初めて外に出たとき、新井は二週間以上もつきっきりで彼と遊んでくれたのだ。甲斐駒ケ岳山中をめぐってしたサバイバル訓練は最高だった。銃の撃ち方やナイフの使い方、地雷やトラップの仕掛け方、獲物の解体の仕方。
神津が与えてくれなかった世界は、こんなに気持ちいいことに溢れている世界だとは思っても見なかった。
確かに世界は神津の言う通り、生きているものたちが傷つけあう血と肉で薄汚れてはいるのだろう。彼が読んださまざまな本にもそう書いてあったし、例えばインターネットで中東のテロリストに生きたまま首を刎ねられる人たちの映像なども沢山見た。
しかし、不幸は常に狩られる側にしか存在しないものだ。大切なのは食物になってはいけないだけだ。神津はそこを教えてくれなかった。逃げ損なって脚を吊るされたウサギ、怯えた目で血まみれのまま毛と皮を剥がれる小鹿、それになってはいけない。簡単なことだ。【揺り籠】に囚われた自分は、神津に捕えられていたのだから、あの男が、それをクワ・ハルに教えてくれるわけがなかった。
今のクワ・ハルは紛れもない捕食者だ。闇の中で、彼だけが物を見ることが出来るのだから。逃げ惑う影を、彼はすでに二人殺した。一人は倒れる牡鹿のようにもがいて首を伸ばした。
放った数は、まだ少なかった。十人はいたはずだ。もっと・ISMで獲物を募るべきだった。ナイフや金属バット程度で武装して深夜のERを襲おうと考えているような人間は意外と少なかったのだ。
でも新井とのルール決めでは磯野を倒した方が、もっとも得点が高いと言うことになっている。他の参加者も、・ISMで高得点が欲しければ、三階の磯野を狙うはずだ。新井はなにか秘策があるようだった。小点稼ぎもいいが、そろそろ急がなくてはならない。
ゴーグルの視界は狭いが、暗視用のスコープをつけている。闇の中、自分の視線だけが有効だというのは気持ちがいいものだ。逃げ損ねたナースがうずくまってトイレのタイルにしがみついている姿も丸見えだ。警察以外の民間人を撃つと、マイナスになることになっている。そろそろ誰かが通報してくれただろうか。早く、磯野を狩っていなくなるとしよう。
三階に上がろうと、明かりの消えたナースステーションの横を通り過ぎると、ガタン、と背中でなにかが倒れる音がした。なぜだか異臭もする。見ると半開きだったドアが開いていた。それが中途半端に開いたままになっているのは、ドアになにかが引っかかっているからだ。クワ・ハルは驚いて、中を探った。するとそこに、二人のジャージ姿の若い男が、猿轡を填められたまま、悶絶しているのを見つけた。手足が折られているのか、かなり無茶な方向に曲げられて縛られていた。異臭は激痛で気絶し、失禁していたのだ。
クワ・ハルの脳裏に捕えられた四足の獲物たちの姿がよぎった。誰がこんなことを? 新井は銃を持っている。こんな手荒な真似はするはずない。第一、この状態で生かしておくだけでも骨だ。
闇の中、クワ・ハルは反射的に辺りを見回した。二人はこのようにされてまだ間もない、なぜなら失禁した痕から湯気が立っていた。その誰かは、つまり、ここにいるのだ。
「どこだ」
そのとき、かたり、とどこかで音がした。衣擦れの音も。風のせいかもしれない。クワ・ハルは急に一人で闇の中に置き去りにされたように、孤独と緊張感を感じた。やっぱりだ。見ているのだ。誰かがどこかから。見られるのは嫌だ。そして狩られるのも嫌だ。今度は、身体が恐怖と嫌悪感で震えた。
「ぼくを見るな」
ごとん。クワ・ハルは音のする方向に銃を構えた。すると。今度はまったく違う方向から、声がした。どこにも誰もいないはずなのに。明らかに女の人の声だった。
「わっ」
その瞬間、クワ・ハルは駆け出していた。銃を落とさなかっただけ上出来だった。
(お化けだ)
本やビデオで、話には聞いてはいたが、まさか、本当にいるとは思わなかった。闇の中からぼくを見て、しかも声をかけてくるなんて人間のはずはなかった。早く新井と合流しないと。
ところでお化けは、胸ポケットから携帯電話を取り出した。着信を受けると、青のライトが暗闇でちかちかと光った。
磯野の病室は三階だ。騒ぎは下のフロアまで、迫ってきている。マヤは病院側に話して、ある程度の準備はさせていたらしい。各病室には鍵が掛かり、廊下に人通りは一切、見られない。
どうも一階下のナースステーションで、工作用のドリルと、金属バットを持った男が暴れているらしい。スタッフは被害を受けずに逃げられたのだろうか。
真田とマヤがそれぞれに散会してしまったので、金城は独り気持ちを持て余すしかなかった。前からうすうす感じていたが、二人はもともと普通じゃないのだ。薫がいない今、それがよく分かった。
マヤの言う通り、本当に薫は大丈夫なのだろうか。
真田に言われ、金城はあのとき、大破した車からマヤのスケッチブックを回収した。
磯野が自作の小説に書いていた秘密の島の正体はやはり、TLEに関して、マヤが隠しているなにかのことだったのだ。すべては自分の解放のために。薫はマヤの秘密を知った。当然それは、クワ・ハルとか言うやつらの秘密でもある。彼女に本当に、薫を救う気はあるのだろうか。やつらとマヤにはもともと、TLEを通じて繋がりがある。秘密を知ったから薫はさらわれたのではないか。なら、薫は今、本当に、無事なのか。そんな疑心暗鬼すらも振り払えずにここで足踏みをしている。
個室に安置された、磯野のベッドにはカーテンがかけられている。麻酔が強められたせいか、寝息ひとつ聞こえてこない。念のため、電気はつけないでおいて、とマヤは注意した。暗闇の中、一丁の拳銃を呑んで金城は、一人で待機することになったのだ。そもそも、未知の敵を相手に、どれだけ戦えると言うのか。
(落ち着け)
金城は胸を鎮めた。拳銃を扱った経験は少ないが、実戦経験はある。ナイフを持ったシャブ中のチンピラや、体格のいいアラブ人の強盗を、ぶん投げたこともある。実戦では、びびった奴から殺されるのだと言うことくらいは身をもって知っている。
それにしてもこのフロアだけは、なぜか死んだように静かだ。
静か過ぎる。
金城はひそかな、ため息をついた。病院に武装した襲撃犯だって? ここは日本だ。だが今では一般人でも闇のルートで、金を積めば拳銃が手に入る。兵役のある国で実戦経験もある外国人たちが、ワーキングビザでばんばん入国してくる。日本のやくざは物件だけ下調べをしておいて、足のつきにくい彼らに押し込み強盗や見せしめの暴行など、日本人がやりたがらない違法行為を委託するのだ。殺人にも抵抗はない。新宿歌舞伎町では銃を撃たなかった警官が、中国人のちんぴらに逆に殺されている。警官を縛る規則が拳銃を撃つときは空に向けてまず威嚇射撃だなどといっている間に、犯罪者は逃げるか、いちかばちか殺す気で、反撃してくる。
現実に待ったはない。直面したとき、対処できなかったものが馬鹿を見るだけだ。金城自身、決断をしなかったら危なかったと言うことが、刑事をしていて、一度もなかったとは言えない。今はその危機感を思い出そうとしているのだが、事態が急すぎて気持ちがついていかない。二人とはやはり、住む世界が違ったのだ。
窓ガラスに赤い、翳のある光源のかけらが映った気がした。応援が来たのかもしれない。思わず、金城は病室側の窓を振り返った。薄闇の中、赤い光がポツリ、とベッドの上を揺れながら、なぞっている。光は入り口に近づいてきた。それがなにを意味しているのか、前に映画で金城は見たことのあるのを思い出した。
レーザーサイトだ。暗視用の。はっとして金城は射手を探した。下ろしたブラインドの向こう。片手でワイヤーにぶら下がったまま、男が照準をつけていた。
「わっ」
なにをする間もなく、金城は戸口から廊下の壁に向けてダイブした。ガスボンベに穴が開いたような高い破裂音が、静寂を埋め尽くした。何発撃ったのか、頭をかばって伏せた金城には、判別出来ない。弾丸はベッドに乗っている物体に、余すことなく突き刺さったことだけはなんとなく分かった。
硝煙の中、うめき声も絶叫も聞こえない。麻酔で眠ったまま、磯野は即死したのだ。部屋には羽毛が散っていた。火薬と薬品の匂いが鼻をつくほど強く感じた。破れたガラスを蹴破って、男が入り込んできた。迷彩服だ。黒い革のブーツには鉄板が入っているに違いない。手にしているのは、横須賀生まれの金城が昔、どこかで本物を見た気がする、米軍のアサルトライフルだ。
「任務は完了した。こっちはOKだ。でも、作戦が読まれているみたいだ。今のうちにおれたちは撤収しよう」
なりきった口調で男が無線に向かって何かを怒鳴っている。その間に金城は覚悟を決めた。入り口に向かって歩き出した男は無線機に気を取られていて、金城に鉢合わせたことに気づいていない。
「あっ」
その瞬間、とっさに飛びついて男の首に腕を回し、体重をかけて制圧する。銃を使うことも考えたが、反射的に身についた動作の方が自然に出た。左右に身体ごと男が暴れるのを、どうにか押さえ込む。距離をとられたら向こうには銃がある。離されまいと必死になる。銃身を逆に利用して、バックチョークをかけると二人して背後に倒れた。男の抵抗も凄まじかった。ナイフなど、他に武器を装備している可能性もあるから、手の動きには注意が必要だ。執拗に目を狙う指を巧みにかわし、金城は柔道の襟締めで落としにかかる。
力を入れてとどめを刺そうとした瞬間、後頭部が飛んできて、金城の鼻に激突した。熱い。血が噴き出す。鼻が折れた感触がした。力が緩んだ隙を狙って、男が反転する。ライフルが自分の手を離れたのが、金城の恐怖感になった。
「・・・・・・ぶっ殺すっ」
ライフルを縦に、撃ち下ろしの銃口が金城の顔に迫ってくる。まだ熱い消音器のついた太いバレルを掴むと金城は渾身の力でそれを押しのけた。死への入り口は、金城の首筋やこめかみを掠めて噛みついてくる。猛獣にのしかかられた気分を金城は味わった。
フーッ、フーッ、と言う荒い呼吸が、すでに自分のものか相手のものか分からないくらいまで、よく響いてきた。まだ死にたくない。とにかく、それだけが脳裏を掠めた。
脂汗で、銃口が頬を滑った。駄目だと思ったそのときだ。
でかい銃声が、耳を聾した。一瞬死んだかと、金城は思った。幸い、まだ生きていた。弾丸は、銃身に当たって跳ね返り、男の胸に飛び込むと、その身体を一メートル後方に吹き飛ばしていたのだ。
三階の非常階段の蛍光灯の真下。真田が立っていた。黒い影が逆さに見える。倒れた男にまだ照準を合わせつつ近づいてくる。
「・・・・・銃を使えと言っただろう」
「無茶言うな」
立ち上がりながら、金城は怒鳴り返した。
吹っ飛んだ男は死んだように動かなかった。この暗さでは実際に弾丸がどこに命中したのか、よく判らないが跳弾が胸に命中したのだ。弾丸が銃身を跳ね上げた硬い音が、金城の耳に残っている。
「下は大体制圧した。そっちの首尾はどうだ」
「すまない・・・・・こっちは、やられちまった。まさか窓から入ってくるとは思わなかった」
病室の惨状を一瞥すると、真田は言った。
「仕方ないさ、やつらが上手だった」
「被疑者が殺されちまったんだぞ。これからどうすればいい?」
「ひとりは死んだが、もうひとり手に入った。こいつを尋問すれば、もっと手っ取り早い」
「だがあいつ、大丈夫なのか?」
金城は心配そうに動かない男を見やった。
「下に防弾ジャケットを着込んでいるんだろう。死にはしないさ。弾が当たった感触で、なんとなく分かる」
言うと真田は階下のマヤと連絡を取り始めた。サイレンの音がようやく、聞こえてきている。金城が要請した応援が、やっと到着したところだった。
「・・・・・正直、あと五分早く来て欲しかったぜ」
「無茶言うな、見て分かるだろう? 給料も安いのに、おれたちは忙しい。・・・・・マヤによると、指導者は二名らしい。下で確保した五人はみんな、ネット公募で集められた人間だったとさ」
「五人も捕まえたのか?」
「ああ、襲撃犯と言ったがまとまりがない。なぜか殺しあった形跡すらある。マヤがどうにか生かしたまま、二人確保した。おれたちがいたことを、やつらは感謝すべきだな」
真田が上ってきた階段から、マヤが姿を現した。ブラウスの肩口が切れたのか、その部分に応急処置の包帯を巻いている。
「一人確保したぞ」
「クワ・ハル?」
無我夢中で気づかなかったが、今見ると男は暗色のゴーグルに、下はバンダナを巻いて風体を隠していた。短い金髪が、風に揺れてそよいでいる。
「さあな。でも、君の似顔絵にあった、薫を襲撃したうちの一人だろう」
立ち上がると注意しながら、金城は大の字に倒れている男に近づいた。弾丸が入ったジャケットの胸が上下していた。やはり気絶していたのだ。壁際に飛んだ弾痕の生々しいライフルを拾うと、金城は真田に投げ渡してみせた。
「もう、滅茶苦茶だ」
「今頃気づいたの? 彼らに仲間意識なんかない。脱落した人間はこのゲームには必要ない」
「こいつの他にあと、何人いるんだ?」
真田が聞いた。
「クワ・ハルを入れて少なくとも、あと四人」
「総勢五名か。どうしてそんなことが分かる?」
すると突然、マヤは言葉を止めた。足も止まっている。
「おい、今度はなんだ?」
「伏せて・・・・・今、すぐ」
彼女は言った。その瞬間に、再び彼方の暗闇から無数のオレンジ色の炎矢が炸裂音を響かせて、こちらに爆ぜ飛んできた。
「全員無事か」
真田と金城は、一足早く、磯野の病室に飛び込むことが出来た。最初に気づいた彼女の無事だけが確認できない。射手はちょうど、金城たちの真後ろから狙撃してきたのだ。
「▼×カヲ@ブべる■っ!」
意味不明の甲高い叫び声が、響いてきた。気絶していた男がそれに反応した。似たような言葉を呻きながら、立ち上がる。
「・・・・・おい、動くな」
地を張って回転した男が腰に挿した九ミリ口径のグロッグを抜いたところを真田は撃ち抜いた。弾丸は肩に食い込み、グロッグは暴発して天井の蛍光灯を撃ち砕いた。
「マヤ、どこだ返事しろっ、おいっ、無事なのかっ?」
爆音の中、金城は怒鳴ったが、返事は来ない。
「ちっ」
顔を出した金城に向かって、今度は閃光弾が投げ込まれてきた。しまったと思う間もなく白い光に、闇になれた視界が塞がれる。
ホワイトアウトする光の中、倒れた男を助け起こす、小さな影を金城は見た。すっぽりと頭を覆い尽くすマスクを被り、同じように武装したその影は、子どものように小さかった。
「おい・・・・・誰もいない、逃げられたぞ」
金城と真田が回復したとき、廊下の二人はすでに姿がなかった。マヤの姿もない。真田がとっさに判断を下した。
「地下だ。深夜に出入りする職員用の搬送口が開いているはずだ。急いで人員を手配して下へ回ろう」
二人が地下駐車場に降りると、すでに襲撃者たちは逃走した後のようだった。武装した彼らが通った跡らしく、そこにあったすべての車が無惨な破壊を受けていた。唯一無傷のワゴンの陰に、いつ先に降りたのか、マヤが立っている。
「・・・・・逃げられたわ」
「ちくしょうっ」
パンクして傾いたバンの側面を、金城は思いっきり蹴った。
出口まで状況を確認に行った、真田はマヤを見て言った。
「なんだ、生きてたのか」
「残念ながらね」
いたずらっぽい目で、マヤは真田を流し見ると、
「見た? あの小さい影がどうやらクワ・ハルみたい」
「すまない。磯野もやられて、襲撃犯も逃しちまったんだ」
頭を下げた金城にマヤはなぜかくすりと含み笑いを見せた。黙って、ワゴンの後部座席を開けて見せる。簡易ベッドに脂汗を額に浮かせた磯野が、拘束されて縛られていた。呼吸は苦しかったが、磯野は確かに生きていたのだ。
彼女は言った。
「うちのチームが、尋問を終えたところよ。今、ちょうど入れ違いに、戻ってきたところなの」
「人が悪いな」
真田が言った。マヤは平然と答えた。
「この証人には、手段を選ばない必要があるでしょ?」
「お、おい。じゃあ、これで、やつらを追えるのか?」
希望を込めた金城の質問にマヤは、自信げに肯いてみせた。
「ええ、それどころか今なら、どんな質問でも答えてあげれるわ」
誰も知らない島
「・・・・・久しぶりだよな、兄妹二人で話すのは」
晴文はご機嫌だった。菓子パンを食べ終えた後、クワ・ハルをはじめ、三人のメンバーの姿が消えた。遠くで響くエンジン音からして、どこかに外出したのだろうか。もうかなり長い時間を、持て余している気がした。
「心配しなくてもいいさ。お前らが捕まえた磯野さんを始末しに行っただけだ。二人とも、すぐに帰ってくる。ゲームに失敗したら清算する。それが、おれたちの中のけじめなんだ」
「・・・・・・警察に?」
「いや、病院だよ。意識不明の重態だってな。鶴見さんの話だと、お前らの中に本国から来た凄腕の工作員がいるって言ってたけど」
マヤだ。磯野を叩きのめしたのは。あの子なら、それくらいのことはやるだろう。薫はとっさに言った。
「・・・・・そんな人間、わたしたちの中になんかいないわよ」
言ってから、彼女がそうだと信じる人間はいないことに気づいた。
「まあいいや。それより、やっとまともに口利いてくれたな」
晴文は乾いた声を立てて、笑った。
よく似た人違いだったら、まだ良かった。二十歳過ぎまで見慣れた顔の、共通点よりは相違点をつい、探してしまう。
「ねえ・・・・・本当に晴兄なの?」
諦めていたが信じられず、薫は聞いた。晴文は見たこともない顔で、笑うと、絶望的に深く肯いて見せた。
「馬鹿だな、薫。おれの顔忘れたのかよ」
もちろん、思いも寄らなかった。まさか。突然すぎて思考がまとまらなかっただけだ。もともと知らないだけで、・ISMはずっと以前から、薫たちの周りに存在していたのだから。だが、いくら合理化しようとしても信じられないのは、晴文がクワ・ハルと今、行動をともにしていると言う事実だ。
「・・・・・・・兄さんも・ISMを使ったのね?」
「ああ、使ったよ。二週間失踪して、家族の誰かが探しに来てくれるかと思ってな。でも誰も、迎えに来やしなかったよ。あいつは、母さん任せ、母さんはお前任せだ。で、確か、お前はずっと仕事をしてたんだよな?」
こくりと、薫は肯いて見せた。弁解する気はもうなかった。
「お前のことはずっと見てたよ。なあ、今、誰かと一緒に住んでるのか?」
「クワ・ハルが殺した高校生の女の子の、友達を保護してるのよ。・・・・・ねえ、まだ間に合うから馬鹿なことはやめて」
「お前は警官だろ、薫。だまされるか」
「だましてなんかない。仕事にかまけて兄さんを探しに行かなかったことも、謝る。だから」
晴文は口元をかすかに歪めると、首を振って吐き捨てた。
「その場しのぎの嘘やごまかしはもう沢山だ。お前らの都合でまたいいように、だまされてたまるか。いいか、よく聞け。誰のものでもない、これはおれの、人生なんだ」
「何の話をしているのか、全然分からないよ」
薫は言った。自分でもどんな立場で実の兄にものを話しているのか、分からなくなりかけてきた。
「でもわたしで良かったら、力になるから。だからわたしの話も聞いて。お願い、晴兄」
話の途中で、晴文は薫の頬を張った。顔を反らす余裕もなかった。薫の髪を掴んで、無理やり引き起こす。顔を近づけると、晴文は言った。
「何度も言ってるんだ、思い出せよ。お兄ちゃん、だろ、薫」
頬が熱かったが、自分のものではないように薫には思えた。
「泣いてるのか。そう言えば、泣き虫だったもんな、お前は」
今、どんな涙で視界が滲んでいるのか、自分で、その顔が想像できなかった。
「ねえ、本当になにを考えてるのよ・・・・・」
「清算だよ」
晴文は、愚問だとでも言うようにつぶやいた。
「おれたちの人生は、贖われるべきものなんだ。まだ今なら、修正可能なんだ。クワ・ハルが計算してくれたんだ。おれたちにはちゃんと、その資格がある」
「今なら元に戻れるわ。お父さんやお母さんにも、わたしが一緒に謝ってあげるから。思い直すことは出来ないの?」
「思い直すのは薫の方だ。この実験に選ばれることは、本当に素晴らしいことなんだぞ」
「実験ってなによ・・・・・・?」
「様子はどうだ」
別の声がした。いつの間にか鶴見が入ってきている。
「後の経過に影響するから、説得は念入りにしてくれよ。土壇場で抵抗されちゃ困るからな。おれと女房だって計算上、適合率は基準値超えしてはいたんだ」
「薫は大丈夫です。薫のことなら、おれはなんでも分かってますから」
「まあ、兄妹のケースは初めてだから期待がもてるが、な」
鶴見は薫を一瞥すると、
「後で血をもらうぞ。さっきも言ったとおり、色々と協力してくれよ。女房のときみたいな手荒な真似は避けたいからな」
「あなた、自分の奥さんでなにをしたの?」
薫は聞いた。鶴見は、おどけて肩をすくめてみせると、
「亀の島へ連れて行こうとしたのさ。入場パスは持っていたんだ。でもこれがそうそう、上手くいくもんじゃない。お前ら兄妹はどうかって、これはそう言う話だよ」
「TLE・・・・・タートルランズ・エスケイプ・・・・・あなたたちは亀の島へ逃げるの?」
タートルランズ・エスケイプ。その言葉を出して反応を見たが、鶴見はまったく応えなかった。
「あと、疑問があるなら自分の兄に聞けばいい。お互い、小さいときからよく知った仲なんだ、今のうち積もる話をしておけよ」
適合率、今のうち。これからなにが起こるかは分からなかったが、その実験の後で今のこのままではいられないと言うことはなんとなく、薫にも感じられた。やつらは、自分をどうする気なんだろう。
「・・・・・・わたしのことはみんな知ってる?」
鶴見はいなくなった。薫は、残った兄を睨みつけ、それがやはり無駄だと知ると、深くため息をついてつぶやくように言った。
「あんたにわたしの何が分かるのよ」
「すべてさ。いずれそうなる。おれたちの中で適合率が高い選ばれた一対が、神の知性の空位を埋めるんだ」
彼はすでに薫と会話をしてはいなかった。お互いの言葉が、どちらにも辻褄の合わないうわ言に過ぎなかった。薫からすれば晴文の口調は得たいの知れない熱を帯び、明らかに別人になっている。
もはやこの場の誰と言葉を交わすことも、薫にはむなしく思えてきた。もう説得する気はなかったが、せめて、今の自分の気持ちだけでも、今の兄に分からせてやりたかった。
「なあ菓子パン食べないのか? 食わせてやるよ。なにがいい」
「いらない。今は・・・・・そんな気分じゃない。見れば分かるでしょ?」
「ならコーヒーでも淹れよう。実はいいものがあるんだ」
薫の顔の前に差し出されたのは、彼女のコーヒー挽きだった。いつかの朝、行方不明になり、マヤと探したが見つからなかった。北浦真希を付け狙ったクワ・ハルのように、捜さなくても兄は、薫のずっと近くにいたのだ。
「ミルクに砂糖を入れるだろう? 確か二つだったよな」
言いながら晴文はそれをもって立ち上がった。
「ブラックよ。わたしはいつもコーヒーには何も入れない」
遮るように、彼女は答えた。自分の声が震えていないか心配だった。そんなはずはない、と言う風に晴文は言った。
「甘い方が美味しいんだ。ミルクも買ってある」
臨時ニュースのサインが消えると、二十二時から放送予定のドラマを潰して緊急ニュースのブースに画面が替わる。交錯するサイレンの紅いライトと、入り乱れる救急隊員の列、煙を上げる建物の、ひどく既視感を伴う映像を石原は無言で、目を細めるだけで眺めている。やがて唇を歪めて、ディスプレイに吐き捨てた。
「おい、ついさっき過激派だったのが、もう、暴力団の仕業になりやがったぞ」
運転席の板垣は、苦笑してなにも答えない。石原はひとりごちた。
「まったく、なんでも暴力団のせいにしやがる」
石原の白のベンツは【揺り籠】の入り口に停車した。そこには円を描くように、さまざまな高級車が停車している。その前に居並ぶ色とりどりのスーツ姿の男たちの前に石原は、白のスーツに、茶のノーネクタイのシャツを着こんで降り立った。さっきまでテレビを見ていた携帯電話を胸に仕舞い、片手にシーバスリーガルのボトル、反対側の手で持ったTEC9の銃身を、首筋に叩きつけている。スコッチウイスキーを飲み干すと、空のボトルを板垣に渡して、石原は建物の中に入り、地下室にいる悠里の姿を探す。
「おい、ニュース見たか。横浜の救急医療病院が襲撃されたってよ。お前の言う、クワ・ハルの仕業じゃねえのか」
額に絆創膏、切れた唇の血の痕も生々しいままの悠里は、クワ・ハルが残した回線に自分のパソコンを繋ぎ、ここで取りこぼしたデータの解析を急いでいるところだった。
「閉めて」
悠里は言った。振り向きもせず、気が散ると言う風に手を振る。
「なるべく静かに入ってきたつもりなんだがな」
「お酒の臭いが嫌いなの。家では誰も飲まなかったから」
「ふん、年の割には、なかなかいい度胸してやがる」
「仕事をする以外のことはずっとよく分からないし、興味もない」
吐き捨てるように悠里は言った。そこだけ、感情が籠もっていたところが石原の興を得たらしい。
「そんな目に遭っても? これまでもこれからもか?」
あわただしく、悠里は肯いた。一拍遅れて、石原が言った。
「死んだぞ、お前の親父」
キーを叩くリズムは、それでも止むことはなかった。
「・・・・・・それで?」
「お前が言うことを聞かないと、母親も同じようにするそうだ。いいからやってみろって代わりに言っといてやった」
父親の死は、一時中断した・ISMのサイトにアップされていると石原は言い添えた。
「これでお前がこけたら、一家皆殺しだな」
「・・・・・・裏切らないように今のうちにわたしを脅そうって言う気なら、あまり効果はないと思った方がいいよ」
「脅す気なら、もっといい方法を考えてやるよ」
そんなつもりはないと言うように石原は鼻で笑うと、
「なあ、お前、やくざが怖くないのか?」
「神津よりはまし。少なくとも、あんたはわたしの目を見て、顔色を読んでから、話をしたがる」
「そうだな。おれもあいつをよく知ってるよ。金を作るためには親だろうが親戚だろうが親友だろうが、他人のもんと自分のもんの区別もつかねえ。人から金しぼるのが趣味みたいな男だった」
「へえ」
相槌を打った。悠里はひそかに、自分の知らない神津を知っていた男の顔を盗み見た。
「泰山会の石原さんでしょう? あんたには義父が大分、お世話になったみたいね」
「あいつに、なりふり構わない金の稼ぎ方を教えたのは、そもそもおれだからな」
「・・・・・いい時代だった?」
「昔から騙し合いさ。今思うと、お互い期待しすぎてはいたがな。クワ・ハルとか言うやつも、神津の本当の子供じゃねえのか?」
「そうよ。神津は債務者の家族の中から、子供を買い上げて、負債に見合う利益を回収させるよう、仕込んだ。特に優秀な子は、親からすべての権利を買い上げて、完全に自分のものにした」
「金稼がせてた?・・・・・ガキにか?」
石原は倒れた本棚の上に腰掛けると、煙草を取り出した。
「子供は大人と違って、徹底的に仕込めば絶対に裏切らないというのが、あの男の持論なのよ。クワ・ハルはその中でも、神津の独占欲を一身に集めた優秀な息子で、あっという間に神津のノウハウのすべてを身につけて、たった数年で彼の資産を約八倍にした」
「それにしちゃ妙な名前だ」
白く立ち上って流れてくる煙を睨みつけると、悠里は言った。
「クワ・ハルの親は五歳まで、あいつを物置小屋の段ボールの中で飼っていて、本当になにも知らなかったから。その子を買った神津もクワ・ハルをこの【揺り籠】に押し込めて、一日中パソコンで自分の仕事をやらせ続けた。だからあいつは、自分で世界のことを知るしかなかった。この窓もない世界で唯一外の世界で開いた窓が、電子の世界だったってわけ」
「で、その孝行息子はパソコンで外の世界を知って、仲間集めて親離れに旅立っていったわけか」
「・ISMはクワ・ハルが生み出した神の知性だって。気まぐれに神津がプレゼントした、TLEの廃棄データから、新たなシステムをクワ・ハルが構築しなおしたときの喜びようはなかったわ。神津はこのシステムが完成したら、・ISMを使って、全世界の電子情報を人質にして、君臨するつもりだったそうよ。自分がかつて神津良治だった、すべての事歴を消し去って、世界を脅迫しながら、どこか誰も知らない場所で生きるんだって」
「TLEじゃなくてもそれは出来るのか?」
「・ISMに出来ることで、TLEに出来ないことの方が多いくらいよ。クワ・ハルが天才だってことは確か。さしずめ、わたしたちは、神津の最後の逃亡計画の手伝いをさせられてたってわけね」
「ほう」
石原は壁に吸殻を押し付けると、楽しげに言った。
「誰も知らない場所にね。そんな場所あるのか?」
「エラの詩だそうよ。神津が言ってた。・・・・・『亀の島は嵐を避けて、常に海の上を動く。地図上から姿を消して、母なる大陸に別れを告げて、島はゆったり浮き沈みし、波の間に蠢く』」
「お前はそれ、羨ましいと思うのか?」
「さあ?」
本心を隠して悠里は唇を歪めると、首を傾げて見せた。石原はその表情の変化を見透かそうとするかのように目を細めると、煙を吐くのと同時に言い切った。
「おれは、羨ましい。奪ってやりてえよ。そんな立場を持っている人間がいたらな」
「・・・・・クワ・ハルは逃げるとき、三千億近い神津の隠し財産の大半を持って逃げた。そのお金をもって、・ISMと姿を晦ますだけでも、新しい人生を四、五回は楽しめることは確かでしょうね」
「ああ、そうだな。それで? やつらはこんなところに、手がかりを残したりしてるのかよ」
「だから今、クワ・ハルが、作った掲示板の過去ログを解析してるんじゃない。神津にばれないように、システム全体を移築するには、かなりの時間がかかったはずよ。頻出するワードを検出して、暗号の寓意やパターンを解読すれば、やつらが今どこに・ISMを移したかがすぐに分かるのよ」
「難しいことはわからねえ。頭が痛いのは、こいつだけで十分だ」
携帯電話のストラップを指にかけてぞんざいに振り回すと、石原は言った。
「問題は誰から奪えばいいかってことだ。今、神津の手元にはない、クワ・ハルってやつが持っている。じゃあ、やつはどこにいる?それさえ分かればいい。そのためにお前の言うとおり、色々準備もしてやったんだ。話は分かるな?」
「取引の条件内のことはね。わたしが欲しいのは、お金と新しい身分だけ。なにしろ、まとまった退職金が欲しいのよ。クワ・ハルやあんたや神津が、・ISMでなにをしようと、もともとわたしには何の関係もないのよ」
「その年でリタイア考えてるのかよ? お前、まだ十八だろ」
「もともと子供は遊ぶものなの。あなたの子供はどう? わたしはこの十年、友達と遊んでたことなんて一度もなかった。わたしには、自分をやり直す資格があるの」
「かもな。親父がやくざでもお前に比べりゃ、おれの娘は幸せだ」
さっきの悠里と似たような顔をして首を傾げると、あとの石原は無言で、悠里の作業を見物した。その間に、板垣や他の側近が顔を出して、彼とひそかな打ち合わせに出入りする。
「分かったか」
「ええ、GPSで座標はつかめた。山梨の県境よ、そう遠くはないわ」
悠里は言うと、立ち上がってプリンタの方へ歩いた。
「分かってる、事件は横浜だったって言いたいんでしょ、そう大した距離じゃないわよ。知らない人間の名義だけど、神津の息のかかった財団から購入資金が出てる」
出力したのは、とっくに解散した新興宗教のHPから取った案内図だった。
「クワ・ハルと残り三人のメンバーは、この施設跡地にいるわ」
「そうか。・・・・・・・実はさっき、警察無線を傍受して横浜方面から、山梨の県境に向けて車両が配備されてるって話が入ってきててな。これでとりあえず、お前の首は繋がったわけだ」
「交渉の準備は出来てるんでしょうね?」
「問題ねえさ。ここならどうやら襲撃された病院の対応に追われてる警察の奴らよりは、先回り出来そうだ」
石原は立ち上がると、自分の電話を取り出して、指示を出した。
「出入りだ。そろそろ、準備しろ」
部屋を出て行こうとする悠里を、石原は押しとどめた。
「まだ連絡するところがあるだろ? お前が掛けろ」
「・・・・・まさか神津に?・・・・・連絡する必要があるの?」
悠里は目を見張った。石原は苦笑すると自分でボタンを押した。
「・・・・・・女にはわからねえか」
濡れたタイルに、点々と黒ずんだ血の痕が引きずられるように、続いている。血糊はかすれた線になって続き、バスタブの縁からのぞく四本の足につながっていく。バスタブにまとめて押し込まれているのは、悠里の両親だった。折り重なるように倒れている血まみれの身体は、目を閉じたままぴくりとも動かず、顔や手についた血は、大分前に乾きかけていた。
「ミョンジン」
神津は珍しく、声を荒げてキッチンのミョンジンを呼んだ。電話を切った彼の顔は、もともと黒い憎悪に歪んでいた。これでも自分ではなんとか、気持ちを抑えた方だった。
フロアからはなんの返事もなかった。
「石原からや。悠里のやつが、クワ公の居所突き止めたらしい。急いで出る。至急このゴミ、どっか片付けてくれ」
「またかよ」
「あ?」
ミョンジンはため息をつくと、腹立たしそうに髪を掻き上げた。早口で飛び出したのは韓国語だが、話し方は乱暴で口調は完全に男のものになっていた。
「約束が違うぞ、いい加減にしろ。おれは、お前が完全におれの過去を抹消できる男だと言うから、日本まで来てただ働きしてやってるんだ。おれは女の、新しい人生が欲しい。いつまでおれに男でいさせる気だ?」
「待てよ、約束は守る。だが、・ISMが手元にない限り、それはどうしようもないと言うたはずや。ユーザーが操作できるのは、・ISMで情報を取得するところまでや。本国のお前の出生記録や軍歴、お望みなら家系まで、・ISMがあれば簡単に抹消できる。しかも、お前に、女としての新しい人生を創り出してやることもできるんや」
「それがいつだと聞いてるんだ」
「だから、それは、お前次第や」
胸中にわだかまる怒りをまず押さえ込むと、神津は言葉を切り、
「石原はおれの目の前でクワ公や・ISMを取り上げたい肚や。やつも本気で来る、物を手に入れられるかは、もはやお前次第でしかない」
「・・・・・お前はおれに約束できるのか?」
「出来るさ」
「日本人の汚れた言葉はいらない。命乞いも聞かないぞ。見ただろう? おれたちに、お前らの言葉は通じないんだ」
ごとん、と音がして、死体の腰が跳ね上がって落ちた。二つの死骸を押しのけて、褐色の裸身を血に染めた少年が、蛇のように中から這い出してきた。カーペットに吐き捨てたのは、喰いちぎられた犠牲者の頬の肉だ。
「ズク」
少年の名前を呼んだのか、その後ミョンジンはなにがしかを命令した。少年は肯くと、タオルで身体を拭き、するすると這って自分の部屋へ戻った。
「約束するか?」
ズクが吐き捨てた肉片を一瞥すると、神津は静かに肯いた。
「お前と契約したときと、条件に変更はない。ただ、仕事の内容が変わっただけや。もう・ISMが手に入るんなら、何人殺しても文句は言わん。最低でも、おれをなめたガキどもは必ず殺せ」
「お前だけは必ず殺すとさ」
電話を切った石原は、悠里の顔を覗きこんだ。わざと大げさな苦笑を見せると、
「いろんな人に何度も言われ慣れてるわ、その台詞」
悠里は髪をかき上げて、ため息と一緒に言った。
「神津はわたしになんて答えろって教えたと思う?」
「さあな」
悠里は言った。
「負け犬」
「なかなか面白いな、お前ら」
広場には石原と同じ、ジャケットに二丁以上の銃やライフルで武装した三十人近いやくざたちが待ち受けている。
「行くぞお前ら、邪魔するやつはぶっ殺せ」
闘犬場のようなどよめきと歓声に、辺りが包まれた。
「ちょっと待ってよ。交渉は慎重に進めてもらうわ」
「分かってるさ。でもな、集団には勢いってものが必要なんだよ」
大丈夫かという顔を、悠里はした。察したのか石原はベンツのドアを開けて、秘密話をするように彼女に言った。
「大丈夫だ。人質は傷つけちゃいない」
後部座席の隅で北浦真希が、俯いている。悠里が・ISMで居場所を突き止めてさらわせたのだ。恐怖に硬直した顔は強張っていたが、悠里と石原の顔を見上げると、驚いたように目を見開いた。
「・・・・・・悠里ちゃん」
「久しぶりだね、真希」
言うと、悠里は真希の隣に乗り込んだ。石原がドアを閉めた。
「ずっと学校に来ないから、心配してたんだよ。あの後どうしてたの?・・・・・でもうれしいわ、また本物の方のあんたに会えて」
神の空位
別の病院へ磯野を搬送する手続きを済ませた後、三人はワゴンに乗り込み、マヤの能力を頼りに逃げた男たちの行方をそのまま追いかけていた。
マヤが手配した黒のバンドワゴンは、彼女の指示に従って闇の中を疾走している。横浜の市街地を抜けて山側に入った後、入り組んだ下道を駆使してやはり、山梨県内に入ったようだった。
「おい、なぜ誰も追ってこない」
その頃、異変に気づいた金城が不審の声を上げた。
「クワ・ハルが中に居たんだろう? 警察無線が混乱させられてるんだ。やつらなら、たぶん、そこまでやるだろう」
「相手がこっちの罠にも気づいてるから、今、追いかけないと別の拠点に移動されてしまうわ。そしたら、薫を救える機会は永久になくなる」
「くそっ」
それでも金城は自分の携帯電話や、設置された無線機を使って呼びかけたが、誰も応答する気配はなかった。
「退屈しのぎだ。さっきの話に戻っていいか」
真田がマヤに声をかけた。
「・・・・・まずここまでの話は分かった。クワ・ハルと鶴見、磯野をはじめとする五人が結束した。やつらは数年かけて神津を出し抜き、やつの資産や・ISMを根こそぎ奪い去ったわけだ」
「・ISMの真の目的とやらのためにか?」
「そうよ。【揺り籠】の中で育ったクワ・ハルは、もともと自分の理想を結実するために・ISMを作り上げた。そしてその間に、外のメンバーと連絡を取り合い、怪しまれないよう徐々に神津の持ち物を奪い去る計画を立てていたそうよ。正確には、その初期のメンバーはクワ・ハルを入れて四人。彼らはこのテトラクテュスのシンボルに従って行動していたの」
「そろそろ話してくれよ。なんなんだ、そのテトラクテュスってのは?」
「一般論で良かったら、おれが話してやろう。紙を貸してくれ」
真田は金城から紙とペンを受け取ると、そこにシンボルを描いた。
「テトラクテュスとは、平たく言えば完全数の10を表す隠語だ。古代ギリシアのピタゴラス派では神聖な数字を10とし、それを秘するためにこのような数字で表した」
●
● ●
● ● ●
● ● ● ●
真田は図(上)をペンでなぞると話を続けた。
「これを見ての通り三角形の各辺は、テトラ(4)で構成される。10は世界そのもの、すなわち神を表し、頂点に至る道はどこをたどっても4から始まる」
「底辺4は、四人の人間、すべての点を足すと出来る10は・ISMの寓意。彼らはひとつの頂点、彼らの言葉で言う、『神の空位』を埋めるために活動していたそうよ」
「『神の空位』だって? ・ISMは今でも作動して、おれたちを脅かしてるじゃないか」
「彼らの考えだと、このままでは・ISMはうつろな知性なの。なにを望むでもなく、請われるまま、無限に情報を垂れ流し続けるだけの存在に過ぎない。際限なく情報を求め続け、秘密を貪り続けることに応え続けるものは『神の知性』たりえない。そこには、ひとつの明確な意志決定のシステムが必要とされる」
「完全な『人格』をもった人工知能を創るのが、クワ・ハルの目的だと言うことか」
「その通りよ。エラ・リンプルウッドが果たそうとして果たせなかった領域。人間から『神の人格』を創ろうとクワ・ハルは考えた。選ばれた四人が、まず最初の段階に進んだ。テトラクテュスが、神への四段階を示すように、彼らは一定の段階に従って行動をしているのよ」
あまりのことに、金城はおろか、真田ですら言葉を失っている。
「いかれてやがる・・・・・・まさか、そんなことを考えていやがったとはな」
「いかれてることは否定しないけど・・・・・エラ・リンプルウッドもここまで考えてはいたの。彼はTLEによって抹消した人間たちの人格をわずか十一桁のコードに変換して、人工知能に学習させ続けていた。やがて不可能を悟って彼は方針を変えたんだけど」
「・ISMも誰もが望む情報を与えている裏で、しっかりとその行動をサンプル化して蓄積していたと言うことか」
「ええ、人が情報を得たい、と言う衝動の根底は、常にその情報を基にして行動を起こしたいと言う裏づけがなされている。その意味で、『行動』と言う代価を引き換えに、彼らが望む情報を与え、さらにまた次の『行動』を作り出す、・ISMの本質は膨大なサンプルを得るための心理テストだと言えるわ」
「確かに心理テストとしては理想的だな。誰もが被験者としての自分に気づかず、自分の欲望にまったく正直に振舞うわけだ。テストがもっともはかりたい答えが出やすい・・・・心理学の統計で言う、もっとも信頼性の高いサンプルが検出できるわけだ」
「それが・ISMの正体か・・・・・・」
「しかし、分からないな。磯野を尋問して今分かったことはともかく、なぜ、エラのことはおれたちに秘密にしていた?」
「正直、今も話したくはないの。その話からも分かるとおり、TLEはただの情報テロのための兵器なんかじゃないのよ」
そこで、マヤはまだ結論を言い渋っているのか、言葉を濁らせた。
「・・・・・・選ばれた四人が、・ISMを使って膨大なサンプルを、短期間に一気に集めた。・ISMはこれらのデータを解析して、『神の人格』を創りあげるためのコードを作成するはず」
「それが第一段階だろう? 次はなんだ」
「次の段階はそのコードを実体化するために、ベースとなる別の行動様式を補完する。選ばれた四人の誰かに適合するもう一人のコードを掛け合わせて、割り出されたコードを補正する。その場合、選ばれた二人は、なるべくコードの近い、男女二つの性のものでなくてはならない」
「クワ・ハルを入れたメンバーは全員男だと言ったな?」
「そうよ。だから必然的に、女性が狙われることになる。彼らは、自分の目をつけた女性を、『亀の島』に迎えるために行動を始めた。これが第二の段階。ただ、コードが本当に適合するかどうかは、いくつか段階を踏まなければならないらしいけどね。最初の段階で基準に合わない人間はまず除外される」
「磯野武徳と春海絵菜は合わなかったわけだ」
「たぶんね。最終的な計算式は、エラが遺した基準がベースになっているらしいの。実はそれが真田が追っていた成田空港の職員が殺されて奪われたデータの内容のうちのひとつなんだけど」
「ひとつって・・・・・他にもあるのか?」
「後ひとつね。それは、ある条件下である程度数値を補正できる技術よ。どう言う仕組みになっているか分からないけど、例えば遺伝子のアレルが近い人間だと、成功率が高まるらしいの」
マヤは肯くと、なぜか携帯電話を取り出した。
「なにをしてるんだ?」
「・ISMが再開されて、最初にアップされた写真があったのよ」
「おい・・・・・・これ」
「スレッド名を見て」
マヤから渡されたディスプレイには、額を血に染めて地面に横たわる薫の写真がアップされていた。彼女の指示する通り、そこに書かれているタイトルに、金城の目が留まった。そこにはこう書かれている。
【妹ゲット】
「妹?」
「薫のお兄さん、ずっと行方不明だったって聞いたわ」
「そんな馬鹿な」
金城は、はっとして思い当たった。
「それはおれも聞いてたが・・・・・確か、ちゃんと説得して実家に帰したって話だったはずだぞ」
「それ、嘘よ。お兄さんとは話してないって言ってた。そもそも薫はずっと、あたしを追ってたんだから」
「約束を断るとき、身内の事情は一番言い訳に使いやすいからな」
「・・・・・お前ら、なにが言いたい?」
金城は二人を睨みつけた。真田は話を変えた。
「つまり、薫の兄は最初の四人の中の一人だったってことか?」
「それは分からない、磯野によると彼は新入りって表現されていたらしいから。磯野の前、最初の欠員を埋める一人だと思う。エラの計算式をベースに再計算した場合、適合率の誤差を埋めるのはかなりの困難になるそうよ。他人同士なら、満足のいく数値を出すのには天文学的な確率が必要になる。だからその点、兄妹はやりやすいのよ。ある技術が使えるから」
「その、コードを補正する技術のことか」
「さっき言った通りよ。TLEには、公開されなかった事実がある。その技術が使われれば、あたしたちの知ってる薫には二度と会うことが出来なくなるわ」
「どう言うことだ?」
「コードを補正するには手順がいるのよ。人間の人格は生まれつき持っているものにさまざまな経験を学習して、作り上げられていくものなの。例えばこう考えれば分かりやすいんだけど、生まれつきあたしが1、金城が2、真田が3を持って生まれてきたとする。それに4と言うまったく同じ経験を足し算でも掛け算でも加えた場合、単純に考えて三人は全員、違う数字になるはずでしょう?」
「確かにな。人間の人格はそんなに単純に割り切れるものじゃないが、幼い頃に同じ経験をしたとしても、元からもっている性格によって、どんな人間になるのか人によって違ってくるというのは、なんとなく理解できる」
真田に続いて金城も肯いた。
「おれもそう言ってもらえれば少しは分かるよ。つまり、それをもう一度まっさらな段階に戻して一からやり直すわけだ」
「育った環境や受けた刺激などいろんな変数があるからそう、単純なものじゃないけどね。ただ、イメージはそんなところ。割り出したコードをもっともシンプルな値に初期化して、同じ刺激を与えて徐々に補正していく。そのとき理論上二人は、ほぼ完全に一致した、一卵性双生児以上に完全に一致した一つの人格になる。エラはその補正の段階には至らなかったけど、人間の人格を初期化するシステムはすでに実現していたわ」
マヤは言葉を切ると、はっきりと言った。
「TLEは人格をリセット出来る。簡単に言えば、人間のひとりの人生を本当の振り出しに戻せるの」
あなたたちが行き着く場所は
「起きろ」
身体を突いて、誰かが薫を揺り起こした。鶴見だ。
「よく寝たみたいだな。移動するぞ。立て」
眠って起きても、やはり拘束は解かれていなかった。だるい身体を奮い起こして薫は立ち上がった。いつの間に眠っていたのだろう。そう言えばコーヒーを飲んでから、少し変だった。なにか薬が入っていたのだろう。気分が変だ。身体が冷えて、頭痛がした。肩からかけられていた、薄いタオルケットがするりと落ちた。
「兄貴か?」
言われて初めて気づいた。思わず辺りを見回した。
「採取したデータを解析中だよ。・・・・・お前とあいつなら中々、期待が持てそうだ」
「・・・・・・なにをしたの?」
薫は聞いたが、相手は答えをくれなかった。クワ・ハルに次いでこの男は余計な色を表に出さない。
「時間がないんだ、別にやましいことはしてないから安心しろよ。やつの提出したデータに誤りがないか、あんたに確認しただけさ。どんなによく知った仲でも、秘密はあるものだからな」
「わたしはここ数年、兄とはろくに口も利いてなかった」
「そうか、兄貴の方はお前のことに詳しかったけどな。まあいい、家庭の事情だ。別にそこに興味はない」
「わたしと兄を使ってなにかをするのね?」
「あいつから少しは、話を聞いたのか」
「少しはね。正気を疑ったわ。誰かの秘密を知ろうとするシステムを作ったのは、そこからデータを集めて逆にお互い秘密を持たない完全なひとつの人格を作るためだったとは思わなかったわ。・・・・・・そんなこと本気で考える人間がいたなんて、今でも信じられないくらいよ」
「お前らはアメリカ本国のTLE事件の関係者と接触して活動していると聞いていたから、ある程度掴んでいるとは覚悟していたんだけどな。あのシステムはもともと、人間そのものの人格を修正したり、抹消したりするために創られたものさ。特殊な計算式で人間の人格をコード化することで分析する。もともと優れた心理学者であったエラ・リンプルウッドの発想の原点はそこなんだ。
人種の坩堝と言われて久しいアメリカはまさに、人的災害の宝庫だ。無数の理解不能の精神障害者による犯罪に、果てしなくきりのない宗教対立にテロリズム、教育から仕事、生活の現場まで、根深く爪あとを残す人種問題。それを根絶できる手段が、完璧な人工知能を作る副産物で出来るものなら、予算は惜しまない。
修正不可能な人格が治療できるというなら例えば一万人に一人の割合でいると言われ、全米でも被害が後を絶たないサイコパスや、それ以外の危険な人格障害やアルコールをはじめとする依存症の矯正やら、果ては軍事上の問題になっている地上戦に恐怖心を持たない兵士の人格育成やら、利用価値はいくらでもある。だからアメリカ政府は、いまだにTLE事件の顛末については情報の公開を拒否しているわけだ」
「人間はそんなに簡単なものじゃない。経験や思い出、今まで生きてきた人生をそう簡単に消し去ったり、修正できるはずはないわ」
「どうかな。現代の認知心理学の台頭はもともと、人工知能の研究に、歩調を合わせる形で起こったものだ。九〇年にブッシュ政権が『脳の十年』を宣言して、アメリカの医学界は一気に脳研究へと傾斜したが、そもそもは脳を、もっとも複雑で高度な、ひとつの人工知能ネットワークとみなすプラグマティックな考え方から来ている。まったく、いかにもアメリカ人的な考え方だな。例え人間の精神でも、配電盤さえいじる都合がつけば、宗教の暴走も精神の異常も人工的に修正しうると思っている。
大体、脳が極めて微弱な電流のネットワークによって推進されていると言う事実は、戦争が始まる前から分かってたことだ。現在では、最新のSQUID(超電導量子干渉素子)センサーを使えば、脳の活動する際に起こる微弱な電磁波を瞬時に捉え、それを立体的に表示することまで可能になった。この厚さ約二・五ミリの灰白質を覆う、約五○○億個を駆け巡るニューロンが伝達する微弱な電波のパターンこそが、人間の行動様式、すなわち人格だと言っても、過言ではないわけだ。例えば、多重人格を生み出すとされている解離性同一障害も、こうした脳のネットワークのパターンが変化することで、人格が変異すると言うのが最近の仮説だ。
人類直系の子孫が生まれてから五百万年、人間と言う神の似姿をした複雑極まりないネットワークシステムの正体すなわち自分と言う正体に、人間はコンピュータと言う自らの似姿を創ろうとすることで、ようやく近づくことが出来たわけだ」
「あなたの専門的な理想やご高説はよく分かったわ。それでも、わたしは思い通りになんかならない。少なくとも100%適合した完璧な人格なんて信じないわ。あなたたちの考え方は偏ってる。秘密を持たないから、嘘やごまかしを許さないから、相手を信頼できるとは限らないはずよ」
「そうかな」
熱くなった薫を鶴見は嘲笑して言った。
「お前はおれたちや・ISMを否定する側にいるわけだが・・・・じゃあ、おれたちはなぜ、他人より多くの秘密を知りたがる? 人の秘密は知りたがる癖に自分の秘密はどうにか隠したがる? 人間が情報を得たいと言う衝動は、ただの危険回避の手段に過ぎないんだ。おれは精神科に二十年いたから分かる。結局みんな、隣にいる誰かが怖いんだよ。他の誰でもない。気を許しあった恋人や、血を分けた家族が怖いんだ。なぜかって? 他人だからだよ。別の意志を持った違う誰かだからだ。そいつらと暮らしていることが不安でたまらない、彼らの考えていることが分からない、見捨てられたくない、そのうちもしかしたら自分独りだけが、気づかないうちに不利益を被り続けているんじゃないかって、ある日突然考えるんだ。そして間の悪いことにそいつは決して、ただの気のせいや、間違いなんかじゃなかったりする」
薫は黙って、鶴見の言うことを聞いていた。彼は続けた。
「悪い予感は当たるものだ。それはおれたち自身が自分の利害だけを考え、それを行動様式にして生きているに過ぎないからだよ。心が繋がった、なんて思っているのは、ただの妄想なんだ。あらゆる人間の行為はどこまでいっても自己満足で決定されている。無償で誰かに奉仕することも、無条件で誰かを愛することも、常に自分がなんらかの満足を得るためのものなんだ。
だから誰かが自分の期待を裏切ったとしてもそれは、裏切るんじゃない、ただ、今の状態に価値を見出せなくなったから行動を変えただけなのさ。快楽原則に従って生きている人間は、いつも自己の満足に不満を持つと同時に、危機感を持っているんだよ。常に自分の満足が侵される危険にさらされているから、その領域を守るために、或いは自分の新しい領域を獲得するために、秘密を探るのは、人間の本能的な自衛手段なんだ。これは生きている限り、もち続けるものだ。例えばそれがまったくない相手がいたとしたら、どんなに素晴らしいとあんたは思わないのか? おれたちが創りあげようとしているのは、まずはそんな存在なんだ」
「あなたは間違ってるわ」
突然、薫は言った。鶴見は突っぱねるように言い返してきた。
「嘘だ」
薫は首を振った。
「嘘じゃない。怖いから、誰かを攻撃するために、相手のことを知ろうなんて普通、人は考えたりしないわ」
「気づいていないだけさ。怖いはずだ。誰もが、気づく。誰がなにを考えているか分からない世の中だぞ。自分の満足のためだけに、朝起きて、体調がいいから家族を皆殺しにしようと思いつく人間だっているんだ。お前だってまさか自分の実の兄貴に無理やり、ここへ連れてこられたんだ、分かるだろう? 知らない間に、常に誰かに陥れられる危険を感じてあんたは生きられると思うのか?」
「じゃあ、逆に聞くわ」
薫は言った。
「それならあなた自身は、どうして誰かを怖いと思うの? あなたを常に誰かが裏切る可能性があるから? そんな経験があるから? もし怖いとしたら、それはあなた自身が人を許さないからよ」
言い切ると、薫は鶴見を睨みつけた。薫の目にまた、理由の見つからない涙が滲んできた。だが、負けるわけにはいかないと思った。ただ無性に、この男に負けたくなかった。二人は無言のまま、しばらく、立ち尽くしていた。
「気の強い女だな」
やがて、鶴見は吐き捨てるように嘲笑混じりで、こう言った。
「しかも頑固で強情だ。県警で本部長をしていた親父に似たのか? あんたの兄貴の分析は中々的を射てたぞ」
「あなたが精神科医を辞めたのは正解ね、鶴見昭二。・・・・・あなたみたいな人に、まともに人間のことが分かるとは思えない」
はっきりとフルネームを呼んで、薫は言い返してやった。反応は顕著だった。自分の名前を知られていることが分かると、鶴見の顔色が変わった。
「・ISMで調べたのか? なぜ、おれのことを知ってる?」
「あなたのことは前から知ってるわ、鶴見。わたしは直接、見たの。あなたは、嶋野美琴を爆死させた現場に立ち会った。彼女に麻酔を打ち、苦痛を持続させた。恐怖で許しを請う彼女を、残虐なゲームで殺した。・・・・・・わたしはあなたを、絶対に許さない」
「直接見ただと? なに馬鹿なこと言ってるんだ、頭おかしいのか? お前が現場にいるわけがないだろう。・・・・だいたい」
「・・・・・・・・・」
殺気を込めて睨みつけてくる薫の目線と合うと、鶴見は言葉を止めて、表情を強張らせた。じっくりと相手の目を見て薫は言った。
「わたしはあなたたちの秘密を知ってる。・・・・・わたしが、証言する。あなたたちは裁きを受ける。彼女が苦しんだ分は必ずね」
「あの女は罪を清算する必要があったんだ。そういうルールだ。我々はただ、それに見合った代価を請求しただけだ」
「ええ、あなたたちも代価を払う。・・・・・わたしは警察官よ、無数の悲惨な被害者を見てきたわ。だから魂や死後の世界について考えることもある。あなたたちが本当に相応しい場所は、わたしが自信を持って言えるわ。そんなことのために数え切れない人間を犠牲にした、あなたたちに相応しい場所は、地獄よ」
「地獄なんてあるものか」
顔を背けると鶴見は吐き捨てるように、どこかへ向けて言った。
「死ねば、バクテリアに分解されるだけだ。そして死ぬのは、危険を回避出来なくなったときか、その必要がなくなったときかだ」
「わたしを殺したってわたしを奪うことなんて出来るはずない」
「殺すって? 人聞き悪いな。夜と朝を迎えるようなものだ。生まれ変わって目覚めるのさ。朝になれば、下らないことはすべて忘れてる。地獄だの魂だのなんて、つまらないことも考えなくなる」
鶴見は乱暴に、薫の肩を掴んだ。
「来いよ、興味があるなら見せてやる」
薫を連れて、鶴見は歩いた。施設全体はやはり、かなり広大なものらしかった。造りもかなり入り組んでいる。薫がいた小部屋は半一階の端で、別の造りの棟と中で繋がっているようだ。同じ小部屋が無数にあることから、ここは相当の人数を収容する宿舎のようなものなのだろう。深い山の中の気配、それにところどころに見られる神秘的なモニュメントの名残。それらからして、ここは元は、宗教集団の修行場だったのかもしれない。
長い階段を降りて、鶴見はまず母屋の一階の広場に向かった。かなり薄汚れ、消えかかってはいるが、ドーム型のロビーの天井に、大きな曼荼羅が描かれている。
「くそっ・・・・・馬鹿野郎、痛えよ、畜生っ」
自分で処置をした患部を押さえながら、迷彩服の新井が興奮した面持ちで鶴見と薫に目を留めた。
「罠張ってやがった、ポリ公の仕業じゃねえぞ、このやり口は。警察も張ってねえからおかしいと思ったんだ・・・・・・病院中も手の込んだトラップだらけだった」
「TLE事件の本場から、経験者が入り込んできてるんだ、それくらいの真似はするさ。日本の警察ならともかく、そいつらに追われると厄介だ、後で対策を考えよう。まさか、つけられたりはしてないだろうな?」
「その辺は上手くやったよ。日本人の男が二人と・・・・・あと、もう一人は女だった気がする。声が若い女だった」
「女?」
鶴見は顔を歪めると、一瞬考えるふりをした。横目で薫の反応をうかがっているのだろう。薫は首を振って、
「わたしは捜査課の刑事よ、だからなにも知らない。その連携機関は公安と接触しているとは聞いたし、捜査の協力も要請されたけど、わたしたちの目的はあくまで殺人事件の捜査だった。磯野も捜査課がネットの犯行予告を分析して、緊急逮捕しただけのこと」
「見え透いたはったりかますな。捜査課以外の人間が、お前と動いていたのを私たちは知っているんだ」
「お化けだよ」
部屋の隅にいたのか、クワ・ハルが唐突に声を上げた。
「そっちからは見えないはずなのに、じっと見られた」
鶴見はクワ・ハルを見ていたが、やがて理解不能だという風に肩をすくめた。黙ってろと、本当は言いたいのだ。この男にはどこか、人を喰った根拠のない誇大なエリート意識があると、薫は思った。
「・・・・・この女のことは、新入りに任せきりにしてたからな。我々は神津にも、やくざにも追われてるんだ。実験を完成させたら、我々も、さっさと消える算段をしないとな」
「『亀の島』か。本当に見つかりっこない場所なんだろうな」
「完成した・ISMやその周辺技術を使って、いろんな国に売りこめば、逃げる必要もなくなるさ。米国だってなんだかんだ言って、TLEが惜しかったんだ。国同士パワーバランスが、すべてを解決してくれる」
「それはまた壮大な夢ね。そう上手くいかないことを祈ってるわ」
薫の皮肉を、鶴見は黙殺した。
「で、どうする、クワ・ハル。ある程度はここで済ませていくか?」
「人格のリセットとコードの補正まではここでするよ。・ISMで集積したデータの演算もそろそろ終わるからさ」
「警察動いてるんだろ、大丈夫なのか?」
「いくつも誤認情報で誘導したし、連携も遮断しておいたから、向こうのシステムが復帰するまでしばらくは平気だよ」
「ぎりぎり朝までだな。新井、お前の傷のほうは大丈夫なのか?」
「ああ、肩と肋骨だ。ヒビはは入ったろうが折れちゃいない。重装備で助かったよ」
「すぐ診てやるよ。お前にダウンされると困るのはこっちだ。クワ・ハル、新入りとこいつを下へ連れていってくれ。私はもう、この女の相手は疲れたよ」
下、と言うのは、薫が降りてきたのとは別の実験棟のような施設のことらしい。厳重な二枚の鉄扉の向こう、暗い廊下にラボのような密閉された引き戸の部屋がいくつか、続いているのが見える。
途中まで薫は、クワ・ハルと二人きりを余儀なくされた。マスクをした少年は薫が顔を向けるだけでも、嫌がって話をしなかった。
「妹」
気まずい無言でしばらく行くと、なぜか今度は、クワ・ハルの方から唐突に話しかけてきた。
「晴文が言ってた。お前、真希と暮らしてるのか?」
薫は首を振った。やはり彼らは、マヤと真希が入れ替わっていた事実を知らないのだ。
「真希は警察が保護してる。あなたに居場所を言う気はないわ」
「別にいいよ。もう要らないから。ずっと準備してたのに、計算したら、真希は合わなかった。適合しなきゃ、要らないんだ」
「それならどうして今、わたしに真希のことを聞いたの?」
「別に」
クワ・ハルは顔を背けた。改めてみると彼の身長は一五八センチの薫と比べても、七、八センチは小さいように思えた。
「あなた、神津良治の息子? どうして神津から逃げたの?」
「ぼくは、クワ・ハルだ。ぼくは男で、お前は女だ。妹に話したって分かるはずないだろ」
「どうして? 女のわたしには分からないこと?」
クワ・ハルはライフルの銃口を、薫に向けた。
「おい待ってくれよ、撃つな」
晴文の声がした。迷彩を脱ぎ、とってつけたような白衣をまとっている。
「シミュレーションの算定結果が出たんだ。99・85%以上の適合だ」
「分かった。今、確認する。晴文は妹を連れてってよ」
薫とやや視線を交わした後、クワ・ハルは今度はそこで晴文に薫を託すと、廊下の奥の部屋に入っていった。
「なあ、鶴見さんから、話を聞いたんだろ。すごいことだ」
「呆れたわ。研究者だった人が、実験体になって満足なの?」
「何言ってんだ、むしろ名誉だよ。実験に参加するのにこれ以上の第一線はない。他のみんなが適合しなくて本当によかったと思ってるよ」
諦めきれなかったがもはやなにを言っても無駄だと、薫は悟った。
「・・・・・・一つだけ、聞かせて。嶋野美琴、彼女を拉致して殺したメンバーの中に、兄さんはいたの?」
「いたからどうだって言うんだ」
「答えて」
晴文は首を振った。
「・・・・・そのとき、おれはまだ入れてもらってなかった」
「本当に?」
「新しい基準で計算したときに、北浦真希が適合していたら、声なんかかけてもらえなかったさ。それまでずっと、お前のことだけを追いかけてたんだ、おれは。・・・・・・薫」
「ねえ・・・・・そんなにわたしが憎い?」
「そうだよな。お前、おれを生け贄にしたもんな。今じゃ、おれだけクズ呼ばわりだ。お前だって親父のもくろみを裏切って、東京で勝手に警官になったのにな。・・・・・おれが研究室に残れなかったのは、無能だったからじゃないぞ。誰も、おれを助けてくれなかったからだ」
最後の一言まで吐き出しつくすと、晴文は言った。
「おれたちにはやり直す権利があるんだ、なあ、薫。お前だってさ、本当は警察官になんか、なりたくなかったんだろ? 小学生の頃、学校の先生になりたいって言ってたじゃないか」
「違う」
薫は言った。
「・・・・・わたしはちゃんと、なりたいものになった。兄さんはなれなかった。それは他の誰のせいでもないし、誰を責めたってどうにもならないことなのに」
「お前、親父に似てきたな。そっくりだよ、人の話聞かなくて、強情で、変に説教がましいところとか」
「さっきも言われたわ。でも、だからなに?」
晴文は、首を振った。
「いらだつのは、お前におれの気持ちが分からないからだ。怖いからだろう? おれも同じだ。今にそうじゃなくなる。おれたちはそもそも、同じ遺伝子から出来た実の兄妹じゃないか」
薫は殺気を込めて身体を緊張させた。しかしその無駄な努力は、反射的に晴文が取り出した拳銃によって制止された。彼は言った。
「行こう。別房に移ってもらう。途中、施設を案内しよう」
気のせいだろうか。どこかで、さやかな雨が降る気配がした。
かけひき
暗い、夜の森の中に車が入ってくると、さすがに心拍数が上がるのが自分でも判った。雨が降り出すと藪の匂いもいっそう強くなってくる。痺れた指先を握り締めると、浅く早くなった呼吸を整えるために、真希は深いため息をついた。
「怪我の具合はどう?」
隣のシートに乗った悠里が聞いてくる。
「知らない人の車に乗っても、もう平気なの? あんたが、とても怖がってたって、森田たちから聞いてたんだけど」
悠里の顔が近づいてくる。彼女は言った。
「やっぱり、あんたが本物の真希だね」
反射的に、真希は顔を背けた。悠里のその、なぶるような声音をよく覚えている。思えば去年の暮れ辺りから、こうしていじめが始まったのだ。どうして自分が嫌われるのか、分からないまま、仲間はずれにされた。誤解が募ってそうなっているような気がして、理由も分からないのに謝ろうと弁解したら、今度はそのために言うなりにならざるをえない状況になってしまった。
それでも、二学期が終われば、ほとぼりが冷めると思って真希は我慢していたし、三学期は二年生が終われば、どうにかなると思っていた。期待とは裏腹に現実に認識が追いつかないうちに、潮が引くように、中学からの友達も、みんないなくなった。
「・・・・・ねえ、教えてよ。山の中へ連れて行かれて輪姦されそうになって、それから誰が替わりに学校に行ってたの?」
(・・・・・・いや・・・・・・)
あの晩は。思い出すだけで、息が詰まる。全員、白い息を吐いていた。打ちっぱなしのコンクリートが冷たい廃屋の中に、野外用の照明が激しく光っていた。真っ赤なファンヒーターが熾っていた。
誰かがカメラでも撮影しようと言い出して、車の中のデジカメを取りに行った。携帯電話を構えている男が、真希のブラウスを引き裂いた。スコップを持った男が、すぐ傍で穴を掘っていた。大人しくしないと、首まで埋めて山に置き去りにすると脅された。服を脱いで、自分から裸になれと強制された。拒否の意思表示もしていないのに、殴られてのしかかられた。胸が詰まるようなディップの匂いに気分が悪くなり、繰り返しえづいた。
どん、と男が顔を伏せ、その体重がすべて預けられたとき、真希は男に首筋を噛みちぎられたと思い、ぶるっと身体が痙攣した。土のついたスコップで後頭部を殴られて、男が気絶させられたのだと言うことを理解するまでに、長い時間が掛かった気がした。
「大丈夫?」
ライトに浮かび上がった顔は、どこか見慣れたような、黒い髪の女の子だった。真希の顔を見ると向こうも同じ感想を持ったらしく、目を見開いて、少しだけ首を傾げた。
その子は、真希のことをよく知っていた。恐怖に緊張した気分が麻痺したまま、ほとんど夢見心地で、真希は彼女の話を聞いた。請われるままに、真希もここに行き着くまでの自分の話をした。彼女・・・・・マヤはほとんど、何の感想も挟まずにすべて聞いていた。やがて彼女は静かに言った。
「じゃあ、あたしが代わりに学校に行く。制服を貸して」
「・・・・・でも」
「ゆっくり休んでいて。あなたの問題の解決は保証しないけど、あなたの話には価値があったわ」
自分とそっくりなのに、中身は全然違うと言うことを差し引いてもマヤは不思議な子だった。消灯後の病院でも、彼女はひっそりとどこからでも現れた。
マヤの話し方はたまに聞き取れないほど小さくさざ波が立つように静かで、話していると、なぜか心が落ち着いた。マヤは無駄なことは、ほとんど話さないから、無言で添ってくれたときもあった。しばらく何日も、彼女は本当に真希の影のようだったのだ。
マヤが誰に揺るがされることのない強さを持っている反面、彼女以外の誰にも踏み込めない領域を抱えていることは、真希にもなんとなく分かった。
彼女のように振舞うのは、もちろん真希には不可能だった。それはマヤが、真希のような生活を送ることが出来ないのと同じことだ。ただ、マヤと同じ、信念を持つことは出来ると思った。
「勝てなくても、相手に心から許しを請わないことよ」
マヤは、彼女の手を握って言った。
「相手が自分を許してもらえると期待しないこと。心からそうすることは、相手にすべてを委ねると言う意思表示だから、その覚悟がない場合はしない方がいいわ。そのときにもう一度冷静になるの。これは、あなたがまた狙われると思うから言うんだけど」
真希の怯えている姿を見たせいで、彼女を連れてきたやくざたちも、悠里も彼女の身体検査を行わなかった。心から降参しないと言うのは、そのことなのだ。緊張で膝の間で握り締めるふりをして、真希は発信機のスウィッチを入れていた。マヤは言っていた。
「スウィッチを入れておけばあたしが来なくても、真希を護衛しているチームの人間か、公安部が必ず助けに来る。真希の重要な仕事は状況を発信し続けることと、助けが来るまで冷静でいること」
今のところ、真希は何とか冷静でいられていると自分では思っていた。悠里が自分をどこに連れて行くのか、なにをしようとしているのか、まったく判らなかった。それでも出来る限り最後まで、マヤを信じようと思った。苦しくなって真希はまた、深く息をついた。
発信機のスウィッチを入れてから、もう二時間近くが経っていた。
次に薫が入れられたのは、今度は畳一畳ほどの天井の低い、文字通りの隔離房だった。恐らくは脱走者や反抗的な信者、子供を虐待するときなどにここを使ったのだろう。扉も強固だし、唯一ついている天窓は、上枠が開くタイプで上ってもそこから出られそうにない。薫は時を待つしか手がなかった。
そう、悠長にもしていられない。鶴見の口ぶりでは、早々に、ここを発つ予定らしいのだ。薫の身の安全も含めて、リミットは朝までだ。
晴文は嬉々として、薫に施設内を案内した。そこに設えられた最新の医療機器から科学設備まで、これらを、鶴見は約十年がかりで揃えたと言う。資金源はすべて、クワ・ハルが横流しし続けた神津の資産だった。
「神津のやつもご苦労だな、自分の手に入れたTLEの廃棄データのお蔭で、・ISMが出来たと思ってるようだからな」
途中から来た鶴見が、薫の前で機器に解説を加えたついでに漏らした。
「クワ・ハルは天才だ。・ISMの基礎データはあいつがもっと以前に、独力で完成させたものさ。やつが、香港マフィアややくざの目を掠めて手に入れてきたデータなど、補助的なものに過ぎない。要はやつの目が、ここの向かないようにするための餌だからな。やくざ連中もお前らも、いい具合に海外に逃げた神津に目がいってくれて本当に助かったよ」
「なぜ、そんなことを今、わたしに?」
「誰かに話したかったからさ」
鶴見は歪んだ笑みを浮かべて答えた。
「どうせ、今のお前は消えるんだ。明日からは、別のお前だ。全部話したって私に、損はないだろう?」
入るときに廊下の時計を見た。午前一時を回ったところだ。もう二時間くらい、経ったかもしれない。長い時間だ。死刑を監房で待つ、囚人の恐怖だ。全身の震えを、薫は深呼吸をして懸命に御した。一人になると心細い。最後まで、希望を捨ててはいけない。でも。
今、ここにいる水越薫は、生きて朝を迎えられないかもしれないのだ。それからはどうなる? 想像もつかなかった。ただ殺されるより不安だった。単なる記憶喪失ではない、自分は本当に消されるのだ。鶴見の話を聞いていると、半信半疑ながら、その恐怖が具体的な形で頭をもたげてくる。
この監房に入る途中、薫は、放心状態でベッドに繋がれている、半裸の中年女性を見せられた。紐の緩んだ下着姿。長い髪は油気を失い、顔の半分に垂れかかっている。長い鷲鼻の上の二つの目が気配に反応して、ぎょろりと薫を凝視した。薫には分かった。
その目が、喩えようもない恐怖に染まっていたのを。
「元・妻だ。彼女の希望でとっくに離婚が成立したがね」
鶴見は胸ポケットから注射針のセットを取り出した。準備をしながら、妻の方に手を翳す。女はぶるぶると身体を痙攣させてそれに反応した。恐怖の対象は鶴見に移り、慄いているのだろうが、女は細かく身体を震わす以上の行動を取ろうとはしない。
「麻痺しているわけじゃないんだ。なにかを感じても、それを訴える手段を知らないだけだ。抱き上げると身体を縮めたり、口の端になにかを持っていくと吸ったりするなどの、新生児の原始的な反射は残っている。知覚も正常に機能してはいるんだが」
しなびた腕を出し、薬品を注射器で注入すると鶴見は言った。
「おいおい、なにをそんなに怖がっているんだ・・・・・・私が君になにか不利益になるようなことをしたことがあったと思うか? 常に私は最良の選択を君に提示した。なのにいつも、君がどうして私を拒否するか、どうもそれがわからないんだけどな」
赤ん坊に話しかけるような眠たげな口調で、鶴見は語りかける。やがてみるみる女の筋肉に緊張と痙攣が緩んでいき、恐怖は溶けるように閉じた女の目から消えていった。夢を見る術も知らないまま、彼女は静かな眠りに就いた。握った手を離すと、鶴見は言った。
「妻は非協力的で、処置のたびに暴れ狂った。そしていざ、実験をしようと言う段階で、房内で発狂してしまったんだ。彼女の心に烙印された恐怖だけはどうしても消えなかったようだ」
「・・・・・無駄な抵抗はやめろと?」
気力を振り絞って、薫は言った。
「そう言うことだ。後で苦しむのは君や君のお兄さんだからな」
鶴見の最後の言葉が、薫の耳に今もこだます。
「安心しろ、次はもっと上手くやる」
がたりと重たい鉄錠が下りる音がして、唐突にドアが開いた。暗闇に漏れる外の明かりに、薫は息を呑んだ。ついに執行のときが来たのだ。肩からかけた毛布を掻い寄せて、緊張で醒めきった瞳を動かす。鍵を持って立っている男は新井だった。しかしどこか、様子がおかしかった。
「・・・・・今、二時半だ」
薄闇に光る時計を誇示して、新井は言った。
「まだ準備に時間が掛かるとよ・・・・・一時間はある・・・・一時間あれば、何回済ませられる? おれなら六回はいけるぞ」
後半の口調は薫に問いかけるというよりも、自分自身に問いかけたもののようだった。新井の意図を感じ、薫は身を硬くした。次の瞬間、屈強な新井の身体が全体重をかけて薫を押し潰してきた。
「やらせろよ」
新井が言う。腋臭に混じって、アルコールの甘い匂いが香った。
「いいだろう? 明日にはすべて忘れちまう。あれのやり方だって楽しみだって。あんただって最後にやっときたいだろ?」
恐怖で身体がすくむような次元に薫はいなかった。全身全霊をかけて抵抗したいと思っただけだ。嫌悪感。急な圧迫に、肺から空気が搾り出される。必死のあえぎが、新井をますます興奮させる。
「おいっ・・・・・・大人しくしろっ」
拘束は解けているが、手首を押さえられ、足も封じられ、抵抗らしい抵抗は出来ない。上下の下着を割って、新井の指が乱暴に滑り込んでくる。ざらついた指が擦れて痛む。薫は抗う術もなく痛みに堪えるしかなかった。なにしろ胸に身体を密着されると、金的を蹴り上げる隙間すら出来はしないのだ。
落ち着いて、冷静になって。暴れ馬を上に乗せながら、薫は必死になって波打つ自分を宥める。新井の拳を避けきれず、鼻が熱くなった。もうどうにでもなれと言う気分になって、男の暴力に身を任せている自分が頭をよぎった。許しを請うことを、相手が受け入れることを、期待してはいけない。チャンスを逃せば、そのみじめな気分に自分を殺されるだけだ。心も身体も息の根を止められてしまう。気を鎮めれば、チャンスは必ず見えてくるはずだ。
「黙れっ」
がばっと新井が突然、身体を起こした。よだれを滴らせて、なにかを叫び散らす。新井が荒れ狂うのではないかと薫は恐怖した。
しかし新井が怒気をこめ話しかけているのは、薫にではなく、別のものだ。なぜか彼が怒鳴っているのは、自分の腕時計だった。
「うるさいっ、ぼそぼそ話しかけるなっ! 邪魔するなっ、もうこの女はおれのもんなんだっ」
毒づくと、新井は自分の腕時計をむしり取ろうとした。あまりに夢中になっていたのか、そのとき中腰に身体を浮かした。チャンスは一回だ、それが今、来た。両肘を使って上体を起こしながら、薫は渾身の力を込めて新井の金的を膝で蹴り上げた。
呻きながら、新井は飛び上がった。その一瞬、並みより突き出たあごに薫はフック気味の掌底をねじ込んだ。長いあごが急角度で触れるほど、脳は強く揺れる。身体の力が抜けた新井を押しのけ、薫は立ち上がろうとした。
「待て、こら」
ブラウスの裾を掴んで引き倒されそうになる。下着の紐が伸びて食い込み、足がもつれた。無我夢中で背面に肘を叩き込む。鼻骨らしき硬い手応えが返る。ついに薫は新井を振り切って外に出た。
「おい、なに逃げてんだ・・・・・・」
ぶっ殺す、薫の背に新井の怒号が降りかかってくる。だが、それもかなり、遠ざかってからだ。
実は、このとき新井は逃げ去る薫の後ろ姿を捉えていた。薫の白いブラウスの背がニッケル加工の四十口径の射程距離内にあった。
「新井、なにしてんだ」
急に肩を揺すられて、新井の狙撃は中断された。晴文だ。息を切らせて、駆けつけてきたらしい。新井は顔をしかめて、
「逃げたんだよ、お前の妹が」
「本当か?・・・・・どこへ行った?」
彼は別の用事で来たのだ。初めて聞いて動揺を見せた。気づいていないと知って、新井はほっとした。
「なんだよ、どうした」
「あんたがいないと困るんだ。・・・・・・至急、準備をして、鶴見さんとロビーに同行してくれって」
「だから、なんでだ」
血が出ているが、折れてはいないようだ。濡れた鼻を押さえながら、新井はいらだって聞いた。晴文は言った。
「行けば分かるって。とにかく武器を携帯してきてくれ」
クワ・ハル、鶴見、それに遅れて到着した新井が、母屋のロビーに続く廊下を歩き出したとき、外で銃声が立った。広場のモニュメントを取り囲むようにして停車した五台のバンから、明らかに武装したと分かる男たちが降りて、野次っている。
「やくざか」
「ああ、どうしてか、ここを嗅ぎつけたらしい」
新井の顔の傷に反応を見せながらも、鶴見が肯いた。
「悠里がいるよ」
クワ・ハルがそれが答えだと言うように、指摘した。
「警察が来るんだろう?」
「ああ、だが時間が掛かる。やつらをぶつけて、そのうちに逃げるにしても、今は時間を稼がなくちゃまずいんだ。しかも向こうは、いきなりこっちを襲ってくる肚ではないらしい」
「あいつらの狙いは神津のはずだろう。やつの居場所を調べて教えてやれば、どうにかなるんじゃないのか?」
鶴見は残念ながら、と首を振った。
「だったらまだ、都内で神津と追いかけっこをやってるさ。神津を上手い具合に都内に足止め出来たのは、あいつらのお陰だが、やつらの中に、・ISMのユーザーがいたんだ。一年前のTLE事件の顛末と合わせて、こちらに興味を持つ懸念はあったようだがな」
「・ISMを渡すのか?」
「差しさわりのないものは渡しても構わないが。なんにせよ、ともかく、時間稼ぎをしないとな。実験は中止だ。ここで足手まといを抱えるのはごめんだ」
「中止かぁ、なら妹と晴文は動ける状態の方がいいね」
「新井、あの女刑事は今、どうしてる?」
「それが・・・・・逃げられた」
新井はぼそりと、言った。
「逃げられた? お前、それでなんで放ってきた?」
鼻の傷から連想した嫌な予感が的中した鶴見は、顔を歪めた。
「今、新入りが後を追ってるよ。外はやくざだし、裏手は深い沢になってるから、あの女は建物から出られない。トラップもあるし・・・・・そうだ、女が逃げたのはあの、新入りのせいなんだ」
「晴文、妹だから逃がしたのかなあ?」
「まったく、しょうがねえな」
要領を得ない言い訳をする新井を、鶴見は訝しげに睨んだ。
「じゃあ最悪その二人は切り捨ててもいい。おれたちに必要なのは、・ISMの基本システムと、コード解析のためのデータだけだからな。それだけ持って亀の島に逃げれば、スポンサーもサンプルも、世界中でいくらでも見つかる」
「やくざなら、撃ち合っても勝てるよ」
口を尖らせて言う新井の無謀を、鶴見は叱った。
「馬鹿言うな、やつらも必要なんだ。あいつらがいないと、警察から逃げ切れない。条件を呑むふりをして時間を稼ぐんだ」
ロビーには、四人の人間が並んで立っているのが見えた。二人は石原と板垣、それに挟まれているのは満冨悠里と、北浦真希だった。
「真希だ・・・・・どうして」
鶴見の隣でクワ・ハルがぽつりとつぶやいた。
「・・・・・どうする?」
「なにかの罠かもしれない」
踊り場に留まると、鶴見は両脇の二人に緊急の準備をさせた。
「泰山会の石原だ。外の状況は分かってるだろう。そいつを見極めてよくこちらの話を聞くんだ」
「なんの用だ」
「まず、降りて来いよ」
三人の警戒を見透かしたように、石原は言った。
「お前らの考えはよく分かってる。それを邪魔する気はない。穏便に、済ませたいんだ。そうは思わないんなら仕方がないが」
「そちらへ行く」
遮って、鶴見が言った。石原たちと対峙する。
「久しぶりね」
クワ・ハルに向かって、悠里は言った。
「手短に話すわ。わたしたちは、あなたたちの計画の概要を知っているし、それを邪魔する気はない。・ISMで手に入れたデータを使って、完全な人格コードとやらを完成させるんならすればいい。ただ、・ISMのベースに使われているTLEプログラムは、こちらにどうしても渡してもらう」
「馬鹿なこと言うなよ。お前らにそんなことをする義理はない」
鶴見が口を出した。
「そうかしら? わたしも、ここにいる石原さんも、あなたたちの計画に多大な犠牲を被った。その清算はすべきじゃない? あなたたちのせいで、わたしたちには新しい身分とお金が、必要になの。TLEさえあれば、この先そのどちらにも不自由はしない。当面の逃亡資金も必要になるわ。あなたたちが流用した神津の隠し資産も出してもらう。それで棒引きにしてあげるわ」
「ふざけるな。それのどこが交渉なんだ」
いきり立った新井を、石原がけん制した。
「待てよ。おれたちが対等だと思うか? おれらもこれで、相当、降りてるんだ。こっちはお前ら皆殺しにして奪ったっていいんだ」
「システムを二度と復元不能な状態にだって出来る」
クワ・ハルが言った。石原は目を剥いてから、苦笑した。
「坊や。勝手に大人の話に口を挟むな、黙ってろ」
「そんな口を利いていいのか? このクワ・ハルがこのシステムのすべてを握ってるんだ。こいつの同意なしじゃメインシステムを利用することも出来ないんだぞ?」
鶴見の言葉を待っていたかのように、悠里が言った。
「そうね、クワ・ハルなしじゃあなたたちは何も進まない。じゃあ、この子はどう? あなたと完全な適合体である真希なしじゃ、計画は完成しないはずよ。違うかしら?」
「真希はいらないよ。もう、計算が合わなくなったんだ」
「それはたぶん、偽者よ。事情があって、本物は国家機関の保護を受けていたの。あんたたちは手に入れた計算式に、真希が合わなくなったから、放っておいたんだろうけど、それは別人だったからよ。一生懸命計算したんでしょ、大切な人のはずよ? 実験にも、あんた自身にもね」
「・・・・わかったよ、条件を飲む。真希をこっちに渡してよ」
「お、おい・・・・・・」
「システムと金を寄越してからだ」
「今、実行してるコマンドの解除と、メインシステムのデータの取出しに時間が掛かるんだ。それにぼくたちは包囲されてるんだ、真希を調べる時間をくれても、問題はないだろう?」
「・・・・・ああいいだろう、折れてやる。その代わり、お前らにはおれとこの、板垣が同行して監視させてもらう。下手なことしたら、表にいるやつらがお前らを皆殺しにすると思え」
「わかった。余計なことはしないよ」
「甘いわ」
悠里が言った。肩をすくめて相手にしないふりをすると、石原は戻った。
「なら、お前もついてくりゃいいだろう。どうせ、機械のことはおれには分からねえんだ」
時計を見ると石原は言った。
「今、午前三時を回ったところだ。四時まで待ってやる」
「一時間あれば、十分だ。すぐに取り掛かるよ」
「時間が稼げた。後は折をみてやつらと警察をぶつければいい」
「芝居かよ」
「そんなところだ」
「真希は最初から、本当は計算が合わなかったんだ。悠里は、ぼくが【揺り籠】に残してきたデータを探ったんだと思う」
「おれたちにとっては過去の失敗さ。だが、意外なところで役に立ったな」
鶴見とクワ・ハルは顔を見合わせた。二人は意外と息のあった策士だ。さすがにクワ・ハルが幼い頃から、神津の依頼でカウンセリングを担当しただけはある。新井は舌を巻いた。
「ところで、新入りとあの女はどうする?」
「放っておいてもいいが、女の方は捕まえておけば、人質に出来るかも知れないな。脱出の準備が出来たら、探しておけ」
秘密を知らなくても
薫がいた実験棟の裏手には、沢が流れている。水量の多さも流れの急さも、この暗がりでも音だけ聞けば十分だ。岸壁と山肌を沿うようにして降りていく幅の狭い道の入り口。錆びついたチェーンで仕切られた私有地の看板の手前に、一台のバンが停まっている。
バンの手前には、マヤが立っていた。車のライトが照らす、抜け道の向こう側を見つめている。時折電話に目を移した。
「入り口は無理だ。やくざが見張ってる」
雨に濡れながら、金城と真田が様子見に戻ってきた。
「応援が来るめどは立ちそうか?」
「両県側の警察とも、動きが取れないでいるみたいね。態勢を立て直すのには、もしかしたら朝まで掛かるかもだって」
「さっき、発砲があったぞ」
表で待機している男たちが、威嚇射撃をしているのだろう。猟銃よりは軽い、TEC9やAK47などの掃射音が響くたび、眠りを騒がされた鳥が発つ気配がした。
「なあ、あいつら、神津良治が目的じゃなかったのか?」
「考え方を変えただけよ。TLEのときもそうだったけど、新しい人生を前にすると誰でも考えが変わるの。例えば本当の事情を知っている人間が、手を貸した可能性はおおいにある」
「どうする? 朝までこのこう着状態が続くと思うか」
「祈るのもひとつの手ね。・・・・・あたしは、そんなに待ってはいられないから、中に入るわ」
三人は、急な水音だけが聞こえる闇の入り口に目を向けた。
「おれは行くぞ」
金城が言った。
「待てよ、君は残れ。このバンの運転手には、マヤのチームだ。警察への連絡役には使えそうもない」
バンでは、通信機器を装着した黒人の運転手が心配げに成り行きを見守っている。
「確かに彼は日本語が不自由だけど、心配しなくても応援は来る。少なくとも六十分以内にはここに、彼らを制圧できるだけの人数の状況を把握したメンバーが集まることになってるの」
「お前が連絡したのか?」
「ううん、残念だけど。でも、ちょっと予想外のことがあったの」
意味深な微笑を、マヤは口元に滲ませてから、
「とにかく、あたしは行く。二人も来るなら、バンに補助の弾薬と武器くらいは積んであるから、好きにして」
また、行き止まりになっている。薫は途方に暮れかけていた。脱走防止のためか、三棟の建物は互いに入り組んでいる。遠くからでは隠れてしまう入り口や、中二階や半地下でつながる廊下などだ。そう大きな建物でもないはずなのに、どこまで行っても同じ場所にたどり着き、いい加減、薫は疲れた。
何度目かの同じコーナーに安置されている黒い顔の菩薩に、呪われているかのような気すらしないでもない。
そう言えば、また遠くで銃声がした。恐らく新井が、薫の後を追っているのだろう。状況が分からず、追い詰められていく自分が歯痒い。どうにか、脱出の方法を考えなければ。監房から実験棟、ロビーにたどり着くまでの道順を、薫はもう一度頭の中で反芻する。
さらに銃声がした。鳥が騒ぐ。さっきよりそこからは大分遠ざかっていることだけが、安心だった。それでか、必要以上に地下にまで、降りてきてしまったのかも知れないと薫は思った。
ひと際厳しくなってきた外気に、強く身体が冷えてくる。そう言えば裏手は沢だった。監房の天窓や床からも、水の流れる気配がした。もしかしたら外に、出られるかもしれない。自然と明るい方に、薫は歩き出していた。
半階段を降りるとそこは、地下室だった。接合された床がここだけ、打ちっぱなしのコンクリートになっている。大きな閂をした入り口の扉は、閉まってはいないようだ。重いドアを開けた瞬間、薫は失望した。金網に囲まれた配電盤が、薫の目に留まったのだ。
どうやらここは行き止まりのようだ。明るく見えたのは、常夜灯が中に灯っているからに過ぎない。薄闇の中で薫はため息をついた。
そこに、ぱっと明かりが薫の目を射た。新井だった。薫が来たのとは反対方角の廊下から、突然現れたのだ。薫は息を呑んだ。
「待てっ」
薫は迷わず、その部屋に飛び込んだ。重装備の割りに俊敏な新井も大して間を置かず、続いて侵入してくる。
「出て来いっ、あんたにもう乱暴したりはしない」
新井の怒鳴り声が、籠もった部屋に響いた。
「状況が変わったんだ。やくざと警察の囲みを脱するのに、どうしてもあんたの協力がいるんだ」
見え透いたブラッフだ。薫は返事をしなかった。
(警察?・・・・・応援が来たの?)
反面、心の中で引っかかる言葉を反芻する。
「出てこなきゃここで殺すぞ。あんたの兄貴も道連れだ。協力しない足手まといは必要ないからな。五秒以内に出て来い」
新井は勝手にカウントを始める。薫は、迷った。
「四、三、二、一・・・・・・もういいかあ、殺すぞ」
出て行こうと顔を上げかけて、薫は身体を硬くした。常夜灯の薄ぼけた明かりの中で、ぎらぎらと不気味に光る新井の、紅く潤んだ白目に不吉なものを感じたからだ。
薫が身体を動かした瞬間、弾丸が火花を散らし鉄柵を湾曲させた。
「そこかあ」
腰にライフルを構えたまま、新井は歩き出した。
「今、行く。いいのかぁ、命乞いはしないのかあ?」
(殺される)
薫は手近に反撃の道具を探した。だが、なにも見当たらなかった。そもそも相手は銃なのだ。逃げる・・・・・飛び出したら、撃たれる。もう、その位置にいた。恐怖で身体が硬直する。これ以上は、もう無理だと思った。喉が嗄れて悲鳴も、上げられない。
「ぐわっ」
その瞬間だった。くぐもった声がして、新井がもがき出した。新井の上半身に、見ると、浅黒い蛇のような異様な物体が覆い被さっていたのだ。密着されてはライフルも使えない。苦し紛れに撃った弾が天井に当たり、その衝撃音で薫の硬直が解けた。
(逃げなくちゃ)
その褐色の物体がなにかを精査する前に、薫は駆け出していた。行くあては依然としてなかった。だが、新井のブラッフに真実があるなら、この広い施設の中を逃げ回ってどうにか持ちこたえれば、救援は必ず来る。今は危険から遠ざかることが第一だった。
追ってくるものに逃げるのに夢中で、もはや薫に別方向に気を配る余裕はなかった。例えばさっき通り過ぎた十字路の角に、気配があっても、彼女はそれに気づく余裕がなかったのだ。思えばそれが彼女の命取りになった。
走りすぎようとしたその一瞬で、薫は左腕を取られて背中にひねられた。気がつくと、腕を極められて背後を取られている。首筋に冷たいものが突きつけられて、薫はついに来た死を覚悟した。
「静かに。・・・・・ゆっくり振り向いて」
相手は耳元で薫に囁きかけてきた。腕を放して背中をそっと押す。振り向いてみて、薫は力が抜けて膝が崩れそうになった。
「・・・・・マヤ」
倒れそうになる身体をマヤが抱きとめる。
「大丈夫だった?」
安堵感に気絶しそうになりながら、薫は肯いた。大きく深呼吸してから、自分の身体を離す。
「今度は本当に殺されるかと思ったわ」
「どうやら、あたしのことは分かるみたいね。間に合ってよかった。もう少し待てば応援が来るから」
マヤは現状を、薫に説明した。
「ねえマヤ・・・・・あなたのスケッチブックを無断で見た」
話を聞き終えると、薫は言った。
「わたしたちに隠していたのは、TLEが人間そのものの人格を修正できるということだけ? すべては自分の解放のため、と言う言葉は、もしかしたらあなたの・・・・・・」
薫は最後まで言葉を継ぐことは出来ずに濁した。
「・・・・・確かに、・ISMさえあれば、あたしの犯歴はおろか、生まれた記録すら、すべて消せるわ」
しかし、マヤは、否定しなかった。
「薫、あたしは今、自由になるために仕事をしている。TLEには、危険よ。人生をやり直したいと思ったり、自分自身に後悔を持っている人間を誘惑する。どんな人間でも消したい過去や秘密はあるから。とても優秀な捜査官だったのに魔が差してしまって取り返しのつかない過ちを犯してしまった人も、あたしは知ってる。でも」
マヤは、言葉を切ると首を振った。
「あたしは、自分の領域を守るために仕事をしているの。あたしが守りたいものをすべて捨て去って、新しい自分になりたいとは思ってはいない。あたしは一度、司法取引を受けて生まれ変わってるし、そんな空しいことを、あたしは繰り返したくないから。信じる、信じないは、薫の判断に任せるわ」
「・・・・・・分からない。マヤ、あなたが何かを隠していたとしても、今のわたしにはそれを判断する方法は無い」
「そうね。あたしも薫の全部を知らないし」
「・・・・・・でも今、そんなことは関係ない」
大きく息をつくと、薫は首を振った。
「ちゃんとわたしを、助けにきてくれたわ」
「買いかぶると、あとで後悔するかもよ、薫」
二人は顔を見合わせて、苦笑を分け合った。
「真田と金城に無事を報告しましょ。あたしの能力なら、すぐに彼らと合流出来るわ」
階段をのぼってしばらく歩くと、例の黒い菩薩が薫を睨んでいた。
「ねえ、わたし・・・・・こんなこと言いたくないけど、もしかしたら方向音痴なのかな」
マヤは迷わずそこを曲がり、最初にクワ・ハルと歩いた廊下に似た場所に出た。やはり動転していたのだ。思ったほどここは広大でも複雑でもない。薫はふっと、息を吐いた。
「薫」
先を歩いていたマヤが、こちらを振り向いた。
そこに拳銃を持った晴文が立っていた。両手で構えた銃口が揺れている。
「戻るんだ、薫。お前はおれと一緒に行くはずだろ?」
「そうなの?」
マヤは二人を流し見た。薫は静かに首を振った。
「どいて。話し合いの余地のない人と話してる時間はもうないの」
「なあ、どうして分かってくれないんだよ・・・・・・」
「で? あなたは一体誰なの?」
マヤのいる一歩手前辺りまで、晴文は歩き出していた。彼はマヤに銃口を突きつけると、
「これはおれたち兄妹の問題だ。関係ないやつは黙ってろ」
黙って壁際にのいたマヤが右手のひらの中にさっきのナイフを隠したまま手を下げているのが、薫には分かった。マヤに目で無言のけん制を出すと、薫は言った。
「撃つなら撃てばいい。兄貴に逃げ場がなくなるだけ。・・・・・でも、わたしを殺して今満足なら、すればいいと思う」
素人でも外しようのない距離まで、晴文は来ていた。銃口が荒い息とともに上下にぶれる。吐息を感じるところまで薫は歩み寄った。
「もういい? わたしは今、彼女と行く場所がある。行かなくちゃいけないから、行くわ。あとは兄貴の好きにして」
晴文は引き金を絞らなかった。追いすがることもしなかった。ただ無言で項垂れていた。薫はマヤを促して、先を急ぐことにした。
「いいの?」
マヤが聞いてきた。何についていいの、と聞いたのかは判らなかった。薫は振り向かず、首を振った。
「紹介しなかったよね・・・・・兄よ」
今さらだと思ったが、薫は言った。
「・・・・・わたしも、あなたに秘密にしていることがあったわ。わたしの兄は、クワ・ハルのメンバーだったの」
「知ってたよ」
マヤは、言った。
「でも、別に気にすることないわ。実は秘密にしてたけど、あたしの両親も、テロリストだったし」
マヤの冗談に、薫は笑い返す余裕はなかった。それでも、彼女に救われた気がした。
「薫っ、お前、大丈夫だったのか?」
金城の声がする。真田と角を曲がってくる姿が見えてきた。日常の安堵した実感が湧き出てきたのに、なぜか少し胸が痛んだ。
闇の中での攻防
「まだ時間が掛かるのか」
欠伸を噛み殺しながら、石原は言った。時計を見る。
「あと、五分だぞ」
「今、出来るよ」
クワ・ハルが言った。ここは・ISMのシステムを維持するためだけに設置された部屋だ。無数のモニターが、あらゆる演算の稼動状況を表している。鶴見が小声で、彼に囁いた。
「おかしいな・・・・・新井はどうした?」
「・・・・・変電室から応答がないんだ」
「必要なデータのバックアップは完了したのか?」
クワ・ハルは小さなメモリを、胸ポケットから取り出して見せた。今、実行に移しているのは、真希の適合率計算の結果に過ぎない。以前から念のため、いくつかダミーを用意してあるのだ。偽のメモリを一枚、クワ・ハルは鶴見に渡した。
「変電室を確認する。まだ、なるべく時間を稼いで」
クワ・ハルはちらりと背後を見た。石原と悠里が、入り口付近を固めて座っている。真ん中で真希が、怯えた表情でうつむいているのを盗み見ていた。
そのとき板垣が入ってきて、石原に何事か耳打ちをする。警察無線から、彼らの到着を警戒しだしたと、二人は判断した。もう、一刻の猶予もなかった。
「出来た。こいつが、メインのプログラムだ」
「神津から奪った金は?」
用意のボストンバッグを持ち上げて、鶴見は言った。
「手元にあるのはこの三千万ですべてだ。後は日本の法律外の隠し口座や架空の投資会社に、分散してプールしてある」
「亀の島とか言う場所の口座ね?」
「そんなところだ。お望みなら、島に着いてから、新しい身分と絶対に裏が割れないパスポートも渡そうか」
「そいつも悪くねえな。その島に行ってほとぼりを冷ませば、めでたくやくざも辞められるってわけだ」
「あんたもリタイアを考えてたんじゃない」
不審な目で、悠里は石原を見た。
「当たり前だ。組にも、今の自分にも未練はねえよ。正直、うんざりしてたところだ。娘の美和はとっくに元のかみさんと日本を逃げ出して、おれとは一切、会っちゃくれない」
言うと石原は自分の携帯電話を投げ捨てた。
「もう警察が来るそうだ。下手な真似はするなよ。おれらは、お前ら全員人質にして立て籠もるぞ。逃げる気なら、協力しろ」
「馬鹿言え。何十人ものやくざを、逃がせるわけないだろう」
「別におれらだけでいいんだよ。時間稼ぎして、段取り組んでたんだろ? お前ら、三、四人なら逃げられるように、おれらを足止めにしてな。おれは機械のことは分からねえが、影でなにか企んでる人間の顔はよく知ってる。とっくに種は割れてんだ」
「プログラムはいらないの?」
クワ・ハルが声を上げた。
「本物ならな。いいからそこで再生して見せろ。悠里、お前なら中身が分かるはずだ。違ったら、この小娘からぶっ殺すからな」
言うと、石原は銃口を真希の方に向けた。
「・・・・・・脅しのつもりかよ。その女もダミーだよ」
口の中でつぶやくと、鶴見はクワ・ハルへ戻った。
「新井から連絡がない」
「こっちで遠隔操作は出来ないのか?」
「今は無理だ。真希の再計算は本当に実行してるし」
「・・・・・あとあとのために、一人殺しとくか。チビとおっさん、どっちがいいと思う?」
その様子を見つつ、真希を挟んで、石原が悠里に話しかける。
「残すなら、クワ・ハルね。鶴見はただのあいつの主治医だから」
「へえ」
無造作に、石原は立ち上がった。TEC9の安全装置を無造作に外しておく。
「・・・・・おい、そろそろいい加減にしろよ」
「石原さん」
石原の行動は駆けつけた板垣に中断された。石原は苦い顔で、この間の悪い腹心を睨みつけた。
「なんだ? サツか?」
「判りません・・・・・でも誰か入ってきてます」
板垣が言った瞬間だった。システムがダウンし、突然、停電した。
「おい、どうなってる?・・・・・なにが起こったんだ?」
暗闇の中で誰も返事をしない。代わりになにかが砕ける鈍い音と、くぐもった男の悲鳴がとどろき渡った。
「板垣っ」
声のする方に、石原はTEC9を掃射した。着弾はぶれて天井まで達したが、銃火で見えたのは、首を折られた板垣の死体だけだった。それで自分の居場所も知れたことを察して、石原はその場を逃げるべきだった。が、息つく間もなく、硬い棒のようなものに追突され、背後に吹っ飛ばされた。今のは異常に強烈な前蹴りだ。一八〇センチの石原の巨体が、丸ごと浮き上がった。
「てめえら何かしやがったなっ! ふざけやがってっ! 出て来い、必ずぶっ殺してやる」
クワ・ハルと鶴見がいた辺りに向けて石原は乱射したが、すでにそこに彼らはいなかった。悠里と真希の姿もない。石原を蹴り上げた誰かの姿も見当たらなかった。
闇の中で一瞬見えたのは、ブリーチした長い髪だ。ボディースーツを着ている。女だ。女がまさか。石原は記憶を掘り起こした。そう言えば、新宿の事務所にも、【揺り籠】から奴らを逃がしたときも、神津と一緒に女がいた。石原は女の気配を捜した。
(見つけたらぶち殺してやる)
やっと目が慣れてきた。でかい女だ、しかも銃は持っていない。そう考えたのが、石原の命取りだった。先入観に捉われているときは、別のものが見えても無意識に除外してしまうものだ。するりと蛇のようなものが、テーブルの影で蠢いていたのを見過ごしていた。
石原は板垣のように、悲鳴を上げたりはしなかった。しかしそれは、彼が泰山会きっての武闘派構成員だったこととなんの関係もない。ぬるりと絡み付いてきた冷たい手に口を塞がれ、ほぼ同時首を裂かれたからだ。あっ、と言う暇もなく、石原は昇天した。
蛇は牙の代わりに、山刀のような粗い造りのナイフを持っていた。研ぎ澄まされた鋭さはないが、連続使用に耐え、殺傷力を保つ。錆に強いダマスクス鋼の渦を巻いた特殊な波紋の残像が、石原が保持した、最期の視覚記憶になった。
「・・・・・停電だ」
返事の代わりに、真田がバンから持参したペンライトを点けた。
「全員分ある。みんな、持っておけよ」
薫は予備の拳銃と手錠も真田に貸してもらった。
「さすがに、手帳までは用意できなかったな」
「こりゃ始末書だ」
「減俸になったら、助けてよね」
薫は金城と目を合わせて、笑いあった。
「で、データはどこにあると思う?」
「この施設のものは、今、システムがダウンしているから、後で処理するとして、問題はバックアップね。この停電がクワ・ハルたちの故意のものであれ、突発的なものであれ、追い詰められることを想定して彼らは必要最低限のものはもって逃げる準備は、もうしていたと思うわ」
「もとあるシステムの処理は後回しにしよう。で、どうやってやつらを追う?」
「・・・・・実はここまで来れたのは、彼女・・・・真希がここに連れてこられたからなのよ」
「真希が?」
「知っての通り、最初にもっともクワ・ハルに目をつけられていたのは、真希だったわ。でも事情があって彼らは標的を変更した」
「クワ・ハルは、計算が合わなくなったと言ってたわ」
「言うまでもなく、たぶんあたしに代わったせいだと思う。だからもし、クワ・ハルがもう一度真希を狙った場合のことを考えて、彼女に発信機を持たせてたの。だから今、真希がクワ・ハルと行動をともにしてる可能性は高いと思うの」
「真希をもう一度さらったのは、クワ・ハルなのか?」
真田が聞いた。
「違うと思う。時間的に考えても」
「じゃあ、やくざだろう? どうして北浦真希のことを知ったかはわからんが」
「やつらは彼女とその兄を手に入れた時点で、ある程度目的を達してるんだ。今さら北浦真希に興味を持つとはどうも思えないがな」
「そうでもないと思う」
薫が言った。
「クワ・ハルはまだ真希に執着があるみたいな印象を受けたわ。もしかしたらそのことを知ってる誰かが、泰山会を利用して、彼女をここに無理やり連れてきたのかも知れないし」
「それなら逃げ道を張ったほうが、有効だ。地下から、裏の沢に道が通じている。たぶん、やつらはそこを逃げるだろう」
「薫、悪いがおれもそう思う」
金城が言った。事態が急を要することは確かだった。
「携帯も通じないし、二手に分かれたほうがいいわね」
「いちかばちかだな。北浦真希の救助は薫に任せるよ」
「データを追うのが最優先だ。人命救助は勝手にやってくれ」
「じゃあ、いつもの早い者勝ちね?」
痛い皮肉でマヤはやり返した。気まずい二人のうち真田が言った。
「その通りだ」
銃声にサイレンや警報が混じりだした。あの瞬間、入り口に一番近かった悠里はとっさに、真希の手を引いて脱出した。ミョンジンの長い影が、部屋の中に滑り込むのを見た直後だった。やられたのは、位置的に石原と悠里は見た。
(クワ・ハルが生きてればいいけど)
そうなった場合、手札はまだ有効だ。ぐん、と手を引く悠里の右手が重たくなった。何度目かの近い銃声で、真希の身体が硬直したのだ。無理に引こうとすると、泣き声をあげて真希はその場にへたりこんだ。
「もう無理・・・・・だめだよ・・・・・もう、耐えられない」
「いいの? 停まったら死ぬよ。警察の助けなんか期待しないほうがいいよ。さっきの奴がわたしたちを殺すほうが早いんだから」
見たところ、真希は完全に腰が抜けているようだ。
「ねえ、なんで?・・・・・どうしてこんなひどいことするの?わたし、悠里ちゃんに、何も悪いことしてない」
「誰もあんたに、償ってほしいなんて頼んでなんかないわ。わたしは、自分の人生が欲しいだけなの。あんたで買い戻す。別に、思い通りにならないなら、そのときはそれはそれでいいわ」
悠里は小口径の拳銃を取り出して、真希の頭に突きつけた。精根尽き果てた真希は目を剥いてそれでも銃口を避けようとした。髪を掴んで、悠里はその顔を銃口に引き寄せた。
「生きる? 死ぬ?・・・・・時間がないの、早く決めて」
ぶるぶると、真希は首を振るばかりだった。殺気を見せてはったりを打ったが、悠里も、彼女だけは殺すわけにはいかなかった。
「・・・・・行くよ」
逡巡が長かったが、真希は泣きながら立ち上がった。舌打ちすると、悠里はその手をもう一度引き上げた。そのとき。
得たいの知れない怒鳴り声が、背後から追いすがった。悠里にはミョンジンが後を追ってきたことは分かった。しかし、その意味不明の叫び声は、女のものではないことに驚いた。第一獣じみている。
「止まれ!」
距離は、十五メートルほど。しかし片手で真希の手を引いた上に射撃の経験がない悠里に、ミョンジンの突撃を妨げることは出来なかった。直線を狙った弾丸はすべて、右上の天井付近をかすめた。
ミョンジンが放った手刀が、悠里の手から拳銃を刎ね落とした。手首がなくなったような鋭い痛みとともに銃は吹っ飛んだ。暴発した弾丸は真希のスカートのふくらみを貫いた。今度は悠里が吹っ飛ばされる番だった。ミョンジンのスナップのいい平手が二度、悠里を襲って、その身体を後ろに吹っ飛ばした。
「○×※@・・・・・・」
早口のスラングをつぶやくと、起き上がろうとした悠里に爪先を蹴りこむ。呼吸が止まった悠里は苦悶してえづいた。この女(?)が、同性に特別の憎悪を持っていることを、悠里は思い出した。
(殺される・・・・・)
なにか交渉になりそうなことを言おうとしたが、靴で蹴られて肝腎の言葉が出ない。口を開けば吐きそうだし、クワ・ハルを放って悠里を追ってきたこの無条件の憎悪を受け流す手段など今、考え付きそうになかった。その悠里の顔をミョンジンが掴み上げて、口の中に無理やり指を入れてくる。その邪悪な意志がぶつけられてきた。
「その舌、引きずり出してやる・・・・・・」
その頬を突然、一発の銃声が掠めた。思わずミョンジンは首をひねった。次弾はない。囮だった。
ほぼ同時に悠里の背後から、低い姿勢で滑り込んだマヤが、手のひらに隠した薄刃のナイフで手首を閃かせて、喉に突きこもうと狙う。一瞬早く悠里を離したミョンジンは辛うじて左手で、斬撃を防いだ。鮮やかな切り口の防御創が下から手のひらに走る。
左半身を引きながらも、右膝のミドルでミョンジンは返してきた。掻い潜れない胴を狙う。軸足を取れなかったマヤは、反応速く身体のバネを使って這うように、反対側からミョンジンの背後に飛び出していた。
「真希ちゃん、こっち!」
銃声のした方からの叫び声に真希は反応した。薫が銃を構えて立っている。駆け出そうとした彼女は悠里の落とした銃に躓いて跳ね飛ばした。銃身は回転して床を滑った。
「薫さん・・・・・・・」
薫の腕に真希はしがみついた。マヤに言う。
「人命救助最優先は正解だったわね」
「クワ・ハルがここにいないのは、残念だったけどね」
「忌々しい女どもが群れ集まって、おれの邪魔しやがる」
ミョンジンは憎悪をこめた母国語でうめいた。
「あなたは違うの?」
「今はどちらでもない」
よどみなくハングル語で聞き返してくるマヤを、ミョンジンは訝しげに見つめて言った。
「おれは六度性転換した。実は女も、もううんざりだ。おれは自分の性を呪って生きてきたが、今はどちらも呪わしい。性別など必要ない。おれはおれの新しい人生で、新しい性を生きてやる」
「無性主義者ね。神津と約束したの?」
「ああ、裏切ったら奴も殺す。男も女も、汚い嘘つきは、舌を引き抜いてやる」
「ねえ、なんて言ってるの?」
伝わらないのをいいことに、マヤは適当に答えた。
「・・・・・嘘つきの舌を集めてるんだって」
その目線を反らした一瞬を突いて、ミョンジンは蹴りを放ってきた。右側の死角からミドルのフェイクを織り混ぜた、上段の可変蹴り。ミドル狙いの気配を出してがら空きになった頭部を狙う。
余所見をしたのは誘いだったのかもしれない。耳の裏に目があるかのように、マヤは上体の動きだけでそれをかわす。
滑らかな彼女の指の動きの中で、ナイフの刃は、変幻自在に揺らめく。左の腕に移った刃が蛇のようにたわんで伸び、ミョンジンの首の辺りを狙う。浅いと思われたその一撃は、相手が反射的に防御反応をとって身体を縮めることを計算に入れていたのだ。右の目蓋に軽く、刃は喰いこんだ。二人は再び距離を取る。
二人の攻防の緊迫感は素人目にも、如実に伝わってくる。警察に入る以前からある程度格闘経験がある薫には、相手の目線を読むSSELが身体能力の素晴らしさ以上に、彼女に恩恵を与えていることを今、知った。呼吸、殺気、技のタイミング、戦略や心理状態、よほどのことがない限り、マヤはフェイントには惑わされないのだ。
さっきから薫はずっと、発砲のタイミングを逸している。下手に撃てばマヤに当たるし、銃があるとは言えその次にこの距離で、プロの技を持った殺し屋を相手にする実力はない。一発で仕留め損なえば、骨に喰らいついても殺しにかかってくるだろう。真希を護って、なお且つそんな人間を倒せるとは思えなかった。
似た展開の攻防が続き、薫の目にも二人は疲弊していった。殺し合いを五分も続けられる人間はそうはいない。ナイフがあるとは言え、ウエイトの軽いマヤは確実に不利だ。
救いと言えば、最初にカットしたミョンジンの右の目蓋の筋膜が切られていたせいか、目が閉じてきてしまい、出血による消耗と遠近感が失われているところだろうが、差し引いても体力勝負となれば勝ち目は薄い。これはスポーツの試合ではないのだ。首筋を噛み切っても、相手を不能にした方が勝ちになる。
「なあ・・・・・・・もう限界じゃないのか」
ミョンジンの顔は血まみれだ。髪も濡れて形相が凄まじい。心なしか、腰も落ちて足も上がらないようだ。
「おれは、別にお前を殺すのは条件に入ってない。話し次第では、見逃してやってもいい。どうだ?」
「・・・・・満冨悠里はもういないわ」
言われて、薫も初めて気づいた。悠里はいなくなった。
「あの女が目当てじゃないんだ。言いたいことは分かるだろう?」
「・ISMも真希も渡せない」
ふーっと、細くミョンジンは息を吐いた。会話に間を取りすぎている。体力回復のためかと思ったが、実は違った。目線が微かに、上に泳いでいるのだ。
はっとマヤが目線を天井に追った瞬間、天井板が開き、上から何か重たい砂袋のような物体が、舞い降りてきて背後から組み付いた。薫はすぐ気づいた。新井を襲った、あの褐色の軟体は、山刀を持った足のない少年兵だったのだ。
首を掻き切るための山刀を、どうにか彼女は払いのけた。持っていたナイフを逆手に、少年の手首に思い切り突き刺した。甲高い悲鳴を上げて、少年は刀を取り落としたが、全身でマヤの背にしがみついてなおも離れない。首を絞める手をマヤは解いたが、代わりに目に指を突きこまれた。なんとか両膝を突きしのいだが、もがくほど少年の身体は蛸のようにマヤに絡みつく。
「そのままだ・・・・・そのまま、離すなズク」
大きくゆっくり、息をつくとミョンジンは言った。マヤが落とした細身のナイフを拾い上げる。少年を振りほどこうと上下する身体の真ん中に、その切っ先は狙いを定めた。
「そこまでよ」
ついに覚悟を決める。薫は両手でミョンジンの背に狙いを定めた。
「次の行動をとったら撃つ。膝を突いて。ナイフを捨てて、頭を両手に」
「撃ってみろ。どの道当たらないぞ・・・・・第一、どっちを狙うんだ? どっちを残しても、こいつは死ぬ」
ミョンジンは動じなかった。男言葉だと、やや日本語も流暢だ。
「・・・・・撃って」
絡みつく腕を払いながら、マヤは言った。両眼から出血している。
「無理だ」
「いいから撃って!」
「とにかく早く、ナイフを、捨てなさい!」
「分かった・・・・・興奮して自分の足を撃つなよ」
顔の前に広げた二つの手のひらの一つから、ぽとりとナイフが落ちた。
「拾うか? それともこちから持ってくか?」
片言の女言葉と声色を使って、ミョンジンは挑発した。
「膝を突いて。マヤを離すように、彼を説得して」
「女は我がままだ。みんなが自分の言いなりになると思ってる!」
「時間稼ぎは十分よ! あなたなら確実に殺せる」
膝は、突いた。あの意味不明の言葉でミョンジンは怒鳴った。
「女を殺せっ! 早くっ、今すぐにだっ!」
「早く撃ってっ!」
マヤの声に弾かれたように、薫は発砲した。予想外の衝撃と緊張で銃身が跳ね上がって、弾丸が外れたように感じた。とっさに伏せたミョンジンに弾は当たるはずがなかった。
マヤのこめかみを微かにそれて、少年の左目が炸裂した。頚動脈を締めていた指と身体が力を失った。
二人が手をついて立ち上がるのは、ほとんど同時だった。ミョンジンはナイフを拾っていた。それが勝負の明暗を分けた。
もっと速く、くるぶしと靴の間から隠してあったナイフを抜いたマヤの右手が強くしなって、ミョンジンの喉に刃を突き立てた。
「・・・・・・おい・・・・・・」
信じられないと言うように、ミョンジンは目を剥いた。
ショックで抜けなくなった柄を両手で握り締めたまま、ミョンジンは倒れ伏した。しばらくして、あの意味不明の二、三語がその唇から、かすかに出た。しかし、左目を撃たれた少年からは、もはやなんの返事もなかった。ミョンジンは悲痛に顔を歪めた。無事な方の開いた瞳のくぼみに残る涙の跡に触れようと手を差し伸べたところで、ミョンジンも力尽きた。
さすがにマヤは消耗しきったのか、血で濁ったうつろな視線を自分の足元辺りに払ったままで、どうにか息をついていた。
「・・・・・・無謀すぎるわ」
薫は言った。無理して微笑を作ろうとしたが、顔が強張って身体にも力が入らない。肋骨のあたりがぶるぶる震えた。それでもなんとか、歩み寄ってふらふらのマヤの身体を支える。
マヤは黙ったまま、軽く肯き返した。抱かれながら人差し指を自分のこめかみにあてて、親指で撃鉄を下ろすジェスチュアをする。無謀はお互い様だと返しているのだ。指を入れられた目は、まだ十分に見えてはいないようだった。
「まだ、無理はしちゃだめよ」
マヤは、頑なに首を振った。
「残念ながらこっちは外れだったわ。クワ・ハルは、ここにはいなかった」
「・・・・・真田さんと金城がどうにかするわ」
「・・・・そうね」
とは、言いつつ、マヤは言葉を淀ませた。
「・・・・・・ねえ、真希はどこ?」
薫は、はっとして自分の背後を見やった。真希が消えていた。
「あの子は一人では逃げたりしない。すぐ追わないと」
マヤは身体を動かしかけたが、疲労は足を引きずるほどだった。見えないダメージも蓄積している。薫は彼女の身体を壁にもたれかけさせた。
「わたしが探しに行く。あなたはまだここで休んでて」
疲労が極に達していたのかマヤは大人しく、薫に受信機を手渡した。
「少し休んだら、薫の視線をたどって追ってくるから」
「任せて」
走り去る薫の姿を見送りながら、マヤは壁に背を預けて尻餅をついた。間近に転がる二つの遺体の傍で、それからしばらく、彼女は身じろぎもしなかった。
生き残った者たち
「電話が復旧したぞ。今、こっちに応援を配備している」
沢へ続く茂みから、真田が出てきた。小雨はもう止んでいる。片手の携帯電話が、青く光って見える。マヤと入ってきたこの茂みの辺りから、クワ・ハルたちは逃げると、真田は主張したのだが、金城の知る限りこれまでほとんど人の気配は感じられていない。
「なあ、向こうとは連絡がつかんのか」
金城は聞いた。
「薫は電話を持ってないし、マヤも出ない。第一、クワ・ハルは向こうが当たりかも知れないんだ、そんな暇はないさ」
「二人で大丈夫なのか、あいつ」
実はさっき地下の変電室で、迷彩服の男が首を切られて死んでいるのを金城は見つけた。それは金城を病院で襲った例の男だったのだが、彼が気づくまでには、異常な死に方をしたその肉体を仔細に調べなければ判らなかった。
その男にはなにか異様なものに後ろから襲われたらしく、傷のある首以外にも全身に締めつけられたような痕や打ち身の痣などがあった。残忍に目をえぐりだされたその眼窩の空洞に喰い千切られた舌は、どこか得たいの知れない恨みがその身体中を荒れ狂った痕と見えた。
「心配なら行ってこいよ。ここは外れかも知れない。あの死体を見れば判るだろう? クワ・ハルと・ISMを追ってるのは、泰山会やおれたちだけじゃないんだ」
「あんたは来ないのか?」
金城は真田を見た。なんとなく気に食わないやつだが、やはりこれまで動いてきて、その度胸と実力だけは認めていた。
「おれはここを外れだと思ってないからな。それに、うちの班員かお前らの捜査員が到着するまで待ってる人間が必要だ。まさか、一人で行くのが怖いわけじゃないだろうな?」
「馬鹿言え」
本当はそうなのだが、引っ込みがつかなくなったと知りつつも金城は強がった。
「分かったよ。お前が行かんのならおれ一人で行く」
「部下に任せたらおれも後で行く。心配するな。おれやマヤと連絡をとる方法は分かるだろう?」
うるさそうに手を振ると、金城は一人で去っていった。その後ろ姿を見送りながら、これでやっと、邪魔者がいなくなったと、真田は息をついた。
「さてと」
マヤはもう一度深く、ため息をついた。目を閉じて、さっきまで死んだように微動だにしなかったが、本当は五分ほど、深い眠りに落ちていた。彼女にとっては、何日ぶりかの睡魔だった。SSELは張り詰めた神経をさらに、それこそ殺人的に消耗させる。疲弊しても神経が緊張してまったく眠れないのは、SSELの副作用の一つだった。
マヤが特に眠たげにしているときは、強い睡眠薬を服用しているか、能力の反動で意識が朦朧としているときだ。薫の部屋にあったお気に入りのコーヒー豆で、彼女はコーヒーを飲みたかった。
サミング(指入れ目潰し)で目は傷んだが、視界はすぐに復旧した。しかし、SSELが使えるほどの神経の疲労は、これ以上回復しそうにはなかった。
(・・・・・そろそろ、行かないと)
壁に手をつきながら、ゆっくりマヤは立ち上がった。しかし、歩き出した方向は、さっき薫が駆けていった方向とは逆の方向だった。角を曲がると、悠里が立っていて、こちらを睨んでいた。
「まだ、いたの?」
マヤは一人、ぼやくように言った。
「戻ってきたのよ」
マヤは見向きもせず通り過ぎようとする。
「あんたが、真希の身代わり?」
「ええ」
彼女はそっけなく、応えた。
「本物はさっき、鶴見とクワ・ハルが連れて行ったわ。あんたは追わなくても?」
マヤは乾いた血糊がこびりついた目で、ちらりと悠里を見た。
「あなたは神津の関係者でしょう、今、投降すれば命は助かるわ」
「そうね。これ以上、わたしになにが出来るって言うの?」
自棄気味な声で悠里は言ったが、瞳は死んでいなかった。
「で、あんたはどこに行く?」
マヤは応えなかった。
「クワ・ハルは・ISMを使って、エラ・リンプルウッドが果たせなかった、【完全な人格】を持った、人工知能を作り出そうと考えているのよ。でも、それがなに? 下らないわ。・ISMに組み込まれているTLEさえあれば、すべてが手に入るのに」
悠里の言葉をあざ笑うように、マヤは首を振って答えた。
「電子の洋上にたゆたう自由の島・・・・・亀の島なんて、あなたたちの、ただの幻想に過ぎないわ」
「じゃあ、あんたはどこへなにをしに行くの? 日本の警察が押収する前に、クワ・ハルが作り上げた、・ISMの運営システムを回収しに行くんでしょう? TLEの解明が進んだアメリカなら、再びシステムを再生できるはずだから」
「・・・・・・・・・」
「あんたのことは調べたわ。アメリカで独立した調査委員会が動き出したことは前から知ってたけど、まさかあんたみたいな工作員を寄越すとは誰も考えもしなかったわ。FBIはあんたに、もう三年も前に死亡記録を出してるそうね?」
悠里の問いに、マヤは初めて肯いた。
「そう、あたしは死人よ。記録もなく、身分もなく、三年を遡らなければ、どこにも存在しない。あたしの家族が関係した、膨大な数の事件の裁判が終わるまで。時期をみて、新しい履歴と市民権が与えられる、そう言う条件で、司法取引をした」
「へえ、なら聞くけど、その裁判が終わるのは何年後なの? あんたは国家機関にこんな危険な仕事を強制させられてる。さっきもそこで、韓国人の殺し屋に殺されかけた。それでなんとか生き残って何十年と働いても、その頃にはまた、違うことを言われるかもしれない。そもそも最初から、取引なんかする気はないとしたら?」
「どうしてあなたにそんなことが分かるの?」
「わたしたち、よく似てるからよ」
強い声で悠里は、言った。
「ついでに言うと、クワ・ハルもね。人生丸ごとあいつに買われた。例えばわたしは神津の娘なのよ。でも、いらなくなったら転売されるか、殺されるか、いつもそうやって生きてきた。あんたにどんな取り柄があるのか、それは判らない。不安じゃないの?」
「つまり取引をしろってこと? 逆に聞くけど、それならあなたはなにか取り柄を持ってるの?」
「クワ・ハルの過去のデータベース。【揺り籠】から盗んだ」
「【揺り籠?】」
知っていることをわざと、マヤは聞いた。
「神津がクワ・ハルを監禁していた場所よ。これがわたしの最期の切り札なの。悪いけど、その場所もデータの在り処も、今のあんたには教えない。これは、取引よ」
マヤは悠里の目を見つめながら、ゆっくりと聞き返した。
「あなたの望みは?」
「データの再生に成功したら、わたしに新しい身分を渡すこと。わたしが持っているデータは、それなりの値段で、あんたの機関に買ってもらう。良ければそのとき、あんたも新しい身分で消えられるように、こっそり便宜を図ってもいいわ。わたしも・ISMを使えるから、あんたにそれくらいのことは出来るから」
「悪くない話ね」
マヤは言った。悠里の肩にそっと手をかけた。マヤは言った。
「でもあなたの取引は、日本の警察とした方がいいわ。神津良治の娘なら、彼が裏でしてきたことをすべて証言出来るはずよ。まだこの国でやり直せるうちにやり直した方が絶対にいい」
「馬鹿言わないでよ。あんたと同じで、もうわたしには本当の家族もいないの。もうどこにも、退く場所はないの!」
「残念ね、でもどの道あなたはあたしとは取引できない」
言うと、マヤは悠里の肩を置いた手のひらから、なにかを取り出して見せた。それは彼女が履いているジーンズの裏ポケットに入れて置いた、解析データだった。
「それ・・・・・・」
愕然とした悠里がそれを奪い返そうとする身体ごと、マヤは彼女を引き倒した。
「あたしは人が見たものの記憶が見えるの。あなたや神津も、それで追いかけた。今は疲れてるから、あなたの瞳から読み取るのに少し、時間が掛かったけどね」
「嘘でしょう?・・・・・まさか・・・・・」
諦めずに取り返そうとした悠里は、年不相応のマヤの殺気に思わずたじろいだ。
「じき、警察が来るわ。そのときまでによく、考えたら」
彼女の目指す部屋では、サブマシンガンを持ったやくざが二人、首を切られて死んでいた。
「泰山会の組長の石原と、若頭の板垣だ」
真田が言った。マヤは彼が一人であることを確認するように、その姿を横目で見た。
「あてが違ったか? 仲の悪いお目付け役がいなくなってる」
「そんなに仲が悪いとは正直思わなかったわ」
「おれに害意はない、ただ、やつが張り合うからな」
マヤはまた、深い寝息に似た息を吐いた。
「どうして一人で来たの?」
「大勢で来ると思ったのか。おれたちはおれたちの思惑がある」
「・ISMをあなたたちが所有する?」
「悪くはない。この国はスパイが出入りし放題だ、今回のようなシステムが出来れば逆襲できるかもな」
真田の銃にはロックがかけてなかった。マヤは瞬時にそれを見抜いて、自然に間合いを詰めた。
「だが残念ながら、これはおれの独断だ。君には悪いが、ここからは手を引いてもらう」
「あたしの判断で、それは出来ないと言ったら?」
「君の独断で、どうにかしてもらうしかないな」
二人は対峙した。しかし、膠着は長くは続かなかった。
「待てよ、休戦だ。ここでおれたちが争ってもどうにもならない」
真田は、ペンライトで部屋全体を照らして見せた。そこにあるモニターも機器も、まるで電子機器に恨みを持った猛獣が暴れ狂ったかのようにすべてが完全に、しかも無残に破壊しつくされていた。血と火薬の焦げ臭いにおいが、室内に充満している。
「・・・・・誰の仕業かは分かってるわ。さっきそこで神津の連れてきた殺し屋に会ったの」
マヤは二つの死体を見下ろして言った。二体とも、えぐられた両目に乾いた血が、こびりついている。
「・・・・・どんな男だ」
「想像に任せるわ。そいつと争ってる隙に真希をさらわれた」
「それでか。君も薫を撒いてきたようだが、あてが外れたな」
意識が遠のくほどの頭痛にマヤは顔をしかめた。
「おれも行くぞ。案内しろ。能力は大丈夫だろうな?」
もう一度呼吸を整えると、マヤは真田に言った。
「・ISMは渡さない。・・・・・・あたしにも、この国で、果たさなければならない目的があるのよ」
反応が止まった。発信機の現在地が、移動しなくなった。薫は愕然とした。もしかしたら真希を連れ去った誰かは、途中考え直して、彼女を置き去りにしたかもしれないからだ。最悪の事態を覚悟すると、ひどく胸が痛む。
最初に監禁された宿舎の辺りまで、薫は来ていたことに気づいた。数メートル先に、赤い点滅が続いているのを彼女は発見した。発信機に気づかれたのだ。ほっとしたと同時に、薫はまた途方に暮れた。ここまで来て唯一の手がかりをまた呆気なく見失ってしまったのだ。
そろそろ、空気が白んできている。時間的に真希を見失ったのはついさっきだが、クワ・ハルたちが発見された様子はない。警戒のヘリの爆音が間近に聞こえるし、状況を把握できない同僚たちの騒ぐ緊迫した気配も、建物の中から伝わってくる。生き残ったやくざたちがまだ、抵抗を続けているのか。
薫の心身も、限界に達してきていた。交互に襲う、夢見心地の感覚と目まいに全力で抗う。さらったのがクワ・ハルだとするならば、彼は真希を殺したりはしないはずだ。そんな漠然とした信念だけが今の薫を支えていた。
薫が監禁された場所を通り過ぎると、戸が開いていて、畳の上に誰かが足を伸ばして座っていた。半開きの戸に、背を預けている。兄の晴文だった。近づくと、すでにこときれているのが判った。誰かが遺体を、目立たないように中に引きずり込んでおいたのだ。まだ銃を握っていた。誰に抗ったのだろうか。
薫は死体の前に座ると、その目をせめて閉じてやろうと考えた。もう薫を映すことのない、うつろな兄の眼を見たときに、薫の中でなにかがざわめくのを感じた。
(・・・・・この感覚)
息を止めればそのまま、兄の眼から深く、中に入っていけそうにすら思える。だがそれをしてしまうと、もう自分も戻ってこれないような不吉な予感が、薫を戸惑わせた。兄の中にはまだなにかがある。薫が忘れていた、恐怖の正体がそこにある。ただ踏み切る勇気が、今の薫にはないだけだ。
なにかまだ、文句を言いたそうな顔で晴文は死んでいた。指紋だらけの眼鏡をとって薫は下に置いた。
「ごめんね」
そうする前に、薫は言った。新しく死者になってしまった兄を、どう扱うべきなのか、自分でも判らなかった。
(・・・・・兄貴はなにを知ってるの?)
ついに意を決して、薫は晴文の瞳から、中に飛び込んだ。
背後から奈落に落ちていきそうな感覚の正体が、すぐに分かった。落ちていく誰かが悲鳴を上げている。それは今の薫のものではない。昔のでもない。まったく別人の、誰かの声だ。幼い女の子の悲鳴。
落ちる瞬間、突き落とした中年の男の顔をその目は目撃していた。集合団地の五階の手すり。男が逃げていくのも、はっきり見えた。
落下を終えたその身体を、しゃくりあげながら誰かが見下ろしている。フリルのついたスカートを履いた四、五歳くらいの小さな女の子だった。
(あれ・・・・・わたし・・・・・?)
切りそろえたおかっぱ頭に見覚えがあった。髪が長く伸びることが嫌で、後ろを刈り上げてもらっていたのだ。ぷっくり膨らんだ頬に涙の粒を溜めて、真っ赤に顔を泣き腫らし、なにかを叫んでいた。
(じゃあ、わたしは・・・・この子は、いったい誰なの?)
幼い薫は口を開いた。彼女が答えたのは、その子の名前だった。
「薫・・・・・おいっ、薫」
誰かが強い力で、薫を揺すっていた。
「馬鹿、お前なにやってんだ、死んだと思ったじゃないか」
金城だ。びっくりして、身体を起こした。
「大体誰なんだ、こいつは」
「薫のお兄さんよ」
答えたのは、マヤだ。晴文の瞳は、彼女によって閉じられていた。
「なにか見たのか?」
真田が聞いた。マヤの能力で薫の視線をたどって、みんなはここまで追いついてきたのだろうか。
「・・・・・・兄は鶴見に撃たれたわ」
自分の中で状況を整理しながら、薫は簡潔に答えた。
「彼の目から記憶を読み取ったんだな。真希をさらったのは、やっぱりクワ・ハルだったか?」
真田の問いにそうだと答えかけてから、薫は首を振った。
「違うわ。神津良治が真希をさらったの。・・・・・・彼女を人質にして、神津はクワ・ハルたちと逃走したわ」
どこかであなたに逢った
逃走車両は、山深い一車線を走っている。落石注意の看板と鉄製のフェンスが迫って、谷底に落ちていくような一本道は、山間の懐の中に車両の姿を隠して、捜索ヘリが幾度往復しても発見されにくい。ライトを消して走る車の中にあるのは、三つの影だけだ。
運転席にクワ・ハル、助手席には銃を持った神津良治。
濃密な霧の気配が、冷たい空気の中に飽和していたが、夜半の小雨はやみ、東の空に淡く陽が射し始めてきた。
「まったく、お前らえらいことしてくれたな」
神津が言った。クワ・ハルは黙ってバンを運転している。
「お蔭でなにもかもがパアやぞ」
神津が真希を連れて脱出地点に現れたのは、彼らの誤算だった。強迫神経症ぎみだった教祖が裏宇宙の意志が警察や自衛隊に姿を変えて襲ってきたときの脱出用に、ある部屋に残したトンネルから、神津は殺し屋を連れて入ってきたのだ。山の裏側、見晴台の寂れたドライヴインの駐車場には、神津のバンが停めてあった。
「それでもやっぱり、おれを選んだか」
クワ・ハルはさっきから何も話をしなかった。神津に逆らわず、すべてに従っている。彼の考えは、誰にも理解できない。後部座席の真希も、ここまでの悪夢のような理解不能の事態が、頭から離れずにいた。
クワ・ハルが鶴見を撃った。
真希を連れてきた神津の交渉に、鶴見は応じなかった。二人を殺そうとした。
そこに、眼鏡をかけた奇妙な男が紛れ込んできたのだ。
「おれと薫を使う約束だっ、話が違うぞっ、鶴見」
鶴見はその男を撃ち殺した。神津は銃を鶴見に向けた。
「なにしてんだ、早く撃てっ」
鶴見の声にクワ・ハルは自動小銃を構えた。しかし銃口を向けたのは、神津ではなく鶴見に向けてだったのだ。真希は目を閉じていた。尾を引く長い銃声だけが、いつまでも耳に残った。
「真希は使えるよ、神津さん。鶴見先生は、反対してたけどね」
クワ・ハルは、言った。それが真希が連れてこられた理由のすべてだった。
「・・・・・心配すんな、おれたちの身の安全が確保されたら、君は無事に解放してやる」
神津は後部座席に向かって言った。その約束が実行されると言う保証はどこにもなかった。警察から逃げ切れないときの最終手段を取るために、彼らが真希を残したことは、彼女もよく知っていた。死にたくなければどうなっても、従順でいるしか手はないのだから。
「どこか電波の通じる場所行ったら、潜伏して・ISMを復旧させろ。おれらの足跡を消さなな。そこから国外に出る方法は任せろ。お前らの言う、秘密の島っちゅうんは本当にあるんやろな」
「あるよ」
クワ・ハルは言った。急カーヴでハンドルを切る。フェンスから突き出した倒木の梢を騒がして、車は山間の深奥に入り込んでいく。対向車は、これまで一台もなかった。やがてのぼる太陽を避けて、深い地獄の奈落に底に再び潜むように真希には思えた。
「大方、おれの資金の入った島でも、流用しとるところやろ。あの建物もそうや。鶴見に限ったことやないが、どいつもこいつもふざけたやつや。金の稼ぎ方もわからんと、人の金だけあてにしよる」
「・・・・・・・・・」
「今回使うた分、お前には稼いでもらうぞ。ほんの数千億や。・ISMにも買い手がつけば、そこそこの補填になるやろ。まあ、まずは逃げること考えなあかんけどな」
「・・・・・・・・・・・」
そのとき初めてぼそりと、クワ・ハルがなにかを言った。誰にも聞こえないように言ったような感じだった。マスクの下から、なぜか真希だけが、その言葉を聞くことが出来た。彼はこう言っていた。
・・・・・・もう、逃げられるわけないだろ。
「あ?」
神津が聞き返したそのときだった。
ぐん、と一気に直線の坂道で、クワ・ハルがアクセルを踏み込んだ。真希は前のシートに突撃した後、吹っ飛んだ後部座席のシートにベルトごとしがみついた。狭すぎる山道で、直線コースはすぐに途切れていた。
車体は中途半端に設置された、半円型のガードレールの角に激突して九十度向きを変えると助手席側を下に、転落していった。断崖絶壁と思われた先は勾配があり、車は横回転しながら枝を掃いて滑り落ちた。悲鳴を上げる暇もなかった。真希はベルトを握り締めてシートに身体を伏せていた。やがて激突して、回転が停まった。
クラクションが壊れたのか、ずっと音が鳴り続けている。耳を聾するようなその音と、全身を揺るがした痛みに真希は苦悶した。
「クワ・ハル・・・・・・・」
ベルトをしていなかった神津はダッシュボードで胸を打ったらしく、朦朧とした声で呻いていた。クワ・ハルはいなかった。衝撃でドアが開いたのか、衝突の瞬間、あの、小さな身体はそこから吹き飛ばされたのか。
すると、真希の耳元で後部のドアが開く音がした。
クワ・ハルたちが、脱出に使ったと思われるトンネルは、晴文が亡くなっていた部屋のすぐ先で見つかった。夜が明けてもこの深い森の中を抜けていく道のりは暗かった。さっきまで降っていた雨のせいか、雑木林に霧が立ち込めている。
すでに極度の疲労をおしてマヤは、能力を使っての捜索に全力を尽くしてくれた。裏手の山の見晴台の、閉鎖された駐車場に出た頃、周囲を捜索した捜査員が、まだ新しいタイヤ痕を発見した。ガードレールについた塗料の痕や、不自然に倒された藪を見ても、そこから車が転落したことは間違いなかった。
「マヤ、薫、お前ら少しは休め」
金城がプラスティックのカップに、熱いブラックのコーヒーを淹れて持ってきて二人に渡した。
「大丈夫だ。・・・・・今、地元の警察と救急隊が、下の沢に安全に降りられるルートを探してる」
現状では真下を走る沢べりにある赤松の大木に激突した車が横転しているのがヘリから発見され、開けっ放しの運転席と後部のドアから、辛うじて車内の様子が確認できたところらしい。
「中に人影は見当たらないようだな」
「ねえ、どうにかしてあそこにあたしを降ろせる?」
「馬鹿、そいつは無理だ」
マヤの問いに、金城はあわてて首を振った。
「お前らだって疲れてるんだ、大人しくしてろ。もう無茶すんな」
その言葉は、薫に対しても向けられたもののようだった。
「ねえ、どうしてクワ・ハルは、真希だけを連れて神津と逃げたのかな」
薫が聞いた。吐き捨てるようにして、金城は答えた。
「人質だよ。いざと言うときのな」
「兄を射殺した後、鶴見はクワ・ハルに撃たれたわ」
ぽつりと独り言のように薫は言った。
「だがお前が直接、見たわけじゃないんだろう。それは・・・・」
と、言いかけてから気づいたように金城は押し黙った。
「彼はどうして神津を選んだのか、確かに疑問ね」
マヤが言った。
「トンネルを通ったとき、鶴見はメンバーにいなかったわ。見たかって言うなら、あたしもそれを見た」
鶴見は晴文を射殺した。その短い隙を縫って、真希を盾にした神津が素早く拳銃を構えた。銃口を向けられた鶴見は言った。
「おれはこの子を自由にしただけだ。ただ、金を稼ぐための道具に子供を利用したお前とは違うんだ」
瀕死の晴文の瞳が、横向きにそれを見ていた。
「お前がこいつを利用したいのは、おのれの好き勝手するためやろが」
神津は、金儲けとどう違う、と鶴見を罵った。
「銭のないやつの夢は、夜寝て、見んかい。この貧乏学者、おれとクワ・ハルの金、なんぼ注ぎこんだ?」
「おれはこの子を自由にしてやっただけだ、何度も言う、お前とは違うんだ。撃て、二人とも殺せっ、クワ・ハル。いいか、おれがお前を自由にしてやったんだ。お前の自由にしていいんだっ! こいつら殺しておれと自由になるんだ」
「わかったよ、自由にね」
クワ・ハルは言った。マスクの下から無邪気な声がこぼれた。
「なら、なにがいらないのかはぼくが決める」
続く、銃声は一発。死にゆく晴文の前で、こめかみを撃ちぬかれた鶴見が倒れこんだ。
事後処理にめどをつけて、真田が到着した。
「そっちはどうだ?」
「まだ三人とも見つかってない」
「こっちはいろいろ見つけたぞ。まず鶴見の死体だが、沢べりのゴミ置き場に叩き込まれていた」
口には出さなかったが、部屋に安置されていた晴文の遺体の扱いと区別したのに、なにか理由があったのかと、薫は思った。
「あと、南東側の実験棟で、身体の不自由な女性を保護したぞ。精神に異常を来たしているらしく、会話に応じない」
「・・・・・それは、実験に使用された鶴見の元・妻です。昨夜、鶴見自身から、紹介を受けました」
薫の補足を真田は手帳に書き込んだ。
「最後だ。満冨悠里を本館二階で確保した」
「無事に?」
マヤが聞いた。どうかな、と言う顔を真田はした。
「拳銃を握って、自分に銃口を突きつけたまま、座っているところを踏み込んだ捜査員が取り押さえたそうだ。自殺の恐れがないように厳重に注意するよう、指示を残してきた」
真田は手帳を閉じると、下の様子を見た。
「北浦真希は、まだ無事だと思うか?」
マヤも金城も答えなかった。薫だけ即答して、
「彼女は生きていると思います」
「ご両親にはまだ、状況を報告していない」
真田は言った。
「落下した車の中には誰もいない。近くに人の姿も見当たらないそうよ」
マヤが言葉を次いだ。
「ここから一般道まで抜ける道を捜すのは、かなり厳しそうだな」
真田の言わんとしていることが、薫にも解った。険しい山道を逃走するのに、まず足手まといになりそうなお荷物は要らない。
ターン、と硬いものが中から破裂するような銃声が、そのときどこかで起こった。
「どこだ?」
全員が耳をそばだてた。銃声は断続的だった。しかし交互に、違う銃から発射されたと思われる音が激しさを増して響き、やがてそれがぱったりと、途絶えた。
朝霧の深山に甲高い銃声の余韻が、残り香のように、長くあとの余韻を引いて煙った。
「下に降りる道を探そう」
一拍遅れて、真田が言った。
「今すぐにだ」
ドアの隙間から出てきた腕は、迷彩服だった。顔を上げた真希の目と鼻の先、無機質なマスクが声を励ましていた。
「真希、動けるか? 生きてる?」
「・・・・・だいじょうぶ」
真希は声を絞って、ようやく言えた。革手袋をした手が、もどかしげに真希の手を握った。反対側がわきの下から肩を支えている。助手席のシートに足をかけてのぼるとき、真希は引っ張り上げてくれる小さな身体に意外な力があることに気づいた。真希とは目を合わさないように、クワ・ハルはなぜか顔を背けている。
「逃げるな」
彼は言った。脅しの意図は感じられなかった。鶴見を撃ち殺したライフルはどこか不似合いな長さで、その肩に掛けられていた。前に回したベルトを手にかけると、射撃の意志のない「担え筒」の状態になる。その言葉を知らなくても、クワ・ハルに今、害意のないことは、真希にも伝わった。
反対側の手で、クワ・ハルは何かを差し出してきた。それは杖に手ごろな一本の棒切れだった。肩に装着したナイフで切り出してきたのか、先端が丸く、綺麗に削りだされていた。これで歩けるか、と言う意味のことを彼はぶっきらぼうに聞いてきた。
真希はその杖を受け取ると、下の沢べりに降りて、二、三歩すすんでみた。打撲した右の肋骨のあたりや、腰はひどく痛んだが、無理をすれば歩けないことはなさそうだった。
彼女の答えも聞かずに、クワ・ハルは自分で選んだ勾配をさっさと駆け上がっていった。真希にはいぜんとして選択の余地のない状況だったが、ここは彼に従うべきだと自然に判断が出来た。このクワ・ハルという少年がなにを考えているのかは、やっぱり全然分からなかったが、車の中でまだ睡っている男の明確すぎる邪悪さよりはましな気がした。
悠里にら致され、夢なら醒めてほしいと言う事態にもう半日以上、さらされてきた真希には本能的に死を選ばないための直感的な生理機能が研ぎ澄まされていたのかもしれない。
クワ・ハルが選んだコースはやはり勾配の急な、深い藪に覆われた一本道だった。山に慣れているのか彼は、木の幹につかまりながら、すいすいと先に上っていく。
このルートを真希はたどればいいようになっているのだろうが、もちろん中々上手くはいかない。深い藪は踏み抜けない。薄いクリーム色のレースのスカートにスカートにスニーカー、カーディガンをまとった真希には、山道を抜けるために準備された素養はなにひとつとしてなかったのだから。
小さい頃、真希は、こうして北海道の原生林の中をめぐったことがあるのを、断片的に思い出しながらどうにか歩いた。彼女が九歳まで育った白老の原野は気が遠くなるほど森の息が濃く、本土ではあまり見ない平たい大きな葉をもった草の茂みが、何百年も生きているような古木の下に群生していた。
今、記憶を起こした日常の中に、一刻も早く帰りたいと思った。
(・・・・・お父さん、お母さん)
緊張と恐怖の連続で分泌されたアドレナリンに悪酔いしたのか、胸が重く、疲れているのに、歩みを止められない。神経線維の一本ずつが、ぎりぎりに張り詰めて運動する辛うじて身体を支えている。
坂をのぼる疲弊しきった身体の自重にぷつぷつと、その支えの糸が切れていく。全てを失ったときに、自分は死ぬのだと真希は悟った。泣こうにも渇いて、涙の一滴も出そうにない。さやかに流れる白い沢の流れは遠ざかって、車も見えなくなっていた。このまま下で救助を待っていた方が、よっぽど良かったと真希は今さら後悔し始めた。
はるか前方にいたクワ・ハルが振り返ってこちらを見ていた。はっと真希は息を呑んだ。彼は突然、持っていた銃を杖にしてこちらに降りてきた。彼は一体、どんな少年なのだろう。山道でも、苦にせず歩いていく。なにをされるのかと、彼女は身を硬くして待った。
彼女の前に来ると、クワ・ハルは腰につけた水筒をとって差し出してきた。手に取ると、まだ汲み上げたばかりの沢の冷たい水でしっとりと濡れていて、持ち重りがするくらいだった。
山の夜気と寒さで指がかじかんでいた。それでもほとんど相手の反応を見る余裕もなく、真希は水筒に口につけた。極限の緊張が長引き、水も食べ物も受け付けない状態だったはずだった。なのに渇いた口の中に水を受け入れた瞬間、オーバーロードしていた全身の細胞に新しい力が灯ったような気がした。ひと口の水が、これほどまで弱った身体に、強く染み渡るものだろうか。
器官に突撃したひと波に噎せて吐き出しそうになりながら、真希は十分な水分を取り込んだ。
息をつくと、へたりそうだった。幸せな眠気すら感じる。一旦弛緩した神経に、口止めをされていた全身の疲労感が、堰を切ったかのように、休眠の警告を伝達してきた。
いつしか腐った切り株の上に、真希は腰を下ろしていた。お気に入りだったスカートが汚れる。そんなことを気にしている様子もなかった。
「・・・・・あ」
真希はそこでようやく気がついた。今さらと思ったが、それを差し返した。
「・・・・・・ごめんなさい」
上目遣いで真希がうかがうと、クワ・ハルは別に気にした様子もなく、水筒を受け取ると黙って自分の腰に戻した。
「真希」
彼は突然、真希の名前を呼んだ。
「君は、真希だ。本物か?」
一瞬意味が掴めずに、真希はきょとんとしたが、察してあわてて肯き返した。
「クワ・ハルだ」
胸に手を当てて、彼は言った。
「ぼくも本物だ。ぼくは自由だ。君も、自由だな?」
はい、と肯きかけて、真希は顔を曇らせた。
「どうかしたのか?」
「・・・・・・・」
これからどうなるのかと言うことを聞こうと思うと、真希は恐ろしかった。だから、代わりの言葉を、頭の中で必死で探した。
「・・・・・ねえ、どうして」
真希は言った。口をついて出た言葉は、偽らざる本音になった。
「どうして、わたしだったの?」
「真希が?」
どこか噛み合わない質問でクワ・ハルは返した。
「どうして・・・・・わたしを選ぶの? どうして? さっきもあなたは、わたしを助けてくれた。その前からもずっと・・・・・ずっと見てたんでしょう? わたし、あなたのこと知らない。知らないのにどうして・・・・・どうやって、あなたはわたしを見つけたの?・・・・そもそもあなたのせいで、わたし・・・・・・」
堰を切った感情が自分でも思わぬ方向に行ってしまったことに戸惑うと、真希の目から涙が溢れた。
クワ・ハルは何とも応えず、無言で真希を凝視している。
「あなたは誰?・・・・・本当は、わたしの知ってる人?」
「君は不自由だった。前よりもずっと」
クワ・ハルはぽつりとその言葉を口にした。
「前っていつのこと? 今よりも・・・・もっと、前?」
クワ・ハルは深く首を振った。
「いつだったか、そんなことは知らない。でも今の、君はすごく不自由だった」
「そんなことないよ、だってわたし・・・・・」
反射的に言い返してから、真希は口ごもった。
「ほら」
と、クワ・ハルは静かな声で言った。顔をそらしていたクワ・ハルはいつの間にか、こっちに向き直っていた。
「真希は不自由だ。美琴と悠里にいじめられる前からずっとだ。君の目が行き着く、なにかがずっと君の言葉を縛っている。攻撃されないように、助けてくれるように。君は言葉を封じて、期待している。だからぼくも今、こうしてまっすぐ、真希を見ることが出来る。真希は生きて、不自由になることを、学習したんだ」
「違うよ・・・・・」
真希は首を振った。
「そんなことない」
「そしてぼくは、もっと不自由だった」
「ねえ」
意を決して真希は、訊いた。
「わたしたち、会ったことがあるの?・・・・・もしかして、ずっと・・・・昔?」
真希は顔を、クワ・ハルのマスクに近づけた。抵抗する様子もなく、彼はそのまま、静かに立って真希を見つめている。息を呑んだ。彼女の手がそっとマスクにかかった。
その瞬間、最初の銃声が一発、起こった。
鈍器で分厚いゴムを叩くような、弾丸が肉にもぐる音を真希は、風切り音とともに聞いた。弾丸はクワ・ハルの左肩の肉をえぐって、その小さな身体を二メートルほど吹っ飛ばした。
七、八メートルほど後方の木の陰に、神津がいた。慎重に足音を殺して、後から忍び寄っていたことに、二人は気がつかなかった。まだ白煙の立ち上る銃口を構えながら、彼はゆっくりと歩み寄ってきた。
歩きながら、白い息が横に流れる。薄笑いを浮かべてこちらに近づいてくる神津は、まるで迎えに来た悪魔のようだった。
額は赤く血に濡れていたし、白目が濁った瞳は、ぎらぎらと黒目ばかり光って目じりが赤くよどんでいた。髭は伸び放題で、束ねた髪がほどけている。黒い革のジャケットに散り掛かったガラスの破片が、断片的に射してくる朝陽にきらりと輝いた。
踏み切られた選択の結末
「・・・・・アホか」
吐き捨てるように、神津は言った。真希に銃を向けて言った。
「・・・・・こんな、ガキ欲しいて、アホみたいな騒ぎ起こしよったんと違うやろな。洒落にならんぞ、お前」
クワ・ハルは、倒れこんだ姿勢から、右腕を下にして動こうとしなかった。
「女とやりたかったら、素直にそう言えや。金さえ積めば、なんぼでもやらしたるわ。なんでもないことや。そんなんならいくらでも、どんな女でも連れてきて、お前に喰わしたわ」
引き金をひきかけたまま、神津は真希を睨みつける。
「それがなんでこのガキ・・・・・」
憎々しげに吐いた後、神津は言葉にならないため息をつき、絞りかけた引き金を戻して、軽く銃身を立てた。そのときクワ・ハルの身体が薄く反応した。その顔の付近に目がけて、一発、神津は撃ちこんだ。
「最後の選択や、クワ・ハル」
神津は言った。左手で銃を真希に突きつけながら、数歩、横に移動した。
「どちらか好きな方、選んでもらうぞ。お前か、この女か、不要なもんをここに捨ててけ。おれを撃ったら、お前は一人や。その傷でこの山ん中一人で生き延びられるかどうかよう考えて結論出せ」
ゆっくりとクワ・ハルは立ち上がった。肩口の傷を確認してから、自動小銃の安全装置のレバーを外した。ストックを肩付けした立射姿勢で銃口を真希に向ける。銃弾は一発、外さないように狙う構えだった。
二つの銃口に睨まれたまま、真希は、動けなくなり、息をすることも忘れた。
(死ぬんだ)
その四文字以外に、なにも考えられなくなった。
「はよ、決め。先にこの女弾くぞ」
神津が言った。真希は二つとも銃口から目がそらせなくなった。
そのとき、クワ・ハルは銃身をかすかに左にぶらせた。動きに反応して、真希は自分の身体が固まるのが分かった。しかしクワ・ハルが銃口をぶらせると言う動作をしたこと、それが意味するところを理解するまでに、真希はひどく長い時間が掛かった気がした。
銃弾は一発。
飛来した弾丸は、神津の左肩の上の肉を吹っ飛ばした。ゴム人形のように腕を振り回して神津の身体が後ろに吹っ飛び、そこに尻餅をついた。その際に暴発した弾丸は、真希のすぐ傍を掠めていった。真希は自分が撃たれたように、呼吸が止まった。
瞬間、吹き飛ばされた神津の上体がゆらりと立ち上がる。
「上等や」
神津がそう、つぶやいたのが合図のようなものだった。
フルオートにレバーを替えたクワ・ハルが神津に向けて引き金を絞った。座ったまま神津も二丁の銃で撃ち返す。応酬された無数の弾丸は、二人の身体を貪り尽くして削り落とし、まだ肌寒い春の山野に消えていった。
真希は死人のようにそこに立っていた。破裂したパウダーで目と肌がびりびりと痛み、涙が溢れた。焼けた人の脂が皮膚に散って、唇が炎であぶられたように熱くなる。そこで真希は初めて、声を上げた。
「やめて・・・・・・」
頭の芯が熱く白んで、止まない爆音が現実から真希を引き離す。それでも意識は醒めて、涙がとまらなかった。声が嗄れるほど叫んでいた。しかし、誰もそれを聞き留めるものはいなかった。
噎せるような人の脂を含んだ白煙の中、気がつくと、誰かがこちらを見て笑っていた。神津だった。神津は血で染まった歯をこちらに見せてにたりと笑ったと思うと、崩れた肩を突いて、その上にその首がごろりと載った。やがて自重に耐え切れなくなった上体が、力を失って後ろに倒れこんだ。
こちらに両足を開いて、クワ・ハルは倒れていた。迷彩服は黒く血に濡れて、顔にも被弾していた。柔らかな腐葉土の地面が、あふれ出た血を吸った。ふらりと右手を上げた彼は、こちらに向かってなにか合図をした。
それがこっちに来て、と言っているのか、あっちに行け、と言っているのか、真希には判断がつかなかった。
それでも瞬間。
身体が反応した。
(わたしたち・・・・・・・会ったことがあるんだ)
(それに)
真希は心の中で、繰り返しつぶやいていた。
(マスクに手をかけたとき)
(わたしの手を、拒まなかった)
気がつくともつれた足でそれでも這うように、真希はクワ・ハルの身体に駆け寄っていた。
銃声が収まって、ほぼ十分経った。迂回路を発見した警官隊と真田が、救急隊員を連れて藪の中を進んでいく。倒れているクワ・ハルの身体に取りついて、途方に暮れている真希の姿を一番最初に見つけたのは、マヤだった。
「状況を確認しろ」
真田が言った。
ほど離れた場所で、神津良治が死んでいた。
真希は血まみれだった。駆け寄ったマヤが、確認したところ、目立つほどの外傷は、負ってはいなかった。
「・・・・・・まだ、生きてる・・・・・生きてるの」
真希は言った。マヤだけではなく、薫もすがりつかれた。強い力で、必死につかまられた。彼女は泣きながら助けを求めていた。しかしそれは自分のためにではなく、クワ・ハルのために助けを求めていたのだ。
「知ってる人なの・・・・・わたし、この人のこと知ってるの・・・・だからお願い・・・・・彼を助けて」
薫は真希をクワ・ハルから引き離した。抱き上げられたまま、真希は激しくかぶりを振った。
「早く診て・・・・・お願い」
クワ・ハルの身体はすでに体温を失いかけていた。
「主要な動脈が、破裂しているわ」
マヤの言うとおり、失血の際のショック症状も消え、呼吸もなく、身体からその生命はもう、失われていた。救急隊は真希を保護した。自分では気づいていなかったのかも知れないが、彼女にはこれ以上、立って歩くだけの体力も残されていなかった。
それでも彼女は、叫び続けた。
「助けて! お願い、彼を助けて・・・・・・」
「知ってる? いったい、どう言うことだ」
金城が聞いたが、その場に、彼の疑問に答えることが出来るものは誰もいなかった。
薫はクワ・ハルの前にしゃがんだ。
薫には、確かにある程度の予感はあった。しかしそれを口に出すことは今さら無駄だったし、真希にもそれを伝えたところで、どうにかなるものでもないと言うことは分かっていて、口にしなかった。クワ・ハルが真希に対して本当に考えていたことを、薫には伝えることが出来ると思えなかったのだ。
薫は彼のマスクをとった。破損していない部分の彼の顔は、十五、六歳くらいの少年の顔で、本当に綺麗だった。
「どう?」
マヤの意図を察して、薫は小さく首を振っただけだった。
その朝は穏やかな風が吹いた。春の遅い山の中でも、冬の匂いはもうなく、薫は山肌に一枝咲いた山桜を見た。朝からは警察と消防隊が、すべてを収束に向かわせた。薫は金城が運転する車の中で、臨時ニュースを聞いた。大規模な抗争を繰り広げて都内を逃げた暴力団と警官隊の衝突があったようだと、ニュースは告げていた。昨日の夕方起きた、病院の襲撃事件と関連付けて報道しているものは今のところなかった。
新聞社のヘリが、山間を縫って飛んでいくのが見えた。彼らが到着したとき、そこには、見るべきものはなにもないだろう。
ひどく、穏やかな寝息が聞こえてきた。窓際に頬杖をついて、マヤはかつてないほど深く、眠りに落ちていた。
(ヘリを見てたのかと思った)
「どうかしたのか?」
バックミラー越しに熟睡しているマヤを眺めて、じっとしている薫に金城が言った。
「・・・・・なんでもないの」
薫はあくびをした。マヤを見ていて自分も、眠気に誘い込まれたようだった。気がつくと泥のように身体が重かった。
「寝てもいいぞ、ずっと危険な目にあってたんだ」
「起きてるわ。一人で平気なわけじゃないでしょ?」
彼も、不眠不休でここまで来たのだ。
「まあ・・・・・まあな」
あくびは伝染るものだ。金城は強引にあくびを噛み殺した。
あれは。
あのとき晴文の中で見た、最後の記憶は。
今度は本当にただの幻だったのか、それとも。
薫は慎重に記憶をたどってみる。何度も出会っていた、あの夢。薫は過去に向かって、長い落下を続けていたのだ。そして、そこに到達したとき、当然のように悪夢は消えさった。
「薫がその力に目覚めたのは、つい最近じゃない」
マヤが、そう言っていた。ずっと前にも似たようなことがあったのだろうか。
今は考える力も残っていない。
雲ひとつなく、空は晴れ渡っていた。
薫は目で薄い雲の流れを追っていたがやがて、マヤと同じ深い眠りについた。やや肌寒く感じた金城がヒーターを強くした。暖気に包まれて眠る薫は、もう悪夢を見ることもなさそうだった。
クワ・ハルの正体
まるで、年単位の長い夢を見ていたように薫には思えた。
思えば、薫が池袋の路地裏で、最初の【彼女】に会ってから、まだ一ヶ月ほどの時間しか経っていなかった。
・ISMに関する複数の事件は、すでに個々の、なんの脈絡もない事件として扱われ始めていた。
嶋野美琴の殺人事件は、磯野武徳を含む四人の共犯者が自殺志願者のサイトを通じて集まり、道連れになる女性を探して犯行に及んだことになり、他の三人についてはすでに自殺した、と言う決着がつけられた。当然ここに、・ISMの名前は出ることはなかった。
磯野の供述で・ISMに関するものは、精神錯乱と言うことで片付けられている。薫をはじめ、事件の関係者にとっては狐に摘まれたような決着だった。
病院の襲撃事件や山梨の施設での事件などは、広域暴力団の抗争の結果ということで終始した。近々、当局はこの泰山会の内部抗争をきっかけに幹部の一斉検挙を匂わせている。押収した銃器や兵器のでもとをたどるだけでも、彼らの中枢に喰いこめる見込みがつき始めてきたからだ。
神津良治がこれまでしてきたことの全容の解明には、満冨悠里の証言が欠かせなかった。そのすべてを処理するのに、真田はまず十年はかかるだろうと言う見通しを出したが、未成年の悠里には情状の酌量と、新しい身分の生活が保障されることになった。条件の提示と作成にあたっては、マヤが力を尽くした、と薫は聞いていた。・ISMやクワ・ハルのことも、悠里は積極的に話をすると言う。
ちなみにクワ・ハルたちが話していた、亀の島の所在地は現在のところ見つかっていない。
彼らが横領した部分の資金の道行きの不透明さは、神津の隠し資産を上回るもので、追跡調査が急がれている。
事態は極秘裏に穏便に、都合よく解体処理されて嘘のように消えていく運命にあった。メディアの波に乗ったこの細切れの断片は、それぞれがそれぞれの消費のされ方で、新たな需要と押し寄せる新情報を前にまるで線香花火のように消えていくだけだった。
金城は最初、当然真田が調整したこれらの結果に決して満足はしていなかった。まだ、・ISMの問題が解決したとは言えない。その点については、薫も同意見だった。・ISMは確かに、その効力を失った。
美琴の事件も含めて関連事件の報道も公の場から、姿を消しつつある。だがネット上の伝説や犯罪裏サイトでの流行はいまだに留まることを知らなかった。かつて死刑囚のサイコキラーや独裁者が支持されたように、失われたこの神の知性も、どこかで必ず生き延び続けるだろう。また災厄の種を蒔く、可能性を孕んで。
アメリカでの事件を経験したマヤもその点については、否定はしなかった。
「模倣や空騒ぎをとめることは出来ないわ。あたしたちは生み出したものの代価に耐えないといけない。でも、最悪の事態にならないように、ある日目覚めて、最大限の努力はしないとね」
ある日二人は、真田とマヤに呼ばれた。警視庁のある一室に、事件で押収した・ISMに関するすべてのデータがそこに、並べられていたのだ。まだうっすらと赤い血のついたように見えるメモリはクワ・ハルの遺体が所持していたものだ。
「おれたちの手で、これらを完全に廃棄する」
真田は言った。
「今からあたしが持ってきた開発中のウイルスソフトですべて、データを処理するわ」
マヤが持参したのは、マヤの所属している委員会が開発したプログラム破壊のためのウイルスソフトだった。
そのソフトは今から五年かけて完成され、セキュリティシステムに組み込まれて各機関に配布された後は、TLEに類するすべてのプログラムを無効にすると言う。マヤを派遣した機関の主な仕事の目的は、そのシステムが完成するまで、復活の恐れのあるTLEをそのウイルスソフトで阻止することにあったらしい。
「これがあなたの、本当の目的だったのね?」
薫の問いに、マヤは肯いた。
「政府は委員会の報告書を読んで、TLEに関するすべてのデータの完全廃棄を十ヵ年の計画で決定したの。一年前の事件を公表出来ないのは、それまでの風評被害や、TLEを再利用しようとする人間が現れるのを防ぐためなの」
「それなら最初からそうだと話してくれればよかったのに」
金城は文句を言ったが、マヤはかぶりを振り、
「確かに、あなたたちには話しておくべきだったかも知れないけど、TLEのときにあたしは学んだの。ほぼすべての人が今の自分になんらかの不満をもって生きている。新しい自分を、新しい世界を望んでかなえてしまうものは、人を狂わせる。その誘惑に引き込まれる人間をとめることは出来ないから」
「その点では、おれたちの意見は一致したわけだ。ちなみに、日本の調査機関は、アメリカでの事件を把握した上で、入手したTLEをひそかに回収して、再開発しようと考えていたらしいが」
「おい、じゃあこの件は・・・・・」
はっと気づいた金城と薫に、真田は笑みを浮かべるとこっそりと言った。
「ああ、もちろんすべておれの独断だ」
北浦真希はあの日からそのまま、二度目の入院をしていた。目だった外傷はなく、体力の回復も問題なかった。保護したときかなり錯乱状態でいたので、薫も心配してはいた。しかし、それは一時的なショックで収まったと言う。入院して始めてマヤとお見舞いに出た日から、受け答えは比較的しっかりしていた。
クワ・ハルを知っている。
真希から、薫は直接、詳しい話を聞いていた。理路整然とした詳細な話し振りは、その場で否定できない現実感を伴っていた。聞き取った真希の話の内容を、薫は調べることになっていた。
真希がクワ・ハルだと言った人物を薫は可能な限り追跡調査した。
「どうする?」
マヤが聞いた。
「事実を話す」
と、薫は言った。
「たぶん、それしかないと思うよ」
「納得すると思う?」
マヤが聞いた。
「それは、分からないわ。でも、結果は話さなないと」
薫はそう思った。
真希は、家庭の事情で小学三年生まで北海道の白老で育っていた。父親が芸大出で、農家をしている叔父の家に寄寓しながら絵を描いて暮らしていた時期があったことは、薫も前に聞いた。
古くからアイヌの住んだこの土地には、豊かな川や沼、懐の深い広大な原野に囲まれていて、大人しい真希もその頃は友達と森の中で遊んだりもしたようだ。
一年生になったばかりの頃、その中に一人、どこから来たのか分からない、小さな男の子がいたと言う。季節を問わず、古びたトレーナーやシャツを着たその子は、裸足にいつもサイズの合わない靴を履いていて、青っ洟をすすって汚いと言っては、誰も遊び仲間に入れたりはしなかった。無口で、誰になにを言われても、泣きもしない。仲間には入れないから、いつも遊びの輪の外から静かに、こっちを眺めていたと言う。
どこへ帰るのかも、誰も知らなかった。どれだけ暗くなっても、彼は絶対に一番最初に帰ったりはしなかった。
その頃、バイパス沿いの原野が切り拓かれて、簡易住宅のようなものやアパートが建てられ始めていた。噂によると、彼はそこの子で、家にはいつも誰もいないのだと言う。貧乏で学校にも行かせてもらえないのだと、誰かが囃したてた。
確かに真希もその子を敬遠していた。積極的に嫌ったわけではなく、友達の中の暗黙の了解に従ったに過ぎなかったが無視をしていた。大抵子供の集団というのは、こういうことにうるさい、何人かの男女が先導しているものだ。話したり触ったりしただけで汚い、と言われて彼らにからかわれるのが、真希は嫌だった。もしそうされたとしても、反論したり、受け流したりすることが出来る自信など、あるはずがなかったからだ。
ある日、小学校のクラスの男子が女子を連れて上級生と、大きな魚のいる堀に遊びに行こうということになった。そこは近くの大きな牧場がある土地の裏手で、山を迂回して藪の中の堀に入れるようになっていると言う。
私有地立ち入り禁止の看板と警告が、真希は最初から気になっていた。この辺りは熊の目撃情報は少ないが、こう言う場所になるべく足を運ぶなと、言われていたことも思い出した。気分が浮かなくても、彼女はついていかざるを得なかった。グループの中の何人かの友達が、他のみんなの意見や気分も簡単に左右したからだ。
「熊が出るかもよ」
女の子の集団を仕切っていた子の一人が、さかしらげに言った。熊が出たと言って、おどかすのがそこでたちまち流行った。真希は隅でなるべく小さくなってその様子を見ていたが、悪ふざけは沼に行ってからも続き、まったく収まらなかった。
その沼はそれほど深くはなく、規模も大きな水溜り程度のものだった。しかし、水草と葦の生えた岸辺は泥でぬかるんで、水面は濁りきっていた。林の向こうに牧場のものと思われる柵が見える。しかし白いペンキで塗った柵は傾いていて、長い間誰にも気づかれずに放置されているように、彼女には思えた。
みんなが熊の話をするので、その頃、真希は本当に心配になってきていた。それでも、帰ろうと言えるはずがなかった。
やがて遠くで、散弾銃が鳴った音がしたのを何人かが聞いた。
「気のせいだよ」
強がった誰かが面倒くさそうにうそぶく。釣りをやめて何人かは水遊びに移行していた。
「熊だ」
誰かが、冗談半分にそう言った。足元の藪を騒がしたり、水音を立てたりして、またおどし遊びが始まった。二度目の銃声をかなり近くで聞いたとき、近くの藪ががさりと揺らいだ。なにか大きなものが、山からその茂みに入ったような気がした。それは、しばらくなりを潜めていたが、やがて切羽詰ったような勢いで、藪を蹴散らし始めた。
みんなが動きを止めて、蒼くなった。背筋が寒くなった。その瞬間、一人が駆け出した。最初はまだ冗談のつもりだったのと真希は思った。しかし違った。逃げた一人は、本当は藪の中になにがいたのか、それをちらりと見たのかもしれなかった。
「出た」
駆け足の早い順に逃げ出した。真希は一番、出遅れた。両脇を、もっと軽やかに友達が走りぬけていった。気がつくと、彼女の後ろには誰もいなかった。
もしかしたら、お化けが出た、逃げろ、と言うのに近い遊びだったのかも知れない。次の遊び場に関心が移ったのか、誰も戻ってはこなかった。真希はこの場所にどうやって来たのか、あまりよく知らないまま、仲のいい友達を頼りについてきた。その友達もちらりと真希を振り返っただけで、やはり戻ってはこなかった。冷静に考えるとたぶん、このとき真希は、どこかで道を間違えたのだ。
みんなに一斉に取り残された気分に、真希は打ちのめされた。誰もいない、山の中の砂利道だ。途方に暮れて、真希は辺りを見回した。見覚えのない道だ。さっきからぐるぐると、どこかを回っている。泣きながら、彼女は立ち尽くしてしまった。
するとそこに、その男の子が通りかかった。そんなわけがないと真希は彼の顔を見直した。たぶん、こっそりと跡をついてきていたのだ。最後尾の真希を追って、ここに出てきたらしい。ここまでの道を彼はよく知っていて、ちゃんとうちまで真希を送ってくれた。
その日の夕ご飯をうちでともにして以来、真希はその子と仲良くなった。父親や大叔父さんが、暗くなってもうちに帰れない彼に声をかけて、ご飯をご馳走したりした。
父が挨拶に行っても、そのうちにはいつも誰もいないのだと言う。夜中まで親が遠くまで出て働いているのか、家は昼間でも雨戸が締め切られ、庭の物置で彼は一人、暇をつぶしていることもあったらしい。時間を持たせるためか、そこには子供向けの古びた絵本やスナック菓子の袋などが積み上げられていた。
真希が聞いても、彼はほとんど何も話さなかった。ののしられても、こづかれても、本当に一言も話さないのだ。真希は遊ぶときはほとんど、二人で絵を描いて過ごした。父が言うにはその子には、なかなか才能があった。
一週間のうち、彼は必ず三日、来ない日があった。家庭の事情なので真希の親も当然なにも言わなかったが、身体の見えない場所にそれと判る傷があることもあった。
いつしか彼はずっと来なくなった。二年生になったばかりの六月だったことを真希は憶えている。児童相談所が介入したとも聞いたが、家はいつの間にか、表札ごと消えていた。親戚のうちに引き取られていったらしいと言って、父はあとは言葉を濁した。幼い娘に話すには憚られる話が多かったに違いない。狭い田舎では、新参者で土地に縁がなくてもすぐに、親の素性がばれるものだ。
真希は寂しいとか、かわいそうだと思う反面、少しほっとしてもいた。彼のことが別に好きでも嫌いでもなかったが、あいつと結婚するんだ、とか、貧乏の夫婦だとか言われるのはちょっと嫌だった。だから突然いなくなる前の日に、道路の端に座っていた彼をわざと無視したことが、棘になって思い出の中に残っていたと言う。
真希は思い出したその名前を、二人に告げていた。
「川原てつはる」
この名前は彼のスニーカーに書かれていたらしい。
「てっちゃんってわたしは呼んでました」
「ストックホルム症候群?」
ええ、と肯いてからマヤは話を続けた。
「ら致されて長時間、犯人と生活をともにした人質に見られる心理症状なの。例えば立て籠もり事件などの場合、人質は犯人と長い間、生活の共有を余儀なくされる。そうしているうちに、犯人と人質の間に共感が生まれてしまうことがあるのよ」
マヤによると、犯人も人質も命の危機にさらされている極限状態ではお互いにそれを回避するための本能が働くと言う。
確かに、と薫は思った。
クワ・ハルは真希を連れて、長時間山野を彷徨していた。クワ・ハルはそのときに真希に山を歩くための棒を与えていたり、水を飲ませていたりしたらしい。誘拐犯人と被害者の間に協力関係以上のものが芽生えるのは、防衛や食事など生き残るための共同作業をした場合に起こりやすいと言う。
「なにより彼は結果的に、追ってきた神津良治から真希を護ったわ。特にそうした状態では性欲が亢進しやすいから、異性同士の関係は本当に発展しやすいのよ」
マヤは言った。
「この言葉が生まれた事件のケースでは、逮捕されたテロリストに恋をして泣き喚く女の人もいたり、警察の特殊部隊が侵入しないようにバリケード作りを手伝った人質もいたの。人質は極限のストレスに適応するために、自分を脅かす相手に、人間的なコミュニケーションの手段をとろうとして、なんらかの共感を覚える部分を必死で見つけて自分と結びつけたがる傾向があるのよ」
「つまりは、真希のケースはそれに当たるってこと?」
「そう、あたしは解釈したけど。真希だってそう考えたほうが楽なはずだし」
「彼女は、それで納得すると思う?」
マヤは小さくかぶりを振った。
「これはいつか、そう思うようになればいいなって思うだけ。これ以上、クワ・ハルを追ったとしても、真希の治療にはなにも役立たないと思うし。・・・・・・川原てつはると言う名前の子は、本当に薫が調べても結局、見つからなかったんでしょう?」
「そうね」
薫は言った。
「それなら確かに、そう考えるしかないと思う」
真希がいた時期を遡っても、その名前と年齢の子は見つからなかった。登録されていない私生児の行方を捜すのは至難の業だ。
気になるのは、クワ・ハルの実年齢が見た目より、本当はかなり上の可能性も高いと言うことだ。薫が見た彼の素顔は、どう見ても、十五、六歳くらいのものだった。悠里はクワ・ハルを、十八歳だと言った。だが実際はそれより少し上で、二十歳を過ぎている可能性もあると言う。神津良治が死んだ今、真相は判らない。
虐待児の中でも、徹底したネグレクト(育児放棄)を受けた子供は、精神的にも肉体的にも発育状況が、著しく悪化すると言う。特に長い間、誰ともコミュニケーションをとらず、半監禁状態で育った文化隔絶児と言われる子供の大半は、実年齢より三、四歳、ひどいケースでは、五、六歳も幼くなるらしい。救出後も、言葉や知能の遅れはどうにか取り戻せるが、人とのコミュニケーションに重大な障害を残すと言う。
薫は胸に否定しきれない部分を秘めて、口にはしなかった。考えればなぜか、どうしても希望的観測になる。でもそれは真希のためではなくて、あのクワ・ハルのためになることに過ぎない。彼は、死んだ。真希だって、本当は早く忘れたほうがいいのだ。
ただもし、人生の大半を監禁生活に費やされた彼が川原てつはるだとして、ある日、かすかで唯一の真希の記憶をたどろうと考えたら。そのために・ISMをつくり、ついに真希を見つけたのだとしたら。あの暗い【揺り籠】と膨大な情報の山から、自分の存在に一筋だけ、光を見出していたとしたら。
薫はしばらく、そのことを考えた。
「ねえ、本当は薫はどう思うの?」
マヤは、言った。彼女の質問の意図は、十分に理解していた。
「彼・・・・・川原てつはるが、本当にクワ・ハルだったかって言うこと?」
「薫は最後に、クワ・ハルの顔を見たわ。なにか、読み取れたことはなかったの?」
「なにもなかったわ」
薫は答えた。これも、偽らざる真実だった。
「残念だけど、クワ・ハルからはなにも見えなかった。夢を見たのは、あのとき兄の顔を見たときが最後だった」
真実を見つめなおして
マヤの帰国が迫っていた。それは彼女と、最後に真希を訪問してから二日後のことだった。
「まず、一時的な帰国ね」
マヤは残念そうに、言っていた。
「委員会に報告を終えたら、また、自分の事件の裁判に出なくちゃならないの。でもこちらの事件についても、まだやらなくちゃいけないことがあるから、冬にはまた帰ってくるわ。そのときはまた、薫のところにステイさせてね」
また、部屋が独りになる。もともと独りだったときは考えもしなかったことで辛くなるのが、やはり自分でも不思議だった。でも冬に約束が出来たことが、何よりも嬉しかった。
「分かったわ。でも、次に来るときは、前もって知らせてよ」
突然、マヤは言った。
「一期一会ね、薫」
マヤの言葉に、薫は、不覚にもはっとしてしまった。
まさか彼女が最後にそんなことを言うとは思ってもみなかった。
「・・・・・・・そうだったのかもね。感謝するわ。兄のことも、その他のことも」
二人は別れを惜しんでハグをした。
彼女が淹れてくれたコーヒーを、薫は最後に楽しんだ。
「あれから夢は見ない?」
「ええ、何も感じなくなったわ。仕事もこのまま、続けていけると思う」
「そう」
それ以上、マヤは言葉を濁して何も言わなかったが、言いたいことは薫にも分かっていた。
薫が最後に見た兄の記憶。その底で待っていたのは、幼い薫自身だった。その正体を、まだ薫は思い出すことが出来なかった。
出発ロビーのゲートをくぐってマヤの姿が見えなくなるまで、薫はその場で彼女を見送っていった。
「行っちまったな」
傍らの金城が言った。
「冬にはまた会えるわ」
薫は言った。
「そのときには彼女、もっと日本の勉強をしてくるって」
「なんかそれもおかしな話だな」
金城は笑うと、訝しげに首を傾げた。
「じゃあ、そろそろ行くか。お前、千葉の実家に寄らなくちゃならんだろう?」
「・・・・ええ、実はそうしなくちゃいけないんだけど」
「いいさ、送るよ。その代わり、今度の夜番替われよ?」
「お酒も奢るわ」
「本当か?」
ジョッキを煽る仕草をして金城は喜んだ。
「今度は二人でね」
彼女が微笑むと、金城は目を丸くした。
晴文の遺体が薫の実家に帰ってくるまでには、通常より長い時間が掛かっていた。銃創の処理などの物理的な問題もある。それ以上に捜査員の実兄の死体が存在すると言うことは、・ISMの事件の辻褄を合わせる意味でも、難しい要素を孕んでいたからだ。
ただ、薫にとって唯一の救いは、晴文が嶋野美琴の事件とは関係がないということが立証されたことだ。
薫も真田から・ISMと関連事件について情報を漏らすことを、厳重に禁止されていた。
晴文の死は単純な事故死体にして、返される運びになった。
「本当にお前、大丈夫か?」
移動中、金城は聞いてきた。
「ええ、両親にも真相を話すわけにもいかないし」
兄の遺体に接したときも感じたことだが、薫は正直自分でも、家族にどうやって兄の死を説明したらいいのか、よく分からなかった。真田が用意してくれた事務的な公式見解のシナリオに乗るしかないと、ずっと諦めたまま、今日を迎えてしまったのが本音だった。
「・・・・・真田とマヤから、詳しい話を聞いたよ」
うかがうように薫を見て、金城は言った。
「お前のお兄さん、お前のことどう思ってたんだろうな」
「分からないわ。わたしに、それを話す資格はないよ」
いつか、話そうと思っても話せなくなるときが来る。そう言えば、マヤにそんなことを言われた。完全な手遅れに最悪の駄目押しがついた形になった。今から父に会って、兄を引き取ってもらうための、またむなしい嘘をつくのが、やはり物憂かった。
バックミラーに後部座席が映った。
「忘れ物?」
マヤが座っていた席に、封筒が残されていた。薫は手を伸ばして、それを取ろうとした。
「ああ、それ真田からあの子に渡してくれって預かってたんだよ」
シートの衝撃でこっちに滑り込んできた。ずっしりと重たかった。封を破ったのは、マヤだろうか。小さなライトグリーンのメモ用紙が薫の手にはみだして落ちた。
【To KAORU, face your truth:MAYA】
そこには、マヤの字で署名がなされていた。
薫、真実を見つめて。
中には、ある古い事件に関する詳細な捜査資料が入っていた。薫の夢の話を聞いて、マヤが真田に調査を頼んでいたのだろうか。彼女が描いたと思われる一枚のスケッチが、薫の目を惹いた。
「これ・・・・・・」
その四十代の男に、薫はひどく見覚えがあった。既視感と言うのではない。だが、はっきりこれだと言える鮮明な記憶でもまだない。しかし、その顔を見たとき、驚くほどぴったりと、最後にあの夢を見た感覚に行き当たったことが薫にとっては驚異だった。
白目の大きなぎょろ目に、額の上の一叢だけ残して、禿げ上がった頭。灰色の汚いジャージの上下に、下はシャツを着ていた。男の名は、出川健一と言った。
しかし、薫にとって重要だったのは、その名前よりも、彼が起こした事件の詳細のことだった。
幼稚園にあがる前、薫には一つ年上の友達がいた。みずえちゃん、と言う名前の女の子で、近くにある団地に住んでいた。薫の家とは、公園と商店街を挟んで、ほんの五百メートルほどのところだ。
その頃兄は、いくつも習い事を始めた頃で、妹の薫を構ってやるのをよく面倒くさがった。自由な時間は、図書館に行ったり、友達と遊んだりする方が楽しかったからだ。小さい薫は、公園に連れて行ってもらっても、兄に置き去りにされることの方が多かった。
みずえちゃんは、空いている遊具や砂場で、散歩の途中で放って置かれた犬みたいに所在なげにしている薫に声をかけて、会えば、よく遊んでくれた。
団地の五階にある彼女の家は、母親が働きに出ていたので、大抵二人きりだった。そこで絵を描いたり、お菓子を食べたりして過ごしていると、晴文を叱りつけながら、薫の母親が迎えに来てくれた。
みずえちゃんのお母さんは、遠くの給食センターの職員だった。ときには鉢合わせることもあって、二人で恐縮していた。
薫の父は、地区の警察署長をしていた。みずえちゃんはしきりにそれを羨ましがった。彼女のお父さんは生まれたときに、亡くなったのだと言う。人が死ぬと言うことを、当時の薫はあまり理解していなかった。ただ忙しい自分の父親のように日曜日や、他の休みの日もいないのだと言うことは、なんとなく理解していた。
みずえちゃんの髪は紅く縮れていて腰の辺りまであった。彼女はそれに薄い色のリボンをよくつけていた。リボンはピンクになったり、ブルーになったりしたのだが、薫はいつもその髪とリボンが羨ましかった。
肌が浅黒くて、黒目がちのぱっちりとした目をしていたので、薄手のフリルのワンピースなどがよく似合った。彼女のものなら、薫はなんでも欲しがった記憶がある。みずえちゃんみたいに縮れた髪の毛にしたいと、ストレートの髪にパーマをかけたいと言って、母親を困らせていた。
当時、町内では連れ去り魔の警戒情報が、よく寄せられていた。小学校低学年の子が、車に押し込まれそうになったとか、トンネルで捕まえられそうになったとか、が頻繁にあった。近くの団地では建物の階段から突き落とされて、重傷を負った小学生の男の子もいたと言う。
男は三十代で、痩せた若い男だった。目撃された似顔絵が、回覧で回ってきていた。薫も人気のない場所で遊ぶなと言われていた。
ある日一人で、薫はみずえちゃんのうちにいった。昼寝をしないとプールに連れて行かないと釘を刺されていたのに、やっぱり遊びに行きたくなったのだ。暑い、夏の日だった。
公園では晴文が、塾をさぼって友達と遊んでいた。彼は薫に気づいていたが、見てみないふりをした。最近口が達者になってきた薫はすぐに、母親に晴文の嘘や怠慢を言いつけるからだ。
白昼の団地の敷地内には、まったく人影がなかった。共同の小さな砂場に子供用のプラスティックのバケツが、口いっぱい砂を詰められたまま、横に倒されて放置されていた。
みずえちゃんの住む号棟に向かって歩き出したとき、薫はドン、と重いものが落ちてきてぶつかったような音を聞いた。悲鳴もしたのだが、空き巣の警戒を呼びかける自警団の車の声や、公園の騒ぎ声にそれはなんでもなく紛れてしまっていた。
いつもの道を、薫は通った。その間に犯人は、裏口を通って別の出口からこの地区を出ていたはずだった。
道に大きな人形が落ちている、と、薫は直感的に思った。人形が着ているフリルのついたワンピースは、みずえちゃんのお気に入りの薄いブルーだったが、薫よりお姉さんの彼女が、道端に大きく足を開けて寝ていたりするわけない、と、つたない判断をしたのだ。
みずえちゃんが黒い瞳をこちらに向けて、薫を見た。それは見た、と言うものではなかったのかも知れない。人の気配に反射して、朦朧とした意識が、力を振り絞ったのだ。かすかに唇がわなないて、小さなあわいから尾を引くうめき声が飛び出した。
薫は大好きだったその目に、引き込まれるような感覚を覚えた。
次の瞬間、自分も背中から落ちていくような、そんな感じがした。
薫の幼い知覚は、なんの疑問もなくそれを受け入れた。
突き落とされた瞬間と同じ悲鳴が、薫の口からほとばしり出た。そのとき、薫は見ていた。五階のみずえちゃんの部屋のドアが開いて、その前に、見たこともない大人の男の人が立っていたのを。彼女が落下したのを見届けもせず、男は姿を消した。みずえちゃんはその男が走り去るまで、その姿を静かに見続けていたのだ。
この二度目の悲鳴が、近くを通りがかった主婦によって聞き届けられている。彼女は、突き落とされた少女とそれを発見したもう一人の小さな女の子の姿に驚いて、すぐに救急と警察に連絡した。
遅れて、近くにいた晴文が、騒ぎを聞きつけて友達と駆けつけてきた。まともに話が出来ない薫に替わって、晴文が、薫と突き落とされた少女との関係で知っていることをいくつか話した。
連絡を受けた警察が現れたとき、搬送先の病院で少女の死亡が確認されている。警察は一連の連れ去り魔の殺人事件として、捜査本部を設置した。捜査課の刑事が集ったのは、言うまでもなく、薫の父が署長を務める警察署だった。
被害者の名前は、小柴瑞枝と書かれていた。二十年以上経って、初めて、薫はみずえちゃんの本当の名前の字を知った。
資料には、当時の担当刑事の覚書が付記されていた。昨年末、定年退職した後に、警察学校に向けた話の中で、現役時代の思い出話を寄稿していた。その刑事は記事の中で、似顔絵鑑識と捜査の着眼の重要性について、この事件を題材にして語っていた。
「・・・・・以上、申してきましたように、どのような微細な証言でも粗大漏らさず収集して似顔絵の作成にあたることは、被疑者の誤認逮捕や見込み違いを防ぐ上で非常に重要な要素になるのです。先ほどの事例でも、三歳の女の子の証言と軽んじることをせずに、そこから一片でも使える情報を精査する刑事の努力と情熱があれば、必ず本当の被疑者にたどりつくことが出来るわけです」
そうだ。薫はおぼろげな記憶をたどった。ここにその三歳の女の子が水越薫だとは書かれていないし、刑事の名前にも憶えはないが、確かに訊かれた。薫は、はっきりとその目で見た犯人の風貌を繰り返し何度も、証言したのだった。それは間違いなくこの出川健一そのものだった。
資料にはもう一枚、似顔絵が同封されていた。古びた印紙、これは恐らく、薫の証言に基づいて書かれた当時の似顔絵だろう。マヤが描いたものや、逮捕された犯人の写真と比べると、やや寸詰まり気味だが、特徴は捉えている。
この似顔絵が作られるまでの経緯を、薫は知っていた。幼いながらも一生懸命、彼女は協力した。担当してくれた婦警さんは丁寧に、根気よく、彼女の意志を汲み取ってくれた。しかしこの刑事の覚書と合わせてみると分かるが、最初、本部は同時に出てきた大人の目撃証言を重要視していたのだ。
ある日、薫は突然、お父さんと話すように母親に言われた。父と話すと怒られることが多くて、幼い薫はいつも緊張していた。
「どんなおじさんを見たんだ?」
父はまず、薫に順を追って丁寧に男を見た経過を教えてほしいと言った。薫は警察で証言したとおり、逐一、話を再現した。他の警察官と同じように、父も何度も細かい部分を話すことを要求した。
しかし訊きたかったのは、薫が見た男の風貌ではなく、薫がその男を見るまでの経緯についてだった。薫が見た男性の証言は、年齢の割りに、はっきりとして話も明確だったが、それまでの経過があいまいだったからだ。
外ではそれで褒められたのに、父はなぜか、その中の小さな粗や嘘を見つけ出すことで、薫を叱責する口調になった。頭から娘を信じていない訊き方だった。父は地区を悩ましている常習犯と一致する目撃証言に、目が行き過ぎていたのだ。
そうして話しているうちに薫は言ってしまった。自分が到着したときには、すでにみずえちゃんが落ちていた後だった、と。
「やっぱり誰も見てないんじゃないか」
ほらみろ、と言う風に、父は言った。
「ちがうよ」
幼い薫は泣き声でつたない抗弁をした。
「ちがうもん! みたんだもん、わたし、みたよ!」
彼女が話していることは、すべて真実だったのだ。そこに間違いがあるとしたら、薫が見たのは、死んだみずえちゃんが見た映像で、自分のものではないと言うことだけだった。もちろんそのときの薫に、そのことを上手くアレンジして表現したりする知恵はおろか、その不思議な感覚を説明する言葉はなかった。ただ泣きながら、でも頑強に薫は首を縦に振らなかった。
父は薫の証言を嘘だと決め付けた上で、別に出てきた目撃証言に沿った形に証言を変えろと、迫ってきたのだった。警察署長の娘が、いくら幼くても使えない証言をさせるのにはプライドがあったのか。
そのために叱責し、嘘をつくように強制するのは、どうしても納得がいかなかった。父が怒るほど、薫は泣き出し、絶対に言いなりにならなかった。
いいことをしたと皆に褒められたし、実際にそうなのに、嘘つき呼ばわりされた。さらに本当の嘘をつくように強いられたのだ。当時はそうは思わなくてもただ理不尽なことで怒られたことが、父譲りの頑固な薫の癇癪に火を点けたのかもしれない。
母は言うとおりにするように薫を説得するだけで、全然庇ってはくれなかった。それがなぜかたまらなく悲しかったことを薫は思い出した。そのとき、晴文が父の部屋に入ってきた。
「なんだ? お前には関係ない。あっちに行ってなさい」
うるさそうに手を払ったが、晴文は帰らなかった。意を決したように胸を張って、晴文は言った。
「・・・・・薫と同じ男の人、ぼくも見ました」
「嘘をつけ! 大体お前は習い事をしてたんじゃないのか!」
「ぼくも・・・・・薫と公園にいたんです」
「塾はどうしたんだ?」
幼い娘は殴れなかったが、父は晴文を殴った。
「お前、親に嘘をついてたのか」
赤く腫れた頬に涙を溜めながら、それでも晴文は話を変えずに、薫を守ってくれた。
「塾には・・・・・行きませんでした。薫を連れて、友達と公園で遊んでました。だから、ぼくもいっしょに見たんです」
「見え透いた嘘をつくな!」
また、殴られたが、晴文は主張を変えなかった。自分が、友達と塾をさぼったことを話してまで、薫を庇ってくれたのだ。
「薫の見た男の人のことは嘘じゃありません」
「もう、いい」
父は絶対に薫に証言させるなと言い残して部屋を出た。
もちろん兄は、犯人を見ていない薫よりずっと後に来たのだ。
刑事の覚書には、幼い女の子の証言を、兄の目撃証言と精査して、似顔絵の精度を高めたと書かれていた。
くしくも二日後、小柴みずえを突き落とした犯人は、市内で逮捕された。捕まった出川健一は、みずえの母親の前の夫で、たまたまみずえが開けっ放しにしておいたドアから中に入って部屋を物色しているところを騒がれて、勢い余って娘を突き落してしまったのだと言う。みずえの母は幼い娘に、本当の父親のことを一切知らせていなかったのだ。
薫の証言を信じて、地道に似顔絵の人物を追った刑事の粘り勝ちだった。話を聞いてくれた刑事は薫と晴文に会いに来てくれた。そのときもらったお菓子のお礼状を書こうと、薫は兄と母に提案した。父に預けたが、返事はいつまで経ってもやってこなかった。
(そう言えば、それからだったのかも知れない)
資料に読みふけりながら、薫は思った。
家族を流れる、あの不定形の空虚感、一体感のなさは、もとをたどればここから来ていたのだ。あれから物心ついて、大人の矛盾に行き当たることは、何度もあった。ことに警察官僚の父が持つ多くの矛盾に、諦めに似た感情を持つようになったのは、どこかで決定的な不信感を経験したせいだったのだ。
なにを言っても無駄なのだと、思うようになったのは、あのときのことがあったからだった。
父は薫に、警察官になる方向の教育をした。県内では絶対的な自分の権力を使って、娘を安泰にしようと言う思いもあったのだろう。しかし薫は、強引にでも必ず都内で警察官になることを希望した。
危険でハードな捜査課の刑事になろうと思ったのは、自分の力を試す以上に、父へのあてつけの意味合いが強かったのだ。権力の安泰を求めた父とは違う方向で、彼女は警察官でいたかった。今は別の意味で仕事に生きがいを持っていると言えるが、根源にあったのは常にそれだ。
晴文の記憶の中に、それがあったと言うことは、兄も、やっぱり同じ気持ちで生きていたからなのかもしれない。
マヤが残してくれた資料を握り締めると、薫はしばらく顔を伏せた。金城はよそ見をしてくれていた。涙を流すまいと、しばし堪えたが、噛み殺しても嗚咽をとめることは出来なかった。
呼吸が収まってから、薫は言った。
「・・・・・ねえ、相談があるんだけど」
「どうかしたか」
「兄のこと・・・・・本当のこと全部、話そうと思うの」
「真田に止められているんじゃないのか?」
「うん、そうなんだけど、家族にはちゃんと話したいの」
薫は言った。確かに決意が要った。でも兄のために、どうしても言うことがあった。だからそのために・ISMや、今までのことを話すことになっても、それは仕方ないと思った。
「おれは反対しないぞ」
しばらくしてからぽつりと、金城は言った。
「正直、家族くらいには本当のことを話してもいいとおれは、思ってる。少なくとも、うちの家はそんな感じだったしな」
「長い話になりそうよ」
「先に東京で待ってるよ。葬儀の日取りが決まったら、おれにもちゃんと連絡くれよ」
金城のさりげない後押しの言葉を聞いて、薫は少し気が楽になった。腰を据えてじっくり話すつもりだった。兄の気持ち、自分の気持ち、父と母の、本当はずっと、誰がなにを思って家族をしていたのか。
兄が起こしてしまった行動には、家族が全員で背負う必要がある。責任は父や母だけではなく、薫だけにもない。
だからこそ、真実を話そうと思った。
今さら解決は見えなくても、最低限気持ちを確かめ合う努力はする気だった。誰かが言っていた。人間はある日目覚めて、最悪の事態を回避するために最大限努力しなければいけないのだ。
薫は軽く拳を突き出した。金城はちらりとそれを見ると察して、ハンドルを握った片方の手を突き出して、同じように突き合わせてくれた。
「がんばれよ」
金城は、薫に言った。肯くとまた、目に涙が溢れそうになった。
「・・・・・うん」
彼女はそれでも力強く、肯いた。
・ISM(イズム)(下)
さて、とてつもなく長い旅でした。前作のTLEが「設定が外国なのが惜しい」と言われ、書いたのが本作でした。最初のアイディアが湧いて冒頭の展開を書き始めてから、その都度プロットを継ぎ足しつつ、アドリブも重ねながら半年ほどで書き上げたものでこれまで書いた小説とは異なり作者も予想できなかったことが沢山内包された作品でした。ここまで読んで頂けた方にはお判りかと思いますが、クワ・ハルの正体は明らかになってはいません。某賞の最終選考の講評でもそのことを指摘されたのですが、わたしはラストに何かも明らかになる、そんなすっきりとした結末に今でもわたしはリアリティを感じなかったのであえて直しませんでした。いわゆる問題作なのです。今となってはそれも中々思い出深くもあるのですが。